天聖経(17) 第3巻「真の愛」 第5章 愛と霊界

第5章 愛と霊界

1)霊界の空気は愛、愛が生命要素である

2)愛の人格は地上生活で具備しなければならない

 

 

1)霊界の空気は愛、愛が生命要素である

 

私たちは、神様の代身として愛によって生まれ、愛によって生きて、息子、娘を生んで、愛の目的地に到達し、永遠に神様と共に生きるために神様のもとに帰っていくのです。すなわち私たちの一生は、愛によって始まり、愛によって成熟し、愛の実として収穫されるのです。人が死ぬということは、愛の実を刈り入れることです。(298-311,1999.1.17)

 

死とは、人間が肉身生活を終えたのちに第二の出生をすることです。第二の出生をする所、死んでから行く世界がすなわち霊界です。その霊界に入って、第三の父母である神様から宇宙全体を代表する真の愛を供給してもらうのです。霊界は、愛を呼吸して、愛を中心として生きる世界です。それで完全な真の愛の人格を成すことができなければ、行ったり来たりする道が制限され、四方に通じることができません。ドアを通っても、一つのドアしか通れないのと同じです。春夏秋冬、いつでもどこでも合わせて生きることのできる資格をもつためには、地上生活において完全な愛の人格を具備しなければなりません。(298-311,1999.1.17)

 

神様の愛の中に生まれることが死ぬことですが、人間世界では「ああ、死んでしまう」と大騒ぎになります。そうすると神様は、それを見て大笑いされるでしょうか。人間の世界で泣きわめく姿を見て神様は、悲しまれるでしょうか、喜ばれるでしょうか。制限された愛の圏から、無制限の愛の圏内に突入できる喜びを迎えることのできる瞬間が、第2の出生である死の道を通る、その瞬間ではないでしょうか。それでその道は、昇華の道です。(116-172,1982.1.1)

 

死を屈服しなければなりません。第二の生を促進させる、変化の過程が死です。それゆえに、死は悲しいものではありません。新しい世界に飛躍するものであり、昇華なのです。(139-214,1986.1.28)

 

この世では死が生命の終わりを意味しますが、死は他の世界に新しく生まれることを意味します。それで、死のゆえに憂欝になったり、悲しんだり、挫折してはいけません。代わりに与えられた使命のために一生を生きて、霊的な勝利の中でもう一度生まれることを喜ばなければなりません。私たちが地上であまりにも悲しみに沈んだり、悲痛に思うと、天上に上った人を地の下に引っ張るようになるのです。
赤ん坊が第一の母の胎内から生まれ出たように、第二の宇宙的な母の胎内からまた別の世界に誕生する昇華式は、実際に男女が出会って結婚する、その式に比べることができます。悲しみの瞬間では絶対にありません。それは昆虫が堅い皮を破り繭から出て、新しい形態に、新しい存在として、新しい本質になるのと同じです。(49-285,1971.10.17)

 

人間が死ななければならない理由は、肉身によって制限された愛しかすることができないからです。無限の神様の真の愛の対象的実権をもって現そうとすれば、制限された肉身のみをもってしては駄目なのです。ですから、無形の霊に変わるほかありません。さらに、真の愛の理想を全天地と共に同一化するためです。ですから死は、苦痛の道ではなく、宇宙的真の愛を所有できる幸福の門を開門する時間だというのです。(298-311,1999.1.17)

 

私たちが父母の愛を受け、夫婦の愛を分かち合って子女を愛したので、私の一生にわたって蒔かれた神様のすべての愛を刈り入れ、自分の国に行くのです。そして、私たちが完全に愛によって一つになれば、神様と似るようになります。夫婦が合わさって3段階の愛を完全に成して霊界に行くと、永遠の主体であられる神様の前に、永遠に相対的な神様になるのです。真の愛を中心として夫婦が死ねば、そのようになるのです。神様で始まり、神様で終わりを結ぶのです。(298-311,1999.1.17)

 

地上の生活と霊界の生活は、別々ではありません。地上の生活も重要で、霊界の生活も重要です。霊界の生活は、地上生活から連結されているのです。両方とも重要ですが、今日この地で生きている人は、永生の観念を知りません。この地上生活が重要であると思っています。問題はこれです。統一教会員たちも、現在の生活が永生を保障する基盤であることを知らない人が多いのです。(217-85,1991.4.16)

