世界経典Ⅱ 第2部 罪と救援 第6章 悪、罪、そして人間の堕落
第2部 罪と救援
第6章 悪、罪、そして人間の堕落
1. 人間の堕落
アブラハム系統での信仰では、人間が神様と一つになっていく初期段階で堕落したと教えており、それと類似した信仰が世界の至る所で発見される。キリスト教は、人間の堕落を原罪という教理に連結させている。原罪は、アダムとエバが犯した罪として全人類に遺伝され、神様と人間の永遠の断絶を意味するのだが、それはただキリストだけが治癒することができると言う。一方、イスラームでは、アダムの罪はアダムにだけ該当するものとして、アダムは、神様に従順にすることによって、全人類と共に許された位置に戻ることができると言う。堕落によってサタンが生じたのであり、少数だけが耐えるべき試練を、すべての人間が経るようになったと言う。最後に、ユダヤ教では、このような信仰が混合されていることを発見できる。この部門で論じた章句は、アダムとエバの堕落によってこの世に呪いが生じたことを確認している。それは個人の責任を強調し、人間始祖の罪に対する私たちの責任を否定するほかの章句と均衡がとれている。
人間の堕落は、宇宙の純粋な根源と現在の苦痛に満ちた状態から現れる矛盾を物語る。次には、宗教が成立し得る論理的諸要件である。1)神様は唯一の創造者である。2)創造目的は善である。3)悪は実在し、創造目的と背馳する。このような論理は、キリスト教、イスラーム、そしてユダヤ教で主張している。仏教にはこのような創造の教理がなく、物質を根本とみなし、同時に自己実現のために克服すべき制約とみなすヒンドゥー教も、やはりこのような教理がない。それにもかかわらず、このような諸宗教は、悪の業報の根源を説明するために、恩寵から抜け出した最初の堕落に関する教理をもっている。
聖書とクルアーン(コーラン)の章句は、人間の堕落を象徴的に説明しており、多様な解釈が可能である。サタン、ルーシェル、またはイブリースなど、様々な名前で呼ばれる蛇は、たびたび不適切な性行為を暗示するものとして説明されるが、アダムとエバが神様の命令に従順にしないよう、そそのかす。文鮮明先生は、人間の堕落は不道徳な性行為だったと直接的に指摘しながら、堕落は神様の真の愛に対する人間の純粋性に害悪を及ぼしたと教える。悪の根源を性的犯罪だと説明したり、暗示したりするのは、ギリシャ神話、仏教、神道、そしてアフリカの伝統にも現れている。
①アダムとエバの犯罪
― 宗教経典 ―
主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べる必ず死んでしまう。」主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くな
い。彼に合う助ける者を造ろう。」主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見
つけることができなかった。主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ / わたしの
骨の骨 / わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう / まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。
主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。 「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は / あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で / 呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に / わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き / お前は彼のかかとを砕く。」
神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め / 彼はお前を支配する。」
神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い / 取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して / 土は茨とあざみを生えいでさせる / 野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る / 土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」
アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。
創世記 2.15 ~ 3.24(キリスト教)1
われはなんじらをつくり、それから形態を与え、それからわれは、天使たちに向かって「アダムに叩
頭せよ」と告げた。それで悪魔(イブリース)のほかはみな叩頭したが、かれは叩頭者のうちに加わらなかった。かれは仰せられた「われがなんじに命じたとき、どうして叩頭しなかったのか」と。かれは「わたしはかれよりもすぐれております」と、申し上げた。あなたは、わたしを火からおつくりになりましたが、かれをどろでつくられました」。
かれは仰せられた、 「ここから下がれ、なんじはここで高慢であるべきではない。立ち去れ、なんじはまことに卑しむべき者である」。かれは「かれらがよみがえされる日まで、わたしを猶予して下さい」と、申し上げた。かれは仰せられた「なんじは猶予される者である」。
かれは申し上げた「あなたはわたしを惑わされたから、わたしは、あなたの直き道の上で、かれらに向かってすわり込み」、「それでわたしは、かれらを前から、また後ろからも、右てからも左てからも襲いましょう。あなたはかれらの多くの者が、お慈悲に対し感謝するのをご覧にならぬでしょう」。かれは仰せられた、「恥辱をこうむり追われて、ここから出て行け。およそかれらのうちなんじらに従う者があれば、なんじらの衆で、われは地獄を満たすであろう」。アダムよ、なんじとなんじの妻は楽園に住み、随所でなんじらの好むものを食べよ、ただ不義者のたぐいとならぬために、この木に近づいてはならぬ。
その後悪魔はかれらにささやき、隠された、恥ずかしいところを、かれらにもらそうとして、「おまえたちの主が、この木に近づくことを禁じたまえるは、おまえたちを、天使または永生の者になさらないためであると言った。そしてかれは、かれら両人に誓って言った、「わしはおまえたちの心からの忠告者である」。こうしてかれは両人を欺いて堕落させ、かれらがこの木を味わうと、その恥ずかしいところが、かれらにあらわになり、園の木の葉でその身をおおい始めた。そのとき主は、かれらに呼びかけて仰せられた、「われはこの木を、なんじらに禁じたではないか、また悪魔は、なんじらの公然の敵だと、告げなかったか」。かれら両人は「主よ、わたしたちは、自らあやまちを犯しました。もしあなたのお許しと慈悲にあずかれないならば、わたしたちはきっと失敗者のたぐいになってしまいます」と、申し上げた。
かれは仰せられた「なんじらは降りて行け、なんじらは互いに他の敵であろう。なんじらには地上に住所と、一期限に対する給養があろう」。かれは仰せられた「そこでなんじらは生活し、そこでなんじらは死に、またそこから復活のために引き出されるであろう」。
アダムの子らよ、われは、恥ずかしいところをおおい、また飾るために衣装をなんじらに授けた。だが篤信の衣装、それこそ最も優れたものである。これは神のしるしである、おそらくかれらはさとされるであろう。
アダムの子らよ、悪魔がかつてなんじらの祖先に、その恥ずかしいところを知らせるため、無知の衣を奪い、楽園から追われたように、なんじらはかれに惑わされてはならぬ。悪魔およびかれの一味は、なんじらがかれらを見ない所から、なんじらを見ている。まことにわれは悪魔たちを不信心な者の保護者とした。
クルアーン 7.11~ 27(イスラーム)2
わたしがアダムのように自分の罪を隠し / 咎を胸の内に秘めていたことは、決してない。もしあるというなら……。
ヨブ記 31.33(キリスト教)3
なぜ聖書には「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(創世記 3.21)という聖句が、「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(創世記 2.25)という聖句のすぐあとに続かなかったのか。これはあなたに、邪悪な存在がアダムの内外を誘惑したことが罪だということを教えてくれる。なぜなら、 (蛇は)アダムとエバが本来的に約婚した関係であることを知ってエバに対して淫欲を抱いた。
ミドラシュ、創世記ラッバー18.6(ユダヤ教)4
蛇がエバについていって言った。「女性の霊は北の方から出てきた。ゆえに私は素早く彼女を誘惑するだろう」。そうだとすれば、どのように誘惑したのか。蛇はエバと性的関係を結んだのである。
バヒルの書199(ユダヤ教)5
そのとき、邪悪な蛇が深思、熟考したことは何だったか。蛇はこのように考えた。「私が行ってアダムを殺し、彼の妻を奪おう。そして私が世の王になろう」。
タルムード、アヴォート・デ・ラビ・ナタン(ユダヤ教)6
私たちの最初の先祖は時を待たなかった。時になる前に婚姻しようとした欲望で、神のみ意の時を待つことができずに罪を犯したのである。
アレクサンドリアのクレメンス ストロマテイス 3.14.94
(キリスト教)7
墜落の夢は、飛行の夢の場合よりもいっそうしばしば不安を伴う。女性の場合、この種の夢の解釈は簡単である。なぜなら墜落の夢は、性的誘惑への屈服を表現し変えたところの落下の象徴的利用をほとんど例外なしに採用しているからである。われわれはまだ落下夢の幼児的源泉を十分に汲みつくしてはいない。
ジークムント・フロイト 夢判断 8
― み言選集 ―
人類の堕落が木の実を取って食べた結果であり得るでしょうか。アダムとエバの堕落は神様の真の愛の理想に背いた不倫の犯罪です。守るべき戒めが必要だった堕落前のアダムとエバは、未完成段階、すなわち成長期間で堕落してしまいました。蛇で表示された天使長の誘いを受け、エバが霊的に堕落し、そのエバがアダムを誘って(時ならぬ時に善悪を知る木の実を取って食べる)肉的な堕落をしてしまったのです。
本然の園で神様と対話しながら、楽しくはしゃぎ回って暮らしていたアダムとエバが、死ぬことまでも顧みないで犯し得る可能性のある犯罪は、間違った愛の犯罪しかないのです。人類の先祖の初愛の結合は、神様自身の愛の完成でもあったので、当然、神様もアダムとエバも宇宙万象も、歴史を通して歓喜と祝福の中に酔う幸福な宴の連続でなければなりません。神様の愛と生命と血統が人間の中で出発しながら、定着する幸福な儀式でなければなりません。
ところが、彼らは下半身を覆い、木の後ろに隠れて、不安に震えました。天道に逆らう偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統の根源をつくった不倫の関係を結んだからです。堕落したアダムとエバの子孫である全人類は、子々孫々、生まれる時から原罪をもつようになりました。人類が個体の中に心と体の衝突を矛盾として感じるのも、堕落に根源があり、愛の秩序が紊乱した社会の中で、本心が願わない生を生きていくのも、すべてここに由来しているのです。
(277-200、1996.4.16)
善悪の果は果実ではあり得ません。それが何の果実だというのですか。果実を中心として、億千万世の人類が呻吟するのですか。このように破綻の場であり、争いと闘争の路程で呻吟する現象を引き起こす果実を、神様がなぜつくったのですか。これは今、レバレンド・ムーンが語った愛の内容を中心とする果実の結果だったという事実が、何よりも理論的な道に近いのです。それで、愛は、善の愛と悪の愛が生じたのです。善悪の果は、その愛の果実です。
(128-87、1983.6.5)
創世記2章 25 節を見れば、罪を犯す前、アダムとエバは、裸でいても恥ずかしく思わなかった。しかし、彼らが堕落したのちには、裸でいることを恥ずかしく思い、無花果の葉をもって下部を覆ったのである(創3・7)。もし、善悪の果というある果実があって、彼らがそれを取って食べて罪を犯したの
だとすれば、恐らく彼らは手か口を隠したはずである。なぜかといえば、人間は恥ずかしい所を隠すのがその本性だからである。しかし、彼らは、手や口を隠したのではなく、下部を隠したのである。したがって、この事実は彼らの下部が科となったために、それを恥ずかしく思ったということを表しているのである。ここから、我々は彼らが下部で罪を犯したという事実を推測することができるのである。
ヨブ記31 章 33節には、 「私がもし(アダムのごとく)人々の前に私のとがをおおい、私の悪事を胸の中に隠したことがあるなら」と記録されている。そうしてアダムは、堕落したのち、その下部を隠したのであった。この事実はとりもなおさず、アダムが覆ったその下部が科となったということを物語っている。それでは、アダムの下部がなぜ科となったのであろうか。それは、いうまでもなく、アダムがその下部で罪を犯したからである。
人間が堕落する以前の世界において、死ぬということを明確に知っていながら、しかも、それを乗り越えることのできる行動とは、いったい何であったのだろうか。それは、愛以外の何ものでもない。「生めよ、ふえよ」(創1・28)と言われた神の創造目的は、愛によってのみ完成することができるのである。したがって、神の創造目的を中心として見るとき、愛は最も貴い、そして最も聖なるものであったのである。しかし、それにもかかわらず、人間は歴史的に愛の行動を、何か卑しいもののように見なしてきたというのも、それが、堕落の原因となっているからである。ここにおいて我々は、人間もまた、淫乱によって堕落したという事実を知ることができる。
原理講論、堕落論1.3.2
被造世界は、そもそも、神の愛の主管を受けるように創造されている。したがって、愛は被造物の命の根本であり、幸福と理想の要素となるのである。それゆえに、この愛をより多く受ける存在であればあるほど、より一層美しく見えるのである。ゆえに神の僕として創造された天使が、神の子女として創造されたエバに対したとき、彼女が美しく見えたというのも当然のことであった。ましてやエバがルーシェルの誘惑に引かれてくる気配が見えたとき、ルーシェルはエバから一層強い愛の刺激を受けるようになったのである。こうなるともう矢も盾もたまらず、ルーシェルは死を覚悟してまで、より深くエバを誘惑するようになった。このようにして、愛に対する過分の欲望によって自己の位置を離れたルーシェルと、神のように目が開けることを望み、時ならぬ時に、時のものを願ったエバとが(創3・5、6)、互いに相対基準をつくり、授受作用をするようになったため、それによって非原理的な愛の力は、彼らをして不倫なる霊的性関係を結ぶに至らしめてしまったのである。
愛によって一体となれば、互いにその対象から先方の要素を受けるように創造された原理によって(創3・7)、エバはルーシェルと愛によって一体となったとき、ルーシェルの要素をそのまま受け継いだのであった。すなわち、第一に、エバはルーシェルから、創造目的に背いたということに対する良心の呵責からくる恐怖心を受けたのであり、第二には、自分が本来対すべき創造本然の夫婦としての相対者は天使ではなく、アダムだったという事実を感得することのできる新しい知恵を、ルーシェルから受けるようになったのである。当時、エバは未完成期にいたのであった。したがって、そのときの彼女自体は、既に完成期にあった天使長に比べて、知恵が成熟していなかったために、彼女は天使長からその知恵を受けるようになったのである。
原理講論、堕落論 2.2.1
エバが天使長に強奪されたとき、その心はどうだったでしょうか。良心の呵責を受け、嫌だと思いながら天使長の誘惑に引き込まれていったのです。すべての細胞が喜び、花が早春を願うように愛さなければならなかったにもかかわらず、細胞が朽ち果て、心情が朽ち果てたところで顔をゆがめて愛したのです。
(33-330、1970.8.23)
神様にとってエバは未来の夫人でした。なぜかというと、アダムは神様と一体であり、すなわち神様御自身だからです。ですから、神様は自分の夫人をサタンに侵犯されたのです。
(22-208、1969.2.4)
このとき、不倫なる貞操関係によって天使長と一体となったエバは、アダムに対して、天使長の立場に立つようになった。したがって、神が愛するアダムは、エバの目には非常に美しく見えたのである。また、今やエバは、アダムを通してしか神の前に出ることのできない立場にあったから、エバにとってアダムは、再び神の前に戻る望みを託し得る唯一の希望の対象であった。
だからこそエバは自分を誘惑した天使長と同じ立場で、アダムを誘惑したのである。アダムがルーシェルと同じ立場に立っていたエバと相対基準を造成し、授受作用をすることによって生じた非原理的な愛の力は、アダムをして、創造本然の位置より離脱せしめ、ついに彼らは肉的に不倫なる性関係を結ぶに至ったのである。
アダムは、エバと一体となることによって、エバがルーシェルから受けたすべての要素を、そのまま受け継ぐようになったのである。そのようにして、この要素はその子孫に綿々と遺伝されるようになった。エバが堕落したとしても、もしアダムが、罪を犯したエバを相手にしないで完成したなら、完成した主体が、そのまま残っているがゆえに、その対象であるエバに対する復帰摂理は、ごく容易であったはずである。しかし、アダムまで堕落してしまったので、サタンの血統を継承した人類が、今日まで生み殖えてきたのである。
原理講論、堕落論 2.2.2
②人間堕落の悲劇的結果
― 宗教経典 ―
イマナ(神)が人々と共にいたその昔、死は人々と共にいなかった。死が地に下りていこうとするたびに神が猟犬を送って追い出された。ある日、死は犬に追われて狭い空間に追い込まれ、捕まって死にそうになった。しかし、一人の女性をみつけ、自分を隠してくれれば、彼女とその家族に報いると約束した。女性は口を開け、死は素早く口の中に隠れてしまった。(注 2)神が彼女のところに来て、死を見たかと尋ねると、彼女は否定した。しかし、すべてのことをご存じの神は、何があったのかをご存じで、彼女が死をかくまってあげたため、遠からず死が彼女と子供たちを殺すだろうと言った。そのと
きから死はすべての世に広がるようになった。
フツ族の伝承(アフリカ伝統宗教)9
アダムが堕落していなければ、サタンではなく、聖霊の子を生んだだろう。しかし今、全人類の子孫は、サタンのものとして生まれたために永遠性がない。そして、一つの個体の中に、他のものの要素をもっているために、短い生しか生きることができない。しかし、アダムが堕落してエデンの園から追い
出されなければ、天の姿に似て、永遠に生きる天使たちのような聖霊の子を生んだだろう。しかし、アダムが堕落してエデンの園の外で子を生んだため、そのみ意は根を下ろすことができなかった。
ゾハール、創世記 61a(ユダヤ教)10
アダムとエバの堕落後に神は、彼らに肌をくるむ衣服を作ってくださった。創世記3章 21 節に次のように記録されている。「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」。本来、彼らは、最高の中の最高の栄光である、光の服を着ていた。天使たちもその光を見にきたりしていた。詩編の記録によれば、「神に僅かに劣るものとして人を造り / なお、栄光と威光を冠としていただかせ」(詩編8章6節)と出ている。しかし、罪を犯したのちには、霊のためのその光が消え、結局、肉身のための皮の服だけが残るようになった。
ゾハール1.36b(ユダヤ教)11
海水がおのずから凝り固まってできた島なので、これを淤能碁呂島というのである。両神はその島にお降りになって、聖なる御柱をお見立てになり、また結婚のための広い宮殿もお見立てになった。そこで伊耶那岐命は妹の伊耶那美命に尋ねて、「おまえの身体はどのようにできてきたのか」とお仰せになると、伊耶那美命は「私の身体はだんだんに成り整ってきましたが、まだ整わない所が一か所あります」とお答えになった。さらに伊耶那岐命が「私の身体はだんだんに成り整ってきたが、できすぎたところが一か所ある。だから、この私の身体の余分なところを、おまえの身体の足りないところに刺し入れふさいで、国を生もうと思う。生むことはどうだろうか」と仰せになると、伊耶那美命は「それは結構でしょう」とお答えになった。そこで伊耶那岐命は「それならば、私とおまえとこの聖なる御柱を巡り、出会って、聖なる結婚をしよう」と仰せになった。このように約束してから伊耶那岐命は「おまえは右から巡って会いなさい。私は左から巡って会おう」と仰せられて、約束し終わって御柱巡りをした時に、伊耶那美命のほうが先に「何とまあ、すばらしい男性でしょう」と唱え、そのあとで伊耶那岐命が「何とまあ、美しい娘だろう」と唱え、おのおの唱え終わったのちに、伊耶那岐命がその妹に向かって、「女が男より先に唱えたのはよろしくない」と仰せられた。そうはいいながら、聖婚の場所である八尋殿において御子を生むことを始めて、最初に生まれた子は水蛭子という不具児であった。この子は葦の船に乗せて流し捨てた。……そこで二柱の神は相談され、「今私たちが生んだ子は、不具児でよろしくない。やはり天つ神のおられる所に参上して、このことを申し上げよう」とおっしゃって、すぐに一緒に高天原に参上し、天つ神の指示を仰がれた。そして天つ神のご命令で鹿の骨を焼いて裂け目の形で神意を知るという占いをした結果、天つ神は「女が先に唱えたのがよくないのだ。再び淤能碁呂島に帰り降って、改めて唱え直しなさい」と仰せられた。そこで両神は帰り降って、また例の天の御柱を前回のように巡られた。こんどは伊耶那岐命の方から先に「何とまあ、美しい娘だろう」と唱え、そのあとで妹の伊耶那美命が「何とまあ、すばらしい男性でしょう」と唱えた。このように唱え終わって結婚され……八つの島を生んだのにちなんで日本列島を大八島国という。(注 3)
古事記 4.1~ 6.1(神道)12
ゼウスが人のゆえに怒りをもったとき、彼は、彼が考え得る最も残酷な罰を思い巡らし、女を構想した。鍛冶屋の神であるヘパイストスが頼まれ、土をこねて美しく魅力的な女をつくった。神々は、それぞれ女に自分たちが選んだ最もよい才能を贈り物として与えた。こうして彼女は、「もらったすべての贈り物」という意味のパンドラと呼ばれるようになった。
彼女が様々な贈り物で完全に美を備え、魅力をもったとき、この反逆的な宝は、伝達の神であるヘロメスによって地に下ろされ、プロメテウスの愚かな弟エピメテウスに送られた。そのときプロメテウスは彼の弟に、たとえそれが友好的に送られてきた贈り物のように見えても、ゼウスから何も受け取るなと警告した。しかし、エピメテウスはいつものように先に行動してあとで考えた。彼はヘロメスから来たその女を受け入れ、彼の家に連れていった。そして、神々が安全に保管し、決して開けるなと言いながら彼女に与えた大きな箱を彼女と共に受け入れた。(注1)
贈り物の中に、女性的好奇心という才能をもったパンドラにとって、この箱を開けないということは無理だった。しばらく我慢したのち、彼女はついに耐え切れず、その箱の蓋をはずし、その瞬間から人類の悲しみは始まった。なぜなら、それぞれの神々はその箱に彼らが与えることのできる最悪のものと、彼らが彼女に才能として付与した優れたものを貯蔵したからである。伝染病を移す昆虫と悪臭を放つ黒い雲がその箱からあふれ、出てくる邪悪なものたちはとても恐ろしいものだった。それは疾病と苦痛、憎悪と嫉妬と貪欲、心臓を凍らせ、老いをもたらすあらゆる残酷なものだった。
パンドラは、箱の蓋を再び閉じようとしたが、あまりに遅すぎた。幸福な人の子孫たちは永遠に消え去り、それと共に生が楽だった黄金時代も消え去った。そのときから人は、友好的でない土壌で自らの労働によって生きるために格闘しなければならなくなった。
ただ、その箱から一つの良いものが人に現れ、これまで残されて苦痛の中にいる人を慰労したのだが、それは希望だった。
パンドラの箱の神話(ヘレニズム)13
― み言選集 ―
堕落がどこから始まりましたか。家庭で堕落したのが何ですか。善悪の果を取って食べたのですか。家庭的に堕落し得るのは愛しかありません。善悪の果を取って食べて堕落したのでしょうか。善悪の果を取って食べて原罪が生じますか。父親が善悪の果を取って食べてことが罪だというのですが、善悪の果が何であるがゆえに千代、万代の子孫が罪人になったのでしょうか。これは血統的関係です。血統的に罪の根を植えておけば、遺伝の法則によって永遠に続くのです。そうなるのは愛の問題だけです。誤った愛が堕落の原因です。
(23-167、1969.5.18)
愛で成熟しなければならないのですが、愛によって故障したときは、神様も退くのです。そのようになれば大問題です。それで私たちが探し出したのが何ですか。愛の事故が起きた、愛の事故以外にはあり得ないということです。ですから、天が問題になり、人間が問題になり、歴史が問題になり、宇宙の
大事件として衝撃を与え得るものは愛しかなく、愛の事故だというのです。
(128-87、1983.6.5)
愛というものを知るようになるとき、すべてのものに通じます。地上世界の平面的な事実だけでなく、霊眼が開け、立体的な世界である霊界の事実までも分かるので、神様に直接会って接することのできる境地に至るようになります。ですから、愛の知覚が発達します。ところが、それを成す前に堕落してし
まいました。その堕落とは何ですか。不倫の因縁を結んだことです。
(137-129、1986.1.1)
神様が「それである!」と言うことのできる愛はどのようなものでしょうか。アダムとエバが 16、17、18 歳になれば自然に思春期になり、目が思いどおりに動くのではなく、エバは男性をまっすぐに見つめ、男性はエバをまっすぐに見つめ、「いやあ! 私が探し求めてみると、君だったのだなあ、君、君、君!」、このように言えるところに行かなければなりません。その時は思春期なので、心と体が一つになったでしょうか、なっていないでしょうか。目をのぞき込んでみると神秘的な目であり、鼻に触れてみると電気が走り、これは問題が大きいというのです。そのとき、アダムの心と体が一つになったでしょうか、なっていないでしょうか。一つになったでしょう。
男性と女性が、初めて宇宙に善を掲げて心と体が一つになるとき、花が大きく咲くのです。完全に咲き、香りがします。その香りは宇宙の香りなので、宇宙の万物が「ふーむ!」というのです。地でもどこでも、すべてその香りをかごうと、鼻が長くなり、体が伸びて大騒ぎします。神様はどうでしょうか。神様は、「ふーむ、おや! これはおかしい、おかしい!」と言います。神様も、我知らずあっという間に虜になってしまいます。ひゅーっと回って引き込まれてくるのです。自然に引き込まれます。「もう出動時代になったなあ。出掛けよう!」と言われるというのです。
男性と女性が核になったならば、神様も首にぶらさがってそこから離れられません。離れようとすれば、体だけが離れるのであって足はくっついているのです。男性も女性もくっついています。どこへも離れていけません。ここから生まれた男性と女性も、このひもをもってここで再び会えば、またくっつき、またくっつき……。こうして家庭から氏族、民族、国家、世界になるのです。男性と女性が一つになったここから子孫が生まれれば、さっとくっつきます。それで、家庭、氏族、民族、国家、世界になります。どれほど素晴らしい宇宙ですか。そのようになれば偉大な所になります。それが地上天国であり、真の世界です。
そのようなものができずに堕落したので、反対の世界となり、すべてが分かれるのです。このような原則で見るとき、故障したときは、いくら世の中に人が大勢いても、ばらばらに分かれて分立した人間像が発見されるのです。ところが、現世の世界がそのようになっている事実を否定できません。ですから堕落したというのです。堕落によってつくり出された世界だというのは、正当な結論だということを知らなければなりません。
ここからすべて分かれたので、神もなく、父母もなく、兄弟もなく、男性もなく、女性もなく、世界もない混乱状態がつくり出されたのです。これが現世だという事実が分かりましたか。ここで自分自身では絶対に一つになれません。理想がありません。人間自体では、理想を描いたところでそれは永遠に不可能です。それで今では神様を求め、ここから再び神様を……。ところが、「神はいない。神は死んだ!」と言うのです。それは何かというと、すべて終わったということです。「私たち人間は滅亡する。希望も何も、ユートピアも理想もすべて片付けてしまえ。それは人間たちがつくりあげたものだ!」このように見るのです。
(128-88 ~ 90、1983.6.5)
堕落しなかったなら、神様が縦的な愛となり、アダム・エバは神様の体になったのです。神様は骨のようなものであり、アダム・エバは肉のようなものだというのです。神様は、内的な場で内的な父母になり、アダム・エバは、外的な場で外的な父母になります。内的・外的父母が一つになったその場が
愛でつづられて内的父母に侍るようになり、外的父母をもつようになります。神様と人間が愛で結ばれることにより、真の父母、完成した人間が成就されるようになっていたというのです。愛で結ばれなければ、完成人間はいないのです。
それが本然の私たちの先祖でなければなりません。神様が創造された本然の人間です。そのような人から私たちが生まれるのです。そのような神性をもった人により、私たちが生まれなければなりません。ですから、私たちは神性を帯びた神様の性稟をもち、人性を帯びた父母の性稟ももつのです。
ですから、アダム・エバの完成は、神様の愛に結ばれてこそ完成するのであって、これが結ばれなければ駄目なのです。神様の縦的な愛と横的な肉的愛が、一点で結ばれたものが、正に私たちの先祖の血統の根です。そこが私たちの先祖の血統です。そこから全人類が生まれなければなりませんでした。堕落のために、男性の愛、女性の愛、神様の愛がみな分かれました。堕落によって、男性の愛、女性の愛、神様の愛が結ばれませんでした。堕落しなかったなら、男性と女性は自動的に愛で結ばれます。なぜ男性と女性が一つになろうとするのですか。愛のためです。愛で一つになったのちに、何をしようというのですか。神様の祝福を受けようとするのです。それが目的です。
(184-71、1988.11.13)
③性的愛の堕落
― 宗教経典 ―
比丘たちよ、これを知らなければならない。 (最後の宇宙の周期を締めくくる)大洪水が退いていき、再び大地がその姿を現し始めた。そのとき、大地の表面に神々の食物よりもっとかぐわしいにおいのする薄い膜があった。その薄い膜の味はどのようなものだったか。それはまるで口の中に溶け込むぶどう酒の味と似ていた。そのとき、極光浄天の神々が互いに言った。 「閻浮提に今、再び大地が現れ始めたが、我々が行って、それがどのようなものなのか見てこよう」。こうして若い神々は世に下り
ていき、大地の表面にできた薄い膜を見た。彼らはそれを指につけて味わった。ある神々はこのようなことを何度も行い、この薄い膜をたくさん食べたが、彼らは即座に彼らの権能と光彩を失ってしまった。彼らの体は重くなり、彼らの本質はまた骨と肉に変わり、ついに彼らは力を失い、これ以上飛んで
いることができなくなった。しかし、その薄い膜を全く食べなかった神々がいたが、彼らはまだ空中を自由自在に飛び回ることができた。力を失って飛ぶことができない神々が、どうしてよいか分からず、互いに泣き喚いて叫んだ。「我々は今、苦しい境遇に置かれるようになった。力を失い、この大地の
上にとどまるしかすべがない。我々は飛ぶことができないため、天界に再び戻ることはできない」。こうして彼らは大地にとどまり、大地を覆っていたその薄い膜を食べて生き、互いの美しさを注視するようになった。彼らの中で、最も情熱的だった者たちは女性になり、彼ら神々と女神たちは、互いに自分たちの欲望と快楽を満たした。比丘たちよ、このように世の中が最初に始まるとき、すべての世に貪欲な愛が等しく広がるようになった。それは実に長い時間がたち、また持続するものである。そして、女が世に現れたのもまた実に長い時間がたち、彼らだけのことではないことを知らなければならない。天界に再び上がっていくことができた神々が見下ろし、若い神々が堕落したことを知り、世に下りてきて彼らに言った。「あなたたちは、どうしてこのような堕落の行いを好んでするのか」。地上の神々は自ら考えた。「我々は、他の者たちに見えず、互いに一緒にいることができる方法を見つけなければならない」。こうして彼らは、自分たちを隠す家を造るようになった。比丘たちよ、このようにして初めて家ができるようになったのである。
(今、人々が)夫と妻たちのこのことを見て、そのような夫婦を憎悪し、軽蔑し、左手で彼らを捕まえ、右手で押し、彼らを追い出してしまった。しかし、いつも彼らは二カ月、あるいは三カ月たつと、再び戻ってきた。そのため人々は、彼らを拳でたたいたり、罵倒を浴びせたり、地にたたきつけたりもし、棍棒や石でたたき、土をかぶせたりもした。「行ってお前たちの体を隠せ! 行ってお前たちの体をしっかりと隠せ!」。これが今日、若い女たちが婚姻するとき、花や金、銀、または布の切れ端や米で清められ、人々が新婦に花や金、銀などを投げ、「新婦よ、和平と幸福があなたと共にあることを!」と叫ぶ理由である。比丘たちよ、昔は、悪行とは正にこのようなことを意味した。しかし、今日ではこのようなことが善とみなされることは、また驚くべきことではな
いか?
