天聖經(26) 第4巻『真の家庭』 第9章 真なる子女教育
第9章 真なる子女教育
1)父母は子女をどう教育すべきか
2)父母は子女に何を教えるのだろうか
3)父母がまず手本を示すべきである
4)父母は友達の中の友達、先生の中の先生
5)愛のむち
6)勉強は何のためにするのか
7)真の父母と先生の教え
8)世界と共に生きる教育
1)父母は子女をどう教育すべきか
父母は、息子、娘にどのような教育をしなければならないでしょうか。知識教育をするのではありません。愛の教育をしなければなりません。父母が一つになる姿を見せて教育しなければならないのです。
天が好むお父さんとお母さんであり、またお母さんが好むお父さんであり、お父さんが好むお母さんであり、二人とも愛し合うと同時に私が好む父母であり、父母が好む私だという事を教えなければなりません。
ですから、初めにアダムとエバも、神様の愛を中心として、神様に愛の教育を受けなければなりません。それでは、その起源はどこでしょうか。人間から始まるのではありません。神様が父母なので、アダムとエバは、神様から愛の教育を受けなければなりません。そのアダムとエバの価値基準の設定は、どこから成されるのでしょうか。神様の愛の教育からです。
それでは、愛の教育を受けるのはいつまでなのでしょうか。お父さんが知っているすべての価値基準を推し量れる時まで、言い換えれば、成熟する時までは父母の愛を受けて育たなければなりません。
しかし、アダムとエバが神様の愛を受けて育ったという記録が聖書にありません。愛を受けたという話はなく、気分悪く堕落したという話から始まります。壊れてしまったというのです。
それでは、愛の神様を中心として愛の教育を受けなければならなかったアダムとエバには、愛の教育基準があったのでしょうか。もしなかったならば、神様の理想というものはあり得ません。その愛の教育基準とは何なのかということが問題です。私たちは天国に行きたいと思っています。しかし、天国に行ってからは、そのような教育は受けることができません。地上で教育を受けて生活したのちに天国に行かなければなりません。地上でその教育をしなければ大変なことになるのです。教育を受けなければ大変なことになるというのです。その教育とは何なのでしょうか。(51-171,1971.11.21)
天国は、心情の世界です。教理の天国ではなく、教派の天国でもなく、心情の天国です。神様が、この地上で民と信徒を探そうとされるのは何のためでしょうか。息子、娘をつくるためです。どのような息子、娘をつくるためでしょうか。「私の心がこうなのだ」と言いながら、その心情を吐露できる息子、娘をつくるためです。(9-293,1960.6.12)
それでは、アダムとエバが教育を受けようとすれば、どのような姿勢をもつべきでしょうか。親子の関係ですから、父母が行く所にはいつもついていかなければならないのです。父母が行くようになればどこまでも、いつでもついていかなければなりません。父母が山に登れば山についていき、谷に下りれば谷についていき、洞窟の中に入れば洞窟の中に行かなければなりません。いつも父母と共にいなければならないのです。もし神様が息子と離れなければならないとしても、離れることができるでしょうか。神様は絶対的なお方ですから、絶対的に会いたいと思われるのです。絶対的なお方ですから、好きになるのも絶対的に好きになるのです。「ああ神様、来るなら来て、来なければ来ないで、どこかにいるならいて、いないならいないで」と、これではいけません。絶対的でなければなりません。(51-173,1971.11.21)
もし神様と内外とも一つになった立場にいれば、学ばなくてもみな博学になるというのです。研究して知るよりも、もっと博学になるというのです。天地がどのようになっているのか、霊界がどのようになっているのか、人生がどのようになっているのか(分かるのです)。生ま出たすべての昆虫の赤ちゃんですら食べ物を探すというのに、万物の霊長が、学ぶことによって食べ物を探したり、死ぬことや生きることを知るのではありません。接したとたんにさっと分かるようになっています。
そのように素晴らしい人にならなければならないにもかかわらず、そのような人になれなかったのは堕落のためです。
堕落したとしても、主体と対象の関係で本性は作用しています。作用するこのすき間には、今まで積もってきた汚いもので覆われているので、これを取ってしまえば、だんだん作用が強くなるでしょう。完全に取ってしまったという日には、ぱっとつながるのです。今まで人々は、そのようにできる道を追求してきました。(56-131,1972.5.14)
