天聖経(24) 第4巻『真の家庭』 第7章 真なる夫婦の愛
第7章 真なる夫婦の愛
1)創造本然の夫婦関係
2)夫婦の愛が必要な理由
3)理想的な夫婦の関係
4)神様も酔うことができる真の夫婦の愛
5)会えば会うほど一層会いたいのが夫婦の愛
6)夫婦の愛の発展過程
7)愛する人が死ぬとなぜ悲しいのか
8)死ぬ時までに成すべき永遠の夫婦の愛
1)創造本然の夫婦関係
神様は、プラスとマイナスの二性性相であられます。これをプラスに分立させたのが男性のアダムであり、マイナスに分立させたのが女性のエバです。(32-238,1970.7.19)
一男と一女は、無形であられる神様の実体対象として現れた息子、娘です。男性は神様のプラス(十)の性稟を、女性は神様のマイナス(-)の性稟を代表した実体対象です。
創造理念は、両性の中和体としていらっしゃる神様の性相を二性に分立し、再び神様の本性相に似た姿に合性一体化するものです。
一人の男性と一人の女性は、おのおの神様の一性に似て現れました。したがって、彼ら一男一女の結合は、神様のプラス(+)の性稟とマイナス(-)の性稟が一つになることです。すなわち、神様に似た中和体となるのです。
ですから、二人の人間、すなわち夫婦は、神様の全体を表象する結合体です。
男性は神様のプラス(+)の性稟を代表する事によって真の父の分身となり、女性は神様のマイナス(ー)の性稟を代表することによって真の母の分身となるのです。彼らは、各々神様の身代わりでもあります。夫婦が愛で一つになることは、天宙を抱くことと同じです。
これは、宇宙的な出会いです。夫は、多くの男性を代表して現れた存在なので、夫であると同時に、お父さんの身代わりであり、お兄さんの身代わりであって、妻は、多くの女性を代表した存在なので、夫人であると同時に、またお母さんの身代わりであり、同時にお姉さんの身代わりなので、互いに愛し合い、尊重しないようにしようとしても、尊重せざるを得ないのです。(9-83,1960.4.16)
男性は神様の陽性的形状であり、女性は神様の陰性的形状です。夫婦は、天下を1枚のふろしきに包んだのと同じです。ゆえに夫婦は、神様の理想的な愛の心情を感じることができます。(13-67,1963.10.17)
男性は天を象徴し、女性は地を象徴します。二人が一つとなって調和を成し、平衡線を成さなければなりません。(祝福家庭と理想天国I-868)
夫婦というのは自分一人に限った夫婦ではありません。天地を代表した夫婦だということを知らなければなりません。
男性と女性の愛の完成が宇宙の完成です。この愛が壊れる日には、宇宙の秩序が破壊され、縦的な世界がすべて台無しになります。
男性と女性が互いに喜んで抱擁すること自体が、宇宙が一体を成す場となります。神様の理想の中で成される創造本然の姿がそうなのです。(祝福家庭と理想天国I-869)
人間が男性と女性として生まれたのは、愛のためです。愛は、夫婦となって一つとなることにより、実を結ぶことができます。男性と女性は、神様の愛が二性性相に分立した実体なので、分立した実体が合性一体化するために、神様の愛を尋ね求めていかなければなりません。
神様の愛に出合おうとすれば、男性と女性が愛で一つにならなければなりません。男性と女性が一つにならなくては、神様の愛に出会うことはできません。神様の愛に出会うことによって、私たちは、神様の同位圏にとどまるようになるのです。
同位圏とは、神様の横に立てる位置をいいます。夫婦が完全に神様の愛を中心として一つとなるようになれば、その夫婦は、神様の位置まで出ていけるということを知らなければなりません。
神様の位置に上がっていけるだけでなく、神様がもっているすべてのものが自分の所有圏内に入ってくるようになるのです。愛の力は、このように驚くべきものです。神様が皆さんに同参的権威を許されると同時に、皆さんは、神様がもっていらっしゃる所有権限全体を伝授されるようになるのです。(144-132,1986.4.12)
