世界経典Ⅱ 第1部 神様と創造 第3章 人生の目的

第3章 人生の目的

1. 神様の完全な喜びのために

被造物として人間は、創造主によってある目的をもって創造された。特に唯一神の諸宗教において、神様が自らに仕え、愛し、自らに栄光を返すために人間を創造したと理解する。そうだとすれば、人間は仕えることと服従することだけでも完成することができる。しかし、神様は父として、私たち人間が世の中で全人類に愛と慈悲を広く展開することによって、その形状と姿に似た子女になることを願うだろう。いくつかの経典でも、神様はあらゆる現象を享有する方として描写されている。神様は、創造目的が完成されたとき喜ぶだろう。神様にそのような喜びを返してあげなければならないのが私たち人間の特権である。文鮮明先生は、創造性を備えた相対として人間を造られた神様の創造目的を説明しながら、私たち人間が神様の愛に満ちた家庭を成し、互いに愛で万物と一つになるとき、神様は自らの分身として愛の本性に似た多くの子女たちを見て喜びを享受すると教える。ところが、人類始祖の堕落によって、人々は愛が満ちた家庭を築くことができなかっただけでなく、愛によって万物を主管することもできなくなった。したがって神様は、今まで満ち足りた喜びを享受できずにいらっしゃる。(第6章13.「神様の悲しみ」参照)

 

①人生の目的は神様に仕えること

― 宗教経典 ―

 

わしに仕えさせるためにのみ、ジンと人間をつくったのである。わしはかれらにどんな糧も求めず、またわしの扶養されることも求めない。まことに神こそは、糧を授けたもう方、偉力の主、堅忍の主であられる。
クルアーン 51.56 ~ 58(イスラーム)1

 

神が御自身の世を造られるとき、ひとえに御自身の栄光のために創造された。それゆえ預言者イザヤはこのように歌った。「彼らは私の民だと呼ばれる者たち、私の栄光を輝かせようと私が創造した私の民、私の手で造り出した私の民である。」
ミシュナ、アヴォート6.11(ユダヤ教)2

 

わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。
コリントの信徒への手紙一 8.6(キリスト教)3

 

神は、男の信者も女の信者も、……永遠(エデン)の園の中の立派なやかた、そこに住むことを約束したもうた。だが最も偉大なものは、神のご満悦である。それこそは、至上の幸福の成就である。
クルアーン 9.72(イスラーム)4

 

神を畏れ、かれのおよろこびを求めて、その家の礎を定め建てる者と、砕け崩れそうながけのふちに、その家の礎を定めて建て、地獄の火の中に共に砕け落ちる者と、いずれがすぐれているか。神は、不義を行う民を導きたまわぬ。
クルアーン 9.109(イスラーム)5

 

わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。
申命記 30.16(キリスト教)6

 

人が至上のものとする知恵や作為の道をひろめることなく、天において至上とされるもの―自然の道をひろめなければならない。天の道をひろめれば自然の幸福が生まれるが、人の道をひろめれば、危害が生まれる。
荘子19(道教)7

 

もし人々が神を知り、その方の能力の偉大さを発見することがあなたの願いならば、私ではない誰か他の人の目ではなく、私自身の目で私を見よ。そうでなければ、たとえあなたが私の王国が持続する間、私の動機を慎重に考えるとしても、あなたは決して私を知ることはできない。
バハオラ 落穂集127(バハイ教)8

 

― み言選集 ―

 

本来、人間は、父母である神様の前で、幸福で生気に満ちあふれた喜びの中で生きていくように創造されました。そして、神様の栄光のために存在するように創造されました。
(52-36、1971.12.12)

 

人間は何を目的としなければならないのでしょうか。個人を目的とすることより、家庭を目的とすることより、団体を目的とすることより、国家を目的とすることより、世界を目的とすることより、天地を目的とすることより、神様を中心として神様と人間が一つになることを目的として進んでいかなければならないのです。
(41-323、1971.2.18)

 

私たちは何を中心として生まれ、何を中心として行かなければならず、何を目的として行かなければならないのでしょうか。ここで、神様抜きにしては絶対にいけません。神様を抜きにしては動機のない因縁になるのです。動機をもつことができない人は、どんなことを成就しようとしても、その結果を収めることができず、価値を認めてもらえないのです。ある建物を建てるときは、設計者が設計した設計図に従って建築するようになります。設計の原本もなく建てられた建築物は、設計者が目的とした建物になることはできないのです。
(21-100、1968.11.17)

 

先生の生活は、神様のために生きる生活です。神様とこの世界のために生きると考えなければなりません。自分のために生きると考えてはいけないというのです。その次には、人類のために生きると考えなければなりません。神様と真の父母と人類です。それで皆さんは、神様と真の父母と人類を考えなければなりません。今まで皆さんが、どれほど天が願う生活と一致したかということを、常に比較しなければならないのです。 (147115、1986.8.31)

 

②人間を見て喜ばれる神様

― 宗教経典 ―

 

神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。
創世記1.31(キリスト教)9

 

私は隠された宝ゆえに、私を知らせるために被造物を創造したのである。
ハディース(イスラーム)10

 

萬有の主よ汝に南無す。汝は凡ての自我にして凡ての作者たり。汝は凡ての食者(経験者)にして、凡ての生命なり、而して又汝は凡ての戯楽主たり。
マイトリ・ウパニシャッド 5.1(ヒンドゥー教)11

 

幸福は真理と愛から生じる霊的なものである。それは利己的ではない。それで、それはひとつで存在することはできず、あらゆる人間がそれを一緒に分かち合うことを要求する。
科学と健康 57(クリスチャン・サイエンス)12

 

若者がおとめをめとるように / あなたを再建される方があなたをめとり /花婿が花嫁を喜びとするように / あなたの神はあなたを喜びとされる。
イザヤ書 62.5(キリスト教)13

 

せかいぢうみな一れつハすみきりてよふきづくめにくらす事なら

月日にもたしか心がいさむならにんけんなるもみなをなし事

このよふのせかいの心いさむなら月日にんけんをなじ事やで
おふでさき7.109 ~111(天理教)14

 

そのあなたが御心に留めてくださるとは / 人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう / あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り / なお、栄光と威光を冠としていただかせ
詩編 8.5 ~ 6(キリスト教)15

 

(あらゆる欲望を達せるものなるブラフマンには、いかなる行動目的も存し得ず。)しかるに(ブラフマンの世界創造は、)単に遊戯のみにすぎず。あたかも世間において(見らるる遊戯)のごとし。(故に特定の目的を有せず)
ヴェーダーンタ・ストラ2.1.32~33(ヒンドゥー教)16

 

われは天と地、ならびにその間にあるものを、戯れにつくったのではない。もし遊戯が、われの望みならば、きっとわが手近なものからそれを選んだであろう。もしわれがこんなことをするならば。いや、われは真理を虚偽に投げつけて、その頭脳を砕く、見よ、虚偽は消滅する。……天と地のよろずのものは、かれの有(もの)である。またその側近にある天使は、かれに仕えて高慢でもなく、疲れることもない。
クルアーン 21.16 ~19(イスラーム)17

 

神はこの世とそこに住み動くあらゆるものを創造し、神の拘束されない卓越した御意により人間に神を知り愛する独特の特異性と能力―全創造の基礎をなす発生進力、また主なる目的と見なされるべき能力―を与え給うた。すべての創造物の内奥の各実在に、神はその諸々の名の中のある一つの名の光を注ぎ、神の諸々の属性のうちのある一つの属性の栄光を受け入れるものとなし給うた。
バハオラ 落穂集 27(バハイ教)18

 

アッラーの預言者が言った。 「神様がおっしゃるには、私が勝利者になるためではなく、勝利しなさいとして人間を創造した。
アル・ガザーリー 宗教諸学の再興(イスラーム)19

 

― み言選集 ―

 

神様は、私の生活を通して喜びを味わおうとして、私を訪ねられた。
御旨の道、人格

 

神様がいかに絶対者だとしても、独りでは幸福になることができません。「うれしい」という言葉や「幸福だ」という言葉は、独りでは成立しない言葉です。必ず相対的関係を備えた所で成立するのです。一生を声楽家として生きてきた人でも、もし無人島に捨てられ、独りで喉が張り裂けるほど歌を歌ったとしても、幸福でしょうか。自存される神様も、喜び、幸福であるためには、必ず授け受けできる愛の相対が必要なのです。
平和神経、平和メッセージ 1.15、2005.9.12

 

神様は、真の愛を施すことのできる対象を必要としていらっしゃいました。これが創造の動機です。神様の創造は必然でした。真の愛の創造理想は独りで成す理想ではありません。御自身の気高く、善のみ旨を人間と共に喜ばれるための理想です。真の愛の神様を正しく理解すれば、今日の罪を犯して争う不幸なこの世界は、神様の本来の計画ではなかったことが自明のものとなります。
(400-81、2002.12.27)

 

家庭には必ず、父母がいなければならず、妻子がいなければなりません。そうであってこそ、その家庭が幸福の基台となるのです。神様が人類を探し求めてきた目的も、神様御自身の幸福を模索するためであったに違いありません。ですから、神様御自身が幸福の基台を求めてくるにおいて、人間を離れたところではそのような理想はあり得ないのです。人間と関係を結んでこそ、一致点をもたらすことができるのです。私たちが家庭において、情緒的な内容をすべて備えた立場で幸福を感じるのと同じように、神様もやはりそのような立場で幸福を感じようとなさるのです。
(32-197、1970.7.15)

 

神様に「あなたがこの世界を一つの世界にして何をするのですか。何をしようとそのような世界を願われるのですか」と尋ねれば、「ああ、一つの世界になれば喜ばしいので良いのだ」とおっしゃるでしょう。なぜ良いのですか。良くて何をするのですか。良いのは喜ぶためですが、喜んで何をするのです
か。神様はお金がなくて悲しまれますか。神様は知識がなくて悲しまれますか。神様は権力がなくて悲しまれますか。神様がお喜びになれないものが一つあるのですが、それが正に愛がないことです。愛がなくて悲しまれるのです。神様と人と万物を一つにできる愛さえもてば、神様は喜びの神様になるのであり、栄光の神様になるのであり、さらには、幸福の神様になれるということです。ですから、最も重要なものとは何ですか。神様の心情と人間の心情を通して万物までも吸収できる愛の力をもったものが、最も貴いのです。
(113-315 ~ 316、1981.5.10)

 

神様は、人間を造られるとき、あらゆる精誠をすべて尽くされ、また心血と御自身の生命の核心をすべて傾けて造られたのであり、ありったけの愛と愛情を注がれて造られたのです。いかなる力をもってしても、離そうとしても離すことができず、分かれようとしても分かれることができない因縁の中で造られたのです。このように造られた人間なので、そのような人間を見つめられる神様には、初めて平和が宿るのであり、すべての情と幸福は、その人間を通してのみ宿ることができるのです。
(20-207、1968.6.9)

 

神様は、天地万物を、見て喜ぶためにつくられました。今日の既成教会員たちが言うには、「神様は創造主であられ、私たち人間は被造物だが、創造主と被造物が同じになり得るか。違うだろう」と言います。それは正に、神様は常に独りで絶対的な位置、相対がない位置にいなければならないという話です。それ以上の不幸はありません。いくら父が国の大統領の権限をもったいるのに、「一人で暮らしているのでどれほどお幸せですか」と言う息子がいれば、「こいつ、何が幸せだ!」と言うでしょう。そのような状況なのに、父が世界的な大統領だからといって、「お父さん、幸せでしょう?」と言えば、
「おお、おお、幸せだ」、そのようになっていますか。孝子であれば、一人でいる父に、「お父さん! 私が母を一人お連れしましょうか」と言ってこそ孝子です。
(57-247、1972.6.4)

 

神が被造世界を創造なさった目的は、人間をはじめ、すべての被造物が、神を中心として四位基台を完成し、三大祝福のみ言を成就して、天国をつくることにより、善の目的が完成されたのを見て、喜び、楽しまれるところにあったのである。それゆえに、人間を中心とする被造世界が存在する目的は、神を喜ばせることであった。
原理講論、創造原理 3.1

 

2. 神様の形状

どのようにして人間が神様に似たということを描写できるのか。この節と次の節は、三つの側面からこの主題に関して説明する。第 1 に、人間は神様の形状として創造された。第2に、人間は神様の霊が臨在する器である。第3に、私たちは神様の愛らしい子女たちである。
ユダヤ教とキリスト教の諸経典は、人間が神様の形状として神様に似て創造されたと教える。神様の形状は、神性、真理、正義、愛などの理想を言う。聖者や自我を完成した人は、神様の神性を表す天国と似ている。このような理想に到達するためには、内的人間の変化、すなわち文鮮明先生が言及したように、「人格革命」を必要とする。
文鮮明先生の教えは、人間が神様に似るいくつかの方法に対して説明してくれている。先生は、全知、全能、絶対、永遠など、神様の属性を検討し、人間がこれと同一の品性をもつために努力していると語る。さらに、このような諸品性をもつことは、神様から受けた私たちの本性的権利である。
また、諸経典は、男性と女性がすべて神様の形状の中にとどまると断言する。神様は、ひとえに自らと完全な愛を分かち合うことのできる相対として人間を創造されたため、人間は一様に完全に神様に似なければならない。それゆえ、人間が堕落して毀損されていなければ、結婚によって一つになった男女により、神様の形状を完全に成就できたのである。

 

①人間は神様にどのように似たのか

― 宗教経典 ―

 

おお人の子よ! わが太古よりの存在と、わが本質の不変の永遠性に包まれて、われ汝への愛を知った。さればこそ、われ汝を創った。汝の上にわが面影を刻み、汝にわが美を表わした。
バハオラ 隠されたる言葉 3(バハイ教)20

 

神は言われた。 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。(注1)
創世記1.26(キリスト教)21

 

ラビ・アキバは言った。「人は愛を受ける存在だ。彼らが神の形どおりに創造されたからである。しかし、創世記9 章 6 節に『人は神にかたどって造られたからだ』と教えてくださるように、格別な愛で人にこの事実を知らせてくださった」
ミシュナ、アヴォート3.18(ユダヤ教)22

 

それでなんじは純正な教えに、なんじの顔をしっかり向けよ。神が人間に定めたまえる天性にもとづいて、かれの本性に従い奉れ。神の創造に、変更があるべきではない。それが正しい教えである。
クルアーン 30.30(イスラーム)23

 

あなた自ら神の性格に一致するようにせよ。
アブー・ヌッアイム ・ハディース(イスラーム)24

 

明(太陽)が地上に出れば、あたりをくまなく照らす。君子はこの卦象にのっとって、みずからの明徳をあきらかにして人に仰ぎ見られるようにつとめる。
易経 35(儒教)25

 

もし人々が天と同じであれば、地から受けたその心を正しくもつとき、それが正に神である。
清和天皇に下った啓示(神道)26

 

神は慈悲深く恩恵に満ちた方だと呼ばれるがゆえに、あなたも慈悲深く恩恵に満ちた人になりなさい。すべての者たちに無償で贈り物を与えなさい。神が義で愛多き方であられるがゆえに、あなたも義で愛を施す者になりなさい。
申命記スィフレイ(ユダヤ教)27

 

この世のすべてのものはそれ(「有」)を本質としている。それは真に存在するものである。それはアートマンである。……おまえはそれである。
チャーンドーギヤ・ウパニシャッド6.8.7(ヒンドゥー教)28

 

無知に被われて / 凡夫と覚者(ブッダ)の心は / 異って見えます
だが心の精髄の境地では / それらは〔平等〕一味のもの
ミラレパ(仏教)29

 

主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。
レビ記19.1~ 2(キリスト教)30

 

父よ、全能の力よ! あらゆるものの中にあるその力よ! 私たちに下りてきて、私たちを満たしたまえ。私たちがあなたのようになるまで、私たちがあなたのようになるまで。
スー族の祈り(アフリカ伝統宗教)31

 

