世界経典Ⅱ 第2部 罪と救援 第7章 救援、解放、覚醒
第7章 救援、解放、覚醒
1. 恩寵
人間は、人間性の堕落と堕落した環境のために、自分の力で人生の目標と目的を成し遂げることが難しい。しかし、信仰の道には、私たちを心強く守ってくれる神様の恩寵があるので、 (人生行路において)十分に協助を受けることができる。様々な経典は、神様の恩寵が最優先だという点をしばしば強調する。なぜなら、恩寵がなければ道を失い、悲惨な状況から抜け出せない未熟な信仰者にも、彼を激励するための恩寵が下されるからである。
私たちは、神様が罪人の救援者だという章句を選択した。恩寵は、一個人の態度や功績に関係なく、全的に神様が主導的に下さるのである。さらに、神様の恩寵は、善の行いを通して得た功績をはるかに超えたものであり、困難な生活に耐え、善を行ったとしても、神様の恩寵がなければ救援の目的を成し遂げられないだろう。
この部分には、放蕩息子の二つの例えに登場するのだが、一つは『新約聖書』の話であり、もう一つは仏教の経典『法華経』の話である。この二つの話の教えは、ある面で若干異なるが、彷徨する人間に対する神様の哀れみという主題をよく表している。文鮮明先生の教えによれば、必死に息子を探してさまよい、数年にわたって自分の息子を完全に回復させようとする父親を描写した仏教の例えは、人類歴史を通して、堕落した人間を救援するための神様の労苦を記述することと相通じると言える。
①救援に必要な恩寵
ー宗教経典ー
事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
エフェソの信徒の手紙2.8~9
(キリスト教)1
アブ・フレイラが使徒の言葉を伝えた。「誰でも自らの行為だけで天国に入ることはできない」。これにある人が、「神の使徒よ、あなたも該当しますか」と尋ねると、「私も同じだ。ただ、私の主が私を慈悲によって包んでくださった」と答えた。
ムスリム・ハディース(イスラーム)2
(苦行者たちの)あらゆる法衣を着替えることによって、また経典の学習や瞑想によって、または仏尊の実践遂行を通してそれを成就した者は誰もいなかった。ナナークが言うのだが、ただその恩寵により
我々が悟りを得、聖なる者となる。
アーディ・グラント、ガウリー・ババ・アカーリー
M.5、p.251(シク教)3
この我アートマンは教示に依て得られず、知力(medha)に依ても、また多聞に依ても得られず。唯彼〔我〕が選びし人に依てのみ得らる。その人に對してかの我は自の本性を表はす。
ムンダカ・ウパニシャッド 3.2.3(ヒンドゥー教)4
たとえあなたが、胸が張り裂けそうになるほど叫び、限りなくむせび泣いて目が痛くなっても、またこの世の終末が訪れる時まで苦行の人生を行くとしても、あなたのこのような根気強い努力は、真実と宗教の道へあなたを導くその方の善意と親切、その方の博愛と施しの心、そしてその方の慈悲と慈善の小さな部分にも報いることはできないだろう。
ナフジュ・アル・バラーガ 説教 57
(シーア派イスラーム)5
さて、もし世の初めから備えられていた贖の計画がなかったならば、死者の復活はあり得なかったであろう。しかし、前に語った死者の復活をもらたす贖いの計画はすでに備えられていた。(注1) モルモン経、アルマ書12.25
(末日聖徒イエス・キリスト教会)6
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
ローマの信徒への手紙 3.23 ~ 25(キリスト教)7
一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。
ローマの信徒への手紙 5.17(キリスト教)8
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。
コリントの信徒への手紙二12.9(キリスト教)9
業の鎖に縛られてこの世を生きている我々は、ただ彼の恩寵によりこの業報の世界を抜け出すことができる。
シュリーマッド・バーガヴァタム11.2(ヒンドゥー教)10
あらゆる人々は神の恩寵を願う。恩寵がすべての世に満ちることを願ったアブラハムも、彼自身が恩寵を必要とした。
創世記ラッバー 60.2(ユダヤ教)11
最勝の聖歌と行為とを、マズダーよ、ではわたくしに語ってください。御身たちの王国を通して、アフラよ、御所望のなかに首位を占める世を、御身は実現してください。
アヴェスター・ヤスナ 34.15(ゾロアスター教)12
― み言選集 ―
アダムとエバの堕落によって、全世界を悪魔サタンが主管する世界になったので、この世界は地上地獄に違いありません。ですから、サタン世界よりも強力な一つの国を立て、サタン世界の国を吸収する責任を果たさなければならないのが神様の立場です。その使命を果たすための中心存在として送ったのがメシヤであり、これがメシヤ思想だということを知らなければなりません。メシヤがこの地に来るとき、本来の神様のみ旨が成し遂げられた所を訪ねてくるのではなく、神様のみ旨を成し遂げるための国の基台を求めて訪ねてくることを知らなければなりません。したがって、今私たちが生きているこの世の中は、救援摂理の世の中であり、救援摂理の歴史時代にいることを知らなければなりません。しかし、神様の本来のみ旨から見るとき、この救援摂理は神様のみ旨の中になかったものであることを知らなければなりません。
(73-203 ~ 204、1974.9.18)
神様が最後に、この地でなさなければならないみ旨があるがゆえに、我々はこの地で滅びる立場におかれても、滅びずに残されてきたのである。(注 2)
御旨の道、指導者
エデンの園から追放された人間は、歴史的に誇り得ない大悪党になりました。しかし、神様はこのような人間を復帰しなければならない心情的な因縁があるので、アダム、ノア、アブラハム、モーセ、イエス様を経て、今まで耐えながら救援摂理をしてこられました。このような恩賜を考えながら、私たちは現在の心情の因縁ではない、歴史的な心情の因縁をもって神様の前に訴えなければなりません。
(16-236、1966.6.19)
私たちは、全知全能であられるそのお方に対し得る何らの内容も持ち合わせていません。しかも堕落した人間として生まれた私たちであり、私たちの目は俗なるものです。私たちの五官の感情は、すべて俗なるものです。神様に対し得るものは、一つとしてありません。一つもなく、公義の法をもっては相対できる内容が絶対にないのですが、愛の法をもってのみ対し得るという唯一の道があるのです。
(149-38 ~ 39、1986.11.1)
救援の根本基点は、神様との愛の接触点です。そこに帰らなければなりません。ところが、私たち自身は、1から 10 まで神様の血統と関係のない人間になっています。したがって、それを蕩減しなければなりません。それを蕩減するためには、原罪を除去しなければなりません。原罪を除去するところには、血統的なものが根本的に存在します。血統的なものは、堕落人間としては到底解決できません。それで、メシヤが必要なのです。
(35-159、1970.10.13)
お父様! きょうの私を、一人の私自体の中から求めないようにしてくださり、歴史の代身となり、宇宙全体の代身となり、未来の世界の代身となり、天倫のみ旨の前に恥ずかしくないお父様の息子、娘となるよう許諾してくださり、そのような息子、娘となったことを誇り得る喜びの栄光を私たちに許諾してくださることを、懇切にお願い申し上げます。
(2-280、1957.6.23)
②放蕩者のための恩寵
― 宗教経典 ―
また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、
財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を
犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません 。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いな
くなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。 『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」(注 3)
ルカによる福音書15. 11 ~ 32、「放蕩息子」のたとえ
(キリスト教)13
「たとえば、ここに一人の男があったとします。幼いときに父のもとから逃げ出し、長いあいだ他国に住むこと十年、二十年、五十年に至ったとします。年こそすでに長じても、ますます貧窮し、困苦し、衣食を求めて四方に馳せまわり、次第に遍歴してたまたま本国にやって来たとします。これより先、その父は子供を探し求めて見つけることができず、ある城市にとどまっていました。その家は大いに富み、財宝は無量であって、……
一方、貧窮の子は、村や町や国を流浪してついにその父の住んでいる城市にやってきたのです。父は常に子のことを思い、子と別れて五十余年になりますが、しかも人にはこの事を一言も言いませんでした。ただ自分ひとりで考えて、心に後悔する気持を懐いているばかりでありました。かれはこう思っていました。
『自分は老衰した。自分には多くの財物があり、金・銀・珍宝は倉庫に満ちあふれているが、自分には子供がない。自分が死んでしまえば、財物は散失してしまい相続する者もない。……もし、あの子を見つけ出すことができて、財物を相続させることができたら、安らかに快く、苦労もなくなることであろうに』と。
世尊よ、そのときかの貧窮の子はあちこち傭われながらやって来て、たまたま父の家にやって来ました。門のほとりに佇んではるかにその父を見れば、獅子の 床几に腰を下ろして、宝石を鏤めた足台に足を置き、もろもろの婆羅門や、武士や、資産家たちは皆、とりまいて敬意を表しています。千万金の値ある真珠の瓔珞(胸飾り)でその身を飾り、傭い人や侍童や下僕たちは手に払子をもって左右に侍立しています。……
貧窮の子は、父に大きな威勢のあるのを見て、恐怖心を懐いて、ここにやって来たことを後悔して、ひそかにこう思いました。
『この人は王か、あるいは王にひとしい人なのであろう。ここはわたしが傭われ仕事をして物を貰うような場所じゃない。貧民のいるところへ行けば働くところがあって、衣食がたやすく得られるだろう。そっちの方がましだ。もしこんなところでぐずぐずしていたら、それこそつかまえられて強制的に働かせられるだろう』
こう思って大急ぎで走り去りました。
そのとき、富んだ長者は、獅子の座の上から子を見てすぐにそれと知り、心に大いに歓喜してこう思ったのです。
『わたしの財物や蔵は、今、相続する者ができた。わたしは常にこの子のことを思っていたが、どうしても会えなかった。それが突然にあの子の方からやって来たのだ。わたしの願いはかなった。わたしは老いさらばえてはいても、なお子に対する愛着をなくしてはいないのだ』と。
そこで、かたわらの人を遣わして、急に追うて連れて来させようとしました。そのとき使いの者はす早く走って行ってその子を捉えましたが、貧窮の子はびっくりして、恐怖のあまり大声で叫びました。『わたしは何も悪いことはしていません。何のために捕えるのですか』と。
使いの者はいよいよしっかりつかまえて、無理矢理引きずって帰って来ます。そのとき貧窮の子はこう思いました。『罪なくして捕えられる。これは必ず殺される』と。そこで、いよいよ怖れ、悶絶して大地に倒れました。
父ははるかにこれを見て、使いの者にこう言いました。
『この男をそんなに無理強いして連れて来ることはなかったのだ。』と。
それから冷たい水を顔にかけて息を吹き返させましたが、それ以上この男と話したりすることはしませんでした。それはなぜかというと、父はその子の考えが下劣であることを知り、自分が富豪であり高貴であることを子がはばかっていることを知っていましたから、明らかにこれはわが子であると知っていましたが、方便によって、『これはわが子なのだ』と他人に言ったりはしなかったのです。さて使いの者は貧窮の子に言いました。
『おまえはもういい。行きたいところに行け』と。
貧窮の子は歓喜し、未曽有の思いを得て、大地から起き上り、貧民のいるところに行き、衣食を求めました。そのとき長者はその子を誘って連れて来させようとして、方便を設けて、ひそかに顔形や姿の憔悴して貧相な者を二人遣わしてこう言いました。
『おまえたちは、かしこに行っておもむろにあの貧乏な男にこう言え。〈ここに働くところがある。……おまえを傭うのは汚物の掃除をさせるためだ。おれたち二人もおまえと同じ仕事をするんだ〉と言ってやれ』と。
そこで、使いの者二人は、貧窮の子を探し出して上のことを話しました。貧窮の子はその給金を受けとって汚物の掃除をしました。その父は子を見てあわれみ、こうなった運命を不思議に思うのでした。ある日から、はるかに子の姿を見ると、疲れ、やせ、やつれて、汚物に汚れ、不浄となっています。そこで父は、瓔珞と、軟かくしなやかな衣服と、美しい装飾品とを脱いで、かわりに破れ垢じみた衣服を着、泥や土で体を汚し、右手に汚物を入れる壷を持って、恐る恐る近づいて来たような風をしてやって来て、働いている人たちにこう言いました。 『おまえさんたち、怠けずに働くんだよ』と。
こうした方便によって父はその子に近づくことができました。そののち、またこんなことを言いました。
『おい、そこにいる男、おまえはいつもここで仕事しな。おれのそばから離れるんじゃないよ。おまえには特別な給金をやろう。要るものがあったら、瓶でも、米でも、麺でも、塩でも、酢でもなんでも心配せずに言ってくれ。古びてはいるが使い古しの上衣もある。要るんならそれもあげよう。わたしはおまえの父親みたいなもんだ。遠慮なんかしないでくれ。なぜってそりゃ、わしが年寄で、おまえは若いからさ。おまえは働いていてごまかしたり、怠けたり、憎んだり、怨んだりしたことがない。他の下男たちにはありがちなそういう悪いところがまったくない。今日からおまえは、わたしの生んだ子も同然だ』と。
こうして長者はこの貧乏な男に息子という名をつけてやったのであります。そのとき貧窮の子は、このように待遇されるのを喜んではおりましたが、それでもやはり自分は傭われた賤しい身分の者であると思っていました。こうして二十年のあいだ、常に汚物の掃除をさせていたのであります。二十年を過ぎますと、父と子の心は通いあって遠慮なく出入りするようになりましたが、それでも住んでいるところはやはりもとのところでありました。
世尊よ、その長者が病気になりました。もうまもなく自分が死ぬことをさとった長者は貧窮の子にこう言います。『わたしは今、多くの金・銀・珍宝を所有していて蔵に満ちあふれている。その多少と、取って与えるべきところとを、おまえは全部知っている。わたしの心はこのとおりだ。
わたしの意のあるところをさとってもらいたい。それはこういうことなのだ。今、わたしとおまえとは一体なのだ。おまえは心してわたしの財産をなくさぬようにしてもらいたい』と。
そのとき、貧窮の子は、言いつけられたとおりに莫大な……もろもろの蔵を管理したけれども、その中から何一つ貰おうという気を起こしませんでした。しかも、住んでいるところはやはりもとどおりのところで、自分が貧しいという心も未だ捨てることができないでいました。
それからまたしばらく経って、父は子の心がようやくひらけて来て安らかとなり、大らかになって来ており、しかも、かつての自分の心がいやしいものであったと恥じているのを知って、臨終の時に、その子に命じて、親族、国王、大臣、資産家を全部呼び集めさせました。その前で父はこう言いました。『諸君、まさに知れ。これは実にわが子である。わたしの生んだ子である。ある町からわたしを捨てて逃げ出し、さまよい歩いて辛苦すること 50 余年であった。その元の名は何某、わたしの名は何某である。わたしは昔のその町で憂いを懐いて尋ね歩いたのであるが、たまたまめぐり会うことができたのである。これは実にわたしの子である。わたしは実にこれの父である。今わたしが所有している一切の財物は、皆、子の所有である。
これまでの出納は全部この子が承知している』と。
世尊よ、このとき貧窮の子は、父のこのことばを聞いて大いに歓喜し、未曽有の思いを得てこう思ったのです。
『わたしはもともと、心に何の願い求めるところもなかったのに、今この宝蔵は自然にわたしのものとなった』と。
世尊よ、大いなる富を持った長者とは如来のことであります。わたくしどもは皆、仏の子のようなものであります。それは、如来がいつもわたくしどもに『おまえたちはわが子である』と説かれているからであります。世尊よ、わたくしどもは三種の苦悩によって、生死の中でもろもろの烈しい悩みを受け、迷い惑い、無知であって下劣な教えに執着しております。今日、世尊は、わたくしどもに考えさせて、汚物にも似た、存在についての空しい論議を除くようにされました。わたくしどもは努力精進して、ちょうど一日の給金を得るように、永遠の平安を得ました。それを得てしまうと、心に大いに歓喜して、自分では満足しておりました。そして、
『仏の教えの中で努力精進したから、得るところ多大であった』と言っておりました。……
仏はわたくしどもが心で卑小な教えをねがっているのを知られて、方便力によってわたくしどもに応じて説かれましたのに、わたくしどもの方では自分たちが真に仏の子であると知らなかったからであります。……
こういうわけで、わたくしどもは、もともと心にねがい求めるところがなかったのでありますが、今、教えの王の大宝が自然にやって来て、仏の子として得るはずのものは皆、すでにこれを得たのだと、このように言うのであります」と。(注 4)
法華経 4(仏教)14
― み言選集 ―
父母は、息子が罪を犯して監獄に行けば、「こいつ、よくぞ行った」と言うのではなく、その子女を赦し、涙を流して愛そうとするのです。それが父母の愛です。それで父母の愛が貴いのです。もし、その息子が死刑囚になって死ぬ時間を母親が知れば、痛哭するでしょう。この世のあらゆる法をすべて変更させてでも、息子を救えるたった一つの道があれば、命を捧げてでもやろうとするのです。そのような変わらない愛をもっているので、その愛が貴いのです。
父母の心に、死刑場に引かれていく息子を赦す心があります。そのような母の愛が真であるとすれば、神様の愛がそれよりも劣るでしょうか。神様の愛はそれ以上だということを私たちは自動的に認めるでしょう。ですから、神様の愛が父母の愛を凌駕するというのは、当然の結論だということを知らなければなりません。
(91-148、1977.2.6)
死亡の圏内にいる、千万回死んで当然の人間を訪ねてこられる天の苦労があることを、注意深く見極められなければなりません。天が死亡の圏内にいる私たちを訪ねてくださるとき、世の中の何よりも貴いものをもって訪ねてくださり、死亡の圏内にいる私たちを救ってくださるとき、心配する心と、つらい心情をもって救ってくださることを忘れてはいけません。天が私たちを死亡の圏内から奪ってこられるとき、もっているすべてのものを犠牲にする覚悟で奪ってこられるのです。
(6-115 ~116、1959.4.12)
迫害を受けたといって荷物をまとめ、中心者と心が合わないといって荷物をまとめ、夫婦同士で心が合わないといって離婚すると言うのですが、いくら人間世界がそうであっても、神様は神様なので、泰然自若としていなければならないのです。その心には千万の事情が沸き立っていますが、泰然としてい
なければなりません。もし神様が口を開いてその事情を語れるとすれば、千年、万年痛哭する事情があるのです。それは、神様御自身のために痛哭するものですか。違うでしょう。人類のために涙を流さざるを得ない神様であることを知らなければなりません。
(124-60、1983.1.23)
神様は、父母の位置にいらっしゃるので、私たち人間の上にいるのです。ですから、神様は人間を愛するのです。皆さんがよく世の中で見るように、ある父母の息子の中に体が不自由な子がいて、彼が父母の愛が分からなければ、どれほど悲惨でしょうか。100 を愛しても、100 の愛が分からず、1の愛も分からない立場に立っている子女と向き合う父母、それでも子女を愛さざるを得ない父母、常に与えなければならない立場にいるので、愛を与えるにもかかわらず、受け得る立場に立てない息子を見るとき、100 を注いだ愛をもった父母は、100 以上、何百の悲しみを感じるのです。たった一つの愛をもって子女を愛そうとするとき、その愛に向き合える子女をもてない父母は、それ以上の悲しみはありません。それ以上に呆然とすることはないというのです。
もし 100 くらいの愛を与えようとするとき、100 以上の愛を受けることができる相対として、あるいは息子として、娘として現れるようになるとき、その父母はどれほどうれしいでしょうか。1000 を与えた以上の喜びを、その場で感じられるのです。そこで反対の与件が成立することを私たちは知っています。
そのような観点から、自分が与えるものを受け得る子女をもてなかった父母は、かわいそうです。それが一度だけでなく、永遠にそのような立場に立てば、その父母は、かわいそうで悲惨なだけでなく、唖然とするのではないかというのです。このようなことを私たちの世の中で推し量ってみるとき、もし神様が父母の立場にいるとすれば……。
人情と天情が連結され得る最高の場は、どのような場でしょうか。いくら私たちが求めて上がっていっても、神様は父母なので、人間は子女の位置を追求せざるを得ません。それで、キリスト教では天に対して父と言うのです。父子の関係を意味します。その父子関係の基準はどのようなものでしょうか。堕落線以下か、堕落線以上かというとき、これは堕落線でもなれないものであり、堕落線以下でもなれないものです。それは、堕落線以上の位置です。
今日、堕落した人間たちを見ても、そうではないかというのです。これは、堕落以下の父子関係の愛ですが、その父子関係のその愛でも私たちは唖然とするのに、堕落していない立場にいる父母が不孝者を迎えたとすれば、その父母はどれほど唖然とするでしょうか。私たちが日常生活の周辺で、父子間の愛という問題をおいて考えてみるとき、その背後を十分に測定できるのです。
神様は、そのような堕落線以上の愛をもって子女を愛そうとしているのではないかというのです。それでは、その愛はどれほど強かったでしょうか。堕落線以上の位置に立っていた人がいないので、それを分かる人がいないという結論が出てきます。
(62-19 ~ 20、1972.9.10)
愛するお父様! 6000 年間摂理してこられながら、愚かで不足な私たちをお捨てにならず、探し出してくださったお父様の哀れみのみ手を、この時間だけでも感じることができるよう、許諾してくださることを懇切にお願い申し上げます。
(3-258 ~ 259、1958.1.12)
2. 赦し
罪悪と無価値なものに染まった私たちが、神様の前に直接出ていったり、悪行によって汚された私たちが真の内的本性を実現したりすることはできないが、私たちは、神様に私たちの罪を赦してくれることを切に求める。世界のあらゆる宗教の求道者たちは、普遍的に神様の赦しと赦免を経験する。神様は、常に罪を赦したいと思われる。私たちを愛する父母がそうであるように、神様の愛の意志もやはりそうである。
この節の最初の章句では、神様の赦しと寛容の本性を表現する。結論の部分は、浄化の一過程としての罪の清算を記述している。
①神様の赦し
― 宗教経典 ―
言え「己れの魂にそむいて、あやまちを犯したわしのしもべたちよ、神の慈悲に絶望してはならぬ。神は、まことにあらゆる罪を許したもう。かれは、寛容者・慈悲者であられる」。
クルアーン 39.53(イスラーム)15
わたし、このわたしは、わたし自身のために / あなたの背きの罪をぬぐい /あなたの罪を思い出さないことにする。
イザヤ書 43.25(キリスト教)16
わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。(注 5)
エフェソの信徒への手紙1.7 ~ 8(キリスト教)17
たとい極悪人であっても、ひたすら私を信愛するならば、彼はまさしく善人であるとみなされるべきである。彼は正しく決意した人であるから。速やかに彼は敬虔な人となり、永遠の寂静に達する。アルジュナよ、確信せよ。私の信者は滅びることがない。
バガヴァッド・ギーター 9.30~31
(ヒンドゥー教)18
至高のアッラーは申された。アーダムの息子よ、お前が私を呼び求め、私に〔心から〕願う限りは、お前のしでかしたことを赦し、大目に見てやろう。アーダムの息子よ、お前の罪が空の雲に届くほどであっても、私に赦しを求めさえすればお前を赦してやろう。アーダムの息子よ、お前がこの地球と同じほどの大罪を犯して私のところにやって来ても、私の姿を見て私に似たものは存在しないと思うなら、それと同じ赦しを与えてやろう」。
ナワウィー 40 のハディース 42
(イスラーム)19
〈下品下生の者〉とは、……さまざまな不善を行い……「お前がもし仏を念ずることができないなら、無量仏よ、と称えなさい。」と。このようにしてこの者は心から声を絶やさぬようにし、十念を具えて、南無アミタ仏と称える。仏の名を称えるのであるから、一念一念と称える中に、八十億劫の間かれを生と死に結びつける罪から免れるのだ。 (注 6)
観無量寿経 3.30(仏教)20
明るく輝き、アグニよ、われらの罪を取り除き給え、そしてわれらの富を輝かせ給え。
明るく輝き、われらの罪を取り除き給え。良き地、良き家、富のために、われらは汝に供物を捧げん。明るく輝き、われらの罪を取り除き給え。アグニの征服の輝きが、あまねく四方に広がるように、
明るく輝き、われらの罪を取り除き給え。汝の顔はあらゆる方に向き、汝はあらゆる処に行き渡る。
明るく輝き、われらの罪を取り除き給え。(注 7)
リグ・ヴェーダ 1.97.1~ 6 (ヒンドゥー教)21
― み言選集 ―
神様が、私たち人間が犯した罪をすべて赦してくださったのも、最後まで哀れに見る心があるからなのです。「お前はまだ罪人である」という心があれば赦してくれたでしょうか。そのように赦すことにより、すべてのものが一つになるということを、皆さんが知らなければなりません。
(41-333、1972.2.18)
大きく赦してくださるのも、その人の事情を 100 パーセント分かるときに可能なのです。神様は、人間の事情を御存じなので、人間を赦してくださるのです。
(2-220、1957.5.26)
ある父母にとって、「あなたの息子が悔い改めても、犯した罪をもって常に子女を拒否できる父母になるべきであって、悔い改めたからといって赦してあげる父母になってはいけない」、そのような道理はないというのです。ですから、サタンも、神様が人類を救援するそのような愛には讒訴できません。サタンは完全な位置に立っている人を天に讒訴できないのです。その人にはサタンが自然屈服するのです。その父母の愛を通しては、悔い改める者を赦せない道理がありません。
(62-52、1972.9.10)
皆さんは、神様に対する私たちの先祖の恥を知り、そのような先祖が歴史を通して恥ずかしく生きてきたことを知り、今日私たちが生きるこの世界が恥ずかしいものであることを知りました。この恥と罪を正せる道から離れて、神様に誇り得るものが何かあるのかというのです。それでは、誇ることができる私自身でしょうか。そのようにできずにいるのです。それほど恥ずかしく、それほど罪の辱めを受けた子孫であり、その中で育ち、そのような立場にいた私には、神様の前に出ていく資格がないことを私たちは知っています。そのような私をその方が赦し、その方が喜ぶことができ、その方が恥ずかしさを忘れ、罪を抜け出すことができる道があるとすれば、私は何であってもできないことはない、という私自
身になっているのかというのです。
(66-18、1973.3.11)
②浄化
― 宗教経典 ―
この日にあなたたちを清めるために贖いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪責が主の御前に清められるからである。
レビ記16.30(キリスト教)22
神よ、わたしを憐れんでください / 御慈しみをもって。深い御憐れみをもって / 背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い/ 罪から清めてください。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/ 御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/ あなたの裁きに誤りはありません。わたしは咎のうちに産み落とされ /母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。あなたは秘儀ではなくまことを望み / 秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください / わたしが清くなるように。わたしを洗ってください / 雪よりも白くなるように。喜び祝う声を聞かせてください / あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。わたしの罪に御顔を向けず / 咎をことごとくぬぐってください。神よ、わたしの内に清い心を創造し/