アダムの願いは、天宙を治めることでした。アダムが抱いて愛した夫婦の価値は、世界の中心的価値を代表したものです。(64-84,1972.10.24)
神様がつくった堕落していない本然の人、すなわち本然の男性と女性を中心としたその愛は、どのくらい貴い価値があるのかをはっきりと知らなければなりません。(145-267,1986.5.15)
2)夫婦の愛が必要な理由
皆さんは、天国がどのような所だとお思いになりますか。天国は、一言で言って、完成した人が入って暮らす所だということができます。天国が真なる愛を備えた完成した人が入る所であるとするならば、その真の愛を備えた人とは、どのような人でしょうか。人間は、男性と女性で成り立っています。神様の理想的愛の完成が、地上でどのうように成り立ち得るかを見るとき、男性と女性を離れては成り立ち得ないという結論に至るのです。完成した愛の主体性を備えた男性と女性でなければ、神様の愛が完成されません。(145-266,1986.5.15)
真の家庭は、家庭天国を築かなければなりません。家庭天国を築くようになれば、間違いなく地上天国が築かれます。なぜでしょうか。未来の天国に対する実感を現在の立場で刺激しようとするので、不可避的に相対が必要ですが、家庭において相対からその刺激を受けることで、未来の天国理念を今日の生活感情から体得することができるからです。
それを体得するために、夫婦が必要なのです。その刺激によって、夫婦は永生することができます。発展は、刺激がなくてはできないのです。
夫婦の愛は、理想天国を建設し得る刺激を与えるのです。言い換えれば、未来の喜びを現在圏内に引き込み、刺激を与えて推進力を補給させ、その場まで行くようにするのが夫婦の愛です。
その愛の中には、国の愛も入っていて、世界の愛も入っていて、神様の愛も入っています。したがって、その愛は、どこでも無事通過です。結局、天国には、互いに愛し合う夫婦だけが入ることができます。
ですから、この地上でそのような思想をもって互いに愛し合う夫婦は、いつも天国生活をしているのです。イエス様は、「天国はあなたの心の中にある」と言われたでしょう? けれども今日、統一教会では、「あなたの家庭に天国がある」と言うのです。家庭で天国を築くことができないというときには、統一教会のみ旨が成されないのです。しかし、築くことができるというときには、そのみ旨が成されます。このような観点から、皆さんは、原理を中心として正道を選んでいかなければなりません。(37-7,1970.12.22)
今後、天国を築こうとすれば夫婦同士が愛し合うのと同じように、結婚した男性は世界のすべての女性たちを自分の妻を愛する心で愛そうと思わなければなりません。「世界のすべての女性の中から代表的な伴侶として私は妻を選んだのです」。このように考えなさいというのです。また女性たちは、自分の夫なら夫に対して、ただ一人の夫としてではなく、全世界の男性の中から代表として選ばれた人が夫だと考えなさいというのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-869)
女性の皆さんは、どのようにしなければならないかといえば、一人の男性を愛しますが、その男性一人としてだけ愛するのではなく、世界の男性を代表した男性として愛さなければなりません。その男性は、お父さんを代表し、お兄さんを代表し、夫を代表するのです。
それは、どのような意味でしょうか。夫をお父さんのように思い、おじいさんのように思い、その次にはお兄さんのように思い、弟のように思わなければならないということです。
このような因縁を通してお父さんを愛し、おじいさんを愛し、お兄さんを好きになり、弟を好きになれる、そのような女性こそ相対を迎えることができるのであり、「お父さんも嫌い、お兄さんも嫌い、おじいさんも嫌い、弟も嫌い、みんな嫌い、ただ自分の夫だけ好きだ」、それは、神様の公約を外れた立場です。