「ヴァーセッタよ、どう思うか。梵天は妻帯しているか、していないか」(注 2)
「妻帯していない。ゴータマよ」
「心に恨む気持ちがあるか、ないか」
「恨む気持ちはない。ゴータマよ」
「心に悪意はあるか、ないか」
「悪意はない。ゴータマよ」
「心が汚れているか、いないか」
「汚れていない。ゴータマよ」
「自制心があるか」
「自制心がある。ゴータマよ」
「ヴァーセッタよ、どう思うか、三ヴェーダに詳しいバラモンたちは、妻帯している。か、していないか」
「妻帯している。ゴータマよ」
「心に恨む気持ちがあるか、ないか」
「恨む気持ちがある。ゴータマよ」
「心に悪意があるか、ないか」
「悪意がある。ゴータマよ」
「心が汚れているか、いないか」
「汚れている。ゴータマよ」
「自制心があるか」
「自制心がない。ゴータマよ」
「ヴァーセッタよ、梵天は、妻帯していないが、三ヴェーダに詳しいバラモンたちは、妻帯している。妻帯しているバラモンたちが、妻帯していない梵天と交際し、親しくなるということがあるだろうか」
「そのようなことはない。ゴータマよ」
「ヴァーセッタよ、その通りである。妻帯している三ヴェーダに詳しいバラモンたちは、身体が亡びた後、死んだ後、梵天と共生するであろうというが、この事に根拠はない」
ディーガ・ニカーヤ13.31~ 34
テーヴッジャ・スッタ(三明経)(仏教)32

 

人間とは何か。人間は物質ではない。それは、頭脳、血液、骨、そしてほかの物質的要素で組み立てられた存在ではない。聖書は、人間は神の形と姿どおりに造られたと私たちに教えてくれる。物質は姿ではない。霊の姿は霊とあまり異なるものがない。人間は霊的であり完全だ。そして、霊的であり完全なので、クリスチャン・サイエンスで人間はそのように理解されなければならない。人間は、観念であり、形状であり、愛である。人間は肉体的構造ではない。
科学と健康 475(クリスチャン・サイエンス)33

 

彼らは、根本において正義なるもの、美しいもの、節制あるもの、そして彼らが人間たちの中に生じるようにしようとするものに対して注目するでしょう。そして、さまざまな活動要素を一つに混ぜ合わせて人間の姿を造成するので、これはホメロスも、人間の中に現れた神の姿であり、神に似たものだと言ったのです。
プラトン 国家 6(ヘレニズム)34

 

ともかく、神は決して不義ではありません。神は完全な義です。私たちの中で最も義なる者は、最も多く神に似た者です。
プラトン テアイテトス(ヘレニズム)35

 

― み言選集 ―

 

神様はどのような方でしょうか。皆さんにこのように尋ねるとき、「神様はどのような方か。神様は神様のような方でしょう」と答えます。それは私たちに実感がわきません。神様はいったい誰か、どのような方かという問題について考えてみるとき、私たち人間に一番良い答え、すべての人間たちが願う最高の答えがあるとすれば、私のような方だということです。最も大きな答えがあれば、私たちの国のような方だ、私たちの世界のような方だ、私の兄のような方だというものですが、兄でも遠いのです。父母でも私と違います。結局、神様はどのような方かというとき、私のような方だというのです。
(127-233、1983.5.15)

 

神様も独りでは絶対に愛することができないので、必ず愛することのできる一つの対象をつくらなければなりません。それで、その対象として被造万物をつくったのですが、その被造万物は、御自身の形状をそのままかたどって展開させてつくったのであり、その中で御自身の人格を身代わりできる存在として創造的な立場に立てておくために造ったのが人間なのです。
このような人間は、神様が喜ぶときに一緒に喜ぶことができ、悲しむときに一緒に悲しむことができる素性をもたなければなりません。このような神様の内情を体得し、体感できる人にならなければ、いくら神様が人間を愛しているとしても、その人と互いに和動し一つになれる立場に立つことはできません。ですから、神様は人間を造られるとき、互いに喜ぶことができ、またその愛を感じることができるように造らざるを得ないのです。それで人間を絶対者の相対的な立場に立てるために、絶対者と同じ価値をもつことができるように造ったのです。
(39-9、1971.1.9)

 

人は自分に似たものを好みます。世の中は誰に似たのでしょうか。これから理想世界は誰に似なければならないのでしょうか。神様に似なければなりません。それでは、神様は天地を創造されるとき、どのようにつくったでしょうか。創世記第1章 27 節に何とありますか。「神は御自分にかたどって人を創
造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」とあります。神様にかたどって創造したというのです。誰に似るように皆さんを造ったというのですか。神様に似るように造ったのです。結局、私たちが自分に似たものを好むので、神様は、私たちが神様に似ることを喜びます。それで神様は、天地万物をつくっておかれ、神様に似たものを御覧になりながら喜ばれるのです。
(26-167、1969.10.25)

 

似るときはどこから似なければなりませんか。神様は、神様の法度を中心として永遠の愛、全知全能、遍在する方としていらっしゃいます。神様は全知全能であられ、遍在され、永遠なる方ですが、私たちはどこから似なければなりませんか。私たちが神様に似たとすれば、どのようにならなければならないでしょうか。神様が永遠であられるなら私たちも永遠でなければならず、神様が遍在されるのなら私たちも遍在しなければなりません。ですから、世界のあらゆる所に行って暮らしてみたいと思うでしょう? 全知全能の力をもって全世界を一度に握ってみたいと思うでしょう? そのようにしたいと思うことが神様に似たというのです。
それでは、神様は自分の何に似れば一番喜ばれるのでしょうか。似るにおいて一番の根とは何であり、先祖とは何でしょうか。遍在することよりも良く、全知全能であることよりも良く、唯一無二であることよりも良いことは何でしょうか。愛です。そのようなものをすべて与えても、一つの家庭になり得るたった一つの根源は愛です。神様に最も似るようにしたものとは何ですか。愛です。その愛にさえ似れば、すべてを失ってしまっても、結局は、自分自身が行くとおりに何でもすべてついてくるようになっています。三文の値打ちもないほど醜い女性でも、愛さえあれば、立派な独身男性がついていくのです。
(26-167、1969.10.25)

 

神様は明らかに存在します。真の人とは神様に似た人です。このような真の人があふれて暮らす世界を成し遂げようとすれば、人間革命ではなく人格革命をしなければなりません。神様の神格に似ることが人格革命です。神格と対等になれる基準まで合致するようにするのが人格革命です。神様は、知識も、お金も、権力も必要ありません。
(149-271、1986.11.27)

 

神様は最も公的な方であり、サタンは徹頭徹尾、自分を中心とする私的な存在です。ですから、神様に帰ろうとすれば、復帰の公式は結局、神様に似ることなので、徹頭徹尾私的なものを犠牲にして公的なものを立て、自分を中心とする利己主義から人のために生きる利他主義に戻って、奉仕生活をしなければならないのです。公的な人は、神様に似たので必ず栄え、私的な人は、神様に背いたので、結局滅びるというのが天理です。
(88.209、1976.9.18)

 

②家庭で完全に現れる神様の形状

― 宗教経典 ―

 

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
創世記1.27(キリスト教)36

 

われは彼なり、汝は彼女なり。われは旋律なり、汝は詩節なり。われは天なり、汝は地なり。われら二人はここに共に住み、子供達の親とならん。
アタルヴァ・ヴェーダ 14.2.71(ヒンドゥー教)37

 

愛の福音は……。もうこれ以上、結婚した二つの個人としてではなく、一つの存在内にいる二つの個体的本性として、男性と女性の一致を提供する。そして、この合わさった霊的個体性は、一つの有形的存在としてではなく、父母として神を反映する。この神聖に統一された霊的意識から永遠の天国の喜び─神の創造の完全性─に進んでいくのに障害物はない。
科学と健康 576(クリスチャン・サイエンス)38

 

― み言選集 ―

 

アダムとエバは、何でしょうか。アダムとエバは、神様が入っていける家です。コリント人への第一の手紙第3章 16 節にあるみ言と同じです。「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」と言われたみ言を見ると、アダムとエバは神様の家なのです。何がとどまる聖殿ですか。神様の何がとどまる聖殿なのかということです。神様の愛がとどまる聖殿だというのです。
神様は何をもって愛するのでしょうか。アダムとエバは神様の家であり、神様の体なので、神様の体をもってアダムとエバが愛するというのです。これが宇宙の秘密です。これを知りませんでした。アダムとエバを誰が愛するのですか。堕落していなければ、アダムとエバを誰が愛するのですか。神様
が愛するのです。アダムとエバは神様の愛の聖殿です。
(161-44、1987.1.1)

 

神様の性相と形状を分けたものが人ですが、人は性相と形状からなる男性と女性なのです。それが完全に時になれば、彼らが父母、すなわち天地父母になります。そして、その中間に、その骨に神様がいるのです。
(341-239、2001.1.2)

 

一男一女は無形であられる神様の実体対象として表れた息子、娘です。男性は神様のプラス(+)性
稟を、女性は神様のマイナス(-)性稟を表した実体対象です。創造の理念は、両性の中和体としていらっしゃる神様の性相を二性に分立したのちに、再び神様の本性相に似た姿に合性一体化することで
す。一人の男性と一人の女性は、それぞれ神様の一性に似て出てきました。したがってこれらの一男一女の結合は、神様のプラス(+)性稟とマイナス(-)性稟が一つになることです。すなわち神様に似た中和体になるのです。ですから、人間二人、すなわち夫婦は神様の全体を表象する結合体なのです。
(9-83、1960.4.16)

 

神様は絶対的な方であられ、神様は唯一の方であられ、神様は不変の方であられ、永遠の方であられます。それでは、このような対象の位置に立った私たち人間は、相対的であり、対象的ではありますが、対象的な位置で変わることを願うでしょうか。願いません。絶対的であり、唯一的であり、不変的であり、永遠的な対象の価値をもつことを願うのです。
今日、私たち堕落した人間、俗世に属した私たち人間世界においても、愛する人が永遠であることを願います。愛する人がただ一人であることを願うのではないですか。愛する人が変わることを願いません。私たち堕落した人間も、愛する対象の絶対、唯一、不変、永遠を要求するのに、宇宙の中心であられる神様が、その愛の対象が変わることを願うだろうかというのです。それはあり得ません。その対象の存在が限界的であることを願うだろうかというのです。絶対的であることを願うのです。その対象の存在が不変であることを願うという事実を、私たちは知らなければなりません。
(77.185、1975.4.6)

 

神様の創造目的は何でしようか。アダムとエバを造って、ただ見るためではありません。男性と女性を造ったのは、男性は男性なりに、女性は女性なりに老いて死ぬようにするためではありません。息子が成長し、互いに異性に対する相対的な心情を通して神様を中心とした真の地上天国を建設するためでした。神様を中心とした愛の巣をつくるようにするためだったのです。ここで男性であるアダムは天を代表し、女性のエバは地を代表します。天地です。ですから、彼らは二人ですが、彼らが横的に一つになれば天と地が統一されるのです。神様の愛を中心として二人が統一されれば、天宙は自動的に統一されるのです。
(21-44 ~ 45、1968.9.1)

 

人間は神様に似て生まれたでしょう? 神様は絶対的な主体であられるので、絶対的な対象の愛を中心として一つになることができます。それで、神様は人を造るとき、そのような主体と対象の中和的主体としてアダムとエバを造られました。私たち人間がそのような神様に似ているので、その全知全能な愛の力には、何であっても許諾されないものがありません。ですから、神様がアダムとエバを創造されたのと同様に、私たち人間も創造の能力を賦与され得るのです。神様から創造の能力を賦与され、私たちも人を創造できる場が息子、娘を生む場なのです。結局は、神様と同様に人を造ったという位置に私たちも立つことができるのです。
(57-111、1972.5.29)

 

3. 神様の聖殿

人間は、生きた神様の聖殿として理解されなければならない。人間を創造するとき、神様は人間の心に愛、創造性、永遠の渇望など、神聖な稟性を賦与する特別な聖霊を吹き入れた。神様は人間の中に自分の居所をつくろうとした。神様の霊が私たちの心と共鳴し、まるで神様が見るように、私たちの体は見て、聞いて、動く。見えない無形の神様を身代わりして共に動くことによって、人間は神聖をもつようになり、神様はその人を通してほかの人々を神聖にすることができる。
ヒンドゥー教やそのほかの東洋の諸宗教において、このような究極的実在の内在を真の自我、またはアートマンという。しかし、大部分の人々は真の自我を知らずに生きていき、全的に利己的な動機で生を営為する。文鮮明先生によれば、私たちは、人間堕落の悲劇のために汚れた聖殿と同じである。神様の霊は、堕落した人間の中にとどまることができなくなった。本来、アダムとエバは、神様の聖殿として神様の有形的体となり、この世界を美しいエデンの園にしなければならなかった。キリストは神様の聖殿として来られた方だ。したがって、彼は自身の人格の中に神様を現すことができた。神様の恩寵と復帰のための人間の努力により、私たちはまた神様の聖殿の地位を取り戻すことができる。

 

― 宗教経典 ―

 

あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。
コリントの信徒への手紙一 3.16(キリスト教)39

 

あなたは、すべての人が自分の心の中に聖なる方がいらっしゃるという自意識をもつようにしてあげなさい。
タルムード、タアニート11b(ユダヤ教)40

 

わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。 (注 3)
ガラテヤの信徒への手紙 2.19 ~ 20(キリスト教)41

 

天と地は私を包んでいるが、私の信実な僕の心情は私を包んでいる。
スフラワルディー・ハディース(イスラーム)42

 

神が世を満たすように、霊が肉体を満たす。神は見ることができるが御自身は見えないように、霊は見ることができるがそれ自体は見えない。神が全世界に糧を提供するように、霊は肉体に糧を供給する。神が純粋であられるように、霊もまた純粋である。神が(聖殿の)至聖所にいるように、霊は肉体の
最も高い所に留まる。
タルムード、ブラホート10a(ユダヤ教)43

 

私が彼を愛するようになれば、私は彼の聞く耳、彼の見る眼、彼の打つ手、彼の歩く足となろう。
ナワウィー 40 のハディース 38(イスラーム)44

 

われはかれを完全に形づくり、それからわが霊をかれに吹き込んだ。
クルアーン15.29(イスラーム)45

 

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
創世記 2.7(キリスト教)46

 

有情(生類)の玄洞(心臓)に鎮まれる自我は微なるよりも微に、大なるよりもさらに大なり。かかる自我の栄光は、意欲をもたず、煩悶を離れし人にして諸官能の静澄なるを得たる時、初めて照観するを得べし。彼(自我)は坐してしかも遠く遊び、臥しつつしかも遍く行く。かかる可思、不可思を兼ねたる神を識ることは我以外に誰か能くせん? 諸々の肉団の裡にありて身をもたず、安固ならざる物がらの裡にありて泰然たる、偉大にして、遍在せる自我を観想せる時、賢者は憂患なし。
カタ・ウパニシャッド1.2.20 ~ 22(ヒンドゥー教)47

 

露にして、しかも幽れ、玄洞(心臓)の内に 逍遙するものと称ばれる所の偉大なる天地の基底、その内にぞ、ありとあらゆる蠢めくもの、息づくもの、瞬くものは収められてあるなれ。汝等がこの有体にして無体なる善美なるもの、智慧才覚を超えたる、生類中の最勝のものとして知れるもの、光輝ある
もの、微なるよりも微なるもの、諸々の世界(果報)と世界を得し輩とがその根基とせるもの、これぞこの不滅なるものなり、梵なり、生気なり、はた語なり、意なり。これこそこの真実なるもの、不死なるもの、射抜くべきものなれ。友よ、これを射抜けよ。
ムンダカ・ウパニシャッド2.2.1~2(ヒンドゥー教)48

 

富者たちはシバ神に寺院を建てて捧げるが、
貧しい人、私は何をするか。
おお、私の主よ!
私の2本の足は柱、
体は聖殿、
私の頭は黄金の尖塔です!
立っている寺院はすぐに倒れますが、
動く私は永遠に立っていることでしょう。(注 4)
バサヴァンナ ヴァチャナ 820(ヒンドゥー教)49

 