2)父母は子女に何を教えるのだろうか
真理の内容とは何でしょうか。真理の内容がいくら良いといっても、自分の父母に代わることはできず、真理の内容がいくら良いといっても、自分の夫に代わることもできず、また自分の妻や息子、娘たちに代わることはできません。
真理中の最高の真理とは何でしょうか。それは、父母であり、夫婦であり、子女です。それ以上はありません。それでは、真理の中心とは何でしょうか。愛です。このような原則を中心として見るとき、最高の真理の中心とは何でしょうか。人々は、神様が真理と善と愛の本体であり、生命の本体だといいますが、それは、どのようなことですか。みな同じことです。真理が成立するには、愛と生命がなければできないのです。人間が真の真理を論じることができる人になるには、自分の生命の中に、真理に対する意欲と欲望がなければなりません。ここでの欲望とは、自分の人格基準とは相対的な立場です。
ですから、一番の核心は何でしょうか。生命の本体、愛の本体、真理の本体は神様ですが、神様はどのようなお方なのでしょうか。私たち人間の父であると同時に母です。ですから、核心は父母なのです。(21-183,1968.11.20)
また、私たちの最も貴い遺産は何でしょうか。神様の愛と真の父母の愛を子女に相続してあげることが最も偉大で、この世にない相続です。神様を正しく紹介しなければなりません。神様の愛がどのようなものかをよく紹介しなければなりません。それを子女が分からないので、神様の代わりに神様のように愛し、自分の父母を求める以上に神様を求める子女となるように教育する、そのような父母にならなければなりません。(93-336,1977.6.17)
私たち統一教会員は、何をしようというのでしょうか。「最高の愛のために死のう。神様と人類と世界のために死のう」と言うのです。「このような作用も愛のために始まり、このような方向も愛のために始まり、このような目的も愛のために始まり、男性も女性も愛のために始まり、父母も愛のために始まり、息子、娘も愛のために始まり、宇宙のすべてのものも愛の贈り物のために始まった」ということを教えるとき、これ以上の教育はありません。このように生きていった人は、間違いなく神様の前に行っても恥ずかしくないことでしょう。(93-191,1977.5.29)
祝福家庭の人たちを見ると、自分の子供である二世たちに「勉強しなさい」と言います。自分の息子、娘に「勉強しなさい」と言ったからといって、その息子、娘が親孝行になり忠臣になるのではありません。
とんでもないことです。「統一教会でお父さんとお母さんは苦労したけれど、私はそのような道は行かない!」。このようなことがあり得ます。それを消化させ得る愛の道理を教えなければなりません。ですから父母が息子、娘を連れて、御飯を抜いてでも自分の町を愛し、国のために祈祷し涙を流せば、このようなことが分別のつかない時は悪いことだと思いますが、分別がつくようになる時には、「うちのお父さんとお母さんが最高だ」と言うようになるのです。
父母が我が子のためだけに涙を流したのではなかったということが分かるようになります。自分の子女を捨ててでも国を愛し、神様のみ旨のために生きて人類を救おうとしたという事実を、分別がつけばつくほど知るようになるのです。
自分勝手に生きてはいけません。皆さんが子女を心配したからといって、その子女たちが良くなるのではありません。
愛の糧を食べさせて育てなければなりません。正しい愛を求めていける方向感覚を教えてあげなければなりません。分別がつけばつくほど、年を取れば取るほど、そこで黄金を見つけるとき、一塊の金しかない山だと思っていたのに、掘れば掘るほどその山自体が金の塊になり得ることを知るようになります。(139-77,1986.1.26)
3)父母がまず手本を示すべきである
子女を教育するためには、父母が先に実践しなければなりません。父母がお手本となって、み旨の前に忠誠を尽くさなければなりません。そして、父母がどのような言葉を語っても、子女たちが一言半句も口答えせず、父母をおそれ敬い得る立場に立たなければなりません。そのようにしなければ、子女たちがついて行かないというのです。(31-268,1970.6.4)
そのためには、天の教育をしなければなりません。教えてあげるには、父母が先に手本にならなければなりません。子女に親孝行しなさいと教える前に、先に親孝行しなければなりません。
皆さん自身がまず天の法度に従って親孝行な息子、娘になってこそ、そこから天の伝統的親孝行の因縁が成立するのです。お父さんが家庭で親孝行するように、お前も親孝行しなければならず、お父さんが国のために追われながらも闘争の歴史をつづってきたように、お前も忠臣にならなければならないと教えなければなりません。(31-113,1970.3.17)