 

人間は、母親のおなかの中にいてから生まれ、一定期間を地上で生き、死を迎えるようになっています。そうして大部分の人間は、年を取れば取るほど死に対する恐れを感じるようになります。人間が年を取るほど死に対する恐怖や不安を感じるのは、死後の世界を信じないからです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1062)

 

霊界は、愛の成分によって覆われている所です。地球は空気で覆われていますが、霊界は愛で囲まれているところです。人間は、地上で空気を吸いガスを吐き出しますが、霊界は、愛を吸って生きているところです。霊界で授受する愛は、真の愛だというのです。(145-267,1986.5.15)

 

私たち人間の一生は、腹中時代十カ月、肉身時代百年、そして霊魂時代千年、万年を永遠に生きるのです。(298-304,1999.1.17)

 

赤ん坊は生まれてすぐに泣くと同時に、鼻の穴で息をする第2の世界、すなわち空気の世界につながるのです。腹中から空気の世界につながる時には、腹中の世界で生きていたへその緒と羊膜をみんな破壊して出てこなければなりません。それら死(破壊)と同時に、地球星という母親から生まれたのです。生まれると口で食べ、鼻で息をします。ところで地上で食べる食べ物は肉身が生きるのに必要な栄養分であり、本質的生命要素ではありません。本質的生命要素は、すなわち愛です。それで、この世で愛という空気を吸わなければなりません。母親、父親から愛の空気を吸わなければならないのです。(139-212,1986.1.31)

 

霊界における愛の宮殿は、真の父母から始まります。霊界に宮殿があるとしても、真の父母が行って、「ここを宮殿にする」と宣布して初めて、そこを中心として全霊界が位置を決めるのです。そのような責任が残っているので、霊界でも真の父母を絶対に必要としているのです。(205-255,1990.9.9)

 

アダムとエバが完成して霊界に行くようになれば、アダムとエバは神様の体になり、神様はアダムとエバの心になります。ですから、霊界に行っても神様は見えません。完成した人を実体世界の体と心のような一つの結果として成しておこうというのが、神様がアダムとエバを創造した目的です。(92-147,1977.4.1)

 

霊界の裏通りまでも通いながら調べてみると、天地の道理は、簡単なものでした。二人が絶対的な力で合わさって真空状態になったところに神様が入ってきて、骨髄のような芯になるのです。ここに、男性の愛と女性の愛の二つのかけらがぴったりとくっつくのです。これが宇宙の核です。愛の理想的実体が合わさって愛の軸になるのです。(170-171,1987.11.15)

 

地上世界と霊界は、互いに向かい合って動きます。地上世界が上がると霊界も上がり、地上世界が下がると霊界も下がります。一方が回れば、もう一方も共に回ります。それで現世でそれを実感して、永世にプラスさせる生活をしなければなりません。永世と現世は、分けられていないのです。(217-85,1991.4.16)

 

私たちは、結局どこに行かなければならないのでしょうか。霊界とは何なのでしょうか。「死後の世界だ」と大抵は言いますが、死後の世界ではありません。なぜ死後の世界ではないのでしょうか。愛と関係のある世界だからです。愛と関係のある世界なので、死後の世界ではありません。真の愛を中心として出発したものなので、私が真の愛の真理に立つようになる時は、今ここが霊界と同じなのです。ですから愛が偉大だというのです。(144-198,1986.4.24)

 

神様は、愛に酔って億千万世を生きるように人間を造りました。ですから、人が年を取るのは怨讐ではありません。人は、愛から始まって、愛をもって生活して、愛の実を刈り取ります。死ぬことは、愛の実を刈り取ることです。私たちは、父母の愛を受け、子女の愛を受け、夫婦の愛をもって父母として子女を愛して生き、神様の愛、すなわち内的な愛の世界に蒔いたすべてのものを一生を通して実を結ばせ、これを刈り取ってあの世に行くのです。(83-198,1976.2.8)

 