人もまた初めに神とともにいた。英知すなわち真理の光は、創造されることも、作られることもなく、実にそうすることのできないものである。すべての真理は、神がそれを置かれた領域において独立し、それ自体で作用する。すべての英知も同様である。そうでなければ、存在というものはない。
見よ、ここに人の選択の自由があり、またここに人の罪の宣告がある。なぜならば、初めからあったものが分かりやすく示されているのに、彼らがその光を受け入れないからである。その霊が光を受け入れない者は皆、罪の宣告の下にある。人は霊である。元素は永遠であり、分離しないように結合した霊と元素は、満ちみちる喜びを受ける。
これらが分離するとき、人は満ちみちる喜びを受けることはできない。その元素は神の幕屋である。まことに、人は神の幕屋すなわち神殿である。そして、いかなる神殿でも汚されると、神はその神殿を滅ぼすであろう。 (注 6)
教義と聖約93.25~35
(末日聖徒イエス・キリスト教会)50

 

アブドラ・ビン・オマルは、カーバの周囲を歩き、このように語る先知者(平和がその方に宿ることを)を見た。「おお、カーバよ、お前とお前の香りのある風は本当に祝福されている。お前の神聖さは実に素晴らしい! 私の魂の主人であられる神から、神に信仰をもつ者の神聖さは、お前よりさらに神聖だ」。
イブン・マージャのスナン(注5)2.3932(イスラーム)51

 

― み言選集 ―

 

見えない神様は心と同じであり、アダムとエバは見える神様です。神様の体と同じだというのです。本来、霊界に行けば、人としての神様はアダムとエバがなります。霊界に行けば、体をもった父母の位置に立ったその方がアダムとエバなので、アダムとエバが神様の体のようになるのです。アダムの心のような立場にいる神様になるので、私の心に神様が臨在するのです。このように、大きな神様が私を中心とする小さな心の神様として心に臨在するようになる、というのです。私は小さな神様だということです。
(107-172 ~173、1980.4.27)

 

妻は、夫が神様の体だということを考えてみたことがありますか。コリント人への第一の手紙第3章 16 節で、 「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」とあるでしょう? ですから、皆さんが霊的に深く入っていけば、分かるようになるのです。皆さんがそのような境地に入っていって「神様、どこにいらっしゃいますか」と言えば、神様が心の根源から答えます。そのような境地に入っていかなければなりません。
(362-190、2001.12.12)

 

堕落する前、アダムとエバの顔がいくら良いといっても、主人がいなければあらゆる外的な物は価値がありません。その時、アダムとエバがいくら醜くても、彼らの心の中に神様がいらっしゃり、彼らの体は神様の聖殿になることができたのです。これが今の私たちと違う点だということを知らなければなりません。彼らの顔は、純粋な神様の喜びを表象できる顔であることは間違いなかったでしょう。また、彼らは、目で見るのも、自分たちの目を通して見るよりも、神様に代わって見たはずであり、彼らが聞くこと、感じること、語ることなどのあらゆることは、神様に代わって示すことのできる表示になることができたでしょう。
(95-247、1977.12.4)

 

アダムとエバが堕落したその日からの神様の希望とは何かというと、神様の心情を身代わりできる人、神様がとどまることのできる聖殿として完成した人、神様と一致する心情と心臓をもった人を探し出すことでした。
(3-298 ~ 299、1958.1.26)

 

イエス様の心と体は何だったのでしょうか。イエス様の心は自分の心ではありませんでした。誰の心だったかというと、父の心だったのです。イエス様の体は自分の体ではなく、父の体だったのです。また、イエス様が語られたみ言は、自分のみ言ではなく、神様のみ旨を身代わりした天理の法度であり、すべての人間がもちたいと思う希望のみ言だったのです。イエス様は、そのみ言を通じた実体的な天の聖殿として、または実体的な神様の玉座を身代わりした存在として、この地上に現れたのです。
(3-264、1958.1.12)

 

個性を完成した人間と神との関係は、体と心との関係をもって例えられる。体は心が住む一つの家であって、心の命令どおりに行動する。このように、個性を完成した人間の心には、神が住むようになるので、結局、このような人間は神の宮となり、神のみ旨どおりに生活するようになるのである。したがって、体と心とが一体となるように、個性を完成した人間は、神と一体となるのである。それゆえ、コリントⅠ3章 16 節に、 「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」と記されているのであり、また、ヨハネ福音書 14 章20 節には、「その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう」と言われたのである。
原理講論、人類歴史の終末論1.1

 

御飯を食べるのは誰のために食べるのですか。眠るのは誰のために眠るのですか。皆さんがまくらして横になるとき、「ああ! 神様と一緒に寝る」、このように考えてみましたか。「胸をぎゅっとつかんで気分が良い。神様がお休みになる!」、このように考えてみましたか。そしてまた、さっと起きれば、私が起きたと考えますか、神様が起きたと考えますか。神様が起きたと考えなければなりません。私が先に起きたのではなく、神様が先に起きたのです。
(92-153、1977.4.1)

 

人の中に世界がすべて入っていって眠ることができます。神様も入っていって昼寝できるのです。神様が心置きなく足を伸ばして眠ることができるというのです。神様がどれほど自由ですか。いくら足で蹴飛ばしても、引っ掛かるものがないのです。どこにも引っ掛かるものがありません。そのような人は神様が共にいるようになります。そのような人は神様の聖殿になるのです。それを理解して、より一層自分を愛し、自分に侍ることができなければなりません。
(125-101~102、1983.3.13)

 

私たち人間の形状を見てください。体をもっているのです。しかし、無形の神様には体がありません。体をもたなければ、霊界世界や地上世界を治めることができないのです。それで、神様がいらっしゃるとしても、神様が人間の父母として現れるためには体をもたなければならないのですが、その体をもった代表が誰かといえば、アダムとエバだというのです。堕落していないアダムとエバの体をもって現れるのです。ですから、アダムとエバは誰ですか。アダムとエバは、人類の始祖であると同時に、天地を主宰する神様になるのです。実体をもった神様、すなわち永遠の無形世界の神様の形状を代わりにもって現れた立場で、父母の立場で世界を統治する責任がアダムとエバにあったのです。
(133-91~ 92、1984.7.10)

 

神様は無形です。霊界に行っても見えません。神様がアダムをなぜそのように愛を中心として造ったのかというと、この被造世界が体をもっているからです。ですから、体をもった父にならなければならないのです。体をもった父になることで、見えない無形と有形が一つになるのです。それは宇宙が一つになることを象徴します。ですから、体をまとうためにアダムとエバを造ったのです。体をまとうのは何が決定するのですか。愛だけが可能なのです。神様の形状に似たそのような体をもつことができる姿として、アダムとエバを造ったのです。そうしてアダムとエバを天の国の王宮に、王座へ上がらせ、その王と王妃の心の中に神様がいらっしゃり、地上世界と無形世界を統治するのです。神様の王国を造るの
です。王国は、愛の王国だというのです。愛を中心としてのみ霊と肉が合わさるようになっているのであって、他のものでは合わさることができないのです。
(143-93 ~ 94、1986.3.16)

 

4. 神様の子女

ユダヤ教とキリスト教の諸経典は、神様を「天にいらっしゃる父」と呼ぶ。このような洞察は世界のほかの信仰伝承でも発見される。したがって、人間は神様の子女とみなされる。そのような父母と子女の関係がどれほど真正な関係であり得るか。これがこの節に記された章句の主題である。
文鮮明先生は、神様と人間の関係において感じる心情の深さと力が、私たちを生んでくれた肉親の父母から感じる愛情と義理よりもっと強烈でなければならないと教える。私たちが神様の心情と事情を悟り、そして息子が年老いた父のために重い荷物を背負うように、世に対する神様の重荷を私たちが共に分かつことができ、また分かち合わなければならないという心をもつとき、神様と共にある私たちの人生はどれほど意味深長なものだろうか!

 

①神様の子女としてもって生まれた権利

― 宗教経典 ―

 

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証しして
くださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
ローマの信徒への手紙 8.14 ~17(キリスト教)52

 

あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである。
申命記14.1(キリスト教)53

 

アニスとアブドゥラが神の先知者に伝えるには、「すべての創造物は神の子であり、神が最も大切に思う者は、その方の子に優しく接する者たちである」。
バイハキ・ハディース(イスラーム)54

 

我々は我々をつくりしものの子ら、彼が我々を殺すと恐れてはならない。我々は神の子ら、彼が我々を殺すと恐れてはならない。
ディンカ族の祈り(アフリカ伝統宗教)55

 

御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。
ヨハネの手紙一 3.1(キリスト教)56

 

しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
ルカによる福音書18.16 ~17(キリスト教)57

 

わたしは言った /「あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか」と。
詩編 82.6(キリスト教)58

 

預言者アサフの言葉が当たりますように。「あなたたちはすべて神であり、あの気高き方の子女たちである」、父の寛容をむやみに使って、私たちに下さった自由の選択が、害となって戻ってこないようにしてください。私たちがすれば成し遂げることができるので、神聖な情熱を抱き、現実に満足せず、最高の善を成し遂げるために努力する者として導いてください。
ピーコ・デッラ・ミランドラ 人間の尊厳について
(キリスト教)59

 

― み言選集 ―

 

神様は愛の神様だといいました。その愛の神様が私たち人間を本当に愛される位置がどこかというと、人間が要求する最高の位置です。神様はその位置を愛さざるを得ない立場にいらっしゃるのです。人情と天情が結合する位置は、神様と人間が父子関係の因縁を結ぶ位置に違いありません。皆さんは今、短時間のうちにこのような話を聞いていますが、ここに立って話をする人は、宇宙の究極の位置とは何かという問題に対して、誰よりも深刻な立場で長い間追究してきた人です。最高の位置に入っていって得た答えは何でしょうか。宇宙の根本は父子の関係だという結論です。
父子の関係だといって、今日の私たちを生んでくれて、一緒に暮らす父母のことではありません。それは天地を創造した絶対的な神様と、堕落していない本然の私たち人間の関係のことです。人類が到達すべき本然の価値の位置は、神様が父であり私たちは子女だという位置です。神様は、このような途方もない位置を私たちに許諾されたのです。
(53-286、1972.3.4)

 

ここに立っている人は、神秘的な境地に入っていき、宇宙の根本とは何かと尋ねてみたことがあります。神様の答えは、 「父子の関係だ。父と息子だ!」というものでした。それが結論だというのです。一般の人であれば、「ああ! 私の父母と私……」と考えるでしょう。自分を生んでくれた父と母と考えやすいのです。しかし、神様と人間の関係を意味しているのです。
父子の関係がもつ特定の内容とは何でしょうか。父と息子が出会える最高の場所とはどこでしょうか。愛が交差する中心、生命が交差する中心、理想が交差するその中心で出会うのです。そのように見ると、愛と生命と理想が一つの場にあるというのです。その場に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想になるというのです。これを決定づけることのできる最初の因縁と最初の統一の場所が、親子関係が成される場でなければなりません。これは間違いのない事実です。
(69-78 ~ 79、1973.10.20)

 

神様は、私たち人間、アダムとエバを造っておいて真の愛を行ったのです。真の愛を誰が始めたのですか。アダムとエバがしたのではなく、神様がアダムとエバを息子、娘のように愛してきたのです。皆さんが父母から生まれて愛を受けるのと同じです。父母の愛をたっぷり受けるのと同じです。しかし、その愛を知らずに生まれて、自分だけがいるかのようです。父母の愛はすべてのものを包囲して抱いてあげ、愛するようになるのです。それで、最初は神様が分かりませんでしたが、神様を見て笑いながら、神様の保護の中で育つことによって、神様の愛がどのようなものだということを知ります。そのように父母の愛と子女の愛が大きくなっていくのです。
(149-312、1986.12.21)

 

父子の関係がもっている特性とは何でしょうか。真の愛と真の生命と真の血統の関係です。真の父母の真の愛が前提とならなければ、私たちの真の生命が存在することはできません。すなわち、神様の前に人間は、絶対的な真の愛の相対として創造されたということです。そこは、正に神様が父となり、人間は息子、娘となる軸が立てられる所なのです。
もし、それよりもっと高く貴い所があれば、人間の欲望は、またそれを追求することでしょう。しかし、そのような所はありません。全知全能であられる神様が、最高のものは御自身のために隠しておいて、御自身の子女であり、愛の絶対相対者であるアダムとエバには、2番目に良い所に立てて創造したということは、想像することもできません。私たちの永遠の真の父母であられる神様は、100 パーセント御自身のすべてを投入して人間を創造され、同位権、同参権、同居権、相続権を付与されました。神様のすべての属性を下さったのです。
平和神経、平和メッセージ 1.14 ~15、2005.9.12

 

神様と人間の関係を中心として見てみるとき、神様が人間の父であり、人間が神様の息子であるとすれば、人間に対して、「神様よりハンサムだなあ」と言えば、神様は気分が良いでしょうか、悪いでしょうか。悪ければ、神様は人間より劣るのです。間違いなく神様も喜ばざるを得ません。それで愛というものが必要なのです。
(40-343、1971.2.11)

 

宇宙の真理、天理の大道の原則は何かというと父子の関係です。その父子の関係は、今日の堕落した世界に自分を生んでくれた父と母との関係ではありません。横的な夫婦の愛が神様の理想的愛で完全に花開き、その愛の香気が全世界を覆い尽くすと同時に、神様の愛が加えられ、父と息子、娘の位置が完成するのです。 (10135、1978.10.28)

 

②神様の子女の尊厳性回復

― 宗教経典 ―

 

主は岩、その御業は完全で / その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく/ 正しくてまっすぐな方。不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ / その傷ゆえに、もはや神の子らではない。
愚かで知恵のない民よ / これが主に向かって報いることか。彼は造り主なる父 / あなたを造り、堅く立てられた方。
申命記 32.4 ~ 6(キリスト教)60

 

天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。
イザヤ書1.2(キリスト教)61

 

わたくしどもは皆、仏の子のようなものであります。それは、如来がいつもわたくしどもに『おまえたちはわが子である』と説かれているからであります。世尊よ、わたくしどもは三種の苦悩によって、生死の中でもろもろの烈しい悩みを受け、迷い惑い、無知であって下劣な教えに執着しております。今日、世尊は、わたくしどもに考えさせて、汚物にも似た、存在についての空しい論議を除くようにされました。わたくしどもは努力精進して、ちょうど一日の給金を得るように、永遠の平安を得ました。それを得てしまうと、心に大いに歓喜して、自分では満足しておりました。……
仏はわたくしどもが心で卑小な教えをねがっているのを知られて、方便力によってわたくしどもに応じて説かれましたのに、わたくしどもの方では自分たちが真に仏の子であると知らなかったからであります。
法華経 4(仏教)62

 

祈祷するとき、主なる神を父と呼ぶように、いつでも天の子女としてふるまいを正しくしなければならない。それが私たちの義務である。私たちによって主なる神が、恥ではなく栄光を受け、賛美されなければならない。
マルチン・ルター 大教理問答(キリスト教)63

 

― み言選集 ―

 

本然の神様と人間の関係は、永遠の父母と子女の関係でした。堕落はその断絶を意味し、復帰は父母と子女の因縁を回復することを意味します。
(316-236、2000.2.13)

 

神様は、信仰の王様でいらっしゃるので、信仰の王子を尋ねられるのであり、神様は、愛の王様でいらっしゃるので、愛の王子を探し求められる。
御旨の道、人格

 

私たちは孝子の道を行かなければなりません。神様が世界情勢を前にして深刻であれば、その深刻さ以上に、夜を徹して、あるいは自分の一身を忘却し、すべてのことを忘れ、体恤する境地で憂慮する心をもって神様のために生きる息子、娘になろうと身もだえする人がいますか。問題はここに帰結するのです。
(62-35、1972.9.10)

 

神様が私の父であり、私は神様の息子、娘です。神様がどれほど子女を抱きたいと思い、どれほどそれを待ってきたでしょうか。ですから、私が孝子にならなければなりません。もし父の願う国のセンターになれば、愛国者になるのです。父の願う世界の主人になったならば、聖人になるのです。天宙のセンターになれば、聖子になるのです。私が孝子になれば、全家庭がついてきます。すべての国がついてきて、すべての世界と天宙、神様まで私と一つになるのです。私がナンバーワンの息子と娘にならなければなりません。世界では聖人、天宙では聖子にならなければなりません。それで皇族圏を成さなければならないのです。
(293-208、1998.5.26)

