世界経典Ⅱ 第1部 神様と創造 第4章 神様の創造と人間の創造性

第4章 神様の創造と人間の創造性

1. 自然の神聖さ

自然は真に神聖である。大小すべての被造物は、神様の生命を賦与され、神様の霊を分有されている。すべての伝統宗教が共有するこのような洞察は、あらゆる生物に対する尊重と恭敬の礎石となる。アブラハムの伝統宗教によれば、神様は自らの目的に従ってそれぞれの被造物を創造したのであり、愛で満ちた自らの心情を注ぎ入れた。ゆえに、砂粒一つ、草の葉一枚に至るまで、すべての存在は神性の要素をもつ。さらに自然は、驚くべきバランスを見せる。したがって自然は、詩的、宗教的霊感の信頼するに足る源泉である。自然の本来の純粋さを黙想することによって、私たちは神様と触れ合うことができる。
知恵のある人々は、すべての被造物が一種の意識的な知識の次元をもつことを感知する。多様な種類の動植物は、人間の氏族と世界のように種と類を成す。それらは、私たちの体を構成し、命を支える要素を私たちに貸してくれた、正にその母、大地によって養育される兄弟姉妹たちである。自然が提供してくれるすべてのものを考慮すれば、私たちは自然に対して、大きく感謝しなければならない。文鮮明先生の教えのように、各被造物は、生きている神様の傑作品として、私たちのために、すなわち私たちの喜びと、霊感と、学びのために存在する。したがって私たちは、自然を愛し、保護しなければならない。

 

①自然界に内在する神性

― 宗教経典 ―

 

一枚の木の葉も、あるいはもろい草の葉さえも、畏敬すべき神がその自らを表している。
卜部兼国(神道)1

 

地とそこに満ちるもの / 世界とそこに住むものは、主のもの。
詩編 24.1(キリスト教)2

 

世界は庭園、
主はこれを育てる庭師、
すべてを大切にし、そこつがない。
アーディ・グラント、マージュ、アシュタパディー、M.3、p.118(シク教)3

 

私は、大地に入って、
威力により万物を支持する。
また、液汁(甘露)よりなるソーマとなって、
すべての植物を育てる。
バガヴァッド・ギーター15.13(ヒンドゥー教)4

 

深い天
曇った天
善い天
まっすぐな天

大地が草木を生む
草木が私たちを生かす
私たちを長生きさせ
恵ませる

善なる生命よ
大気の中に流布されよ
広がれよ
果てまで満たせ

甘い薬の大地は善良だ
甘い薬の大地は完全だ
甘い薬の大地は永遠の道を行く
甘い薬の大地は洗われ水が流れる
シャイアン族の歌(アメリカ先住民の宗教)5

 

主は泉を湧き上がらせて川とし / 山々
の間を流れさせられた。
野の獣はその水を飲み / 野ろばの渇きも潤される。
水のほとりに空の鳥は住み着き / 草木の中から声をあげる。
主は天上の宮から山々に水を注ぎ /御業の実りをもって地を満たされる。
家畜のためには牧草を茂らせ / 地から糧を引き出そうと働く人間のために /さまざまな草木を生えさせられる。
ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ / パンは人の心を支える。
主の木々、主の植えられたレバノン杉は豊かに育ち /
そこに鳥は巣をかける。こうのとりの住みかは糸杉の梢。
高い山々は野山羊のため。岩狸は岩場に身を隠す。
主は月を造って季節を定められた。
太陽は沈む時を知っている。
あなたが闇を置かれると夜になり /森の獣は皆、忍び出てくる。
若獅子は餌食を求めてほえ / 神に食べ物を求める。
太陽が輝き昇ると彼らは帰って行き /それぞれのねぐらにうずくまる。
人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く。
主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。
詩編104.10 ~ 24(キリスト教)6

 

渓流は寂しい小道を横切り、
寂しい小道は渓流を横切る。
そのどちらが先か。
私たちはこの渓流と出会って歩むために
その寂しい小道を断ち切ったのではなかったか。
渓流はその起源がとても古い。

その起源は創造者から始まった。
彼はあらゆるものを純粋にタノで創造した。
アシャンティ族の詩(アフリカ伝統宗教)7

 

― み言選集 ―

 

野に育つ微々たる草一株でも、そこに神様のみ手が触れていないものがないことを私たちは考えなければなりません。育っている1本の木を見ても、そこには神様の無限の内的心情の因縁を通じた事情を経ていることを、私たちはもう一度思い出してみなければなりません。
(6-338、1959.6.28)

 

すべての万物が、そのように因縁を結ばれているというのです。そして、因縁というのは、極めて小さいところから結ばれるものです。皆さんの個体も数十(400 )兆個もの細胞で因縁が結ばれた生命体です。神様の愛を中心とした創造理念の世界、すなわち大宇宙のすべての存在物はどれ一つをとってみても、神様の心情の外で生じたものはありません。このようなことを感じる詩人がいたとすれば、偉大な詩人です。1枚の木の葉が揺れるのを見て天宙的な心情を感じ、それを表現できる詩人がいたとすれば、それは宇宙的な詩人だといえます。
今日私たちは、このようなことに対して、あまりにも無視し、無関心でした。私たちの周囲で無意識のうちに繰り広げられている天下万象は、神様の愛と共に存在するものであるという事実を知りませんでした。
神霊的な境地に入ってみると、小さな砂一粒にも宇宙の理致が入っているし、一つの原子にも無尽蔵の宇宙の調和が入っていることが分かります。存在するすべてのものをよく知ることはできませんが、ある複合的な力を通して現れた結果であることは否定できません。分子を越えて原子、原子を越えて素粒子……。これらのものは無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的をもって存在するのです。ですから、存在するすべてのものは、神様の愛の手を通って出てきたものであり、必ず神様と心情的な関係を結んで存在している事実を、徹頭徹尾知らなければなりません。
道人とはどのような人でしょうか。一握りの草をつかんでも、「神様!」と言うことができる心情で、その価値を自分の価値と同等に認識できる人が最高の道人です。そのように、その価値を謳歌できる人が最高の芸術家です。色とりどりに存在する万象を見て、神様の色とりどりの愛と心情の妙味を発見し、それらのものと友達となり、共に楽しめる感情をもった人がいるとすれば、そのような感情で細胞の一つ一つが動く人がいるとすれば、その人は万宇宙を代表し得る人であるはずです。そのような人が万物の霊長です。ところで、食べることしか知らない人が万物の霊長になれますか。
神様が被造世界を造るとき、そこには喜びがありました。造ってから、見て「良し」と言われました。喜びがあったということです。喜びとは何ですか。ある目的を成し遂げたときに感じるものです。つくられた万物に神様の目的意識が内在していたがゆえに、創造された万物に神様は喜びを感じられたのです。
それでは復帰の世界とは、どのような世界なのでしょうか。一言で言えば、森羅万象の個体、個体を見て神様を賛美し得る心情的な因縁を、立体的に備えた人々が住む世界です。天から見た人格の価値は、そこにあります。ですから昔、聖フランシスのような人が、動物を見て、あるいは鳥を見て説教し
たというのも、うそではありません。夢のような話です。しかし、夢ではなく事実です。
(9-168 ~169、1960.5.8)

 

絶対者がいるとすれば、その絶対者が天地万物を創造するとき、悲しい心で創造したでしょうか。違います。喜びの心で創造したのです。創造されていく過程を見ながら、絶対者であられる神様は喜ばれたでしょう。
だとすれば、どのくらい喜ばれたでしょうか。どれほどうれしく思われたでしょうか。そして、どのくらいの価値としてすべてのものをつくったのでしょうか。神様が容認されたそのような価値の内容を、今まで人間たちは知りませんでした。知る由もなかったのは、今まで人間たちは、神様を尋ね求めていく過程にいたために、その価値を究明し、その価値の定義を下せなかったからです。ですから、神様が人間を創造するとき、本当の喜びで造ったのなら、その人間に対してどのくらいの価値の内容を賦与されたのであり、どのくらいの喜びの対象として造ったのでしょうか。これが問題です。
(27-223、1969.12.14)

 

私たち人間は、自然を愛します。自然を好みます。人間より自然をより好むのです。自然は純粋です。本然の状態を、そっくりそのまま所持しています。良い文化住宅に住み、良い文化生活をしながらも、 「ああ、山に行きたい。海に行きたい」と思うのですが、なぜ行きたいと思うのですか。そのような
所は、本然の状態をそのままもっているからです。
(107-311、1980.6.8)

 

人類の文化は、自然を抜きにしては考えることができません。自然から離れた人類文化は語ることができないのです。人間がいくら堂々とその威勢を誇り、権勢を享受したとしても、自然を無視すれば、そのすべてのものが成立しないというのです。
このように、私たちの生活を価値あるものにしてくれるのが自然であり、私たちの生涯において絶対に必要なものが自然なのです。ですから、自然万象に流れている心情を感じ得る人になれなければ、真の幸福を享受できず、天と因縁を結べる栄光の位置に出ていくことはできません。
今から皆さんは、一株の草を見るとしても、神様の立場で見ることができなければならず、花を見つめるとしても、神様の心情を身代わりする立場、神様の心情に通じ得る立場で見つめなければなりません。昆虫や鳥、ある動物を見つめるときにも、神様の心情と因縁が結ばれる、そのような内的な感情を体得できなければなりません。
(6-340.1959.6.28)

 

お父様! 万有の主人であられるあなたの前に、すべての天地万物が永遠無窮に称賛をお返しすることを願います。どれ一つとして、あなたの因縁の中から外れてつくられた存在はないがゆえに、お父様によって、お父様の心情を通してつくり出されたすべての天地万物は、お父様の栄光を高め、お父様の
神聖さと深奥さを現し、お父様の無限の価値を現しているという事実を、私たちは知っております。
(20-243、1968.7.7)

 

②意識ある生は目的が賦与されたもの

― 宗教経典 ―

 

地上の生きとし生けるものも、双翼で飛ぶ鳥も、一つとしてなんじらと同じ衆生でないものはないのだ。経典の中には一事でも、われがおろそかにしたものはない、すぐにかれらの主に召集されるのである。
クルアーン 6.38(イスラーム)8

 

私が言う。「例えれば、ちょうどある感覚器官を具備していないまま生まれた人(つまり生まれつきの盲人、耳が聞こえない人、口のきけない人、足がなえた人などのような体の不自由な人たち)の意識は、外からは見えないが、彼らが刃物で傷つけられたり暴行されたりするとき、何の苦痛も痛みも感じないのではない。これと同じように、土でできた存在(つまり鉱物や原子)、水でできた存在、……
火でできた存在、……植物、……動物、……空気でできた存在も、それらの意識が苦痛を感じるのが、外から見えないだけであって、だからといって痛みを感じないのではない」。
アーヤーランガ・スッタ1.28~161
(ジャイナ教)9

 

この人たちが黙れば、石が叫びだす。
ルカによる福音書19.40
(キリスト教)10

 

私たちの部族には、この地のあらゆる部分が神聖である。すべての丘、すべての渓谷、すべての平原と森が、果てしなく遠くに消えていった悲しみや喜びの出来事によって神聖なものとなった。
静かな海岸に沿って、太陽の下で疲れて死んだかのように黙っている岩さえも、私たちの部族の生と連結した、胸がじんとする出来事に対する記憶として体を震わせている。今、あなたが立っているこの土も、あなたより私たち部族の足どりに、より親しく反応する。この土は、私たちの先祖の血によって肥えたからである。
シアトル酋長
(アメリカ先住民の宗教)11

 

善なるものを創造する神の善性、くり返していうが、このように正しく十分な理由は、注意深く考察し、敬虔に考えてみると、世界の起源を問題とする人びとのすべての論争を終結させるものであるのに、ある異端者……はそれを認めなかったので、それというのは、火、寒気、猛獣などというような、それ自体、正しい懲罰から起こる、この肉の乏しくもろい可死性に適合せずにそれを害するものがじつに多くあるからである。そしてそれらの異端者は、それらのものも、そのあるべき場所において、ま
た、その本性において、どんなにりっぱなものであるか、どんなに美しい秩序によって配置されているか、どれだけ万物全体にそれら自身の美しさの分け前に応じて、さながら共有財産に対するように貢献しているか、あるいはまた、わたしたち自身にも、もしもわたしたちがそれらのものを適切に賢明に用いるなら、どれだけ便益を与えるか―毒でさえも、うまく合わなければ死を招くが、うまく用いれば健康をもたらす医薬に変じるように……。
アウグスティヌス 神の国11.22
(キリスト教)12

 

― み言選集 ―

 

人間自体が自然です。完全な自然は神聖なものです。
(9024、1976.12.10)

 

花も、雄しべがキスしてくれるとき、雌しべは「ああ、うれしい!」と思うのです。そのような感覚がなければならないのではないですか。そのような感覚があるでしょうか、ないでしょうか。雄と雌の感覚は最高の感覚なのですが、その感覚を構成しているのは、五官的感覚の連結体によってできたと
いうのです。これは理論的です。
五官的感覚で愛するというのは、男性と女性が対等な位置に造られたということです。レベルは低いのですが、共通分母で平準化され、その世界において統一的内容を備えているのです。ですから、男性と女性、または雄と雌になっているというのは、神様のすべての共通分母を公開的に分配されたことは間違いありません。これを否定することはできないのです。
(217-306、1991.6.12)

 

物質から形成された人間の生理的機能が、心の知情意に完全に共鳴するのは、物質もやはり、知情意に共鳴できる要素をもっているという事実を立証するものにほかならない。このような要素が、物質の性相を形成しているために、森羅万象は、各々その程度の差こそあれ、すべてが知情意の感応体となっている。我々が自然界の美に陶酔して、それらと渾然一体の神秘境を体験できるのは、人間が被造物のこのような性相の中心ともなるからである。
原理講論、創造原理 2.3.4

 

神様も御自身を誇りたいと思われたのです。遠い歴史前の時代に戻って、創造の世界を欽慕されていた創造主は、六日間で創造された創造物を見つめて喜ばれた、その時代を回想してみるとき、神様もつくられたすべての万物を通して、御自身を誇りたいと思われた心があったがゆえに万物を創造されたのは間違いありません。つくられたいかなる存在を見ても、そのような事情が絡まっているというのです。
皆さんが見つめるこの被造世界、あるいはこの自然には、様々な被造物が存在しています。存在する万象は、いかなる過程を経て創造されたのでしょうか。それは、創造主の精誠を込めた心情の過程を通してつくられたのです。いくら微々たる存在でも、神様の愛の心情を通して、神様が誇りたいと願われる心をもった、そのような場でつくられたことは間違いありません。
このような点から見れば、小さくはごく微々たる存在から、大きくは私たちが推し量れない広大な宇宙にまで、存在するすべての万物は、神様が誇りたいと思われた、自慢の存在としてつくられたことを、皆さんは知らなければなりません。
(20-248、1968.7.7)

 

③母なる大地とその子女

― 宗教経典 ―

 

神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
創世記1.11~12(キリスト教)13

 

私たちの母なる大地は、花のような霜でいっぱいの
白い粉の四つの袷で自らを包み、
氷の床が世界を覆い、
寒さで樹木が一方に傾き、
その腕が雪の重さで下に垂れ下がる。
ゆえに、その時になれば、私たちの母なる
大地の肌が寒さでひび割れる。
その次に大地が生水で満ちた春に、
私たちの母、あらゆる種類のとうもろこしを
それらの母なる大地に休むよう寝かせておくのである。
母なる大地の生水により
それらは新しい存在になるのである。
父なる太陽の光により
それらは立ち上がるのである。
四方を指し
それらは手を広げて雨を呼ぶだろう。
その時、新鮮な水をつれて
雨の神が私たちの道を過ぎていくのである。
それらの腕の幼いもの(とうもろこしの実)を抱きかかえ
それらは、それらの子供たちを育てるだろう。
それを私たちの家にかき集め、
私たちの思いが傾く人たちに従い
それらの従う私たちの思いとともにその時、私たちは常に生きるだろう。
チュニ族の歌(アメリカ先住民の宗教)14

 

大地よ、汝の中心たるところ、汝の臍たるところ、汝の身体より出づる生力のただ中に我を据えられんことを。あらゆる方よりわれらを清め給わんことを。大地はわが母なり、われはその息子なり。そして天はわが父にして、豊かなる恵みをもってわれらを満たされんことを。……
大地の中に、草木の中には火が潜み、水がそれを運ぶ。火は石の中にある。人々の奥深きところに火があり、牝牛に火があり、馬に火がある。同じ火が天界において燃え、空界はこの神火に属す。人はこの供物を生みだし、グリタを愛する火を炊く。
燃えたぎるマントをまとい、膝の暗い大地よ、われを燃やし給わんことを。われを明るく輝かしめんことを。……
大地よ、汝より掘るいかなるものも、速やかにまた育たんことを。ああ清める者よ、願わくはわれらが汝の生命と心を傷つけることなかれ。
馬が砂塵を〔振い散らすが〕ごとく、彼女(大地)は、生まれて以来大地に住したる種族を分散したり、優美にして先頭に進む世界の守護者、樹木・植物の把握者は。
わが語るところ、そをわれ蜜をこめて語る。われが見るところ、そを人々はわれより望む。われは光彩に富み、速力に富む。われは他の敵対者を打ち倒す。
平和にして香しく、快適にしてその乳房は甘露に満ち、乳あふるる広き大地は、乳もろともわがために語れ。……
汝は人間の分散者アディティ(「無垢の女神」、神々の母)にして、あらゆる願望を満たし、遠く拡がる。汝に欠けたるところ、そを天則の初生児プラジャー・パティは汝のために満たす。
汝の懐は、病患なく労症なく、われらのために設えられてあれ、大地よ。われら願わくは、 〔朝な朝な〕長寿のために目覚めつつ、貢物をもたらす者たらんことを。
母なる大地よ、幸福もてわれを安定せる者たらしめよ。天と共々に、弁才ある女神よ、われに吉祥と繁栄とを恵み給わんことを。
アタルヴァ・ヴェーダ 12.1
(ヒンドゥー教)15

 

いと高く、全能の、いとも善き主よ、
賛美と、栄光と、誉れと、祝福は、あなたのもの。
これらは、ああ、いと高きおかたよ、
あなたのみに帰すべきもの、
なにびとも、ふさわしく、
あなたのみ名を呼ぶことはできない。

主よ、ほめたたえられよ、すべての被造物、わけても、兄弟なる太陽とともに。
かれは、われらに昼を与え、あなたは、かれによってわれらを照らす。
かれはまた、美しく光り輝き、その大いなる光明によって、
ああ、いと高きおかたよ、あなたをかたどる。

主よ、ほめたたえられよ、姉妹なる月と星のために。
あなたは、かの女たちを明るく、とうとく、美しく、天に造られた。

主よ、ほめたたえられよ、兄弟なる風のために。
しかして、空気と、雲と、晴天と、もろもろの天候のために。
あなたは、かれらによって、被造物をささえられる。

主よ、ほめたたえられよ、姉妹なる水のために。
かの女は、いと有益にして、謙遜、貞潔なるゆえに主よ、ほめたたえられよ、兄弟なる火のために。
あなたは、かれによって夜を照らす。
しかして、かれは、美しく、陽気にして、健やかで強い。

主よ、ほめたたえられよ、姉妹にして母なる大地のために。
かの女は、われらを保ちささえ、
さまざまな果実と、色とりどりの花と、木々を生みだすゆえに。
アッシジの聖フランチェスコ 太陽の歌
(キリスト教)16