ですから、どのようにしなければならないのかといえば、全世界の男性をすべて愛し得る心を内包し、その結実のような男性を私が抱いて愛するのは、全世界のすべての男性を代表して愛するのだという観念をもたなければなりません。私のお父さんのように、私のお兄さんのように、私の弟のように、万国を超越して、国境を超越して愛し得る心をもつようになれば、その人は神様の息子だということができ、娘だということができます。これが統一教会の思想です。(83-219,1976.2.8)
3)理想的な夫婦の関係
真の夫とは、「私が生まれたのはあなたのためですから、あなたのために生き、あなたのために死ぬでしょう」と言う人です。真の妻も同様です。このように相応しながら、自らを越えて相対のために生きる原則をもてる家庭なら、この家庭こそ理想的な家庭であり、幸福の家庭であり、平和の家庭に違いありません。(77-106,1975.4.1)
男性がいくら優れているとしても、男性が生まれるようになった動機は、男性自身にあるのではありません。女性のために生まれたというのです。女性がいなければ、男性がこのように生まれることができますか。その反対に、女性はいくら美しい化粧をし、私がアメリカのある女優だと誇っても、その女性は女性のために生まれたのではありません。
ですから、男性は肩が大きく、女性はおしりが大きくて、それを合わせればよく合うようになっています。ですから、真なる妻の愛、真なる愛の妻、真の理想的で幸福な妻と夫は、どこに存在するのでしょうか。私のためではなく、互いのために生き、またそのような心が一致するとき、理想的な夫婦が現れます。
それは、間違いない事実です。このような原則から見るとき、理想的な人、また幸福で善なる人をどこで探し出せるのかといえば、自分のために生きようとするところでは探し出すことができず、人のために生きようというところに根拠を置けば探し出すことができるのです。夫は妻のために、妻は夫のために生命を捧げられなければなりません。その夫婦は、神様の愛の圏内に連結され、直接的な保護を受けるので堕落はありえません。(祝福家庭と理想天国I-882)
男性が自分の妻を愛することにおいては、世の中のどの男性が自分の妻を愛する以上に愛さなければなりません。女性も自分の夫を愛することにおいては、世の中のどの女性が自分の夫を愛する以上に愛さなければなりません。それが真の家庭を築いた夫婦が守るべき愛の倫理なのです。(祝福家庭と理想天国I-965)
真なる父母は、子供のために生きて死にます。そこには愛が成り立っているからです。同様に、真なる愛の妻と夫、幸福な妻と夫とは、互いのために生き、愛で一つとなるときに現れるのであり、また、それが理想的な夫婦です。(祝福家庭と理想天国I-883)
新郎新婦は、お金や権力、名誉を中心として一つとなるのではなく、神様の本然の愛を中心として一体とならなければなりません。(祝福家庭と理想天国I-883)
この世の夫婦関係においては、夫がお金を稼いでくるときに力が生じます。妻は夫が稼いできたお金を見て力が出るし、その妻の姿を見て夫も力が出るようになっています。
ですから、彼らは、お金を稼ぐことができなければ、不安で夫婦関係が壊れたりもします。真なる夫婦は、神様を中心として愛の一体を成さなければなりません。
真なる夫婦は、愛を中心として漸進的発展を成していかなければなりません。妻は夫のために生き、夫は妻を愛する中で、一組の夫婦が神様を愛する家庭をつくり上げていかなければならないのです。(祝福家庭と理想天国I-883)
夫と妻が互いに愛し合うことにおいても、神様の身代わりとして、夫なら夫、妻なら妻を愛さなければなりません。
人間的な立場で愛するようになれば、互いに足らない面が現れるようになって、結局は離婚する事態まで起こるようになります。(祝福家庭と理想天国I-881)
最近、済州道の娘が嫁ぐとき、田畑を与えれば、登記するのに娘自身の名前でするというでしょう? いつ夫と別れても、自分のものだと主張できるようにするためです。それは、本当に理想的な夫婦でしょうか。お金を使っても、これは夫のお金、これは自分のお金、お金を持っても、つるつるしたのは自分のお金、しわが寄ったお金は男性のお金・・・・・・。それは、愛ではありません。