 

悲しみの峠を越え、苦痛の峠を越え、憤りの心情の峠を越えてこそ、その日の福が決定するという天倫の原則を私たちは知りました。今、お父様の心情をつかみ、地をつかみ、万物をつかんで涙を流し、お父様の悲しみが私の悲しみであり、お父様の苦痛が私の苦痛であり、お父様の苦難が私の苦難なので、「そのすべての苦痛を私にお任せください。お父様は幸福の立場にお立ちください」と言うことのできる私たちとなるよう、許諾してください。
(4-294、1958.9.14)

 

5. 人生の価値

人間は金銭で計算できない貴重な価値をもっている。堕落したあらゆる社会において、人生は価値のないものとみなされ、人間の価値は富と地位、教育水準、または外貌で決定するという世俗的な偏見があるにもかかわらず、神様は各個人すべてに御自身の愛の絶対的な価値を賦与した。神様は、私たちを無限に貴重で、その上、神様と同等な地位をもつ、自分の愛らしい息子として創造した。この節に含まれた経典の章句は、人間の高潔な価値を描写している。
一個人は全体世界と同等の価値をもつ。すべての被造物の中で、唯一無二の存在として、個人はその何とも取り替えることができない。さらに、それぞれの個人は、神様の愛と家庭、そして国家と全被造世界の万物に囲まれ、抱かれている。各個体は、ほかのあらゆる存在にとってなくてはならない存在だ。ある個体の死は、すべての存在にも喪失をもたらす、このため、殺人、自殺、堕胎は、神様の世界において立つ位置がない。さらには、肉身の生は霊的成長のための機会を提供するので(第 5 章 3.「永生のための準備」参照)、命を軽んじることは、個人と宇宙の完成に向かう道を奪い取ることである。
それにもかかわらず、物質主義に固執した世界において、自分の内面の高貴な潜在的価値を実現した人々は極少数にすぎず、このような潜在的価値は、神様と人類を愛する心から出てくる。したがって、真の価値の泉の源泉を見いだし、神様と世界に注目される神様の子女となることが、私たち全員の終始一貫した義務である。

 

①黄金より貴重な人間

― 宗教経典 ―

 

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
マタイによる福音書16.26
(キリスト教)64

 

わたしを追う者の悪意に囲まれるときにも / どうして恐れることがあろうか / 財宝を頼みとし、富の力を誇る者を。神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖
あがなう値は高く / とこしえに、払い終えることはない。
詩編 49.6 ~ 9(キリスト教)65

 

「私は奴隷を新しく買った」と言うとき、いくらでその奴隷を買ったのか。世の中に人間ほど価値のある存在が、どこにあるのか。合理的知性を買おうとすれば、いくら出さなければならないか。神に似て創造された存在を買おうとすれば、何ドラクマを出さなければならないか。金貨何枚を支払って、神に似た存在を買うことができるのか。神は語られた、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」(創世記1章26節)。人間は神のかたちに創造され、万物の霊長であり、天から万物に対する権威を賦与された。主なる神だけが人間をお買いになることのできる方であるとすれば、人間を売るように
許諾された者は誰だというのか。その能力は、ただ神にのみ属しているのである。
ニュッサのグレゴリオス 伝道の書に関する説教 4
(キリスト教)66

 

― み言選集 ―

 

今まで世の中に暮らす人々が「よいなあ!」と思うのは、着飾り、立派な家に住み、立派な自動車に乗り、人をうらやむことなく飛行機に乗りながら平安に暮らすことです。そのようなことをよいと思うことが、この世の人々の悪い習性だということを知らなければなりません。
(131-171、1984.5.1)

 

いかなる苦痛と悲しみ、そしていかなる困難が迫ってきても、大宇宙の理念圏内にいる自分の位置が、その程度の困難に揺さぶられてはいけないことを知っている人は、その苦痛の峠を越えていくでしょう。また、この程度の苦痛を耐えられない自分ではない、この程度の死の峠と取り替えなければならない私の命ではないと感じる人がいれば、彼は、人生行路において成功した人です。「いかなる迫害と死の峠が迫ってきても、私が行く方向を変えることはできない。私の価値は、地上の何物とも取り替えることができない」と考える人は、地上にいても天の人です。地で死んでも、彼は天の人です。
(9-166、1960.5.8)

 

世の中でこの上なく貴いものは何でしょうか。金銀財宝でもなく、世の中の名誉や権勢でもありません。天地間において最も貴いものは何かというとき、それは正に自分自身です。ところが、自分自身が貴いことを、何をもって保障するのかというとき、答えることができないのです。人々は自ら備えるべ
きところは備えることができなくても、心では満天下に自分を最高の価値的存在として認めさせたいと思います。それが人間の本性です。今日、私たち民族のために、世界のために生きる観念を越えて、最も貴い私自身を、人々がどのくらい貴く思うだろうか、ということを問題としなければ、新しい決意
と新しい出発ができないことを心配せざるを得ません。
私たち自身は、どのくらいの価値の内容を備えた存在でしょうか。皆さんは、これを考えてみましたか。私が宇宙の中で一つしかない宝となり、本当の宝になったとすれば、その宝は神様も慕い、来ては逝かれたイエス様も慕い、今まで来ては逝った大勢の聖徒、すべての歴史の中でいくら偉大な思想をもった誰かがいたとしても、その人もやはり慕うのです。過去だけでなく、現世のこの万民も慕うのです。その価値を憧憬するでしょう。今だけでなく、未来もそうでしょう。ところが、今まではそのような宝が自分だということを知らなかったのです。
(17-13 ~14、1966.11.6)

 

②宇宙的価値をもつ人間

― 宗教経典 ―

 

あなたの天を、あなたの指の業を /わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは / 人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう / あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り / なお、栄光と威光を冠としてい
ただかせ
詩編 8.4 ~ 6(キリスト教)67

 

天と地において、ひとえに私こそが尊貴な者である。(注 7)
長阿含経(仏教)68

 

われはアダムの子らを重んじ、海陸にかれらを運び、また種々のよい暮らし向きの物を支給し、またわれが創造した多くのすぐれたものの上に、かれらを優越させたのである。
クルアーン17.70(イスラーム)69

 

この世は、ひとえに義人のために創造された。義人一人は全世界と取り替えるだけの価値がある。この世は、彼と一つになることを目的として創造されたのである。
タルムード、シャッバト30b
(ユダヤ教)70

 

そのことのゆえに。われはイスラエルの子らに対し、おきてを定め、ひとりを殺した者は、ひとりの報復のためか、地上に悪をなす者の処罰でないかぎり、全人類を殺したと同じである。ひとりの生命を救う者は、全人類の生命を救ったと同じであると定めた。
クルアーン 5-32(イスラーム)71

 

ただ一人(アダム)だけが創造された。これを教えるため、聖書では、誰かが一人の魂を破滅させれば、それをまるで彼が全世界を破滅させたものとみなす。また、誰かが一人の魂を救えば、彼が全世界を救ったと語る。
しかし、一つの鋳型からは同じ銅銭が出てくるが、聖なるその方の偉大さを示すために創造された人間は、そうはできない。王の中の王であられる聖なるその方は、人間をすべてアダムの
形に造られたが、誰も彼の形に似ていない。ゆえに人間はそれぞれ、「世の中が私のためにつくられた」と言うのである。
ミシュナ、サンヘドリン 4.5(ユダヤ教)72

 

― み言選集 ―

 

一つの生命は宇宙よりもっと貴いことを知らなければなりません。怨讐の一族ではありません。神様の愛の対象として造られた人間の価値というものを知らなければなりません。
(262-145、1994.7.23)

 

人間は神様と完全に一つになってこそ、完全な人になるのです。人は、たとえ小さな一つの個体でも、全体の歴史を身代わりした存在であり、未来のあらゆる因縁を身代わりする存在なので、天宙的な価値をもっている存在なのです。
(4-268、1958.8.3)

 

神様は人をどのような存在として造ったのでしょうか。神様の絶対唯一の価値をもつことができる愛の対象者として造ったというのです。これは驚くべき事実です。最近では、人間一人の生命の価値がどのくらいになりますか。いくらになりますか。そのような無価値な人間ではないというのです。神様にとっては、宇宙を与えられても取り替えることができない高貴な価値、愛の相対圏を備えて男性を造り女性を造ったという驚くべき事実を知らなければなりません。
(142-143、1986.3.8)

 

神様の真の愛、神様の理想、神様の幸福、神様の平和を達成するにおいては、その対象がいなくては神様もお一人ではできないというのです。神様がお一人で、「ああ、愛そう」と言って愛して何をするのですか。神様お一人で理想といって何をするのですか。神様がお一人で平和や幸福があって何をするというのですか。必ず対象がいてこそ、神様も幸福、平和、愛、理想が可能になる、ということを私たちは考えることができるのです。
神様の真の愛と理想と幸福と平和を完成させるにおいては、私という人
間自体がいなければ不可能だということです。このような事実を記憶してくださることをお願いします。私たちは、このような価値を全く分かりませんでした。このように高貴で理想的な尊厳な価値、神様までも愛から解放することができ、神様までも理想から解放することができ、神様までも幸福と平和から解放することができるこの尊厳な価値を知って、今からは、心深く頭を下げながら自らを賛美し得る皆さんになってくださることを願ってやみません。
(77-314 ~ 315、1975.4.30)

 

皆さんは結婚するとき、結婚相手が自分より立派な人を願います。自分の息子、娘が、自分より立派であることを願わない人がどこにいますか。それは誰に似たのでしょうか。神様に似たのです。どういうことかといえば、神様も愛の相対が自分よりも立派であることを願うということです。これを否定できますか。人間の価値が最大の価値です。愛を中心として見るとき、神様より高い価値があるということです。ですから、皆さんの心は、最高のものを願っているのです。それは不可能なことではありません。万人平等に可能なことです。堕落しなかったなら可能なのです。天上の高く貴い立場で、この宇宙を眺めて管理して主導するようになっているのであって、何かと望んで引きずり回され、服従するよう
になっていませんでした。皆さんの心がそうでしょう ? 解放された心です。誰の支配も受けたいと思いません。これは、万民共通です。真の愛の位置にいれば、神様の位置、天国の御座に自由に行くことができます。神様の友達になることができるのです。
(211-272 ~ 273、1990.12.30)

 

人間はだれでも、他の人がもっていない特性を各々もっているので、その数がいくら多く増えたとしても、個性が全く同じ人は一人もいない。したがって、神に内在しているある個性体の主体的な二性性相に対する刺激的な喜びを、相対的に起こすことができる実体対象は、その二性性相の実体として展開されたその一個性体しかないのである。
原理講論、キリスト論1

 

上を見ても、下を見ても、前後を見ても、左右を見ても、すべてのものが私と因縁を結んでいます。また、この因縁は一時的なものではなく、命をもっていく生涯路程、すなわち一生の間の因縁なのです。さらには、歴史始まって以来、今まで因縁を結んできたのであり、今日の私を経て千秋万代の子孫まで因縁を結ばなければならない、因縁の祭壇の上に上がっている自分自身だということを私たちは考えな
ければなりません。
このような私が壊れる日には、私を中心とする天の因縁が壊れるのであり、地の因縁が壊れるのであり、世界、あるいは氏族と家庭のすべての因縁が壊れるのです。それで、人をして天と地を身代わりする小宇宙と言うのです。
私の心は天を抱くことを願っています。私の体は地を占領したいと思いま様と創造す。また、天地の何ものも止めることのできない主権者、代表者の心情によって動こうとします。このような私、このような因縁をもった私たちを深く解剖して入っていけば、無限に価値のある存在であり、無限に大きな存在だという事実が分かるようになるでしょう。
(8-10 ~11、1959.10.25)

 

神様の王権の前に立つことができる本然の人間の価値というものは、天地とも取り替えることができません。神様までも与えようとしていたその価値を、私が受けることができるかというのです。私がそのように内外に美化されていれば、天下がすべて夜光石のように輝くのです。ダイヤモンドのように輝くというのです。
(354-25 ~ 26、2001.9.16)

 

③殺人、自殺、そして堕胎は生命の大逆罪

― 宗教経典 ―

 

正当な理由による以外は、神が禁じたもうものを殺してはならぬ。
クルアーン17.33、 (イスラーム)73

 

殺してはならない。
出エジプト記 20.13(キリスト教)74

 

ある男がラバのもとを訪ねてきて言った。「私が仕える主人が、私に殺人を命じました。私が拒絶すれば、私を殺すでしょう」。ラバが彼に言った。 「かえって殺人より死ぬ道を選びなさい。あなたの血がその人(犠牲者)のものより純粋だと思いますか。おそらくその反対でしょう」。
タルムード、プサヒーム 25b
(ユダヤ教)75

 

すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。生きとし生ける者は幸せをもとめてい
る。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害しないならば、その人は自分の幸せをもとめているが、死後には幸せが得られる。
法句経129 ~132(仏教)76

 

信仰する者よ、なんじらの財産を、不正になんじらの間で浪費してはならぬ、ただしお互いの善意による、商売上の場合は別である。またなんじら自身で、殺したり害してはならぬ。まことに神は、なんじらに慈悲深くあられる。
クルアーン 4.29(イスラーム)77

 

「あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する」(創世記 9 章 5 節)。パウロの場合を除外し、自殺もここに含まれる。
創世記ラッバー 34.13
(ユダヤ教)78

 

何れの比丘と雖も、故意に人体の生命を奪ひ、或はその為に、殺具を持つ者を求め、或は死の美を讃
さんたん歎し、或は死を勧めて「咄、男子、この悪苦の生は汝にとりて何の用ぞ、死は汝にとりて、生に勝るべし」と云ひ、斯く心意ひ斯く決心し、種々の方便を以て死の美を讃歎し死を勧むれば、これ亦
波羅夷にして共住すべからざるものなり。
律蔵(仏教)79

 

貧困を恐れてなんじらの子女を殺してはならぬ。われはかれらとなんじらのために給養する。かれらを殺すのは、まことに大罪である。
クルアーン17.31(イスラーム)80

 

意図的に人を殺したり、隋胎を画策する比丘は、決して苦行者と言うことはできず、仏陀の僧団に従う者でもない。
律蔵、経分別 i.78.4
(仏教)81

 

一言の言葉であっても、信仰をもつ者を殺すことに寄与した者は、最後の審判の日に神に出会い、額に「主の慈悲から除外された」という審判を受けるだろう。
イブン・マージャのスナン 2.2620
(イスラーム)82

 

生命の神聖さが侵害されるとき、私たちはそれに立ち向かい、誰にも生命を破壊する権利がないことを公布するだろう。
教皇ヨハネ・パウロ二世(注 8)
(キリスト教)83

 

人を殺すことは全面的に禁止されているので、母の胎内にある子供でも、母親の血がこの人間を形造るためにそそがれている限り、中絶することは許されていない。出生の中絶は早手まわしの殺人である。生まれ出た生命を取り除こうが、生まれようとしている者を中絶しようが殺人は殺人である。人間になろうとしている者もまた人間であり、胤のなかには果実全体が宿っているのであるから。
テルトゥリアヌス 護教論 9.8
(キリスト教)84

 

― み言選集 ―

 

人間の権利と尊厳性の保護がすべての倫理と道徳性の標準にならなければなりません。
(168-239、1987.9.21)

 

人権問題をもってこれをどのように扱うのかというのです。(注 9)北朝鮮で金日成は 300 万を虐殺しました。毛沢東は1億5000 万を虐殺しました。また、ソ連革命当時には 7000 万を虐殺しました。ニューヨーク・タイムズに出ていましたが、ベトナムで 60 万を虐殺したことを、報道を通して見たでしょう。人権が問題ではありません。生命権を蹂躙する共産党に対してどうするのかというのです。
(91-255、1977.2.23)

 

