天聖経(83) 第16巻「真の家庭と家庭盟誓」 第2章の2 家庭盟誓第2節の解説

 

2)家庭盟誓第二節の解説

第2節

「天一国主人、私たちの家庭は
真の愛を中心として、
神様と真の御父母様に侍り、
天宙の代表的家庭になり、
中心的家庭となって、
家庭では孝子、国家では忠臣、
世界では聖人、
天宙では聖子の道理を
完成することをお誓い致します。」

 

①「代表的家庭となり、中心的家庭となって」

イ)アダム家庭が代表的家庭、中心的家庭

 

「私たちの家庭は真の愛を中心として、神様と真の父母様に侍り」です。神様と真の父母様に侍らなければならないのですが、エバが堕落することによってアダム家庭が追い出されてしまったのです。神様と真の父母に侍らなければなりません。神様は縦的な父母であり、完成したアダムとエバは横的な父母であって、この二つの父母が一つになったその上で統一が成され、天国と神様が連結されるのです。ですから、神様と真の父母に侍らなくては何もできません。それで一つになって天宙の代表的家庭になるのですが、その家庭は、堕落する前のアダムとエバ以上の立場なのです。(260-189,1994.5.8)

 

アダムの位置は、世界人類の過去と現在を代表した位置であり、頂上の位置です。数億万年の人類先祖の頂上です。最初は、この一つしかありませんでした。アダムとエバは頂上で結婚し、地上の中心家庭として着地して世界に拡大していくようになっているのです。そのような位置で天国の孝子となり、天国の忠臣となり、国をもって忠臣となり、国をもって聖人となり、国をもって聖子の道理を果たさなければならなかったのですが、アダムは、それを成すことができなかったのです。(264-187,1994.10.9)

 

第2節は何でしょうか。「私たちの家庭は真の愛を中心として、神様と真の父母様に侍り、天宙の代表的家庭となり、中心的家庭となって、家庭では孝子、国家では忠臣……」、このように続いていきます。それは、何を意味するのでしょうか。天宙の中心家庭は、アダムとエバです。アダムとエバが中心家庭であり、代表家庭です。代表は一つしかありません。中心も一つです。それが種です。アダムとエバがその種です。そして、祝福を受けた家庭の種は、すべてイコールです。皆さんの家庭も、全く同じでなければなりません。(263-60,1994.8.16)

 

アダムとエバは、真の愛に絶対的に侍る道を通ることによって、家庭から国家、世界、天を無事通過するのです。家庭から国家、世界、天に直行するようになっています。今までの歴史時代の思想観は、そのような内容になっていませんでした。すべてジグザグに上がっていったのです。このように、万年不破の愛を中心として、一体的な家庭拡大の理想に従って歩んでいかなければなりません。家庭のモデル形態は変わりません。それが代表的家庭であり、中心的家庭です。(283-75,1997.4.8)

 

堕落せずに完成したアダム家庭が天宙史的な代表家庭になるのです。代表的家庭、中心的家庭になるのです。家庭盟誓の第2節にあるように、中心家庭であると同時に、代表家庭だというのです。頂上、すなわち神様の前まで上がっていき、アダムとエバと神様の三者が一つになるのです。(269-80,1995.4.8)

 

アダムとエバが天地の中心です。全世界の人類を代表した中心家庭です。ここから上がっていくのです。国の大統領の家庭があります。世界の大統領も家庭があります。神様も家庭があります。同じです。これをしっかり押さえれば、世界版図なので、8段階に拡大されれば標準は一つになるのです。これが大きくなり、軸が一つになるのです。家庭という軸を中心として一つになるのです。私は家庭軸の代表なので、世界に一つしかない位置に立つのです。それで、王子、王女になりたいと思うのです。欲望は、神様を占領し、この地上における最高の男性、女性となって最高の神様の相対になることです。そのようになることによって、神様が私のものになると同時に、神様がつくられたすべての被造世界も私のものになるのです。愛は、一体になることです。所有権が決定されるのです。これは驚くべき言葉です。(273-282,1995.10.29)

 

「家庭盟誓」の第2節に「代表的家庭となり、中心的家庭となって、家庭では孝子、国家では忠臣」と続いていくでしょう? 孝子の道理、忠臣の道理、聖人の道理、聖子の道理をすべて愛によって連結させなければなりません。そのようにすれば、アダムとエバの代表的家庭です。一番頂上の家庭です。頂上で結婚すれば、地上に着陸するのです。天上から愛を中心として着陸すれば、中心家庭になるのです。それは聖子の家庭であり、聖人の家庭であり、忠臣の家庭であり、孝子の家庭です。
それが永遠の種となり、それが実を結ぶことによって拡大していくのです。千代、万代、この原則に立脚した人になることによって、間違いなく天国の民になるのです。(263-148,1994.8.21)

 

アダムとエバの家庭という一つの起点を中心として、氏族は、その周りを形成するのです。家庭は核です。核は、移動することができません。そのような家庭を中心として、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様を解放させることができる位置を備えなければなりません。神様と同居することができなければなりません。神様が家庭に同居でき、氏族、民族、国家、世界、天と地に同居できる家庭的価値の内容を備えてこそ、堂々と天国に入ることができるのです。アダム家庭は、世界家庭の代表です。時間的な未来にそれを残しておきましたが、彼が行かなければならなかった所は、全世界家庭の代表の位置です。それで、今日、蕩減復帰の原則によって私たちが立った位置は、世界的代表の位置です。(263-204,1994.10.4)

 

アダム家庭は、代表的家庭です。ここにおいて神様は、一番頂上にいらっしゃるので、一番頂上に立たなければなりません。その前でプラス・マイナスとして一つになることができる最高の位置に連結されるのです。代表的です。代表的家庭です。ここで植えたので、植えたものは、後代を通じて広がっていくのです。
家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、天と地を中心として、この中心地に植えつけられて連結されるのです。それで、代表的家庭なのですが、家庭は、地上に植えなければならないので、平面図上で中心的家庭になるのです。8段階です。全宇宙の中心になります。このような種を植えれば、ここから家庭が広がり、氏族、民族、国家、世界が展開していくのです。全く同じ価値の種です。同じです。(261-317,1994.7.24)

 

アダム家庭において、天がアダムとエバに祝福した種、それは結婚の種です。結婚の種がそのようになっているので、今日、人類が家庭をもつようになれば、それは世界家庭として、種から実を結んだものなので、アダム家庭の種も、今日その数千万代の子孫となった種も、その価値は同等になります。種の価値が違っていてよいでしょうか。松ならば、松の種を一つ植えれば、それが世界へ広がっていき、数千万の松の中から数億個の種ができたとしても、その種はすべて一つの種と同じ価値をもった松として培養されなければなりません。(273-282,1995.10.29)

 

ロ)祝福を受けた家庭は本然の家庭と同じ価値

 

