世界経典Ⅱ 第1部 神様と創造 第2章 真理と宇宙の法則

第2章 真理と宇宙の法則

1. 永遠の真理

永遠のみ言、真理、または神聖な知恵は、宇宙が創造される以前から存在した。み言は宇宙に満遍なく遍在している。それは宇宙創造の牽引力だったのであり、自然法則として持続的作用をする。それは物理的法則と道徳法則、そして霊的法則として作用する。ある人たちにとって真理は理性的に把握されるが、ほかの人たちにとって真理の本質はみ言として把握される。ところがそれは、ただ完成人間であるキリストの中で完全に成育したみ言なのである。
み言は、宇宙にその目的を付与する。そして、その目的は、神様が宇宙を創造した理由に関する神秘さと関連したものである。全知全能の絶対者として、神様が彼とは異なるある対象を創造することによって、何を得ることができたのだろうか。この節の末尾の章句は、創造の根本主題が愛だったことを示唆している。ただ関係を結ぶときにだけ現れる愛は、プラスとマイナス、男性と女性という普遍的な二元性の特徴を備えながら宇宙に遍満している。愛の喜びを享受したいと思われた神様も、愛の関係を結ぶために自分とは別個の対象を創造したのであろう。ここに創造の目的、すなわち創造の青写真の中に隠されていた神様の根本的な意図を読み取ることができる。

 

①太初のみ言

― 宗教経典 ―

 

太陽と月は、一つの計算に従い運行し、草も木も、仁慈者に叩頭しまつる。かれが天を高く掲げ、はかりを設けたもうたのは、
なんじらが、はかりに公正を犯さぬためである。
クルアーン 55.5 ~ 7(イスラーム)1

 

かれは真理によって、天と地を創造なされたのである。
クルアーン16.3(イスラーム)2

 

主の知恵によって地の基は据えられ /主の英知によって天は設けられた。主の知識によって深淵は分かたれ / 雲は滴って露を置く。
箴言 3.19 ~ 20(キリスト教)3

 

天則に従ってアーディトヤ神群は安定し、月神ソーマは天に現はれ……
リグ・ヴェーダ 10.85.1(ヒンドゥー教)4

 

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(注 1)この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
ヨハネによる福音書1.1~ 5(キリスト教)5

 

最初にこれが宇宙の唯一の主だった。至高な主のみ言が彼と共にあったが、このみ言が彼の二番目だ。彼はよくよく考えた。そして語った。「私がこのみ言を導き出し、それによってこの世界をつくり、維持するようになるであろう。
ターンディヤマハー・ブラーフマナ20.14.2(ヒンドゥー教)6

 

御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。
コロサイの信徒への手紙1.15 ~17(キリスト教)7

 

主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。……大地の基を定められたとき。御もとにあって、わたしは巧みな者(注 2)となり / 日々、主を楽しませる者となって / 絶えず主の御前で楽を奏し / 主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し / 人の子らと共に楽しむ。
箴言 8.22 ~ 31(キリスト教)8

 

王がたとえ宮殿を建てたとしても、それも結局は建築士の技術によって建てるのである。建築士が使う概念も、やはり彼の頭から出てくるものではない。彼も木材と門を置こうとすれば、図表を描き、設計図を描かなければならない。したがって、この世の中のすべては神様がトーラーを通して教えながら建てられたものである。
創世記ラッバー1.1(ユダヤ教)9

 

道というものは、それが実在するという確かな真実性をもちながら、何のはたらきをするものでもなく、また形をもたないものである。それは心から心へと伝えられるものではあるが、形あるものとして手に受け取ることはできない。これを体得することはできるが、これを目に見ることはできない。それは、みずからのうちに存在の根拠をもち、みずからのうちに根ざして生じ、天地がまだ存在しない太古から、すでに存在するものである。
それは鬼神や天帝に霊妙な力を与え、天や地を生じさせるものである。天のきわみにある太極の上においても高すぎることはなく、六極の底深くおいても深すぎることはない。天地に先立って生じながら、時間の長久さを覚えることがなく、太古より以前から存在し続けながら、老いることのないものである。
荘子 6(道教)10

 

おおよそ天がその事物を生み出せば、それぞれの事物にはその道理が備わっている。
朱熹(儒教)11

 

― み言選集 ―

 

創造するとき、何によってするのでしょうか。初めに神様のみ旨がありました。神様の考えがありました。神様の考えと共に計画がありました。人間を創造し、これこれこのような人間世界をつくろうという、本来の神様のみ旨と計画があったことが分かります。ですから、いくら人間が堕落したとしても、今日、神様の救援摂理圏の人間たちは、どのような位置に立たなければならないかといえば、今日の神様のみ旨の中で、神様のみ旨と計画圏内に立たなければなりません。そうでなければなりません。 (7692、1975.2.1)

 

神様は知識の大王です。この宇宙世界は、秩序を通じた法によって動きます。それがすべての相対理念を備え、因縁と因縁を通して関係を結び、連関性をもって運行しているのです。膨大な大宇宙がそのようになっていることを見るとき、ここにはあらゆる公式、理論、原則を超越する理想の知識が内包されています。ですから、神様は知識の大王であられると言っても、誰も反対する人がいません。
(127-11、1983.5.1)

 

世界にいくら偉大な科学者、偉大な学者がいたとしても、その学者の知識というものは、ごく小さなものにすぎないのです。深い所に前進すれば前進するほど、そこには無窮な法を中心とする原理原則的作用が継続しています。この事実を勘案してみるとき、このすべてのものは、漠然と自然にできたものではありません。ある内容と根源を通して必ず作用していて、宇宙に背馳する方向性ではなく、全体目的に一致し得る方向性を備えているのです。その事実を考えてみるとき、ここは無限に広大で、無限に微妙な法則世界だというのです。また、このような宇宙をつくられた神様は、知恵の王であられ、知識の王であられると言っても、 「違う」と言う人はいません。神様は誰でしょうか。全知全能であられる方です。
(127-11、1983.5.1)

 

神様は天地万物を造り、人間を造る前には、自分を中心として動いていたのです。それで、神様に似ている私たちも自分を中心として考えるときがあるのです。そのような神様が天地万物を創造し始めたということは、対象の世界を展開させるためだというのです。また別の自分の相対存在をつくろうというのです。それで、神様御自身を投入しました。見えない神様から見える神様に展開させようというのです。
(69-81~ 82、1973.10.20)

 

創造をするにおいては、人間を中心に、人間をモデルとして東西南北、四方に広げて橋を架けてつくったのです。
(173-212、1988.2.18)

 

神は人間を創造する前に、未来において創造される人間の性相と形状とを形象的に展開して、万物世界を創造された。それゆえに、人間は万物世界を総合した実体相となるのである。
原理講論、創造原理 3.2

 

神様が創造以前に最初に考えたものが真の父母だということを知らなければなりません。真の父母、真の夫婦、そして真の子女が一つになる所が家庭です。
(339-212、2000.12.26)

 

②絶対的真理

― 宗教経典 ―

 

正しい裁きは御座の基 / 慈しみとまことは御前に進みます。
詩編 89.15(キリスト教)12

 

神のことばには変更はない。それこそは、偉大な幸福の成就である。
クルアーン10.64(イスラーム)13

 

彼はブラフマンのただ中よりブラフマンを抽出せり。彼は低くまた高く、みずからの本性(svadha)に向かいて立ちあがれり。
アタルヴァ・ヴェーダ 4.1.3(ヒンドゥー教)14

 

真実のみ勝つ。虚妄はしからず。真実によりて天神の路も作られたり。この路を辿りて 、 聖者達はその願望を成就して、真実在なる至上の宝蔵のある処(至上界)へと登りゆくなり。
ムンダカ・ウパニシャッド 3.1.6
(ヒンドゥー教)15

 

神聖な法によってあらゆる形象が顕現したがゆえに、法は実に説明するすべがない。神聖な法によって万有が生じたために、法によってあるものはかぶせられ、法によって高潔さと卑賤さが分けられ、法によって彼らの幸、不幸を推し量る。その法によってあるものには恩寵が、またあるものには生死輪廻の果報が巡ってくる。すべてがその法によりかかっているがゆえに、誰もこれを抜け出して逃げることはできない。ナーナクが言うには、法の権能を知れば、自ら我慢を脱ぐだろう。
アーディ・グラント、ジャプジー2、M.1、p.1(シク教)16

 

だから至誠は(うそ偽りが無く)間断がない。間断が無ければ、内において常に誠を保持する。内に常であれば外に効験がある。外に効験があれば、ますます悠遠で窮まることがない。悠遠であれば、広博深厚である。広博深厚であれば、その発現は高大光明である。博厚(の徳)は物を背負い載せるもので
ある。高明(な功業)は万物を覆うものである。長久(な行い)は、物を成就するものである。(これを至誠の徳という)。(聖人の)博厚(な徳)は、地と並び立ち、(聖人の)高明(な功業)は、天と並び立ち、長久に行って極まりないのである。
このような者(聖人)は、示さないで明らかであり(配地)、動かないで変じ(配天)、なすことなくして成るのである。
中庸 26(儒教)17

 

「『本性の法性』とは、なにかといえば、すなわち、マハーマテイよ、かの古い(本性の)法性の道は、金と銀と真珠の産地の如し。マハーマテイよ、それらもろもろの如来が世に出ずるも、もろもろ
の如来が世に出でざるも、住している。それらもろもろの法の法性と法住性と法決定性とは、古城への道の如し。たとえば、マハーマテイよ、或る人が荒野をさまようて、規則正しい道の随入している古城を発見するときに、かれはその都城へはいるであろう。マハーマテイよ、 (かれが)そこにはいって、都城に住して、都城に事用と楽とを受けるとき、(かれが)都城にはいった、かの道と都城の種々相は、実にかの人の生じたものである、と汝は思うか。」
マハーマテイはいった。「世尊よ、そうではありません。」
世尊はのたもうた。「実にマハーマテイよ、かくの如くに、わたくしともろもろの如来とによって証得された、かの法性と法住性と法決定性と如性と実性と真性とは住する。
楞伽経(りょうがきょう)61(仏教)18

 

― み言選集 ―

 

そのお方は、永遠であり、不変であり、唯一的な存在であられるので、そのお方が願われる理想もそれと同じであり、愛もそれと同じであり、平和と幸福もそれと同じであることは間違いありません。 (74161、1974.12.7)

 

神様は絶対者であられます。ですから、天使長が堕落したとしても、神様は被造物を御自身の立てられた法則、規則に従って主管せざるを得ません。
(52-87、1971.12.22)

 

真の愛の生活とはどのようなものでしょうか。一言で言えば「ために生きる生活」です。人が自分のために生きてくれることを願う前に、先に人のために生きる生活です。自分のために生きてくれることを忘れてしまう生活です。……イエス様も、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言い、「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われたのです。全知全能であられる創造主の神様だとしても、御自身が立てられた創造原理を無視して、願いのままに無条件に創造と破壊を繰り返すことはできません。(注 3)
(433-179 ~180、2004.1.27)

 

宇宙の構成体自体が盲目的になっているのではないのです。この膨大な宇宙が、相対的、主体と対象の関係において対応しながら、授け受けする運動をしながら、永続的なその法度の軌道に従って永続するのです。法度の軌道に沿っていってこそ永続するというのです。法度の軌道に沿っていかなければ、永続するのではなく破壊が展開します。私たちも、御飯を食べて消化が正常にされ、栄養要素が正常に血管を通じて普及されて、初めて永続が展開するように、正常に普及されなければなりません。良く授け、良く受けてこそ永続が展開するのです。
(182-117、1988.10.16)

 

新しい宗教のための本体論は、従来のすべての絶対者が各々別個の神様ではなく、同一の一つの神様であることを明かさなければなりません。それと同時に、この神様の属性の一部を把握したのが各宗教の神観であったことと、その神様の全貌を正しく把握して、すべての宗教が神様から立てられた兄弟的
宗教であることを明らかにできなければなりません。それだけではなく、その本体論は、神様の属性とともに創造の動機と創造の目的と法則を明らかにし、その目的と法則が宇宙万物の運動を支配していること、そして人間が守らなければならない規範も、結局この宇宙の法則、すなわち天道と一致することを解明しなければならないのです。
宇宙の日月星辰(日と月と星)の創造の法則、すなわち天道によって縦的秩序の体系を構成しているように、家庭においても、祖父母、父母、子女から成る縦的秩序と、兄弟姉妹から成る横的秩序の体系が立てられ、それと同時に、それに相応する価値観、すなわち規範が成り立っていることを明らかにしなければなりません。さらに、この本体論は、その理論展開が自然科学的知識とも矛盾してはならず、人間の良心の判断によっても納得できなければなりません。さらには、歴史の中で、 「天に逆らう者は滅び、天に従う者は生きる」という命題が正しかったことが証明されなければなりません。
このような本体論によって立てられる価値観こそ、真の意味の絶対的価値観であり、このような価値観の確立とその絶対価値(絶対真、絶対善、絶対美)を理解し、実践することによって、人類の精神改革がなされると同時に、世界の混乱は次第に消えていくのです。
(122-304、1982.11.25)

 

③愛の法度

― 宗教経典 ―

 

愛はこの強者と神聖な循環を支配する偉大な法であり、この物質世界の多様な要素を一つに結ぶ唯一な力であり、天界内において体が動く方向を定めてくれる最高の磁力である。愛は終わりがなく、無限な力、宇宙の中に隠れている神秘とともに現れる。愛は人類の装った体の上にある生命の霊魂であり、この人間の世の中で真の文明の設立者であり、あらゆる高い所を目指す人種と国家に対する永遠の栄光の破片である。
アブドゥル・バハー(バハイ教)19

