世界経典Ⅱ 第1部 神様と創造 第1章 神様

第一部 神様と創造

 

第一章 神様

1.神様に関する知識

人間はどのようにして究極的実在をしることができるのか。哲学者たちは、常にこの問題に対して探求してきた。ある人々は、神様の存在に対する証拠を提示するかと思えば、ある人々は、神様の存在に関するいかなる知識も得られないという懐疑主義的な立場を見せる。たとえこのような論議がこの選集で具体的に扱われなかったとしても、ある宗教の経典にはこの論議が登場することもある。神様は、御自身の存在に対する証拠をどこかに残したのであり、もし人々が知ることを願えば、神様を知る道は備えられているのである。
神様に至る第1の道は、被造物の中に潜む神様のみ手を探すことである。多くの科学者たちは自然に関して研究すればするほど、自然を設計したある制作者の存在を証せざるを得ないと言う。発明家のトマス・エジソンも次のように述懐している。「断言するが、宇宙には宇宙的知性が満ちている。この世界の背後にある存在がいることを確信しないまま、自然の神秘さと緊密に交感したり、科学を探求したりすることはできない。ある超越的な宇宙的知性が明らかに存在する」(注1)
神様に至る第2の道は、神様の実在を感知できる内面的自我を通して到達する瞑想の道である。神様は、知性ではなく、神秘的な方法によって感知される。ブレ-ズ・パスカルは、「神は理性ではなく心情で感知される」(注2)と語った。文鮮明先生も、神様を最も本質的な人類の父母だと教える。したがって、私たちが自分の父母を知るのと同じ方法で、神様を直接体恤しなければならない。
神様に至る第3の道は、超自然的な道である。ごく少数の特定の人々だけがこのような超自然的な源泉に接近することができ、私たちは、そのような体験をした人たちを信頼するにふさわしい宗教的指導者とみなす。彼らこそ、霊的世界を旅行した宗教の創始者たちである。

 

①被造物に含まれている神様の痕跡

―宗教経典―

神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。
ローマの信徒への手紙1.19~20(キリスト教)1

 

われは、わがしるしの真理であることが、かれらに明白になるまで、遠い地方において、またかれら自身の中にそれを示すであろう。
クルアーン41.53(イスラーム)2

 

かれが、土からなんじをつくりたまえるは、かれのしるしの一つである。見よ、その後、なんじら人間は地上に散らばる。
またかれが、なんじら自身からなんじらのために配偶をつくりたまえるは、かれのしるしの一つである。なんじらはかれらによって慰安を得、なんじらの間に愛と情けの念をうえつけたもう。まことにその中には、反省するものへの種々のしるしがある。
またかれが、諸天と大地を創造したまい、なんじらの言語と、はだ色が異なっているのは、かれのしるしの一つである。まことにその中には、知識ある者への種々のしるしがある。
またかれが、なんじらを夜と昼に眠らせ、またかれに恩恵を求めさせたもうのは、かれのしるしの一つである。まことにその中には、聴く者への種々のしるしがある。
またかれが、恐れと希望のいな光をなんじらに示したまい、天から雨を降らせて、死んだ後の大地をよみがえらせたまうのは、かれのしるしの一つである。まことにその中には、思慮ある者への種々のしるしがある。
またかれが、その命令によって天と地をうち建てたまえるは、かれのしるしの一つである。
そこで、呼出しを、なんじらに一声呼びかけたもうとき、大地から、見よ、なんじらは真っすぐに出て来る。
クルアーン30.20~25(イスラーム)3

 

インドラはかれのマーヤーの力によって多くのかたちあるものとして現れる。かれの百の十倍の馬どもは軛を結びつけられて[準備ができている]。
リグ・ヴェーダ6.47.18(ヒンドゥー教)4

 

われはこのように、天と地の王国をアブラハムに示し、それでかれは悟りがひらけてきた。夜の暗黒がかれをおおうとき、一つの星を見た、かれは言った「これがわたしの主である」と。だが星が沈むにおよび、かれは、「わたしは沈むものを好まない」といった。次いでかれは月がのぼるのを見て、言った「これがわたしの主である」と。だがそれが沈むにおよび、かれは「わたしの主がわたしを導かれないなら、わたしはきっと迷った衆のたぐいになるであろう」と言った。次いでかれは太陽がのぼるのを見て、言った、「これがわたしの主だ、これは偉大である」と。だがそれが沈むにおよんで、かれは言った「わたしの人びとよ、わたしはあなたがたが、主に配する者と絶縁する」。「わたしは天と地をつくりたまえる、かれに端正に顔を向けて、純正に信仰し奉る。わたしは多神教徒のたぐいではない。
クルアーン6.75~79(イスラーム)5

 

見よ、すべてのものにはそれに似たものがある。すべてのものは、現世にかかわるものも霊にかかわるものも、わたしのことを証するために創造され、造られている。すなわち、上の天にあるもの、地の上にあるもの、地の中にあるもの、地の下にあるもの、上のものも下のものも、すべてのものがわたしのことを証するのである。
高価なる真珠、モーセ書6.63
(末日聖徒イエス・キリスト教会)6

 

天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても/その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。(注3)。
詩編19.2~5(キリスト教)7

 

あまりに多くの人々が創造主に関して微視的に考えている。もし彼らが、単に自然自体に見られる神の素晴らしい作品と宇宙の自然法を研究しようとするなら、彼らは偉大な技術者に関するはるかに広範囲な考えをもたなければならない。事実、私は、科学で神の存在をほぼ証明できる。宇宙が知性で満ちていることは確実だ。誰であっても、あらゆるものの背後に最高の知性が存在することを確信しないまま、自然の神秘と緊密に交感することはできず、科学の研究をすることはできないだろう。
トマス・エジソン8

 

―み言選集―

無形にいます神の神性を、我々はいかにして知ることができるだろうか。それは、被造世界を観察することによって、知ることができる。そこで、パウロは、「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」(ロマ1.20)と記録している。あたかもすべての作品は、その作者の見えない性稟の実体的展開であるように、被造世界の森羅万象は、それを創造し給うた神の見えない神性の、その実体対象として展開されたものなのである。それゆえ、作品を見てその作者の性稟を知ることができるように、この被造万物を見ることによって神の神性を知ることができるのである。
原理講論、創造原理1.1.1

 

人間の体は神様の神秘の王国だという事実を知らなければなりません。数十万、数百万人がいても、いまだに分からないことがたくさんあるのです。ですから、眼科の医師は、「もう研究するものがない。やめなさい」とはいえません。目に関してすべて分かるまで、何段階くらいのところに行ったでしょうか。入り口に入ったところです。そのような科学者たちが、「神様はいない」とは言えません。
(95-123,1977.11.6)

 

目が生まれるとき、「私はこのような形に生まれたい」と思ったからといって、目自体がそのように生まれることができますか。「私は回らなければならない。まぶたが瞬きするその中に入っていかなければならない。水をまいて湿らせなければならない。空気にはほこりがあるから、まつげでスクリーンを作らなければならない」、このように目が考えて生まれたのでしょうか。
まつげがあるのを見ると、まつげがこの世の中に空気があると思って生まれたでしょうか、ないと思って生まれたでしょうか。このようになっていることを既に知ってそのようにつくったという事実を、目自身が知らなければならないという結論が出てくるのです。既に目として生まれるとき、この宇宙の空気にほこりがあることを知って生まれたことを知らなければなりません。風が吹き、ほこりがあることを知っていましたか、知りませんでしたか。目自体が知って生まれましたか、知らずに生まれましたか。知らずに生まれたのですが、それ自体を誰かが知って、目自体を保護するために、そのようにつくったのです。そして、この地球上に生じた輻射熱によって水が蒸発することを知って、それを防御するための装置をつくったということです。それでは、目自体がそれを知ることができますか。目自体が知っていたのですか。知ることはできませんでした。ですから、目が生まれる前にこの宇宙的な知識をもつ背景的観念があったという論理を推理できるのです。
(117-78~79,1992.2.1)

 

神様を想像しながら、神様と関係を結び、神様とかかわりをもとうとする世界的な組織とは何ですか。宗教です。世界的な国家とはどのような国家ですか。それでは、宗教を分析してみると、そのようなものがありますか。なければ、それは神様でも何でも、いないというのです。宗教の中にはそのような思想がなければなりません。そのような思想を何よりも強力に主張し、内的な内容を備えた、そのような世界的で超民族的な愛国思想をもち、超民族的な父子関係の孝子思想をもち、「民族を超越し、世界のために行こう」と主張する宗教がなければ、神様のみ旨も、神様もいないという結論が出てくるというのです。
(95-53、1977.10.23)

 

②人間自体に内在する神様の姿

―宗教経典―

 

眼を以ても、語を以ても、その他の感官を以ても、苦行を以ても、あるいは祭儀を以てするも捉えられず。智の澄浄によって本姓の清浄となれる時、瞑想裡にあってこの渾一なるものを照観す。
ムンダカ・ウパニシャッド3.18(ヒンドゥー教)9

 

「道」というものはおぼろげで、とらえようがない。
おぼろげでとらえようがないが、そこには形がある。
おぼろげでとらえようがないが、そこには何物かがある。
計りがたく見えにくいが、そこには本質がある。
本質は実に純粋で,そこには生き生きとした真実がある。
昔から今日に至るまで、「道」という名前のものがないわけではなかった。
我々はそれによって万物の始まりを見る。
万物の始まりはこれによってわかるのだ。(注4)
道徳経21(道教)10

 

では、私は説ききかせよう、最も聖なる方が私に仰せられたことばにして、人々にとって聞くに最勝なる物を。その物のために、われ(ザラスシュトラ)に聴従と敬意をささげるものは、だれでも完璧・不死に到るであろう、〔かれらの〕善思の行動によるがゆえにーとマズター・アフラが〔仰せられた、その最勝なるものを〕です。
アヴェスター・ヤスナ45(ゾロアスター教)11

 

誰がこれを真実に知らんや、また如何なる道が悉く神々へと導くかを、誰が今宣言せんや。至高の神秘なる次元に在るもの達の、最も低き面を見能うのみなり。
リグ・ヴェーダ3.54.5(ヒンドゥー教)12

 

孔子が言われた、「鬼神の性情功効というものは、何と盛んなものか。じっと見ても見えないし、じっと聞いても聞こえないが、物の本体となっていて、取り残されることはできない。(鬼神は)天下の人に、その雑念を払って身を清め盛美な祭服を着てお祭りに奉仕するようにさせる。流動充満して、その上にあるかのようであり、その左右にあるかのようである。『詩経』に言われている『神の来ることは、計り知ることはできない。ましてや、いとうて良いものか』と。そもそも、(鬼神)隠れていて明らかであり、誠(の現れ)を覆い隠すことができないのはこのようである。
中庸16(儒教)13

 

―み言選集―

 

「神様がいる、神様がいる」というのは言葉だけではありません。原理を通じて主体と対象の関係を中心として見る時に、神様は不可避的にいなければならないという立場ではなく、神様は、私が考える前にいらっしゃったのです。私のすべての感覚、私の一切を主管するのが天の立場です。それを認識することが何よりも重要な問題です。知って認識するのが原則でなく、認識して知るようになっているのです。私たちは、寒ければ寒いことを知って感じるのではなく、感じて知るのではないですか。
これと同じように、神様がいらっしゃるなら神さまがいらっしゃることを皆さんが感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題なのです。言い換えれば、体恤的立場をどのように私たちが確定するのかという問題、これが問題なのです。
(58-291,1972.6.25)

 

神様は生きています。悪魔も生きています。神様と悪魔が生きていることを、どのようにして分かりますか。共産主義で言う観念と実在が哲学で問題になるのです。見えないものはすべて観念です。抽象名詞です。良心も観念と見るのです。いわば愛も観念です。抽象名詞といいます。ところが、愛は観念ではありません。実生活のあらゆる面で接触しているのです。
(186-67,1989.1.29)

 

皆さんは愛をもっていますか。生命をもっていますか。血統と良心ももっていますか。そうだとすれば、愛を見たことがありますか。生命、血統、良心を見たと言えますか。存在することははっきりと知っていますが、これらを触ることも、見ることもできないという事実を認めざるを得ません。ただ心で感じて初めて知るのです。同じ論理で、神様がいるかいないかと言うとき、あるいは、神様を見たのか見なかったのかと尋ねるとき、いないとも、見なかったとも言えないでしょう。心の中に神様が入ってきていらっしゃれば、心が知っています。
(447-154,2004.5.1)

 

子女を生んでみて、初めて父母に本当の意味の孝行ができるのと同じように、自分自ら実践してみることによって、私たちが行く道に対する価値を感じることができ、神様が共にいらっしゃることを体恤できるのです。
(29-198,1970.2.28)

 

人類が堕落しなかったならば、神様がいるのかいないのかを問う必要もありません。それは本心によって分かるのです。人類が堕落しないで本姓の善なる父母を通じて生まれていたならば、神様がいるのかいないのかという弁論は必要ではなかったはずです。生まれながらにして自然に分かるというのです。赤 ちゃんがおなかの中で、お乳を飲む方法を習ってから生まれますか。生まれてすぐに目の前にお乳があれば吸うようになっているのです。自動的に分かるようになっているのです。人類が堕落しなかったならば、神様との関係を自動的に知り、自動的に解決し、自動的に行かなければならない立場であることを知るようになっていたはずです。ところが、堕落することによってすべて忘れ去ってしまったのです。それで神様がいるのかいないのかを疑う、結果の世界になったのです。これは悲惨な事実です。(20-306,1968.7.14)

 

陽子を中心として電子が回っているのと同じように、神様と人間の関係もこれと同じなのです。電子のような私たち人間の心が、陽子のような神様の心の核心と関係を結んで作用しているので、神様が人間に対して復帰摂理をなさることができるのです。
このようなことを推し量ってみるとき、私たちが一人でも真理のみ言を探し求めていけば、私たちはそこで神様の生命が躍動していることを感じ、神様の愛が和合していることを感じられます。このように、真理の道を経て神様の生命と愛を探し求めていく道が、価値ある私になれる道なのです。
(2-137,1957.3.17)

 

皆さんが心情で描く世界はどのような所ですか。その世界は、外界の感覚を通して入ってくる、五官を通して入ってくる、認識世界でつくられる世界ではありません。神様の愛の世界、情的な世界を描いているのです。その世界は、ごく小さな一つの微粒子を通しても、神様の愛を感じられる情の世界です。それを理解しなければなりません。イエス様も、「耳のある者は聞きなさい」(マタイ11.15)と語られました。通念的な感性では、主体的で原型的な理念世界を感じられません。                     (7-255,1959.9.20)

 

成約時代には、本伝統はどこにあるかというと霊界です。神様の創造理想の本故郷がどこかというと霊界です。霊界を知らなければ、天の国と関係を結べません。霊界を知ってこそ、神様が分かります。神様を信じ、神様を知っているというとき、神様が暮らしていらっしゃり、活動できる霊界を知らなければなりません。
(365-302,2002.1.14)

 

③歴史の背後の神様

―宗教経典―

 

いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。(注5)
ヨハネによる福音書1.18(キリスト教)14

 

高い丘の上、山々の頂で、またすべての緑豊かな木、すべての茂った樫の木の下、あるいはかつて、あらゆる偶像に宥めの香りをささげた場所で倒れるとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる。わたしは彼らに向かって手を伸ばし、この地を荒廃させ、荒れ野からリブラに至るまで、彼らが住むすべての地を荒れ果てたところとする。そのとき、彼らは、わたしが主であることを知るようになる。
エゼキエル書6.13~14(キリスト教)15

 

主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し/あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ/あなたの主権の栄光を告げ/力強い御業について語りますように。その力強い御業と栄光を/主権の輝きを、人の子らに示しますように。あなたの主権はとこしえの主権/あなたの統治は代々に。主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます。主の道はことごとく正しく/御業は慈しみを示しています。
詩編145.10~17(キリスト教)16

 

―み言選集―

 

この絶対者は、決して観念的存在ではなく、歴史を通してそれ自体を現してきた実在的存在です。私たちは歴史上に数多くの宗教指導者または聖賢たちが時間や場所を変えて出現したということを知っており、彼らは一様に人間の良心と心情に訴えて隣人への愛を実践することを促しました。彼らの教えに一つの民族や国家が順応する時、平和と興隆を享受したのであり、そのようにできない時に混乱と衰亡に陥ったりしたのです。今日も、多くの人たちは、この世界的な混乱の中で人類を救うことのできる現代的な聖賢の出現を、意識的にも無意識的にも待望しています。このような事実は、すべて愛の主体であられる絶対者がいて、歴史や現実の背後で宗教指導者や聖賢たちを立て、彼らを通して自らの愛を具現し、道徳的価値の世界を実現しようと計画していることを示していると言えるのです。              (69-238,1973.11.26)

 

2.唯一の神様

神様の統一性と唯一性は、この節に選定された章句の主題である。これらの章句は、唯一新論的なアブラハム系列の伝統信仰で明白に現れるものだけでなく、東洋の伝統宗教など、様々な宗教に由来する。神様の統一性は、現象世界の多様性のもとに隠れてしまうこともあるが、現象世界の秩序と意味を賦与する唯一の源泉や原理は、明確に存在するのである。特に、世界宗教の様々な経典は、究極的実在の多様な姿とは、唯一の神様の様々な側面にすぎないと断言する。
文鮮明先生の教えも、世界宗教の究極的根源が唯一の神様だと断定する。さらに、そのみ言は、多様性の中の唯一の神様に対する真理はもちろん、倫理的な教訓も強調している。

 

―宗教経典―

 

聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。(注6)
申命記6.4(キリスト教)17

 

言え、かれは神、唯一者であられる。神は、自存者であられ、かれは産みたまわず、また産まれたまわぬ、かれに比べ得る、何ものもない。
クルアーン112.1~4(イスラーム)18

 

あなたは、唯一至高の存在、永遠の顕現、万有を創造し、これに内在する実有、恐れのない者、憎む心を出さない者、無私、無形の自存者、あなたは、聖なる師の恩寵により実現される。
グル・グラント・サーヒプ、ムール・マントラ(シク教)19

 

唯一の神は一切生類の内に潜在し、万物に遍満し、一切生類の内在我なり。
行業の監視者なり。彼は万物の内に鎮座す。照観者なり。性徳なき独一の思惟者たり。
シヴェータシヴァタラ・ウパニシャッド6.11(ヒンドゥー教)20

 

人は〔そを〕インドラ、ミトラ、ヴァルナ、アグニと呼ぶ。されどそは翼美しき天的鷲(太陽)なり。霊感ある詩人たちは、唯一なるものをさまざまに名づく。アグニ、ヤマ、マータシュヴァンと彼らは呼ぶ。
リグ・ヴェーダ1.164.46(ヒンドゥー教)21

 

天と地のよろずのものは、かれの有(もの)である。またその側近のある天使は、かれに仕えて高慢でもなく、疲れることもない。かれらは夜ごとに、かれをたたえ、たゆむことを知らぬ。それともかれらは、死者をよみがえらすことのできる神々を、地上から得たのか。もし天地のあいだに、神以外の神々があったならば、それらはきっと混乱したであろう。それで玉座の主、かれらが唱えるものの上に高くいましたもう、神の栄光をたたえまつれ。
クルアーン21.19~22(イスラーム)22

 

賢人は「一」をしっかりつかみ、天下の模範となる。
道徳経22(道教)23

 

パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、「知られざる神に」と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を作り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも、/「我らは神の中に生き、動き、存在する。
使徒言行録17.22~28(キリスト教)24

 

彼の名(及び)彼の相は、畢竟じて有ることなく、担是れ妄心の展伝する分別のみ。是の如く観察して、乃ち[能]覚をも滅するに至る、是を如如と名く。大慧よ、真実に決定して、根本の自性を究竟せば、是の如如の相を得べし。我及び諸佛は随順に証入して其の実相の如く開示し演説す。若し能く此に於いて随順に悟解せば、断を離れ常を離れ、分別を生せずして自証の処に入り、外道二乗の境界を出でむ。是を正智と名く。(注7)
楞伽経83(仏教)25

 

神はイスラエルに言われた。「あなたは、多くの似像の中にわたしを見たのであって、多くの神々がいるのではない。そうではなく、常に同じ神である。すなわち、私は主なるあなたの神である。」ラビ・レビは言った。「神は、多くの顔を映すことができる鏡のようにみえる。千人の人々がそれをのぞくと、彼らひとりひとりが見えるようにである。」神がイスラエル民族に話される時、各々は神が個人的に話し掛けられたと考えるのである。
プスィクタ・カハナ109b~110a(ユダヤ教)26