この地上で肉身の皮はだんだんと年を取りますが、夫婦生活をして愛すれば愛するほど霊人体はもっと若くなります。それはどういうことでしょうか。人間が長生きすればするほど、内的な人間である霊人体は最高の円熟した美男、美女になるというのです。(164-101,1987.4.26)

 

霊界の生活はどのようなものですか。食べる心配、暮らす心配、着る心配がありません。なぜですか。自分の神霊状態の通り、望むすべてのものが可能だからです。あの世でも食べます。あの世でも、自分を触ってみれば、血管が、脈拍が打つのを感じられます。同じことです。霊的な体ですが同じです。(194-42,1989.10.15)

 

霊界には、ないものがなく、慕うものがありません。最も慕わしいものがあるとすれば真の人です。
ですから、真の人を養育するために精魂を込めたその功臣は、天上世界で当然栄光の息子、娘になれます。したがって、誇れるのはそれしかないというのです。(30-147,1970.3.21)

 

皆さんは、心を見ることができますか。霊界は、心のような体と化して生活する世界ですが、これは時空を超越した世界です。そこでは、御飯を思いどおりに食べられます。御飯を心配する必要がありません。水を心配する必要がありません。飲料水を心配する必要がありません。服を心配する必要がありません。衣食住、すべてのものを超越します。そこに自動車が必要ですか。自動車工場がありますか。食品工場、服工場、製織工場がありますか。すべてありません。そこでは億千万里を、あっという間に往来するのです。何の力ですか。愛の力でそのようにします。愛する人に会いたいと思えば、さっと現れます。(210-225,1990.12.23)

 

霊界に行けば、通じない所がありません。霊界の動きを妨げる物が何もないからです。天の本性稟の存在性を妨げるようにはなっていないのです。すべて通じるようになっています。時空を超越しているので、何億年前にいた人が今でもいます。その人たちも自分が望む年齢で現れるというのです。ですから、そのような人にいくらでも会うことができます。(194-133,1989.10.17)

 

霊界に行ってみれば、霊界全体が一人の人間に見えます。それで主体である神様と、大きな一人の人と、一つになるのです。すると、全霊界と肉界が混ざり合います。神様が走れば地も走り、神様が笑えば地も笑う、そのようになっています。霊界に行ってみれば、一人の人と同じ組織になっているというのです。(91-280,1977.2.27)

 

霊界は説明する必要がなく、弁解をする必要がありません。さっとすれば、すぐに分かるようになっています。あの人が私の下なのか、横なのか、高い位置なのか分かるのです。愛の位置が分かるというのです。その位置は絶対的です。その位置が高い人は、その位階を合わせて自然に自分が立つ位置に立っています。地上世界と違います。謀略や中傷をして出世する、そのような人は逆さまになるのです。その反対になります。それで「正道を守りなさい、正道を守りなさい」と言うのです。(194-134,1989.10.17)

 

私の生涯に何をするのでしょうか。愛の墓を残していこうというのです。愛の墓の中で生きられれば恨みはないというのです。人生というものは、永遠において成功するものです。そのように皆さんが生きて、死ぬ時には神様が祝福してくださるでしょうし、霊界では神様が息子、娘を連れて歓迎するために出てこられるはずです。(97-167,1978.3.12)

 

霊界では、神様の愛がなければ食べられません。食べる権利がないというのです。地獄は、見ながらも食べられず、知っていながらも行うことのできないところです。ですから神様の愛を中心として地上で霊肉が一つになって天国生活をした人以外には、永遠の理想的世界をもつことはできないのであり、天国を所有できないということを知らなければなりません。(91-173,1977.2.6)

 

あの世で必要なことは、世界よりも、自分の国よりも、自分の妻や夫よりも、自分の息子や娘よりも、神様をもっと愛するということです。愛の圏内の最大の人格を構成した人は、その世界では神様のような能力行使が可能です。(126-142,1983.4.12)

 

あの世は、愛の空気でできています。愛によってすべてのものが生まれ、愛によって生き、愛によって「ため」に生きていける愛の道理によって満たされてこそ、今まで歴史時代に願われた神様の希望の実体を完成したという立場に立つことができ、天国のどこに行っても歓迎されるのです。皆さんの家庭が、天国に向かう修練所です。(143-71,1986.3.15)