 

― み言選集 ―

 

宇宙が人間を形成してくれました。宇宙の元素を借りて私が形成されたのです。それは、宇宙が私を生んでくれ、造ってくれたということです。それで、私に父母がいるとすれば、宇宙が第一の父母です。これを、皆さんは知らなければなりません。ですから、私という存在は、すべての宇宙の元素を総合
した実体です。
(105-106、1979.9.30)

 

父母は、皆さんを世の中に生んでくれた2番目の父母です。神様は、皆さんに霊を下さった3番目の父母です。このように、人間は三大父母をもっています。
(106-84、1979.12.9)

 

神様がつくられた自然を愛すれば、神様が訪ねてこられます。「こうしてこのようになった」ということをすべて教えてくださるのです。自然は、そのように貴いのです。
(278-120、1996.5.1)

 

本当に宗教的な心情がわき出るその瞬間には、万物を見つめて、頭を下げるのです。天を見ても、自然を見ても、天体の無数の星雲を見ても、神秘的で崇高な感情が心からわき出てくるようになります。このような感情から、宗教が出発したのです。
私を超え、自然の現象を見つめて、高く評価することができ、動く自然のあらゆるものを見つめて、私の心情世界の高貴なものに代わって歌えなければなりません。そして、動くすべてのものを自然の音楽のように、自然の芸術のように、自然の文学のように感じ得る心情が私の心からわき出てくるようになるとき、初めて天体を支配している神様と私が関係を結ぶことができるのです。このように、自分がすべてのものと関係を結んでいるという心情が強くなってこそ、事物に対するときに、再び鑑定できる心的基準が定まります。これは、私たちが神霊的な境地に入っていけば、そのまま感じるようになることを皆さんは悟らなければなりません。
神様と万物は、このような関係を結んでいます。神様と万宇宙はこのような因縁で結ばれているのですが、再び人間と関係を結んでいるのです。このような事実を感じて自然を見つめるとき、皆さんは初めて人間の尊厳性を感じることができるでしょう。
(5-344、1959.3.8)

 

神様が私の父であることを知り、神様は私のためにこの宇宙を造ってくださったことを知りました。ですから、世の中が何と言おうと、私が神様に「この宇宙は誰のために造りましたか」と尋ねてみるとき、「レバレンド ・ ムーン、お前のために造った」と言われるのです。神様も私の神様であり、宇宙も私のものだというのです。それは言葉だけではありません。そのように世の中を見つめるのです。
春になれば花が咲き、香りが漂い、美しい花園が訪れてきます。蝶が舞い、虫が飛ぶようになります。それは宇宙のあらゆるものを象徴します。神様の愛と神様の高貴さと天使世界が和動することを、すべて私に見せてくれるためのものです。すべてが私と連結しています。小さな鳥がチュンチュン鳴くのも私を見てそのようにするのであり、おなかがすいていたり、友人を見つけるのを願うので、私が呼ん
であげればうれしいと思うのです。このように、すべて因縁を結んでいるのです。
蝶がカップルで飛んでいれば、蝶よりもっと美しく人間は生きなければならず、鳥たちが喜ぶものを見れば、鳥たちよりもっと美しく生きなければならず、すべての動物たちよりも、もっと理想的に生きなければなりません。ですから、春が来たのなら、 「すずめよ、お前は今年の春を迎えてチュンチュン
鳴きながら喜んでいるが、来年の春には、私がお前よりもっと喜ぶだろう」と考えなければなりません。
私が歌い、私が香りを発するのは誰のためですか。神様のためです。ですから、神様が私についてきて、比べてみて、刺激を受けて楽しまれるよう、私が動物や万物を通して感じるのと同じように感じられるよう、刺激を差し上げるのです。私がたとえ着るものがなく、流れ者の立場になったとしても、
庭に横になっていれば、「天が私の布団であり、そばに流れる水が私の水道であり、山に生えている万物が私の食べ物だ!」、このように考えます。
川の流れを見れば、その川の流れはとても小さいですが、「お前はこの大海の先祖と因縁をもった、そのような偉大な水だなあ!」と称賛します。小さな一株の草を見ても、最近人間たちは、ある有名な画家が描いた絵を博物館に保管し、世界に誇り、何十万ドルや何百万ドルだと大騒ぎしますが、「それは人間が描いた絵にすぎない。神様が直接つくられた生花なら生花、その一輪の花がそれと比べられるだろうか」と思いました。これは、どの国の博物館にある、その何よりも貴いものだと思います。
それで、1羽の鳥を捕まえても、キスしたあとに「お前は誰よりも貴いなあ!」と言います。皆さん、じめじめした所に行って掘り返してみれば、見えない虫もみなカップルで這い回り、自分たち同士でひそひそと通じているというのです。私が愛と幸福を感じることができるよう、神様が私のためにつくってくださった神様の庭の、生きた博物館です。万物は主人が人、神様の息子であることを知っているので、すべてその主人に関心をもってついて回ろうとするのです。
(106-137、1979.12.23)

 

2. 生命尊重

この節の章句は、生命尊重に符合する倫理を規定するものである。道教と仏教の経典は、人間世界の人為性に関して指摘し、自然の純粋さと無為に帰ることを促す。暗く不潔な都市環境と比較するとき、自然の中の生は、すなわち浄化であり、霊的生に助けとなる。自然の中で時間を過ごすある人にとって、自然世界に対する尊重と、その中の被造物に関する恭敬は、強制された何かではなく、愛に満ちた心情から自然と流れ出てくるものである。それゆえに、アヒンサー、すなわちインド亜大陸で生じた非暴力、不殺生の教義がある。菜食主義は、よくこの教義の倫理観によって出現する。さらには、自然の被造物の中で、雌牛ほど惜しみなく、何の不平もなく与える動物はなく、したがって、雌牛はヒンドゥー教徒たちと多数の原住民たちによって当然、恭敬される。
文鮮明先生の教えは、上で言及した側面と様々に符合するが、特に自然に対する愛を強調し、それは環境倫理のための出発点とみなされる。しかし、それは、下位体系の被造物は、上位体系の被造物にのみ込まれ、吸収されることによって、神様の愛にさらに近づいていくという概念に立脚し、菜食主義に対する興味深い異議を提示する。下位体系の被造物は神様の愛を具現するので、被造物の頂上に立った人間のための滋養分になることを当然願うだろう。しかし、真の愛を実践しない人は食べ物を摂取する資格がないのである。

 

①生命体に対する畏敬と保護

― 宗教経典 ―

 

恰も母が己が子、一子を自らの命を賭して護るが如く、一切有情に対して無辺の〔慈悲〕心を修習せよ。
小誦経、慈悲経(仏教)17

 

全ての生き物に対して一切危害を加えない事、もしくは(実際やむを得ない場合)最小限度の危害にとどめることを信条とした生き方が、最高の道徳である。
マハーバーラタ、シャーンティ・パルヴァン
262.5 ~ 6(ヒンドゥー教)18

 

何かの動物や生物、有機体、または意識のある存在を傷つけたり、隷属させたり、苦痛を与えたり、殺したりしてはいけない。非暴力の教義は清浄で不変であり永遠だ。苦痛があなたに痛みを与えるように、同様にそれはあらゆる動物、生物、有機体、意識のある存在に痛みを与え、不安にさせ、恐れ震えさせる。
アーヤーランガ・スッタ4.25 ~ 26(ジャイナ教)19

 

使徒曰く、「イスラームには害悪もないが、害悪に対する根拠もない」。
マジュマ・アル・ザワーイド4.6536(イスラーム)20

 

一人の比丘あり、蛇に咬まれ死せり。世尊に此の義を告げたり。「比丘等よ、彼比丘は四種の蛇王族に慈心を以て徧満せざりしなり。比丘等よ、若し彼比丘、四種の蛇王族に慈心を以て徧満したりせば、比丘等よ、彼比丘は蛇に咬まれて死することなかりしならん。……
無足者を慈しみ 二足者を慈しみ 四足者を慈しみ 多足者を慈しみ
無足者我を害ふな 二足者我を害ふな 四足者我を害ふな 多足者我を害ふな
一切有情、一切生類 総じて一切の生者 一切は善美に遇ひ 小分の悪、来る勿れ」
律蔵、小品 v.6(仏教)21

 

生み出しても、所有することはない。はたらかせても、報いを期待せず、成熟しても、管理することをしない。これは見えない「徳」と呼ばれる。
道徳経 51(道教)22

 

牛馬が四本の足を備えているのを、天といい、自然という。馬の首に綱をまきつけ、牛の鼻に穴をあけて輪を通すことを、人といい、人為という。だから、古人も「人為によって自然を滅ぼしてはならない。故意をもって、天から与えられた自然の性命を滅ぼしてはならない……」。
荘子17(道教)23

 

大和には、群山あれど
とりよろふ 天の香具山
登り立ち 国見をすれば
国原は 煙立ち立つ
海原は かまめ立ち立つ
うまし国そ あきづ島 大和の国は(注1)
万葉集1(神道)24

 

全世界の中心、須弥山の東側に、険しく緩慢な山すその急斜面に沿って流れ下る青々とした小川、明るく青々とした木々の葉、香り漂う百合、天界の木々はそれぞれ美しく、名も知らない林と蔓がうっそうと茂り、苦行僧と求道者たちが世話をするがっちょう、あひる、白鳥たちの鳴き声がのどかだ。 (注2)
ジャータカ(仏教)25

 

おお、虎たちよ、再び森に戻り、
森が平地と変わらないものにならないようにせよ。
お前たちがいなければ、斧が森を無残に殺戮するだろう。
森がなければ、お前たちは永遠に住む所なくさまよい歩くだろう。
小誦経(仏教)26

 

倫理は、私が、すべて生きんとする意志に、自己の生に対すると同様な生への畏敬をもたらそうとする内的要求を体験することにある。これによって、道徳の根本原理は与えられたのである。すなわち生を維持し促進するのは善であり、生を破壊し生を阻害するのは悪である。……人間は、助けうるすべての生命を助けたいという内的要求に従い、なんらか生命あるものならば害を加えることをおそれるというときにのみ、真に倫理的である。かれは、この生命あるいはかの生命がどれほどの貴い関心に値するかを、またそれらが感受能力があるかどうか、どの程度にそれがあるか、を問わない。生命そのものがかれには神聖なのである。
アルベルト・シュヴァイツァー 文化と倫理 27

 

― み言選集 ―

 

自然を愛し、人を愛することができなければなりません。人を愛することができず、自然を愛することができない人は、神様を愛することができません。万物は神様の象徴的存在であり、人間は実体的存在なので、万物と人間を愛することができる人は、神様を愛するようになるのです。
(70-182、1974.2.9)

 

自然を愛することができない人は、自然の主人である人を愛することができないというのです。自然を自分以上に愛し、また人々を自分以上に愛さなければなりません。
(375-20、2002.4.13)

 

妻を愛するときも、生きる栄養素を妻に補給する、空気と太陽の光と水と草を先に愛さなければなりません。水と太陽がなければ、草木が育つことができません。自然を愛してこそ、自分が生きることができるのです。これらは、自分勝手に取って食べながら愛することはできず、そのようにして食べれば病気になります。愛すれば病気になりません。
(385-200、2002.7.11)

 

私たちの体と、最も近いものが自然です。ですから、私たちは嘆息する自然の願いを解いてあげなければなりません。山を愛せる人こそ、高いものを崇めることができます。そのような意味で、孔子、釈迦、イエス様は、みな山を愛した方たちでした。
先生は、名勝地に行くと、それが天の運勢を中心として、どのくらいの価値があるのかという立場で見つめます。そして、それを天の運勢と連結するようになります。それで、統一教会の草創期には、たくさん山に通いました。一つの国の山と地と水を見れば、その国の民族性を知ることができます。私たちの国の水は、どこに行って飲んでも玉水です。
外国に出ていく前に、私たちの国の自然を深く愛してあげなければなりません。自分が生まれた地を愛せる人が、自分の体も愛せます。また、自分の体を愛せる人が自分の心を愛する人であり、自分の心を愛する人が神様を愛する人です。ですから、このような人は滅びません。また、このような人は、天も打つことができません。私たちは、ナイアガラの滝よりも、自分が生まれたこの地をもっと愛さなければならないのです。自然が神様の摂理路程において、どれほど多くの人たちを慰労したかという事実
を、私たちは知らなければなりません。
(14-102、1964.6.20)

 

海を愛さなければなりません。愛する海に、危険千万なものがどれほどたくさんありますか。未知の事実がたくさんあります。それを掘り下げ、もっと愛そうとしてこそ、深いものを知り得ます。また、山も危険な所がたくさんあります。それも体験し、自分がさらに開発しようという心があってこそ、自分の心が広くなるのです。
(391-218、2002.8.26)

 

アメリカのニューヨークやワシントンの一部の地域は、地獄の中の地獄です。一番暗い所です。島国のように、10 里くらい(注 3)行って初めて一人に会い、一日中会おうとしても、10 人に会うか会わないかという所に行って暮らせば、そこでは本心が目を開けるのです。そのような環境であることを知
らなければなりません。
自然環境が 80 パーセントで、人の環境が 20 パーセントになっても、バランスを取るのが大変です。それで、都市にいる人たちを田舎に追い出し、公害問題と環境問題を解決しなければなりません。人類が 300 年、3世紀をどのように生き残るのかということです。ですから、追い出さなければなりません。特に、先進国においてはそうです。都市が問題です。麻薬、犯罪、エイズなど、複雑な問題がたくさんあります。聞くもの、見るもの、感じるものがすべて問題です。このような諸問題から、どのように逃げていくのですか。ですから、田舎に散らばらなければなりません。今は田舎に行っても、すべて文化生活ができます。インターネットがあり、e-Mail と電話があり、どこに行ってもすべて同じです。あの頂上、ロッキー山脈のような 7000 メートル以上になる所でも、インターネットを通して世界のすべてのものを見ることができます。
ですから、レバレンド ・ ムーンは南米の田舎に行くのです。蚊がたくさんいますが、空気が良く、水が良く、太陽の光が良いのです。海を見てください。太平洋の島に行っても、空気が良く、水が良いのです。公害がなく、環境はもっと良く……。自然と共に話をします。神様は自然に近いのです。
(339-163、2000.12.10)

 

②神聖な牝牛

― 宗教経典 ―

 

牝牛たちはこなたに来たれり、しかして幸をもたらせり。彼らは牛舎の中に坐せ。われらのもとにおいて爽快なれ。後裔に富み、あまたの様相を呈して、彼らがここにあらんことを、インドラのため多くの朝な朝な乳を搾りいだしつつ。……彼ら(牝牛)は失わるることなからん、盗賊は〔彼らを〕傷つく
ることなからん。敵意ある者彼らの道を脅すことなからん。彼らをもって神々を祭り、かつ布施する者は、牝牛の主(所有者)として、いと長く彼らと共にあり。埃にまみれたる頚もつ軍馬は、彼ら(牝
牛)に達せず。彼らは設けの場(屠殺場)に近づかず。祭祀する人間のそれらの牝牛は、危険なき広濶
の地(牧場)に拡がりて歩む。牝牛たちはバガ(幸運の神)のごとく、牝牛たちはインドラのごとくわれに見えた牝牛たちは最初のソーマの一飲みのごとくに。これらの牝牛、そは、人々よ、インドラなり。心をもちて、意をもちて、われはインドラを熱望す。汝らは、牝牛よ、痩せたる者をも肥満ならしむ、醜き者をも美貌ならしむ。汝らは家を幸多からしむ、幸多き声もつものたちよ。汝らの高大なる活力は、集会において宣示せらる(称讃される)。(注 4)
リグ・ヴェーダ 6.28(ヒンドゥー教)28

 

おお、先祖様!
あなたが私たちに下さった
この野牛を御覧ください。
彼は私たちの聖なる母の上にいる
あらゆる四足動物の頭です。
そのおかげで人々は生きていき
彼と共に聖なる行路を歩みます。
スー族の祈り(アメリカ先住民の宗教)29

 

― み言選集 ―

 

昔、私は田舎で暮らしていました。そのとき、私が一番嫌いだったことが、牛に餌を食べさせにいくことでした。それが最初はうんざりしていたのですが、悟ってからは、牛を本当に愛するようになりました。あるときには、牛は午後になると時間になったことをはっきり分かります。ところが、私は、遊んでいる途中で最後までやらずに、そのまま帰るのは嫌いでした。それで、「おい! 10 分待て! おい! 30 分待て!」、こうしていると1時間、2時間……。それで、牛は野原に縛られて、「私を迎えにくる主人はどこに行ったのか」と待っているのです。しかし、遅くなっても、私なら怒って押したり
蹴ったりするのに、何も言わずにこのように見つめているのです。そのようなとき、私は、「本当に君子だ! ああ、有り難い!」と心で言いました。そのような時がたくさんあったのです。 「いやあ! これは本当に私よりも……」。それからは、「いやあ! お前のそのような姿を見るとき、きょうは食べさせて蕩減復帰しなければならない!」、そして日が暮れて暗くなるまで食べさせてあげたりしました。それで、おなかがぱんぱんになっても、主人が食べさせるので、どんどん食べるのです。これは、夜通しでも食べます。胃がたくさんあるからです。
それで、私は、牛から学んだことがたくさんあります。暑い5、6月、炎天下に座って汗をぽろぽろ流しながら遠くの山を見つめ……。瞑想する大王様が牛です。それで、世界の人々は、虎の肉は嫌っても、牛の肉は好むのです。犬の肉も嫌い、猫の肉も嫌います。そのようなものたちは、どれほど素早いですか。 (牛は)どれほど洋々としているかということです。また、犬はどれほど吠えますか。それで、「牛の肉はみな好むのだなあ」、このように考えました。歯磨き粉のようなものも牛の骨でつくります。しっぽ一つ捨てるものがなく、骨一つ捨てるものがありません。糞も肥料として使います。それで「牛が良いことは良いなあ!」と思うのです。
(109-40、1980.10.26)

 

③菜食主義

― 宗教経典 ―

 

生きている命を殺してはならない。これはあらゆる知恵の要訣であり、これこそ不殺生に関する相互関係の道理から下される至高な結論であることを知れ。動くもの、動かないもの、一切の生命、空を飛ぶ鳥も、地の上、あるいは地の中にすむ一切の生命に対する危害や殺傷がない世界、このような世界を指して安楽と平和が満ちた究極の涅槃だという……。
真の求道者は、生きた命を捕まえて作られた食べ物や飲み物を食べてはならず、禁じられた食べ物が少しでもある食事に同席してもいけないが、これは戒律に忠実な者の当然の道理である。自ら疑わしいと思える食べ物は何であっても慎み、自らの魂を究極の境地にふさわしくし、感覚を統御する者は、生きている命を殺したり、このようなことに共にしてはいけないことを、常に肝に銘ぜよ。
スーヤガダンガ1.11.10 ~16(ジャイナ教)30

 

生き物を殺害することなく肉を手に入れることは決して出来ず、一方生き物の殺害は天界に導かない。それゆえに肉を避けるべし。
マヌ法典 5.48(ヒンドゥー教)31

 