 

ヒンドゥーとスリムは同じ一つの神に仕える。
グル・グラント、バイロー、p.1158(シク教)27

 

人種や宗教が何であろうとも、世界の人々は、一つの天の源から霊感を受けた一つの神の民である、ということに何らの疑いもない。彼らの守っている掟の間の相違は、それが啓示された時代の種々の要求や緊急度によって起こるのである。人間の我欲の結果から起こるいくつかの例外を除けば、それらは全て神の定め給うたものであり、神の意思と目的の反映である。
バハオラ 落穂集111バハイ教)28

 

どこでも無秩序よりは秩序が、不均衡よりは比例が、混雑よりは整列が完璧な調和を成して存在している。したがって、その中に調和を創造され、万物を圧縮して一つに結ばれる主なる神を発見できなければならない。例え私たちの目には見えなくても、万物の秩序と調和を見れば、統治者、整列者、王であられるその方を感じることができる・・・・・・。宇宙の秩序と調和の中に万物を統治なさっていることを知ることができ、ほかの誰でもない主お一人で主管されていることを知ることができる。
アタナシウス(キリスト教)29

 

―み言選集―

 

存在の根源は何ですか。神様から始まったというのです。神様は、お一人しかいません。唯一無二の絶対的な存在です。
(262-51,1994.7.23)

 

天地間に真なる方がいらっしゃるなら、その方は誰でしょうか。「絶対者」です。この「絶対者r」を、今日私たちの韓国語で言うと、「お一人しかいらっしゃらないご主人様」ということです。一人(韓国語でハナ)しかいらっしゃらないご主人様をもっと縮めて言うと、神様(ハナニム)になります。お一人しかいらっしゃらないご主人様が、神様だということです。(注8)
(39-302、1971.1.16)

 

神様に対する名前はたくさんあります。しかし、名前が問題ではありません。
その神様は、二人になることができないのです。根源は一つなので、一つの神、様です。各国の言語が違うので一つの神様を表す名詞は違っていますが、その本体は一つなのです。
神様が志向される目的は、宗教を通して現れます。したがって、どんなに数多くの宗教があるとしても、各宗教が行く道の目的は、一つの帰結点に帰着しなければなりません。その帰結点とは何でしょうか。それは、平和と連結され得る、天国と連結され得る理念に間違いありません。
(210-199,1990.12.23)

 

新しい宗教のための本体論は、従来のすべての絶対者が各々別個の神様ではなく、同一の一つの神様であることを明かさなければなりません。それと同時に、神様の属性のほんの一部を把握したものが各宗教の神観であったことと、神様の全貌を正しく把握して、すべての宗教は一人の神様から立てられた兄弟的宗教であることを明らかにしなければなりません。
(122-304,1982.11.25)

 

本体論というのは、絶対者に関する理論を意味します。宗教ごとにその教理が成立する根拠としての絶対者がいます。ユダヤ教の絶対者は「主なる神」であり、キリスト教の絶対者は、「神様」であり、イスラームの絶対者は「アッラー」です。儒教や仏教は絶対者を明示していませんが、儒教の徳目の根本である『仁』は天命と連結されるので『天』が儒教の絶対者と見ることができ、仏教では、諸法は常に変化し、真理は諸法の背後にある「真如」から見いだせる(注9)としているので、「真如」が絶対者だと見ることができます。
(122-301.1982.11.25)

 

宗教紛争の根本原因も、やはり本体論の曖昧さにあります。絶対者はただ一つであって、二つも三つもあり得ないにもかかわらず、各宗教の指導者たちは、自分の絶対者だけが正しい神様であり、それ以外の神様は真の神様ではないと見ているので、結局宗教ごとに絶対者がいることになり、絶対者が多数いるという背理が成立するのです。したがって、すべての宗教の神様は相対的な神様にすぎないという結論になり、各宗教を通じて立てようとした絶対的価値観、すなわち神様の愛と真理に関する理論は相対的なものにとどまっています。すなわち、これまでの宗教は、混乱を収拾できる絶対的価値観を立てることができなかったという結論になるのです。これは、すべての宗教が絶対者に対する正確な解明ができなかったために生じた、必然的な結果だと言わざるを得ません。
このような状況下で絶対的価値観を確立しようとすれば、文字どうり唯一、絶対の神様に関して正確かつ正しい解明をしてくれる本体論をもった新しい宗教の出現が必然的に要求されるのです。従来の様々な宗教は、神様が立てた宗教なので、これらの宗教を通して絶対的価値が実現されてきたと、いったんはみなしてきましたが、今日、宗教紛争が起きていることを見れば、各宗教の神が絶対神になり得ず、従来の宗教を通しては絶対的価値観が立てられないことを確認できるというのです。            (122-303~304,1982.11.25)

 

各宗教は、自らを浄化させなければならず、宇宙的な原理によって昇華させなければなりません。宗教の中心価値は、神様の真の愛です。真の愛は、人のために生きなさいという教えで説明できます。個人は家庭のために生き、家庭は社会のために生き、社会は国家のために生き、国家は世界のために生きるのです。同様に、自分の宗教は、ほかの宗教のために生きなければなりません。これは原理の中の原理です。
宇宙的原理の根源は神様であられます。宇宙の創造で、神様は自らの創造物のために、自らの全体を投入されました。また、歴史を通して、自分勝手に生きる堕落した人類を救うために、絶えず犠牲になってこられた方が、正に神様です。神様のみ旨を知った預言者、聖者、そして哲人たちは、自らの人生の中で神様の原理に従いました。
(234-222,1922.8.20)

 

神様の思想には怨讐の概念がありません。怨讐の概念があれば、二元論になります。神様にはこのような概念がないので、争いません。
(225-123、1992.1.5)

 

3.無形、神秘

神様は無形であり、見えない。人間のいかなる概念も超越し、隠されており、不可思議である。「私の考えはあなたの考えではなく、またあなたの道は私の道ではない」。伝統的な唯一神の宗教において、神様を形状化できないように禁止したのは、神様の超越性を陳述するためである。無限者である神様は、形状化することによって有限者として表現することはできないからである。いかなる言語や思惟概念も、究極的実在の本質をあるがままに表すことはできないというのが東洋宗教の同一の主張である。どうして人間の有限な知識で、純粋精神の源泉であり,全知なる超越的存在を感知し得るだろうか。
文鮮明先生は、神様が無形であり目には見えないとし、人間の知識を超越するという点を認めるが、ここにそれ以上のあるものを示唆する。すなわち、神様は、超越的存在としてのみ存在することに満足しないということである。見えない神様の究極的な目的は、見える人間の形態として御自身を顕現することである。したがって、神様は、私たちをいつも無知の中に放置されず、終末には自らの胸深く隠しておいた事情のすべてを表す。さらに、私たちは、神様の神性を完全に実現するようになり、地上で神様の具現体になるところまで至るようになるのである。

 

―宗教経典―

 

視覚では、かれを会得することはできない、だがかれは、目いろをも会得したもう。またかれは、よろずのことを微細によく知りたもう。
クルアーン6.103(イスラーム)30

 

語りうる「道」は「道」そのものではない、名づけうる名は名
そのものではない。
名づけえないものが天地の始まりであり、名づけうるものは万物の母である。
だから、意図ある者はそのあらわれた結果しか見れない。
この二つは同じものである。これらがあらわれて以来、名を異にする。
この同じものは神秘と呼ばれ、神秘から神秘へとあらゆる驚きの入口となる。
道徳経1(道教)31

 

この不滅なるものとは即ち不可見、不可促、無血統、無姓階、無限、無耳、無手足、常恒、普遍、遍一切、極小、不変にして、賢者が生類の胎宮(根源)と認むる処のものなり。
ムンダカ・ウパニシャッド1.1.6(ヒンドゥー教)32

 

究極的霊魂は、長くもなく短くもなく、円でもなく三角でもなく、四角でもなく球形でもない。それは、黒くもなく、青くもなく、赤くもなく、黄色くもなく、白くもない。それは、良いにおいでもなく、嫌なにおいでもない。それは、つんとすることもなく、苦くもなく、すっぱくもなく甘くもない。それは、硬くもなく軟らかくもなく、重くもなく軽くもなく、冷たくもなく熱くもなく、ざらざらしてもなくすべすべしてもない。それは体がない。それは生まれない。それは執着から自由である。それは、女性でもなく、男性でもなく、中性でもない。それは、清浄な知識であり直感である。それを把握できるいかなる例えもない。それは無形の存在である。それは、いかなる言葉でも説明することができない。それを把握できる言葉はない。それは、音でもなく形態でもなく、味でもなく触覚でもない。ただ私はあまりに多くを語る。
アーヤーランガ・スッタ5.126~40(ジャイナ教)33

 

シャーリプトラよ、この世においては、物質現象は実体がないのであり、実体がないからこそ、物質現象で(あり得る)ある。実体がないといっても、それは、物質現象を離れてはいない。また、物質現象は、実体がないことを離れて物質現象であるのではない。(このようにして、)およそ物質現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体なのである。                   般若心経(仏教)34

 

まことにあなたは御自分を隠される神。
イザヤ書45.15(キリスト教)3

 

あなたは神を究めることができるか。全能者の極みまでも見ることができるか。高い天に対して何ができる。深い陰府について何が分かる。神は地の果てよりも遠く/海原よりもひろいのに。
ヨブ記11.7~9(キリスト教)36

 

まったく別のものがある場合には、一方のものが他の一方を見、一方のものが他の一方のににおいを嗅ぎ、一方のものが他の一方のものを味わい、一方のものが他一方のものを話し、一方のものが他の一方のものを聞き、一方のものが他の一方のものを思考し、一方のものが他の一方のものに接触し、一方のものが他の一方のものを認識するであろう。しかし、かれにとってすべてのものがアートマンとなったとき、〔かれは〕なにによってなにを見るのであろうか。なにによってなにを嗅ぐのであろうか。なにによってなにを味わうのであろうか。なにによってなにを聞くのであろうか。なにによってなにを思考するのであろうか。なにによってなにを触れるのであろうか。なにによってなにを認識するのであろうか。それによって〔人が〕この世のありとあらゆるものを認識するそのものを、〔かれは〕なにによって認識することができるのであろか。ああ、認識の主体をなにによって〔かれは〕認識できるのであろうか。(注10)
ブリハット・アーラニヤカ・ウパニシャッド4.5.15(ヒンドゥー教)37

 

かたちによって、わたしを見、
声によって、わたしを求めるものは、
まちがった努力にふけるもの、
かの人たちは、わたしを見ないのだ。
金剛般若心経26(仏教)38

 

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。イザヤ書55.8(キリスト教)39

 

それで神に対し、同類を考え出してはならぬ。まことに神は知りたもう、だがなんじらは知らぬのである。
クルアーン16.74(イスラーム)40

 

モーセが、「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言うと、主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとするあ人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」更に、主は言われた。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、私が通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。
出エジプト記33.18~23(キリスト教)41

 

あなたたちは自らよく注意しなさい。主がホレブで火の中から語られた日、あなたたちは何の形も見なかった。堕落して、自分のためにいかなる形の像も造ってはならない。男や女の形も、地上のいかなる獣の形も空を飛ぶ翼のあるいかなる鳥の形も、地上を這ういかなる動物の形も、地下の海に住むいかなる魚の形も。また目を上げて天を仰ぎ、太陽、月、星といった天の万象を見て、これらに惑わされ、ひれ伏し仕えてはならない。それらは、あなたの神、主が天の下にいるすべての民に分け与えられたものである。しかし主はあなたたちを選び出し、鉄の炉であるエジプトから導き出し、今日のように御自分の嗣業の民とされた。
申命記4.15~20(キリスト教)42

 

太初に神がいらしゃり、
今もいらしゃり、
あすもいらっしゃいます。
誰が神の形をつくることが
できるだろうか。
神は無形であられ、
御自身の口から出てくる
み言であられます。
とどまることなく消えてしまうが
それでも生きている、正にそのみ言!
ゆえに神であられるのです。
ピグミー族の讃歌(アフリカ伝統宗教)43

 

―み言選集―

 

皆さんが霊界に行っても神様を見ることができません。神様は見えないのです。神様はエネルギーの本体なので、霊界に行っても見ることができません。
(105-193.1979.10.21)

 

神様はどのような形ももっていません。大きいと言えば無限大です。小さいと言えば無形に小さい方です。
(35-157、1970.10.13)

 

愛がどのように生じたのですか。愛がきちっと四角になっていれば、角張った人ばかりが喜びます。愛は空気のように形態がないので、どのような形態でもすべて満たすことができるのです。空気のように大きくて丸いものを真の愛で長く引っ張れば、千里、万里とずっと伸びていきます。それでも空気は、「ああ!なぜこれを引っ張るのか」と不平を言いません。引っ張りすぎてぷつんと切れても、「そうなればどれほどよいか。早く切れるようにしてほしい」と言うのです。愛には異なる概念があります。反対の概念があるのです。空気のような形態の愛がぷつんと切れれば、それを引っ張っていく神様は、その愛を体に巻きつけていきます。「神様をこのように長く伸ばさなければならない」と言っても、神様は喜ぶというのです。
(167-115、1987.7.1)

 

神様はどれほど重いですか。それを考えてみましたか。神様がどれほど重いですか。斤目で量れば、何斤くらいになりますか。何億万トンになるでしょうか。重ければもち歩くのに大変です。が、神様は無形でいらっしゃるので、理想的です。無形なので、財布に入れて歩いても重くないのです。また、無形なので、いくら狭い所に行ってももっていけます。そうではないですか。いくら狭くても、針の穴よりもっと狭い所も、人間が思いどおりにもっていけます。思いどおりに運搬できます。大きければ、大きい所も思いどおりに運搬できるのです。
(136-107、1985.12.22)

 

全知全能の神様、すべての天下を料理される神様がここにいるとしましょう。力で言えば太白山も吹き飛ばし、地球に穴を開けることもできる能力の神様なのですが、そのような神様を皆さんの目で見ながら生きるとすれば、生活できると思いますか。神様が見えなくて良かったというのです。見えれば、皆さんは神経が衰弱して、1時間も我慢できないのです。
(38-245,1971.1.8)

 

神様は知恵深い方です。それで、見えない主人になろうと考えることができるのです。人々がいくら追いつこうとしても追いつくことができず、見ようとしても見ることができないようになることが最も便利な方法でしょう。そのように主人の役割ができれば望ましいのです。210億光年にもなる宇宙を「私の懐に抱かれよ」と言っても、体をもった神様であれば、どのようにして神様の役割をするのですか。神様に心があれば、その心の距離がどのくらい遠いでしょうか。心と体が訪ねていこうとすれば、どれほどかかりますか。神様が見るときも、あきれてしまうでしょう。
そのようなことを考えるとき、知恵の神様、全知全能の神様は、中央で思いどおりに振る舞うことができる無形な存在としていらっしゃりながら主管することが、一番便利だと考えられたのです。神様は無形なので、存在世界を思いどおりに突き抜けてきたとしても少しも支障を感じません。皆さんには体がありますが、神様が来て思いどおりに過ぎていかれたとしても皆さんには分からないのです。神様が、こくりこくりと居眠りしている皆さんの体を、思いのままに踏んでいかれたとしても分からないのです。それでどんなに便利でしょう。ですから神様は、見えない神様としているのが一番便利だろうと考えて、見えない神様になったという論理が妥当です。
皆さんは空気が通ることを知っています。しかし、空気が通ってもそれを感じられません。空気が通ることも感じられないのに、神様が通ることを感じられるのかというのです。それで、仕方なく神様は無形の神としていらっしゃるのが最高に便利な方法なのです。そして、この大きな宇宙を支配することができ、この宇宙を風呂敷で包んで余りある神様でなければなりません。無形の神様ですが、無形の神様の心は、この宇宙も小さいと思い、もっと大きなものを要求しているのです。
もし神様が、皆さんの一挙手一投足を、いちいち顕現して指摘し、干渉されるとすれば、どのようにして生きていくのですか。皆さんの目で直接神様を見ながら生きていきなさいといえば、生きていけると思いますか。恐らく神経衰弱にかかって一日も生きていくことができないでしょう。皆さんは今、この場に座っていながら、ものすごい量の空気が皆さんの体の中を出入りしているのを見ることができないのに、ましてや無形で存在される神様が皆さんを通過して役事されるのをどうして見ることができますか。神様を見せれくれれば信じるという愚かな主張をするのではなく、神様が私たちの目に見えないことをかえって有り難く思わなければなりません。
(138-168,1986.1.21)

 

天宙の大主宰である神様が人間の目に見えるようになれば、その神様をお互いが奪い合おうとしてけんかをするでしょうか、しないでしょうか。このけんかを防ぐ道がないのです。神さまが見えなくて良かったのです。もし神様が見えたとすれば、アメリカとソ連がお互いに自分の神様だと争うでしょうか、争わないでしょうか。争うのです。その争いを誰が止められますか。神様は全知であられ、このような争いが起こるかもしれないので無形でいらっしゃるのです。神様が見えることを願うのは、ばかげたことなのです。見えなくて良かったのです。
(41-286,19712.17)

 

ここには、二つの考えがあります。摂理を主管する神様の考えと、摂理に対している私たちの考えです。それが現場において、どのような差があるかということが常に問題です。それでは、ここで考えるべきことは、神様はどのような神様なのかということです。神様は堕落前にもいらっしゃり、堕落後にもいらっしゃいますが、今摂理に対している神様の考えは、堕落した人間を救うことです。これを私たちは、いつも忘れてしまいやすいのです。
それでは、問題は、神様が堕落した世界に入ってきて働く、その目的がどこにあるのかということです。この人たちの考えを中心として人間化するのではなく、神様が本来理想としていた考えを中心として神様化しようというのです。そのような救援摂理の運動だということをはっきりと知らなければなりません。
(161-110,1987.1.11)

 

神様は、見えない無形の神様でいらっしゃいます。無形の神様が有形の神様として顕現するためのものが創造理想だというとき、神様の実体は見えない世界の実体にもなりますが、また見える世界の実体になりたいと思わざるを得ないのです。
(298-106,1999.1.1)

 

さあ、アダムはどうしてそうでなければならないのですか。今皆さんが霊界に行っても、神様を見ることができません。神様は見えないのです。皆さん、力が見えるでしょうか、力が見えますか。神様はエネルギーの本体なので、霊界に行っても見ることができません。体がないのです。ですから、実体世界を指導して主管するためには実体をもたなければならないのです。神様は、どのような神様ですか。アダムが堕落しないで完成して地上で暮らし、天上に行くようになれば、アダムの形状をもった神様になるのです。それで、見えない神様と見えるアダムが一つになるのです。そのようになれば、アダムが「ははは」と笑うことは、神様が「ははは」と笑うことだというのです。
無形の神様が実体をもった神様として登場するというのが、アダムとエバの創造です。アダムとエバを創造したのは、無形の神が実体の神様として登場するためなのです。それはどういうことでしょうか。南極と北極のような極を描いてこそ、一つの磁石となれるのです。ですから、目に見えない神様と目に見える神様が調和を成せる、このような原理が現れます。そうして初めて、これが回る作用をなし得るのです。
(105-193~194,1979.10.21)

 

4.超越的実在

超越性は、絶対者の本質的属性である。神様の栄光は、世界に満ちあふれるほど現れ、尽きることがない。神様は、存在の土台であり、あらゆる被造物の原子と生命の中に内在するエネルギーの源泉である。それは、宇宙の中心であり、万物の秩序を維持する。しかし、世界の中に関与する神様の超越性と絶対性は、決して制限されたり棄損されたりするものではない。
どのようにして有限な存在である人間を超越的な神様と結びつけるのか。ある章句では、私たちが人に対するにおいて、国家と民族の限界を克服することによって私たちの日常生活の中に現れた超越の意味を適用させなければならないという。また、ある章句は、私たちが、絶対的存在自身がいる所として選択した、私たちの心の最も深い内面世界と接触しなければならないという。

 

―宗教経典―

 

聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。
イザヤ書6.3(キリスト教)44

 