父母が子供に親孝行しなさいと教えてあげて親孝行な息子をつくるのではありません。自ら親孝行しようという心が湧き出るようにしなければなりません。ですから、そのようなことは、一朝一夕にしてできるものではなく、長い期間を通じて影響を及ぼさなければなりません。ここで影響を及ぼすというのはどのようなことでしょうか。お父さんがしたとおりに子女がついてくることができるように、生活を通して子女に手本を見せてあげなければならないのです。このようなことを実践する専門家にならなければなりません。(29-99,1970.2.25)
自分の子女に教える時は、「お前は立派な人になりなさい」とばかり言わないで、「立派な人になるためには、このような道を経てからなりなさい」‘と言わなければなりません。お父さんはお父さんなりに責任を果たし、お兄さんはお兄さんとしての責任を果たさなければなりません。お姉さんはお姉さんとしての責任を果たさなければなりません。
言い換えれば、真の男性、真の女性の道を行ける因縁をわきまえ得る、法度からそれない皆さんになってこそ、順理的な路程を経て一国の民になれる道が生じるのではありませんか。(祝福家庭と理想天国I-1041)
父母はどのようにしなければならないでしょうか。父母が互いに愛し合うように、兄弟姉妹同士愛し合えるように教えると同時に、私が国を愛するので、お前も国をこのように愛しなさいと教えなければなりません。そのようになれば、他の教育は必要がありません。(祝福家庭と理想天国I-1041)
祈祷する時も、私がこのようにするので、私の子女もこのようにするようにしてくださいと祈祷しなければなりません。
自分が先に標準になったのちにこそ、子女をそのような位置に立てることができます。自分が先にそのような位置に立てば、神様は自然にその子女もそのような方向に導いていくのです。ですから、ここで私たち自身を中心として、その方向を変えることができなければ、霊界に行っても責任追求を受けることになるでしょう。(13-103,1963.11.1)
皆さんの家庭で、子供たちが、うちのお父さんとお母さんは世界のどのような王宮の王や王妃よりも素晴らしいと思うようにしなければなりません。また、子女たちにお父さんとお母さんの関係が天下にない近い関係だということを見せてあげなければなりません。祝福家庭の皆さんがそのような伝統を立てなければなりません。
そのようにして、「うちのお父さんとお母さんは、世の中の誰よりも誇らしいお父さんとお母さんだ」と言えるように、子供たちの骨髄にその伝統を植え付けてあげなければなりません。世の中の親たちを見れば、子女たちがその横で、「お父さん、お母さんどうしてけんかするの! どうしてけんかするの?」と言ってもけんかします。
その時に、涙を見せない家庭で育った皆さんの子女たちが、そのような世の中の姿を見て、「やっぱりうちのお父さんとお母さんは、世の中で一番だ! 本当に素晴らしく聖なる両親だ」ということが感じられるように、皆さんは、子女たちにお手本を見せなければなりません。父母は、子女たちが骨髄からあふれ出る心情であこがれる父母と子の絆を立て、黙々と天の家訓、家法を立てていかなければならないのです。そのようにすることによって、子女たちも後代において自分のお父さんとお母さんのような立場に立とうとするのです。(23-184,1969.5.18)
4)父母は友達の中の友達、先生の中の先生
愛というものはどこから来るのでしょうか。愛は、自分から来るものではありません。愛とは、相手から来るものです。相手かいなくなれば、愛も来ることができません。私たち人間を中心として見れば、男性の前の女性も相対的であり、また父母の前の子女も相対的です。愛というものは、相手なくしては成されないのです。これを「三対象の愛」といいます。
三対象の愛を体得できない者は、完全な神様の愛を体験したという立場に立つことができません。「神様がアダムとエバを創造して喜ばれたように、私も息子、娘を生んで、それくらい喜ばう」と、これが統一教会の原理の教えです。
神様がアダムとエバを造られて、「これから世界を主管するのだ。世界の中心家庭になるのだ。早く大きくなれ、早く大きくなれ」と言いながら希望をもって保護育成する中で、喜びと満足を感じながら、彼らが大きくなって結婚する日を願われたのです。それが神様の願いです。
これと同じように、お父さんとお母さんは、息子、娘をよく育てて素晴らしい相対を選び、良い夫婦の縁を結んであげなければならないというのです。良い夫婦の縁を結んであげれば、その家は栄えるのです。(57-119,1972.5.29)