お金の包みを広げて使っても、「どうなった?」、「私が使った」、「そうか。良いことに使ったわね。もっと使って」、これでこそ良いのです。口をぶるぶる震わせて、「ああ、また使ったわね!」、これでは落第者です。ですから、いつ与えても、無限に与えることができ、いつも思いのままに、深い所でも低い所でも、夜でも昼でも授受し得るようになるときに幸福なのです。
ですから、与えようとしても与えることができないときは不幸なのであり、受けようとしても受けることができないときも不幸なのです。(祝福家庭と理想天国I-886)
4)神様も酔うことができる真の夫婦の愛
私たち個々人は、心と体が相反しているので、心を中心として体を一つにし、心の中に神様が臨在できる相対的基盤を造成しなければなりません。
このような男性と女性が祝福を受けて、完全な愛を授け受けながら喜びを享受するとき、神様が御覧になると、地上に咲いた花のようだというのです。また、彼らの愛によって築かれたすべての調和的万象は、神様には香りのようなものです。
このような美しい花と香りの中に神様は暮らしたいと思われて、訪ねてこられるのです。神様の愛が訪ねてこれる土台が、すなわち夫婦愛の場だというのです。その場は、すべての万物と宇宙が調和する場となることでしょう。このような内容と道を教えてくれるのが統一教会であり、統一教会の「原理」です。(祝福家庭と理想天国I-889)
神様が最高に喜ばれるメロディーとは何かといえば、男性と女性が互いにうれしくて喜ぶ、永遠なる夫婦の笑い声なのです。そのような夫婦が世の中を理解して抱くことができ、宇宙全体を受容できる心で生を営むとき、笑いは自然発生的となります。
そのような男性と女性の美しい姿が、神様の前に一輪の花でなくて何でしょうか。これは単純な理想でも抽象でもありません。本然の世界を語っているだけです。
夫婦同士、家の前にある山を眺めながら、あの山が生まれたのは誰のためかを尋ねてみて、全宇宙を考えながら、この宇宙が生まれたのは誰のためかを尋ねてみます。そうすれば、自分のためであると同時にあなたのために生まれたのだ、と答えるのです。夫婦とは、正にこのようなものです。
この宇宙ができた目的を成就すること、すなわち主体的な目的を重要視することが、夫婦が一つとなる道です。夫婦は、心を中心として、人格を中心として、愛を中心として話をするのです。夫婦は、同じ道を行くのです。田舎者の娘だとしても、大臣と結婚すればどうなりますか。同じ道を行くのです。その田舎者の女性が小学校も出ていないとしても、すべての人が「大臣の奥様だ」と言いながら、頭を下げなければならないのです。
このように夫婦は、共に行くのです。夫婦において、あなたの愛が別にあり、私の愛が別にあるのですか。あなたの愛であるとともに私の愛なのです。お前の愛であるとともに私の愛なのです。(祝福家庭と理想天国I-889)
本当の愛とは、全身が一つとなり、心情と血統がすべて一つになって愛することです。このように愛し合うことができる人は誰ですか。夫婦です。夫婦のいない世の中ならば、生きる味わいがありますか。(26-151,1969.10.25)
愛し合う夫婦が対話する姿を見れば、世の中のどのような詩や絵よりも美しいのです。また「愛し合う者同士、私たちだけ、私たち二人で」という言葉がどれほど美しく素晴らしい言葉ですか。(祝福家庭と理想天国I-893)
良いには良いのですが、その中で最も良いものは何でしょうか。相対者しかいません。私が「ねえ」と言えば、相対的に「なあに」と答え、「おい」と呼べば、「なによ」と答えるのです。夫が愛する妻の名を優しく呼びかければ、優しく「どうしたの」と答えます。しかし、無愛想に呼びかければ、同じように「なんなのよ」となるのです。山びこと同じで、みな相対的なのです。(37-11,1970.12.22)
