世界経典Ⅱ 第2部 罪と救援 第10章 終末論とメシヤに対する希望
第10章 終末論とメシヤに対する希望
1. 苦難
すべての宗教では、神様の決定によって人間の歴史が完成し、現在を飛び越える一時を期待する。そして、罪悪が滅亡し、善が勝利するものと信じる。ユダヤ教、キリスト教、イスラームの経典の教えの中で重要な特徴は、千年王国の建設である。キリスト教の出発は、イスラエルでの千年王国運動であると言うことができる。そして、ヒンドゥー教、仏教、ゾロアスター教なども、やはり道徳と宗教の退潮は、人間が更生され、純化する新黄金期の前兆として、この時、世界が宇宙的循環期に差しかかることを教える。
千年王国に対する信仰は、迫害される人たちをして、悪の制度がついに終末を告げ、彼らを新しい信仰革新運動と、さらには革命的運動に導くという希望をもたせることによって、社会に影響を与えられる。ローマの暴政に抵抗するユダヤのバル・コクバの乱から中国の太平天国の乱と、ヨーロッパの植民支配から独立を要求したアフリカ独立教会の主張に至るまで、一連の運動は、政治、経済的自主権を促進した。文鮮明先生は、今私たちは末世に生きており、天国が近づいていると宣布しながら、それと類似した切迫感と可能性に身をおいていると教える。
しかし、このような千年王国に対する信仰は、人類を独善的であり独断的に導き得る否定的な側面ももっている。文鮮明先生は、復帰過程の原則によって末世の審判と苦難は、神側の人たちにまず訪れ、その強度もやはり不信者よりも大きいと警告する。末世や世の終末に関する教えは、下記に見るように3段階の類型で示される。第1に、各種犯罪および罪悪と混乱が幅を利かせる苦難の時代、第2に、神様が決定的に参与し、罪悪の勢力を滅亡させる最後の審判の時代、第3に、いわゆる千年王国と呼ばれる前例のない幸福と平和の時代がそれである。苦難の期間、戦争、飢饉、疾病、自然災害、そして広範囲な混乱が人間を苦しめるだろう。一般の大衆は、快楽主義と物質主義に陥りながら道徳、倫理的衰退が現れるだろう。宗教もやはり創始者の教えを忘却したまま、自身
①末世に現れる信仰と道徳の堕落
― 宗教経典 ―
後の悪世の生ける者たちは善根が少なく、高慢心が多く、衣服・臥具などの供養を貪り、不善根を増し、解脱から遠く離れているので、教化することが難しい……。(注1)
法華経13(仏教)1
しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。
テモテへの手紙二 3.1~ 5(キリスト教)2
(信仰心が深い)知識が消え、地震がとても多くなり、時間がとても早く過ぎていき、苦痛が現れ、殺人者が増加し、お金があなたの中にあふれる時まで、その時は確立しないだろう。
ブハーリー・ハディース2.17.146
(イスラーム)3
その時間が近づいてきたので、その中にはイスラームという名前だけが残り、クルアーンの単純な姿だけがある。その時、ムスリムたちのモスクは、知識と礼拝がない所となり、知識人たちは天の下で最も卑賤な人になり、論争と闘争がやまないだろう。そしてそれは、彼ら自身に帰っていくだろう。
ハディース(イスラーム)4
ズォチュフのラビ・ミクハルが言った。「ある日、私たちが師であられる7日の光、イスラエルのラビ、バアル・シェム・トーヴと旅をしていた。師は、午後に祈りのために森に行かれた。ところが、突然、木に頭をぶつけて大きの利己的目的のもとに合理化することによって崩れ落ちるだろう。文鮮明先生は、人間がこのような苦難に直面するようになり、その根は人間の堕落にあると明らかにしている。先生は、末世は堕落の結実を収める時だと教える。
ある経典は、最後の苦難の時代に獣、反キリスト、あるいはダジャル(Dajjal)など、神様の実体を否定し、大勢の人を偽りの真理で惑わす存在が現れるという。反キリストが誰なのかを糾明する努力があったが、時として教会の反対者に目星をつけながら、大部分は結実を見ることができなかった。文鮮明先生は、歴史の暗闇の勢力、背後で作用するサタンの活動を見つけ出し、物質主義や無神論的共産主義の出現だけでなく、神様の人を攻撃する悪魔の術策を暴露する。それにもかかわらず、先生は、イエスに反対する最初の人たちはイエスの弟子たちであり、したがって人を非難するよりも、私たちが反キリストではないかと自分を探ってみなければならないと指摘する。
く泣いていらっしゃるではないか。あとで理由を尋ねた。師が言われるには、「私が聖霊を迎えたとき、私は主が来られる前に近づいてくる未来を見た。ハシディックのラビたちは、数的には相当に増加するが、彼らによって贖罪が延長されるだろう。彼らが人々に根拠のない憎悪と心情の分裂をもたらすからである」。
ハシディックの説話(ユダヤ教)5
人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。
ルカによる福音書18.8
(キリスト教)6
メシヤの伝令が来る時に起きることは、次のようだことだ。憶測が横行し、欠乏現象は極限に達し、ぶどうの房は熟していないのにぶどう酒は高く取引され、国家は異邦人の国に転落したのにとがめる者がいないだろう。学園は偶像崇拝の場となり……。律法学者たちの知恵は活気を失い、罪を避ける者はかえって軽蔑され、ゆえに真理はそのどこにも発見されないだろう。子供たちが大人の恥となり、大人たちは子供たちの前に立って怒りを表すだろう。その世代の顔は、犬のようにあつかましく、子供たちは父母たちの叱責を眼中にも置かないだろう。私たちは誰に頼るのか。天にいらっしゃる父以外にまた誰がいるのか。
ミシュナ、ソーター 9.15
(ユダヤ教)7
ヴェーダによって教えられた実践と法の原則がとだえ、そしてカリの時代の終わりが近くに迫った時、ブラフマの性質の中にその霊的性質を持つその神聖な存在の一部が、始まりであり終わりでもある方が、そして全存在を理解する方が、地上に降り立つであろう。彼はシャンバラ村の有名なバラモンの家庭にカルキとして、八つの超人間的な機能を授けられて生まれるであろう。彼はその圧倒的な力によって野蛮人と盗賊と悪に魂を売り渡した者達を壊滅させるであろう。その後彼らは地上に再び正義を立てるであろう。そしてカリの時代の最後に生きた者達の心は覚醒され、水晶の様に澄み渡るであろう。この特別な時のおかげで変わった人々は人類の種となり、清浄の時代であるクリタ時代の法に従う人種を生み出すであろう。これについては次の様に言われている。「日と月、そして月の星群ティーシャと木星とが一つの家に住むとき、クリタ時代が帰ってくるであろう。」
ヴィシュヌ・プラーナ 4.24
(ヒンドゥー教)8
ちょうどその時、人々は十の善い行いの名称を全く聞くことはなく、ただ十の悪い行いが世間にみちみちるであろう。……このとき人々が極めて悪い行いをなすことができ、父母に孝行せず、先生や先輩を敬わず、忠義をつくさず、反逆的で、正しい道にもとっていれば、尊敬をあつめることであろう。……そのときの人々は十の悪い行いをなすものが多く悪道に墜落するものが多いであろう。猟師が鹿の群れを見たときのように、人々は出会えばいつも殺したいと思うであろう。
阿含経長部 iii.71~ 72(仏教)9
― み言選集 ―
今、青少年の問題が深刻になっています。青少年の淪落問題が深刻な問題です。エデンの園でアダムとエバが、青少年時代、ティーンエイジャーの時に陰でフリーセックスをして根を植えたので、終わりの日には必ず世界的にティーンエイジャーのフリーセックスが現れなければならないというのが理論的だというのです。
サタンは、神様が真の愛を中心として、堕落前の絶対愛の基準を中心として天国に連れていこうとしていることを知っているのです。再臨主が来て、そのようにすることを知っているので、サタンが戦略で完全にこの基準をすべて壊してしまいました。愛という基盤がないので、フリーセックス、ホモ、レズビアンになるのです。ホモ、レズビアン、これは天使長の種です。天使長は愛の相対がいません。(注 2)終わりの日には、裸になって一度に死のうというのです。これが天使長の子孫の末路です。
これが地上地獄、サタン世界が地獄化する世界なので、この 180 度反対を求めていけば、天国と通じる道があるのです。今後、再臨主が来てこの世の中を救ってあげるために、180 度の道を教えてあげたのち、天に連れていくようになることを知らなければなりません。
(279-121~122、1996.8.1)
堕落とは……アダムとエバが神様を不信し、背信したことが宇宙的な恨の種として蒔かれるようになりました。それでは、終わりの日に、どのようなことが起きるのでしょうか! 終わりの日には、父子の関係で仲たがいすることが起きます。人間始祖に神様に背いた不信の因縁があるので、その血統を受けて生まれた人間たちにも、終わりの日には、子女が父母に対抗するようなことが起きるようになるのです。皆さんは、このような時代が来るとき、背信しようにも背信できない真の父母をこの地で探し出さなければなりません。
皆さんがとどまっている現在の環境は、信仰の因縁で結ばれたものではないので、不信の現象が起きるのです。父子の関係がこのようになり、夫婦の関係がこのようになり、また、一家、親戚の関係が不信の風潮になり、人間たちが指向している意志までも根本的に破綻させてしまう拒否現象があちこちで現れれば、皆さんは、その時が終わりの日であることを悟らなければなりません。
(2-330、1957.7.28)
エデンの園で堕落することによって、天使長を中心としてエバが怨讐になり、エバを中心としてアダムが怨讐になり、お互いが怨讐になりました。すべて怨讐だというのです。ですから、皆さんの子女もすべて怨讐です。信じられないのです。終末になれば母親、父親までも怨讐になります。兄弟間が怨讐になるのです。国同士が怨讐になり、すべての因縁がばらばらになる時が来ます。その時になれば、人倫道徳がどこにありますか。世界の風潮がそのように吹きすさんで方向をわきまえることができず、どのようなものが善であり、どのようなものが偽りなのか、より分けられない時が来るなら、その時が終末であることを知らなければなりません。その時が正に今です。子供が親を殺害する事件が起こり、親が子供を殺害する事件が起こります。世の中で天を中心として教える師弟間は、牧師と教会員であるにもかかわらず、教会員が牧師に刃物で刺され、牧師と教会員の間で決闘が繰り広げられるのです。そのような時が来るなら、終末であることを知りなさいというのです。それはなぜでしょうか。エバとアダムが怨讐であり、アダムと天使長が怨讐であり、神様もすべて怨讐になったからです。そのような根をもった歴史は、すべて戦場として結果を結ぶ世界が繰り広げられるのです。
それで、どこに行くのでしょうか。
行く所が分からないのです。世界もそのようなことが起きます。今、民主世界と共産世界の二つの群れに分かれていますが、これからは3カ国だけでなく4カ国に広がります。筋道がつかめないのです。きのうは悪いと言っていたことが、きょうは世界に登場したりします。きのうまで勢力のあったものが、きょうになると追放されます。
世界的に筋道がつかめません。国家的に見るときも、これからの大韓民国がどのように行くのか分かりますか。アメリカがどのように行くのか分かりますか。国家的に筋道がつかめないのです。また、ある団体なら団体がどのようにしなければならないか分かりますか。家庭なら家庭がどのようになるか分かりますか。すべて不信する作用が起きるのです。そのような時になれば、終わりの日が来ることを知らなければなりません。
(50-213、1971.11.7)
宗教圏がすべて滅びました。キリスト教が滅びる立場に立つと同時に、それ以外のアジア圏にあった仏教や儒教、そしてイスラーム……。イスラームはあとから出てきたのですが、宗教の形態はもっていても、今ではもうすべて滅んだというのです。滅ぶのは宗教だけではありません。家庭から、宗教から、社会から、国家から、全世界、どこもみな地獄のようになってしまいました。
神様が理想とされた愛の理想圏というものは、地球星に見いだすことができないという結果になったのです。アメリカのような大国に行けば、神様が訪ねていける息子が、心と体を一つにして、娘と一つとなって神様が願われる堕落していない本然の夫婦となり、心と体が闘わない真なる家庭をつくらなければなりませんが、そのような家庭はないというのです。その夫婦によって息子、娘が生まれなければならないのです。父母と息子、娘が闘わない家庭がありません。個人主義化してしまったこの世の中は、すべて分かれているのです。
(342-268、2001.1.13)
縦的なものが中心です。縦的な基準が立つことによって、プラスとマイナスの概念が出てきて、男性と女性の概念が出てきます。縦的な概念がないので、男性の概念、女性の概念が雑然としているのです。ですから、混乱現象が起きます。これでもなくあれでもなく、男性でもなく女性でもなく、混乱が起きるのです。終わりの日にこれがすべてフリーセックスのように……。それは悪魔サタン、悪霊たちの破壊主義です。そうして混乱現象が起きるのです。
(189-127、1989.4.1)
人間が長成期完成級で堕落したので、完成段階が残っています。(注 3)完成段階の期間が7年です。……私たちは、7日を中心としてこれを7年で蕩減するのです。……この7年路程で責任を果たせない家庭は、滅びる家庭です。上がっていく家庭ではありません。家庭が責任を果たせなければ、7年路程は延長するのです。……これが7年の大艱難であり、歴史上で初めての艱難です。これが統一教会で言う7年路程なのです。
(23-217、1969.5.25)
自由世界で最近、結婚を正式にしないで不法結婚をして暮らしています。すべて結婚をしない形式を選びます。……すべて滅びると思うのですが、神様は助けてあげるための作戦を今、行っています。このように見てこそ、世の中のすべてのものが解けます。神様の立場から、すべて解かれていくのです。霊と肉は、本来真の愛を中心として一つになるようになっているのであって、偽りの愛を中心として一つになるようにはなっていません。ですから、真の愛の起源を見いださなければ、これが一つにならないのです。それが最も理論的です。その場を皆さんが越えていき、天が祝福してくれる祝福を願っていかなければなりません。
(91-184、1977.2.6)
②戦争、自然災害、蔓延する惨状
― 宗教経典 ―
戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
マタイによる福音書 24.6 ~13(キリスト教)10
その六十二週のあと油注がれた者は / 不当に断たれ / 都と聖所は / 次に来る指導者の民によって荒らされる。その終わりには洪水があり / 終わりまで戦いが続き / 荒廃は避けられない。彼は一週の間、多くの者と同盟を固め / 半週でいけにえと献げ物を廃止する。憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。
ダニエル書 9.26 ~ 27(キリスト教)11
社会は大破壊と荒廃をもたらす破壊的な戦争により蹂躙されるだろう。最初は征服者たちが彼らの勝利と鹵獲した戦利品に喜びを満喫するが、そのすべてのものはとても悲しい結果をもたらすだけである。私は未来の戦争に関して警告するが、あなたたちはそれらがもたらす極悪無道な罪悪に対して考えることができない。
ナフジュ・アル・バラーガ 説教141
(シーア派イスラーム)12
それゆえ、人の子よ、ゴグに対して預言して言いなさい。主なる神はこう言われる。わが民イスラエルが安らかに暮らしているとき、お前はいきり立つのか。お前は北の果ての自分の所から、多くの民を伴って来る。彼らは皆、馬に乗っている大集団、大軍団だ。お前はわが民イスラエルに向かって、地を覆う雲のように上って来る。そのことは、終わりの日に起こる。わたしはお前を、わたしの地に連れて来る。それは、ゴグよ、わたしが国々の前で、お前を通して自分の聖なることを示し、彼らがわたしを知るようになるためである。
エゼキエル書 38.14 ~16(キリスト教)13
― み言選集 ―
神様は常に愛する子女を先に打って、その次にサタンを打つ。
御旨の道、試験・試練
神様は、サタンの側に回った人類を打つことができないので、人類を取り戻すためには天の側が打たれて奪ってくる作戦を取り、サタンは打って奪われる作戦をせざるを得ません。サタンは、私的に憎悪と闘争で、歴史を通じて天を滅ぼそうとしてきました。天は、反対に公的な立場で、愛と平和で再創造してきたのです。末世になれば、サタンが人類を支配してきた立場を天に奪われるようになるので、神がいないという無神論を提示して、人本主義と物本主義、共産主義の出現を助け、天の側の右翼とサタン側の左翼の闘争を、世界的に展開したのです。天の側の勝利によって、第2次大戦以後にキリスト教文化圏の勝利と、平和の世界に転換する大変革時代を迎えるようになるのです。
(270-232、1995.6.7)
神様の摂理において、個人的にサタン世界に勝たなければならず、家庭、氏族、民族、国家、世界的にサタン世界にすべて勝たなければなりません。いつでもサタン世界が先にあるのです。家庭があれば、サタンは国までもっています。ですから、アダム時代、イエス時代、イスラエル民族の歴史時代に過ちがなくなるのではなく、過ちが積み重なったのです。……
それでは、イエス時代、2000 年の歴史においてキリスト教が天の前に責任を果たせなかったすべてのことが、ただそのまま蕩減され得るだろうかというのです。これが残っているのです。
ですから、第1次、第2次の世界大戦など、戦争の歴史というのは、蕩減法によって蕩減するための神様の摂理の中で起きたのです。それで、第2次大戦が終わるとき、キリスト教文化圏を中心として、サタン世界とキリスト教文化圏が一つの統一世界を迎えたのです。ですから、キリスト教によって統一された一つの国です。キリスト教文化圏を中心として、日独伊と英米仏は相対的です。英米仏と日独伊となってサタン世界の心と体が分かれて闘うのを一つにしなければなりません。一つにするのです。一つにしたところに再臨主が来て、真の父母様を中心として心と体の統一、家庭統一を成し遂げなければなりません。
(292-180、1998.4.12)
人類は第2次世界大戦の痛手を踏み越えて、すべての国が平和になり得る道を見つけようとしました。神様は私に、2000 年のキリスト教の基盤の上に神様の天国を建設する世界的な運動を指示されました。啓示の中心は「真の父母」、「真の家庭」を見つける公式路程でした。
