天聖經(19) 第4巻『真の家庭』 第2章 家庭を中心とした愛の法度

第2章 家庭を中心とした愛の法度

1)家庭を中心とした神様の愛の法度

2)家庭に3代が共存すべき理由

3)父母は愛の起源

4)兄弟姉妹が必要な理由

5)おじいさんは家の神様の立場

6)祖父母と孫との関係

7)家和万事成の真の意味

 

 

1)家庭を中心とした神様の愛の法度

 

この地上に歴史始まって以来、誰が父母を中心とした真なる愛、夫婦を中心とした真なる愛、兄弟を中心とした真なる愛をしてみたでしょうか。真なる愛は絶対的なのです。(20-40)

 

神様の愛は、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛の形で現れます。この3大愛が人間において絶対的な観を超越出来る永遠の実存的権限をもっています。ですから、この3大愛が結合する時、人間は幸せになるのです。これが完全であれば、幸せも完全なものであり、これが欠如すれば不幸が宿るのです。
お母さんのいない人が幸せですか。お母さんがいない分だけ不幸せなのです。また、お父さんがいないのに幸せですか。お父さんのいない人は、お父さんのいる人がうらやましいのです。幸せというものは、うらやましいものがあってはなりません。うらやましいものがあっては、幸せだとはいえないのです。お父さんがいなくとも幸せではなく、お母さんがいなくとも幸せではありません。
男性がいくら度胸があり、大口をたたいても、女性がいなければなりません。妻がいなければならないのです。夫婦が楽しく暮らしていて、夫があの世に逝くようになれば、夫人は涙を流します。男性がいなくても駄目であり、女性がいなくても駄目なのです。(20-38)

 

また、夫婦がいくら仲良く暮らしていたとしても、子女がいなければ不幸せです。息子だけが必要ですか。息子も娘も必要なのです。ところが、例えば父母に息子と娘の二人しかいないとすればどうでしょうか。
息子に関していえば、彼にはお姉さんが必要であり、またお兄さんが必要です。また、娘にはお兄さんが必要であり、お姉さんが必要です。また、彼らには弟と妹が必要です。お兄さんがいなければならず、お姉さんがいなければならず、弟と妹がいなければなりません。
これがみな、そろっていなければ不幸せなのです。妹、弟、姉、兄、みなそろっていて完全に一つになった家庭は、神様が保護します。これが氏族と民族と国家の起源になるからです。
自分を中心としてお父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん、それから弟、妹、そこに自分まで合わせれば7人です。ですから、7数が完成数だというのです。ここでの完成とは、愛を中心としたものだということを知らなければなりません。どうして7数が完成数でしょうか。何ゆえに、キリスト教でいう天地創造が7数を中心として完成したのでしょうか。
そのような内容があるからです。3数は天の数であり、4数は地の数だといいました。ここで3数は、父、母、私の3数です。それでは、4数は何を意味するのでしょうか。兄弟姉妹たちを合わせたものが4数です。(20-40,1968,3.31)

 

7数が完成数だということを知らなければなりません。父なる神、み子、み霊は、神様を中心としたアダムとエバをいうのです。父なる神は上下、すなわち縦的な因縁をいうのであり、父母の愛は天地の代わりなのです。皆さんを中心としてみるとき、兄と姉は東西を意味し、弟と妹は南北を意味するので、それが完成すれば一体となるのです。これが愛の法度です。
ですから、科学のすべての法則も、数理に立脚した公式法度に適用されないものがないのです。神様の愛の法度から根源となる創造原理的な概念が出てくるのです。このような愛の法度が定着するようになるとき、平和の起源が成り立つのです。(20-40,1968.3.31)

 

2)家庭に三代が共存すべき理由

 

祖父、祖母、舅、姑、小姑、孫まで一緒に暮らそうというのです。暮らす場合においては、センターを中心として蘇生、長成、完成、3代が定着するのです。
お父さんとお母さんだけを愛するのではなく、おじいさんを愛してこそ、神様を愛することになるのです。父母の上におじいさんを置いて愛してこそ、神様を愛することになるのです。
それでは、なぜ夫がいなくてはならないのでしょうか。なぜ父母がいなくてはならないのでしょうか。なぜ子女がいなくてはならないのでしょうか。彼らがいてこそ、神様に侍ることができるからです。
父母がいなくてはならず、子女がいなくてはならないのが原則です。父母が必要であり、それから、夫婦が必要であり、赤ん坊が必要です。なぜそれを必要とするのでしょうか。神様と関係を結ぶためには、父母が必要であり、夫が必要であり、子女が必要だという論理が成立するのです。
なぜ父母が必要であり、夫が必要であり、子女が必要なのか、はっきり知らなければなりません。これを知らなければいけないのです。自分が下にも行かなければならず、センターにも行かなければならず、上にも行かなければならず、横にも行かなければならず、四方に行かなければなりません。孫が愛をもっておじいさんを好きになれば、おじいさんは、「ああ、うれしい! うれしい!」と言うのです。それで、統一教会は、本然の世界をつくるために、本然の愛を中心として、このような家庭編成を標準にしようとしてきました。宗教世界を通して、このような内容を初めて教育したという事実は驚くべきことです。(128-17,1983.5.29)