神、かれのほかに神なく、永生者・自存者であられる。仮睡も熟睡も、かれをとらえることはできない。天にあり地にあるよろずのものは、かれの有(もの)である。かれの許しなくして、たれが、かれのみもとで執り成すことができよう。かれは人びとの、前のことも後のことをも知りたもう。かれの御意にかなったことのほか、かれらはかれのみ知識もについて、何も会得するところはないのである。かれの玉座は、あまねく天と地をおおうてひろがり、これを守って、疲れも覚えたまわぬ。かれは至高者・至大者であられる。
クルアーン2.255(イスラーム)45

 

手のひらにすくって海を量り/手の幅をもって天を測る者があろうか。地の塵を升で量り尽くし/山々を秤にかけ/丘を天秤にかける者があろうか。主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。主に助言し、理解させ裁きの道を教え/知識を与え、英知の道を知らせうる者があろうか。見よ、国々は革袋からこぼれる一滴のしずく/天秤の上の塵と見なされる。島々は埃ほどの重さも持ちえない。レバノンの森も薪に足りず/その獣もいけにえに値しない。主の御前に、国々はすべて無に等しく/むなしくうつろなものとみなされる。
イザヤ書40.12~17(キリスト教)46

 

プルシャは千頭・千眼・千足を有す。彼はあらゆる方面より大地を蔽いて、それよりなお十指の高さに聳え立てり。プルシャは、過去および未来にわたるこの一切(万有)なり。また不死界(神々)を支配す、食物によって成長するもの(生物界、人間)をも。かれの偉大はかくのごとし。されどプルシャはさらに強大なり。一切万物は彼の4分の1にして、4分の3は天界における不死なり。プルシャは4分の3を備えて上方に昇れり。彼の4分の1はここ(下界)に再び発生せり(現象界の展開)。これ(4分の1)より彼はあらゆる方面に進展せり、食するもの(生物)・食せざるもの(無生物)に向かって。           リグ・ヴェーダ10.90.1~4(ヒンドゥー教)47

 

これは火神なり。これは太陽なり。これは風神なり。これはまた太陰なり。これは明浄なるもの(星)なり。これは梵なり。これは水なり。これは生主神なり汝は女子なり。汝は男子なり。汝は童子なり。はたまた童女なり。汝は老人にして、杖に縁って仗ってよろめき歩む。汝は生まるるや一切処に現わる。汝は青羽の鳥なり。紅眼、緑羽の鳥なり。汝は電を胎児とするもの(雲)なり。汝は季節なり。海なり。汝は初めなくして、しかも一切に遍在す。これによりて万物は生じたるなり。
シヴェータシヴァタラ・ウパニシャッド42~4(ヒンドゥー教)48

 

唯一なる[アートマン]は動くことがない[けれども、しかも]思考作用よりもより早く、[それが]先駆けるとき、神々はそれをとらえられなかった。それは[じっと]とどまりながら、走っている他のものに追いつく。マータリシュヴァン(摩擦によって火を作り出すときに出る煙、または風)はそれに水(風がすべてのものを乾燥させるからか?)を置く。
それは動き、それは動くことなく、それは遠方にあり、それは遠方にあらず、それはこの世のあらゆるものの内にあり、一方、それはこの世のあらゆるものの外にある。
かれ(アートマン)は、身体をもたず、そこなわれることなく、腱がなく(身体的な力がなく)、清浄であり、悪につらぬかれない、精液にはいった。[かれは]賢明なる大初の詩人として、遍在せるものとして、みずから生じたものとして、つねにひきつづく年のためにものごとを適切に配置した。
イーシャ・ウパニシャッド4~8(ヒンドゥー教)49

 

形はないが、混沌としたものがあり、天と地より先に存在していた。音もなく、空漠。あらゆるところに充ち、疲れることがない。それは天下の母だといわれる。その名は知られておらず、「道」と呼ぶだけである。もし私が名をつけようとするなら、それを『大』と呼ぼう。「大」とは無制限に広がっていくことである。無制限に広がるとは遠ざかることであり、遠ざかるとは「近くに」返ってくることである。
道徳経25(道教)50

 

夫れ神とは天地に先立ちて
而も天地を定め陰陽を超えて
而も陰陽を成す天地に在りては神と云ひ
万物に在りては霊と云ひ
人に在りては心と云う心とは神なり故に神は天地の根元
万物の霊性人倫の運命なり
当に知る心は即ち神明の舎
形は天地と同根たる事を
吉田兼俱 神道大意(神道)51

 

諸感官の上に意あり。意の上に至上の喜聴(覚)あり。喜徳の上に大自我あり。大自我の上に至上の非変異あり。しかも、非変異の上に神我あり。偏在にして、個別性なし。(注11)
カタ・ウパニシャッド2.3.7~8(ヒンドゥー教)52

 

菩提大士はどんなふうに如来・応供・等正覚を知見すべきかといふに、菩薩大士はまさに如来の具足し成就したまへる無量の功徳を知見するがよい。なぜなら、如来・応供・等正覚は一法・一行・一身・一国土・一衆生の教化でないから。それゆえに菩提大士はまさに如来の具足し成就したまへる無量の法・無量の行・無量の身・一切衆生の教化を知見するがよい。
仏子よ、たとへば虚空は一切の色のところ、非色のところに、処として至らぬと云うことなく、しかも至るでもなく、至らぬでもない。なぜなら、虚空には形色がないから。如来の法身もまた此のごとく、一切のところ・一切の国・一切の法・一切の衆生に至って、しかも至るといふことはない。なぜなら、もろもろの如来の身は、身であってしかも身でないから。如来は応化する所にしたがってその身を示現したまふ。(注12)
大方公物華厳経37(仏教)53

 

「道」は無によってはたらき、
満ちあふれたものではない。
それは深いところで、
すべてのもとになるものである。
鋭さをにぶらせ、
もつれを解きほぐし、
光を和げ、
地球を一つにしながら
それは残っている。
道徳経4(道教)54

 

―み言選集―

 

神様は、超越した場所にいる方です。世界的であり、宇宙的な方です。神様の愛は、宇宙的であり、世界的なものとして、超越した場所で価値のある内容を備えたものであることを知らなければなりません。
(94-282~283、1977.10.9)

 

絶対的な神様がいるなら、その神様は、天地創造の時の宇宙の起源になられる方です。その方によらないものがないというのです。その方に属しているために、その方に属した全体は、その方と共に感じ、その方と共に因縁をもっているのです。
細胞自体がどのような分野であろうと感じさえすれば、直接頭脳に連絡されます。天地創造の創造主を中心として連絡されるすべての存在も、それと同じだというのです。しかも、人間として生まれる、意識をもって生き、善良で、より次元の高い価値のものを追求しながら悲哀を感じる、そのすべては人間から始まったのではなく、人間の根源から始まったのです。
(140-123,1986.2.9)

 

自分の生命は、父母や社会や民族、国家を通じて生まれたのではなく、それを超越した絶対者である神様から始まったと言うべきです。動機を、絶対的な立場にある超越的な動機と結びつけなければなりません。時代的な因縁とか、環境的な因縁、あるいは社会的な与件に結びつけてはいけません。超越的な原因に結びつけ、超越的な目的に結びつけてこそ、飛躍して、超越して、脱出できるのです。私の命を超越的な動機に結びつけなければなりません。私の命の出発は、私から始まったのではありません。絶対者、神様から出発したのです。自らを超越的な動機に結びつければ、死んだとしても、超越的な過程で神様のみ旨によって死ぬようになるのです。
(36-64,1970.11.15)

 

神様を中心として完成された被造世界は、ちょうど、心を中心として完成した人間の一個体のように、神の創造目的のままに、動じ静ずる、一つの完全な有機体である。したがって、この有機体も性相と形状とを備えなければならないわけで、その性相的な存在が神であり、その形状的存在が被造世界なのである。
原理講論、創造原理1.1.1

 

あらゆるものは回るようになっているものです。空気やあらゆる素粒子を見ても、すべて丸いのです。分子なら分子、電子なら電子も、やはり陽子を中心として回っているのです。じっと座っているものを中心として回るようになっているのです。太陽を中心として太陽系も回ります。銀河系も全体が一つの核を中心として回るようになっています。そのような連関関係を中心として、この宇宙は一つの千態万状の大きな包みです。大風呂敷の宇宙も、すべてが一つの核を中心として回ります。それは誰に似てそのようになっているのかというと、主人に似てそのようになっているのです。その主人が誰かというと、万有の根源であられる神様です。
(173-134~135、1988.2.14)

 

その方は、天地を創造された方であり、今日、この世の存在の起源になる、最も母体であられる方です。その方は、存在価値の起源です。その方がいらっしゃることで、今日、この現象世界が始まりました。そのような絶対的な方は、ある時代に変化があったとしても、変わる方ではありません。絶対的なものは、変わることはありません。また、時間や空間に制限を受けることもありません。すべての制限を超越した立場に立って、すべての制限を主管される方です。                    (21-249,1968.11.24)

 

人間は、神様と完全に一つになってこそ、完全な人になるのです。人は、たとえ小さな一つの個体だとしても、全体の歴史の代身としての存在であり、未来のあらゆる因縁の代身としての存在なので、天宙的な価値をもっている存在です。それでは、人類歴史は、何を成すために今まで流れてきたのでしょうか。私たちの大勢の先祖たち、預言者、烈士たちは、何を願ってきたのでしょうか。堕落した人間なので、遠いところから因縁を結び、中心を求めて入ってきています。すなわち、氏族主義時代から部族、民族を経て、国家時代と国際時代、世界的な連盟時代を経てきているのですが、ここで天は、一つの代表的な人、すなわち歴史的な因縁と時代的な因縁と未来の因縁を兼ねた土台の上に、神様の心情を結びつけ得る一人の人を求めてきたのです。
第一次大戦当時は、物質を中心とする闘争時期でした。この地のあらゆる人たちが自身の心を後回しにして、ひたすら物質ばかりを求めようとしていたのです。このように全世界が物質万能主義を叫んでいた時がありました。
ところが、これがあらゆる時代にすべて通じるのかというと、そうではありません。人は、自分の生涯の因縁を求めていくにおいて、自分の心を中心に迎えていかなければなりません。これが天倫の鉄則です。心の命令に服従しない者は、天が打ちます。今まで天は、歴史路程において、人間に自身の心を中心に善側に属し、良心のとおりに生き、物質的な悪の条件に引っ掛からないように生きなさいと言ってきたのです。
それでは、人間の良心の基準は、天倫の心情を100パーセントそのまま受け入れられるようになっているのでしょうか。そのようになっていません。数多くの障壁が横たわっているのです。皆さんが願う希望峰、すなわち天国の関門の前に曲折の門が横たわっているというのです。キリスト教的に言えば、これは審判の関門です。今日、私たちは、恐怖と不安と混乱の時期を迎えています。中心をつかもうとしても、つかむことができない時代です。
今日の私たちは、物質をたくさんもっていてもいけません。なぜかというと、神様が人を求めて造るとき、物質的な体を先に造ったのちに霊を吹き込み、私たちは、霊と肉から成っているのですが、霊が中心だからです。この世界が物質的な権限を中心として一つになって動くとき、どのような闘争の時期が現れるのかというと、思想闘争の時期が現れるのです。実際に、そのよのような現象が第2次大戦以降に色濃く現れています。そして、心を中心とする思想の時代が現れるのです。
それでは、思想は、どのような思想でなければならないのでしょうか。物質を貫き、心を貫き、霊を中心とする思想でなければなりません。霊を中心とする思想の時代を求めていくのが復帰路程です。人間たちは、これを失ってしまった状態にいまだにとどまっていて、霊と良心と体の調和を失ってしまった状態に今もとどまっているのです。
(4-268~269,1958.8.3)

 

5.主権と全能

神様は宇宙の主権者である。神様は、男女、人間社会のあらゆる出来事を主管し、彼らの運命を決定する。また、人間は、神様の主権に服従するか否かに対する自由意志をもつが、私たちの人生に対する彼の権能を認め、彼を私たちの主として受け入れるのが適当である。
人間の自由意志は、神様の主権が絶対的でないこともあり得るという疑問を提起する。この世界で、神様が常に悪を罰し、善に報いることによって正義を立てるという主張は、支持され難い。文鮮明先生はこの問題に対してより深く言及し、人々が放縦にならず、神様の統治に完全に服従できる状態にあるときにのみ神様は主権者でいることができるが、人間の堕落のためにこの状態が成し遂げられなかったという原理を提示した。しかし、結果的にサタンが人間の心情を蹂躙することによって、この世界を支配するようになった。したがって、この世界から悪の勢力を追い出し、神様が何の制限もなく統治できる主権を立てることが急務である。文鮮明先生は、今その日が切迫していると断言する。

 

①全能であられる神様

―宗教経典―

 

かれこそは天と地の原始の創造者であられる。かれが一事を決めたまい、それに有れと、仰せになれば、すなわち有るのである。
クルアーン2.117(イスラーム)55

 

天と地における、よろずのものは、神の栄光をたたえまつる。まことにかれは、偉力者、英明者であられる。
天と地の大権は、かれのものである。かれは、生を授けまた死を賜う。かれはよろずの事物の上に、全能であられる。

かれは最初の方であり最後の方であられ、外に現れる方でありまた内在したもう方であられる。かれはよろずの事物を、熟知したもう。
かれこそは、天と地を六日間で創造され、それからしたくし玉座に鎮座したもう方であられる。かれは地にはいるもの、それから出るものを知りたまい、また天から下るもの、それに上るものを知り尽くしたもう。なんじらがどこにいようとも、かれはなんじらと共にいましたもう。神はなんじらの行うすべてのことをみそなわす。
天と地の大権は、かれのものである。一切の事物は、神のみもとに帰される。
かれは夜を昼のなかに没入させたもう。また胸に秘めることを熟知したもう。
クルアーン57.1~6(イスラーム)56

 

もしかれのみ心ならば、なんじらを追放して、その地に新しい創造物を、なんじらの代わりに連れてこられよう。それは神においては、むずかしいことではない。
クルアーン14.19~20(イスラーム)57

 

あなたは不変であり、永遠の教法の守護者である。あなたは永遠のプルシャであると私は考える。
始まり、中間、終わりのない、無限の力を持ち、無限の腕を持ち、月と太陽を眼とし、燃火を口とし、自らの光輝によりこの全世界を熱しているあなたを私は見る。
天地の間のこの空間は、ただあなた一人によって遍く満たされている。そして一切の方角も・・・・・・。偉大な方よ、あなたのこの稀有で恐ろしい姿を見て、三界は戦慄いている。
パガヴァッド・ギーター11.18~20(ヒンドゥー教)58

 

人びとよ、なんじらは神に対し求め請う者である。だが神こそは、自足者であられ、賛美さるべき方であられる。
クルアーン35.15(イスラーム)59

 

―み言選集―

 

神様はいったいどのような方でしょうか。全知全能で、偏在され、ただの一言で世界を葬ることも、生かすことも……。そのような神様を私たちは必要としません。私たちはが神様と関係を結ぶことができる人になっているというのです。私たちの本心は、どのような神様を願っているのでしょうか。「愛をもち、私の父母以上の愛で愛さざるを得ない方だ。私たちの国に義の国王がいれば、義の大統領がいれば、その大統領以上の方だ」、このような方を願うのです。
(147-273,1986.10.1)

 

全能の神様が、それほどまでに苦痛の場から抜け出せず、歴史の背後で受難の道に甘んじて耐えてこられたのは、神様が愚かで能力がないからではありません。
堕落によって失ってしまったアダムとエバの本然の位置、すなわち完成した「後のアダム」の顕現を待たなければならない、復帰摂理にまつわる、言うに言えない事情があったからです。いかに全権をもった神様でも、自ら永遠の基準の上に立てた天理原則を無視することはできなかったのです。
平和新経、平和メッセージ1,2005.9.12

 

多くの人たちが、絶対者の神様、全能であられる神様、栄光の神様と簡単に言います。しかし、私が求道の過程で発見した神様は、そのような立場にいらっしゃる神様ではありませんでした。人類始祖の堕落によって、神様は愛する子女を失った父母になりました。子女が監獄生活をしているのに、栄光を享受する父母がいるでしょうか。神様の心情は限りなく痛むのです。また、堕落によって人間のためにつくった宇宙万象までも、すべてサタンの主管圏に差し出してしまいました。真の愛の主人であられる神様は、その愛の対象を失った瞬間から、限りなく孤独な神様になられたのです。万有の主宰者としての権能を一度も主張してみることができませんでした。愚かな堕落人間たちも自分を誇って生きているのに、神様は創造主の威信を一度も立ててみることができませんでした。あらゆる生命の主人でありながら、それらの前に自ら志尊さを現すことができなかったのです。
原理の主人であられるので、非原理世界に落ちた結果世界でどうして自由に行き来されるでしょうか。あらゆる不信と反逆の道を歩む人間たちは、無形の真の父母である神様を、いないと言い、死んだとまで言いながら無視して生きてきました。神様は、恨を抱いて長い歴史を生きてこられたのです。とても長い間、耐えてこられたのです。
(343-197,20011.29)

 

終わりの日になればなるほど、それこそ超越的な神様が必要です。悪も超越し、あらゆる物を超越して絶対的な権能を行使できる神様、悪魔がいれば、その悪魔の妨げを受ける神様ではなく、あらゆるものを超越して自由自在にできる神様が必要だというのです。そのような神様を発見するまでは、今日のこの闘いの場を克服できません。言い換えれば、今までつづられてきた歴史時代、現生において内的な役割を果たす宗教の歴史時代では、新しい文化を克服できないと見るのです。悪神が闘うそのような神様ではなく、悪神が介在できない、唯一の絶対的で超越的な神様を中心として出発できる自らを発見し、そのような自らを中心とするようになるとき、初めてこれが今日の世界を収拾できる起源になると考えるのです。
それでは、ここで神様はどのような神様なのでしょうか。超越的な神様の立場に立ち、摂理歴史を、人類歴史を指導される神様になることができていないのです。人間が堕落したからです。神様は、これを治してあげる医者としての神様です。修理する立場にいる神様です。完全な人、絶対的な人が出てきて、その人が完全に絶対的な位置で一つの方向に向かって導いていくようにする神様になれなかったというのです。
(140-18~19.1986.2.1)

 

主人がいないこの天地に、お父様が主人にならなければなりません。今後行くべきこの国の運命に責任をもち、指導できる中心もあなたがならなければなりません。私たちの家庭や個々人が見つめていく希望の中心も、お父様がならなければなりません。世界でも必要とし、国でも必要とし、家庭でも必要とし、個人でも必要とするのが、全天地をつくられた主人であられるあなたであり、お父様であられることを、私たちはっきりと知らなければなりません。
あなたは無限の能力をもたれた方であり、時間と空間世界のいかなる制裁も受けない全能であられる方だということを、私たちは知っております。あなたによってつくられていないものはなく、あなたはすべてのものの原因の内容を備えられた主体であることを知っています。存在するすべてのものは、あなたの因縁によって存在することを私たちは知っており、存在するのは主体であられるあなたの前に、相対的目的をもっていないものがないことを知っています。そのような位置に立った個人であり、家庭であり、国家であり、世界にならなければならないことも知っています。
日の光が照らされれば、すべての存在がその日の光を通して生命の目覚めを願い、それと一致しようとするのを私たちが見つめるとき、微々たるものも一つの中心に向かってそれと一緒に動く現象を私たち自身が見つめるとき、そのような位置で、あまたは私たち生命の主体であられる父であり、私たちの行くべき道と方向を明らかにしてくださる父であることを知って、あなたと一体となり、あなたと一つにならなければなりません。そうでなければ、生命の道がふさがることを考えなければなりません
(59-65~67、1972.7.9)

 

②人間社会の出来事を主管する主人

―宗教経典―

 

天と地と、その間の一切の事物は、神の大権に属する。かれは、よろずのことに全能であられる。
クルアーン5.120(イスラーム)60

 

主は代々限りなく統べ治められる。
出エジプト記15.18(キリスト教)61

 

統治者、王、領主、宰相、臣下たち、このすべてが神の創造であるがゆえに、彼らの意志が神に服従し、すべてが神に頼っている。
アーディ・グラント、ビラヴァル・キ・ヴァール6
M.4,p.851(シク教)62

 

さて、御身を、マズダーよ、わたくしが、始元にして終末にましますと、心をもってみとめ奉ります。アヴェスター、ヤスナ31.8(ゾロアスター教)63

 

天の怒りを敬み
戯れはしゃぐことなかれ
天恵の変わることを畏れ
気ままに振舞ふことなかれ

天つ神 明らかにして
汝とともに出でまさむ
天つ神 明らかにして
汝とともにゆきまさむ(注13)
詩経、254板(儒教)64

 