しかし、当時の韓国のキリスト教指導者たちは、この真理を受け入れることができず、神様に大きな失望を与えました。私は、迫害と反対を受け、罪なく投獄される苦難の路程を歩まざるを得ませんでした。既成教会の歴史的な過ちが条件となり、韓国で悪が勢力を得る霊的基盤が造成されたのです。韓半島が分断され、半世紀にわたる受難の歴史とならしめた摂理の内的な原因となりました。
(288-166、1997.11.27)
③悪魔と悪霊の襲撃
― 宗教経典 ―
第五の天使がラッパを吹いた。すると、一つの星が天から地上へ落ちて来るのが見えた。この星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられ、それが底なしの淵の穴を開くと、大きなかまどから出るような煙が穴から立ち上り、太陽も空も穴からの煙のために暗くなった。そして、煙の中から、いなごの群れが地上へ出て来た。このいなごには、地に住むさそりが持っているような力が与えられた。いなごは、地の草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい、と言い渡された。殺してはいけないが、五か月の間、苦しめることは許されたのである。いなごが与える苦痛は、さそりが人を刺したときの苦痛のようであった。この人々は、その期間、死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く。さて、いなごの姿は、出陣の用意を整えた馬に似て、頭には金の冠に似たものを着け、顔は人間の顔のようであった。また、髪は女の髪のようで、歯は獅子の歯のようであった。また、胸には鉄の胸当てのようなものを着け、その羽の音は、多くの馬に引かれて戦場に急ぐ戦車の響きのようであった。更に、さそりのように、尾と針があって、この尾には、五か月の間、人に害を加える力があった。いなごは、底なしの淵の使いを王としていただいている。その名は、ヘブライ語でアバドンといい、ギリシア語の名はアポリオンという。(注 4)
ヨハネの黙示録 9.1~11(キリスト教)14
― み言選集 ―
地上世界が一つの理念圏内に入っていけば、どのようになるでしょうか。地上よりも少し善のものが勝ちます。これが霊界の地上攻撃時代です。ですから、今日、名前もない神経症など、神経系統の病気がたくさん発生するのです。薬では駄目です。これは「天地双和湯(双和湯:疲労回復のための煎じ薬)」を飲まなければなりません。
(3-353、1958.2.9)
数千億、数万億の霊人たちが地上を占領するための攻略をしてきます。ノイローゼ現象がその一つです。もう少したって、80 年代、さらには 2000 年代を超えれば、その時は悪霊に通じるか、善霊に通じるか、すべて霊的に通じるかもしれません。「戦争をするな」と言っても、闘わざるを得なくなるのです。(注 5)そのような時が来るかもしれません。高いアンテナには、ピーピーという音が出てきます。それがノイローゼ現象です。最も恐ろしいのは、悪霊だけを動員して地上攻略をしてくることです。その場合に、どのようになるかが問題です。いくら人が全地球上にいっぱいになったとしても、悪霊が攻略してしまいます。それで、神様はそこまで準備していらっしゃいます。善霊たちを中心として霊界の基台を広げてきているのです。
(55-30、1972.4.23)
④野獣、反キリスト
― 宗教経典 ―
だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。まだわたしがあなたがたのもとにいたとき、これらのことを繰り返し語っていたのを思い出しませんか。今、彼を抑えているものがあることは、あなたがたも知っているとおりです。それは、定められた時に彼が現れるためなのです。不法の秘密の力は既に働いています。ただそれは、今のところ抑えている者が、取り除かれるまでのことです。その時が来ると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます。不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。それで、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです。
テサロニケの信徒への手紙二 2.3~12(キリスト教)15
かれらに対しおことばが実現されるとき、われは大地からかれらに一獣を現わし、「まことに人間たちは、わがしるしに確信をいだかないでいた」と、申し渡すであろう。
クルアーン 27.82(イスラーム)16
ダジャルが彼と共に水と火をもって現れるだろう。人々が水と見たものは燃える火であり、彼らが火と見たものは冷たく甘い水である。あなたたちは誰でもその時まで生きれば、彼らが火と見たものにはまっていくが、それは甘く新鮮な水だ。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)17
わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒瀆するさまざまの名が記されていた。わたしが見たこの獣は、豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。そこで、全地は驚いてこの獣に服従した。竜が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は竜を拝んだ。人々はまた、この獣をも拝んでこう言った。「だれが、この獣と肩を並べることができようか。だれが、この獣と戦うことができようか。」この獣にはまた、大言と冒瀆の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。そこで、獣は口を開いて神を冒瀆し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒瀆した。獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた。地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。耳ある者は、聞け。捕らわれるべき者は、/ 捕らわれて行く。剣で殺されるべき者は、/ 剣で殺される。ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。わたしはまた、もう一匹の獣が地中から上って来るのを見た。この獣は、小羊の角に似た二本の角があって、竜のようにものを言っていた。この獣は、先の獣が持っていたすべての権力をその獣の前で振るい、地とそこに住む人々に、致命的な傷が治ったあの先の獣を拝ませた。そして、大きなしるしを行って、人々の前で天から地上へ火を降らせた。更に、先の獣の前で行うことを許されたしるしによって、地上に住む人々を惑わせ、また、剣で傷を負ったがなお生きている先の獣の像を造るように、地上に住む人に命じた。第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。(注 6)
ヨハネの黙示録13.1~18(キリスト教)18
子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。
ヨハネの手紙一 2.18 ~ 22(キリスト教)19
― み言選集 ―
蕩減復帰摂理から見た世界大戦の内的な原因は何なのだろうか。第1に、主権を奪われまいとするサタンの最後の発悪によって、世界大戦が起こるようになるのである。既に上述したように、人間始祖が堕落することによって、元来神が成し遂げようとしてきた原理世界を、サタンが先立って原理型の非原理世界を成し遂げてきたのであり、神はそのあとをついていかれながら、サタン主管下のこの非原理世界を奪い、善の版図を広めることによって、次第に原理世界を復帰する摂理をしてこられたのである。したがって、復帰摂理の路程においては、常に、真なるものが来る前に、偽ものが先に現れるようになる。キリストが来られる前に偽キリストが来るであろうと言われたのは、その代表的な例であるといえる。
原理講論、メシヤ再降臨準備時代 4.1
神がこの新しい真理を下さって、全人類を一つの理念に統合させようとなさる摂理をサタンが先に知り、自分を中心として人類を統合させようと、偽りのものを真であるかのように説いたサタン側の真理がすなわち弁証法的唯物論である。弁証法的唯物論は理論的な根拠を立てて霊的な存在を抹殺しようとする。このような唯物論の立場から神は存在しないということを証拠立てようとしたが、結果的にはサタン自身も存在しないという論理を自らも被らざるを得ず、自縄自縛となり自滅の境地に自ら落ちこんでしまったのである。なお、サタンは歴史の終末をよく知っているので自分が滅亡することもよく知っている。したがって、結局はサタン自身も尊ばれないときが必ずくることを想定していながら、自分の犠牲を覚悟して神を否定したのがすなわち弁証法的唯物論なのである。ゆえに、民主主義世界でその理論を屈伏させる真理を出さない限り、天の側はいつまでもサタンの理論的な攻勢を免れる道がないのである。ここに、天の側で新しい完成的な真理を宣布しなければならない復帰摂理史的な根拠があるのである。
原理講論、メシヤ再降臨準備時代 4.4.1
皆さんがもし理想の園、終わりの日の世界的な新しい栄光の日を迎えることを願うのなら、皆さんは、悲しまれたイエス様の心情、悲しいイエス様の生涯を思い、切ない心で天に向かって身もだえしながら歩んでいけなければなりません。ところが、このようなことを行わず、考えてもいない立場で主の栄光を願う人がいますか。もしいるなら、そのような人がすなわち、反キリストであり、偽りの預言者です。使徒たちがイエスの前に反キリストの立場に立つと、誰が思ったでしょうか。また、選ばれたイスラエル民族とユダヤの教団が反キリストになるとは、誰が思ったでしょうか。終わりの日にもこれを心配しなければなりません。今は人を非難し、人のことに干渉する時ではありません。自分自身が問題なのです。教団が問題ではありません。終わりの日に自分がサタンになるかもしれないと心配しなければなりません。(注 7)今まで人を問題にしてきた人は、すべて自分を失ってしまう歴史路程を経てきたのです。
(2-277、1957.6.16)
お父様!今や、死亡の都が審判のひと日を目前にしています。お父様、このような時に際して恐怖の世界であえいでいるこの人類、行くべき道を知らずに彷徨しているこの人類、中心を失ってしまい、処すべき立場を知らず、とどまる所を探し出すことができずにいる人類を哀れにお思いくださって、あなたの懐に帰れるようお導きください。
(5-60、1958.12.21)
2. 最後の審判
人々は、末世に現れる事件を希望と恐怖が入り混じったまま注視してきた。迫害を受けた人にとって末世は、罪悪の権勢が崩れ、罪人たちが処罰を受ける希望の日である。自分の罪を苦痛に感じ、救援を否定して疑っていた人たちにとって末世は、恐怖の日である。個人に対する最後の審判は、死ぬ時に現れるが、これに関しては第5章で既に論議した。しかし、終わりの日のこの世の中全体に対する全般的な審判がある。神様の王国に関する約束が成し遂げられようとすれば、地球上から罪悪を永遠に除去しなければならない。大勢の信仰者たちが最後の審判を文字どおり世の中の終末という超自然的事件として解釈しているが、文鮮明先生は、最後の審判は過去の罪悪の伝統が消え、すべての人たちが地上天国を建設するために尽力する時代に転換する時に起きる過程的現象であると教える。イエス様が麦と毒麦に例えたように、堕落した世の中で善は人知れず成長するが、時に至れば善と悪を区分する瞬間が到来するだろう。その時、人々は、自分たちの罪を悟り、神様のみ言の審判を受け入れ、あらゆる罪悪と堕落性を根本的に取り除き、日常生活で真理のみ言を具現することによって、段階的に神様の民に変貌していくのである。
①すべての罪悪が現れ、審判が履行される
― 宗教経典 ―
「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。 『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、 『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
マタイによる福音書13.24 ~ 30(キリスト教)20
わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。
ヨハネによる福音書12.47 ~ 48(キリスト教)21
不信者は、集団をなして地獄に駆られよう。かれらがそこに到着したとき、地獄の諸門は開かれる、そして看守は、「おまえたちの間から出た、諸使者が来なかったか、(そして)主からのしるしをおまえたちのために読唱し、また、おまえたちのこの会見の日のことを、警告しなかったか」と言おう。かれらは答えて言おう「その通りであります、ただし、不信者に対する刑罰のおことばが、真実に証明されました」。
かれらに言われよう「なんじらは地獄の門をはいれ、その中にとこしえに住め」。何と哀れなことよ、高慢者の住まいこそは。
また、かれらの主を畏れたものは、集団をなして楽園に駆られよう。かれらがそこに到着したとき、楽園の諸門は開かれる、そしてその看守は言おう、「あなたがたに平安あれ、みごとであった、ここにおはいり、とこしえの住まいである」。かれらは感謝して言おう「神をたたえ奉る、かれは、わたしたちへの約束を果たし、わたしたちに大地を継がせたまい、この楽園の中では、好きなところに住ませたもう」。何と結構なことよ、善い行いにいそしんだ者への報奨こそは。
クルアーン 39.71~ 74(イスラーム)22
主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された。わたしが備えているその日に / 彼らはわたしにとって宝となると / 万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむように / わたしは彼らを憐れむ。そのとき、あなたたちはもう一度 / 正しい人と神に逆らう人 / 神に仕える者と仕えない者との / 区別を見るであろう。見よ、その日が来る / 炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は / すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには / 義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように / 躍り出て跳び回る。わたしが備えているその日に / あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため / ホレブで掟と定めを命じておいた。見よ、わたしは / 大いなる恐るべき主の日が来る前に / 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に / 子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって / この地を撃つことがないように。
マラキ書 3.16 ~ 24(キリスト教)23
それでラッパが、ひとふき吹かれたとき、大地や山々はもたげられ、一撃で粉々に砕かれ、その日一大事件が起こる。
また大空は粉々に裂ける、天がもろく弱い日であろう。
天使たちは、その辺境におり、その日、八人の天使がかれらの上に、なんじの主の玉座をになうであろう。
その日なんじらは審判のため集められ、なんじらのどんな秘密も隠しおおせないであろう。
それで右手にその行状記を渡される者は、「ここに来てあなたがたはわたしの行状記を読め。わたしの清算に会うことが、ほんとうにわかった」と言おう。
こうしてかれは至幸な生活にひたり、高い園の中で、もろもろの果物は、手近にある。
「あなたがたは過ぎ去った日に送った善行のゆえに、満悦して食べかつ飲め」(と言われよう)。
だが左手にその行状記を渡される者は、「ああ、わしの行状記が渡されなかったならば、わしは自分の清算が、どんなものであるかを知らなかった、ああ、死がわしの終末であったならば。富は、わしに役立たなかった、権威は、わしから消えうせてしまった」と言おう。「かれを捕え、鎖を巻け、それから燃えさかる火で、焼け、
クルアーン 69.13 ~ 31(イスラーム)24
だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。
コリントの信徒への手紙一 3.11~15
(キリスト教)25
― み言選集 ―
エデンの園のアダムが堕落することによって、神様を中心とする善が終わり、サタンを中心とする悪が出発しました。この悪が終わりを告げなければならない時が末世です。善が終わることによって偽りのみ言が出てくるようになったのであり、偽りのみ言によって真の人格の実体を失ったのであり、偽りの愛をもつようになりました。ですから、第1には真理の審判、第2には人格の審判、第3には心情の審判をしなければなりません。これが終わりの日の三審判です。
終わりの日には、悪が世界的に審判を受けます。自分だけのために生きるのは、個人主義であり、自己中心です。したがって、それは悪です。主は、審判されない方法を教えます。それは、自分よりもっと大きなもののために生きなさいということです。自分ばかりを中心とすれば破滅するだけです。公的なもののために生きなければなりません。子女に対する愛も、天国の民をつくるための愛でなければならないのです。個人の立場から見るとき、自分のために引き込むのは悪であり、人のために与えるのは善です。1 日 24 時間、善と悪のうちどちらにより傾いているかによって審判が決定します。皆さんは、今もこの審判場を越えていっているのです。
(17-329、1967.4.16)