友達の中の友達とは誰でしょうか。近所のもじゃもじゃ頭の若者が自分の息子、娘の友達ではありません。友達の中の友達は誰かといえば、正にお父さんとお母さんです。そうならなければなりません。さらには、友達よりもっと好きな父母にならなければなりません。そのように考えなければなりません。ですから、父母は、友達の中の友達であり、先生の中の先生にならなければなりません。
父母が「こらっ、お前、そのようにしたらいけない」と言ったり、先生が「こらっ、こいつ、やらなかったらふくらはぎをたたくぞ。そのようにしてはいけない」と言ったりしながら教育してはいけません。愛の教育をしなければなりません。「こら、お前、それでいいのか」と言えば、「そうだ、ぼくがこのようにすれば、お父さんとお母さんが悲しむからいけない」と言えるように教育しなければなりません。ですから、父母は、子女の友達の中の友達であり、先生の中の先生にならなければなりません。
エデンの園にいたアダムとエバに友達がいたでしょうか。アダムに友達がいたとするならば、エバしかいませんでした。その次には、神様しかいません。天使長とは友達になることは願われませんでした。天使長は僕です。それなのに間違って友達になって滅びたのです。ですから、父母は、先生の中の先生であり、友達の中の友達であり、愛の中の愛にならなければなりません。
愛は神様から始まります。ですから、結局、相対の愛も誰によるものかといえば、父母によるものです。ですから、父母が「おい、お前たちが愛し合うのは、お前たちによるのではなく、父母の恩徳によるものだ」と言う時、子女たちは、「うちのお父さんとお母さんが私をこのように育てて、このような相対を得てくれなかったら大変なことになるところだった」と、このようにならなければいけません。
ですから、恋愛結婚は落第だというのです。その愛の教育は、誰から受けなければならないのでしょうか。父母からです。お父さんとお母さんが一つになって、鳩のように楽しくクゥクゥクゥと愛し合うのを見て、それを見習わなければなりません。
「ああ、うちのお父さんとお母さんがあのように愛し合うのを見ると、自分一人では寂しい。私もうちのお父さんとお母さんのように、クゥクゥクゥと愛せる、そのような相対が必要だ」。このようにならなければならず、父母はそのようになるように教えなければなりません。そのようになれば、その息子、娘たちがお父さんとお母さんがしてきたことを繰り返すので、世界は善なる世界になるのであり、人類歴史は善なる歴史になるのです。統一教会でこれをしようというのです。(57-121,1972.5.29)
5)愛のむち
ヨハネの黙示録を見ると、「冷たいか熱いかであってほしい、中途半端ではいけない」とあります。
愛の世界で中途半端な態度はいけないのです。愛の心をもてば、むち打ってもよいというのです。子女を育てるとき、愛を与えたのにその心を忘れてしまった時は、冷たく対すべき時もあります。子女が間違った時、皆さんがしかってあげなければ分別力を失います。先生は、優しく見えても、一方では厳しいということを知らなければなりません。悪に対しては無慈悲です。しかし、善に対しては何千度の溶鉱炉のように熱いのです。(103-32,1979.1.28)
最近、アメリカの学校で先生が学生をたたいたという理由で刑務所に行ったという話を聞いたとき、「アメリカはもう駄目だな」と思いました。自ら進んで、「たたいてでも、善なる方向に導いてください」と言わなければなりません。
韓国の諺に、「憎い人には御飯をあげて、かわいい人にはむちをあげなさい」という言葉があります。正しい伝統を受け継いでいくためには仕方がありません。父母のむちが痛いのを忘れて、その愛の前に涙を流せる人にならなければなりません。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1027)
人は近ければ近いほど賞金をあげるのではなく、「こら、お前どうしてそうしたんだ?」と、かえって懲らしめるのです。
隣近所の子なら、間違ったことをしても知らないふりをするかもしれませんが、自分の子女なら「ふくらはぎを出しなさい」と言ってたたきながら、「お前、良いことをしたのか、悪いことをしたのか」と言います。それは、たたくことよりももっと多く考えてあげているからです。しかし、その思いよりも多くたたけば、それは罪です。自分が思ってあげるよりも、もっとたたけば怨讐になります。怨讐の中でも、大きな怨讐になるというのです。
愛するとしても、棍棒を持った以上の愛をもってたたかなければ、すべて台無しになります。