 

愛、すなわち神性原理は、人間を含む宇宙の父母である。
科学と健康 256(クリスチャン・サイエンス)20

 

一陰一陽これを道と謂う。これを継ぐ者は善なり。これを成す者は性なり。仁者はこれを見てこれを仁と謂い、知者はこれを見てこれを知と謂い、百姓は日に用いて知らず。故に君子の道は鮮し。諸を仁に顕し、諸を用に蔵し、万物を鼓して聖人と憂いを同じくせず。盛徳大業至れるかな。富有これを大業
と謂い、日新これを盛徳と謂う。
生生これを易と謂い、象を成す、これを乾と謂い、法を效す、これを坤と謂う。数を極め来を知るこれを占と謂い、変に通ずるこれを事と謂い、陰陽測られざるこれを神と謂う。
易経、周易繫辞上伝1.5(儒教)21

 

― み言選集 ―

 

愛の原則を中心として宇宙を造ったので、宇宙はその拍子に合わせて踊るようになっているのであって、個人の拍子では踊らないのです。
(131-124、1984.04.22)

 

神様は、何が慕わしくて創造したのでしょうか。絶対的なのに神様は、何が慕わしくて創造をしたのかというのです。その方は黄金も必要なく、知識も必要ない全知全能の方なのに、備えていないものがない方なのに、何が必要で人を造ったのかというのです。創造の根本動機とは何でしょうか。権力でもなく、知識でもなく、所有物でもないというのです。神様に何がないのでしょうか。愛の基盤がなかったのです。神様も、やはり一人でいては愛を成せません。ですから天地創造の動機、アルファ的起源も愛だというのです。
(149-150、1986.11.21)

 

宇宙創造の内容は愛から始まりました。神様を中心として、それに相応的、対応的、平行的位置において、自分の存在軸を中心として、神様と人間の大きな軸を中心に平行的な存在として回りながら、細胞の立場で愛の相対として存在します。ですから、それは、神様に対して、人間に対して、反対することはできません。このようになるとき、この細胞が反対しますか。反対に感謝するようになります。
ですから、低級なものが最も願うことは何でしょうか。最高級の存在の愛の軸に結びつくことです。それが最高の意志です。ですから、大いなる愛の心情をもって自分を食べてくれることを願うのです。食べるとしても、愛をもって食べるのです。神様の愛の相対となる立場で、苦しんでいる女性の愛を解放する、その主人の細胞活動に刺激を与える要素として移動し、生きていきたいと思うのです。それを誇ります。ですから、女性の唇や男性の唇の細胞になりたいと思います。
動物の中にいる細胞や、低級な動物たちは、すべてが高い主人の細胞圏、中核に含まれて、神様の愛に連結されたいと思うのです。それが希望です。横的な存在は、このように回りながら縦的な愛の主体である神様にまで連結されています。
男性と女性の生殖器は、神様の愛に連結される中心細胞です。自分のためのものではありません。これを中心として与えたいと思うのです。これを中心として相対圏に立ちたいと思うのです。そのように立ちたいと思う所が、女性にとっては女性ではありません。男性にとっては男性ではありません。アメリカのホモやレズビアンのような、そのようなものではありません。女性は男性、男性は女性だというのです。女性として、女性を中心として生きるようにはなっていません。妻として男性のために生きなければならないのが女性の道です。
なぜですか。生まれるとき、愛という観念が先にありました。愛の観念がなかったとすれば、雄と雌の観念を設定する必要がありません。鉱物の世界もプラスイオンとマイナスイオンがあり、これが雄と雌と同じです。昆虫の世界も雄と雌になっています。同じです。動物世界も雄と雌になっているのは同じです。人も男性と女性でしょう? 雄と雌の観念以前に、それが生まれる前に愛という観念があり、愛を中心としてそれが一つになるようになっているのです。それが雄と雌の観念です。
この愛の観念がなかったならば、雄と雌は出てこないのです。どちらが最初かというと、雄と雌が最初ではありません。愛の感性と観念が最初です。実在と観念、哲学において、観念と実在の問題は、世界的な闘争の土台となり、今ではすべてが崩れてしまいました。愛の概念から生まれた女性は、女性のために生まれたのではありません。男性は男性のために生まれたのではありません。愛のために生まれたのです。ですから、男性の中心思想と女性の中心思想は、すべて愛です。それ以外にはありません。お金ではありません。知識ではありません。
(218339、1991.8.22)

 

被造世界には主体と対象があるので、男性と女性がいて、雄と雌がいます。これが主体と対象の関係です。その次に、花には雄しべと雌しべが主体と対象であり、分子世界ではプラスイオンとマイナスイオンが主体と対象であり、原子世界では陽電子と陰電子が主体と対象です。このように、すべてペア・
システムになっています。
ですから、あらゆる生存の価値と歴史を受け継いでいくのは愛以外にはありません。男性と女性も愛を通して繁殖します。ほかの存在にも、それなりの愛があります。昆虫も同様であり、植物も同様であり、鉱物も同様です。すべてペア・システムになっています。なぜこのようにペア・システムになっているのでしょうか。環境には必ず主体と対象があります。なぜ主体と対象があるのでしょうか。愛のためだというのです。それで問題になるものが何かというと、愛が先か、主体と対象が先かということです。女性と男性のために愛が生じたのでしょうか、愛のために女性と男性が生じたのでしょうか。愛のために男性と女性が生じたのです。
(227-268、1992.2.14)

 

神様の真の愛による投入と注入がなければ、宇宙は生まれませんでした。宇宙の存在法則は、主体が対象のために生きることです。しかし、堕落した世界においては、主体が対象のために生きるのではなく、反対に、自分を中心として利用しようとするので滅びるのです。宗教は、まず相手が喜んだのちに自分が喜ぼうとする天理の原則を教育し、実践しなければならないと考えます。
(27170、1995.8.21)

 

2. 道徳法則

神聖な法や不変の自然法則は、本質的に道徳的である。神聖な法は、宇宙的、倫理的、社会的、法律的次元を一つの原理で結ぶ。したがって、宗教は、事実(自然法則)と価値(道徳法則)の現代的区分を超越して立つ。人間の人生を主管する道徳法則は、かえって重力法則と同じように絶対的である。宇宙の秩序と人間の人生の秩序は一貫しているため、私たちが人生において正しい秩序を確立することは、繁栄と長寿に至る道である。道徳法則に従えば命を得て天上に至るようになるが、その法を無視すれば衰退し、苦痛と死に至るようになる。
経典の中に示された人間の人生の道徳的規範は、律法またはトーラー(ユダヤ教)、法(上座部仏教)、タオ(道教)、ダルマ(ヒンドゥー教)、道徳的秩序(儒教)という名で様々に呼ばれる。しかし、これらの道徳的規範は、単に人間の本性に内在し、心情の中に刻まれた自然法則、すなわち宗教や社会的状況と関連がないように思われる自然法則的な表現にすぎない。実際には、文鮮明先生の教えと儒教の経典で確認できるように、道徳法則は、家庭の中で特徴的に最もよく現れている。調和した人間関係を確立することが根本的な原理であり、このような人間関係は利他的な実践行為と人のために生きる人生を通して実現される。

 

①法則に従う人生

― 宗教経典 ―

 

主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。
申命記 6.24(キリスト教)22

 

栄える人を識別することは易く、破滅を識別することも易い。理法を愛する人は栄え、理法を嫌う人は敗れる。
スッタニパーダ 92(仏教)23

 

神はこよなき美しい教示を、互いに似ている、種々の立場で繰り返し経典として啓示したもうた。主を恐れる者は、それによって膚はおののき震える。そのとき神をたたえ唱念すれば、膚も心もやわらぐ、これが神の導きである、かれは、み心にかなう者を導きたもう。だが神が迷うに任せたもう者には、そ
れを導く者はない。
クルアーン 39-23(イスラーム)24

 

一度過ぎた夜は、二度と戻らない。法に従って行わない者たちの夜は、むなしく過ぎていく。
ウッタラッジャーヤー14.24(ジャイナ教)25

 

主の律法は完全で、魂を生き返らせ /主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え / 主の戒めは清らかで、目に光を与える。主への畏れは清く、いつまでも続き / 主の裁きはまことで、ことごとく正しい。金にまさり、多くの純金にまさって望ましく / 蜜よりも、
蜂の巣の滴りよりも甘い。
詩編19.8 ~11(キリスト教)26

 

信仰を抱き、不満なく、常に私の教説に従う人々は、行為から解放される。
しかし不満を抱き、私の教説に従わない人々、彼らをすべての知識に迷う、破滅した愚者であると知れ。
バガヴァッド・ギーター 3.31~ 32(ヒンドゥー教)27

 

そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。
マタイによる福音書 7.24 ~ 27(キリスト教)28

 

諸仏世尊は大福智を具へて而も荘厳と為し、大慈悲を以て所行の境と為し、……相応の智を以て世の照明を為し、……一切人民常に楽うて承事し、自の楽を遠離し他の苦を息除す。正法を住持し、法を以て主と為し、法の自在を得、法を以て食と為し法を以て薬と為し法を以て施を為し一切皆捨す。……〔念法清規〕
……復次に菩薩諸衆生に於て當に平等にして而も為に説法すべし、法に高下無きを以ての故に、彼我の法に同じく其の心平等なり。法に面従無く而も為に宣説す、法に相當無き……法を時節無く而も為に宣説す、……法を勝者に於て而も為に宣説す、其を劣者に於て為に宣説せざるに非ず……法は諸見を離るる……法は常に加持する所……法は取著する所無き……法は衆生を厭はず衆生能く法を護る……法は所帰興を求むるに非ず世の帰依と作る……法は怨嫉無し、法は諸結使を離るるを以ての故に、彼我の法に同じく其の心平等なり。法は輪廻を怖るるに非ず、亦涅槃を楽しまず、法は無分別なるを以ての故に、彼我の法に同じく其の心平等なり。菩薩是の如く正念を積集す、是を念法と為す。
法集経(仏教)29

 

しっかりと基礎がおかれておれば、引き抜かれるものはない。
しっかりと抱かれておれば、脱けでるものは何もない。
子々孫々祭祀はとだえないだろう。
自己において道を修めれば、徳は本当のものとなり、
一家族において修めれば、徳はあり余るほどになる。
一つの村で修めれば、徳は永続するし、一国において修めれば、徳はたくさんのものとなり、
天下において修めれば、徳はすべてをつつみこむものとなる。
道徳経 54(道教)30

 

― み言選集 ―

 

栄える道は何でしょうか。栄える道は法に従っていくことです。神様が自分の創造目的を成し遂げることのできる法は、神様が保護し、神様が協助してくださるからです。この法に従っていけば栄えることができます。しかし、神様の法に反対してサタン側になるときは、神様が打つので滅びるのです。
(103-275、1979.3.11)

 

法度に従い、法のとおりに生きる人を何と言いますか。驕慢だと言いますか。そのように生きる人を正直な人と言います。正直というのは「正」の字と「直」の字です。正しくて真っ直ぐだということです。法というものは何ですか。真っ直ぐなものを立てることです。それでは、善と悪は何によって分けるのでしょうか。法によって分けるのです。驕慢は法度を無視するのです。法度を無視し、位置と環境を無視して行動することを止めなければなりません。驕慢を制御し、謙遜を備えなければならないのです。
(37-130、1970.12.23)

 

ここにメートル尺があるとしましょう。実際の1メートルはこのくらいなのに、自分勝手に尺を作って「このくらいが1メートルだ」といって測ってはいけません。自分勝手に測ってはいけないというのです。メートル尺は、必ずメートルの原器を中心として製作されたものでなければなりません。
(5-80、1971.11.1)

 