皆さんはイエス様を「愛のイエス様」と呼びますが、イエス様は、かわいそうな人の前には愛のイエス様ですが、不義と悪に従事する人の前には赦しのない審判主です。かわいそうな漁夫や官吏、そして娼婦のような人たち、つまりその時代に排斥され、追われた群れが、ひれ伏して骨髄にしみる哀訴を打ち明ける場では愛のイエス様ですが、正義の道を行くために精誠を捧げる群れに剣を掲げていくローマ帝国とユダヤの役人のような群れの前には審判主だったのです。愛する息子、娘の前では愛のイエス様ですが、不義と悪を行う悪党の前には公義の審判主だというのです。もしイエス様が愛のイエス様だけであれば、今日のキリスト教で主張する終末時代の審判役事はあってはいけないというのです。
(14-309、1965.1.10)
ペテロⅡ3章 12 節を見ると、終末には「天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう」と記録されている。また、マラキ書4章1節以下を見れば、イエスのときにも、御自身が審判主として来られ(ヨハネ5・22、同9・39)、火をもって審判なさると預言されている。さらに、ルカ福音書 12 章49節には、イエスは火を地上に投じるために来られたとある。しかし実際はイエスが火をもって審判なさったという何の痕跡も、我々は発見することができないのである。とすれば、このみ言は何かを比喩されたのであると見なければならない。ヤコブ書3章6節に「舌は火である」と言われたみ言からすれば、火の審判は、すなわち舌の審判であり、舌の審判は、すなわちみ言の審判を意味するものであるから、火の審判とは、とりもなおさずみ言の審判であるということを知ることができるのである。……
それでは、み言をもって審判される理由は、いったいどこにあるのであろうか。ヨハネ福音書1章3節に、人間はみ言によって創造されたと記録されている。したがって神の創造理想は人間始祖がみ言の実体として、み言の目的を完遂しなければならなかったのであるが、彼らは神のみ言を守らないで堕落し、その目的を達することができなかったのである。それゆえに、神は再びみ言によって、堕落人間を再創造なさることにより、み言の目的を達成しようとされたのであるが、これがすなわち、真理(聖書)による復帰摂理なのである。ヨハネ福音書1章 14 節には、 「言は肉体となり、私たちのうちに宿った。私たちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」と記録されている。このようにイエスは、また、み言の完成者として再臨なさり、自ら、み言審判の基準となられることによって、すべての人類が、どの程度にみ言の目的を達成しているかを審判なさるのである。
このように、復帰摂理の目的が、み言の目的を達成するところにあるので、その目的のための審判も、み言をその基準として立てて行われなければならないのである。ルカ福音書 12 章49 節に、「私は、火を地上に投じるためにきたのだ。火が既に燃えていたならと、私はどんなに願っていることか」と書かれているのであるが、これは、イエスがみ言の実体として来られ(ヨハネ1・14)、命のみ言を既に宣布なさったにもかかわらず、ユダヤ人たちがこれを受け入れないのを御覧になって、嘆きのあまり言われたみ言であった。
原理講論、人類歴史の終末論 3.2.2
大審判とは何かというと、この目から体全体がサタンの血を受けたので、それをきれいに浄化させることです。大審判というのは、サタンを葬り去ってしまうことではないということです。サタン世界の歴史を汚したすべての淫乱な、非法的な、非良心的な基準に立ったすべてのものを、良心基準、心と体が一つになり、五官が正しく立ち得る自分自体を中心として全体を解消させることを意味します。
(378-149 ~150、2002.5.9)
これから私たち若い男女が知らなければならないことは、真理に立脚した新しい世界が必ず訪れてくるということです。ですから、その世界に符合できる内的人格が真理の基台の上に蘇生されなければ、時代の思潮に追い出されていくのです。真理の審判があり、その真理を中心とする人格の審判があり、そして真理と人格が一つになって神様の心情を通過しなければならないのですが、それが心情の審判です。
(14-179 ~180、1964.10.3)
②サタンの束縛
― 宗教経典 ―
わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。
第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。
その数は海の砂のように多い。彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。
死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。
ヨハネの黙示録 20.1~15
(キリスト教)26
― み言選集 ―
地上天国を復帰するということは、全人類がサタンとの相対基準を完全に断ちきり、神との相対基準を復帰して、授受作用をすることにより、サタンが全く活動することのできない、そのような世界をつくることをいうのである。
終末に至って、サタンを底なき所に閉じ込めると言われたみ言は、とりもなおさず、サタンの相対者がいなくなることによって、サタンが活動できなくなるということを意味する。
人間がサタンとの相対基準を断ち、更に一歩進んでコリントⅠ6章3節のみ言のごとく、それらを審判するためには、サタンがサタンとなった罪状とその正体とを知り、神の前にサタンを訴えるようにならなければならないのである。ところが、神は天使と人間とを創造されるとき、彼らに自由を与えられたので、これを復帰するときにも、神は彼らに強制することはできない。
それゆえに人間は、あくまでも自分の自由意志による責任分担としてみ言を探しだし、サタンを自然屈伏させてこそ、創造本然の人間に復帰することができるのである。
原理講論、堕落論 4.2
③世の中の変化と神様の中での生命の蘇生
― 宗教経典 ―
大地が別個の大地に変えられ、諸天も変えられる日、人びとは一斉に唯一の方・至力の方、神のみ前にまかり出るであろう。
クルアーン14.48(イスラーム)27
そして、彼ら(世を毒するやから)のもろもろの罪業に懲罰が到来する。そのとき、マズダーよ、御身さまは御身の有たる王国を、ウォフ・マナフを通して、建設されるでしょう―天則の両手に不義をひき渡すものたちにその王国があらわに見えるために。
そしてわれらは、この世を勝ち抜かせるものとなりたいのです、マズダーよ、そしてアフラたちよ、そしてアシャよ、わたくし(バラスシュトラ)の方に来到するよう世の人々を駆ることによってです。願わくは常恒なる天眼の存するわたくしのところに人々の心が集まりますように。
何となれば、そうすれば、これによって「不義」の領域に破滅が来るからであり、またウォフ・マナフとマズダーと天則との楽園にむけていとも速い馬が車につけられ、よき名声に先着するからです。
アヴェスター・ヤスナ30.8~10(ゾロアスター教)28
主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。
ペトロの手紙二 3.10 ~13(キリスト教)29
周知のとおり、文明とは一時的なものである。文明とは、新時代の黎明と真の真理が出現することによって、結局は消えていくのである。これは、現在私たちが生きている刹那的世界の終焉を意味する。神は古い文明を清算し、新しい文明の樹立を願う。正にその清算の時が近づいてきた。
今日まで悪の勢力が文明の中で威勢を振るってきたが、古い文明から新しい文明へと転換するにしたがい、これらもすべて消えていくだろう。すべての人々は、この冷酷な浄化の過程を通過しなければならない。世界は数千年積まれてきた数限りない罪の代価として、途方もない苦しみを経験するだろう。苦しみを経験すれば経験するほど、社会と国家が浄化されていくことを感じるのであり、人類は善が支配する新しい段階へと引き上げられるだろう。
変化は私たちに現在、実際に起きており、既に地上楽園が始まる直前の最後の段階を迎えている。大変動によりすべての生の領域、すべての文明も変わっていくだろう。神を信じ悔い改める者こそ、新時代の到来の目撃者となるだろう。そして、彼らは救いの道を出発できるようになるだろう。
しかし、重い罪に苦しんでいる者たち、自分たちの邪悪な道を抜け出すことのできない者たちは、極度の悲惨の中で現世の生を終え、来世にいかなる救いも得ることができないであろう。
浄霊(世界救世教)30
― み言選集 ―
終わりの日になれば主が来られ、主が来られれば審判すると思っています。
その審判は天変地異が起き、太陽と月が光を失い、地がすべて崩れる、そのような審判を思っています。本来、この終わりの日という言葉は、宗教から出てきた言葉です。仏教では終わりの日を末法時代と言い、キリスト教では末世と言っています。いったいこの終わりの日がどうして生じるようになったのかという根本的な問題を、私たちは少し考えてみなければなりません。
絶対的な神様が計画されるその世界は、始まりがあり、永遠でなければなりません。一度始まれば永遠に続かなければならないのです。神様が経綸したそのような世界の上に終わりの日が生じたということは、神様がそれを設定してもたらされたものではないのです。人間が堕落することによって、終わりの日というものが生じたことを私たちは考えざるを得ません。
終わりの日というのは、一つの時代が過ぎていき、新しい時代が訪れることを意味するのです。終わりの日になったからといって、神様が創造された太陽と月を暗くし、地をすべて壊してしまえば、誰のゆえに壊してしまうことになりますか。サタンのゆえに壊したことになるので、サタンのゆえに失敗した神様になってしまうのです。サタンによって地が汚され、今まで太陽と月が悪の人を照らしてあげたことだけでも無念なのに、そのみ旨を一度も成し遂げてみることもできずに壊してしまってよいのですか。
エデンで審判を受ける基準は一人を中心として、その人がみ言を信じないことによって、不信することによって死亡の世界になったので、これと反対に一人によって絶対的に信じられるみ言を立てなければなりません。信じれば、絶対的に生命線に移されていくのです。
(69-119 ~121、1973.10.23)
神が、人間始祖に与えられた三大祝福は、人間始祖の犯罪によって、神を中心としては成就されず、サタンを中心として非原理的に成就されたのだということを、我々は既に述べた。ところが、悪によって始められた人類歴史は、事実上、神の復帰摂理歴史であるがゆえに、サタン主権の罪悪世界はメシヤの降臨を転換点として、神を中心として三大祝福が成就される善主権の世界に変えられるようになるのである。
このように、サタン主権の罪悪世界が、神主権の創造理想世界に転換される時代を終末(末世)という。したがって終末とは、地上地獄が地上天国に変わるときをいうのである。それゆえにこのときは、今までキリスト教信徒たちが信じてきたように、天変地異が起こる恐怖の時代ではなく、創世以後、悠久なる歴史路程を通して、人類が唯一の希望としてこいねがってきた喜びの日が実現されるときなのである。
原理講論、人類歴史の終末論 3.1
3. 新しい啓示
末世の時の啓示現象は、霊的復興とともに始まる。20 世紀に初代教会の異言と霊的現象が再び現れながら聖霊降臨主義が出現した。全世界的に新興宗教は、その宗教の創始者に与えられた特別啓示を土台として生まれた。このような霊的復興は、東洋と西洋で多様な形態で現れた。
その上、ユダヤ教とキリスト教の経典には、末世に神様が自分の真理を明らかにすると暗示している。その諸経典は、今日、神様の真理に対する人間の知識が不完全で誤りに陥っていると指摘する。イスラーム、仏教、そしてほかの諸宗教はどうか。真理は無窮無尽である。しかし、教理に対する論争と多様な宗派の教えによって、世界の主要な伝統宗教が苦労することとなった。末世には新しい真理が出てきて、真と偽りをはっきりと分別し、宗教的論争を終息させ、すべての人間を神様の前に導くだろう。新しい宗教が現れるとき常にそうであったように、伝統の教理に固着した人たちは、新しい真理が最初に現れるとき、それを拒否するようになるだろう。それでも、新しい真理が世界のあらゆる宗教の根本的な教えの特性を理解し、尊重しながら包容することができれば、世界中で大勢の支持者たちが現れるのであり、また一つの宗派として残るようにはならないだろう。
①完全な真理の出現
― 宗教経典 ―
「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。
ヨハネによる福音書16.25(キリスト教)31
わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
コリントの信徒への手紙一13.9 ~12
(キリスト教)32
われは真理によって、なんじに経典を下した。……なんじらはこぞって、神に帰るのである。そのときかれは、なんじらが論争していたことについて、告げたもう。(注 8)
クルアーン 5.48(イスラーム)33
私たちの時代と主が来られる時がどのように異なるのだろうか。真理に対する純度と造詣が異なるのである。
ゾハール、創世記139a(ユダヤ教)34
言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
ヨハネによる福音書16.12 ~15(キリスト教)35
『神は言われる。終わりの時に、/ わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/ 若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/ そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。』」
使徒言行録 2.17 ~18(キリスト教)36
「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」(創世記1章3節)主なる神がたとえ地上の存在にこのように語られたとしても、ここでの「光」は、世の中を動かすその光を意味する。神が創造された本然の光は、これよりもっと次元の高い、神の目から出てくる光である。聖なるその方は、アダムにこれを見せてあげ、それによりアダムもすべての世を見ることができた。ダビデがこれを見たとき、彼は霊的な恍惚感にはまってこのように叫んだ。「御恵みはいかに豊かなことでしょう。」(詩編 31章 20 節)この光を通して神はモーセにギレアデからダンまで続く約束の地を見せた。しかし、太初からこの聖なる光は隠されていた。天はエノク、ノア時代、バベルの塔を築いた当代の人間たちが、これを利己的な目的に使うのではないかと心配したのである。……ラビ・イサクが言った。「主なる神の創造の課業によりつくられたその光は華麗であるので、この世界をいっぱいに満たした。しかし、結局は痕跡を隠した。なぜそのようになったのか。善の法を破る者たちが、その光を利用できないようにするためである。そして、聖なる主は人の子(メシヤ)が現れるその日まで、この光を現されない。詩編97 章 11 節に『神に従う人のためには光を……』、この光が再び世に輝くとき、人類は更生し、より高等な生を生きるようになり、聖なる生命体と一つになるだろう。しかし、その前までこの聖なる光は暗闇の中に閉ざされている」。
ゾハール、創世記 31b 32a(ユダヤ教)37
― み言選集 ―
聖書はそれ自体が真理なのではなく、真理を教えるための教科書である。けれどもこの教科書は、その真理の重要な部分が、ほとんど象徴と比喩によって表現されている。したがって、それを解釈する方法においても、人により各々差異があるので、その差異によって多くの教派が派生してくるのである。ゆえに、教派分裂の第一原因は人間にあるのではなく、聖書自体にあるので、その分裂と闘争は継続して拡大されるほかはない。したがって、新しい真理が出現して、象徴と比喩で表現されている聖書の根本内容を、誰もが公認し得るように解明しない限り、教派分裂とその闘争の道を防ぐことはできないのであり、したがって、キリスト教の統一による復帰摂理の目的を成し遂げることはできないのである。それゆえに、イエスは「わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう」(ヨハネ16・25)と言われることによって、終末に至れば再び新しい真理のみ言を下さることを約束されたのである。
イエスは「わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」(ヨハネ3・12)と話されたみ言のとおり、ユダヤ人た
ちの不信によって、語ろうとするみ言も語り得ず、十字架に亡くなられたのであった。そればかりでなく、イエスは弟子たちにまでも、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ16・12)と、心の中にあるみ言を、みな話すことのできない悲しい心情を表明されたのである。しかしイエスが語り得ず、心の中に抱いたまま亡くなられたそのみ言は、永遠に秘密として残されるのではなく、「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネ16・13)と続いて言われたように、そのみ言は必ず聖霊により、新しい真理として教えてくださるようになっているのである。
原理講論、人類歴史の終末論 5.1
人間が堕落したがゆえに、「約束のみ言」が「成し遂げられたみ言」として現れることができませんでした。それで、旧約、新約というのです。約束のみ言、これが成し遂げられたみ言として現れなければなりません。今日これが世界人類の重大な問題であるにもかかわらず、人間たちは知らずにいます。
これは、天を尋ね求めていく聖徒たちが総団結して解決しなければならない問題、すなわちキリスト教の問題であり、汎宗教の問題なのです。
今日、この世界は分裂と紛争が起きている世界です。なぜこのような現象が起きるのでしょうか。イエス様がこの地に来られたときは、その世界は分裂の世界でした。それでイエス様は、この分裂と紛争を解決するためにみ言を語ってくださったのです。ところが、当時の人間たちが、イエス様のみ言を信じないことによって、この紛争と分裂が完全に解決できませんでした。これから、分裂と紛争で混沌としていくこの世界を収拾し、あらゆる主義と思想を統合できる完成のみ言が出てこなければなりません。