アダム家庭は、代表的であり、中心的立場に立つのです。それで、自分たち夫婦は、世界の人類を代表する家庭であり、世界の中心家庭だと、そのような観念をもたなければなりません。神様の息子、娘は、そうでなければならないでしょう? 天国に入る家庭なので、そうでなければならないのです。それで、祝福家庭がアダム家庭に入るためには、盟誓文を知らなければならないというのです。(265-253,1994.11.23)

 

祝福というものは、堕落していない本然的な神様の愛と連結され得る基準なので、堕落していないアダムとエバの家庭と同じ価値をもたなければなりません。そうであってこそ同じ種になるのです。夫婦を中心として兄弟がいれば、その兄弟に神様が対するのは同じだというのです。どんなに広がっていっても、一つの家庭がもつ価値は、アダム家庭のもつ価値と同じです。同じ種の価値をもたなければなりません。(263-196,1994.10.4)

 

祝福を受けた家庭は、名実共に世界を代表した家庭です。したがって、世界を代表した家庭として、真の父母の血族と、氏族や民族や国家の数多くの血族の前に恥ずかしくない、神様の代身となる家庭にならなければならないということは、間違いのない事実です。このような意味で代表的家庭であり、中心的家庭です。そのようになることによって、アダムとエバの家庭と私の家庭が同じ価値になるのです。それが結論です。ですから、皆さんは、ここではこのように生き、あそこではあのように生きるということはできません。(263-204,1994.10.4)

 

盟誓文の2番目は代表的家庭です。代表的家庭とは何ですか。アダムとエバ、二人しかいません。神様とアダムとエバ、二人しかいません。天地の最高の位置であり、代表的位置です。代表的位置になり、結婚することによって、地に着陸するのです。なぜですか。息子、娘を繁殖しなければならないからです。代表的家庭は中心家庭です。家庭は二人です。男性が二人ではなく、女性が二人ではありません。相対を合わせるのです。
単一の男性と女性が、神様の前に代表的位置に立つのは、アダムとエバと同じことなので、アダム家庭を種といえば、私たちの家庭も種です。松の種は、千年、万年、どこへ行こうと同じ価値をもっているのです。同じ価値、対等な価値を備えます。これを植えれば、どこでも松が出てくるのと同じことです。ですから、今日、先生が結婚させてあげたことは世界的です。(273-48,1995.10.21)

 

祝福を受ける位置は、大韓民国の金氏ならば、金氏の息子として祝福を受けるのではありません。神様の直系である堕落前のアダムとエバと、同じ位置で祝福を受けるのです。それは、どういうことでしょうか。その家庭を中心として、全体を代表しているということです。アダム家庭が全体の代表となり、アダム家庭の一点を中心として宗族が連結され、氏族が連結され、世界まで発展して一つにして、しっかり押さえておけば、一点を中心として球形と円形に発展するのです。それと同じです。
それと同じように、中心者であるアダムと同じ本然の種の位置を自分が再び譲り受けたので、アダムが成そうとしていた氏族、民族、国家、世界型と、等級は違っても同じ内容の価値をもたなければなりません。(263-196,1994.10.4)

 

真の父母の家庭、これは種です。種が完全な種であれば、その種を植えて繁殖した数億万の家庭があっても、種は同じ価値をもちます。イコールです。神様が定着される家庭の基準は、何千代、何万代、何億万代になったとしても同じ価値を認められるので、種はイコールです。それゆえに、私たちの家庭は、代表的家庭です。大韓民国を代表しているのです。
それで、盟誓文の第2節に「私たちの家庭は真の愛を中心として、神様と真の父母様に侍り、天宙の代表的家庭となり」としたのです。代表は頂上です。その次には、中心家庭になるのです。縦横に連結するようになれば、縦横が連結される位置です。代表的家庭であり、中心家庭です。そのようになれば、宇宙は、すべて皆さんのものです。(282-319,1997.4.7)

 

「代表的家庭となり、中心的家庭となって」、これを考えなければなりません。皆さん、祝福を受けた家庭は、50億人類の50億分の1ではありません。逆です。50億人類を代表しているのです。代表的家庭であるアダムとエバの二人で出発したものを失ってしまったので、代表的家庭として、世界中のすべての男性と女性に推薦させて、その代表者一人一人として残った者を選抜して組み合わせた結婚です。代表的家庭は、地上の頂上からぎゅっと押さえれば中心的家庭になります。
ですから、中心的家庭となって、家庭では孝子、国家では忠臣、世界では聖人、天宙では聖子、イエス様の恨、このようなすべてのものを解いたというのです。先生がこれを完成したので、皆さんに相続してあげるのです。ゆえに、従ってきて収拾すればよいのです。(267-148,1995.1.4)

 

皆さんが結婚する時、1対1の男性と女性として行くのではありません。人類を代表した位置で結婚した家庭だということを考えなければなりません。真の愛を結ぶ夫婦は、人類を代表した位置で結ぶのです。アダムとエバと同じ位置です。8段階です。1、2、3、4、5、6、7、8、8段階です。アダムとエバは、この頂上にいるのです。これがすべて、アダムとエバの伝統を相続して大きくなっていくのです。これが王権です。(266-145,1994.12.22)

 

天宙の中心家庭は、アダムとエバです。アダムとエバがその中心家庭であり、代表家庭です。代表は一つしかありません。中心も一つです。それが種です。アダムとエバが祝福を受けて結婚した家庭の種です。その家庭の種は、すべてイコールです。皆さんの家庭も、全く同じでなければなりません。(263-60,1994.8.16)

 

「祝福を受けた家庭は、復帰された家庭だ」と言うとき、アダム家庭とその内容の価値は違いますか、同じですか。皆さんの家庭に行けば、皆さんの家庭は家庭の王宮です。また、氏族の王宮であり、国家の王宮であり、世界の王国であり、天宙の王宮です。皆さん、男性に尋ねれば「王になりたい」と答え、また女性に尋ねれば「女王になりたい」と答えるでしょう? いったいそれはどういうことでしょうか。本来のアダムとエバは、王であり、女王だったということです。
世界を代表し、宇宙を代表するのです。家庭を代表するのはもちろんのことです。王と女王です。それが種です。皆さんは、その結実です。実というものは、同じ種から出てくるのです。種と同じ価値をもっているのです。同じ脈絡です。
皆さん、男性と女性の二人を連れていって植えつけておけば、堕落しなかったアダムとエバになり、家庭の王国、国の王国、天上・地上天国の王国の基地となることができると思いますか。統一教会で真の父母を通じて祝福を受けた家庭が、そのような対等な価値をもたなければ、雷に打たれるのです。(261-317,1994.7.24)

 

真の父母を中心とした家庭は、神様の愛を中心とした直系の血統圏内に入っていくのです。このような真の父母の歴史性の結実として世の中に現れたものが祝福家庭です。祝福家庭は、世界的です。世界の平面図上で祝福されるのです。その下には、数多くの国家があり、氏族があり、家庭があり、数多くの個人がいるのです。逆になったのです。これを代表しています。
したがって、アダム家庭が世界的家庭を完成することによって、統一世界を成し遂げていれば、その価値と、私において成し遂げられた価値は、同じです。種です。世界的種なのです。(263-206,1994.10.4)