是の故に阿難よ、若し殺を断ぜずして禅定を修する者は、譬へば人ありて自ら其耳を塞ぎて、高声に大
おおいに叫びて、人の聞かざることを求むるが如し。此等を名けて隠さんと欲すれどもいよいよ露はると為す。 清浄の比丘及び 諸の菩薩は、岐路に於いて行くに、 生草をも踏まず、況や手を以て抜くをや。云何ぞ大悲、諸の 衆生の血肉を取って食に充てんや。若し諸の比丘、東方の糸綿絹帛、及び是れ此土の靴履裘毳、乳酪醍醐を服せずば、是の如きの比丘は、世に於て真に脱せり、宿債を酬還して三界に遊ばず。何となれば、其身分を服すれば、皆彼の縁と為るを以てなり。
首楞厳経(仏教)32

 

― み言選集 ―

 

人間が愛のオーケストラをして、愛のすべての脈拍を中心として、宇宙をすべて生かしていける動物世界と植物世界を食べるということは、愛の結実を食べて生きているということです。結実を食べて、生きているというのです。さあ、涙を流し、愛する心をもって食べ物に対するとき、その食べられる食べ物は、 「ついにあなたの血肉になり、力になり、神様を愛することができる元素として私が吸収される、このような驚くべきことに感謝します」と言い、早く口に入っていこうと考えるのです。牛の肉を食べても、「この牛の肉は、子牛のときから母親が愛し、主人が愛して育ててここまで来た愛の結実なのだなあ!」ということを知らなければなりません。愛の実として消化して食べて生きるという概念を中心として愛し、愛する神様の本質的愛の父母の内容と一致した立場で食べて、感謝する人は、病気にもならないというのです。これは理論的な結論です。
(217-307、1991.6.12)

 

最近、皆さんは、朝、毎日御飯を食べますか、食べませんか。それでは、食べるとき、生えている野菜を無情に切って、包丁でタタタとするとき、少し申し訳ないと思いますか。煮ることもせずに、塩をかけてうさぎのようにむしゃむしゃ食べるのを見るとき、この野菜が、「ああ、私は死ぬ、こいつ、復讐
、復讐、復讐」、このように思いますか。それは、どれほど無情ですか。そのようにできますか。しかし、野菜は、「私はそれをすべて有り難く思い、あなたは私よりもっと価値のあるこの宇宙の公的な存在です。公的価値のある存在には犠牲になるのが原則なので、私は感謝して入っていきます!」というのです。
そのように、私が「ははは」と喜んで笑うとき、ここに入っていったその食べ物が、喜んでそう言うようにしなければなりません。これが気分を良くし、入っていって私の肉になり、血になって動かなければなりません。これがすべて不平不満を言えば、どのようになりますか。私が「ははは」と笑うとき、ただ「うーん」と言えば、どのようになるかというのです。私のためではなく、全体のために「ははは」と笑わなければなりません。そのようになることを、すべての食べ物は喜ぶのです。しかし、自分のために「ははは」と笑うのは、「乞食のようなやつだ」と思います。
それで人々の体は、宇宙の公法によって反動が起きるので、病気になり、悪いことが起きるのです。そのようになれば、自然的にこの宇宙の公法によって衰退し、滅びるのです。
(105-94、1979.9.30)

 

この道を行かないという存在は、孤独なものであり、腐ってしまうものであり、廃物になります。ですから、ダーウィンの進化論のようなものは、ある面では一理があるのです。弱肉強食という言葉は、高いもののためには、より大きなもののためには通じるのです。それが宇宙の存在原則です。ですから、魚を食べ、牛を食べ、あらゆるものを食べてそれを吸収したなら、それ以上に神様の愛のために生きるのです。そのようにするとき、万宇宙が歓迎します。
(124-320、1983.3.1)

 

植物は鉱物を飲み込み、動物は植物を食べ、どんどん高い所に行きます。人の近くに行くことによって、神様を愛し得る神経細胞に到達しようというのです。それが理想的です。すべてのものは、神様の愛を求めていこうとします。人も、神様の愛のために犠牲にならなければなりません。愛の力は、犠牲になろうとします。愛がどんどん発展を繰り返していけば、神様の愛にまで行くのです。ですから、そのような概念をもって結ばれた一双の愛する夫婦は、宇宙の宝なので、全宇宙が保護し、天地が保護し、人と万物が保護するので、それを保護することができなければなりません。
(201-123、1990.3.27)

 

3. 教師としての自然

自然には、私たちに様々な教えを与えてくれるものが広がっている。勤勉に食糧を貯蔵する蟻から、つがいのために甘い唄を歌う鳥たちに至るまで、自然の被造物が生きていくその生き方を観照すれば、自然は生の根本倫理に関する多くの教えを提供している。地を開墾して動物の世話をすることは、忍耐と犠牲を教え、収穫が豊富なとき、神様に抱かれる恩恵を知るようになる。文鮮明先生は、神様が植物と動物を通して、太初の人々にも愛と価値ある人生に関して、十分な教訓を与えたと教える。

 

― 宗教経典 ―

 

獣に尋ねるがよい、教えてくれるだろう。空の鳥もあなたに告げるだろう。大地に問いかけてみよ、教えてくれるだろう。海の魚もあなたに語るだろう。彼らはみな知っている。主の御手がすべてを造られたことを。
ヨブ記12.7 ~ 9(キリスト教)33

 

なんじらは、種まきのことを考えたか。なんじらがそれを育てるのか、それともわれが育てるか。
もしわれが欲するならば、それを枯れたくずにしてしまう、なんじらは驚嘆してやまぬ。
「わしらはまことに負債を課せられた、いや、わしらは失望させられた。」(と言うであろう)。
なんじらの飲む水について考えたか。
なんじらが雲から雨を降らせるのか、それともわれが降らせるのか。
われがもし欲するならば、それを塩からくすることができる、
なんじらはどうして感謝しないのか。
なんじらは、ともす火について考えたか。
その燃やす木を、なんじらがつくったのか、それともわれがつくったか。
われはそれをもって教訓となし、また荒野の住民の便利のためにつくった。
クルアーン 56.63 ~ 73(イスラーム)34

 

はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
ヨハネによる福音書12.24(キリスト教)35

 

主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ / 降り注ぐ雨のように / 大地を潤す春雨のように /我々を訪れてくださる。
ホセア書 6.3(キリスト教)36

 

神に関する神聖な文献と聖書を研究したのち、神の創造物とその創造物に関する偉大な文献を研究せよ。
フランシス・ベーコン(注 5)37

 

― み言選集 ―

 

人間は、自然世界やこの地球の動きを見て、おもしろいと思うようになるということです。そのようにして、自分自体の愛の属性をすべて学ぶのです。虫たちが暮らし、昆虫たちが暮らし、あるいは動物たちが暮らすのを見れば、すべてペアであると知ることができます。このように見るとき、自然とは、
一人の人間を愛の対象として、相対理想を教育するために展開しておいた教材であり、博物館だというのです。
(137-212、1986.1.3)

 

万物世界は、お互いに愛します。動物を見ても、昆虫を見ても、植物を見ても、鉱物世界を見ても、すべて同様です。お互いに相対を中心として、歌も歌い、踊りも踊り、飛んだり、はったりします。このようなすべてのことを見つめながら、「彼らは何をしているのだろうか」といって、すべて見て学ぶのです。自然とは何かというと、アダムを教育する博物館です。アダムを教育する生きた教科書です。 (134194、1985.7.20)

 

環境は、必ず主体と対象のペア・システムになっています。この宇宙は、愛を核とする一つの博物館です。ペアの博物館です。ですから、2羽の鳥がお互いに愛しながら一生懸命に巣を作り、ひなを産んで餌を与えるのを見ながら、学ばなければなりません。「私の子供のために、あれよりも何百倍もしてあげなければならない」と思わなければなりません。虫たちも、雄雌2匹が愛して子供を産みます。彼らも、自分の生命を懸けて子供たちを育てようとします。
(229287、1992.4.13)

 

このサーモンのようなものも、本当に驚くべき人間の教材です。一度愛したら死ぬのです。子供たちのために餌になるというのです。それがどれほど美しいですか。愛ゆえに死ぬので、それがどれほど美しいかというのです。
(132-81、1984.5.20)

 

私は自然を愛しました。原理の 80パーセントを自然の中から見いだしたのです。
(374235、2002.4.10)

 

世の中のあらゆる教材の中で、最もすぐれた教材が木と草です。種が蒔かれて大きくなり、春になれば花を咲かせ、実を結んで、主人に報いる贈り物をしていきます。また、毎年、より立派な枝を張り、より多く、より大きく収穫され、生い茂るのが自然世界です。
(386-298、2002.7.18)

 

先生の村には、時が来ると渡り鳥が飛んできます。ソウルのような都市に住んでいる人たちは、渡り鳥を知らないでしょう。ですから、人間の情緒的な面において足らない人たちです。自然の交流、交流の心情を知らないのです。
先生は、こっそりと渡り鳥についていってみたことがあります。美しい鳥なので、そのつがいが産んだ卵はどれほど美しいだろうか、卵の色はどんな色だろうか、と気になりました。それで、ひたすら渡り鳥を見ているのですが、1週間くらい見ているのは普通です。そのような鳥たちは、目立つ所に巣を作りません。腐った木の穴のような所は蛇が這い回っているからです。危険な所には作りません。丈夫で下に通じる穴に巣を作ります。誰がすべて教えてあげたのか、一つ穴の巣を作っておきます。巣も深く作るのではなく、いつでも周辺の状況を見渡せるように作ります。その世界で自分の生息のために保護できる感覚と知能というものは天才的なものです。
(137-223、1986.1.3)

 

鳥も国境がないと見るのです。彼らは、ビザもなく、何もありません。台風が吹いてきて、台風に「アメリカは世界で一番偉大な国、大国なので、ここは誰も入ってくることができないようになっています。ですから、台風も入ってくることができない」、それが通じますか。
小さな蟻も思いどおりに越えていき、小さな蛇も思いどおりに越えていき、虫も飛んでいきます。すべてこうなのに、なぜ人間は思いどおりに越えていくことができないのかというのです。
それもそうですが、メキシコの蟻とアメリカの蟻がつがいになって子供を思いどおりに産み、メキシコのすずめとアメリカのすずめが思いどおりに卵を産み、子供を産み、メキシコの豚、虎、すべて一つになって暮らしているのに、人はどうしてこうなのですか。そのような自然を見つめるとき、本当に、な
んとも不思議なのです。
(106-138、1979.12.24)

 

4. 小宇宙と大宇宙

人間は、小宇宙として、その中にあらゆる宇宙の本質を凝縮してもっている。逆説的に言えば、宇宙全体は、大宇宙の中の人間に似た存在である。世界の宗教の諸経典は、このような洞察を神話的、哲学的な言語で表現する。空間と時間のすべての流れの中で、小宇宙としての人間は、被造万物すべてを把握し、使用し、喜び、楽しむことのできる根拠をもっている。あらゆる被造物の中で人間は、最も広大な思惟と行動範囲をもち、すべてのものを包括し、すべてのものを知って評価し、すべてのものを導いて豊かにし、また、すべてのものを超越する。文鮮明先生の教えのように、小宇宙である人間は、宇宙を愛し、宇宙を保護しなければならない責任をもっている。
大宇宙と小宇宙が相応する源泉とは何か。ウパニシャッドとその他の神秘的経典は、原初的人間、すなわちプルシャ、またはメタトロンが創造以前に存在し、それに形態を付与した宇宙的人間を描写する。文鮮明先生は、創造前、神様の心の中にある創造のモデルである宇宙的人間の「原型」を語る。それを創造の始発とし、宇宙創造の過程で低い段階から高い段階の自然のあらゆる諸要素は、それらが創造されるとき、人間において人間を構成する要素として再結合された。さらには、それは、霊界を一人の巨大な人間をモデル化した姿で描写する。

 

― 宗教経典 ―

 

聖なる神が世を創造されるが、そのあらゆるものを人に似せてつくられた。
タルムード、アヴォート・デ・ラビ・ナタン31
(ユダヤ教)38

 

一切万有が私の中から起き、三界がまた私の中から起き、私によってこのすべてが広がっていくがゆえに、この世はそれ以外の何者でもない。
呼金剛 8.41(仏教)39

 

自身の内密な自我を知る者は、また一切万有の宇宙を一つ残らず知り、一切万有の外部世界を知る者はまた、自身の内密な自我を知る。
アーヤーランガ・スッタ1.147(ジャイナ教)40

 

そもそも人間は天地二徳の和合、陰陽両性の交通、諸神諸霊の協力、五行(木火土金水)の最良の精気の配合によって、作り出されている。(注 6)―天は陽性を備えて日や星辰を空に列ね、地は陰性を備えて山野川海を形成する。また天は五日を用いて四時を巡らしめ、季節の動きに応じて月は満ち、また欠けるようにしたから、そこで月は十五日で満ち、十五日で欠け尽きるのである。なお五行の四時における作用は互いに受け継いで消長する。……五行や四時や十二箇月などの変化や進行においては、すべて諸要素が相互に本末となって作用するように、しくまれているのである。―また五声・六律・十二
管などの楽音の階梯や調子の上下などにおいても、やはり諸要素が相互に本末となって変化を示すように、しくまれているのである。―また、五味・六和・十二色などの、飲食の味も、やはり諸要素が相互に本末となって変化を呈するように、仕組まれている。―このほか五色・六章・十二衣などにおい
ても、やはり諸要素が相互に本末となって、変化を見せるように、しくまれているのである。
礼記 7.3.1~ 7(儒教)41

 

天地の初めにはただ自我のみがあった。その他に眼を開けているものとては何物もなかった。かれ自我は「何とかして種々の世界を創つくってみよう」と考えた。そして、これらの世界を創った。天水、光
塵、死、地水等の世界である。天水の世界は光天の上にある。光天はそ(天水)の基底をなしているのである。光塵の世界とは中空界である。死の世界とは地上界である。地水の世界は大地の下にある。
かれ自我は考えた。 「今や世界は成った。今度は世界の守護神達を創ろう」彼は水の中から材料を取り出して、これを一個の人間の形に固め上げた。 (注7)彼はこの人間を温めた。すると、卵を温めた時のように、それが裂けて口腔ができた。口腔から語が生じ、語から火が生じた。同様にふたつの鼻孔ができた。鼻孔から気息が生じ、気息から風が生じた。次に眼窩ができた。眼窩から眼(感官)が生じ、眼から太陽が生じた。次に耳孔ができた。耳孔から耳(感官)が生じ、耳から方位が生じた。次に皮膚ができた。皮膚から毛が生じ、毛から草木が生じた。次に心臓ができた。心臓から意が生じ、意から月が生じた。次にへそができた。へそから吸気が生じ、吸気から死が生じた。次に陽根ができた。陽根から精液が生じ、精液から水が生じた。
これらの諸神(火、風等)は生まれ出るや否や、かの大海の中へ落ち込んでしまった。彼(自我)はこれ(大海)に飢と渇とを混じた。それで諸神は困って彼(自我)に向かって「われらが安心して食物を食べられる棲処を造って下さい」と歎願した。
彼(自我)は彼等の為に一頭の牛を牽いてきたが、彼等は「われらにはこれは充分でありません」といった。そこで彼は一頭の馬を牽いてきたが、彼等は「われらにはこれは充分でありません」といった。そこで彼は人間を伴れてきた。すると神々は「これは実にみごとにできています」といった。人間は実際みごとにできている。彼(自我)は神々に「各自の棲処へ入れ」と命じた。
ここにおいて、火は語となって口腔に入り、風は気息となって鼻孔に入り、太陽は眼(感官)となって眼窩に入り、方位は耳(感官)となって耳孔に入り、草木は毛となって皮膚に入り、月は意となって心臓に入り、死は吸気となってへそに入り、水は精液となって陽根に入った。……
彼(自我)は考えた。「我がおらねばこれ(人間)はどうなるだろうか?」次に、「どの部分から入ることにしようか?」と考えた。彼はまた、こうも考えた。 「談話は語(発声器官)によってなされ、呼吸は鼻によってなされ、視は眼によって、聴は耳によって、触は皮膚によって、静思は意によって、吸気は吸息によって、射精は陽根によってなされるとき、
我はそもそも何者であるか?」
彼(自我)は顱頂を闢いて、これを門として体中に入った。この門はヴィドリティ(裂け目)とよばれる。(注 8)
アイタレーヤ・ウパニシャッド 1.1~1.4、3.11~3.12
(ヒンドゥー教)42

 

人間の形態は、世界の構造で造られた。さらには、天の材料を利用して造られた。ヒルデガルト・フォン・ビンゲン 道を知れ
(キリスト教)43

 

人の体を見れば、頭が大きく丸いのは天の形に倣ったものである。頭髪は星の位置に倣ったものである。耳と目がずれているのは太陽と月に倣ったものである。鼻と口が呼吸するのは風と雲に倣ったものである。心の中に知恵を悟るのは(天の)神明に倣ったものである。
董仲舒 春秋繁露 56(儒教)44

 

― み言選集 ―

 

人は大宇宙の縮小体です。皆さんは小宇宙です。大宇宙は何ですか。大宇宙は被造世界です。大宇宙の源泉は力の源泉です。それが神様です。私は、大宇宙の前に立った一つの小宇宙として、大宇宙の絶え間ない力の源泉となるその力が私の心に入ってくることによって、この大宇宙と相応する相対の価値をもっているのです。
(121-193、1982.10.27)

 

私たち人間を小宇宙と言いました。体は地を象徴し、心は理念を象徴し、霊は天を象徴するのです。
(8-78、1959.11.8)

 

私が崩れる日には、私を中心とする天の因縁が崩れるのであり、地の因縁が崩れるのであり、世界、あるいは氏族と家庭のすべての因縁が崩れます。それで、人をして天と地を代表する小宇宙と言うのです。(注 9)
(8-10、1959.10.25)

 

皆さん、この手も三つの節になっているでしょう? そして、腕も三つの部分でできています。私たちの体全体を見ても、頭と胴体、そして足、このように三つの部分になっています。腹中にいる赤ん坊は、大概手を握って育ちます。神様は二性、すなわち二つの性稟をもっているとお話ししたように、親指は神様を象徴するのです。ですから、宇宙の中心である神様を象徴するのです。また、4本の指は東西南北を象徴し、春夏秋冬を象徴します。そして、4本の指の三つの節は 12 の月を象徴するのです。
ですから、私たち人間を小宇宙と言います。たとえ小さくても、人体の構造にはこの宇宙万象のすべてのものが入っています。私たちの心臓の構造を見れば、根と同じであり、肺の構造を見れば、木の葉と同じです。私たちの人体構造は、木の幹や茎が入っているのと同じです。このように、私たちの人体は、この宇宙万象を代表する小宇宙だということを知らなければなりません。
(54-97、1972.3.20)

 

なぜ自分が生まれたのでしょうか。この大宇宙と拍子を合わせるために生まれました。大宇宙と拍子を合わせるために生まれたということです。それで海の波がザブンザブンと音を立てれば、自分の心もザブンザブンと音を立て、風が気分良く吹けば、自分の心も気分が良く、花が咲いて香りを放てば、自分の心も香りを放てるというのです。どれほど気分が良いかというのです。
(104-123、1979.4.22)

 

「私」という存在は、いったいどこから生まれたのでしょうか。皆さんを小宇宙だといいました。「私」はこの地球星の縮小体です。宇宙の縮小体です。皆さんの体には、地球がもっているあらゆる元素がすべて入っています。ですから、宇宙が加担しています。そのような私を誰が造りましたか。宇宙が造りました。宇宙の元素を借りて私が形成されたのです。それは、宇宙が私を生んでくれ、造ってくれたということです。それで、私に父母がいるとすれば、宇宙が第一の父母です。ですから、私という存在は、このすべての宇宙の元素を総合した実体です。「私は動く宇宙であり、活動する宇宙だ」と
いうのです。また、「私は自由に行動することができる。往来できる。あなたたちは固着しているが、私は活動する宇宙だ」というのです。ですから、「あなたたちは私にぶら下がっている。あなたたちもそれを願うだろう?」と尋ねてみれば、 「うん、うん」と言うのです。
(105-106、1979.9.30)