それで、皆さんは真の真理とは何か探し出さなければなりません。今日、この世界の歴史過程を見れば、数多くの民族と数多くの宗教がありましたが、一つの帰一点に向かって、統一の目標に向かって進んでいるのです。それでは、この統一の目標は、どのようなみ言を通して達成されるのですか。神様の約束のみ言によって統一されるのです。人類歴史は、神様の約束のみ言によって立てておいたその土台を抜け出すことはできません。それで、キリスト教を中心として世界の歴史が展開されてきたのです。これからは一つに統一させなければならない時になりました。それで、すべてのものを統一できる新しいみ言が、あらゆる知恵を備えて現れるでしょう。
(3-326、1958.2.2)
初代教会は異言を語り、神霊役事を行い、預言をし、ありとあらゆることをしました。……それで初代教会で起きた現象が終末のキリスト教の歴史世界に現れ、あちこちで狂った、異端だという言葉を聞く群れがたくさん出てくるのです。霊の召命を受けた人はあえてそのようにすることはできません。彼が理由を知らなければ、天が教えてくださるのです。彼が目を開ければ霊界を見て、彼が行動すれば霊界の人の行動をします。皆さんの目と皆さんの心と皆さんの行動とは、非常に異なります。狂った人のように見えます。昔のイエス様も賢い人に見えましたか。その当時の人たちが見るとき、間抜けであほうのように見えたのです。これからこのような霊的な現象が襲い、民族を襲い、教団を襲うでしょう。したがって、今日、世界的に、未知の精神系統の患者と神経系統の患者が幾何級数的に増えていっているのです。恐怖の世界、不安でいらだつ世界が近づいています。これは神様の息子であるイエス様が、焦燥感と不安感と興奮した心情をもって一生を過ごし、み旨に対されたからです。それで、世界的な運勢がそのように巻き込まれていくのです。
(6-184 ~185、1959.4.26)
イエスに従った弟子たちの中には、旧約聖書に執着していた人物は一人もおらず、もっぱら心に感応してくる神霊に従った人々だけであった。祈りを多くささげる人、あるいは良心的な人たちが、終末において甚だしい精神的な焦燥感を免れることができない理由は、彼らが、漠然たるものであるにせよ、神霊を感得して、心では新しい時代の摂理に従おうとしているにもかかわらず、体をこの方面に導いてくれる新しい真理に接することができないからである。それゆえに、神霊的にこのような状態に処している信徒たちが、彼らを新しい時代の摂理へと導くことができる新しい真理を聞くようになれば、神霊と真理が、同時に彼らの心霊と知能を開発させて、新しい時代に対する神の摂理的な要求を完全に認識することができるので、彼らは言葉に尽くせない喜びをもってそれに応じることができるのである。したがって、終末に処している現代人は、何よりもまず、謙遜な心をもって行う祈りを通じて、神霊的なものを感得し得るよう努力しなければならないのである。つぎには、因習的な観念にとらわれず、我々は我々の体を神霊に呼応させることによって、新しい時代の摂理へと導いてくれる新しい真理を探し求めなければならない。
原理講論、人類歴史の終末論 5.2
②新しい真理が以前の真理を代替する
― 宗教経典 ―
日昇らざる中はかの蛍も光を放つ。日昇れば光を集めて輝かず。外道等の輝くはかくの如し。正等覚者世に出でざる中は愚者は浄められず、弟子は輝かず。邪見の徒は苦より離れ得ざるなり。
感興偈 73(仏教)38
われが一節を他の一節に代えるとき、―神は、かれが啓示したもうことを最も良く知りたもう―かれらは、「おまえは一ねつ造者にすぎない」と言う。だがかれらの多くは知らないのである。言え「聖霊が真理をもって、なんじの主から啓示をもたらして来たのは、信仰するものを強固にするためであり、またムスリムたちへの導きであり吉報である」。(注 9)
クルアーン16.101~102(イスラーム)39
ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。……このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。
コリントの信徒への手紙二 3.7~16(キリスト教)40
その方の言葉─「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち」(マタイによる福音書 24.29)─は、以前、摂理の聖職者たちに対するものだった。彼らは後続的啓示の時代に生き、宗教を彼らの統制下においていた。もしこの聖職者たちが、以降の啓示の光によって改化されたなら、彼らは神に受け入れられ、永遠に光を発するだろう。そうでなければ、たとえ見た目には彼らが世人の指導者のように見えても、信仰と不信、指導と失敗、無上の幸福と悲惨、光と闇が、すべて真理の明けの明星であるその方の許諾に依存するがゆえに、彼らは開化されていないものと言われるだろう。……
また他の意味で、「日」、「月」、そして「星々」という用語は、祈りと断食の法規のように、各摂理時代において制定され、宣布されたものと同じ法規と教えと見なされる。クルアーンの律法によれば、預言者ムハンマドが死んだとき、これらはその方の摂理に最も根本的で拘束力のある律法と見なされてきた。……
ところが、聖職者の頑固さが、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち」という言葉で表現されており、すべてが象徴的言語となった(以前の)聖なる啓示により確固として設定された律法の廃棄が、神の顕現として予示されてきたことは確実で明確である。……
すべての引き続く啓示において、以前の摂理時代に制定され、当時の人々を暗く覆っていた教え、律法、戒め、禁止事項である「日」と「月」は暗くなった。すなわち、衰えるようになり、それらの影響力をこれ以上発揮しなかった。(注10)
確信の書 33 ~ 41(バハイ教)41
― み言選集 ―
人間がその本心の指向性によって神を求め、善の目的を成就するために必要な一つの手段として生まれてきたのが宗教であるとするならば、あらゆる宗教の目的は、同一のものでなければならない。しかし、それぞれの宗教の使命分野は、民族により、あるいは時代によってそれぞれ異なるものであり、それに伴って、上述のごとき理由から、その教典も各々異なるものとなってしまったので、各種各様の宗教が生まれるようになったのである。すなわち、教典というものは、真理の光を照らしだすともしびのようなものであり、周囲を照らすというその使命は同一であっても、それ以上に明るいともしびが現れたときには、それを機として、古いともしびの使命は終わるのである。既に論じたように、今日のいかなる宗教も、現世の人々を、死の影の谷間より命の光のもとへと導き返すだけの能力をもっていないということになれば、今や新たな光を発する新しい真理が現れなければならないといえるのである。(ヨハネによる福音書16:25)
原理講論、総序
日と月が光を失い星が空から落ちる(マタイ 24・29):創世記 37 章9節以下を見れば、ヤコブの 12 人の子供たちのうち、11 番目の息子であるヨセフが夢を見たとあり、その内容について「ヨセフはまた一つの夢を見て、それを兄弟たちに語って言った、『私はまた夢を見ました。日と月と 11 の星とが私を拝みました』。彼はこれを父と兄弟たちに語ったので、父は彼をとがめて言った、『あなたが見たその夢はどういうのか。
ほんとうにわたしとあなたの母と、兄弟たちとが行って地に伏し、あなたを拝むのか』」と記録されている。ところがヨセフが成長して、エジプトの総理大臣になったとき、まさしくこの夢のとおり、その父母と兄弟たちが彼を拝んだのである。この聖書のみ言を見れば、日と月は父母を象徴したのであり、星は子女たちを象徴したものだということを知ることができる。
キリスト論で述べるように、イエスと聖霊はアダムとエバの代わりに、人類を重生させてくださる真の父母として来られたのである。それゆえに、日と月はイエスと聖霊を象徴しているのであり、星は子女に該当するキリスト教徒たちを象徴しているのである。聖書の中で、イエスを真の光に例えたのは(ヨハネ1・9)、その肉体がみ言によってつくられたお方として来られ(ヨハネ1・14)、真理の光を発したからであった。ゆえに、ここでいっている日の光とは、イエスの言われたみ言の光をいうのであり、月の光とは、真理のみ霊として来られた聖霊(ヨハネ16・13)の光をいうのである。したがって、日と月が光を失うというのは、イエスと聖霊による新約のみ言が、光を失うようになるということを意味するのである。
では何故、新約のみ言が、光を失うようになるのであろうか。それはちょうど、イエスと聖霊が来られて、旧約のみ言を成就するための新約のみ言を下さることにより、旧約のみ言が光を失うようになったと同様に、イエスが再臨されて、新約のみ言を成就し、新しい天と新しい地とをたてられるので(黙 21・1)そのときの新しいみ言によって(本章第5節(1)参照)初臨のときに下さった新約のみ言はその光を失うようになるのである。ここにおいて、み言がその光を失うというのは、新しい時代がくることによって、そのみ言の使命期間が過ぎさるということを意味する。
また、星が落ちるというのは、終末において、多くのキリスト教徒たちがつまずき落ちるようになる、ということを意味するのである。メシヤの降臨を熱望してきたユダヤ教の指導者たちが、メシヤとして来られたイエスを知らず、彼に反対して落ちてしまったように、イエスの再臨を熱望しているキリスト教徒たちも、十分注意しないと、その日にはつまずき落ちてしまうであろうということを預言されたのである(後編第六章第二節参照)。
ルカ福音書 18 章8節に、「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」と言われたみ言、あるいは、マタイ福音書7章 23 節に、イエスが再臨されるとき、信仰の篤い信徒たちに向かって「不法を働く者ども」と責められ、さらに、 「行ってしまえ」と、排斥されるようなことを言われたのも、とりもなおさず、終末において、信徒たちがつまずき落ちるということを予知され、そのように警告されたのである。
原理講論、人類歴史の終末論 3.2.5
4. 主の日に対する認識
私たちは、どのように末世が切迫していることを認識できるのだろうか。歴史上、何度も千年王国運動が起き、メシヤの降臨を宣布したが、予定されたどの徴候も現れず、追従者たちを失望させるケースをよく経験した。私たちは、その徴候の性格に関心を集中する。すなわち、メシヤが雲に乗ってくる超自然的大変化が起きるのか、あるいは季節の変化のように、数カ月、数年をおいて起きる自然的な過程なのか。
一部の経典の章句では、神様の計画は誰にも分からないと言いながら、そのような見解自体を遮断する。彼らは、「偽キリスト」が愚かな人たちを誤って導くことがあるため、私たちに性急な扇動に簡単についていかないよう注意を促す。ある章句は、準備された人たちは、再臨主を迎えることができると教示しながら、信仰と忍耐を要求する。またほかの経典の章句は、メシヤの降臨を計算できる根拠を提示し、それを拡大解釈したりもしている。その中で私たちは、第7日の千年王国、すなわち
①臆測は多いが終わりの日が分からない
― 宗教経典 ―
イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。……「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。
マタイによる福音書 24.4 ~ 6、36
(キリスト教)42
かれらは最後の審判の時について、いつそれが来るのかと、なんじに問うであろう。言え「それを知る方は、ただわたしの主のみであられる、その時を出現し得るものはかれのほかにない。それこそは、天と地を通じての重大事である。全く突然なんじらに来るであろう」。かれらはなんじらがそれについて熟知しているかのよう、なんじに問う。言え「それを知る方は、ただ神のみであられる。だが人びとの多くはわからない」。
クルアーン 7.187(イスラーム)43
盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。
テサロニケの信徒への手紙一 5.2~6
(キリスト教)44
― み言選集 ―
終わりに日には、誰の言葉も聞いてはいけないと言いました。ここに来て語る人の言葉も信じるなということです。いくら血と汗を流して話をしても聞くなというのです。どちらが偽りで、どちらが真なのか分かりません。自分の父母も信じることができず、兄弟も安息の千年王国建設の根拠として、キリスト教とユダヤ教の経典の章句を引用した。これは文鮮明先生の「成約時代」、すなわちアダム以降 6000 年の聖書歴史が終わる時点から始まる千年王国建設時代と一致する。
最後に福音がすべての国に伝播されるまで末世は来ないという聖書の教えに基づき、メシヤ降臨の前兆となる 20 世紀の世界歴史の変化に関する文鮮明先生の教えを見てみることにする。
信じることができないのに、誰を信じるというのですか。
今の時は、心の審判から自ら勝利しなければなりません。心の審判、心で審判して、間違っていれば切ってしまわなければなりません。心は知っています。あらゆる面において心の審判をしなければならないのです。それができなければ、終わりの日には、頭に油を塗って密室に入り、祈祷して談判しなければなりません。教派も多く、優れているという人も多いのですが、終わりの日に神様は何を準備されたのですか。主が臨むことのできる環境基盤はどれですか。どのようなものが主の理念世界を建設できる民ですか。祈祷してみましたか。死ぬ穴なのかそうでないのか分からず、むやみに口を開いてもがきながら騒いでいるというのです。
(9-265、1960.6.5)
イエスは、一方では、「もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう」(黙3・3)と言われながら、その反面においては、テサロニケⅠ5章4節にあるごとく、光の中にいる人には、盗人のように不意に襲うことはないであろうとも言われているのである。イエスの初臨の際に起こったことを見ても、イエスは、暗闇の中にいた祭司長たちや律法学者たちに対しては、事実、盗人のように来られたが、光の中にいた洗礼ヨハネの家庭には、イエスの誕生に関することが前もって知らされたし、また、彼が誕生したときには、東方の博士たち(マタイ2・1、2)、シメオン、アンナ、羊飼いたちには、その事実を知らせてくださったのである。……
復帰摂理路程に現れた例から見ても、神はノアの審判のときや、ソドムとゴモラを滅ぼされるとき、あるいは、メシヤの降臨のときにおいても、常にその事実を預言者たちにあらかじめ知らせてから摂理されたのであった。したがって、神は、イエスの再臨に関しても、終末のときには神の霊をすべての人に注ぐと約束されたように(使徒2・17)、光の中にいるすべての信徒たちを通じて、耳と目とをもっている人たちには、必ず見ることができ、聞くことができるように、啓示してくださることは明らかである。
原理講論、再臨論
②準備しなければその時を知ることはできない
― 宗教経典 ―
マリヤの息子があなたたちの中に降臨するとき、またイマームがあなたたちの中にいるようになるとき、あなたたちの状態はどのようになるか。マリヤの息子が降臨し、あなたたちを導くとき、あなたたちは何をするのか。(注 11)
ムスリム・ハディース(イスラーム)45
人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。
ルカによる福音書18.8(キリスト教)46
そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。」賢いおとめたちは答えた。
「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。」愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、「御主人様、御主人様、開けてください」と言った。しかし主人は、 「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。
マタイによる福音書 25.1~13(キリスト教)47
ラビ・ヨシュア・ベン・レビが、ラビ・シミオン・ベン・ヨハイの洞窟の入り口でエリヤと出会った。彼はエリヤに尋ねた。「救い主はいつ来られますか」。エリヤが答えた。「出ていって彼に尋ねてみなさい」、「その方はどこにいらっしゃいますか」、「ローマの城門の前にいらっしゃる」、「それでは、どのようにその方を見分けることができますか」、「傷ついて苦しむ人たちの間に座っていらっしゃる方だ。他の人たちは包帯を解いて一度にまた巻く。しかしその方は、一つずつ分けて巻かれる。『召喚されたり、獄に閉じ込められてはいけない』と思われるため、そのようにされる」。
ラビ・ヨシュアがその方を訪ねたあとに言った。「あなたに平和が共にあらんことを、私の主人であり師よ」。救い主が答えられた。「あなたにも平和が共にあるように、レビの息子よ」。ラビ・ヨシュアが尋ねた。「主はいつ来られますか」。彼が答えられた。「きょう来られる」。
そして、ラビ・ヨシュアがエリヤのところに戻ってきた。エリヤが彼に尋ねた。「その方は何と言われたか」「あなたと平和が共にあるように、レビの息子よ」。エリヤが言った。「その方は、あなたとあなたの父にこれから訪れる世を確認させてくださった」。ラビが言った。「ところが、私に間違ったことをおっしゃいました。きょう来られると言われたのですが、結局来られませんでした」。するとエリヤが言った。「その方は詩編の『今日こそ、主の声に聞き従わなければならない』(詩編 97章7節)を意味されたのである」。(注12)
タルムード、サンヘドリン 98a(ユダヤ教)48
「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
ルカによる福音書 21.34 ~ 36(キリスト教)49
― み言選集 ―