増一阿含経 34、起世経(注 4)(仏教)14
このような欲望によって成し遂げられる行為そのものは、いずれのばあいにも人目を避けるのである。すなわち、さまざまの淫蕩においては、人間の罰則をひそかに避けるために隠れ場が求められ、また、この世の国が許して、売春婦を利用しておこなわれる恥辱においても、その国のいかなる法も罰しないようなことがいとなまれるのではあるが、それにもかかわらず、公認されて罪とはならないその欲望は衆目環視を避け、自然な羞恥心は秘密のために売春宿さえも配慮するのである。
ある「ローマの弁論術の最大の巨匠」も、すべて正しくなされた行為は光のなかに立てられることをのぞむ、といっており、これはすなわち、その行為が知られることを求めるということなのであるから、そのように、正しくなされたこの行為も、知られることを求めるのであるが、しかもなお恥ずかしく思うのである。……たしかに、そのための行為が果たされるために花嫁たちはひじょうな祝いの儀式をももって娶られるのであるが、その行為がいとなまれるとき、そのような行為の結果としてすでに生まれている子供たちがその目撃者となることはゆるされないのである。このように、正当におこなわれたこの行為は、それが認知されるために人びとの精神の光を求めながら、それにもかかわらず、人びとの目の光を避けるのである。その理由は、その行為自体としては自然に適ったところのことをおこなっているのであるが、それに伴う恥辱の感情は罰の結果として生じたものであるというのでなければなんであろうか。
現在の状態においては、これらのものは、いま述べたように駆りたてられたのであって、節度をもって正しく敬虔に生きる者たちにより、ときには比較的容易に、ときにはかなりの苦労を伴って、抑制され抵抗されたりしながら適応せしめられているのであるが、しかし、それはけっして自然本性から与えられた健康な状態ではなく、罪責からきた無力の状態なのである。
したがって、楽園のうちに立てられた最初の人間たちが、この欲望―かれがそれによって恥ずかしく思い、身体のあの部分を隠したところの欲情―をとおして、「生めよ、ふえよ、地にみたせ」とお告げになった神のあの祝福が意味するところのことを成就したのだと信じるようなことがあってはならない。じっさい、この欲情が目ざめたのは罪ののちであったからである。それ自身恥ずべきものではない自然本性は、身体がそのすべての部分から仕えていた主権を、罪ののち喪失してしまうことによって、欲情を感じ、意識し、恥じて隠したのであった。
しかし、夫婦の数がふえて地をみたすべきであるという結婚についてのあの祝福は、罪を犯した者たちにも残っていたのではあるが、すくなくともそれはかれらが罪を犯す以前に与えられていたわけであるから、子供を生むということ自体は、結婚の栄光に属するものなのであって罪にたいする罰に属するものではないということが知られるのである。
したがって、もしも罪が存在しなかったら、あの結婚は楽園のしあわせにふさわしいものとなって、愛されるべき子孫を生み、しかも恥じられるべき欲情をもつこともなかったはずである。ただし、現在わたしたちは、このことがいかにしておこりうるのかを示してくれる例証をもっていないのである。しかし、だからといって、あの一つの器官がこのような欲情を伴うことなく意志に服従することができたとは信じられぬことであると見なければならぬわけではないのである。なぜなら、現在、かくも多くの身体的諸部分が意志に服従しているのだからである。
アウグスティヌス 神の国14.18~23(キリスト教)15
― み言選集 ―
人間が堕落する時、愛のために堕落したので、この性器が最も怖いのです。宗教では、姦淫することを最も恐ろしい罪として取り扱っています。ですから、アメリカのフリーセックスは悪魔の地獄膨脹主義ですか、天国膨脹主義ですか。地獄です。地上地獄であり、天上地獄です。これはすべて滅亡するのです。
(261304、1994.7.24)
神様の愛は、どのように連結されるのでしょうか。上から来る愛は最も近い距離、真の愛が行く道は、すべて直短距離を通るのです。このように考えてみるとき、縦的な愛、上から下に来る愛は、直短距離で統一されるとき、90 度の角度にならざるを得ないことを知らなければなりません。直短距離にならなければなりません。縦的な神様と直短距離が成立すれば、そこに対して人間の真の愛も直短距離で通じるので、それを中心としてみるとき、横的な男性と女性も必ず水平となり、垂直に、90 度に合わせるとき、それが愛の決着点であり、90 度を中心とする定着地だというのです。それを知りませんでした。堕落とは何かというと、この角度がずれたことです。
(218-219、1991.7.29)
我々は次のような事実から、人間の罪の根が淫乱にあったということを、より一層明確に知ることができるのである。罪の根が血縁関係によってつくられたので、この原罪は、子々孫々に遺伝されてきた。そして、罪を取り除こうとする宗教は、みな姦淫を最大の罪として定め、これを防ぐために、禁欲生活を強調してきたのであるが、これも罪の根が淫乱にあるということを意味するものである。また、イスラエル民族が神の選民となるため、 贖罪の条件として割礼を行ったというのも、罪の根が淫乱によって悪の血を受けたところにあったために、堕落人間の体からその悪の血を抜きとることを条件として、聖別するためであった。
数多くの英雄烈士、数多くの国家が滅亡した主要な原因が、この淫乱にあったということも、淫行という罪の根が、絶えず人間の心の中から、我知らず発動してきたためである。我々は宗教によって人倫道徳を立て、また諸般の教育を徹底的に実施して、犯罪を生みだす経済社会制度を改善することにより、他のすべての罪悪は、この社会から一掃することができるかもしれない。しかし、文明の発達と、安逸な生活環境に従い、増大しつつある淫乱による犯罪だけは、誰によっても、またいかなるものによっても、防ぐことができないというのが現在の実情である。したがって、人間社会から、この犯罪を根こそぎ取り除くことができない限り、決して理想世界を期待することはできないのである。ゆえに、再臨なさるメシヤは、この問題を根本的に解決し得るお方でなければならない。このように、これらの事実は、罪の根があくまでも淫行にあるということを如実に物語っているのである。
原理講論、堕落論1.5
2. カインとアベル
歴史上最初の殺人は、人間の堕落のすぐあとに続いて起きた。兄弟間の葛藤は、父母に由来した状況だということができる。カインとアベルの話は、避けられない人間の不平等問題を提起する。その話は、人間が財産、才能、愛、幸運、そしてこのケースのように祝福の差をどのように克服しなければならないかに対する問いを投げ掛ける。
聖書は、アベルを正義の人とみなす。クルアーン(コーラン)は、アベルを、兄カインと争わないために武器をもつことを拒否する平和の人として描写する。したがって、二種類の人に対する伝承が出てくる。アベル型の人間は、善良で信じるに足る反面、カイン型の人間は、粗暴で、無神論的で、暴力的である。しかし、文鮮明先生は、根本的にカインとアベルは兄弟だと教える。さらに、彼らは二人とも過ちを犯した。選ばれた者のアベルの 驕慢がカインの憎悪を呼び起こし、カインの憎悪は罪悪の歴史を招来した。文鮮明先生は、神様がアベルの祭物だけを受けられたのは、カインに対する軽蔑を表現するものではなく、復帰の過程を促進しようとするものだったと教える。カインとアベルは、カインがアベルに屈服することによって、アダムが天使長に間違って主管された父母の過ちを復帰することができた。この復帰摂理が成功していれば、殺人はなかったのであり、神様がカインの祭物も受けていたのである。
不平等は不可避である。どちらかを選択しなければならないとき、私たちはどのように処理するだろうか。カインは選択の余地があった。暴力を使うことも、謙遜に弟の助けを求めることもできた。アベルもやはり選択の余地があった。選ばれた者の地位を誇ることも、選ばれなかった兄に哀れみをもち、彼を慰労し、励ますこともできた。このようなカインとアベルの状況から、どちらを選択するのかによって戦争と平和が決定され得るのである。
― 宗教経典 ―
アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。創世記 4.2 ~16(キリスト教)16アダムの二子の物語の真実をかれらに語れ。かれら両人が犠牲をささげたとき、ひとりは受け入れられなかった、それで「わしはきっとおまえを殺すであろう」と言った。かれは答えて言った「神は、ただ主を畏れる者からのみ、受け入れたもう」。「たとえあなたが、わたしを殺すためにその手を伸べても、わたしはあなたを殺すために、手を伸べないであろう。わたしはよろず世の主、神を恐れまつる」。「まことにわたしは、あなたがわたしの先に犯した罪と、あなたの殺人の罪とを負って、火獄のともがらになることを望む、これは不義を行なった者の応報である」。しかしかれの利己的な心は、その兄弟を殺すのを望ましいことにし、ついにかれを殺害して、失敗者のひとりとなった。そのとき神は、一羽の大カラスをつかわして地を掘らせたまい、その兄弟の死体をいかにおおうべきかをかれに示したもうた。かれは言った「ああ情けない、兄弟の死体を葬るのに、わしはこのカラスほどのことさえできないのか」と。こうしてかれは後悔するひとりとなった。
クルアーン 5.27 ~ 31(イスラーム)17
信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。
ヘブライ人への手紙11.4(キリスト教)18
アダムとエバが子女を生んだとき、その最初の実は蛇の息子だった。エバが二人と関係したために、どちらからも妊娠し、二人の子女を生んだ。二人の息子は、どちらもそれぞれの父から生まれたために、彼らの霊は分かれた。一人の子はこちらに、もう一人は反対側に。性稟もやはり反対だった。カインの側には常に悪の部類が共にあり、アベルの側には慈悲深い者たちが多かったが、すべてが義なる者たちではなかった。良いぶどう酒と悪いぶどう酒が混ざっているのと同じだった。ゆえに、三人目が出てきたのちに、初めて完全な人類が出てきたのである。三人目は、すべての義人たちの最初の先祖になった。
カインはアベルと敵対し、彼を殺した。これは、カインが世に死をもたらすサマエルの天性を相続したからである。カインは、女性問題でアベルをねたんだ。創世記4章8節に、「二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した」と出ている。ここで「二人」とは女性を象徴する。本文によれば、カインが自分の祭物が受け入れられずに怒ったとあるが、これは副次的な理由だった。(注 5) ゾハール1.36b(ユダヤ教)19
― み言選集 ―
アダム家庭で始まったカインとアベルの闘争歴史は、人類歴史をそのまま戦争と葛藤の歴史にしてしまいました。小さくは人間個々人の心と体の葛藤から、大きくは国家と国家が、さらには全世界が物本主義と神本主義に分かれ、対立、闘争をしてきました。
平和神経、平和メッセージ 1.20、2005.9.12
本来人間は、神様の主管のみを受けるようになっています。神様のみが人間の主人でなければなりません。ところが、人間とサタンとが不倫なる関係を結ぶことにより、人間に対してサタンが不倫なる主人となってしまったのです。愛は統制力、支配力を伴うと原理が語っているように、たとえそれが不倫の愛であっても、サタンは、人間に対してその所有権を主張するだけの力、あるいは権威や権利をもつのです。
ところが、創造原理によれば、あくまでも神様が本来の主人ですから、結局、この両者は共に人間に対して、その所有を主張することができることになります。しかし、だからといってアダムを二つに切断して、神様とサタンの間で分け合うことは、物理的に不可能です。そこで神様は、原理的観点か
ら、人間を二つに分立するために、あるルールを定められたのです。すなわち内的存在としての神様と、外的存在としての被造物という立場から、内外の関係と、主体、対象の関係によって、神様はその分立のルールを定められました。すなわち神様は、堕落したアダムとエバを、彼らによって生まれた二
人の子供を通して、分立されたのです。カインはサタンを表示する側であり、アベルは罪なきアダムの立場を表示する側です。次男(アベル)を神様は、内的立場に立たせたのであり、これは、悪の要素のより少ない側、言い換えるならば、アダムとエバの間に結ばれた第2の愛を表示しているのです。アベ
ルは、第2の愛の実ですが、一方のカインは、第 1 の愛の実であって、その愛の中にあるサタンを表示しているのです。つまり、次男アベルのほうが、エバと天使長との関係よりも、エバとアダムとの関係により近いので神様の側に取られたわけです。
さて、本来の命令系統は、神様から始まり、アダムへ、アダムから天使長へという順序だったので、この場合には、その関係は神様からアベルへ、アベルからカインへという順序にならなければなりません。これが復帰された位置関係なのです。そこで神様は、まず、この公式を復帰することにより、失われた原理を取り戻していくのです。堕落行為によって、人類の血統は交差しました。言い換えれば、サタンの血が人類の血統を占領しているのです。それゆえに、これらの復帰は、根源までさかのぼって成されなければならず、そのために、次男アベルが長男の長子権を復帰しなければならなかったのです。神様はこれらの二人の兄弟を用いることによって、長男の長子権を復帰する摂理を行おうとされたのです。すなわち、カインはアベルの位置に下りなければならず、アベルはカインの位置、すなわち長男の位置に上がらなければならなかったのです。ところが、カインはアベルを殺害してしまいました。この行為は、アダムとエバの時の堕落行為の反復です。すなわち、復帰されるどころか、再び天使がアダムを主管した立場に立ってしまったのです。
(55-109 ~110、1972.4.1)
アダムはサタンと血縁関係を結んだので、神とも対応でき、また、サタンとも対応することができる中間位置におかれるようになった。したがって、このような中間位置におかれた堕落人間を天の側に分立して、「メシヤのための基台」を造成するためには、堕落人間自身が何らかの蕩減条件を立てなければならない。……神はこのような非原理的な摂理をなさることはできないので、善悪二つの性品の母体となったアダムを、善性品的な存在と悪性品的な存在との二つに分立する摂理をなさらなければならなかったのである。このような目的のために、神はアダムの二人の子を、各々善悪二つの表示体として分立されたのち、彼らに、神かサタンかのどちらか一方だけが各々対応することのできる、すなわち、一人の主人とのみ相対する、原理的な立場に立ててから、各自供え物をささげるように仕向けられたのである。……
カインとアベルは、どちらもエバの不倫の愛の実である。したがって、エバを中心として結んだ二つの型の不倫な愛の行為を条件として、それぞれの立場を二個体に分けもたすべくカインとアベルを、各々異なる二つの表示的立場に立てるよりほかに摂理のしようがなかったのである。すなわち、カインは愛の初めの実であるので、その最初のつまずきであった天使長との愛による堕落行為を表徴する悪の表示体として、サタンと相対する立場に立てられたのであり、アベルは愛の二番目の実であるがゆえに、その二番目の過ちであったアダムとの愛による堕落行為を表徴する善の表示体として、神と対応することができる立場に立てられたのである。
神が創造された原理の世界を、サタンが先に占有したので、神に先立って、サタンが先に非原理的な立場からその原理型の世界をつくっていくようになった。そうして、元来、神は長子を立てて、長子にその嗣業を継承させようとなさった原理的な基準があるので、サタンも、二番目のものよりも、最初のものに対する未練が一層大きかった。また事実サタンは、そのとき、既に被造世界を占有する立場にあったので、未練の一層大きかった長子カインを先に取ろうとした。したがって、神はサタンが未練をもって対応するカインよりも、アベルと対応することを選び給うたのである。……
そうして、神はアベルの供え物は受けられ、カインの供え物は受けられなかったが、その理由はどこにあったのだろうか。アベルは神が取ることのできる相対的な立場で、信仰によって神のみ意にかなうように供え物をささげたから(ヘブル11・4)、神はそれを受けられた(創4・4)。このようにして、アダムの家庭が立てるべき「信仰基台」がつくられるようになったのである。これは、たとえ堕落人間であっても、神が取ることのできる何らかの条件さえ成立すれば、神はそれを受け入れられるということを教示なさるためでもあった。そして、神がカインの供え物を受けられなかったのは、カインが憎いからではなかったのである。ただ、カインはサタンが取ることのできる相対的な立場に立てられていたので、神がその供え物を取ることができるような何らかの条件をカイン自身が立てない限りは、神はそれを取ることができなかったからである。神はこれによって、サタンと相対する立場にいる人間が、神の側に復帰するには、必ずその人自身が何らかの蕩減条件を立てなければならないことを教示されたのである。……
天使長が、神にもっと近かったアダムを仲保に立て、彼を通じて神の愛を受けようとはせず、かえってアダムの位置を奪おうとして堕落してしまったので、「自己の位置を離れる堕落性」が生じた。ゆえに、この堕落性を脱ぐためには、天使長の立場にいるカインがアダムの立場にいるアベルを仲保として、彼を通じて神の愛を受ける立場をとることにより、自分の位置を守るべきであったのである。
天使長は自分を主管すべくつくられた人間、すなわちエバとアダムを逆に主管して堕落したので、「主管性を転倒する堕落性」が生じた。したがって、人間がこの堕落性を脱ぐためには、天使長の立場にいるカインがアダムの立場にいるアベルに従順に屈伏して、彼の主管を受ける立場に立つことによって、主管性を正しく立てるべきであったのである。
善悪の果を取って食べるなという善のみ言を、神はアダムに伝え、アダムはこれをエバに伝え、エバは天使長に伝えて、善を繁殖すべきであった。しかし、これとは反対に、天使長は取って食べてもよいという不義の言葉をエバに伝え、エバはそれをアダムに伝えて堕落したので、「罪を繁殖する堕落性」が生じた。ゆえに、この堕落性を脱ぐためには、天使長の立場にいるカインが、自分よりも神の前に近く立っているアベルの相対となる立場をとり、アベルから善のみ言を伝え受けて、善を繁殖する立場に立つべきであったのである。……人間が常に立派な指導者や親友を探し求めようとするのは、結果的に見るならば、より天の側に近いアベル型の存在を求めて彼と一体化し、天の側に近く立とうとする天心から起こる行為である。
また、謙遜と柔和が、キリスト教信仰の綱領となっているのは、日常生活の中で、自分も知らずにアベル型の人物に会って、彼を通じて天の前に立つことができる位置を確保するためである。個人から家庭、社会、民族、国家、世界に至るまで、そこには必ず、カインとアベルの二つの型の存在がある。それゆえに、このようなすべてのものを、創造本然の立場に復帰するためには、必ずカイン型の存在がアベル型の存在に従順に屈伏しなければならないのである。イエスは、全人類がその前に従順に屈伏しなければならないアベル的な存在として、この世に来られたお方である。したがって、彼によらなくては、天国に入る者がないのである(ヨハネ14・6)。しかし、カインがアベルを殺害することによって、天使長が人間を堕落せしめた堕落性本性を反復するようになり、アダムの家庭が立てるべきであった「実体基台」は立てられなかった。したがって、アダムの家庭を中心とする復帰摂理は成し遂げられなかったのである。
原理講論、復帰基台摂理時代1-1~ 2
カインとアベルが祭物を捧げたのち、アベルの祭物だけを神様が受けられたことを知ったカインが、アベルを憎み、殺害してしまいましたが、ここには、カインとアベルが祭物を捧げるために準備するときから、カインにアベルを憎む心があったことを、皆さんは知らなければなりません。カインが、神様
が自分の祭物を受けないので、瞬間的にアベルに対する憎しみが生じて彼を殺害したのではなく、そのことにぶつかる前から、アベルが憎くて葬り去りたいという思いがカインにあったというのです。
(3-205、1957.11.1)
皆さんは、カインとアベルが一緒に神様に祭物を捧げたとき、アベルの祭物を受けられた神様の立場と、カインの祭物を受けられなかった神様の立場が、互いに異なるものだと思っていますが、そうではなかったことを知らなければなりません。カインに、天の立場を身代わりしていたアベルを通そうという心が少しでもあったならば、神様は、そのカインの祭物を受けられたでしょう。神様は、時間的な差はあったとしても、公平な立場で彼らに接しようとされたのです。
(3-205、1957.11.1)
カインとアベルが祭祀を分かれて捧げたのですが、アベルの祭祀を受けたことに対して、カインが私も神様に紹介してくださいと、完全に絶対信仰、絶対愛、絶対服従する心で一つになってこそ、受け入れられるようになっているのです。
(378-206 ~ 207、2002.5.12)
神様がアベルを立てられた理由は、カインを救援するところにあります。ですから、神様から受けた愛をカインに丸ごと与えると同時に、自分の愛までも加えて与えなければなりません。これが本来のアベルの立場です。
(18-277、1967.6.12)
アダム家庭において、実体基台を勝利するためにカインとアベルが一つにならなければならないという摂理をされる時、神様がアベルの祭物だけを受けるようになったのですが、これに対してアベルが 驕
慢な心をもつようになったので、サタンがそれを讒訴してカインに血気を起こすようにさせ、理性を失うようにして、弟のアベルを殺害するように役事しました。
(374-12 ~13、2002.4.4)
人間は堕落によって、心と体が統一調和の基準を失ってしまい、葛藤しながら自己矛盾の中で生きてきました。それだけでなく、個人の中で生じる心と体の葛藤と闘争は、家庭、社会、国家と世界に拡大されてきました。兄のカインが弟のアベルを殺害する犯罪も、ここに由来しています。歴史始まって以来、この地球上で起こったあらゆる対決と戦争は、本質的に、より悪なるカイン側とより善なるアベル側との間の戦いでした。
(299105、1999.2.6)
カインとアベルが一つにならずに分かれてはいけません。一方は正しいほうであり、一方は悪いほうです。ですから誰でも私の神様であると同時に、あなたの神様であり、私を愛するだけでなく、あなたを愛する神様であるという信仰の立場で、お互いにアベル的な存在を求めて侍り、カイン的な立場を避けて最大の努力をしなければいけません。
(3-207 ~ 208、1957.11.1)
アダム家庭でカインがアベルを殺害するのを見つめるとき、神様がどれほど痛哭されたでしょうか。それが世界的に起きるのですが、どうするのですか。本来は、兄が弟を父の代わりに愛さなければならないのに、これはどういうことかというのです。
(406-26、2003.3.2)
アダム家庭でカインがアベルを殺害するとき、神様の心はどうだったでしょうか。「しまった、大変なことになった! そのことがなければどれほどよかったか!」と思われたのです。アダムとエバもどれほどあぜんとしたでしょうか。願っているものがなくなったのです。そのような神様が終わりの日に、兄弟、兄と弟が争うこの局面で、一方は天国に、一方は地獄に行くにおいて、刑場に出て死ぬことを願う神様ではなかったのです。息子、娘が刑場に出て死刑を受けることを願う父母はいません。自分たちが責任をとることができるのであれば、何でもするという心を抱かれた神様です。
(29563、1998.8.17)
3. 悪魔とその活動
すべての宗教の経典は、悪魔の存在とその勢力に対して言及している。悪魔の頭は様々な名前で知られている。サタン、ルーシェル、イブリース、マラ、サマエル、ベルゼブル、アングラマイニュなどがそれである。その中の一部は、人間の堕落と悪の根源で言及した。悪魔は、人間の心が邪悪なことをするよう引っ張るなど、絶えず活動している。理性論者たちは悪魔の実在を受け入れ難いかもしれないが、20 世紀の歴史とそれによる恐怖を見てみれば、互いに悪の影響を及ぼす人間の能力は理性を超える。教皇パウロ 6 世は、悪魔に対して次のように語った。
「私たちは、暗く不安にさせる霊が実在することと、それがいまだ狡猾に背信的な活動をしていることを知っている。それは、それが人類歴史に過ち、不幸をもたらす見えない敵であり、私たちの中で、感覚、想像力、情欲、ユートピア的論理、あるいは人生の過程で交わす無秩序な社会的接触を通して活動している」。 (注 6)悪魔のわなは多様だ。経典の教えによれば、一人が小さな悪を行おうとする欲望をもったとき、悪魔は彼に対して訴えかけ、彼がもっと大きな過ちを犯すよう影響を及ぼすことができる。逆に言えば、宗教の道に入った人は、特に信仰で大きな進展をなそうとするとき、悪魔の誘惑を経験する。
一部の宗教 ―主にゾロアスター教―で、神様と悪魔は永遠の敵だが、悪魔の力を認める信仰が二元論を意味するのではない。神様の創造の善を教える一神教は、悪魔は結果的存在であり、神様の僕という本来の位置から離れて神様の怨讐となった天使だと教える。文鮮明先生は、天使ルーシェルの堕落は人間の堕落とともに成されたのであり、その時、ルーシェルは人間に対する主管を主張する強力な悪魔であるサタンになったと教える。
次の章句は、悪魔の性格と様々な誘惑、そして、人間を捕らえるために、ルーシェルが使った戦略に対して説明している。サタンを克服する鍵は、利己心、驕慢、貪欲、官能的快楽の追求など、サタンのあらゆる性向を私たち自身が浄化することであり、神様と永遠性を主軸とした人生を営むことである。
①天使の堕落
― 宗教経典 ―
この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。
ヨハネの黙示録12.9(キリスト教)20
ああ、お前は天から落ちた / 明けの明星、曙の子よ。
お前は地に投げ落とされた / もろもろの国を倒した者よ。
かつて、お前は心に思った。
「わたしは天に上り / 王座を神の星よりも高く据え / 神々の集う北の果ての山に座し / 雲の頂に登って / いと高き者のようになろう」と。
しかし、お前は陰府に落とされた /墓穴の底に。
イザヤ書14.12 ~ 15(キリスト教)21
われが天使たちに「アダムに叩頭せよ」と、告げたときを思え、そのときイブリースのほかは叩頭した。かれは、「わたしはあなたが、どろでつくられた者に、どうして叩頭しましょう」と言った。かれはまた「あなたはお考えになりませんか、あなたがわたしよりも重視したもうのは、この者であります。もし復活の日まで、わたしに猶予を賜わるなら、わずかの者を除き、かれの子孫をきっとわたしの配下にいたしましょう」と言った。かれは仰せられた「去れ、もしかれらのうち、なんじに従う者あれば、まことに地獄こそ、なんじらへの応報、十分な応報である」。「なんじの魅惑的な声で、かれらのうちの能うかぎりの者を動揺させ、なんじの騎兵や歩兵でかれらを攻撃せよ、財宝と子女をかれらと分けて、約束を結べ。しかし悪魔の約束は、ただ欺くにすぎない」。
クルアーン 17.61~ 64(イスラーム)22
主なる神であるわたしは、モーセに語って言った。「あなたがわたしの独り子の名によって命じたあのサタンは、初めからいた者である。彼はわたしの前に来て言った。『御覧ください。わたしがここにいます。わたしをお遣わしください。わたしはあなたの子となりましょう。そして、わたしは全人類を
贖って、一人も失われないようにしましょう。必ずわたしはそうします。ですから、わたしにあなたの誉れを与えてください。』
しかし見よ、初めからわたしが愛し選んだ者であるわたしの愛する子は、
わたしに、『父よ、あなたの御心が行われ、栄光はとこしえにあなたのものでありますように』と言った。
あのサタンはわたしに背いて、主なる神であるわたしが与えた、人の選択の自由を損なおうとしたので、またわたしの力を自分に与えるように求めたので、わたしは独り子の力によって彼を投げ落とさせた。
そして、彼はサタン、すなわち、あらゆる偽りの父である悪魔となって、人々を欺き、惑わし、またまことに、わたしの声を聴こうとしないすべての者を自分の意のままにとりこにする者となっ
た。……」 (注 7)
高価なる真珠、モーセ書 4.1 ~ 4
(末日聖徒イエス・キリスト教会)23
一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。
ユダの手紙 6 ~ 7(キリスト教)24
― み言選集 ―
神様は主人であり、私たち人間はその方の息子、娘です。天使は主人の僕になり、その息子、娘の僕にもなります。天使の中でも、神様に最も近くアダムとエバと一番近い存在として、彼らの事情を知ることができる存在は天使長でした。神様は、この世の中を創造する過程で、アダムとエバを創造する前
には天使長と相談しながら、使いをさせながら創造の偉業を成してきました。したがって、天使長とは何と同じかというと、お金持ちの家の僕と同じです。ですから、その主人の息子、娘、分別のない息子、娘に対しても僕の立場だということを知らなければなりません。
(53-331、1972.3.6)
神は天使世界を創造されてから(創1・26)、ルーシェル(明けの明星という意、イザヤ 14・12)に天使長の位を与えられた。それゆえに、あたかもアブラハムがイスラエルの祝福の基となったように、ルーシェルは天使世界の愛の基となり、神の愛を独占するかのような位置にいたのであった。しかし、神がその子女として人間を創造されたのちは、僕として創造されたルーシェルよりも、彼らをより一層愛されたのである。事実上、ルーシェルは、人間が創造される以前においても、以後においても、少しも変わりのない愛を神から受けていたのであるが、神が自分よりもアダムとエバをより一層愛されるの
を見たとき、愛に対する一種の減少感を感ずるようになったのである。これは、ちょうど、朝から働いた労働者が、自分が働いただけに相当する労賃を全部受けとったにもかかわらず、遅く来て少し働いた労働者も自分と同じ労賃を受けとるのを見て、自分が受けた労賃に対する減少感を感じたという聖書
の例え話(マタイ20・1~15)と同じ立場であったということができる。このような立場で愛の減少感を感ずるようになったルーシェルは、自分が天使世界において占めていた愛の位置と同一の位置を、人間世界に対してもそのまま保ちたいというところから、エバを誘惑するようになったのである。これがすなわち、霊的堕落の動機であった。
原理講論、堕落論 2.2.1
創世記3章 14 節を見れば、神は堕落した天使を呪い給い、 「おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう」と言われた。足で歩くことができず腹で這うということは、天使が創造本然の活動をすることができず、悲惨な状態になるということを意味するのであり、ちりを食うということは、
天より追いだされることによって(イザヤ14・12、黙 12・9)、神からの命の要素を受けることができず、罪悪の世界に陥って、悪の要素を受けながら生きていくということを意味するのである。
原理講論、堕落論1.4
②悪魔の行跡
― 宗教経典 ―
わたしは、悪魔たちが下るのが、たれの上であるかおまえたちに告げようか。
かれらは、あらゆる中傷者と罪のある者の上に下る、
(悪魔の語に)耳を貸す者、かれらの多くは虚言者である。
クルアーン 26.221~ 223(イスラーム)25
世の中の何ものに執著しても、それによって悪魔が人につきまとうに至る。 (注8)
スッタニパータ 1103(仏教)26
汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる。汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑であり、汝の第八の軍隊はみせかけと強情とである。誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、