 

霊界に行ってみれば、霊界全体が一人の人間に見えます。全体が一人の人間に見えるのです。それで、主体である神様とこの全体、大きな一人の人と一つになります。そうすると、全霊界と肉界がすべてとろとろに溶け合います。神様が走れば地も走り、神様が笑えば地も笑い……。そのようになっています。
それはどういうことですか。皆さんは、どのように中心になれますか。私とこの細胞を見てみれば、すべて連結されています。指の細胞を見るとき、その細胞がすべて私にぶら下がっています。そのような意味の中心だというのです。私の手の先を見るとき、手の先は私と一対一です。すべて私に留まっています。人間が宇宙の一番の中心になるという話が理解できますか。一つの細胞のような立場で相対するとき、中心的資格をもつことができるのです。
この細胞を通っていた血が足の底の細胞を通っていた血に、「ああ、頭のほうに来るな」と言うことができますか。このような境界線がありますか。頭のほうに来るなという境界線がありますか。そのような意味で、黒人、白人、黄色人のような区別はありません。皮膚がこれは白く、これは黄色く、色がすべて違います。だからといって、「ああ、お前は私とは違うから別種だ」(注10)、そのように言えますか。霊界に行ってみれば、一人の人間のように組織ができていることを知らなければなりません。聖人たちは目の役割をして、耳の役割をして、においを……。霊界がそのようになっています。そのような理想をもったのなら、地獄が問題ではありません。神様が見るとき、いつも化膿して膿が出て、足が不自由になる、これを願うでしょうか。願いません。
(91-280、1977.2.27)

 

天地が調和するとき、この天地、大宇宙の主体と対象が喜ぶのですが、これが私たち人間生活の家庭を中心として結ばれるのです。これがこの宇宙の核になっています。
女性は愛! 愛です。男性は大きいですが、女性には愛が入っているので、女性を無視することはできません。いくら太陽が大きくても、地を無視することはできないのです。互いに授け受けするところから、天地のあらゆる喜びと、あらゆる完成が成立します。ですから、これを大きく見れば、この宇宙の太陽系を縮小し、このすべての動植物界を縮小したのです。ですから、すべてがペア ・ システムになっています。調べてみれば、鉱物界、植物界、動物界も、すべて主体と対象のペア ・ システムになっています。これが天のすべてのペア ・ システムを代表した一つの核だというとき、センターが争えばどのようになりますか。皆さん、男性も女性も、宇宙の中心になりたいと思うでしょう? 動物もそうでしょうか。この太陽系がそのように思うでしょうか。そのように考えてみれば、そのようなことは人しかないというのです。
(216-159、1991.3.10)

 

5. 被造世界の主人

人間は自然界の一部であると同時に、被造世界の主人として独特な地位をもつ。キリスト教の聖書で、アダムとエバは万物の主管主として祝福を受けたのであり、クルアーン(コーラン)は各自に、神様の「代理人」の地位を付与した。これはまた、神様は人間の豊穣のために、すなわち、生育し、繁殖するのに必要なすべてのものを提供する土台として、自然界を創造したということを意味する。それにもかかわらず、大地を汚染させ、自然を破壊し、人為的な環境を改造しながら神様が許諾していないことをするということは、本当の主管の祝福ではない。自然主管の委任が初めて与えられた農耕社会において、人間の創造性は本質的に自然の盛衰と調和を成すものとして現れる。その上に、人間が自然を利用する場合、万物に対する愛を実践し、自然の豊穣を増進するために創造性を発揮するとき、初めて人間は、被造世界の本当の主人となる。
自然に対する人間の主管権は、規模や力の問題ではない。その物差しで見れば、人間は地球上でとても小さな一点にすぎず、地球もまた、広大な宇宙の中で一点にすぎない。それは、むしろ人間の固有な霊的資質に起因する。人間だけが神様を求める。そして、人間だけが自分自身の理想を追求し、より良い世界を熱望する。これこそ、人間がほかの動物たちとの違いをもった存在でいられるようにするのである。宇宙の創造者を知り、彼と親密な関係をもつという点において、人間は潜在的に全体被造世界よりもっと貴重な価値をもっている。
人間は、このような栄光を享受する資格があるのか。文鮮明先生の教えのように、人間は創造主の満ち足りた愛を受け、神様の代身として被造世界を愛さなければならない。そのとき人間は、神様と自然界をつなぐ橋となる。神様は、人間を通して被造物を愛し、人間を通して全体世界を完全なものにする。

 

①万物の主管権を賦与された人間

― 宗教経典 ―

 

神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ 。」
創世記1.28(キリスト教)45

 

まことにわれは、地上に代理者を置くであろう。
クルアーン 2.30(イスラーム)46

 

なんじらは思わないか、神は天にあり地にあるよろずのものを、なんじらの入用のために、奉仕させたまい、また外面と内面の恩恵を全うしたもうではないか。
クルアーン 31.20(イスラーム)47

 

あなたの天を、あなたの指の業を /わたしは仰ぎます。
月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは / 人間は何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう / あなたが顧みてくださるとは。
神に僅かに劣るものとして人を造り/ なお、栄光と威光を冠としていただかせ/御手によって造られたものをすべて治めるように / その足もとに置かれました。
詩編 8.4 ~ 7(キリスト教)48

 

神こそは、天と地を創造され、天から雨を降らせ、これによって果実を実らせたまい、なんじらのため給養される方であられる。また船をなんじらに操縦させ、かれの命によって、海を航行させたまい、また川をなんじらの用に服させたもう。またかれは、日と月をなんじらに役立たせたまい、両者はその軌道を追う。また夜と昼をなんじらの用に役立たせたもう。またかれはなんじらが求めるすべてのものを授けたもう。たとえ神の恩恵を数えたてても、なんじらはそれを数えおおせないであろう。人間は、まことに不義であり忘恩である。
クルアーン 14.32 ~ 34(イスラーム)49

 

主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
創世記 2.19(キリスト教)50

 

― み言選集 ―

 

天地万物を創造された神様は、全被造世界の主人公として人間を造られました。
(323-165、2000.6.1)

 

理想の世界は、創造の目的が実現されなければならない世界であり、神様に似なければならない世界なので、人間は、常に愛に満ち、調和し、平和な生活を願っているのであり、いつも新しいものを創造しながら環境を改善していくことを願っているのです。創造は、単に製造だけを意味するのではなく、創意的な活動全体を意味するのであり、常に新しいものを創案し、計画し、改善し、生産するなどの活動すべてを意味するのです。
ところで、神様は統一的存在なので、人間も統一的でなければならず、社会
生活も統一的でなければなりません。愛しながら創造し、創造しながら愛する統一的な人間、統一的な世界にならなければなりません。
今日まで人間は、輝かしい科学的発展を成し遂げることによって、創造的生活においては神様に似たということができますが、愛の生活においては、まだ全く神様に似ることができずにおり、そのために悲しみと苦痛と不幸が継続しています。愛は調和なので、愛がないところに調和はあり得ず、調和がないところに平和や幸福はあり得ないので、ここで数々の悲惨な光景が展開するようになるのです。
(65-259、1972.11.26)

 

道人とはどのような人でしょうか。一握りの草をつかんでも、「神様!」と言うことができる心情で、その価値を自分の価値と同等に認識できる人が最高の道人です。そのようにその価値を謳歌できる人が最高の芸術家です。色とりどりに存在する万象を見て、神様の色とりどりの愛と心情の妙味を発見し、それらのものと友達となり、共に楽しめる感情をもった人がいるとすれば、そのような感情で細胞の一つ一つが動く人がいるとすれば、その人は万宇宙を代表することができる人であるはずです。そのような人が万物の霊長です。ところで、食べることしか知らない人が万物の霊長になれますか。
ですから昔、聖フランシスのような人が、動物を見て、あるいは鳥を見て説教したというのも、うそではありません。夢のような話です。しかし夢ではなく事実です。
(9-166 ~168、1960.5.8)

 

真の愛は、人間だけではなく、すべての万物も願います。それで、万物の霊長である人間は、神様がつくられた傑作品を抱き、愛するだけでなく、すべての万物に愛することを教えてあげなければならない責任があることを知らなければなりません。万物たちは、このような主人を求めています。このような基準に私たち自身を照らしてみながら、自らを恥ずかしく思うことができなければなりません。
(300-222、1999.3.14)

 

神様は、どうしてアダムとエバのような形を必要とするのでしょうか。万物は形状的な形をもっていますが、神様は無形の存在です。神様はどのような形ももっていません。大きいと言えば無限大です。小さいと言えば無限に小さい方です。そのような方がどんな標準的な形を形成し、形体を現したとしても実体をもった万物は、その神様に直接主管されません。ですから実体をもった被造世界においては、実体をもった主人的人格と形を備えた存在がなければならないのです。
神様は、地上万物の主管だけではなく、無限な霊界も主管しなければなりません。天使長や様々な形体をもった実体、そして無形の実体までも主管するにはその中心的タイプ、すなわち形状が必要です。それで神様は、アダムを創造されたのです。
アダムを中心に霊肉両面の世界、無形実体世界と有形実体世界を主管しようとされるのが神様の人間創造の目的です。したがって一つの人格的実体と関係を結ばなければならないので、アダム完成とともに神様の形状完成、すなわち形が完成するのです。神様はアダムを造られる時、彼の形態、人相、人格などが無形世界の中心にいらっしゃる神様のような姿にならなければならない、という考えをもってアダムを造り出されたのです。形がなければ形の世界を主管できないのです。
(35-157、1970.10.13)

 

②どの被造物よりも優れた人間

― 宗教経典 ―

 

われはすべての者に、―これらの者にもまたかれにも―なんじの主の賜物を広く授ける。なんじの主の賜物には限界はないのである。
クルアーン17.20(イスラーム)51

 

神はこの世とそこに住み動くあらゆるものを創造し、神の拘束されない卓越した御意により人間に神を知り愛する独特の特異性と能力―全創造の基礎をなす発生進力、また主なる目的と見なされるべき能力―を与え給うた。すべての創造物の内奥の各実在に、神はその諸々の名の中のある一つの名の光を注
ぎ、神の諸々の属性のうちのある一つの属性の栄光を受け入れるものとなし給うた。しかし乍ら、人間の実質には、神は神の諸々の名と諸々の属性のすべての光輝を集中し、人間の実質をして神自身の鏡となし給うたのである。
ハバオラ 落穂集 27(バハイ教)52

 

人間は神の顕現として、あらゆる万物の主管者であるため、人間以上に尊敬されるべき存在はない。地上のあらゆる万物はそれぞれの名で本来の姿を備え、神が人間のためにそのようにされたことを知るようになる。何であれ万物は、自分の根源となる神を失ったり、定められた法度から外れることなく、自らの役割だと悟った分だけ働くように創造された。自らを低め、人間を尊敬し、怒らず、間違った心をもたず、悲しまず、偏らず、自らの本来の個性を発揮するために人間は創造されたのである。
祈り(PL教団)53

 

人間は三つの魂を備えていた。……その動物的魂は動物と交流し、肉体的魂は植物と連結し、人間的魂は天使と紐帯する。……
人間の機能である理性的魂は、そのいかなるものよりも高貴な機能である。それ自体が最も高貴な魂だからである。その機能は芸術品に対する感傷と美に対する思いを構成する。それが凝視するのはより高い世界に向かっており、低い所や卑劣な場を愛することはない。それがそうであるように、人はより高い生と重要な物質に属しており、食べたり飲んだりするために働くのではないことはもちろん、奢侈と性関係を必要としない。かえってその機能は真実の啓示のために待つのである。
アヴィセンナ(イブン・スィーナ) 救いの書(イスラーム)54

 

まことにわれは諸天と大地と山々に信託(注11)を申しつけた、だがそれらは、それをになうことを辞退し、かつそれについて恐れた、しかし人間はそれをになった。まことにかれは不義でありかつ無知である。
クルアーン 33.72(イスラーム)55

 

さらに、身体においてさえ、それは可死性において獣と共通していても強さにおいてはその多くのものに劣るのではあるが、どれほどの神の善性が、また、どれほどのかくも創造者の摂理が明らかであることであろう。感覚器官と身体のその他の部分とがよく配置され、身体全体の姿、形、大きさが適正に整えられていて、身体が理性的魂に仕えるようにつくられていることを示しているのではないであろうか。たとえば、わたしたちは非理性的な動物の顔は地に向いているのを見るが、人間はそのようにつくられてはおらず、その姿勢は直立していて天に向かっているのであって、それは天上的なものを想うようにさとしているのである。
アウグスティヌス 神の国22.24(キリスト教)56

 

人間とは何という造化の傑作か、高貴な理性、無限の能力、優美な姿、敏速正確な身の動き、天使さながらの活動、神のごとき悟性、この世の美の極致、生きとし生けるものの典型。
ウィリアム・シェイクスピア ハムレット2幕2 章 57

 

― み言選集 ―

 

人間は動物と何が違いますか。人は貴いというとき、その人というのは肉的な人ではなく、霊的な人です。霊的なものが貴いというのは、肉的なものと違うということです。霊的なものが高ければ、肉的なものは低いのです。
(129-307、1983.12.1)

 

それでは、人と猿とを比較してみましょう。猿はただキッキキッキと鳴いて、食べて、寝て、子を産むのが第1です。猿が故郷のお父さん、お母さんに会いたくて泣きますか。猿と人間は根本が違います。猿がお兄さんを心配し、あるいは、父母のために死のうとしますか。それでは人はどうですか。種が違うのです。
人間は、自己を中心にしたものではなく、他を中心としており、より大きいことを望みながら生きるようになっているのであって、自己より低いものを望みながら生きるようになっていないので
す。次元が違うのです。人間は古代から、すなわち、人間が生まれた時から神様を尊崇してきました。神様を尊崇しない種族はありません。神様を考え、私たち人間がもっと良くなる宇宙を考えながら来たのです。猿は、その頭でそのようなことを考えられますか。何千、何万段階が過ぎてもできないのです。猿に、そうすることのできる内容、力がどうやって増し加わっていくのですか。
(39-333、1971.1.16)

 

神様が人間を万物の霊長として立てるとき、天地のすべての環境を代表したその中で中心として立てたでしょうか、そうでなければ、一部分として立てたでしょうか。これが問題です。ですから、すべての人間は宇宙の中心になると主張できる自主権をもっているのです。それは、猿やライオン、虎の世界にはありません。人間世界にだけあるのです。
動物的な人間か、人間的な人間かということを考えるとき、動物的な人間に近いですか、人間的な人間に近いですか。今、世の中の人間はどちらに近いですか。
(117-35、1982.1.31)

 

人格者とは、どのような人でしょうか。御飯だけしっかりと食べ、御飯のために生きる人が人格者でしょうか。それとも、芸術や文学や詩に造詣があって、豊富な鑑賞をしながら、山に対してささやき、野に対してささやき、流れる水に対して褒めたたえることができる、このような人が人格者でしょうか。
(85-143、1976.3.3)

 

万物の霊長という言葉は、何を意味しているのでしょうか。万物の霊長とは誰でしょうか。「人だ」と言っていますが、万物の根本となった霊長は神様です。皆さんは、霊があるということが分かるでしょう? 人間には、霊があります。人間は、その霊の中の長であるために、結局、神様と直結させて霊
長だというのです。
万物の霊長だというのは、人間自体だけではなり得ません。人間も被造物であるのに、どのように万物の霊長になるかということです。被造物とは、相対的な結果体です。被造物だけでは、原因に通じることができず、原因を占領することができないのです。被造物は、原因に占領されるようになっています。皆さんは、結果的存在であることは間違いありません。霊長といえば、長は霊の中で中心であるという言葉です。この言葉は、本来、神様と人間が一つになった関係についていう言葉であることを知らなければなりません。
(32-137、1970.7.5)

 

神様が愛を求めるために万物をつくりました。神様は人間を愛の対象存在として造りました。神様が陽性と陰性の二性性相の主体となっている以上、その主体の前に対象になるためには、陽性と陰性の二性性相の形態をもったものが必要なのです。その形態というのは、その主体の性稟の反対になる形態ではありません。あらゆる性稟の相対性をもち、愛という本質にぴたっとあてはまる相対的形態を意味するのです。それが相対存在なのですが、愛にのみ合うようになっています。神様には、何かの知識や、ほかのものは必要ないのです。
人間がこの宇宙の中心になることができ、被造世界の中心になるのは、愛で被造世界を造ったからです。愛の神様を代表し、その主人の前に最初に中心位置に立って愛を受けることのできる特権をもっているので、「人間は万物の霊長だ」という言葉が成立するのです。その霊長という言葉は、神様の相対的愛圏を抜かしてはあり得ません。人間の特有な価値は、愛の特権をもつことができ、全被造世界を代表して神様の前に最初に相対的立場に立ってこの宇宙を支配することができ、そのような愛の因縁の場に同参できる権威をもったことです。ですから、人間は万物の霊長だというのです! 愛を抜けばすべてなくなります。
(132-245、1984.6.20)

 

愛の理想を中心として見てみるとき、動・植物世界では、愛の関係はすべて繁殖を前提としたときになされます。しかし、人間だけは例外です。人間は、夫婦愛の関係を自由に享受します。これが万物の霊長となった特権です。神様は、息子、娘である人間が無限の愛の喜びをもつように祝福しました。神様が許諾した真の自由は責任性を前提としています。もし責任性なく、個々人の愛の自由ばかりを主張して実践すれば、どれほど大きな混乱と破局が訪れるでしょうか。至高な愛の理想を成す人間の完成は、愛に対する責任性をもつとき、可能なのです。
(282-213、1997.3.13)

 

③被造物を完成させ崇められる人間

― 宗教経典 ―

 

この世は、ひとえに義人のために創造された。義人一人は全世界と取り替えるだけの価値がある。この世は彼と一つになることを目的として創造されたのである。
タルムード、シャッバト30b(ユダヤ教)58

 

「その動くときは天に従って自在に活動し、その静かなときは地に従って静止する。ただ一人の人間にすぎないのに、その心が定まれば、広大な天下の王者となることができる。鬼神も祟ることがなく、自分の魂も疲れることがない。ただひとりの心が定まることによって、万物を服従させることができるのである」と。
このことばは、虚無で静かな心を天地におし及ぼし、万物のうちに浸透させることをいったものである。この境地こそ天楽と呼ばれるものに外ならない。天楽とは、聖人の心をもって万物を養うことである。
荘子13(道教)59

 

エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった。数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ。
列王記上17.5 ~ 6(キリスト教)60

 

是の如く我聞けり。初めて正覚を成じたまへる世尊は或る時、優樓比螺の尼連禅河の畔りなる目眞隣陀品(ムチャリンダ)樹の下に住とどまりたまへり。その時、世尊は一たび趺坐を組みたるままにて七日の間、解脱の楽を享けつつ坐したまへり。時に大雨非時に起り、七日の間降り続き、寒風吹きて天陰れり。文眞隣陀龍王は己の棲家より出で来り、蜷局を以て世尊の體を七重に巻きつつ、頭上に大なる鎌首をたてていたり。「寒気世尊に觸るるなかれ。寒気世尊に觸るるなかれ。蚊・風・熱・蛇世尊に觸るるなかれ」とて。七日を過ぎて後、世尊はその定より起ちたまへり。文眞隣陀龍王は空晴れ雲去れることを知りて、世尊の體よりとぐろを解き、己の姿を変へて儒童の姿をなし、合掌して世尊を礼拝しつつその目前に立てり。
感興偈10(仏教)61