愛に酔った人々の笑いを見れば、それも相対的です。男性は、笑うとき、目を一層大きく開くのに、女性は笑うとき、そっと目を閉じます。夫の目が大きくなり、妻の目がだんだん小さくなれば、彼ら夫婦は愛に酔った幸福な夫婦だ、ということができるでしょう。(祝福家庭と理想天国I-890)
5)会えば会うほど一層会いたいのが夫婦の愛
男性が幸福な時はいつであり、女性が幸福な時はいつだと皆さんは思いますか。二人が相対を成して愛を授受する時が、幸福な時だということができます。男性が女性に対するとき、こぶしを振り回したり物理的な力を動員すれば、彼ら夫婦は決して幸福であるとはいえないでしょう。
男性が女性に対するとき、力で胸に抱いて保護しながら愛する時、女性は本当の幸福を感じる事ができるでしょう。
男性と女性間の愛において、力だけでも駄目であり、心で愛するといってそれだけでいいのでもありません。愛する心を力で確認してあげたとき、女性は本当の幸福感を味わうことができるのであり、また、女性が男性に対して心と体で愛を返すとき、本当に幸福な夫婦となるでしょう。(祝福家庭と理想天国I-890)
人は、いつも刺激が必要です。幸福は、刺激なしには成されません。刺激がなければならないというのです。いつも食べるご飯も、食べるときにおなかがすいていてこそ新鮮であるように、夫婦間の愛も同様に、いつも新しくなければならないというのです。 妻と夫が互いに見つめ合えば見つめ合うほど、もっと見つめたいと思い、一日中共にいたいと思わなければなりません。(23-57,1969.5.11)
愛は、互いに恋しく思うとき価値があります。口があれば口を広げ、目があれば目を開けて「愛を下さい」と言えば、愛を与える人も気分が良いでしょう。ぼーっとしていると、愛が来ても逃げていくということを知らなければなりません。
愛する人が真剣でなく、消極的に出ると、どれだけ気分が悪いでしょうか。皆さんは、愛する者同士一緒ににいることが良いですか、離れているのが良いですか。近くに一緒にいればいるほど良いのです。なぜでしょうか。すべてのことが一遍に作用するので良いというのです。(祝福家庭と理想天国I-892)
一番良いこととは何でしょうか。食べることですか。おなかがすいた時、御飯を見て、「良かった」と言って食べますが、そのようなことは一時的だというのです。飽きるほど食べたのに、また食べ物をあげれば嫌になります。
しかし、自分が愛している人に対しては、そうではないというのです。愛する人に、「私は忘れてしまいたい。嫌いだ」と言う人がいますか。見ても見ても限りなく見たくなるのです。そうでしょう? 見てもまた見たいし、また見てもまた見たくなるのです。だから互いが、「あなたが前に立ち、私が後ろに立つ」と言いながら、車輪のように回るというのです。ここから統一が始まるのです。(37-11)
愛を知った妻は、夫の胸に頭をうずめて昼寝を楽しみたいという衝動が起こったりもします。それは、幸福に酔ってふらふらになるからなのです。
結婚する前には、恐ろしくて気持ち悪く見えた男性が、結婚して夫になってからは、会いたくて一日に何度も見なければ駄目なほど、心境の変化を引き起こすのが女性です。ですから、電話をして、昼食の時間にちょっと家に立ち寄りなさいと、呼び出したりもします。愛を知った男性も同様です。暇さえあれば、妻の膝をまくらにして眠ろうとします。ですから、昼食の時間やコーヒーを飲む時間はもちろん、時間があれば家に飛んできたりします。
また、結婚する前には、「そのようなことは女性がやることだろう、男性がすることか」と言いながらしなかったことも、妻が願いさえすれば、ためらいなくしたりします。このようなことは、愛を知った男性と女性においてよく起こる変化です。(祝福家庭と理想天国I-894)
神様は、人間をお造りになり、祝福してくださるとき、夫婦が幸福になれるようにしてくださいました。そのような祝福の門を開いて入った夫婦は、二人でささやくのに余念がないというのです。