また自己をほめたたえて他人を軽蔑することである。ナムチよ、これらは汝の軍勢である。黒き魔(kanha)の攻撃軍である。勇者でなければ、かれにうち勝つことができない。 (勇者は)うち勝って楽しみを得る。
スッタニパータ 436 ~ 439(仏教)27
わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
エフェソの信徒への手紙 6.12(キリスト教)28
「邪師は聖歌を破壊する―彼は邪説をもって生の意思を破壊する。彼こそは資産を阻むもの―ウォフ・マナフのくだす吉祥なる授かり分を阻むもの。」わたくしの心中のこのことばを、マズダーよ、アシャと御身たちに、わたくしは訴える次第です。
アヴェスター・ヤスナ 32.9(ゾロアスター教)29
なんじ以前にわれがつかわした使者や予言者は、かれが望みをもったとき、悪魔がその望みにむなしい示唆をしないことはなかった。だが神は、悪魔の示唆したものを消したまい、やがて神は、しるしを確証したもうた。まことに神は、全知者・英明者であられる。これはかれが悪魔に示唆させて、心に病のある者、ならびに心のかたくなな者に対する、一つの試みとされるためである。
クルアーン 22.52 ~ 53(イスラーム)30
神の使徒が言った。「あなたたちの中で、精霊(悪鬼)がつきまとわない者は誰もいない」。これに信徒の仲間たちが尋ねた。「あなたも同じですか」。使徒が答えた。「そうだ。しかし、神が精霊に対抗して私を保護してくださるため、私は精霊の手から安全だ」。
ムスリム・ハディース(イスラーム)31
罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さな
い者も同様です。
ヨハネの手紙一 3.8 ~10(キリスト教)32
(イエスは言われた。) 「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。」
ヨハネによる福音書 8.43 ~ 45(キリスト教)33
憂いの国に行かんとするものはわれを潜れ。
永劫の呵責に遭わんとするものは
われをくぐれ。
破滅の人に伍せんとするものは
われをくぐれ。
正義は高き主を動かし、
ただ無窮あり、われは無窮に続くものなり、
われを過ぎんするものは
一切の望を捨てよ。
ダンテ・アリギエーリ 神曲1.3(キリスト教)34
― み言選集 ―
堕落とは何でしょうか。サタンに支配されたことです。それゆえ、今日アダムとエバを中心として生まれたすべての子孫は、サタンの支配圏から逃れることができないまま、歴史が発展してきたのです。
(168-300、1987.10.1)
悪魔は「私のために生きろ」と言います。歴史的にあらゆる独裁者たちは、「私のために生きろ」と言いました。
(222-139、1991.10.28)
私たちは、この悪の世の中でどのように善悪を分別しながら真理を求めていかなければならないのでしょうか。自分を中心とする心を捨て、常に低い位置に下りていかなければなりません。聖書にも、「自分を低くする者は高くされるであろう」とあります。
人間の本質は霊的なものです。ですから、あの国に行けば、そのような人間の本質が人のために生きるようになっていることを、より一層実感するようになるのです。ところが、人間はどうして自分のために生きようとする心で万事に臨んでいるのですか。これはすべての人間たちが天倫に背いた天使、言い換えれば、サタンと血統的な因縁をもっているからです。
(2-138、1957.3.17)
サタンが讒訴して関係を結ぶことができる条件が罪だと言いましたが、結局、創造原則、本来の宇宙の根本原則に反対となる立場に立ったのです。人間は対象の立場で神様を主体としているので、神様だけのために生きるところで存在の価値があり、存在の起源があります。ところが、悪の出発は、サタン自身もそうであり、エバ自身も、 「私が主体になってみよう。私が中心になろう」と考えながら、自己愛から始まったのです。これが悪です。神様の創造原則は対象のために存在するというものですが、対象を否定し、「私のために存在せよ」と言ったのです。
皆さんは、善悪の起源をはっきりと知らなければなりません。悪の人は「私のために生きなさい。私のところに来てみな屈服しなさい」と言います。神様もこれをたたきつぶさなければならず、イエス様もこれをたたきつぶさなければなりません。ですから、「驕慢になってはいけない。自分の利益を求めてはいけない。人のために犠牲になりなさい。奉仕しなさい」と言ったのです。
(69-84 ~ 85、1973.10.20)
堕落とは、人間始祖が神様の縦的な真の愛のもとで、横的に真の愛を完結することができず、天使長の侵犯を受け、偽りの横的愛を成したことです。この堕落の結果として、神様は愛する子女を失ってしまうようになったのであり、人間は心と体が矛盾し、葛藤を経る故障した命として生まれざるを得なくなったのであり、悪魔は横的愛の条件にかこつけて、個人から世界に至るまで人間を不当に管掌してきています。
(198-158、1990.2.1)
ヨハネによる福音書第8章 44 節を見れば、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者」とイエス様が指摘しました。それは何の結果としてそのようになったのでしょうか。堕落の結果としてそのようになったのです。堕落によってサタンがエバを騙し、エバはアダムを騙し、互いに騙す悲劇の歴史が出発したことを知らなければなりません。
(73-202 ~ 203、1974.9.18)
エバが天使長と一つになって堕落することによって、天使長は悪魔サタンになったのであり、サタンの血筋を受け継ぐようになったのです。エバを中心として見るとき、本来、生まれるべきアダムとエバの息子たちは、長子も神様の息子であり、次子も神様の息子になるべきでしたが、堕落することによって、エバの一つの体を中心としてサタンに引っ張られていってしまいました。
本来の創造原理の中で、愛を中心として見るとき、愛は所有物の確定を決定するようになっています。愛の因縁を結べば、必ずその愛を中心とする主体と対象は互いの所有権が決定するようになっているのです。このような原理的基準を中心として見るとき、エバが堕落したのは何ですか。天使長の世界を中心として新しい愛の因縁を結ぶ所有権の決定をしたということです。
(110-216、1980.11.18)
人間は堕落することによって神の宮となることができず、サタンが住む家となり、サタンと一体化したために、神性を帯びることができず堕落性を帯びるようになった。このように、堕落性をもった人間たちが悪の子女を繁殖して、悪の家庭と悪の社会、そして悪の世界をつくったのであるが、これがすなわち、堕落人間たちが今まで住んできた地上地獄だったのである。地獄の人間たちは、神との縦的な関係が切れてしまったので、人間と人間との横的なつながりもつくることができず、したがって、隣人の苦痛を自分のものとして体恤することができないために、ついには、隣人を害するような行為をほしいままに行うようになってしまったのである。人間は地上地獄に住んでいるので、肉身を脱ぎ捨てたのち
にも、そのまま天上地獄に行くようになる。このようにして、人間は地上、天上共に神主権の世界をつくることができず、サタン主権の世界をつくるようになったのである。サタンを「この世の君」(ヨハネ12・31)、あるいは「この世の神」(コリントⅡ4・4)と呼ぶ理由は実にここにあるのである。
原理講論、人類歴史の終末論1.2
私たちの主人でいらっしゃるお父様は、主人になることができず、あなたの怨讐であるサタンの血統を受け継ぎ、サタンが主管する暗黒圏内に私たちを引きずり下ろしてきたという事実を考えるとき、どれほど憤懣やるかたない事実かをもう一度私たちが回顧しながら、この地球上から、大勢の霊人たちがとどまる霊界に至るまで、億千万世の怨讐となったサタンを追放するのがお父様の願いであられ、真の人類の願いだったことを、この時間、私たちが肝に銘じなければなりません。
お父様、サタンの権威と権勢の基盤がどれほど残っているかを生活の中で感じることができない私たちでございます。一時一時を送りながら、一日一日を過ごしながらも、サタンの権勢と権限が私たちの生活圏内にどれほど浸透しているかを、今までも感じることができなかった私たちの信仰生活だったことを、お父様、思うのでございます。
(19-184 ~185、1968.1.7)
③告発するサタン
― 宗教経典 ―
堕落後、人は数多い群れの悪霊と懲罰の使者たちに引かれていった。その前でアダムは、恐怖で体が縮み上がった。ソロモンは、神秘な知恵をもった人だった。天は彼を王座に立てられ、あらゆる世界が彼を畏敬した。しかし、彼もまた罪を犯すと、悪で罰を与える霊たちに引かれていった。大切な所有物を奪われ、拷問を受ける状況になると、ソロモンは恐れをなした。明らかに人は自らの行いによってあの世の使者につれていかれる。使者が善か悪かは、自分が歩んできた地上の人生にかかっている。
ゾハール1.53b(ユダヤ教)35
ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。
ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」主はサタンに言われた。 「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。(注 9)
ヨブ記1.6 ~ 12(キリスト教)36
すべてのことが決定されたとき、悪魔は言うであろう、
「真実の約束を、おまえたちに約束されたのは神であった、わしも約束したのだが、おまえたちの役に立てなかった。もともとわしは、おまえたちに対し権威はないのだ、ただおまえたちに呼びかけ、おまえたちがわしに従ったのみだ。それでわしを非難してはならぬ、むしろ自分自身を責めよ……」
クルアーン 14.22(イスラーム)37
― み言選集 ―
サタンは、ヨブを神の前に訴えるように(ヨブ1・9)、絶えずあらゆる人間を神の前に訴え、地獄に引いていこうとしているのである。しかし、サタンもその対象を取り立てて、相対基準を造成し、授受作用をしない限り、サタン的な活動をすることはできない。サタンの対象は、霊界にいる悪霊人たちで
ある。そして、この悪霊人たちの対象は、地上にいる悪人たちの霊人体であり、地上にいる悪人たちの霊人体の活動対象は彼らの肉身である。したがって、サタンの勢力は悪霊人たちを通して地上人間の肉身の活動として現れる。それゆえ、ルカ福音書 22 章3節には「イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった」と記録されており、またマタイ福音書 16 章 23 節を見れば、イエスはペテロを指してサタンと言われた。さらにまた、このような悪霊人体を「悪魔の使者」と記録しているところもある(マタイ25・41)。
地上天国を復帰するということは(前編第3章第2節参照)、全人類がサタンとの相対基準を完全に断ちきり、神との相対基準を復帰して、授受作用をすることにより、サタンが全く活動することのできない、そのような世界をつくることをいうのである。終末に至って、サタンを底なき所に閉じ込めると言われたみ言は、とりもなおさず、サタンの相対者がいなくなることによって、サタンが活動できなくなるということを意味する。
原理講論、堕落論 4.2
神様は歓迎しますが、サタンは放してくれません。なぜでしょうか。 「本来、あなたには創造原則によって、愛で主管できる権限があるではないですか。私は非法的な愛の道、非法的な位置に立ちましたが、アダムとエバを愛したのは間違いない。愛は本来、主管性の原則ではないですか。私がアダムとエ
バを愛したのだから主管することができるが、あなたがそれ以上、私を愛さなければ、連れていくことはできない」、このように言うのです。
(128-91、1983.6.5)
神様がサタンに「本来、人はサタンであるお前に讒訴されるようになっていないではないか。本来、人は、サタン、お前から讒訴され、お前に拘束される存在ではないではないか」と言えば、サタンは、「それはすべて知っています。しかし、愛というものは、永遠に主張するようになっているではない
ですか。愛の因縁というものを原理的立場から見れば、愛すれば永遠にその人に隷属されるのが愛の法度ではないですか」と言いながら、自己主張をするのです。すると神様は、「原理的な立場から見れば、人間を私が造り、私の息子、娘になるべきなのに、お前が不法に因縁を結んだのではないか」と言
います。ですから、仕方がありません。原理的法度を主張するサタンの立場も正しく、原理的立場から主張する神様の主張も正しいというのです。
(111-147 ~148、1981.2.10)
神様も今まで内的にサタンを相手にして闘っていらっしゃり、外的には悪人を相手にして闘っていらっしゃいますが、それは無礼な闘いではなく、法に背く闘いでもありません。神様は絶対に天理法度に背いて闘われることはありません。イエス・キリストもこれと同様に、天理原則に背いた闘いはされませんでした。したがって、私たちが終末に宇宙的な闘いをしなければならないときにも、天倫の法度を知らなければなりません。そうして私たちは、この法を中心として闘うことができる人にならなければならないのです。
皆さんは知りませんが、サタンもやはり無礼な法を立てて天倫に背く闘いはできません。ですから、復帰の条件を立てておいてサタンと闘うようになるとき、人間が神様のみ旨に背けば、
サタンが讒訴するようになるのです。イエス様であっても例外ではありません。法度に背くとき、容赦なくサタンが讒訴するのです。
(2-176 ~177、1957.4.14)
④善悪に対する人間の選択
― 宗教経典 ―
主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。
創世記 4.6 ~ 7(キリスト教)38
身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
ペトロの手紙一 5.8(キリスト教)39
この世のものを浄らかだと思いなして暮し、 (眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。―弱い樹木が風に倒されるように。この世のものを不浄であると思いなして暮らし、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は、悪魔にうちひしがれない。―岩山が風にゆるがないように。
法句経 7.8(仏教)40
人びとよ、神の約束は真実である、それで、現世の生活に欺かれてはならない、また神に関し、大欺
瞞者に欺かれてはならぬ。まことに悪魔はなんじらの敵である、それで敵として扱え。かれは、ただ燃えさかる火獄の仲間とする己れの連累者を招くにすぎぬ。
クルアーン 35.5 ~ 6
(イスラーム)41
なんじら信仰する者よ、悪魔の足跡に従ってはならぬ。なんじらがもし悪魔の足跡に従うならば、かれはきっと醜行と悪事をなんじらに命ずるであろう。もしなんじらに対し、神の恩恵と慈悲がなかったならば、なんじらのうち、ひとりも純潔になり得なかったであろう、だが神は、み心にかなう者を清めたもう。神は、全聴者・全知者であられる。
クルアーン 24.21(イスラーム)42
では、睡眠を通して双生児としてあらわれた、かの始元の二霊についてであるが、両者は、心意と言語と行為において、より正善なるものと邪悪なものとであった。そして、両者のあいだに、正見者たちは正しく区別をつけたが、邪見者どもはそうではなかった。 (注10)
して、これら両霊が相会したとき、彼らが定めたのは、第一の世界には生と生存不能とであるが、しかし終末にある境涯は不義者どもには最悪なるも義者には最勝なるウォフ・マナフがあるということであった。
これら両霊のうち、不義なる方は極悪事の実行を選取したが、最も堅固なる蓋天を着ていて最勝なるスプンタ・マンユの方は天則を選取し、真実なる行為をもってアフラ=マズダーをすすんで満足させようとするものどももまたそうであった。
アヴェスター・ヤスナ 30.3 ~ 5(ゾロアスター教)43
イスラエル民族がシナイ山の前に立ったとき、蛇の不純さが彼らから抜け出ていった。そして、肉欲が止まり、結局命の木に接ぎ木されることができた。彼らの考えは、あの高い所に向かうようになり、そして喜びと歓喜に満ちた天の光と知恵を受けるようになった。主なる神は、聖なる名が記された帯を巻いてくださり、以前のようにサタンが力を発揮できないようにされた。
しかし、彼らが再び罪を犯し、金の子牛を拝むと、彼らは降等され天の光を失ってしまった。聖なる名の帯も取り上げられ、再び以前のように悪魔サタンの攻めを受けるようになった。
ゾハール1.52b(ユダヤ教)44
あるがままの本性の純粋さが真の仏、ゆがんだ見方と貪・瞋・疑は魔王。
ゆがみに晦んでいるとき魔王はわが家に入り、正しく見て取ったとき仏は座敷に在す。
自性の中のゆがみが三毒を生み、つまり魔王に住み込まれる。
正しい見方は自ずと三毒を除き、魔王は仏に変わって紛れもない真のもの。
六祖壇経 10(仏教)45
― み言選集 ―
神様は最も公的な方であり、サタンは徹頭徹尾、自分を中心とする私的な存在です。
(88-209、1976.9.18)
宇宙で人よりも人の主体となる神様がいるとすれば、その神様が最も尊いのです。ところが、サタンはなぜ人の主体である神様をもとうとしないのでしょうか。サタンは欲心が多いのですから、神様を自分のものにすればどれほどよいでしょうか。
神様は、絶対不変、絶対唯一、絶対永遠です。神様は変われません。変わることができないというのです。サタンにいくらもっていきなさいと言っても、神様は真なのでもっていけません。サタンは真を消化できないのです。いくらもとうとしても無駄です。それでは、神様も欲心が多いのに、なぜ人よりもサタンを自分のものにしようとしないのでしょうか。それを答えなさいと言えば、上手に答えるでしょう。天の側の反対だからです。神様は変わらないのですが、サタンは変わり、神様は唯一ですが、サタンはそうではありません。そして、神様は永遠ですが、サタンは瞬間的です。根本的にそのように分かれるのです。それでは、サタンや神様はどうして人を必要とするのですか。人は二つの性格、二つの世界の素質をもって生まれ得る中間の立場にいるという論理をここで完全に確定できます。それでは、変わることができる瞬間的な人はサタン側ですか、神側ですか。また、家でしきりに分裂を引き起こし、しきりに争いを引き起こすのは、サタン側ですか、神側ですか。
未来を見て、世界や全体、永遠を見て、長い歴史を考えず、「きょうだけ食べていければよい、きょうさえよければよい」と、また子女のために生きるべき父母であるにもかかわらず、その父母の立場を忘却し、酒を飲み、自分を中心として酔うようになれば、それは悪に属し、サタンに属します。では、酒を飲む人は、彼自身が幸福ですか、不幸ですか。飲むこと自体は幸福でしょう。酒を飲めば、踊りを踊って喜ぶではないですか。ところが、それは永遠を維持することはできません。何日かたてば終わります。それによって、環境的与件に破綻が伴うのです。それによって、環境的与件が保護を受けられず、それが永遠に継続するので、悪に属するという事実を知らなければなりません。
(124-243 ~ 244、1983.2.20)
信仰生活が必要なのは堕落したからです。堕落圏内にいるという、この観念を離れてはいけません。堕落圏内に私たちは生きているので、信仰生活をするのです。これが、皆さんの日常生活の生活意識として残されなければなりません。堕落した世界は、サタンが支配する世界です。それは、考えだけでなく事実です。
(161-218、1987.2.15)
休まずに祈りなさいというのです。悪魔は 24 時間、皆さんを通じて働けます。しかし、神様は縦的な位置にのみいるので、心以外には活動できません。サタンは、四方の 360 度に、そしていつでも活動できるので、私たちはサタンの活動に負けるようになっています。
(200-227、1990.2.25)
人間の堕落以降、徐々に発展してきた悪霊の役事は、1980 年代に入って霊界が急激に変化し、地上で悪霊の活動が大きく現れるようになりました。そうなった理由は、それまで、天のみ旨を探し求めてきた中心人物たちが、サタンの正体を具体的に、正確に把握することができず、罪の根である原罪を明らかにすることができなかったので、サタンも、余裕をもって自分中心の世界をこつこつとつくることができたのです。
しかし、真の父母様が地上に来られてからは、状況が変わってきました。真の父母様は、サタンの正体と罪の根である原罪が、淫行という不倫なる愛であることを明らかにされ、さらには、神様が直接に啓示されない内容であるサタンの性向を把握し、これからは、サタンが地上での足場を失わざるを得ないように、蕩減条件を立てていかれながら、復帰摂理史を勝利されました。
このようになったので、サタンも、当惑するようになりました。それでサタンは、霊界の悪霊たちを動員し、地上人の体の中にいる恨をもった霊人たちと力を合わせて、過去の恨みに対して刺激を与え、地上人を苦しめる悪霊役事を強化しました。サタンは彼らを呼んで刺激を与え、恨みを晴らすようにし、彼らが苦しめられた分、また、それ以上の恨みを、苦痛を与えた先祖の子孫に復讐するようにさせているのです。
特にサタンは、祝福家庭に侵入する機会を常にねらっていて、条件に引っ掛かるような生活をすると、悪霊を祝福家庭に入れて、祝福家庭が神様を中心に生活することができないようにさせてきたのです。
本来、祝福家庭は、真の父母様と心情一体を成し、絶対信仰、絶対愛、絶対服従で生活すれば、サタンが侵入できないようになっていました。しかし、非原理的なことをして、サタンが讒訴できる条件が成立すると、サタンが侵入することができるようになります。
実際に、地上の祝福家庭は、真の父母様の勝利的基台のみに頼ったまま、自分の体と行いを深く振り返ることをおろそかにしていました。「もしかしたら、サタンが自分に侵入し得る条件を立てるようなことをしていないだろうか」、「そのような堕落性をもっていないだろうか」と、深く振り返れませんでした。ですから今からでも、自分を完全に浄化させ、創造本然の真の子女の姿に生まれ変わる努力を傾けなければなりません。(注11)
興進様の霊界メッセージ、2002.1.1
4. 罪
罪に対する聖書の意味は、「的を外れたこと」である。したがって、罪は人間が人生の真の基準からどれほど外れたかを意味する。罪を理解する道はいろいろある。ここに三つを提示する。第1には、殺人、窃盗、性的不道徳、嘘と麻薬摂取のような典型的な悪行である。世界の諸宗教は共通してこのような罪を非難する。第2に、罪の意味は意図的であれ非意図的であれ、人に害を及ぼす自己中心的思考である。これは、より微細に罪を理解したものであるが、日常生活で人と衝突する行動の動機と方法に対して自己反省するようにさせる。罪は魔力をもっている。これは私たちを束縛し、神様に近づいていくことを妨害する。罪を理解する3番目の方法は、罪をどこにでも隠れている欠点と堕落のような人間の日常的条件として見ることである。このような脈絡から、文鮮明先生は、すべての罪は神様との本来的関係を切っておいて、人間を疎外と闘争の状態に残した人間堕落の結果だと教える。
①罪の意味
― 宗教経典 ―
生きものを殺し、虚言を語り、世間において与えられていないものを取り、他人の妻を犯し、穀酒・果実酒に 耽溺する人は、この世において自分の根本を掘りくずす人である。
法句経 246 ~ 247(仏教) 46
正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことはできません。
コリントの信徒への手紙一 6.9 ~10(キリスト教) 47
黄金をぬすむ人、スラー酒をのんでいる人、師の閨房をけがす人、バラモンを殺害する人、これら四種の人びとは〔犬や豚やチャンダーラに〕堕落する。そしてかれらと交わる第五番目のものも〔堕落する〕
チャーンドーギヤ・ウパニシャッド 5.10.9
(ヒンドゥー教)48
ムハンマドが言う。「姦淫を行った者は信者ではない。窃盗を行う者は信者ではない。飲酒をする者は信者ではない。それから目を離したからといってそれを奪っていく者は信者ではない。人をあざむく者は信者ではない。ゆえに注意し、また注意せよ」。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)49
ラーフラよ、もしそなたが 身からだによる行為をなしたいと思うならば、そなたはその身の行為についてよく観察すべきです。〈私がなしたいと思っているこの身による行為は、自己を害することにな
りはしないか、他者をも害することになりはしないか、両者ともに害するものになりはしないか、この身の行為は不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものではないか〉と。ラーフラよ、もしそなたが観察しながら、〈私がなしたいと思っているこの身による行為は、自己を害することになる、他者をも害することになる、両者ともに害することになる、この身の行為は不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものである〉と知るならば、ラーフラよ、そなたはそのような身による行為を、けっしてなす
べきではありません。
阿含経中部 i.415(仏教)50
主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が / 神とお前たちとの間を隔て / お前たちの罪が神の御顔を隠させ / お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。
イザヤ書 59.1 ~ 2(キリスト教)51
善悪両果報で成れる索で縛られたる状態はあたかも跛人の如く、自由なきことは囚人の如く……
マイトリ・ウパニシャッド 4.2(ヒンドゥー教)52
わたしたちが幸福になるためにおこなっておりながら、じっさいにはむしろ不幸になるとき、あるいは、より幸福になるためにおこなっておりながら、じっさいにはより不幸となるとき、そこに偽りが存するのである。しかし、人間が幸福となることができるのは、人間が罪を犯すことにより見捨てた神からくるのであって、自分自身にしたがって生きることにより罪を犯した人間からくるのではない、という理由によっていま述べたことがあって、そうでなければいかなる理由によるのであろうか。
アウグスティヌス 神の国14.4(キリスト教)53
― み言選集 ―
人のために生きずに自分のために生きるところから、すべての罪悪が発生しました。どろぼうがなぜ悪いのですか。そのどろぼうは自分がやりたくてやったのに、その何が悪いのですか。一着の服にも犠牲の代価が含まれていて、奉仕の代価が含まれています。公的なものが入っているのです。それをそのままもってきたので罪なのです。
(105-92 ~ 93、1979.9.30)
今から守るべき鉄則とは何かというと、1番目に、死ぬほどのことがあったとしても血統を汚してはいけないということです。2番目は、人事処置を誤って人権を蹂躙してはいけないということです。男性であれ女性であれ、黒人であれ、白人であれ平等です。人権を差別せず、人権を蹂躙してはいけないと
いうのです。責任者は、自分の心に合わないからといって、むやみに人事措置をしてはいけません。心に合わないからといってむやみにできないのです。3番目は、公金を盗んではいけないということです。公金を自分勝手に使うなということです。この三つです。(注12)
(342-298 ~ 299、2001.1.13)
罪とは何ですか。神様のみ言に背いたことが罪だというのですが、サタンが讒訴できる条件を提示することが罪です。神様のみ言を信じないことが罪です。怨讐がかみついて放さないことができる条件を提示することが罪です。ですから、原理原則に、法度に背けば、神様もどうすることもできません。サ
タンに引っ掛かっていくのです。イエス様は、生まれるときサタンの讒訴できる立場から外れた立場で生まれたので、原罪のない方です。サタンの主管圏内でサタンと接するのが原罪ですが、イエス様はサタンの讒訴条件だけでなく、すべての条件を越えて生まれた方なので、原罪とは関係がないのです。
(22-257、1969.5.4)
お互いに愛する人が、きょうは好きなのに、あすには別れるのですから、どうして平和があり、どうして統一があり、どうして自由があるのかというのです。そのような愛は、破壊ばかりを招き入れるのです。破壊の動機であり、受け入れることができない内容だというのです。その愛は、反対にサタンが利用してこの人類を破壊させ、人類の理想を破壊させるための一つの戦略的な武器だ、ということを皆さんは知らなければなりません。私たちから真の平和を奪っていき、私たちから真の自由を奪っていき、私たちから真の統一を奪っていく怨讐の戦略的な方法だ、ということを私たちは知らなければなりません。
伝統をもった愛、原因と結果が通じ得る愛を中心として見てみるとき、それ(紊乱な愛)は悪であり、怨讐であり、赦すことができない罪です。神様にとって怨讐であり、容認できない罪なのです。罪の中の何の罪ですか。最も恐ろしい罪です。怨讐の中で神様が最も嫌う怨讐なのです。その道を是正できない者は、神様は怨讐であり、罪として扱うので、激しく打って滅ぼすようにするのです。滅ぼすようにするのが原則です。
皆さんの中に、イタリアのポンペイ市に行ったことがある人もいるかもしれませんが、その都市が滅んだのも、紊乱な愛の社会生活のためでした。ソドムとゴモラもそれで滅亡したのです。ローマもそれで滅びました。このような公式的な歴史観で推し量ってみるとき、アメリカもそのような愛を是正せずに、悔い改めなければ、滅びます。
(104-141、1979.4.29)
②罪の浸透
― 宗教経典 ―
自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。
ヨハネの手紙一1.8(キリスト教)54
またわたし自身、罪を免ぜられるわけでもない。まことに人間の心は確かに悪に傾きがちで、わたしの主が、慈悲を賜わないならば悪に陥ったかも知れぬ。(注13)
クルアーン 12.53(イスラーム)55
では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」
ローマの信徒への手紙 3.9 ~ 12(キリスト教)56
地上においても天の神々においても、プラクリティ(根本原質)より生じた三要素{グナ}から解放された生類はいない。(注14)
バガヴァッド・ギーター 18.40(ヒンドゥー教)57
先生がいわれた、「わたくしは、まだ仁を好む人も不仁を憎む人も見たことがない。仁を好む人はもうそれ以上のことはないし、不仁を憎む人もやはり仁を行なっている、不仁の人をわが身に影響させないからだ。もしよく一日のあいだでも、その力を仁のために尽くすものがあったとしてごらん、力の足りないものなど、わたくしは見たことがない。あるいは〔そうした人も〕いるかも知れないが……、わたくしはまだ見たことがないのだ。」(注15)
論語 4.6(儒教)58
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
ローマの信徒への手紙 5.12(キリスト教)59
わたしは咎のうちに産み落とされ /母がわたしを身ごもったときも /わたしは罪のうちにあったのです。(注16)
詩編 51.7(キリスト教)60
かの夫婦として結合した一組の男女が神の罪の宣告をうけたときに、最初の男において、女をとおしてその後裔へと引き渡されていくべき全人類がすでにあったわけである。これは、かれがつくられたときではなく、かれが罪を犯し罰せられたとき人間が成ったところのものであって、かれはこれを、罪と死との起源にかんするかぎり生み出したのであった。
アウグスティヌス 神の国13.3(キリスト教)61
― み言選集 ―