マズダーは企てを最もよく銘記し給うもの。まことになされたことを御心にとどめてくださるよう、そしてまた諸天と諸人によってなされるであろうことをも御心に記してくださるよう。その判決者におわすアフラーそのかたが望み給うとおりに、してくださるよう。
アヴェスター、ヤスナ29.4(ゾロアスター教)65

 

謙遜な者と従順な者たちを虐待する者は誰でも、極めて厳しい主が彼を火で燃やすだろう。創造者は完全な正義を行われ、主に献身する者たちを保護されるのである。
アーディ・グラント、ガウリー、M5.p199(シク教)66

 

人々が恐れをもたないとき、「根本的な恐怖」を経験する。
道徳経72(道教)67

 

主の大いなる日は近づいている。極めて速やかに近づいている。聞け、主の日にあがるこえを。その日には、勇士も苦しみの叫びをあげる。その日は憤りの日(注4)/、苦しみと悩みの日、荒廃と滅亡の日/闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。城壁に囲まれた町、城壁の角の高い塔に向かい/角笛が鳴り、鬨の声があがる日である。わたしは人々を苦しみに遭わせ/目が見えない者のように歩かせる。彼らが主に対して罪を犯したからだ。彼らの血は塵のように/はらわたは糞のようにまき散らされる。金も銀も彼らを救い出すことはできない。主の憤りの日に/地上はくまなく主の熱情の火に焼き尽くされる。主は恐るべき破滅を/地上に住むすべての者に臨ませられる。
ゼファニア書1.14~18(キリスト教)68

 

―み言選集―

 

今まで私たちは、観念的に神様と呼んできました。宗教的な主体としてのみ神様を呼んできたのです。しかし、それは違います。神様は、生命の主体であると同時に生活の主体であり、生活の主体であると同時に理念の主体です。
(11-87、1961.2.12)

 

自分を完全に知って自分を解明するためには、比較して判断できる相対的な条件がなければなりません。それは人間が信仰の対象としている絶対者です。その絶対者と私が関係を結び、その差を比較して論断するとき、自分がどのような存在だということが解明されるのです。ですから、この心を支配して動かす絶対的な存在、あるいは主体となるその何かがあるという事実を、皆さんはまず感じなければなりません。
(7-207~208、1959.9.13)

 

サタンの全権時代が倒れ、神様の全能時代が来るのです。サタンが好きなようにできません。自分が発揮できる限界内で権能を使用しましたが、能力の位置に立てなかったのです。思いどおりにできる基準になれなかったのです。しかし、神様は、全般的な勝利の基盤の上に、全般的な権能の役事をすることができます。
(349-179、2001.7.19)

 

人類は歴史的な転機を迎えています。今の時は、見えず、無力で存在していないかのように思われた神様の権能が、人類の生活の中に示現する時になりました。万象と宇宙に厳存する神聖な秩序と、合法の主人であられる神様の絶対権を、人間たちが自分の日課の中で体得する、驚くべきことが起きる時になったということです。
歴史を通した神様と真の父母様、そして義人たちの犠牲と無条件的な愛の実践基盤の上で成し遂げられた神様の善の相対基台が、堅固に造成されたために可能な、奇跡のようなことです。人類は今、だんだんと神様を感知し、霊界と霊人たちの役事を知っていくようになります。人々は、自分の内なる人である霊人体を自覚し、霊性が啓発されるでしょう。こうして人間は自然に宇宙の公法を体得し、明確な人格変化を起こし、真の人になることができるのです。これを通して人類は、宇宙の存在秩序と人間関係が利己的、自己中心的になるのではなく、利他的に人のために生きながら暮らすようになっていることを学ぶようになるでしょう。
(404-322、2003.2.6)

 

今までサタン圏は、国家基盤に限定されていました。これからは、それを超えていくのです。それは、サタン圏を超えていくことです。宇宙基盤と天宙基盤を神様が主管するのは問題ありません。それで、この地上にサタン圏は消え去り、新しい天の主権が出てくるというのです。神様が個人から宇宙まで主管できます。そうして神様が初めて主権をもつようになるのです。
全体、全般、全権、全能の神様が思いどおりにする時が来ました。全般は、サタン世界の全体を神様が主管する世界になるということです。全能は、サタン世界の全権を神様が握り、思いどおりにできるようになるということです。サタンの全権は、国家基盤を超えられません。世界基盤は神様が握っているのです。
(295-254、1998.9.8)

 

6.全知性と偏在性

神様は、万事を洞察されるため、何事もその視野を抜け出すことはできない。神様は、宇宙の過去、現在、そして未来を洞察する。神様は、どこにでも偏在するため、その目を避けられる所はない。したがって、私たちは、慎重に考え、注意深く行動しなければならない。神様は、私たちがすることすべてを直観するだけでなく、私たちの人生の苦難を見て同情する。彼はあらゆる人生の状況において私たちの友であるがゆえに、私たちは決して孤独ではない。(第11章7.「予定」参照)

 

―宗教経典―

 

東も西も、神のものであり、なんじらはいずれに向かっても、神のみ前である。
まことに神は、偏在者・全知者であられる。(注15)
クルアーン2.115(イスラーム)69

 

座るのも立つのも知り/遠くから私の計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け/私の道にことごとく通じておられる。
詩編139.2~3(キリスト教)70

 

主よ、まことにあなたは、わたしたちが隠すことと現すことを知りたもう。
また地にも天にも、神に対し何も隠されたものはありません。
クルアーン1、4.38(イスラーム)71

 

『詩経』にいう、「汝が室に(独居して)いるのを見るに、願わくば、屋漏で恥ずかしくなくあるべきだ」だから君子は、まだ動かない前にも、慎んでおり、まだ言わない前にも誠実である。
中庸33(儒教)72

 

次の三つに留意せよ。そうすれば、あなたは決して罪のわなに引っ掛かることはないだろう。あなたを見つめる目があり、あなたが語る言葉を聞く耳があり、あなたのすべての行動は天の書物に記録されていることを銘記せよ。
ミシュナ.アヴォート2.1(ユダヤ教)73

 

神、まことにかれのみが、審判の時を知りたまい、かれは雨を降らせたもう。
またかれは、胎内にあるものをも知りたもう。
だが人間はたれも明日、何をかせぎだすかを知らず、たれもいずこの地で死ぬかを知らぬ。
まことに神は、全知者・通暁者であられる。
クルアーン31.34(イスラーム)74

 

世の果超えて見はらかす、神の長(ヴァルナ)の目曇りなく、ものみな近し。人知れず、忍ぶとすれど神は知る。
立つも歩むも這い行くも、隠るるもはた逃るるも、王者ヴァルナはこれを知る。ひそかに二人相逢うて、見る人なしと語ろうも、知らずやヴァルナここにあり。
大いなる地も果てしなき、高きみ空を御世しろす、王者ヴァルナが国の内。二つの海をさし挟む、神とし見れど僅かなる、水の滴もその住処。
天つみ空の果超えて、この世の外に行かば行け。ヴァルナの咎め逃れえじ。神の探偵は久方の、天よりここに降り来て、百千の目もて地を見張る。王者ヴ.界に、秘めしことなし、賭博者が、骰子の勝目を数うるがごと。
恐ろしい罠、なが下す数は七十七、ヴァルナよ、三重に解かれつ。偽りを語ろう輩残りなく、罪の縄目に縛めよ、真を語る人は赦して。
百の縄目に縛めて、偽り語る痴者を、ヴァルナよ、赦すことなかれ。箍切り取りし桶のごと、水気に腹のふくらみて(神罰としての水腫病)、悩むはおのが罪のため。

ヴァルナの罠、縦なるもまた横なるも、国の内なるも、国の外なるも、神々の罠、人間の罠。
アタルヴァ・ヴェーダ4.16.1~8(ヒンドゥー教)75

 

なんじは、天にありまた地にあるよろずのものを、神が知りたもうことを考えないか。
かれが第四者でなく、三人で秘密の相談をすることはない、またかれを第六者とせぬ、五人の相談はなくそれより少なくともまた多くとも、かれらがどこにいようとも、かれはかれらと一緒にいましたもう。
クルアーン58.7(イスラーム)76

 

どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも/あなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。
詩編139.7~10(キリスト教)77

 

どろぼうしようと、水の中に潜るように隠れる者よ、この世のいかなる王も、お前を見ることができないとしても、天の王はすべてのことをみている。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)78

 

―み言選集―

 

神様は、人を見るとき、心を見通し、その次に過去を見て、現在を土台に未来を見ます。
(100-93、1978.10.8)

 

神様は、時間を超越した方なので、24時間を超えた位置にいらっしゃるのです。
(171-27、1987.12.5)

 

神様の心は、神様のみ言の中にだけあるのではなく、神様がつくられた万物の中にもあるのです。天と地のどこに行っても、そこに神様の心があります。ですから、天はいらっしゃらない所がない、すなわち遍在すると言ったのです。
(8-182、1959.12.13)

 

真の愛は、センターにあります。個人を中心とするセンターにあり、家庭を中心とするセンターにあり、氏族を中心とするセンターにあり、民族を中心とするセンターにあり、国家を中心とするセンターにあり、世界を中心とするセンターにあり、天宙を中心とするセンターにあるのです。真の愛は、すべてのセンターにあります。このセンターにすべてまとまるのです。そのような意味で、神様もこのような愛の場に遍在されるのです。
(195-244、1989.12.1)

 

神様の愛は、宇宙を抱いて余りあるのです。中心的な基盤をもっています。最も大きな基盤を包容する愛の中心者が神様です。もし、神様が動く場合には、小さいものもすべて従って動かなければなりません。一つの大きな円の中にすべて入っているでしょう?それで、神様が全世界、全宇宙をカバーすると言っても、理論的な言葉になるのです。
(205-33~34、1990.707)

 

神様がいなくなれば、宇宙がすべて空になるのです。空と同じです。しかし、神様がいれば、宇宙はいっぱいに満ちるのです。なぜですか。愛があるからです。ですから、私が一人でいても神様がいることを知れば、宇宙はいっぱいに満ちるのです。どこにでもいらっしゃることを感じるようになるのです。しかし、私が神様を分からなくなれば、すべてのものが空になるのです。
(91-323、19773.1)

 

それでは、皆さんは神様の遍在性をどのように感じるのでしょうか。空気を神様の息のように感じなさい、台風が吹きつければ、それを神様の鼻息のように感じなさいというのです。流れる水があれば、それを神様がこの世界のために受難の道を克服してこられながら流された汗のように感じなさいというのです。太陽を見つめれば、その太陽がこの宇宙全体の生命の要因を象徴していることを理解して、神様の愛を太陽から学びなさいというのです。神様の心情を体恤するにおいて、一つの教本であり、教材として展開させたもの、愛する息子、娘を喜ばせるための教材としてつくっておいたものが自然です。木の葉を見て自分の息子、娘のように思い、独りでつぶやける人がいれば、彼は聖人に近いのです
(59-102~103、19727.9)

 

この宇宙全体に生きている人の主人がいると考えてみてください。死なずに生きて永遠に見つめる父母がいるなら、霊界でも肉界でも、いつでも見つめ得る父母がいることを一度考えてみることを願います。生きている地上生活はもちろん、永遠の世界まですべて見つめ得る父母がいると考えてみなさいというのです。
(118-38、1982.5.2)

 

7.内在性と心への臨在

神様は心の中にいるため、私たちが悟りさえすれば、極めて近い所にいることが分かる。聖書でエリヤの啓示に現れた神様の臨在は、ものものしい地震や暴風を操って現れるのでなく、「静かで小さな声」で現れた。私たちは、信仰と謙遜を通して私たちの中にいらっしゃる神様の臨在を感知できる。大部分の人たちが神様の現存に対して耳が遠く、目が見えない状態にいるとしても、神様は私たち全員の近くの周辺にとどまっている。
アブラハムの伝統宗教において、神様の顕現は純粋な霊魂の自己具現に帰結すると言うことはできないが、東洋の伝統宗教では、一貫して神性の内在性概念を教える。スーフィー(イスラーム神秘主義者)たちは、クルアーン(コーラン)に出てくる灯火比喩を、体を照らす光として心の中に現れた神様の臨在として解釈する。ヒンドゥー教において神性の内在は存在論的である。すなわち究極的実在は自我、つまりアートマンである。仏教において神性の内在は、如来または仏性と呼ばれる真の内在的本質を心によって実現することである。
しかし、このような内在性の概念は、決して利己心によって遮られ、眩惑された自我である個別の霊魂と神様を同一のものとして扱わない(第7章4.「覚醒」参考)。内在的な神様の完全な具現は、一つの可能性であり理想である。それは、神様が人間に与えた存在目的だからである。文鮮明先生の教えのように、神様は、宇宙を完成し、神様の心情を体恤するようそれぞれの人間を創造した。

 

―宗教経典―

 

まことにわれは人間をつくった、それでその魂がかれにささやくことを知っている。われは人間の頸動脈よりもかれに近いのである。
クルアーン50.16(イスラーム)79

 

実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。
ルカによる福音書17.21(キリスト教)80

 

神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほど刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。
ヘブライ人への手紙4.12~13(キリスト教)81

 

この地のあらゆる民に命を付与しようという心、それが正に私を大きくする心である。
荒木田守武 世中百首(神道)82

 

彼はどうして神を求めて森に行くのか。神はすべての人の心の中で生きており、また彼と共にいることを知れ。香りが花の中にとどまるように、事物が鏡の中に映るように、神が万有にいるがゆえに、その中に神を求めよ。
アーディ・グラント、ダーナ・スリー、M.9、p.684(シク教)83

 

高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。
イザヤ書57.15(キリスト教)84

 

黄金作りの極上の匣の内に汚れなき、渾一なる梵あり。このきらめく、光の中の光こそ、自我を知る人の証得する処なれ。そこには日も照らず、月も、星も、電光さえも輝かず。まして火をや。万物はこの自ら輝くものに映じて輝き、その光燿によりて燦然たり。
ムンダカ・ウパニシャッド2.2.9~10(ヒンドゥー教)85

 

神は、天と地の光であられる。かれの光りをたとえれば、ともし火を置いた、壁龕(へきがん)のようなものである。ともし火はガラスの中にある。ガラスは、輝く星のよう、祝福されたオリーブの木からさす、東の産でもなく、西の産でもないこの油は、火がほとんどそれに触れぬのに、光りを放つ。光りの上に光りをそえる。神はおぼしめしの者を、かれのみ光りに導きたもう。神は人びとのために、比ゆをあげたもう。まことに神はよろずのことを知りたもう。
クルアーン24.35(イスラーム)86

 

彼は聴覚、視覚、触覚、味覚、臭覚、及び思考器官に依存して、諸々の対象を享受する。〔身体を〕離れ、またそこに止まり、諸要素を伴って、〔対象を〕享受している彼を、迷える者は認識しない。しかし知識の眼をそなえた人は認識する。努力するヨーギンは、自己のうちに宿る彼を見る。
バガヴァッド・ギーター15.9~11(ヒンドゥー教)87

 

わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
ヨハネによる福音書14.20(キリスト教)88

 

馬祖は、大梅が、「仏とは、どんなものですか」と尋ねたので、「ほかならぬこの心が仏だ」と答えた。
無門関30(仏教)89

 

法・化・報の三身仏は、自己の本姓のうちにあるのだ。世の中の人には、自分の心を見失っているがために、自己の本姓のうちにあるものに気づかないで、外に向かって三身の仏を探し、自己の中に過去・現在・未来の三世の仏がいることに気がつかないものが多くいる。諸君、私の話をよく聞くがよい。諸君に、自分の中に、自己そのものとしての三世仏があることに気づかせよう。この三身仏は、諸君の本来の真性から出てくるもので、外からは得られないのだ。(注16)
六祖壇経6(仏教)90

 

主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。(注17)
列王記上19.11~12(キリスト教)91

 

―み言選集―

 

神様は、どこにいらっしゃるのでしょうか。霊界にいるのではなく、私たちの心、その中心にいらっしゃるのです。
(145-310、1986.6.1)

 

神様は、観念的な神様ではなく、自分の生活圏内に生きていらっしゃり、皮膚で感じる神様です。私は、神様の脈拍を聞いて暮らしています。神様と呼吸を共にし、神様の体温を感じて暮らしています。私は、神様の心情を知り、その心情の中に堕落によって人類を失ってしまった悲しみがいっぱいに満ちていることを知って、川のような涙を流した人です。
(234-233、1992.8.22)

 

ご飯を食べるのも忘れ、眠るのも忘れて、お父様に対する慕わしさをもって「お父様!」と言えば、お父様が見えなくても、お父様の手を握れます。そのようなことがあります。夢のような事実が起きるのです。「お父様!」と言えば、お父様の懐に抱かれます。このような体恤的感情をどのように体得するかということは、信仰生活において何よりも貴いことを知らなければなりません。
愛の心情をもったならば、どこに行っても、「私がこれをしなければならない」と思うとき、「天よ、共にいてください」という前に、既に神様は共にいらっしゃるのです。そのようなことを感じるようになるとき、「有り難い神様」と思うようになるのです。
(58-299、1972.6.25)

 

神様はどのように愛するのかと言うとき、答えに困るでしょう。神様は無形の神様なので、どこでも通ることができることを知らなければなりません。若奥様の目の中にも入っていき、どこにでも行けないところがないのです。すべてに通じるのです。それでは、神様はどこに住んでいるのでしょうか。神様のお住みになっている家は、私たちの心の真ん中です。男性の心には神様の男性的心情がとどまり、女性の心には女性的心情が入って暮らすというのです。
(128-325、1983.10.2)

 

今日、多くのキリスト教信者たちは、神様は、唯一無二の方であり、絶対的な方であり、創造主であり、神性自体として至高の場にいらっしゃるので、人間、すなわち被造物と創造主は関係を結ぶことができないと思っています。被造物は俗なるものであり、創造主は絶対的で神聖な方だと思っています。しかし、愛の概念を中心として見るとき、いくら至高、至善であられる神様でも、いくら低俗な被造物だとしても、愛の関係を結ぶためには、人格的な内容が同じでなければなりません。心情的内容が同じでなければなりません。すなわち、人格を備えた人と性稟が同じでなければならないというのです。
(138-247、1986.1.24)

 

私たちがいるこの宇宙は、神秘に包まれています。その大きさが210億光年にもなる大宇宙です。・・・・・・最高の宝物である神様をどこにお迎えするのかを自問するとき、「私たちの心しかない」という結論が自動的に出てくるはずです。私たちの心より安全で、安らかにお迎えできる所はないというのです。神様の対象の位置に立ち、球形運動をしながら永続できるのが心なので、人間は永生できるというのです。
(447-155~156、2004.5.1)

 

巨大な神様ですが、人間は小宇宙なので、私が神様の中に入っていくことによって、その巨大な神様が私の中に入ってきたことを感じるのです。そのような感覚を受けてこそ、神様の中に私がいて、私の中に神様がいらっしゃると言うことができます。それで、イエス様もそのような話をされたのです。無限に大きい神様ですが、人間がその中に入っていってこそ、神様もさようされます。
(31-210、1970.5.31)

 

摂理的な恵沢によって、生きていらっしゃる神様が、私たちの至近距離にいらっしゃいます。これからは、人類がかつて経験したことのない霊的な経験、すなわち超越の世界とたくさんの交流をするようになるでしょう。頻繫に起きる霊的役事によって、人類は直接、間接に大きな影響を受けるようになるのです。特に、神様と善霊の役事による感化を経験した人間は、神様を中心として霊性の啓発とともに、決定的な人格変化を起こすようになるでしょう。このように、天道にふさわしい人格に変わった人が、正に神様が願われた真の人です。
(404-323~324、2003.2.6)

 

お父様は、遠い相対の世界にいらっしゃるのではありませんでした。私たちの心の中にいらっしゃり、私たちの体を囲んでいらっしゃいました。私たちの周囲に空気があっても、あるのかないのか分からないように、お父様は、私たちの生涯全体を覆っていらっしゃいますが、気づくことができなかったことを私たちは悟らなければなりません。
私たちを包み込んでいるその力を受けるとき、無限の力がそこに動じるのであり、その力を吸収するとき、永遠の力によって私たちに新しい衝撃と新しい刺激を下さることを知っております。
(27-41~42、1969.11.23)

 