新しく確かな霊を授けてください。
詩編 51.3 ~12(キリスト教)23
このように聞かれては、皇孫の朝廷をはじめ、全国に罪という罪はあってはいけないと、風の根源のところから吹いてくる風が天の雲を吹きはらうように、朝霧、夕霧を朝風、夕風が吹きはらうように、港にいる船の舳艫を解き放ち大海原へおし放すように、また川向こうの繁った草木を鋭利な鎌ですっかり刈り取るように、のこる罪はないようにはらい清めたまわれて、その罪けがれを、高い山、低い山から
落ちてくる早川の瀬におられる瀬織津姫神が海原へ持ち出される。
そのように持ち出されると、海原の潮のあいだにおられる速開都姫神が、その罪けがれを大きな口をあけて、がっぷりとのみこまれる。そのようにのみこまれると、息を吹くところにおられる息吹戸主神が、「フウーッ」と吹きはなたれてしまう。そのように吹きはなたれると、根の国(底の国も同じ、海上のはるかな遠い国)におられる速佐須良姫神が、それをなくされてしまう。そのようになくし失われてしまっては、朝廷の役人をはじめ天下四方の人々、また天下に罪はなくなると。(注 8)
延喜式 8(神道)24
― み言選集 ―
太初から真の愛の理想の絶対基準を立てておき、あなた自らその理想に絶対服従されながら創造され、摂理される神様でいらっしゃいます。あらゆる濁り水やかすをすべて受け入れても、完全浄化する海のように、創造原則を外れた人間世界を完全な善に浄化される真の愛の絶対主体として、真の愛の相対世界のために、依然として摂理される神様でいらっしゃいます。
(400-80、2002.12.27)
今、ひれ伏した多くの子女の心を、お父様! 聖別してください。各自の心霊ごとに聖別のみ手で役事してくださり、個々の心と体を、お父様、現してくださり、一つ一つ聖別し、正しくないあらゆる要素を除き、捨ててしまわなければなりませんので、お父様、自ら分別の主人公となってくださり、心情の主人公にもなってください。
(1-162 ~163、1956.7.11)
3. 贖罪
ある人が、罪を清算するために責任をもたない限り、罪は除去されない。これが贖罪の概念である。神様は法度の神様なので、神様の愛の対象は、愛を受けるにふさわしい価値のある存在にならなければならず、贖罪が必要である。神様が犯罪に目をつむってあげたくても、サタンの讒訴が人間の罪を暴き出すので、サタンの讒訴は罪人をより一層苦境に立たせる。したがって、罪をきれいに清算し、完全な赦しと神様との紐帯に障害となるものを除去するために、何かの犠牲的行為が要求される。
キリスト教は、贖罪のためにイエス・キリストが十字架で犠牲になったと教える。これが究極的贖罪である。すなわち、罪のない人間が罪人たちを救うために死んだのである。十字架上でのイエス様の贖罪的死は、様々な状況で贖罪が成立し得るという、より大きな原則の一つの模範を見せたのである。司祭が信徒たちの罪のために犠牲物を捧げたり、善の人が共同体の罪のためにその命を捧げたり、また愛国者が国家の祭壇に彼の血を流すなどがその例である。この場合のように、正義の個人の犠牲が大勢の人たちの罪を贖罪するようになる。
①贖罪の原理
― 宗教経典 ―
この世を治そうとされるとき、主なる神は、病にかかり苦痛を受ける者の中から義なる一人を治される。そして、彼を通してすべてを治される。
しかし、その義人がそれによって苦痛を受けることはない。しかし、他の側の者たちは、誰よりも徳のある人たちに先に懲罰が下さらなければならないと考える。彼らは徳のある者の上に君臨するために、世を無視する者たちである。
ゾハール 5.218a(ユダヤ教)25
アロンは、自分の贖罪の献げ物のために雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行う。次いで、雄山羊二匹を受け取り、臨在の幕屋の入り口の主の御前に引いて来る。アロンは二匹の雄山羊についてくじを引き、一匹を主のもの、他の一匹をアザゼルのものと決める。アロンはくじで主のものに決まった雄山羊を贖罪の献げ物に用いる。くじでアザゼルのものに決まった雄山羊は、生きたまま主の御前に留めておき、贖いの儀式を行い、荒れ野のアザゼルのもとへ追いやるためのものとする。
アロンは自分の贖罪の献げ物のための雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行うため、自分の贖罪の献げ物の雄牛を屠る。次に、主の御前にある祭壇から炭火を取って香炉に満たし、細かい香草の香を両手にいっぱい携えて垂れ幕の奥に入り、主の御前で香を火にくべ、香の煙を雲のごとく漂わせ、掟の箱の上の贖いの座を覆わせる。死を招かぬためである。次いで、雄牛の血を取って、指で贖いの座の東の面に振りまき、更に血の一部を指で、贖いの座の前方に七度振りまく。
次に、民の贖罪の献げ物のための雄山羊を屠り、その血を垂れ幕の奥に携え、さきの雄牛の血の場合と同じように、贖いの座の上と、前方に振りまく。こうして彼は、イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背きのゆえに、至聖所のために贖いの儀式を行う。彼は、人々のただ中にとどまり、さまざまの汚れにさらされている臨在の幕屋のためにも同じようにする。
彼が至聖所に入り贖いの儀式を行って、出て来るまでは、だれも臨在の幕屋に入ってはならない。
彼は、自分と一族のために、またイスラエルの全会衆のために贖いの儀式を済ますと、主の御前にある祭壇に出て来て、そのために贖いの儀式を行う。彼は雄牛の血と雄山羊の血の一部を取って祭壇の四隅の角に塗り、血の一部を指で七度祭壇に振りまいて、イスラエルの人々の汚れからそれを清め聖別する。
こうして、至聖所、臨在の幕屋および祭壇のために贖いの儀式を済ますと、生かしておいた雄山羊を引いて来させ、アロンはこの生きている雄山羊の頭に両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、これらすべてを雄山羊の頭に移し、人
に引かせて荒れ野の奥へ追いやる。雄山羊は彼らのすべての罪責を背負って無人の地に行く。雄山羊は荒れ野に追いやられる。
アロンは臨在の幕屋に戻り、至聖所に入るときに身に着けていた亜麻布の衣服を脱いでそこに置き、聖域で身を洗い、自分の衣服に着替え、外に出て自分の焼き尽くす献げ物と民の焼き尽くす献げ物をささげ、自分と民のために贖いの儀式を行う。また、贖罪の献げ物の脂肪を祭壇で燃やして煙にする。
アザゼルのための雄山羊を引いて行った者は、衣服を洗い、身を洗って後、初めて宿営に戻ることができる。至聖所のための贖いの儀式を行うために、その血を携え入れられた贖罪の献げ物の雄牛と雄山羊は、宿営の外に運び出し、皮、肉、および胃の中身を焼却する。この仕事に従事した人は衣服を洗い、身を洗って後、初めて宿営に戻ることができる。
以下は、あなたたちの守るべき不変の定めである。第七の月の十日にはあなたたちは苦行をする。何の仕事もしてはならない。土地に生まれた者も、あなたたちのもとに寄留している者も同様である。なぜなら、この日にあなたたちを清めるために贖いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪責が主の御前に清められるからである。 (注 9)
レビ記16.6 ~ 30
(キリスト教)26
彼が担ったのはわたしたちの病 / 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに /
わたしたちは思っていた / 神の手にかかり、打たれたから / 彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは / わたしたちの背きのためであり/ 彼が打ち砕かれたのは / わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって / わたしたちに平和が与えられ /
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちは羊の群れ / 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて / 主は彼に負わせられた。(注10)
イザヤ書 53.4 ~ 6(キリスト教)27
― み言選集 ―
旧約時代は、イスラエル選民圏によって始まりました。旧約時代には祭物の血を流す儀式を通して自分たちが贖罪の道を求めてきたのですが、その根本を知りませんでした。神様が天地万物をつくられた主人ですが、神様が愛し得る神様のものなのに、これを二つに裂き、一方は神様の所有で、一方はサタンが所有するのです。そのために血を流さなければならないという内容を今まで知りませんでした。
(309-203、1999.5.30)
蕩減という言葉は何でしょうか。ある人が 100 年間蕩減しなければならない罪を犯し、それをすべて払おうとすれば、その人間自体が生き残れません。その人を救ってあげるには、その人が100 年かけて蕩減しなければならないのですが、すべてはできず、また、その人ができずに死ねば何にもならないので、生きてできる最小限度の期間として、1 年や、あるいは 10 年の短縮を必要とするのです。
ここで神様はできる限り 1 年にしようとするのですが、サタンは 10 年にしようとします。そのようになればどうなりますか。神様は、あなたの言うとおりにも、私の言うとおりにもできる道を模索しようと言います。するとサタンも「イエス」と言うのです。このように、蕩減復帰するにおいても、サタンはたくさんのもので打とうとし、神様は小さなもので赦してあげようとするのです。このような闘いがあることを知らなければなりません。
原理的法度を主張するサタンの立場も正しく、原理的立場で主張する神様の主張も正しいのです。ですから、神様はここで人を中心として、サタンより神様をもっと愛することができる道を模索するのです。それが原理ではないですか。
(111-147、1981.2.10)
お父様を、お父様と呼ぶことのできない不肖なこの姿、大勢の預言者や聖人たちが積んできた血の祭壇によって贖罪されるようになった驚くべき恩賜を受けても、感謝することを知らない過去の生活をもう一度悔い改めながら、実績をもってお父様に捧げることができなければならないのですが、何ももたずに出てきたことをお赦しください。(注11)
(9-161、1960.5.8)
神様が今まで耐えて、世界的な発展をするときまで投入した、その犠牲のすべての与件は誰のためのものなのかというのです。それはアメリカのためでもなく、キリスト教のためでもなく、結局は「私」一人を救うためです。送ったメシヤを十字架で逝かせたことも、結局は、そのメシヤ自身のためではな
く、国を救うためです。また再びこれを延長して、再臨という思想を中心として新しいキリスト教の体制を横的に拡大させ、世界的な範囲まで発展させて終末まで導いてこられた神様が、キリスト教を発展させた歴史も誰のためなのかといえば、「私」のためです。結論はすべて「私」に帰結するのです。
(77-47、1975.3.30)
霊界に行く人にも種類があります。自分の寿命どおりに生きて行く人と、自分の寿命どおりに生きられずに行く人がいます。自分の寿命どおりに生きられずに行く人にも、罰を受けて早く死ぬ人と、民族や世界の罪を蕩減するために早く死ぬ人がいます。
もしある町内で、指折りの 30 代の若者が3人だけ死ぬようになれば、その町内には福が来るというのです。ある一族を例に挙げるなら、その一族から期待を受けた若者が、3人だけ死ぬようになれば、その一族には福が来るというのです。すなわち、蕩減を払わなければならないということです。どこでもそうなのです。因果法則はどこでも作用します。
神様が、1000 人の価値をもった一つの存在を中心的な立場に立てて、代わって死の道を行かせたとき、1000 人がその人の恩徳の前に感動して、その人を慈しみ、その人の生涯を見習い、その人のように生きるというようになれば、その民族は、その人と同じ恵沢圏内に入ってくるのです。人々が忠臣の思想を見習おうとし、聖賢の思想を見習おうとするのも、彼らと同じ恵沢圏内に入るためにそうするのです。
昨年も何人かが霊界に行きましたが、今年も何人かが霊界に行くでしょう。言いはしませんでしたが、先生は既にみな知っています。これはなぜそうなのでしょうか。一段階越えていくときには、必ず蕩減を払わなければならないためです。
(33-11、1970.7.28)
私たちは、喪服を着て復帰の使命を果たす祭司長たちになるのか、あるいは祭官たちにならなければなりません。そうしてこの民族の代身として神様の前に過去を悔い改め、贖罪の祭祀を捧げられなければなりません。そのような祭祀を捧げるためには、祭司長にならなければならないので、皆さんは民族が試練の道を歩むとき、同参しなければなりません。これが神様に向かう原則です。ですから、今日皆さんは民族的な試練の道を行くときにおいて、自分個人のために行ってはいけません。
(13-265、1964.4.12)
②イエス・キリストの犠牲による贖罪
― 宗教経典 ―
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
ローマの信徒への手紙 3.23 ~ 26(キリスト教)28
けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。(注12)
ヘブライ人への手紙 9.11~14(キリスト教)29
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
ヨハネの手紙一 4.10 ~11(キリスト教)30
一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。
ヘブライ人への手紙 6.4 ~ 6(キリスト教)31
― み言選集 ―
イエス・キリストがこの地に来られて果たすべき責任とは何だったかというと、神様の栄光を回復し、神様の愛を回復し、神様の生命を回復しなければなりませんでした。ところが、ここに横たわっているものとは何だったかというと、罪というものでした。罪悪は万民が神様に栄光を返せないようにさせ、神様の愛を愛と感じられないようにさせ、天の生命を生命として感じられないようにさせ、永生の中心を立てられないようにしました。
(1-167、1956.7.11)
我々は十字架の代贖を「信ずる」というごく小さな蕩減条件を立てることにより、イエスと同一の死を経て再び生きたという条件を立てたとみなされて、救いの大いなる恩恵を受けるようになるのである。また、我々は数滴の水を頭の上から注がれ、洗礼を受けたという蕩減条件を立てることにより、イエス
と聖霊によって重生したという立場を復帰することができるのである。このほかにも、聖餐式において一切れのパンと、一杯のぶどう酒をとるだけで、我々はイエスの聖体を食べたという、より大きな価値の恩恵を受けるのである。
原理講論、後編緒論1.1
キリスト教徒たちは、「全知全能で慈悲と愛に満ちた神様であるゆえ、千回、万回罪を犯しても赦してくださる」と言っています。そう言って教会で祈祷して出てくるやいなや、けんかをするのです。教会は、罪を犯してから悔い改める懺悔堂ではありません。それほど多くの罪を赦せる神様であるとする
ならば、エデンの園で一度犯した罪を、どうして赦すことができないのでしょうか。
……しかし、天理の公法を破綻させた罪は赦されません。その罪が赦されるのであれば、宇宙の愛の法度は根本的に破綻し、愛のために創造されたこの世界は混乱に陥るのです。サタンが神様自体まで侵害したのに、それを赦すことができますか。できないので、再び修正し、復帰の歴史を経て堕落しなかったという基準を立てなければなりません。そして、この基準によってサタンを追放し、第二の理想的な人物を探し出さなければならないのです。神様は、このことをされるのに 6000 年かかりました。
(19-161、1968.1.1)
4. 覚醒
悟りは無知の暗闇を除去することである。様々な異なる伝統において、究極的実在を認識する方法によって悟りは、内的知恵の直感的把握やみ言の真理による照明、あるいは超越的実在の直接的な理解として表現され得る。一方、誤った思考といたずらな欲望によって曖昧になった真理自体が、悟りを通して突然現れることもある。世の中の生に汚されて見えなかった心の目が真の実在の光景を見て開かれるようになる。悟った人は、彼が得た知識によって新しい人生を始めるようになるが、その時の人生はその前と同じではない。
ここには、真理を認識する理性的悟りがある。神様のみ言に関する知識は心を目覚めさせ、無知の暗闇で失ってしまった道を明るく照らしてくれる。文鮮明先生は、キリスト教の伝統に立ち、神様のみ言を生命に転換して教える。
二番目の項目の章句は、悟りを自我実現、人間の本性を発見する内的経験、または内面の神様の発見として記述している。これは、ヒンドゥー教と仏教の救いの経験を記述しているが、大部分の宗教でも普遍的なものである。これは心が開きながら途方もないエネルギーを受けるため、魂を揺さぶる経験にもなり得る。誤ったすべてのものを吐き出すことによって悟った心は、神様の心の基準と一致するため、強力な関係を形成するようになる。文鮮明先生は、誰もが完全、または完成の道を行きながらそのような体験をするよう促す。先生は、いかなる概念による知識や信仰も、内面の神様の顕現の代わりにはなり得ないと教える。
最後に、霊的五官を開き、見えないものを見て、聞いて、感覚できるムーダン信仰の悟りがある。誰でも適切な訓練を経れば、このような知識と霊的エネルギーの根源に到達することができる。
①真の真理の光
― 宗教経典 ―
いまや真理は下り、虚偽は消えました。まことに虚偽はつねに消える定めであります。
クルアーン17.81(イスラーム)32
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
ヨハネによる福音書 8.12(キリスト教)33
あなたの御言葉は、わたしの道の光 /わたしの歩みを照らす灯。
詩編119.105(キリスト教)34
あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。
ヨハネによる福音書 8.32(キリスト教)35
聖なる師がみ言で明かりをともされた。
これによって自我の前の暗闇が晴れ、
宝でいっぱいの驚くべき部屋が大きく開かれた。
これを見つめると我々が驚いて体から離れてしまうのだから、
その壮麗さは言い表すこともできない。
アーディ・グラント、ビラーワル
M.5、p.821(シク教)36
空虚を熟視して、真に静寂を守る。万物はどれも盛んであるが、私はそれらの無為をみつめる。
ものは絶え間なく動き、休まない。しかし、それぞれのものは根源にもどってしまう。
根源にもどっていくと静寂になる。静寂になるということは存在の運命にもどることである。
存在の運命とは実在である。実在を知ることを開明と呼ぶ。
道徳経16(道教)37
大徳よ、不可思議なり。大徳よ、未曾有なり。恰も倒れたるを起し、掩はれたるを開き、迷へるものに道を示し、眼あるものは色を見んとて闇中に燈火を運ぶが如く、世尊は諸の方便によりて法を説きたまへることや。
感興偈 49(仏教)38
み使いに下されたものをかれらが聞くとき、なんじらは、かれらが認めた真理のために、目に涙があふれるのを見よう。かれらは言う「主よ、わたしたちは信仰します、わたしたちを証人のうちに書きとめて下さい」。
クルアーン 5.83(イスラーム)39
肉体においては視覚が善いものであるように、魂においては理性が善いものであり、それぞれ異なるものにおいてはそれぞれ異なる善いものがあるからである。
アリストテレス ニコマコス倫理学1.6
(ヘレニズム)40
― み言選集 ―
堕落人間にとって、「知ること」は命の光であり、また蘇生のための力でもある。そして、無知は死の影であり、また破滅の要素ともなるのである。無知からはいかなる情緒をも生じ得ない。また、無知と無情緒からはいかなる意志も生ずることはできないのである。人間において、知情意がその役割を果
たすことができなくなれば、そこから人間らしい、人間の生活が開かれるはずはない。人間が、根本的に、神を離れては生きられないようにつくられているとすれば、神に対する無知は、人生をどれだけ悲惨な道に追いやることになるであろうか。しかし、神の実在性に対しては、聖書をいかに詳しく読んでみても、明確に知る由がない。ましてや神の心情についてはなおさらである。それゆえ、この新しい真理は、神の実在性に関することはいうまでもなく、神の創造の心情をはじめとして、神が御自身に対して反逆する堕落人間を見捨てることができず、悠久なる歴史の期間を通して彼らを救おうとして心を尽くしてこられた悲しい心情をも、我々に教えることのできるものでなければならない。
原理講論、総序
今日の世界は、霊的な大覚醒が必要な時を迎えています。個人や国家、世界、すべてが神様の実存に対する新しい理解だけでなく、神様と人間が再び出会い、離れようとしても離れることができない本然の関係を再び取り戻さなければなりません。
(234-241、1992.8.22)
皆さんが目覚めてみると、私だけがいるのではなく、父母がいることが分かるでしょう。このように目覚めてその父母をつかんで涙を流すことができるその日を再臨の日というのです。目を開けてみれば、私の前には、人類が6000 年間悲しんだ悲しみを身代わりに悲しまれた真の父母様がいらっしゃったということ、私を求めて 6000 年をさまよわれた真の父母様がいらっしゃったということ、私が悲しむ前に、私に対して悲しまれた天がいらっしゃったということを分かるようになるのです。このように、歴史的な心情に胸を痛めたすべての事実が一日に展開するとき、初めて私は天に対して「お父様」と言
うことができ、天は私に対して「息子」と言うことができるのです。その日が正に最後の悟りの日です。その時は、歴史的な希望の心情とそれ以外の一切が私の一身の胸の中に入り込みます。したがって、その時の喜びは、神様の全体目的が成し遂げられたときに感じる喜びであり、そのときの感情は、人類が堕落せずに完成したときに感じられる感情なのです。
(6-155、1959.4.19)
②内的覚醒
― 宗教経典 ―
神我こそ万有なれ。祭祀なれ、苦行なれ、祈祷なれ、至高の甘露なれ。玄洞に匿れおるこのものを知る者は、友よ、此の世において無智の結節を断ずるなれ。
ムンダカ・ウパニシャッド2.1.10(ヒンドゥー教)41
そこには日も照らず、月も、星も、電光さえも輝かず。まして火をや。万物はこの自ら輝くものに映じて輝き、その光耀によりて燦然たり。主はあらゆるものにより反映した光である。彼が輝くとき、すべてのものが彼について輝く。
ムンダカ・ウパニシャッド2.2.10~11(ヒンドゥー教)42
神は、天と地の光りであられる。かれの光りをたとえれば、ともし火を置いた、壁龕のようなものである。ともし火はガラスの中にある。ガラスは輝く星のよう、祝福されたオリーブの木からさす、東の産でもなく、西の産でもないこの油は、火がほとんどそれに触れぬのに、光りを放つ。光りの上に光り
をそえる。神はおぼしめしの者を、かれのみ光りに導きたもう。神は人びとのために、比ゆをあげたもう。まことに神はよろずのことを知りたもう。(注13)
クルアーン 24.35(イスラーム)43
喩えば、泥に塗れし鏡面も、よく拭わん時は明るく輝くが如く、身主(霊)は自己の真性を観察することによって、その願望を成就し、無憂の独尊者となる。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド2.14
(ヒンドゥー教)44
さて、アートマンは、これらの諸世界が混り合わないように防ぐ隔壁であり、境界線である。この隔壁を昼も夜も越えることはない。老も、死も、憂苦も、善い行為のみならず悪い行為も、それを越えることはない。一切の邪悪は、そこから引き返す。何故ならば、かのブラフマンの世界はあらゆる悪を絶滅しているからである。従って、この隔壁を越えるとき、盲目の者は盲目でなくなり、負傷した者は傷が癒え、病人は病人でなくなる。従って、また、この隔壁を越えるとき、夜は昼となる。かのブラフマンの世界は一瞬にして明るくなるからである。
チャーンドーギヤ・ウパニシャッド 8.4.1~ 2
(ヒンドゥー教)45
六祖慧能は、恵明上座が彼を追ってきて、大庾嶺で追いついたので、恵明が来たのを見ると、すぐに法
衣と持鉢とを石上に投げ出して言った、「この法衣は仏法の信の象徴である。力で争うべきものではない。持っていきたいなら勝ってに持っていくがよい」そこで、恵明はそれを持ち上げようとしたが、山のように動かなかった。彼はためらい恐れおののいて言った、「私が来ましたのは、法(真理)を求めてです、法衣のためではありません。どうぞ行者(六祖)よ、ご教示いただきたい」六祖は言った、「善を思わず悪を思わず、まさしくそのようなときに、どれが明上座の本来の面目か」
恵明はすぐさま大悟して、全身に汗が流れた。涙を流して礼拝して問うて言った、「先ほどからの秘密の言葉と秘密の心のほかに、その上まだ何かありましょうか」
六祖は言った、「私が今、君のために説いたのは、秘密ではない。君がもし自己の面目を照らし顧みるならば、秘密はかえって君のほうにある」(注14)
無門関 23(仏教)46
― み言選集 ―
堕落することによって、本心が狂ったのです。ですから、困難があっても、どんなことがあっても、皆さんはほかのものを見て尋ねるなというのです。良心に尋ねてみるのです。祈祷するとき、漠然とするのではありません。神様が下さった本心をもっているので、その貴いものと一つにならなければなりません。この本心と一つになるとき、自分の一身のすべてのものが分かるようになっています。
ですから、心田啓発や本心の門を合わせなければなりません。このような心田啓発が本性啓発なのです。生活の中でそれを中心として進んでいこうとすれば、霊界に対してはっきりと知らなければなりません。
(307-216 ~ 217、1998.11.21)
現在、皆さんが接している師や、彼が教える基準が、皆さんに神様と永遠な関係を結ばせられないという事実を、皆さんは悟らなければなりません。したがって、皆さんは本心を求め、心の耳を通して天倫の呼ぶ声を聞き、心の目を通して神性を見て、心の触感を通して天の心情を感じなければなりません。そのようにできなければ、皆さんは、経てきた 6000 年の歴史過程を、そのまま再び反復せざるを得ません。
今まで私たちは、真に貴いものは天だけだと思っていたのですが、気づいてみれば、私たちの心もそれに劣らず貴重だというのです。これを悟り、神様に相対できる高い価値基準を立てる皆さんにならなければならず、心の核心を求める皆さんにならなければなりません。そのような皆さんになれなければ、皆さんは天倫の前に立てません。
皆さんは、今日まで自分なりに誠実な信仰生活をしてきたと思うかもしれませんが、「皆さんは、果たして誇る何かをもっていますか」と反問すれば、 「私は誇るものをもっている」と自信をもって答える人は多くないでしょう。たとえ皆さんの中で天に誇る何かをもっている人がいるとしても、神様は本心を通してそれを誇ることを願っていらっしゃいます。このように、皆さんが天倫に代わって、永遠の理想を立証できる哀れみの心で考え、生活すれば、皆さんは、絶対に外れた道に行かないでしょう。
今日、信仰生活をしている人たちは、よく観念的な世界とそのような相手から慰安を受けようとしています。しかし、たとえ堕落したとしても、人間は元から永遠の天性と通じる性稟をもっていて、各自の心の中には、創造理想の要素をもっているのです。したがって、人間は罪悪を脱いで完成し、神様と一体となり、無限に喜びの生活をすることができるのです。このような事実を、今日の信仰者たちは知ることができずにいます。
私たちが祈祷する目的、あるいは仏教徒たちが座禅を通して無我の境地を求めていく目的は何でしょうか。それは心の核心となり得る要素を悟らせようというのです。
(2-192 ~193、1957.5.19)
釈迦牟尼には「天上天下唯我独尊」と言いました。そのようなことはどこで教えられるのでしょうか。その共鳴の真ん中に入っていけば、神様と一体になるのです。その点では千年、万年の歴史を見抜くことができます。そのような価値があります。人間として墓地に移されていく悲惨な人生の末路を見つめながら、互いに悩む人間の生涯を繰り返す苦痛の境地をどのように脱出するかという……。これが各自に与えられた宿題です。それを解決するためには、その共鳴圏に入っていく訓練を受けなければなりません。
(223-357、1991.11.20)
心と体が対等なために闘うのです。ゆえに体を弱くすることにより心が勢力を得て、弱くなった体を数カ月間引っ張って越えていくようになれば、体を再び上げようとしても上がってこられないように習慣化され、その次からは心がしようというとおりにせざるを得なくなるのです。このようにつくっておけば、自分が計画するすべてのことが天の助けによって、うまくいくことを体験するようになります。このようになれば、そのままにしておいて、「元に戻れ」と言っても戻ることができないために、良心を主として一つの絶対的な立場で生涯を結んでいくようになるのです。これが宗教生活の目的です。