しかし、それ以上の愛をもってたたくなら大丈夫です。つまり、10愛して5むち打てば5の愛が残っているので有り難く思うというのです。(26-32,1969.10.18)
子女が受け入れなくても、子女を悔い改めさせるためには、昔愛したその愛よりも大きな愛をもって現れ、愛するようになれば、その不良のような子供でも悔い改めて帰ることができます。
しかし、子女に対して、自分が育ててきた功労を自慢しながら3回でもとがめれば、その子女はふろしきを包むのです。しかし、その子女に対して骨髄が溶けるほど涙を流し、もっと大きな愛をもって愛するようになるとき、その子女は帰ってくるのです。もっと大きな愛は、小さい愛をすべて消化、統合し得る主動性があるからです。
この世でも、子女が疲れたからといって、「勉強するな」と言う父母は、本当に子女を愛する父母ではないというのです。むち打ちながらも、「寝ないで勉強しなさい」と言わなければなりません。なぜですか。今、良くなろうというのではなく、未来に良くなろうというのです。父母は、子女の未来に大きな夢をかけてそのようにするのです。
子女を生んで育てるためには、真の愛で生んで育てなければなりません。そのようにして家庭が一つになり、家庭を中心として国を愛せば、彼を愛国者だというのです。
ですから、父母は、子女の成長を見守りながら教育し、正しく成長しなさいと「愛のむち」を加えたりもします。間違ったという理由で父母にしかられたり、たたかれたりしたといって、不満をもったり抗議してはいけません。それを教訓としてひそかに自重しながら反省し、奮闘努力して間違った点を直していかなければなりません。そのような人は、正しく成長し、神様がいらっしゃる中心に接近していくことができるのです。(祝福家庭と理想天国I-1028)
6)勉強は何のためにするのか
勉強したくて学校に行く学生がどこにいますか。みな初めは、仕方なく通うのです。中でも、特に小学生たちは、親が怖くて仕方なく通うのであって、勉強したくて通うのではありません。初めはみな、そうだというのです。仕方なく通ってみると、あとでその味を覚えて、学ぶために通うようになるのです。そのようになると、お父さんとお母さんは驚くのです。
その味を感じ、そのような刺激的な内容がそこにあるということを知れば、勉強するのがおもしろくなるのです。そのおもしろさということから見れば、最初は悪いものです。
しかし、勉強してみると、自分が思いどおりにできる範囲が広くなるので、そこに味を覚えて勉強するのです。勉強すること自体が好きな人は一人もいません。勉強することによって、自分の活動できる範囲が広がるので好きになるのです。(36-120,1970.11.22)
学校に行く学生に対して、親は「一生懸命勉強しなさい」と言います。それは簡単ではない道です。苦痛の道です。しかしそれは、未来のために準備しなさいという予告です。教授たちが壇上に立ち、弟子たちに一生懸命に教えるのも、未来のための準備です。農夫が田畑へ行って一生懸命に働くのも、未来のための準備です。この国に天国を建設するための準備です。(147-205,1986.9.21)
皆さんは、学校へ何のために行きますか。学校へ行って勉強して、どこに役立てようと思いますか。それは幸福のためでしょう? 幸福は、愛を抜いてはあり得ません。
ですから、学校へ行くのは、愛の道を短縮させるためだといえるでしょう。
人間にとって幸福の門が開かれる時とは、結婚の時です。幸福の門を開くために勉強するのは、とても良い方法だといえるでしょう。
しかし、その勉強がお金もうけのために、権力をもつためにするのなら間違いです。勉強は、真の愛で愛することができるように学ぶものでなければなりません。お嬢さんたちが大学へ行って学士になろうとするその理由とは何ですか。良い新郎を得ようというのです。それ以外に何もありません。
そして、ある男性がいくら立派になったとしても、その家庭が一つにならなければ、その男性は不幸な人です。(祝福家庭と理想天国I-372)
勉強するのも、真の男性に出会って真の母になるためにしなければなりません。真の母になるためには、まず国のために勉強しなければならず、夫を真の夫として侍り、真の夫に侍る真の妻にならなければなりません。
このような自分になることができなければ、真の夫に侍ることもできず、真の息子をもつこともできないのです。女性は、真の妻となり、一家庭の主婦として夫と百年偕老(注:夫婦になって仲睦まじく共に老いること)しなければなりません。お嫁にいくために勉強するなら、大学を出た人たちはみな百年偕老しなければならないでしょう?