8.不変と永遠

不変と永遠、すべての宗教で絶対者はこの属性をもつものとして描写される。これとは異なり、世界に属するすべての生物と事物、そして現象ははかなく無常であり、相対的である。このような観点から、それらは絶対者と相互関係をもつことができない。人間は二つの類型の性向をもつ。私たちは不変の要素を価値のあるものとみなしているが、同時に私たちを信頼できないようにさせる可変的要素ももっている。したがって、堅固で変わらない信仰の所有者になることは、絶対者と関係を確立するにおいて核心的な要因である。
この点に関する文鮮明先生の教えは、上にて言及した不変、絶対、永遠の属性をもつ真の愛に焦点を置く。文鮮明先生は、神様にも被造物と真の愛の関係を結ぶためのこのような属性が存在すると説明する。さらに、神様が一貫性なく気まぐれな人間と関係を結ぶとき、人間に対する神様の愛の渇望は、常にその不変性を試験される。

 

―宗教経典―

 

かれは最初の方で、また最後の方で、外に現われる方でありまた内在なされる方である。かれは凡ての事物を熟知なされる。
クルアーン57.3(イスラーム)92

 

わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。
ヨハネの黙示録22.13(キリスト教)93

 

イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。
ヘブライ人への手紙13.8(キリスト教)94

 

仏性は勇猛にしてすべきこと難し。
大般涅槃経220(仏教)95

 

ブラフマンは、この偉大な、不生の、不老不死で、畏怖がなく、死ぬことのないアートマンである。
ブリハット・アーラニヤカ・ウパニシャッド4.4.25(ヒンドゥー教)96

 

モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「わたしはあるという者だ」と言われ、・・・・・・。(注18)
出エジプト記3.13~14(キリスト教)97

 

スブーテイよ、実に、もしも誰かが「如来は去り、あるいは来り、あるいは住し、あるいは座り、あるいは床に臥す」と、このように説くとすると、その人は、スブーテイよ、如来と言われるものは、どこへも去らないし、どこからも来ないからである。それだからこそ、《如来であり、尊敬さるべき人であり、正しく目ざめた人である》と言われるのだ。(注19)
金剛般若心経29(仏教)98

 

主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。
ペトロの手紙3.8(キリスト教)9

 

梵天の昼は一千世期で終わり、夜は一千世期で終わる。
それを知る人々は、昼夜を知る人々である。
昼が来る時、非顕現のもの(根本原質)から、すべての顕現(個物)が生ずる。夜が来る時、それらはまさにその非顕現と呼ばれるものの中に帰滅する。
この万物の群は繰り返し生成し、夜が来ると否応なしに帰滅する。昼が来ると再び生ずる。(注20)しかし、その非顕現のものよりも高い、別の永遠なる非顕現の存在がある。
万物が滅びる時も、それは滅亡しない。
その非顕現の存在は、不滅と言われる。最高の帰趨と言われる。人々はそれに達すれば、回帰することはない。それは私の最高の住処(様態)である。
バガヴァッド・ギーター8.17~21(ヒンドゥー教)100

 

地にあるよろずのものは消滅する。
だが永遠にかわらぬものは、尊厳と栄誉に満ちたなんじの主の慈顔である。
クルアーン55.26~27(イスラーム)101

 

以前にも以後にも創造主がいたがゆえに、永遠のその方に対して何が実有たり得ようか。また、その方以外に何が永遠なのか。
アーディ・グラント、ジャプジー1、M.1、p1(シク教)102

 

肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
イザヤ書40.6~8(キリスト教)103

 

いとも麗しき国王の車も朽ちてしまう。身体もまた老いに近つく。しかし善い立派な人々の徳は老いることがない。善い立派な人々は互いのことわりを説き聞かせる。
法句経151(仏教)104

 

それでは、どのように説いて聞かせるのであろうか。
説いて聞かせないようにすればよいのだ。
それだからこそ、《説いて聞かせる》と言われるのだ。
現象界というものは、星や、眼の翳、燈し火や、まぼろしや、露や、水泡や、夢や、電光や、雲のよう、そのようなものと、見るがよい。(注21)
金剛般若経32(仏教)106

 

僧侶たちよ。まだ生まれぬもの、まだならぬもの、まだ作られぬもの、まだ合成されぬものがある。僧侶たちよ。もし、これがまだ生まれぬものでなく、まだならぬものでなく、まだつくられぬものでなく、まだ合成されぬものでなかったならば、ここには、生まれること、なること、つくられること、合成されることからの逃避はないことになろう。しかし、まだうまれぬもの、まだならぬもの、まだつくられぬもの、まだごうせいされぬものがあるゆえに、うまれること、なること、つくられること、合成されることからの逃避がある。(注22)
感興偈80(仏教)106

 

―み言選集―

神様は永遠であられます。過去にも、現在にも、未来にも、いつでも永遠であられます。ところが、神様がいくら永遠であられるとしても、その位置から下りたり、世の中と天地に損害を与えるなら、そのような神様は、私たち人間が願う永遠の存在にはなれません。過去、現在、未来を通して永遠であられる神様は、私たち人類、あるいは被造世界に必要で、適切で、価値ある内容をいつでも補給してくれる立場で、永遠であられるのです。ですから、神様は、過去にも必要であり、現在にも必要であり、未来にも必要だということを知らなければなりません。もしそのような内容が私たちになければ、永遠の神様は私たちと何の関係もないのです。また、私たちが神様を仰ぎ、神様に属することを願い、神様と共に関係を結ぼうということ自体が矛盾にならざるを得ないのです。
(22-317、1969.5.11)

 

永遠を時間で捕捉することはできません。永遠の中に時間があるのです。
(41-288、1971.2.17)

 

神様は絶対的であり、永遠の生命の中心であり、神様の理想はもっと永遠なものであり、その理想の中心が正に真の愛の理想です。その愛の相対が私です。                      (216-115、1991.3.9)

 

愛するようになるとき、永遠、唯一、不変の責任をもつのです。神様がそうでなければ、私たちが神様をどうして信じますか。神様は、私たちのように変わりません。それでは、神様が、人と関係を結ぶためのものが何ですか。真の愛しかありません。真の愛の主体がそうなのに、真の愛の相対が毎日のように変われば、どうして信じて向き合えるでしょうか。
(124-97、1983.1.30)

 

永生というものは、本質的な愛の属性です。神様も宇宙を創造されるとき、自ら絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を立ててなされたのです。愛は永遠無窮であるように、もっと大きく投入できる心をもって生きる方が神様なので、神様を絶対・唯一・不変・永遠の主人として侍ることができない存在、相対的理念をもった存在はないということを知らなければなりません。
(330-262、2008.8.18)

 

神様は、どれほど年を取っているでしょうか。何億万年の間待ち、しかたなく年を取りました。そのおじいさんが、男性であれば、ひげがつま先まで伸びるでしょう。大きければ、世界の誰よりも大きいでしょう。何がそのようにするのかというのです。愛しかありません。
(111-77、1981.1.25)

 

人間の一日一日の生活が瞬間的な生命の価値を備えているとすれば、永遠と関係を結ぶことができないというのです。ですから、永遠無窮であられる神様の愛と関係を結ぶ生活をしなければなりません。そのようにするときに、永遠であられる神様が人間と共にいらっしゃるのです。
(2-13、1957.1.6)

 

神様は一度決めれば、億千万年が過ぎても変わらずに行わざるを得ない方です。しかし、皆さんの心を見れば、一日に何度も変わります。朝には「このようにしなければならない」と決心しても、夜になると「ああ、違う」と思うのです。皆さんが修練を受けるとき、み言を聞くとき、「そのようにしなければならない」と決心しますが、帰って何日もせずにすべて流れてしまいます。
皆さんが今、何かの決心をしたとしても、その決心を何年持ち続ける自信がありますか。神様は一度決心すれば、それを何千年でも、永遠に大切に保てる方です。行きながらあちこちふらふらするにではありません。皆さんが、今は「私はみ旨のために行く」と思っていますが、今年の末、あるいは3年後、あるいは10年、20年、一生、そのように行けますか。その基準が下降しやすいのです。また、「私がよければ行くが、悪ければ行けない」、このようになるのです。
真というものは、私が死んでも生きても真なのです。それは死の上にいることができるものであり、変わらない不変の立場に立っています。ですから、そのような私、死の上のあるそれを所有できる私になるためには、死を克服しなければならず、変わらない真を模索変しなければなりません。言い換えれば、変わるものと変わらないものは明確に違うのです。その二つがぶつかれば、変わるものは壊れていきますが、変わらないものはそっくりそのまま残ります。死と生がぶつかるのです。そのとき、死を克服し、生が残らなければなりません。そのような過程を超えてこそ、神様と関係を結ぶというのは、定められた道理です。
(66-43~44、19733.18)

 

神様は、御自身が唯一の神様であり、絶対的な神様だということを標準としてきたので、「あなたは本当にそうですか。一度テストしてみましょう」と、神様が世界的、歴史的なテストを受けているというのです。また、サタンもテストします。変わらない神様をサタンが変わらせると大騒ぎします。それでも神様はびくともしません。変わりません。そこで動揺すれば、変わらない神様ではありません。ですから泰然としています。したがって、絶対的な神様がなぜサタンに讒訴されるのかを考えてみれば、「変わらない神様なので、変わるサタンに対して変わらない位置をもつためにそのようにしているのだな。それが神様の位置なのだなあ」と思わざるを得ません。そのように見るとき、サタンの人格は変わる人格であり、唯一でない性格であり、絶対的でない性格をもっています。神様とはすべて反対です。それでは、人間を中心として見てみるとき、変わる心と変わらない心があれば、どちらがより神様と近いでしょうか。変わらない心が神様とより近いのです。絶対的だ、相対的だということを見てみるとき、皆さんは絶対的なものを好みます。それは神様の性格がそうだからです。似てこそ神様の相対になるので、そうだというのです。
また、神様は誰のために永遠だというのですか。永遠という概念は、誰を中心として語る言葉ですか。唯一という概念は、誰を中心として語る言葉であり、不変という言葉は、誰を中心として語ることばでしょうか。神様御自身を中心として語る言葉ですか、あるいは相対を中心として語る言葉ですか。これを知らなければなりません。自分を中心として語ったのでしょうか、相対的な概念をもってそのような性格を立てたのでしょうか。その概念は、自分を中心設定したものだというのが理論的です。
このように見るとき、世の中の人たちがいくら変わったとしても、神様はじっとしていていなければならないという結論が出てくるのです。それで、悪なる世界の人たちが悪口を言っても黙っていて、足でけ飛ばしても黙っていなければならないことを知らなければなりません。
今、私たち人間が真の愛の道を訪ねていこうとすれば、どのようにしなければならないでしょうか。私たち人間も、絶対、唯一、不変、永遠のものを願わなければなりません。自分独りでは、絶対的なものは必要ないのです。自分独りでは、唯一なものや、変わらないものや、永遠のものはすべて必要ないというのです。それは相対という概念を置いて始まったという事実を知らなければなりません。神様もそうだったのであり、人間もそうなので、神様と人間の間に主体と対象の関係が設定されて、愛することができるのです。その愛は永遠の愛だ、このようになるのです。それが真の愛だ、このようになるのです。
(123-330~332、1983.1.9)

 

お父様!人間がもっているあらゆる主義や主張と、人間がもっている権利は、すべてなくなってしまうという事実を知っております。ゆえに、私たちの心と体が永遠に存在できる根本の立場に入っていき、新たに爆発して来る力と復活の目を、私たちの心に備えることができるようにしてくださり、自分を中心とする生活を捨て、天宙を中心とする生活に戻してくださることを、懇切にお願い申し上げます。(4-65、1958.3.9)

 

9.最初の原因

あらゆる存在の最初の原因は、太初に世界を創造されただけでなく、創世以来、世界を自らの力で作動するように堅持する。神様は、世界を維持し、作動させ、たえずあらゆる実体を存在するようにする。さらに、究極的原因者である神様は、万物の存在目的と自然的本性を規定する。これと関連し、文鮮明先生は、人間の原因者である神様が自分と似た人間を創造した人格的神だと教える。
いかなるものも、神様が規定した存在目的を離れて存在することはできず、あらゆるものは、神様の見えない手によってその目的に向かって動く。これはまた、神様が歴史の原因であることを意味する。文鮮明先生は、歴史が神様の目的、すなわち一定の法則によって主導される神様の摂理によって進行し、明らかな目的を指向すると教える。世界がその摂理の目的を達成するとき、原因者である神様と結果物である人類は一つになるだろう。

 

①すべての存在の原因者

―宗教経典―

 

また、万物の種子、それは私である。アルジュナよ。動不動のもので、私なしで存在するようなものはない。いかなるものでも権威があり、栄光あり、精力あるもの、それを私の威光(光輝)の一部から生じたと理解せよ。
バガヴァッド・ギーター10.39、41(ヒンドゥー教)107

 

わたしたちにとっては、唯一の神、父である神が、おられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。
コリント信徒への手紙―8.6(キリスト教)108

 

愛情深い賢者は、その中に宇宙が一つの家庭をもつようになるあの神存在を望む。全体はその中で一つになり、そこから出てくる。主は被造物たちの基本的要素である。
白ヤジュル・ヴェーダ32.8(ヒンドゥー教)109

 

 

かれこそは原始の創造をなされ、またそれを繰り返したもう方であられる。かれは、寛容者・博愛者、栄光に満ちた、至高の玉座の主であられ、かれのお望みのことを、遂行したもう。
クルアーン85.13~16(イスラーム)110

 

絶えず彼が贈り物を分けてくれるのだから、
ついにこれを受けた者は、
これ以上何を求め、
何を受けるというのか。
森羅万象が彼から糧を受けるのだから、
彼は至って厳かな主宰者。
彼の命により全宇宙が運行する。
ナナク曰く、彼は永遠の至福であり、
永遠に満ち足りている。
アーディ・グラント、ジャプジー3、M.1、p.2(シク教)111

 

神が手を収めれば、世の中は終わるだろう。
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)112

 

―み言選集―

身体の目、耳、鼻、口などはみな、生まれる前にこの世にあるすべてのことを知って生まれたのである。しかし、人間自身がすべてを知り得ようか。それらすべてを知った存在は、人間以上の全知なる存在であらざるを得ない。その存在が神様である。
御旨の道、指導者

 

神様は、この宇宙の原因的な存在です。このようなすべての作用の原因的な存在であり、このような力を注ぎ込む原因的な存在であり、方向を提示する原因的な存在であり、目的を提示する原因的な存在です。このような存在がいるということは、不可避の結論なのです。私たちはその方を人格的な神様であると言うのです。人格的な神様です。それはなぜかというと、必ず動機を中心として方向を定め、目的を提示するからです。それが一つの確実な立場なので、人格的な神様であると言うのです。ですから原因を通して方向を経て、目的の世界に出て行くのです。
(89-75、1976.7.11)

 

神様が人間を造ったのですが、神様は第一原因的存在です。その神様が人間をどのように造ったのでしょうか。神様に似せて造ったのです。造るときに神様の形状をかたどり、その形状どおりに造りました。それはどういうことかというと、私が神様に似ていると同時に、神様も同様だということです。私が父に似ていると同時に、父は誰に似たのでしょうか。私に似たというのです。それで答えになります。ですから、神様を私たちが模索して見てみるとき、神様はどのような方でしょうか。「私のような方だ」と言えば、(頭に)すっと入ってくるのです。
(127-233、1983.5.15)

 

この地のすべてのものが存在するためには、存在できる原因がなければなりません。今日、私たちが生きている社会、私たちが過ごしているこの国、私たちが見つめるこの世界も結果の位置にいるのです。このようなすべての環境の因縁が備えられるためには、その環境が備えられ得る動機がなければならないことを、私たちは否定できません。
また、一つの社会形成、一つの国家形成、一つの世界形成について見てみるとき、それを受け継いでくるのは、もちろん私たち人間です。しかし、人間が形成され得る根本原因には、人間自体がなることはあできません。人間は、どこまでも結果的存在の立場を避けられません。それゆえに、私たち人間が形成され得る動機と内容がなければならず、原因が必ずなければなりません。
個々の人間には無限の希望があり、無限の欲望があり、無限の理想があります。結果である私たち人間がこのような存在になるためには、まずそのようになれる原因がなければなりません。その原因が正に私たちが言う神様だというのです。
神様は人格的な神なので、人間の全体的な動機であり原因です。その原因である神様がそのような内容を備えていらっしゃるので、結果である人間もそのような内容を備えざるを得ないのです。したがって、原因である神様と結果的な人間が、互いに切っても切れない一つの帰結点が、人間世界を中心として現れなければなりません。これが人間を尋ね求めてきた神様の希望なのです。
(28-282~283、1970.2.11)

 

②歴史の背後の原因者

―宗教経典―

 

思い起せ、初めからのことを。わたしは神、ほかにはない。わたしは神であり、わたしのような者はいない。わたしは初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り、わたしは望むことをすべて実行する。東から猛禽を呼び出し、遠い国からわたしの計画に従う者を呼ぶ。わたしは語ったことを必ず実現させ/形づくったことを必ず完成させる。
イザヤ書46.9~11(キリスト教)113

 

その日われは、書いた書き物を巻くように諸天を巻き上げる。われが最初創造し始めたように、ふたたび繰り返す。これはわれの定めた約束である。われは必ずそれを完遂する。
われはモーゼに訓戒を与えた後、詩編の中に、「まことにこの大地は、わしの正しいしもべが継ぐであろう」と、しるした。
クルアーン21.104~105(イスラーム)114

 

私が証しするが、あなたがあらゆる被造物の主になり、見えるもの、見えないもののすべての存在の教育者であられます。私が証するが、あなたの能力が宇宙全体を網羅し、地の群れが決してあなたを失望させることはできず、万民と国の主権が、あなたがあなたの目的を成し遂げるにおいて妨害になり得ません。私は、あなたが全世界の刷新と全世界の民の統一、そしてそこに暮らすあらゆる人の救い以外に他の欲望をもっていないことを認めます。
バハオラ 落穂集115(バハイ教)115

 

―み言選集―

 

世界のあらゆる宗教は、宇宙の根本原因を創造主、あるいは神様という方を第一原因として認めるところから出発します。そのような神様がいらっしゃるなら、その神様は善であられ、永遠、不変であられ、唯一であられ、絶対的な方でなければなりません。神様がこの世の中をつくられたのなら、そこには必ず創造目的が先行したでしょう。そして、その創造目的もやはり永遠、不変、唯一、絶対的でなければなりません。
(100-241、1978.10.19)

 

人間自体を論じるとき、人間はどこまでも結果的な存在であって、根源的な存在ではありません。私は第一原因的存在だと主張する人は、一人もいません。原因は分かりませんが、結果的な存在として生まれました。人とは何かという問題を考えるとき、結果的に生まれた人には、人になれるようになった動機があることは間違いないので、第一原因的存在として提示するその誰かがいなければなりません。ですから、神様に対する問題について、私に対するはっきりした答え、神様に対するはっきりした答えを下すことができなければなりません。そのような基盤の上においてのみ、私個人の人生観が設定され、家庭がどのように生きていき、社会がどのように生きていき、国家がどのように生きていき、世界がどのようになるのか、これからこの世界の終末がどのようになるのかの方向を設定できるのです。それは私だけの方向ではありません。
(141-62、1986.2.1)

 

流れてゆく歴史の中のすべてのことが、あなたの摂理と関係なくなされることはございません
(140-62、1986.2.1)

 

歴史の方向は悪に向かっていくように思われますが、そうではありません。人間が自分の心を中心として体を抑制し、新しい覚悟と新しい決心で進むべき方向を選ぶように、歴史も、歴史自体で指向するのではありません。ある一時と時期、世紀を、歴史の背後にいらっしゃる神様が干渉し、支配する過程を経てきているという事実を知らなければなりません。
(4-191、1958.4.20)

 

神様は、永遠の存在でいらっしゃるので、過去、現在、未来を通して摂理してこられます。ですから、神様の歴史的な心情の曲折は時代を通じ、時代的な曲折は未来を通して連結されるのです。
(16-253、1966.6.19)

 