 

大地の形勢が坤である。君子はその坤の厚大さにのっとって、厚い徳によりあらゆるものを包容することにつとむべきである。
易経 2、周易上経、坤(儒教)62

 

天下のうちで、ただ至誠(な聖人)のみが、その性を尽くす(理に従う)ことができるのである。よくその性を尽くせば、 (天下の)人の性を尽くすことができる。よく人の性を尽くせば、万物の性を尽くすことができる。よく万物の性を尽くせば、天地が生育するのを助けることができる。天地が(万物を)生育するのを助けることができれば、天と地とともに三となることができる。
中庸 22(儒教)63

 

「花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。この里にも山鳩の声が聞こえる」(雅歌 2.12)神が世界を創造されるとき、地に必須な万有の力を先に下さった。しかし、人間創造の前までは何の産物も出てこなかった。人間が創造されると、隠れていた生命体が地上に姿を現した。類似して、人間が出てくる前まで、天も地に力を吹き込むことができなかった。
創世記に次のように記録されている。「地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった」(創世記 2.5)……
しかし、人間が出てくると、「野の草も生え」、隠されていたすべての力が現れ、「小鳥の歌うときが来た」。この地は全能であられるその方に賛美をお返しするように熟していった。人間が創造されていなければ不可能なことだった。「この里にも山鳩の声が聞こえる」、これは主なる神のみ言だ。しかし、人間が創造される前までは、この世界になかったみ言である。
ゾハール、創世記 97a(ユダヤ教)64

 

― み言選集 ―

 

天倫のみ旨に完全に一つになり、天上の認定を受けた人、神秘的な体験をした人は分かるでしょう。神様が私に対して、「あなたは私のものである」と認めるのを感じると同時に、万物が私に対して頭を下げるのを見るでしょう。全被造万物が「あなたは神様の息子だ。神様のものだ」と認める日には、霊界
にいる大勢の霊人たちはもちろん、地上の万物までも彼に頭を下げ、褒めたたえるようになるという事実を、今日の人間たちは知らずにいます。神様が認め、万物が認めることのできる立場に入っていくようになれば、真の良心をもった人たちもまた、その前に自然に一つになって入っていくようになる
のです。
(4-102、1958.3.16)

 

神様がいらっしゃるなら、神様が「おいおい地よ、お前を第一の父母の立場に立てたのだから、息子、娘を生み、お前に永遠の愛を伝えてくれる息子、娘をつくってみなさい!」と言うとき、地が「よし」、こうして契約がなされていると考えてみてください。また、地が「ああ、私はあなたの愛を喜
びます。あなたの愛に橋を架けることのできる中間媒介体をつくりなさいとして、そのような公約によって歓迎し、支持し、すべてのものを譲ることにしました」と言ったと考えてみてください。それで私の体が神様の愛と接することができ、神様の愛を感じることができ、神様を愛することのできる体に
なったというとき、地が「栄えある人をつくっておいたことを喜びます」と言うでしょう。
(97-143、1978.3.12)

 

万物というのは何でしょうか。私たちが本性の愛をつくりあげていくにおいて応援してくれる、美しい表示体です。赤く、黄色く、刺激的なすべてのものを満たしてくれる、愛を称賛できる一つの贈り物です。この世界の万物は、人間が理想的な愛を成すにおいて象徴的な橋となり、称賛することを願うのです。それが万物の存在する本来の、愛を中心とする理想的な存在の起源であり、目的なのです。
それで、植物たちも私たち人間の愛を追い求めるために、互いに美しいもので装飾し、歓迎します。動物や鳥たちもそうではないですか。雄と雌、互いに喜びながらチュンチュンと鳴き、「ああ、あなたはこのように愛するでしょう? 私もあなたについていって喜びます。永遠に、永遠に、永遠に!」、「そうか、そうか」と言うのです。
それで、万物と人間が一つになると同時に、神様が愛する……。愛の雲がかかり、愛の風が吹き、愛の水が流れ、愛の歌が響いてくるこの宇宙がどれほど美しい園かというのです。花を見て、「いやあ、お前はどこに行きたいと思うのか。すべてを装い、すべての美をもって喜ばせてあげられる所を訪ねていくのか」と尋ねれば、「最高の所です!」、このように答えるでしょう。神様の愛が宿るそのような居間を訪ねていって、この美をもって賛美したいと言うでしょう。それはどれほど美しいですか。真の愛をもって愛する夫婦の居間に咲くその花は、どれほど幸福でしょうか。そこだけでなく、神様までもお迎えすることのできる所の装飾品になれるのです。それは、どれほど栄光かというのです。「真の愛は永遠なので、昔のアダム時代も、数千年が過ぎた今日の時代も、今後何万年後の時代も変わらないので、その場を美しく整えることに同参することが栄光であり、このように歴史時代に花として生まれたことを私は誇りに思う」と言うでしょう。
(146-107、1986.6.7)

 

私たちの体は小宇宙です。この体には、鉱物もあり、植物もあり、動物もいます。このような人に真
まことの愛をもっていけば、細胞まで喜んで「わあ」と叫ぶのです。口をもっているものはキスをしたくて「ああ」と言い、目をもっているものは目を合わせるために「ああ」と言い、耳をもっているものは耳を合わせるために「ああ」と言います。すべてそうです。ですから、それらが目をすべて開き、耳をすべて開き、口をすべて開き、そこに力を入れて動くようになれば、どれほどおもしろく、どれほど素晴らしいですか。軽やかに飛び回るようであり、世の中や天地に恐ろしいものがないというのです。目がこのようにひっくり返っても、その力に出会い、「おい、こいつ、早く答えなさい!」と言えば、 「はい」と言うのです。目をまっすぐに開けて、動物世界の雄と雌がどのように生きているのかを見て、細菌の世界、細胞世界、鉱物世界の夫婦がどのように生きているのかを考えてみてください。皆さんも、「私は真の愛をもった実体だ。私の心と体、私のすべての細胞は完全に一つになり、天宙的に不動となったそのような実体になっている」と言うときは、この宇宙がすべてやってきて、カチッと
くっつくかのようです。
宇宙の被造物はすべてそのように動くので、真の愛をもつ真の人が行く所は、すべての動物がついていき、すべての植物もついていき、すべての鉱物もついていくのです。ですから、その人は自然に大きな巣をつくり、保護されて生きるようになるはずです。本然の世界は、そのような愛を中心として……。境界線がありません。どこにでも通じます。
(163-44、1987.4.1)

 

このようなものすごい天体、私たちが数字で推し量れない驚くべき価値の天体ですが、その天体自体が神様の創造目的ではありませんでした。神様の創造目的は、太陽系の一つの惑星である地球という地の上に、大宇宙と比べればちりにもならない、取るに足らない人間を造っておかれ、人間を中心とする一つの理念の世界を建設することだったという事実を思うとき、その感謝と喜びと栄光と偉大さがどれほど大きくなければならないかを、皆さんは考えてみたことがありますか。
(5-343、1959.3.8)

 

6. 自然保護

キリスト教の聖書において人間の本郷のイメージは、荒野ではなく美しい園である。神様は、人間に保護され、維持され、また豊かな園に育てるよう自然を委託した。自然保護に関する倫理がこの章句に描写されている。この章句は、苦痛を受けている動物たちの保護、天然資源の適切な管理、絶滅の危機にある動植物たちの保全、適切な量の漁獲高、環境の親和的開発を勧告している。そして、私たちに過度な漁獲量、山林の毀損、水と大気の汚染を避け、自然の均衡を大切に考えることを教える。私たちは、度を越えた消費と過度なごみの排出を避けなければならず、自然が恵む環境と調和を成しながら生きなければならない。
しかし、自然に対する責務を立派に遂行できる前提条件がある。私たちは、ほかの人間たちと調和して暮らすことを学ばなければならない。「狼と小羊は共に草をはみ」というキリスト教の聖書の預言は、天倫に従って互いに平和に生きていかなければならない人間たちに関する叙述である。

 

①被造物の保護

― 宗教経典 ―

 

「知恵ある人は多くの魂をとらえる」(箴言 11.30)とラビは語られた。「この聖句は、ノアに対して語られたものです。ノアは箱舟で手厚く動物たちに食べさせ、世話をしてあげました。動物一匹一匹に特別な食べ物を与え、ころあいに合わせてこれを食べさせました。ある動物たちには昼に、ほかの動物たちは夜にもえさを与えました。ラクダには引いた藁を、ろばには麦を、象には蔓を、だちょうには芝を与えました。いつも動物たちにえさを与えるために忙しく、彼は 12 か月間、昼夜きちんと眠ることができませんでした」。
タンフーマ、ノア15a(ユダヤ教)65

 

アブ・フライラが神の使徒のみ言を伝えた。「道を歩いていたある旅行者がひどく渇きをおぼえ、井戸を降りて水を飲んだ。彼が上がってくると、一匹の犬が、のどが渇いて息を切らせ、濡れた地面を舐めているのを見た。彼は、『この動物は、私くらいのどが渇いて苦痛を受けている!』とつぶやいた。それで、彼はまた井戸を降りていき、自分の靴に水をいっぱいに満たし、それを口にくわえて井戸を這
はい上がって犬に水を与えた。神がその行動を見て喜ばれ、彼の罪をすべて許してくださった」。誰かが言った。 「神の使徒よ、そうであれば、私たちが動物に良いことをしたことも補償を受けるのです
か」 「補償されます」と彼は答えた。「おとなしい心をもった存在に水を与えた者は誰であってもそうなのです」。
ブハーリー・ハディース
(イスラーム)66

 

願わくばすべての有情たち、虫さえもが誰一人としてサンサーラの生に繋がれぬよう願わくばわたしにかれらのすべてを救済させたまえ
ミラレパ(仏教)67

 

蟻の穴の入り口などに、食物、水、粗糖、穀類を、心堅固である人びとをして、つねに散布させなさい。食事の前後に、餓鬼、犬、蟻、鳥などに、好むままにつねに食物を施与してください。
龍樹 宝行王正論 249 ~ 50(仏教)68

 

先生は魚釣りはされるがはえなわは使われず、鳥のいぐるみはされるがねぐらの鳥はうたれない。
論語 7.26(儒教)69

 

御身どもに牛の魂は訴えた「だれのためにわたしを御身どもは創造したのですか、だれがわたしを造成したのですか。わたしをアエーシュマと暴虐、残虐、それに虐待と暴行がしめつけています。わたしには、御身どもよりほかに、牧養者がありません。ですから、わたしにとって、牧養がよきものとみえますように。」
そこで牛の造成者はアシャにたずねた「御身は牛のための裁き人をおもちですか―その支配者たる御身たちが、牧地とともに、牛飼いの熱意をもつくり出されるためにです。不義者どもとともに、アエーシュマをも追い払うべき主としてだれを、御身たちは彼(牛)のために望んでいるのですか。」彼(牛)にアシャを通して、「牛には抜苦的援助者なし」と返答し給うた。「身分の高いものたちが低いものたちに、どのように対処すべきか、彼らにはわかっていないからであるが、生あるものどものうちで最強なるものといえば、われ(アフラ)がその呼び声に応じ助けをさしのべて赴くところのものである。」
マズダーは企てを最もよく銘記し給うもの。まことになされたことを御心にとどめてくださるよう、そしてまた諸天と諸人によってなされるであろうことをも御心に記してくださるよう。その判決者におわすアフラ―そのかたが望み給うとおりに、してくださるよう。
「マズダーを裁きに促しまいらせるために、わが魂と乳牛の魂となるわれらふたりは、まことに手をのばし、アフラに参進しているところです。不義者どもにとりまかれては、正しい生活者にも生きゆく道がなく、牧畜者にもありません。」
そこで、霊感のなかに秘義を知ってましますアフラ・マズダーは仰せられた。「まことに天則によってのことであるが、全く教え人もなければ裁き人もない。というのは、なんじ(牛)を牧畜者と牧養者とのために造成者は創造したからである。」
「『牛に水飼場を、そして飢渇せるものたちにも』― 教えを下して聖マズダー=アフラは、アシャと心を合わせて、この酪の箴言をつくり出し給うたぞ。」「ウォフ・マナフと相たずさえて、ふたりを人間のために大切にしてくれる何者を、御身はおもちですか。」
「このものは、ただひとり、われらの教えに傾聴したものとして、ここでわたしによってみとめられたるものザラスシュトラ・スピターマです。彼は、マズダーよ、われらと天則とに頌歌を献詠しようと望んでいるのです。どうか、彼に、詞葉の華を頒与し給わんことを。」
すると、牛の魂は嘆いた「無力なる飼育者に満足しなければならぬとは、非力なる人の声に―強権をもって支配するものを望んでいるこのわたしなのに。手をかして彼に助けをさしのべるものは、いつのときにあらわれるのでしょう。」(注12)
アヴェスター・ヤスナ29.1~9
(ゾロアスター教)70

 

― み言選集 ―

 

神様を愛することは、自分の足元からです。自分の前にある物を愛し、万物を愛するのです。愛した物を私が生命の要素として吸収するのです。愛するのと同じ、対等な愛で愛してあげなければなりません。このような愛を知らなければ、愛することはできません。この宇宙というもの全体が愛でできて
いるので、私もそこにぶら下がっているのです。ですから、ために生きてあげれば、天下がすべて私の懐に入ってきます。
(290-129、1998.2.15)

 

動物世界も言葉が通じるのです。花に向かって歌えば、花はよく育ちます。花の放つ香りもより新鮮になるのです。花も、音楽を好み、芸術を好むのです。
(262-127、1994.7.23)

 

昔、牛を使って「えいや、やあやあ」と言って田を耕していた時は、気分が悪い時が多かったのではないですか。そのような時に、「この牛、なぜお前はこうなのか。私がこの一時に使おうと思って、すべての精誠を尽くして育ててきたのに、なぜ言うことを聞かないのか」と言いながら、細い木の枝よりも、「おい、冬の間ずっと休んでいたお前を、あいさつもせずに春の日に引っ張り出し、よく食べさせもせずに使って、申し訳ない」と言って、牛以上に我慢する心をもって、ジャブジャブと音を立てながら耕せば、天は、むしろその人をより近いと感じるのです。
(127-90、1983.5.5)

 

被造世界の中心である人間は、神様の愛を願います。また、動物世界の犬も、豚も、馬までも誰の愛を願うでしょうか。人の愛を願うのです。これを知らなければなりません。植物までもそうです。植物たちは動物の愛を願います。動物の中に最高の存在が人間だとすれば、人間の愛を受けるその動物たちが
万物を愛し……。愛も系列的にすべてのものと連結するのですが、これが何かというと真の愛です。
ですから、真の愛の終点に行って、さあっと見下ろせば、あの果てには神様が見え、その次には人が見え、その次には動物が見え、その次には植物が見え、その次には鉱物が見えます。これをとんとんとたたけば、ちゃらんちゃらんと、すべてついていくというのです。
(166-51、1987.5.28)

 

最初に獲った鯉を放してあげました。そして、 「お前は愛を通して生まれ、愛のために死ぬのが道理なので、愛する人々のために生きることはうれしいか、死ぬことはうれしいか」という、このような問題を中心として考えてみました。
(93190、1977.5.29)

 

魚も雄と雌を解放してあげ、動物を解放してあげるのです。今までのように、自然から捕まえてこのように生きるよりも、主人がいて、捕まえなくても、主人が準備してくれたものを食べて生きていける世の中をつくらなければなりません。
(388270、2002.8.02)

 

②保存と持続的発展

ー宗教経典ー

 

ムスリムは木を植えたり、地を耕作したりしないが、そこで取りたちと人、獣が食べて過ごす。しかし、これが正にそれに代わる慈悲である。
ムスリム・ハディース(イスラム)71

 

大地は真実な者が蜜と草木と果実を育てる所であり、渇いた地に水を与えたり、じめじめした地を渇かす所で幸福を感じる。
アヴェスター、ヴィデーヴダート7.1~4
(ゾロアスター教)72

 

池や沼には目の細かい網を入れ〔て幼魚を捕ったり〕させなければ、魚やすっぽんの類はとても食べきれないほどよく繁殖するものです。秋と冬だけしか、斧や木伐りをさせないように〔季節を制限〕すれば、材木はとても使いきれないほどよく繁茂するものです。かように穀物も魚やすっぽんも材木も使いきれないほど豊になれば、人民の生活は安定して父母や妻子を養うにも、死者を弔うにも、なに一つ遺憾なくできるものです。これこそ王道政治の手始めなのです。
孟子I.A.3(儒教)73

 

ある日、ホニ・ハマゲルが旅行に出たとき、ある男がいなご豆の木を植えるのを見た。彼に近づいて尋ねた。「この木が実を結ぼうとすれば、どのくらいかかりますか」、その男は答えた、「70年かかります」。また尋ねた。「70年さらに生きて、実を見ることができるという補償がありますか」、その男が答えた。「私はあちことで大きく育ったいなご豆の木を見ます。私たちの先祖が私のために植えておこれたので、私も子孫のために植えるのです」。
タルムード、タアニート23a(ユダヤ教)74

 

ある部族の神聖な輪でも、天地万物の巨大な円を構成する多くのものの中の一つにすぎない。その中で、一人の母と一人の父のすべての子供たちを保護してくれる強力な生命の草花が育つ。すべての生命は神聖だ。
この地の原住民たたちは、私たちが大地の一部分であり、大地は私たちの一部分だということを意識する、その輪の知恵で長く生きてきた。神にとって大切なこの大地を損傷することはーその輪の均衡を揺るがせることはー創造主に軽蔑をうずたかく積み上げて捧げることである。ゆえに、私たちのすべての精誠の心で、私たちの孫と孫娘と7代の子孫までのために、大地の均衡を回復させなければならない。
ブラックエルク族(アメリカ先住民の宗教)75

 

主はシナイ山でモーセに仰せになった。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい。六年の間は畑に種を蒔き、ぶどう畑の手入れをし、収穫することができるが、七年目には全き安息を土地に与えねばならない。これは主のための安息である。畑に種を蒔いてはならない。ぶどう畑の手入れをしてはならない。
レビ記25.1~4(キリスト教)76

 

地上に悪を広めることにつとめ、収穫物や家畜を荒しまわる。だが神は邪悪をめでたまわぬ。
クルアーン 2.205(イスラーム)77

 

あなたが町を攻略しようとして、長期にわたって包囲するとき、斧を振るってその町の木を切り尽くしてはならない。木の実は食糧になるから、それを切り倒してはならない。一体、野の木はあなたの前から城壁に囲まれた町に逃げ込む人間なのか。
申命記 20.19(キリスト教)78

 

草木を伐れば波逸提なり。(注13)
波逸提11(仏教)79

 

往昔コーラヴヤ王に善住と名くるニグローダ王あり、五條の枝あり、蔭涼しく、悦意なり、……王の覆ふ所は十二ウオージャナにして、根の〔地に〕入ること五由旬ありたり、果は甘美にして宛も蜜蜂の生蜜如くなりき、……果を守護する人あること無し、されど相互に果を損害せず、しかるに……一人あり、王の果を飽噉し、枝を折りて去るとは、……王は當来果を生ずることなからしめんと、されば、爾後果を生ぜざりき、
阿含経増支部 iii.368(仏教)80