 

家庭で修練を受けたものを四方に拡大させて、「ため」に生きていける愛の圏をもって生きる人は、天国に直行するのです。(143-72,1986.3.15)

 

霊界という世界は、無限に膨大な世界ですが、何百万里の距離も瞬時に愛を中心として行ったり来たりできる世界です。愛は最大の速さをもっています。(216-192,1991.3.31)

 

霊界では、天地というものや地球というものは、一点のほこりのようなものです。霊界はどれほど広大か分かりません。時空を超越した無限の世界です。そして、「ある時代のこれこれこういう心情をもって地上で生まれ、暮らして行った人がいれば、ここに直接出てきてみなさい!」と言えば、その人があっという間に現れます。そのように直感的感覚が現実化する世界です。(224-105,1991.11.23)

 

霊界は、ある部分を探して凝視して、千年見つめても嫌気が差さない美しい世界です。創造もできません。何か世界で一番だと言っても、それは何でもありません。霊界の一角にもなりません。ですから、この地上を所有したいとは思いません。先生に言わせれば、この地上は先生の目的に合わないので帰りたいと思っているのです。(15-149,1965.10.7)

 

霊界で神様が見る時、皆さんの心の中で愛の鐘の音が鳴るようになると、明かりがだんだんと大きくなります。この光は神様の目には、ダイヤモンドの光よりももっと美しく見えます。また、その光は味のある、見れば見るほどいいものです。ですから、神様は愛だというのです。(103-28,1979.1.28)

 

霊界の空気は、愛です。愛が生命要素になっています。その世界は、鼻で息をするだけでなく、頭のてっぺんでも息をし、細胞全体が息をします。
ですから完全な霊界生活をしようとするならば、地上生活で完全な愛の人格を具備しなければならないのです。(112-205,1981.4.12)

 

霊界に行ってみると父母、夫婦、兄弟姉妹、子女という、家庭生活で深い愛の経験をした人は、多くの自由を得ることができ、その人はどこへでも、何の制限もなく、どの方向にも行くことができます。その反対に、愛の経験のない人は、心が狭く、霊界でも自分一人で孤立していて自由がありません。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1062)

 

霊界では神様の愛がすなわち法です。(98-35,1978.4.8)

 

霊界とは、永遠の要素を望む永遠の所です。ですから、愛を体験した霊人体は間違いなく、自動的に磁石に引っ張られるように、その世界に行くようになります。霊界は、どのような所でしょうか。すべてが愛で充満した、愛で詰まった調和の世界です。今日の人間は誰でも、愛の関係を結ぼうとします。これは霊界の拍子に合わせるためです。(122-16,1981.3.15)

 

愛の力で動かない存在はないし、愛の力の対象にならない存在もないので、愛の言葉で聞いてこたえないものもありません。愛は、すべてのことを可能にすることができ、起こすこともできます。再現させることのできる能力があります。したがって霊界は、直感的な愛の心をもって、すべてのことを可能にする、自由自在の世界だというのです。(112-219,1981.4.12)

 

霊界を結束しなければならないのですが、霊界を収拾することのできない人は、天下を統一できません。天運の根が天なのですが、天を収拾できない人がどのように世界を統一するのでしょうか。ですから地上を統一する前に、霊界を統一しなければなりません。(191-205,1989.6.24)

 

皆さんは、先祖の顔に代わって生まれた歴史的な復活体です。その歴史がどのくらいになるでしょうか。何十万年にもなるというのです。そのように長い歴史過程は、結局は私、自分一人をつくるために苦労したというのです。金氏ならば金氏という自分一人を誕生させるために、数多くの先祖たちが来ては去っていきました。ですから、私たちは歴史的な結実体です。(46-155,1971.8.13)

 

おじいさん、おばあさんが亡くなったなら、お墓参りをしなければなりません。「神様がお墓に埋められた」と言って、お墓参りをしなければなりません。(220-350,1991.10.20)

 

今まで霊界に行った霊人たちは、すべて別れています。霊界では横的には通じません。縦的にはこの程度に通じます。(218-125,1991.7.14)