しかし、百年偕老する人が多いですか、離婚する人が多いですか。調べるまでもないことです。文字を1字も知らない者たちが、もっと長く共に生きるというのです。(25-79,1969.9.30)
男性や女性が生まれて、長い教育期間を経て成熟した人格者になるのも、愛の理想的相対者に出会って幸福な暮らしをするためです。
最近の世の中では、結婚相手に出会うために勉強するのではないといいますが、結局は素晴らしい相対者を得るためのものであり、相対者と美しく愛し合いながら幸福に生きれば、財物も、名誉もついてくるのです。(祝福家庭と理想天国I-373)
7)真の父母と先生の教え
父母は、自分の息子、娘のために働きます。自分が食べるために仕事をする父母はいません。子女の多い父母が、農村で、あるいは仕事場できつい仕事をする時、貧しくとも背負子を背負って畑の草取りをし、畝間や田んぼを耕したりするのは、千年、万年、子女の幸福の為です。
父母の額から流れる苦労の汗は、自分のためのものではありません。その汗の結実が子女を愛する心と共に絡み合えば、そこには新しい創造の役事が展開されるのです。いくら畑で草取りをして、仕事場で荷物を背負っても、その足取りには新しい役事が宿っているのです。(25-97,1969.9.30)
わが国(韓国)に4000万の国民が住んでいますが、子女を愛さない親もたくさんいます。彼らの中で、誰よりも子女を愛する気持ちを、10年、20年以上持続できる父母がいるなら、そこには親孝行の子女が出てこざるを得ません。息子と娘たちは、その父母の顔を見るだけで、手を見るだけで、自分たちのために苦労したということを知るようになるのです。
このように、骨髄からわき出る父母の愛を感じるとき、そこからは長い歳月の深い事情が流れてくるのです。このように、子女を国のために貢献させることによって、その父母は国家的な父母、あるいは世界的な父母になるのです。また皆さんが、父母の願いをかなえてあげようとする心情にあふれて勉強するようになるとき、新しい担い手になるのです。
皆さんの中に、そのような感情と思いをもつことができない人がいるとすれば、その人は、勉強するといっても、まともにすることはできません。もし、父母が子女に、「私がお前を愛し、お前のために骨を折り、お前のために苦労して汗を流すのは、私を思うよりは、この国をもっと愛しなさいという意味からだ」という愛国の志士の心情をもって教育すれば、そのような父母のもとで愛の教育を受けた子女は、父母が願う愛国の志士になるために努力することでしょう。彼は、父母の愛を回想するたびに、4000万民族のことを思うことでしょう。そして、民族のために勉強するはずであり、自分の民族が悲惨な目に遭う時は、自分の父母以上に悲惨さを感じることでしょう。
しかし、そのような立場にだけ立ったからといって愛国者になるのではありません。そのような立場に立って成し遂げた土台がなければなりません。それでこそ、国民が千年、万年慕い得る要因になるのです。そうでなければ、それはすべて過ぎ去ってしまいます。このようなすべての問題を考えれば深刻です。皆さんの学校に、どのようなことがあっても、自分の弟子たちに正しい思想を引き継がせるために苦労する先生がいるならば、彼は大韓民国という国家の運命を心配しながら、皆さんの手をつかんで涙を流し、次のように勧めることでしょう。
「私に対して従うのではなく、国に対して従いなさい。私のために尽くすよりも、国のために尽くしなさい」。このような教えを受けた弟子たちは、その先生が果たせなかった意志を果たすことでしょう。このように、先生は、自分の生涯を捧げて弟子たちのために精誠を尽くし、父母は、自分の価値よりも国家と世界の価値を大切に思いながら子女のために精誠を尽くせば、その先生の弟子とその父母の息子、娘たちは棟梁の器(注:一国を支える人材)になることでしょう。(25-98,1969.9.30)
8)世界と共に生きる教育