法廷で一人の殺人強盗に対して、「我が国の憲法何条によって死刑宣告だ」と言えば、気分が良い人がいますか。判定はそのように出ましたが、 「こいつ、何だ。私は悪くない、これは何だ」と言うでしょう。皆さん、アメリカならアメリカの憲法を中心として、法廷では赦しを受けられますが、宇宙的な
この憲法を中心として見れば、赦す法があるでしょうか。ありません。しかし、犠牲になり、奉仕すれば、赦されるのです。このようなときは同情を受けることができ、生きる道があり得るというのです。「悔い改めよ」という言葉があります。イエス様がこの地上で、「悔い改めよ。天の国は近づいた」
と言いました。何を悔い改めなさいというのですか。簡単です。犠牲になり、奉仕すべき道理から外れたすべてのことを悔い改めるのです。キリスト教は、何を悔い改めるのですか。……。人のために生きずに自分のために生きるところからすべての罪悪が発生したのです。
なぜどろぼうが悪いのですか。自分がやりたくてやったのに、その何が悪いのでしょうか。そこには、その一着の服にも犠牲の代価が含まれていて、奉仕の代価が含まれています。公的なものが含まれているのです。それをそのままもってきたので罪なのです。「うそをつくのが何の罪なのか。私は気分が良い。騙されているのを見ると無性に気分が良い」、そのように言います。
うそをついて何をしようというのですか。自分の利益を得ようとするのです。原則に背けば、すべて条件に引っ掛かります。また、会いたくないその女性を一人殺害したとします。その会いたくない怨讐を殺害したとして、何の罪なのですか。私も会いたくないと同時に、私の父母、祖父母……。アメリカ人すべてが会いたくないと思っているその人を殺害して、それが何の罪なのですか。彼も皆さんと同じように、同等にアメリカを代表した人だというのです。アメリカを代表した人なので、そのようにすれば公法を蹂躙することになります。
そのようなものをすべて総合して見てみると、何が含まれているのでしょうか。どこに帰結するのかというと、犠牲と奉仕に帰結します。犠牲になり、奉仕する人を憲法、何法何条の公判にかけるという法が世界のどこにありますか。そのような人を法廷で悪だと罰を与えるそのような法があるかというのです。この公法は、悪いという公法ですか、良いという公法ですか。その国の大統領がいれば、その人を呼んでその国を代表して表彰して賞を与えるようになります。
それでは、それはいったいどこから始まったものですか。どこからそのような出発が起きたのでしょうか。私を中心とすればよいのに、なぜ全体を中心としてしなさいというのですか。人が私のために犠牲になるようにして、私は犠牲にさせるようにしたならどれほどよいでしょうか。もしそのような法を立てたとすれば、一つの家に集まって暮らすことができますか。その家はばらばらになります。10 人なら 10 人がそのような主張をすれば、10 のかけらになります。また、100 人なら 100のかけら、2億 4000 万のアメリカ人がそのような主張をすれば、2億 4000 万のかけらになります。
そのような法を定めたならば、物質世界からどのような存在世界にも適用しなければならないという、このような話が成立します。皆さんだけ、人だけがそのようにできるかというのです。目の中にいる一つの細胞が、「私も存在なので、私という存在を中心として、全宇宙が私のために存在しなさい」と言うとき、そのようになってはいけません。
目が、「おい、お前、金なにがし! 屈服しなさい。お前のようなものが自己主張すれば、目である私はお前を嫌う」と言うでしょう。このように自分を主張することが、存在破壊形成の基本になるのです。ですから、目が「おい、目の細胞、お前も貴いが、私というより公的な存在にお前は吸収されるようになっているのだから、宇宙の公法どおりに従いなさい!」と言えば、 「はい」と言うようになっています。より価値のあるもの、それは公的なものです。それはどこでも「はい、はい」と言うことができるのです。このような原則があることを知っているので、不平を言うことはできません。
(105-92 ~ 93、1979.9.30)

 

②自然法

― 宗教経典 ―

 

君子の道は(働きが)広くて(その本体が)微なるものである。夫婦の愚でも、あずかり知ることができるが、その全体を尽くすとなると、聖人でさえも知らないことがある。夫婦の不肖でもよく行なうことができるが、その全体を尽くすとなると、聖人でさえもよくできないことがある。天地の大でも、人
はなお恨むことがある。君子は大を語れば、天下にこれを載せるものはない。小を語れば、天下にこれを破るものはない。
『詩経』にいう「鳶は飛んで天に至り、魚は淵に躍る」と。上下に明らかなのは、
この理の働きに他ならないことをいうのである。君子の道は、夫婦にその始めを起こす。その全体を尽くすとなれば、天地上下に明らかである。
中庸12(儒教)31

 

君子は中庸を体しており、小人は中庸に反している。君子が中庸であるのは、君子に徳があって、その上、時に応じて中を行なうからである。小人が中庸に反するのは、小人の心をもっていて、その上恐れはばかることがないからである
中庸 2(儒教)32

 

法には二種類ある。自然法と成文法だ。自然法は心に刻まれている法であり、成文法は机の上に置かれている法典である。すべてのものは法、自然法のもとに存在するが、すべてのものがこれに属していないため、自分自らが法自体にならなければならない。彼は自ら戒めを実践し、心に刻まれた法に従って実践する者である……。
私たちの本性が善行を教えてくれる師である。どろぼうしてはいけないことを知らない人はいない。それで、僕が物を盗めば罰を与える。誰かが私の妻をむさぼれば、その者は、罰を受けて当然だと考える。今から、人に向けたそのさおを、自分自身にも同じように当ててみなさい。
ミラノのアンブロシウス(注 4)(キリスト教)33

 

道の原理は、私たちの日常生活の中で、食べて飲む中で、一般的な社会的関係─君臣関係、父子関係、兄弟関係、夫婦関係、友人関係─を維持するにおいて、目の前に張られたもののように近いものである。
朱熹(儒教)34

 

― み言選集 ―

 

私が願おうと願うまいと、循環運動を通して年を取った人たちは本然の元素に帰り、新しい人たちが生まれ、このように循環しながら発展し、成長するのです。ですから、存在するすべてのものは、自然の循環法則を通して自分の限界内で、各自がそれに従って運動し、作用しながら存続するのです。
太陽系を中心として見てみても、九つの惑星が太陽を中心として回っているのですが、この惑星たちが、「ああ、もう私の好きなようにする」と言うことができるでしょうか。その軌道を外れて自由行動はできないのです。また、動物や植物も、春になれば、「ああ、私の好きなようにしよう」と言って、成長しないようにすることはできないのです。夏になれば生い茂らなければならず、花を咲かせ、秋になれば実を結ばなければなりません。
(207-61~ 62、1990.11.1)

 

太陽系が一つになって大宇宙で回っているのです。何をセンターにするのかというと、愛です。ですから、家庭では父母を中心として愛で一つになりなさい、国を中心として国を愛する愛国心で一つになりなさい、また世界では聖人が出てきて、愛を中心として全世界人が一つになりなさいと教えるのです。したがって、愛がセンターとなって回らなければならないのです。真の愛で回りさえすれば、すべてのものはそれに従って自動的に回ろうとするのです。その軸は変わりません。
(146-166、1986.6.15)

 

自然の中では、春になれば間違いなく花が咲き、夏の季節を経て、秋に実を結びます。そのような自然の法則に従って生きることが天国と通じる近道だということを知っています。
(393-215、2002.10.4)

 

人倫は情を通して形成されます。家族関係や、道徳観念や、社会制度や、秩序などというものは、すべて情緒的な面です。父母が子女を愛するところから人倫は始まります。そうでしょう? 子女が父母を愛するところから真の人間関係が成立するのです。また、男性が女性を愛し、女性が男性を愛するところから人間関係が結ばれるのです。人倫を形成したのは愛だというのです。(注 5)
(64-124、1972.10.29)

 

今日の法はローマ法を基礎としてつくられたのであり、ローマ法が現在、世界文化の基礎になっていると言えますが、人倫道徳はどこまでも良心を根拠にします。法よりは良心だというのです。
(33-44、1970.8.2)

 

科学文明の世界を早めたのは、法則を中心とする一つの公式でした。公式は、全体の各分野にどれくらい適用させられるかによって採択の可否が決定されます。私たちは、宗教生活をするにおいて、盲目的にしてはいけません。神様は必ず公式的な法度を通して摂理されるので、その公式を知らなければなりません。統一教会の原理は、過去から現在まで復帰摂理歴史がどのように続いてきたのかをはっきりと教えてくれています。
(16-119、1978.10.22)

 

3. 黄金律

黄金律は、ほぼすべての宗教の経典で発見される。その多くは最も簡潔で普遍的な倫理的原理とみなされる。時として“相互性”と呼ばれたりもする黄金律は、報復をするのではなく、主導的に先に行うことである。それは、ある無礼な行いに対して、同じ無礼な行いで反応するのではなく、他人に対してまず
親切を施し、配慮しなさいと教える。したがって黄金律は、それを実践に移すためには、かなりの道徳的努力を傾けなければならない倫理である。
黄金律の倫理には3種類の次元がある。第1に、「あなたが願わないことを人にしてはいけない」という消極的表現は、私たちが人から傷つけられることを願わないように、私たちも人を傷つけてはいけないということを教えている。次に、 「人からもてなしてもらいたければ、まず人をもてなしなさい」、または「あなたの隣人をあなたの体のように愛しなさい」という積極的な表現は、私たちがほかの人たちの欲求と気分を察し、彼らに慈愛深く対することを求めている。最後に、文鮮明先生の教えは、黄金律を「ために生きなさい」というそのみ言の根本原理を包含して、その意味を高揚させる。その教えの倫理は、私たちに犠牲と奉仕を絶えず促す。それは、縦的な関係の神様とその限りない愛を伝授され、常に利他的に生きていくことを求めている。

 

― 宗教経典 ―

 

人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
マタイによる福音書 7.12(キリスト教)35

 

子貢がおたずねしていった、「ひとことだけで一生行なっていけるということがありましょうか。」先生はいわれた、「まあ恕(思いやり)だね。自分の望まないことは人にしむけないことだ。」
論語15.24(儒教)36

 

自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。(注 6)
レビ記19.18(キリスト教)37

 

自分自身を愛するように兄弟を愛すまでは、誰一人信者ということはできない。
ナワウィー 40 のハディース13(イスラーム)38

 

大いに努力して思いやりの真心を他人に推し及ぼしてゆけば、……これこそ、仁を求める一番手近かな方法である。
孟子Ⅶ A.4(儒教)39

 

自分自身にとって不愉快なやり方で人に対して振る舞ってはならない。これが道徳の本質である。他の全ての行いは利己的な欲望によるものである。
マハーバーラタ、教訓の巻 113.8(ヒンドゥー教)40

 

幸福である時も、苦痛の中にいる時も、楽しい時も、悲しい時も、一切衆生をあなた自身のように思わなければならず、ほかの存在を傷つけてはならない。ほかの存在を傷つけることは、すなわちあなた自身を傷つけることである。
ヨーガシャーストラ2.20(ジャイナ教)41

 

かれらもわたくしと同様であり、わたくしもかれらと同様である」と思って、わが身に引きくらべて、生きものを殺してはならぬ。また他人をして殺させてはならぬ。
スッタニパータ705(仏教)42

 

尖った棒切れで幼い鳥を切ろうとする者は、まず自分を切ってどのくらい痛いか感じてみなければならない。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)43

 

ある異教徒がシャーマイのところに来て言った。「私を伝道してみなさい。私が一方の足で立っているあいだ、あなたが私にトーラを教えるという条件で」。するとシャーマイが手にしていた細い木の枝で彼を退けた。彼がヒレルのところに行くと、ヒレルが言った。 「あなたが嫌うことを人にも強要してはいけない。これがトーラの教えです。それ以外のほかのところは、すべて敷衍して説明したものにすぎない。さあ、もう一度行って学びなさい」。
タルムード、シャッバト31a(ユダヤ教)44

 

「我は生を欲し死を欲せず楽を欲し苦を厭ふ。…若し我命を奪ふ者あらば我可愛可意にあらじ。他も生を欲し死を欲せず楽を欲し苦を厭ふに、若し我、その命を奪はば可愛可意にあらじ。我に於て不可愛不可意の法は他に於ても不可愛不可意の法なり。我に於て不可愛不可意の法を我、云何ぞ他に加へんや」と。
サンユッタ・ニカーヤ 5.353(仏教)45

 

あなたの意志の準則が、同時に普遍的立法の原理として妥当たり得るよう行いなさい。
イマヌエル・カント 人倫の形而上学 46

 

― み言選集 ―

 

今日、人倫道徳やこの社会の道徳基準を中心として見るとき原理原則があるのですが、この原理はどのような基準によって成立するのかというと、「私のために生きなさい」というところから成立するのではありません。ために生きようとするところから原則が成立するのです。
(71-125、1974.4.29)

 

真の人生が行く道とは何でしょうか。一つの公理として立てるべきことはために生きよということです。孔子やイエス様や釈迦牟尼やムハンマドのようなすべての聖者の前に神様が現れて、「あなた方はどう思うか」と言われれば「正しい」と言います。それが宇宙の法則です。それが、人間が人生において真の姿で生きる一つの法だということを知るべきです。
(133-18、1984.7.1)

 

もてなしてもらおうとすれば、まず人をもてなさなければなりません。私がもてなしてもらってから人をもてなそうと考えてはいけません。「人にもてなしてもらおうとすれば、先にもてなしなさい」と言いました。先にもてなすことが原則です。統一教会の文先生はどうでしょうか。皆さんをもてなそうとしましたか、そうでなければ私がもてなしてもらおうとしたかというのです。皆さんにもてなしてもらおうとは少しも考えませんでした。人に負債を負ってはいけないというのです。
(50-339、1971.11.8)

 

真の愛の生活とはどのようなものでしょうか。一言で言えば「ために生きる生活」です。人が自分のために生きてくれることを願う前に、先に人のために生きる生活です。ために生きてあげたことを忘れてしまう生活です。ために生きてあげたからといって、何かを期待する生活ではありません。ために生きてあげても、もっとために生きてあげることができずにもどかしく思う生活です。ために生きても、謙遜に頭を下げてために生きる生活です。それで、イエス様も、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言い、 「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われたのです。
(433-179、2004.1.27)

 

4. 十戒

十戒はユダヤ教とキリスト教の倫理的価値観の土台として広く知られている。しかし、それと類似した倫理的原理の諸項目は、ほかの宗教でも発見される。クルアーンは、イスラームの十戒として命名された数種類の目録の倫理規範を含んでいる。山上の垂訓でイエス様は、この戒めが服従を強要する戒律ではなく、それが心からわき出て生きるようにするための教訓だと語った。仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教には、出家者と在家者のための十種類の戒律の項目があり、サーマーンヤ・ダルマという五つの普遍的ダルマの目録に圧縮される。これに比肩するもう一つの戒律は、仏教の八正道である。東洋的視覚にふさわしく、これらの大部分は内的な要素、すなわち自制心と慈悲心の涵養などを含んでいる。儒教は、戒律より関係性に特別な強調点を置いた五つの倫理的関係を強調する。
文鮮明先生は、神様の国を成し遂げるにおいて守るべき三つの戒めを公表した。第1に、純潔を守りなさい。第2に、人の心情を蹂躙してはいけない。第3に、公金を横領してはいけない。この三つの戒めは、特に姦淫、殺人、窃盗に対する十戒と比較することができるが、その中の2番目の戒めは、十戒の内的側面に対するキリストの教えだけでなく、正しい人間関係に対する儒教の教えを反映する心情問題と深く関連している。