(38-270 ~ 272、1971.1.8)
③第3の目が開かれる
― 宗教経典 ―
私は、目が見えず、この世の事物を見ることができない。しかし、上から光がさしてくるとき、それは私の心を目覚めさせる。心の目であらゆるものを見るのだから、私は見ることができるのである。そして、このような洞察力を通して、私は私の足らないことを埋めることができるのである。心は、その中心に小さな空間がある一つの聖なる所である以上、そこには偉大な霊がとどまっている。そして、心は目である。これは偉大な霊の目であるが、それによってその方はあらゆるものを見て、それを通して私たちはその方を見る。もし心が純潔でなければ、私たちはその偉大な霊を見ることができない。
ブラックエルク族(アメリカ先住民の宗教)47
悟りは、シャーマンが感じる神秘な光によって成される。シャーマンは、突然彼の体で、頭で、頭脳の中で、不可解な探索のひらめき、輝く光を感じる。……なぜかというと、彼は今、目を閉じていても、暗闇の中で事物とほかの人には隠された、すぐに起きる出来事を見ることができ、知覚できるからである。そのため、シャーマンは、未来と人の秘密を見ることができる。
シャーマンの候補者は、彼の小屋の椅子に座って霊魂を呼び、長い時間待ったあとに、この神秘な光を感知できる。彼がそれを最初に経験するとき、それはまるで彼のいる家が突然立ち上がるかのようである。正確に言えば、まるで大地が巨大な平原のように彼は山を見通し、彼の前を遠くまで見る。それで、彼の目は、地の果てを見ることができる。これ以上何も彼に隠されたものはない。彼は、遠くにあるものを見ることができるだけでなく、遠い異国に隠れていたり、死んだ者の地に上がっていったり、送り出されたりした霊魂、盗まれた霊魂を探し出すことができる。
イグルーリク・エスキモー族、シャーマンの教え
(アメリカ先住民の宗教)48
― み言選集 ―
聖書に出てくる黙示録のようなものは、何でもありません。先生が霊界を知っているので、李相軒氏を霊界に送り、世界の人々を短時間のうちに復帰するために、霊界の実相を報告させたのです。これを事実として信じるようになれば、この人類はあっという間に自分の行く道をすべて整理し、峠を越えていくようになります。ところが、これを信じることができる本性の心性が啓発されていないので、心と体が一つに共鳴しないのです。
そのような人は、肉身が見る世界しか分からず、霊界を知りません。五官を超えて十官を啓発し、神様と共に直接的な関係、真の愛と関係を結んでこそ共鳴するのであって、自分たちの愛では駄目です。堕落した愛は破壊です。暗いのです。その愛は、行えば行うほど暗闇に埋もれ、絶縁体がくっつけば電気を通さないようにするのと同じようになるのです。
(399-220、2002.12.24)
堕落人間は宗教により霊と真理をもって(ヨハネ4・23)その心霊と知能とをよみがえらせ、その内的な無知を打開していくのである。さらに、真理においても、内的な無知を打開する宗教による内的真理と、外的な無知を打開する科学による外的真理との二つの面がある。したがって知能においても、内
的真理によって開発される内的知能と、外的真理によって開発される外的知能との二つの面がある。それゆえに、内的知能は内的真理を探りだして宗教を起こし、外的知能は外的真理を探りだして科学を究明していくのである。
神霊は無形世界に関する事実が、霊的五官によって霊人体に霊的に認識されてのち、これが再び肉的五官に共鳴して、生理的に認識されるのであり、一方真理は、有形世界から、直
接、人間の生理的な感覚器官を通して認識されるのである。したがって認識も、霊肉両面の過程を経てなされる。人間は霊人体と肉身が一つになって初めて、完全な人間になるように創造されているので、霊的過程による神霊と肉的過程による真理とが完全に調和され、心霊と知能とが共に開発されることによって、この二つの過程を経てきた両面の認識が完全に一致する。またこのとき、初めて人間は、神と全被造世界に関する完全な認識をもつようになるのである。このように神は、堕落によって無知に陥った人間を、神霊と真理とにより、心霊と知能とを共に開発せしめることによって、創造本然の人間に復帰していく摂理をされるのである。
人間は神のこのような復帰摂理の時代的な恩恵を受け、その心霊と知能の程度が、歴史の流れに従って漸次高まっていくのであるから、それを開発するための神霊と真理もまた、その程度を高めていかなければならない。それゆえに、神霊と真理とは唯一であり、また永遠不変のものであるけれども、無知の状態から、次第に復帰されていく人間に、それを教えるための範囲、あるいは、それを表現する程度や方法は、時代に従って異ならざるを得ないのである。
原理講論、人類歴史の終末論 5.1
5. 解放
世俗的な欲望と執着の鎖から抜け出した人たちが経験する霊的自由が解放である。それは個人の外的環境と関係なく起こり得る自由の内的経験である。安楽で富裕な人生を生きる人は、欲望、耽溺、悪い関係の悲惨な束縛に陥るが、聖人は監獄でも自由である。キリスト教の経典は、キリスト教徒の自由に関する相対的経験を語っている。
しかし、自由は個人を超える。イエスは罪人たちの解放と自由の王国に対して語った。人が愛と献身する精神で生きるとき、互いに自由になれる。家庭と社会のすべての構成員たちが神様を中心とする人生の内的自由を楽しめば、彼らは自由に生き、自由に行動できるだろう。したがって、文鮮明先生は、人を解放することも、私たち自身の自由の領域を広げることであると教える。解放は、社会、国家、世界、そして神様の領域まで拡大されなければならない。ユダヤ教のカバラ教理は、あらゆる事物に宿っている「神の火花」を解放させることに関して記述しているが、この火花が起きて神様と再び結合するという。文鮮明先生は、人間の苦痛と抑圧は神様を悲しみと苦痛の鎖に結びつけるため、神様の解放は人間の解放にかかっていると教える。人間の解放は神様を解放することであり、神様が解放されたとき、人間も真の自由を得ることができる。
①内的自由の状態
― 宗教経典 ―
内に幸福あり、内に楽しみあり、内に光明あるヨーギンは、ブラフマンと一体化し、ブラフマンにおける涅槃に達する。
バガヴァッド・ギーター 5.24
(ヒンドゥー教)49
世間における諸々の欲望を超え、また克服しがたい執著を超えた人は、流されず、束縛されず、悲しむことなく、思いこがれることもない。
スッタニパータ948(仏教)50
この高くしてしかも低きもの(梵)を照観する時は、人の心臓の結節は断たれ、一切の疑団は解け、業因もまた亡ぶ。
ムンダカ・ウパニシャッド 2.2.8(ヒンドゥー教)51
そうせよ、自由を得たあのバラモン、彼の人生は楽しい。
五欲楽が彼を汚すことはないのだから、束縛を抜け、わき上がる煩悩を寝かせ、心の中の苦悩を通し、
一切の障害を避けた。
心の静けさを得た者の人生は幸福だ。
阿含経増支部1.137(仏教)52
あなた自身を開放し、自由な空間を創り出せ。縛られたる者をその縄目から解き放て。生まれたばかりの子供の様に、胎より解き放たれ、いかなる道へも自由に進め!
アタルヴァ・ヴェーダ 6.121.4(ヒンドゥー教)53
ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。
コリントの信徒への手紙二 3.17(キリスト教)54
一切の業の汚れから抜け出た霊魂は、すぐさま上に上がっていき、宇宙の究極に至る。業の鎖が一瞬で断ち切れ、あらゆる執着から抜け出し、上へと上昇する本来の性質に自らをゆだね、高く上がっていく。解脱した霊魂は、あらゆる存在の様態を覆いかぶせ、四方八方に広がったカルマの襲撃から逃れ、上へと上昇する自らの本質を発現し、最後には宇宙の究極に至る。
ラトナカランダシーラヴァカ・アーチャーラ10
(ジャイナ教)55
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。
ヨハネによる福音書 3.8(キリスト教)56
その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの行く路(=足跡)は知り難い。― 空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。(注15)
法句経 93(仏教)57
心の主の命を抱いた者は
真実に生きるジーヴァン・ムクト
(生きた解脱者)と言う。
彼には楽しさと悲しさに違いがなく、
黄金と一握りの土に違いがなく、
甘露と毒薬もまたそうである。
名誉と不名誉に違いがなく、
卑賤な者も尊貴な者もまたない。
ナナークが言うに、そのように行う者は真実に
ジーヴァン・ムクトと言う。
アーディ・グラント、ガウリー・スクマニー 9
M.5、p.275(シク教)58
― み言選集 ―
宗教では、今日の人間世界は神様が解放した解放圏内に立ったものではなく、かえって反対の悪魔サタンによって堕落した世界、すなわち拘束された世界にいるとみます。統一教会もそうであり、既成教会もやはりそのようにみます。
私たち人間は、何か分かりませんが、今まで拘束されてきたことを知っています。ですから、皆さん自身にとっても、皆さんの心と体が闘っていることを知っているのです。本来、人間がこの二つが闘う人間として生まれたとすれば、人間には人格や人間完成、人間解放という名詞は絶対不可能なことです。
(85-227、1976.3.3)
祝福を受けて良い道に従っていってみれば、真の愛の味を知るようになり、その喜びに深く入っていけば、神様を知るようになるのです。心と体がその道を行けば一つになるので、一つになった中で感じる味が何かというと、神様に対する実存を感じるのです。どのように感じるのでしょうか。今までの心
と体の闘争がとまり、昔、自分第一主義で生活していたことが完全になくなり、神様が願う生活をするようになります。相対のために、全体のために犠牲になるというこのような観点に立つことによって、そこで真の愛が永遠に継続するので、天上世界の神様の喜びが私の生活の中で現れるようになり、以前には感じることができなかった満足、幸福感と全体内容が関係を結ぶことによって解放された私自身を発見するようになります。
(329-301~ 302、2000.8.11)
体はその終わりがあります。しかし、心は終わりがありません。ですから、心の世界は何かの観がありません。宇宙観とか何かというものがないのです。さらには、心よりもっと大きいものは心情の世界です。心情の世界においてもやはり同じです。心情の世界は制限も受けません。心の世界は制限を受け
ます。心は相対的な条件いかんによって制限を受けますが、心情の世界は制限する者がいません。父母が子女を愛する心を何が制限できますか。いくら泰山のような障壁が前をふさいでも、くじくことはできません。
天の希望とは何でしょうか。終わりの日にイエス様が来られたなら、「天国はあなたの心にあり、天国はあなたの心情から成し遂げられる」と語られるでしょう。「心にある」ということだけでできるのではなく、「心情から成し遂げられる」と結論を下さなければなりません。
(7-246、1959.9.20)
「主の霊のあるところには、自由がある」(コリントⅡ3:17)と聖書に記録されているのですが、今日、自由の神様であり、解放の神様であり、統一の神様であられる私たちのお父様に侍って暮らす皆さん自身の心情に、いかなる試練も超越できる自由の心情がどのようにすれば宿るのかということが問題です。このすべての試練の障壁を越えていくことのできる解放の基点はどのように見いだされるのか、私たちの理念の中心が願う統一された安息の時間はいつ見いだされるのか、ということが、皆さんが考えるべき重要な問題です。
いまだに神様も自由な立場にいらっしゃることができず、解放の立場にい
らっしゃることができず、統一の位置にいらっしゃることができないので、今日のこの地で自由を叫んでいますが、その自由は私たちが享受すべき真の自由になれないのです。解放を主張していますが、その解放は完全な解放ではありません。統一を主張していますが、その統一もやはり、完全な統一ではあ
りません。人類社会は、氏族から始まり、部族、民族を経て国家として統一してきましたが、そのような部分的な統一は、本当の統一ではないというのです。
神様のみ旨がそうであるがゆえに、神様によってつくられた私たちも、私たちが願う完全な自由、私たちが願う完全な解放、私たちが願う完全な統一は、神様が自由であり、神様が解放と統一の主人公になる日が来てこそ、成し遂げられるのです。したがって、神様の自由と解放と統一が、正に人間が願う自由と解放と統一の基準だということを、私たちは論理的な見地から否定できません。
中世のキリスト教が、神様の理念を中心として、神様の心中と通じることができる自由の立場や統一された立場にいたなら、この地に革命や革新という名詞は必要なかったでしょう。キリスト教が神様を中心として完全な自由と完全な解放と完全な統一が成し遂げられたその基準をもつことができなかったために、自由と解放と統一の動きが外的世界に移されたのです。これが、今日私たちが言う文芸復興運動だったのです。
(4-316 ~ 317、1958.10.12)
②宇宙的解放
― 宗教経典 ―
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイ
エスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(注16)
ルカによる福音書 4.16 ~ 21(キリスト教)59
被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
ローマの信徒への手紙 8.20 ~ 23(キリスト教)60
神が世をつくり、滅ぼされるとき、聖霊の火花が落ちていく。人はその火花を引き上げて浄化させ、石から植物、植物から動物、動物から話す存在まで引き上げる。世という殻(注17)の中に閉じ込められてしまった聖霊の火花を浄化させなければならない。これがイスラエルの中で、互いに向かって奉仕するという意味である。
石、植物、他の被造物の中にあるあらゆる火花は、四肢と筋が完全に連結された完璧な姿だという。しかし、石や植物にあるときは、この状態は正に地獄と同じだ。手足を伸ばすことも、話すこともできず、頭が膝に当たって不自由な状態だ。ただ霊的な善の力をもった者だけが、この聖霊の火花を引き上げ、石から植物に、植物から動物に、動物から話す存在にまで引き上げるのである。そうして、これらに自由を与えるのである。これは、いかなる捕虜を釈放することよりもはるかに偉大なことだ。まるで王の息子が捕虜から解かれ、父のもとに戻るのと同じである。主人がもつ僕、動物、道具は、すべて主人の根に属する火花を備えている。これらは主人によって本然の状態に戻されることを期待する。世の万物は、彼らの中に閉じ込められた聖霊の火花が再び主人によってよみがえり、再び主人のそばに行くことを期待する。
人は、それらを食べ、飲み、使う。それらは万物の中にいる火花だ。したがって、人はその中に閉じ込められた火花のために道具と所有物を大切に扱わなければならない。聖霊の火花を大切にしなければならない。
天のためにすることが、天に使えることそれ自体になるようにせよ。ゆえに、食べ物を食べるときも、神に仕えようと私が力を出すために食べると言ってはならない。もちろん、これも善なる意図だが、真の完成は行為自体が天に向かうときに可能だ。ここから聖霊が起き上がる。
聖霊が世のすべてにいるとき、世のいかなるものも、空いているものがない。人のあらゆる行動の中には、さらには人が犯す罪の中にも、天の栄光の聖霊の火花がある。それでは、罪の中にいて待っている火花とは何か。それは回心(悔い改め)の火花だ。罪によって回心するその時に、その中にあった火花はより高い世に上がっていく。
バアル・シェム・トーヴ(ユダヤ教)61
― み言選集 ―
解放は、邪魔になっていたすべてのものが順応する自由還元運動ができる世界になったということです。上も下も、左右も 、 前後も、すべて平等な価値で方向をとり、角がなくなった丸い統一的世界になったということです。その日には、おじいさんも喜び、おばあさんも喜び、けんかしていたお父さんも喜び、不平を言ってえんえんと泣きながらけんかしようとしていたお母さんも喜び、それから息子、娘、孫がいて、百人、千人、万人、国にいるすべての人が万歳を叫ぶのです。
(341-161~162、2001.1.1)
北朝鮮を解放することが簡単なことですか。そのように大ざっぱな計算でできると思いますか。とんでもないことです。北朝鮮を解放する前に、あなた自身が解放されたのか、問うてみなければなりません。個人、家庭、氏族、民族、国家、5段階を越えたその場で南北解放を語ることができるのです。(注18)
(187-126、1989.2.5)
この地上が、この天地がこのような蕩減の路程によってすべて遮られ、方向が交錯して下が上になり、上が下になった立場となり、一つにならなければならないすべての万物が、歴史過程を経て完全に裂かれ、粉々に分立されたのです。
そして、真の父母がこの地に現れ、このすべての事実を神様が創造されたとおりに再創造する道を経てきました。虫のようなごく小さなものから、鉱物から、植物から、動物から人間世界、天上世界まで、その分かれたすべてのものを結ぶための再創造の苦労を、またこれらを埋め合わせるための苦労を宗教圏やイスラエルの国を中心として、歴史的な先祖を通してなしてきたということを知っております。……
神様の創造理想の愛を中心として失ってしまったものを再び取り戻し、鉱物世界から植物世界、動物世界、人間世界、天上世界、神様と真の父母が一体圏を成し、天上と地上に自主的な権限を行使することができる本然の解放的創造主の創造理想家庭において天地父母が一体となられ、今から天上世界と地上世界が一つの世界へと統一化できるように指導してくださることを
懇切にお願い申し上げます。
(407-24 ~ 26、2003.5.4)
歴史を通じて、人間は、自分たちの解放と救援を求めて叫んできたのですが、それでは、神様の状況はどうでしょうか。神様は、解放が必要なく、常に喜びに酔っていらっしゃる方ですか。歴史的に罪と苦痛の中で呻吟する人間の姿を見つめてこられた父母として、神様の心情が解放の喜びを享受できたでしょうか。
決してそのようにはできません。地上と天上に理想家庭と理想天国が成される、その程度によって神様の心情も解放され釈放されるのです。そのようになって、初めて人間も真の愛の家庭生活を通して解放、釈放されるようになり、万物もまた、そのような人間を通じて解放、釈放され、さらには霊界も解放されるのです。
(447-140、2004.4.30)
神様の救援摂理の究極的な目的は、個体救援を越えて家庭、氏族、民族、国家、世界だけでなく、地獄まで解放させ、霊界まで救援するのです。そうでなければ、神様が解放されないからです。神様の完全な救援摂理の目的が成し遂げられれば、すなわち地獄を経て霊界までも解放させれば、神様の愛を中心として、「私のみ旨をすべて成し遂げた。賛美せよ。私の愛の主管世界として一つの世界となって前進するのである」と祝福できる理想的完成の宣布の日をもつのです。
(114-78、1981.5.17)
6. 空、涅槃
仏教で言う内的平和の究極的状態である空、すなわち涅槃は、自我、熱情、そして欲望がない状態である。それは、思考や言語、認識のいかなる知的概念も越えた状態である。しかし、逆説的にこの空には充足さ、大胆さ、悟りがある。それは、説明が不可能な神秘で驚くべき状態である。
文鮮明先生は、空の状態を「零点」と呼ぶ。先生は、空の神秘的な感覚を、この世を創造するときに空虚な空の状態にいらっしゃった神様との共鳴関係で説明する。文鮮明先生は、人のために奉仕することによって、自分を空にする積極的な方法を教える。自分を差し出すこと、人のために生きること、与えるのが困難なときにも与えること、このような実践が瞑想と同様に零点に導くのである。
― 宗教経典 ―
「一切の事物は我ならざるものである」 (諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
法句経 279(仏教)62
道を体得した人は名声が聞こえず、至上の徳を備えた人は徳と呼ばれるものを持たず、大人は無我である。
荘子17(道教)63
利己心のある所にあなたがいることはできず、あなたのいる所に利己心はない。
アーディ・グラント、マールー・キ・ヴァール
M.1、p.1092(シク教)64
トーラーは「自己」を主張しない者と共にある。
タルムード、ソーター 21b(ユダヤ教)65
高い天界の平野は、ここ、またはあそこにある特別な場所ではなく、何かの変則や過分もない純粋な状態を指す。人の体で言えば、それは思いと情熱のない心の中の状態だ。
忌部正通 神代巻口訣(神道)66
此、寂静なり、此、殊妙なり、謂く、一切行の寂止、一切依の定棄・愛尽、離貪・滅尽・涅槃なり(注19)
阿含経増支部 v.322(仏教)67
師は答えた、「ウパシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の〈想いからの解脱〉において解脱した人、―かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。
「たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えら
れないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(存在する者としては)数えられないのである。」
「滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、
こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」(注 20)
スッタニパータ1072 ~ 76(仏教)68
すでに(人生の)旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆることがらにくつろいで、あらゆる束縛の絆をのがれた人には、悩みは存在しない。その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。―空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった人―このような境地にある人を神々でさえも羨む。大地のように逆らうことなく、門のしまりのように慎み深く、 (深い)湖は汚れた泥がないように―そのような境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている。正しい智慧によって解脱して、やすらいに帰した人―そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行ないも静かである。何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を断ち、 (善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、―かれこそ実に最上の人である。
法句経 90、94 ~ 97(仏教)69
シャーリプトラよ、この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので )あ る。実 体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。 (このようにして、)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。
シャーリプトラよ。この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。
それゆえに、シャーリプトラよ、実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない。眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識の領域にいたるまでことごとくないのである。
(さとりもなければ、)迷いもなく、 (さとりがなくなることもなければ、)迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。それ故に、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、傾倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。
過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめを覚り得られた。
般若心経(仏教)70
南伯子葵が、女にたずねた。「あなたは、ずいぶん年をとっておられるようだが、顔色はまるで子どものように若々しい。何か秘訣でもあるのだろうか」。(注 21)すると、女は答えた。「それは、私が道を聞くことができたせいだよ」。「道というものは、学んで知ることができるものだろうか」。女
は答えた。「ああ、それはむりだよ。少なくともお前さんはそれができる人ではないよ。あの卜梁倚という人物は、聖人の素質をそなえてはいるのだが……かれに聖人の道を告げてやった。するとかれは、三日目には天下の存在を忘れる境地にはいることができた。さらに見守っていると、七日目には物の存
在を忘れることができるようになった。さらに見守っていると、九日目には自分が生きていることを忘れるようになった。生を忘れるようになってから、ついで 朝徹の境地―朝の大気のように澄みきった境地にはいるようになり、朝徹についでは見独の境地―おのれだけがあって対立者のない境地にはいるようになった。見独についでは古今の時間を超越する境地に達し、古今の時間を越えると、ついに不死不生の境地にはいることができるようになった。すべて生きているものを死滅させる変化の道理は、それ自体としては死滅することがない。生きているものに生命を与える造物者は、それ自体としては生成するということがない。つまり生滅の背後にある道は、生滅を越えたものである。この道は、去ってゆくものは去ってゆくままに送り、来るものは来るままに迎え入れる。滅びゆくものは滅びゆくままにまかせ、生じてきたものは生じてきたままにまかせる。要するに、すべてをあるがままにゆだねるのである。この道のありさまを名づけて攖寧という。攖寧というのは、みずからは攖んじて静止しながら、万物を生成することである」。
荘子 6(道教)71
大いなる道は難しくない、選り好みをしなければよいだけだ。
愛も憎しみもなければ、すべては明瞭で、隠されたものとてない。
だが、ほんの僅かな区別でもすれば、天と地は無限に離れる。
だから、真理を見たいと願うなら、いいとか、駄目だとかの意見をもたぬことだ。
好きと嫌いの葛藤、これが心の病だ。
物事の深い意味が分からぬうちは、心の平安はいたずらに乱される。
道は大いなる虚空のように完全だ。足りないものも、余計なものもない。
しかり、いいとかいけないとか選り好みをするばかりに、本当の姿が見えないだけだ。
外側の物事のもつれの中にも、内側の空無の中にも、住んではいけない。
穏やかに、何を求めるでもなく、大いなる一体性の中にとどまるがいい。
そうすれば、誤った物の見方は自ずから消えよう。
静寂を得ようとして、行動を抑えてみても、まさにその努力が、かえって人を行動で満たす。
どちらか一方の極端にいるかぎり、決して一体性を知ることはできない。
このただひとつの道に住まぬかぎり、行動することにも、静寂を得ることにも、断定することにも、否定することにも失敗しよう。
物事の実在を否定すれば、そのことの真実を見逃すことになる。
物事の空虚を主張すれば、また、そのことの真実を見逃すことになる。
それについて語り、また考えるほど、真理から遠く離れる。
語り、かつ考えることをやめるがいい。そうすれば、知り得ぬことなど何ひとつない。
根源に帰れば、意味を見出す。だが見かけを追えば、源を失う。
内なる光明の時、見かけと、空をともに超えて行くものがある。
この空なる世界に現れる見かけの変化を、現実と呼ぶのは、ただ無知なるが故だ。
真理を求めることはない。ただ、意見を持つことをやめるがいい。
ああだ、こうだの状態に止まっていてはならない。そのような営みを心して避けなさい。
あれとこれ、是と非の跡かたでもあれば、心は混乱の中に失われる。
あらゆる相補性は、絶対の一から来るとはいえ、その一にも、囚われてはならない。
この道の中で、心乱されずにあれば、世の何事にも害されることはない。
物事に害されることがなければ、それは、もはや、昔のそれではない。
分別の思いが起こらなければ、昔の心はもはやない。……
・・・・・・ただ、物事をして、あるがままにあらしめなさい。
そうすれば、来るものもなく、また去るものもない。
物事の自然と己の自然に従うがいい。そうすれば、遮る物なく、自由に歩むことができる。
思いが囚われの中にあれば、真理は隠れる。