 

先生が神様の家庭において孝子になり、国において忠臣になり、世界の聖人になり、天宙の聖子になったように、皆さんもそのような伝統を受け継がなければなりません。それを受け継がなければ、代表的、中心的家庭になることはできません。代表的なアダム家庭は、家庭の中心であると同時に天宙の中心です。中心は一つです。代表は頂上であり、中心は垂直です。家庭、氏族、民族の、この8段階をしっかり押さえれば円形になるでしょう?(263-60,1994.8.16)

 

皇族圏の直系先祖は誰でしょうか。本然の愛の神様の直系子女であり、真の愛を中心として真の生命と真の血統の基盤を中心とした堕落していない人です。そのお方が種です。その種から根が出てくれば、中心の幹の根となり、そこから中心の幹、中心の芽へと大きくなっていくのです。これが縦的に大きくなるにつれて、それに対応して横的世界へと拡大していくのです。ですから、それを見れば、家庭と氏族も連結され、民族、国家、世界も連結されるのです。したがって、真の根と真の幹と真の芽に連結している枝も、すべて真の愛の枝となるので、そこで結ばれた実は、本然のアダム家庭と同じです。
中心の幹の根となることができ、中心の幹となることができ、中心の芽になることができる種の起源が結実として現れる時、その結実・・家庭を中心とした夫婦を中心として・・を植えておけば、一族を中心として、その一族の新しい中心の根となり、中心の幹となり、中心の芽となるのです。それゆえに、実には同じ価値があるのです。(263-194,1994.10.4)

 

統一教会の食口は、「アダムとエバと同じように、私は天地を代表して立った」と思わなければなりません。そして、宇宙を代表していると同時に、平面的にはすべての国と世界を代表している家庭だというのです。縦的な基準においても代表的であり、横的な基準においても代表的な中心です。これは最高の代表家庭です。地上においては、これが横的な世界の中心にもなるのです。そのようになってこそ、同じ皇族圏としての心情をもって天国に入っていき、神様に侍り、王に侍り、王の一族として暮らすことができるのです。そのような所が天上天国だということを知らなければなりません。(261-317,1994.7.24)

 

神様と真の父母に侍り、代表的な家庭となり、中心家庭となって、家庭ではもちろん孝子、孝女、国では忠臣、烈女、世界では聖人、天地では聖子の道理、このような、天が願ったすべてのものを私たちの家庭で完成しようというのです。父母として子女教育をなし、国家では民族教育、世界では……。そして、天と地ではその天国の一族として、家庭の一員としての合格者になることができるようにしようというのです。(260-189,1994.5.8)

 

時間と場所に関係なく、古来、すべての人間は、みな自分が中心存在になりたいと思ってきました。それは人情の常です。私たちはみな、それが人間としてもっている共通の内容であることを知っています。
それでは、人間は、どうしてこのような欲求をもつようになったのでしょうか。それは、自分が生まれたのちにもつようになったのではありません。生まれながらにしてそのようなものをもって生まれてきているのです。ですから、生まれてみると、そのようにならざるを得なかったのです。本然の基準にこれがあり、避けることができないものとして、歴史性とともに私たち人間に連結されているので、誰彼を問わず、自分が一番の存在になりたいと思うのです。(226-7,1992.2.1)

 

②「家庭では孝子、国家では忠臣、世界では聖人、天宙では聖子の道理を完成」

イ)必然的に行かなければならない孝子、忠臣、聖人、聖子の道

 

家庭において、孝子、孝女とは、どのような人のことをいうのでしょうか。父母のために心と体を犠牲にしても、それを超えて父母を愛したいと思う人のことを孝子、孝女というのです。愛国者とは、何でしょうか。国家のために自らの一身を顧みず、いくらでも犠牲になり、投入して忘れてしまう人が真の愛国者です。10回投入して忘れてしまう人と、11回投入して忘れてしまう人がいるとすれば、11回投入して忘れてしまう人が主体になるのです。
この原則によってのみ、すべてのものが平和に収拾されるのです。愛を除いてしまえば、「ため」に生きる道を除いてしまえば、それを成し遂げる道はありません。(255-190,1994.3.10)

 

家庭には孝子が必要です。父母と絶対的に一つになった息子のことを「孝子」といいます。国の忠臣は、国の中心存在と絶対的に一つにならなければなりません。これが宇宙の存在的実相です。世界には聖人がいて、聖人と絶対的に一つになりたいと思い、それを越えて天宙では、すなわち天と地を中心としては、中心である神様と絶対的に一つになりたいと思うのです。(262-128,1994.7.23)

 

「孝」というものは、孝子に従っていこうとします。年を取って老いていきますが、彼らの父母のことを思う心情に従って、未来の自らの後孫や父母に属するすべての兄弟までも、その孝子に任せようとするのです。神様に向かい、神様が願われる家庭と世界を神様のために創建するのです。誰がですか。私がです! 駄目でも私に任せ、後援することができる、そのような情緒的な神様であることを知って、信念をもっている人は、滅びることはありません。(263-170,1994.8.23)

 

神様はご自身の愛の相対が自分よりも優れていることを願っていらっしゃるので、神様に命令して暮らすことができる位置にまで行くことができるのです。孝子が父母に、「来てください」と言えば、来ますか、来ませんか。来るでしょう? どのようなことでも、新しいことをしなければならないのが孝子の道であり、忠臣の道であり、聖人と聖子の道理です。(263-183,1994.8.23)

 

「家庭盟誓」の第2節に出てくるように、家庭では孝子、国家では愛国者、忠臣にならなければなりません。この孝子とは、地上のサタン世界における孝子のことではありません。歴史上、初めて現れる孝子です。
神様は、アダム家庭を失ってしまった恨を残したのです。それで、真の父母を探し出すために、さまよい歩んでこられました。それゆえに、真の父母というもの自体が、どれほど貴いものなのかということを知らなければなりません。(263-204,1994.8.21)

 

父母のために、自分一身の生命を投入して忘れてしまう、そのような一生を経ていく人を真の孝子といいます。真の孝子、孝子の中の真の孝子だというのです。
国もそうです。王様に対して忠臣になろうとすれば、自分の生命まで投入して、また投入して忘れてしまえるようになるとき、真の忠臣だといえるのです。ですから、聖子といえば、世界のために自分の生命を投入し、また投入しようとすることができ、より投入し、投入しようとする人が聖子の中の聖子だ、このようになるのです。(263-275,1994.10.15)

 