 

― 宗教経典 ―

 

神はこれらすべての言葉を告げられた。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。(注 7)
出エジプト記 20.1~17(キリスト教)47

 

言え「さてわたしは、主があなたがたに対し禁じたもうことを、復唱しよう」。
かれに何ものでも同位者を配してはならぬ、両親に孝行であれ。
困窮することを恐れて、なんじらの子女を殺してはならぬ。
われは、なんじらもかれらをも養うものである。
また公けでも隠れても、醜事に近づいてはならぬ。
また、神が神聖化された生命を、正義のため以外には殺害してはならぬ。
このようにかれは命じたもう、おそらくなんじらは了解するであろう。
孤児が成人に達するまでは、最善の管理のためのほか、なんじらはその財産に近づいてはならぬ。
また十分に計量し正しくはかれ。
われは何人にもその能力以上のことを負わせぬ。
またなんじらが発言するときは、たとえ近親の間柄でも公正であれ、そして神の約束を全うせよ。
このようにかれは命じたもう、おそらくなんじらは留意するであろう。
まことにこれはわれの正しい道である、それに従え。
他の道に従ってはならぬ、それはかれの道からなんじらを離れ去らせよう。
このようにかれは命じたもう、おそらくなんじらは主を畏れるであろう。
クルアーン 6.151~153(イスラーム)48

 

ノアの子女たちに、七つの戒めが与えられた。社会法(社会正義)、神性冒瀆、偶像崇拝、姦通、流血、強盗、生きた動物を切った肉を食べることを禁ぜよ。 (注8)
タルムード、サンヘドリン 56a(ユダヤ教)49

 

あなたがたも聞いているとおり、昔の人は「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に「ばか」と言う者は、最高法院に引き渡され、「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
マタイによる福音書
5.21~ 22、27 ~ 28(キリスト教)50

 

赦し、謙遜、正直、潔白、定言、自制、耐乏、意欲、無執着、純潔、これら十のことは、在家者たちも当然に遵行すべき本分である。
タットヴァールターディガマスートラ9.6
(ジャイナ教)51

 

殺生をしない、ものを盗まない、みだらな行為をしない、嘘をつくこと(妄語)と二枚舌と悪口とへつらいのことばをやめること、貪りと怒りと邪な考えを捨てること、以上が十種の善の行ない(十善業
ごうどう道)であって、その反対が十種の不善の行ないであります。
ナーガールジュナ(龍樹菩薩)宝行王正論
8 ~ 9(仏教)52

 

不殺生、真実、盗みをしないこと、清浄、感官の抑制―かいつまめば、これらが四身分に共通の正しい生き方(ダルマ)であるとマヌは語った。(注 9)マヌ法典10.63(ヒンドゥー教)53

 

苦滅道聖諦とは何か。これこそが聖なる八支の道です。すなわち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定です。では、苦についての智、苦の生起についての智、苦の滅尽にいたる道についての智があります。これが正見と言われます。また、正思惟とは何か。欲を離れた思惟、怒りのない
思惟、害意のない思惟です。これが正思惟と言われます。
また、正語とな何か。妄語から離れること、両舌から離れること、悪口から離れること、綺語から離れることです。これが正語と言われます。
また正業とは何か。殺生から離れること、偸盗から離れること、邪淫から離れることです。これが正業と言われます。
正命とは何か。聖なる弟子は、邪な生活を捨て、正しい生活によって生活を営みます。これが正命と言われます。
正精進とは何か。比丘は未だ生じていないもろもろの悪しき不善の法が生じないように、意欲を起し、努力し、精進し、心を励まし、勤めます。すでに生じているもろもろの悪しき不善の法が捨断されるように、未だ生じていないもろもろの善の法が生じるように、すでに生じているもろもろの善の法が存続し、消失せず、増大し、拡大し、修習が成就するように、これが正精進と言われます。
正念とは何か。比丘は身において身を観つづけ、もろもろの受において受を観つづけ、心において心を観つづけ、もろもろの法において法を観つづけ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。これが正念と言われます。
正定とは何か。比丘はもろもろの欲を確かに離れ、もろもろの不善の法を離れ、大まかな考察のある、細かな考察のある、遠離から生じる喜びと楽のある、第一の禅に達して住みます。大まかな考察・細かな考察のない、心の安定より生じる喜びと楽のある、第二の禅に達して住みます。喜びが消えていることから、第三の禅に達して住みます。……第四の禅に達して住みます。これが正定と言われます。
マッジマ・ニカーヤ(中阿含経)3.251~ 252
八正道(仏教)54

 

天下の(常に行われて百王も変えないところの)達道は五つ。これを行うためのものが三つ。それは君臣であり父子であり夫婦であり兄弟であり、朋友の交わりである。この五つのものは天下の(人間に常に行われる道理で、それによって物事が開通する)達道である。
中庸 20.79(儒教)55

 

― み言選集 ―

 

今までこの地上に聖賢、あるいは賢哲たちが出てきて、人生の行く道を教えてくれました。 「このように行きなさい」、あるいは「このようなことを注意して生きなさい」と言いながら、ある方向性を立ててくれたりもしました。……それで、堕落の人生の道を歩んでいるかわいそうな人間たちに、大勢の聖賢たちは、三綱五倫(注 10)などで人類を教育し、モーセは十戒を紹介したのであり、さらには、大勢の道人たちもそのような一面を開拓するために苦労してきたことは間違いないというのです。
(7-16 ~ 24、1959.7.5)

 

今から守るべき鉄則が三つあります。第1に、死ぬほどのことがあったとしても血統を汚すなということです。今から、祝福を受けた血統は、神様の血代であり、神様の愛と生命を受け継いだものなので、今までの堕落世界に染まった習慣的な行動で汚してはなりません。それを守ることができますか。夫婦になっている人も、配偶者がいなければ一人ででもいいので、完全に血統を汚さないという人は、目を閉じて決意し、神様だけを見つめて力いっぱい手を挙げて誓いましょう。
第2に、人事措置を間違えて、人権を蹂躙するなということです。男性であれ女性であれ、黒人であれ白人であれ、平等です。人権を差別したり、人権を蹂躙したりするなということです。人権を正しく指導するにおいては、真の愛、「ため」に生きる愛をもって暮らす人が主流です。天地創造は、そこから始まりました。その主流思想を乱すことは許されません。罪の中で2番目の罪です。
第3に、公金を盗むな、公金を自分勝手に使うなということです。働きもせずに、規則も守らずに良い所で寝ようとすることはみな公金略取です。公的な環境を破壊するのです。国家財産の略取と同様に恐ろしいのです。そのように生きる人は、いくらうまくやろうとしてもうまくいきません。そのように生きてみてください。いくら神様の前に祈祷しても、伝道できません。以上の三つです。監獄に入ってみると、そこにいる人の 70 パーセント以上が、これらのことゆえに監獄にいるのです。人権を蹂躙し、血統を汚し、男女問題に引っ掛かっています。それから、金銭問題、権力問題です。お金と知識と権力が怨讐だったというのです。
1番目が何ですか。純潔であれ! 2番目は? 人権を蹂躙するな! 3番目は? 公金を略取するな! きょうのこの記念日に、天の国の王権を維持し、皆さんが王権の前に民となり、父母となり、妻子となり、兄弟となるためには、これが絶対に必要です。
それゆえに、兄を無視することはできません。弟の体が不自由だからといって、無視することはできません。親戚を無視することはできません。世の中は、みな無視するでしょう。知識があるといって、大学を出た人だといって、高卒の人を無視してしまいます。それは、人権蹂躙になります。
では、どのようにしなければなりませんか。どのように生きていきますか。正しく生きなければならないでしょう。正しく生きるにおいて、一人で暮らすことを正しく生きるといいますか。一緒に暮らさなければなりませんが、正しく生きるということの中には何が入りますか。神様の公式法度として立てられたものの中で、どのような環境、どのような人たちと共に暮らせば、正しく生きることになるのかというのです。簡単です。それも三つです。父子関係、夫婦関係、兄弟関係です。兄弟関係は夫婦の前では子女になります。
子女関係を兄弟関係といってもかまいません。彼らと一つになって正しく生きなければなりません。正しく生きるためには、正しく生きることができるように指導しなければなりません。お互いが手本になってこそ、それが正しく生きることになるのです。手本になっていなければ、正しく生きていないのです。父母の前に、夫婦の前に、子女の前に手本となれるように暮らせば、それが正しく生きることなのです。そのように正しく生きればどのようになりますか。天の国の王がいて、地上の王がいれば、その王たちが正しく生きている家庭を訪問する日が来ます。毎年、年の初めに、その国で最も正しく生きている家庭を訪問して表彰する時が来るというのです。
今から、逆賊として追われて死ぬようなことがあったとしても、この法を守って生きれば、間違いなく天の国の皇族圏となって、どこででも自由、統一、解放の家庭になります。きょう、これを肝に銘じてくださるようお願いします。これを標語として定めるのです。
3000 年標語の中で、みな純潔血統、それから、人権平準化、それから、国家の公的財産略取……。それから何ですか。父子間において、夫婦間において、子女間において手本になろうというのです。兄弟といってもいいです。先に兄弟がすることは、その生活を子女たちが見習うのです。そうではないですか。自分の親戚、親族がみな正しく暮らせば、息子、娘が見習うようになっています。そうしてこそ、手本になります。町内中がみな、「あの人に従っていかなければならない」と言い、「あの人のように暮らしたい」と言えば、その人は、間違いなく天国の民となり、天の国に記憶され得る人になります。きょう、神様の王権即位式において最も重要な3大鉄則を話しました。それは、私たち人間が公人として必ず守るべき、家庭にあっても、国にあっても引っ掛かることのない指針です。この日に、十分に覚えておくに値する内容であることを肝に銘じて、生涯の標的としてくださるようお願いします。
(324-298 ~ 306、2001.1.13)

 

夫婦が堕落しては絶対にいけません。堕落すれば大変なことになります。その次に、人を愛しなさいというのです。その次に、公金を重要視しなさいというのです。心情問題、人間問題、万物問題、この三つが重要なのです。
天の国の憲法を制定したとしても、心情問題が第一条に該当します。その次に人間問題、愛の人間がいなければならないので、人間問題を重要視するのです。男性と女性の問題、祖父母、父母、自分たちの問題、その次に兄弟問題と隣人、親戚間の問題、社会問題などはすべて人間問題です。人間を愛さなければなりません。
(169217、1987.10.31)

 

5. 律法を越えて

律法は神様に至る道を案内するが、多くの伝統宗教で神聖な人生の理想は、律法の境界の向こうにある。したがって律法は、束縛から抜け出すようにする教えであると同時に、もう一つの束縛ともなり得る。例えば、パウロは、教訓的ではあるが、依然として拘束的なモーセの律法を、イエス・キリストを通して得ることのできる救援の恩寵と対比した。律法の命令を遂行することだけで救援を得ることはできない。それは、依然として善と悪の絶えることのない葛藤の中に落ち込んだ心の最も深い内面を刺激しないからである。したがって、律法はせいぜい予備的な価値をもつにすぎない。さらには、世俗的な準則が誤用されたり、乱用される状況で、良心はより高い心の法に従うように導く。
律法の向こうに絶対者と関連したより高い次元がある。そこに至って人々は、行うことに制限がなく、良心の波動が神様の願いと常に一致するという点を確信する。しかし、自由に行うといって、霊性の生がどんな罪を犯してもかまわないと誤解してはいけない。完全に自由にしたとしても、依然として天的な基準と原理があるものである。したがって、正しく悟った人は、その天的原理と一つになりながらも、それによる束縛感を感じないのである。

 

― 宗教経典 ―

 

神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。
ヨハネの手紙一 3.9(キリスト教)56

 

悟りに満ちた者は、決して悪行にふけることはない。彼の良心は、真理で完全に映し出された知性によって導かれるからである。
アーヤーランガ・スッタ1.174(ジャイナ教)57

 

来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、 「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
エレミヤ書 31.33 ~ 34(キリスト教)58

 

さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。
ローマの信徒への手紙 3.19 ~ 22、7.5 ~ 6
(キリスト教)59

 

高い徳の人は徳を自慢しない。
だから、徳がある。
低い徳の人は徳にこだわる。
だから、徳がない。……
だから、 「道」が失われると徳がそこにあり、
徳が失われると仁愛がそこにある。
仁愛が失われたのちに道義がきて、道義が失われたのちに礼儀がくる。
礼儀は信義を欠くことで、無秩序の第一歩となる。
道徳経 38(道教)60

 

本心を見失った人は、福徳を修めるのみで仏道を修行せず、福徳を行うことがそのまま仏道だとばかりいっている。物を施したり仏法僧に供養するなどその福徳には限りがないが、自分の心中の三種の悪行ははじめから作られている。
六祖壇経 6(仏教)61

 