「私はあなたに会うために、このように待ってきました。私の生命はあなたを通してその価値を花咲かせるでしょう。あなたを愛するために生まれ、また、きょうのために待ってきました」等々、互いを讃美し合う甘い話ばかりだというのです。この世に愛の蜜語ほど甘いものは存在しないでしょう。
夫婦が寝床に入って、ささやく蜜語は、この世のすべての疲労と憎しみを溶かす清涼剤となるのです。(祝福家庭と理想天国I-893)
6)夫婦の愛の発展過程
男性と女性が神様を仲保として出会うとき、どのように愛の表現をするのでしょうか。愛の発展過程を見れば、最初が口であり、2番目が胸であり、3番目が生殖器です。女性が初めて男性に出会って愛し始める前に、恥ずかしさを感じて隠すのは口なので、手で口を覆うのです。愛が口づけから始まるからです。
愛が次第に成熟すれば、その結実として息子、娘が生まれるようになるのです。女性において生殖器は愛の聖所ですが、その門を開けられる鍵は、夫だけがもっているのです。
夫が妻の愛の聖所を開けられる鍵を二つ、それ以上もっているなら、その夫はサタンです。
また、妻の聖所が開くのは、夫がもっている鍵だけでなければならないにもかかわらず、どのような鍵でも開くならば、それもまたサタンなのです。夫がもった愛の鍵が妻の聖所を開けて入れば、そこから世の中で最も貴く価値のある息子、娘が誕生するようになるのです。
その息子、娘の価値は、この世の何ものとも取り換えることのできない愛の結晶体なのです。息子、娘を通して、神様が人類の先祖であるアダムとエバを創造された心情を体得するようになるのです。ですから、父母は、息子、娘を見ながら、「こう見ても我が愛する人、ああ見ても我が愛する人・・・・・・」と歌い、喜ぶようになるのです。
愛で生まれた赤ん坊が、何をしても憎いと思わずひたすらかわいいのは、その赤ん坊が自分の血と肉で、そして、愛でつくられた分身体だからです。小便をし、大便をし、はなを垂らしても、ただひたすらかわいく愛らしいのです。それらの中に愛がしみ込んでいるからです。(祝福家庭と理想天国I-894)
夫と妻の関係でも、愛の強い力で結ばれたなら、相対が何をしようと、どのようなことをしてもうれしく、愛らしく感じなければならないのです。夫の体から出るにおいが嫌だといったり、妻の身振りが嫌だと考えたり、感じたりするのは、二人の間に完全な愛が築かれていないからです。そのような夫婦は、目的のために利害関係で結ばれたからです。(祝福家庭と理想天国I-895)
結婚後の家庭生活は、神様を真ん中に奉り、その神様が共に喜ばれる姿を見ながら、互いに愛し合える関係になってこそ、本当の喜びを感じることができます。
男性と女性が結婚して互いに愛し合うことは、本来恥ずかしく思うことではありません。これは最も尊厳なことであり、神聖で美しいことであるにもかかわらず、神様の戒律を犯したために、愛の歴史は、罪悪によって恥ずかしい方向に流れてきました。(祝福家庭と理想天国I-891)
エデンの園で裸になって踊りを踊るのを誰が見たでしょうか。ですから、人かいない所では、そのようなこともできるのです。部屋で夫婦が裸で踊るといって、それが心配することでしょうか。しかし、人が見ている前でそのようにすれば、それは、社会から非難を受けて当たり前なのです。夫婦だけであってこそ、裸になって踊るばかりでなく、何をしたとしても誰が干渉するでしょうか。ですから、祝福家庭も、二人で裸になって踊りを踊りなさいというのです。夫婦同士なのに何の問題がありますか。(21-236,1968.11.24)
この世に男性と女性がいくら多いといっても、私たち二人しかいないという心をもたなければなりません。その女性しかいないという思いの中に精誠を尽くすのが原理です。(祝福家庭と理想天国I-892)
真実の幸福といえば、相対者と共に愛に酔って笑い、歌い、ささやくところで見つけることができます。愛する恋人からささやきの言葉を聞ける人は、幸福な人です。耳元で愛をささやくことは、正に夢を見るかのように幸福感を感じることができるからです。(137-216,1986.1.3)