あらゆるものがぼんやりと暗く、はっきりしないからだ。
面倒な判断作業は、厄介や疲労をもたらすのみ。
区別し、分け隔てすることに何の益があるのか。
このただ一つの道を歩みたいなら、感覚と想念の世界も嫌ってはいけない。……
愚か者は、自ら足かせをする。存在するのは、唯一、法、真のみ。
区別は、ただ無知なる執着の故に起こるだけだ。……
想いがどんな区別もしなければ、万物は、そのあるがままで、ただ一つの精髄の顕れになる。
この精髄を理解することが、あらゆる混乱からの解脱だ。
一切が等しく見えるとき、永遠の自己に到達している。
そこは比較も比喩も不可能な、因果の絆の断たれた所だ。
……このような究極の地には、どんな規則も描写も当てはまらない。
道に遊ぶ、一つになった心において、利己心の努力はすべて止む。
疑いと不決断は消え、信を生きることができる。
一撃の下に軛は断たれて、一切は止まることなく流れ、また記憶する者もいない。
すべては空にして明瞭、心力を労することなく、自ずから光明を放っている。
ここではもう、思考も、感情も、知識も、想像力も何の価値もない。
このような「如」の世界には、自己もなく、また自己でないものもない。
この実在とただちに調和するためには、疑いが起これば、ただ「二ではない」と言うがいい。
この「不二」の中で、何一つ分離されるものもなく、また排除されるものもない。
時と所は問題ではない。光明を得るとは、この真実相に入ることだ。
この真理は、時空の大小を超えている。そこでは、一瞬の想いと、万年の長さに違いはない。
ここも空、そこも空、だが、無限の宇宙が常に眼前にある。
無限大と無限小に何の違いもない。定義は消え、境界はもうないからだ。
存在と非在もまたその通り。疑いと、議論に時を浪費してはならない。
そんなことは、この実在とは何の関係もない。
一即一切の世界を歩み、識別することなく融解し去れ。
この覚醒に生きることだ。この「信」を生きることが「不二」への道。
「不二」こそ「信」と同じものだからだ。
言葉よ! 道は言語を超えている。
そこには、昨日もなく、明日もなく、今日もない。
僧璨(注 22)信心銘(仏教)72
― み言選集 ―
完全な愛を求めるためには「私」という概念があってはいけません。
(279-146、1996.6.4)
体を打って万年一方通行すれば、宗教が必要ありません。イエス様が来たのも、それを立て直すためです。釈迦牟尼の教えも同じです。無の世界、零の位置に帰ることです。心と体が一つになれば感じません。同じです。無の境地になぜ入っていかなければならないのでしょうか。そこで有の有を中心として感じるためです。相対が現れて和合できるところで有を 100 パーセント感じることができるのは、無の境地であり、零点の位置なのです。
(256-212、1994.3.13)
神様は、「王ゼロ」の位置に立つのです。そのような神様と出会おうとすれば、皆さんがゼロポイントよりもっと低くならなければなりません。そして、皆さんは肉となってその「王ゼロ」の位置を保護できなければなりません。「王ゼロ」の位置が心の位置であれば、それを囲んでいるのは肉の位置なので、そのゼロポイントを保護しなければならないのです。皆さんはそのようになっていますか。それで、神様的なものを求めるために、仏教では座禅というものを通して、良心とは何かと、心の底を訪ねていこうとするのです。
(230-134、1992.5.1)
人間は、「私」という主張をどこからしたのでしょうか。しかたなく堕落した世界のアメリカならアメリカの民として教育を受けた自分の歴史的な伝統や、国家的伝統を中心として、「私」という意識をもつようになったのです。創造理想的な意識圏内に立つことができる神様自身が「私のもの」、「私の子
女」と言うことができる、そのような関係を結ぶことができなかったのです。したがって、私たちがもっている「私」という概念は、神様の本来の創造理想とは何の関係もないものとして、私たちは自分を完全に否定しなければなりません。私たちはまず、個人として完全な私の位置を取り戻さなければなら
ないのです。その道は、自分を零点に置き、自分を完全否定する道しかありません。その位置でこそ、心と体が完全統一を成すことができるからです。
神様がどのような状態で創造をされたと思いますか。心と体が完全に一つになったところで万物を創造されました。絶対愛と絶対信仰を中心とする絶対投入でした。ここには、自分の利益や事情を考える隙間はあり得ません。完全に、100 パーセント与えても、また与える、「ために生きる」愛の始原が正にここにあったのです。
皆さん、「真の私」をどこから探し出すのでしょうか。真の愛を実践する人生であってこそ可能です。自分を完全に零点で否定し、家庭のために、世界人類のために、そして神様のために生きれば、「真の私」は自動的に取り戻されるのです。これが正に復帰摂理、救援摂理の道を歩んでいる人間の避けることのできない運命なのです。私たちは自分を立てて自分をむやみに語ってはいけません。長い、長い歴史の裏道で真の私を語ることができる子女を探し、恨にもつれた復帰摂理をしてこられた神様の心情を少しでも分かれば、むやみに自分を主張することはできません。
(356-298 ~ 301、2001.10.21)
このような事実を皆さんはよく知っていると思いますが、体恤に関して、私たちはもう少し考えてみなければなりません。私たちが信仰の主体である神様を敬うその立場に立っているとしても、それは曖昧です。では、それ自体をどこから探すべきでしょうか。
主体は確定していますが、自分は感じられないのです。私たちが五官で分かるように、そうだということを確定づけられないのです。これをどこから調べられるかという問題を考えるとき、主体からは調べられません。神様から調べることはできないのです。これはどこまでも、自分から調べなければなりません。
それでは、自分自身を中心として見るとき、自分という存在には、体と心があります。体と心があるのに、体を中心としては、調べられません。心を中心として調べなければならないのです。
今日、堕落した群れの人間たちを見るとき、その心自体が千人なら千人、万人なら万人がすべて同じでしょうか。その主要な部分は同じかもしれませんが、心自体は素性によって異なるのです。一つの円形を描いたとすれば、水平線を引き、ここで1 度、2 度として十字を引くことによって、360 度の円形を描くことができます。一つの水平線を引き、一つの垂直線を引き、ここから 90 度の分別の度数が決められるのと同じように、必ず私たちの心が円形と同じ位置にいれば、これをどのように引くのかということが問題です。その水平線は、引く人によってその水平線の形態はそれぞれ異なるのです。私たちの顔が異なるのと同じように、皆さんの本性もすべて違うのです。
この 0 度から 360 度を引いていくにおいて、必ず度数はこの基準を中心として数が加算されていきます。そのように、360 度の形態と私たちの心が、心の土台がこのように円形であれば、その角度を測定する基準がすべて違うことを私たちは知らなければなりません。すべて同じではないというのです。それはなぜそうなのでしょうか。私たちの顔が異なり、私たちの趣味が異なり、私たちが感じる感情が異なるのと同じように、その度数を描く平行線と垂直線が異なるのです。ある人がこのようになっていれば、ある人はこのようになっており、それがすべて異なるのです。その度数を合わせなければならないという結論が出てきます。
そのようにしようとすれば、どのようにしなければなりませんか。零点の位置を求めていかなければなりません。零点の位置とはどこでしょうか。それがあるのです。皆さん自体に、その心の心情をこのように表示すれば、必ず零点があります。零点があり、その零点自体を水平線にすれば、その水平線を中心としてある垂直線が引かれます。天が主体であれば、その主体の前に私が対象的な立場に立つのです。主体である神様は、人間に対象として感応できる素質を必ず与えたので、平面的な心の土台の基準の前に垂直に向かうそのような方向がなければなりません。これが必ずあるのです。
私たちが水平線を見れば、これは平面になっていますが、これが垂直に立つようになれば、この垂直線の基準がすべて違うのです。では、そのゼロ点基準をどのように合わせるかというのです。こちらに行けば、必ず反対になるために、そのゼロ点を合わせなければなりません。皆さんが発電所に行ってみれば、メーター器がたくさんあります。メーター器にゼロ点基準のようなものがあって、それを中心としてすべての加減の調整をして、その方向というか、力というか、量の対比をつかむのと同様に、そのようなゼロ点基準がなければならないのです。
では、ゼロ点基準とは、どんな位置でしょうか。ありながらもないようであり、ないながらもあるような位置です。その位置があるのです。ですから、今日座禅をする人たちが、「無我の境地」 という言葉を使いますが、それもやはりそのような境地なのです。そのような霊的基準に接近することができる自分にならなければなりません。そのような基準になれば、必ず自己の水平線基準が反応できる、そのような何かがあります。
(76-125 ~127、1975.2.2)
7. 霊的合一
霊的合一は、宗教的神秘主義者の最終目標である。このような合一の経験は深奥である。それを言葉で表現するのは難しい。このような状態にいる人は、神様と合一し、すべての存在と合一し、主体と対象、知る者と知らされた者のすべての差が解消される。
神秘的合一は、伝統的宗教で一般的なものではない。特に、無限者である神様は、最も神聖だとしても、被造物とは絶対的に区別されなければならないという非妥協的唯一神の信仰であるアブラハム系列の宗教ではそうである。しかし、ユダヤ教とキリスト教の経典は、至福の直感、すなわち神様の顕現によって目撃者を変化させる直感に対して語っている。イスラームでムハンマド自身に由来する伝統は、スーフィ、神秘主義者の合一の経験と関連している。文鮮明先生は、このあらゆる多様な合一の経験を肯定する。先生は、愛の人生を学ぶことによって神様の心と心情に近づくことができ、神様の体験を共有し、神様の体の一部分となって動くことを教える。私たちは、神様の中にとどまり、神様は私たちの中にとどまり、私たちはすべての被造物と神秘的に一つになることを経験する。
①神様と合一
― 宗教経典 ―
わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。ヨハネによる福音書14.10(キリスト教)73
天と地は私を包んでいないが、私の信実な従僕の心が私を包んでいる。
スフラワルディー・ハディース(イスラーム)74
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつ
ながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
ヨハネによる福音書15.4 ~ 5(キリスト教)75
喩えば、諸川が流れて海に入らば、その名色(個別性)を捨てて消融するが如く、悟者はその名色より解脱して高くも弥や高き、神聖なる神我に至る。
すべて、この至高梵を証得する者は梵そのものに成るなり。
ムンダカ・ウパニシャッド3.2.8~9(ヒンドゥー教)76
かの神を念想することから、第三の結果として、肉身の滅する時絶対自在の位に達し、独一なる願望成就者となる。われらのまさに知るべきこれ(梵)は常住にして、己身の内に鎮坐す。われらの知るべきものとしてはこれより勝れしもの一物もなし。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド1.11~ 12
(ヒンドゥー教)77
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
コリントの信徒への手紙二 3.18(キリスト教)78
露にして、しかも幽れ、玄洞(心臓)の内に逍遙するものと称ばれる所の偉大なる天地の基底、その内にぞ(注 23)、ありとあらゆる蠢めくもの、息づくもの、瞬くものは収められてあるなれ。汝等がこの有体にして無体なる善美なるもの、智慧才覚を超えたる、生類中の最勝のものとして知れるもの、光輝あるもの、微なるよりも微なるもの、諸々の世界(果報)と世界を得し輩とがその根基とせるもの、これぞこの不滅なるものなり、梵なり、生気なり、はた語なり、意なり。これこそこの真実なるもの、不死なるもの、射抜くべきものなれ。友よ、これを射抜けよ。
ムンダカ・ウパニシャッド2.2.1~2(ヒンドゥー教)79
諸々の仏・如来たちは、存在するものすべてを身体とするものであり、すべての生ける者どもの心想の中に入って来るからである。それ故に、あなた
たちが心に仏を観想するとき、この心がそのまま仏の三十二の大相であり、八十の小相なのだ。この心が仏を作り、この心がそのまま仏なのだ。智慧海のごときもろもろの仏たちは心想から生ずる。それ故に、一心に思念を集中し、心してかの仏・如来・尊敬さるべき人・正しく眼覚めた人を観想するのだ。
観無量寿経17(仏教)80
自然と湧き出る歓喜に神妙な旋律が生じ、聖なる言葉に私の心は楽しさを感じ、その楽しさが永遠だ。
自然と生じる悟りの洞窟の中で、私はわれを忘れ、安楽で崇高な場にとどまるようになる。彷徨はやみ、故郷(真の私)に戻ってきたため、私のあらゆる希望が成し遂げられた。
神に仕える者たちよ! 私は自らを完全に成し遂げた。師が神秘の光彩に包まれた至高者の姿を許諾されたのだ。
彼は自ら王であり、また万民であり、至極の解脱を得た者であり、至楽を享受する者である。永遠の正義の御座に座られた彼により、あらゆる苦痛と号叫が消えていく。
アーディ・グラント、マージュ、M.5、p.97(シク教)81
― み言選集 ―
巨大な神様ですが、人間は小宇宙なので、私が神様の中に入っていくことによって、その巨大な神様が私の中に入ってきた感じがするのです。そのような感覚を受けてこそ、神様の中に私がいて、私の中に神様がいらっしゃると言うことができます。それで、イエス様もそのような話をされたのです。無限に大きい神様ですが、人間がその中に入っていってこそ、神様も作用されるのです。
(31-210、1970.5.31)
皆さんの心と体が統一されるその場が、そのような所です。そこが私の永遠の生の土台です。その中心に神様がとどまるのです。それで皆さんが神様までも所有するというのです。それが真の愛を中心として、堕落によって失ってしまったすべてのものを取り戻すことができる最高の目標です。皆さんがその場に行かなければなりません。
(294-98、1998.6.14)
私たちは、動物的な人間を退け、人間的な人間を通して神的な人間世界に帰ろうというのが、宗教理想の道だということを知らなければなりません。それで、神様の世界まで到達し、神性をもった人間になろうというのです。それで神聖な愛を中心として永遠の幸福を賛美して生きることのできる人間になろうというのです。
(117-37、1982.1.31)
平面的な代表者は人間であり、立体的な代表者は神様です。それを立体化して永遠に結びつけるひも、結びつける結実点、その結ぶ中心点が、いわゆる愛です。ですから、この肉体をもった人間自体も、神様が臨在され一体となるときのその心情、体恤境、その感情は無限の愛に自分が一致したという、最大の幸福感を感じる境地です。それがいわゆる最高の幸福の境地なのです。そのような幸福な境地の理想世界、善の世界、善の創造理想を追求するのです。愛情に包まれ、神様と一体になったということを実感する世界、そのような世界に統一しようというのが創造理想なのです。この希望が、結局は愛を中心とした希望なので、その目的を達成するときも、愛の環境を離れては達成できません。人間が自分の生涯を通してそのようなことを実感し、体験できるようにすること、そこに神様と人間が一つになる目的があります。したがって、愛によってすべてのものが一つになるのです。愛によって人間と世界が一つになるというのです。これが神様の創造目的です。
(35-157、1970.10.13)
ただ愛のみがすべての障壁を超越します。私たちが真の愛の中で神様と一つになる時、神様の肉的、霊的被造物に対する私たちの支配が可能になります。徹底して他のために生きる時、私たちは初めて神様の本質に到達できます。そうすれば、神様の思いが人間の思いとなり、神様が感じられることが自然に人間に伝達されるのです。このように生きていく時、人間は神様の心情と愛に共鳴する器になります。二つの音叉が共鳴するがごとくに、人間と神様も常に共に共鳴するようになるのです。
(210-206、1990.4.9)
能力の主体であられるお父様、
生命の原動力であられるお父様、
愛と心情の根本であられるお父様!
私たちはあなたのみ前に
一つの実体として、
一つの枝と葉のような立場で
一切をあなたに任せ、
あなたが悲しまれれば
私たちも悲しまなければなりませんし、
あなたが喜ばれれば
私たちも喜ばなければなりませんし、
あなたが忙しく働かれれば
私たちも忙しく働かなければなりません。
このような面であなたと共に
すべての生活環境に接していく
あなたの息子、娘たちとなるように
してくださいますことを
切にお願い申し上げます。
(42-59、1971.2.21)
②愛によって合一した神様と人間
― 宗教経典 ―
至高のアッラーはこう申された。「私の友に敵意を示す者には、自分は誰に対しても戦いの宣言をする。私の気に入ることをして私に近づこうと望む下僕は、自分に課された宗教的義務をきちんと果たすことだ。定められた義務以外の良い行いに努める下僕は、ますます私に近づき、ついには私の愛をかち得るであろう。そして私が彼を愛するようになれば、私は彼の聞く耳、彼の見る眼、彼の打つ手、彼の歩く足となろう」。
ナワウィー 40 のハディース 38(イスラーム)82
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために / 一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたち
は、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示され
た神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
ローマの信徒への手紙 8.35 ~ 39(キリスト教)83
「彼らを見よ。慈悲という礼服を重ね着し、真の美徳で飾ったあの姿を見よ。彼らは愛で私と一致した。彼らが誰かと尋ねれば」、穏やかで愛らしい言葉が答えられた。「彼らはもう一人の私だ。自分を失い、自分を否定し、私のもので服を着て私と一つになり、私に順応した彼らであるがゆえに、彼らはもう一人の私である」。
シエナのカタリナ(キリスト教)84
― み言選集 ―
完全な統一は、完全な神様の愛によってなされます。
(94-263、1977.10.1)
神様の愛が心に入ってくれば、すべてのものが満たされます。ですから、幸福だというのです。すべてが満たされるので、すべてのことに喜びを感じるようになるのです。
(95-39、1977.9.11)
神様はどのような方ですか。愛の神様です。パウロは「キリストの中にある神様の愛の綱を誰が切るか」と言いました。キリストも、神様の愛がなければ何でもありません。それで私たちは、神様の愛を何よりも好むのです。神様の愛は生命の源泉であり、幸福の源泉であり、平和の源泉です。霊的体験をしてみれば、これが分かります。
(24-325、1969.9.14)
もしこの軸が連結されていれば、人間と神様は愛で一体となるのです。このように一体となった関係は、何が作用して離そうとしても、離すことができません。阻止できません。若い男女が青春期、思春期になって恋愛し、愛するようになれば、生きるとか死ぬとかいうよこしまな問題を起こすでしょう? そのように、互いに一つになって自ら死の道を行くのに、神様の本然の愛のひもに結ばれ、その愛の味を知った人が離れると思いますか。皆さん、春に蜜の味を初めて知った虫は、しっぽを引っ張られてしっぽが切れても蜜から離れません。皆さんがその味を感じればどこに行きますか。どこかに行っても、またそこに戻ってきて一つになろうとするのです。
(137-57、1985.12.18)
愛だけがすべてのものを収拾できる源泉になります。愛だけが理想的垂直線を所有できる特権があることを知らなければなりません。愛は所有権があり、愛は同位権があり、愛は同参権があるのです。人間として、このような事実を知るようになるとき、神様が私の中にいて、私が神様の中にいるということになります。神様が私のものであり、神様の愛が私のものであり、神様の天宙が私のものだという所有観念をもった堂々たるそのような価値的存在が私なので、皆さん各自は、自分を天下に誇りたいと思うそのような欲望の本性がなくてはなりません。
(179-169、1988.8.1)
歴史的な悲しみの中で摂理される神様の心情を体恤しながら生きていく人は、どこにとどまっても、神様を涙なくして見つめられないのです。そのような立場で神様のみ旨を知り、その方の息子、娘になるために闘うとき、彼と志を同じくする同志がいれば、神様はその場に訪ねてこられて涙を流されるでしょう。
それでは、神様の悲しみはどこにあるのでしょうか。私たちの一身にあると同時に、この国、この世界、この万物の中にあるのです。私たちはこれを清算し、神様の喜びを復帰してさしあげる運動を展開しなければなりません。そのような私たちにとって生命の中心とは何かというと、神様の悲しみを体恤する自分になることです。
皆さんが神様に対して涙を流す生活をするようになるとき、神様の永遠
の愛を感知し、神様の代身者の使命を果たすことができるようになるのです。それだけでなく、そのような心情に胸を痛めて生きる人には祈祷が必要ありません。信仰という名詞も必要ありません。そのような人は、祈祷する前に既に神様の心情を感じているのです。
ですから、これから皆さんは天倫の悲しみを体恤し、万物の嘆息を踏み越えて神様の事情を直接的に通じ得る真の人にならなければなりません。そのような人がいれば、外からは滅びるように見えますが、絶対に滅びません。冷遇され、追い出されても、そのような人には必ず後継者が出てくるのです。
今日の皆さんは特別な道を歩んでいます。皆さん! 誰に対しても恨まないでください。かえって彼らのために流した涙を通して、蕩減の恵沢を受けるようになるのです。今日の皆さんは、人よりも先に神様の悲しみを体恤し、涙を流すことができる恵沢を受けています。しかし、天が皆さんのために先に涙を流されたことを知らなければなりません。また、皆さんは、そのすべての人たちが食口(家族)だということを忘れてはいけません。
(40-60 ~ 63、1958.3.2)
天との真なる心情的な関係がこの場で結ばれなければならないことを知っていますので、お父様、あなたのみ手で親しく私たちを捕まえてくださり、お父様の両腕で私たちをあなたの愛の懐に抱いてください。どれほど待ち焦がれ願われたことでしょうか。今、その心情を正にくみ取ることができ、その切なさを正にくみ取ることができるのです。
(9-160 ~161、1960.5.8)
③万物と合一
― 宗教経典 ―
すべての生きとし生けるものをアートマンにおいてのみみて、そしてすべての生きとし生けるものにおいてアートマンをみる人は、それゆえに、疑うことがない。認識しつつある人にとって、すべての生きとし生けるものがアートマンとなったその人には、いかなるまよいがあるだろうか。いかなるうれいがあるだろうか。〔アートマンがブラフマンと〕同一であることをみている人にとって。
イーシャー・ウパニシャッド 6 ~ 7(ヒンドゥー教)85
師は言われた。 「そのとおりだ。スブーティよ、そのとおりだ。微塵ほどのことがらもそこには存在しないし、認められはしないのだ。それだからこそ、《この上ない正しい覚り》と言われるのだ。さらに、また、スブーティよ、実に、その法は平等であって、そこにおいてはいかなる差別もない。」
金剛般若経 22 ~ 23(仏教)86
このように常に専心し、罪障を離れたヨーギンは、容易に、ブラフマンとの結合という窮極の幸福を得る。ヨーガに専心し、一切を平等に見る人は、自己を万物に存すると認め、また万物を自己のうちに見る。私を一切のうちに認め、一切を私のうちに見る人にとって、私は失われることなく、また、私にとって、彼は失われることがない。一体観に立って、万物に存する私を信愛する者、そのヨーギンは、いかなる状態にあろうとも、私のうちにある。自己との類比により、幸福にせよ不幸にせよ、それを一切〔の生類〕において等しいものと見る人、彼は最高のヨーギンであると考えられる。
バガヴァッド・ギーター 6.28 ~ 32(ヒンドゥー教)87
泰初―天地のはじめには無があった。このときいっさいの存在はなく、むろん物の名称というものもなかった。やがて、その無から一が生まれたが、そのときには、ただ一が存在するだけで、まだ形というものはなかった。すべての万物は、この一をそのうちに得て生ずるのであるが、その一を得ていることをさして、徳と名づけるのである。まだ形をもたない一は、やがて分かれるのであるが、しかしその分かれ目は、まだそれほど大きくはない。この状態を命という。……
自分の身にそなわる性を正しく治めるならば、より根源的な徳に復帰することができ、さらにその徳をつきつめるならば、その泰初の状態である一や無に同化するであろう。もし性や徳が泰初の状態に同化するならば、泰初は虚無であるから、性もまた虚無となるであろう。虚無は限界のないものであるから、それはまた無限の大きさをもつものとなるであろう。このようにして、性や徳が泰初の無に同化すれば、ちょうど野の鳥のさえずりのように、無心のままに自然に同化するようになる。野の鳥のさえずりと同化することは、天地の自然に同化することである。こうして天地の自然に同化するものは、いっさいの差別の知を失い、ちょうど愚かもののようになり、無知の人のようになる。この境地こそ、幽玄の徳とよばれるものであり、偉大な随順の道に合致するものである。
荘子12(道教)88
― み言選集 ―
神様も息をするのです。愛の呼吸をしていらっしゃるのです。神様も、宇宙に拍子を合わせていらっしゃるので、愛を中心として宇宙が永遠に続くのです。愛に永生があるというのです。ですから、皆さんはそこまで行かなければなりません。それでこそ、神様の呼吸圏内に入っていって、さっと越えていくのです。
(201-191、1990.4.1)
耳、目、口、鼻など、すべての感覚器官を通して感じられる感覚、すなわち直感を通して確認することによって、信じることができると言えるそのような時間をもってみなければなりません。そのような時間をどれくらいもっているのかが重要です。個人の生活を中心とする人たちは、よく感じることがで
きませんが、恵み深い生活をする人たちは、いつも見る万物が昔と違って感じられるのです。いつも新しいのです。朝に見ても新しく、夕に見ても新しいのです。神様の恩賜が徐々に波打ってくるときは、神秘さを立体的に感じます。そのように感知する人がいれば、彼は幸福な人です。
(30-134、1970.3.21)
神様の心の中にいることを願うのなら、皆さんが眺める物の中に神様の心があるので、その物を自分の物として、天地のすべての存在物を私の物として抱こうとする心をもたなければなりません。それが天の心です。最高の道に通じた人がいたとすれば神様の心に所有された人です。自分が鳥一羽、香りを放つ花一束を見ても、永遠を歌うことができる境地に入る心をもった人は、万物の中にあるのではなく、神様の心の中にあるのです。
(8182、1959.12.13)
私は、意識世界を超えた創造目的の世界を願います。草一株を見ても、そこから無尽蔵な平和の感情を感じ、その存在価値を褒めたたえることを願います。見ることもそうで、感じることもそうです。人間は、たとえ小さな存在からでも、「一つの個体が動くたびに天地が動き、神様の心情が動き、永遠の生命が動くので、驚くべきことだ」という被造万物からの称賛を受け得る位置まで行かなければなりません。
(9-320、1960.6.19)
8. 治癒
堕落した人間の状態は、霊魂の虚弱と疾病に例えられてきた。堕落した人間の心情は、憂いと苦痛で重い。したがって、救援は虚弱な霊魂を治癒し、真の潜在性を実現し健康な状態に回復させるものとみなす。宗教の教えは、救援の特効薬とされ、真理を教えてくれた創始者は、卓越した医師に例えられる。
しかし、霊魂の健康と肉体の健康の間には、精神と身体の医学的な因果関係がある。したがって、肉体的健康は精神的健康によって恵まれた副産物である。さらに、神様の能力は奇跡を起こし、老いた女性が赤ん坊を生み、盲人が目を開け、死んだ人を生かすこともできる。イエス様は奇跡を通して治療し、悪魔を追い出すこともした。釈迦もそうであり、過去から現在までの多くの宗教の聖人たちもそうだった。
文鮮明先生は、疾病の霊的原因を神様と一致させ、神様の治療能力を導く方法に対して具体的に語る。先生はまた、治療能力の無分別な使用に対して警告しているが、なぜなら奇跡は代価を支払わなければならないからである。
①肉身と霊魂の治癒
― 宗教経典 ―
「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である。」