 

夫が死ねば、まぜ妻が泣くのでしょうか。子女がいなければ、なぜ泣くのでしょうか。寂しくて泣くのではありません。宇宙の根本原則においては東西、四方をすべて、備えなければならないからです。すなわち、宇宙が存在する力は、相対理想を擁護する力で成り立っているのです。ですから、すべてが授け受けします。南北が授け受けし、北極と南極が授け受けするのと同様に、星と星が授け受けするのです。相対がなくては存在できません。
完全に一つとなった理想的な相対は、すなわち完全に授け受けする存在は、この宇宙が擁護するのです。永遠に維持できるように、それを擁護する天運が離れないというのが原則なのです。すべてそれを協助するのです。息子、娘がいなくても駄目です。
今日、西欧では子女が必要ないという主義になりつつありますが、必要がないかどうか、見ていなさいというのです。霊界に行ってみなさいというのです。自分が立っている所には、必ず上があり下があるのです。3数を通じなければなりません。3段階を経なければならないのです。ですから、すべてのものは3段階になっています。父母に侍らなければならず、夫婦がいなければならず、子女がいなければならないのです。子女がいなくては、天理原則に合いません。
これを分けると、男性3段階、女性3段階ですが、これを合わせて、統一的な3数の形態を備えて理想世界が始まるのです。すなわち、おじいさんとおばあさんがいて、お父さんとお母さんがいて、自分がいてこそ理想的だというのです。統一教会の家庭倫理は、ここから始まるのです。(70-76,1974.2.8)

 

3)父母は愛の起源

 

孤児は、父母と因縁を結ぶことができません。人は誰でも愛を受けたいと思います。その愛の理想型は父母です。そのような父母の愛を受けたいと思っても受けることができず、また、父母に対して愛したいと思っても愛することのできない人は、不幸せな人だということができます。
いくら孤児よりも100倍、1000倍醜い人だとしても、父母に侍り、孝行して暮らせる人は、孤児たちに誇ることができるのです。「お前に父母がいるのか。いないだろう。顔が美しいからといって何になる。父母もいないのに」と誇るのです。また、「私は醜く病身だが、お前は母親もいないし、父親もいないではないか」と言うことができるのです。(39-232,1971.1.15)

 

父母とは、いったい何でしょうか。力も頭も世界的なチャンピオンの息子が、たんこぶのような存在である父母くらい指1本で片づけ、勝手にやろうとすればできるはずなのに、どうして勝手にできないのでしょうか。それを知らなければなりません。力でも一番であり、頭でも一番なので、力で「こいつらめ」とやり込めることもでき、頭を使ってもそのようにできるのに、なぜそのようにできにのですか。
愛の起源は、どこでしょうか。愛がどこから出てくるのでしょうか。自分からでしょうか。違います。それは父母から出てくるのです。愛の起源は、自分ではなく父母にあるからです。原因のない結果は、あり得ないのです。愛を中心として見るとき、主人が自分ではないことを知っているので、そのようにできないのです。ですから、父母の前に来ては、「はい、お母さん、お父さん、そうです」と言うのです。
父母が「お前がいくら名高く、力が強いといっても、お母さんとお父さんの前では道理に外れることをしては駄目だ」と言えば、「はい、はい、はい、お母さん、お父さん、そうです」と言うのです。なぜでしょうか。愛があるからです。父母は主体であり、子女は対象だからです。主体は対象のために生き、対象は主体に従わなければならないのが天理原則です。これを破綻させれば、その家庭は、何の価値もないものに落ちてしまうのです。いくら無知な人間であっても、天性をもって生まれているために、天理原則というものが分かるのです。ですから、いくら外的に力が強いチャンピオンだとしても、父母の前では頭を下げなければならないのです。(50-135,1971.11.6)

 