妻を探し求めていく夫が、その愛の前に絶対服従するとすれば、妻は幸福でしょうか、不幸でしょうか。絶対的に幸福だというのです。夫を探し求めていく妻もそうであるならば、その夫も絶対的に幸福だというのです。
父母の前に絶対服従できる者を「孝子」といい、国の前にそのようにできる者を「忠臣」といい、世界の前にそのようにできる人を「聖人」といい、天地の前にそのようにできる人を「聖子」というのです! アーメン。それは、すべて私を教育してくれる教材であり、教本だったのです! 「アー」、舌まで踊りながら、「メン!」。腹の肉、腹の皮、はらわたまで踊りながら「メン」です。メン(man)とは「人」のことです。「アーメン!」と言えば、「アー! 驚くべき人だ」という「アーメン!」です。そのような意味を考えながら、「アーメン!」と言うのです。分かりましたか。(264-140,1994.10.9)

 

「どんなに難しくても、孝子の道を取り戻す道であり、忠臣の道を取り戻す道であり、聖人と聖子の道を築いていく道であるので当然だ」と言うことができる信念が必要です。父母のためには、自分一身だけではなく、自らの妻子を犠牲にしたとしても、孝子の道を行こうという思いをもたなければなりません。
この孝子に対して父母が一つになり、「父母まで犠牲にしてでも国を救わなければならない」と言えば、忠臣の位置に立つのです。それから、この忠臣に対して国が一つになり、「国まで犠牲にしてでも世界を救おう」と言うとき、聖人の道理を果たすようになるのです。それが、アダムの行く創造の理想です。
私が孝子にならなければならず、忠臣にならなければならず、聖人になり、聖子の道理を果たさなければなりません。「家庭全体をすべて犠牲にしてでも聖子の道理を果たそう」と言うことができなければなりません。(266-105,1994.12.18)

 

家庭において孝子という場合は、すべての息子、娘の中で、一番犠牲になりながら投入したがゆえに孝子となるのです。国においても、どの氏族、どの国民よりも投入したがゆえに愛国者となるのです。聖人も、世界のためにより投入した人が聖人になるのであり、天地のためにより投入した人は、イエス・キリストのような王子になることができるのです。
そのように生きなければ、天国に行けません。天国は、そのように生きた人が行く所であって、そのように生きられなければ、天国に行けません。
ここに来て仕事をするのは、食べて暮らしていくためではありません。出世するためでもありません。天国の民となり、天国の孝子、忠臣、烈女、聖人、聖子の道理を果たすために集まっているのです。神様が求め、神様が好まれる家庭と、神様が好まれる家族を愛し、そのような家庭において生きたのちに逝った人が地上天国と天上天国の民となり、家族になるということを知らなければなりません。(269-253,1995.4.30)

 

完成した私は、世界人類を代表した家庭における孝子であり、歴史的国家を代表した忠臣であり、世界を代表した聖人であり、天の摂理全体を代表した聖子として完成した私だという自信をもってこそ、個人からサタン世界を完全に越えて天に帰っていくのです。そのような私です。そのような孝子、忠臣、聖人、聖子として完成することができる私であり、そのような夫と妻が夫婦的孝子であり、夫婦的忠臣であり、夫婦的聖人であり、夫婦的聖子です。それから、そのような国家的夫婦であり、そのような世界的夫婦であり、そのような天宙史的な夫婦であり家庭だということができる家庭が、創造理想的み旨を完成した家庭になるのです! アーメン! アーメン! アーメン! そのような家庭を完成することに自信があるという人は手を挙げて誓いましょう。そうです。万歳! 万歳とは何かというと、すべてのものが億万年まで「万事亨通」(注:万事滞りなくうまくいくこと)ということです。永遠に継続するという意味です。(270-103,1995.5.7)

 

地上に地上天国があれば、地上天国は天上天国のために投入しなさいということです。私たちの統一教会の誓いは、「私たちは真の愛を中心として、神様と真の父母様に侍り、天宙の代表的家庭となり、中心的家庭となって、家庭では孝子、国家では忠臣、世界では聖人、また天宙では聖子の(家庭の)道理を完成しよう」ということです。これは、投入しなくては不可能だということです。
孝子になるのは、忠臣の道理を信奉できる踏み台をつくるためであり、忠臣になるのは、聖人の道理の踏み台であり、聖人になるのは、聖子の道理を行くための踏み台です。それまで過ぎ去ってこそ、天まで帰って神様の息子、聖子の姿になって自分の家に戻るようになるとき、地上に天国顕現が可能だということです。(274-114,1995.10.29)

 

「ため」に生き、また「ため」に生きようとする人が中心存在になるのです。間違いありません。家庭において孝子とは何かというと、父母のために生きる人です。そのように生きれば、その家庭の中心存在になり、家庭の相続を受けるのです。愛国者も同じです。国王のために生き、国のためにすべてを投入して、投入して、犠牲となり、もっと犠牲になろうとするならば、国の責任を負うことができる人になるのです。そのような人が大統領や首相になるのです。そのような人が必ず中心存在になります。
ですから、私の良心は「そこまで行きなさい」と言うのです。「家庭では孝子になり、国家では忠臣になり、世界では聖人になり、さらには、天地において聖子の道までも行きなさい」と教えてくれるのです。(275-38,1995.10.30)

 

家庭で、命を捧げるまで父母のために生きる人は孝子になり、国のために命を捧げて生きれば愛国者になり、世界のために人類を救おうと死の道を何度行っても、また「ために生きる」という人は聖人になり、天地のために生き、死んでいくとしても、ために生きながら行く人は聖子になるのです。そのような人が歴史に残るのです。(275-136,1995.12.4)

 

真の子女は、神様を中心とした家庭の王です。始まるその時から真の孝子、孝女にならなければならず、したがって、その王が国の忠臣の位置に上がっていくのです。国の王子、王女が忠臣です。その次には、世界の王子、王女が忠臣です。その次には、世界の王子、王女の位置が聖人です。聖人になるということです。
その次には、天地の王子、王女の位置に行って息子、娘になるという時に、それが聖子の道です。聖子になりますか、聖人になりますか。なぜ、どうしてですか。聖人の前に誇れるからです。聖子になりますか。忠臣になりますか。なぜですか。忠臣の前に誇れる、ということです。忠臣になりますか、孝子になりますか。なぜですか。孝子の前に誇れるということです。
孝子が従っていく忠臣の道であり、忠臣が従っていく聖人の道であり、聖人が従っていく聖子の道であり、聖子が従っていく神様の道だということです。(280-117,1996.11.11)

 

家庭で心安らかに暮らす人々は、間抜けです。家庭天国の垣根の中にしかとどまれません。必ずそのようになるのです。それで、代表的家庭となり、中心的家庭とならなければならないというのです。孝子、忠臣、聖人、聖子の道理は、私が行く道です。私が必然的に行かなければならない道です。
それゆえに、家庭では孝子にならなければなりません。その次に、国では忠臣です。忠臣というものは、生まれつきその道理を外れることがありません。夜でも昼でも焦点を合わせていかなければなりません。一生の間、先生は、み旨という焦点を失ったことがありません。寝ても覚めても、布団から起きれば続けます。千年、万年続けるのです。(283-77,1997.4.8)

 