神様とこの宇宙を合わせても、肉身をもった人間がいなくては完成できないために、今日の私たち人間の体がどれほど貴いかを知らなければなりません。私たち人間に欲心があるのならば、神様は欲心の前に何を願うでしょうか。これを願うというのです。私たちの肉身は宇宙とも取り替えることができません。聖書にある「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マタイ16・26)という言葉もそれで成立するのです。
(91-19、1977.2.13)

 

私という存在を父母が必要とし、未来の夫が必要とし、妻が必要とし、その次には兄弟が必要とすることを今分かりました。そして、家庭が必要とすることを知りました。そして、国が必要とするのです。アメリカがいくら大きいとしても、国民がいなければ何をするのですか。ですから、国が必要とするのです。そして、世界が私を必要とします。そして、結局何が必要とするのかというと、霊界が必要とするのです。その次には何が必要とするのでしょうか。神様が私を必要とするのです。
ですから、最も変わることができず、最も貴い父母が私を必要とし、またそのような相対が私を必要とし、兄弟が必要とし、家庭が必要とし、国が必要とし、世界が必要とし、霊界とこの全宇宙が必要とし、神様までも私を必要とするのに、なぜ私が必要としないのかというのです。父母、そして相対、兄弟、家庭、国、世界、霊界、神様……。「ああ、私は必要ない人間だ」、このように考えるとき、すべてに対して罪を犯していることを知らなければなりません。それは父母に対する犯罪であり、未来の夫婦に対する犯罪であり、兄弟に対する犯罪であり、家庭と国と世界と天地に対する犯罪であり、そし
て、神様に対する犯罪になるのです。彼は、そのような愛の法度に背こうとする存在です。
このような観点から見るとき、自殺する人はどのような人ですか。自殺する人が多いのです。そのようにすることができるのかというのです。それは夢にも考えることができません。
(74-30、1974.11.10)

 

自分が今赤ん坊を身ごもったとすれば、その赤ん坊がどのような息子、娘に生まれるか分かりますか。それを堕胎させることができるのかというのです。アメリカの大統領になり、聖君になり、アメリカを生かすことができる、そのような人が、自分の息子、娘として自分の体を通して生まれるのに、それを自分勝手に制御できますか。先生の母親が今日のように何でも自分の思いどおりにできる、そのような何かがあったとすれば、先生が生まれていたでしょうか。それでは、堕胎は罪か、罪ではないかというとき、罪だというのです。
赤ん坊は、愛と生命と血統の精髄として生まれたのです。それが人か動物かと考えるとき……。細胞が動物ですか。細胞が人ではないですか。細胞の中には、愛が入っていて、生命が入っていて、血筋が入っています。ですから、父母と同じ価値があるのです。父母の愛が入っているというのです。(注 10)
(230-121、1992.4.26)

 

父母が「ああ! 足の不自由な赤ん坊は蹴飛ばしてしまおう」と言いますか。それが愛ですか。それが真の愛ですか。
(117-292、1982.4.11)

 

④人間の本然の価値具現

― 宗教経典 ―

 

神のみもとで最も尊い者は、なんじらのうち最も主を畏れる者である。
クルアーン 49.13(イスラーム)85

 

螺髪を結っているからバラモンなのではない。氏姓によってバラモンなのでもない。生れによってバラモンなのでもない。真実と理法とをまもる人は、安楽である。かれこそ(真の)バラモンなのである。 法句経 393(仏教)86

 

彼の行為が彼を低くすれば、彼の家門は繁栄できない。
ナフジュ・アル・バラーガ 語録 21(イスラーム)87

 

四つの階級で、ブラフミン、クシャトリア、バイシャ、スードラがあり、人生には4段階がある。しかし、彼らの中で主に瞑想する者は、誰もが気高い者だという。
アーディ・グラント、ガウンド、M.4、p.861(シク教)88

 

正しいさとりを開き、念いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。神々でさえもかれらを羨む。
法句経181(仏教)89

 

良い評判を得る道は、その人が見えることを願うその人になるように努力することです。
ソクラテス(ヘレニズム)90

 

― み言選集 ―

 

愛を中心として人間の価値を究明しなければならないことを、皆さんは知らなければなりません。
(99-63、1978.7.23)

 

人間の貴重な価値を満点にすることは、真の愛と一体となる時に可能です。心身一体は、良心と肉身が共鳴圏に立っていることを意味します。音叉の周波数が同じとき、一つをチンとたたけば、その反対の音叉が響きます。それと同じように、真の愛によって良心をたたけば、肉身が響きます。真の愛で肉身をチンとたたけば、良心が共鳴圏をつくるようになるのです。そこには、教育が必要ありません。そのど真ん中に入っていけば、教えなければならないすべてのことを知るようになるというのです。
(223-356 ~ 357、1991.11.20)

 

アダムとエバが堕落していなければ、彼らの体は心が行く道に反対せず、従っていくようになっていたでしょう。体が心に絶対的に服従していたのです。そのようになれなかったために、今日の人類も神様の真の愛に至ることができず、実質的な人間の価値を失ってしまうようになったのです。それをはっきりと知らなければなりません。いかなる困難があったとしても、心と体を一つにしなければなりません。そこから神様の愛が連結されるのです。そのようにしなければ天国に入っていくことができません。
(399-153、2002.12.22)

 

堕落した人間の最後の目的は、神様が本来の創造目的として下さった自我の自主性、尊厳性、および価値性を回復することである。
御旨の道、人格

 

6. 良心と、もって生まれた善

良心は、私たちが善を行うように促し、悪を行おうとする性向を防ぐ内面の神的光彩である。仏教はこの機能を「悟りを得る心」または「仏性」と表現するが、それは知恵の目を通して明らかにされ得る。儒教はそれを仁とみなすが、広く知られた孟子の比喩によれば、これは井戸に溺れかかった子供を保護しようとする哀れみの心の発露を意味する。またイスラームは、人間の心を本来、正直なものとみなし、使徒パウロは、良心が全く宗教的な教えを受けることができなかった人々さえも、正誤を区別できるようにしてくれるものだと言った。
良心は積極的に作用し、自己の向上とより良い社会のための理想を追求し鼓舞する。良心はまた消極的に作用し、私たちが利己的な行動をしたり、人を傷つける行動をするとき、とがめ、教え諭したりもする。これと関連し、文鮮明先生は、良心を父母より私たちをもっとよく知る「宝のような師」と言う。良心は神様が贈ったものであり、私たちに自己の向上を可能にさせ、究極的に神様が意図していた私たち自身の完全な目的を実現できるようにする。しかし、それは肉身の自己中心的欲望と絶えず闘わなければならない。
私たちは、日常生活においてゆがんだ良心を示すこともあるが、それは良心が本性的に天賦的なものだとしても、後天的な訓育と教育が良心の判断に重大な影響を与えることができるからである。正誤に対する誤った判断によって良心を洗脳することは、実に人間の霊魂に対する最悪の冒瀆である。良心には様々な次元がある。良心の表面にある次元は相対的で、ある人の真理概念を固守する。しかし、より深い次元には本心があり、それは絶対的な神様と関係を維持する。したがって、堂々とした心でキリスト教徒たちを迫害していたタルソスのサウロのような人に、より高次的な真理の洞察が起きたのであり、人生の方向を変えて使徒パウロになることができた。良心の根に神聖な本質があるので、すべての人間は結局、救援されるというのは、文鮮明先生の楽観的見解の基盤となるのである。

 

①善に基づく本心と心情

― 宗教経典 ―

 

たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。(注11)
ローマの信徒への手紙 2.14 ~16(キリスト教)91

 

温良は仁の根本なり
礼記 38.18(儒教)92

 

真の宗教とは、究極的に人間の霊性に基づく徳行である。
クンダクンダ プラヴァチャナサーラ7(ジャイナ教)93

 

実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。(注12)
ルカによる福音書17.21(キリスト教)94

 

ワービサ・イブン・マアバドが言った。「お前は高潔さについて訊ねるためにやって来たのかね」私は「はい、そのとおりです」と答えた。すると預言者は言われた。「自分の心に訊ねてみるがよい。高潔さとは魂が満ち足り、心も満足を覚えるようなものだ。だが悪行は魂にしみつき、他人が繰り返し『お前が法的に正しい』と言ってくれても、胸騒ぎを覚えさせずにはいない」。
ナワウィー 40 のハディース27(イスラーム)95

 

もし言下に自己の本心がわかり、自己の本姓を見届けるならば、そのまま丈夫、天人師、仏と呼ばれる。
六祖壇経1(仏教)96

 

あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。
ルカによる福音書11.34 ~ 36(キリスト教)97

 

神の栄光は高遠なり。唯一真実の神が御自身を人間に現わし給う目的はここにある。つまり、人間の最も奥にある真の自已の鉱山に潜む宝石をあらわにするためである。
バハオラ 落穂集132(バハイ教)98

 

一切衆生 悉ことごとく仏性あり。即ち是我の義なり。是の如きの我の義や、本よりこの方、常に無量の煩悩に覆はる。是の故に衆生は、見ることを得る能はず。善男子、貧女人の、舎内に、多くの真金の蔵有るが如し。家人大小、知るもの有ること無し。時に異人有りて、善く方便を知り、貧女人に語る、「我今汝を雇はん、汝我が為に草穢を除すべし」女即ち答へて言はく、 「我能はず、汝若し能く我が子に金蔵を示さば然して後乃ち當に速やかに汝の為に作すべし」是の人復言ふ、「我は方便を知る。能く汝が子に示さん」女人答へて言ふ、「我が家の大小も、尚自ら知らず、況や汝能く知らんや。」是の人復言ふ、 「我今審らかに能くす。」女人答へて言はく、「我も亦見んと欲す、井に我に示すべし。」
是の人即ち其の家に於て、真金の蔵を掘出す。女人見終りて、心に歓喜を生じ、奇特の想を生じ、是の人を宗仰す。
善男子、衆生の仏性も、亦復是の如し。一切衆生は、見るを得ること能はず。彼の宝蔵を、貧人の知らざるが如し。善男子、我が今普く一切衆生に、所有の仏性が、諸の煩悩に覆蔽せらるるを示すは、彼の貧人の、真金蔵有れども、見るを得ること能はざるが如し。如来は、今日、普く衆生に諸の覚宝蔵を示す。所謂仏性なり。
大般涅槃経 214 ~ 215、隠れた宝の喩え (仏教)99

 

孟子がいわれた。「人間なら誰でもあわれみの心はあるものだ。むかしの聖人ともいわれる先王はもちろんこの心があったからこそ、自然に温かい血の通った政治(仁政)が行なわれたのだ。今もしこのあわれみの心で温かい血の通った政治を行なうならば、天下を治めることは珠でも手のひらにのせてころがすように、いともたやすいことだ。では、誰にでもこのあわれみの心はあるものだとどうして分るのかと言えば、その理由はこうだ。たとえば、ヨチヨチ歩く幼な子が今にも井戸に落ち込みそうなのを見かければ、誰しも思わず知らずハッとしてかけつけて助けようとする。これは可愛想だ、助けてやろうととっさにすることで、もちろんこれを縁故にその子の親と近づきになろうとか、村人や友達からほめてもらおうとかのためではなく、また、見殺しにしたら非難されるからと恐れてのためでもない。
してみれば、あわれみの心がないものは、人間ではない。悪をはじ、にくむ心のないものは、人間ではない。譲りあう心のないものは、人間ではない。善し悪しを見わける心のないものは、人間ではない。あわれみの心は仁の芽生えであり、悪をはじ憎む心は義の芽生えであり、譲りあう心は礼の芽生えであり、善し悪しを見わける心は智の芽生えである。人間にこの四つ(仁義礼智)の芽生えがあるのは、ちょうど四本の手足と同じように、生まれながらに具わっているものなのだ。それなのに、自分にはとても……そんな立派なことはできそうにないとあきらめるのは、自分を見くびるというものである。またうちの殿様はとても仁政などとは思いもよらぬと勧めようとしないのは、君主を見くびった失礼な話である。だから人間たるもの、生れるときから自分に具わっているこの四つの芽生えを育てあげて、立派なものにしたいものだと自ら覚りさえすれば、ちょうど火が燃えつき、泉が湧きだすように始めはごく小さいが、やがていくらでも大きくなるものだ。このように育てて大きくしていけば、遂には〔その徳は〕天下をも安らかに治めるほどにもなるものだが、もしも育てて大きくしていかなければ、手近な親孝行ひとつさえも満足にはできはすまい。」(注13)
孟子 II.A.6(儒教)100

 

― み言選集 ―

 

人間の良心は神様を代表する心です。良心は私のために存在しません。天の義のために存在します。良心は常に善に向かって走ろうとします。
(219-118、1991.8.28)

 

釈迦も天を教えてくれました。すべての存在は仏心をもっていると言いましたが、その仏心とは何ですか。それは純粋な本然の心を意味します。
(33-45、1970.8.2)

 

「心の本源地は神様だ。神様の心に従って動こうとすることが、その対象的な位置にいる私だ」という、このような評価をしなければなりません。
(162-40、1987.3.22)

 

人倫道徳は、人類の良心を中心として、天に向かって正しい道を行かなければなりません。正しい道を行かなければならないとなっています。良心は高次的な理想世界に向かってこのように発展しようとします。
(90-161、1976.12.26)

 

本来、天法の道理に従っていく人間には、自分自身が滅びるのを防備してくれ、保護してあげようとする心があるのです。本来あるとはどういうことでしょうか。神様に初めからそのような心があるので、人間にも初めからあるという意味です。自分がつくった法ではないというのです。「良心よ、私がこうなのだからこうだ」と、そのように言いますか。「私の考えがそうなのだから、そうであるべきだ」と命令したからといって、良心が作用しますか。どこか分かりませんが、他の所から命自分を支配するのを見るとき、これは公私の問題を中心として支配するということが分かるのです。
(31-241、1970.6.4)

 

古今東西を問わず、いかなる悪人であっても、悪を捨てて善に従おうとする本心だけは、だれでも共通にもっている。だから、何が善であり、いかにすればその善をなすことができるかということは、知能に属することであり、時代と場所と人がそれぞれ異なることによって、それらは互いに衝突し、闘争の歴史をつくってきたのであるが、善を求めようとする人間の根本目的だけは、すべて同じであった。で
は何故、人間の本心は、いかなるものによっても取り押さえることのできない力をもち、時間と空間を超越して、善を指向しているのであろうか。それは、善の主体であられる神が、神の善の目的を成就するための善の実体対象として、人間を創造なさったからで、たとえ堕落人間がサタンの業により、善の生活ができないようになってしまったとしても、善を追求するその本心だけは、そのまま残っているか
らである。したがって、このような人間たちによってつくられてきた歴史の進みいくところは、結局善の世界でなければならない。
原理講論、人類歴史の終末論 2.3

 

神様の創造は、実に神秘で奥深さにあふれています。人間を、御自身の子女として創造され、万物の霊長として立てられた神様は、人間に「良心」という、最高、最善の贈り物を下さいました。人間が地上界で一生を航海するのに必要な羅針盤として下賜されたものが、良心という特別な贈り物です。よく人生百年と言いますが、人間は誰彼を問わず、生まれて死ぬ瞬間まで、良心の作用圏を抜け出すことはできません。
そして、良心の作用の中で、最高、最上の機能が正に、真の父母、真の師、真の主人の役割の機能です。言い換えれば、良心は、私たちが生まれたときから真の父母、真の師、真の主人の位置で私たちの生を指導し、教育する、神様の代身者であるということです。私たちの一挙手一投足を、一時も逃すことなく導き、監視する責任が良心の機能だということです。
ですから、良心は、私たちのすべての言行はもちろん、考えまでも父母よりも先に知り、師より先に知り、神様よりも先に知るのです。神様が、人間の人生を指導し監視する本源的な機能を、良心に伝授してくださったからです。ところで、水晶のように清く透明でなければならない人間の良心に、堕落性の垢がつき、今まで様々な罪悪と疾病の中で本来の機能をすべて発揮できずにいるのです。したがって、サタン主管圏のこの邪悪な世界から一日でも早く解放・釈放を受けたいと、泣き叫んでいる良心の声を聞ける皆様にならなければなりません。
平和神経、平和メッセージ 15、2007.7.4

 