かの十八の祭資は祭祀の形なせる不安定なる小舟に過ぎず。これらに基づく祭儀は低劣なるものといわれる。かくの如きものを勝道と思い喜ぶ痴愚の輩は再び老死の世界に堕つ。愚昧の輩は無知なるままにあれやこれやと行事をなしつつ「我こそ道を得たり」と驕る。彼等祭祀主義者は慾念に迷わされて真理を悟らざるが故に、果報尽きたる天界よりみじめな姿もて退堕す。迷乱せる輩は祭祀と善行を最勝事と想い、これに勝れるものあるを知らず。彼等は殊妙なる天界の背(頂)にて福祉を享受したる後、この世界あるいはさらに劣れる世界に入る。およそ森林において苦行と信仰とを修め、心を寂静にして、乞食行を行ずる賢者は罪垢を去り、太陽の門を過ぎて、かの自性不滅なる不死の神人の在ます処にゆく。
ムンダカ・ウパニシャッド1.2.7~11(ヒンドゥー教)62

 

スブーティよ、実に、誰かが、「求道者の道に向かう者には、なにかの法が滅んだり、断ちきられたりするようになっている」と、このように言うかも知れない。けれども、スブーティよ、このように見てはならない。
金剛般若経 27(仏教)63

 

「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。
コリントの信徒への手紙一 6.12 ~14(キリスト教)64

 

― み言選集 ―

 

真の愛で家庭教会を完成すれば、天国に入っていくのですが、門が分からなくて、東側、西側、12 の真珠門を逆さまに入っていってもOKです。居眠りしながら入っていってもOKです。どれほど自由ですか。真の愛は法を超越します。このような特権をもった真の愛を今知りました。今知ったので、実践すれば皆さんは、天国に全員行けます。
(116-249、1982.1.1)

 

心と体が一つになれば、宇宙が……。すべて宇宙の縮小体です。すべて知っているのです。学ぶ必要がありません。人間がどのように生きなければならないのか、ということを教える必要がありません。倫理道徳を教える必要がありません。見てください。すずめの世界や動物の世界で、倫理道徳教育をしますか。自分たち同士で保護し、生理的に自分の一族を連結させて生きることを知っているのに、どうして万物の霊長がこのようになっているのですか。堕落したので争いが起きるのです。
(162-223、1987.4.12)

 

今までの歴史を見ても、人倫道徳は心から始まります。いつでも正しい心をもって事をなして良心の呵責を受けない人は、何も怖くありません。いくら悪の世界の暴君の前に行っても、堂々としています。
(19-288、1968.3.10)

 

善は、この宇宙が保護育成し、自由と平和が宿っており、生命と権勢が共にあるのです。これを屈服させることができるものは、天地のどこにもないというのです。ここに異議がありますか。善になるときには、大統領も恐ろしくありません。六法全書が適用されたとしても関係がありません。いくら刑法がたくさんあっても、その法とは何の関係もないというのです。それゆえに、世の中の法は、良心の基準を通過することはできません。すなわち世の中の法は、善の権限を侵犯することはできない、という結論が出てくるのです。
(16-134、1966.1.2)

 

統一教会は何ももっていませんが、境界線があるかないかというとき、境界線はないと言うかもしれませんが、そうではありません。厳然として境界線があります。また、その線を越えてはいけない、越えるなというそのような線があります。そこを越えれば、必ずほかの何かの形態に転換されるか、ほかの所に属するようになる、このような存在として決定されるのです。
(90-9 ~10、1976.12.5)

 

私は秘密の力をもっています。神様の胸に入り込んでも、神様が怒ることなく喜ぶ秘密をもっています。それは何でしょうか。理想的な真の愛です。神様がそのような公式を適用したのです。すべてのことを公式的にするようになっています。数学ですべての宇宙を……。自然科学も解く公式があるのに、愛の世界にそのような公式がないでしょうか。そのようなユニットがなければ、世界の地の果てから来るすべての人を、何をもって操縦するのですか。
(170-256、1987.11.22)

 

6. 二重属性

二重属性は、宇宙に広がっている普遍的な現象である。すべての存在は男性と女性、光と影、天と地、心と体、主体と対象、個体と全体、そして存在と非存在という二重属性をもつ。この両極の間の躍動的な相互作用は、生殖力と創造力の源泉である。これは自然の周期的な循環、昼と夜の変化、そして季節の変化などによって現れる。二重属性は、男性神と女性神の宇宙的結合によって神話的に描写され、科学で見るように、原子と分子を構成する電磁気的相互作用として知られている。ある宗教、特に儒教と道教は、陽(男性)と陰(女性)の二重属性を自然の支配的な原理、そして正しい方式として、人間を教育できる人生の原理とみなしている。
文鮮明先生は、自然を深く洞察した結果、自然の二重属性を一つの体系的な存在論に発展させた。先生は、自然の相互作用を詳細に洞察したのち、ために生きる人生の原理の基盤を発見した。与えることが受けることに対して先行してこそ、円満な関係性が形成されるからである。さらには、自然の反発力は、三存在を一双に転換させる効果を発揮することによって、一双となったものがもつ創造的で包容的な関係性の領域をより強く保護する。また、文鮮明先生は、このような根拠を基盤として、対立と葛藤に根を置き、実在に対する誤った観念を教えるマルクスの弁証法を批判した。

 

①男性と女性の二重属性

― 宗教経典 ―

 

またわれは、すべてのものを両性につくった、おそらくなんじらは訓戒を受け入れるであろう。
クルアーン 51.49(イスラーム)65

 

すべてのものは対をなし、一方は他方に対応する。主は不完全なものを何一つ造られなかった。一方は他の長所を更に強める。だれが主の栄光を見て飽き足りたといえようか。
シラ書(集会の書)42.24 ~ 25(キリスト教)66

 

天と地の原始の創造者。かれはなんじらのために、なんじら自身の間から、夫婦を、また家畜にも雌雄をつくりたもう。このようにして、なんじらを繁殖させたもう。
クルアーン 42.11(イスラーム)67

 

かくて易には陰陽未生以前の根源として太極があり、太極から陰陽の両儀を生じ、両儀はさらに分かれて四象(陰陽二交の組み合わせ、すなわち老陽・少陽・少陰・老陰)を生じ、四象は八卦を生ずる。この八卦の組み合わせにより万事の吉凶が定まり、その定められた吉凶によってもろもろの大いなる事業も成就される。
易経、周易繫辞上伝11.5 ~ 6(儒教)68

 

往昔、生主神は子孫を欲して苦行を修めた。苦行を修め終わって財(物質)と気(生命)という一対のものを生ぜしめた。このふたつのものがわがために多種多様の子孫を造ってくれるように、といって。ここで気とは太陽のことで、財とは月のことである。
プラシュナ・ウパニシャッド1.4 ~ 5(ヒンドゥー教)69

 

ムジャヒードが言った。「神は万物を二つに創造された。男と女、天と地、太陽と月、夜と昼、明と暗、人間と精霊、善と悪、朝と夜、あらゆる種類の糧と風と音を創造された。神は御自身の偉大さの証としてこのすべてのものを造られた。
クルトゥビー クルアーンの諸規定の集成17(イスラーム)70

 

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
創世記1.27(キリスト教)71

 

「男と女を創造された」、このみ言は、男と女の条件に当てはまらない人は、真で適合した人ではないということである。……見よ、主なる神は男女が共にいない所にはおられず、その方の祝福もやはりその場には臨まない。
ゾハール1.55b(ユダヤ教)72

 

すべての生命、生きているもののすべての鼓動は、永遠の彼であり永遠の彼女として顕現するシヴァ・シャクティの一対の真理の偉大な宣言とともに脈打っている。(注11)
クラールナヴァ・タントラ3(ヒンドゥー教)73

 

あの天がいっぱいに育み、2人の子を生んだが、それが男と女である。彼らが天上の形にそって天と地になった。地は天から注がれる水を飲んで生きる。上層の水は男であり、下層は女である。女は男から扶養される。下層の水は女が男を受け入れるように、上層の水の気を引く。そして、種を宿そうとする男の水と出会うため、水を浴びるのである。
ゾハール1.29b(ユダヤ教)74

 

本有的特性は二つである。なぜなら、知恵は女であり、手段は男だからである。その後、この二つは、相対的なものと絶対的なものに区別される二重的なものとなった。男の中にこの二つの本質、すなわち悟りに対する思い(相対性)と、それから起きてくる至福(絶対性)がある。女の中にもそれは同様だ。すなわち、悟りに対する思いと、それから起きてくる至福がある。
呼金剛 8.26 ~ 29(仏教)75

 

陽の変化と陰の変化が結合し、水火木金土の五つの気運が生じる。五気が順調に広がって四つの季節が運行する。五行は一つの陰陽であり、陰陽は一つの太極である。
周敦頤 太極図説(儒教)76

 

― み言選集 ―

 

すべての存在世界は、ペア・システムになっています。人間も男性と女性、動物も雄と雌でしょう? 昆虫も雄と雌でしょう? 蝶も、鳥も、蟻もすべてそうであり、鉱物も同じです。鉱物も元素が 107 個にもなりますが、それはむやみに合わさったりしません。しかし、自分の相対になるものは、合わさるなといっても合わさるのです。プラスとプラスが互いに反発するものは、神様でもくっつけられません。しかし、相対性があれば、くっつくなと言っても自動的にくっついてしまうのです。
(203-355 ~ 356、1990.6.28)

 

宇宙を観察してみれば、すべての存在は陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶことによって存在していることが分かります。これは、鉱物という次元から出発してすべての場合に当てはまります。分子は、陽イオンと陰イオンの結合を通じて形成されます。植物の場合、生存と繁殖は、雄、雌を代表する雄しべと雌しべの結合を通じてなされます。
動物の場合、このような二性性相がよりはっきりとします。魚類、鳥類、哺乳類等、すべての動物は雄と雌によって存在します。最後に、神様の最高の創造物である私たち人間も、男性と女性に区分されています。最初の男性アダムと最初の女性エバは人類の始祖です。このような二性性相の存在目的とは何でしょうか。神様は、なぜこのような方式で創造をされたのでしょうか。
創造主は、万物を陽性と陰性に区分し、これらが互いに愛を授け受けすることを通して結合するように創造されたのです。愛の行為を通じて、すべての種はその数を増やし、系譜をつないでいくのです。
(201-204、1990.4.9)

 

ペア・システムは宇宙創造の原則です。上下、前後、左右、子を生みながらすべての宇宙が生じたので、昆虫の世界から植物世界、動物世界、人間世界、天地、すべてペア・システムでできています。
五官もペアになっています。手もペアであり、心と体もペアです。私たち人間において最も問題になることは、心と体が一つにならないことです。目も両側が同時に瞬きします。鼻も一緒に呼吸します。唇も、話をするときに勝手にしません。聞くことも、三半規管があって、共鳴できるようにすべて一つになっています。手も、片手では仕事ができません。歩くのも、2本の足が協力しなければなりません。すべてが相対を必要としているのです。
動いて作用しようとするので、そうなのです。作用は独りではできません。独りで作用しては、神様には似ません。五官自体が父母に似ているので、相対関係を必要としています。相対関係に適応し、大きな宇宙が、相対性を中心として共同的な目的のために、対応的な、和合した世界に連結されてこそ、完成品になるのです。小さければ小さいなりに、大きければ大きいなりに、宇宙は宇宙なりに、対応関係によってバランスを保っています。それは、授受作用して運動しなければ、なくなるからです。
(391-174、2002.8.21)

 

創造するにおいては、人間を中心に、人間をモデルとして東西南北、四方に広げて橋を掛けて造ったのです。それで、すべての万物、鉱物、植物、動物界、すべてが相対になっています。すべて相対に造ったというのです。そのように縦的な道と横的な道をペアでつづりながら行くのです。ジグザグに行くも
の、このように運動するもの、様々な形態の作用を経ながら、ペア・システムを中心とした万物は、理想的愛を訪ねていくことができる人間の教材です。
(173-212、1988.2.18)

 

あらゆる植物の種を見るとき、その内部に相対的な両側があるので、完全一体となったまま、一つの殻の中で胚子を通して授受作用することによってのみ、生命を繁殖するのです。卵を見ても、黄身と白身の間に胚子があるのですが、一つの殻に包まれたまま一体を成しているのです。人間の胎児も同様です。
あらゆる生物は、主体と対象が授受作用によって一体化すれば、人間なら人間、植物なら植物はその原因に似て繁殖し、結局根本に還元するのです。このすべてが究極の第一原因に似たのであれば、その第一原因的存在も、主体と対象が完全一体化した基本形態として、すべての存在に対して主体格を
もっているという結論になります。
(89-226、1976.11.27)

 

神様の立場で見れば、神様がいくら主体で、いくら絶対者だとしても、相対がいなければ孤独なのです。世界的に自分がいくら多くのものをもっていても、あるいは多くの知識があっても、また、多くの権力があったとしても、孤独単身の立場で喜ぶことのできる道はないのです。
神様は、なぜ天地を創造されるようになったのでしょうか。神様は、絶対的な主体ですが、主体だけでいては喜びがあり得ないというのです。喜びというものは、一人でなされるものではなく、相対的関係においてなされるものです。平和も幸福も、一人でなされるのではありません。相対的関係においてのみ平和が成し遂げられるのであり、幸福が成し遂げられるのです。それゆえに、神様も独自的な立場では、神様の本分を果たすことはできないというのです。
(58-210、1972.6.11)

 

宇宙のすべての存在を見れば、主体と対象、プラスとマイナスのペアになっています。鉱物界、植物界、動物界、そして人間世界もすべてペア・システムになっているのです。なぜかというと、すべてがこのような相対関係を通して真の愛を願うからです。この宇宙の中で、絶対に一人では得られないも
のが愛ですが、反面、相対が現れることによって愛で連結されたすべてのものを得るようになるのです。
同じように、子女なくしては子女を愛する父母の愛が現れず、子女に対する父母の愛の主人にもなれません。したがって、神様も、真の愛を成し遂げるためにその相対として宇宙と人間を創造されたのです。
このように、子女の愛や兄弟の愛、夫婦の愛、そして父母の愛、すべてが主体と対象が一つになることによって現れます。主体と対象で一つになれば、この二つを分けることはできません。もし分けるとすれば、真の愛が破壊されてしまいます。ですから、離婚という概念はあり得ません。
(300-214 ~ 216、1999.3.14)