人間の世界で、永遠に変わろうにも変わることができず、分けようにも分けることができない一つの完全な義理を完成し、天と地に誇れるそのような義理の関係を結んだ人がいるのかというとき、いないと言っても過言ではないでしょう。さらには、宗教を立てておいて、その道理と永遠に分かれることのない自分を立てたのかというとき、これも自信をもって答えられない自分であることを悟るでしょう。さらには、天倫と永遠に一つになることができ、何がそれを分けようとしても分けることができない、一つになった立場にいるのかというとき、そのようにできていないことを皆さんは感じるでしょう。
(4-135、1958.3.30)
神様がいるとすれば、皆さんはその神様に似て生まれたのです。それでは、神様が善の神様であれば私たち人間も善の人間にならなければならないはずですが、善の人間になることができず、相当に複雑で、善でない人間になったことを認めざるを得ません。善の神様と私たち人間の間には隔たりが生じた
のです。皆さんがきれいな服を着ているのに、ここに汚れたものがつけば、それを切ってしまうか、はらってしまうか、見栄えがよくないので処断してしまわなければなりません。それと同じように、善の神様の端に、この汚れた人間がくっついていると考えてみてください。そのように考えなければなりません。そのように見るとき、私たち人間は、聖書を知らなくても、汚されたというのです。
(92-58、1977.3.13)
堕落することによって、神様と人間の関係が根本的に破綻しました。いくら神様に帰ろうとしても帰ることができず、また、神様が私たち人間のところにいくら来ようとしても来ることができない隔たり生じてしまいました。壁が生じ、国境が生じてしまったのです。神様まで行くことができない、神様を父母として侍る人間が行くことができない壁、越えることのできない壁、それが何の壁ですか。これが問題なのです。全能であられる神様が思いどおりにできる壁になれなかったという事実が、宗教者にとって問題にならざるを得ません。
この壁が、我々個人の心と体の間に入り込むようになりました。夫婦の間にも、壁が入り込むようになりました。家庭がそうであり、氏族と民族と国家と世界、全霊界の天国と地獄の間にも、このような塀が生じたのです。この塀を取り除かなくては、神様がいくら天国の栄光のみ座にいらっしゃるとしても、地上にいる我々は、包囲されたこの塀を越えられません。これが、この地上に生きている人間の悲劇です。
(135-268、1985.12.15)
アダム、エバがどうなったかといえば、アダム、エバが関係して神様と一つになるべきところを、僕と一つになってしまいました。結局、神様の血統を受けなければならないこの人間たちが、僕の血統を受け継いだということです。ですから、堕落した人間たちがどんなに神様を父と呼んでも実感がわかない
のです。
(91-242、1977.2.23)
堕落したアダムとエバが相対の因縁を結んで出発したその家庭は、神様とは全く関係がありません。その家庭は、神様がとても悲しむ拠点になったのであり、反対に怨讐であるサタンがすべての権利を主張し、すべての権限を発揮できる拠点になったということを、皆さんは堕落論を通して学んだでしょう。堕落は、個人と個人、すなわち一人の男性と一人の女性によって引き起こされたものですが、それは単に一人の男性と一人の女性に限られたものではなく、歴史的であり、天宙史的な内容をもっていることを私たちは知っています。
(46-196、1971.8.15)
いまだに人類は、私たちの先祖であるアダムとエバから伝授された堕落性の奴隷になっており、その束縛から抜け出すことができずにいるという意味です。生涯を断食と禁欲、そして途方もない犠牲の苦難の道を貫いて旅立った聖人、賢哲たちの告白がそれを証しています。肉身の欲望を完全に根絶することができずに旅立たざるを得なかった彼らの告白は、いまだに地上界で同じ道を踏襲している弟子たちと信徒たちに向かって切実に訴えているのです。
(447-160 ~161、2004.5.1)
5. 遺伝罪と業報
宗教は、様々な人間の運命と天賦的才能の差を過去から受け継いだ結果として説明する。それは、過去の自分の人生の業報や子孫に下ってきた先祖たちの罪、この二種類として理解される。このような教理は、人をして過去の行為を贖罪させ、未来の世代のための善業を積むために、彼らの運命を受け入れさせ、忍耐心をもって耐えるように導く。
業報は行動を意味するが、より具体的に一人の個人がこの世や過去の人生で引き起こした行動を意味する。輪廻に対する信仰をもっているヒンドゥー教と仏教で、々は彼らの現在の人生を次の生涯で自業自得にならざるを得ないと教える。しかし、これらの宗教は、一人の状況が業報によってどのくらい決定されるかの程度では、見解が異なる。ヒンドゥー教は、業報によって個人の現在の人生が全面的に決定すると信じる。したがって、財産、人種、性別、あるいはカーストの不平等は当然のことであり、事実上、宇宙は絶対的に正義であり公正なものである。一方、仏教は、業報が決定的原理だという点を否定する。業報は一人の人間の人生を条件づける 24 の要因(パッチャヤ)の中の一つとして、ほかの条件が備われば、業報は現れる必要がないとする。仏教信者は、精神的修練と瞑想訓練を通して自由を得て、業報の束縛から抜け出そうとする。
東洋と西洋の大部分の宗教は、罪が血統を通して遺伝する点を認める。個人は、肉体的特性は言うまでもなく、家風、態度、個性まで譲り渡した自分の先祖の罪を背負っている。先祖たちの人生は、未来の世代の経験にも影響を及ぼし、数世紀まで伝わる痕跡を残すのである。したがって、このような遺伝問題を解決しようとする賢明な人は、子孫に害を及ぼさないだろう。かえって、子女のために善業を残すだろう。文鮮明先生は、遺伝罪がどのように遺伝し、どのように解決され得るのかに対して、少なくない教えを提示している。
①過去の人生の遺産
― 宗教経典 ―
あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
出エジプト記 20.5 ~ 6(キリスト教)62
父祖の犯せし罪よりわれを解き放せ。われらみずから犯せし〔罪〕より解き放せ。
リグ・ヴェーダ 7.86.5(ヒンドゥー教)63
死から依然として処罰を受けていない罪が残っていれば、判決は子孫に延長される。過ちと暴力によって他の人のお金を持っていけば、計算され、その総額を妻と子とその家族たちが次第に死ぬとき、彼らから奪うようになる。もし彼らが死ななければ、彼らの邪悪な着服の額だけ均衡をとるために、水、
火、窃盗、強盗、財産の喪失、疾病、そして毒舌(中傷)などによる災難がある。
太上感応篇 4.5(道教)64
危険を避けるために
小さなひょうたんの蔓の中に入って
いくほど
能力のある者よ!
あなたは子を忘れていたのか。
あなたは妻を忘れていたのか。
人が蒔いた悪の種は
彼の子孫が刈り取るようになる。
無慈悲に必ず報復を受けるだろう。
いくら遅くなっても報復は時になれば訪れる。
ヨルバ族の歌(アフリカ伝統宗教)65
現世であらゆる子孫の運命は、彼の先祖と変わるところがない。死が破滅を止めることはできず、生存者が彼らの罪悪を放棄することはない。人はそれぞれ互いの前轍を踏み、群れごとに、国ごとに、彼らの道を正すことを考えることもなく、終末を迎えるのだ。
ナフジュ・アル・バラーガ 説教 86
(シーア派イスラーム)66
義なる者、どれほど幸福か! 彼一人に徳があるのではなく、子らにまでその徳が相続される。その子の子らにも、あの最後の世代にも、その徳が及ぶ。アロンは、ナダプとアビフのように火刑にされて当然の息子たちがいたが、その父の徳によって彼らは命を拾った。
罪を犯した者、どれほどふびんか! その罪の代価を一人で支払うのではなく、子らにまで受け継がれるのだ。その子の子らにも、あの最後の世代にも、その罪の代価が及ぶ。カナンの多くの息子は、ラビ・カマラエルの小間使いだったタビのような運命をもって生まれたが、彼らの先祖たちの罪によって、その福の機会を失った。
タルムード、ヨーマ 87a
(ユダヤ教)67
トーデッヤの子であるスバ青年バラモンは世尊にこう言った。「ゴータマ尊よ、人身をそなえている人間に劣性と優性が見られる因は何でしょうか。縁は何でしょうか。なぜならば、ゴータマ尊よ、人間には短命の者が見られ、長命の者が見られるからです。多病の者が見られ、無病の者が見られるからです。醜い者が見られ、美しい者が見られるからです。権勢のない者が見られ、大権勢のある者が見られるからです。貧困の者が見られ、富裕の者が見られるからです。低階層の者が見られ、高階層の者が見られるからです。慧のない者が見られ、慧のある者が見られるからです。ゴータマ尊よ、人身をそなえている人間に、劣性と優性が見られる因は何でしょうか。縁は何でしょうか」と。……
「青年バラモンよ、ここに、ある女性、あるいは男性は殺生者となります。残忍で、手を血に染め、殺戮に耽り、生き物に対する思いやりがありません。このように遂行し、このように引き受けたその業によって、かれは身体が滅ぶと、死後、悪処・悪道・破滅の地獄に生まれかわります。もしも身体が滅び、死後、悪処・悪道・破滅の地獄に生まれかわらず、人間の状態を得るならば、どこに再生しようとも短命の者になります。……
しかし、青年バラモンよ、ここに、ある女性、あるいは男性は、殺生を捨て、殺生を離れる者となります。棒を置き、刀を置き、恥じらいがあり、慈愛があり、すべての生き物を益し、同情して住みます。このように遂行し、このように引き受けたその業によって、かれは身体が滅ぶと、死後、善道の天界に生まれかわらず、人間の状態を得るならば、どこに再生しようとも長命の者となります。青年バラモンよ、これが長命に導く実践、すなわち殺生を捨て、殺生を離れる者となり、棒を置き、刀を置き、恥じらいがあり、慈愛があり、すべての生き物を益し、同情して住むこと、です。
青年バラモンよ、ここにある女性、あるいは男性は、生けるものたちを手によって、……害する類の者となります。……このように遂行し、このように引き受けた業によって……どこに再生しようとも多病の者になります。……しかし、青年バラモンよ、ここに、ある女性、あるいは男性は、生けるものたちを手によって……害さない者となります。……
かれは無病の者になります。青年バラモンよ、ここに、ある女性、あるいは男性は、怒りのある者、悩みの多い者になります。……どこに再生しようとも醜い者になります。……しかし、青年バラモンよ、ここに、ある女性、あるいは男性は、怒りのない者、悩み
の多くない者になります。……端正の者になります。……ここにある女性、あるいは男性は嫉妬心のある者……どこに再生しようとも権勢のない者になります。……ここにある女性、あるいは男性は、嫉妬心のない者……かれは大権勢の者になります。ここにある女性、あるいは男性は、沙門やバラモンに……施す者になりません……貧困の者になります。……施す者になります。……かれは富裕の者になります。……
青年バラモンよ、生けるものたちは、業を自己とし、業を相続者とし、業を胎とし、業を拠り所としています。業が、生けるものたちを、すなわち劣性と優性に区別します」と。
阿含経中部 iii.202 ~ 206, 小業分別経(仏教)68
反発的心は自由意志に調整されず、完全に刺激─反応に基づいて作用する心の─部分だ。そして、それは自分の意識、目的、思想、身体、行動を超えて強圧と統制力を発揮する心の一部分だ。記憶の痕跡は反発的心に貯蔵されている。それで私は、精神異常と心因性疾患の唯一の根源をここから見いだした。(注17)
ロン・ハバード サイエントロジー 0 ~ 8
(サイエントロジー)69
― み言選集 ―
数多くの歴史時代を経てきながら、多くの私たちの先祖たちが死んでいきましたが、全体の中心を立て、全体に良いこと、全体の利益を考えたなら、そのように百年生きたことが、千年たってもそのまま残されたことでしょう。ところが、個人を中心として生きたので、すべて滅びました。どんどん落ち
ます。全体を滅ぼしてしまうのです。
(200-91、1990.2.24)
人類歴史上、罪の量といえば途方もないものです。アダムとエバの根本的罪があり、幹の罪など、様々な罪があります。ところが、中心となる罪の根があります。根も様々なものがありますが、周辺の根もあり、幹の根もあります。幹も、小さい幹が大きくなるときまで、少なくともそこには一つ、二つの枝から始まり、数万の枝があります。このようにたくさんの枝が間違っているのです。その全体の量を見れば膨大です。人類がそのように多くの罪を犯したのですが、どのように赦しを受けるのでしょうか。その膨大な罪の量が、すべて皆さんの一身と連結されています。
(258-84 ~ 85、1994.3.17)
いったい、人は誰に似てこの姿なのですか。父に似たのなら、その父は誰に似てその姿なのですか。おじいさん、おばあさんに似てそうなのです。このようにどんどん上がっていけば、人間の始祖まで上がっていきます。人間始祖がそうなので私たちがそうだというのです。それでは、人間始祖は誰に似てそのようになったのですか。これが問題になるのです。
人は父母に似るものです。その父母に似ていなければ、何代かの先祖の性稟が隠れていて、遺伝法則によって父母の性稟と合わさって一人の人間が生まれたのであって、何の根源もない無関係な場でそのように生まれたのではないということです。
皆さんは、自分独りによって自分になっていくと思っていますが、既に皆さんの先祖世界の人たちがたくさん来ては行きました。数千代の先祖たちを悪く言ってはいけないので、「社長」としましょう。大勢の社長を総合した総社長として残されたのが皆さんの個体なのです。皆さん、このような話を聞いたので、気分がよいでしょう?このように素晴らしいのが人です。
ですから、皆さんは、数千、数万代の先祖たちのもろもろの姿、資格、価値を集めておいたものを博物館に展示しておいた展示品と同じです。このような姿が今日の皆さんの姿なのです。私たちの先祖がこの世界に、「私たちの子孫はこうだ」と展示品として立てておいたものが私たちです。そのように考えてみましたか。この天地間に男性と女性は実に大勢いますが、個人自体を見てみるとき、自分の先祖の姿を全体で総合し実を結んで生まれた、この世にたった一つしかない人だというのです。
(41-139、1971.2.14)
皆さんの先祖たちはすべて違います。行く道が違い、環境が違い、悪の人、善の人が混ざって流れていくのですが、上がっていったり下がっていったり……。今、その結実のような皆さんの位置が、すべて一つの位置だと見ることはできません。このような観点から、神様は公平な方ですが、神様がもし、「人類は平等で同じだ」と言われれば、「そうだ」と言うことができるだろうかというのです。
堕落がなかったなら分かりません。堕落が神様の愛圏内にあったなら分かりませんが、堕落して神様の愛を求めていかなければならない運命にある人間に対しては、平等という観念を立てることはできません。ですから、地獄と天国が生じざるを得ないという理論を私たちはここで知らなければなりません。
このように見れば、数千の階級が生じ得るのです。地上に散らばっているこの階級、ここにとどまっている階級と同じものが、今日、人類歴史のすべての人たちの背景を中心として、現在と未来を通して生じることが分かります。地上にこのような階級が生じれば、霊界もこのような階級が生じるのです。霊界もたくさんのグループになっていて、階級的に分裂しています。
(91-269 ~ 270、1977.2.27)
②悪の業報の断絶
― 宗教経典 ―
賢明な比丘は、今、以前の生の業の過失を刈り取らなければならないことを知っている。それが多かろうと、またごく少なかろうと、ねたみや憎悪の心から、または衝動的に行った行為は、要求されるその結果を結ばなければならない。ゆえに、ねたんだり憎んだりせず、衝動的に行ってはならない。賢明な比丘はりっぱな実を結ぶが、知識は罰を呼ぶ道を残す。
阿含経増支部 3.33(仏教)70
立派な若者たちや立派な娘たちが、このような経典をとり上げ、記憶し、誦え、理解し、十分に思いめぐらし、また他の人々に詳しく説いて聞かせたとしても、しかもそういう人たちが辱しめられたり、また甚しく辱しめられたりすることがあるかも知れない。これはなぜかというと、こういう人たちは前の生涯において、罪の報いに導かれるような幾多の汚れた行為をしていたけれども、この現在の生存にお
いて、辱しめられることによって前の生涯の不浄な行いの償いをしたことになり、目ざめた人の覚りを得るようになるのだ。
金剛般若経 16(仏教)71
地上最大の、そして(パータリーと呼ぶ)花の名をつけた都城パータリプッタにおいて、釈迦族の家に生まれた二人の有徳の尼僧がいた。そのなかの一人をイシダーシー、もう一人をボーディーと呼び、かれらは、戒行を具え、禅思を楽しみ、学識があり、煩悩を除いていた。かれらは托鉢に出かけて帰り、食事をとり終って、鉢を洗い、人気のないところに安坐して、つぎのことを語り合った。「大姉イシダーシーよ、あなたは眉目うるわしく、年もまだふけていない。あなたは、いかなるわざわいを認めて、出離の生活に専念しているのですか?」……
「ボーディーよ、わたしが出家した次第を聞いて下さい。すぐれた都ウッジェーニーにおいて、わたしの父は、徳行の篤い豪商でした。わたしは、その一人娘で、可愛がられ喜ばれ慈しみをうけました。ときに、サーケータに住む名門の人から(遣わされた)仲人がやってきました。 (名門の人とは)多くの財宝ある豪商で、父はわたしをその人の嫁として与えました。……
婢女のごとく、みずから夫を装飾しました。わたしは、自分で御飯を炊き、自分で食器を洗いました。あたかも、母が一人っ子にたいしてなすように、わたしは、夫にかしずきました。このように、貞淑で、最善をなし、高ぶらず、早起きで、怠けず、婦徳のそなわったわたしを、夫は憎みました。かの(夫)は、 (夫の)母と父にむかって言った。 『お許しください。わたしは、出て行きたいのです。わたしは、イシダーシーと同じ家のなかで、一緒に住みたくないのです。……彼女は、何もわたしを害したりしません。しかし、わたしはイシダーシーとともに住みたくないのです。ただ嫌いな女は、わたしには用がないのです。お許しください。わたしは、出て行きたいのです』かれのことばを聞いて、 姑と 舅は、わたしに尋ねました。『あなたは、どんなことを仕出かしたのですか? 打ち明けて、ありのままに言いなさい』『わたしは、何も悪いことはしませんでした。(夫を)害ったこともありませんし、(夫の欠点を)算えたこともありません。夫がわたしを憎んで発するようなことばを、どうして、わたしが口にすることができましょうか?』憂いまどえるかれら(二人)は、その息子の気持に従って、苦しみながら、わたしを(わたしの)父の家につれもどして、言いました。『わたしどもは、(人間のかたちをした)うるわしい吉祥の女神に敗れたのです』
そこで、(父は)つぎに、わたしを富める第二の家の人に与えました。(第一の)豪商がわたしを得て(支払った)身代金の半分をもって。わたしは、かれの家にも一ヶ月住みましたが、やはり、かれもまた、わたしを追い返しました。わたしは、婢女のように仕え、罪もなく、戒めを身にたもっていたのですが。托鉢のために遍歴し、自己を制御し、 (他人を)調御する力のある者に向って、わたしの父は言いました。『あなたは、わたしの女婿となって、ボロ布の衣と鉢を捨てなさい。』かれもまた、半ヶ月住みましたが、そこで、父に告げました。『わたしに、ボロ布の衣と鉢と水飲みの器を返してください。もとどおりの托鉢の生活をしたいのです』……
かれは、追われて去りました。わたしは、独りで思いに耽りました。『わたしは、許しを得て、出て行きましょう、死ぬために。そうでなければ、出家しましょう』そのとき、大姉ジナダッターは、托鉢のために遍歴しつつ、父の家にこられました。彼女は、戒律をたもち、博学で、徳を具えた方でした。かの尼僧を見るや、起って、わたしたちは、彼女のために座席を設けさせました。坐った彼女の両足を礼拝し、食物を捧げました。食物、飲物、かたい食物、それにそこに貯えられているものを、思う存分食べさせて、『大姉よ、わたしは出家したいと願うのです』と言いました。そのとき、父は、わたしに告げて言いました。『娘よ、ここで、かの(ブッダの)教えを行ないなさい。食物と飲物をもって、道の人や再生族(=バラモン)たちを供養しなさい』そこで、わたしは、掌を合わせ泣いて、父に申しました。『わたしは、悪業ばかりをしてきました。わたしは、これを滅ぼしましょう』そのとき、父は、わたしに告げて言いました。
『さとりを得なさい。最高の真理を得なさい。両足のうちの最尊者(ブッダ)が実証された安らぎを得なさい』わたしは、母と父と親族一同のすべての者に挨拶して、出家しました。出家して七日目に、わたしは、三種の明知を得ました。
わたしが自分の(過去)七生を知っているのは、その(明知を得た)結果であります。あなたにそれを話しましょう。一心にお聞きください。(その昔)エーラカカッチャの都において、わたしは、多くの財産ある金工でした。若気の至りで、そのわたしは、他人の妻と親しくなりました。わたしは、それから死んで、長い間、地獄のなかで煮られました。(罪の)報いが熟して、そこから出ると、牝猿の胎に宿りました。わたしが生まれて七日目に、猿群の長である大猿は、 (わたしを)去勢しました。これは、わたしがかつて、他人の妻を犯した行為の報いだったのです。それから、わたしは死に、シンダヴァの林で生涯を終えて、片目でびっこの牝山羊の胎に宿りました。わたしは、去勢されて、幼児たちを(背に)乗せて運ぶこと、十二年間でした。そして、虫類に悩まされ、病気にかかりましたが、これもまた、かつて他人の妻を犯したためです。
それから、わたしは死んで、牛商人の所有する牝牛から生まれました。わたしは、樹脂に似た銅色の牡の子牛で、十二ヶ月たって去勢されました。わたしは、再び犂すきと車を引きました。盲目となり、悩み、病気にかかりましたが、これもまた、かつて他人の妻を犯したためです。それから、わたしは死んで、街道筋にある婢女の家に生まれ、女性でもなく男性でもありませんでした。これもまた、かつて他人の妻を犯したためです。三十歳のとき、わたしは死に、車夫の家の娘として生まれました。この家は、貧しく財乏しく、債権者にたいして多くの借金をもっていました。その後、 (借金が)累積し大きく増大すると、隊商の主は、泣き悲しんでいるわたしを、家から引きずり出しました。やがて、わたしが十六歳になったとき、その名をギリダーサと呼ぶかれの息子は、わたしが妙齢に達したのを見て、 (わたしを)嫁にしました。かれ(夫)には、他に妻がありましたが、彼女は、身を修め婦徳を具え、世に知られ、(夫に)愛されていました。わたしは、この夫に憎しみの念を起しました。婢女のように仕えていたわたしを、かれらが捨てて行ってしまったことは、かの(前世の)業の結果であります。 (そして、いま)わたしは、それを終滅しました。」
長老尼の詩 400 ~ 447、イシダーシー尼(仏教)72
責任を果たしたと、すぐに天から報いを受けることを期待してはいけない。あなたの罪が、まだすべて免れていないかもしれないのだから。代わりに、子に何も相続してあげられないことを不徳に思いなさい。アブラハム、イサク、ヤコブが、彼らの善行に報いを望んだなら、どうして義なる者の種が(一つの例として、イスラエル民族)伝承されただろうか。
出エジプト記ラッバー 44.3(ユダヤ教)73
― み言選集 ―
数千年間、先祖たちが悲しみの障壁を積み上げてきましたが、この障壁が日がたてばたつほど低くなるのではなく、サタンがたくさんの計略を働かせ、この障壁を高くしております。
今日、全世界の人類が、先祖のつくりだしたこの怨恨の障壁を崩す責任をもっており、また私たちもその責任を担っていることを知らなければなりません。
イエス様が独りで寂しい道を行かれたことが、イエス様の寂しさだとばかり思っておりましたが、その寂しさが私たちの寂しさとして残っていることを知るとき、今、涙を流し、天に向かって進んでいくべき自分自身を発見するようになるのでございます。
(1-305 ~ 306、1956.12.23)
罪には、原罪があり、自犯罪があり、連帯罪があり、先祖から受け継いだ遺伝的罪があります。それを清算していかなければなりません。主の弟子になっても、各自の蕩減の道は残っていることを知らなければなりません。統一教会に入ってきても、すべてそのまま同じではありません。ある人は苦労して、
ある人は死にそうになりながら行き、また、ある人はひどく苦労をしながら行かなければなりません。
なぜそうでなければならないのでしょうか。すべて蕩減の道が違うからです。命を捧げてでも行かなければならないというその伝統基準は同じですが、行く道は違うのです。蕩減の量は違うということを知らなければなりません。
(251-131、1993.10.17)
罪というものを『原理講論』では、 「サタンと相対基準を造成して……天法に違反すること」といっています。罪には、原罪、遺伝的罪、連帯罪、自犯罪があります。
ところが、普通、地上人は「罪」というと、自犯罪のみを考えがちです。しかし、原罪はもちろん、先祖から受け継いだ遺伝的罪があり、自分が直接に罪を犯したのではなくても、連帯的な責任として負うようになる連帯罪もあります。
堕落人間は、一言で言うと、6000 年の人類歴史すべての善悪の結実体ということができます。子孫は、先祖から善なる性稟も悪なる性稟も受け継ぐのですが、善よりは悪が多い世界で生きているうちに、より多くの悪の性稟と、その罪が子孫たちに受け継がれて、悪循環をしています。
地上人の体の中に、多くの悪霊がついているということは、自分が犯した自犯罪と、先祖の罪が受け継がれて現れた結果を意味しています。罪は、堕落性を通して、サタンと相対基準を結んで、天法に違反した結果なので、罪には必ず事情があり、関連した者がいるようになっているのです。
それで、もし先祖が過去、地上に生きていたときに、間違ったことをして、相手に苦痛と痛みを与えて、恨みをもたせたとすると、恨みをもった霊人たちは、その苦痛を与えた霊人の子孫にぴたっとついて復讐をしようとし、その子孫たちを悪のどん底に陥れようとするのです。このような罪によって現れる代表的な結果が、病気と、それによる苦痛なのです。
現代の地上人がもっている病気のその多くは、このような先祖の罪と関連していると言っても過言ではありません。子孫に現れた病気と苦痛の内容を見ると、過去のその先祖の生き方がどのようであったかを知ることができます。
先祖が公金を流用したり、他人の財産を盗んだりした場合、また、被害を与えた場合には、その子孫が胃腸系の病気になりやすいのです。
淫乱罪を犯した場合には、その子孫が脱線したり、生殖器に関連した病気や不妊症が現れたり、離婚する家庭が多いのです。自分が相手を見間違えたり、また、ほかの人を通して、その人のことについて誤ったことを聞いたりして言葉を誤れば、心情を 蹂躙した罪が成立して、その子孫の中に、目や耳や口の不自由な人が生まれる場合もあります。
相手に被害を与え、痛みを与えた、ちょうどその肉身の該当部位に、病気が発生することが多いのです。その罪の代価が重いほど、不治の病として現れます。
このような先祖が犯した罪を、現在、地上に生きている人間が蕩減条件を積んで清算できなければ、その罪は、さらに子孫へ受け継がれていきます。
あとで、地上人が霊界に来て、子孫たちが苦しんでいるのを見て、「自分がその罪を清算してあげていたなら、子孫たちがあの苦痛を受けずに済んだのに」と後悔することも多いのです。
興進様の霊界メッセージ、2002.1.1
私たちの先祖が罪をたくさん犯したのなら、私が……。女性、男性、またどれほど罪をたくさん犯したでしょうか。
それを蕩減できなかったのなら、子孫の前にも私が祭物になり、いさぎよく従順にしなければなりません。器量のよくない男性でも、器量のよくない女性でも、世の中の美男美女以上に正しく生きよう、このようにして蕩減しなければなりません。
(116-151、1981.12.27)
6000 年も悲しみの祭壇が連続したところには、先祖たちの過ちがあったためであることを知っておりますが、今日、私たちがまた責任を果たすことができず、悲しみを後代に残すのではないかと恐ろしく思います。
今日、私が私 1 代で悲運の歴史を防ぎ、天の心情をここから収拾し、新しい喜びの心情に変えておかなければならない責任が私たちにあることを学びましたので、この時間、頭を下げた私たち、お父様の心情の同伴者となるよう許諾してください。
(8-262 ~ 263、1960.2.7)
6. 連帯的罪と歴史的罪
個人は、その属した国家、人種、氏族と宗教などの集団に、不可避に連帯している。彼らの個人的人生が有罪であれ、潔白であれ、個人は集団の運命に繁栄と苦痛がかかっている。その共同体に広がった悪―戦争、飢饉、伝染病、そして蔓延した麻薬使用―は共同体のすべての人に苦痛をもたらす。文鮮明先
生は、これを連帯的罪と呼ぶ。人間は、連帯的罪を認識し、その罪の代価を払わなければならない責任がある。何よりもまず国家によって抑圧され、厳しい待遇を受けた人たちの悲しみを理解する努力を通して、連帯的罪を償うことができる。そして、犠牲と愛で連帯的罪を解決することができる。
― 宗教経典 ―
蛇が群がる湖に住む魚のように、たとえ敬虔で罪のない人であっても、他人と付き合えば彼らの過ちによって苦しみを受けるのである。
ラーマーヤナ、森林の巻 38(ヒンドゥー教)74
神が人に懲罰を下すとき、彼らの中の正義なる者は、その懲罰にぶつかるようになるが、後日、彼らの行為によって復活するだろう。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)75
あなたたちは皆、互いに保証人になる。この世で永遠に、あなたたちの中にいる一人の義人の過去の功績で、あなたたち全員が生き、一人が罪を犯すことで、すべての世代が苦痛を受けるようになる。
タンフーマ(ユダヤ教)76
正義は退き、恵みの業は遠くに立つ。まことは広場でよろめき / 正しいことは通ることもできない。まことは失われ、悪を避ける者も奪い去られる。
イザヤ書 59.14 ~15(キリスト教)77
主の怒りでわたしは満たされ / それに耐えることに疲れ果てた。「それを注ぎ出せ/通りにいる幼子、若者の集いに。男も女も、長老も年寄りも必ず捕らえられる。 家も畑も妻もすべて他人の手に渡る。この国に住む者に対して / わたしが手を伸ばすからだ」と主は言われる。「身分の低い者から高い者に至るまで / 皆、利をむさぼり / 預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して / 平和がないのに、『平和、平和』と言う。彼らは忌むべきことをして恥をさらした。しか
も、恥ずかしいとは思わず / 嘲られていることに気づかない。それゆえ、人々が倒れるとき、彼らも倒れ / わたしが彼らを罰するとき / 彼らはつまずく」と主は言われる。
エレミヤ書 6.11~15(キリスト教)78
我々は、この戦争という巨大な災いが速やかに過ぎ去ることを心から望み、熱心に祈りを捧げている。しかし、もし神が、250 年間にわたる奴隷たちの報われざる苦労によって蓄積されたすべての富が滅却され、鞭によって流された血のすべての滴が、剣によって流される血の滴によって贖われるまで、戦争が続くことを望まれるなら、3000 年前に言われたように、いまもなおこう言わなければならない。「主の裁きはまことにして正しい」。
エイブラハム・リンカーン 第2回大統領就任演説 79
― み言選集 ―
イエス・キリストは、この地上に神様の栄光と神様の愛と神様の永遠の生命をもって万民を救うために来られたのですが、彼の道をふさいでいる一つの条件がありました。それが何かというと、この人とあの人、この集まりとあの集まり、この社会とあの社会、この国家とあの国家の間に一つの金網のように組まれている罪というものでした。
(1-167、1956.7.11)
アメリカはたくさんの人を殺害しました。アメリカが歴史的な罪をすべて蕩減するためには、何をしなければならないのでしょうか。アメリカが東洋の人のために生きなければなりません。ここでインディアンを虐殺し、黒人たちの血を流しました。彼らは東洋人です。すべて今日この時代に蕩減して越えていかなければなりません。
(101-337、1978.11.12)