出エジプト記15.26(キリスト教)89
病のとき、かれは、わたしをいやしたもう。
クルアーン 26.80(イスラーム)90
わが眼、心、意のうちにいかなる欠陥があろうとも、あるいは過分なるものがあろうとも、ブリハスパティが治し給わんことを。世界の主よ、われらに慈悲深くあれ。
ヤジュル・ヴェーダ 36.2(ヒンドゥー教)91
あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合
い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。
ヤコブの手紙 5.14 ~16(キリスト教)92
おお! 偉大な神よ、
私を創造された方、
私にはあなたしかいません。
天にいらっしゃる神よ、
あなたは唯一の方、
今、私の子が病の中にいますので、
私の切なる希望をお聞きください。
アヌアク族の祈り(アフリカ伝統宗教)93
さあ、我々は主のもとに帰ろう。
主は我々を引き裂かれたが、いやし /我々を打たれたが、傷を包んでくださる。
二日の後、主は我々を生かし / 三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。
ホセア書 6.1~ 2(キリスト教)94
また次に仏子よ、たとえば大医王はよくもろもろの薬と療治の法とを知り、あらゆる方論に皆ことごとく明達する。かの大医王は目に触るる一切の薬草を皆ことごとく識別する。それは彼の宿昔の善根力に由るのである。彼はまた明らかにもろもろの方論に通じているから、能くことごとく一切もろもろの
病患を療治する。
華厳経 37(仏教)95
なんとなれば、すべてのものどもの未済の分を天則に従って、この聖なる御身さまは世をいやす盟友としてスプンタ・マンユを通して、見そなわし給うからです、マズダーよ。
アヴェスター・ヤスナ 44.2(ゾロアスター教)96
この〈事象〉の観念というものは、やはり傾倒した見解である。傾倒した見解というものは、大なる患いである。わたくしはこれを離れよう。では〈離れる〉というのは、どのようにすることであろうか? それは〈われ〉とか〈わがもの〉という観念を離れることである。では「〈われ〉とか〈わがもの〉と
いう観念を離れる」というのは、どのようにすることであるか? それはすなわち二つのものの対立を離れることである。では〈二つのものの対立を離れること〉というのは、どのようにすることであるのか? それはすなわち内外のもろもろの事象を念じないで、平等を行ずることである。では〈平等〉と
いうのは、どういうことであるのか?それは我もねはんもともに等しいとみなすことである。なぜであるかというと、我とねはんと、この二つはともに空であるからである。
維摩経 5(仏教)97
重い苦悩の生きた祭物になり
あらゆる病で肉身は病み、
悲喜の交差の中で、家庭と家族のあらゆる問題に
取り囲まれた者よ、
平安や安息もなく四方八方にさまよう者よ―
ふさわしい至高な彼を念ぜよ。
あなたの心と体に平和が訪れるだろう。
アーディ・グラント、スリー・ラーグ、M.5、p.70
(シク教)98
律法の言葉は完全な治療薬のようだ。これは、ある人が自分の息子に大きな傷を負わせ、彼に石膏の包帯を巻くようにして、このように語ることに例えることができる。「私の息子よ! この石膏の包帯がお前の傷を包んでいる限り、お前は好きなものを飲み食いでき、冷たい水や温かい水で沐浴することもできる。それでもお前は害を被らないだろう。しかし、お前が石膏の包帯を取ってしまえば傷が悪化するだろう」。正にそのように、神がイスラエルの民にこのように語られた。「我が民よ! 私はお前を罪悪に傾く性向をもつように創造した。しかし、私は罪悪を解消させる薬として律法を創造した。お前が律法と共にいる限り、罪悪性は決してお前を占領できないだろう。しかし、もしお前が律法を所有しなければ、その時は罪悪の力にお前自身がたたきつけられるだろう。そして、罪悪の行為がお前を治め、お前を苦しめるだろう」。
タルムード、キッドゥシーン 30b(ユダヤ教)99
神に従順にしようとする者、悟りを得ようとする者、神により近づこうとする者、そして悔い改めようとする者は、聖霊の火による深い霊的浄化のための洗礼を受けなければならない。あなたたちは霊的に、そして直接的にあなたたちの三つの自我を通して真の光を受けなければならない。それがあなたた
ちの払うべき代価を少なくする近道である。この世界は、真の光の歴史を通して無数の不安から救われるだろう。
御聖言(真光)(注 24)100
― み言選集 ―
文総裁に出会ってかかった病は、治せません。それは、文総裁の診断と処方方法に従う以外には(治す)方法がないのです。ですから、世界が統一されざるを得ません。処方のその薬剤は何でしょうか。真の愛という薬剤です。
(190-57、1989.6.18)
病気になれば、病院に行って治療を受けなければならず、注射を打たなければならず、調剤した薬を飲まなければなりません。それでは、病院と薬を供給するものが何かというのです。それが宗教です。それで、宗教を信じれば、この戦場を止めることができるのです。
(337-57、2000.10.22)
今まで堕落世界では、悪が発展する時代でした。したがって悪なる人がより豊かに暮らし、何であっても強い人がより豊かに暮らすことができる時でした。しかし、神様王権即位式とともに、絶対的な善霊が役事する時代に入ってからは、絶対的な善が発展する時代になったので、今からは、絶対的な善を
中心として原理的な生活をする者が豊かに暮らすことのできる時です。神様は、子女である私たちが疾病と苦痛と不幸、そして罪悪から解放されるように直接役事するとおっしゃいました。
興進様のメッセージ、2002.1.1
神様から愛の生素(生霊要素)を受け、喜びながら生きていくべき人間の姿は、生まれた時から不完全なものとして、不安と疾病を携えたまま生まれてきたのである。つまり人間は、生まれた時から罪悪によって出発したのである。
こうして人間は誰しも罪悪の血縁と関係があるため、常にルーシェルから侵犯される要因が形成されている。そのために人間は、全く予想もしない病気の姿となってしまったのである。まずは霊的にかかった病気の姿となり、それから次にルーシェルに侵犯されて肉体的な病気の姿となるわけである。すべての病気の 70 ~ 80 パーセントが、霊的要因によって生じたものである。そして残りの20~30パーセントは、肉体の過労や環境の要因によって生じるものであるが、そのような場合の病気は人間を悲惨な状態に追い込むことはない。
霊界の実相と地上生活、人類の犯罪者ルーシェル 2.2
1999.3.7
誰でも病気にかかれば、その病気の原因を知り、その原因を治療することによって回復できるというのは理論的です。それを知っている人が誰もいません。日本の歴史でそれを解決しようと考えてみた人もなく、今も考える人がいません。世界にもいません。そのような結果を招いたサタンが知っているだけです。人類は誰も知りません。神様は、知っていても立て直せません。したがって、人類を代表する救世主や宗教圏がそれを明らかにしなければ、人類が解放され得る道はないのです。
(367-293、2002.1.24)
病気になったとすれば、病気の中で最も恐ろしい病気は何でしょうか。神様までも最も恐れる病気、これが堕落病です。皆さんはその堕落病にかかりましたか、かかっていませんか。堕落病にかかったことを今まで知らずにいました。
最近、「癌」といえばみな恐れるでしょう? その癌にかかっても最初は分かりません。ほとんど死ぬ間際になって痛み始めます。それでも、これは死ぬ前に分かります。しかし、この堕落病は死ぬ前にも分からないのです。死んで、初めて分かります。死んでこそ分かるとい
うのです。これが事故です。堕落病にかかったということを今まで誰も分かりませんでした。 (92186、1977.4.10)
②奇跡
― 宗教経典 ―
エリシャが家に着いてみると、彼の寝台に子供は死んで横たわっていた。彼は中に入って戸を閉じ、二人だけになって主に祈った。そしてエリシャは寝台に上がって、子供の上に伏し、自分の口を子供の口に、目を子供の目に、手を子供の手に重ねてかがみ込むと、子供の体は暖かくなった。彼は起き上がり、家の中をあちこち歩き回ってから、再び寝台に上がって子供の上にかがみ込むと、子供は七回くしゃみをして目を開いた。
列王記下 4.32 ~ 35(キリスト教)101
(イエスは言った) 「神のお許しによって、生まれつきの盲人やらい患者をなおし、また死者を生き返らせる。」
クルアーン 3.49(イスラーム)102
そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震
えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」。
マルコによる福音書 5.24 ~ 34(キリスト教)103
ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、 「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。 「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
使徒言行録 3.1~ 8(キリスト教)104
ブッダは阿闍世王のために月愛三昧という、月の光が人々の心を和らげるような、そのような働きを持つ三昧に入って、身体全体からまばゆいばかりの光明を放った。その光は清らかで涼しく、王の身体を包むように照らした。身体の傷は癒え、うっとうしい気分は除かれた。王は傷が癒えて身体が軽くなり、すがすがしい気分になった。そこで王は言った。「この光はどこから来て、私の身体を照らし、傷の痛みや苦しみを取り除き、安らいだ気分にしているのだろうか」
「大王、これは神のなかの神といわれる方が放つ光です。この光には根がなく、際限がありません。この珍しい光景はじつは大王のためになされています。大王が先に『世間に私の身心の病を治療できる名医はいない』と仰せられたので、それに答えてこの光を放ち、まず大王の身体の病を治療し、その後に心の病を治療しようとしているので
す。」(注 25)
大般涅槃経 575 ~ 76(仏教)105
イエスの時代のように、今のクリスチャン・サイエンスの身体治療は神性の原理の作用によって起きる。神性の原理の前で罪と疾病は、人間の意識の中で実在性を失い、ちょうど暗闇が光に、そして罪が悔い改めに席を渡すように、自然でそして必然的に消える。その時のように、今のこの能力の現象
は、超自然的ではなく最高に自然的だ。この現象は、イマヌエル、または「神が私たちと共にいらっしゃる」、つまり人間の意識の中に現れる聖なる影響の徴表である。
科学と健康ⅹⅰ(クリスチャン・サイエンス)106
そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力に
よらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。(注 26)
マタイによる福音書12.22 ~ 24(キリスト教)107
そのように知り、そのように見ることから、心は愛欲の汚れを離れ、心は生存の汚れを離れ、無明の汚れを離れる。離れたとき、離れたという知識が生じる。「生まれは尽きた。清らかな行いは済んだ。なされるべきことはなされた。再びこの世に来ることはない」と。これが説法の奇跡といわれるものである。
阿含経長部 ix.66、堅固経(仏教)108
人は奇跡に依存してはいけない。たとえ聖なるその方が、ある一時、奇跡を行われたとしても、すぐに頼ってはいけない。奇跡は毎日起きるものではないからである。ゆえに、何かの危険にぶつかった人は、その前に蓄積されてきた能力をすべて消尽させて解決しようとしなければならない。
ゾハール1.111b(ユダヤ教)109
― み言選集 ―
アブラハムの妻は 100 歳でイサクを生みました。それは不可能だと考えてはいけません。問題ないと考えて自信をもてば、霊的に感動を受けてすぐに妊娠できるのです。霊的な力は途方もないものです。
(283-126 ~127、1997.4.8)
皆さんが、心と体が一つになるその場に入っていけば、見ることはできませんが、その力は作用するという事実を知らなければなりません。そのような境地に入っていけば奇跡が起きます。病気も治り、何かの奇跡が起きるのです。それは難しいことではありません。
それでは、どのような愛をもたなければなりませんか。真の愛です! 皆さんは真の愛とは何か分かりません。真の愛とは何ですか。絶対的に一つになって結ばれる、そのような作用が真の愛です。そのような夫婦になりましたか。そのようにさえなれば、神様の愛とぴたっと一つになるのです。そのあとに手を広げれば、火が出てありとあらゆる奇跡が起きるのです。私が願うとおりに聴衆が回っていきます。それが運動で撃破するよりももっとおもしろいでしょうか、おもしろくないでしょうか。凍りついた人間たち、死んだ人間が生き返るのです。それはどのような力かというと、真の愛の力です。真の愛の力によってのみ、それが可能です。真の愛はどのようなものかというと、運動すればするほどだんだんと大きくなっていくのです。
真の愛を願う人は手を挙げてみてください。そこには一つ条件があります。それが何かというと、肉身を抑えることです。体を抑えることだというのです。
(282-230、1997.3.26)
絶対的な信仰をもって強く押せば、すべてのことがなされます。皆さんが道を歩いていてかわいそうな人や病気の人に会ったとき、思わず手が動き、心が動き、涙と共にその人を抱きかかえて祈祷すれば、どんなことでも起きるのです。しかし、先生はそのようなことをするのを嫌います。……それよりも
真理が必要なのです。真理は万古不変であり、奇跡は一時的なものです。一時が万古を支配することはできません。
(252-258、1994.1.1)
死んだ人を生かすには、霊人体を再び吹き入れれば生き返ります。しかし、そこには限界があります。死体が腐敗してしまえばできません。肉がなくなればできないのです。三日間や死んでいくらもたっていないときに霊を吹き入れれば、蘇生します。それは簡単なことです。しかし、そのようにする必要性がないのです。神様が一度霊を呼んだのなら、それを再び呼び戻すためには、それ以上に価値のあるこ
とで補償するか、あるいはそれによって天的利益をもたらすことができなければならないのであって、そうでなければできません。一人を生かすために、三人、四人が死ななければならないかもしれないので、霊的価値を見なければなりません。そのようなことに責任をもたなければ天法に引っ掛かります。ですから、奇跡は良いことではありません。
(15-176、1965.10.7)
9. 精錬の火
神様の恩恵深い愛は、困難と苦難の中で発見できる。神様に対する心の姿勢を備えた人は、人生の試練と挑戦を、自分の信仰を純粋にし、欠点を直し、性格を修練する手段として受け入れる。このような試練は、偶然ではなく、子女を訓練し教育しようとする神様の愛の表現(第15 章11.「試み」)ではないだろうか。
さらに、神様のみ言に従って生きようとすれば、試練に直面する人生を生きるようになる。したがって、聖書は神様のみ言を、あらゆる偽りのものを燃やし尽くす火に例えている。文鮮明先生は、大勢のキリスト教徒たちが審判を恐れているが、事実上、審判は真理によって私たちを精錬させる機会であり、キリストのみ言に 100 パーセント合一する境地に到達するものであると説明した。ゆえに、審判の目的は救援にあるのであって、罪を定めることにあるのではない。
①火の審判
― 宗教経典 ―
この三分の一をわたしは火に入れ /銀を精錬するように精錬し / 金を試すように試す。彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え /「彼こそわたしの民」と言い / 彼は、「主こそわたしの神」と答えるであろう。
ゼカリヤ書13.9(キリスト教)110
たとへば劫火がおこれば、天地があげて焼かれるやうなもので、諸佛の清浄な福田も、よくあらゆるものを焼く。
華厳経10(仏教)111
あたかも燃火が薪を灰にするように、知識の火はすべての行為(業)を灰にするのである。というのは、知識に等しい浄化具はこの世にないから。
バガヴァッド・ギーター 4.37 ~ 38
(ヒンドゥー教)112
例えば、ちょうど燃え上がる炎が枯れ草を一瞬で灰にしてしまうように、自らの最も内密な自我に没入し、一切の外界のものに迷わされない求道者は、業でできた自らの肉身を根こそぎ揺さぶって弱らせ、枯れさせてしまう。
サマンタバドラ アープタミーマーンサ 24 ~ 27
(ジャイナ教)113
純潔をあなたの溶鉱炉とし
忍耐を鍛冶屋としなさい。
聖なる師の言葉はあなたの金敷であり、
真の知恵はあなたの金槌である。
神に対する畏敬の心をふいごとし、
これによって禁欲の火を入れよ。
愛の坩堝に慈悲深い神を溶かせ。
生まれ変わるだろう。
アーディ・グラント、ジャプジー 38、M.1、p.8
(シク教)114
「主は千よろずの聖なる者を従えて来られる。その右の手には燃える炎がある」(申命記 33.2)。トーラーの言葉は火に例えられる。火とトーラーの言葉は、どちらも天から与えられたのであり、またどちらも永遠の性質をもっている。火を近くにする者は火から有益を得るようになり、火を遠ざける者は凍え死ぬようになる。人の律法に対する関係もこれと同じである。律法の中で熱心に働く者に律法は命を与え、律法を遠ざける者に律法は死を抱かせる。
申命記スィフレイ
(ユダヤ教)115
イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。
コリントの信徒への手紙一 3.11~15
(キリスト教)116
このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる。
エレミヤ書 23.29(キリスト教)117
われ火もて黄金を試し、また黄金もてわが僕らを試さんに。
バハオラ 隠されたる言葉 55
(バハイ教)118
― み言選集 ―
絶対信仰、絶対愛、絶対服従が簡単ですか、難しいですか。皆さんが 100回死んで目覚めても難しいのです。皆さんは言葉では絶対信仰、絶対愛、絶対服従すると言いますが、溶鉱炉に入っていき、不浄なものはすべて燃やしてしまい、金だけが残らなければならないのです。東西南北を通して 360 度悔い改め、悔い改めの涙と鼻水にまみれても、その中にいる私はいまだに完全だと見ることはできません。
(320-235、2000.4.6)
イエスのときにも、御自身が審判主として来られ(ヨハネ5・22、同9・39)、火をもって審判なさると預言されている。さらに、ルカ福音書 12 章49節には、イエスは火を地上に投じるために来られた
とある。しかし実際はイエスが火をもって審判なさったという何の痕跡も、我々は発見することができないのである。とすれば、このみ言は何かを比喩されたのであると見なければならない。ヤコブ書3章6節に「舌は火である」と言われたみ言からすれば、火の審判は、すなわち舌の審判であり、舌の審判は、すなわちみ言の審判を意味するものであるから、火の審判とは、とりもなおさずみ言の審判であるということを知ることができるのである。
原理講論、人類歴史の終末論 3.2.2
皆さんが知っていたものは、サタンと関係している言葉であり、皆さんが追求し考えていた思想体系というものは、サタンと関係のある立場を抜け出すことができないのです。サタン世界のすべての構成要素は、どのようなものであれ人間を中心として現れたものなので、堕落圏内を抜け出すことができないものなのです。ですから、新しいみ言をもってすべてのものを革新しなければなりません。
今までの在来の言葉に、そのまま和合して一緒に行くことができるでしょうか。絶対にできません。在来の言葉とは完全に決裂し、清算しなければなりません。今までサタン世界でもっていたサタン的な観念と信仰および習慣までも、すべて一掃しなければなりません。そうして、絶対的な基準のみ言を中心として伝統を立てなければならないのです。
(21-327 ~ 328、1969.1.1)
真の愛で愛するためには……自分を絶対投入しなければなりません。自分の名前、自分の姿、写真、服まですべて燃やしてしまわなければなりません。(注 27)
(398-328、2009.12.17)
人間的な私事を除去してください。堕落の子孫として生まれ、自分なりの仮面をかぶり、自分なりの主義主張をもってお父様のみ前に現れ得るすべての与件を除去してください。
(21-132、1968.11.17)
②天の訓練
― 宗教経典 ―
わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。
かわいい息子を懲らしめる父のように / 主は愛する者を懲らしめられる。
箴言 3.11~12(キリスト教)119
主よ、わたしは知っています。人はその道を定めえず /
歩みながら、足取りを確かめることもできません。
主よ、わたしを懲らしめてください /しかし、正しい裁きによって。
怒りによらず / わたしが無に帰することのないように。
エレミヤ書10.23 ~ 24
(キリスト教)120
人びとは、「わたしたちは信仰する」と言えば、試みられることはなく、放っておかれると考えるか。まことにわれは、かれら以前の者も試みたのである、神は、誠実な者を必ず知りたまい、また虚言者をも必ず知りたもう。
クルアーン 29.2 ~ 3
(イスラーム)121
そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
ローマの信徒への手紙 5.3 ~ 5
(キリスト教)122
私が菩提を成就するための、このような苦しみには限りがある。痛みなどの障害を除くためにからだが傷つけられる苦しみのようだ。医者は皆、治療によって、苦痛を与えることで病を治す。それゆえ、多くの苦しみをなくすために、小さな不幸や苦しみを忍耐するべきである。偉大なる医者(=仏)はこのような一般の治療はなさらず、穏やかな方法で大病を治される。
菩提行論 7.22~24
(仏教)123
― み言選集 ―
私に押し迫るすべての苦難と試練は、それを通じて神様の過去の日々を正しく体恤させるためである。ゆえに苦難が押し迫るときには、喜んで感謝しなければならない。それはすなわち、神様が私を愛してくださっている証拠である。
御旨の道、試験・試練
一人のメシヤを守ることも大変でした。レバレンド・ムーンがメシヤだと発表すると世の中が大騒ぎです。国が騒ぎ、世界が騒ぎ、霊界から地上のすべてが騒ぎ、父親、母親、誰彼なく棍棒を振りかざしてきて、「こいつ、事実なのか。一族にとってこのような恥がどこにあるか」と言いながら、一族の間では、「族譜から切り捨ててしまわなければならない」と言ったのです。一人でしてきました。メシヤは二人ではありません。極限の立場まで、一人でその名の実体を備え、最後まで否定せず、細々とでもそこに首が切れずにぶらさがっていてこそ、可能性があるというのです。
メシヤの概念を自分自身が信仰で立てるときまで、どれほど身もだえしただろうかというのです。また、そのような環境になり、家庭においての艱難は言うまでもありません。国が3年間の凶年に入るのです。身内が問題であり、食べることが問題であり、町内中で「あの何々の家は滅んだ」と言い、兄が狂い、姉が狂い、13 人のうち6人が1年で死んで倒れていくのです。それは、なぜそうなるのかというのです。メシヤの観念をもつことができないように追い込み、「お前がそのような考えをするから、一族がこのように滅びる」と言うのです。負わせることができる条件を、すべて私の家庭に注いだのです。
あなたたちは、今まで統一教会を信じることが難しかったと言うのですが、統一教会の何が難しいのですか。私が倒れましたか。統一教会の看板を置いて、帰りなさいと言いましたか。
(377-25 ~ 26、2002.4.28)
お父様の性相どおりにつくってくださり、あなたのみ旨を担うことのできる私たちとなるよう許諾してくださることを、懇切にお願い申し上げます。
(2-241、1957.6.9)
10. 協助と救援
悲嘆と危険と抑圧を受ければ、信仰者は神様の助けに頼る。危機に直面したとき、戦争に望むとき、または死に直面するとき、無神論者さえ神様に切に祈るだろう。そして、しばしば救われた事例が多く発見される。しかし、聖書は真の力とは神様の救援の能力にあり、争いに勝つため、自分の力や同盟、または財物に依存してはならないことを警告する。
この章句は、神様の救援に対する確信、協助に対する切なる求めを表現しており、神様の恩寵が堅固な避難所だと記述している。歴史上、神様の救援行為に対するいくつかの事例がある。すなわち、聖書で紅海を渡ったモーセ、パウロの監獄からの脱出、そして、クルアーンの塹壕の戦いなどがそれである。私たちは、苦難に直面した人を救済する準備ができており、救済できる神的慈悲心をもった観世音菩薩に対して仏教信者がたたえることもここに含める。
文鮮明先生は、何度も、特に北朝鮮の労働収容所に収監されていたとき、神様の救いを経験した。先生は、人々が献身と信仰の心をもつときにのみ、神様の助けを受けることができる理由について説明した。神様の愛の心情はすべての人に及ぶ。しかし、サタンの讒訴によって神様が保護なさることができないので、時として人々は神様の助けを受ける前に、自ら試練を克服しなければならない。
①苦難に直面した者に対する協助
― 宗教経典 ―
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ / 憩いの水のほとりに伴い /
魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく / わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも / わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖 / それがわたしを力づける。
わたしを苦しめる者を前にしても / あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ / わたしの杯を溢れさせてくださる。
命のある限り/ 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/ 生涯、そこにとどまるであろう。
詩編 23(キリスト教)124
神を畏れる者には、その者のためにかれは出路を備えたまい、かれが予想せぬところから、出路を与えたもう。神を信頼する者には、その者にとりかれは十分であられる。まことに神は、必ず目的を達成したもう。神はよろずのことに、必ず一つの限界を定めたもう。
クルアーン 65.2 ~ 3(イスラーム)125
あなたは主を避けどころとし/ いと高き神を宿るところとした。
あなたには災難もふりかかることが
なく/天幕には疫病も触れることがない。
主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。
彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。
詩編 91.9 ~12(キリスト教)126
武力によらず、権力によらず / ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。
ゼカリヤ書 4.6(キリスト教)127
私に心を向けていれば、私の恩寵により、すべての苦難を越えるであろう。
バガヴァッド・ギーター 18.58
(ヒンドゥー教)128
力が弱い者でも / 強い人に師事すれば事をなしとげる。
水のしずくは弱いけれど / 湖に混じれば乾かない。
善説宝蔵論(注 28)173
(仏教)129
あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神 /
地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく /
その英知は究めがたい。
疲れた者に力を与え / 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが /
主に望みをおく人は新たな力を得 /鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
イザヤ書 40.28 ~ 31(キリスト教)130
王の勝利は兵の数によらず / 勇士を救うのも力の強さではない。
馬は勝利をもたらすものとはならず /兵の数によって救われるのでもない。
見よ、主は御目を注がれる / 主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。
彼らの魂を死から救い / 飢えから救い、命を得させてくださる。
我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。
詩編 33.16-20(キリスト教)131
― み言選集 ―