すべてのものを捨てなければならない時が来るのですが、その時が終わりの日です。そのような終わりの日に神様のみ旨はどのように現れ、神様の真理と愛と生命がどのような所に現れるのでしょうか。そこは、すべての人間の希望であり、求めていかなければならない中心なのです。したがって、皆さんがそこを知らなければ、心を立てて磨きながら準備しなければなりません。そのように準備していれば、そこに行こうとしなくても、いつか自然にそこに行くことができるようになるのです。それでは、どちらが真で、どちらが偽りかは、何をもって分別できるのでしょうか。この時には、神様も真と偽りを教えてあげることはできません。神様がどのようなものが真だと教えてあげたあとには、その反対に偽りだと教えてあげなければなりません。(注13)ですから、人間自身が分別しなければならず、人間自身が決定しなければならず、人間自身が探し立てなければなりません。したがって、皆さんは、10人の乙女の例えの中で、あかりを準備した思慮深い5人の乙女だけが主を迎えた、という聖書のみ言の意味を学ばなければなりません。
(2-136、1957.3.17)
主が来るのですが、どのように来るのですか。昔、ユダヤ教を通してイエス様が来ましたが、失敗しました。それで、今回はキリスト教、すなわち第2イスラエルを通して来られるようになります。第1イスラエルが失敗したので、第2イスラエルを通して来られるのです。それでは、主が来られるときにどのように来られるのでしょうか。聖書に主は雲に乗ってやって来ると教えているので、キリスト教徒たちはそのように信じています。主が人としてやって来るという話は、今まで聞いたことがありません。しかし、時が来るに従って、神霊的な人たちが彼を証するのです。誰が証するのですか。男性よりも女性が証します。昔の宗教歴史は、おばあさんから始まりました。70歳以上の老人たちを中心として。もちろん 60 歳以上のおばあさんも神霊体験をするにはしましたが、年を取ったおばあさんを通して主が人として来ることを教え始め、終わりの日に準備するようにしたのです。
(208-306、1990.11.21)
③第7の千年王国安息
― 宗教経典 ―
第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。
ヨハネの黙示録 20.6(キリスト教)50
カナンの地に7年ごとに1年、解放の年があるように、この世界にも 7000年目に訪れてくる解放の 1000 年がある。イザヤ書2章 17 節に、「主はただひとり、高く上げられる」、また、詩編 92 章1節には、「賛歌。歌。安息日に」、ここでは長い安息の期間を意味し、また、詩編 90 章4節では、「千年といえども御目には / 昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません」と記録されている。タンナ・デベ・エリヤフは教える。世の中は 6000 年続く。このうち 2000年は無秩序の期間であり、他の 2000年は法で統治する時代であり、残りの2000 年は主が来られる時だ。しかし、私たちの不正のために、メシヤが来られる徴表もなく最後の 2000 年の相当な時間が既に過ぎてしまった。
タルムード、サンヘドリン 97a(ユダヤ教)51
6000 年の 600 年が過ぎれば、上には知恵の門と下には知恵の噴水が開かれるだろう。そして、ちょうど一週間の6 日目の日の日が沈み始めるとき、私たちが安息日を準備するように、世の中は 7000 年の世界に入っていく準備をするのである。……聖なるその方は、メシヤが降臨してこの世に現れることを大きく願われない。しかし、メシヤの時が近づいてくれば、幼い子供でさえ知恵の秘密を知るようになり、そして新千年の時を数えるようになる。その時には、あらゆる秘密が万民に現れるだろう。……「主が御自分の業を喜び祝われるように」(詩編 104 章 31節)。天は霊たちが地上に下りてきて、新しい存在として生まれるようにされるだろう。そして、彼らが世の中に属するようにしようとされる。安息日に入る 6000 年の終わりに生き残った者たちはどれほど幸福か。この日は、聖なる主、神が霊たちを連合し、地上に残った者たちに合流する霊たちを選択することに決めた日である。「シオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる」(イザヤ書4章3節)。
ゾハール1.117a 19a(ユダヤ教)52
お前の民と聖なる都に対して / 七十週が定められている。それが過ぎると逆らいは終わり / 罪は封じられ、不義は償われる。とこしえの正義が到来し / 幻と預言は封じられ / 最も聖なる者に油が注がれる。これを知り、目覚めよ。エルサレム復興と再建についての / 御言葉が出されてから / 油注がれた君の到来まで / 七週あり、また、六十二週あって / 危機のうちに広場と堀は再建される。その六十二週のあと油注がれた者は / 不当に断たれ / 都と聖所は / 次に来る指導者の民によって荒らされる。その終わりには洪水があり / 終わりまで戦いが続き / 荒廃は避けられない。彼は一週の間、多くの者と同盟を固め / 半週でいけにえと献げ物を廃止する。憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。」
ダニエル書 9.24 ~ 27(キリスト教)53
聖書の表現から知られるように、諸時代を日々として数え、それに従って時代区分をあげるならば、わたしたちの安息は明らかに第7日に求められるであろう。第1の時代がいわば第1日で、これはアダムから洪水に至るまでである。第2の時代はそれからアブラハムまでである。その経過した年数は同じではないが、それぞれ 10 世代という世代の数は同じである。そのあと、福音書記者マタイが区切っているように、キリスト降誕に至るまで三つの時代がある。それぞれが 14 世代であると数えられる。まず第1はアブラハムからダビデまで、第2はダビデからバビロン捕囚まで、第3はそれからキリストの肉における誕生までである。以上で五つの時代となる。わたしたちの生きているのは第6の時代であるが、この長さを数でもって測ることはできない。というのも、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」(使徒言行録1章7節)と言われているからである。そのあとのいわば第7日に、神は休むであろう。そしてわたしたちがそうである同じ第7日を、わたしたちは神自身のうちにあって休みとなすであろう。
アウグスティヌス 神の国 22.30(キリスト教)54
― み言選集 ―
神様は僕を立てて、「私がお前の父だ」と教えてくださいました。僕に命じて、天使に命じて教えてくださいました。そのような時代が旧約時代です。次には、息子に命じて役事しました。その時代が新約時代です。その次には、聖霊に命じて役事してこられたのです。
(10-198、1960.10.2)
アダムからアブラハムまでの 2000年期間は、人間がまだ復帰摂理のための神のみ言を直接受け得るような蕩減条件を立てることができない時代であった。それゆえに、この時代は堕落人間が供え物による蕩減条件を立てることによってのみ、次の時代に、み言による摂理をなすことができる基台を造成し得る時代であったので、この時代を「み言の基台摂理時代」という。また、アブラハムからイエスまでの 2000 年期間は、旧約のみ言によって、人間の心霊と知能の程度が蘇生級まで成長する時代であったので、この時代を「蘇生旧約時代」という。そして、イエスから再臨期までの 2000 年期間は、新約のみ言によって、人間の心霊と知能の程度が長成級まで成長する時代であったので、この時代を「長成新約時代」という。……イエスからその再臨期までの 2000 年期間は、イエスが十字架で亡くなられることによって、サタンに奪われるようになった旧約時代の 2000 年期間を、キリスト教信徒たちを中心として、天のものとして再蕩減復帰する時代であったので、この時代を「蕩減復帰摂理延長時代」という。イエスの再臨以後の復帰摂理完成時代は、サタンに奪われた復帰摂理の全路程を、天のものとして完全に蕩減復帰する時代であるので、この時代を「蕩減復帰摂理完成時代」という。
原理講論、後編緒論 2.2.1
パウロも、コリント人への第一の手紙第 13 章で、「信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」と言いました。ところが、私たち人間は堕落によって希望を失ってしまい、信仰を失ってしまいました。希望と信仰を失ってしまうことによって、神様を中心とする愛を失ってしまったのです。これを復帰するためのものが今までの 6000 年復帰摂理歴史であることを、私たちは知らなければなりません。それでは、今まで 6000 年歴史は、何をするための歴史だったのでしょうか。人間が堕落することによって失ってしまった希望と信仰と愛を回復するための歴史でした。今まで神様は、それを回復するために苦労してこられたのです。ところが、今日は希望と信仰の時期を経て愛の時代にいなければならない時なのに、まだ信仰の時にとどまっているというのです。それでは、希望は何を象徴したのでしょうか。神様の新しいみ言を象徴しました。また、信仰は何を象徴したのでしょうか。それは神様の真の息子、娘になることを象徴しました。真の息子、娘を探し立てるために、信仰を象徴としてきたのです。そして、これからは神様の愛を中心として、私という個体が完成したのちに家庭を求めて入っていってこそ、そこに初めて神様の愛が成立することを皆さんは知らなければなりません。
(5-108、1959.1.4)
④時代的徴候
― 宗教経典 ―
御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。
マタイによる福音書 24.14(キリスト教)55
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
マタイによる福音書 24.32(キリスト教)56
見よ、わたしの民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る、と主は言われる。主は言われる。わたしは、彼らを先祖に与えた国土に連れ戻し、これを所有させる。
エレミヤ書 30.3(キリスト教)57
まことにイエスは、審判の時のしるしの一つである、それゆえにその時について疑ってはならぬ、そしてわしに従え。これが、直き道である。(注14)
クルアーン 43.61(イスラーム)58
― み言選集 ―
摂理的な恵沢によって、生きていらっしゃる神様が私たちの至近にいらっしゃいます。これからは、人類がかつて経験してみることのできなかった霊的な経験、すなわち超越の世界とたくさん交流するようになるでしょう。頻繁に起きる霊的役事によって、人類は直接、間接に大きな影響を受けるようになるのです。特に、神様と善霊の役事によって感化を経験した人間は、神様を中心として霊性の啓発とともに、決定的な人格変化を起こすようになるでしょう。このように、天道にふさわしい人格に変わった者が、すなわち神様が願われた真の人です。
( 神様の祖国と平和UN、2003.2.6)
真の父母が来られる時になれば、世界のすべての国家が兄弟の因縁をもつので、第2次世界大戦後に、戦勝国家が敗戦国家をすべて解放させるということが起こったのです。これは、兄の立場から弟をたたいて捕まえたので……。そのような非正常的な歴史的現象が起こってきたのです。歴史が願いつつ訪ねきたこととは何かというと、真の父母に出会うことでした。宗教が出てきたのも真の父母に出会うためです。世界が出てきたのも真の父母を探すため、国が出てきたのも真の父母を探すためです。真の父母の道を備えるために出てきたのです。
(51-354、1971.12.5)
文化圏の発展においても、一つの宗教を中心として一つの世界的な文化圏を形成しているのであり、国家形態においても、一つの世界的な主権機構を指向して、国際連盟から国際連合へと、そして今日に至っては、世界政府を模索するというところにまでこぎつけてきているのである。そればかりでなく、経済的発展を見ても、世界は一つの共同市場をつくっていくという趨勢におかれており、また、極度に発達した交通機関と通信機関は、時間と空間を短縮させて、人間が地球を一つの庭園のように歩き、また、行き来できるようにさせているのであり、東西の異民族同士が、一つの家庭のように接触することができるようになってきたのである。人類は四海同胞の兄弟愛を叫んでいる。しかし、家庭は父母がいて初めて成り立つのであり、また、そこにおいてのみ、真の兄弟愛は生まれてくるのである。したがって、今や人類の親であるイエスだけが再臨すれば、全人類は一つの庭園において、一つの大家族をつくり、一家団欒して生活し得るようになっているのである。このような事実を見ても、現代は終末であるに相違ないのである。こうして流れてきた歴史が人類に与えるべき一つの最後の賜物がある。それは、何らの目的なくして一つの庭園に集まり、ざわめいている旅人たちを、同じ父母を中心とする一つの家族として結びあわせることができる天宙的な理念であるといわなければならない。
原理講論、人類歴史の終末論 4.3
5. メシヤ
多くの宗教の経典は、地上に神様のみ旨を完成する指導者が顕現するという事実に言及している。彼は、神様の正義と愛をもって罪悪を退け、地上天国を建設していく人である。ヘブライ語でメシヤ―ギリシャ語ではキリスト―は「油を注がれた者」、すなわち神様の使命を受け、それを具現する能力を賦与された特別に選択された人である。メシヤという用語は、ユダヤ教とキリスト教に限定された概念だが、一人の指導者が現れ、天の使命を完遂するという預言は、あらゆる経典でほぼ一般的に言及される。仏教信者たちは弥勒仏の顕現を期待し、ヒンドゥー教の預言は未来のカルキの降臨について語っている。ムスリムはムスリムたちのイマーム、イエスの再臨を期待し、シーア派のムスリムたちは未来のイマーム、マフディを待つ。ゾロアスター教の経典はサオシュヤントの降臨を預言し、儒教の経典はこの世に孔子の道を完璧に具現し、平和を実現する真人の出現を示唆する。この世界が狭くなり、相互の文化的交流が増大しながら、人類救援の課業はす
①すべての宗教が約束したメシヤ、救世主
― 宗教経典 ―
わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え / この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ / イスラエルは安らかに住む。彼の名は、 「主は我らの救い」と呼ばれる。
エレミヤ書 23.5 ~ 6(キリスト教)59
「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。
ヨハネの黙示録 22.20(キリスト教)60
まさにそのとき、仏が世に出現するであろう。弥勒という名であり、如来、至真、等正覚などの十号をのこらずそなえていて、現在の如来が十号をのこらずもっているのとかわらない。彼はかみがみや帝釈、梵天、魔あるいは魔天、沙門、婆羅門、神々や世間の人々のいるところで、みずから悟りをひらくのとかわるところがない。彼は当然法を説くであろう。言葉のはじまりは善く、中ほどもおしまいも善く、内容と表現が充実しており、わたしが今日法を説いてはじめ、中ほど、おわりの言葉がすべて正しく、内容と表現が充実していて、梵行が清浄なのと同じである。彼の弟子たちは無数千万もいるであろうが、わたしに現在、弟子が数百人いるのと同じである。(注15)
阿含経長部 iii.76(仏教)61
マリヤの息子があなたたちの中に降臨するとき、またイマームがあなたたちの中にいるようになるとき、あなたたちの状態はどのようになるか。マリヤの息子が降臨し、あなたたちを導くとき、あなたたちは何をするのか。(注16)
ムスリム・ハディース(イスラーム)62
世界国家を成し遂げる者が来て、彼らの反社会的犯罪を剔抉し、民を支配するようになるだろう。彼は人類のための救援者を送る。彼は地上の隠されべての宗教に委任された。したがって、神様は一人の方を地上に送り、すべての宗教的希望を現実化するだろう。次の段落の章句は、この問題に関する文鮮明先生の広範囲な教えにより、救世主の降臨に関する特別な預言を提示する。メシヤは雲に乗って超自然的に顕現するのか、あるいは地上で生まれ、一人の人間の成長過程を経る自然的方式で顕現するのか、メシヤは栄光の中に現れるのか、あるいはイエスがそうだったように苦難と屈辱の道を歩むのか、メシヤは神様なのか、あるいは神様に似た新しい人間の「最初の実」なのか、そして、どうしてメシヤはアダムに比喩され、どのような意味で彼は新しいアダムなのか、小羊の婚宴の意味は何か、そしてメシヤはイスラエルに対して特別な使命をもっているのか。最後の段落の章句は、メシヤがアジアから、より具体的に韓国から出現するというノストラダムスとアジア神秘主義者の預言によって構成されている。特に、韓国の預言は、文鮮明先生のメシヤ使命の自覚と直接関連している。た富をあらわにし、欠乏した者に公平に分配してくれる。彼はあなたたちに質素な生活と高邁な思考を教えてくれる。彼はあなたたちに、徳目というものは両極の間に中庸を取り、公平と正義に基づく性格の状態であることを理解させてくれる。彼は、世の中の人々が死んだ内容だと軽視していた聖クルアーンと聖預言者の伝承を再び復活させる。……彼は、学問的土台と優れた知識で自らを保護し防御する。このような(知識の)資源に対する彼の統制も完全なため、彼はそれらがどれほど高貴で、どれほど注意深く使われなければならないかということを知らせる。彼の心は、人類に害悪と損傷を及ぼそうとする欲望をもたない。彼のそのような知識は、他の人々に間違って所有された財産を、再所有して使うための許諾を長い間待っているのと同じだ。最初に彼は、見ず知らずの見捨てられた貧しい放浪客に映り、そしてそのときイスラームは希望がなく、頭を下げてしっぽを振る気力の尽きたラクダの無力な状態にあるかもしれない。そのように出発し、彼はこの世に神の帝国を建設する。彼は、人類を正しい人生の道に精通するようにしようとする、神の慈悲深い御意志に対する最後の証であり実現なのである。
ナフジュ・アル・バラーガ 説教141、187
(シーア派イスラーム)63