真の孝子、本物の孝子に対する父母は、王様よりももっと難しいのです。言葉一つにも注意し、行動にも注意するのです。それはなぜでしょうか。家庭において王様に侍ることができることを見せてあげなければなりません。そのように侍ろうとすれば、息子、娘も父母に対する時、いい加減に対することができないのです。
子女を敬って丁寧に対する父母にその子女たちが対する時、どれほど大切に思いながら侍るでしょうか。一言でも、いい加減に言えないのです。何度も考えてから言うのです。(285-16,1997.4.19)

 

「家庭では孝子になりなさい」と言うでしょう? 孝子になって何をするのでしょうか。「孝子になりなさい」と教える父母は、みな自分の利益のためにそのように言うのだと思うかもしれませんが、それは違います。「父母の愛の上にあなたの愛をプラスさせなさい!」。このようになるのです。そのようになってこそ球形が生じるのです。大きくなるのです。運動する存在は、すべて大きくなるでしょう? 運動すると、なぜ大きくなるのでしょうか。すべて愛というものを中心として作用するので、大きくなっていこうとするのです。(253-234,1994.1.30)

 

人の夫になり、人の妻になるということは簡単なことではありません。息子、娘は、自分の息子、娘ではありません。この世界の息子、娘です。世界の息子、娘の父母になるということは簡単なことではありません。また、先生になることは、簡単なことではありません。また、そのような父母の前に孝子、孝女となることは、簡単ではありません。
それゆえに、家庭において完全に「ため」に生きる訓練を、祖父母から、父母から、夫婦から受け、自らの息子、娘にもそのようにし、「ため」に生きることができるモデル的形態の家庭を築くようになれば、その家庭は天上世界のどこに行こうと、どの国、どの村に行こうと歓迎を受けるのです。(252-265,1994.1.1)

 

聖書に「生きようとする者は死に、死なんとする者は生きん」という話があります。ろくでもない者たちが死ぬことを言っているのではありません。忠誠を尽くして孝子、忠臣、烈女になった立場においても生命を捧げて死のうとする基準の人々や、堕落した世界の孝子以上、堕落した世界の忠臣以上になった、そのような天の側の人を中心として言っている言葉です。そのような人々が、その立場に立っても生命を捧げようとする時は生きるというのです。地獄のどん底にいれば、生命が何百個、何千個あっても、神様とは関係ありません。露骨に言えば、そのような意味のみ言になるのです。(261-58,1994.5.22)

 

神様が救援摂理を行う理想には、そこからすべて区別しなければなりません。その中には、神様のためにすべての生命を捧げて感謝することができる、特別な何かがなければなりません。アダムとエバの背反的な歴史の基準を越えなければなりません。それを知らなければなりません。
神様が現れなければ、堕落する以前のアダム、その人類の先祖以上に神様が現れることを願いながら、ご飯を食べずに、寝ないで待つことができる、心情的に孝子、忠臣、烈女以上の位置に入っていかなければなりません。(261-55,1994.5.22)

 

孝子は、地獄には行きません。地獄に行かなければならない場合には、再臨主が来られる時まで保留されて待つのであって、地獄には行きません。中間霊界というものがあるのです。皆さんは、孝子になろうと思いますか、愛国者になろうと思いますか、聖人になろうと思いますか、聖子になろうと思いますか。父母に孝行しなくても、愛国者になった場合には、父母への孝行を完成したものの上に立つのです。(246-188,1993.4.16)

 

統一教会で忠臣になるのならば、世の中にいない忠臣になろうと思いますか、世の中にいる忠臣になろうと思いますか。孝子になるとしても世の中にいない孝子、忠臣ならば歴史にいなかった忠臣、聖人ならば歴史にいなかった聖人、聖子ならば歴史にいなかった聖子の道理を果たしてこそ、神様に侍ることができるのです。
このように悔しく、無念な恨が、エバの1日の失敗によって生じるようになったのです。これを知る時、今日、私たちが統一教会において血統を転換し、所有権を転換し、心情圏を転換するためにどれだけ深刻にならなければならないか、ということを知らなければなりません。(273-114,1995.10.22)

 

真の愛を中心とした対象となり、ご自身よりも何千倍も優れているといえる愛の相対を迎えるようになれば、神様は、自動的に解放されるのです。それゆえに、孝子の中の孝子、烈女の中の烈女、忠臣の中の忠臣、聖人の中の聖人、聖子の中の聖子にならなければならないという事実を知らなければなりません。そのようにならなくては、神様を解怨することはできません。それ以上にならなくては、解放できないのです。
イエス様に従っていったとしても、楽園にしか行けません! 独身生活をするのです。ほかの宗教では、すべて「出家をしなさい」と言い、「独身生活をしなさい」と言いますが、統一教会では何でしょうか。「出家しなさい」と言いますか。「故郷へ帰りなさい」と言うのでしょう? そして、「結婚しなさい」と言うのでしょう? 反対です。どのような理由で、そのようにするのでしょうか。宗教は必要ありません。宗教を克服した位置に立ったのです。(265-93,1994.11.20)

 

天国の孝子になり、天国の忠臣になり、国をもって忠臣になり、国をもって聖子の道理を果たさなければならないのですが、アダムはそれを成せなかったのです。先生の恨は何かというと、青春時代の血気旺盛な時代に孝子の道理を果たせなかったことです。時を逃したのです。
また、忠臣の道理を果たせなかったのです。国が生きるならば、いかなる冒険を冒してでも先頭に立ち、愛国者としての血を流しながらも感謝できる、その道を歩めなかったのです。(264-187,1994.10.9)

 

なぜ私は、歴史をつづりながらこのような衝撃的な宣言と刺激的な話をするのでしょうか。これが神様の事情なのです。その事情は、死んでいません。胸に積もり積もった恨を、いまだに解けずにいるのです。真の父母様の胸に積もり積もった恨を、解けずにいるというのです。
青春時代において、神様の前に孝子の道理を守ることができなかった真の父母様の恨! 国をもてずに忠臣の名誉をもてなかった恨! 万国を代表して聖人の道理を果たせなかった恨! 天と地の勝利の覇権を備えて包括し得ず、神様を解放して聖子の道理を果たせなかったその恨! このような恨が残っているのです。(264-63,1994.10.9)

 

孝子、愛国者、聖人、聖子、これらがなぜ必要なのでしょうか。父母に孝行したといっても、長くても100年くらいです。ずーっとすることはできません。父母は、千年、万年生きることはできません。生涯孝行しても、100年未満です。しかし、愛国者は1代を越えるのです。愛国者の伝統は、祖父母から父母、自らと自らの子孫にまで相続されるのです。そうでなければ、国が成り立ちません。
聖人の思想は、愛国者を超越するのです。宇宙全体を愛した上で生きなければなりません。ですから、聖人の道は、愛国者の道を超越し、聖子の道は、聖人の道を超越して最高の位置に立つのです。地上天国と天上天国の法律、その両国の法律をすべて尊重し、内外の縦横の関係を維持しているのです。(246-188,1993.4.16)