宗教とは元の教えです。神様の元の教えは、人類を教育し、人類を愛そうというものです。それ以外にはありません。ですから、真の父母は、子女に対して、世界が喜び、神様が喜ぶことを教えてあげます。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-1046)
人倫では、父母を愛し、夫婦同士愛し合い、子女を愛しなさいと教えます。
皆さんは、誰のために父母を愛さなければならないのか考えてみましたか。誰のために夫婦が愛し合わなければならないのか、誰のために子女を愛さなければならないのかを考えてみましたか。
愛することに責任を取ってくださる主人公を失ってしまった人間です。神様は無限の愛を語られました。最後に残るものは愛だとおっしゃいました。その愛は神様の愛です。皆さんは、慕い求めるその目的を知らなければなりません。愛する目的がなければなりません。誰のために愛しますか。神様のためです。神様のために愛さなければなりません。
自分のために愛する者は、どこへ行くのか死んでみてください。皆さんが子女を生んで乳を飲ませ、「かわいい」と言いますが、誰のためにかわいがるのですか。それは、天と地に代わって、かわいがらなければなりません。この国、この世界のために、神様のためにかわいがらなければならないのです。
神様の愛に従った天倫の運勢は、世界を越え、天地を包容するために動いています。それなのに、その因縁を通じて生まれた息子、娘を自分のために愛するならば、それは許されないというのです。子女を抱いて乳を飲ませる母親は、天と地に代わって神様の愛する息子、娘を抱くという、切実な心情で自分の息子、娘を抱かなければなりません。(8-105,1959.11.22)
皆さん、恵みを受けることを願いますか。永生することを願いますか。そのようにするためには、公的な人にならなければなりません。子女を教育するとき、自分の息子、娘としてのみ愛してはいけないというのです。世界の人々のための祭物的な息子、娘として愛する父母にならなければなりません。そして、子女を胸に抱いて乳を飲ませる時には、この地球上の人類を代表した母の立場で、人類を代表した赤ちやんに乳を飲ませるという心で与えなければなりません。
そして、自分の子女にだけかわいいといって乳を飲ませるのではなく、他人の子女にも自分の子女だという心情で対するお母さんになってください。そのようなお母さんの乳を飲んで育つ赤ちゃんたちは、必ず偉大な人物になることでしょう。(31-167,1970.5.24)
すぐにはならなかったとしても、1代、2代を経ていくうちに、必ずその子孫の中に世界を動かし得る人物が生まれることでしょう。これが公式です。そのようになるのです。
素晴らしいお母さんたちは、子女を胸に抱いて、世界を動かせる善なる存在になるためには、どのような困難な立場でも耐えることができなければならないとその子女に教えます。それはお母さんたちが、善は滅びないという天理を知っているからです。(13-238,1964.3.24)
善は何によって動くのでしょうか。私のためにではありません。御飯を食べるのも、私のために食べるのではなく、天宙のために食べなければなりません。花嫁を迎えるのも、自分のためではなく、み旨のために結婚しなければなりません。
世界を目標にしなければなりません。経験するのも、世界を中心としなければなりません。そのようにする人は、格好が悪く見えても、本当に味のある素晴らしい人です。70年ないし80年のまばたきするような人生を過ぎれば、永遠に生きる道があるのに、人間はそれを知らずに生きています。
永遠に生きる世界の時間圏内に入って、その世界と連結させ得る道を知れば、その永遠は私のものになるのです。(36-185,1970.11.29)
御飯は粟飯を食べ、服はたとえ見すぼらしいふろしきのようなものをまとっていたとしても、世界を中心として、「昔、家がこうだった時、このような人はこのように生きてこのようになった」と言える、幅広く絶え間ない話題をもっている人が住んでいる所ならば、そこにいる子女たちは、優秀な人になるというのです。(28-188,1970.1.11)
(2021.11.16:写経奉献)