 

全被造万物を相対的につくったのは、神様の真の愛を受けるようにするためです。一つしかない愛を受けるようにしようというのです。それで相対的につくりました。そのような男性、そのような女性が神様の愛を完成させ、神様の愛を自らに決定的に結びつけられる姿になれば、同じ立場で愛を分かち合える立場に立てば、彼らは間違いなくたった一つの理想的な夫婦になります。
(26-155 ~156、1969.10.25)

 

神様が人間を造られたのは、御自身のパートナーを造られたということです。真の愛のパートナーとして人間を造られたのです。それを手本として、全宇宙がペア・システムをもって造られたのです。ですから、神様の愛も永遠であり、男性の愛も永遠であり、女性の愛も永遠であり、子女の愛も永遠です。
これが神様の家庭です。ですから、この家庭は永遠の家庭なのです。
(201-193、1990.4.1)

 

②精神と物質の二重属性

― 宗教経典 ―

 

プラクリティ (根本原質)とプルシャ(個我)とは、二つとも無始であると知れ。諸変異と諸要素とは、プラクリティから生ずるものと知れ。
プラクリティは、結果と原因を作り出す働きにおける因であると言われる。プルシャは、苦楽を享受することにおける因であると言われる。
というのは、プラクリティに宿るプルシャは、プラクリティから生ずる要素を享受するから。彼が要素と結合することが、彼が善悪の胎から生まれる原因である。この身体における最高のプルシャは、近くで見る者、承認者、支持者、享受者、偉大な主、最高の自己と言われる。……
動不動のいかなるものが生じようとも、それは「土地」と「土地を知る者」との結合によると知れ。バラタ族の雄牛よ。(注12)
バガヴァッド・ギーター13.19 ~ 22、26
(ヒンドゥー教)77

 

私たちの体はただの一つの殻である。内外に、ただ天地の気運と陰陽があるだけである。
朱熹(儒教)78

 

神は非物体的本性と物体的本性とを、また、先におかれた本性とあとにつづく本性とを不思議な仕方で結合させて魂あるものをおつくりになった。その御業の大いなること、おどろくべきことは、理性的動物であって、そのことゆえに地上のすべての動物にまさってすぐれている人間だけでなく、どんなに小さなねずみをもよく眺めるならば、精神をおどろかせ、創造者への賛美をよびおこすであろう。
アウグスティヌス 神の国22.24(キリスト教)79

 

― み言選集 ―

 

400 兆にもなる細胞をもつ私たちの人体を構成するにおいては、必ず循環過程の運動が連結されています。その循環運動を通して存続するのです。そうではないですか。血液は動脈と静脈を中心として循環し、神経系を中心として上下を連結させることのできる電気作用によって循環運動をするのです。見えない循環系統、見える循環系統の二重になっているのです。
(262-126 ~127、1994.7.23)

 

すべての存在は二重目的をもつ連体である。既に述べたように、すべての存在の中心には、性相的なものと、形状的なものとの二つがあるので、その中心が指向する目的にも、性相的なものと形状的なものとの二つがあって、それらの関係は性相と形状との関係と同じである。そして、性相的な目的は全体のためにあり、形状的な目的はそれ自体のためにあるもので、前者と後者は、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、主体的なものと対象的なものという関係をもっている。それゆえに、全体的な目的を離れて、個体的な目的があるはずはなく、個体的な目的を保障しない全体的な目的もあるはずがない。したがって、森羅万象の被造物は、このような二重目的によって連帯しあっている一つの広大な有機体なのである。
原理講論、創造原理 3.1

 

この被造世界はどのように存在しているのでしょうか。軸があるのですが、その軸にも、二つがあります。見える軸と見えない軸、二重構造になっているのです。一つの主体を中心として回るのですが、その主体自身も回るのです。体と心が相対を中心として授け受ければ、互いに回るようになるのと同じことです。
すべての存在物は、このような原則によって存在します。同様に、今日堕落した人間世界における復帰の道も、軸を直さなければいけません。軸を直さなければなりません。人間において、体の中心は心です。霊人体があるのです。霊を中心として、体がつながっているために、体は霊を中心として回るのです。心の命令に体が動くのです。心が「東に行け」と言えば、東に行かなければならず、「西に行け」と言えば、西に行かなければなりません。体が勝手にすることはできません。
(136-14、1985.12.20)

 

③授受を通して現れた二重属性

― 宗教経典 ―

 

雨水が地に落ちるたび、地球はその2倍の水分を送り上げる。
創世記ラッバー13.13(ユダヤ教)80

 

本当に天と地の創造、また夜と昼の交替の中には、思慮ある者へのしるしがある。
クルアーン 3.3190(イスラーム)81

 

主なる神が造られた被造物が、どれほど互いに世話になっているかを見よ。昼は夜に、夜は昼に、互いに世話になっている。しかし、これらは人間たちのように、互いに告訴したりしない。……月は星に、地は天に、すべての神の創造物たちは、互いに世話になっているが、そうしながらも互いに裁判することはなく、平和を維持している。しかし、人間は、友に借りたものをかえって強奪し、奪おうとする。
出エジプト記ラッバー 31.15(ユダヤ教)82

 

日往けば月来り、月往けば日来り、日月相い推して明生ず、寒往けば暑来り、暑往けば寒来り、寒暑相い推して歳成る。往くとは屈するなり、来るとは信ぶるなり。屈信相い感じて利生ず。尺蠖の屈するは、もって信びんことを求むるなり。竜蛇の蟄るるは、もって身を存するなり。義を精しくし神に入るは、もって用を致すなり。用を利し身を安んずるは、もって徳を崇くするなり。これを過ぐる以往は、いまだこれを知ることあらず。神を窮め化を知るは、徳の盛なり。(注14)
易経、周易繋辞下伝 2.5.2 ~ 3(儒教)83

 

難と易はたがいに補いあい、長と短はたがいにそれぞれの位置をしめ、高と低はたがいに調和しあい、前と後とはたがいに順序をもつ。
道徳経 2(道教)84

 

何事にも時があり / 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時 / 植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時 / 破壊する時、建てる時
泣 く 時、 笑 う 時 / 嘆 く 時、 踊 る 時
石を放つ時、石を集める時 / 抱擁の時、
抱擁を遠ざける時
求める時、失う時 / 保つ時、放つ時
裂く時、縫う時 / 黙する時、語る時
愛する時、憎む時 / 戦いの時、平和の時。
コヘレテの言葉 3.1~ 8(キリスト教)85

 

天地陰気が密接にまじわりあうことによって万物が見事につくり成され、男女がその精気を交合させることによって万物が生み成される。易に「三人行けば、一人を損す。一人行けば、その友を得」とあるのも、二つのものが力をあわせてこそ一つのことを成就し得るということを言っているのである。
易経、周易繫辞下伝 2.4.13(儒教)86

 

さて天は高くして尊く、地は低くして卑いという事実にのっとって、易の基幹ともいうべき乾・坤の二卦が定立される。また天地間の万物があるいは高くあるいは卑く陳なり並ぶ事実にのっとって、易の各卦における六交の貴賤が位地づけられ、陰陽二気の動静に恒常的な条理の備わることにのっとって、易の各卦の剛交と柔交とが区分される。(注 15)さらにおよその事が善悪邪正におもむく方向はその類をおなじくするもの同志で相い集まり、およその物は群れを同じくするもの同志で相い分かれることにのっとって、易の卦交の判断にも吉凶の別が生ずるのであり、陰陽の二気が天に在っては日月星辰の象
かたちを成し、地に在っては山川・動植物の形を成すことにのっとって、易の卦交にも陰が陽に変ずるという変化の作用が現われるのである。
易経、周易繫辞上伝1.1.1~ 5(儒教)87

 

三十本の輻が車輪の中心に集まる。
その何もない空間から車輪のはたらきが生まれる。
粘土をこねて容器ができる。
その何もない空間から容器のはたらきが生まれる。
ドアや窓は部屋をつくるために作られる。
その何もない空間から部屋のはたらきが生まれる。
これ故に、一つ一つのものとして、これらは有益な材料となる。
何もないものとして作られることによって、それらは有用になるもののもとになる。(注16)
道徳経11(道教)88

 

愛は巡り巡ってくる。愛された者は愛する者に似ることによって、愛する者を感動させる。すると、愛する者はその愛された者を迎えるために出ていく。最初に始めた者がすなわち最後になる。
トマス・アクィナス 神学大全(注13)(キリスト教)89

 

― み言選集 ―

 

授け受けするにおいて、差が一つもなければどうなるでしょうか。それは長く続くのです。石のようなものも、長く続く石はどのようなものでしょうか。完全に授け受けするものは長く続くのです。しかし、そこに不純物が入り込んでいるとき、完全に授け受けできないので、その差が大きければ大きいほど早く崩壊するのです。ですから、宇宙の天法とは何でしょうか。存在の法則とは何でしょうか。それは授け受けすることです。完全に授け受けしなければなりません。良く授け、良く受ければ、長く存在しますが、良く授け受けできなければ崩壊してしまうのです。
(157-266、1967.4.10)

 

作用には必ず二つの作用体、主体と対象がその過程を通して、よりプラスにならなければなりません。そのような所においてのみ作用するという事実を、結論づけられるのです。ですから、作用の目的を見てみれば、これはプラス(主体)よりも大きく、マイナス(対象)よりも大きな第3の存在、結果的存在が出てくるようになるのです。きょう皆さんは、ここに集会があると思って来たのですが、ここに来た目的はどこにあるのですか。それは、来るときのその心よりも、よりプラスになり得る、もう少しよくなり得る、その何かを求めてきたのです。もしここに来てマイナスになり得る結果をもたらしたとす
れば、そのような作用はだんだんとなくなっていくのです。ですから、この現象世界で見えるすべての作用は、自らを減少させるために作用する存在は一つもないという結論を下せます。
(56-134 ~135、1972.5.14)

 

私自身を中心として見るとき、受けたいと思いますか、与えたいと思いますか。深刻な問題です。それで「統一原理」には授受作用という言葉が出てくるのです。授受作用で、この「授」が先ですか、この「受」が先ですか。与えることが先です。父母が子女のために与えますか、子女が父母のために与えますか。父母が与えるでしょう?これを見るとき、存在の最初の起源になるその方から与えることが始まり、作用が連結されたという論理を認めなければなりません。(注17)
(239-59、1993.11.23)

 

世の中のすべてのものは回ります。運動をしないものがありません。動くようになるとき、どこから始まるのでしょうか。皆さんはすべて受けることを願います。お金を引っ張り込むことを願います。それが正しいかどうかは、宇宙の原則から解いていかなければなりません。原則がそうであれば、神様も
否定できないでしょう。神様が創造を始めるとき、受けようとして引っ張る力で創造したでしょうか、与える力で創造したでしょうか。与える力です。投入する力です。
(239223、1992.11.25)

 

すべてのものは、一から多くのものに分かれ、結局、一つの大きなものに総合されます。このように発展するのです。一からいろいろなものに分かれ、一つに統合されるのです。ここでまた分かれて、より大きなものになります。より大きな一つの世界の中にすべて入っていくという話です。
(26-189、1969.10.25)

 

この宇宙には相対圏があるので、宇宙が、天運が保護します。ですから、プラスにプラスが来れば反発するのであり、またマイナスにマイナスが来れば一緒に反発するのです。……この宇宙には和合力と排斥力があるのですが、相対するものは和合し、相反するものは排斥するのです。宇宙の天運は、自分を損傷させようとするものから自ら保護するようになっています。このような原則的論理が符合する所においてのみ、相対圏が形成されるので、ここにほかのものが来るとき、相対圏が傷づくので反発するのです。反発する力が悪いものではありません。……
宇宙は、和合と同時に反発する作用があるというのです。和合力と反発力があります。相反する力があったとしても、それは一緒に同伴してマイナス化させるのではなく、天運の完成を助けるための作用をするのです。もし作用に対して反作用の力がなければ、歩くこともできません。
(227-36 ~ 37、1992.2.10)

 