最近では、運動する人、走る人の半分以上が黒人です。アメリカでは年ごとに白人が追いやられ、黒人が登場するという事実を皆さんは知らなければなりません。もしこの人たちが統一教会の思想さえもてば、白人はぱたぱたと落ちていきます。白人はかなわないというのです。ですから、白人たちは、反対
すれば反対するほど、黒人たちに福を奪われます。神様は損をしません。ですから、黒人は落胆しないでください。
イエス様が十字架を背負っていくとき、助けてくれた人が黒人です。クレネ人のシモンは黒人です。終末が来れば、黒人が登場するのです。問題は何ですか。思想的に偉大な思想をもたなければならないということです。
(91-219、1977.2.20)
7. 利己的欲望と堕落性
情念、貪欲、羨望、憎悪、情欲、このような感情は、人に理性を失わせ、破滅へと導き、霊魂を蝕む。大部分の主要な宗教は、度を越した欲望や利己的な欲望のために苦痛と悪が生じると教える。仏教では、このような欲望を四聖諦の2番目の原理として集約し、「渇愛」という用語で表現している。渇愛は足かせである。心情の毒になり、心を眩惑させ、私たちを悪行の道に結びつける。
すべての宗教が利己的欲望を害悪と様々な苦痛の原因として見ているが、利己的欲望を人間の心理と関連させて説明するやり方は、それぞれ異なる。仏教とジャイナ教は、あらゆる種類の欲望を、さらには存在自体のための欲望も、悪行と束縛の根源とみなし、拒否する。キリスト教、ユダヤ教、イスラームなどの一神教や、シク教とヒンドゥー教の一部の経典は、悪の肉体的欲望を善のための健康な欲求、または神様に向かう欲望と区別する。
中国の宗教は、ひとえに度を越した欲望と利己的な欲望だけを非難する。欲望が道と調和を成したなら、欲望自体は善のものになり得る。これは、文鮮明先生の教えでもある。神様は、人々が善のための熱望をもつように欲望を創造したが、人間の堕落の結果、利己的なものに変質した。
文鮮明先生は、アダムとエバが堕落する当時、サタン的性質と態度が彼らに植えられたので、利己的な欲望は「堕落性」の表現であると教える。人間の本性が堕落し、真の召命から遠ざかったという事実を様々な経典が証している。私たちは、動物水準、さらにはそれ以下に転落した。私たちは、内的矛盾に包囲され、驕慢、暴力、貪欲、そして情欲が私たちの人生を支配している。
①利己的欲望と情念
― 宗教経典 ―
これが苦痛の根に関する聖なる真理、すなわち苦聖諦である。再生で引いていくのは渇愛であり、それは貪欲と密接だ。それは、今ここで、また今そこで、ぐつぐつと燃え上がる快楽を求めるが、いわゆる、感覚的快楽に対する渇望と、存在に対する渇望と、生成に対する渇望と、非存在に対する渇望がそれである。(注18)
阿含経相応部 56.11、転法輪経(仏教)80
貪りと、憎しみと、愚かさとは、その人自身より生じたものでありながら、悪心をいだく人を害する。果をつけた竹が自らほろびるのと同じである。
如是語経 50(仏教)81
誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して
死を生みます。
ヤコブの手紙1.13 ~15(キリスト教)82
何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。
ヤコブの手紙 4.1~ 3(キリスト教)83
アルジュナはたずねた。「それではクリシュナ。人間は何に命じられて悪を行うのか。望みもしないのに。まるで力ずくで駆り立てられたように。」
聖バガヴァットは告げた。―それは欲望である。それは怒りである。激質という要素から生じたものである。それは大食で非常に邪悪である。この世で、それが敵であると知れ。火が煙に覆われ、鏡が汚れに覆われ、胎児が羊膜に覆われるように、この世はそれ(欲望、怒り)に覆われている。知識ある者の知識は、この永遠の敵に覆われている。アルジュナよ、欲望という満たし難い火によって。感官と思考器官と思惟機能は、それの拠り所であると言われる。それはこれらにより知識を覆い、主体(個我)を迷わせる。それ故アルジュナよ、あなたはまず感官を制御し、理論知と実践知を滅ぼすこの邪悪なものを捨てよ。
バガヴァッド・ギーター 3.36 ~ 41(ヒンドゥー教)84
先生がいわれた、「わたしは美人を愛するほどに道徳を愛する人をまだ見たことがない。」
論語 9.18(儒教)85
女が誘惑物だと人々は言う。
いや、いや、そうではない。
お金が誘惑物だと人々は言う。
土地が誘惑物だと人々は言う。
いや、いや、そうではない。
本当の誘惑物は満足することを知らない欲望だ。
おお、主なるクヘスワラよ!(注19)
アラマ・プラブー ヴァチャナ 91(ヒンドゥー教)86
この体に隠れた盗賊が五つあるが、色欲、憤怒、貪欲、執着、利己心がそれである。(注 20)
アーディ・グラント、ソーラト
M.3、p.600(シク教)87
「諸欲に執し諸欲に著せるものは結使に禍あるを見ることなし。これ蓋し結使に執著せるものは廣くして大なる河を渡ることなければなり」
「欲に盲目なるもの、網に蔽われしもの、愛欲の蔽いに蔽われしもの、放逸の友に囚われたるものは恰も筌の口にある魚の如く、乳を飲む子牛の親牛に向ふがごとくにして老死に赴く」
感興偈 75 ~ 76(仏教)88
― み言選集 ―
私たちの境界線の中で、最も危険なものとは何かというと、横道にそれやすいことです。それが私たちの人生生活においては何かということです。じっくり一度指を折って数えてみましょう。それは、外的と内的に分けられます。外的に見れば、相対的関係において何が必要なのですか。何か一度数えてみ
ましょう。お金も数えることができます。その次には、知識というものです。また、その次には何かというと権力です。大概このようにみなします。そのようなお金というものが私を引っ張るのです。
それでは、そこに何ゆえに引っ張られるのですか。私がそこに誘惑され得る条件とは何でしょうか。私の内的な問題において、それが正に欲心、欲望なのです。誰のための欲心ですか。この欲心が悪いのです。私のための欲心です。
(90-12、1976.12.5)
人間は誰でも、自己の欲望が満たされるとき、幸福を感ずるのである。しかし欲望などといえば、ややもすると我々はその本意を取り違えがちである。というのは、その欲望が概して善よりは悪の方に傾きやすい生活環境の中に、我々は生きているからである。しかしながら、我々をして不義を実らせるような欲望は、決して人間の本心からわき出づるものではない。人間の本心は、このような欲望が自分自身を不幸に陥れるものであるということをよく知っているので、悪に向かおうとする欲望を退け、善を指向する欲望に従って、本心の喜ぶ幸福を得ようと必死の努力を傾けているのである。
これこそ正に、死の暗闇を押しのけて、命の光を探し求めながら、つらく、険しい人の道を彷徨する偽らざる人生の姿なのである。いったい、不義なる欲望のままに行動して、本心から喜べるような幸福を味わい得る人間がいるであろうか。このような欲望を満たすたびごとに、人間は誰しも良心の呵責を受け、苦悶するようになるのである。その子供に悪いことを教える父母がいるであろうか。その子弟を不義に導く教師がいるであろうか。誰しも悪を憎み、善を立てようとするのは、万人共通の本心の発露なのである。
原理講論、総序
人間は、神様の実体である。ゆえに神様は、私を通して喜ばれる。しかし私が、ねたみ、しっと、驕慢
のような堕落性によって欠陥のある実体だとすれば、どうして神様が私を通して喜ばれることができようか。
御旨の道、人格
外的な体を中心とした愛が、内的な心を中心として、理想的な永遠な生命の起源になる神様の愛を裏切ってくる歴史の結果がもたらされたのです。ですから外的な愛、すなわちサタンの愛を除去し、そこに本然の内的な愛、すなわち神様の愛を相続して体と心を糾合しなければなりません。
(20-179、1968.6.9)
②堕落性
― 宗教経典 ―
ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが / 人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。
コヘレトの言葉 7.29(キリスト教)89
迷妄とカルマの力は実に悪魔がせき立てるものであるがゆえに、本来、清浄な人の心があらゆる邪悪さを楽しむように誘導する。
クンダクンダ パンチャースティカーヤ 38
(ジャイナ教)90
かれは言った、「わたしはあなたのしもべのうち、相当の部分の者をきっと連れ去るでしょう」。「またわたしはきっとかれらを迷わせて、そのむなしい欲望にふけらせ、またかれらに命じて、……神の創造を変形させます」。何人でも神をおいて、悪魔を友とする者は、必ず明らかな損失を被むるのであ
る。悪魔はかれらと約束をむすび、むなしい欲望にふけらせるであろう。だが悪魔の約束は、欺瞞にすぎない。
クルアーン 4.118 ~120(イスラーム)91
汝の心性狂乱するに由って、知見妄を発す。妄を発してやまざれば、見を労して塵を発す。目晴を労すれば、即ち 狂華あるが如し。湛精明に於いて、因なくして一切世間の山河大地を乱起す。生死涅槃は、皆即ち狂労転倒の華相なり。
首楞厳経(仏教)92
人が禽獣とちがう点は、ごくわずかである。即ち仁義をとり守って存するか、すててしまって存しないか、のちがいである。一般人は仁義をすて去り、君子は常に仁義を存してうしなわないのである。
孟子 IV.A.19(儒教)93
人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。
エレミヤ書17.9(キリスト教)94
われがしるしを下した者の物語を、かれらに告げるのだが、かれはそれを受け流している、それで悪魔が憑いて、かれは背教者のたぐいとなった。もしそれがわが意志であったならば、われはそのしるしによってかれを引きたてたであろう、だがかれは地上に執着して、己れのむなしい私欲に従った。それでかれをたとえてみれば、犬のようなもので、もしなんじが、それをしかりつけても舌をたれている、また放っておいても舌をたれている。これはわがしるしを信じない者の比ゆである、それゆえこのいにしえの人びとの物語を告げよ、おそらくかれらは反省するであろう。……
われは地獄のために、ジンと人間の多くをつくった。かれらは心を持つが、それで悟らず、目はあるが、それで見ず、また耳はあるが、それで聞かぬ。かれらは家畜のようである、いやそれよりも迷っている。かれらは警告を軽視す
る者たちである。
クルアーン 7.175 ~ 79(イスラーム)95
一点の神の愛も
燃えないあの人、
ナナークよ、知れ。彼の俗世の服は
犬や豚のそれより少しも優れていないことを!
アーディ・グラント、スローク
M.9、p.1428(シク教)96
天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。わたしは子らを育てて大きくした。
しかし、彼らはわたしに背いた。牛は飼い主を知り / ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず / わたしの民は見分けない。
イザヤ書1.2 ~ 3(キリスト教)97
人の本性は水と似ている。本来は清い。もし我々がきれいな器に水をくめば水はきれいだが、汚れた器にくめば水は汚れるだろう。その本来の清さは常にそこにあるが、一度それが汚されたり、濁れば、その清さを取り戻すのは難しい。
朱熹(儒教)98
わたしは、不義が何であるかをたずねて、それが実体ではなく、最高の実体である神からはなれて、卑
賤なものにねじ曲げられ、「腸をさらけ出して」のさばり出て意志の背反に外ならないことを悟った。
アウグスティヌス 告白 7.16(キリスト教)99
一般の、もっとも卑俗なひとびとは、当然のことながら、快楽を「善」や「幸福」であるとみなしているように見える。かれらが享楽の生活に満足している理由はまさにそこにある(おもうに、生活には、およそ三つの主な形態がある。いま述べた享楽の生活と、第三に観想の生活である)、こうして、大衆はそのまるっきり奴隷的な根性をむき出しにして、家畜にひとしい生活を選びとっているが、権勢の地位にあるひとびとの多くがその嗜好においてサルダナバロス(アッシリア盛期の王)に類するのを見れば、彼らがそうするのは無理からぬことである。
アリストテレス ニコマコス倫理学1.5(ヘレニズム)100
― み言選集 ―
美しい神様の理想世界を実現なさろうとする人類歴史の初めの日、エデンの園で、人類の始祖は神様を失ってしまいました。一言で言うならば、人類の始祖になる一男一女は神様の前に罪を犯し、神様の国から追放されました。そして神様の聖殿になれず、悪魔の巣窟になりました。そして、その悪魔は利己主義の本山なのです。
(219-116 ~117、1991.8.28)
堕落した人間は、万物よりも劣る立場におかれるようになったので(エレミヤ17・9)。
原理講論、後編緒論1.2.1
皆さん、大洋を巡る大きな船が破損する危険が生じるようになるとき、その船の中に棲んでいたねずみたちが、すべて綱を渡って陸地に逃げていくという話を聞いたことがありますか。微々たる動物も、未来の自分の生死圏を見分けることができるのに、万物の霊長である人間は何ですか。いいだこのようになってしまいました。
(215-53、1991.2.6)
私の心と体は、神様の愛を通して完全に一つになります。しかし、私の心と体が分かれて、一度も一つになったことがありません。堕落したためにそうなのです。堕落していなければ、神様の本質的愛を中心として完全に一つになるのです。その愛を中心とする愛の世界には、教育がありません。先生がいません。神様だけが先生です。教えてあげなくても、既に知っているのです。
心と体が一つになれば、宇宙が……。すべて宇宙の縮小体です。すべて知っているのです。学ぶ必要がありません。人間がどのように生きなければならないのか、ということを教える必要はありません。倫理道徳を教える必要がありません。見てください。すずめの世界や動物の世界で、倫理道徳教育をしますか。自分たち同士で保護し、生理的に自分の一族を連結させて生きることを知っているのに、どうして万物の霊長がこのようになっているのですか。堕落したので争いが起きるのです。
(162-223、1987.4.12)
私たちは堕落性をもっています。堕落性の4大条件とは何ですか。驕慢とねたみと血気と偽りです。驕慢、嫉妬、血気、偽り、これが堕落性です。皆さんもそれを脱がなければならないということです。
(150-126 ~127、1960.9.4)
堕落性本性が生ずるようになった根本的動機は、天使長がアダムに対する嫉妬心を抱いたところにあった。それでは、善の目的のために創造された天使長から、いかにしてそのような愛に対する嫉妬心が生ずるようになったのであろうか。元来、天使長にも、創造本性として、欲望と知能とが賦与されていたはずであった。このようにして、天使長は知能をもっていたので、人間に対する神の愛が、自分に注がれるそれよりも大きいということを比較し、識別することができたのであり、またその上に欲望をもっていたから、神からそれ以上に大きい愛を受けたいという思いがあったということは当然なことである。そして、こういう思いは、自動的に嫉妬心を生ぜしめたのである。したがって、このような嫉妬心は、創造本性から誘発されるところの、不可避的な副産物であり、それはちょうど、光によって生ずる、物体の影のようなものであるといえよう。
しかし、人間が完成すれば、このような付随的な欲望によっては決して堕落することはできなくなるのである。なぜなら、このような欲望を満たすときに覚える一時的な満足感よりも、その欲望を満たすことによって生ずる自己破滅に対する苦痛の方が、もっと大きいということを実感するようになるので、このような行いをすることができないのである。
そして、創造目的を完成した世界は、あたかも一人の人間のように、互いに有機的な関係をもつ組織社会であるから、個体の破滅は、直ちに全体的な破滅を招来するようになる。したがって、全体は個体の破滅を放任することができない。このように、創造目的を完成した世界においての創造本性から生ずる付随的な欲望は、人間の発展をもたらす要素とはなっても、決して堕落の要因とはなり得ないのである。
堕落性本性を大別すれば、次の四つに分類することができる。その第 1 は、神と同じ立場に立てないということである。天使長が堕落 するようになった動機は、神が愛するアダムを、神と同じ立場で愛することができず、彼をねたんでエバの愛を 蹂躙したところにあった。君主の愛する臣下に対して、その同僚が、君主と同じ立場において愛することができず、ねたみ嫌う性稟は、とりもなおさず、このような堕落性本性から生ずるのである。
第2には、自己の位置を離れるということである。ルーシェルは、神の愛をより多く受けるために、天使世界においてもっていたと同じ愛の位置を、人間社会においても保とうとして、その不義なる欲望によって、自己の位置を離れ、堕落したのであった。不義な感情をもって、自己の分限と位置を離れるというような行動は、みなこの堕落性本性の発露である。
第3は、主管性を転倒するということである。人間の主管を受けるべき天使が、逆にエバを主管し、またアダムの主管を受けるべきエバが、逆にアダムを主管するようになったところから、堕落の結果が生じたのである。このように自己の位置を離れて、主管性を転倒するところから、人間社会の秩序が乱れるのであるが、これは、すべてこのような堕落性本性から生ずるのである。
第4は、犯罪行為を繁殖することである。もし、エバが堕落したのち、自分の罪をアダムに繁殖させなかったならば、アダムは堕落しなかったであろうし、エバだけの復帰ならば、これは容易であったはずである。しかし、エバはこれとは反対に、自分の罪をアダムにも繁殖させ、アダムをも堕落させてしまった。悪人たちがその仲間を繁殖させようとする思いも、このような堕落性本性から生ずる思いなのである。
原理講論、堕落論 4.6
今、すべての堕落性本性がどうだということを知りました。まず所有権、自分を中心とする所有欲から出発したのであり、その次にはうそをついたのであり、その次には不条理な貞操の道を行き、その次にはあらゆる天のものを奪う強奪の道を行き、その次に、アダム時代に来ては、殺害する道を行きました。
歴史時代のすべての独裁者たちが、どのような人たちかというと、うそをついた者であり、不倫的な愛の道を思いどおりに行った者であり、すべてのものを自分の思いどおりに強奪した者であり、すべての善の人を思いどおりに葬り去った者であることを考えるとき、このような歴史的な汚点の道を私たちは行ってはなりません。これを愛で昇華させる天の伝統をそのまま受け継ぎ、自分自ら闘うことを願います。
(121-257 ~ 258、1982.10.27)
8. 内的闘争
現実的人間は、善と悪という二つの互いに相反する内的衝突現象に直面している。人間がこのような内的矛盾にとらわれている限り、神性的自我を実現することはできず、完全な状態を成すこともできない。逆説的に世俗の生活に陥った人間は、はっきりした罪意識を除いては、彼らの内部の闘いを感知することはできないまま生きていくだろう。反面、良心的な生活や宗教的な生活を追求する人たちは、直接的にこの問題に直面するようになる。
文鮮明先生は、人間の内的矛盾は人間堕落の直接的な結果だと教える。先生は、神様がそのような矛盾を抱えた人間を創造するはずがなく、そうでなければ、神様は善の神様になれないと語り、人間も完成を成す希望さえもつことができないと主張する。このような人間の内的矛盾は、堕落によって人間性が歪曲されたという証拠である。堕落の問題が解決されなければ、心と体の闘争も決して終わらない。
― 宗教経典 ―
わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法
則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
ローマの信徒への手紙 7.15~24(キリスト教)101
私は何が善であるか知っている。しかし私はそれをしたいと思わない。私はまた、何が悪であるかを知っている。しかし私はそれをやめることが出来ない。私はただ心の中に立っている、ある神の霊にかり立てられるままにそれをなすだけだ。(注 21)
マハーバーラタ(ヒンドゥー教)102
ラビ・イサクが言った。「人が悪に傾きやすい傾向は、日ごと新しい変化をもちながら人を苦しめる。ゆえに聖書にはこのような聖句がある。『地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている』(創世記 6.5)」。そしてレビの息子ラビ・シムオンはこのように言った。 「悪を指向する心は、日ごと人に対して抵抗し、拒否する強い力を蓄える。そして人を殺そうと努める。もし聖なる神が人を助けてくださらなければ、彼は決して悪を行う勢力に勝つことはできないだろう。その方に大いなる祝福があらんことを」。
タルムード、キッドゥシーン 30b(ユダヤ教)103
怨みという煩悩が生じるのは、すべて貪欲と嫉妬とに由来する。さればこそ、神々、世間の人々、阿修羅、それに他の生きものたちは武器で戦いあうようになるのだ。
阿含経長部 ii.276、釈提桓因間経(仏教)104
すべての邪悪は首にはめられた鎖と違わない。
アーディ・グラント、ソーラト、M.1、p.595(シク教)105
憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、邪
よこしまなことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。
法句経 42(仏教)106
まことに神は、決して人間をそこないたまわぬ、だが人間は自ら己れをそこなう。
クルアーン 10.44(イスラーム)107
誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。
マタイによる福音書 26.41(キリスト教)108
自ら自己を高めるべきである。自己を沈めてはならぬ。実に自己こそ自己の友である。自己こそ自己の敵である。自ら自己を克服した人にとって、自己は自己の友である。しかし自己を制していない人にとって、自己はまさに敵のように敵対する。
バガヴァッド・ギーター 6.5 ~ 6(ヒンドゥー教)109
預言者が宣布した。「我々は、小さな聖戦から大きな聖戦に戻ってきた」。彼らが「神の預言者よ、何がもっと大きな聖戦なのですか」と尋ねると、彼が答えた。「弱い自らに対抗して戦うことである」。(注 22)
ハディース(イスラーム)110
わたしたちが最高善の目的によって完成されることをのぞむとき、わたしたちがなすことを熱望するのは、肉が霊に反して欲求しないこと、そして、霊が熱望するところのことに相反する悪徳がわたしたちのうちにないこと、でないなら何であろうか。わたしたちはこれをいかにのぞんでも、この世の生においてなすことはできないのであるから、すくなくとも神の助力のもとに、霊に反する肉の欲に霊が屈服して譲歩することがないように、そして、わたしたちが同意して罪を犯すことへ引きずられることがないようにするのである。
アウグスティヌス 神の国19.4(キリスト教)111
― み言選集 ―
人は本来、悪を避けて善を追求していこうとします。私たちの心は、善の世界を立て、悪の世界を除去するために、常に走っていますが、その反面、私自身の中で悪の心が善の心に向かって強く作用するのを私たちはよく感じています。善の心を強く掲げていけばいくほど、それに比例して悪の心が常に対決しているのです。
(36-51、1970.11.15)
人間は誰でも、自己の欲望が満たされるとき、幸福を感ずるのである。しかし欲望などといえば、ややもすると我々はその本意を取り違えがちである。というのは、その欲望が概して善よりは悪の方に傾きやすい生活環境の中に、我々は生きているからである。しかしながら、我々をして不義を実らせるような欲望は、決して人間の本心からわき出づるものではない。人間の本心は、このような欲望が自分自身を不幸に陥れるものであるということをよく知っているので、悪に向かおうとする欲望を退け、善を指向する欲望に従って、本心の喜ぶ幸福を得ようと必死の努力を傾けているのである。
とりわけ、このような本心の指向する欲望に従って、善を行おうと身もだえする努力の生活こそ、ほかならぬ修道者たちの生活である。しかしながら、有史以来、ひたすらにその本心のみに従って生きることのできた人間は一人もいなかった。それゆえ、聖書には「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない」 (ロマ3・10、11)と記されているのである。また人間のこのような悲惨な姿に直面したパウロは「私は、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、私の肢体には別の律法があって、私の心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、私をとりこにしているのを見る。私は、なんというみじめな人間なのだろう」(ロマ7・22~ 24)と慨嘆したのであった。
ここにおいて、我々は、善の欲望を成就しようとする本心の指向性と、これに反する悪の欲望を達成させようとする邪心の指向性とが、同一の個体の中でそれぞれ相反する目的を指向して、互いに熾烈な闘争を展開するという、人間の矛盾性を発見するのである。
存在するものが、いかなるものであっても、それ自体の内部に矛盾性をもつようになれば、破壊されざるを得ない。したがって、このような矛盾性をもつようになった人間は、正に破滅状態に陥っているということができる。ところで、このような人間の矛盾性は、人間が地上に初めて生を享けたときからあったものとは、到底考えられない。なぜかといえば、いかなる存在でも、矛盾性を内包したままでは、生成することさえも不可能だからである。もし人間が、地上に生を享ける以前から、既にこのような矛盾性を内包せざるを得ないような、運命的な存在であったとすれば、生まれるというそのこと自体不可能であったといえよう。したがって、人間がもっているこのような矛盾性は、後天的に生じたものだと見なければなるまい。人間のこのような破滅状態のことを、キリスト教では、堕落と呼ぶのである。
原理講論、総序
人間の良心は神様を代表する心です。良心は私のために存在しません。天の義のために存在します。良心は常に善に向かって走ろうとします。これに体は反抗します。体は自分だけ安らかであろうとし、利己的であり、本能的欲求に従って肉欲を行おうとします。良心はこの体を叱責し、心に順応するようにします。ここに常に血の出るような葛藤と闘争が、一つの体の中で起こるようになるのです。
(219-118、1991.8.28)
今、私たちの生命の種をどこで受けましたか。神様から受けましたか、サタンから受けましたか。サタンから受けたということを誰も否定できません。しかし、本心は、サタンの種ではなく、本然の理想的な生命の種を願っています。このように不調和が起きるので、苦痛を受けるのです。心は神側に立ち、
体はサタン側に立って闘っています。ですから、皆さんが心と体の統一をもたらさない限り、天国に行くことができないのです。
(235-203、1999.9.20)
人類歴史に宗教が必要ならば、その宗教によって何をしなければならないのでしょうか。肉身を征服しなければならないのです。なぜなら、肉身によって歴史が滅び、肉身によって社会が滅び、肉身によってこの人類が滅びたためです。したがってこの肉身は怨讐の母胎であり、罪悪の根本の根だということを切実に感じなければなりません。
(18-322、1967.8.13)
私が問題です。それで、私が怨讐です。皆さんの心と体が一つになれないことが怨讐です。
(128-108、1983.6.5)
この体は、サタンの舞台になっています。体はサタンの舞踏場になっていて、心は神様の舞踏場になっています。堕落していなければ、心と体が一つになるのです。神様の愛、神様の生命、神様の血統を中心として自然に一つになるのです。
(235-203、1992.9.20)
9. 利己主義と慢心
自我に対して過度にのめりこんだ利己主義は、神様の実在に対して盲目にさせる。そのような問題は、自己過信、財産と知識、権力に対する慢心によって生じる。利己主義と慢心は、私たちを神様から遠ざける。私たち自身が独立していると考えるならば、私たちの存在自体が究極的実在に従属されているという事実を認識することができない。慢心は、ほかの人の必要性を無視し、ほかの人の助けを、口を極めて断る。その上、慢心は、私たち自身の状態を正確に知ることができないようにする。
キリスト教では、慢心が堕落の第一歩であり、神様に対する反逆だとみなす。仏教では、自我を追求して慢心をもつことがあらゆる欲望の頂点であり、無知の最も深い根とみなす。インドの宗教によれば、利己主義は人を輪廻の車輪に固定させる鎖である。
文鮮明先生は、このような一般的な教えを語りながら、今日の富裕な強大国の市民たちに蔓延している社会的な自己顕示的慢心と利己主義に対して、特に指摘する。先生は特に、アメリカ社会の隅々に潜んでいる慢心に対してアメリカの悔い改めを勧め、そうしなければ必然的にアメリカは衰退すると警告する。先生はまた、利己主義と慢心を、心の奥深くに悪の習性を植えた人間の堕落と連結させる。
― 宗教経典 ―
いや、人間は、自分で何も足らぬところはないのだと考え、まことに法外である。まことになんじの主に、よろずのものは帰されるのである。
クルアーン 96.6 ~ 8(イスラーム)112
痛手に先立つのは驕り。つまずきに先立つのは高慢な霊。
箴言16.18(キリスト教)113
災いだ、自分の目には知者であり /うぬぼれて、賢いと思う者は。
イザヤ書 5.21(キリスト教)114
自己中心的な考えは、それ自身には甘美なものかもしれないが、全体の不調和がそこから現れ得る。
おさしづ(天理教)115
すべての痛みとつらさは、調和の欠乏から生じ、調和を妨害する一つの恐るべき、そして唯一の原因は、いかなる形態であれ利己心であると、私たちは主張する。
エレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー
神智学の鍵(神智学)116
「ここに我あり。これは我に属す」などと臆計し、それによって自己を以て自己を縛するに至るのは、あたかも鳥が網を以て自己を縛するが如くである。
マイトリ・ウパニシャッド 3.2(ヒンドゥー教)117
「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。
法句経 62(仏教)118
利己心のある所にあなたがいることはできず、あなたのいる所に利己心はない。
アーディ・グラント、マールー・キ・ヴァール
M.1、p.1092(シク教)119
エシュルンはしかし、肥えると足でけった。
お前は肥え太ると、かたくなになり /造り主なる神を捨て、救いの岩を侮った。
申命記 32.15(キリスト教)120
オンチャメ(神)は高くいらっしゃり、人は地にいる。
いえいえお、やれれ、
神は神、人は人、
ぞれぞれ自分の家にいて、自ら生きる。(注 23)
ファン族の伝承(アフリカ伝統宗教)121
万軍の主の日が臨む / すべて誇る者と傲慢な者に / すべて高ぶる者に―彼らは低くされる―/
高くそびえ立つレバノン杉のすべてに / バシャンの樫の木のすべてに /
高い山、そびえ立つ峰のすべてに /高い塔、堅固な城壁のすべてに /
タルシシュの船と美しい小舟のすべてに。
その日には、誇る者は卑しめられ /傲慢な者は低くされ /主はただひとり、高く上げられる。
イザヤ書 2.12 ~ 17(キリスト教)122
もしも愚者がみずから愚かであると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。
法句経 63(仏教)123
自ら善良だと叫ぶ者は、誰もが当然知るべし、善があなたを避けていくことを。
アーディ・グラント、ガウリー・スクマニー
M.5、p.278(シク教)124