良心の方向性と目的の内容は何になるかというと、真の愛が目的の内容にならざるを得ないという結論が出てきます。その方向、良心の根の方向と目的が何かというと、変わらないこのような愛ではないと言うことはできません。
(261-311~ 312、1991.4.15)

 

神様の愛は、自分を 100 パーセント、120 パーセント投入するのです。そのようなものが堕落した世界に一つ残っているのですが、それが父の愛でもなく、母の愛です。それが種火のように残っています。この種火が残っているので、よく起こしさえすれば、再び火をつけることができるのです。それま
でなければ、救援も不可能です。神様の創造本性の種が残っているので、救援が可能だというのです。
(199-276 ~ 277、1990.2.20)

 

②自分の良心との闘争

― 宗教経典 ―

 

あなたは平素、自らが成長していることを感じることができないが、あなたが罪を犯すときは、それをはっきりと知ることができる。
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)101

 

正しい良心で、弁明するようにしなさい。
ペテロの手紙一 3.16(キリスト教)102

 

先人言へることあり、「心に二種あり浄と不浄となり」と、欲と混するは不浄にして欲と離るるは浄なり。
マイトリ・ウパニシャッド 6.34(ヒンドゥー教)103

 

またわたしは、己れをとがめる魂によって誓う。
クルアーン 75.2(イスラーム)104

 

ある人が、何の愛らしい行動もせず、有益な行動もせず、心の弱い人たちに安息所を用意してあげることもしなかった。「私は何の愛らしい行動もしなかった」という思いに彼は苦しんだ。「私は悪行をしでかした」という思いに彼は苦しんだ。この二つの思いは、良心を麻痺させる。
如是語経 25(仏教)105

 

清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。
テトスへの手紙1.15(キリスト教)106

 

肉体の中には一片の肉があり、それが健全な場合肉体はすべて健全だが、それが腐ると肉体もすべて腐ってしまう。その一片の肉とは、心のことにほかならない。
ナワウィー 40 のハディース 6(イスラーム)107

 

とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得……。
フィリピの信徒への手紙 3.4 ~ 8(キリスト教)108

 

よい人のほまれとは、正しい良心の与える証しである。正しい良心をもちなさい。そうすれば、あなたはいつも喜びをもつことができよう。正しい良心はずいぶんたくさんな物事を忍ぶ力を具え、逆境の中にあってもつねにずいぶんと大きな喜びを覚える。病める良心はいつもおずおずとして不安である。
トマス・ア・ケンピス キリストにならいて
(キリスト教)109

 

俺の良心には千もの舌があって、それぞれの舌がそれぞれの話をし、そのどの話も俺を悪党だと非難する。
ウィリアム・シェイクスピア リチャード三世110

 

それが正しくても間違っていても、それ自体として悪なるものであろうと道徳的に放縦であろうと、良心に対する審判は必要だ。そのような面で良心に反する者は、いつでも罪を犯す者である。
トマス・アクィナス(キリスト教)111

 

上官が部下に良心に逆らう命令を下したなら、部下がそれに不服従しても、彼は罷免されないだろう。
アッシジの聖フランチェスコ 三番目の降霊説教
(キリスト教)112

 

― み言選集 ―

 

人は自分の生涯の因縁を求めていくにおいて、自分の心に侍っていかなければなりません。これが天倫の鉄則です。心の命令に服従しない者は天が打ちます。
(4260、1958.8.3)

 

良心に呵責を受ければ天法に引っ掛かります。
(1738、1966.11.6)

 

放蕩息子は、死んでも故郷を訪ねていくことができません。良心がそうなのです。天国に行くのは、ほかの誰かが助けてはくれません。自分が行くのです。兄の前に過ちを犯せば、兄の前に出ていくことを嫌います。兄は知らなくても、良心が申し訳なく思うのです。ですから、兄を遠ざけなければならず、その前に屈服しなければなりません。天地の道理が秩序に従ってできています。堕落したために鈍くなって分からないのであって、鋭敏な人はすべて分かります。
(400-328、2003.1.11)

 

すべての人間は、一生の間ずっと、各自自分の中に最も貴重な師をもっています。それにもかかわらず、その師を誤って待遇し、踏みにじり、濫用しています。その師こそ、すなわち人間の良心です。私たちの良心は、常に私たち自身にも助けになるように話し掛け、私たちを真の愛と連結させてあげようとしています。私たちの良心は、私たちをして善で、非利己的な人になりなさいと父母のごとく促し、神様のみ旨に従って行動するように導いてくれています。
しかし、各自の心の中にはまた、常に良心の声に逆らう反乱者がいます。その反乱者こそ、すなわち肉体です。肉体は、良心を散々に踏みにじり、濫用してきました。私たちがこのことを悟ったとき、私たちは、自らの良心の敵であった肉体、すなわち私たち自身の生命と人性をひどく損傷させた肉体の側につくことができますか。私たちの良心は、常に心の中の師として、父母として、人類の究極的な父母である神様と、完全に一つとなるように導いてくれなければなりません。この時、良心は私たちの中にある神様の代身者となるのです。さらには良心を「第二の神様」とも呼ぶことができるのです。皆さんは、良心の敵である肉体に対して同情し、肉体を保護しなければならないと考えますか、それとも肉体を統制し、抑制しながら、良心が正当であることを立証しなければならないと考えますか。肉体は、肉体的な欲望のみを追求するのです。腹が減れば、盗んででも飢えを免れようとします。肉体は常に楽なことを追求し、他を利用しようとします。肉体は、肉体なりの領域をもっています。すべての人は各自、肉体の領域を主管すべき莫大な責任を負っています。
(201-208、1990.4.9)

 

神様は、知恵の大王でいらっしゃいます。人間が完成に達する道を遠い所には置きませんでした。私たちと最も近い所、最も隠密で安全な所、正に皆さんの良心の中にその道を準備しておいてくださったのです。皆さん、良心は皆さんの主人です。皆さんの師です。皆さんの父母の代わりです。良心は、皆さんのすべてのことに対して、誰よりも先に知っています。皆さんの考えまでも、隅から隅まで知っているのが皆さんの良心です。師より、父母より、神様よりも先に知っています。このような良心が、皆さんのために一生の間どれほど多くの忠告をしてくれるでしょうか。
昼も夜も、悪いことを考えただけで、「こいつ!」と叱りながら、疲れもせずに皆さんを引っ張っていき、川を越え、峠を越えようと、どれほど苦労したでしょうか。良心は、いつも真の主人の姿で皆さんを保護して助けようとしたのに、いつも裏切った皆さんだったのではないでしょうか。宇宙から譲り受けた一つしかない貴い師であるにもかかわらず、この師を徹底して冷遇した皆さんの体をどうするつもりですか。皆さんの本然的愛を引き継がせてくれた父母の代わりに送ってくれた良心を、無慈悲に蹂躙した肉身ばかりにしがみつき、その肉身の欲望に捕らわれて無為に歳月を過ごして一生の幕を下ろしますか。
(447-163 ~164、2004.5.1)

 

皆さんは、私は堂々とした一人の人格者なのに、私の良心は何か間違ってしまったのかと思うかもしれませんが、皆さんの良心は眠っています。皆さんの心は間違いなく眠っています。良心は誰の制裁も支配も受けることを願いません。良心は休みません。いくら真っ暗な真夜中でも、明るい所でも、豪華絢
爛な所でも、間違いをそのままにしておきません。少しでも間違えば、「おい、こいつ!」と言いながら体を打つのが良心です。このような師がどこにいますか。皆さんがはっきりと知らなければならないことは、皆さんの良心が眠っていると言うこの若い人の話が事実かということです。眠っている良心を目覚めさせましょう。神様の心情を知らずに眠っている民族の良心を目覚めさせましょう。神様の心情を知らずに眠っている世界人類の良心を目覚めさせましょう。天地を抱き、一つの世界を建設しようとされる神様のみ旨に従い、終末世界に向かって行くまいとしても行かざるを得ない立場にいる人間たちの良心を目覚めさせてあげましょう。
今日、私たちが信じている宗教が世界人類すべてに教えを与えることができ、眠っている良心を目覚めさせ得る宗教になっていますか。そのような内容を備えた主義や理念がありますか。良心が目覚め、そこに入っていくその衝撃、その決意、その覚悟は、世の中の万事を一度に片付けてしまうことのできる力として現れなければなりません。刃物が恐ろしいですか、死が恐ろしいですか、私の良心から起きてくるものを誰が妨げるでしょうか。誰も妨げることはできません。
(10-284 ~ 285、1960.11.6)

 

7. 完全性

宗教の諸経典は、絶対者と一つになった人、真理を体現した人、罪、または世俗的な堕落の足かせから自由な人、満ちあふれる聖なる恩寵を表し示す人の功徳を描写する。彼らは、聖者、賢者、仏陀、または神聖な人間と呼ばれるだろう。このような完全状態は、私たちが到達できない領域の向こうではない。私たちが努力さえすれば成就できる目的地である。ガンジーは次のように言った。「人生は熱望だ。その任務は、完成、すなわち自己実現のために奮闘することだ。その理想は、決して私たちの意気地のなさや不完全さのために低められてはいけない」。ここに記述された章句は、完全状態を成就した人の卓越した稟性を描写する。特に、完全性の三つの稟性を強調する。
一つ目は、心と体の統一である。聖者は、利己的な欲望を克服し、性欲、貪欲、またはほかの欲望を浄化することによって自分自身を主管した。結果的に彼は、ひとえに神様のみ旨と良心の指示に従って正しいことのみを行おうとする。聖アウグスティヌスの言葉によれば、私たちは「神様を愛し、あなたの意図することができる人だ」ということである。
二つ目は、完全性は神様との統一である。神様は、最高の人間的熱望の典型でありモデルである。それゆえ聖者は、神様自身の完全性に同参しようと努力することによって、神様の属性、すなわち絶対、不変、愛、正義などを具現するようになる。
三つ目は、完全性は神様の真の愛を具現することを意味する。愛または慈悲は、罪のある人々を救うための、その疲れを知らない努力から現れたものとして、神様の本質の核心である。したがって、完全な男性と女性は、ほかの人々の豊かな人生を喜び、社会の利益のために私心なく努力する。聖者の愛は、どちらの一方にも傾かず、誰も敵とみなさず、常に善で悪に報いる。(第13 章1.「真の愛」参照)

 

①完全性は心と体の一致から始まる

― 宗教経典 ―

 

また、一人の出家沙門が釈尊に問うた。世の中には善となすものが色々とあるが、何が善といわれるものであり、その中で最大の善となすものは何んですか、と。
釈尊はいわれた、仏道を行じ、その真を守るものが善であり、その志しが行ずる道と一つになることが、善の最大をなすものである、と。
四十二章経14(仏教)113

 

愛着までもが私のもたらしたものにふさわしくならない限り、本当の信者とはいえない。
ナワウィー 40 のハディース 41(イスラーム)114

 

悟りに満ちた者は、決していかなる悪行にふけることはない。彼の良心は、真理で完全に映し出された知性によって導かれるからである。
アーヤーランガ・スッタ1.174(ジャイナ教)115

 

覚りのようすがに心を正しくおさめ、執著なく貪りをすてるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている。
法句経 89(仏教)116

 

御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった人―このような境地にある人を神々でさえも羨む。大地のように逆らうことなく、門のしまりのように慎み深く、 (深い)湖は汚れた泥がないように―そのような境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている。
正しい智慧によって解脱して、やすらいに帰した人―そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行いも静かである。何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を断ち、 (善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、―かれこそ実に最上の人である。
法句経 94.97(仏教)117

 

アルジュナはたずねた。
「クリシュナよ、智慧が確立し、三昧に住する人の特徴はいかなるものか。叡知が確立した人は、どのように語り、どのように坐し、どのように歩むのか。」
聖バガヴァッドは告げた。―
「アルジュナよ、意にあるすべての欲望を捨て、自ら自己においてのみ満足する時、その人は智慧が確立したと言われる。不幸において悩まず、幸福を切望することなく、愛執、恐怖、怒りを離れた人は、叡知が確立した聖者と言われる。すべてのものに愛着なく、種々の善悪のものを得て、喜びも憎みもしない人、その人の智慧は確立している。亀が頭や手足をすべて収めるように、感官の対象から感官をすべて収める時、その人の智慧は確立している。断食の人にとって、感官の対象は消滅する。味を除いて……。最高の存在を見る時、彼にとって味もまた消滅する。実にアルジュナよ、賢明な人が努力しても、かき乱す諸々の感官が、彼の意を力ずくで奪う。すべての感官を制御して、専心し、私に専念して坐すべきである。感官を制御した人の智慧は確立するから。」
バガヴァッド・ギーター2.54~61(ヒンドゥー教)118

 

アブ・フレイラが、神の使徒が語る言葉を伝えた。「最も完璧な信仰をもった者は、最もりっぱな性格をもった者である」。
アブー・ダーウードおよびダーリミー・ハディース
(イスラーム)119

 

諸の比丘の、阿羅漢にして諸漏已に尽き、 {梵行}已に住し、所作已に弁じ、諸の重擔を棄て、己利を逮得し、諸の有結を尽し、正知して解脱せるものは、九事を行ずることあり得べからず。 {謂く}漏尽。比丘の故らに殺生することあり得べからず。比丘の盗心を以て不興を取ることあり得べからず。比丘の淫法を行ずることあり得べからず。比丘の知りて妄語することあり得べからず。比丘の蓄財の欲を亨くること前に在家者なりしが如きことあり得べからず。比丘の欲趣に往くことあり得べからず。比丘の瞋趣に往くことあり得べからず。比丘の癡趣に往くことあり得べからず。比丘の怖畏趣に往くことあり得べからず。
阿含経増支部 iv.370(仏教)120

 

これは「道」と同一になるといわれる。それに近づくことができず、また、遠ざけることもできない。
それに利益を与えることもできず、また、害を及ぼすこともできない。尊敬へと高めることはできず、また、恥に苦しめることもできない。だから、天下で最も尊い人なのである。
道徳経 56(道教)121

 

― み言選集 ―

 

皆さんがここから出発するにおいて、どのように行かなければなりませんか。各自が指向する量が 100 とするとき、ここで心と体が 50 対 50 ではいけません。そのような人は、中間霊界にとどまるようになります。緩衝地帯にとどまるのです。もし体が 60 であれば、間違いなく地獄に行きます。地獄はどのような所でしょうか。陰になっている所です。天国はどのような所でしょうか。輝いている所です。そのように理解すればよいのです。そのような人は、必ず陰になっている所に行くというのです。ここは、下りていけばいくほど真っ暗になります。
ですから、皆さんは常に「私」という存在は善悪の母体だということを考えなければなりません。先生も皆さんのような年齢のとき、このような内容で苦心したのです。それで、先生が立てた標語が何かというと、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」というものです。これが信仰生活においての第一条です。このような面で、自我を完成し、自我を主管できるようになるとき、すなわち、自分の体を制御し、克服できる自主性をもつようになるとき、初めて自分の心と体の相克がなくなるのです。
(37-122、1970.12.23)

 

人は二重構造になっています。心的な人と体的な人です。それでは、心はいったい何でしょうか。心は縦的な基準をもっています。体は何でしょうか。横的な基準をもっています。これが本来神様の理想的基準に立ち、神様の愛を受けることができるようになれば、縦的な心に神様の愛が「カーン」と響く時、横的な体はすべて感じるようになります。心的、縦的基準が存在する霊人体に神様の真の愛が「カーン」と響けば、横的な基準になる体も「カーン」と共鳴するようになっています。……霊人体に真の愛が「カーン」と響けば、体が共鳴できるのです。堕落していなければそうだというのです。どのような基準によってそのようになっていますか。何によって共鳴するのですか。真の愛の響きに共鳴するようになっています。
(177-216、1988.5.20)

 