 

― み言選集 ―

 

人間が公害問題をどのように解決するのかが大きな問題です。今学者たちは、オゾン層が破壊されれば、世界人類は太陽の紫外線のために生存できないと言っています。気候の変動が、すべてそのような影響を受けてなされるからです。早く人類を原始時代のように、山のすそに行って暮らすようにしな
ければなりません。小便をしても、肥料になればよいのですが、公害にならないようにしなければならないというのです。
(203-56、1990.6.14)

 

動物も絶滅させてはいけません。すべて私たちが育てて公開しなければなりません。このような動物園を造らなければならないのです。展示する動物園であると同時に、生産する動物園を造らなければなりません。昆虫も保護しなければなりません。植物や動物たちの餌だからです。これを保護して育てなければなりません。世界に種がなくならないように保護しなければならないのです。
(324-118、2000.6.17)

 

人類が自然を加工し、平準化させて、生存できる基盤をつくらなければなりません。そうでなければ、人類が滅亡します。既に昆虫が死んでいき、魚が死に、獣が死んでいっています。このまま行けば、これから 600 年、いや300 年を越えることはできません。そのまま放置すれば、人類は滅亡するというのです。
(326-152、2000.7.7)

 

これからは、私たちが魚を家で育てて送り出すのです。鶏を育てるのと同じように、養殖して、海にたくさんの種類の魚を送らなければなりません。送ってあげて、愛してから、捕まえて食べるのです。愛を受けた万物は、主人に報いるために、命を生きた祭物として奉献するのです。それで、これからは、捕まえるよりも育てて開放しなければなりません。オキアミは高品質のたんぱく質をもっているので、万物を育てる資源になるのです。すべての動物の子に食べさせて生かし得る飼料になります。それは、人類のための飼料です。万物のための飼料として、私たちが供給していかなければなりません。それで、このようなことを計画することによって、海から人類の食糧問題を解決するのです。人類の食糧
問題を解決する道は、この道しかありません。
砂漠地帯にも、パイプを埋めて養殖場を造ることができます。アラスカにある石油をアメリカの本土まで何千万里を運んでいくのと同じように、海水をどこにでも、また淡水をどこにでも運べるのです。淡水をそのようにしようとすれば、アマゾン川しかありません。これを世界に送り、砂漠地帯でも養殖を
するのです。魚を愛で育てて、食べて暮らすのです。そこに同伴して、砂漠に養殖場を造れば、そこで水草をいくらでも育てることができます。今、陸地がだんだんと砂漠に変わっていっています。その反対に、人工的に養殖場を造り、養殖場を中心に海洋の水草を育て、陸地の樹木と合わせて、いくらでも栄養素をつくり出せると思います。
私たちがやろうとしている養殖は、一つの分野だけではありません。大砂漠でも養殖することができるのです。食糧を無限につくり出すことができます。
(324-114 ~115、2000.6.17)

 

ローマクラブの研究は、世界の資源と環境の限界を明確に指摘し、このような世界的な諸問題に対する妥当で完璧な解決のための汎世界的接近と協働的努力が、絶対に必要であることを明白にしました。
このような諸問題は、世界のあらゆる民族に献身的態度と協力を求め、ある社会や国家の利益を超越する世界観を必要とします。そのような協働精神は、全人類が同じ人間家族の構成員だと自らみなす時にこそできるものです。そのようなイデオロギーに対する人間のこの革命的な変化は、今日、人間の生存のために長い間必要だったのであり、また、それは必須、不可欠のものなのです。
(74-108 ~109、1974.11.22)

 

③エデンの園の復帰

― 宗教経典 ―

 

主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。
創世記 2.15(キリスト教)81

 

主なる神が最初に人間を創造され、彼にエデンの園のすべての木を見せてくださって語られた。 「私の作品を見よ。これはどれほど美しく、素晴らしいか! あらゆる被造物は、私がお前のためにつくったのだ。ゆえに、これらが滅びることがないよう、注意深く世話をしなさい。お前が滅ぼせば、お前に代わって復旧する者が誰もいない」。
伝道の書ラッバー 7.13(ユダヤ教)82

 

太古の時代には、民は家にいても何の仕事をしてよいか知らず、外出しても目的地をしらないという、無知そのもののありさまであり、ただ食物を口にほおばって楽しみ、腹鼓をうって遊ぶという生活を送っていた。民にできることといえば、これがすべてであった。至高の徳が行われた世では、人びとは鳥獣と同居し、万物と区別なく集まりすんでいた。あらゆる差別がなかったのであるから、むろん君子と小人との差別を知るはずもなかった。すべてにおいて分別がなく、無知そのものであり、その心の徳は自然から離れることがなかった。すべてについて差別がなく無欲であり、このような状態にあることを素朴というのである。素朴の状態にあってこそ、人間の本性が完全を得るのである。
荘子9(道教)83

 

狼は子羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。
私の聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる(注14)
イザヤ書11.6~9(キリスト教)84

 

ーみ言選集ー

 

私たちの世界は、深刻な環境危機に直面しています。環境汚染と自然破壊は、神様が想像された美しく神聖な世界を冒涜するのと同じです。真の愛のない人は、自然世界を単純に利己的な利用物とばかり考えるだけです。堕落がもたらした深刻な結果の一つは、アダムとエバが神様の真の愛を相続できなくなることによって、人々や動植物や地を正しく愛することができなくなったことです。万物は、人間の真の愛を待ち焦がれています。私は、南米で理想社会の建設とともに、人間が自然と正しい愛の関係を結ぶよう、一つの模範を見せてあげようと思います。
(271-75~76,1995.8.22)

 

自然を愛することができてこそ、人を愛することができるのです。再びそうしなければなりません。復帰なのです。復帰。アダムが万物を愛せなかったので、万物を愛さなければなりません。郷土に帰って自然を愛さなければなりません。近所の草からあらゆる山川草木に至るまで、すべてを愛してから人を愛するのです。山川草木、動物まで、すべて愛することのできる立場に立ったならば、その基盤の上で人を愛するのです。
(175-32,1988.4.6)

 

この地上が荒廃していくのを防がなければなりません。毎年砂漠が増えています。木がないからです。私たち統一教会は、神様が創造したように、種という種はすべて手に入れ、根という根はすべて手に入れ、枝を切って挿し木しなければなりません。そしてこの地上に万物を創造した神様の愛を身代わりして植えなければなりません。国土を保護しなければなりません。国土とは何かというと、草木があり、動物がいて、それから人間がいなければなりません。これが廃虚になれば、人生は自動的に廃虚の歴史になるのです。
創造理想の目的が埋没せざるを得ない運命におかれているので、私たちは神様を愛し、神様の国愛すると同時に、神様の主権を愛すると同時に、神様の国民を愛し、神様の地を保護し、万物全体を再創造して、神様の創造理想世界の豊かな解放的自然世界をつくらなければなりません。
(304-254 ~ 255、1999.11.8)

 

7. 美しさ

山の威厳、花の微妙な色調、日没の壮麗な落照、草の葉の先についた朝露の輝きなど、美しさは自然の中にあふれている。そこには、形態と色、光と影、音と沈黙の調和がある。調和は美しさの一側面である。調和は、宇宙の構造それ自体にもともと宿っている。
古代人たちは、数学こそ音楽の土台だということを知っていたのであり、今日の科学者たちは、星々の動きと原子の特徴から、「惑星のリズム」に関してより多くのことを学ぶ。さえずる鳥たちと鳴く昆虫たちは、彼らが愛を求めるとき、自然のリズムを歌う。彼らは、自らの中に固有な調和を表現している。人間の音楽は、それと比較することはできない。人間堕落の不調和状態は、不協和音を出すように運命づけられている。そのような人間が、自然のように調和することさえできたならば!
最上の被造物として、人間は至高無上の美しさを現さなければならない。人々は、歌い、踊り、美しい芸術を創造するが、それ以上に私たちは、互いの関係の中で愛を分かち合いながら美しさを発見する。互いに愛する一組の男女、年老いた父母を世話する親孝行な子女、自分の国の福祉のために犠牲的な努力を惜しまない忠実な市民に、内面の美しさがある。人々がこのような方法で表現する美しさは、また神様を賛美することであり、神様は自分が創造した世界に充満した美しさを見て喜ぶ。このような内的美しさは、霊界で明確に現れる。霊界での美しさは、そのような資格を備えた者たちだけに、満ちあふれて現れる。

 

①自然美

― 宗教経典 ―

 

なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
マタイによる福音書 6.28 ~ 29
(キリスト教)85

 

神は美そのものであり、美を愛する。
ムスリム・ハディース(イスラーム)86

 

神はなんじらのために、大地を休息所とされ、大空を天蓋となされ、また、なんじらに姿を授けて、みごとに形作りたまい、もろもろの良い給与を支給された方であられる。これがなんじらの主神であられる。よろず世の養育の主神を祝福し奉る。
クルアーン 40.64(イスラーム)87

 

「庇護者」の名をもって知られるのが、永遠の理法で身をまとった女神である。彼女の美しさにより、これらの木々は緑色をなし、緑色の花みをつけるのである。
アタルヴァ・ヴェーダ 10.8.31(ヒンドゥー教)88

 

唯一にして、色相なく、多様なる大能を用いて、玄秘なる目的のために、数多の色相を配分せる神、万物が世界の終わりに散ずるもそれにおいてし、世界の初めに会まるもそれにおいてする神かかる神のわれらに清浄なる覚智の賦与したまわんことを。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド 4.1
(ヒンドゥー教)89

 

私の前の美しい光景よ。
私の後ろの美しい光景よ。
私の下の美しい光景よ。
私の上の美しい光景よ。
私をその中で歩くようにしてほしい。
ナバホ族の歌(アメリカ先住民の宗教)90

 

おまえたちは神が、七天をいかに層また層につくりたまえるか、また月をその中の灯明とされ、太陽を輝く光りとなされたかを、考えてみなかったか。
クルアーン 71.15(イスラーム)91

 

それが染み込んだ宇宙の空から、滞ることなく霊妙な錘を取るのだが、表現できない壮麗さだ。
アーディ・グラント、ガウリー・スクマニー
23.1、M5、p.293(シク教)92

 

音楽は天地の間の(自然の)和合作用を代表するものであり、礼儀は天地の間の秩序を代表するものである。天地の間に和合作用があるから万物はみな同和し、秩序があるから万物それぞれの地位や機能を保ち得るのである。また、音楽は天(の陽気)に基づいて作られ、礼儀は地(の陰気)に基づいて定め
られるのであって、……即ち天地(自然)の道を明らかに知る者にして、始めて礼楽を正しく用い、その効用を盛んに発揮させることができるのである。
礼記 19(儒教)93

 

自然は神の芸術である。
ダンテ・アリギエーリ94

 

― み言選集 ―

 

博物館にある、何かの作品がどんなに貴重だと言っても、生きている作品にかないますか。神様の作品であるこの地球星の万物博物館を、誰が神様以上に愛したのかというのです。自分の国の博物館以上に愛したのかというのです。
(175-187、1988.4.16)

 

昆虫世界を見れば、昆虫世界でも、オーケストラが展開します。せみの声から一度聞いてみてください。「ミンミン」と鳴ければ、すべてその拍子に合わせて歌います。現在の有名なオーケストラが問題ではありません。
(285-243、1997.6.5)

 

私たちが森羅万象、自然界を見つめるとき、四季に従って変わる自然現象と時によってすべての万物が和動し、美を現すのを見るとき、私たちは無意味な心情で見つめてはいけません。私は、鳥を見たり、蝶や蜂を見たりするとき、流れる水やそびえる峰を見るときも、このすべてが創造された神様の内的な心情の反映された姿だという事実を感じます。私たちは、それを感じることができなければなりません。多くの芸術家がいて、多くの文学者がいますが、あらゆる芸術家と文学者たちは、一様に多くの形容詞を動員し、被造世界、すなわち万物の美を現しています。そして、この自然は、芸術や文学と密接な関係をもっています。被造世界、すなわち自然を外せば、私たちが楽しむことのできる相対的条件が、言うまでもなく減少するという事実を考えるとき、なくてはならない自然であり、感じなければならない自然だということを知ることができます。
(5-343、1959.3.8)

 

一人孤独に死ぬのですが……。なぜ孤独に死ぬのですか。そのようなときは、庭園に出ていって花を見つめ、香りをかぎながら、「この香りよ、お前はどこから来たのか」と香りと語るのです。「どこから来たのかも何も、私の祖父母の香りから来た」、このように尋ねてみると、神様から来たというのです。神様が私のためにこのような庭園を装ってくださったのです。このすべてのものは、生きている博物館です。生きた命をもつ博物館を私に付与したのが庭園なのです。ピカソの一枚の絵がいくら美しいとしても、生きている一株の草もつくることができません。
「神様の博物館を見物する」と考えてみましたか。ねこやなぎをもって、 「ああ、きれいだ。これは誰のためにつくったのだろう」、そのようなことを考えてみましたか。肌寒い春の日、その川辺の氷の下から雪解け水が流れていくのですが、ねこやなぎが花を咲かせます。それがどれほど素晴らしいかというのです。果たして誰のためにそのように咲くのかというのです。愛する息子、娘が、のどが渇いて氷水を飲みたいと思うとき、拳で氷を割り、その水を飲んでねこやなぎを見るとき、このように歌を歌うことのできる一つの象徴体としてこのねこやなぎをつくったとすれば、それはどれほど素晴らしいでしょうか。
ですから、生活がどれほど潤沢かというのです。愛の博物館を私たちが観覧し、そのすべての博物館と語ることができ、友人にできるこのような環境で生きているのです。……このような驚くべき愛の世界と因縁を結ぶために、地上世界に生まれたということを思うとき、なぜ孤独なのですか。
(112-220、1981.4.12)

 

創造の父よ! あなたの美しさがすべての万物、万象に現れ、あなたのみ手を経ていった形状の上には奥妙さと顕現の美が満ちあふれております。人間に対する創造目的である美を、きょうも休むことなく訪ねていかれるお父様の切ない心を、私が心と体で体恤することができ、あなたの愛に美で対することができるよう許諾してください。
(1-102、1956.6.10)

 

②人間美

― 宗教経典 ―

 

花の香りは風に逆らって進んで行かない。栴檀もタガラの花もジャスミンもみなそうである。しかし徳のある人々の香りは、風に逆らっても進んで行く。徳のある人はすべての方向に薫る。
法句経 54(仏教)95

 

先生がいわれた、「仁に居るのが立派なことだ。」
論語 4.1(儒教)96

 

村でも、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい。
法句径 98(仏教)97

 

霊的力のために、神の脈拍により浄化されることにより、私たちは美しいすべてのものを思う。
リグ・ヴェーダ 5.82.6(ヒンドゥー教)98

 

わたしは主によって喜び楽しみ / わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ / 恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ / 花嫁のように宝石で飾ってくださる。
イザヤ書 61.10(キリスト教)99

 

あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。
ペトロの手紙一 3.3 ~ 4(キリスト教)100

 

事実、音楽には三つの類型がある。第一の類型は宇宙の音楽であり、第二の類型は人間の音楽であり、第三の類型は旋律をつくりだす、一定の道具によって創造された音楽である。……今、第一の類型、宇宙の音楽は、人間が天それ自体から感知するものから、または元素の構造から、または季節の多様性から……最もよく観察される。それゆえ、この天体の運動で、音楽的転調に対するある固定された秩序があることは間違いない。今、人間は自分自身を検討することにより、人間の音楽を理解するようになる。ある調和、いわゆる高低の調べが、一つの和音を形成するやり方で注意深く調律することを除いては、何のために理性の非物質的存在が肉体と連合するだろうか。
ボエティウス101

 

少なくとも徳を得るためならば、そして一段とすぐれた者になるためならば、人も選ばず、事も選ばずに、よろこんで相手につくそうという姿……何よりも美しい姿だからである。このようなわけで、少なくとも徳を得んがために愛をうけ入れることは、その事と仕方とを問わず、一切美しいことなのである。この徳を目指しての愛が、すなわち天上{ウーラニアー}の女神に属する愛なのだ。その愛は、自身も天上的であり、また、都市個人のいかんを問わず、いずれにとっても、こよなき 値をもつものなのだ。なぜなら、その愛は、愛する者は、愛される者をして、徳を目指しつつ、自分自身を気づかうようにせしめるからだ。
プラトン 饗宴(ヘレニズム)102

 

― み言選集 ―

 

修養の世界での感じはこうです。恩恵を受けた人、神様の愛を受ける人は美しく見えます。愛を受ければ美しく見えるのです。どれほど美しく見えるのでしょうか。光のように見えるのです。ですから、光を発することができます。これと同じように、すべての存在がそのような光を発するようになれば、ろくでもない人、つまり愚かな人がいないというのです。
(33-88、1970.8.9)

 

本然の美とは、どのような美でしょうか。それは、ほほえみと歌と踊りで現せる美であり、神様に栄光をお返しできる永遠の価値としての美なのです。本然のエデンの園が、正にこのような美の世界でした。
(2245、1957.6.9)

 

愛のめがねをかけていれば、すべて良くないものがなく、悪いものがないのです。いくら器量が悪くても、味があるというのです。おいしい食事もそうです。見栄えが良く、きれいなものは、その中が悪いのです。しかし、見栄えの良くないものは、その中が良いというのです。これは、すべて相対的になっ
ています。ですから、美人は薄幸でよく変わりますが、かぼちゃのように器量が良くなければ、内的にすべてのものが美しいのです。良心も美しく、見ていても美しく、揺れ動かないのです。ですから、いくら女性が世の中を支配しても、女性が完成するには愛を求めなければなりません。これが最も貴重
な真理です。
(162-47、1987.3.22)

 

いくら湖が良くても、汚水がたまっていれば、おもしろくないのです。ですから、汚水の中で青く光るはすの花が咲いているという事実が驚くべきことです。花が咲いたので、池が生きるのです。一輪の花によって、醜いものになり得る池が美しくなります。人々も、悪なる人の中に愛が残っていれば、美しさが現れるようになるのです。
(354-21、2001.9.16)

 

いくら女性が美しくても、その美しさだけで目的がなければ、どのようになりますか。筒の中に入っている美しい人形がよいですか。「あなたは、そのような美人になって一日中座っていなさい」と言えば、「ああ!」と言って女性たちはみな逃げていくでしょう。そのように座っているのが、美しさにお
いて理想型ですか、あちこち歩き回るのが理想型ですか。
女性の美しさの夢が、男性のところにいって終わるとすれば、それは気分が良いのです。なぜそうなのですか。夢自体が男性ではなく、男性の中にもう一つの何かがあることを知らなければなりません。それは何でしょうか。それが愛です。美しい夢が定着して喜び得る終着点とは何かというと、愛です。
(116-10 ~11、1981.12.01)

 

本当の愛の心で見れば、化粧をきれいにして美しく装ったのと、ひたすら苦労して努力するのと、どちらの女性がより美しいですか。洗濯をして、床を磨き、子供の世話をする、そこに理想郷があることを知らなければなりません。
(129-176、1983.10.30)

 

あの国には奉仕もありません。どれほど互いに「ために生きる」人生を生きたのかということが問題です。それがあの国の人格の美です。それが愛の完成を成すので、美しさの中の最高の美しさなのです。丸くて美しい形態はありますが。
(307166、1998.11.8)

 