先生がいわれた、「聖人にはわたしは会うことはできないが、君子の人に会えればそれで結構だ。善
ぜんじん人にはわたしは会うことはできないが、常のある人に会えればそれで結構だ。無いのに有るように見せ、からっぽなのに満ちているように見せ、困っているのにゆったりと見せて〔見栄をはって〕いるようでは、むつかしいね、常のあることは。」
論語 7.25(儒教)125
つまさきで立つものは長く立つことはできない。
大股で歩くものは長く歩くことはできない。
見せびらかすものはすぐれていない。
みずから正しいと主張するものは、他よりきわだっているわけではない。
信用を求めるものは信用を得られない。
自分を誇るものは最高のものではない。
「道」の立場からいうと、これらすべては生物が好まない余分のものである。
だから、「道」を有する人はそんなところに留まらないのである。
道徳経 24(道教)126
驕りとは高ぶることであり、放逸とは諸善を行なわないことです。慢は七種があり、それを分けて説きましょう。
そのうち、慢心を起して、 (われは)劣る者より劣る、同等の者と等しい、劣る者よりすぐれている、または等しいとほこること、これが自慢といわれます。
いかなる性質からしても自己よりすぐれている人と等しいとほこること、および(自己より)すぐれている人よりさらにすぐれているとほこること、これが高慢であります。
最高の者よりさらにすぐれているとほこることが思い上がりであって、あたかも腫物の上に(さらに)疱瘡が生じるように、有害であります。
生存の要素(取)といわれる五(蘊)は空(無実体)でありますが、愚かなためにそれに「われあり」と我執を起こします。それが我執心(我慢) といわれます。
(修行の)報いを得ていないのに得た、と考えるのが、うぬぼれ(増上慢)であります。悪業をなすことを讃えることが邪慢である、と知者は理解しています。
自己を必要なし、と自身を軽蔑することが卑下慢である、といわれます。これらを総括して、七(慢)といいます。
龍樹 宝行王正論 5.6-12(仏教)127
― み言選集 ―
信仰世界では 驕慢を怨讐視しました。我を怨讐視しました。自主的な立場を主張するのを怨讐視しました。
(67-164、1973.6.1)
自分を中心として考えるので、人の悪口を言うようになり、よいものがあれば奪って使いたいと思うのです。そのようなことを考える人は滅びます。何を中心として考えるのかということが問題です。ここにいる人たちは、そのような面できちんとしていますか。このように見るとき、人はほかの誰かに期待する必要がありません。
(36-183、1970.11.29)
自分を中心とする主義や主張をもった人は滅びます。自分の欲望のために人命を害し、国に害を及ぼしたというときに滅びるのです。国は個人に利用されるものではありません。かえって国に利用されなければならないのが国家圏内にいる国民の道理です。
人間は本来、自分個人だけのために生きるようになっていません。ところが、今日この地上には、自分個人だけのために生きる人がたくさんいます。「自分のために仕事をする」と言います。自分自身のために生きているというのです。どれほどかわいそうな人ですか。父母も、兄弟もいない孤児と同じです。
(24-20 ~ 21、1969.6.22)
堕落の起源、本来の人間が出発した起源を私たちが解剖してみれば、個人的な感情を中心として出発したのが人類歴史の起源なので、現代はそれが帰結され得る時なのです。
自由思想! このような自由な思想があるので、何かの型を中心として箱のようなところに収まっていないのです。好きなように育ち、好きなようにしていってみると、結果はすべて同じです。結果はすべて同じになるというのです。自分の思いどおりにすれば、あとでどのようになるのですか。それが特別によくなるのではなく、結局はすべて滅びるようになります。
(49-189 ~190、1971.10.10)
歴史的なすべての動きは、個人を拡大させたものです。今まで、個人が出世やある目的を達成するためには、どのような手段を使ってきましたか。自分の目的を達成するためには、団体を利用したり、個人を利用したりしました。それが今までの歴史的伝統でした。
人間が堕落しながら出発したその日から、サタンの血を受けて生まれたその日から、本意でない驕慢を中心に自分の利益を渇望してきたのが歴史的方向ではないかというのです。堕落が蒔いた種が正にそれです。
(46-141~142、1971.8.13)
神様の血統を受けなければならないこの人間たちが、僕の血統を受け継いだということです。ですから、堕落した人間たちがどんなに神様を父と呼んでも実感がわかないのです。それで自分のお父さん、お母さんがしたのと同じように、サタンの本性を引き継いで、自分を中心としてすべてのものを考え
るようになり、天も何も、高いものはみな自分と連結させるのです。
(91-242、1977.2.23)
皆さんが自己主張ばかりしていれば、みな離れていくでしょう。
(36-181、1970.11.29)
アメリカの国民たちは、個人主義の思想を尊重するのを知っています。主体と対象の関係を忘却した個人主義はあり得ません。ですから、アメリカは袋小路に来たのです。今こそ、キリスト教の精髄の路程を掘り返し、神様の本然の生命の道を訪ねていかなければなりません。神様は、「個人は家庭のためにあり、家庭は民族のためにあり、民族は国のためにあり、国は世界のためにあり、世界は神のためになければならない」と天理原則を主張します。そのように神様に従っていけば、神様のものであると同時に私のものになるのです。神様のために生きることが私のために生きることになります。
(69-88 ~ 89、1973.10.20)
個人主義は、サタンによる堕落の結果物です。サタンは、自分自身を中心として分離されます。一つは二つになり、二つは四つになります。なぜこのようにアメリカが個人主義国家になったのですか。サタンの王国だからです。ですから、希望がありません。個人主義のセンターはプライバシーです。それは何ですか。それによって家庭が壊れ、社会が壊れ、国家が壊れます。それは最も恐ろしいものです。そのように地獄に落ちるのです。
(361-233、2001.11.25)
歴史を見るとき、汚れたものがどこから始まったのでしょうか。自分から始まったのです。汚れたものが私たちの先祖を汚したのではなく、私たちの先祖、自分たちが汚れるようになったのです。それでは、その汚れるようになった原因はどこにあるのでしょうか。それは先祖たちが、「私」というものを
考えたので、そこで汚れたものが生じるようになったのです。すべて自分を中心としたからです。
もし、皆さんの先祖たちが自分自身よりもっと貴いもののために生きていれば、自分たちが汚されない道を行ったでしょう。それでは、自分より貴いものは何ですか。私は結果的な存在です。ですから、結果的存在は原因的存在のために生きなければなりません。このような結論が出てきます。自分のことを考える前に神様を考え、自分の考えを捨てて神様のことを考えて生きていれば、その人は悪の人になり得ないという結論が出てくるのです。
(92-58 ~ 59、1977.3.13)
皆さんが冷遇され、つばを吐かれながらピーナッツを売り、殴られたりするとき、「お父様!」と悔い改める条件が多いのです。私に罪が多いために、当然受けるべき「私」だというのです。皆さんがそのような生活を約 3 年だけすれば、皆さんは神様の前に帰るだろうと見るのが先生の観点です。ところ
が、皆さんはそのようなことは考えることができず、いくらもたたずに驕慢になっていきます。「ああ、私は統一教会の教会員であり、3 年間過ごせば祝福をしてくれなければならず、先生が私を認めてくれなければならず、教会で認めてくれなければ……」、これはどれほど恥ずかしい姿ですか。これはどれほど恥ずかしいことですか。
(92-72、1977.3.13)
10. 無知と無神論
大部分の宗教が、人間の人生において無知を悪の根源の一つだとみなしている。神様と人生の目的に関して無知であれば、人間の価値に混同を引き起こし、結果的に誤った行動をするようになる。使徒パウロは、神様に対する無知がすべての形態の放縦と不道徳の根源だと教えた。イスラームでは、「アッラーを忘却」すれば人々が人生行路から外れ、霊魂を失うようになるという。仏教では無知が自我を迷妄に引っ張り、結局、妄想をもつようになると教える。多くの経典が世俗的な人生を汚染させる幻想的目標と虚栄に対して警告している。
人が知識を探求する過程で様々な哲学に接するようになるが、はっきりと言うが、どの哲学も真理を完璧に明らかにはできていない。妥当な洞察でも、誤った見解が混ざっており、価値の混乱と衝突を引き起こすようになり、懐疑主義と無神論に導く場合もある。文鮮明先生によれば、これは人間の堕落に由来する根本的無知の結果である。共産主義と闘争してきた 20 世紀の先覚者の一人として、先生は特にこのような現代的形態の無知である共産主義に並々ならぬ関心をもっている。
ここの結論部分の章句は、人間の霊的無知に関して記述している。この章句で、無知は洞察力を曇らせる屏風として描写する。仏陀は、蛾が光に向かって飛んでいくのを、人々がこの世の中の幻想的虚無に陥る姿を例えるのに使った。ヒンドゥー教やジャイナ教では、このような無明(アヴィディヤ)は人々を生と死の歯車(サンサーラ)に縛られるようにし、究極的実在を求める代わりに、快楽を追求するようになると教える。プラトンの有名な洞窟の例えは、この主題に対して示唆するところが少なくない。文鮮明先生は、人間の堕落によって蔓延した無知は、人間を霊的真理に対して目をくらませ、全的に神の内的心情を分からなくさせるという。
①神様に対する無知
― 宗教経典 ―
なんじらは、神を忘れた者のようであってはならぬ、かれは、かれら自身の魂を忘れさせたもう。
クルアーン 59.19(イスラーム)128
なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めまし
た。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。
ローマの信徒への手紙1.21~ 25(キリスト教)129
神を知らぬ者は心に言う /「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。主は天から人の子らを見渡し、探される / 目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。悪を行う者は知っているはずではないか。パンを食らうかのようにわたしの民を食らい /主を呼び求めることをしない者よ。
詩編14.1 ~ 4(キリスト教)130
誰でも他の人に対して悪を行おうとする者は神を覚えない。
格言(アフリカ伝統宗教)131
天のわからぬものは、純粋な徳が持てず、道に通じぬものは、良くなれようがない。道のわからぬものは、哀れである。
荘子11(道教)132
神を否定する前までは、誰もあえて嘘をつくことはできないだろう。安息日にラビ・ルウベンがチベリアにいるとき、ある哲学者がこのように尋ねた。「世の中で最も憎悪すべき人は誰ですか」。ラビ・ルウベンが答えた。「創造主を否定する人だ」。哲学者が「どうしてそうなのですか」と尋ねた。ラビ・
ルウベンが答えた。「あなたの父母を敬いなさい。父母を敬う者は決して人を殺めず、姦淫をせず、盗みをせず、隣人に嘘の証言をせず、隣人のものを欲しがったりしないだろう」。神を否定する前に、このような十戒を否定する者は決していないということである。十戒の内容のような罪を犯すなと命令される神を否定しない者は、決して罪を犯さないだろう。
トセフタ・シャッバト3.6(ユダヤ教)133
阿修羅的な人は、〔正しい〕活動とその停止を知らない。彼らには、清浄さも、正しい行動様式も、真実も存在しない。
彼らは言う。―「世界は不真実であり、根底がなく、主宰神もない。相互関係によって生じないものが別にあるはずはない。だからそれは欲望を原因とする。」
彼らはこの見解に依存し、自己を失い、小知であり、非常に残酷な行為をし、有害であり、世界を滅ぼすために出生する。
彼らは満たし難い欲望にふけり、偽善と慢心と酔いに満ち、迷妄のために誤った見解に固執し、不浄の信条を抱いて行動する。
彼らは、限りない、死ぬまで続く思惑にふけり、欲望の享受に没頭し、「これがすべてだ」と確信する。
彼らは幾百の希望の罠に縛られ、欲望と怒りに没頭し、欲望を享受するために、不正な手段によって富を蓄積しようと望む。
「私は今日これを得た。私はこの願望を達成するであろう。この財産は私のものだ。この財産もまた私のものとなろう。
私はあの敵を倒した。他の敵も倒してやろう。私は支配者である。享受者である。私は成功し、有力者で、幸福である。
私は富み、高貴な生れである。他の誰が私に匹敵するか。私は祭祀を行おう。布施をしよう。大いに楽しもう。」
彼らは無知に迷わされてこのように言う。
彼らは様々に心迷い、迷妄の網に覆われ、欲望の享受に執着して、不浄の地獄に堕ちる。
バガヴァッド・ギーター 16.7~16(ヒンドゥー教)134
― み言選集 ―
今までの出発基準が無知によって成されたので、何も分かりません。神様も分からず、神様の創造理想や人間の定着基地が家庭だという事実を分からないのです。それで、家庭から世界までめちゃくちゃになっています。
(325-220、2000.7.1)
一般の人には、どのように暮らすかという問題、どのように食べるかという問題、どのようにつくろって暮らすかという問題、これが中心だというのです。もちろん人間関係において、人倫道徳があって向上する、互いが発展して、互いが良くあり得る内容がありますが、民族が異なり、国家が異なり、世界のすべての文化背景の違いによって、道徳基準であるとか、社会制度がすべて変わるのです。このように見れば、今日、歴史上に生きている人間たちが行くべき本然の基準、本来の基準と、今日、私たちが暮らしている生活の標準として立てていく人倫道徳の基準が、様々な方向に向いているのです。これが一つに収拾されていません。これが問題です。
本然の世界に基づいて、私たちが生まれて生きていくべき所とはどこでしょうか。これがはっきりしていないのです。それゆえ、一般の人たちは、霊界があるのか、ないのか、神様がいるのか、いないのか、分からないでいるのです。
(140-122 ~123、1986.2.9)
人間は死ねば終わりであり、それで終わると考えるので、彼らが立てておいた理想的環境で死ぬ前に誰よりも裕福に暮らしたいと思うのです。誰よりも世界的な環境で行動をしてみて、一度関係を結んでみたいと思うのです。そうしてみると、享楽に陥りやすいというのです。ですから、今日のアメリカのような国では、倫理、道徳など、すべてのものが没落するようになりました。
価値観の喪失というのもとんでもないことであって、歴史的伝統までも拒否し、家庭の父母と兄弟、夫婦という家庭制度まで、すべて破綻させました。すべて個人的享楽のために、あらゆる相対的与件を除去させています。個人の享楽を楽しもうとするのに、父母がいるので反対するのです。男性が享楽の道を行こうとするのに、その妻がいて反対するので、妻をもらわないのです。すべてその日暮らしをしています。
(172-15 ~16、1988.1.3)
アダムとエバは、神様が指向する一つの目的世界、一つの理想世界を実現させなければならないということを知らない立場で堕落しました。そのように、知らない立場で堕落した先祖を中心として代を受け継いで生まれた人間たちなので、人間はどこに行くべきか分からずにいるのです。
(140-14、1986.2.1)
人間の堕落を知的な面から見れば、それはとりもなおさず、我々人間が無知に陥ったということを意味するのである。ところで、人間は、心と体との内外両面からなっているので、知的な面においても、内外両面の知をもっているわけである。したがって、無知にも、内的な無知と外的な無知との二種類がある。内的な無知とは、宗教的にいえば、霊的無知をいうのであって、人間はどこから来たのか、生の目的とは何か、死後はいったいどうなるのか、更に進んで、来世や神などというものは果たして存在するのか、また既に述べたように、善とか悪とかいうものはいったい何なのかなどという問題に対する無知をいうのである。また、もう一つの外的な無知とは、人間の肉身をはじめとする自然界に対する無知をいうのであり、すべての物質世界の根本は何であるか、また、それらのすべての現象は各々どのよう
な法則によって生ずるのか、という問題などに対する無知をいうのである。
原理講論、総序
霊的無知は、宗教をもって堕落人間の中に潜在している本心を呼び起こすことにより、彼らが見ることのできない原因的な世界を探し求めるにつれて、漸次啓発されてきたのである。しかし、宗教は、誰しもがみな痛切にその必要性を感ずるというものではないので、霊的な面の啓発は、ある特殊な人間においては飛躍的なものであっても、一般的には、非常に緩慢なものであるといわなければならない。これは、宗教が世界的に普遍化されている今日においても、霊的な面では、古代人と大差のない人間が多いという事実をもってみても、推察し得ることである。原理講論、摂理的同時性から見た復帰摂理時代と
復帰摂理延長時代 7.2.2
アメリカに来て驚いたのは、「ジーザス・クライスト(Jesus Christ: ちくしょうの意味)」と言うことです。悪いことを言うときや驚いたとき、悪口を言うとき、「ジーザス・クライスト」と言うのですが、それは本当におかしいと思いました。それは福をあげるという意味ですか、禍をあげるという意味ですか。神様を好きではないのです。神様を本当に好みません。なぜかというと、神様の考えと自分の考えが違うのです。ですから、好きになれないという話です。若い人たちはみな恋愛し、性開放だ、何だと好きなように遊びたいと思うのですが、神様は駄目だと言うので好きになれないのです。
(91-22、1977.1.16)
②誤った見解
― 宗教経典 ―
災いだ、悪を善と言い、善を悪と言う者は。彼らは闇を光とし、光を闇とし / 苦いものを甘いとし、甘いものを苦いとする。
イザヤ書 5.20(キリスト教)135
恥じなくてよいことを恥じ、恥ずべきことを恥じない人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(=地獄)におもむく。恐れなくてよいことに恐れをいだき、恐れねばならぬことに恐れをいだかない人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(= 地獄)におもむく。避けねばならぬことを避けなくてもよいと思い、避けてはならぬ(=必ず為さねばならぬ)ことを避けてもよいと考える人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(=地獄)におもむく。
法句経 316 ~ 318(仏教)136
だから、「道」が失われると徳がそこにあり、(注 24)
徳が失われると仁愛がそこにある。
仁愛が失われたのちに道義がきて、道義が失われたのちに礼儀がくる。
礼儀は信義を欠くことで、無秩序の第一歩となる。
道徳経 38(道教)137
ごまかされて事実に反することを考える人たちは、なぜそのような目にあうかというと、これはあきらかに、事柄が互いにどこか似ているからこそ、ついごまかされるのだ。
プラトン パイドロス(ヘレニズム)138
― み言選集 ―
人間が、根本的に、神を離れては生きられないようにつくられているとすれば、神に対する無知は、人生をどれだけ悲惨な道に追いやることになるであろうか。しかし、神の実在性に対しては、聖書をいかに詳しく読んでみても、明確に知る由がない。ましてや神の心情についてはなおさらである。
原理講論、総序
人間は神様を父母として侍って生きるべきであり、神様からすべての生活を指導されるべき立場にあるのにもかかわらず、神様がいるのか、いないのかも分からず、あるいは「決定的に神がいない」、さらには「神は死んだ。私たち人間世界から神を掃いて捨てなければならない」という悲惨な歴史的な環境が、私たちが生きている世界に展開されてきました。これを神様がつくりましたか、私たち人間がつくりましたか。
(135-268、1985.12.15)
私たちの社会に広がっている深刻な問題点、価値体系の混乱、道徳的退廃、麻薬とテロ、戦争と大量虐殺、人種問題、人権と富の均等分配問題、無神論に立脚した共産主義問題などなど、数多くの病弊は何を物語っているのでしょうか。神様を離れた人類が無神論に立脚した物本主義、無神論に立脚した世俗的な人本主義、享楽主義などに便乗して到達した世紀末的な終着点です。このすべてはこの世代の精神的、霊的枯渇と信仰心の衰退に根本原因があります。
(135-221、1985.11.16)
私は、人本主義を根こそぎ排撃する人ではありません。問題は、私たちの社会の人本主義が徹底した無神論に立脚しているところにあります。神様の実存と創造主の創造の意味が否定されれば、人間は一塊の土に転落してしまうのであり、せいぜい人間は一つの機械とみなされるでしょう。これがマルクス・レーニン主義の犯した誤謬ではなかったですか。神様がいないので、人間は機械や動物と違いがなく、そこに道徳はあり得ず、霊魂や永生を認めないので、人間は人間に対して無責任になり、人間が人間に対して様々な暴虐を行うことができるのです。
(234-232、1992.8.22)
③霊的無分別と幻想
― 宗教経典 ―
また(不信者の状態は)、深海の暗黒のようなもので、波がかれをおおい、その上にまた波があり、その上をさらに雲がおおっている。暗黒の上に暗黒が重なる。かれが手をさし伸べてもほとんどそれを見えない。神が光を与えたまわぬ者には、光りはないのである。
クルアーン 24.40(イスラーム)139
この世の中は暗黒である。ここではっきりと (ことわりを)見分ける人は少ない。網から脱れた鳥のように、天に至る人は少ない。
法句経 174(仏教)140
万物の生命の糧にして、かつその基礎たる、広大なる梵輪(輪廻)の内に白鳥(個人的自我)は飛舞す。個別我と梵輪の推転者(至上我)とは別なるものと思量しつつ、彼はやがて至上我に嘉みせられて不死を得ん。……可滅なるものと不滅なるもの、露なるものと見えざるものの綜合なる、この一切宇宙を綱紀せるものは主なる神なり。そして、自在ならざる自我(個我)は享受者(経験主体) たる状態にあるを以て繋縛を受く。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド 1.6 ~ 8
(ヒンドゥー教)141
世尊は或る時、舎衛城の祇陀林なる給孤獨園に住まりたまへり。その時、世尊は黒闇の夜、胡麻油燈の燃ゆる屋外に坐したまへり。その時、多くの蛾その胡麻油燈中に落ち転がり、災難に逢ひ、禍難に逢ひ、自滅に陥れり。世尊は多くの蛾のその胡麻油燈中に落ち転がり、災難に逢ひ、禍難に逢ひ、自滅に陥れるを見たまへり。世尊はこの事由を知りて、その時、このウダーナを唱へたまへり、「走り近づき去り過ぐるも精髄には到らず、唯新たなる緊縛を増すのみ。蓋し恰も蛾の火中に陥るが如く見聞に精髄ありとして、或る者は執著すればなり」と。
感興偈 72(仏教)142
清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。
テトスへの手紙1.15(キリスト教)143
この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。
コリントの信徒への手紙二 4.4
(キリスト教)144
無明の中に跼蹐しつつ、自らは智者、学者と思いあがれる愚人の徒は蹣跚として流浪すること、あたかも盲人に手を引かれし盲人に似たり。
カタ・ウパニシャッド 1.2.5(ヒンドゥー教)145
その者たちの魂の状況というのは、なんのことはない、肉体の内にすっかり縛りつけられ貼付けられてしまって、ちょうど牢のかこいのなかからものをみるように、肉体を通じてでなければ、およそ存在するものを考察することはできず、たましいの、たましい自身による考察は不可能であるように強いられて、まったく学びを知らない状態のうちを輾転としている有様であるのだ。そしてこの牢獄のまさに巧妙に仕組まれている点というのは、その囚われの状態をつくり上げているのが、じつは欲望であるこ
と、つまり、縛られているその者自身がとりわけその束縛に協力しているともいえる点にあるのだが、それを〈哲学〉は見ぬく。
プラトン パイドン(ヘレニズム)146
― み言選集 ―
皆さんの中で、心で推し量ることのできない絶望の深みにはまった人がいますか。皆さんの中でそのような人がいれば、彼は理想世界と何の関係もない人です。また、暗闇の中で上下、前後、左右を分別することができず、無秩序な昏迷の渦中で中心を忘却し、天倫の法度を蹂躙する立場に立っている人がいますか。このような人もやはり天城の理想の園と何の関係も結ぶことができません。
(2-246 ~ 247、1957.6.9)
天地が真っ暗な地獄に変わってしまい、神様までも姿を隠される、そのような凄絶な世界になってしまった事実を、人間は今まで知らずに生きてきました。怨讐の血統が生命線であるかのように錯覚し、そこに命を懸けて生きている群像こそが、今日の堕落の末裔となった人類の悲しい姿なのです。それで、この世界を地上地獄と呼ぶのです。このような悲惨な姿を見つめられる神様は、どれほど胸が痛かったことでしょうか。
平和神経、平和メッセージ 1.18、2005.9.12
60 億の人類が青盲(目は開いているが見えない人)の人になって一寸先も見ることができないまま、天の真理に対してはすべてが不明確な哲学者であり、神学者になり、神様の胸に恨を植えてきたのが歴史でした。
(447-165 ~166、2004.5.1)
不幸にも、人間始祖の堕落によって、人類は、抜け出すことのできない絶望の奈落に落ちてしまったのです。霊的五官を通して神様と直接交流しながら暮らし、肉的五官を通しては、万物を自由自在に主管し、それと同時に霊界と肉界を代表した真の主人であり、真の父母であり、真の王になっていなければならなかったのです。
しかし、彼らは、堕落によって霊的五官が完全に麻痺してしまい、青盲の立場に転落してしまいました。肉的五官にのみ頼って生きなければならない半人前の人間になってしまったのです。父母である神様を見ることも、声を聞くことも、感じることもできなくなったので、どうして父母の愛を知ることができ、事情を知ることができるでしょうか。
(433193、2004.1.27)
人間にとって最も大きな悲しみは、お父様の愛と因縁を結べないことであり、お父様の心情に通じる本然の良心を失ったしまったことであり、その心情と良心が和合でき、心と体が和合できる立場に立てなかったことをよく知っております。
堕落したがゆえに、お父様の心情に通じることのできる感覚が私たちから離れたのであり、お父様の心情を体恤し、万象を愛することができる心が私たちからなくなってしまいましたので、お父様、その心情を回復できるよう導いてください。
(6-298 ~ 299、1959.6.14)
11. 偶像崇拝と物本主義
文字どおり形状に仕える偶像崇拝は、より広い意味で神様に代わる偽りの価値に盲従することを意味する。クルアーン(コーラン)で、偶像は悪霊とサタンとみなされ、これらを崇拝する人は神様の敵である。聖書で、偶像は人間の加工物であり、神性を表象するものではないと見る。したがって、偶像崇拝は物質主義の一形態であり、逆に人間の権力や富に対する誤った依存も偶像崇拝の一形態である。偶像崇拝をより霊的な概念で見れば、利己主義と世俗的欲望だと言うことができるが、このような誤った実在と連結されれば、私たちを真の本性から遠ざけるようになる。聖書の金の子牛の話は、バッカス祭の儀式に伴う偶像崇拝を記述したものである。
20 世紀に民族主義、人種主義、特に物質主義の偶像に大勢の人たちがとらわれ、恐ろしい結果を招いた。文鮮明先生は、物質主義を現代の偶像崇拝であるとはっきりと指摘し、神様の最も大きな「頭痛の種」の一つだとみなしている。この主体に対する文鮮明先生のみ言は、古典的経典の教えに対する現代的教えである。
― 宗教経典 ―
アブラハムがその父アーザルに、 「あなたは偶像を神だとなさるか。まことにあなたとあなたの衆は、明らかに誤っていると考える」と、言ったときを思え。
クルアーン 6.74(イスラーム)147
偶像の汚れから離れ、虚偽の言葉を避けよ。神に純正に帰依しまつり、神々をかれに配してはならぬ。神に神々を配する者は、ちょうど天から落ちて、鳥にさらわれた者のようであり、または風が、かれを遠い所に吹きさらった者のようであろう。
クルアーン 22.30 ~ 31(イスラーム)148
わたしたちの神は天にいまし / 御旨のままにすべてを行われる。国々の偶像は金銀にすぎず / 人間の手が造ったもの。口があっても話せず / 目があっても見えない。耳があっても聞こえず /鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず / 足があっても歩けず / 喉があっても声を出せない。(注 25)偶像を造り、それに依り頼む者は / 皆、偶像と同じようになる。
詩編115.3 ~ 8(キリスト教)149
何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。
フィリピの信徒への手紙 3.18 ~ 19(キリスト教)150
「あなたの中に異国の神があってはならない。あなたは異教の神にひれ伏してはならない」(詩編 81.10)。人の肉体の中で「異国の神」とは何か。それは悪魔的な衝動である。
タルムード、シャッバト105b(ユダヤ教)151
なんじらは己れのむなしい願望を、神として拝している者を見ないか、神は知りたもう、だが、かれを迷うに任せたまい、耳や心を封じ、その目をもおおいたもう。神の見放された後、たれがかれを導こう。なんじらは、それでも訓戒を受入れないのか。
クルアーン 45.23(イスラーム)152
モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、 「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。
出エジプト記 32.1~ 6(キリスト教)153
― み言選集 ―
偶像崇拝というものは何ですか。天を忘れ、ほかの何かを崇拝すること、それを神様以上に高めるのが偶像です。ところが、今日の多くの人間たちは、自分でも分からないうちに文明という偶像の下にいることを私たちは知らなければなりません。今日、世界的に人々が物質を偶像化し、その文明の奴隷と
なり、自分の生命の中心がどこにあり、自分が行く方向と位置がどこなのか知ることができずにおり、天を求めていくことができずに苦しんでいます。このような群れは、昔、アハブ王に捕らわれたイスラエルの群れと同じです。
(6-31、959.3.15)
今、私たちが暮らしているこの世の中は、どのような世の中でしょうか。心を中心としなければならないのですが、心があるのかないのか考えもしない物質主義の世の中になってしまいました。これは、教育の現実を見ても知ることができます。すべて物質文明中心の教育に重点をおいています。貴く素晴らしいこの心を、目に見えるお金のためにないがしろにしています。また今では、心はないと否定する立場、そして神様もいないと否定する立場にまで流れていっています。
(19-287、1968.3.10)
今までの人類歴史が何かというと、理想を求めていくものです。真理の世界を求めていくのです。最初は神本主義です。神本主義が出てきました。その次には、人本主義が出てきました。その次には、物本主義が出てきました。すべて分かれています。すべて分かれて殺害してしまいました。なくしてし
まったのです。これだけ残っています。
人はどのようになっているでしょうか。人には、物質があり、心があり、霊があります。これと同じです。人には物質があり、人格があるのです。それで、人と神様が一緒に、一つになっていなければならないのですが、一つになれませんでした。これだけをしようとするので、人に合わないのです。私たちは、神様も必要であり、人本主義も必要であり、物本主義も必要です。ですから、これが分かれてはいけません。すべて必要なのです。