7)愛する人が死ぬとなぜ悲しいのか
夫を失えば、女性はどうして泣くのでしょうか。恋しい人を失ったので、悲しくて泣くようになるという、そのような漠然とした理由のためだけではありません。
愛は四方性を備えなければなりません。そして、立体的に前後、左右と相関性を備えなければなりません。
このような愛であるので、夫は、その女性と左右の相対として愛の四方性を成すようになるのであり、したがって、このような妻は、夫がいないことによって、全宇宙が保護する立場から、保護を受けることができない立場に陥ることになるので、宇宙から受ける力が苦痛に感じられるようになるというのです。
愛する妻を見れば、なぜ良いのでしょうか。一人だけでいるときは、宇宙の球形的な四方から保護される基準に立てなかったのに、相対がいることによって、その相対と授け受けする横的な愛の関係を結び、縦的な宇宙の力と接し得る場をもつようになるので、その相対をもつ者は、宇宙の保護力によって無限にうれしくなるのです。
ですから、愛する妻を見れば、全精神が統一され、その妻しか見えないというのです。ですから、踊りを踊り、歌を歌うようになり、共に一団となって回るのです。踊りを踊り、歌を歌って喜ぶ、そのようなことを、何のためにするのでしょうか。保護圏を拡大するためです。(祝福家庭と理想天国I-903)
多くの人々がレバレンド・ムーンに反対しますが、そのようなレバレンド・ムーンがアメリカに行って、アメリカの若者たちと徹夜しながら、彼らを教育して運動させ、時には彼らと共に踊りを踊り、歌を歌って楽しむのは何のためですか。保護圏の拡大が私と関係があるからです。
宇宙保護圏の拡大作用が私とともに始まるので、反対を受け監獄に入るようになるとしても、恐れることなく押し続けていくのです。
いくら幸福を謳歌し、何がどうだといっても、一人で生きるのが幸福ですか。夫婦のうち一人が死ねば、悲しくてわあわあ泣くのです。
一人で自分の行く道を準備できるでしょうか。なぜ片方だけだと、かわいそうだというのですか。天地が喜べるすべての重要な日々の前に、不合格者だからです。
天地法度の規律から外れたというのです。明らかにその法度を通してのみ天地の運勢は回り、幸福の要件とその動機が決定されるのです。
悲しいというのも、それだけ法度から遠のいたからであり、そのような悲しみが生じるのは、天地法度とは順応しない立場にあるということです。心がうれしく、良いというのは何ですか。その人を世界で歓迎してくれる場があるということです。悲しいのは追い出される立場だからです。喜びと悲しみが、そのように分かれるようになっているのです。(19-334,1968.3.29)
夫婦が共に暮らして、一人が先に死ねば泣くようになります。なぜそうなのかといえば、この宇宙の公法に不合格の基準に該当すれば、この宇宙の公的な力がその人を押し出すようになり、またそのようになるときに、悲しみの度合いが強くなるからです。
それでは、喜びはどのようにして生じるのでしょうか。そのような宇宙の公法に一致する自分となれば、宇宙の力が彼を抱こうとします。その力が大きければ大きいほど強く抱き締めるようになり、強く抱けば抱くほど彼はその内的な中心に入っていくようになるので、喜びが来るというのです。ですから、悲しみと喜びは、どこから生じるのでしょうか。皆さん自身から生じるのではありません。これは、力の原則、すなわち宇宙の公法を中心として生じます。
それでは、その宇宙の公法とは何でしょうか。男性と女性が最初から最後まで完全に一致していく道であり、またこの道は、天運が行く道です。
一人で行くのではなく、男性と女性が一致して、すなわち夫婦が一心となって行く道です。皆さん、今までこのような話を聞いたことがありましたか。ですから、互いに争い、泣きわめき、死んでやると大騒ぎをする人々は、早く除去されます。公的法度圏内で、合格品でない不合格品として見なされるのです。そうして、どこに行きますか。ごみ箱に行くというのです。心はそれを知っているので、それに対しては、即時に悲しみを感じるのです。(24-223,1968.8.17)