ヴェーダによって教えられた実践と法の原則がとだえ、そしてカリの時代の終わりが近くに迫った時、ブラフマの性質の中にその霊的性質を持つその神聖な存在の一部が、始まりであり終わりでもある方が、そして全存在を理解する方が、地上に降り立つであろう。彼はシャンバラ村の有名なバラモンの家庭にカルキとして、八つの超人間的な機能を授けられて生まれるであろう。彼はその圧倒的な力によって野蛮人と盗賊と悪に魂を売り渡した者達を壊滅させるであろう。その後彼らは地上に再び正義を立てるであろう。そしてカリの時代の最後に生きた者達の心は覚醒され、水晶の様に澄み渡るであろう。この特別な時のおかげで変わった人々は人類の種となり、清浄の時代であるクリタ時代の法に従う人種を生み出すであろう。これについては次の様に言われている。「日と月、そして月の星群ティーシャと木星とが一つの家に住むとき、クリタ時代が帰ってくるであろう。」
ヴィシュヌ・プラーナ 4.24(ヒンドゥー教)64
彼は勝利した恩人、世界の改造者と名づけられるだろう。彼は、物質世界全体に恩恵を施すがゆえに恩人であり、体をもつ生命体を不滅のものにするがゆえに、世界の改造者と言うだろう。彼は二本足の獣(人間)の子孫たちがほしいままに行う悪に対抗し、信じる者たちがもつ敵意にもよく耐えることだろう。
アヴェスター・ヤシュト13.129(ゾロアスター教)65
ただ天下の至誠のみが、聡明英知で、(天下を)治めることができ、寛容温和で(民衆を)十分に包容することができ、剛勇剛毅で、 (物事を)十分に決断することができ、厳粛中正で、十分に慎み深く、礼義条理を細かく明らめていて、十分に(理義を)弁別することができるのである。あまねく広く、静かで深く本源があり、時あって外に発現してくる。あまねく広いことは(全てを照らす)天に似ており、思慮の深い淵のようである。現れれば、民で敬しない者なく、言えば民で信じない者なく、行なえば、民で喜ばない者はない。こういうわけで、名声は中国に満ちあふれ、やがて蛮夷にまで及ぶ。船や車の行く所、人力の通ずる所、天の覆う所、地の載せる所、日・月の照らす所、霜・露の降りる所に至るまで、すべて生きてある者で、尊び親しまない者はない。だから天に並ぶというのである。ただ天下の至誠のみが、天下の五つの人倫を、より分けてさらにこれを合わせ(天下・後世の法とし)天下の大本である性の完全な本体を立て、天地の化育を知ることができるのである。 (誠以外の)物に依存して始めてできるのではない。きわめて懇ろで仁そのものであり、静かに深く淵そのままであり、広大なこと天そのままである。もし、真に聡明聖知で、天徳に通達している聖人でないならば、いったい誰が(聖人の徳を)知ることができようか。(注 17)
中庸 31~ 32(儒教)66
― み言選集 ―
今日のユダヤ教徒たちの志とキリスト教徒たちの志は何でしょうか。ユダヤ教が願うのもメシヤであり、キリスト教が願うのもメシヤです。同じように救世主を願います。皆さんがここで考えてみなければならないことは、ユダヤ教徒が願うメシヤとキリスト教徒が願うメシヤは違うのか、二人なのかということです。そうではありません。一人です。なぜですか。神様のみ旨は一つであり、サタンを屈服させて神様のみ旨を成し遂げることは一人がしなければならないので、一人のメシヤであることは間違いないのです。
(73-206、1974.9.18)
今日、キリスト教では主が再臨するといいます。仏教では弥勒仏がこの地に来て、儒教では真人がこの地に現れるといいます。各宗教が主の再現を語っています。これは聖書のみ言をそのとおりに再現するという話ではありません。その方は、聖書のみ言を再現する主人公、何かの道のみ言を再び行う主人公ではありません。高次的な内容の新しいみ言をもって再現する主人公を意味します。
(7-198、1959.9.6)
神様の立場から見れば世界は一つです。世界は一つだというのです。このようなことを見てみるとき、ここに一人を立てたなら、その一人を代表として立てたので、それは世界的です。ここに東洋人も立つことができ、ここに西洋人も立つことができ、アフリカ人も立つことができ、どのような人でも立つことができるのです。これが高まるほど、世界的な代表です。世界的な一つの宗教の代表として糾合していくのです。それで、一人の宗教責任者を立て……。その宗教は世界的な宗教として発展してくるのです。今、世界的に4大宗教が出てきていますが、これをすべて糾合するために、ここからこの直線でこのように……すべて直線で上がってくるのです。ここからここまで通じることができる一つの道を築き、この地上に来てこの世界を救うための一つの中心的存在がなければならないという結論が出てきます。それが総合的な預言者です。そのような存在がメシヤです。……それで「メシヤという存在は、必ず宗教と切り離すことができない思想をもってくる」という結論が出てきます。それは、なぜそうなのでしょうか。彼は、神様のみ旨、人間の志を完成しようとするのですが、アダムとエバがこれを失敗し、神様もアダムとエバを主管できなくなったために、アダムが完成できる内容と神様が完成した内容をもっているのです。ですから、神様のみ旨を中心として地の完成のために来るという結論が出てきます。
(91-276、1977.2.27)
②メシヤの使命:罪悪の清算と神様の王国創建
― 宗教経典 ―
わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、 「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があった。この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた。そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた。この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。
ヨハネの黙示録19.11~16(キリスト教)67
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神 /永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し / 平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
イザヤ書 9.5 ~ 6(キリスト教)68
世界国家を成し遂げる者が来て、彼らの反社会的犯罪を剔抉し、民を支配するようになるだろう。彼は人類のための救援者を送る。彼は地上の隠された富をあらわにし、欠乏した者に公平に分配してくれる。彼はあなたたちに質素な生活と高邁な思考を教えてくれる。
ナフジュ・アル・バラーガ 説教141、187
(シーア派イスラーム)69
そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。
マタイ福音書 24.30 ~ 31(キリスト教)70
― み言選集 ―
救世主が来る! 主人が来る! その主人は、来て何をするのですか。……救世主が願う世界は、このような世界です。その世界こそ、神様が願い、神様が喜び得る世界です。そして、神様が喜ぶと同時に、神様と共に始まった私たちの良心が喜ぶ世界です。そして、ここにはあらゆる人種差別、国境問題、歴史的背景など、伝統思想が問題になりません。それこそ、共通的であり、神観において一致でき、一致したその内容は天と共に共鳴できる相対基準です。そのような場に臨み、この世界に向かってお出ましになる一日が来るのです。その一日が成し遂げられた日が、救世主がこの地に来る日です。キリスト教で言えば、再臨主が来る日です。
(160-345、1969.6.15)
メシヤが来た目的とは何でしょうか。それは、神様のみ旨を成し遂げることと同様の目的です。メシヤが来れば、サタンの主権を破壊できるのです。サタン世界の人を取り戻してこなければなりません。それで、故障していない姿にすべて修繕して移しておくために来られるのです。皆さんが聖書を見れば、接ぎ木するという比喩も、そのような意味になるのです。結局、メシヤは、神様がこの宇宙を主管できる主権者にするために送ったのです。
(73-206、1974.9.18)
今日のキリスト教の信者たちが、「ああ、イエスは雲に乗ってこなければならない!」と言うのは、すべて荒唐無稽な論理です。 「神様の能力でできる!」と言うのですが、その能力でできるのであれば、イエスを送る必要もなく、信じるようにする必要もなく、神様がすべて対処していたのです。……今までの文化世界の歴史を 6000 年と見ているのですが、この 6000 年間神様が摂理され、あれほどの全知全能な神様が救援摂理を今までされても、完成したアダムの代身者としてのメシヤをこの地上にいまだに送れていないことを知らなければなりません。ですから、今日の人類世界の中で、真の神様のみ旨の完成と人類の理想的完成を成した、男性として過去、現在、未来の全歴史を代表できる標準型の人物と、いまだに出会えていないのです。そのような一人の男性を準備して、人類の前に再びメシヤとして送ると約束したのが再臨思想だというのです。全世界のキリスト教徒たちが願うのがメシヤですが、メシヤをどのように迎えるのかということが大きな問題です。一般のキリスト教徒たちは、メシヤが来ればすべて解決すると思っているのですが、違うというのです。メシヤが来て田を耕し、種を再び蒔まかなければならないことを知らずにいます。
(90-141、1976.12.25)
③メシヤの使命:真の人間と真の家庭の回復
― 宗教経典 ―
メシヤが来られるとき、聖なるその方は、傷(アダムの罪)を治癒してくださるだろう。さらに、世の傷もまた治癒してくださるだろう。
創世記ラッバー10.4(ユダヤ教)71
燦然と輝く精神と完全に一つに統一された心と卓越した徳を具足した者、そのような者が真実にこの世の中で顕現する。彼が宝の法を説くとき、万民はこの上なく喜ぶがゆえに、これはちょうど、喉が渇いた者が、天から降ってくる甘露で喉を潤すのと同じである。また彼らはみな、苦海のサンサーラ(流転)を抜け出し、解脱の道を得るだろう。
弥勒上生経(仏教)72
「ハレルヤ、/ 全能者であり、/ わたしたちの神である主が王となられた。わたしたちは喜び、大いに喜び、/ 神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、/ 花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、/ 聖なる者たちの正しい行いである。」それから天使はわたしに、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」と言い、また、「これは、神の真実の言葉である」とも言った。
ヨハネの黙示録19.6 ~ 9
(キリスト教)73
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。(注18)
ヨハネの手紙一 3.2(キリスト教)74
― み言選集 ―
創世以降の真の個人、男性の標本的存在が、正に再び訪ねてこられる再臨主であられます。
(15-278、1965.10.30)
主は父母として来られます。真の父母として来られるのです。人間始祖が堕落することによって偽りの父母になったので、人類はすべてその偽りの父母の血と肉を受けて生まれました。それで、全人類を正常な神様の愛と一致するようにするために、真の父母の因縁をもってこられる方が正にメシヤです。言い換えれば、アダムとエバが 6000年前に神様を中心として結婚しなければならなかったのですが、堕落することによってそのようにできなかったことを、6000 年が過ぎた今に至って再び収拾するために父母の資格をもってこられる方がキリスト教で言うメシヤであり、そのメシヤが新郎となって新婦を迎えるのが小羊の婚宴です。
(32-266、1970.7.19)
今後来られる主は、どのような使命をもってこられるのですか。堕落せずに善の父母の立場で完成しなければならない真の父母を失ってしまったので、それを再び成して、神様の愛を受ける真の父母の家庭から人類が再び愛を受けられる道を開いてあげるために来られる方が再臨主であることを知らなければなりません。
神様の愛を受ける息子、娘がこの地上で暮らし、家庭で天国に行くのが幸福でしょうか、ただよく信じて、母親は天国に行き、父親は地獄に行き、別々に分かれていくのが幸福でしょうか。父母から子女に至るまで、全体が入っていかなければなりません。それで、その家庭が入っていき、氏族が入っていき、国が入っていき、世界がすべて入っていかなければならないのです。
このような新しい父母を中心とする世界的な家庭がこれから生まれ、そこから因縁が結ばれ、人類歴史上になかった新しい愛の理想を中心とする、新しい文化と伝統がこの地球上に顕現するようになるとき、今日、この複雑で罪悪となった世界ではない、新しい地上天国になるのです。
(52-324、1972.2.3)
皆さん自身は、これからイエス様と同じ立場に立って氏族的なメシヤにならなければなりません。これが主流思想です。
(79-104、1975.6.22)
メシヤは、真の愛を中心とする家庭的理想を拡大させ得るモデルを意味するのです。個々人自体が王であり、真の父母、すなわちメシヤなのです。神様は真の父母であり、真の師であり、真の主人です。
(222-140、1991.10.26)
④メシヤの苦難路程
― 宗教経典 ―
しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。
ルカによる福音書17.25(キリスト教)75
到来する時になれば……族長たちがこのように言うだろう。「エフライム、私たちの義なるメシヤ、あなたは私たちの先祖ですが、私たちよりももっと偉大であられます。なぜなら、あなたは私たち子女たちの罪を担ってくださり、私たち子女が受けるべき罰を代わりに耐えてくださり、この世代の以前や以降にもそのようにする者がいないことをしてくださったからです。そして、あなたは、イスラエルの安寧のため、多くの国々の嘲弄の的になられ、嘲笑の的になられたのであり、暗闇の中に座っていらっしゃり、これ以上光を見ることのできない盲人にまでなられました。あなたは、骨と皮がつくほど痩せられ、体は木のように枯れ、あなたの視力は断食により喪失され、あなたの力は素焼きの土器の破片のようにひからびました。このすべてのことが私たち子女の罪によりあなたに起きました。神があなたの子女たちを豊かにしてくださり、この上ない幸福を味わって喜ぶことがあなたの御意志ではないですか。おそらく私たち子女の安全のために、手に負えないほどの苦痛をあなたが忍耐されたために、監獄に投獄され、足かせで束縛されたために、あなたの心は安らかであるはずがないではないですか」。メシヤがこれに答えられます。 「族長たちよ! 私が行ったすべてのことは、あなたたちとあなたたちの子女の安全のために、またあなたたちとあなたたちの子女たちの栄光のためであり、ゆえにあなたたちの子女が、神が豊かにされると予定された幸福を味わうようにするためだった」。そして、私たちの子女が答えるだろう。「あなたの心が慰労されることを願います。なぜなら、あなたがあなたの創造主であられる神の心を慰労してさしあげたのであり、また私たちの心を慰労してくださったからです」。(注19)
プスィクタ・ラッバティ162b ~ 63a(ユダヤ教)76
― み言選集 ―
再臨主は、初臨のときの復帰摂理路程を蕩減復帰しなければならないので、あたかも彼の初臨のとき、ユダヤ民族の不信によって、霊的復帰路程の苦難の路程を歩まれたように、再臨のときにおいても、もし第二イスラエルであるキリスト教信徒たちが不信に陥るならば、その霊的な苦難の路程を、再び実体をもって蕩減復帰されなければならないのである。イエスが「しかし、彼(イエス)はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」(ルカ17・25)と言われた理由は、とりもなおさず、ここにあるのである。
原理講論、モーセとイエスを中心とする復帰摂理 3.3.2
今日のキリスト教信徒たちも、イエスの初臨のときのユダヤ教徒と同じく、イエスが再臨されるならば、彼らが真っ先に主を迫害するようになる可能性があるということについては、前のところで既に詳しく論じたとおりである。
イエスは預言者たちによってもたらされた旧約のみ言を成就されたのち、その基台の上で新しい時代をつくるための目的をもって来られた方であったので、彼は旧約のみ言のみを繰り返して論ずるだけにとどまらず、新しい時代のための新しいみ言を与えてくださったのであった。ところが、祭司長と律法学者たちは、イエスのみ言を旧約聖書の言葉が示す範囲内で批判したため、そこからもたらされるつまずきによって、ついにイエスを十字架に引き渡す結果にまで至ったのである。
これと同様に、イエスが再臨される目的も、キリスト教信徒たちが築いてきた新約時代の霊的な救いの摂理の土台の上に、新しい天と新しい地を建設されようとするところにあるために(黙 21・1~4)、将来彼が再臨されれば、既に 2000 年前の昔に語り給うた新約のみ言を再び繰り返されるのではなく、新しい天と新しい地を建設するために必要な、新しいみ言を与えてくださるに相違ないのである。しかし、聖書の文字のみにとらわれている今日のキリスト教信徒たちは、初臨のときと同じく、再臨主の言行を、新約聖書の言葉が示す範囲内で批判するようになるので、結局、彼を異端者として排斥し、迫害するであろうということは明白な事実である。イエスが再臨されるとき、まず多くの苦しみを受けるであろうと言われた理由は、正にここにあるのである(ルカ17・25)。
原理講論、再臨論 4
先生がサタンと神様の中間で、いつもサタンを除去することをしてきたのです。どのようにサタンの讒訴を受けない位置で、この仕事をはかどらせていくのでしょうか。それで、蕩減路程が出てきたのです。それが人間の責任分担です。今まで、人間が責任分担を成せませんでした。どのようにその責任を埋めていくのかというのです。サタンは、それがメシヤの責任であることを知っているのです。それですべてのサタン勢力を総出動させて、「真の父母」を攻撃したのです。それで先生は、サタンの塀を壊すことを、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、霊界まで経てきたのです。メシヤは、この道をすべて経なければならないのです。