皆さんの体と心が一つになれば、神様が臨在されるというのが原理の教えです。それでは、神様がなぜそこに臨在されるのかというのです。人の体と心が一つになれば、必ずそこには、一つになる原則は愛から始まるので、相対的愛があるがゆえに臨在するという論理が成立するのです。「人の体は神様の聖殿である」とこのように言います。聖殿とは、どのような所ですか。聖殿というならば安息所という言
葉と通じます。それでは、休むには何の中で休みますか。愛の中で安息するのです。
私たち人間が願う理想があるならば、そのような内心的基準が最高の理想の基準ではないですか。そのような心の愛をもった所を、心情の世界というのです。それはわき出る泉の水と同じであって、くみ出しても、くみ出しても終わりがありません。なぜでしょうか。神様がそこにいらっしゃるから終わりがないという、このような論理を立てることができるというのです。
(91-78、1977.1.30)

 

神様は純金ですか、偽の金ですか。純金です。神様が純金なので、私たちが一緒に一つになろうとすれば、どのようにならなければなりませんか。偽者になってはいけません。ですから、私たちが神様の心と体のようになっていなければならないのです。それでマタイによる福音書第5章 48 節に「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」という言葉が出てくるの
です。
(91-321、1977.3.1)

 

そうだとすれば、地上において家庭天国はどのように成すのですか。第1に、家庭を形成するすべての要員は、個性完成を成さなければなりません。堕落によって選択の余地もなく相続するようになった堕落性を脱ぎ、自らの人格完成をしなければなりません。
すなわち、心と体の葛藤と闘争を完全に克服し、勝利して一心一体一念の境地で完全一和の世界が、人格完成によって実を結ばなければならないのです。このような境地に到達した人には、妬み、嫉妬、欲心、憎悪など、あらゆる悪の要因になる堕落性が再び根を降ろすことができません。
(443-175、2004.3.23)

 

宗教の目的は、心情世界の法度を活用し、生活的な感情と対している宇宙万象のすべての道理を管轄できる権限をもつ、そのような人格者を育成することです。
(6-349、1959.6.28)

 

自分を愛さない人は神様を愛することができません。父母を愛さない人は国を愛することができません。また、自分自身を愛することができない人は、父母を愛することができません。自分自身を愛してこそ、父母を愛することができるのであり、国を愛することができるのであり、世界を愛することが
できるのであり、神様を愛することができるのです。
ですから、宇宙主管を願う前に自己主管をしなさいというのです。このような途方もない愛の実体である個体を主体的な立場に立てておかなければ、家庭も不可能であり、国も不可能であり、国家も世界も不可能です。ですから、自分を完全に愛することのできる人でなければ、完全な神様を愛することはできません。
(22-97 ~ 98、1969.1.26)

 

②完全性は神様と一致すること

― 宗教経典 ―

 

だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
マタイによる福音書 5.48(キリスト教)122

 

神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。
ヨハネの手紙一 3.9(キリスト教)123

 

誠は、天理本来の姿である。誠であろうとするのは、人の当然の務めである。真実無妄で、思勉するまでもなく、おのずからにして道に当たるのは聖人である。
中庸 20.18(儒教)124

 

まことに、キリストのもとに来て、キリストによって完全になりなさい。神の御心に添わないものをすべて拒みなさい。もしあなたがたが神の御心に添わないものをすべて拒み、勢力と思いと力をい尽くして神を愛するならば、神の恵みはあなたがたに十分であり、あなたがたは神の恵みにより、キリストによって完全になることができる。そしてあなたがたは、神の恵みによりキリストによって完全になれば、決して神の力を否定することができない。
モルモン経、モロナイ書10.32
(末日聖徒イエス・キリスト教会)125

 

祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り / 暑さが襲うのを見ることなく / その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく / 実を結ぶことをやめない。
エレミヤ書17.7 ~ 8(キリスト教)126

 

至高な師は満足と寛容の木であるがゆえに、
正義がその花であり、教会はその実である。
この木は、神の中で喜びにあふれ、
永遠に枯れることがなく、
瞑想の実践によって実を結ぶ。
主の中でそれは喜んで用いられるがゆえに、
自己のない行為として
至高な愛を施すのと同じことである。
アーディ・グラント、ヴァール・マージュ、M.1、p.147
(シク教)127

 

完璧と不死と天則と王国を完全に主宰し給うことによって、マズダー・アフラは授け給え、心意と行為において彼(アフラ)の盟友たるものに、ウォフ・マナフとの交わりの永続を。これらのことは、正見にして献身するものには、あらわに見えるのです。彼は、 〔善〕思・善語と〔善〕行をもって、王国とともにアシャをも助けるもの―彼は、マズダー・アフラよ、御身にとって最もよろこばれる客人となりましょう。
アヴェスター・ヤスナ31.21~22(ゾロアスター教)128

 

老子は答えた。「わしは万物のはじまる根源の世界に遊んでいたのだよ」孔子はたずねた。「それは、どういうことなのでしょうか」……
「この境地に達することができれば、最高の美しさと、最高の楽しさを得ることができる。このような最高の美を得て、最高の楽しい境地に遊ぶものを、至人というのだ」と老子は答えた。
荘子 21(道教)129

 

最高の我は、生老病死にひっかかることがなく、至高清浄で八つの業に染まっていない。それは無限の知恵と洞察と至福と権能をもち、破壊されることがなく、また尽きることがない。それは人の感官が及ぶところではなく、一切のこだわりや長短点、または再生から自由であり、永遠不変であり、比べるもののない自存者である。
クンダクンダ ニヤマサーラ176.77(ジャイナ教)130

 

― み言選集 ―

 

イエスが弟子たちに「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5・48)と言われたみ言を見ても悟ることができる。創造原理によれば、創造目的を完成した人間は、神と一体となり神性をもつようになるので、罪を犯すことができない。したがって、そのような人間は、創造目的から見れば、天の父の完全なように完全な人間である。それゆえに、イエスが弟子たちに言われたこのみ言は、すなわち創造目的を完成した人間に復帰され、天国人になれという意味のみ言だったのである。このように、イエスは堕落人間を天国人に復帰させ、地上天国をつくるために来られたので、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」祈りなさいと言われ(マタイ6・10)、また、 「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ4・17)と叫ばれたのである。それで、彼の道を備えるために来た洗礼ヨハネもまた、「天国は近づいた」(マタイ3・2)と叫んだのであった。
それでは、創造目的を完成した人間に復帰され、イエスが言われたとおり、天の父が完全であられるように完全になった人間とは、いかなる人間なのだろうか。このような人間は、神と一体となり、その心情を体恤することによって、神性をもつようになり、神と一体不可分の生活をするようになるのである。
原理講論、メシヤの降臨とその再臨の目的1.1

 

人間が真の姿を成すには、すべての生死禍福の根源であられる神様と関係を結ばなければなりません。その関係を結ばなければ、人間個体内では真の姿を成し遂げることができないのです。真は(注 14)、必ず神様が中心にならなければなりません。ですから人間は、全体的に収拾して、主管し得る決定的な基盤をもつようになるとき、真が成されるのです。その基盤をもつことができなければ、「真」という名詞は成立し得ないということを知らなければなりません。
真の起源は、神様です。神様がいらっしゃることによって、真が成されます。神様が離れるようになるとき、真も離れるようになります。そこには真ではない、悪の起源が生まれるのです。このような事実を皆さんは知らなければなりません。
このような観点から見ても、真は、人間が勝手に考えることのできるものではありません。すなわち、堕落した人間が勝手に管理する、そのような位置に従属しているのではなく、真が私たちを主管している、ということを知らなければなりません。ですから、私たちは、いつも真の前に屈服しなければなりません。真を立てて、そこに順応しなければならないのです。
(24-315、1969.9.14)

 

神様を生活の中で直接五官を通して感じ、神様の実存を分かるようになってこそ、本当に神様が分かるようになります。言い換えれば、神様の実存を体恤して感じなければなりません。このように神様の実存を生活の中で直接、体恤して生きれば、自動的に神様のみ旨が何かを一瞬一瞬感じ、分かってすべてのことに臨むようになり、罪を犯そうとしても犯すことができない完成した人間の姿になるでしょう。
無形でいらっしゃる神様は、人間の実体をまとって主人的人格と形体を備え、有形世界である地上世界と万物万象はもちろん、霊界までも主管されるようになっているのです。このように、神様をはっきりと知ることは、人間の人生において最も優先的で重要な要素です。
神様をはっきりと知り、生活の中で侍って暮らし、霊界の実存はもちろん、実相までも信じて分かるようになれば、人間の人生は高速道路を走る自動車のように簡単で遮るものがなくなるでしょう。運転者が高速道路の法規を守り、ハンドルを握って居眠りさえしなければ、無難に目的地に到達できるように、天が下さった良心の指向に従って一生懸命に生きさえすればよいのです。そこで心と体も一つになるのです。そこで人間完成の花が咲き、実を結ぶというのです。
(447-157 ~163、2004.5.1)

 

真の人間とは何ですか。神様と遊び、神様と休み、神様と眠り、神様と生きようとする人間が最高の真の人間です。神様はどのような人を求めるのかというと、そのような真の人間を求めます。同じように、私たち人間が真のものを求めていき、真の世界を求めていくのですが、神様と共に暮らす世界が真の愛の世界であり、真の幸福の世界なのです。そこで初めて私たちの理想境が顕現するのです。
(60-284、1972.8.18)

 

③完全性は神様のように愛すること

― 宗教経典 ―

 

あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるから
である。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
マタイによる福音書 5.43 ~ 48
(キリスト教)131

 

主なる神は言われた。 「私に似なさい。私が悪に対して善で返すように、あなたも私に似なさい」。
出エジプト記ラッバー 26.2
(ユダヤ教)132

 

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。……愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
ヨハネの手紙一 4.7 ~16
(キリスト教)133

 

敵と味方に対して平等であり、また尊敬と軽蔑に対しても平等であり、寒暑や苦楽に対しても平等であり、執着を離れた人、毀誉褒貶を等しく見て、沈黙し、いかなるものにも満足し、住処なく、心が確定し、信愛に満ちた人、彼は私にとって愛しい。
バガヴァッド・ギーター12.18~19
(ヒンドゥー教)134

 

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
ガラテヤの信徒への手紙 5.22~23
(キリスト教)135

 

あなたの愛は普遍的でなければならない。あなたは、宇宙があなた自身の存在様相であることが分かるだろう。他の人々が不完全に残っている限り、私たちの完成は完成ではないことを感じるときこそ、完全で全体的な完成が起きるだろう。もし私たちが私たち自身を神の子と呼ぶのなら、他の人々もまた神の子である。私たちがもっているものがいくら小さなものだとしても、彼らと分かち合わなければ、私たちは何の権利で彼らを私たちの兄弟だと呼ぶことができるだろうか。彼らは私たちより少しあとから人生旅程を歩んでいるかもしれず、またいち早く眠りに就くこともあるだろう。しかし、完璧な完成が地球上に明けてくるためには、彼らはその目標に到達しなければならない。
シュリ・チンモイ(ヒンドゥー教)136

 

― み言選集 ―

 

道の世界において人格完成の標準は、どこから出てくるのでしょうか。愛から出てくるのです。神様の無限で絶対的な愛を中心として人格完成がなされるのです。
(33-79、1970.8.9)

 

イエス様は、勝利的天倫の道を開拓するために、歴史上になかった愛を強調したのです。そして、いかなる困難な環境にぶつかっても、その環境を克服するためには、忍耐心をもたなければならないと主張したのであり、罪人たちが悪に対して忠誠を尽くす以上に神様のみ旨のために忠誠を尽くさなければならないと語られたのです。これがキリスト教で言う聖霊の九つの実の根本です。愛の生活をすれば喜楽と和平が出てくるのであり、忍耐を通しては慈悲と善良が出てくるのであり、忠誠の生活をすれば温柔と謙遜が出てきます。
イエス様は、堕落圏内にいる人間たちのすべての悪の要素を除去してあげるために、天的な愛と天的な忍耐、天的な忠誠を強調しました。これらが天国の理念を達成させ得る実践的な理念ですが、今日、皆さんの心にこのようなキリストの愛がありますか。また、忍耐と忠誠心がありますか。
(2-345、1957.8.4)

 

神様はどのようなお方でしょうか。(注 15)神様は、地上の良い人からも好まれ、悪い人からも好まれるお方です。罪を犯して死刑場に出て死ぬようになる死刑囚も、「神様! 私を哀れに思ってください。私はあなたを愛しています!」と言って死にます。 「この神様め! 私は死ぬ。あなたが私をこのようにした!」とは言いません。
では、悪いことをして死んでいく立場にある人も、どうして神様の前では、良い心で犠牲になり、希望をもって再出発することを誓いながら、その神様に最高に寄与し、また頼り、彼と共にいたいと思うのでしょうか。内心では切に、「父母から離れ、兄弟から離れても、誰よりも近くで事情を通じたい」と思うのです。これは、神様が真であるために、そのように言うのです。
真の人は、好きな者だけを好むのではなく、自分を殺害しようとする怨讐までも好きにならなければなりません。また、彼の前には、すべてを任せることができ、すべてを相談したくもあり、すべてを願うこともできる立場にある人であってこそ、真の人です。
それでは、今まで育ってきた過程で、憎い人がいる人は、真の人ですか、偽りの人ですか。偽りの人です。憎い人がいる人は、間違いなく偽りの人です。これをはっきりと知らなければなりません。真の人になろうとする人なら、この両面を備えているべきです。
それで、私を憎む人をも好きになろうというのです。私を憎む人を私が好きになれば、その人も私を好きになるのです。私を憎む人に私が3回以上良く接してあげれば、彼は頭を下げるようになるのです。3回だけ良くしてあげれば、頭を下げます。そうか、そうでないか、一度やってみなさい。人には良心があって、自分が誤ったのか良くやったのか、分かるのです。
(39-302 ~ 304、1971.1.16)

 

皆さんの心に神様の愛が根付いていて、引き抜こうにも引き抜くことができないようになっていますか。「私は神様の愛になすすべなくぶら下がって生きる者だ。私の体を私の思いどおりしようとしてもできない。私の体に神様の愛が深く根付いているので、私は私の思いどおりに生きようとしても生きることができない。神様の愛を中心として生きまいとしても生きざるを得ない人だ。御飯を食べるときも、神様の愛を中心として食べ、生きるときも、心と体が神様の愛を中心として生きる私だ」と言うことができますか。
(140-24 ~ 25、1986.2.1)

 

8. 喜び

幸福を追求することは、人間の人生はもちろん、宗教的な探求の土台となる。究極的実在との合一は、超越的な喜びを享受することができる。それは、至福(アーナンダ)、涅槃、または神聖な愛する人との婚姻として多様に特徴づけられる。唯一神論的な信仰によれば、神様は喜びのために人間を創造した。神様とその被造物との合一は、その喜びを完全なものにする。
この節では、人間の心情と神様の心情が合一して共鳴する、そのときの天国の喜びを描写する章句で始まる。そして、天国の喜びの広大さと感覚を通した部分的な快楽を比較する章句が出てくる。このような洞察は倫理に対する論議でおろそかに扱われてはいけない。ジョージ ・ ワシントンは次のように言った。「徳と幸福の間には不可分の合致点がある」。私たちは、喜びに満ちた人生と天国の喜びとの間の相乗作用を描写する章句で締めくくる。ほかの人々に幸福を分け与えようとする努力が伴う愉快で楽天的な姿勢は、聖霊の喜びを引き寄せることができる。これは、夫婦の愛と神聖な愛の神秘な連関の中で経験される。(第19 章 5.「夫婦愛」参照)

 

①天の喜び

― 宗教経典 ―

 

命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い / 右の御手から永遠の喜びをいただきます。
詩編16.11(キリスト教)137

 

月日にわにんけんはじめかけたのわよふきゆさんがみたいゆへからおふでさき
14.25(天理教)138

 

幸福は真理と愛から生じる霊的なものである。それは利己的ではない。それで、それは単独で存在することはできず、すべての人間がそれを共に分かち合うことを要求する。
科学と健康 57(クリスチャン・サイエンス)139

 

「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。
コリントの信徒への手紙一 2.9(キリスト教)140

 

人間は、その行なったことの報奨として、満悦させられるものが、ひそかにかれらのために用意されてあるのを知っていない。
クルアーン 32.17(イスラーム)141

 