このように見るとき、今後宗教はこのようなものを包括した一つの場で、このようなすべてのものを備え、全体を成さなければなりません。そのようにできる内容が連結されなければなりません。ですから、この文化の水準と程度が高いので、物質より人間が高く、人間より神様が高いので、すべて神様に支配されなければなりません。支配されるのが原則です。このような原則があります。
過去には、この神本主義を中心として人間を無視しました。人間を無視するので、ヒューマニズムが出てきたのです。また、今はヒューマニズムを中心として、神本主義を無視しているのです。こうしながら、このヒューマニズムも、物質を中心として、すべて落ちていっています。人本主義者たちは、お金がすべてだといいます。人であれ何であれ、人間も何も価値がないというのです。物質が第一だ、このように見ています。
それで、物質主義世界で生きてみて、「物質が万能ではなく、人が必要だ。人間の本性を求めなければならない」と、今、そのように言っているのが現実です。ぶつかるようになるので、今は再び人間を求めていかなければなりません。みな物質を重要視してお金を稼いでみると、共産主義が来て、共産主義
は良いと言い、すべてしてくれるので何もせず、仕事をしてもしなくても同じだというのです。このような立場なので、 「ああ、人間とは何か」と、かえってすべてのものに破綻が起きるのです。それも政府が税金で奪っていくのであって、すべて国が管理します。ですから、自然に「人間とは何か。人間を求めてみよう。ああ、そのようにしようとすれば、再び神様が必要だ」、このような時が来るというのです。
今、時がそのようにできる境界線に入ってきました。最近、アメリカの青年たちがそうではないですか。ヒッピー、イッピー、ありとあらゆることをすべてやってみて宗教を訪ねてくるのです。「ああ、人とは何か。人間の価値とは何か」、そうして宗教を再び訪ねてくるのです。
(103-227 ~ 228、1979.3.1)
12. 苦痛
仏陀の四諦の中の第一は、人間の存在自体が苦痛だということである。苦痛は、誤った執着を通じた自我から生じる一種の疾病のような人間の条件である。ほかの経典のようにお経は、苦痛をこの世をひっくり返した宇宙的火だという例えで説明している。ヒンドゥー教によれば、人間は、過去の行為の結果によって生と死の終わりのない循環を経るようになっている。
聖書において、様々な面で仏教の経典と同じ内容を最も多く含んでいる伝道書は、人間のすることはむなしいという主題を説明している。すべての欲望を充足させる人はなく、一端欲望を充足させた人も満足することができず、より多くのものを願う。これと類似したものが中国の経典にもあるが、中国の経典は、人が最も良い意図をもって始めたとしても、一般的に人の行動は、激しくなったり、背いたり、暴力的に終わるようになるという記述である。
キリスト教の原罪論も、堕落によって人間は、人生の目的を達成できないという、似た見解を伝達している。文鮮明先生は、終わりのない不幸に陥った人間の堕落に対して悲しみ、人間の堕落がもたらした結果を説明する。
①悲しみの世界
― 宗教経典 ―
苦という聖なる真理とは何でしょうか。生まれは苦です。老いも苦です。死も苦です。愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みも苦です。求めて得られないのも苦です。要するに五取蘊は苦です。 (注 26) 阿含経相応部 lvi.11、四諦(仏教)154
塵からは、災いは出てこない。土からは、苦しみは生じない。それなのに、人間は生まれれば必ず苦しむ。火花が必ず上に向かって飛ぶように。
ヨブ記 5.6 ~ 7(キリスト教)155
この世は熱苦の性にして、触に累せられ、病を自己として談ず。これ蓋しこれなりと思えることの、それとは異ることあればなり。変化の質なる世間は生有に達して、生有のために累せられその生有をこそ喜ぶなれ。
感興偈 32(仏教)156
比丘たちよ、一切は燃えている。比丘たちよ、一切が燃えているとは、どのようなことであろうか。
比丘たちよ、眼は燃えている。色(物体)は燃えている。眼の認識は燃えている。眼の接触するところは燃えている。また、すべてこの眼の接触を縁として生ずるところの受(感覚)の、あるいは楽なる、あるいは苦なる、あるいは苦でも楽でもないものも燃えている。では、それらは、何によって燃えているのであるか。それは、貪りの火によって燃えているのであり、怒りの火によって燃えているのであり、愚かさの火によって燃えているのであり、あるいは、生・老・病・死により愁・悲・苦・憂・悩によって燃えているのである、とわたしはいう。
また、耳は燃えている。……鼻は燃えている。……舌は燃えている。……身は燃えている。……また意は燃えている。法(観念)は燃えている。意の認識は燃えている。意の接触するところは燃えている。また、すべてこの意の接触を縁として生ずるところの受の、あるいは楽なる、あるいは苦なる、あるいは苦でも楽でもないものも燃えているのである。では、それらは何によって燃えているのであるか。それは、貪りの火によって燃えているのであり、怒りの火によって燃えているのであり、愚かさの火によって燃えているのであり、あるいは、生・老・病・死により愁・悲・苦・憂・悩によって燃えているのである、とわたしはいうのである。
阿含経相応部 xxxv.28、燃焼(仏教)157
パリドよ、
私は一人だけが悲しみをもったと思っていたが、
悲しみはありふれて広がっていた。
私が高い屋根から見下ろすと
家々が悲しみの炎ですっかり覆われていた。
アーディ・グラント、スローク、ファリード、p.1382
(シク教)158
― み言選集 ―
本然の園を失ってしまった人間たちは、死亡の世界に落ち、暗闇と闘ったのであり、怨讐の手中に捕らわれ、嘆息と絶望の中にいましたので、本然の心の痕跡が残っている良心を通して、本然の故郷を慕っております。
(6-291、1959.6.14)
堕落の束縛から抜け出すことができずにいる私たちは、今日どのような世界にいるのでしょうか。幸福の世界ではない、不幸の世界におり、喜びの世界ではない、悲しみの世界におり、感謝して生きる世界ではなく、恨んで生きる世界にいます。今、皆さんはこれを悟らなければなりません。そして、皆さんがそのような不幸な世界を克服することができなければ、決して皆さんの前に幸福は訪れないでしょう。
それでは、皆さんはどのように不幸な自分であるかを知ることができますか。それは、皆さんの心を通して知ることができます。皆さんの心の中に抜き出すことのできない悲痛な心があるではないですか。これが正にサタンが私たちの先祖だという証拠です。また、皆さんには人を憎み、恨む心があるで
しょう? これは本然のエデンの園に向かっていくことができないよう、サタンが私たちの心に鉄条網を張り巡らせておいたのと同じです。
そして、今日の人間たちが暮らしている世界は、どのような世界ですか。生命のない死亡の世界であり、絶望と暗黒の世界です。人間たちは本来、生の価値を謳いながら生きていくべき立場にいたのであり、生命を中心として永遠の神様の理想と和動できたにもかかわ
らず、今日の人間たちは、神様の理想の前に立つことができる希望が途切れてしまい、絶望の中で生きているのです。
(2-246、1957.6.9)
全体が悪に接し得る要因に囲まれています。悪が行く道においては、教育は必要ありません。教育を受けなくても、誰でも行けるのです。悪から始まった歴史であるために、教育を受けなくても誰でも行けるのです。悪の道を行くように教育する必要性がありますか。自らそのようになったために、今日人類道徳を中心として、良心の標準の前にわきまえていきなさいと教育するのです。善を中心として、良心を中心として教育をしたのにもかかわらず、その教育の標準に立脚した人がどれほどいるでしょうか。悪のことは習わなくても、誰でもみなすることができるのです。誰でも、満点になることができるのです。
良心はいつも「善であれ」と勧告します。心は、いつも善の人になれと、休まず自分を刺激し、自分に勧告するにもかかわらず、善なる自分になったでしょうか。このような問題を考えてみるときに、きょうも嘆息であり、あすも嘆息であり、今年も嘆息であり、青春時代も嘆息であり、中年時代も嘆息であり、老年時代も嘆息なので、嘆息で一生を終えるのではないでしょうか。言い換えれば、悪のことで終わりを見るのではないかというのです。
(36-57、1970.11.15)
人間の堕落によって歴史は悲しみから出発しました。その出発点で最も悲しい事実は、人間が神様から離れなければならなかったことでした。神様は、人間の幸福と生命とすべてのものの中心でした。しかし、堕落によって幸福と生命とすべてのものが人間から切られてしまい、人間は深い絶望と暗闇と不幸の中に落ちてしまいました。希望を失ってしまった人間たちの目に涙がにじみ始めました。涙がにじみ始めただけではなく、人間は完全な絶望と暗闇におかれるようになりました。神様は私たちの父であり、父母でいらっしゃいます。皆さんは、神様の悲しみが、人間が感じたよりも、言い表すことができ
ないほどもっと大きかったことを想像できますか。
(52-36、1971.12.12)
②人生無常
― 宗教経典 ―
なんという空しさ / なんという空しさ、すべては空しい。
太陽の下、人は労苦するが / すべての労苦も何になろう。
コヘレトの言葉1.2 ~ 3(キリスト教)159
主を信じない者をたとえれば、かれらの行いは、ちょうど暴風が吹きすさぶ大荒れの日の灰のようなものである。努力したあらゆることは、かれらに何も役立ち得るものはない。これは真理から遠く迷っている者である。
クルアーン 14.18(イスラーム)160
人は自分自身の向上と様々な世俗的なことに対して多くのことを考える。しかし、甘い砂糖で覆われた誘惑的な菓子のような、しかしその中にひどく苦い味で満ちたこの腐敗した世界では、いかなる向上もない。それは霧のように手でつかめない。それをつかもうとしてみよ。それは何ものでもないことがはっきりするだろう。
ヨーガ・ヴァーシシタ(ヒンドゥー教)161
たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。
法句経 186(仏教)162
欲望は欲望の満足によって決して鎮まらない。あたかも火が供物によってその火勢を一層増すのと同じである。
マヌ法典 2.94(ヒンドゥー教)163
迷った者は、自らの苦痛を和らげることが難しく、彼は渇愛にはまり淫乱に従事し、ついに彼は体と心を押さえつける激しい苦悩のうずの中から抜け出すことができなくなるだろう。
アーヤーランガ・スッタ2.74(ジャイナ教)164
愚迷の酒に酔い痴れたるはあたかも強酒に酔った如く、狂躁なることは邪鬼に憑かれたが如く、対境に蛟まれたることは大蛇に蛟まれたるが如くである。貪愛の盲闇は黒闇の如く、幻惑に満ちたることは因陀羅網(幻術)の如く、錯覚に陥っていることは夢中の如くである。堅固でないのはカダリー果(バナ
ナ)の如く、刻々に衣装をかえるのは俳優の如く、歓楽の偽妄なことは壁に描いた画の如し。
マーイトリ・ウパニシャッド 4.2(ヒンドゥー教)165
わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた。天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。ゆ
がみは直らず / 欠けていれば、数えられない。わたしは心にこう言ってみた。「見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった」と。わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。知恵が深まれば悩みも深まり / 知識が増せば痛みも増す。わたしはこうつぶやいた。「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」見よ、それすらも空しかった。笑いに対しては、狂気だと言い / 快楽に対しては、何になろうと言った。わたしの心は何事も知恵に聞こうとする。しかしなお、この天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に定めた。大規模にことを起こし /多くの屋敷を構え、畑にぶどうを植えさせた。庭園や果樹園を数々造らせ /さまざまの果樹を植えさせた。池を幾つも掘らせ、木の茂る林に水を引かせた。買い入れた男女の奴隷に加えて /わたしの家で生まれる奴隷もあり / かつてエルサレムに住んだ者のだれよりも多く / 牛や羊と共に財産として所有した。金銀を蓄え / 国々の王侯が秘蔵する宝を手に入れた。男女の歌い手をそろえ / 人の子らの喜びとする多くの側女を置いた。かつてエルサレムに住んだ者のだれにもまさって / わたしは大いなるものとなり、栄えたが / なお、知恵はわたしのもとにとどまっていた。目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ / どのような快楽をも余さず試みた。どのような労苦をもわたしの心は楽しんだ。それが、労苦からわたしが得た分であった。しかし、わたしは顧みた / この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく / 風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。また、わたしは顧みて / 知恵を、狂気と愚かさを見極めようとした。王の後を継いだ人が / 既になされた事を繰り返すのみなら何になろうか。わたしの見たところでは / 光が闇にまさるように、知恵は愚かさにまさる。賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に。しかしわたしは知っている / 両者に同じことが起こるのだということを。わたしはこうつぶやいた。「愚者に起こることは、わたしにも起こる。より賢くなろうとするのは無駄だ。」これまた空しい、とわたしは思った。賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか。わたしは生きることをいとう。太陽の下に起こることは、何もかもわたしを苦しめる。どれもみな空しく、風を追うようなことだ。太陽の下でしたこの労苦の結果を、わたしはすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた、空しい。太陽の下、労苦してきたことのすべてに、わたしの心は絶望していった。知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。
コヘレトの言葉1.12 ~ 2.23
(キリスト教)166
勢ひたけき上帝 / 下民の辟にいます /荒びます上帝 / 其の命咎多し
天 萬民を生みたるも / 其の命 純一にあらず / 初めはみな同じきも /
終わりよきものは鮮し
詩経、255 蕩(儒教)167
技を競って勝負をするものは、はじめは陽気で楽しそうであるが、終わりになると陰険な悪意をもつようになるのがつねである。というのは、興にのりすぎると、どうしてもいろいろな奇手を出そうとするからだ。礼儀作法に従って酒を飲むものは、はじめは神妙にしているが、終わりになると乱れてしまうのがふつうである。というのも、酒も度をすごすと、とんでもない楽しみを求めるようになるからだ。すべて世の中のことも、これと同様である。はじめは上品にふるまっていても、終わりになると必ず下品で卑しくなり、はじめは簡素にしていたものが、終わりに近づくと必ずおおげさになるものだ。
荘子 4(道教)168
― み言選集 ―
人間が幸福を求めていくとき、どのような幸福を求めていくのですか。「人間が何かの有形の幸福を求めていっても、人間の寿命というものはせいぜい100 年にしかならない。青春時代というのは一度しかないのだから、若いときに好きなように食べ、好きなように遊び、好きなようにすべてやって死ぬのが人生だ」と考えています。この地上に暮らす人たちの大部分がそのようなことを考えています。ところが、体がやりたいようにやっても、あとになればすべてが無益です。むなしいというのです。何年もたたずにすべてのものが嫌になります。
(41-144、1971.2.14)
今日までの宗教は来世を探し求めるために、現実を必死になって否定し、心霊的な喜びのために、肉身の幸福を蔑視してきたのである。しかしながら、いかに否定しようとしても否定できない現実と、離れようとしても離れることができず影のように付きまとう肉身的な幸福への欲望が、執拗に修道者たちを苦悩の谷底へと引きずっていくのである。ここにおいて、我々は、宗教人たちの修道の生活の中にも、このような矛盾性のあることを発見するのである。このような矛盾性を内包した修道生活の破滅、これがとりもなおさず今日の宗教人たちの生態なのである。
原理講論、総序
私たちがお金を借りて億万長者になったとしましょう。20 代を経て、30代、40 代、50 代、60 代、約 30 年を死ぬほど努力しなければ億万長者になれないと考えるとき、60 代になって億万長者になったとしましょう。ところが、60 代になると、もう逝く日が遠くありません。お金が好きで、60 歳になるまで稼いでみると、引退しなければなりません。引退年齢になったというのです。このように考えるとき、億万長者になった立場でそのお金の山を見つめるとき、希望的でしょうか、絶望的でしょうか。過去を考えるとき、あぜんとする事実ではないかというのです。お金を稼いでおいて、そのお金を稼い
だこと自体をじっと考えてみるとき、あぜんとするのです。
その次には、皆さんが勉強をするために……。ここで、何々大学に行って博士になる、何になると大騒ぎします。手ぬぐいをまいて、御飯をろくに食べず、遊ぶこともできません。休まずに夜通し勉強し、博士学位を取ったとしましょう。そして、ノーベル賞受賞者になり、世の中で立派な人になりましたが、自分自身をじっと見てみるとき、悲惨なことが多いというのです。同じです。いくらノーベル賞受賞者になり、知識があるとしても、それは狭い専門分野です。この広い世の中で、小さな穴を開け、その分野に関して知り、この囲いの中でこうしているのです。世の中全体を見るとき、自分はこの上なく小さいのです。何かを知っているからといって誇りますが、この上なく小さなことを知っているというのです。それを考えるとき、知っているということ、知識が人間に幸福をもたらしてくれ、人間に安逸をもたらしてくれるでしょうか。そうではありません。知識は、学べば学ぶほど分からないことがもっと多くなるのです。
そして、学校に入って有名な教授になったとしましょう。毎日、白墨を握って何かを書き、何かを受け持ち、このように人生を生きると考えてみてください。白墨の粉を吸い込みながら大きなことを言いますが、その分野で大きなことを言うのであって、世界にどのような影響を及ぼし、すぐに世界がどのようになるか、そのようなことは一つも分かりません。世界をどのようにしてみようという考えをする余地がありません。一つのみ旨も何も、考える余地がないのです。分からない人よりもっと分かりません。より深く入り込んでいるからです。
そのようなことを考えてみるとき、知識があるからといって、一生の間、本の虫になったからといって、自分に対して自信をもてるわけではありません。誰かがその分野で一言言えば、それを拾い集めてまた比較研究します。それはもうたまりません。ですから、自分の主張したことがぼんやりしているのです。自信がありません。また、有名な学者になれば、それが何ですか。そこに自分の命を投入し、自分のすべてを投入するには、あまりにもったいないというのです。
その次には権力です。誰もがこの国の大統領に一度なってみたいと夢を見るでしょう? 何かになってみたいと夢を見ます。権力、力、そのような力を握ったとしましょう。それでは、それが万年続きますか。アメリカの大統領は4年間権力を握ったと考えてみてください。歴史過程において、目を一度瞬き
するのと同じです。そこで食べ、踊りを踊り、何がどうで、それは狂った人のような気分だというのです。良かったとしても、一度そこでぴたっと終われば、何でもありません。誰かが訪ねてきてそれを認めてくれますか。かえって平民にも及びません。
(98-82 ~ 85、1978.4.30)
③涙の道
― 宗教経典 ―
キサ・コタミという女に一人息子がいたが、ある日、突然彼が死んだ。悲しみにくれた彼女は、息子を抱いて隣近所に薬を求めて回った。人々が言った。「子供は既に死んだのに、あの女は正常ではない」。
最後に、女キサ・コタミがある人に出会ったのだが、彼が彼女に教えてあげた。「私はあなたに子供を治す薬をあげることはできない。しかし、それができる医者を私は知っている。釈迦牟尼を訪ねなさい」。
キサ・コタミは、仏陀にすがって泣き叫び懇請した。「主よ! 師よ! 私の息子を治す薬を下さい」。
仏陀が答えられた。「私に一つの芽ほどのカラシナの種をもってきなさい」。女は喜んでそれを用意してくると答えると、仏陀が語られた。「しかし、そのカラシナの種は、息子や夫、または父母や友の中で誰も失った者がいない家からもってこなければならない」。
ふびんなキサ・コタミは、カラシナの種を求めてこの家、あの家を歩き回った。彼女を哀れに思った人々が言った。「さあ、ここにカラシナの種がある。もっていきなさい」。しかし、彼女が、「あなたの家では息子、娘や父母、兄弟を失ったことがありませんか」と尋ねたとき、彼らが彼女に答えた。「ああ! 生きている者はかえってあまりなく、死んだ者が多い。どうか骨にしみる私たちの悲しみを思い出させないでほしい」。死によって愛する人を送り出したことがない家はどこにもなかった。キサ・コタミは疲れ果てて落胆し、暗い道を歩いていき、ある丘に座り込んだ。遠くに見える村には家々の明かりがついていたが、だんだんと消えていった。ついに辺りはすっかり暗闇になった。彼女は、ふと人の運命を考えた。ついて、また消える明かりのように、来ては結局また戻らなければならない運命であることを悟った。「悲しみにくれた私はどれほど愚かか! 死に例外はないのだから、この荒涼とした谷間にすべての利己心をゆだねる道があれば」。
息子に対する利己的な愛を振り払ったキサ・コタミは、死んだ息子を森の中に埋め、仏陀のところに再び戻ってきた。彼に帰依し、とうとう法の中に平安を見いだした。
ブッダゴーサ カラシナの種のたとえ
(仏教)169
― み言選集 ―
涙の歴史の起源を私たちがもう一度考えてみると、それはどこから始まったのでしょうか。堕落するとき、アダムとエバが先に涙を流したでしょう。その次には、神様が流したでしょう。このように見るとき、アダムとエバが涙を流したのは、神様のために、人のために流したのではなく、自分たちの悲しみの事情を中心として涙を流したのです。しかし、神様が流した涙は誰のために流したのですか。それは間違いなく、天道に背くことによって追放されなければならない、そのような運命に置かれるようになった子女であるアダムとエバを見つめて流した涙なので、神様御自身のために流したものではなく、人のために、子女のために流した涙であることは間違いありません。
涙を流すそれ自体は悲惨なことです。人間の世界では、涙の歴史が先に始まりました。神様も先に涙から始まりました。そのように見るとき、人間も悲惨であり、神様も悲惨です。ところが、人間が流した涙は、人間自身の過ちがあったがゆえに、それは当然流すべき涙かもしれませんが、神様の涙は当然流すべき涙ではありません。
涙の歴史は、人類の始祖から始まり、涙の足場は世界的に拡大してきました。そのような悲惨な場で戦争の歴史と苦難の歴史が反復しながら歴史は発展してきたのです。そうして、あるときは個人自体が人から被害を受けて涙を流す歴史から、家庭が被害を受け、民族が被害を受け、世界が被害を受けて涙を流す歴史が繰り返されるのです。
涙の歴史を取り除くことができないのです。ですから、自分のために悲しみ、自分の家庭のために、自分の民族のために、自分の国家のために、自分の世界のために悲しんだあとにこそ、新しい善の世界に帰ることのできる道があるとすればあるのであって、これのために悲しまなければ、善の世界に帰る道はありません。
人は個人的な立場で堕落しましたが、結果的に見れば、世界的に堕落したのです。それでは、世界的な立場で一番下に落ちた人間がこれを越えていくためには、どのように行かなければなりませんか。そのようにしようとすれば、この世界の人たちは、自分たちを中心として、自分のことや、自分の家庭や、自分の国家、あるいは自分の主義や主張を中心として悲しむのですが、この世界を克服していかなければなりません。反対に行かなければならないのです。反対の道を行かなければならないのは、間違いない結論です。このように、人類の実状を見つめる神様は、反対の立場で悲しむでしょう。神様は常に涙に濡れています。神様は、反対の立場で悲しんだという事実を知らなければなりません。
人間が幸福な所はどこですか。自分が涙を克服する道で見いだすしかありません。次にどのようにしなければなりませんか。神様が涙を流す困難な環境を克服して越えていった所に幸福があります。なぜそうなのかというと、人類始祖が堕落することによって、涙の歴史を神様と人間が始めたからです。その場は、涙が始まっていなかった場なので、私たちはこのすべての涙の世界を克服しなければなりません。それを超越していかなければ、幸福の起源があり得ないというのは当然の結論だというのです。そのような立場に立っているのが人間たちです。それでその立場を克服して私たちは前進しなければならず、この悲しみの涙の峠、この人間の涙の峠だけでなく、天が流した涙の峠を越えていかなければならない運命が、今日の人間が行くべき運命です。ですから、真の道を行こうという人は、2種類の涙の峠をすべて越えていかなければなりません。
人間がどれほど悲惨で、どれほどかわいそうかという、このような苦痛の渦中で自ら身もだえし、涙を流さなければなりません。したがって、人が知らない中で人生問題や自分の一生の問題を中心として、この社会問題、全体の問題をかけて、悩み、涙を流す部類の人たちがいなければならないのです。また、人間自体の問題を解決するために苦痛を受ける人がいて、人間とは何かという問題をおいて、自ら苦しむ人たちがいます。若い時代には、そのような部類の人たちもいるでしょう。そのような悩みもしていない人の人生は、人生のうちに入ることもできません。
そして、自分の涙を克服すると同時に、この世界の苦痛で悲惨なことを克服させられる道がないかということを考えなければなりません。ここで知らなければならないことは、いくら自分自身が人生問題を悩み、この世界問題を悩んで涙を流したとしても、それでは駄目なのです。その根本をひっくり返しておかなければなりません。それは、自分が悲しい涙を流した峠だけでなく、世界が涙を流した峠だけでなく、天が涙を流した峠の方向を変えておかなければなりません。ところが、それをどのように変えるのかということを考えるには及ばないというのです。
ですから、涙を流すのですが、自分のために涙を流し、自分の国のために涙を流し、自分を中心として涙を流す歴史では、新しい理想世界へ前進するのに、何のプラスにもならないのです。それはどこまでも自分自身のためだというのです。それはどこまでも堕落したアダムとエバの側にいるのです。
それでは、私たちはどのようにしなければならないのかというと、ここで天が悲しんだもう一つの領域を私たちは発見しなければならないのです。堕落によって天が涙を流したとすれば、天が流した涙の境地を人間が越えていかなければ、人類の幸福の基地というものはあり得ません。自分を越えて涙を流すことのできる道を発見しなければなりません。神様を中心として、神様という主体を発見し、神様が涙を流したその境地以上の所を自分が探知し、そのような所に行こうという欲望をもたなければなりません。
(94-306 ~ 310、1977.10.16)
13. 神様の悲しみ
神様が私たちの聖なる父母であり、人間が神様の子女であれば、神様は子女の拘束と逸脱、そして反逆に対して、心情的に大きな悲しみを感じるのである。したがって、人間的で同情心の深い神様に仕える宗教的伝統は、悲しみをもつ神様だということを認める。キリスト教によれば、イエス様の激憤は、息子と共にいた父なる神様の苦痛を現したものである。聖書に現れた神様の悲しみは、アリストテレスの完全者は感情を感じないという概念によって、たとえ時々光を失うことがあったとしても、現代の神学者たちは、創造主も苦痛を受けるという点を確認している。大乗仏教は、人間の苦痛に対する釈迦牟尼
にの哀れみと菩薩の同情は、すべての人間の父である宇宙的父子の心情に由来するものであると教える。
文鮮明先生は、神様を知ることは神様の苦痛と悲しい心情を体験することであると教える。人間の堕落によってつぶれた神様の心情は、子女たちが悪の権力と 驕慢の奴隷となり、苦しみを受けながら暗闇の世界で生きるのが悲しく、聖人たちが摂理を完成し、自由を得るために、茨の道を歩んでいかなければならないのを見て苦痛を受けられた。神様のそのような事情を知ることによって、私たちは自分に哀れみをもつようになり、人間を解放させる努力に傾注し続けるようになる。
①人間の堕落と罪悪の状態に対する神様の悲しみ
― 宗教経典 ―
主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。(注 27)
創世記 6.5 ~ 6( キリスト教)170
すると、天の神が民の残りの者を見て泣かれた。エノクはそのことを証して言った。 「どうして天が泣き、雨が山々に降り注ぐようにその涙を流すのですか。」また、エノクは主に言った。「あなたは、永遠から永遠にわたって聖なる御方であるのに、どうして泣くことがおできになるのですか。」……
主はエノクに言われた。「これらあなたの兄弟たちを見なさい。彼らはわたし自身の手で造られたものである。わたしは彼らを創造した日に、彼らに知識を与えた。また、エデンの園で人に選択の自由を与えた。わたしはあなたの兄弟たちに語って、互いに愛し合うように、また父であるわたしを選ぶようにという戒めも与えた。ところが見よ、彼らは愛情がなく、自分の血族を憎んでいる。わたしの憤りの火は彼らに向かって燃えている。わたしは激しい憤りをもって、彼らに洪水を送ろう。わたしの激しい怒りが彼らに向かって燃えているからである。見よ、わたしは神である。聖なる人とはわたしの名である。賢慮の人とはわたしの名であり、無窮も永遠もわたしの名である。それゆえ、わたしは手を伸ばして、わたしが造ったすべての創造物を手に取ることができる。また、わたしの目はそれらを貫くこともできるが、わたしの手で造られたすべてのものの中で、あなたの兄弟たちの中にあるような大きな悪事のあったことはない。しかし見よ、彼らの罪はその先祖の頭にある。サタンが彼らの父となり、彼らの行く末は悲惨なものとなる。そして、すべての天が、まことにわたしの手で造られたすべてのものが、彼らのために泣くであろう。それゆえ、これらが苦しむのを見て、どうして天が泣かないということがあろうか。(注 28)
高価なる真珠、モーセ書 7.28 ~ 37
(末日聖徒イエス・キリスト教会)171
アブダルが使徒の言葉としてこのように伝えた。「私はあなたが見ることのできないものを見て、あなたが聞くことのできないものを聞く。天が呻吟するのだから、呻吟するのが当然である」。
ティルマズィーおよび イブン・マージャ・ハディース
(イスラーム)172
月日にハどんなざねんがあるとてもいまゝでぢいとみゆるしていた
さあけふハ日もぢうふんにつんできたなんてもかやしせずにいられん
このかやしなにの事やとをもている神のさんねんばかりなるぞや
このざねん一寸の事とハをもうなよつもりかさなりゆへの事やで
月日にハせかいぢううハみなハが子かハいゝばいをもていれども
それしらすみな一れつハめへ/\にほこりばかりをしやんしている
この心神のざんねんをもてくれどふむなんともゆうにゆハれん(注 29)
おふでさき17.64 ~ 70(天理教)173
デンの母、アブクよ!