(131-70 ~ 71、1984.4.16)
⑤メシヤのユダヤ教徒・キリスト教徒・ムスリムのための中東平和定着
― 宗教経典 ―
わたしはダビデのために正しい若枝(注 20)を起こす。王は治め、栄え / この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ / イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。それゆえ、見よ、このような日が来る、と主は言われる。人々はもはや、「イスラエルの人々をエジプトの国から導き上った主は生きておられる」と言って誓わず、「イスラエルの家の子孫を、北の国や、彼が追いやられた国々から導き上り、帰らせて自分の国に住まわせた主は生きておられる」と言って誓うようになる。
エレミヤ書 23.5 ~ 8(キリスト教)77
今の時と主の時は、異邦の権力に服従しないという面で唯一異なるのである。(注 21)
タルムード、サンヘドリン 99a(ユダヤ教)78
主なる神はこう言われる。今やわたしはヤコブの繁栄を回復し、イスラエルの全家をわが聖なる名のゆえに熱い思いをもって憐れむ。彼らは自分の土地に安らかに住み、脅かす者がいなくなるとき、わたしに背いた恥とすべての不信の罪の責めを担う。わたしが彼らを諸国の民の中から帰らせ、敵の地から集めるとき、わたしは国々の前で、彼らを通して自分の聖なることを示す。わたしは彼らを国々に捕囚として送ったが、自分の土地に集めて、もはや、かの地には残さない。そのとき、彼らはわたしが彼らの神、主であることを知るようになる。わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ」と主なる神は言われる。
エゼキエル書 39.25 ~ 29(キリスト教)79
神の使徒が言った。 「マリヤの息子(イエス)が公正な統治者としてあなたたちの中に降臨する前まで、時は確立されないだろう。彼は十字架を壊し、貪欲な者たちを葬り、ジズヤ(注 22)を賦課するだろう。お金が裕福になり、誰もそれを(慈悲深い贈り物として)受けないだろう。
ブハーリー・ハディース 3.656(イスラーム)80
― み言選集 ―
イエス様が蕩減復帰を終え、結婚して家庭を築き、イスラエル民族を一時に天国に隷属できる祝福結婚を越えて、ローマまで祝福をしてあげたならば、イエス様の四十代までに地上・天上天国をすべて成していたというのです。イエス様を殺害した罪でイスラエルとパレスチナが闘っているのです。兄弟が一つになれませんでした。そこで一つの宗教、一つの文化圏、一つの国、一つの心情圏になっていなければならなかったのですが、その場にイスラームが生じ、ユダヤ教が生じ、キリスト教が生じたという恨めしい内容を知らなければなりません。最近アメリカでは、十字架を除去する運動が展開されているのですが、それが問題ではありません。イエス様を殺害しました。真の父母を殺害した罪は、人類が滅亡しても、イスラエルが千代、万代犠牲になっても赦しを受けられないのです。イスラエル民族が罪の量をすべて満たしたのではありません。ヒトラーが、イスラエル民族をあれほど好きなように殺害することができますか。罪の量を蕩減し得る量が満ちていなかったので、天の許諾を受けてそのようなことができたのです。同じように、今日も、そのような歴史的同時性の時代に入ってきているというのです。歴史的にユダヤ教とイスラームとキリスト教が分かれたことを、今統一教会を中心として、ユダヤ教、イスラーム、そしてキリスト教が全世界的に一つになるべき同時性の時代が来たというのです。
(2003.8.15)
あの国に行ってみなさいというのです。会えばすぐに分かります。何千年前の人だとしても、四大聖人たちが先生に挨拶するでしょうか、しないでしょうか。四大聖人、イエス様もそうです。「真の父母様、お願いします。イスラエル民族を助けてください」と言います。ですから、十字架を外しなさいというのです。そのようにしてこそ、滅んだキリスト教が生き返ります。復活の宗教である十字架は、死の罪人を縛りつけるものです。イエス様に聞いてみなさい。イエス様に家庭があったならば、イエス様の息子、娘たちによってすべてが成され、6世紀以前に世の中は神様の国になっていたのです。それが成されなかったので、イスラエルの国も追い出され、7世紀に入ってイスラームが現れました。それは歴史的事実です。
(400-215、2003.1.1)
⑥メシヤの東方降臨の預言
― 宗教経典 ―
稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。
マタイによる福音書 24.27(キリスト教)81
どんなに長く待ってもやってこない /ヨーロッパやアジアにあらわれ /ヘルメスの進路からでて / 東洋の王たちすべてを超えるだろう(我々がいくら期待しても、欧州から新しい指導者が現れる可能性は全くなく、彼が現れる所はアジアである。ヘルメスから大統合が誕生するだろう。彼はすべての東洋の帝王を統治し、日浮かぶ国にメシヤの偉大な法度が遵行されるだろう。霊界の新しい指導者が東方から現れるだろう)
ノストラダムス 四行詩10.75 82
3年目に戦争は終わり(注 23)、朝鮮の地は廃墟になる。この時になれば、東方に天の国が明けてくるだろう。西洋では「正道令、正道令」と言い、「救世主、救世主」と言うだろう。しかし、本当にこのような時が訪れれば、弓弓乙乙、つまり白十字を求めていけば大きな恩恵を得るだろう。今、人間は天上の中天運を迎える。この時は、東方の長子が東南方の長女を迎えて婚姻するようになる時だ。(注 24)聖人を期待して待つが、どこの誰が聖人だろうか。
その人は、世のあらゆる善と悪を審判する人である。すべての世の運営権を担ってこられる方は、山でもなく、野でもない、白十字のある所に来られる。この時に必ず天法をもってこられるだろう。
その天法数は2万 1600 数だが、これは天上の数がはっきりしている。また、1万4400 数があるが、これは地上の数を意味する。上の数をすべて合わせれば、3万6000 数になるが、これはすべての世の陰陽の合倍数として、善男善女の成婚をこの数字どおりに成し遂げていくとき、聖人は来られる。(注 25)天道の運は陰陽合一運である。上のように、東洋と西洋の合運道は十勝運である。
3万 6000 という数、これが天地理気を変化させる数である。東洋と西洋のすべての宗教が互いに一つになれば、すべての世の人々は互いに兄弟のように近くなるだろう。これを周易の原理で解いてみれば、天地の陰陽の原理により白十字がはっきりする。十勝大道は東洋から現れる。天地が震動するほど「祝福を受けよ」という声が聞こえるだろう。その声をあざ笑い、逆らえば、我知らず蟷螂や糞転がしのような微弱な虫が車を妨げるのと同じで、聖人は笑うことだろう。善男善女を結んであげ、聖人は安らかにいらっしゃるだろう。神に祈りをもって礼を捧げ、結ばれた善男善女は貴い子を得るだろう。このようにすれば、全世界を統一するようになるが、これは天地が開いたのち、初めてのことである。日浮かぶ東方の地に白十字は現れるだろう。そして、すべての世を広く照らすだろう。救世主は天から来られた十勝大王、すなわちすべての王たちの真の王だということを肝に銘じよ。
鄭鑑録 83
東方に天から聖人が来られることを疑うな。東方でこの聖人が分からなければ、英国、米国など、西洋人たちによって再び悟らされ、聖人を知らされるだろう。もし洋の東西すべてがこの聖人が分からなければ、地上の人々をすべてなくして再び創生させるが、これをどうするというのか。西洋で恨みを抱いて離れたのち、高いところにあがって遠く人間世界を見つめた。20世紀後半のこの時を迎え、東方に出てきて、昔東方で結ばれた恨を解く……
聖人は2人出てくるが、先に出てきた人ではなく、あとから出てきた人が救世主である。天から地上に送られてくるとき、密かに送った彼の姓は文氏である。この文を知ってはならない人が知れば、人に敗れることを嫌う世の人心ゆえに、救世主は出てこられるのが大変であろう。
格菴遺録 84
― み言選集 ―
韓国民族に下された明白な預言者の証拠として、第1に、この民族は啓示によって、メシヤ思想をもっているという事実である。第1イスラエル選民は、預言者たちの証言によって(マラキ4・2~5、イザヤ 60・1~ 22)、将来メシヤが王として来て王国を立て、自分たちを救ってくれるであろうと信じていたし、第2イスラエル選民たちもメシヤの再臨を待ち望みながら、険しい信仰の道を歩んできたのと同じく、第3イスラエル選民たる韓国民族も李朝 500 年以来、この地に義の王が現れて千年王国を建設し、世界万邦の朝貢を受けるようになるという預言を信じる中で、そのときを待ち望みつつ苦難の歴史路程を歩んできたのであるが、これがすなわち、鄭鑑録信仰による韓国民族のメシヤ思想である。
韓国に新しい王が現れるという預言であるので、執権者たちはこの思想を抑圧し、特に日本帝国時代の執権者たちは、この思想を抹殺しようとして、書籍を焼却するなどの弾圧を加えた。また、キリスト教が入ってきたのち、この思想は迷信として追いやられてきた。しかし、韓国民族の心霊の中に深く刻まれたこのメシヤ思想は、今日に至るまで連綿と受け継がれてきたのである。以上のことを知ってみれば、韓国民族が苦悶しつつ待ち望んできた義の王、正道令(神の正しいみ言をもってこられる方という意味)は、すなわち韓国に再臨されるイエスに対する韓国式の名称であった。神はいまだ韓国内にキリスト教が入ってくる前に、将来メシヤが韓国に再臨されることを「鄭鑑録」で教えてくださったのである。そして、今日に至ってこの本の多くの預言が聖書の預言と一致するという事実を、数多くの学者たちが確認するに至っている。
原理講論、再臨論 3.3.4
有名なフランスの予言者ノストラダムスが予言し、東洋の最高予言書「格菴遺録」にはっきりと記録されているように、レバレンド・ムーンは、天命を受け、宿命的責任を完遂した人類の真の父母であり、平和の王として顕現したのです。
(447-169、2004.5.1)
驚くべき事実は、霊界において5大宗教の代表たちが一箇所に集い、神様が人類の父母でいらっしゃることを宣布すると同時に、私に対して、人類の救世主であり、メシヤであり、再臨主であり、真の父母であると宣布し、また「統一原理」が人類救援のための平和のメッセージであり、天宙平和統一は、真の愛を中心として超宗教、超国家、超人種の「愛によってために生きる生活」を通して完成するということを宣布し、さらには、真の父母に侍り、神様の国と世界平和のために、和合、統一、精進することを決議しました。
(2003.7.10)
6. 天国
千年王国は、神様の主権が完全に具現し、悪や罪のない創造理想の世界である。千年王国の実現に対する希望は、世界のどの宗教にもある程度見られるが、特に、ユダヤ教、キリスト教の経典において、神様との確固たる約束として明示されている。時として天国の概念は霊的な理想、死後の幸福の状態(第5章 7.「天界」参照)として表現されるが、これは徹底した終末論的ビジョンと脈絡が異なる。
①神様主権の世界
― 宗教経典 ―
主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ / その御名は唯一の御名となる。
ゼカリヤ書14.9(キリスト教)85
その日、大権は神のものである。かれは、かれらの間を審判したもう。
クルアーン 22.56(イスラーム)86
おお、主なる私たちの神! 私たちはあなたに希望をもちます。遠からずあなたの権勢が勝利することを私たちは見るでしょう。偶像崇拝は地から根ここのような意味で文鮮明先生は、地上天国の具現に関する明確な教えを数限りなく表明している。先生は、未来のビジョンではなく、人間改造の現実的プログラムとして地上天国の具現に向かう神様の使命を完遂するために、その生涯を捧げてきた。
このような章句は、天国にいくつかの視点から光を当てる。第1に、それは神様の絶対主権の世界である。このような世界は、世の中のある政治的制度を意味する必要がない。歴史上、いかなる政権も、さらには神権政治を具現したと主張するいかなる政権も、真の意味の天国と相当な距離感がある。神様の主権は、真の愛によるものであって、政治的権力によるものではない。それは、善自体だけの権威をもった神様が善の民の心情を通して統治できるのである。
第2に、天国は全人類が一つの大家族の生を営為し、新しい天と新しい地として神聖なものとなった世界である。与え合いながら分かち合う天地の法度が具現され、利己主義が立つ地のない所である。人々は神様の心情とみ旨を詳しく探り、常に天の法度によって生活しながら喜びを感じ、善行を実行するにおいて心の 躊躇が全くない所である。そこは、これ以上国家間の戦争がなく、犯罪や抑圧から解放され、自由の人生を享受する平和の世界である。
第3に、天国は自分の内的変化を要求する所である。いくら世界が平和だとしても、私たちが依然として内的葛藤と混乱を経験するならば、安定を享受できず、結局、個人的地獄から抜け出すことができないのである。このように、私たちがいくら楽しい環境で暮らしても、家庭的葛藤と紛争があれば楽しむことはできないだろう。文鮮明先生は、家庭が天国の基本単位だと教える。
第4に、天国は心情の衝動によって自然に起きる行為自体が善のものであるため、人為的な制度や外的な法規の拘束から抜け出た自然で自由な所である。そこは、人間の心が常に水晶のように清く、神様の光がまばゆいばかりに発散される美しい所である。天国の民が愛と繊細な感受性をもち、自然そのままの方法で自然環境の世話をするため、全被造物は喜び歌う。
最後に、天国は死を超越した所である。地上世界と天上世界が一つになるとき、死のとばりは消え、二つの世界の人間たちは、愛する人同士、互いに自由に往来して交流することができる。
そぎ引き抜かれ、偽りは徹底して滅ぼし尽くされるでしょう。
私たちはすべての世が全能であられる神の統治のもとにあるその日を待ち、また全人類があなたの名を尊敬することを学ぶその日が来ることを期待します。すべての悪の人々があなたの足の前で悔い改め、ひれ伏すようになるその日を希望します。
おお、世のすべての人々があなたにひざまずかなければならず、万人が唇で誓わなければならないことを知ることを願います。おお、主なる私たちの神! あなたの前で世のすべての人が頭を垂れて敬拝し、聖なるあなたの名に栄光をお返しするようになることを願います。世のすべての人があなたの王国に対する知識をもつようになり、あなたの統治が速やかに、そして永遠に彼らのために共にあることを願います。あなただけが統治者であられ、また永遠に、栄光の中であなたは世を統治されるでしょう。
毎日の祈り、アレヌ(ユダヤ教)87
第七の天使がラッパを吹いた。すると、天にさまざまな大声があって、こう言った。「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」
ヨハネの黙示録11.15(キリスト教)88
― み言選集 ―
地上でサタンの主権を追い払い、時代と場所とを超越して永存し給う絶対者たる神御自身が主権者となり、その神からくるところの理念が立てられるときには、その理念は絶対的なものであるために、それが指向する目的もまた絶対的であり、善の基準も絶対的なものとして立てられるのである。これがすなわち、再臨主によってもたらされるべき天宙的な理念なのである。
原理講論、堕落論 4.3
皆さん、本郷の地を見つけましたか。見つけられませんでした。本郷の地を見つけられなかったので、本郷の祖国を失ってしまったのです。その祖国が地上天国です。……この地球星が天国になります。その祖国は、地上天国であると同時に天上天国なのです。
国ができるためには、3大要素が必要です。第1には、主権がなければならず、国土がなければならず、そして民がいなければなりません。神様がこの国を、世界の国を、この人間世界の国を占有し、主管する主権がありますか。ありません。神様が主管できる地がありますか。ありません。神様が主管できる人類がいますか。いません。いないので、祖国がないのと同じです。これは、本来人間が暮らす世界ではないというのです。
(155-26、1964.10.6)
お父様!この民族の前に福を施してくださり、世界万民に福を施してください。天上で再臨のひと日を待ち焦がれている数多くの霊人たちの恨みを解怨してくださり、お父様とイエス様の恨みが解怨され、この地に平和の王国が建設されて、お父様が統治することのできるその世界が早く早く成されるようにしてください。懇切にお願い申し上げます。
(16-52、1965.12.26)
②喜びと平和の新世界
― 宗教経典 ―
わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。……わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。
ヨハネの黙示録 21.1~ 27(キリスト教)89
終わりの日に / 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち / どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい / 多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから / 御言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし / 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず / もはや戦うことを学ばない。
イザヤ書 2.2 ~ 4(キリスト教)90
歓喜に満ちた都市に神の聖者たちが住んでおり、そこには悲しみも、つらさもなく、供え物や重い税金を捧げなければならないという心配もなく、懲罰や高い地位から落ちるという恐れもまたない。この幸福な地には私の居所があり、絶えず安寧があり、そこにいるすべての人たちは、永遠の王権から福を受けたため、誰も劣等だと考える者はいない。その都市は衰退を知らず、そこに暮らす人たちは裕福で満ち足りている。この上ない自由を享受し、見慣れない人もなく、実にすべての人が自由人である。ラビダスが言うには、自由を得た職人、あの都市の市民だけが私の友とみなす。