10.神様の善

あらゆる宗教の経典は、神様の善を賛美する。その中の大部分は、人格的な用語で絶対者の善を描写する。神様は、慈悲深く、愛が深く、美しく、恩恵に満ち、同情心に厚く、信実である。ところで、絶対的善の基準は(人間の)日常的な善の基準を超越する。偏頗的でなく、普遍的で、すべてのものを抱く神様の善は(人間の)善悪に関係なく、あらゆる人々に及ぶ。それゆえ、神様の善は、あらゆる所を等しく照らす太陽と、どこにでも降る雨の有り難さに比喩される。創造の多様性と豊富さは、神様の善に対するまた一つの証である。善の真ん中にとどまることを願いながら、善の神様は自然や人間の心の中、すべてのものに善を広げられる。

 

①人間には対する神様の善

―宗教経典―

 

主は恵みに富、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに満ちておられます。主はすべてのものに恵みを与え/造られたすべてのものを憐れんでくださいます。
詩編145.8~9(キリスト教)116

 

神は親切であり、親切な者を愛する。
神は清く、清い者を愛する。
神は寛大であり、寛大な者を愛する。
ハディース914.2(イスラーム)117

 

このヴィシュヌは、この大地を跨ぎ超えたり、[人間の]領土となさんがため、人間を満足せしめつつ。彼の人民は、微力の者[すら]、安固たり。よき出生をもたらす彼は、広き住所を作れり。
リグ・ヴェーダ7.100.4(ヒンドゥー教)118

 

かれは、わたしをつくられた方で、わたしを導きたまい、わたしに食料をし、また飲料を授けたもう方、また病のとき、かれは、わたしをいやしたもう。わたしを死なせ、それからふたたび生かしたもう方、審判の日には、わたしの罪過を許したもうよう、こい願う方であられる。
クルアーン26.78~82(イスラーム)119

 

常に彼は創造万物を大切に思われ、あらゆるものの繫栄を図る。
主よ!あなたの恩寵は実に尊く、あなたの寛大さは果てしない。
アーディ・グラント、キールタン・ソーヒラー
M.1、p.12(シク教)120

 

われは、かれに道を示した、かれが感謝するか忘恩であるかは(はかれの意志いかんによる)。
クルアーン76.3(イスラーム)121

 

自然の道にえこひいきはない。それはつねに善人の側につく。(注23)
道徳経79(道教)123

 

「道」はあらゆるものの底に隠されている。
立派な人はそれを尊重し、
価値なき人はそれによって護られるものである。
道徳経62(道教)123

 

あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
マタイによる福音書5.45(キリスト教)124

 

私は、肉体的存在ではない。
宇宙的慈悲が私の聖なる体である。

私の力は、肉体にあるのではなく公正さにある。
私には知恵が与えるもの以上の
いかなる宗教的透視力もない。
私には平穏な幸福感の成就以上の
奇跡はない。

私には寛容の実践以外に
そのいかなる法則もない。
住吉神社の神託(神道)125

 

神もまた、それが善い者である以上は、けっして多くの人たちが語っているように、あらゆるものの原因なのではなく、人間にとってわずかな事柄の原因ではあるが、多くの事柄については責任がない(原因ではない)ということになる。
プラトン国家2(ヘレニズム)126

 

―み言選集―

 

神様は、喜怒哀楽の父と母を身代わりする方になれます。私が悲しむとき、慰労の場を用意してくれ、私が困難なとき、私を保護してくれる主人の位置に立っている方です。神様は愛を中心として見るとき、歴史以来、お一人しかいない絶対的な父母なのです。真の愛を中心として、絶対的な父母の位置に立っている方が神様です。
(203-228、1990.6.26)

 

神様がいくら永遠でられるとしても、その位置から下りたり、世の中と天地に損害を与えるなら、そのような神様は、私たち人間が願う永遠の存在になれません。過去、現在、未来を通して永遠であられる神様は、私たち人類、あるいは被造世界に必要で、適切で価値ある内容をいつでも補給してくれる立場で永遠であられるのです。ですから、神様は、過去にも必要だったのであり、現在にも必要だということを知らなければなりません。もしそのような内容が私たちになければ、永遠の神様は私たちと何の関係もないのです。
(22-317、1969.5.11)

 

神様の創造目的は喜びです。喜びを享受しようと人間と世の中を造られました。ところが、その喜びは、ひとりで感じることはできません。喜びを享受しようとすれば、必ず対象、あるいは相対が必要です。主体と対象が互いに相対基準を成して授け受けするとき、初めて喜びを感じられるのです。そして、最高の喜びは、愛を授け受けするときに感じることができます。それで神様は、私たち人間を対象として造られ、その対象と共に無限の愛を授け受けされながら、永遠に喜びを享受しようとされたのです。それがすなわち創造目的だったのです。
(100-241、1978.10.19)

 

私たち個人はもちろん、地上に暮らしている数多くの人間たちの中に、善であることを願わない人はいないことを、私たちはよく知っています。今まで歴史の方向も、善を指向してきたのであり、教育者たちや信仰者たちも、善の基準を立てるために努力し、闘ってきたことをよく知っています。ですから、生まれるのも善のために生まれなければならず、生きるのも善のために生きなければならず、死ぬのも善のために死ななければならないのが人生の目的です。人生の目的だけでなく、人間生活をつづってきた歴史の目的だということを、私たちは否定できません。
(24-13、1969.6.22)

 

堕落した私たち人間は、どのように再び善であられる神様のところに行くことができるのでしょうか。まず良心を通して、本体の善に似ていかなければなりません。次には、神様のみ言に従って行動し、神様の本体の善と、み言の価値を現さなければなりません。そのようになるとき、神様は被造万物をつくられた善の理想である喜びを取り戻されるのであり、善の目的を指向してきた人間たちも、神様の善の価値を感じる善の実体になるのです。
(2-321、1957.7.21)

 

天の国の理想的人間は、どのような人間でしょうか。その門からどろぼうが入っていっても、誰が入っていっても、好きなように通ることができる人でなければなりません。神様は、そのようにしていらっしゃいます。世界のありとあらゆる殺人強盗でも、その門を出たり入ったりするのをほうっておくのです。どろぼうが暮らしていても、神様の所有、神様の版図圏内いるということです。それは自分の所願圏内にいるのです。物品をもっていっても、それは自分の所有圏内で移動しているものと考えるのです。これを見るとき、天国に壁があり、鍵をかけるでしょうか。そうではありません。
(224-328~329、1991.12.29)

 

②被造物に顕示された神様の善

―宗教経典―

 

かれは層また層に、七天をつくりたまえる方である。仁慈者の創造には、いささかの不調和もないことを見るであろう。それで改めて観察せよ。なんじは、何か欠陥を見るか。それでいま一度、目をあげて見よ、なんじの視力は、ぼんやり疲れはてて、己れに返るであろう。
クルアーン67.3~4(イスラーム)127

 

神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。                 創世記1.31(キリスト教)128

 

世界は庭園、
主はこれを育てる庭師、
すべてを大切にし、そこつがない。
アーディ・グラント、マージュ、アシュタパディーM.3、p.118(シク教)129

 

稔りゆたか 黍もいねも
高く積みあげし米倉
萬 十萬 さらに千萬
酒に作り 甘酒に作り
み祖にすすめまつる
お祭りの限りをつくし
神のみ恵 あまねし
詩経、279豊年(儒教)130

 

かれこそは、なんじらのために天から雨を降らす方で、それによってなんじらは飲み、木は成長し、それによって牧畜する。
かれはそれでなんじらのために、穀類・オリーブ・ナツメヤシ・ブドウその他各種の果物を生産したもう。まことにこの中には、思慮深い者への種々のしるしがある。
かれは夜と昼、日と月をなんじらのために奉仕させたもう。群星もかれの命令に服従している。まことにこの中には、理解ある者への種々のしるしがあり、またかれがなんじらのために、地上に繁殖されるよろずの物を、多様の色彩と性質になしたもう。まことにその中には、感謝して訓戒を受け入れる者への一つのしるしがある。
かれこそは、海洋を人間に使役させたもう方で、それによってなんじらは鮮魚を食べ、また服飾に用いられるものをそれからとり、またかれの恵みを求めるために、なんじらはその中に波を切って進む船を見る、おそらくなんじらは感謝するであろう。・・・・・・
なんじらは、たとえ神の恩恵を数えても、到底数え尽くすことはできない。まことに神は、寛容者・慈善者であられる。
クルアーン16.10~18(イスラーム)131

 

大いなる「道」はすべて普及する。
そして、あちらへ、こちらへと行く。
万物はそこにとどまり、、成長する。
そして、それから閉め出されるものは何もない。
仕事を完成しても功績を求めない。
万物を養っても支配することはない。
意図をもたないから小さなものと呼ばれ、万物がそれに向かっていても、それらを所有しないから、
大いなるものと呼ばれる。
だから、賢人は偉大になろうとしない。
ここから、その偉大さが達成されるのである。
道徳教34(道教)132

 

無始以来、存在してきた悟りと涅槃の清浄な統一の根本原因は、統合する慈悲の原理、清浄さ、調和、相似、律動、永遠さ、そして平和の統一の原理である。それ自身の本性、光輝の中にあるこの原理を吸収することで、その統一の精神はあらゆる多様な条件の中で発見され、進展し、また実現される。
首りょう厳経(仏教)133

 

それでは、生成する事物すべてとこの宇宙万有との構築者が、いったいどのような原因によって、これを構築したのかということを話しましょう。構築者はすぐれた善きものでした。ところが、およそ善きものには、何事についても、どんな場合にも、物惜しみする嫉妬心は少しも起こらないものです。そこで、このような嫉妬心とは無縁でしたから、構築者は、すべてのものができるだけ、構築者自身によく似たものになることを望んだのでした。まさにこれこそ、生成界と宇宙との最も決定的な始めだとすることを、賢者たちから受け入れるなら、それが一番正当な受け入れ方でしょう。すなわち、神は、すべてが善きものであることを、そして、できるだけ、劣悪なものは一つもないことを望み、こうして、可視的なもののすべてを受け取ったのですが、それはじっとしてはいないで、調子外れに無秩序に動いていましたから、それを、その無秩序な状態から秩序へと導きました。それは、秩序のほうが無秩序よりも、あらゆる点でより善いと考えたからです。ところで、最も善きものには、最も立派なこと以外に他のことをするのが許されないのは、かつてもいまも変わりのないことです。だから神は、推理の結果、次のようなことを発見しました。―すなわち、本性上可視的であるような事物のうち、どんなものも、それぞれ全体として考えられる場合には、理性なきもののほうが理性あるものよりも、すぐれて立派なものとなることはないだろう。ところがまた、理性は魂を離れては、何ものにも宿ることはできない―ということです。そこでこの推理の故に、神は、理性を魂のうちに結びつけて、この万有の造作をまとめ上げましたが、それは、本性上最も立派で最も善き作品を完成したことになるように、ということだったのです。さて、このようにして、かのありそうな言論に従えば、こう言わなくてはなりません。この宇宙は、神の先々への配慮によって、信実、魂を備え理性を備えた生きものとして生まれたのである、と。
プラトン ティマイオス(ヘレニズム)134

 

―み言選集―

 

神様が誰かといえば、真の愛を中心として根だというのです。根は、トランク(注:幹)を通して芽と通じるのです。そして、枝は東西南北に伸びます。東西南北に伸びれば伸びるほど、芽も育ち、幹も育ち、根も育つのです。それで、神様は、私たち人間世界に、真の愛を中心とした縦的なお父様だということを発見できます。縦的な真の愛を中心とした父が創造主であられるのです。
(203-352、1990.6.28)

 

すべての存在は、小さなものは大きなもののために、大きなものはもっと大きなもののために生きるようになっています。このように見るとき、弱肉強食という言葉は、チャールズ・ダーウィンが、「種の起源」で語ったそのような話ではありません。本来、そのようになっているのです。宇宙を造った主人が人のために造ったので、人は何を食べても罪ではないのです。
(217-204、1991.6.1)

 

神様は、知恵の王であられ、全能のお方なので人類世界の真の愛と真の幸福と真の平和と真の理想を、主体と対象関係の中で、主体を中心とした方向にその起源を決定するか、そうでなければ、客体を中心とした立場にその起源を定めるか、どちらかにしなければなりません。神様が、その永遠の理想世界を望まれながら、それを決定しなければならないというのです。
もし神様を中心として主体だけのために生きるものになれば、また、そのような伝統的な基準を人間がつくりあげたとしても、そして、すべてのものが自分を中心として奉仕しなければならないとそれば、そこでは大変なことになるのです。そのような所では、一つであるとか、統一という問題、あるいは融合や発展という原則を充足させられません。
ですから、主体を中心に客体が侍るのではなく、神様御自身において、客体を中心にして神様自体が存在するという立場をとらざるを得ないという事実を、私たちは理解するようになるのです。そのようになれば、すべてのものが一つになります。すべてのものが発展の原則に従うようになるので、全知全能であられる神様は、この平和と幸福、理想と愛の本源の基準を、「ために存在する」というところに定めざるを得なかったというのです。
(72-14、1974.5.7)

 

11.神聖な愛と慈悲

神様の属性の中で、愛は最も魅力的で、感服せざるを得ない属性である。大部分の人たちは、神様の愛と慰労と恩寵を感じる神秘な経験を契機として神様を信じる。さらには、心の真ん中に疑心をもっていても、神様の愛は心を動かし、信仰が生じるようにする。創造者の愛によって、この被造世界は生命を維持し、保護される慈悲に満ちた世界になる。善の創造は、実に善の愛の表現である。
愛は神様の本質である。いや、愛は神様の本質それ以上である。文鮮明先生の教えのように、愛は神様の創造の動機それ自体である。それこそが神様の「創造理由」である。愛はまた、神様が数多くの苦難の道を通して救援摂理歴史を追求してきた理由でもある。愛は、はるか前に道を失い、聖霊の慈悲深い呼びかけに耳がふさがった私たち、無知な人間たちに対して忍耐し、赦す神様を教えてくれる。耳が遠く、目の見えない私たちであるにもかかわらず、神様は、私たちを懐に抱いて前に進むように導く摂理を決してやめない。

 

①愛:神様の本質

―宗教経典―

 

神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
ヨハネの手紙―4.16(キリスト教)135

 

われの慈悲は、よろずのものを包容する。
クルアーン7.156(イスラーム)136

 

信愛により彼は真に私をしる。私がいかに広大であるか、私が何者であるかを。
バガヴァッド・ギーター18.55(ヒンドゥー教)137

 

大悲は菩薩の生処である。
華厳経、入法界品(仏教)138

 

主よ!あなたは懇請の有無と無関係な救世者であり、理由なく慈悲を施す方であり、祈りがないときも喜んで聞いてくださる方であり、関係がないときも温かい友であられます。
ヴィータラーガ・ス  13.1(ジャイナ教)139

 

露にして、しかも幽れ、玄洞(心臓)の内に逍遥するものと称ばれる所の偉大なる天地の基底、その内にぞ、ありとあらゆる蠢くもの、息づくもの、瞬くものは収められてあるなれ。汝等がこの有体にして無体なる善美なるもの、智慧才覚を超えたる、生類中の最勝のものとして知れるもの、光輝あるもの、微なるよりも微なるもの、諸々の世界(果報)と世界を得し輩とがその根基とせるもの、これぞこの不滅なるものなり、梵なり、生気なり、はた語なり、意なり。これこそこの真実なるもの、不死なるもの、射抜くべきものなれ。友よ、これを射抜けよ。
ムンダカ・ウパニシャッド2.2.1~2(ヒンドゥー教)140

 

カーマは最初に生まれたり。神々は彼に達せざりき、父祖たちも、また人間も。これらより汝は常に偉大にして勝れたり。いかほど広く天地が[拡がるとも]、いかほど水が流るるとも、いかほど火が[燃ゆるとも]、これらより汝は常に偉大にして勝れたり。……吉祥にして幸運に富む汝の形態、カーマよ、それにより汝の選ぶところの実現する[形態]、それにより汝はわれらに入れ。禍々しき思想は他の所に送りやれ。
アタルヴァ・ヴェーダ9.2.19~25(ヒンドゥー教)141

 

善男子、慈は即ち大梵、大梵は即ち慈、慈は即ち如来なり。
善男子、慈とは能く一切衆生の為に父母と作る。父母は即ち慈、慈は即ち如来なり。
善男子、慈とは乃ち是不可思議諸仏の境界なり。不可思議諸仏の境界は即ち是慈なり。
當に知るべし、慈とは即ち是如来なり。
善男子、慈とは即ち是衆生の仏性なり。是の如きの仏性は久しく煩悩に覆弊せらる。
故に衆生をしてと見することを得ざらしむ。
仏性は即ち慈、慈は即ち如来なり。(注24)
大般涅槃経259(仏教)142

 

法(達磨)の雄牛は慈悲の所産であり、心の満足が創造を抱きかかえる。
これを知る者は誰もが悟りを得るがゆえに
雄牛の背に載せられた荷の重さは実に驚くべきものだ。                                    アーディ・グラント、ジャプジー16M.1、p.3(シク教)143

 

おお人の子よ!わが太古よりの存在と、わが本質の不変の永遠性に包まれて、われ汝への愛を知った。さればこそ、われ汝を創った。汝の上にわが面影を刻み、汝にわが美を表した。
バハオラ 隠されたる言葉3(バハイ教)144

 

―み言選集―

 

愛の主人は神様です。愛を宇宙化させて、愛を永遠化させるために神様がいらっしゃるのです。(298-304、1999.1.17)

 

神様はどのような方でしょうか。情緒的な問題を中心として見るとき、神様は愛の母体です。愛の母体なのです。ここから父母の愛がわき出てきたのであり、子女の愛がわき出てきたのであり、兄弟の愛がわき出てきたのであり、親族の愛、民族の愛がわき出てきました。愛の分岐というものは、根幹から伸びていく枝や葉のように、波が波打って出ていくのと同じように、遠い所に行けば行くほどだんだんと感度の差が出てくるのです。
(50-267、1971.11.08)

 

神様は、愛の神様です。パウロは「他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」と言いました。キリストも、神様の愛がなければ何でもありません。それで私たちは、神様の愛を何よりも好むのです。神様の愛は生命の源泉であり、幸福の源泉であり、平和の源泉です。霊的体験をしてみれば、これが分かります。
(24-325、1969.9.14)

 

心情というものはいったい何でしょうか。これは神様の完全な愛の根本を意味するのです。あらゆる創造はそこからわき出てきました。あらゆる理想もそこからわき出てきたのです。あらゆるものの完全な根本を意味するのです。あらゆる完全完成はそこからわき出てくるというのです。それを離れて完全と完成はあり得ません。
(82-292、1976.2.1)

 

神様は心情の主体であられます。ですから、神様も無限に喜びの心情をもっていらっしゃり、無限に悲しみの心情ももっていらっしゃいます。神様だからといって、喜んでうれしい感情ばかりもっていらっしゃるのではありません。悲しければ、人間たちが到達できないほど深く、広い悲しみの心情をもっていらっしゃる方です。
(11-89、1961.2.12)

 

神様はなぜ生まれたのかという時、それは愛のために生まれたというのです。愛の神様になるというのです。そして神様の愛になるのです。それゆえに、神様は愛のために生まれたという論理を知らなければなりません。
神様は、愛のために生まれたのです。愛のために生まれて生きる神様は、愛のために生きるのです。神様のために生きるのではありません。愛のために生きるのです。すべての万物も愛のために生まれたので、愛の世界には自分のために生きるという概念はないのです。
(303-287、1999.9.9)

 

神様は、知らないものがありません。知識の大王であられ、能力の大王であられ、全知全能であられるというのです。また、偏在されます。いらっしゃらない所がありません。この方が必要なものとは何ですか。ダイヤモンドですか。それはいつでもつくれます。黄金ですか。宝石ですか。神様が必要なものは愛です。神様が一人でいて「ああ、愛があってとてもいい」と言いますか。神様が必要なものとは何ですか。神様も人格的な神様ならば、口があるでしょう。鼻もあり、目もあり、耳もあり、手足もあり、心もあり、心情もあるでしょう。人格的な神様ならばです。
(142-31、1986.3.3)

 

愛の本体であられる神様は、愛のために人間を創造されました。愛は独りでは成立しないものです。したがって、神様が絶対に必要とした唯一のものは、愛を施せる対象、すなわち神様が愛し得る対象なのです。必ず相対がいてこそ愛せます。愛と心情の本体であられる神様は、愛が動機となって宇宙を創造されたのであり、特にこの期間に、創世記第1章27節のみ言どおり、神様に似た実体対象として人間を創造されたのです。したがって、万民において神様は永遠な無形の内的父母であり、完成したアダムとエバは永遠な有形の外的父母になるのです。
(135-11、1985.8.20)