 

真の父母様は、どのようなお方かというと、家庭においては歴史始まって以来、初めて現れた孝子だということを、皆さんは知らなければなりません。天国においては、一人の忠臣と同じ位置、代表的な忠臣の位置に立っているのです。それから、聖子の道理を果たした聖子の位置に立っています。それゆえに、今、皆さんがもたなければならないものは、真の父母様の思想です。息子として、孝子として、忠臣として、聖人、聖子の道理をすべて経たように、皆さんも、それと同じ伝統を真の父母に従って受け継ぎ、全世界のたった二人の息子と娘だという心情をもたなければなりません。
世界を代表した息子と娘の位置に行き、真の父母によって祝福を受けたという事実は、相対圏を許されるということです。そして、祝福家庭は、先生の家庭と生活を共にしたという心情的体恤圏をもたなければならないことを皆さんは知らなければなりません。(266-89,1994.12.18)

 

ロ)聖人と聖子の違い

 

聖人と聖子の異なる点は何でしょうか。聖子とは、堕落していない本然的アダムとエバが、神様の愛を中心として、神様の生命体として、神様の血統として一つに結ばれた位置から出てくるものです。神様の息子、娘の血統を受け継いだ位置から聖子が出てくるようになっているのです。しかし、聖人はそうではありません。ゆえに、堕落した世界には聖子がいないのです。聖人までは出てくることができます。
今まで、聖人たちは、外的な相対的世界の道理は教えてくれましたが、内的な主体的な道理は教えることができませんでした。なぜでしょうか。父母が現れず、聖子が現れなかったからです。父母と聖子の道理を植えつけるものが再臨の思想です。それがメシヤ思想です。(226-113,1992.2.2)

 

この世の聖人の中で、最も中心の聖人は誰でしょうか。イエス様です。イエス様の血統は、既に腹中にいる時から聖別されていたので、サタンのどのような条件にも引っ掛かりませんでした。神様を中心として、神様の愛によって身ごもったその赤ん坊は、最初の真なる愛の結実体です。したがって、そのお方は、偽りの愛とは関係がありませんでした。そのような聖子として生まれた方は、イエス様以外にはいません。
釈迦牟尼もそのような人ではありません。ムハンマド(マホメット)も、孔子も違います。しかし、イエス様は、心情圏を中心として神様のひとり子になるのです。
神様は、絶対的な父母であられ、イエス様は絶対的な夫であり、絶対的な兄の立場です。イエス様が教えられた内容は、すべて家庭を中心とした内容で、愛の内容がその中心になっています。その愛は、世俗的な愛ではなく、神様的な内容です。そのような内容をすべて世界に連結した中心者がイエス様なので、どこに行っても自分を中心とした考えがない、という結論が出てくるのです。(299-221,1992.4.12)

 

歴史時代において、血統を清めて最初に生まれた息子がイエス様です。したがって、神様の前において、その息子は長子であり、ひとり子となるのです。宗教圏において、このように血統を清めて生まれた聖子は、イエス様しかいないので、「聖子」と言うことができるのです。(244-249,1993.2.14)

 

イエス様は、聖人の中の聖人です。初めて血筋を清めることによって、初めての愛の先祖になることができたのです。(251-296,1993.11.1)

 

血統を転換させた国家的勝利版図の上に生まれたので、国家的サタン世界の誰もイエス様に対して、自分の血族関係について、「蕩減されていない内容がある」と言って讒訴できる何の条件も提示できないということです。
それで、神様の愛を中心として、国家的基準で神様の第一号の息子として生まれたひとり子です。血筋が清められたでしょう? 有史以来、そのように血統を清めてきた聖人はいません。孔子も、釈迦も、ムハンマドも、誰もそのような伝統的背後の血統を清めて生まれた方ではなく、お一人しかいないというのです。(251-253,1993.10.31)

 

聖子は神様の息子です。神様の息子にとっては、現在の世界だけが問題になるのではありません。霊界と地上世界を共にまとめて、天上の王宮法と同じ法で統治するのです。
これは、一国の国民が守るべき国法ではありません。天上と地上の宮殿法が一つになるのです。その愛に連結する位置に立つ方が聖子です。すべて愛に焦点を合わせなければなりません。(229-42,1992.4.9)

 

イエス様は、ひとり子の聖子であり、真の愛を中心とした1代目の先祖です。(251-298,1993.11.1)

 

世界的な人物になるためには、どのようにしなければならないのでしょうか。人倫道徳だけを中心としては、そのような人物になることはできません。人間のみを中心としてはなれないのです。人間のみを中心としては、国を越えることができません。国を越えることができる内容は、天にあるのです。天宙思想をもつことなくしては、国を超越することはできません。(38-260,1971.1.8)

 

それゆえに、聖人たちは、人間だけを紹介したのではなく、神様を紹介したのです。聖人の列に加わった人々を見れば、その人たちは、神様を崇拝しましたか、しませんでしたか。神様を除外して聖人になった人はいますか。また、聖人たちは、人倫の道理のみを教えてくれたのではなく、それとともに天倫の道理を教えてくれたのです。(33-291,1970.8.21)

 

家庭で父母のために生きて愛する人は孝子であり、国のために生きて愛する人は愛国者であり、世界を愛する人は聖人です。それでは、先生が教えることは何ですか。神様と世界と宇宙を愛する聖子になりなさいということです。皆さんは、どれになりますか。聖子になりますか。孝子、孝女になりますか。(「聖子になります」)。そのようにしようとすれば、神様と同じ愛に心にもたなければなりません。(129-99,1983.10.1)

 

今までの聖人の教えは、心身一体圏は強力に教えませんでした。人間は本来そうだ、と考えたので、間違ったのです。まず問題を外的世界に置いたのです。孔子も「修身斉家治国平天下」と言ったでしょう? 「修身」をどのようにし、「斉家」をどのようにするのでしょうか。「平天下」はどこから始まるのですか。家から始まると思っていたでしょう? 「平天下」は、そのようにはなりません。どこからですか。自分自身からです。心身の闘いです。火が自分から燃えているのです。(250-166,1993.10.14)

 

「聖子」と言えば、神様の息子のことですが、聖子は、神様はもちろん、天と地を愛そうとされるのです。天と地の愛の圏だけではなく、天国の王宮法まで愛そうとされるのです。聖子は天国の王子なので、天国の王宮法も守り、地上世界の王宮法もすべて守らなければなりません。その上で天国の王孫たちも愛し、天国の民たちも愛し、地上の国の王孫たちも愛し、地上の国の民たちも愛さなければならないのです。そのようにして、二つの世界の宮殿と、二つの世界の民を愛することができるようになる時に、神様の息子だというのです。
神様の息子は、この地上の民も必要であり、この地上の王族たちも必要であり、あの世の民も必要であり、あの世の王族も必要とするのです。そのようになってこそ聖子になるのです。(229-183,1992.4.12)

 