人間の世界は、力の争いが続き、知識の争いが続いています。まだ愛の争いができる時にはなっていないのです。ですから、宗教指導者たちは、「末世になれば自分の時が来る」と言うのです。その末世になれば、こぶしの力や知識の力の時代はすべて過ぎ去り、愛の力だけが残るのです。そのような最後の世界的な覇権時代、その時がまさしく「終わりの日」になるのです。
力の強いお兄さんが家に帰ってきて、そこで大将になれるでしょうか。なれません。いくら力の強いお兄さんでも、家に帰ってくれば大将にはなれません。リングでは世界的なチャンピオンになれても、家に帰ってくれば大将にはなれないのです。
また、博士の学位を数百個ももったお兄さんでも、家に帰ってきて大将になることができるでしょうか。できません。なぜ、できないのでしょうか。父母がいるからです。(50-135,1971.11.6)

 

4)兄弟姉妹が必要な理由

 

兄弟がなぜ存在するのでしょうか。兄弟がなぜ必要なのかというと、男性は妹や姉を見ながら、「うちのお母さんがこのようにして育ったんだなあ!」ということが分かり、また、女性はお兄さんや弟の意地の悪い姿を見ながら、お父さんが育った過程が分かるようになるからです。それが兄弟愛というものです。ですから、兄弟を愛さなければなりません。
そして、父母を愛するように、兄弟を愛することを学ばなければなりません。学ばなくては愛することができないのです。
ですから、お母さんとお父さんが育ったその時の姿だと思って兄弟たちを愛することにより、あの世に行っても、いつでもお母さんとお父さんを愛することができるのです。恥ずかしがらずに愛し得る主人になるために兄弟が必要なのです。
それでは、兄弟たちが、お母さんとお父さんを愛するよりも彼ら兄弟同士がもっと愛し合うのがよいでしょうか、愛し合わないのがよいでしょうか。もっと愛し合うのがよいのです。
なぜでしょうか。子女にお母さんとお父さんの育つ時の姿を見せてあげ、彼らを愛することによって、生まれてから死ぬ時までお母さんとお父さんを愛したという立場を立てるための、愛を中心として因縁づけられたそのような兄弟たちなので、そのように考えるのです。
それから、父母においては、子女が多ければ多いほど、お母さんが思うに、男の子たちが意地悪くするのを見ながら、「ああ、うちの夫はあのようにして育ったのだなあ」と分かるようになるのです。
ですから、子女たちを愛することは、出会う前の夫を愛する立場になるのです。また男性は、「ああ、あの女の子を見ると、妻がああだったのだなあ! 幼い時の妻の姿を見せてくれているのだなあ」と学ぶのです。彼らを愛することによって、今までの妻のすべてを愛したという条件が成立するのです。
父母は、「おい! 男の子の赤ん坊だけかわいがって、女の子の赤ん坊はかわいがるな」とは言いません。父母は、子女を同じように愛するのです。区別なく愛するのです。ですから、このように兄弟をもつのは、家庭に美しい愛の円和、丸い球形を形づくるためなのです。
父母は、兄弟たちに同じように接してあげようとします。すべての父母がそうです。ですから、兄弟を憎むことはお母さんを憎むことよりも大きな罪です。これが家庭教育においての第一条です。(184-60,1988.11.13)

 

今まで、皆さん、兄弟同士で争って仲が悪くなっているなら、行って宴会をして満足させてあげ、「許してくれ」と言いながら、「うちのお母さんとお父さんを愛するように愛し合おう」と言わなければなりません。兄弟がお母さんとお父さんの身代わりなので、残されたお母さんとお父さんに侍ろうといって、兄弟が貧しければ自分が助けてあげ、お母さんのためにしてあげたようにしてあげるなら、それより美しいものはないのです。そこから天国が始まるのです。(184-65,1988.11.13)

 

5)おじいさんは家の神様の立場

 

今日のアメリカの制度は、すべて若い人たちの天国であって、おじいさんとおばあさんの天国ではありません。幼児たちの天国ではなく、おじいさんとおばあさんの天国ではなく、若い青年男女たちの天国なので、すべて滅びる地獄の穴を掘っているのです。それは、本然の形態に合わないからです。(107-328,1980.6.8)

 