あの国の重要な話題とは何でしょうか。調和です。均衡と統一です。何を中心とするのでしょうか。「ああ、私は顔が美しいので、私を中心として調和を成さなければならない!」、そのように言うのですか。あの国では、いくら美しいことを誇っても、すべての人が「私はあなたより、もっと美しい!」と言うのです。周囲がすべて美しさを備えています。周囲を見ることができなければなりません。そこは立体的に見るのです。
(217-143、1991.5.19)

 

8. 創造性と芸術

芸術家、科学者、発明家たちは、神様の創造性を受け継いでいる。宇宙は、神様の心の中の観念から出発して創造されたのであり、その観念を実際の宇宙に創造するためにエネルギーが投入された。同じように、芸術家と科学者は、その心の中にあるイメージを作品として表現するために、自分のすべての努力と精誠を注ぐ。
この節は、芸術に焦点を合わせ、したがって経典とともに、自分の芸術がもつ意味を省察する有名な芸術家たちの言葉の中から選別した幾つかの言葉も含む。しかし、創造性は、このような卓越した人物たちの独占的な所有物ではない。私たちは、スポーツに対する愛に満ちて競技を行う運動選手から、自分の物品を売買するためにより優れた方法を求める商人から、踊りを踊り、歌う子供たちからも創造性を発見する。バレエ団と芸術学校を設立し、また妻と共にデュエットで歌うことを好む文鮮明先生は、芸術が神様を中心とする文化を創造することに寄与する、重要な役割を理解している。相対物と調和を成した芸術、芸術の情緒的な力とその精髄、詩的霊感、芸術の霊性、芸術と価値の問題などの主題が、ここに含まれている。

 

①芸術の霊性

― 宗教経典 ―

 

酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。
エフェソの信徒への手紙 5.18~19(キリスト教)103

 

人生は芸術である
人の一生は自己表現である
自己は神の表現である
表現せざれば悩がある
処世訓1.4(PL教団)104

 

流麗な言葉の中に魔力があり、知識の中に無知がある。詩の中に知恵が、言葉の中に退屈がある。
アブー・ダーウード・ハディース
(イスラーム)105

 

神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。
サムエル記上16.23(キリスト教)106

 

「神々に誓って、音楽・文芸の場合もそれと同じように、われわれ自身にしても、われわれが国の守護者として教育しなければならぬと言っている者たちにしても、節制や勇気や自由闊達さや高邁さやすべてそれと類縁のもの、他方またそれと反対のものの実際の姿が、いろいろとくり返し現れるのをあらゆる場合に識別し、それらが内在しているあらゆるもののうちに、その実際の姿をも似姿をもともに認識できるようになるまでは、そして小さなもののうちにあろうと大きなもののうちにあろうと、けっしてないがしろにせず、いずれを知るにも同一の技術と訓練を必要とするものだと考えるようになるまでは、われわれはけっして音楽・文芸に習熟した者となったとはいえないのではないだろうか?」……
「もしもある人が、その魂の内にもろもろの美しい品性をもつとともに、その容姿にも、それらと相応じ調和するような、同一の類型にあずかった美しさを合わせそなえているとしたら、見る目をもった人にとっては、およそこれほど美しく見えるものはないのではないか?」
プラトン 国家 3(ヘレニズム)107

 

すべての技術は生成にかかわる。
アリストテレス ニコマコス倫理学6.4
(ヘレニズム)108

 

私たち作曲家たちは、無限を有限の中に投影する人々である。
エドヴァルド・グリーグ 109

 

真の芸術品はそれを制作する精神……あるものを完全に創造しようとする努力によって、高貴で敬虔につくられる。神が完全な存在であり、完全を追求する人は、誰でも神聖なあるものを追求しているからである。
ミケランジェロ110

 

通奏低音の唯一で最終的な目標は神の栄光と歓喜である。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ111

 

私が心で創作すれば、ほぼすべてのものが良くできた。
マルク・シャガール112

 

人間たちは邪悪になることができる。彼らの兄弟である動物がそうなり得るよりももっと邪悪になることができる。しかし、彼らはまた、創造の恍惚境で立ち上がることもできる。イギリスの大聖堂は、人間が自分自身の上にいる存在に対する敬拝の記念物として建っている。
人間は、自身の手でつくったりっぱな作品を見るとき、人類という種に属したことを誇りに思う。彼らは創造者になってきた。彼らは世の中と、その世の中にあるすべてのものを創造したのであり、それが善だと見た創造主の神聖さを分かち合わなければならない。しかし、その方はつくられるより多くのものを残しておいた。
アガサ・クリスティ113

 

― み言選集 ―

 

人間がそれ自身の責任分担を完遂して初めて完成されるように創造されたのは、人間が神も干渉できない責任分担を完遂することによって、神の創造性までも似るようにし、また、神の創造の偉業に加担させることによって、ちょうど創造主である神が人間を主管なさるそのごとくに、人間も創造主の立場
で万物を主管することができる主人の権限をもつようにするためであった。
原理講論、創造原理 5.2.2

 

文化は言葉でつくられなければなりません。み言を通した文化です。言葉はすべて文字で表現されます。それから、美術などの芸術で表現されるのです。芸術とは何でしょうか。目に見えない言葉を表示するものです。したがって、この原理とみ言を通して格が出てくるのです。実体が出てくるのです。
(107-317、1980.6.8)

 

神様が一人でいれば、どうでしょうか。神様が一人でいれば笑われるでしょうか。神様も一人でいれば狂人になります。「ははは……!」と笑うとき、そこに「ほほほ」、「へへへ……!」という何かでもなければなりません。そうすれば、その環境がすべて笑うようになります。上がっていって踊りを踊
るのです。それで歌が必要であり、踊りが必要であり、芸術が必要なのです。愛を除いては不可能です。愛を除いては、芸術も、歌もすべて必要ありません。核がありません。芸術の核が愛です。それを知らなければなりません。ですから、神様もこの宇宙の喜びのためには、愛の前に絶対服従します。
(225-128 ~129、1992.1.5)

 

皆さん、作家たちが、これから世界的な作家になるためには、どのようにしなければなりませんか。風景画を描き、彫刻品を作り、様々なものを象徴的に表示するとき、その中で愛が躍動しなければなりません。愛が宿っていなければならないのです。言い換えれば、その作品の作者が、どのくらい愛を投入したのかということが問題になるだろうと見るのです。その次に、生命力をどのくらい投入したのか、その次には、心血をどのくらい注いだのか、この三つの問題に集約されると見るのです。一つの作品を見てみれば、作家が属している国に対する愛、愛国精神と家門に対する愛があると同時に、生命力が躍動しなければなりません。生命力が輝かなければ、傑作品になりません。そして、どのくらい血がかわくほど投入したのかということです。この三つは、どのような分野でも同じように重要な問題です。
(198-281、1990.2.5)

 

芸術というものは、情緒的背後が深く介在していなければ価値がありません。千年前に見たものを何千年後に見ても、それ以上の感情をもって感じることができる……。一幅の絵を見る時も、そのような感動を感じることができる心情が誘発され、刺激が起きるとき、傑作品だというのです。
(142-274 ~ 275、1986.3.13)

 

芸術といえば、パリのオペラハウスに行って、大衆の前で歓声を受け、世界の人々が「ああ! 素晴らしい」と言ってこそ、世界的なものだと思いますか。芸術は、生涯を美しくするものであり、生活を美しくするものだと考えなければなりません。子女も芸術的な教育をしなければなりません。夫も芸術的な感情で厚遇することもでき、包むこともできなければなりません。それがもっと素晴らしい芸術だと思います。家庭に愛を美化させることができ、昇華させることのできるものが、芸術のより甲斐のある価値だと思うのです。
(100-138 ~139、1978.10.9)

 

動物世界に小説というものがありますか。小説の内容は簡単だというのです。愛を中心として悲喜劇の連関性を、どのように私たちの歴史に適用し、社会に適用し、生活に適用し、未来に適用するのかということです。そこに上手に適用したものが名作です。ほかのものはないというのです。
その次に、自然があれば水が壮観に流れるのですが、永遠不変に流れる水のような愛なので、自然の美しさゆえにいつも美しい園のようだと言い、香りを漂わせる美しい花に例え、私は鳥に例え、蝶に例え……。そのほかに形容詞を付けるものがないというのです。それはなぜですか。それは、それらが私たちに刺激をもたらし得る刺激の触覚になれるからであり、刺激を引き起こせる動機になるからです。ですから、そのようになるのです。
すべて愛を中心として、そのようにつづられます。自然をつづり、川をつづり、山をつづり、木をつづり、鳥をつづり、石をつづり、太陽をつづり、月をつづり、星をつづり、すべて愛を中心としてつづり、神様の愛を素晴らしく描き出すのです。それが名作小説だということです。そのような形容詞の妙味、美しさに対する構成がいつでも連関性をもって描かれたそのような作品でなければ、おもしろくないのです。1ページだけ見れば、すべてほうり投げてしまいます。これを見るとき、文学が最も中心主流とするものは、愛に関する美化なのです。それを夢見ていることを、私たちは知ることができます。
そして、詩というものもそうです。詩の表現も同じです。それを圧縮させ、愛を中心とする幾つかの言葉で表示するのが詩です。ですから、青少年たちが詩的感情に酔い、文学的感情に酔うのです。このように愛を扱うのです。
(94-60、1977.7.3)

 

様々な言語を話すあらゆる国の人々が、そのすべての感情を一瞬のうちに表現できるものとは何でしょうか。それは文学にもできません。芸術にもできません。唯一、歌だけがそれを表現できるのです。歌は、たとえ短くても、そのすべての情緒的内容を抱くようになる時は、どのような人の心でも、一瞬のうちに動かせるのです。
私たちが歌うとき、どのような歌が一番良いでしょうか。この宇宙の中心であり、最も価値のある高貴な中心存在を称賛できる歌は、中心に従ってその周囲に包み込まれているすべての万物が、深刻に聞きます。日が暮れながら夕焼けになる、そのような姿を胸に入れて天を称賛すると考えてみなさいというのです。神様がそのような心を感じたなら、どれほど感動されるでしょうか。皆さんが歌を歌えば、歌それ自体を歌うのではなく、深い世界、作曲し、作詞した人の境地に入っていってそれを称賛することができ、神様の位置で歌を歌ってみなさいというのです。
歌の中には、楽しい歌、悲しい歌があります。楽しい歌は喜ぶとき、その心全体の喜びの園を広げ、自然と共に、この天と共に和動するのです。それがどれほど素晴らしいですか。悲しい歌は何ですか。胸を開き、この世のすべての悲しみを溶かして掃除するために悲しい歌を力いっぱい歌うのです。それがどれほど素晴らしいですか。
人間には歌が必要であり、その次には踊りが必要です。芸術が必要なのです。美、美しさを表現する芸術とは何でしょうか。小さな精髄を中心として、すべての内容と形式を表示するものとなる時は、誰もがそれを見つめるようになり、新しいものを感じ、感動することができるのです。これが芸術の力だというのです。
(270-10 ~11、1995.5.3)

 

②調和

― 宗教経典 ―

 

音楽は天地の間の(自然の)和合作用を代表するものであり、礼儀は天地の間の秩序を代表するものである。天地の間に和合作用があるから万物はみな同和し、秩序があるから万物それぞれの地位や機能を保ち得るのである。また、音楽は天(の陽気)に基づいて作られ、礼儀は地(の陰気)に基づいて定め
られるのであって、……即ち天地(自然)の道を明らかに知る者にして、始めて礼楽を正しく用い、その効用を盛んに発揮させることができるのである。
礼記 19(儒教)114

 

音楽は混沌から秩序を創造する。事実、リズムは互いに異なるものに合意点を付加し、メロディは連結されていないものに連続性を付加し、調和は不条理なものに適合性を付加する。それで、混沌は秩序に降伏し、騒音は音楽に降伏する。私たちは、音楽を通して、幾何学的であり数学的な比例の根本的関連性におかれている、あの偉大な宇宙的秩序に参与するように、単純な反復に提供される方向、諸要素の増殖にある力、そして無作為的連合にある目的に参与するようになる。
ユーディ・メニューイン115

 

真の詩、完璧な詩は、相対となるものたちの調和にある。それゆえ、例外が規則を立証し、自然に存在するすべてのものが芸術として存在することを大声で、特にここで語るべき時間である。
ビクトル・ユゴー116

 

― み言選集 ―

 

相対圏をもつことができなければなりません。男性と女性の二人が喜ぶ場合に、天地の調和が出てきます。文学や芸術というものは何ですか。男女の愛を中心として描くのです。その実体を求めていくために慕うのが文学です。芸術は、愛を中心として美しく、美化させたものです。
(354-21、2001.9.16)

 

自分がいつでも相対的な立場に立っていなければなりません。そのような観念が常に自分の心の中に刻まれていなければならないのです。いつもそれを考えなければなりません。舞踊家が踊りを踊るように、いつも芸術の美を表そうとする心をもたなければならないのです。自分自体が常に相対的な位置
を維持し、神様の懐に抱かれ得る基準をもっていなければなりません。その基準で美男美女が決定されていきます。例えば、愛は動的であり、美は静的です。動と静があって調和を成すのです。
(15-171、1965.10.7)

 

「ああ、歌が本当に上手だ」というのは、よく調和しているということです。高いところに上がっていって、「ああ、もっと上がっていかないのか」と思っていては止まってしまいます。さっと越えて下がってくるようになっています。それがなければ大変です。ソプラノが好きだという人も、上がっていっ
てばかりいれば大変なことになります。上がっていくこともでき、下がっていくこともできるので、ソプラノが良いのです。世の中の万事がそのようになっています。幸福なものとは何でしょうか。高く上がっていってさっそうと下がっていくことができる、この二つともあるのです。
(9850、1978.4.9)

 

③霊感

― 宗教経典 ―

 

見よ、主は、ユダ族のフルの孫、ウリの子ベツァルエルを名指しで呼び、彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識を持たせ、金、銀、青銅による細工に意匠をこらし、宝石をはめ込み、木に彫刻するなど、すべての細かい工芸に従事させ、更に、人を教える力をお与えになった。
出エジプト記 35.30 ~ 34(キリスト教)117

 

梓慶が木を削り、鐘や太鼓をかける台座のをつくった。ができあがると、これを見たものは、まるで鬼神のわざかと驚いた。そこで魯公は梓慶を引見してたずねた。「お前さんは、どういう技術でこれを作ったのかね」
すると、梓慶は答えて言った。「私は工人にすぎませんから、技術というほどのものはございません。けれども、しいて申しますならば、ただ一つだけでございます。私がこれから鐻をつくろうとする時には、どんなことがあろうとも気を散らして失うことがないように心がけます。そのためには、必ず身心を清める斎をして、心を静めます。斎をして三日たちますと、殿様からいただくほうびや爵位俸禄のことを考えなくなります。斎をつづけて五日たちますと、評判のよしあしや仕事の巧拙などを思わなくなります。斎をつづけて七日たちますと、ぼうぜんとして自分の手足や身体があることさえ、すっかり忘れてしまうようになります。もうこの時になりますと、役所のことなどは念頭になく、ただ細工に集中し、外界のわずらわしさが消え去ります。そこではじめて山林のなかにはいり、自然の性質や格好のすぐれた材木を捜し求めます。木が見つかりますと、いちおうができあがった形を頭の中に描いてみて、それからはじめて細工にかかるようにいたします。もし、ものにならないようでしたら、初めから手をつけません。一口に申しますと、自然のものを自然の心で取り扱うということです。出来上がった道具が、神わざのように見えるのも、このためではないでしょうか」。
荘子19(道教)118

 

「つまりかれらは、知恵があると思っている人が、しらべられて、そうでないことになるのを、聞いているが、おもしろいからなのです。たしかに、おもしろくないことはないのですからね。しかし、わたしにとっては、それは、わたしの申し分どおり、神によって、なせと命じられたことなのです。それは神託によっても伝えられたし、夢知らせによっても伝えられたのです」。
プラトン ソクラテスの弁明22(ヘレニズム)119

 

私が最も鼓舞された雰囲気にいるとき、私はより高い水準の自我が関連した明確な霊感のビジョンをもつ。そのような瞬間に私は、あなたと私、そして万物たちが生成される無限で永遠なエネルギーの根源をたたいていることを感じる。宗教はこれを神と呼ぶ。
リハルト・シュトラウス120

 

あらゆる真の創造的な努力の先行条件である、あの恍惚境のような条件にいる間、私はとてもはっきりと印象を受ける。私は、自分がこの振動する力、すなわち全知の存在と一つになること、そして私自身の能力によってのみ制限される限度まで、私がそれを利用できることを感じる。
リヒャルト・ワーグナー121

 

人が享受できる最も美しい経験は神秘である。それは芸術と科学を生む根源的感情だ。
アルベルト・アインシュタイン122

 

― み言選集 ―

 

皆さん自体に心と体の愛が開かれるその時が近くに来れば、私自体の感じていることが宇宙に共鳴されるので、その時は文学者になり、小説家になり、詩人になるのです。その時になれば、立体的な世界とあらゆる関係を結びたいと思います。その時は、秋風によって落ちた落ち葉がころころ転がっていくのを見ても、「はははは!」と笑うのです。
(137-232、1986.1.3)

 

本当に世界的な偉大な学者がいるとすれば、その学者の心情の深みには、自然の心情と和合できる感性があるのであり、自分が研究するその分野以上に随時、連絡される感性があるので、思いも寄らない暗示や幻想や、あるいは夢のお告げのような現象があるのです。そして、これは自分の専攻分野に夢中になっていく、そのような状態でのみ起きる現象です。
(6-341~ 342、1959.6.28)

 

精誠を尽くして自分が神秘的な境地に入っていけば、文章を書いてみなさいというのです。文章を書けば、名文になるのです。そのような境地では、絵を描いてもそうです。自分の手だけで絵を描くのではなく、そのような精誠を込めて、「この手に一人の偉大な画家が来て、私を協助して描く」、そのように精誠を尽くす中で、さっと描けば、感嘆の声が出ます。それで、良い作品をさっとそこに貼りつけておくのです。そのようなことが起きるということです。ですから、偉大な科学者や偉大な芸術家たちは、必ず霊的に通じます。その人たちは、精誠を尽くしたのでそうなのです。
(10023、1978.10.9)

 

創造とは何でしょうか。力の投入、あるいは精神の投入です。さらには、心身の投入です。自分の全体を投入するところで、価値のある作品が形成されることを、常日ごろ、芸術家たちを通してよく見ることができます。精神も投入せず、適当にやって傑作品が出てきますか。精神がまっすぐに立たなければなりません。精神がまっすぐに立たなければならず、まっすぐな精神姿勢に正しい良心を立てておき、その良心と共に体が完全に一つにならなければなりません。ここにすべての力を投入したのか否かによって、作品の価値が決定します。
(77-319、1975.4.30)

 

④芸術と道徳

― 宗教経典 ―

 

また詩人たちだが、悪魔にそそのかされた者だけが、かれらに従う。なんじは、かれらがあらゆる谷間にさまようのを見ないか、またかれらは、己れの行わぬことを口にするではないか、多く神を唱念しまつり、迫害された後も自ら守る者は別である。悪を行った者たちは、やがてどんな変遷をたどるかを知ることになろう。
クルアーン 26.24 ~ 27(イスラーム)123

 

水が収穫を生むように、歌は心の中に偽善を生む。
バイハキ・ハディース(イスラーム)124

 

アイシャが言うには、詩の主題が神の使徒を告げるものであるとき、彼が言った。「それは、その中の善のものは善であり、悪のものは悪である」。
ダラクニ・ハディース(イスラーム)125