「雲のようにこの世に出現した余は、如来であり、人間の最高者であり、勝利者である」と。余は、三種の迷いの世界に繋縛されて四肢の痩せ衰えた、すべての人間を元気づけよう。苦悩にさいなまれた者たちを安楽にさせ、かれらに、さまざまな快楽と平安な境地を与えよう。
法華経 5(仏教)142

 

カルマの汚染から自由な者は、宇宙の究極に入っていき、一切を観照し、すべてのことを知り、永遠の至福を享受するだろう。
クンダクンダ パンチャースティカーヤサーラ170
(ジャイナ教)143

 

神を唱念することにより、心の安らぎは得られるのである。
クルアーン13.28(イスラーム)144

 

私の聖母よ! 聖なる師と一つになることで私は至福を得ました。知らず知らずの間に起きた彼との一体の中で、胸の奥深い所に楽しい音楽が響き渡り、珠玉のような旋律の天使たちが降りてきて聖歌を歌います。
「そなたはそのすべてを賛美せよ、胸の中に抱いた主の歌を!」、
ナーナクが言うと、私は聖なる師と一つになる至福を得たのです。
アーディ・グラント、ラームカリー、M.3、p.917
(シク教)145

 

おのが身に、すべてのもののうちの最勝なるもの〔すなわち〕楽土にある安楽をば、人は獲得したいものである―御身の、分別し給う最勝のスプンタ・マンユを通して、マズダーよ。〔けだし〕いつの日までもつづく長き生命の歓喜とともに、ウォフ・マナフの至福をも、御身はこれ(スプンタ・マンユ)によって、天則に従って授け給うのです〔から〕。
アヴェスター・ヤスナ 43.2
(ゾロアスター教)146

 

― み言選集 ―

 

喜びというのは、神様の心情から出発するものです。その目的は、どこで遂げられるかというと、人間によって遂げられるのです。見えない神様の心情が、目に見える人間の心情で顕現するのです。
(27-29、1969.11.15)

 

人はなぜ生まれたのでしょうか。神様と愛するために生まれたのであり、また万物と愛するために生まれました。反対に言えば、神様の愛を受けるために生まれたのであり、万物の愛を受けるために生まれたのです。
(81-334、1975.12.29)

 

いったい、神様の創造は何を目的としたものなのでしょうか。神様がいるとすれば、神様が創造したその目的は何でしょうか。私たち人間が願う目的と同じでしょうか。神様も喜ばれるためにつくられたのです。喜び楽しむためだということです。喜び楽しむにおいては何を中心として喜ぶのでしょうか。お金をもって喜ぶのでしょうか。この宇宙のすべての万象をもって喜ぶのでしょうか。人間たちが喜ぶことのできるそのようなものをもって喜ばれるためではなく、愛をもって喜ばれるために万物をつくられたのです。このすべての万物を、そのような目的のもとにつくったのです。
それでは、万物が願う最高の願いとは何であり、最高の終着点とは何でしょうか。このように見るとき、愛を通じた喜びを目的として万物をつくったとすれば、被造世界の万物は、愛を通して連結され得る因縁を抜け出すことはできません。そのような万物は、真の神様の愛を受けるために理想的に作用をするのです。
(114-63、1981.5.16)

 

人情と天情の合一点が、幸福の出発点である。
御旨の道、天国

 

人は自分が良いときは父母、兄弟、親戚を訪ねて、一緒に楽しもうとします。良いことは幸福なことなのです。幸福は永遠なものであり、永遠なものは心情です。宇宙の中心は何でしょうか。それは父母と子供だというのです。すなわち父母と私です。神様と私だというのです。神様は父であり、私は息子です。人生の究極的目的は、父を訪ねて断ち切ることのできない関係を結び、喜びを感じることです。
(12-104、1962.12.16)

 

ある人が、このような物やあのような物をいっぱいつくっているのですが、ほかのある人が、 「ああ、好きだ! ああ、好きだ! 愛している、愛している」と言えば、その主人がそれを見て、「本当
に好きですか。本当に好きですか」と尋ね、自分よりもっと好きだということを確認すれば、彼にあげたいと思うのです。私よりもっと愛すればあげるのです。それをつくった自分よりもっと愛すれば、自分のものをその人にあげたいと思うというのです。皆さんもそのような心があるでしょう? 神様も
同じです。
ですから、ねずみを見ても、「ああ、神様があれをどれほど愛されるだろうか」と言って愛し、子犬も愛し、蝶を見ても愛すれば、神様が、「それでは、お前にあげよう、お前にあげよう。お前がもっていきなさい、お前がもっていきなさい」と言います。愛してこそ与えるのであって、そうでなければ与えません。主人の立場にいれば分かるのです。ひたすら愛して喜んでいれば、「では、お前にあげよう」、そのように言わざるを得ません。ですから、愛の刺激体として私のためにつくったという話は、正しい話です。愛を誘発するためです。このような万物を愛するのを見るとき、神様が、「あいつは私より優れている」と思われます。……神様も同じです。神様が私を愛するということです。神様に腕があれば、後ろに来て抱きかかえ、 「おいおい、こいつ! うれしいなあ!」、このような局面です。……神様が喜んで抱きつけば、私も喜んで振り返って神様を抱きかかえるのです。神様が、「おい、それはいけない」とおっしゃるでしょうか。神様が好きだと言って神様に無限に入り込んでいけば、神様も、「よい、よい、よい」とおっしゃいます。そう言わざるを得ません。すっかり喜ばれるというのです。
そこで酔っていれば、神様はどうされますか。神様に出会って愛の病にかかり、酔って楽しんでいれば、神様がそれを見て喜ばれるでしょうか、気分を悪くされるでしょうか。「ああ、私の愛は良いものだなあ。はは!」と大きく笑うのです。その時に神様が「アーメン」と言います。「ええい、不愉快なやつ! ええい、不愉快だ」とおっしゃるでしょうか、その場で「ああ、うれしい!」とおっしゃるでしょうか。「とてもうれしい」、その言葉しかないというのです。
そのようになったあとには、二人で酔って抱きつき、乗っかろうと、下に敷こうと、どこに連れていってもうれしく、おしりにそのままくっついてもうれしく、すべてかまわないのです。そのようにできる道が最も望ましい道ではないですか。神様も願い、人間も願い、万物も願う道ではないか、このように結論を下すことができるのです。
(111.171~172、1981.2.15)

 

②感覚的喜びを超越する神聖な喜び

― 宗教経典 ―

 

神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。
ローマへの信徒へ手紙14.17
(キリスト教)147

 

豊満なるものが即ち愉悦である。貧欠なるものには愉悦は存在しない。豊満こそ愉悦である。だから、豊満そのものを識得することに努めなければならない。
チャーンドーギヤ・ウパニシャッド 7.23
(ヒンドゥー教)148

 

神は、男の信者も女の信者も、……永遠(エデン)の園の中の立派なやかた、そこに住むことを約束したもうた。だが最も偉大なものは、神のご満悦である。それこそは、至上の幸福の成就である。
クルアーン 9.72(イスラーム)149

 

この世に於ける諸欲の楽と、この天上の楽とは愛尽の楽の十六分の一にも値せず。
感興偈11(仏教)150

 

孤独の味、心の安らいの味を味わったならば、恐れも無く、罪過も無くなる、―真理の味をあじわいながら。
法句経 205(仏教)151

 

外界との接触に執心せず、自己{アートマン}のうちに幸福を見出し、ブラフマンのヨーガに専心し、彼は不滅の幸福を得る。実に、接触から生ずる諸々の享楽は、苦を生むものにすぎず、始めと終りのあるものである。アルジュナよ、知者はそれらにおいて楽しまない。
バガヴァッド・ギーター5.21~22
(ヒンドゥー教)152

 

それはじつに精(rasa)である。これはじつに精を得て、歓喜あるもの(anandin)となる。じつにもしも虚空のなかにこの歓喜がなかったならば、だれが気を吸い、だれが気であろうか?なんとなれば、この〔精〕はじつに歓喜を起こさせるものだから。
歓喜の性質とは何であろうか? 高貴で、学識があり、頭がよく、強く、健康で、世界中の富を意のままにできる若者の運命を考えてみよ。彼が幸福であるとし、彼の歓喜を一単位とせよ。その歓喜の百倍がガンダルヴァスにとっての一単位である。しかし自己を啓示され、渇望のない先覚者は、ガンダルヴァスに劣らないほどの歓喜を持っている。
ガンダルヴァスの歓喜の百倍が、天上界のガンダルヴァス〔天使〕の歓喜の一単位である。しかし自己を啓示され、渇望のない賢者は、ガンダルヴァスに劣らないほどの歓喜を持っている。
天上界のガンダルヴァスの歓喜の百倍が、楽園に住む祖霊達の歓喜の一単位である。神々の歓喜、祭祀より生まれた神々の歓喜、神々の支配者の歓喜、インドラの歓喜、ブリハスパティの歓喜、プラジャパティの歓喜、ラフマーの歓喜、しかし自己を啓示され、渇望のない先覚者は、ブラフマーに劣らないほどの歓喜を持っている。
この様に書かれている。「言葉で表すことができず、意によって到達することのできないブラフマンの歓喜を知る者は、恐れより解放される。彼は、 「なぜ私は正しいことをしなかったのか?なぜ私は誤ったことをしたのか?」という思いによって悩まされることがない。ブラフマンの歓喜を知る者は、善悪を共に知り、それらを共に超越する。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド2.7 ~ 9
(ヒンドゥー教)153

 

誰でも肉体的な快楽を楽しむことができる。奴隷も最も良い人に劣らず楽しむことができる。しかし、奴隷も自らの人間的な生活をしているなら分からないが、誰も奴隷が幸せだとは思わない。したがって、幸福はそのような暇つぶしのたねにあるのではなく、徳のある活動に含まれている。
アリストテレス ニコマコス倫理学10.6
(ヘレニズム)154

 

― み言選集 ―

 

私たち人間をじっと見てみると、ひたすらあちこち歩き回って、目も麻痺になり、耳も麻痺になり、においをかぐ鼻も麻痺になり、味わう口も麻痺になり、2本の腕も麻痺になり、すべて麻痺になったというのです。私の目が、私の耳が、私のすべての感覚器が一体化して、すべての神経線まで全体を総合し、私を一つのところに導くことのできるその道はどこでしょうか。陶酔し、喜びを感じて生きることのできる道があるとすれば、それはどの道でしょうか。それが私個人の人生の道として、私の一つの道として、私が満足できるだけでなく、私に従う家庭が満足し、私が属している氏族が満足し、私が属した国が満足し、私が属した世界が満足し、私が属した天地が満足し、神様までも満足できる、そのような光の道がどこにあるでしょうか。これが問題だというのです。
(95-181、1977.11.13)

 

個人生活を中心とする人々はよく感じることができませんが、恩恵深い生活をする人々は、いつも見ている万物が昔とは異なるように感じられるのです。いつも新しいのです。朝に見ても新しく、夕方に見ても新しいのです。神様の恩賜がゆっくり波打ってくるとき、神秘さを立体的に感じます。そのように感知する人がいれば、彼は幸福な人です。
(30-134 ~135、1970.3.21)

 

神様がいれば、その神様と人間はどこで連結されるのですか。生命が交流する所、愛が交流する所、理想が交流する所です。その点がどのような点でしょうか。父子の関係にならざるを得ないという結論が出てきます。
このように見るとき、「ああ、私が神様と同等になることができるので、そのような喜びがどれほど大きいだろうか」と考えてみることを願います。そこで祈祷が必要ですか。「神様、私は罪人です」という祈祷が必要ですか。愛の主体であり、生命の主体であり、理想の主体なのに、祈祷が必要ですか。威信と体面を超越するのです。ためらうことなく神様をつかむことができるのです。そのように、神様が抱きかかえてなでてくれ、愛してくれることを体験すれば、骨と肉が溶けてしまうでしょう。
ここに宗教指導者も来ていると思いますが、そのような神様の愛を一度受けてみましたか。そのような位置で息をすれば、世界が行ったり来たりするのです。阿片を飲み、酒を飲んで酔うよりも劣るでしょうか。阿片にも劣るのですか。酒にも劣るのですか。神様の愛に入ってくれば、満たされない所がありません。約 400 兆にもなる細胞までも踊りを踊ることを感じることができるのです。目は目で、手は手ですべて感じるのです。それ以外のほかのものは、もってきてもすべて嫌います。このような神様の愛があるので、人間の最高の高貴な欲望がそれを目指していることを徹底して知らなければなりません。
(69-79 ~ 80、1973.10.20)

 

きょう一日が喜びで消化されるのは感謝なことですが、この喜びをあすの喜びとしてもっていくことができなければ、きょうの喜びは、私にとって永遠の怨讐になることを知らなければならず、悲しみと困難と嘆息の条件にしかならないことを知らなければなりません。喜びが良いことばかりではなく、悲しみが悪いことばかりではないことを知っております。問題は、喜びと悲しみを連結するにおいて、自分の目的成就のための内的闘争がその環境にどのくらい結ばれていくのかということが重要であることを知っております。このようなことを分かるようになるとき、私たちがみ旨と共に生涯路程を行くにおいて、み旨とどのくらい一致したのか、み旨の価値に私たちの喜びと悲しみがどのように連結されていくのかということを考えるようになります。
(43-10、1971.4.18)

 

③楽しい生活

― 宗教経典 ―

 

怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは大いに楽しく生きよう。怨みをもっている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは暮らしていこう。悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩み無く暮らそう。われらは一物
をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食む者となろう。
法句経197 ~ 200(仏教)155

 

聖霊はうれしく思う心をもつ者にだけ共にされる。
エルサレム・タルムード、スッカー5.1(ユダヤ教)156

 

北風よ、目覚めよ。南風よ、吹け。私の園を吹き抜けて / 香りを振りまいておくれ。恋しい人がこの園をわがものとして / このみごとな実を食べてくださるように。わたしの妹、花嫁よ、わたしの園にわたしは来た。香り草やミルラを摘み / 蜜の滴るわたしの蜂の巣を吸い / わたしのぶどう酒と乳を飲もう。友よ食べよ、友よ飲め。愛する者よ、愛に酔え。
雅歌 4.16 ~ 5.1(キリスト教)157

 

― み言選集 ―

 

先生は、あることに着手すれば、「このために生まれた!」と考えます。生まれたのはこのためだと考え、その次には、喜んでするのです。喜んでやりながら生きなければなりません。険しい峠を越えられるものが愛です。自分が気が向かないことには手を出しません。心がすべて知っています。喜んでするところには、神様が行かれて福を祈ってくださるのです。
(308-214、1999.1.5)

 

皆さんが 70 年、ないし 80 年を生きると考えるとき、その中で3分の2が悲しい生活だとすれば、この3分の2をどのようにしなければなりませんか。神様を中心として喜びの生活にしなければなりません。天国化させなければならないということです。天国は与えながら生きる所です。神様も与えなければなりません。父母は子女に与えなければなりません。良いものを与えたあとも、もっと良いものがあれば、それをまた与えたいと思うのが父母の心です。
(34-141、1970.8.30)

 

なぜ男性が女性を必要とし、なぜ女性が男性を必要とするのですか。神様の愛に共鳴するためです。そのようになれば、「ああ、よい!」と言うのです。食べなくてもよく、寝なくてもよいと言います。女性に男性が必要であり、男性に女性が必要です。完全な男性と完全な女性の愛が共鳴されてこそ、完全に神様の愛が成し遂げられるのです。
(102-21、1978.11.19)

 

横的な夫婦の愛が神様の理想的愛によって完全に花開き、その愛の香りが全世界を覆い尽くすと同時に、神様の愛が加えられ、父と息子、娘の位置が完成するのです。
息子、娘の幸福を謳い、息子、娘の希望と息子、娘の万事を賛美することができ、愛を謳うことができます。それだけで終わるのではなく、皆さんがもつその愛の貴い贈り物の上に立体的愛を加え、この宇宙が膨らむようになるのです。風船を知っているでしょう?平たくつぶれた風船をふーっと吹けば大きくなるように、宇宙が膨らみ、存在世界の万物がその中に入っていってあまりある宇宙になるのです。すべてのものを充満させることのできる愛の力によって登場するというのです。
(101-35、1978.10.28)