アーディ・グラント、ガウリー、ラヴィダース、p.345
(シク教)91
その日われは、書いた書き物を巻くように諸天を巻き上げる。われが最初創造し始めたように、ふたたび繰り返す。これはわれの定めた約束である。われは必ずそれを完遂する。われはモーゼに訓戒を与えた後、詩編の中に、「まことにこの大地は、わしの正しいしもべが継ぐであろう」と、しるした。
クルアーン 21.104 ~ 5(イスラーム)92
― み言選集 ―
神様が人間を創造されるときの目的があったとすれば、その目的が成し遂げられていれば、その世界は、愛で統一された世界であり、神様を父母として侍り、全人類が兄弟姉妹として和睦して暮らす単一世界であり、人間の大家族世界になっていたでしょう。言わばその世界は、み旨の中で一つに統一された世界でしょう。このような統一という課題が、今日の人間に最も重要なものです。しかし、この上なく難しいものとして残されています。個人において心と体が一つになり、家庭と家庭が一つになり、民族と民族が、国家と国家が、東洋と西洋が、神様と人間が一つに統一された世界です。言い換えれば、神様の創造目的が完成した世界が統一の世界なのです。
(81-158、1975.12.18)
神様は天理原則を通して主張します。「個人は家庭のためにあり、家庭は民族のためにあり、民族は国のためにあり、国は世界のためにあり、世界は神様のためになければならない!」、これがその主張です。神様に従えば、神様のものであると同時に、私のものにもなるのです。神様のために生きたことが私のために生きたことになります。それで、私のものは私たちの家庭のものであり、この家庭は国のものであり、国は世界のものであり、世界は神様のものであり、神様のものは私のものになるというのです。どちらが素晴らしいですか。全世界が私のものになり、宇宙が私のものになります。……神様の愛と神様の生命と神様の理想が個人的に、家庭的に、氏族的に、民族的に、国家的に、世界的に一つになり、サタンが讒訴できない、サタンの痕跡がないそのような世界になってこそ、この地上が天国になるのです。神様と私たち人間が完全に主体と対象として、父子の関係として、完全に罪のない聖別された父子の関係として、完全に罪のない聖別された神聖なみ旨の中で一致し、真の父母と共に真の子女、真の氏族、真の民族を中心として地上天国を成し遂げることを願うのが、神様の人間に対する最高の希望です。神様の永遠の愛と生命と理想がどこでも連結されるようにしてこそ、地上天国になるのです。ために生きる世界になってこそ、地上天国になるというのです。
(69-89 ~ 92、1973.10.20)
将来には戦いがありません。今までの戦いは、自分を中心とした、値うちのない戦いでした。それは、互いに奪うための戦いでしたが、統一世界は、神様の王権を立てた「ために生きる」世界なので、戦争は必要ないのです。兄弟同士、互いに奪う必要はありません。あまりにも与えようとするので、逃げていかなければなりません。法律もすべてなくなります。愛の自治権が完全に成し遂げられれば、法律が自動的に完成します。 「ために生きる」愛、それを成した所には、何の問題もありません。上下が一つになり、前後、左右が一つになるのです。
(224-173、1991.11.24)
創造理想世界である、神人一体心情世界となって暮らす時代が来なければなりません。人のために生きることが自分のために生きることよりもっと永遠の価値があることを悟って暮らす時代、自己中心の利己主義時代が色あせ、共生共栄共義の利他主義世界を創建しなければなりません。私たち全員で、この目的のために神様と霊界を正しく知り、さらに全世界に天道を明らかにしながら人類を正しく指導し、神様の真の愛、真の生命、真の血統に連結した天宙大家族を形成し、神様の祖国と故郷を地上と天上に創建しましょう。ために生きて投入する絶対愛、唯一愛、不変の愛、永遠の愛で地上天国と天上天国を完成し、神様の王権を奉献しましょう。
(2002.12.27)
理想的な社会や国は、すべての人が国境と皮膚の色を超越して相互に協力して調和を成し、幸福に生きていく社会です。この社会は、人々が一つの神様の息子、娘であることを自覚して、真の父母を中心として一つの兄弟となった大家族社会であり、そこは、血統と所有権と心情を復帰した祝福家庭が、真の父母の言語、真の父母の文化のもと、自由と平和と統一の世界を成す所です。人々は、神様の心情文化の中で、共生、共栄、共義の生活をするようになるのです。(注 26)ですから、この世界は、腐敗や不正、そして戦争や罪悪と無関係であり、人類は、地球環境に対する公害要因を除去し、万物に対して真の主人として愛し、保護しながら生きるようになっています。その世界において、生活のための活動と作業は、他のために生きて愛する心情を土台とした喜びの奉仕であり、実践です。したがって、構成員の生活程度は標準化されます。教育は、あらゆる文明の利器を活用して受けるのですが、知識教育、体育、技術教育はもちろんであり、祝福家庭を土台とした心情教育と規範教育を優先することによって、天道に従う選民を育てる教育となります。
(269-156、1995.4.3)
③内的天国を所有した天国人の世界
― 宗教経典 ―
被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、 “霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖あがなわれることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
ローマの信徒への手紙 8.19 ~ 23(キリスト教)93
実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。
ルカによる福音書17.21(キリスト教)94
「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。……王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』 (注 27)と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。 『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』
マタイによる福音書 22.2 ~13(キリスト教)95
見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、 「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
エレミヤ書 31.31~ 34(キリスト教)96
孔子は答えた、「大道の行なわれていた古代や、 (夏・殷・周)三代それぞれの最も良い時期を、わたしは見ることはできない。しかし記録はある。大道の行なわれる世には、天下は万人のものとされる。人々は賢者能者を選挙して官職に当らせ、手段を尽くして相互の信頼親睦を深める。だから人々は、それぞれの父母のみを父母とせず、それぞれの子のみを子とせず、老人には安んじて身を終えさせ、壮者には充分に仕事をさせ、幼少には伸びのびと成長させ、やもめ・みなしご・かたわらの人びとには苦労なく生活させ、 (一人前の)男には職分を持たせ、女にはふさわしい夫を持たせる。財貨は、それがむだに打ち捨てられることを、人びとは憎むが、しかし財貨をひとり占めにはしない。労力が出し惜しみされることを、人びとは憎むが、しかし自分のためにのみ労力を用いはしない。みなこうした心がけであるから、 (私利私欲に基づく)計謀は外に用いられる機会がなく、窃盗や暴力のさたもなく、たれも家の戸をしめない。これを大同の世という。
礼記 7.1.2(儒教)97
地上の楽園に向かう段階が進展するに従い、神に対する人々の内面の態度が、日常的な生活のより多くの側面に直接影響を及ぼすだろう。霊魂が神により近い人々は神と同じ心を所有するようになるため、考えや感情を言葉で表さなくても通じることができるようになるだろう。このような段階に至れば、深く考えることがすべての人たちに存在の様式になる。神は、彼らが直接的に神の意図を知ることができ、または他人の心情と心を完璧に推し量ることができるように、高度に洗練された霊的感性を付与するようになるだろう。
最終的な段階に至れば、地上の楽園はあまりに完璧で、純粋で「透明な世界」と呼ばれる。すべての悪と憎悪は消え去るだろう。世界は、のちに絶対の善と愛を実現するようになるだろう。いことによって、ついに人類は代々に永遠の家に居住するようになる。これが正に神と合一した「透明な世界」なのである。
浄霊(世界救世教)98
― み言選集 ―
理想社会は、愛の理想の完成であり、神様の愛の実体たちが、情の完全なる充足の中で生きる美しい世界である。ゆえに、理想社会に住める者たちの顔は、永遠なる光の中にあるがゆえに美しく、醜いものがない。内なる人は、完成すればみな同じである。御旨の道、天国私たち人間の心と体の間隔が広がれば広がるほど、苦衷が大きくなるのです。そこには苦痛が介在するのです。そこには悲劇が宿るのです。したがって、私たちの心と体の間隔を狭め、それが一つに統一される時を迎えなければなりません。そのようにしなければ、人間世界に平和や幸福といったものはあり得ません。ですから、自分自身の闘い、自分一個の個体の闘いを終息させることができない人は、世界的な闘いが終息し、そのような世界に入っていって暮らしたとしても、希望や幸福、あるいは平和の条件を自らのものとすることはできないのです。したがって問題は、私自身にあります。私自身の根本問題を解決しなければなりません。そのようにして私自身の外的な世界の理想的環境を迎えるようになる時に、初めて心にしみる平和、心にしみる幸福を感じられるのです。そのような基盤の上で世界と連結されて初めて、自由で幸福な天国が成されるのであって、環境がいくら整えられたとしても、自らの問題が解決されていない立場にいれば、いかなる幸福な環境にも和することができない、ということを否認できません。
(20-167、1968.6.9)
皆さんは、まず個人天国を成し遂げなければならず、夫婦天国を成し遂げなければなりません。夫婦天国がどこから始まるのでしょうか。夫婦天国はどこにあるのでしょうか。プラスとマイナスが完全に一つになる所にあります。それは結婚した日に喜んでいて、何年もたたずに離婚するものではありません。……もう夫婦天国がどのような所か分かりますか。誰もその夫婦を切り離すことはできません。ダイナマイトが爆発して足がなくなっても、てっぺんはくっついているというのです。皆さんはどのような愛を求めていきますか。真の愛を求めていきます。皆さんの心と体が完全に一つになってこそ、そのような愛があり得るのです。そして、夫婦天国だけでよいのですか。家庭天国はどのようにできますか。父母が完全に一つになって愛すれば、息子たちはお母さんのような妻をもらいたいと思い、娘たちはお父さんのような夫をもらいたいと思うのです。それで、その父母がプラスになり、息子、娘がマイナスとなって完全に一つになるのです。家庭が一つになれば、そこが家庭天国になります。家庭天国を成す所で、初めて地上に天国というもの、神様が理想とするものが定着するようになるのです。
(9629、1978.1.1)
本然の園は、理想の園です。有無相通(注:すべてのものが相通ずること)の世界であり、兄弟の感情が万宇宙のどこにおいても通じる世界です。今日のように、民族的な感情、あるいは国家の主権的な違いをもって論議できるような理想と主義の世界ではありません。民族の差別、あるいは国家の主権など、そのようなすべてのものを越えて論議する世界です。人間の経済的な事情や文化などという条件の違いをもって論議するのではなく、心情をもって論議する世界です。
(7-38、1959.7.5)
個人完成、家庭完成、天宙完成のその場に現れるのが美しい地上天国と天上天国です。それで、神様が解放され、皆さんの家庭と氏族を思いどおりに訪ねていけます。今までは囲いが張られていて、どこにも行けませんでした。しかし、今からは、すべての囲いを取り外して平地になるのです。サタンがつくっておいたすべての囲いと壁が崩れます。それで、平地になるのです。真の父母が平地を成し、縦的な世界と 90 度の角度を成すのです。その 90 度を中心として、前後、左右、上下が連結され、統一解放圏が成し遂げられます。それが天国です。そのように、天国に行ける高速道路を築きます。そのような世界が来るのです。すべてのものが真と連結すれば、世界が解放され、天国が成し遂げられます。祖国は一つです。神様のように永遠です。その祖国が霊界です。それを知って、それに向かって、皆さんは不足であることをよく知っています。どのようにして行かなければならないのか、すべて知っているのです。自分たちがどのような位置にいるということを知っているのです。それをすべて清算して、真の父母様がどのような命令をするとしても、100 回死ぬような命令をするとしても、「絶対に私は行こう」と言える決心をして、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の天理を踏んで、早く飛んでいかなければなりません。走るよりも、飛んでいかなければなりません。
(313-243 ~ 244、1999.12.19)
④地上世界と天上世界を一つにした王国、死のない所
― 宗教経典 ―
次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。
コリントの信徒への手紙一15.24~25
(キリスト教)99
勝利した「世界の改造者」と彼の協助者たちは……一切の存在を新たにするので、老いず、死がなく、腐敗と堕落もないだろう。永生があり、常に義をもち、意のままになるだろう。死んだ者が再び生き返り、生命が遍満して不滅となり、一切の存在は神の意のままに改造されるだろう。
アヴェスター・ヤシュト19.11
(ゾロアスター教)100
「私があなたたちに、あなたたちが死ぬ食べ物をあげよう。しかし、心配するな。私はあなたを生き返らせる」と呪術師は彼らに言った。彼らは彼を信じた。彼らは何かを食べて死んだ。そのとき彼らは、新しく美しい地で歩いている自分たちを発見した。彼らは白人の軍人に殺害された彼らの父母、祖父母、そして友人たちと話をした。彼らの友人たちは健康で、この新しい世界は白人たちが破壊した昔の世界のようだった。そこは遊びと羚羊とバッファローでいっぱいだった。草は緑色で長かった。他の部族によって昔に死んだ人たちも、この地に暮らしているにもかかわらず平和だった。すべてのインディアンの種族が一つの部族を形成し、互いに理解することができた。キッキングベアと小さな雄牛が歩き回っており、あらゆるものを見ていた。彼らは幸せだった。そのときバイユートの仙人が彼らを再び生に戻した。「私がもたらした新しい世界をあなたたちは見た」と彼は言った。「大地は毛布のように、白人のものである囲い、鉄道、鉱山、そして電信柱など、すべてのものを巻き込むだろう。そうすると、その下に再び生き返った私たちのすべての知り合いたちがいる、新しくて昔ながらのインディアン大地があるだろう」。その後、その呪術師は彼らに新しい踊り、歌、祈りを教えた。彼は彼らに神聖な赤い染料を与えた。……今、大地を巻き込むために、そして死んだ者を戻すために、私たちはどこでもこの新しい踊りを踊る。新世界が来ている。
霊魂の踊り(アメリカ先住民の宗教)101
― み言選集 ―
神様が願われる天国は、霊界だけで成される天国ではありません。神様が願われる天国は、まず地上で成し遂げられたのちに霊界でも成し遂げられる天国です。人間が死んだあとに、その霊人体で成す霊界とこの地上世界は互いに分離できないので、皆さんが勝利的実体を備え、天国の理念を具現するためには、天倫の前に立ち得ると同時に、人倫の前にも立てなければならず、天倫と人倫に通じ得るよう、天国の理念を皆さんの生活圏を通して見せてあげなければなりません。そして、その天国の理念が、個人的な天国理念になると同時に、家庭的な天国理念、社会、国家、世界、天宙的な理念にならなければなりません。このような天国理念が、皆さん自体を通して現れてこなければなりません。
(2-226、1957.6.2)
皆さんには国がありません。神様にも国がありません。神様に祖国がないので、私たちにも祖国がないのです。私たちは、この祖国を建設しなければなりません。神様の愛と私たちの愛で、個人を中心として、家庭を中心として、氏族を中心として、民族を中心として、国家を中心として、愛でそのすべてを連結させてこそ、神様の地上天国と天上天国が成し遂げられるのです。真の愛の個人、家庭、氏族、民族、そして国家的な地上基盤が立てば、自動的に天上にも国家的な基盤が立つようになります。そうすれば、霊界が自動的に開いて地上と一つになるのです。
(134-217、1985.7.20)
死の峠を越えて往来できる基盤を地に築いていかなければ、地上天国ができないのです。地上天国ができなければ、天上天国ができないのです。皆さんが霊界に行っても、この地上に思いどおりに来ることができるようにしておかなければなりません。それでこそ地上天国に暮らし、天上天国が成されて暮らすようになるのです。
(146-223、1986.7.1)
― 宗教経典 ―
人びとよ、主に対し労苦して努力せよ、なんじらはかれに会うのである。……なんじらは、必ず一層から他層に登るであろう。
クルアーン 84.6,19(イスラーム)1
正しい道をたどり、修行にいそしむ修学者に、心のけがれの消滅に対する最初の智慧が生ずる。それからして無上の智慧がある。それより、智慧により完全な精神的自由を得た人には、迷いの生存の束縛を消滅することによって、「私の完全な精神的自由は不動である」という智慧が生ずる。
如是語経 62(仏教)2
魂と、それに釣合い秩序を付与した方により、邪悪と信心について、魂に示唆したもう方により誓う。まことに魂を、清める者は成功し、それを汚す者は滅びる。
クルアーン 91.7 ~10(イスラーム)3
一歩一歩修行を積み、徐々に仏陀のあらゆる教えを成就する。修行は、地を選んで礎石を打ち込み、その上に家