 

あの世に行けば殺人を犯した人、殺された人、様々な人が一箇所に集まっているので、そこでは包丁ざたが起こり、復讐しようとする出来事も起こります。ですから数多くの塀に囲まれているところです。ですから、悪なる霊が怨讐の子供を捜し回って事故を起こさせて連れていくような、そういうことが起こるのです。これをすべて解かなければなりません。解くためには、まず地上世界で解かなければなりません。解くためには、もっといいものをあげなければなりません。
死ぬよりももっといいもの、怨讐関係になったものよりももっといいものをあげなければ解けないのです。(191-205,1989.6.24)

 

人は、どこに行くのでしょうか。霊界に向かって行くのです。霊界は海と同じです。どうせ行かなければなりません。海にも流れがあるように、そこにはこの上ない調和の取れた変化があるのです。海では主流の流れを中心として、淡水にはない調和の存在があります。海には数多くの魚族があるように、そこには数多くの新しい天地家庭があります。あの世に行っても同じなのです。(141-306,1986.3.2)

 

2)愛の人格体は地上生活で具備しなければならない

 

地上にいる時の生活がどんなに重要でしょうか。地上生活は、一度しかありません。瞬間ですが一度しかありません。地上生活を永生に比喩すると、これは一つの点にすぎません。あまりにも短い瞬間です。この期間に肉身生活を越えて、霊界のために準備しなければならないのです。常にそのような思想をもって、中心に立って一体をコントロールして征服できなければなりません。そうでなければ完成を成すことができません。それを知らなければなりません。(207-99,1990.11.1)

 

人がこの一生だけで終わるのなら、どれほど簡単でしょうか。人は、永生するようになっています。永生するようになっているというのです。ところが、良いことは良いのですが、大変なことになりました。人は、永生するようになっています。皆さんが霊界に対する体験がないから知らないだけであって、霊界の体験がある人たちは、昔のアダムから何千年前までの先祖に、みな会えるというのです。(159-277,1967.5.19)

 

皆さんは、肉身をもったこの期間が、どれほど貴重なのかを知らなければなりません。神様も復活させることができ、宇宙も復活させることができ、すべての天下を統一させるれるのは、肉身をもっているこの期間しかありません。神様と万物を合わせても、この肉身世界と取り替えられません。なぜでしょうか。神様とこの宇宙を合わせても、肉身をもった人間がいなければ完成しないからです。人間の体がどれほど貴重なのかを知らなければなりません。私たちの肉身は、宇宙をもらっても取り替えられません。聖書の「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マタイ16:26)という意味の言葉も、それで成立するのです。(91-191,1977.2.13)

 

もし生涯の中で3分の2以上が罪の生活をしたならば、その3分の2の生活をすべて切り捨てることができるでしょうか。できません。切り捨てることができないのです。これは必ずついて回るのです。(34-139,1970.8.30)

 

皆さんの心をフィルムに撮って、その写真を自分が見ると思ってください。(19-25,1967.12.10)

 

完成は地上でするのであって、霊界でするのではありません。地上でこそ真の愛を中心として可能なのです。霊界ではありません。(217-130,1991.5.12)

 

寝床に就くとき、脱いでおいた履物を翌朝に再び履く自信がありますか。いくら忙しいといっても、永生問題以上に重要なことは世の中にありません。それで、この世で永生問題を決定すること以上に深刻なことはないのです。(10-249,1960.10.21)

 

今日、信仰生活をしている人は蕩減法を知りません。無責任な立場で「天国に行く」と思っている人は多いけれど、責任をもって蕩減し、歴史的な罪を清算してから天国に行こうとする人はいないというのです。ですから私たちは、肉身をもっている地上生活で責任を果たし、歴史的なすべてのことを清算した条件を立ててから行かなければなりません。
肉身があるときに罪を蕩減できずに霊界に行った人は、蕩減できないので、もう一度来て蕩減しなければなりません。今まで来て去っていった歴史時代のすべての霊人たちは、蕩減復帰をすることができなかったので、全部この法に引っ掛かり、霊界に行ってからもう一度来て蕩減条件を立てなければならない運命にあります。
地上に住んでいる人が霊界の人より一つ有利なこととは何でしょうか。直接蕩減条件を立てることができる肉身をもっているということです。(80-93,1975.10.19)