8)死ぬ時までに成すべき永遠の夫婦の愛
夫婦が互いに愛し合うことにおいて、いつまで愛し合うのかと尋ねるとき、若い時だけ愛するというなら、気分が良いでしょうか、悪いでしょうか。
いつまで愛することを願うでしょうか。「永遠に」とも言いますが、死ぬ時まで、その次に永遠に愛することを望むというのです。
永遠は、未来を中心として全体をいうのです。死ぬ時まで愛するということは、自分のすべてのものを根こそぎ与え、愛するということです。そうでしょう? 「永遠に」は全体的であり、「死ぬ時」までは、すべて愛するということです。そのようにしてこそ、相対が喜ぶのです。
この場にいる娘たちが今からお嫁に行けば、夫に間違いなく、「あなた、私を愛しますか」と聞いてみることでしょう。「愛する」と言えば、「私をすべて愛しますか、少し愛しますか」と、このように尋ねたとき、「すべてを愛する」と返答してこそ、気分を良くするのです。男性もそうです。仕方がありません。神様の調和がそのようになっているのです。(37-23,1970.12.22)
人々が結婚するとき、互いに「死ぬほど愛する」と言います。「愛する」という言葉を語るとき、ただ「死ぬほど愛する」という言葉と、「死ぬ・・・」と言いかけて、十年、千年、億万年経ってから「・・・ほど愛する」という言葉のうち、どちらを願いますか。
ここにいる女性たち、答えてみてください。ただ「死ぬほど愛する」という言葉より、「死ぬ・・・」と言いかけて、億万年経ってから「・・・ほど愛する」言ったほうが、もっとうれしいことでしょう。これが十年、百年、このように長くなるほどもっと良いのです。
夫が妻と出会って「死ぬ・・・」、その次に十年が過ぎても「死ぬ・・・」、また50歳を過ぎても「死ぬ・・・ほど愛する」と言うとき、そのようにさえできるならば、その妻は、自分の年取った旦那さんがどれほど良いか分からないのです。そういうものです。おなかが出て、よたよたと歩いていても喜ぶのです。(37-25,1970.12.22)
真の妻、真の夫とはどのような人でしょうか。人は、ある程度成熟すれば家庭を築くようになりますが、自分の相対を永遠なる愛の相対として考え、初恋とともに日がたてばたつほど、その初恋にプラスされる愛の家庭を築かなければなりません。その家庭的な愛が拡大され、氏族を成し、永遠に愛を拡大させていける、永遠なる愛の実体としてつながれるようになるとき、そのような夫婦は、真の夫婦であり、真の妻と夫となるのです。また、そのような夫婦が神様の愛に同参できるのです。(祝福家庭と理想天国I-882)
妻の目には夫が最高であり、一番に見えなければなりません。夫の目にも妻がそのように見えなければならないのです。初恋で結ばれた因縁が最高の因縁です。人が何を言おうと最高です。このようなものは、何億あげても買うことができないのです。このような世界を自分が永遠にもつことができるなら、どれほど素晴らしいことでしょうか。
すべての人が、そのくらいにはならなければならないというのです。妻は、夫によく従い、よく助けなければなりません。そのようなことが、文学作品や映画の一場面にだけ現れてはいけません。現実に一生の間、そのように暮らさなければならないのです。最高の歴史と最高の文化が崩れたので、先生はそのような世界を立てるために、そのように暮らすために、新しい歴史を創造してきたのです。(23-56,1969.5.11)
統一教会でいう理想的夫婦とは、どのような夫婦でしょうか。実体をもって最高の芸術を展開できる夫婦です。最高の文学を実体で展開できる夫婦です。最高の理想と世界最高の文化世界に触れる前に、最高の愛で夫婦が授け受けする甘い愛が、世界最高の芸術作品とならなければならないのです。それ自体が最高の文学作品であり、それ自体が文学の実体とならなければならないのです。(22-269,1969.5.4)
(2021.11.14:写経奉献)