アメリカの家庭では、おじいさんが息子たちの家に行くとき、電話をして行きます。人間なら、どちらを好むでしょうか。皆さんはどちらを好みますか。美しい嫁が白髪まじりのおばあさんとおじいさんに、愛らしい気持ちをもって愛する夫よりも良いものを買ってあげようとすれば、それがどれほど美しく、どれほど愛らしいかというのです。
美しい嫁が、老いたおじいさんとおばあさんがしわくちゃであるにもかかわらず、何かを買うのに、自分の愛する夫に買ってあげる以上の喜びで買ってあげるその場面が、どれほど素晴らしいかというのです。
そのようになれば、おじいさんとおばあさんは、隠してあったすべてのものを、愛に関するすべてのものを与えるのです。
世の中で年をたくさん取ったおじいさんは、だれでしょうか。神様です。ですから、そのおじいさんのために尽くす愛を自分のおじいさんから学ぶのです。このような伝統を学び、おじいさんである神様の秘密の倉庫にある愛の宝物をすべて自分がもらうことができるのです。どれほど素晴らしいかというのです。(107-329,1980.6.8)

 

世の中で一番経験が豊かで、豊富な経歴をもった神様が誰かというと、おじいさんとおばあさんです。年を取っているので、たくさんは寝ないのです。ですから、「ああ、おじいさんは我が家を寝ずに守ってくれる神様だなあ! 私たちを守ってくれるために、こんなに年を取ったのだなあ! しわを見ると年を取ったなあ!」と、そのように考えなければなりません。それが美しいのです。そのようなおじいさんとおばあさん、年を取ったおじいさんとおばあさんに仕えるなら、火事にもならず、どろぼうにも遭わないのです。
おじいさんとおばあさんが寝ないで何をするのでしょうか。祈祷をするのです。「神様、うちの子女に恵みをお与え下さい。恵みをお与え下さい」と祈祷するのです。祈祷して、「おい、誰それや! お前、きょう、出歩いたら危ないよ。言うことを聞きなさい」とこのようにすべてを教えてくれるのです。「今日は出掛けてはいけない! けんかをしてはいけない! 息子よ、どこかに行かないようにしなさい、娘よ! 嫁よ! きょうは遠くに行ってはいけない」と、このように教えてくれるのです。
ですから、孫たちにそのようなおじいさんとおばあさんが必要でしょうか、必要ではないでしょうか。愛をもてば、おばあさんとおじいさんも小躍りし、お母さんとお父さんも小躍りし、兄弟同士も小躍りするのです。
このような形態を備えて暮らす人は、宇宙が保護するのです。誰かがその人を殺そうとすれば、自動的に宇宙が防いでくれるのです。(107-327,1980.6.8)

 

父母は、孫をどこか送ろうとすれば、必ずおじいさんの承諾を得なければなりません。父母の勝手にはできません。おじいさんが神様の立場になるのです。(107-326,1980.6.8)

 

6)祖父母と孫との関係

 

よちよちと歩き回る孫が家に入ってきて、「ああ、おじいちゃん、おばあちゃん、どこ行った」と言えば、どうですか。
お母さんとお父さんも座っていて、自分の兄弟達もたくさんいますが、入ってくるやいなや、「おじいちゃん、おばあちゃん、どこ行った!」と言うなら、それはふさわしいですか、ふさわしくないですか。それは、ふさわしくありません。言葉も、ぞんざいな言葉です。「おじいちゃん、どこ行った」と言います。
それでは、その言葉を考えてみてください。今、80歳を超えたおじいさんとおばあさんに、小さな子女が大胆にふんぞり返り、突っ立って、お父さんとお母さんもみないるのに、お兄さんとお姉さんが自分よりも立派なのに、そこにふんぞり返って、「おじいちゃん、おばあちゃん、どこ行った!」と言っても、すべて目をまん丸くして、「おい、こいつめ! この子は! 何だ」としかる人はいません。
それは、なぜでしょうか。普通ならば、ほかの所から他人が来て、そのように言ったなら、「うちのおじいさんに向かって、お前、そんなことが言えるのか」と、大騒ぎになるはずですが、孫がふんぞり返り、そのような話をすれば喜びます。「そうか、そうか、おじいさんに会いたいのか」となるのです。それが何かというと、おじいさんに対して、「どこに行った」というのが、餅をくれということですか、御飯をくれというのですか。その内容が問題です。内容とは何かというと、おじいさんに会いたいという事です。そのようになれば、会いたいと思うのは良い事ですか、悪いことですか。それは良いことだというのです。
天下が会いたいと思い、また、会いたいと思うと同時に、その次には、どうしたいのですか。じっと四方を見渡しても、お兄さんをじっと見て、お姉さんをじっと見ても、今、どこかの膝のところに行って少し座りたいのに、こちらを眺めても、あちらを眺めても、お兄さんの顔色をじっとうかがって、行って3分だけ座れば、追い払われるのが分かり切っているのです。また、お父さんもよく見ると、忙しくて疲れたお父さん・・・・・・。それはみな、経験を通して知っているのです。行っておしりを載せて10分だけ座っていても、嫌がります。それはみな、測定感覚が早いのです。
しかし、おじいさんは、おじいさんをよく見れば、おじいさんのように年を取った人たちは、膝に座れば、1時間座ってもじっとしていて、2時間座ってもじっとしているのです。
その様に座っても、家族の中で一番自分をたくさん抱いてくれるのです。抱いてくれて、「この子は鼻がどうで、この子は耳がどうで」と言いながら触ってくれるのは嫌ではありません。整えてくれ、なでてくれ、触ってくれ、あるときは、触らないところがないくらい、すべて触ってみますが、それでも嫌ではありません。それがどれほどすてきですか。どれほど素晴らしいかというのです。それは、木の一番てっぺんが、木の幹のてっぺんが根と一つになろうという話と通じるのです。それでは、中心の根と中心の芽とが愛し合うようになれば、どのようなことが起こるでしょうか。そこにつながったすべての根とすべての枝は、愛し合うまいとしても愛し合わざるを得なくなるのです。
それを考えてみなければなりません。中心の芽と中心の根とが愛し合うようになれば、それが何かというと、全体を抱き得る因縁だというのです。このように見るとき、根の中で中心の根が家庭の中で誰ですか。孫、長男の長男だというのです。
ですから、おじいさんは、いつも目を開けて長男の長男を見上げ、また見下ろすのです。これを知らなければなりません。(139-15,1986.1.26)