運命の道を保護できるものが何でしょうか。神様も、愛の因縁を結び得るその何かがなければ保護しないのです。神様はお金が必要ですか。神様は権力が必要ですか。知識が必要ですか。神様が必要なものは何もありませんが、たった一つ必要なものは愛です。ですから、この愛の道をもって神様を調整できる特権が私たちにあるのです。その特権をもって調整すれば、運命の道も調整できます。神様が動くか
らです。
神様を本当に愛そうとする人を、神様がほうっておくのかというのです。彼が神様を愛するために不幸な所にも行くとすれば、不幸な所で終わるのでしょうか。それが、その不幸な所を良い所にできる条件としては終わるかもしれませんが、不幸な所では終わらないというのです。神様を愛するそ
の道を求めていく人は、不幸だとしても幸福であり、幸福だとすればもっと幸福なのです。この世に神様の愛を取り戻すために不幸の世界の波をかき分け、さかのぼっていくのを見るとき、神様がどれほど素晴らしいと思われるでしょうか。先生はそのようなことを考え、監獄で拷問を受けて打たれるときにも、「たたけ、こいつ。打て、こいつ。その数が加われば加わるほど神様の愛が……」、それが何の話か理解できますか。そのようにすることによって、すべての生の運命の道を、ずれた人生の運命の道を私たちは初めて立て直すことができるのです。それで、私たちが必要とするたった一つのものとは何でしょうか。私たちの人生の道は、信じることができない道であり、荒唐無稽な道であり、不安な道で
あり、その次には死の峠を結ぶ、悲惨な死の峠を越える道ですが、このすべてのものを克服することができ、これを立て直すことができ、これを保護できる一つの道は、神様を愛することです。それ以外にはないことは言うまでもありません。この愛をもって生きること、死ぬこと、すべてを神様と共にすることができるのであり、より価値のある内容をもてることを考えるとき、この道こそ、このようなところこそ、私たちの人生において誰もが尋ね求めていくべき道ではないかというのです。
(67-175 ~176、1973.6.3)
私たちの心は求めています。皆さん、見てください。電波も、どこでも作用するのではありません。必ず受信機がある所でのみ、作用するのです。相対基準があれば、どこでも作用できます。人も同じです。真の良心と真の心情的な基準、天の心情的な土台をもった人がいれば、その人は、どこに行っても、いつの時でも、悔しくて悲しい場でも、我知らず、生きる道ができるのです。誤解されるところでも生きる道ができます。
その生きる道は、良い所ではそのようにたくさんできません。歴史的な革命、歴史的な発展、歴史的な成功をしたという人の中で、平坦な所で成功した人は一人もいません。死と直面した所から始めるのです。天はそのような所から皆さんを訪ねてきていらっしゃるのです。
ですから、ある人が天の前に立とうすれば、必ず曲折にぶつかります。物質的な曲折と人間を中心とする事情と心情的な曲折にぶつり、それで自分の行く所はここだと叫んで出ていくとき、数多くの事情と曲折にぶつかって苦しむ人たちを指導できる代表者になるのです。
(7-333 ~ 334、1959.10.18)
これ以上でも耐えようというとき、神様が訪ねてこられて、「おい、なにがしよ。それ以上耐えるな。その道をもう行くな」と停止させるのが復帰の場です。感謝と称賛の心をもって耐えていく日には、神様が涙を流して訪ねてこられ、「世の中でお前のような息子がどこにおり、娘がどこにいるか。今お前がしていることをほかの人にさせよう」と言われ、その人を安息の場、天地にない福を受けることのできる所に移しておこうとされるのがお父様の心だということを知らなければなりません。
(44-29、1971.5.4)
神様はどこで役事され、サタンはどこで讒訴するのかということを私たちは知らなければなりません。必ず二つの役事があることを知らなければなりません。み旨を成し遂げるにおいて、神様が協助できる地点までは人間の力で上がっていかなければなりません。これは人間の責任です。神様が協助してくださるのは、ある地点を越えなければならないのです。この地点を越えてこそ、神様が協助してくださ
るのです。それ以下では協助できません。
これが公式になっています。イスラエル民族を見ても、恩賜の時代があったなら、必ず迫害の時代がありました。必ずサタンが攻撃する時がありました。
(73-268 ~ 270、1974.9.29)
あなたが歩んでこられた道に従ってきてみると、十字架の道でした。しかし、人知れないその道を開拓者の心情で身もだえしながら従ってきてみると、その道が滅びの道ではないことを知りました。人間たちは嘲弄しましたが、あなたは激励なさいました。数多くの人間たちは反対しましたが、あなたが慰労してくださいました。「私がいて、霊界にいる千々万聖徒たちがお前の行く道を擁護する」とおっしゃり、何度も勧告されたことを私たちは知っています。
(16-50、1965.12.26)
②危険と死から救援
― 宗教経典 ―
信仰する者よ、なんじらに賜わった神の恩恵を念え、大軍がなんじらに攻め寄せてくるとき、われはかれらに対し大風と、目に見えぬ軍勢をつかわした。神は、なんじらの行うことをみそなわしたもう。
見よ、かれらは、なんじらの上からも下からも襲って来た、そのとき目はすわり、心臓はのどもとまでとどいて、神につき、なんじらはいろいろと悪い想像をした。
こうして信者たちは試みられ、かれらは猛烈な動揺にゆさぶられた。……
神は不信心の者たちを、怒りのうちにメディナから撤退させたまい、かれらは益するところはなかった。戦いには、神がいませば、信者たちにとり十分である。神は、強大者・偉力者であられる。(注 29)
クルアーン 33.9 ~ 25(イスラーム)132
モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。
主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し / 馬と乗り手を海に投げ込まれた。
主はわたしの力、わたしの歌 / 主はわたしの救いとなってくださった。
この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。
主こそいくさびと、その名は主。
主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み / えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ。
深淵が彼らを覆い / 彼らは深い底に石のように沈んだ。
主よ、あなたの右の手は力によって輝く。主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。
あなたは大いなる威光をもって敵を滅ぼし / 怒りを放って、彼らをわらのように焼き尽くす。
憤りの風によって、水はせき止められ /流れはあたかも壁のように立ち上がり/大水は海の中で固まった。
敵は言った。
「彼らの後を追い / 捕らえて分捕り品を分けよう。剣を抜いて、ほしいままに奪い取ろう。」
あなたが息を吹きかけると / 海は彼らを覆い / 彼らは恐るべき水の中に鉛のように沈んだ。
主よ、神々の中に / あなたのような方が誰かあるでしょうか。
誰か、あなたのように聖において輝き / ほむべき御業によって畏れられ /くすしき御業を行う方があるでしょうか。(注 30)
出エジプト記15.1~11(キリスト教)133
この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」
使徒言行録16.24 ~ 30(キリスト教)134
足を縛られたまま私が群衆の中に放り投げられ、
象は乱暴に棍棒で追い立てられた。
象は逃げ出して大声で叫んだ。
「この倒れた者に私は祭物になります、主よ、あなただけが私に力を下さることができます」。
カジは象を扱う者に象を追い立てるようにと
叱りとばした。「はい、こいつ! 問答無用で踏み倒せ。
そうしなければ私がお前を引き裂くぞ!」。
しかし、神に瞑想していた象は少しも動こうとしなかったため、彼の心に主が臨まれた。
人々が尋ねた。「この聖なる者がどんな罪を犯したというのか。
どんな過ちを犯したために手足を縛られ、
象に踏まれるように放り出されたのか」。象は、囲んでいる群衆に繰り返し頭を下げた。
無知なカジはこれを悟り、理解することができなかったため、
このように三度も無理やり命令を下した。
カビルが言うには、主は私の守護者だ!彼の僕の生はひとえに彼と共にある。
アーディ・グラント、ガウンド、カビール、p.870
(シク教)135
世尊はみごとな相をそなえていられます。
わたくしは今重ねて問いたてまつります。
仏の子は何の因縁によって観世音と名づけられるのでありますか。(注 31)
みごとな相をそなえていられる世尊は、詩によって無尽意に答えられた。
おまえは観音の行を聴け。
よくもろもろの方角や場所に応じて、立てられた誓いの深いことは海のようである。
劫を経ても思議することはできない。
幾千億の仏につかえて大清浄の願いをおこしたのだ。
わたしはおまえのために略して説こう。
名を聞き、身を見て、心に念じて空しく過ごさなかったら、
よく存在の苦しみを滅するであろう。
たとえ害意をおこす者があって、大いなる火の坑に突き落とされても、
かの観音の力を念じたならば、火の坑は変じて池となるであろう。
あるいは大海に漂流して、竜や魚や鬼などの難があっても、
かの観音の力を念じたならば、波浪もその人を沈めることはできない。
あるいは須弥山(スメール山)の頂上から人に突き落とされても、
かの観音の力を念じたならば、太陽のように虚空にとどまるであろう。
あるいは悪人に逐われて金剛山から墜落しても、
かの観音の力を念じたならば、一本の毛さえも傷つけることはないであろう。
あるいは賊がとりかこんで、おのおの刀を揮って斬りつけても、
かの観音の力を念じたならば、ことごとく皆、慈悲心をおこすであろう。
あるいは王難の苦に遭うて、死刑に処せられ、命が終わろうとするときに、かの観音の力を念じたならば、刀は数段に折れるであろう。
あるいは手かせ・足かせに縛られても、かの観音の力を念じたならば、縛めは解けて解放されるであろう。
呪いや毒薬で殺されようとした者が、かの観音の力を念じたならば、呪いはかえって呪う者にとりつくであろう。……
神通力をそなえ、広く智慧の方便を修めて、
十方のもろもろの国土に、身をあらわさぬところは一つもない。
種々のもろもろの悪しきところ、地獄・餓鬼・畜生の世界、
生老病死の苦しみは、次第にことごとく消滅するであろう。……
真実の眼、清らかな眼、広大な智慧の眼よ、
悲の眼、慈の眼よ、常に願い、常に仰ぎ見るであろう。
汚れなき、清らかな光よ、智慧の光はもろもろの闇を破り、
よく災いを征服する風と火は、あまねく明らかに世間を照らす。
法華経 25(仏教)136
― み言選集 ―
神様は切迫した瞬間、死亡の場に生命の救助船として現れます。
(6-152、1959.4.19)
私たち人間は、100 パーセント愚かな立場に立っていますが、100 パーセント以上知恵深い神様が友達になり、無限の霊界の先祖たちが、自分の同伴者になり、後援部隊になっています。そのようなことを考えるとき、有り難いのです。私は一線で冒険の場、ゴリアテの前にダビデが立ち上がるときのその気分が、本当によく分かります。神様が保護されて、百戦百勝することができるのです。「打てばお前が破れ裂けるのであって、私は破れ裂けない」という心をもって暮らしてみると、本当にそのようになったというのです。
(203-192、1990.6.24)
レーガンも銃で撃たれ、教皇も銃で撃たれましたが、死にませんでした。ですから、レバレンド・ムーンもそうであり、そうなる与件が準備されているのです。
(116-155、1981.12.27)
協力を受けるためには、発表しなければなりません。発表してサタンが協助すれば、神様も協助するようになっていて、神様が協助すれば、人間が協助してくれるので、サタンは退かなければなりません。メシヤと一つになり、神様と一つになれば、自分の国がなくなります。これをサタンは最も恐れるのです。それで、個人が接し、家庭が接し、国家が接し、世界が接して歓迎すれば、サタンは退いていくのです。ですから、生死の境を前にして、サタンが人間に血を流させようとします。その戦場で死なずに生き残らなければなりません。
(329-287、2000・8・11)
サタンが天の国の人を鉄条網で囲みますが、神様は、時になれば、いくら鉄の鎖で縛られてきたとしても、サタンの国の人ではなく、天の国の人なので、その縛りつけたすべての責任をサタンに追及するのです。いつでも来て救っていくことができます。時が来れば、天がすべて連れていけるのです。すべて断ち切って連れていくことができます。そして、そのような立場で死んでも、 「私は天の国の民として生まれ、天の国の民として生き、鉄条網で囲まれていたとしても、死ぬときは天の国で死ぬ」と考えるとき、間違いなく霊界の天の国に行くのです。かえって、すべての人がよく闘ったと称賛するというのです。
(98-162、1978.7.16)
皆さんの最高の福は天の国に行って受けます。ですから、み旨のために地獄に行く日が希望の日であり、鎖で縛られても希望の日なのです。口笛を吹いて行く日には、私が来ることをあらかじめ知って、すべて準備しておき、私に会って教えを受ける準備をすべてして待つというのです。おなかがすけば、食べるものを配達してくれる人もいるのです。からすに命じてエリヤに食べ物をもっていかせたというのは、たやすいことです。共産党をして食べる物をもっていってあげるのです。神様が霊界を通して役事されます。
(103-207、1979.2.25)
1950 年 8 月 1 日、100 機ほどのB・29 機が総攻撃して、興南監獄を激しく爆撃しました。先生は、このようになることをあらかじめ知っていただけではなく、直径 12 メートル以内は神様が守ってくださるということを知っていたので、近くの人々にみな先生の周囲にいるように言い聞かせました。先生は、そのような中で黙って瞑想をしていました。爆撃のようなことは考えませんでした。今後の理想世界について考えていました。このような復帰の使命を果たす人を霊界に連れていけば、神様にとっては天宙的な損害です。神様は、いかなる犠牲を払ってでも防備しようとされたのであり、そのように
せざるを得なかったのです。
興南の監獄にいたとき、様々なことがありました。その中で最も困難だっ
たことは、毎日感想文を書くことでした。しかし、先生は書きませんでした。それは問題になるのです。しかし、仕事においてはやるべきことをやっていたので、問題になりませんでした。共産主義は良いとも書かず、悪いとも書きませんでした。いつも白紙を出したのです。先生はそのような戦法をとっ
てきました。
(35-189、1970.10.13)
以北でUN軍が最初に上陸した所が興南でした。それは、神様が急いで救わなければならない息子がそこにいたからです。共産党はその前々日、一つの監房にいる人たちに、御飯をあげると騙して全員を連れて出ていきました。この人たちは、殺害するつもりでそのようにしていることを知らずに、御飯をくれるというのでそれをもらおうと先を争いました。先生はすぐにそれが分かりました。「あなたたちは最後の道を行くのだなあ! しかし、私は死なない」、そのように思いました。「あなたたちはみな死んでも、私は死なない。いかなる惨事の悲運が経ていく場でも、銃剣を受けて倒れる場でも、私は決し
て死なずに生き残る!」、私はそれが分かりました。
1950 年 10 月 12 日、刑期が7年以上の囚人、およそ 70 人を、30 里(注 32)ほどの山の中に引いて入っていき、すべて殺害してしまいました。その当時、先生の刑期は5年だったので、その次の、次の日が、私が引っ張られていく番でした。ですから、神様はお忙しかったことでしょう。13 日、夜道を見渡すと既に事態が変わっていました。UN軍が興南に上陸したのです。そのようにして、ついに 10 月 14 日、共産軍が退いて、すぐ私たちは監獄から抜け出て、以南に下ってきました。
(22-129 ~130、1969.2.2)
11. 逆転と復帰
救援は、場合によっては巨大な逆転として現れる。神様が既存の社会的、政治的秩序を再編成しようとする意図を表明するとき、富者と権力者たちが、これ以上正直な人々と神様を畏敬する人たちの上に君臨することができないとき、私たちは巨大な逆転を目撃する。内的に神様に向かう道は世俗的な道と反
対だということを認識する。悟りは、人は自分の方向を 180 度転換しなければならないことを悟る。聖書はこのような内的逆転を、生命を得るために自分を葬ることであり、光明を得るために暗闇を求めることであり、聖なるもののために自らを低めることだという。これを通して救いはすなわち復帰だという概念が導かれる。復帰は、悪い習慣、誤った思考および行動様式、そして腐敗し正道から外れた社会的関係を断絶することである。それは、本来の位置に戻ることであり、神様の目的と真の原理に従って本来の生活方式を回復することである。本来の状態として、逆転という主題に関する重要な表現の中の一つが、仏教の縁起論の教理だ。この教理は、単純に因果関係の法則ではなく、滅亡に誘導されるすべての原因の方向を変えなければならないという洞察だというのがより適切である。文鮮明先生は、蕩減を通した復帰の教えのもと、この主題に対して具体的に説明される。蕩減は広い意味で反対の道を選ぶことによって過ちを復帰しようとすることを意味する。それは、「自己中心から他人中心に」性格を転換することから始まる。また、それは犯罪によって崩れた信頼を回復するために損害賠償をする行為、もともと自分の過ちではなかったとしても、兄弟の友愛を回復するために自分が責任を取る行為など、多様な関係に拡大されるものである。蕩減は人間の堕落による原罪の逆転、すなわち完全な復帰とともに履行される。
①大逆転
― 宗教経典 ―
自分を低める者は神が高めてくださり、自分を高める者は神が彼を低められる。社会的名声を追求する者に社会的名声は飛び去り、社会的名声に超然とした者には社会的名声が彼を訪ねまわる。環境に執着する者には環境が彼につきまとい縛りつけるが、環境が抜け出ていける道を開いてあげる者には、環境がその位置を守るようになる。
タルムード、エルヴィーン13b(ユダヤ教)137
このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。
マタイによる福音書 20.16(キリスト教)138
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
マタイによる福音書 23.12(キリスト教)139
自然の道は弓を引いた曲線に似ている。上端のものは押し下げられ、下端のものは引き上げられる。
余りすぎは減らされ、足りないものは補われる。自然の道は余っているものを減らし、足りないものを補うのである。一方、人の道は足りないほうを減らし、余っているほうへ補うのである。いったい余りすぎるものをもっていて天下の人々のために補うことのできる者は誰か。「道」を有した者だけがそれをできる。
道徳経 77(道教)140
勇士の弓は折られるが / よろめく者は力を帯びる。
食べ飽きている者はパンのために雇われ / 飢えている者は再び飢えることがない。
子のない女は七人の子を産み / 多くの子をもつ女は衰える。
主は命を絶ち、また命を与え / 陰府に下し、また引き上げてくださる。
主は貧しくし、また富ませ / 低くし、また高めてくださる。
弱い者を塵の中から立ち上がらせ /貧しい者を芥の中から高く上げ /
高貴な者と共に座に着かせ / 栄光の座を嗣業としてお与えになる。
大地のもろもろの柱は主のもの / 主は世界をそれらの上に据えられた。
主の慈しみに生きる者の足を主は守り / 主に逆らう者を闇の沈黙に
落とされる。人は力によって勝つのではない。(注 33)
サムエル記上 2.4 ~ 9(キリスト教)141
― み言選集 ―
摂理路程は救援路程であり、救援路程は復帰路程であり、復帰路程は創造路程です。一度工場さえ造っておけば、その次からは引き出せばよいのです。そうでなければ、ほかの方法はありません。最初の被造物がもっていた観念は、神様の観念しかありませんでした。ほかの観念はなかったのです。ゼロ観念でした。私たちも復帰路程、再創造路程において、ゼロ点に帰らなければなりません。神様の前に創造以前の状態に帰らなければならないのです。そうでなければ、すべてのものが不可能です。それで、聖書で死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬとあるのです。それは、サタンの生命をそのように切ってしまわなければならないということです。そのようにしなければ、本然の神様と連結され得る道がありません。
歴史において、悪の者が上にいました。本来は、善の者が上がっていき、悪の者は下りていかなければなりません。方向が変わらなければならないのです。悪の者が上がっていき、善の者が下がっていったのと反対に、善の者が上がっていき、悪の者が下りていく、その交差点がゼロポイントです。今がそのように交差する時だというのです。
(218-187 ~188、1991.7.28)
②反対方向に進んでいく復帰
― 宗教経典 ―
自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。
ルカによる福音書17.33(キリスト教)142
曲がっているものは完全に残る。
まっすぐであるために、身をかがめよ。いっぱいになるために、くぼみがあるべきだ。
使いつくすことが、若返ることになる。
欲しい人はもっと得られるだろうし、たくさんもっている人は奪われるだろう。
だから、賢人は「一」をしっかりつかみ、天下の模範となる。
道徳経 22(道教)143
そなたに法を説きましょう。
これ有れば かれ有り / これ生ずれば かれ生ず
これ無ければ かれ無し / これ滅すれば かれ滅す(注 34)
阿含経中部 ii.32(仏教)144
世尊はこれを宣へり。「比丘等よ、縁起とは何ぞや。比丘等よ、無明に縁りて行あり、行に縁り識あり、識に縁りて名色あり、名色に縁りて六処あり、六処に縁りて触あり、触に縁りて受あり、受に縁りて愛あり、愛に縁りて取あり、取に縁りて有あり、有に縁りて生あり、生に縁りて老・死・愁・悲・苦・憂・悩・生ず。是の如きが、これ全苦蘊の集なり。比丘等よ、これを生起といふなり。
無明の無餘・離貪・滅によりて、行の滅あり、行の滅によりて識の滅あり、識の滅によりて名色の滅あり、名色の滅によりて六処の滅あり、六処の滅によりて触の滅あり、触の滅によりて受の滅あり、受の滅によりて愛の滅あり、愛の滅によりて取の滅あり、取の滅によりて有の滅あり、有の滅によりて生の滅あり、生の滅によりて老・死・愁・悲・苦・憂・悩滅す。是の如きがこれ、全苦蘊の滅なり」(注 35)
阿含経相応部 xxii.90(仏教)145
万物の夜において、自己を制する聖者は目覚める。万物が目覚める時、それは見つつある聖者の夜である。
バガヴァッド・ギーター 2.69
(ヒンドゥー教)146
すぐれた才能をもっている人が「道」に耳をかたむけたとき、熱心にそれを行なう。普通の人が「道」に耳をかたむけたとき、それを信じるように見えるが、信じていない。最も劣った人が「道」に耳をかたむけたとき、大声で笑う。笑わなかったら、それは「道」ではないかもしれない。(注 36)
道徳経 41(道教)147
色・声・香・味・触と総ての法の、楽しく愛すべく又可意なる、有りといはるる限りのもの、これ等は人天世界には安楽なりと思はれ、これ等の滅する所、そは彼等には苦なりと思はる。
己身の滅盡は聖者には楽と見らるるが、一切世間の見る所はこれに反せり。
他(愚者)が楽と云へる、それをば聖者は苦と云ひ、他が苦と云へる、それを聖者は楽と知れり。触の法は知りがたく、無智者はこれに惑ふ。 〔煩悩に〕覆はれたるものには黒闇あり、見ざるものには盲冥〔あり〕。
阿含経相応部 iv.127 ~ 28(仏教)148
― み言選集 ―
神様のみ旨の道を行く人たちは、神様のために、世界のために犠牲になるのです。結論は、ここで蕩
減法が成立するということです。蕩減法は両面が結びつかなければなりません。蕩減はどのような方法かというと、否定方法です。反対の方法です。反対の道を行くのです。アダムが神様を否定してサタンにところに行ったので、私たちは、サタンを否定して神様に帰らなければなりません。
(73-94、1974.8.4)
どのようなものであっても、その本来の位置と状態を失ったとき、それらを本来の位置と状態にまで復帰しようとすれば、必ずそこに、その必要を埋めるに足る何らかの条件を立てなければならない。このような条件を立てることを「蕩減」というのである。例を挙げれば、失った名誉、地位、健康などを原状どおりに回復させるためには、必ずそこに、その必要を埋める努力とか財力などの条件を立てなければならない。また、互いに愛しあっていた二人の人間が、何かのはずみで憎みあうようになったとすれば、このような状態から再び、互いに愛しあっていた元の状態に復帰するためには、彼らは必ず、お互いに謝罪しあうなどのある条件を立てなければならないのである。
原理講論、後編緒論1.1
蛇は殻を脱がなければ大きくなれません。殻を脱ぐためには、岩の隙間を抜けていかなければなりません。反対の力が体に加わってこそ、殻を脱げるのです。暗闇の勢力が私たちの体の血と肉と一つになっていっぱいに覆いかぶさっているのですが、これをどのように脱ぐのでしょうか。それについていくことはできません。ですから、知恵が必要です。すべて反対の道に行かなければなりません。完全に脱ぐためには完全に反対の道に行かなければなりません。
(46-83、1971.7.25)
復帰は蕩減復帰です。罪を犯して刑務所に入っていった息子を、神様が手を出さずに鉄門が開いて出てくることができるようにして解放しなければならないというのが神様の見る観です。サタン以上に愛することができなければ解放できないのです。
(308-244、1999.1.9)
堕落は自分を中心とした自覚ですが、復帰は天宙理想圏の意識を中心とする自覚をするのです。その実体圏を私が代わりに背負い、あなたと私との共同責任を背負って解消しなければならない一体圏の場で解怨してこそ、解放が展開することを知らなければなりません。
(396-178、2002.11.7)
③本然の状態に復帰
― 宗教経典 ―
若し結を除かんと欲せば、結を心に當つべし
首楞厳経(仏教)149
一切衆生は自らの本心が一つに混融した本来の清浄な状態に戻ろうとする。
首楞厳経(仏教)150
孔子は、「己に克ち礼を復むを仁と為す」と答えた。人がただ一日だけでも、この克己復礼で仁を行うことができたら、その影響は広く行きわたって、天下の人々がみな仁徳に向かい、仁に心を寄せるようになるであろう。
論語12.1.1(儒教)151
この規範を知ることは深遠な「徳」である。
深遠な「徳」は奥深く遠くまでとどく。
それはものの後戻りであり、「道」との大いなる調和へと至るのである。
道徳経 65(道教)152
比丘等よ、譬へば人ありて、阿蘭若林を徘ひつつ、古人の辿りし古道、古径を発見せんに、彼その〔道〕に随ひ、その〔道〕に随ひ行きつつ、古人の止佳せし古城、古都、園林を具足し、麗はしき堤ある蓮池を具足する〔古城、古都〕を発見せん。
比丘等よ、その時かの人、王或は王の大臣に報ぜん。「尊きものよ、當に知るべし、われ阿蘭若林を徘ひつつ、古人の辿りし古道、古径を発見せり。その〔道〕に随ひ、その〔道〕に随ひ行きつつ、古人の止佳せし古城・古都、 〔そは〕園林を具足し、麗しき堤ある蓮池を具足する〔古城・古都〕を発見せり。尊きものよ、その城邑を築かしめよ」と。
比丘等よ、その時王或は王の大臣、その城邑を築かしめんに、その城邑、後に栄え、衆人熾盛にして、増上発展するが如し。比丘等よ、それと同じく、われ過去の正覚者の辿り給ひし古道・古径を発見せり。
阿含経相応部 ii.106(仏教)153
死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。(注 37)
コリントの信徒への手紙一15.21~ 22
(キリスト教)154
なぜ偶像を崇拝する者たちは淫蕩になるのか。その理由は、そのような者たちはシナイ山で神と出会わなかったからである。蛇がエバに近づいて彼女を誘惑し、性関係を結んだように、イスラエルの民が神とシナイ山で出会ったときは好色的気質が消えたが、シナイ山に立っていなかった偶像崇拝者たちには好色的な気質が離れなかったのである。(注 38)
タルムード、シャッバト145b~146a(ユダヤ教)155
メシヤが来られるとき、聖なるその方は、傷(アダムの罪)を治癒してくださるだろう。さらに、世の傷もまた治癒してくださるだろう。
創世記ラッバー10.4(ユダヤ教)156
― み言選集 ―