妻が死んだり、夫が死ぬと、なぜ悲しいのですか。自分の夫が死んだといってなぜ妻は取り乱し、我を忘れて泣き喚くのですか。ただ泣くのではなく、ひっくり返って泣くのですが、なぜそのようになるのかというのです。男性と女性の相対圏を結び、愛を中心として永遠の宇宙の法の圏内に入っていたものが、相対圏が乱れることによって、皮膚が赤くなるほど押し寄せてくるその力によって悲しみと痛みを感じるのです。
友人関係でも、その相対圏がなくなった場合には寂しく思います。知識も友であり、お金も友であり、権力も友であり、すべて友です。その友人関係においてもそうだというのに、永遠の主流となる愛の基準を中心として築いた相対圏を失ったその痛みは、宇宙と取り替えても消えない痛みだというのです。
その原則によって、数億ボルトの電気がプラスになるところには相対圏が必要なのです。そのプラスは、相対圏が成立しなくなるときは壊れます。一度、プラスの電気とマイナスの電気が相対圏をつくった場合、ここにほかのプラスが来れば、その相対圏は破壊されるのです。宇宙の保護圏を侵害するのと同じ立場に立つので、プラス同士は反発するのです。自分の相対位置を保護するための反発作用は、第2の保護作用です。宇宙は、そのような対応、反発という力によってバランスを取っているのです。それは悪い力ではなく、作用と反作用の平均によってバランスをとるようになります。
それがどのようにして来るのですか。結婚する前の女性たちは、大勢の女性たちが集まって互いに腕組みをしながら歩けます。男性も同様です。子犬のようにじゃれながら、男性同士で村を騒がしくさせて歩き回ったり、互いにじゃれ合ったりして一つになります。しかし、その男性がある日、結婚をして女性が来た場合に、自分より美男子の友人が自分の横に立って自分の妻の前に現れることを願うでしょうか。それを願う男性はいません。蹴飛ばしてしまうのです。「あしたから来るな、こいつ!」と言うのです。
このとき、行けと言うのは悪いことではありません。「お前も私のように宇宙の法に合う立場に立て!」と言って蹴飛ばすのは、完成の道に導くことになります。これは初めて聞く論理でしょう。
ですから、どこに行ってもプラスとプラスのときは相対圏になりません。自分が大きくなれば、周囲の環境が、あの人が中心に立って相対圏を支配してくれないかと願うようになるのです。自分が相対圏に立つようになるとき、全体がそのようになり、一つの関係を中心として相対理想圏をつくろうというようになるというのです。
(218-335、1991.8.22)

 

このようなことが原則だとすれば、進化論は成立しません。対象の路程を通じたアメーバから猿まで、数千、数万回の愛の門を通じた雄と雌の関係を無視すれば、連結されないのです。雀もそうです。冬は相対のようなものが分からないので、戯れて、それぞれ別々のプラスになっていますが、春になって巣をつくり、相対圏をつくったときには絶対的です。第三者の雀に対しては雄と雌が一緒になって絶対的に排斥するのです。雌が来れば雄が排斥し、雄が来れば雌が排斥します。自分の相対圏を壊すのでそのようにするのです。宇宙の法圏内の侵略者になるので、それを排斥するようになっています。
(218-338 ~ 339、1991.8.22)

 

いわば弁証法的論拠があると見るのです。歴史的な上下闘争の概念があると見るのです。ヘーゲルはそのように見ました。これを解決できなければ、歴史のすべての理想世界も、上下関係の構造的組織をもった組織体の平和や理想郷というものも探し出す道がありません。強者は弱者を無視し、のみ込もうと
し、冷遇し、どのように扱っても罪ではないと考えます。
(132142、1984.5.31)

 

ある人々は、宇宙が力によってつくられたといいます。もちろん、すべての存在が力によって構成されていることは事実です。しかし、その力が存在するためには何が必要でしょうか。それぞれの存在は力自体ではありません。そこには必ず相対的な基準がなければなりません。私たちは力を認める前に相対基準を認めなければなりません。相対基準を認めれば、主体と対象を認めなければなりません。
主体というのは、時によって変化する存在ではいけません。目的を決定し、永遠の存在圏をつくることのできる存在でなければならないのです。そこにおいて認められる相対的関係は、主体に対して相応できる関係でなければならず、相対的に反発する関係になってはいけません。
相対的関係というのは、「正」という基準に「反」というものが互いに対立して、それが一つに統一されるという正反合の関係ではなく、主体の前に対象が応じる関係です。すなわち、主体と対象が相応し、共通の目的を中心に作用することを意味します。これが完全な授受作用をして相対圏に到達すれば力が現れるようになり、そのときに初めて中心が決定するのです。しかし、いくら作用したとしても、それが反対に作用すれば、世界は破壊されてしまいます。
(15-53、1965.2.7)

 

7. 相互依存

大小すべての存在は、相互依存的な関係の網で連携している。全体を離れて個体は存在できない。したがって、一つの分離された個体として「自分自身」を考えることは、認識の根本的な誤謬である。アインシュタインはそれを「意識の視覚的迷妄……私たちを自らの個人的な欲望に閉じ込め、私たちとごく近い何人かの人々に限定させる一種の監獄」と呼んだ。彼は、私たちが「生きているすべてのものと、美しさに満ちた自然全体を包容することによって愛の範囲を広げ、私たち自身をこの監獄から解放させなければならない」と言った。
事実、仏教の経典によれば、宇宙の最初から最後まで、すべての存在は因果の網、すなわち因縁の鎖に縛られている。このような理解は仏教の「無我説」の土台になる。すべての存在が「私」であり、「私」がすなわちすべての存在だという認識、それが仏教の慈悲倫理の核心である。その倫理こそ、人々が「私」の救いだけを目標と信じる個人主義の病弊を治療する治療薬である。事実、ほかの人々が苦痛の中にいる限り、誰も究極的な平和を得ることはできない。

 

― 宗教経典 ―

 

これ等の人々は自といふ念に囚われ、他といふ念に縛せられる。或るものはこれを知ることなく、又そを矢なりと見ず。矢なりと豫め見たる人には我は為すといふ念も起ることなく、他が為すといふ念も起ることなし。
感興偈 70(仏教)90

 

わたしたちは、互いに体の一部なのです。
エフェソの信徒への手紙 4.25(キリスト教)91

 

諸の因縁を遠離し、能作者あるなく、唯心の建立する所なり、我は是を無生なりと説く。諸法は因生に非ず、無に非ず、能所の分別を離る、我は是を無生なりと説く。其の心に外物有と非有と(の相)を取ること無くむば、一切の〔邪〕見ことごとく断ぜむ、此を是れ無生の相〔とは謂ふ〕なり。……
因縁はともに集会す、是の故に生滅あり、因縁分散すれば、即ち生滅あることなし。……若し因縁の鎖を離るれば、生の義は得べからず。我は唯ただこう鉤鎖を説く、生なきが故に不生なり、(これ)諸々の外道の過を離る、凡愚の了る所にあらざるなり。
若し縁の鉤鎖を離れて別に生法あらば、是即ち無因論にして鉤鎖の義を破壊す。
燈の能く物を照すが如く、若し鉤鎖の現ずるも〔亦〕然らば、これ即ち鉤鎖を離れて別に諸法あらむ。無生なれば即ち無性なり、体相は(猶ほ)虚空の如し、鉤鎖を離れて法を求むるは、愚夫の分別する所なり。……
一切の諸の世間は、是の鉤鎖に非ざるは無し。若し能く是の如く解げせば、此の人は心に定を得む。(注18)
楞伽経 78(仏教)92

 

そのように他者のからだをも自分であると、なぜ把握しないのか。自分のからだを他者においても、そのようにすることは難しくない。自分自身には過失があり、他者においても海のような功徳〔があるの〕を知れ。我執を完全に捨て去ることと、他者を受け入れる修習をすべきである。あたかも「手な
どはからだの一部である」と考えるように、そのように衆生の一部として、なぜ生きものを考えないのか。あたかも、無我であるこのからだに慣れにより自分という心が生じたように、他の有情に対しても、慣れによって、自分という心をなぜ生じないのか。
そのように、他者の利益をなしても、自賛も自慢も生じない。自分自身が食事を食べても、見返りを期待しないように。
菩提行論 8.112 ~16(仏教)93

 

美があまねく美として認められると、そこに醜さがでてくる。
善があまねく善として認められると、そこに不善がでてくる。
だから、有と無はたがいに生まれ、難と易はたがいに補いあい、
長と短はたがいにそれぞれの位置をしめ、高と低はたがいに調和しあい、
前と後とはたがいに順序をもつ。
だから、賢者は干渉しないでものごとを扱い、言葉のない教えをする。
道徳経 2(道教)94

 

人は誰もが他人との相互関係の中に置かれている。そして、その関係は運命という服をまとっている。一人に直接的な影響が加えられれば、ほかのすべての人に間接的にその影響が戻っていくものだ。ほかの人が自分の立場で本分を果たすとき、私もやはり自分の立場を取り戻すことができ、私が私の立場で責任を果たすとき、ほかの人たちも自分の立場を取り戻すことができる。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア 95

 

― み言選集 ―

 

宇宙はごく小さなものからこの上なく大きなものまで、すべて関係と連関性をもっている。 (16119、1966.1.2)

 

すべての存在の中心には、性相的なものと、形状的なものとの二つがあるので、その中心が指向する目的にも、性相的なものと形状的なものとの二つがあって、それらの関係は性相と形状との関係と同じである。そして、性相的な目的は全体のためにあり、形状的な目的はそれ自体のためにあるもので、前者と後者は、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、主体的なものと対象的なものという関係をもっている。それゆえに、全体的な目的を離れて、個体的な目的があるはずはなく、個体的な目的を保障しない全体的な目的もあるはずがない。したがって、森羅万象の被造物は、このような二重目的によって連帯しあっている一つの広大な有機体なのである。
原理講論、創造原理1.3.1

 

すべて相対性を中心として共同的な目的のために対応し、和合した世界に連結されてこそ、完成品になります。小さければ小さいなりに、大きなものは大きなものなりに、宇宙は宇宙なりに対応関係でバランスをとっています。なぜですか。授受作用、運動しなければならないからです。
(391-175、2002.8.21)

 

天運(注 19)は自分のために生きようとするものはすべて否定しますが、人のために生きようとするものはますます抱いてくれるのです。目で例えれば、両方の目が1. 2であれば、「いやあ! 気分が良い。はっきり見える」と目が喜ぶのです。なぜ喜ぶのですか。天運が保護するからです。天運が全宇宙に連結されるのです。それで永遠に見ることができます。無制限に透視されるので、その領域が無限定に拡大されていくのです。耳も同じです。相対のために生きるとき、関係性をもつようになります。相対のために生きることが関係性をつくる力だというのです。
(244-107 ~108、1993.1.31)

 

人体の中で目を見てみれば、簡単に見えますが、複雑なのです。目の細胞も、それぞれはすべて複雑です。すべて複雑ですが、一つの生命体として生活するにおいて、これが互いにぶつかり合うのではなく、互いに協助して共存しているのです。ですから、「私は目も何もすべて嫌いだ、手が一番だ」と言うことはできません。前後、左右、上下関係において、位置と階級に従って、必ずそれぞれ制約された法度と条件に順応しなければ、行く道がありません。通じる道がないのです。
(49193、1971.10.10)

 

人類は何ですか。一つの細胞と同じです。そして、それが自分勝手になるのではなく、全体が一つの極を成すのです。極を成して、全体の中心となる神様と人間、人間がいれば、人間全体を合わせたものが、互いに相対的関係を中心として、これ自体が生命力の発露体、これ自体が愛の発露体として目的を成就するその原因と結果が一致すれば、目的が成し遂げられるのです。原因と結果が結合することによって、一つの目的を完成した価値体として現れなければなりません。
(110-73、1980.11.9)

 

私たち人間が追求する最高の理想の要素が愛ですが、愛が良く授け良く受けられるようにしなさいというのです。私たちの主体を中心として宇宙を連結し、すべて軸となって電気が連結されているように、軸を通して良く授け良く受ける木と同じだということです。一番の中心の根の先と芽の先は常に相対的です。これが良く授け良く受けてこそ大きくなるのであって、これが及ばなければ、根も小さくなり、すべて小さくなるのです。
(165-177、1987.5.20)

 

8. 原因と結果

蒔いたとおりに刈り入れるという格言、神様の審判に対する信仰、そして業報の教理などは、世界が正義によって支配されるという普遍的な考えを多様に表現したものである。諸宗教は、現世での運命や輪廻転生、または来世の生を通してでも正義は実現されるという、様々な特定の方式に関する教えを提示する。このようにすべての宗教は、正義はそのような方式で報いられるという点に同意する。慈悲深い創造者が意図したとおり、善の行為は報いられ、悪の行為は罰を受けるというのは、宇宙の固有な本質である。これが正に因果の法則である。
因果の法則は、神聖な法と同様に、究極的実在とどのように関連しているのか曖昧である。東洋の宗教における正義の法則は、宇宙の構成において本質的なものであり、このような点から、それは解脱という究極的目標に従属される。業と輪廻の車輪は、因果作用を示してくれるが、このようなものは人間存在のぞっとするような恐ろしい暗い側面にすぎず、輪廻の循環が消滅する涅槃と解脱という究極的目標とは無関係である。
一方、唯一神の宗教は、正義を守るために罪を罰する神聖な審判官として神様を描写する。しかし、審判官として子女を審判する役割が父なる神様の目的だとは言えないだろう。かえって神様は、愛と真理で人類を救援の道へと導く。したがって、文鮮明先生が指摘するように、私たちは神様の審判を、その被造世界に対する主管、すなわち宇宙法則の作用を通して正義を具現するよう創造されたこの世界に対する主管に該当すると言える。
ここの節では、二つの側面の原因と結果に対して言及する。第1には、蒔いたとおりに刈り入れるという正義に対する言及である。文鮮明先生は、個人の人生においてのみならず、蕩減すべき罪を犯した国と民族の歴史においてもこの法則の例を提示する。諸経典は、たとえこの世界が不義を容認し、正しくないことを罰しないかのように見えたとしても、究極的な個人の応報は、天国または地獄に運命づけられた来世にあると語る。これに関して文鮮明先生は、その意味を増し加え、罪人たちは天使の審判のためではなく、地上の人生における悪行のために自ら地獄にとどまらざるを得ないと教える。
第2には、万物の成長と完成過程において作用する普遍的原理として、原因と結果に対する言及である。私たちは、結果が原因と無関係に生じないということを知っている。むしろその二つは、互いに密接に結ばれている。仏教の核心教理である縁起論は、この概念の消極的な面を示してくれるが、それは無知が因果的連鎖を通して苦悩という人間の全体的状況に展開されるからである。道教の経典は、この概念の積極的な側面を示しているが、原因と結果は互いの尾をくわえながら回る天の運行だというのである。文鮮明先生は、原因者として神様がこの世に臨在し、この世のあらゆる所で役事されながら、結果として、最後には人間を通して自らを現すと教える。究極的に原因と結果である神様と人間は、愛を通して始まりと終わりとなり、ついには結合するようになる。