 

皆さんが天国に行く人か、地獄に行く人か、確実に知らなければなりません。レバレンド・ムーンは霊界をよく知っている人です。いろいろな人が生きては去っていきます。死を避けることのできる人は一人もいません。死は避けることができないというのです。ここで生きて去っていくのですが、自分のために生きた人は、この世界に行って、ぐるっと回って地獄に行き、他のために生きた人はぐるっと回って天国に行くのです。この二つの世界が死の場において分かれるのです。(203-100,1990.6.17)

 

地獄という所は、一度ほうり込まれれば、永遠に抜け出せない所です。それにもかかわらず、永遠に抜け出せない所です。それにもかかわらず、皆さんは自分の父母、そして親戚が地獄に行くということを実感できません。ただ「どうにかなるだろう」と思って終わりです。しかし、愛する父母が本当に地獄に行くと考えてみてください。世の中の監獄に入るというだけでも、泣いたりわめいたりしながら、あらゆることをしても引っ張り出そうとするのが人情ならば、まして天情で結ばれた息子、娘が、自分の父母と親戚、兄弟と姉妹が永遠に出てこれない監獄に行くということ知れば、そのような考えをしますか。(34-266,1970.9.13)

 

人に対するとき、その人を利用しようと考えず、利益を得ようと考えないということです。そうしてはいけません。本性が一度ゆがめば、修正するのに半年から3年はかかります。ですから、行動が恐ろしいのです。そのようになれば、地獄の中でそれほどの地獄はありません。それを知っている人は、全く考えもしないのです。(204-304,1990.7.11)

 

通りの乞食や病人の悪口を言ってはいけません。皆さんの霊人体がそのような姿ではないかと勧化なければなりません。(10-249,1969.10.21)

 

なぜ結婚しなければならないのでしょうか。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を体験するために結婚するのです。それでは、それがなぜ必要でしょうか。愛の空気が充満する所が霊界です。霊界の拍子に合わせる訓練をするためには、家庭をもたなければならないことを知らなければなりません。これを感じられずに行く人は、あの世に行って拍子を合わせることができません。このような人は、愛の空気をかぐことのできる鼻のない人と同じなのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1062)

 

父子間の愛は縦的な関係であり、夫婦間の愛は横的な関係であり、兄弟姉妹間の愛は旋回して取り囲む関係です。この三つの関係はすべて違います。それで地上でこの三つの違った方法によって深い愛の経験をもってこそ、霊界に行って制限なく縦的、横的、円として旋回できるのです。
例を挙げると、父母が早く亡くなることによって父母の愛を味わえなかった人は、とても重要な愛の経験ができなかったので多少悲劇的な人であり、夫婦関係を経験できなかった人は、人生の重要な部分が不足しているので霊界ではとてもみすぼらしい人です。
また兄弟姉妹がいない人は、すべての分野が欠けているので、完全な人生を生きることができずに霊界で寂しい立場に立つのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1062)

 

皆さんが霊界に行ってみれば、その世界は次のようなものです。すなわち父母、兄弟姉妹、夫婦、子女に対する愛を十分にもった者、すなわち家庭生活で深い愛の経験をした人は、多くの自由を享受できるでしょう。その人は、どこでも何の制限もなく、どの方向でも行くことができます。その反対に愛の経験がない人は、心が狭く、霊界でも自分一人孤立していて、自由が全くありません。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1062)

 

地上で子女を立派に育てて残していかなければなりません。将来、その子女すべてが霊界に行きます。霊界に行って天国の国民になるのです。自分が天国の国民として何人捧げたかという時、地上ではつらいことだったとしても、永遠の世界ではそれが高貴な光栄の道になるのです。(218-319,1991.8.22)

 