 

7)家和万事成の真の意味

 

東洋の教訓の中で「家和万事成」という言葉がありますが、それは、とても良い言葉です。家といえば、そこはもちろん人が中心になっています。おじいさんとおばあさん、父母、子供、このようにいますが、それだけではありません。家自体は万物を縮小したものです。そこにすべて集まっているのです。そのように考えるとき、我が家といえば普通、「そこは父母がいる所であり、妻子がいる所である」と考えるのです。しかし、我が家といえば、それだけではないというのです。おじいさんとおばあさんがいて、そのほかにも家があり、庭があり、すべてのものを縮小したものの中で環境がよく調和しています。そのようにしてこそ気分が良いのです。合わない環境に、うちのおじいさんとおばあさんがいれば、気分も良くありません。
おばあさんとおじいさんが互いに向かい合いながら笑う姿は、若い夫婦がうれしくて、大声で「へへへ」と笑う姿とは比較できません。「ほっほっほっ」と言う、しわの寄ったおじいさんとおばあさんの笑みは、すてきだというのです。知らないからそうなのであって、すべてが和合する、互いが相応する立場で笑うそのおじいさんとおばあさんの笑いがあることによって、すべてのものが和動するというのです。おじいさんの笑いは深くて、「はっはっはっ」と笑います。手ぶりをしても、動作は遅いのですが、広く、気高く、深く、大きくするのです。すべてのことが上・中・下の3段階で連結されて、すべての調和が始まらなければなりません。ですから、調和というものは、一線上の2点では成されません。2点を通過するものを線といいますが、2点上では調和の美がありません。直線なのにどうして調和の美が生まれますか。ねじれ、曲がっていてこそ調和が生まれるのです。ですから、3点以上を経る、ここに調和が生まれるのです。ですから、おじいさんがいるかと思えば、中間にお父さんがいて、次にはその下がいます。家庭を4代として見るのです。おじいさんとおばあさん、お父さんとお母さん、それから自分たち夫婦、それから子女がいます。
層々侍下(父母・祖母など世話すべき人が元気でいる事)という言葉があるではないですか。層々侍下とは何層になるのでしょうか。いくら多くとも、もちろん4代、5代まで暮らす家庭が時々あるかもしれませんが、普通は4代です、4代。おじいさん、お父さん、それから私たち、子女、このようになっているのです。
このように見れば、私たち統一教会の「原理」は3段階です、3段階。蘇生、長成、完成。ですから、和する家庭、「家和万事成」といいますが、その「家和」になれば、なぜ「万事成」なのでしょうか。「家和」になれば、すべてのことが成されるというのですが、なぜでしょうか。言葉だけなのでしょうか。詩的に詠みたいと思ってそのようにいうのですか。そういうことではありません。違います。「家和」、これは、おじいさんとおばあさんを中心とした4代が、上に下に、東西南北に、前後左右上下に和合して、笑顔の花が咲くことをいうのです。(139-12,1986.1.26)

 

(2021.11.09:写経奉献)