天にあるあなたの家を離れ
私の家に働くためにお越しください。
我が国をデンの最初の家のように
きれいにつくられ、
来て、我が国を一つにしてください。
アコールの国は一つではありません。
昼も夜も
その子供はデンを呼び、
その顔は悲しみにくれました。
アコールの子供たちは、彼らの酋長の心を
当惑させました。(注 30)
ディンカ族の歌(アフリカ伝統宗教)174
― み言選集 ―
アダムとエバが堕落するその瞬間、神様の心情は破裂するようで、引き裂かれるようで、気が狂ってしまうかのようでした。
(7-292、1959.10.11)
愛するようになれば血が沸くでしょう。ぞくぞく震えるでしょう。それはなぜ震えるか知っていますか。混じりなさいということです。東西南北が混じり上下が混じって一つになり、愛の火花が散る方向にすべての焦点が行列の方向性を備え、男性のために完全投入、女性のために完全投入、私の生命、財産をすべて尽くして投入、また投入しようと飛びつくのです。それが永遠に終わらない愛の道なので永遠に好むのです。
もし、神様が愛の理念を立てなかったら、神様は孤独単身です。喜怒哀楽を感じることができない神様だというのです。絶対的なこの愛を失われた神様は、歴史始まって以来、誰も体験す
ることができない、深刻で、あきれる、絶対的に悲惨な立場に立ったのです。誰も永遠に慰められないのです。
(204-101、1990.7.1)
堕落しなかったならば、神様は創造主として永遠な主人になるはずであったのに、堕落することによってサタンが主人になりました。そうなるしかありませんでした。いくら官吏の屋敷の中の箱入り娘だとしても、その町のやくざ者が強奪し、愛の関係を結んだとすれば、その娘は誰のものになるでしょうか。やくざ者のものとなります。全く同じ道理です。天国の王となることのできるアダムであり、天国の王妃となることのできるエバでした。
アダムは神様の体です。実体の神様です。理想的な王権を回復し、愛の天国を形成しようとするのですが、悪魔が成長している王妃を強奪したのです。それでは、エバが誰のものになるでしょうか。神様のものになりますか。アダムのものでもなく、神様のものでもありません。ですから、追い出されるのです。
これを復帰するには、創造の原理原則を中心としてなさなければなりません。本来アダムとエバを中心として永遠な愛の法度を立てたので、その法度に従わなければならないのです。その法度を否定するならば、天理を破壊することになるのです。それゆえ人間はもちろん、神様自体まで否定される立場になるので、仕方なく再創造過程を通して収拾してきたのです。そのような恨多き歴史路程を誰が知っていたでしょうか。
(207-272 ~ 273、1990.11.11)
神様がどれほど悔しいかというと、王の座を怨讐に奪われたのです。神様が栄光の神様となることができず、悲しみの歴史をもっていらっしゃるという事実を知らなければなりません。御自身の国の王として、宇宙の王としていらっしゃるにもかかわらず、王が生きているのに王は死んだとさげすまれているのです。御自身の理想を奪い取られ、御自身の愛する息子、娘を奪われ、完全に怨讐の籠絡の場としての地球となってしまいました。
(105-199、1979.10.21)
神様の胸にくぎが刺さった事情とは何でしょうか。悪魔が生じたためです。悪魔の血肉を愛で植えたという事実、悪魔の種を植えたというこの無念な事実、悪魔の家庭を見たというその事実のゆえです。神様の管理下で千年、万年愛し合いながら暮らすことができる家庭が、悪魔の家庭の顕現とともに、破壊されたのです。その代わりに、悪魔の氏族を中心とした家庭が、世界的に広がりました。
(214-282、1991.2.3)
恨の底に永遠に消えてしまい、人類は塗炭の境地に陥り、大勢の人が地獄の鎖に……。鎖に縛れているのは一時ですが、永遠の監獄に閉じ込められたというのです。解放されません。世の中では、捕まって閉じ込められても、解放されることがあるではないですか。
そのような運命の道にいる人間の悲惨な姿を毎日毎日、毎時間見つめられる神様のその心情はいかばかりでしょうか。自分の息子が不具者となり、王子、王女の栄光をたたえるべき存在が、肥だめのようになり地獄に逆さまに落ちたとするならば、全知全能だという神様の威信はどうなるでしょうか。絶対的な神様の威信はどうなりますか。顔を上げることができるでしょうか。
(218-241、1991.8.19)
人間が絶望の中に置かれるようになれば、神様も絶望に中にいらっしゃるようになり、地上で人間たちがサタンにとらわれれば、天上にもサタンが主管する暗黒の世界が残るようになるのです。
(2-246、1957.6.9)
②人類救援のための神様の苦難
― 宗教経典 ―
人が大きな苦痛にぶつかれば、「ああ、頭痛よ、ああ、私の腕よ」と言う。もし神が、邪悪な者が血を流すのを御覧になって苦痛を受けられるのなら、義人が流す血を御覧になってどれほど大きな苦痛を受けられるだろうか。
ミシュナ、サンヘドリン 6.5(ユダヤ教)175
エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛
ひなを羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
マタイによる福音書 23.37(キリスト教)176
「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし」(イザヤ 63.9)という聖句がある。神はモーセにこのように語られた。「イスラエルの民が苦痛の中にいるとき、私も苦痛の中にいることをあなたは知らないのか。(燃える)いばらの木の中、私があなたに語ったそこをあなたは知らなければならない。そこは私がイスラエルの苦痛の中に立っていた所だ」。
出エジプト記ラッバー(ユダヤ教)177
まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。
エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。
わたしが彼らを呼び出したのに / 彼らはわたしから去って行き /
バアルに犠牲をささげ / 偶像に香をたいた。
エフライムの腕を支えて / 歩くことを教えたのは、わたしだ。
しかし、わたしが彼らをいやしたことを / 彼らは知らなかった。
わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き /
彼らの顎から軛を取り去り / 身をかがめて食べさせた。
ホセア書11.1 ~ 4(キリスト教)178
正覚者が生死の苦海をさまよう衆生を見られ、彼らを救済しようと慈悲心を施した。
迷いの道を彷徨し、行く道が分からずに苦しむ人の世を見られ、このために慈悲心を施した。
五欲のぬかるみに寝転んで放縦し、耽溺にふける人の世を見られ、このために慈悲心を施した。
財物を貪り、妻子に足首をつかまれ、抜け出す道が分からない人の世を見られ、このために慈悲心を施した。
手足で罪を犯し、舌で邪悪を語り、心で愛欲を燃やし、あらゆる果報を受ける人の世を見られ、このために慈悲心を施した。
五欲による渇きを渇愛の水で潤し、絶えずこれを楽しむ人の世を見られ、このために慈悲心を施した。
幸福を求めるが、善行を積まず、苦痛を嫌うが、自ら悪行をすることを楽しみ、天界の安楽を願うが、地に下されたその教えに従わない人の世を見られ、慈悲心を施した。
生老病死の苦痛を恐れるが、ただ生老病死の業を積むことに身をゆだねる人の世を見られ、このために慈悲心を施した。
苦痛と悲嘆の炎に身を燃やすだけで、ひんやりとした三味の水路が分からない人の世を見られ、このために慈悲の心を施した。
悪の世に生き、残虐な君主に踏みにじられ、あらゆる疾病で苦痛を受けるが、ただ途方に暮れ、快楽を求めていく人の世を見られ、このために慈悲心を施した。
悪の戦争に従事し、互いに傷つけ、殺す人の世を見られ、また苦痛の耐えない悪の果報を受ける運命を知られ、このために慈悲心を施した。
彼の化現の時に合わせ、様々な生を受け、彼が説く聖なる法を聞いたが、これを受けて消化できない人の世を見られ、このために慈悲心を施した。
もった者がもっていない者と共に分かち合うことのできない人の世を見られ、このために慈悲心を施した。
時には畑を耕して種を蒔き、時には頭に載せ、荷物を背負い、苦労して売買し、時には悪徳商売をするが、結局はつらい目に遭うだけの人の世を見られ、このために彼が慈悲心を施した。 (注 31)
優婆塞戒経(仏教)179
― み言選集 ―
自分の愛する人は、命を投入してでも保護したいものです。本来創造理想がそうなっています。神様御自身も、息子、娘を愛するがゆえに、自分の命までも投入しなければならない悲しみの神様となったのです。
(206-26、1990.10.3)
私は、このような神様の内情的心情の世界を知ってから、どれほど多くの日を涙と痛哭で夜を明かしたか分かりません。御自身の子女として創造し、永遠の真の愛の対象の位置に立てようとした人間の先祖が堕落の道に落ちたあと、数千、数万年の蕩減復帰路程を摂理してこられた神様の恨に満ちた姿を、誰が想像できたでしょうか。哀れで無念な神様であり、憤りが爆発して恨があふれる神様の路程でした。
栄光のお父様であり、大王として来られた神様が、その王座と父母の位置を怨讐サタンに奪われました。厳然と生きて役事していらっしゃるのに、「死んだ」と嘲弄され冷遇されても、忍苦の道を歩んでくださり、人間が自ら悟るその日だけを待ち望まれた神様であられます。ために生きる真の愛を土台
として、永遠を前提として創造摂理をなさった神様であられるので、子女が堕落の奈落に落ちるのを目撃しながらも、宇宙を爆発させて最初からやり直すことはできない神様であられたことを、皆さんは知らなければなりません。
全知全能の権限で全世界とサタンまでも一度に審判し、粉砕してしまうことができる神様であられたのに、そのような能力をもっていらっしゃった方であられるのに、今まで神様は、孤独単身であらゆる侮辱と讒訴を甘受されながら、自ら進んで監獄生活をしてこられた私たちのお父様でいらっしゃいます。
このような天のお父様の前で、一日でも真の同情と懺悔の涙を流してみたことがありますか。悪魔の血筋を受けてサタンの走狗になっている人類を前にして、舌をかんで耐えてくださり、解放と釈放の一日だけを待ち焦がれていらっしゃる神様の前で、見えないふりをして目を閉じることができますか。
(447-166 ~167、2004.5.1)
息子をそのように死なせるしかなかった神様の痛ましい事情を誰が知っていたでしょうか。それは聖書にはありませんが、息子を死なせるほどの事情があったのではないでしょうか。キリスト教のイエス様を信じると言ってあのように集まるのも悲惨であり、すべての選民の味方になるべき神様なのにこれを知っているのか知らないのか……。行く所ごとに血を流し、首が落ち、煮えたぎる油に入れられて死に……。このような運命にぶつかるのを見て、「神様がこれを防ぐことができるのではないか」と言うかもしれませんが、全知全能であられながらその忍び難いものを忍ばねばならない神様は、どれほど恨がしこりとなっていることでしょうか。そのように考えたことがありますか。それなのにどうして神様が最も高いところにいらっしゃることができるでしょうか。いつかきれいに清算できたらいいというのです。(注 32)
(64-222 ~ 223、1972.11.12)
皆さん、私たちのお父様を知らなければなりません。どのようなお父様ですか。歴史路程において、最も悲惨に歩んでこられたお父様であることを知らなければなりません。歴史路程に起こったあらゆる惨事以上の惨事を受けられたお父様であることを知らなければなりません。
悲しみと苦痛と絶望と死の囲いの中で苦しむ子女を見つめるとき、「お前たちはよくやっているなあ!」という天ではありませんでした。悲しみにひたる子女を救うためにより悲しい立場にいらっしゃり、苦痛の場で呻吟する子女を救うために、より苦痛の立場にいらっしゃったお父様です。また、死んで消えていくその息子を救うために、死の場も意に介さないお父様であることを皆さんは知らなければなりません。
それでは、これからはどのようにしなければなりませんか。道を歩いていて、腰の曲がったかわいそうな老人を見れば、私のお父様も、あのような姿で訪ねてこられたのだなあ!」と考えなければなりません。腫れ上がった労働者の手を見るときも、「息子を探し出そうとする私のお父様は、あれ以上のお姿をされていたのだなあ!」と考え、かわいそうな乞食を見るときも、「この乞食は、乞食ではなく私のお父様だ!」と考えて、頭を下げることができなければなりません。取るに足らない哀れな人生でも、そこには神様の心情が宿っていることを知って、彼が私のお父様だという心で涙を流し、自分の境遇や自分の威信を超越して行動できてこそ、神様を知ることができるのです。
(8-345 ~ 346、1960.2.28)
③神様の涙を身代わりする
― 宗教経典 ―
わたしの嘆きはつのり / わたしの心は弱り果てる。
見よ、遠い地から娘なるわが民の /叫ぶ声がする。「主はシオンにおられないのか /
シオンの王はそこにおられないのか。」
なぜ、彼らは偶像によって / 異教の空しいものによって / わたしを怒らせるのか。
刈り入れの時は過ぎ、夏は終わった。
しかし、我々は救われなかった。
娘なるわが民の破滅のゆえに / わたしは打ち砕かれ、嘆き、恐怖に襲われる。
ギレアドに乳香がないというのか /そこには医者がいないのか。
なぜ、娘なるわが民の傷はいえないのか。
わたしの頭が大水の源となり / わたしの目が涙の源となればよいのに。
そうすれば、昼も夜もわたしは泣こう/ 娘なるわが民の倒れた者のために。(注 33)
エレミヤ書 8.18 ~ 23(キリスト教)180
神よ、わたしの愚かさは、よくご存じです。罪過もあなたには隠れもないことです。万軍の主、わたしの神よ /あなたに望みをおく人々が / わたしを恥としませんように。イスラエルの神よ/ あなたを求める人々が / わたしを屈辱としませんように。わたしはあなたゆえに嘲られ / 顔は屈辱に覆われています。兄弟はわたしを失われた者とし / 同じ母の子らはわたしを異邦人とします。
詩編 69.6 ~ 9(キリスト教)181
あなたに不足なものを下さいと祈ってはいけない。そのような祈りは受け入れられない。祈りたいときは、世のあの頂にいらっしゃる天のために祈りなさい。あなたが願う望みもやはり主の栄光の中にある。人は主なる神の一部であり、個体の欲望はすなわち全体の欲望であり、全体が個体の願うものを一緒に渇望し苦しむ。ゆえに、あなたの祈りが全体に向かう欲望に向かうようにせよ。天の栄光のために絶えず祈れば、流浪から救われるだろう。
イスラエル・バアル・シェム・トーヴ(注 34)
(ユダヤ教)182
― み言選集 ―
歴史的な悲しみの中で摂理される神様の心情を体恤しながら生きていく人は、どこにとどまっても、神様を涙なしには見つめることができないでしょう。そのような立場で神様のみ旨を知り、その方の息子、娘になるために戦うようになるとき、彼と意を共にする同志がいるなら、神様はその場に訪ねてこられて、涙を流されるでしょう。
それでは、神様の悲しみは、我々の一身にあると同時に、この国、この世界、この万物の中にあるのです。我々はこれを清算して、神様の喜びを復帰してさしあげる運動を展開しなければなりません。そのような我々において、生命の中心は神様の悲しみを体恤することです。
霊界の霊人たちがこの地に来ることができない原因とは何ですか。それは、この地が嘆息の囲いになっているからです。もし、私自身がとどまっている環境が嘆息の条件を抜け出すことができ、自分の体を通しても嘆息の条件を抜け出すことができ、サタンの脅威を受けながらも恐怖を感じない安息圏内に入ったならば、神様は私を協助してくださるようになります。お父様のために悲しみ、心配し、涙ぐむ人をとらえるためには、サタンもそのような立場に立たなければなりません。そのようになれば、サタンの勢力も根本的に崩壊するのです。
(4-60、1958.3.2)
今私たちは、神様を解放してさしあげなければならない運命に置かれています。「人類のゆえに神様が拘束を受けているのだ。私ゆえに神様が拘束されているのだ。私という一個体のために神様がサタンの讒訴を受けているのだ。私のゆえにイエス様も死んだのだ。私ゆえに聖霊が血のにじむ闘争の歴史を抱いて身もだえしてきたのだ。神様、私に力をお与えください。お父様を安息させ、解放の座に移してさしあげます」と言うことのできる、信仰に飢える者、希望に飢える者、愛に燃える者を神様が 6000 年間求めてこられたのです。このような事実を私たちは知らなければなりません。
(7-162 ~163、1959.8.30)
万民が嘆息圏を抜け出さない限り、父母の立場に立った神様は嘆息圏内から抜け出すことができないのです。愛する子供が悩んでいるのに父母が安らかな立場に立つことはできないのです。このような立場に神様がいらっしゃるがゆえに、神様を解放してさしあげなければなりません。何によって神様を解放してさしあげなければならないのでしょうか。神様は万民を愛することのできない拘束圏内にあるので、万民を自由に愛することのできる解放圏を神様の前に取り戻してさしあげるべき責任があるのです。堕落した人へと落ちぶれたので、堕落線を越えて勝利した息子、娘となって解放してさしあげなければなりません。
(65-100 ~101、1972.11.13)
宇宙の中心である神様が苦痛を受ければ、救う道がないでしょう。誰が救いますか。それは、神様の事情をもっとよく知り、それ以上の何かをもつまでは、苦痛の場を避ける道はないと思うのです。
このように思うとき、宇宙の中心となる神様が喜び、幸福に思うことができれば、それ以外の苦痛にあえぐすべての存在は、幸福になれる道があるという結論をここから見いだせます。したがって、神様が苦痛を受ける立場にいてはいけないのです。
神様を最も苦痛な立場に立たせるようにしたのは、アダムとエバの堕落でしょう。神様は父であり、私たち人間はその息子なので、その息子が堕落したという事実は、神様との直接的な関係に連結します。堕落したアダムとエバを見るとき、神様から切り離されていくのは、肉的な苦痛であり、心的な苦痛であり、心情的な苦痛だというのです。ですから、アダムとエバが堕落し、神様の前から離れるようになったとき、間違いなく涙を流して苦しんだということを私たちは考えることができます。
そのような観点から、私たちの人類始祖が堕落することによって体が受け、心が受け、心情が受けた苦痛は、歴史的苦痛の出発なのです。アダムとエバが堕落することによって、神様の息子、娘がいなくなりました。そして、神様の実体的な舞台になるべき神様の家、神様の体自体が断ち切れてしまったのです。そして、神様の愛が侵害を受けたのです。したがって、堕落の場は、神様の息子を失ってしまった場であり、神様の体が侵害を受けた場であり、神様の愛が侵害を受けた場です。結局、アダムとエバは、神様の息子、娘であると同時に、神様の体であり、神様の愛の実践的舞台、つまり実践的存在だったのです。
それを皆さんがどのように感じることができるでしょうか。皆さんは、先生がこのように言えば、観念的には感じることができるかもしれませんが、実際の立場を皆さんがどのように体恤するのかというのです。例えば、ある婦人がいるのですが、息子、娘を失ってしまい、夫を失ってしまい、父母を失ってしまいました。その後、自分がもっているすべてのものを失ってしまったと仮定しましょう。そのようなとき、どうするでしょうか。そのときのその女性の姿はどうでしょうか。今私たちが堕落した人間の圏内で心情が引き裂かれるだけ引き裂かれ、傷つくだけ傷つき、女性としても悲惨なのに、このような心情の苦痛を感じない純潔な神様の立場を考えてみるとき、このような打撃が及ぶとき、その苦痛がどれほど大きかったでしょうか。今日、自殺した人がいれば、その人くらい苦痛だったのでしょうか。
このように思うとき、苦痛という言葉を語ることができるとすれば、神様以外に語ることができる人はいません。このような立場で見れば、神様は最高の苦痛の絶頂で救援摂理をされる方だということを私たちは知らなければなりません。
私たち人間を見てみれば、すべて破綻しても、時がたてば忘れてしまえます。ところが、霊的な神様はどうなるでしょうか。霊的な神様に時間の観念がありますか。千年、万年がその時間です。だからといって、神様がこれを抜いてしまうことができますか。全知全能の神様ですが、これをすることができますか。神様はほかのところでも全能の神様ですが、愛においてはもっと絶対的です。
子女が死に、そのあとに父母が死ねば、忘れられますか。忘れられません。「断ち切ってしまおう」、そのようにできますか。できません。いくら努力しても同じです。そのような死亡圏内に入っていくことによって苦痛を受けた神様の心を、その死亡圏内にそのままいては解く道がありません。
(94-34 ~ 36、1977.6.26)
皆さんは神様のためにどれほど涙を流したでしょうか。神様の御苦労の前に、神様に代わって苦労するために、四肢が裂けるような道でも行こうともがいたことがあるでしょうか。ないのです。皆さんが「子女」というその立場を追求するためには、公的な涙を流さなければなりません。そうして父なる神様にまみえ、「父よ、あなたの息子である私を、そして私たちの先祖を失ったとき、あなたの心はどれほど悲しみに痛んだことでしょうか。その子孫を通じて今まで歴史過程において受けた屈辱と苦痛と苦難が、どれほど大きかったことでしょうか」と慰労してさしあげながら、限りなく涙を流すことがで
きなければなりません。全知全能の権限で全世界とサタンまでも審判してしまうことのできる神様でありながら、能力をもっていながらも、今までひどく苦労する立場に立ち、手をつけようにもつけられず、神様御自身がもつべき環境をもてないまま孤独単身でサタンの前に讒訴され、サタン世界で足場
をすべて奪われて呻吟する神様の立場を考えると、言葉も出ません。このような神様の立場に同情しながらどれだけ涙を流したでしょうか。問題はここに帰結するのです。
(51-111~112、1971.11.18)
お父様! あなたの悲しい心が地上に立ち込めていることを人間たちは知らずにおり、天の悲しい涙の跡が人類歴史の足跡に染み込んでいることを知らずにおります。絶えることのない天の嘆息が私たちの心と体を取り巻いていることを知らなくては、天の前に面目を立てることもできず、天の信任を受けることもできない悖逆した人間の子孫であることを自認せざるを得ないのでございます。
お父様、地にはあなたの涙をとめてさしあげる者がなく、あなたの悲しみをつかんで慰労してさしあげる者がなく、あなたが行かれるその道を守る者がおりません。ゆえに、この地に恨があるとすれば、それは天の恨が宿った地であり、怨恨があるとすれば、天の怨恨が宿った地でございます。したがって、この地に暮らしている人間たちは、悲しみの祭物になるまいとしてもならざるを得ない運命に置かれているのであり、恨の場を越えていくまいとしても越えていかざるを得ない運命に置かれております。
落胆の中、最後の声で天に向かって、「お父様! 私たちをお助けください!」と叫ぶ時になったのであり、「お父様、愛の心情をもって人類を取り戻してください!」と叫ばなければならない終わりの日が迫っておりますが、このようなときにお父様の心情をつかんで悲しんだ者が誰であり、お父様の心をつかんで痛哭する者が誰でございますか。そのような者がいるとすれば、彼は、お父様の真の息子、娘だと言うことができ、お父様の実体的な対象だと言うことができるのでございます。
(6-235 ~ 236、1959.5.24)