 

①因果応報

― 宗教経典 ―

 

思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。
ガラテヤの信徒への手紙 6.7(キリスト教)96

 

なんじらに降りかかるどんな不幸も、なんじらの手がかせいだためである。
クルアーン 42.30(イスラーム)97

 

剣を取る者は皆、剣で滅びる。
マタイによる福音書 26.52(キリスト教)98

 

暴力は苦痛を生むだけであるがゆえに、当然このことを理解して常に警戒しなければならない。
アーヤーランガ・スッタ3.13(ジャイナ教)99

 

灰は、それをまいたその人に舞い戻ってくる。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)100

 

彼らは風の中で蒔き / 嵐の中で刈り取る。芽が伸びても、穂が出ず / 麦粉を作ることができない。作ったとしても、他国の人々が食い尽くす。
ホセア書 8.7(キリスト教)101

 

しかし愚かな者は、悪い行いをしておきながら、気がつかない。浅はかな者は自分自身のしたことによって悩まされる。―火に焼きこがされた人のように。
法句経136(仏教)102

 

よろずの事の終末は神に帰着するのである。
クルアーン 31.22(イスラーム)103

 

神に角がないのではない。彼にも角がある。あらゆる行為に対して、彼は厳しく審判を下される。
オヴァンボ族の格言(アフリカ伝統宗教)104

 

この世においてなされた不正な行為(アダルマ)は牝牛〔が乳を出す〕ように即座には結果を生まない。しかし徐々に巡り来て行為者の根を断ち切る。
マヌ法典 4.172(ヒンドゥー教)105

 

人の運命の中に懺悔と幸福のための特別な門はない。それらは、人々自身がそれらを呼ぶことでついてくる。それらの報いは、まるで影が実体についていくように善と悪がついていく。
陰隲文、応報書1(道教)106

 

大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこにいても、悪業から脱れることのできる場所は無い。
法句経127(仏教)107

 

自然の網はすべてを包みこむ。その目はあらいが、何も逃さない。
道徳経 73(道教)108

 

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。
ローマの信徒への手紙12.19(キリスト教)109

 

不信心に向かってむてっぽうに急ぐ者のために、なんじの心を痛ませてはならぬ。かれらはいささかも、神をそこなわぬ。神は来世において、かれらに福分を与えることを望みたまわぬ。かれらは重い刑罰を受けるであろう。……信じない者に、われが与える猶予を、かれら自身のために有利だと思わせてはならぬ。われはただ、かれらの不義を増長させるために、それを与えているのだ。かれらは恥ずべき刑罰を受けるであろう。
クルアーン 3.176・178(イスラーム)110

 

すべての取引には誓いが伴う。利益を求めようとする心が、生きているあらゆるものに宿っている。店の門が開き、商人たちは信用によって取引をする。取引帳簿が置かれ、そこに手で記録をする。お金を貸そうとする者は、誰もが来て借りていく。しかし、集金者は、定期的に毎日巡回し、債務者の事情は意に介さず、きちんと定められた金額をもらっていく。債権者たちは、彼らが要求できるものをいつでも取ることができる。審判は真理の審判であり、世の中のあらゆることは祝祭のためにある。
ミシュナ、アヴォート3.20(ユダヤ教)111

 

まして天地は物の中で最大である。理屈から言ってあらたかな神が宿って当然。神があるからには善を賞し悪を罰すること不思議でない。ただ神体が大きくて網の目があらいから、必ずしも打てば響くように反射的に発動するわけではない。
抱朴子(注 20)(道教)112

 

マズダーよ、わたしくがみとめ奉ったのは、アフラよ、わたくしが、世を生み出し給う際の御身をはじめに見奉ったときで、そのとき、御身は創造の終末の一周に際し御身の善巧によって悪には悪い報応を、善には善い報応をと、行為とことばとをして報償をうけるように定め給うたのでした。
アヴェスター・ヤスナ 43.5(ゾロアスター教)113

 

行なったとおり、実践したとおりになるのである。正しく行なうものは正しい者となる。悪を行なうものは悪となる。善の行為によって〔人は〕善となり、悪の行為によって〔人は〕悪となる」……「いま〔人びとはつぎのように〕いう。『人間(またはプルシャ)はただ欲望からなるものである』と。かれは欲求するように意向するものとなり、意向するとおりに行為をおこない、行為をおこなうと、それ(行為に応じた結果)となるのである」……「したがって、ここに〔つぎのような〕詩節がある。『それのみが真に実在するものであり、〔そこにかれは〕行為とともにおもむく。そしてそこにおいてはかれの性格と思考作用が付着している。さらにかれがこの世で行うその行為のおわりに達すると、かの世からこの世にふたたびもどる。行為のために……』(注 21)以上は欲望をいだいている者である。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド4.4.5~ 6
(ヒンドゥー教)114

 

― み言選集 ―

 

体を中心として自分の生命を維持するにおいては、すべてのものが、主体と対象が授け受けする授受作用をよくしなければなりません。授け受けするすべてのものが、全体が良く授け、良く受ければ、その肉体が円滑に運動し、生存が継続します。ところが、どこかが詰まればどのようになるでしょうか。この宇宙は、神様の理想的存在型として良く授け良く受けるものはすべて擁護します。擁護するこの世界の要素の中で反対要素が発生し、欠如したり、ある所が詰まれば、擁護圏で作用できない不合格者になるのです。したがって、その反作用によって吐き出されるようになります。それは宇宙自体の保護のためです。世界には作用と反作用があります。その反作用は悪いものではありません。大概、悪いものと
して反対に見ますが、それは大きなものを保護するための作用なのです。したがって、見る観点が変わらなければなりません。
ですから、おなかが痛ければ、それはおなかを中心としてある主体の前に対象的な位置で、授け受けできる回路が詰まったというのです。詰まったので、詰まってしまった基準だけ反対に追い出すようになります。宇宙力によって追い出す力がそこに作用するので痛むのです。詰まったものを開きさえすれば、薬でその門を開きさえすれば、回復するのです。
同じことです。私たちの良心世界や、人のすべての世界が苦痛を受けるのですが、なぜ苦痛を受けるのかというと、それは宇宙力に不合格となり得る要素をもっているために、宇宙がそれを追い出すことによって良心の呵責を受けるのです。それが正常な方向であるにもかかわらず、そこに反対となる立場に立てば、その作用ができなくなるので、必ず反対に苦しめる作用が痛みとして現れるのです。反作用が現れて地獄行きになります。
(165-176 ~177、1987.5.20)

 

アメリカも、天主教から分かれた新教を中心として、ヨーロッパで新しい宗教に反対する旧教の中で、よく信じる教派を選んで移動させ、建設した国です。大移動したのです。大移動してここに基盤を築いたのです。……
アメリカはイギリスの延長です。ですから、イギリス人が果たせなかったことまでアメリカですべて蕩減しなければなりません。イギリスが今までアジア、中国に来て何をしたかというと、アジア人たちをすべて阿片で殺害してしまいました。今までアジア地域に来てそのような政策を用いたのです。それで勢力基盤を完全に崩し、麻痺状態になったものを自分たちが今まで支配してきました。ですから、その罪を蕩減しなければなりません。それをアメリカにいる皆さん、今若い家庭や高等学校の学生たちがすべて蕩減しなければなりません。そうしなければ滅びます。歴史に背いてしまうというのです。
(105-134、1979.10.4)

 

神様の愛の法に背くのは悪であり、怨讐であり、容認できない罪です。神様の前に怨讐であり、容認できない罪だというのです。罪の中で一番恐ろしい罪です。怨讐の中で神様が最も嫌う怨讐です。その道を是正できない者は、神様の怨讐であり、罪人として扱うので、激しく打って滅びるようにするのです。滅ぼすようにするのが原則です。皆さんの中にはイタリアのポンペイ市に行ったことのある人がいるかもしれませんが、その都市が滅んだのも、紊乱な愛の社会生活のためでした。ソドムとゴモラもそれで滅亡したのです。ローマもそれで滅びました。このような公式的な歴史観によって推し量ってみるとき、アメリカもそのような愛を是正せず、悔い改めなければ、滅びます。
(104-141、1979.4.29)

 

皆さん! 日帝下で反日地下運動をしていた私にとって、日本民族は怨讐でした。民族的にはもちろん、個人的にも怨讐でした。しかし、日本が敗戦したのち、私は日本人を愛しました。地下独立運動をしたといって引っ張られていき、ひどい拷問をした日本の警察官たちは、私の一言ですべて処刑され
る立場だったにもかかわらず、かえって追われている彼らを安全に送ってあげたのです。
今日、日本の多くの若者たちが、なぜ私に永遠の命を懸けて忠誠を果たすのか分かりますか。因果法則によって報いなければならない原則があるからです。それは国家を超越し、神様の心情的なみ旨に従い、世界に向かって真の愛を植えたからです。国家的な怨讐を愛し、生きる道に導く心情的基盤を植えたために、自分たちも知らないうちに、天命に従っているのです。
(316-82、2000.2.10)

 

②因果の連鎖

― 宗教経典 ―

 

世間は行為によって存在し、人々は行為によって存在する。生きとし生ける者は業(行為)に縛せられている。あたかも進み行く車が轄に結ばれているようなものである。
スッタニパータ654(仏教)115

 

あるとき、悟りを開かれたばかりの世尊はウルヴェーラー村のネーランジャッラー河畔の菩提樹の根方におられた。さてそのとき、世尊は七日間同じ姿勢で坐ったまま解脱の楽しみに浸っておられた。その七日が過ぎて、世尊はこの三昧から出られ、宵のうちに、次のような順序を追って、正しく縁起に心を注がれた。これがあるときこれがある。これが生ずるときこれがある。すなわち、無明(無知)によって行(迷いの生活行為)があり、行によって識(心)があり、識によって名色(個体を成す心身)があり、名色によって六処(内なる心と外界を知覚する六つの領域)があり、六処によって、 触(内なる心と外界との接触)があり、触によって受(心による外界の感受)があり、受によって愛(渇きのごとき強い欲望)があり、愛によって取(執着)があり、取によって有(迷いの生存)があり、有によって出(出生)があり、生によって老い・憂い・悲しみ・悩み・悶えが生ずる。この苦の集まりである人間存在はそのようにして起こるのである。(注 22)
感興偈 1.1(仏教)116

 

人間はその生命のはたらきを天地の根源より受けたのであるから、その霊妙な働きにたちかえって生きなければならない。
荘子 27(道教)117

 

見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。
ヨハネの黙示録 22.12 ~13(キリスト教)118

 

― み言選集 ―

 

物事には原因と結果があり、結果は過程を通過するので、原因と結果は一つになります。一致するには、過程という条件が必要です。過程という条件は、原因に通じなければならず、結果に応じなければなりません。そのような関係を離れては一つになることはできず、目的完成もできないのです。出発点がなければ目的もありません。
(15-130、1965.10.3)

 

本質世界と現象世界との関係は、例えていうならば、心と体との関係に等しく、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、そして、主体的なものと対象的なものとの関係をもっているのである。
原理講論、総序

 

どこに行かなければなりませんか。いつも喜べる所、あるいはいつも喜べる方を訪ねていかなければなりません。この方が絶対者である神様なのです。神様は、動機の世界と結果の世界にいらっしゃいます。すなわち原因と結果としていらっしゃるのです。ですから、アルファでありオメガだと言ったのです。
人間が原因と結果の過程にいることを知れば、神様と人間の関係を知るようになります。歴史は、原因の世界から結果の世界に向かっています。ですから、人間の良心はこの過程の道を進んでいるのですが、歴史の流れが早いので、これについていこうとする良心は2倍に忙しいのです。
動機は神様がなり、人間を結果として立てなければなりません。堕落しなければ、人間が歴史の原因になっていたでしょう。ですから、原因をもてなかったことが堕落です。
(11-114、1961.2.19)

 

主体と対象は一つにならなければなりません。原因と結果も必ず一つにならなければなりません。聖書を見れば、神様が「私はアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである」(黙示録 22・13)と言いました。二つが離れるのですか。一つになるのです。神様がアルファであれば、私たち人間はオメガです。神様が最初の者であれば、私たちは最後の者です。神様が初めであれば、私たちは終わりです。
(69-76、1973.10.20)

 

誰であっても、根本を否定する人は結果をもてません。すべての息子、娘の根本は父ですが、その父を否定すれば、結果である息子、娘をもてません。これは論理的です。原因と結果が一つになることによって、理想や喜びのようなものがあり得ます。女性が母になる原因も自分自身にあるのではありません。
(328-185、2000.8.3)

 

男性を通して女性世界を1周回って、二人が一つになります。二人がぐるっと1周回れば、出会います。出会えば、上がっていかなければなりません。同様に、女性と男性が出会って、互いにために生きなければなりません。男性と女性が結婚し、1周回って出会い、神様のために犠牲になるのです。そこから正分合です。愛のために分かれて、愛のために出会ったので、愛のために原因と結果が一つにならなければなりません。原因と結果の内容が一つになったところにすべて結びついて、初めて種になります。授受作用の循環的法度を通さなければ、統一世界はできません。
(389-303、2002.8.7)