 

神様が必要としたものが愛だとすれば、神様が愛するにおいて、神様に似たものと愛するでしょうか。神様と似ていない動物と愛するでしょうか。似たものと愛するのです。ですから、神様はどうなのですか。神様が喜ぶことができ、愛を分かち合うことのできる相対的なものを必要とするのです。ですから、人間がそのような相対であれば、人間を中心として見るとき、神様は人格的な神様でなければならないという結論が出てきます。そうして、そのすべての要素が100パーセント和合しなければなりません。心と体の素性において、すべてが、和合できる神様でなければなりません。ですから、知情意をもった神様でなければならないのです。
(162-274、1987.4.17)

 

愛は神様から始まるのではありません。相対から見いだされるのです。相対がいなければ探しだすことはできません。ですから、神様が最高の貴いものを成就させるためには、相対が必要なのです。神様も相対がいなければならないのです。それで相対を造られたのです。神様御自身も相対から絶対的な愛を成し遂げることができるように相対を訪ねて行きます。ですから、神様も愛のためにいるというのです。
神様も人のためにいて、人は神様のためにいるのです。それで真の愛というものは、ために生きるところから始まります。本来、人間はどこからうまれたのでしょうか。神様の愛から始まったのです。愛ゆえに生まれました。愛が起源なのです。
私たち人間が受け継いだ生命が貴いのではありません。神様の愛の理念を通して生命が出てきたので、生命の前に愛が先です。愛に根ざして人間の生命が流れてきたというのです。それで愛で生まれ、愛で育ち、愛の相対に出会わなければなりません。神様が1代ならば、2代でも、それと同じように立たなければなりません。神様が自分の息子、娘を愛するように、その愛を体恤できる立場に立ってこそ、神様の前に完全な愛の相対になれるのです。
(143-310、1986.3.21)

 

②神聖な慈悲

―宗教経典―

 

神は最もよくかれを守りたもう、かれこそは、慈悲者中の最大の慈悲者であられる。
クルアーン12.64(イスラーム)145

 

神は、そのしもべに対して、仁愛であられ、み心にかなう者を給養したもう。               クルアーン12.64(イスラーム)145

 

わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。
テモテへの手紙ニ2.13(キリスト教)147

 

自分が聞いた侮辱を、神よりよく忍耐する者がいない。
ハディース(イスラーム)148

 

神は尻尾のない雄牛のためにはえを追い払ってくださる。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)149

 

神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
コリントの信徒への手紙―10.13(キリスト教)150

 

神は何人にも、その能力以上のものを負わせたまわぬ。その行なったことで己を益し、その行なったことで己をそこなう。「主よ、わたしたちがもし忘れたり、あやまちをおかすようなことがあっても、とがめないで下さい。主よ、わたしたち以前の者に負わされたような重荷を、わたしたちに負わさせないで下さい。主よ、わたしたちの力で、かなわぬものを、になわせないで下さい。わたしたちの罪障を消滅なされ、わたしたちを許し、わたしたちに慈悲をたれたまえ。
クルアーン2.286(イスラーム)151

 

―み言選集―

 

神様はどのような方でしょうか。絶対的にために生きようとされる方です。
(175-158、1988.4.16)

 

神様と私たちについて見てみるとき、私たちがいくら苦労したとしても、ただの一生、80何年、100年未満です。ですから、3万6000日です。皆さんが100歳まで生きても、3万6000日しか生きられません。3万6000日は一瞬です。それを耐えることができませんか。神様は何万年、何億年継続してきたのです。いくら人間世界がそうでも、神様は神様なので、泰然自若としていなければなりません。その中には千万の事情がひしめきあっていますが、泰然としていなければならないのです。
もし、神様が口を開いて、その事情が通じることのできる話をすれば、千年でも万年でも痛哭できる事情があるのです。それは神様自身のために痛哭するのでしょうか。人類のために涙を流さざるを得ない神様だということを知らなければなりません。
(124-59~60、1983.1.23)

 

神様はどのような方でしょうか。「お前たちが私を愛しなさい!お前たちが私のために犠牲になりなさい!」、このような神様ならば、どうなるでしょうか。それは、神様ではありません。神様が伝統を立てるためには、御自身が先に赤ん坊のおしめを取り替えてあげ、父母の下の世話をし、先に犠牲奉仕して、温柔謙遜な教育テキスト(教材)のセンターにならなければなりません。
(116-90~91、1981.12.20)

 

神様は、すべての被造世界を自分がつくったのなら、つくったその歴史を愛するのです。どのようにつくり、どのように生まれ、どのようにしたということを愛するというのです。そのような原則によって立てた愛を中心として偉大な愛を成したので、人間が堕落したとしても、その愛を忘れられないのではないかというのです。そのような基準を中心としていたのに、悲惨になったものを見るとき、「ええい、この者たち! あなたたちがこれでよいのか」と言うのではなく、かえってもっとかわいそうに思うのです。ですから偉大なのです。
(115-320 ~ 321、1981.11.29)

 

③人類を愛する神様の心情

― 宗教経典 ―

まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに / 彼らはわたしから去って行き / バアルに犠牲をささげ / 偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて /歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを /
彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き / 彼らの顎から軛を取り去り / 身をかがめて食べさせた。(注 26)
ホセア書11.1~ 4(キリスト教)152

 

生死の険しい道に入り、苦しみは連続して断えることがない。
深く五欲に執着すること、ヤク(牛)が尾を巻きこんで大事にするようである。
貪愛によって自分を覆い、盲目となってなにも見えず、
偉大な力のある仏を求めず、苦を断ち切る教えを求めない。
深くもろもろの邪見に落ち入って、苦によって苦を捨てようとする。
このような生ける者たちであるから、わたしはかれらに大悲心を起こした。
法華経 2(仏教)153

 

― み言選集 ―

 

皆さんは、自分の子供一人を教育することも大変でしょう? その子供は、自分の血肉を受け継いだ息子、娘です。母親が涙を流せば、心が通じて共に涙することができるのが息子、娘です。父親が涙を流して悲しめば、共に悲しむ心が自然に生じてくるのが息子、娘であるにもかかわらず、彼らを指導し、
教育しようとすれば、非常に難しいのではありませんか。それを見るとき、今日、私たち人間は、神様の息子、娘ではないというのです。神様がどれほど泣かれても、見て見ないふりをします。神様がどれほど悲しまれても、見て見ないふりをするのです。これは、人間がサタンの血肉を受けて生まれたからです。むしろ、神様が悲しまれるのを見て、褒めたたえるのです。滅びる者を見れば、喜んで笑うというのです。神様は、このような人間を指導し、彼らに開拓の方向を教えてあげようと、どれほど苦労してこられたでしょうか。しかし、1 から 100、1000、万までために生きようとする心、哀れに思われる心が神様になかったとすれば、今まで神様が摂理歴史を抱き抱えてくることがおできになっただろうかというのです。
(42-257、1971.3.21)

 

神様は、アダムとエバをつかんで復帰摂理を始めざるを得ませんでした。そうしてカインとアベルを選ばれ、ノアを選ばれ、また、そのほかの大勢の家庭を選び立てられて、復帰摂理をしてこられたのです。このような摂理歴史を導いてこられた神様の心情は、とても言い表すことのできない切ない心情だったのです。しかし、そのような心情を抑制しながら、きょう、この時間まで耐え抜いてこられました。
それでは、神様が今まで耐え抜いてこられたその切ない心情を感じ、神様にしがみついて涙を流す人が、今日のこの地上に何人くらいいるでしょうか。この地上にこのような神様の心情を知って涙する人がいれば、その人は、神様が天地万物を創造されるときに喜びがあった反面、人間の堕落による神様の悲しみが全天地、万物を覆ったという事実を知ることができるでしょう。
この地上に、このときまで耐え抜いてこられた神様の心情を身代わりする人、または神様の悲しみを共有して泣いてあげることができる人がいれば、神様も創造主の体面を忘れ、創造主の栄光も権勢もすべて忘れ、その人と共にとめどなく涙を流されることでしょう。このような事情に染まった神様の心情を、皆さんは知らなければなりません。
(4-239、1958.5.18)

 

神様は 4000 年間人間に対してどのような心をもってこられたのでしょうか。自分のために生きようという心をもってこられませんでした。すぐにでも死んで当然な人間であり、苦痛を受けて当然の人間でしたが、神様は人間たちに対して心を尽くす立場で忍耐の4000 年の歴史路程を歩んでこられたの
であり、思いを尽くして 4000 年間、サタンを分別する闘いの路程を歩んでこられたことを知らなければなりません。このように不変の愛の心をもって 4000年間耐えてこられ、闘ってこられ、愛してこられた神様の性せいひん稟を知らなければなりません。
(1-78、1956.5.27)

 

人間が罪を犯したといって「お前、なぜ罪を犯したのか」とおっしゃるだけの神様ではありません。罪を犯した事情をよく知っていらっしゃる神様です。御自身の事情は考えずに、人間の事情を知ってくださろうとする神様です。悲しい者には悲しい事情をもって訪ねてこられ、苦痛を受けている者には苦痛の事情をもって訪ねてこられ、悔しくやるせない者には悔しくやるせない事情をもって訪ねてこられま
した。皆さんは神様とどれだけ事情を通じたことがありますか。神様は私たちの生活環境の中にもそのように訪ねてこられました。それだけではなく、心情をもって訪ねてこられました。お前が私を裏切ったとしても、私はお前の父親だという心があったがゆえに、6000 年という歳月を訪ねてこられたのです。
(9-232、1960.5.29)

 

お父様、私たちは孤児のようにうろうろと、目的も、方向も分からず、どのような環境にいるのかさえも分からないまま、歴史の流れとともに身もだえしながら、生命の中心をつかむことができないまま、追いに追われながら今日まで来たかわいそうな姿であることを知っております。
反面、このような私たちをつかんで、私たちが悲しむとき、一緒に悲しまれたお父様がいらっしゃる事実も知らなかったのであり、死亡圏内に捕らわれ、呻吟する私たちを取り戻すために、昼夜を意に介されずに苦労してこられた主人公がいらっしゃるという事実も知らなかったのでございます。このよう
な事実を知ることができ、感じることができる喜びの心情は、天と地に通じることよりも貴いということを私たちが分かるようにしてください。
(5-337、1959.3.8)

 

12. 創造者

創造者として神様を扱うこの節は、世界の創造と人間の創造に対する古典的な説明を含む。ある章句はみ言による創造を描写するかと思えば、またほかの章句は、絶対者の中にある意志による創造を語る。ある経典では、無からの宇宙創造を語るかと思えば、またほかの経典では絶対者から流出した世界、すなわち絶対者の一部の属性が虚空に流出し、形状と質量の性質を備えた世界になったと語る。ある経典では、世界の霊魂の発現として創造の根源を語りながら霊魂がとどまる所として、その次に物質をつくったと語るのに対して、ほかの経典では、愛の創造の動機を語りながら、愛それ自体を現すために非存在から存在を分離したと説明する。(一から流出した二つの相克の相互関係による創造に関しては第2章6.「二重属性」に含まれた章句を参照)。最後に、ヒンドゥー教と道教の経典では、神様の自分の空と犠牲の創造を描写する。
このような創造の説話は、太初にどのように事物が生じたのかを説明するためだけではない。この説話は、創造の始めから適用されていた同一の創造原理によって、今もこの世界を主管している神様の歴史を教えるためのものである。聖書神学者であるルドルフ・ブルトマンが語ったように、「創造説話の真の目的は、神様がそのときどきに常に役事することを教えようとしているのである」(注 27)。言い換えれば、その説話は、私たちに現在の自分のひととなりを指し示してくれる。文鮮明先生自身は、神様が創造過程に投入した苦労と愛について強調する。もし私たちが神様の子女たちであるのなら、創造過程で精誠と苦労を尽くした神様と同じように、私たちもまた被造物として自身の潜在力を完全に実現できるよう、あらゆる精誠をすべて注がなければならない。精神を軸として物質の創造が進行されるように、私たちもまた心を中心として生きていくとき、宇宙的秩序に符号できるようになる。神様が愛を動機として、共に喜びを感じることができる対象を求めるために世界を創造したように、私たちは、神様の心情に喜びを与えることのできる愛らしい子女になるために努力しなければならない。

 

①太初に

― 宗教経典 ―

 

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。神は言
われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種をもつ草と、それぞれの種をもつ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種をもつ草と、それぞれの種をもつ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
夕べがあり、朝があった。第三の日である。神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられ
た。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。神は言われた。 「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」夕べがあり、朝があった。第五の日である。
神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」神は言われた。「見よ、全地に生える、種をもつ草と種をもつ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。

地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。(注 28)天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
創世記1.1~ 2.3(キリスト教)154

 

神こそは、六日の間に天と地、ならびにその間のよろずのものを創造して、お自らその玉座に鎮座したもうかたであられる。なんじらはかれのほかに守護者はなく、執り成す者もないのである。なんじらはなお訓戒を受入れないか。
かれは天から地まで、よろずの事物を統御したもう、その後審判の日に、その事物は一日にして、かれに登ってゆく。その一日の長さは、なんじらの計算する一千年である。

この方こそは、幽玄界と現象界のよろずのことを、知りたもう方、偉力者・仁慈者であらせられ、かれの創造された一切を、最も善美にしたもう方であり、(注 29)またかれは、土から人間の創造を始めたもう。
クルアーン 32.4 ~ 7(イスラーム)155

 

「道」はすべてのものを生み出し、「徳」がそれらを養う。
ものはそれぞれの性質によって形づくられ、関係ある状態がそれらを満たす。
だから、あらゆるものはすべて「道」を敬い、「徳」を尊ぶ。

「道」が敬われ、「徳」が自然に尊ばれるのは、
誰かが命令するのではなく、自然にそうなるからである。(注 30)

道徳経 51(道教)156

 

喩えば、蜘蛛が糸を吐き、またこれを収おさむるが如く、あるいは地上に草卉の生い茂るが如く、あるいは生ける人間より毛髪の生ずるが如く、かくの如くにこの不滅なるものより此の世にある万物は生ずるなり。このものこそ真実在なれ。苦行によりて梵ぼんははぐくまれ、これより食生ず。食より気、意、真実、諸世界、及び諸業における不死生ず。かの一切知者、一切明者なるものの苦行は知より成る。これよりこの梵、名色、食は生ず。
ムンダカ・ウパニシャッド1.1.7~9(ヒンドゥー教)157

 

聖なるその方は、天地を創造されるときまで、造ったり壊したりを反復された。そして、創造後に「見て良し」と語られた。(注 31)
創世記ラッバー 9.2(ユダヤ教)158

 

― み言選集 ―

 

本来、神様の創造というものは何でしょうか。今日のキリスト教徒たちは、「神様は全知全能でいらっしゃるので、み言でつくられた」と言うのですが、そのように何か妖術を使うようにしてつくられたと思いますか。そうではありません。あらゆる精誠を尽くして自分の一身をすべて投入する、このようなことをせざるを得なかったのです。ですから愛するというのです。精誠を尽くさず、血と肉を投入していないものを愛することができますか。私の骨の中の骨であり、肉の中の肉であり、私の思想の中の思想であり、私の全体の中の全体を投入したので、希望の対象とすることができるのです。
(78-111、1975.5.6)

 

神様が被造世界を造るとき、そこには喜びがありました。造ってから、見て「良し」と言われました。喜びがあったということです。喜びとは何ですか。ある目的を成し遂げたときに感じるものです。造られた万物に神様の目的意識が内在していたがゆえに、創造された万物に神様は喜びを感じられたのです。
(9-168、1960.5.8)

 

動機のない結果はあり得ません。すべてのものは動機を経て、過程を経て、結果が出てくるのです。これが自然科学の現象です。人間がそのようにつくったのではありません。天理原則がそのようになっていて、神様の法度がそのようになっているということです。突然変異というものはありません。秩序
的なものです。動機を中心として、原理原則的な過程を経て、実体的な目的体が形成される世界が創造理念世界です。皆さん、成功する人たちは、心の固い覚悟がなくて成功しますか。心の動機を中心として環境を開拓し、変わらずにそれを押し進めていってこそ、目的地に到達するのです。私たち個人
が成功するにおいてもそうであれば、大天地を創造された神様が目的を成し遂げられるときにもそうではないでしょうか。それもやはり同じなのです。
(9-227、1960.5.29)

 

皆さんが見つめるこの被造世界、あるいはこの自然には、様々な被造物たちが存在しています。存在する万象はいかなる過程を経て創造されたのでしょうか。それは創造主の精誠を込めた心情の過程を通してつくられたのです。いくら微々たる存在でも、神様の愛の心情を通して、神様が願われる愛の心をもった、そのような立場でつくられたことは間違いありません。
(20-248、1968.7.7)

 

神様の創造のための精誠と投入はこの上ないものでした。自ら絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を立てておき、絶対投入するものでした。被造物は、すべて神様がこのように精誠を尽くし、投入してつくった愛の対象体です。
(400-81、2002.12.27)

 

皆さんは、愛の相対が自分より優れていることを願います。神様も、自分の愛の相対が自分よりも優れていることを願われるのです。神様が 100 パーセントだけをもっていて、その 100 パーセントを投入すれば、100 パーセントのものしか出てきません。だとすれば、1000倍を願うならばどのようにしなければなりませんか。これを忘れてしまわなければなりません。1000 回投入して、その1000 回を忘れてしまわなければなりません。それ以上を願い、何万倍を願うのなら、何万倍投入して忘れ、投入し
て忘れ、何万倍を投入しなければならないという論理が形成されるのです。
(254-266、1994.2.15)

 

②人間の創造

― 宗教経典 ―

 

主なる神は、土(アダマ)の塵ちりで人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
創世記 2.7(キリスト教)159

 

それからわれは、その精滴を一つの血の魂につくり、ついでその魂から肉魂をつくり、ついでその肉魂から骨をつくり、ついで肉でその骨をおおい、それからかれを他の造化につくりあげた。最もすぐれたもう創造者、神を祝福し奉る。
クルアーン 23.14(イスラーム)160

 

自ら宇宙を創造したが、これに引っ張られることなく、
あの慈悲深い主は、また神聖な中心(人間)を造られた。
空気、水、火を混ぜて肉身の要塞を造られ、
(感覚の)九つの場所を一つ一つ定め、十番目の所に、量り知れない自身の居所を定められた。(注 32)

あの無限な主が、無自性の空のままで力を備えられた。
無限な存在であられる主は、自ら束縛されず、
創造力を広げて、空から命のない存在を創造され、
また風と水を生み出すようにされた。

創造を起こしたのちに主は体の要塞の中に君主としてとどまるが、
主よ!(体の)火と水の中に主の光彩がある。
空でできた主の根底に、見えない創造の力が敷き詰められている。
アーディ・グラント、マールー・ガウラー
M.1、p.1037(シク教)161

 

― み言選集 ―

 

人を造るために先に土で(体を)造っておき、外的なものを基盤として内的なものを立てていくのです。それが天地創造の道理なのです。現在のものよりも大きいもの、無価値なものから、より価値のあるものを求めていくのです。道理がそうです。今日、人間創造を考えると、人間を造るときに体を先
に造っておいてから霊を造ったのです。
(152-319、1963.8.18)

 

この体は、神様があらゆる精誠を尽くし、土の塊のようなものを収拾し、永遠な理念の生命体、すなわち霊人体が育つことができるように造られました。芸術品でも、これ以上の芸術品はありません。ただ神様が、「おい、いでよ」として造られたものではありません。最大の精力を注いで造られた体です。そこに霊人体を吹き入れ、一人の人を造られたのです。
(880、1959.11.8)

 

人間が存在する目的はあくまでも神を喜ばせるところにある。では、人間がどのようにすれば神を喜ばすことができ、その創造本然の存在価値を完全に現すことができるのであろうか。人間以外の被造物は自然そのままで神の喜びの対象となるように創造された。しかし人間は創造原理において明らかにされたように、自由意志と、それに基づく行動を通じて、神に喜びを返すべき実体対象として創造されたので、人間は神の目的を知って自ら努力し、その意志のとおり生活しなければ、神の喜びの対象となることはできないのである。それゆえに、人間はどこまでも神の心情を体恤してその目的を知り、その意志に従って生活できるように創造されたのであった。
原理講論、人類歴史の終末論1.1

 