復帰の道は人間の側から行く道なので、復帰の道を行くためには蕩減しなければならないのですが、神様が蕩減するのではなく、人間が蕩減しなければならないのです。復帰の道は蕩減しなければ行くことができないという事実を知らなければなりません。それが何かというと、病気を治すためには、病気になった人が嫌う薬でも、歯を食いしばってでも、苦くても飲まなければなりません。薬は大概甘い薬はありません。苦いものが本当の薬です。ですから、復帰の道は蕩減しなければ行くことができないことをはっきりと知らなければなりません。
(92-254 ~ 255、1977.4.18)
これから新しい息子、娘をつくらなければならないのですが、どのようにつくりだすのでしょうか。皆さんが生まれるには、大勢の先祖を通して生まれましたが、逆さまにすべて上がっていかなければなりません。逆さまに上がっていき、私たち人類の堕落した先祖ではなく、真の先祖の門を通して神様にまで入っていかなければなりません。
キリスト教の思想は、神様の救援摂理の思想を代表したものです。その思想の骨子が何かというと復活です。再び生きることです。再び生きるためには、再び生まれなければなりません。重生しなければならないというのです。
(96-40、1978.1.1)
アダムとエバが水に溺れてしまった立場になったので、全人類が同じ立場に立つようになったのです。これを整理してあげなければなりません。根本の根まで下りていって問題を解決してあげなければならないのです。
(248-149、1993.8.1)
堕落は、人間が神様に背き、そのみ言に従わないことによって、神的な人格と愛を具現した個人と世界を成し遂げることができず、かえってサタンと組み、その言葉に屈服することによってサタン的人格と愛を成した悪の世界を形成したことです。
したがって、完成に復帰しようとすれば、反対にサタンを排斥し、失ってしまった神様を取り戻してそのみ言に従順にすることによって、天的な人格と愛をもたなければなりません。
(88-209、1976.9.18)
お父様! 歴史的なすべての事情が今日私たちの一身に絡みついていますので、それを切って解放の中心を備えてイエス・キリストの友の立場に立ち、お父様の前に敬拝することのできる喜びの一個体として立ててくださいますことを、お父様、懇切にお願い申し上げます。
(1-345、1956.12.30)
12. 重生
イエス様は、「生まれ変わらなければならない」と語った。キリストの中での重生は世俗的人間を神様の子女に変化させる。重生した人は、神様と親密さを経験し、キリストの霊が内在する。文鮮明先生の教えによれば、人が二度生まれなければならない理由は、人間の堕落のためである。すべての世代が堕
落の否定的結果を経験するのは、人間の血統の根が汚されたからである。人間の堕落によって、サタンは神様の権限を侵害し、人間の偽りの父の位置を確保することができた。人間の生命を悪魔が持続的に掌握するのを防ぐために、私たちは神様の子女として再び生まれなければならない。このような目的のために、神様は原罪がない男性として父を代表する救世主を、母を代表する聖霊を送った。救世主と聖霊の愛を通して私たちは再び生まれることができるようになった。
東洋の宗教は、よく霊的滅亡の道に入ることを二番目の霊的誕生と理解する。ヒンドゥー教と仏教では、宗教的教えを受けると、「二度生まれた」と言う。彼らは、生物学的父母を通して感覚世界に生まれたが、彼らの霊的重生後の人生は本性に根拠をおく。しかし、文鮮明先生は、原罪の血統から私たちを断ち切るための救世主の働きにのみ厳格に適用されるキリスト教の教理に基づいて重生を説明する。先生は、復活という概念のもと、宗教的真理の教えを通した広い意味の霊的転換を重生とみなしてもいる。
文鮮明先生は、重生を得るための条件として悔い改めと世俗的道の放棄に対しても言及する。先生は、重生過程を新しい枝を接ぎ木する前に古い枝を切り取らなければならない接ぎ木に例える。同じように、私たちは自分を否定し、すべての誤ったものを切り取らなければならない。そうすることによって、私たちは生命と神様の愛をもった新しい枝を接ぎ木するようになる。木が適切に接ぎ木されれば、新しい枝は新しい実を結び、人間は神様の血統を繁殖するだろう。したがって、重生が上から与えられる恩寵だとしても、その恵みを受ける人には責任と献身が要求される。
①神様の息子、娘として新たに生まれる
― 宗教経典 ―
さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。(注 39)肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生
まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
ヨハネによる福音書 3.1~ 7(キリスト教)157
しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
ヨハネによる福音書1.12 ~13
(キリスト教)158
師というものは、人々に自らの宗教的義務とこれに伴う知識を分けてあげる者を指して言うため、彼は当然、主のみ意に外れることがあってはならない。なぜなら、彼は人々に神聖な教えを与えることによって、彼らをして生まれ変わらせる者だからである。真理によって生まれ変わることが至善であり、父と母はただ体を与えただけである。
アーパスタンバ・ダルマ・スートラ1.1
(ヒンドゥー教)159
比丘たち、私は、求めに応ずる、いつも浄い手をした、もはや迷いの生存を繰り返さないバラモンである。最高の内科医、外科医である。君たちはこの私自身の子供である。私の口から生まれた、真理から生まれた、真理によって作られた子供である。精神的な真理の後継者であり、物質的な財の後継者ではない。(注 40)
如是語経101(仏教)160
― み言選集 ―
なぜ、どうして私たちに新生が必要なのでしょうか。それは堕落のためです。堕落がもたらした贈り物です。それでは、結局、堕落とは何でしょうか。堕落した父母から私が受け継いだ、そのような出生をしたことが堕落した立場に立つことになるのです。皆さん自身が、私は堕落した父母から生まれ、堕落した愛の中で生まれたというそのような確信、そのような感覚を自ら完全に感じなければなりません。
(95-82、1977.11.1)
堕落とは何でしょうか。愛の根を間違ってもったことです。それを知らなければなりません。皆さん、この西欧社会では堕落が私と何の関係があるのかと考えますが、それは違います。堕落によって愛の血筋が変わったのです。愛の出発点が変わったというのです。これをはっきりと知らなければ、救援摂理だとか何だとかいうものが解釈できないのです。神様が不完全になるのです。人間が堕落したために絶対的な神様が不完全な神様として立たなければならなくなりました。
(193-54、1989.8.20)
イエスは、自分を訪ねてきたユダヤ人の官吏ニコデモに、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできないと言われた(ヨハネ3・3)。重生とは二度生まれるという意味である。では、人間はなぜ新たに生まれなければならないのであろうか。我々はここで、堕落人間が重生しなければならない理由に
ついて調べてみることにしよう。
アダムとエバが創造理想を完成して、人類の真の父母となったならば、彼らから生まれた子女たちは原罪がない善の子女となり、地上天国をつくったであろう。しかし、彼らは堕落して人類の悪の父母となったので、悪の子女を生み殖やして、地上地獄をつくることになったのである。したがって、イエスが、ニコデモに言われたみ言どおり、堕落した人間は原罪がない子女として新たに生まれ直さなければ、神の国を見ることができないのである。
我々を生んでくださるのは、父母でなければならない。それでは、堕落した我々を原罪がない子女として生んで、神の国に入らせてくださる善の父母は、いったいどなたなのであろうか。原罪のある悪の父母が、原罪のない善の子女を生むことはできない。したがって、この善の父母が、堕落人間たちの中にいるはずはない。それゆえに、善の父母は、天から降臨されなければならないのであるが、そのために来られた方こそがイエスであった。彼は堕落した子女を、原罪のない善の子女として新しく生み直し、地上天国をつくるその目的のために真の父として来られた方であった。ゆえに、ペテロⅠ1章3節に、「イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、私たちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ」というみ言がある。イエスは、アダムによって成し遂げられなかった真の父としての使命を全うするために来られたので、聖書では、彼を後のアダムといい(コリントⅠ15・45)、永遠の父といったのである(イザヤ9・6)。また、神は、預言者エリヤを再び送り、彼の力で堕落した人間の心を、父母として降臨されるイエスの方へ向けさせることによって、彼らをその子女となさしめると言われた(マラキ4・6)。そして、イエスが再臨されるときも、父の栄光のうちに来られる(マタイ16・27)と言われたのである。
ところで、父は一人でどうして子女を生むことができるだろうか。堕落した子女を、善の子女として、新たに生み直してくださるためには、真の父と共に、真の母がいなければならない。罪悪の子女たちを新たに生んでくださるために、真の母として来られた方が、まさしく聖霊である。ゆえに、イエスはニコデモに、聖霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることができない(ヨハネ3・5)と言われたのである。
このように、聖霊は真の母として、また後のエバとして来られた方であるので、聖霊を女性神であると啓示を受ける人が多い。すなわち聖霊は女性神であられるので、聖霊を受けなくては、イエスの前に新婦として立つことができない。また、聖霊は慰労と感動の働きをなさるのであり(コリントⅠ12・3)、エバが犯した罪を蕩減復帰されるので、罪の悔い改めの業をしなければならないのである。さらに、イエスは男性であられるので、天(陽)において、また、聖霊は女性であられるので、地(陰)において、業(役事)をなさるのである。
原理講論、キリスト論 4.1.1
②昔の姿を断絶しなければならない重生
― 宗教経典 ―
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
ローマの信徒への手紙 8.14 ~17(キリスト教)161
生まれながらの人は神の敵であり、アダムの堕落以来そうであって、今後もそうである。また人は、聖なる御霊の勧めに従い、主なるキリストの贖罪により、生まれながらの人を捨てて聖徒となり、子供のように従順で、柔和で、謙遜で、忍耐強く、愛にあふれた者となり、子供が父に従うように、主がその人に負わせるのがふさわしいとされるすべてのことに喜んで従わないかぎり、とこしえにいつまでも神の敵となるであろう。
モルモン経、モーサヤ書 3.19
(末日聖徒イエス・キリスト教会)162
この同一の人々は、このあらゆる短所の幕に囲まれているにもかかわらず、そしてそのような慣習に束縛されているにもかかわらず、あらゆる栄光の顕示者の手に持たれた確信の杯にくまれた不滅の信仰を一口飲むやいなや変形し、彼らの同族のために、彼らの本体、彼らの生命、彼らの信仰、そしてその
上に神を除くあらゆるものを放棄するだろう!
神のための彼らの譲歩はあまりに圧倒的で、無我の境地の歓喜への陶酔はあまりに高揚して、世と世にあるすべてのものが彼らの目に無価値なものに変わってしまった。この人々が再生の神秘を例証するのではないか……。
確信の書155(バハイ教)163
― み言選集 ―
自分を否定しなければ、再び生まれ変わることはできないことを知らなければなりません。
(244-100、1993.1.31)
キリスト教の思想は、聖霊を迎えなければ救われないというものです。これがキリスト教の主流思想です。聖霊が訪ねてきて、あるいは救世主と関係を結んで神様に帰るにおいて、何をするために聖霊が必要なのですか。なぜ聖霊が来なければならないのですか。結局、天に連れていこうというのです。善の神様のところに連れていこうというのです。そのようにしようとすれば、どのようにしなければなりませんか。悔い改めなければなりません。第一の課題が悔い改めです。
(99-75 ~ 76、1978.9.1)
復活は人間が堕落によってもたらされた死、すなわちサタンの主管圏内に落ちた立場から、復帰摂理によって神の直接主管圏内に復帰されていく、その過程的な現象を意味するのである。したがって、罪を悔い改めて、昨日の自分よりきょうの自分が少しでも善に変わるとすれば、我々はそれだけ復活したことになる。(注 41)
原理講論、復活論1.3
私たちは悪から生まれた体であるため、善として再び生まれなければなりません。
二度生まれるべき運命、これは悲惨なことです。
この世でも、継子として生活することは、この上なく悔しいことではないでしょうか。
私たちは養子の程度ではなく、怨讐の子として生まれたがゆえに、本然の父母を探し出さなければなりませんが、その道は決して平坦ではありません。
それゆえ私たちは、サタンの矢とサタンの槍と剣の攻撃を無数に受けています。
しかし私たちは、このように体を縛りつけているひもを切って行かなければなりません。
口で切るとしても、力で切るとしても、縛りつけている者たちとぶつからなければなりません。
(27-162、1969.12.7)
③イエスと聖霊を通じた重生
― 宗教経典 ―
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
使徒言行録 2.1~ 4、38 ~ 39(キリスト教)164
わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリスト
の恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。
テトスへの手紙 3.3 ~ 7(キリスト教)165
“霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。
ヨハネの黙示録 22.17(キリスト教)166
イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
ヨハネによる福音書 6.53 ~ 58(キリスト教)167
― み言選集 ―
まず霊的に神様と共に地上の垂直の愛であるエバを中心とする関係を結び、本来の神様、完成した男性と一体となってエバと関係を結んだという愛の心情圏の樹立によって、初めて霊的な基準にいながら愛の関係を結ぶようになったという条件になったのです。その条件的愛によって私たちは、霊的復活の条件になるのです。それが復活完成ではありませんて生まれているのです。それがキリスト教の重生、再び生まれたという言葉の意味です。
(379-190、2002.5.29)
新郎であるイエス様の愛と新婦である聖霊の愛が一体となった愛が、私の骨と肉と一つにならなければなりません。すなわち、「あなたがたは私におり、また、私があなたがたにおることが、わかるであろう」というイエス様のみ言のように、愛の心情基盤ができるまでは、キリスト教で言う重生はあり得
ないのです。
皆さんも重生されなければならないといいますが、重生されるには、イエス様を誰よりも愛さなければなりません。堕落圏内で、すなわちサタンの愛の圏内でなされるそのいかなる愛より
も、神様を中心としてなされる愛が、より次元が高くない限り、神様と連結できる道がないことを知らなければなりません。
(114-28、1981.5.14)
キリスト教は、イエス様の十字架の血から始まっています。その由来を知らずに今騒いでいるのです。それでは、イエス様の血とは何ですか。堕落していない完成した父の血だというのです。イエス様が父なのですが、父一人で血統を相続してあげることができますか。できないので母を取り戻してくるので
すが、これが最上の新婦を迎える小羊の婚姻の日なのです。
(193-57、1989.8.20)
今日までのキリスト教においては、聖霊が母親の役目をしてきました。母の聖霊を通過し、父の霊、すなわちイエス様の霊を通過して、私たちは霊的基準において重生するのです。
もちろん、私たちは母の胎内で生まれたのですが、さらにもう一歩深くさもちろん、私たちは母の胎内で生まかのぼって考えてみると、生命の起源は父親から出発するのです。母親の胎内までさかのぼることによって、血統は交差し復帰されましたが、この場合、まだ父親を迎えていないのです。ですから、今日までクリスチャンは、母の霊による聖霊の力により、根源そのもの、すなわち生命の起源である父なる来たるべきキリストのもとへ帰ることを待ち望んできたのです。堕落する前に、既に息子や娘の生命は、すべて父親なるアダムの体中で一つの種として出発していたはずです。すなわち、息子や娘になる種は父親の体中にあるのです。
(55-117 ~118、1972.4.1)
13. 復活
聖書に死んだ者の復活が予言されており、コーランにも神様と共にする祝福された未来の人生に対する約束がある。復活は、単純にこの世で死んだ者が死後の世界へ霊魂が自然に転換される問題ではない。それは、死から永遠の生の領域に霊魂を昇華する神様の救援行為である。復活を通して私たちは、単純に新しい生の機会を得るのではなく、新しい生の質的変化を遂行するのである。文鮮明先生は、復活を通して死の領域である地獄に捕らわれた存在から神様の懐の中の祝福された存在として霊的に引き上げられると教える。
私たちが神様の下さる新しい生、すなわち復活を主張するためには、自己の否定、確固たる信仰、さらには殉教などの条件が必要だ。これは私たちが神様とより完全に関係を結ぶために、サタンとの関係を断ち切って自分を「葬り去ること」である。イエス様が自身の復活の前提条件として十字架で祭物となったように、私たちもやはり試練に直面する。イエス様が外見上、ローマ人の手で犠牲となって敗北したように見えても勝利したのは、神様が敗北をひっくり返し、死までも勝利と生命に変えられることを見せてくれたのである。
聖書は、すべての正義の霊魂たちが天に引き上げられていく末世の復活に対して記録している。聖書は、14 万 4000 の聖なる群れが「最初の復活」に参与すると語る。これは死後の世界でも、霊魂たちが未来の解放の日が来るときまで、暗闇の中で耐え、悪条件に抑圧されていることを意味する。救世主が出現してサタンを退け、地獄に閉じ込めるその日、天上と地上のすべての霊魂たちが復活の自由と新しい生を味わうようになるだろう。しかし、文鮮明先生がはっきりと明らかにしたように、最初の復活は、ほかの人の努力の代価によって特定の信仰者に永遠に恩寵として付与されるものではなく、かえって最初の復活に参与する聖なる人たちは、パウロが「最後に退ける怨讐は死亡」と語ったように、一人の霊魂も死の領域にとどまらないよう、悪のすべての権勢を退ける闘争に同参しなければならない。
①死亡から生命に
― 宗教経典 ―
召集者が近い所から呼ぶ日に(備えて)、耳をそばだてよ。その日、かれらは真実に一声を聞こう、それは出て来る日である。まことにわれは、生を授けまた死を賜う、われによろずのものの帰着所がある。その日、大地は、かれらの所から裂けて急いで出て行く。それは召集で、われにとっては容易な
ことである。
クルアーン 50.41~ 44(イスラーム)168
主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。
そのとき、主はわたしに言われた。 「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」そこで、主はわたしに言われた。
「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」
わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。主はわたしに言われた。
「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」
わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。主はわたしに言われた。
「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。 『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々はは滅びる』と。それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。(注 42)
エゼキエル書 37.1~14(キリスト教)169
かれらは、「何んと、わしらが朽ちはてた骨になってしまっても、ほんとうに、初めの状態に返るであろうとか」と、言おう。かれらは、「その場合失敗の帰還だ」と言う。それは、ただ一声の叫びで、見よ、かれらは目ざまされる。
クルアーン 79.10 ~14(イスラーム)170
アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
コリントの信徒への手紙一15.22(キリスト教)171
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
ヨハネによる福音書11.25 ~ 26
(キリスト教)172
わたしは知っている / わたしを贖あがなう方は生きておられ / ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも / この身をもって / わたしは神を仰ぎ見るであろう。
ヨブ記19.25 ~ 26(キリスト教)173
はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
ヨハネによる福音書12.24 ~ 25(キリスト教)174
かれのしるしの一つを、なんじは、荒れはてた大地に見る、われがその上に雨を降らせると、動きだし盛りあがる。まことにそれに生命を与えたもう方は、まさに死者をよみがえらせたもう方である。かれは、よろずのことに全能であられる。
クルアーン 41.39(イスラーム)175
死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。
コリントの信徒への手紙一15.42 ~ 45
(キリスト教)176
― み言選集 ―
我々はこれまで、人間の寿命が切れて、その肉身の土に帰ることが、堕落からきた死であるとばかり考えていた。したがって、このような死から再び生きることが、聖書の意味する復活であると解釈してきたので、既に他界した信徒たちの復活は、すなわち土に分解されてしまったその肉身が、再び原状どおりによみがえることによって成就されるものと信じていた。しかし、創造原理によれば、このような死
は、人間始祖の堕落によって招来されたものではなく、本来、人間は老衰すれば、その肉身は自然に土に帰るように創造されているので、いったん土に分解されてしまった肉身が、再び原状どおり復活することは不可能であるばかりでなく、霊界に行って永遠に生きるようになった霊人体が、再び肉身をとる必要もないのである。ゆえに、復活は人間が堕落によってもたらされた死、すなわちサタンの主管圏内に落ちた立場から、復帰摂理によって神の直接主管圏内に復帰されていく、その過程的な現象を意味するのである。したがって、罪を悔い改めて、昨日の自分よりきょうの自分が少しでも善に変わるとすれば、我々はそれだけ復活したことになる。
聖書で、復活に関する例を挙げてみれば、ヨハネ福音書5章 24 節に「私の言葉を聞いて、私をつかわされた方を信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」と記録されている。これは、イエスを信じることによって、サタンの懐から離れ、神の愛の懐に移ることが、すなわち復活であるということを意味するみ言である。
善悪の果を取って食べる日には、きっと死ぬであろう(創2・17)と言われた神のみ言どおりに、善悪の果を取って食べて堕落したアダムとエバが、死んだのは事実であった。しかし、彼らには、外形的には何らの異変も起こらなかったのである。変わったことがあるとすれば、不安と恐怖によって、瞬間的に彼らの顔色が変わる程度であっただろう。ゆえに、堕落した人間が善悪の果を取って食べた以前の人間に復活するとしても、その外形上には何らの変化も起こらない。聖霊により重生した人間は、重生する以前と比べて、確かに復活した人間には違いない。しかし今、彼と強盗とを比較すれば、一人は天の人間として、ある程度まで復活した立場におり、また一人は、地獄に行くべき人間として、死んだ立場にいるが、彼らの外形には何らの差異も認められないのである。既に例証したように、イエスのみ言に従って、神を信じる者は、死から命へと移されて、復活させられたのは事実である。しかし、彼がイエスを信じる前の死の状態にいるときも、イエスを信じて命に移されることによって復活したのちにも、彼の肉身上には、何らの変化も起こらないのである。
イエスは創造目的を完成した人間として来られたことは事実である(キリスト論参照)が、外形から見たイエスは堕落人間と比べて何の差異もなかった。もし、彼に変わったところがあるとすれば、当時の側近者たちが、彼を信じ従わないはずがなかったのである。人間は復活により、サタンの主管圏から抜けだして、神と心情一体となれば、神性をもつようになる。このように、堕落人間が復活によって、神の主管を受けるようになれば、必然的に、その心霊に変化を起こすようになるのである。このような心霊の変化によって、人間の肉身もサタンの住まいから神の宮へと、事実上聖化されていくのである。このような意味において、肉身も復活されると見ることができる。これはちょうど悪いことをするために使用されてきた建物が、神の聖殿として使用されるようになれば、その建物の外形には何らの変化もないが、それは、既に聖なる建物に変化しているというのと同じ理論である。
原理講論、復活論1.3 ~ 4
人が死んだならどうなるのでしょうか。死ぬ直前までは私のものですが、死んだのちは神様のものになります。それは私たちが堕落した血統を受けたからです。ですから死ぬまでは、私たちの生命すべてはサタン側の因縁を抜けきれないのです。しかし、死んだのちは神様と因縁が結ばれるのです。死なずしては復活できません。一つの時代を過ごさずしては、次の時代を迎えることができないのです。
「生きんとする者は死に、死なんとするものは生きん」という聖書で言う「死」とは、何を意味するのでしょうか。神様が下さった永遠で真の生命を葬り去れということではありません。
サタン世界の堕落した血統を受け継いだ生命を葬りなさいということです。それで、み旨のために死のうとする人は生きるということです。この言葉は逆説のようですが、堕落と復帰の内容を中心として見るとき、そのようにしなければ、復帰ができないのです。これは復帰の正常な論法です。
(297-265、1998.12.19)
聖書は、結論として、生きんとする者は死に、死なんとする者は生きんと言いました。堕落した世界で、堕落圏を抜け出すためには、自分の生命を捨てなければなりません。堕落圏には生命がありません。ですから、これを否定すれば復活が起きます。イエス様も自分の生命を否定したので復活するこ
とができました。復活は、イエス様がしたのではありません。神様がしてくださったのです。
(307-167、1998.11.8)
②聖人の復活:最初の復活
― 宗教経典 ―
すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられま
す。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。
テサロニケの信徒への手紙一 4.16 ~17
(キリスト教)177
つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリ
ストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。
コリントの信徒への手紙一15.22 ~ 25
(キリスト教)178
また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。わたしは、大水のとどろくような音、また激しい雷のような音が天から響くのを聞いた。わたしが聞いたその音は、琴を弾く者たちが竪琴を弾いているようであった。彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌のたぐいをうたった。この歌は、地上から贖われた十四万四千人の者たちのほかは、覚えることができなかった。彼らは、女に触れて身を汚したことのない者である。彼らは童貞だからである。この者たちは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行く。この者たちは、神と小羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われた者たちで、その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである。