宗教も同じです。宗教の出発は、どのようになされたのでしょうか。聖人たちが、すべて宗主となっています。宗教の主人になっているのです。この人たちが精誠を尽くし、道を通じて神様の教訓を受けることができる位置から出発したのです。しかし、より高い位置に上がっていくようになってからは、徐々に世俗化されていってしまったのです。
それゆえに、世界が混乱する中にあるこのような時に、本質的で明確な内容をもって、正しい道へと指導することができる宗教体制がありません。ブロック的な体制はありますが、世界全体をカバーして収拾し得る宗教がないというのです。
宗教も実験済みです。すべて実験済みです。政治も実験済みであり、すべての思想も実験済みであり、すべて失望的な帰着点に到達しました。今はもう、進んでいこうとしても進んでいけない限界線にぶつかっています。(253-13,1994.1.1)

 

今まで、神様が共に暮らせる家庭がなく、国がなく、世界がなかったということは、繰り返して言うまでもありません。皆さんは、常にこのような概念をもたなければなりません。
私自身において、神様が共に、暮らすことができず、家庭においても暮らすことができず、国においても暮らすことができず、世界においても暮らすことができなかったのです。そのような神様を再びお迎えし、堕落した世界のいかなる孝子、いかなる忠臣、いかなる聖人、いかなる聖子よりも、高い位置において、神様に侍って生活しなければならないという、そのような信仰のモットーを強化しなければなりません。(266-85,1994.12.18)

 

「聖人」といえば、世界人類を愛する人々です。今まで、宗教指導者たちが聖人になってきましたが、聖人の中でも大聖人は誰かという時、人類のために血を流し、いくらでも命を投げ出そうとすることができ、それを続けてきた人が聖人の中のナンバーワンだという論理が成立するのです。そのような意味で、歴史を通じてキリスト教が数多くの血を流してきたので、キリスト教が第二次大戦以後に世界を統一したのです。(228-45,1992.3.3)

 

私たちは、命を投げ出して生きているのです。既に覚悟した体であり、天の前に誓った体です。ゆえに、たとえ客死する運命であっても恨みはありません。神様がその場に訪れてこられて、私の体を引き取ってくださる孝子となり、国王が訪れてこられて、その場を整えてくれる忠臣になったとすれば、またそのような聖人になり、聖子になったとすれば、それ以上の幸福はありません。そのようになれば、倒れたその場所は、名勝地になるのです。
天下の万民を蘇生させる祝祭の基台となり、記念の基台となるのです。そのような悲しい場所によって、数多くの後代の若者たちが、新しく生まれ、その国に代わって活火山のように爆発するのです。そのような材料を、統一教会はたくさんもっています。(227-260,1992.2.14)

 

ハ)人間が行かなければならない真の道

 

人間が願う最高の願いも、愛を通じた願いです。神様の願われるすべての願いも、愛を通じた願いです。神様がもし孝子の位置にいるとすれば、父母のための愛を通じた孝子を願うようになるのです。夫婦をもったならば、愛を通じた夫婦、また愛を通じた父母、このようなことを願うようになるのです。(263-309,1994.10.27)

 

自らの体を燃やして犠牲になっていく所に、家庭の光が現れるのです。それを孝子といい、国のために全国民が犠牲となって光を発するところに国の忠臣が現れ、そして、世界の聖人、天地の聖子が現れるということを知らなければなりません。(276-159,1996.2.18)

 

心と体が一つになり、全宇宙のために生き得る人は、宇宙の中心存在になるということを知らなければなりません。「孝子」と言えば、家庭において、父母に対してより「ため」に生きる人が孝子になるのであり、国において、国王と民に対してより「ため」に生きる人が愛国者となり、世界を中心として、より「ため」に生きる人が聖人となるのです。そして天地を中心として、より「ため」に生きる人が、神様の息子になり、聖子になることができるのです。(276-180,1996.2.19)

 

孝子というものは、父母の世話になるのではありません。父母が自分の世話になるようにしていくのです。忠臣とは、国の世話になるのではなく、国が自分の世話になるようにしていく人です。聖人とは、世界の世話になるのではなく、世界が自分の世話になるようにしていく人です。
天地の前に世話になっていないので、父母様を中心として、今や世界は、真の父母様を中心として動くことができる時代になったのです。世界途上においてサタン世界の孝子、サタン世界の忠臣、サタン世界の聖人、サタン世界の聖子の道理はありましたが、天国を中心とした孝子と、忠臣と、聖人と、聖子の道理、標準はありませんでした。それを私たちが創建しなければならない、ということを皆さんは知らなければなりません。(266-103,1994.12.18)

 

皆さんの家庭は、天と地を与えて買った以上の価値をもっているということを知らなければなりません。皆さんの祝福家庭の価値が、これほど途方もないものであったという事実を知らなかったでしょう? けんかをしたり殴ったり、このようなことをしてはいけないのです。この途方もないものが、地上において天国を代表した孝子の基盤をつくるのであり、忠臣の基盤をつくるのであり、聖人の基盤をつくるのであり、聖子の基盤を経ていくことによって、神様がアダムを中心として願われた理想世界になるということを知らなければなりません。
真の父母様は、そのような立場に立っているので、あの世に行き、孝子たちに対する中心のプラス、すなわち主体になり、忠臣の主体になり、聖人の主体になり、聖子の主体になるのです。
皆さんの父母の理想、皆さんの国の理想、忠臣の理想、聖人たちの世界理想、天と地の理想、そしてイエス様が願われた願いを皆さんの一身で蕩減することによって、解放が成されるのです。これが建国理想であり、建国理念の中心であり、一番の基調となるのです。(266-105,1994.12.18)

 

聖子になってくれることを誰が願うのですか。神様が願われるのです。聖人は、誰が願うのでしょうか。世界が願うのです。国は、何を願うのかというと、忠臣を願うのです。家庭は、孝子を願うのです。まさしく、これが真なる真理の道です。真なる父母がいるとすれば、「あなたは孝子になったので忠臣になってはいけません。忠臣の道を行ってはなりません」とは言いません。
真なる父母は、その孝子に、「あなたは家庭を犠牲にし、忠臣の道を求めて国に仕えなければならず、聖人の道理を果たさなければならず、聖人の道理を犠牲にして天が願われる道を行かなければならず、天地を犠牲して神様を探し求めていかなければならない」と教えてあげなければなりません。
このような概念があるということを知らなかったのです。投入して犠牲にならなければなりません。そのようにしなくては、一つの世界、一つの国は永遠に現れません。(285-218,1997.5.19)

 

理想的な人間、人間構成、人格の完成において必要となる、孝子、忠臣、聖人、聖子のような前進的なものを教えてあげなければなりません。自らの息子に「孝子、忠臣、聖人、聖子の道理を果たし、最後は神様まで行かなければならない」ということを教えてあげなければなりません。
そのように教える父母がいるとすれば、神様が御覧になるとき、「いやあ、あの人は父母の役割を果たしている。あの人は先生の役割を果たしている。あの人は主人の役割を果たしている」と思われるでしょうか、思われないでしょうか。
「あなたには、父母の資格があり、先生の資格がある」と言われる時は、主人の資格があるのであり、さらには、王になれる父となるのです。西欧の人々に孝子という概念がありますか。忠臣の概念がありません。聖人の概念がありません。聖子という概念がないのです。ですから滅びるのです。(285-218,1997.5.19)