もし目がこの足のつま先にあればどうしますか。口が後ろにあればどうしますか。「どうでもよい」ではありません。秩序が重要なのです。口は自分の位置になければなりません。なぜかというと、目でよく監視するためです。そして、口がそこにあるとき、手が運動するのに一番よいのです。
一度考えてみることを願います。手が後ろにあればどうしますか。後ろですべて監視しようとすれば、どれほど鋭敏でなければならないか考えてみてください。皆さんがみな好むレバレンド・ムーンでも、しかたなく「いやあ、神様は科学者だなあ。神様は素晴らしい方だ。本当に素晴らしい!」、このよ
うに言うのです。
鼻と口の間に、両側に線ができているのですが、私は東洋の人には線があり、西洋の人には線がないと思っていました。なぜここに断崖をつくったのですか。汗が流れて口に入れば大変

なことになるからです。そして、口が引っ込んでいるのではなく、突き出ています。そうでなければ大変なことになるところでした。そして、鼻が逆さまになっていればどうなっていたでしょうか。雨の降る日は大変なことになります。
(104-207 ~ 208、1979.5.6)

 

③愛と犠牲がこめられた創造の役事

― 宗教経典 ―

 

空の精神的現実はいつも存在する。
それを受動性の神秘と呼ぶ。
その入口は宇宙の根源である。止めることなく、それはいつまでも残る。
汲み出しても尽きることはない。
道徳経 6(道教)162

 

そのとき(太初において)無もなかりき、
有うもなかりき。

空界もなかりき、その上の天もなかりき。
何ものか発動せし、いずこに、誰の庇護の下に。深くして測るべからざる水は存在せりや。

そのとき、死もなかりき、不死もなかりき。
夜と昼との標識(日月・星辰)もなかりき。
かの唯一物(中性の根本原理)は、
自力により風なく呼吸せり(生存の徴候)。
これよりほかに何ものも存在せざりき。
太初において、暗黒は暗黒に蔽われたりき。
この一切は標識なき水波なりき。
空虚に蔽われ発現しつつあるもの、かの唯一物は、
熱の力により出生せり(生命の開始)。
最初に意欲はかの唯一物に現ぜり。
こは意(思考力)の第 1 の種子なりき。 (注 33)
詩人ら(霊感ある聖仙たち)は熟慮して心に求め、
有の親縁(起源)を無に発見せり。

彼ら(詩人たち)の縄尺は横に張られたり。
下方はありしや、上方はありしや。
射精者(能動的男性力)ありき、
能力(受動的女性力)ありき。
自存力(本能、女性力)は下に、
許容力(男性力)は上に。
リグ・ヴェーダ 10.129.2 ~ 5(ヒンドゥー教)163

 

神々がプルシャを祭供(供物)として
祭祀を執行したるとき、
春はそのアージア(グリタ)なりき、
夏は薪、秋は供物〔なりき〕。

祭祀そのものたる彼を、
バルヒス(敷草)の上に、
彼らは灌ぎ清めたり、
太初に生まれいでたるプルシャを。
神々は彼をもって祭祀を行なえり、
サーディア神群も聖仙らもまた。

この完全に行なわれたる祭祀より、
プリシャッド・アージアは集められたり。
これより彼ら(神々)は、空飛ぶもの、
森に住むもの、また村に飼わるる獣を作
りたり。
この完全に行なわれたる祭祀より、
詩節(讃歌)と旋律と生じたり。
韻律もそれより生じたり。
祭詞もそれより生じたり。
それ(祭祀)より馬生まれたり。
両顎に歯あるすべての獣〔生まれたり〕。
牛も実にそれより生まれたり。
それより山羊・羊生まれたり。

月は意(思考器官)より生じたり。
眼より太陽生じたり。
口よりインドラとアグニ(火神)と、
気息より風生じたり。

臍より空界生じたり。頭より天界は転現せり、
両足より地界、耳より方処は。
かく彼ら(神々)は
もろもろの世界を形成せり。 (注 34)
リグ・ヴェーダ10.90.6~10、13~16(ヒンドゥー教)164

 

― み言選集 ―

 

神様はどのように天地創造をしたのでしょうか。神様は愛の対象者をつくるために 120 パーセントを投入しました。天地創造の根源的思想基盤が「ために生きる」ことでした。ですから、宗教は犠牲、奉仕と従順を強調するのです。
それでは、なぜ「ために生きる」ようにしたのでしょうか。 「ために生きる」原則を立てたというのは何ですか。空気で言えば、平準化された空気の中で完全真空状態に入っていきなさいというのです。絶対真空圏内に入っていけば入っていくほど、高気圧は自動的に低気圧のほうに巡回します。神様自身
が愛の相対を求めるために投入して、投入してみると、その場にいたとしても、自然に戻ってくるのです。このような論理的根拠を中心として被造物をペア・システムで創造したのですが、前進的に次元の高い上部のレベルを通して人間と神様の理想的足場をつくるために天地創造をしたのです。
(199-276、1990.2.20)

 

神様がなぜ天地を創造されたのでしょうか。それは、いくら絶対者であっても独りでは喜びを感じることができず、仮にうれしいと思っても喜びの刺激を感じることができないので創造されたのです。絶対者がいくら、「私は絶対者だ。私は愛の主人公だ。生命の主人公だ」と言ったとしても、絶対者独りでは愛の刺激を感じられず、天地が私の体の中にあるという生命の刺激を感じられないのです。
(38-152、1971.1.3)

 

神様がなぜ天地万物をつくったのでしょうか。皆さんはそれを知らなければなりません。つくったという事実は、このようにつくったという事実は、力を投入したということです。力の投入です。力の投入は、自体の消耗を意味します。いくら全知全能の神様でも、力をすっかり出し切ったので、それが戻ってこなければ、神様は消耗するのです。
皆さんが朝、御飯を食べ、激しい労働をすれば、早くおなかがすくでしょう? 早く疲れるでしょう? なぜですか。力を投入すれば、主体なら主体自身においてはマイナスになるからです。世の中の万事において損害を受けて喜ぶことはありません。必ずプラスになるところで喜ぶのです。ですから、神様が天地万物をつくられたのは、泣かれるために、悲しまれるためではありません。喜ぶためにつくられ
たのです。したがって、そこには必ずプラスになり得る何かがなければなりません。
それでは、プラスをいつ探し出すのでしょうか。いつそれを探し出せるのかということが問題です。ここには被造物の完成という標準があるのです。「この時まで投入すれば、その時から戻ってくる」というものがあるのです。商いをしてもそうです。「このくらい努力すれば、その時からは利益が出る」
というのと同じです。勉強をするときもそうです。「このくらいの限界点まで一生懸命にして、それさえ完全に通過すれば、その次には私に利益が戻ってくる」、そのように思いながら勉強するではないですか。国家試験でも何でも、何かをしようと希望をもって努力し、その限界点を進んで越えていくようになるとき、必ず戻ってくるのです。これが宇宙の法則です。
神様も同じです。人を造られたのなら、なぜ造られたのかというのです。造られたのは、神様の力を投入したのです。自分自体を消耗しました。しかし、人を中心として投入できるものを完全に投入して完成した日には、どのようになりますか。その次には戻ってくるのです。このような原則を私たちは考えなければなりません。
ところが、戻ってくるときに、100を投入したのに、100 よりも小さな価値のものとして戻ってくるのなら、神様は創造の遺業を継続されなかったでしょう。100 を投入したのなら、戻ってくるときには、200、300、このように、より次元の高い価値のものとして戻ってこなければなりません。無限の90
ものとして戻ってこなければなりません。このようになるとき、その創造は投入しながらも喜ぶのです。したがって、戻ってくるときにどのように戻ってくるべきかという問題を中心として見るとき、より次元の高い価値のものとして戻ってこなければなりません。そのような価値のものとして戻ってく
るとき、喜ぶことができるものとは何ですか。これが愛だというのです。これを知らなければなりません。
(65-22 ~ 23、1972.11.13)

 

神様が御自身だけを思ったとするならば、天地創造をしたでしょうか。創造とは力の投入を意味します。芸術家は最高の作品を作ることが願いです。芸術家は傑作品を作るために、ありとあらゆる精誠を投入します。すべてを投入したところからのみ完全な傑作品が出てきます。不完全投入ではありません。完全投入、これ以上できないというときに初めて傑作品が生まれるのです。
(78-111、1975.5.6)

 

神様がこの宇宙をつくられるとき、神様は絶対信仰をもってつくったのです。それから、2番目は絶対愛です。創造主としてパートナーを絶対愛でつくりました。そして、絶対服従です。絶対服従は何かというと、自分自身までもすべてなくなるのです。完全投入です。投入して忘れてしまい、投入して忘れてしまうことなのです。自分の概念まですべて投入するのです。それで神様はゼロポイントです。信仰もすべて注いだためにゼロポイント、愛もすべて注いだためにゼロポイント、従順もすべて注いだためにゼロポイントです。
(313-233、1999.12.19)

 

13. 天の父母

絶対者は、子女に対する父母の因縁で人間と関係を結ぶ。ユダヤ教とキリスト教の経典は、神様を天にいらっしゃるお父様と呼び、「法華経」で釈迦は、「世間の父」と呼ぶ。一方、ある伝統宗教では、絶対者が神聖な母と見なされていることもある。さらには、神様に対する家父長的イメージを常に適用してきた宗教においてさえも、母性の側面、すなわち養育者、慈悲の泉、保護者として神様を描写する。デズモンド・ツツ主教は、「神の本質には人間の男性と女性に該当するある性稟がある」(注 35)と言う。神様の父性と母性は、あらゆる生命体を創造し、滋養分を供給しながら互いに協同する天と地になぞらえて見ることができる。
神様の父母の役割は創造の行為に限定されない。それはたゆまず持続する情緒的心情の役割と関連している。愛ほど神様の父母の側面をよく表しているものはない。その上、神々が実際にその子孫をもつこともある多神論に対して強く否定する立場をとりながらも、神様を神聖な父として公表しないイスラームでさえも、息子に対する父の愛をほのめかして神様の愛を語る。
文鮮明先生は、神様の父母の性稟について語るとき、愛が核心だと教える。すなわち、「神人の父子関係は宇宙の根本である」。それは、私たちが神様の心情を体恤することによって本当の父子関係を確立することができ、当然そのようにならなければならないと教える。神様は、親密な抱擁で自らと出会うことのできる子女を常に求めているのである。

 

― 宗教経典 ―

 

天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。
マタイによる福音書 6.9(キリスト教)165

 

おまえたちは、皆これわが子であり、わたしは父である。永いあいだ多くの苦しみに焼かれているおまえたちを、わたしは皆、救い出して三界から出て行かせたのだ。(注 36)
法華経 3(仏教)166

 

私にとって大ブラフマンは胎{ヨーニ}である。私はそこに胎子(種子)を置く。それから万物の誕生が実現する。
アルジュナよ、一切の母胎において諸々の形態が生まれるが、大ブラフマンがそれらの胎である。私は種子を与える父である。
バガヴァッド・ギーター14.4(ヒンドゥー教)167

 

あなたは父であり、母であり、友であり、兄弟。
いつ、どこでも、私と共に、
私をかがんで見つめられるあなた、
私に何の恐れがあろうか。
アーディ・グラント、マージュ、M.5、p.103(シク教)168

 

せかいぢう神のたあにハみなわがこ
一れつハみなをやとをもゑよ
にち/\にをやのしやんとゆうものわ
たすけるもよふばかりをもてる

おふでさき 4.79、14.35(天理教)169

 

私たちの父、これはあなたの世界であり、あなたのみ旨です。私たちを平和にされ、人間の霊魂を冷徹にしてください。あなたは私たちの父、私たちの人生の道ですべての悪を除去してください。
ヌエル族の祈り(アフリカ伝統宗教)170

 

天地は万物を創造する父母、人間はその万物の霊長である。
書経 5.1.1、泰誓(儒教)171

 

魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
マタイによる福音書 7.10 ~11(キリスト教)172

 

ある日、ある男が息子と共に預言者のところにやって来た。預言者はその少年を抱きしめて言った。「彼を限りなく思っているか」、父は「はい」と答えた。すると預言者は言った。「主はあなたよ
りもっと彼を思っていらっしゃる」。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)173

 

愚かで知恵のない民よ / これが主に向かって報いることか。彼は造り主なる父 / あなたを造り、堅く立てられた方。遠い昔の日々を思い起こし / 代々の年を顧みよ。あなたの父に問えば、告げてくれるだろう。長老に尋ねれば、話してくれるだろう。いと高き神が国々に嗣業の土地を分け / 人の子らを割りふられたとき / 神の子らの数に従い / 国々の境を設けられた。主に割り当てられたのはその民 / ヤコブが主に定められた嗣業。主は荒れ野で彼を見いだし / 獣のほえる不毛の地でこれを見つけ / これを囲い、いたわり / 御自分のひとみのように守られた。鷲が巣を揺り動かし / 雛の上を飛びかけり /羽を広げて捕らえ / 翼に乗せて運ぶように / ただ主のみ、その民を導き / 外国の神は彼と共にいなかった。
申命記 32.6 ~12(キリスト教)174

 

天の下のすべての者たちよ! 天を父と、地を母と思い、すべての万物を自分の兄弟姉妹と思いなさい。(注 37)
熱田神宮の神託(神道)175

 

母なる地球よ、私たちを哀れみ、私たちに食べる糧を下さい! 父なる太陽よ、私たちの子孫たちに福を下さり、私たちの道をまっすぐにしてください!
ブラックエルク族の祈祷(アメリカ先住民の宗教)176

 

吸えども尽きることのないあなたの乳房―それは喜びに満ちて元気づけ、すべての貴重なものを豊かに恵み、宝玉を授け、財物を見出し、幸運を恵む―その乳房を開いてください。―われらの身を養うために。
リグ・ヴェーダ 1.164.49(ヒンドゥー教)177

 

母がその子を慰めるように / 私はあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。
イザヤ書 66.13(キリスト教)178

 

全(女性)世界を擁護するイムパの母よ! あなたは私にはあまりにも驚くべき母です。おお、母! あなたは柱であり、避難所! 自らの住居に帰る前に、皆が賛美し、ぬかずく母! 私の母、あまりにも誇らしいです。厳かに近づき、万物に水を下さる方!
ヨルバ族の祈り(アフリカ伝統宗教)179

 

― み言選集 ―

 

神様とは、私の友人です! 最も尊い友人だというのです。そして、お兄さん、お父さん、王であり、創造主です。この事実がどれほど誇らしいでしょうか。
(293-161、1998.5.26)

 

神様御自身がなぜ宇宙をつくったのかというとき、愛を中心として父子の関係を結ぶためです。ですから、宇宙の根本は父子の関係だという結論が出てきます。
(118-290、1982.6.20)

 

私たちを造られた創造主は、どのような方ですか。私たちの心と体の主人であることはもちろんであり、私たちの理念や私たちの感情世界の主体の位置、主人の位置に立てる方であり、さらには、私たちの心情の主人であり、主体であられる方です。私たちには、このような神様が絶対的に必要です。私たちの意識や認定によって観念的に必要なものではなく、絶対的に必要です。そのような主人を失ってしまったことが悲しみです。
単に主人だけでなく、さらに一歩進んで神様はどのような格位にいらっしゃるのかというと、人間の父としていらっしゃいます。天地を造られた神様が、人間を造っておいて主人としてのみいらっしゃるのではなく、父としていらっしゃるのです。私はあなたの父であり、あなたは私の息子、娘だという因縁を明確にし、そのような関係で幸福を謳歌しようとされます。これが父の生活の中心であり、理念の中心であり、神様が人間を創造された目的だったということを私たちは知らなければなりません。
(7-48 ~ 49、1959.7.12)

 

神様をお父様と呼ぶべきです。その父は、皆さんを生んでくれた父です。人間が堕落したので、再び生むという言葉が必要なのであって、その方は本来皆さんを生んだ父です。肉身の父は、皆さんを橋渡しした父です。霊界に行けば、その父は、「父」と呼ぶのではなく、「お兄さん」と呼ぶようになってい
ます。母に対しても、「お母さん」と呼ぶようになっていないのです。
父母の根をもった人たちは、神様を何と呼びますか。すべてが、キリスト教で呼ぶように、神様を「父」と呼びます。一つの家の中で、おじいさんも神様を「父」と呼び、お父さんも神様を「父」と呼びます。孫もやはり神様を「父」と呼びます。家の中の家族すべてが、神様を「父」と呼びます。このように、神様はすべての人間の父になられる方です。それゆえ、神様は人間にとって父となられ、人間は互いに兄弟になるのです。(21-249、1968.11.24)

 

天は父を象徴し、地は母を象徴します。第一の母は皆さんを生んでくれた母であり、第二の母は地だというのです。地はすべてのものを与えて生命を育ててくれます。それで地は女性の立場です。すべて与えながらも不平を言うことがありません。いくら汚れたものも消化できるのです。それで、すべての存在物を育ててあげることができるのです。したがって、地は第二の母だというのです。その次に聖霊が第三の母です。
(279-171、1996.8.4)

 

本来、地上でアダムとエバが堕落しなかったならば、誰が先に死にますか。息子、娘が先に死にますか、父母が先に死にますか。父母です。それでは、アダムとエバが天上天国に上がっていけば何になるのでしょうか。彼らが神様の位置に立つようになります。その後、神様が実体をまとった、アダムと
エバの体に変化した霊的な主体的主人公として現れるようになるのです。霊界に行けば、父なる神様だけがいるのではありません。母なる神様がいるようになるということです。父と母がいなくて生命体が出てくることができますか。そのような父母のように、アダムとエバの背後には、神様が分かれて出てきて一つになっているのです。ですから、母を通してもそうであり、父を通しても天の国に行ける道が生じるという話になるのです。そのようになったならば、あの霊界の天上天国の主人公は誰でしょうか。実体をもって生きていた私の父母が、あの国に行って永遠の天国の王になるのです。
統一教会に入ってくれば何が違うのですか。統一教会に入ってきて皆さんが霊的体験をするときは、必ず先生とお母様が現れて役事するのです。そのようなことを見るでしょう。それが皆さんの生活圏内に切っても切れない主流的な思想として固着してしまうという事実を感じるでしょう。ですから、神様は誰の体を、誰の形状をまとってこの地上にいる人間たちの前に現れることができるのでしょうか。先生の形状とお母様の形状をまとって全世界の子女たちの前に現れることができることを知らなければなりません。
(90-196 ~197、1977.1.1)

 

人間にとって、失ってしまったその神様は誰かといえば、私たちの父母です。人間の一番上の先祖です。その神様は誰ですか。宇宙の永遠から永遠まで、ただお一人しかいらっしゃらない王です。王であられることを知らなければなりません。それでは、皆さんは何ですか。神様の息子、娘です。宇宙
を支配する王の息子、娘です。王子、王女だというのです。それでは、その王子、王女とは、何をするのですか。その王権が統治するところで、愛を中心として教育を受け、そこで生活しようというのです。それがその世界の理想なのです。 (105-26、1979.7.8)

 

神様の創造目的は何でしょうか。神様が人間と共に生きることができる理想的な家庭を築くことです。人類は、堕落したとしても、心では神様がその家庭の父として、または人類の父として、人間がその家庭の家族として暮らせる日を待ち焦がれています。神様を永遠の父として侍り、私はその家庭の家族になり、神様と共に永遠に暮らすことができれば、希望そのものであり、理念そのものであり、生活そのものであり、幸福そのものである神様と共に永遠に暮らすことができれば、私たちが希望する目的は完結するのです。
(7-264 ~ 265、1959.9.27)

 

皆さんは神様に侍るだけでなく、神様の対象的位置に立ち、その対象的な価値を立て、「お父様、私が来ました。6000 年間どれほどお待ちになりましたか」と言わなければなりません。「どれほど泣かれましたか。私が来ました。どれほど願われましたか。私が来ました。どれほど慕われましたか。私が来
ました」と言う、その一言を神様は聞きたいと思われるのです。
神様がそのような息子、娘に出会って、天と地上のすべてのものを主管しなさいと祝福したのち、6000 年の恨を忘れてしまい、「きょうが私の誕生日であり、私の歓喜の日だ!」(注 38)と言いたいと思われるのです。6000 年の恨を記憶せず、新しい天地で新しい息子、娘と情的な歌を歌って暮らそうという方が神様であり、神様が今日の私たちの父であり、その父の息子、娘が正に私たちだということをはっきりと知らなければなりません。
(7-171、1959.8.30)