ヨハネの黙示録14.1~ 5(キリスト教)179
わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、
諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神と
キリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。
ヨハネの黙示録 20.1~ 6(キリスト教)180
― み言選集 ―
もし神様が人間を見物するために造られたのなら、そのような神様は必要ありません。全神経を人間に注ぎ、6000 年の長い、長い試練の歳月を経てこられながら、人間に対して摂理してこられた目的は何でしょうか。直接的な天の家族、すなわち食口の因縁、父子の因縁を結ぶためです。ですから、無数の苦労の峠を越えて、また越え、きょうもこの道を走っていることを、私たちは知らなければなりません。私たちが願う家庭ではなく、神様が願う家庭の食口として登場し、その食口の威信と価値をお父様の前に表すその日が、キリスト教で言う復活の日であり、再臨の日なのです。
(7-265、1959.9.27)
「最初の復活」というのは、神の復帰摂理の歴史が始まって以来、再臨摂理によって、初めて人間が原罪を脱いで、創造本然の自我を復帰し、創造目的を完成させる復活をいうのである。したがって、すべてのキリスト教信徒たちの唯一の望みは、最初の復活に参与することにある。では、どんな人たちがここに参与できるのだろうか。再臨主が降臨されたとき、最初に信じ侍って、復帰摂理路程の全体的な、また世界的な蕩減条件を立てる聖業に協助して、すべての人間に先立って原罪を脱ぎ、生霊体級の霊人体を完成し、創造目的を完成した人たちがここに参与できるようになるのである。
また、聖書に表示された 14 万 4000人とは何を意味するのであろうか。その事実について調べてみることにしよう。
イエスが再臨されて、復帰摂理を完遂なさるためには、復帰摂理路程において、天のみ旨を信奉してきながらも、自分の責任分担を果たせなかったために、サタンの侵入を受けたすべての聖賢たちの立場を蕩減復帰できる代理者たちを、再臨主がその一代において横的に探し立て、サタン世界に対する勝利の基台を立てなければならない。このような目的で、再臨主が降臨されて立てられる信徒の全体数が、正に黙示録 14 章1節から4節までと、黙示録7章4節に記録されている 14 万 4000 の群れなのである。
原理講論、復活論 2.2.7
14. 永生
多くの人々に宗教の目標は、不滅、あるいは永生だと周知されてきた。人間は、常に死の限界で葛藤してきたのであり、宗教では、人間存在の可能性を制約する死を超越しようとする手段を求めてきた。復活と共に永生は、単純に死から霊魂が生き返り、死後の世界を旅行することばかりを意味するのではない。永生は、それ自体で永遠に存在するというのではなく、かえってその存在の質的変化を意味するのである。
多くの宗教の諸経典は、「生」と「死」に二つの意味を付与している。この世俗的な存在のような肉体的生があり、生命が持続して死を超越する祝福状態である霊的な生がある。すべての人間の人生で、体が消滅する肉体的死があり、神様と離れた状態、そしてあの世で地獄に捕らわれた存在を意味する霊的死がある。
「永生」と「不滅」は、祝福された条件を描写したものである。この条件は、真理を実践し、神様の恩寵の中では人の現世的人生に既に現れ、死後にも消滅しないまま継続する。自分の所有と世俗的享楽にあらゆる希望をかける世の中の人たちには死が終わりかもしれないが、永生を得た人は、人生の目標を実現したため、死は既に恐怖の対象ではない。しかし、仏教は生に対する欲望が一
種の執着であり、解放の足かせと見るため、仏教の経典は、永生という祝福の状態に対し、一般的に言及しない。その代わり、仏教は涅槃を語る。
文鮮明先生は、永生とは人間に対する神様の愛と神様に対する人間の愛を土台として、私たち人間が永遠であられる神様と一体の関係性をもつことを根拠としていると教える。先生は、「永遠性は真の愛を離れては存在できない」と語る。先生はこの概念を拡張し、永遠の愛を願う恋人たちの関係を例に説明する。人間が永生し、神様を永遠に愛し、神様の加護により愛する人たちと永遠の共同体を成して暮らすよう創造されたため、霊人たちも永遠の愛を願うのであると教える。
①神様の中で永生
― 宗教経典 ―
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書 3.16(キリスト教)181
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
ヨハネによる福音書11.25~26(キリスト教)182
だが信仰して善い行いにいそしむ者たち、これらの者は、衆生のうち最善の者である。かれらの報奨は、主のみもとの川が下を流れるエデンの園で、かれらはその中にとこしえに住むであろう。神はかれらを喜びたまい、かれらはかれに満悦し奉る。それは主を恐れる者への報奨である。
クルアーン 98.7 ~ 8
(イスラーム)183
最高の存在は死ぬことがない。ゆえに私も死なないだろう。
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)184
「道」に達すれば永久に続く。
道徳経16(道教)185
自己以外の何物をも見ず、何物をも聞かず、何物をも識別せざる状態が即ち豊満である。そして、自己の外に他物を見、他物を聞き、他物を識別する状態は即ち貧欠である。豊満なるものは即ち不死(永生)である。従って貧欠なるものは即ち応死である。この事について次の如き頌がある。真の観照者
は死を見ず、病を見ず、また苦を見ず、しかも一切を徹見し、一切処において一切を得る。
チャーンドーギヤ・ウパニシャッド 7.24.1 および 7.26.2
(ヒンドゥー教)186
欲望をいだかず、欲望なく、アートマンを欲望として、欲望が達成した人からは気息は出ていかない。 〔それらは(気息は)〕その同じところに合一するのである。〔かれは〕ほかならぬブラフマンでありながら、ブラフマンと合一するのである。……したがって、ここに〔つぎのような〕詩節がある。『かれの心臓に依存している欲望がすべて離脱すると、死すべきもの(人間)は不死となり、〔かれは〕この世でブラフマンに達する』
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド 4.4.6 ~ 7
(ヒンドゥー教)187
罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
ローマの信徒への手紙 6.23
(キリスト教)188
無より有にわれを導きたまえ。闇より光にわれを導きたまえ。死より不死にわれを導きたまえ。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド1.3.28
(ヒンドゥー教)189
その上に高大、至高なる梵ありて、しかも有情の身量に応じて、一切有情の衷に潜めり。万物の被覆者たるこの唯一の主神を知る時人は不死となる。我は知る、この偉大にして、日神の形色をなし、黒闇の彼方にある神我を認得す。この神我を認得する時、人は死を超ゆ。これより他に、至上界へ赴くための道はなし。彼より高き何物もなく、また低き何物もなし。彼より小さき何物もなく、また大なる何物もなし。彼は唯一者として大樹の如く奉然として天界に立てり。かかる神我によりて万物は満たされたり。これ(宇宙)より遙かに高きものは即ち形色なく、病なし。この物を認得せる者は不死となる。されど、その他の輩は遂に苦患章に堕す。
シヴェータシヴァタラ・ウパニシャッド 3.7 ~10
(ヒンドゥー教)190
最高の我は、生老病死に引っかかることがなく、至高、清浄で八つの業に染まっていない。それは無限の知恵と洞察と至福と権能をもち、破壊されることがなく、また尽きることがない。それは人の感官が及ぶところではなく、一切のこだわりや長短点、または再生から自由であり、永遠不変であり、比べるもののない自存者である。(注 43)
クンダクンダ ニヤマサラ176.77(ジャイナ教)191
「生きているものは、少なくとも知っている / 自分はやがて死ぬ、ということを」(コヘレトの言葉 9.5)。彼らは、死んでも生きている存在と呼ばれる、正に義人たちである。……「しかし、死者はもう何ひとつ知らない」(コヘレトの言葉9.5)。彼らは生きているが、死んだ者と同じだ。非難される者は悪なる者たちである。
タルムード、ムナホート18ab(ユダヤ教)192
イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。(注 44)」
ルカによる福音書 9.60(キリスト教)193
― み言選集 ―
既に、肉身の寿命が切れた人間であっても、その霊人体が、霊界において、神の愛の主管圏内にいるならば、彼はあくまでも、生きている人である。イエスが、「私を信じる者は、たとい死んでも生きる」 (ヨハネ11・25)と言われたのは、イエスを信じて、神の主管圏内で生きる者は、寿命が切れて、その肉身が土の中に葬られたとしても、その霊人体は依然として神の主管圏内にいるので、彼は生きている者であるという意味である。
イエスは、また続けて、「また、生きていて、私を信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」と言われた。このみ言は、イエスを信じる者は、地上で永遠に死なずに生きるという意味ではなく、肉身のある間にイエスを信じる者は、現在生きているのはいうまでもなく、後日死んで肉身を脱ぎ地上を離れるとしても、彼の霊人体は、永遠に神の愛の懐で、依然として生きつづけるはずであるから、したがって、永遠に死なないという意味で言われたのである。ゆえに、上記の聖句にあるイエスのみ言は、人間の肉身の寿命が切れることを意味する死は、我々の永遠なる命には何らの影響をも及ぼさない、という意味で言われたみ言である。
原理講論、復活論1.1
永遠の生涯は、生きている永遠の生、このような永生をどのように迎えますか。「私」という存在は、神様の愛の対象として造られました。絶対的神様の、主体的神様の対象の位置が正に私だというのです。神様の愛の相対です。神様が自分よりもっと貴く思うものが真の愛の概念です。神様は絶対的であり、永遠の生命の中心であり、神様の理想はより永遠なものであり、その理想の中心が正に真の愛の理想です。その愛の相対が私です。
皆さん、愛の属性がどのようなものか分かりますか。それは主体と対象が一つになることです。それは国家を一つにします。ですから、どこの場所でも同参することができ、どこに行っても、ついていけます。全財産をすべて相続できます。神様の永生の位置、その心情までもすべて相続するのです。神様の愛の心、神様の被造万物と共にあるその心、神様がすべての人の心にとどまりたいと思う心まですべて相続するのです。ですから、どれほど貴いですか。私がその悲惨な過程を経て発見することによって、その基盤の上に立つようになります。どれほど喜ばしいことですか。何物とも取り替えることができない崇厳で高貴な位置です。神様と同じ位置に立つのです。永遠の真の愛の位置に同参するというのです。
(216-115、1991.3.9)
人間は真の愛から生まれ育ち、生きて、死んでいきます。しかし、なくなってしまうのではありません。主体であられる神様が永遠、不変、唯一であるので、その対象的な真の愛の立場に立つ時には、永生するのです。永生という理論が、ここから出発します。生命から始まるのではありません。
神様にとって、最も愛する大切なものがあるとしたら、それを1日、10 年、100 年間用いたのちに、投げ捨てるようにと造ったのではありません。永遠に、共にあるように造られたのです。人間も同様です。人間が生まれて死ねば、終わりではなく、永生します。なぜでしょうか。人間は、絶対者であられる神様が、真の愛を中心として喜ぶ対象であるからです。神様は、息子、娘が二人しかいません。ところが、追い出してしまったのです。どれほど悲しいでしょうか。
皆さんは、漠然とではありますが、永生を願っています。大切なものは避難する時、それをもっていきます。そして、それを誇りにします。それを1日、2日誇って、やめるのではありません。自分が死ねば、それを後代に永遠に残すことを願います。人間の欲望はそうです。
それは神様も同じです。神様が永生される絶対者であれば、その方が愛することのできる対象も永遠でなければなりません。ですから、人々は昔も今も永生を願います。それで、絶対者であられる神様は、永生する価値をもつ、真に愛する息子、娘を求めざるを得ないのです。
(290-143 ~144、1998.2.18)
永生というものは、本質的な愛の属性です。神様も宇宙を創造されるとき、自ら絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を立ててなされたのです。永遠無窮であるように、世の中は過ぎていったとしても、私の愛をもっと大きくなるようにと投入し得る心をもって生きていらっしゃる方が神様なので、神様の前に主管を受けたくないと思う存在や、相対的な理念をもった存在で神様を絶対、永遠、不変の主人として侍らずにいることのできる存在はない、ということを知らなければなりません。
(330-262、2000.8.18)
サタンが八方に逃げていかざるを得ない秘法は、ために生き、ために死に、ために愛することです。そうすればサタンは逃げていくのです。国境線を捨てて逃げていくのです。逃げていくとしても、そのまま行くことはできません。国境線を崩してから行くようになっているのです。サタンが離れていくことによって、死亡の地獄に直行していた生命が天の国に上昇することができるという永生の道理が訪ねてくるというのです。そこにおいて初めて永生が展開するのです。
神様を知り、天の国を知り、天の国の伝統的思想である「ために生きる」という思想を千年、万年続けたいと切に思う群れになることによって、そこにおいて主体であられる神様をお父様と呼ぶことができるのです。ですから、そこにおいて永遠の血筋を通して、血統を通して永生の論理と永生の伝統が私とともに決着するのです。
(330-262、2000.8.18)
②愛:永生の土台
― 宗教経典 ―
わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
ヨハネの手紙一 3.14 ~16(キリスト教)194
― み言選集 ―
愛は永遠であることを願うでしょう? それは絶対的愛と一つにならなければなりません。その絶対的愛と一つになろうとすれば、神様と一つにならなければなりません。根本の神様の根から絶対的愛が始まるので、その絶対的な愛には永遠性があるのです。神様が主体であり、人間が相対であれば、神様が永遠に生きるのですから、愛の相対、一体となった人間も永遠に生きなければならないというのは理論的であり、論理的な結論です。真の愛においてのみ、絶対的な愛においてのみ、永生が存続するということを否定できません。
(251-120、1993.10.17)
自分が愛する人と一つになっていれば、世の中が滅びようとどうなろうと心配しません。父母が刃物を持って一つになれないようにしようとしても、その刃物を恐れません。死んでもいくというこのような概念があるのです。現在の生涯を中心として、その生涯だけではありません。永生がそのようにすべてあるのです。それは自然に願うようになっています。現世の生活よりも永生を願うのです。
これが二重構造になっています。その本体が神様なので、神様が本体の基準を中心として、神様がプラスであれば、マイナスになるのです。マイナスの上にマイナスが来るのではなく、プラスがくっつかなければなりません。それで、大きな天とそこに相対的なものが一つになって回れば一つになります。ここでまたプラスばかりがくっつけば、ここによって大きくなるのです。子女が大きく、すべて大きくなります。
それで、一つの人間生活の完成標準を中心として、それが一つの種のようになって循環運動をして、春夏秋冬の四季を通して実を結ぶのです。種が再び種に帰ります。水蒸気となって調和をなしますが、あとから水蒸気に戻り、淡水に戻るのと同じ道理です。それが回るためには二重的構造が必要なのです。
(380-88 ~ 89、2002.6.5)
お父様は私たち自身を立証することができ、
私たち自身は、お父様の息子であり、
娘であるということを、
如実に証すことのできる
信念をもたなければなりません。
信念だけでなく、
体恤的な立場でお父様と「私」は
前後関係、
左右関係にあることを立証し、
そのような立場で永遠に共にあり、
永遠に共に生きており、
永遠に共に生きるだろうという、
変わりなくそうだと言うことのできる
論証の起源を、自ら立て得る自分を
発見できるよう許諾してください。
(40-350、1971.2.11)
15. 宇宙的救援
神様の愛と恩寵は限界がない。天の父の心情は、彼の子女をすべて救援することを願うだけである。このような経典の章句は、神様の救援役事の広大さを称賛し、結局、すべての人間を抱きかかえると予言する。仏教で絶対真理の根本目的は、すべての感覚的存在を解放させるのであり、特に大乗仏教の経典は、すべての存在を救援するための阿弥陀仏の菩薩の誓願で慈悲の普遍性に言及している。
一つの中心点を通して全人類の救援が実現されるかもしれない。それで、アブラハムは、「地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」(創世記 12・3)と言った。ただ一つの道として、一つの宗教を信じる人はすべての人間を救援しなさいという神様の命令が、宣教活動を強力に促す。反面、神様はすべての国に大勢の預言者と聖賢を送り、その地域文化に適合した方法を通して人間が神様に帰るよう促しながら、神様の救援の意志を現実化する。
救援が世俗的な人生と関係なくすべての人に開かれたものであれば、地獄や末世の審判を信じる人たちには不公正なものと映るかもしれない。神様が本質的に正義であれば、どうして邪悪な者が救援を受けることができるのか。反対に神様が本質的に恩恵深く、慈悲深いのであれば、どうして神様が被造物を永遠の地獄で苦痛を受けるようにできるのか。天の父であられる神様の心情を理解する文鮮明先生は、子女の中の一人が有罪宣告を受けた犯罪人であれば、私たちがそれをどのように感じるか想像してみなさいと言う。私たちは、子女の代わりに私たち自身が絞首台に上がるとしても子女を救おうとするだろう。
文鮮明先生は、神様は私たち人間が最上の自由を享受するようにし、私たちの人生もそこに相応するように創造したので、私たちが神様の救援方法に適応できなければ、救援の道が困難になる点を教える。それでも、究極的に神様の創造目的は具現され、ついにすべての人間は救援され、地獄も空になるだろう。
― 宗教経典 ―
仏の法は、つねに同一の味をもって、多くの世界のものたちは、だんだんと修行して、みな道の果を得るのである。
法華経 5(仏教)195
にち/\にをやのしやんとゆうものわたすけるもよふばかりをもてるおふでさき
14.35(天理教)196
主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
ペトロの手紙二 3.9(キリスト教)197
神は世のすべての国々が悔い改めることを見守っていらっしゃる。ゆえに、あらゆる民を御自身の懐に抱こうと導かれる。
民数記ラッバー10.1(ユダヤ教)198
私は、あなたがあらゆる被造物の主であられ、見えるもの、見えないもの、すべての存在の教育者であることを証言します。私は、あなたの能力が全宇宙を取り囲んでいること、そして地の群れが決してあなたを失望させることはできず、万民と国の主権が、あなたがあなたの目的を達成することを制止できないことを立証します。私は、あなたが全世界の刷新と全世界の民の一致、そしてそこで暮らすすべての人の救い以外に他の欲望をもっていないことを認めます。
バハオラ 落穂集115(バハイ教)199
そこで、御身に、アフラよ、そして天則に、ミヤズダをわれらは、うやうやしくささげましょう。すべての庶類がウォフ・マナフを通して王国において成熟するために。けだし、正見の人には、マズダーよ、御身たちさまのあいだで、すべての方がたによって、恩賚が保証されているからです。(注 45)
アヴェスター・ヤスナ 34.3
(ゾロアスター教)200
彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。
エゼキエル書 33.11(キリスト教)201
地の果てのすべての人々よ / わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。
わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば /その言葉は決して取り消されない。わたしの前に、すべての膝はかがみ / すべての舌は誓いを立て /
イザヤ書 45.22 ~ 23(キリスト教)202
かれこそは、導きと真理の教えをもってみ使いをつかわしたまい、たとえ多神教徒たちが忌みきらうとも、よろずの宗教の上にそれを現したもう方であられる。
クルアーン 9.33(イスラーム)203
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 / 父の家を離れて / わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし / あなたを祝福し、あなたの名を高める / 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し / あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて / あなたによって祝福に入る。」
創世記12.1~ 3(キリスト教)204
まことにわれは、吉報の伝承者として、また警告者として、真理をもってなんじをつかわした。どの民もかれらの間に、一警告書が行かなかったものはない。
クルアーン 35.24(イスラーム)205
イスラエルの人々よ。わたしにとってお前たちは / クシュの人々と変わりがないではないかと / 主は言われる。わたしはイスラエルをエジプトの地から/ ペリシテ人をカフトルから/ アラム人をキルから、導き上ったではないか。
(注 46) アモス書 9.7(キリスト教)206
一切衆生がすべて涅槃に入るまで、如来は自ら滅度に入ることはない。
維摩経 4(仏教)207
見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ / 彼は国々の裁きを導き出す。
彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく / 暗くなってゆく灯心を消すことなく /
裁きを導き出して、確かなものとする。
暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。
島々は彼の教えを待ち望む。(注 47)
イザヤ書 42.1~ 4(キリスト教)208
わたくしが覚りを得た後に、もしもこのようにすぐれたこの最上の誓願が(願ったとおりにかなえられ)ないならば、人々の王(=仏)よ、わたくしは、十力を持ち、比べるものなく、供養さるべき者なる生ける者の精粋(=仏)とはなりませんように。
もしもわたくしの国土がそのようでないならば、多くの貧しい者に、多くの尊い麗しきもの(=財)が存在しないならば、苦しみに陥った人を幸せになし得ないならば、わたくしは、人々の中の宝のごとき王とはならないでしょう。
もしもわたくしが覚りの境地におもむいた後に、わたくしの名がすみやかに十方の、多くの無限の諸仏国土にひろく達しないならば、わたくしは、 〔十〕力ある世の主(=仏)とはならないでしょう。
もしもわたくしが比べるものなき幸せな覚りを体得しようとしていながらも、記憶し思慮し理解することを捨ててしまって、愛欲の快楽を喜ぶようであったら、わたくしは、 〔十〕力ある、世間の師とはなりますまい。
主よ、広大にして無比・無限なる光明は、四方八方のあらゆる仏国土を満たし、貪欲を静め、あらゆる憎悪と迷いとを静めて、地獄界の火を消した。(注 48)
無量寿経 9.1~ 5(仏教)209
― み言選集 ―
この罪悪の世界が、人間の悲しむ世界であることはいうまでもないが、神もまた悲しんでおられる世界であるということを、我々は知らなければならない(創6・6)。では、神はこの悲しみの世界をそのまま放任なさるのであろうか。喜びを得るために創造なさった善の世界が、人間の堕落によって、悲し
みに満ちた罪悪世界となり、これが永続するほかはないというのであれば、神は、創造に失敗した無能な神となってしまうのである。それゆえに、神は必ずこの罪悪の世界を、救わなければならないのである。……
堕落は、もちろん人間自身の過ちによってもたらされた結果である。しかし、どこまでも神が人間を創造されたのであり、それによって、人間の堕落という結果も起こり得たのであるから、神はこの結果に対して、創造主としての責任を負わなければならない。したがって、神はこの誤った結果を、創造本然のものへと復帰するように摂理なさらなければならないのである。
原理講論、人類歴史の終末論 2.1
私たちは、ここで宗教のみ旨、救援摂理のみ旨が何かを知ることができます。救援摂理のみ旨は、全世界を救うことです。神様が人を愛する息子として造ったので、神様がたたき潰してしまうことはできず、地獄に送ることはできないことを知らなければなりません。ですから、救援摂理はサタン世界内に一人も残さずに完全に救い、サタンを追放して……。サタン世界内にサタンだけが残るようにして、人という人はすべて神様が連れていこうというのです。
(80-283 ~ 284、1975.11.2)
神様があの御座にいらっしゃるとすれば、地獄に行って苦しみながら、「私を助けてください!」と言う霊人たちを見るとき、神様が、「おい! お前はそれでも良いほうだ」と思われるでしょうか、「彼らはかわいそうだ」と思われるでしょうか。地獄を解放しなければなりません。
(98-116、1978.5.7)
自分の子女の中で、殺人強盗か国家的な犯罪で死刑を受ける息子がいるとしましょう。息子が死ぬ場に行くとき、その父母がついていって、「お前は死ぬ所に行ったのだから、いさぎよく死になさい」と言う父母がいますか。その息子をつかんで、その死ぬ所に一緒に同参しようとするのが父母ではないか
というのです。
それが永遠に継続するとすれば、父母がそれを見てじっとしているでしょうか。永遠に抜け出させてあげようと身もだえするでしょう。愛する父母であるほど、永遠に死ぬとすれば、永遠
に抜け出させてあげようとするのです。永遠に死んでいくとすれば、永遠に生かしてあげようと思う心をもつのであり、自分から苦労していくのではないですか。このように考えるとき、神様はかわいそうな方です。地獄の門を閉めて、永遠に死んでいくのを見るとき、神様が「ああ、よい」と言うのではなく、永遠に抜け出させてあげたいとやきもきするというのです。そうであってこそ、天の父母の立場で責任を果たせるのです。ですから、地獄まで解放しなければならないという論理が成立します。
(62-51、1972.9.10)
キリスト教徒の 14 万 4000 の群れだけが天国に上がっていき、残りの人類を審判するというのは独断主義です。
(245-97、1993.2.28)
統一教会の救援観というのは、夫が天国に行って夫人は地獄に送ろうというものではありません。二人とも天国に行こうというものです。父母を地獄に送るのではなく、父母に侍って、息子、娘も連れて天国に行こうというのです。
(34-359、1970.9.20)
神様の救援摂理は、自然屈服させていくのです。思いどおりにできるのであれば、強制屈服させてできるのであれば、数千年になりますか。数週間でもできます。呆然とすることを知らなければなりません。
(394-16、2002.10.6)
堕落人間においても、その一人の子女でも不幸になれば、決して幸福になることができないのが、父母の心情である。まして、天の父母なる神が幸福になり給うことができようか。ペテロⅡ3章9節を見れば、「ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」と記録されている。したがって、神の願うみ旨のとおり、成就されるべき理想世界に、地獄が永遠なるものとして残ることはできない。そしてマタイ福音書8章 29 節を見れば、イエスの当時、直接サタンがイエスを神の子であると証したように、終末の日においても、ときが至れば、悪霊人たちまでも、各々同級の地上の悪人たちに再臨して、彼らがみ旨のためになるよう
に協助することによって、結局、悠久なる時間を経過しながら、次第に創造目的を完成する方向へ統一されていくのである。
原理講論、復活論 3.3.3