あの世に行くと、霊界に行ったすべての次元の高い人たちのことが、地上のことと同じなのです。地上とは、どのような所でしょうか。天国の国民を生産する生産工場です。分かりますか。広大無辺の天国です。無限大です。あまりにも広いのです。人は数億年の間、来ては去っていきましたが、どこにいるのか分かりません。そのように広いのです。1人が100人ずつ子供を生んでも天国は広いので、過人生産ということがありません。あの世は、いくらでも収容できる世界です。産児制限しなければならないでしょうか、してはいけないでしょうか。
あの世に行く時、天国の民をどのくらい引き連れていくかということが問題になります。真の天国の息子、娘をたくさん引き連れてくる時、それが自分の権域になり、天上世界で表彰を受ける、等級の等差を設定できる資料になるということを知らなければなりません。(202-40,1990.5.1)

 

これから霊界に行けば、自分の所有権は何かというと、天国の民をどれくらい連れて入っていくかということです。それは自分の財産です。永遠の財産なのです。(218-227,1991.8.19)

 

霊界には、繁殖がありません。神様は、縦的な父母の立場にいらっしゃり、軸は一つなので、一点しかないのです。(221-204,1991.10.24)

 

誤ったなら、霊界に行って保護官生活をしなければなりません。何千年も待たなければなりません。祝福を受けた人たちもこれから息子、娘がみな、「お母さん、私をどうしてこんなふうに生んだの。どうしてここに引っ張ってきたの」と言わないと思いますか。皆さんの息子、娘がじっとしていると思いますか。皆さんの家庭によって、レベルがみな違います。
それで行くのも、自分のレベルに合う所に行き、長い間とどまるのです。そうすると皆さんの先祖たちが息子、娘に、「なぜこうですか。なぜできなかったのですか、いったい何ですか」と言いながら讒訴します。皆さんは、それに該当するほどの長い時間、そこにとどまらなければなりません。そのように、簡単なことではありません。それで、地上でしっかりしなければならないのです。(207-99,1990.11.1)

 

皆さんは、父母から生まれました。その次にもっと根本的なことは、母親のおなかを借りて神様によって生まれたという事実です。皆さんは、宇宙の父母を通して、肉身の父母を通して、真の父母を探していくようになるのです。肉身の父母は、通過の父母です。
それで死の瞬間は、真の父母に会いに行く歓喜の時間です。そこには真の父母の愛があります。そこを「天上天国」と言います。そこの構成要素は愛であり、父母の愛によって充満しています。その愛は、私のためのものではなく、奉仕と犠牲の原則の元に法度に通じることのできる愛です。そこに合格するためには、宇宙を愛し、人類を愛さなければなりません。地上生活は、そのような愛のための訓練所です。
皆さんは、このような内容が宇宙の根本だということを知って、生きている時にこのような観をもって愛を実践し、合格したのちにそこに行けば、間違いなく神様に会えるという結論になるのです。(105-108,1979.9.30)

 

霊界に行くと、必ず行いをしたとおりに報われます。祝福を受けた家庭は、先生が祝福を授けたので天国に行く門は開きますが、前進するにあたっては心情の軌道に乗っていけば、あちらから引っ張ってくれなければなりません。その世界は愛の世界なので、私の心情がそれと和動できてはじめて入ることができます。それで、これからそのような世界があらわになる時になれば、皆さんは、たくさんの審判過程を経るべき運命ではないかと思うのです。(70-170,1974.2.9)

 

人が生まれたのは、愛の実を地上に結ぶためです。地上で神様が望んだ愛の実を結実するのが、地上に来た目的です。ですから短いのです。一つの季節にしかなりません。短いというのです。分かりましたか。(130-159,1984.1.8)

 

魚は、水の世界を離れては生きていけません。水が絶対的な生命です。川の水に棲む魚が、川の水だけにいてはいけません。海の水にも行ったり来たりして生きなければなりません。なぜそうしなければならないのでしょうか。淡水の魚は、海水と接するその水を味わわなければ子供をはらめないのです。それを知らなければなりません。それを知っていますか。また、海に住んでいる魚は、淡水に来て、それを味わって子供を産むようになっています。二つの世界に通じなければなりません。(210-128,1990.12.17)

 

地上と霊界は、二つの世界ではありません。ですから二つの世界で生活できる、一つの内容をもたなければならないということを知らなければなりません。(177-274,1988.5.20)

 

(2021.11.07:写経奉献)