 

およそ音楽はもと人の心情から発するもので、感情が心中に動いて声に表現され、声の変化が一定の型をなしたのを楽音というのである。従って平和の世の音楽が安泰(ゆったり)で和音の気を表わすのは、政治がゆるやかだからである。乱世の音楽が恨みや怒りの感情を表わすのは、政治が人心に逆らっ
ているからである。亡国の音楽が物悲しく、憂うれわしげであるのは、人民が苦しんでいるからである。このように、音声や音楽の性質は政治の状況に深く関連するのである。
礼記、楽記(儒教)126

 

いにしえの王者の音楽というものは、万事節度を守るべきものだということを教えたものです。だから音楽には五声の調子というものがあり、遅と速、本と末とが互いに連なって中声(中和)の声に達し、中声に達した後には次第に細く急な音調となり、かくて五声のすべてが細く急な音調になった後には、
音をかなでることはできません。そのとき、わずらわしくて手を動かしてみだりがわしい音を出しますと、人の心をみだらにし、聴覚を狂わせ、なごやかな心を失わせてしまうので、君子は聞こうとはしないものです。何事もこのようなものです。
春秋(儒教)127

 

いかなる種類の感情も、リズムと韻律によって生成される。したがって、人間は、音楽によって正しい感情を感じることになじんでいく。そのため、音楽は性格を形成する力を備え、多様な様式に基づく多様な種類の音楽は、性格に対する影響力によって区別される。例えば、一つは憂鬱な方向に作用し、もう一つは柔弱な方向に作用する。一つはあきらめるようにしむけ、もう一つは自己調節を、そしてもう一つは熱狂などへ誘う。
アリストテレス(ヘレニズム)128

 

芸術の究極的目的は、人間の道徳意識を増強することであり、さらには、必要であればそれを激昂させることである。
ノーマン・メイラー129

 

― み言選集 ―

 

人間は、このような心情の法度を蹂躙したので、今日、心情の世界において無限に募る慕わしさに苦しむようになったのです。ある趣味をもち、芸術を通して、学問を通して、または、地上にある何かの愛の対象を通して、この慕わしさを埋めようとしますが、埋める道がなく、苦しまなければならないのが堕落した人類の実相です。これが歴史的な悲哀であり悲劇です。
(6-348、1959.6.28)

 

第2次世界大戦で勝利したアメリカの女性たちが、天使長である男性たちを好むのは、男性の中の流れ者の群れを好んでいるのです。俳優たちが世界に宣伝したというのは……。この人たちは、天の前には、びりです。女性たちが、それについていって仕えているのです。それに対することができるのは、終わりの日の天使長の役事です。
レバレンド・ムーンは、芸術の中の芸術、文学の中の文学、理想の中の理想をもってきました。踊りを踊って歌を歌う人たち、ハリウッドの群れたちはフリーセックスに溺れていますが、私たちは絶対セックスです。エイズ患者たちがたくさんいます。キーロフバレエアカデミーで恋愛事件が起き、男女問題が起きてはいけません。アメリカの女性たちと男性たちが滅んでいくのを防ぐためです。
(339-152 ~153、2000.12.10)

 

アメリカに行けば、テレビを通して24 時間映画を見ることができます。アクション映画を見ようと思えば見て、戦争映画を見ようと思えば見て、恋愛映画を見ようと思えば見て、ありとあらゆる映画がすべて出てくるのです。ピンク映画まで出ています。ですから、青少年たちは、すぐにそこに引き込ま
れていきます。青少年たちは、思想や伝統的な価値観がないので、直接行動に移すのです。御飯を食べて出ていけば、それをしようとするというのです。
青少年がそれを見て刺激的な面を追求しますが、伝統的にそれを制裁できる環境的な与件もありません。家庭の関心の根が青少年と切り離せない因縁を結んでおらず、先生の教えもなく、自分の国に因縁も結んでいないというのです。ですから、見るやいなや即座に行動するのです。そのようにしていると、この世界は遠からずそのまま完全に滅亡します。男女が抱き合ったまま一緒に滅亡してしまうのです。また、それも保障できないので、麻薬に酔った人類は、それこそすべて精神の抜けた人になってしまいます。人間として価値のない人間に落ちてしまうというのです。
このような環境をどのように変えるのかということが、私たちのような人には深刻な問題です。今後、理想世界を創建しようと主張するのなら、根本に入っていき、このような世界的な問題を解決しなければなりません。このようなすべてのことを評価して、今後、芸術面を中心として、新しい文化創建の伝統基準をどれくらい早く立てるかという問題が深刻なのです。これが世界を統一するにおいて、最も至急な問題です。
(241-197 ~198、1992.12.26)

 

芸術を行う心の極致は、一つ一つ手ずからつくられた作品、もろもろの万物万象を通して無限に喜ぼうとされる創造主、神様の心情世界に到達しようとするのです。与えてもまた与えようとし、ために生きてもまたために生きようとし、条件なく投入しても忘れようとするのが神様の心です。その心情世界の根本は、真の愛です。被造世界に対する神様の創造理想は、その心情から出発されたのです。芸術の原点は、その心に似たものにあります。したがって、芸術世界は国境があり得ません。特定の理念や理想が道具になってはいけません。調和と統一が基本原理です。分裂と葛藤は堕落性の結実です。したがって、作品世界でも、東洋は西洋を理解し、西洋は東洋を受け入れ、四方性と世界性を備えなければなりません。
(316-70 ~ 71、2000.2.9)

 

9. 健康と疾病

人間の体は、明らかに創造主の最高の成果の中の一つである。体は、各部分が均衡をとり、生命の動きを維持する。それは、絶えず相互作用する小さな宇宙と同じである。健康を維持し、疾病と闘う自然の原理によって動く。しかし、体の驚くべき機能に関し、多くの部分がいまだに神秘として残っている。不均衡や疎通の欠如現象によって、体の細胞と器官の間の相互作用が崩れるとき、その結果として疾病と苦痛が生じる。すると体全体は、問題が生じた部分を助けるために動員される。この点から、体は宇宙的な道徳律を見せてくれる。すなわち、より大きく重要なもののために生きる生き方、そして、全体が損傷する前に、全体は一部分の欠乏を保護する生き方を示してくれる。さらに、治癒において、心または心理的要素の重要性は、決して過小評価することはできない。
医学は、健康増進のために多くのことを成し遂げ、宗教経典においても、医師の役割が認められている。この節で私たちは、医学分野の権威者たち、ヒポクラテス、ガリアン、パラケルスス、そして「黄帝内経」のいくつかの章句を『世界経典』に付加した。文鮮明先生は、東洋医学と西洋医学、科学的医学と霊的治癒方式のうち、最高のものを利用するようにする総合的治療方式を追求する。
私たちが長寿しようとすれば、健康に良い食べ物を食べ、きれいな水を飲み、汚染されていない空気を吸い、規則的に運動しなければならない。これに付け加えて、文鮮明先生は、すべての人を愛することを付加する。

 

①体の治癒力

― 宗教経典 ―

 

だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思わ
れる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの
部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
コリントの信徒への手紙一12.20~26(キリスト教)130

 

せかいぢうとこがあしきやいたみしよ神のみちをせてびきしらすに
おふでさき2.22(天理教)131

 

人間の身体は血液、粘液、黄胆汁、それに黒胆汁をもっている。これらが人の身体の本性をつくり出している。また、人はこれらによって病気になったり、健康を満喫したりするのだ。もっとも健康を満喫できるのは、これらが互いに適切な比率で混じり合い、結合状態、性質、それに量の点でうまくいっており、完璧に混じり合っている場合だ。病気になるのは、これらのうちのどれかが少なかったり、多かったりした場合、そのほかのものと結合できず孤立している場合だ。どれかが孤立して単独で存在すると、それが存在しない場所が病気になるだけでなく、存在する場所も、多すぎて、痛みや苦しみに襲われることになる。実際、身体からこれらのどれか一つが余分であふれて流れでると、足らなくなって痛
みに襲われるのだ。
ヒポクラテス132

 

それぞれの生命体に多くの治癒力を付与した大自然に、大いなる感謝を捧げる。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ133

 

― み言選集 ―

 

私たちの人体を見てください。私たちの人体の血管や数多くのものは神秘の王宮です。世界に眼科の医師だけでもどのくらいになると思いますか。ここに眼科の医師は来ましたか。世界に眼科の医師が何百万になるか分からないでしょう? 今後、数千万になると言っても、それを「違う」と否定する人はいません。鼻の博士、口の博士、歯の博士がそうであり、耳の博士もそうです。これからは、手の爪の博士もいるのであり、細胞の博士も出てくるでしょう。無尽蔵です。真理の宝庫です。このような莫大な宇宙全体を総合したものを代表できる相応的相対体の内容を、私の一身に備えた存在は、小宇宙だといっても誰も否定できず、神秘の王宮なのです。
(203-327、1990.6.28)

 

このすべての四肢五体は、主体と対象の関係で円満に授け受けできる和合した一つの総合王国です。そのようなすべての授け受けする環境圏内にいるときは、宇宙が保護するので痛みがありません。私の細胞1平方センチメートルには、1気圧の圧力がかかっていることを知らずにいます。均衡を取らなければならないのです。病気になったということは、一部分が欠如したということです。宇宙の本然的基準で見るとき、主体と対象が完全な理想的相対圏を喪失したために、不合格者は宇宙が引きずり下ろすのです。それが押し出す力です。「お前はもう脱落するのだ」というのです。それが痛みとして現れます。これは論理的です。
(204-112、1990.7.1)

 

皆さん、苦しんだことがあるでしょう? なぜ痛むのかというのです。医師にそのように尋ねれば、それを知りません。「痛むから痛むのだ」と言うのですが、そのような話がどこにありますか。なぜ痛むのですか。根本に問題が生じれば痛むのです。それでは、根本とは何ですか。この体を中心として自分の生命を維持するにおいて、すべての肢体が主体と対象が授け受けする授受作用をよくしなければなりません。全体が良く授け良く受ければ、その肉体が円滑に運動して、継続して生存するようになります。
この宇宙は、神様の理想的存在形として良く授け良く受けるものをすべて擁護します。擁護するこの世界の要素の中で、反対要素が発生し、欠如し、一箇所が詰まれば、擁護圏で作用できない不合格者になります。そのようになるので、その反作用で吐き出すようになるのです。それは、宇宙自体の保護のためです。世界には作用と反作用があります。その反作用は悪いものではありません。大概悪いものと見ますが、それは大きなものを保護するための作用です。ですから、見る観が変わらなければなりません。
ですから、おなかが痛ければ、それはおなかを中心としてある主体の前に対象的な位置で授け受けできる回路がふさがったということです。ふさがってしまった分、反対に押し出すようになるのです。宇宙力によって押し出す力がそこに作用するので痛むのです。ふさがったものを開きさえすれば、薬でその門を開きさえすれば回復するというのです。
(165-176、1987.5.20)

 

病気になると、なぜ痛むのですか。均衡が崩れたからです。均衡が崩れたものは、宇宙力が押し出します。痛くなかったとしても、相克が起きるので宇宙力が押し出すのです。死ぬというのです。なくなります。良心に呵責を受けること自体が、宇宙力の侵害を受けているという事実を知らなければなりません。そのようなことは、絶対に考えてはならず、行ってもいけません。
(400-113、2002.12.28)

 

②心の治癒力

― 宗教経典 ―

 

喜びを抱く心はからだを養うが / 霊が沈みこんでいると骨まで枯れる。
箴言17.22(キリスト教)134

 

激情は骨を腐らせる。
箴言14.30(キリスト教)135

 

あなたは霊魂を除外して肉身を治療しようと試みてはいけません。
これは、多くの病に対する治療法がギリシャ人の医師たちに知らされていない理由です。
すなわち、ギリシャ人の医師たちは、研究すべき全体に対して無知です。全体がよくなければ、部分は決してよくなり得ないからです……
医師たちが霊魂を体から分離するということが、私たちの時代に人間の体を扱うにおいて大きな過ちです。
プラトン(ヘレニズム)136

 

今の人はそうではありません。酒を湯茶を飲むように貪り飲み、万事不規則を常とし、酔っぱらって房事を行い、色欲に耽って精気を絶やさんばかり、はては生命の根源である真元気をも消散しかねないていたらくなのです。およそ精気に対して満を持すということを心得ず、常に精力を過度に費消し、一時の快楽に耽って生命長久の楽しさに背を向け、日常生活万般にわたって規律性がないために、五十歳になるかならぬかに老衰という憂き目を見ることになるのです。
黄帝内経137

 

― み言選集 ―

 

それをすべて詩的に消化し、心情で消化するのです。その観念が恐ろしいのです。病気になっても、「ああ、私は病気で死ぬ」と思えば死にます。「病気になったのは私に福を下さるためであり、もっ
と健康になるためだ」、このように考えれば健康になるのです。もっと健康になるというのです。病気が私を侵犯してから出ていけば、もっと健康になります。
(118-327、1982.6.20)

 

自分自身で「老いた」と思えば、それで終わりです。そのように思えば、老いた老人のようになるのです。老いた自分に対して、精神が衰えないように仕事をつくってしなければならないと常に考えています。そのような精神的な基台が崩れていないので、健康を維持しながら、どのような困難も越えていくことができるのです。精神力というものは偉大なものです。
(205-91、1990.7.7)

 

いくら健全な精神をもっているとしても、健康な肉体をもつことができなければ、完全な人になることはできず、それと反対に、健康な肉体を所有したとしても、精神が正しくなければ、正しい人の役割を果たすことはできません。このような事実を認識し、皆さん全員が、心と体の正しい統一を成就していくことができるよう、絶えず精進してくださることを願います。
(271-151、1995.8.27)

 

革命家になるためには健康でなければなりません。身体的に虚弱では、革命的任務を遂行することができません。
(203-177、1990.6.24)

 

③医薬

― 宗教経典 ―

 

神の従僕たちが治療を行う。神が治療をしてくださるのではなく、病を下さるのではないからである。ただ一つ例外があるとすれば、それは老いることである。
ティルミズィーおよびアブー・ダーウード・ハディース
(イスラーム)138

 

良い香りの献げ物と、質の良い小麦粉を供え物として献げよ。余裕のあるかぎり十分に、供え物に油を注げ。その上で、医者にも助けを求めよ。主が医者を造られたのだから。彼を去らせるな。お前には彼が必要なのだ。医者の手によって病気が治る時もある。医者もまた主に祈り求めているのだ。病人の苦しみを和らげ、命を永らえさせる治療に成功することを。
シラ書〔集会の書〕38.11~14(キリスト教)139

 

治療師たちは、幻想の中で霊魂たちから医術に関して学んだ。その霊魂たちは、彼らに何をどのように使うのかを話してくれた。彼らの薬物は、常に歯や根である。……彼らは、病を汗、嘔吐、排便、小便、呼吸を通して追い出す。
オグララ・スー部族の伝承
(アメリカ先住民の宗教)140

 

ヘクラ(守護霊)は……あなたが奪われた魂を取り戻してくるように助ける。あなたの道を失わないことに対してヘクラに感謝せよ。あなたは病の霊たちを追い出すことができる。彼らの臭いのために、あなたは彼らを知ることができる。あらゆる霊は、独特な臭いを漂わせる。そして、彼らのハンモック
にも臭いがしみついている。その臭いは、彼らが皆所持するワトタから出てくる。質のよい幻覚剤は、あなたが、たった今魂を盗んだ霊を見て、その名を語ることができるようにする。「罪のある者は誰々だ」とあなたは考える。そして、あなたに近いヘクラがその霊を追い出すようにする。
ヤノマミ族のシャーマンの教え
(アメリカ先住民の宗教)141

 

大自然の教訓は、医者が解読しなければならない本である。そのために、彼は落ち葉を踏んで歩かなければならない。(注15)
パラケルスス142

 

医者は大自然の助手である。
ガレノス143

 

― み言選集 ―

 

医学では、堕落によって生じた肉身の病を治療するだけでなく、東西文化の和合を通して東洋と西洋の葛藤までも治すようになるという次元で、統一思想と統一医学を開発しなければなりません。東西思想と医学が一つになってこそ、これからエイズのような難病を治すことができるようになるのです。韓国では、医学教育を全く受けていない農村の若い人たちの中に、エイズのような現代医学でも治すのが難しい病を治すことができる特別な治療法を、霊界から教えられた人たちがたくさんいます。ですから、霊的世界の事実を認めなければ、大きな問題が起きるのです。
(28739、1997.8.10)

 

薬というものは何でしょうか。相克する天敵が薬です。頭が病気にかかれば、天敵のしっぽを使えば、それが薬になるのです。漢方薬の材料を探してみると、本当におもしろいです。薬というものは、東側で病気が発生すれば、西側の端を治療するのが薬です。(注16)
(325-148、2000.6.30)

 

④優れた衛生

― 宗教経典 ―

 

何であっても、運動に代わり得るものはない……人間が従う邪悪な支配による害も、運動が追放してくれるだろう。しかし、動くことがすべて運動ではない。運動とは、強力であったり、早いもの、またはこの二つの結合である。息遣いを変化させ、これを早くする躍動的な動きである。
マイモニデス ミシュネ・トーラ(ユダヤ教)144

 

自分の母親の乳で養育される子供たちは、最も適切で自然そのままの食物を楽しむ。
クラウディウス・ガレノス145

 

たくさん食べて生じた病は、食べなければ治り、食べられないことで生じた病は、食べれば治る。働き過ぎて生じた病は、休めば治り、怠けて生じた病は、働けば治る。医者は病の類型によって、それが生じた反対の原理で病を治すようにしなければならない。
ヒポクラテス146

 

― み言選集 ―

 

皆さん、朝、運動しますか。「なぜ運動するのか。そうでなくてもつらいのだから、楽に休めばよいではないか」と思うかもしれませんが、健康のために投入しない人は、だんだんと病気になって退化します。自然の道理がそうです。
(380-164、2002.6.7)

 

私のような人は運動をしました。今も、体のコンディションが良くなければ、ほぐすすべを知っています。たまに腰が痛くなれば、このようにしてほぐすのです。マッサージです。針を打つのと同じです。
このようにさっと見れば、分かります。すぐに分かるのです。訓練ができているので、どこかに支障があれば、必ずそれをほぐします。自分の体の管理をするのです。
私は健康でしょう? 今も、このようにすればぴたっと入ります。70 歳になった老人は、普通このように歩くでしょう? しかし、私はぴったりくっつくでしょう? それは、運動をしたからです。自分の体を管理しなければなりません。
(203-177、1990.6.24)

 

神様を愛する前に、皆さんが食べる食物を愛さなければなりません。万物を愛し、体を愛さなければならないのです。万物を愛することによって万物の要素を吸収し、自分の体を愛するようになるのです。
(138-99、1986.1.19)

 

天のお父様のみ手を経てつくられた純粋なこの草一株を、何よりも価値あるものとして感じられる世界になることを、私は願っています。どのような香りよりも、空気の味がもっと良いのです。私が野牧に行っても話しましたが、人が空気の味を知り、日光の味を知り、水の味を知れば、病気になることはありません。このような心情で暮らせば、誰もが健康体になるのです。
(9-177 ~178、1960.5.8)

 

健康であることを望むのなら、「ために生きる」愛を中心として、投入して忘れなさいというのです。そのように生きる人は、病もなくこの地上で、幸福で、楽しく暮らすのです。
(331-23、2000.8.23)