 

犠牲にならなければなりません。愛を求めるためには、犠牲になる道しかありません。孝子とは何かといえば、一生の間、父母のために、父母だけのために犠牲になる道を行った人です。忠臣とは何かというと、国を中心として一生の間、犠牲になった人です。個人だけでなく、自分の家庭まで犠牲になった人です。自分だけではありません。自分の妻も犠牲にしなければならず、それから息子、娘も犠牲にする人です。
犠牲という代価を知らない者は、孝子であれ何であれ、なることができません。復帰の心情圏に手鉤で引っ掛けることができません。これを引っ掛けなければならないのです。引っ掛けるには、このくらいの家庭を引っ掛けることができてこそ、家庭で孝子になるのです。国を引っ掛けて国がぶら下がっても、手鉤が広がらないように引っ掛けなければなりません。神様は、杭のようで広がりません。そこに引っ掛けてゆがまないだけでなく、どれだけ支えられるかということが問題です。犠牲にならなくてはできません。(283-21,1997.4.8)

 

皆さんは、神様よりも優れた者になりたいという欲望をもっているでしょう? そのような欲望をもっているでしょう? そのようになることはできるのです。嘆き悲しんでいらっしゃる神様を慰労する孝子であれば、神様を慰労し得るように、神様よりも次元が高くなくてはならないのではありませんか。泣いていらっしゃる神様を慰労しようというのに、神様よりも劣っていて神様を慰労することができますか。そうではありませんか。理論的なのです。
そのようになる世界が、今後、迎える私たちの永遠なる本郷の地なのです。行きたいですか、行きたくないですか。頑固な性格では行けません。東西南北に通じません。平面上の360度にも通じられないのに、どうして縦に360度回ることができるのですか。「東西が軸となって、反対に360度回れ」。このように、自由自在に行ける立場になれませんでした。(280-119,1996.11.11)

 

家庭完成、親族完成、国家完成、世界完成、天宙完成、神様解放までです! 神様を救ってあげなければなりません。親不孝者を迎えた父母の心を解放するためには、孝子の中の孝子にならなければなりません。
神様は、堕落世界を懐に抱いたかわいそうな神様であることを知らなかったのです。無念でかわいそうな事情を抱えてきた神様が私たちの父であったということを思うとき、千年、万年痛哭し、地を這ってでもその涙を止めることができる、悲運をもって生きる孝子の道理を守らなければならないのです。それが、今日、地上で救いを受けなければならない人々の責任だということを知らなければなりません。深刻なのです。このようなことを誰が教えてくれるのですか。(283-215,1997.4.12)

 

苦労の道から出発し、苦労の生涯で終わったとしても、いかにして神様の心情を解放してさしあげ、いかにして神様のために生きる立場に立つかということが、孝子として天に向かう、天の子女が取るべき態度です。天国に対して、先生は、そのようにして愛国心を残したいのであり、聖人たちが完成できなかったその世界を、聖子の名をもって完成圏に移行させたいのです。先生は、そのように真剣です。(258-106,1994.3.17)

 

神様が自分を御覧になって勇気をもたれ、悪なる世界を倒そうと思いながら進み出る、そのような神様になられるとすれば、その瞬間から、神様の活動舞台が自分によって生じるのです。それは、自分にとって、ある貴い立場や玉座、また栄光の立場において、一生ではなく何世代にもわたって、それ以上のものをプラスしても及ばない喜びの 賜 です。「自分は、歴史を越えてまでも、迫害に対して立ち向かっていこう」と思うのが、永遠の歴史を代表した孝子、孝女が行くべき道ではないかと思うのです。それが、永遠の国に対する忠誠の道ではないですか。(255-121,1994.3.10)

 

人間がいなければ、神様は愛から解放されません。父母は、孝子を迎えることによって、心情世界が解放され、王は忠臣、また聖人は今後の世界の大統領、そして神様も、聖子が孝子の道理で愛の対象者としてすべてを成して、初めて解放されるのです。そのような意味です。驚くべき言葉です。(283-173,1997.4.8)

 

先生は、一生の間、不平を言うことができませんでした。批判してみることができませんでした。孝子の道、忠臣の道は、不平がありません。批判というものはあり得ません。完全な主体の前に、愛の関係を結んだ以上、不平や批評をすることはできないのです。
夫が過ちを犯せば、すべて自分の過ちです。私の過ちです。妻が過ちを犯しても、私の過ちだということを知らなければなりません。「私は、あなたが嫌だ」と言ってはいけないのです。(263-105,1994.8.21)

 

今後、個人別に実績の統計を出す計画です。「真の父母と成約時代安着」とは何ですか。流離していた天が、すべて帰ってきて生活をしなければなりません。
その国で生活をしようとすれば、税金を納めなければなりません。そのような忠臣が必要であり、孝子が必要です。家庭には孝子が必要であり、国には忠臣が必要なのです。忠孝の道がすべての国家形成の基本ではありませんか。自分は飢えるような困難なことがあっても、また死ぬようなことがあったとしても、天に侍り、国を滅ぼしてはいけないのではありませんか。(254-119,1994.2.2)

 

人間に必ず必要なものは、孝子の道理、忠臣の道理、聖人の道理、聖子の道理です。堕落したので、聖人が必要なのです。聖子の道理を完成するのです。それゆえに、神様のすべての相対圏は、私から、天から、世界から私たちの家庭にまで連結することができるのです。それがこの世で生きている間に成し遂げなければならない道です。完成する道です。
このような言葉を初めて聞いたでしょう? このような話は、具体的にはアメリカでのみしてあげたのであって、ここでは初めてです。
ですから、孝子にならなければならず、忠臣にならなければならず、聖子にならなければなりません。自分がどこにありますか。自分というものがありますか。母の骨と父のものしかありません。国でいえば、王様は父と母の骨です。そこに接ぎ木されて大きくなろうとするのです。私が家庭をもたなければ、国の前に立つことができないので、家庭も国の前に、サタンの国の前には破綻させられるのです。国が必要ですか、必要ではありませんか。(285-91,1997.4.21)

 

 

愛は、自分を主張するところからは徐々になくなり、逃げていきます。「ため」に生き、より「ため」に生きるならば、ますます大きくなっていくのです。それゆえに、真の人は「ため」に生きるところから存在するのです。真の夫も「ため」に生きるところから、真の父母も「ため」に生きるところから、真の孝子、真の王、真の国家も、「ため」に生きるところからのみ存在するのだということを知らなければなりません。(268-259,1995.4.2)

 

(●2022.5.26:写経奉献)