天聖経(76) 第14巻「真の孝の生活」 第7章 神様と真の父母様

 

第7章 神様と真の父母様

1)真の父母様は忠孝の標本

2)真の父母様に対する忠誠は神様に対する忠誠

 

 

1)真の父母様は忠孝の標本

私たちは、イエス・キリストを「王の王」と言っています。「主の主」、あるいは「絶対者の主体者」と言っています。しかし、そのお方の前で、「忠臣だ」と言って祝福された人はいません。このことを知らなければなりません。天の忠臣が現れず、天の孝子が現れず、天の烈女が現れなかったのです。
ある絶対的な信仰をもった人がいて、天が、天地を統治し得る位置にその人を立てて祝福してあげたいと思われるとすれば、その人は、最高の位置に行くようになるでしょう。そのようにしようとすれば、その人は、その国の「最高の忠臣」という名前をもたなければならず、その国の「最高の孝子」という名前をもたなければならず、信仰者たちを「新婦」と言われたので、その国の「最高の烈女」という称号ももたなければなりません。しかし、神様は、6000年間、復帰摂理をしてこられましたが、「あなたは、天地が生じたその日から今日までの歴史において、かけがえのない私の忠臣だ」と言って祝福してくださった人はいません。「創世以後、今日までの歴史において、あなたは私の前における真の孝子だ」と言って祝福してくださった人はいないのであり、烈女として祝福してくださった人はいないというのです。
それは、この地の各国家が、天が誇り得る主権をもった国になり得なかったからであり、この地の家庭が、天が永遠に愛して守ってくださる真の父母をもった家庭になり得なかったからであり、この地の人々が、天が永遠に信じてくださる真の新郎新婦となり得なかったからです。
ですから創世以後、今日まで、創造主が、この地上で暮らす人間たちの中で、「あなたは私の愛する息子、娘だ」、「あなたは天上天下を代表した孝子だ」と言って誇った人はいません。「あなたは私の前における忠臣だ」と言って誇った人はいないのであり、「烈女だ」と言って誇った人はいないのです。
堕落した私たちは、慕っています。天が認める忠臣になり得る、その国を慕っているのです。真の父母に侍って孝子となり得る、その世界を慕っているのです。真の新郎新婦となって、天の懐に抱かれ得る、本然のその世界を慕っているのです。これが、人間の願う最大の目標です。(9-102,1960.4.24)

 

この世界は、父母が慕わしいので、その父母が来られる日の為に準備するのです。その一人の主人公、一つの父母、一つの世界が、神様が今日までの6000年間、苦労してこられた結実であり、願ってこられた目標です。ここに、その父母に代わって立ち得る心情的な後継者が出てこなければなりません。心情的な後継者です。
言葉だけの後継者ではなく、姿だけ同じ後継者ではなく、喜ぶだけの後継者ではなく、父母の悲しみと苦痛を自らのものとして、父に代わって苦痛を受け、父に代わって悲しみながら、心情的に天の前に忠孝の道理を立てようと身もだえする後継者のことです。そのような群れだけが、天の前に立つことができるのです。(9-30,1960.4.3)

 

今日までの歴史路程は、善と悪の闘争によってつづられてきた路程です。このような歴史が私の前に迫ってきたので、私を中心として、悪は悪として、善は善として分立しなければなりません。「私」という存在は、この勝敗を左右する鍵を握った人です。
したがって、私は、個人を超越した公的な存在だということを肝に銘じなければなりません。過去に忠誠と孝行で公的な使命を完遂するために苦労した先祖たちのその歴史的な偉業を継承する者は、彼らよりも公的使命の前により忠誠を尽くし得る人でなければなりません。したがって、私たちが公的な使命を担うためには、歴史を超越した宇宙的な忠孝烈の心情と覚悟を備えなければなりません。(11-270,1961.12.17)

 

忠臣とは何でしょうか。国王に対して精誠を尽くす人が忠臣でしょうか。違います。民を国王と同じように愛せる人が忠臣だということを知らなければなりません。孝子とは何でしょうか。父母のために精誠を尽くす人ではありません。父母を愛するのと同じように、兄弟のために精誠を尽くす人が孝子だということを知らなければなりません。
真の聖子、神様の息子、娘とはどのような人でしょうか。神様を愛するのと同じように、神様に属するすべてのもののために歩もうとする人が聖子です。
それゆえに、私は聖子の道を歩もうというのです。先生は、神様も愛していますが、人類も愛しています。怨讐であるアメリカまでも愛しているのです。そうであってこそ、神様が御覧になるとき、「私の息子よ」とおっしゃることのできる人は、神様を愛するのと同じように、人類のために生きる人です。そのような人が神様の息子です。ご自身のことを忘れて人類のために生きる神様なので、自分を忘れてこの人類のために生きるのです。そのように生きるので孝子だというのです。その定義をはっきりと知らなければなりません。私たちは、孝子の道と忠臣の道から聖子の道を尋ね求めていくのです。聖人の道を尋ね求めていくのではありません。そのような内容を中心とした孝子の道理と忠臣の道理を通じて、聖子の道理を成し遂げてこそ、その国が何の国となるのですか。地上天国です。そこで生きれば、そのまま天国に行きます。そのようにすることが神様の創造理想だったのです。(133-241,1984.7.19)

 

2)真の御父母様に対する忠誠は神様に対する忠誠

父母に親不孝した息子の立場に置かれているのが人類です。不幸を招いた張本人が、私たち人間です。天の前に言い表すことのできない不孝をしたので、親不孝した者が天の前に堂々と立つためには、孝子となれる立場に立たなければなりません。
統一教会の食口たちは、天の孝子となることを誓って立ち上がったと自負しています。しかし、私たちは、再度冷静に批判、分析しなければなりません。私の手が、天の前にどれほど孝子の手として、天が慕う手となっていて、私の顔がどれほど天の前に孝子の姿として、天が慕える人になっているでしょうか。自らの一身が、どれほど孝子の触媒となり、いかなる逆境にあっても、昼夜、その逆境を克服しながら、孝子の行く道を開拓してあげるために努力される父の姿を現すことができるようにしてさしあげたのかという問題を考えてみるとき、そこでは、私たちは自分というものをもつことができません。(60-19,1972.8.1)

 

孝子になろうとすれば、父母のすべての苦労を、あるいは父母の前に最も困難な道を選んで責任をもつために立ち上がる者にならなければなりません。
また、そのような孝子とは言えない子供を孝子にしたいと思う父母がいるとすれば、その父母はどのようなことをさせるでしょうか。死ぬほどのことをさせるのです。「おい、これをしなさい」と言って、兄弟の中で最も大変なことばかりを選んでさせるのです。
ただ一つしかない孝子の名をもってこられるお方が、メシヤです。ただ一つしかない孝女の名をもってこられるお方が、メシヤの新婦です。
イエス様は男性なので、男性の前に女性だからといって、すべての人が新婦でしょうか。新婦がたくさんいるのですか。新婦は一人しかいません。しかし、新婦になろうとするところでは、誰もが競争することはできるのです。(62-41,1972.9.10)

 

故郷に孝子がいるとすれば、歴史時代において、その地にいた孝子の中のいかなる孝子よりも立派な孝子の大王にならなければなりません。忠臣がいたとすれば、それよりも立派な忠臣の大王にならなければなりません。いくら孝子となり忠臣になったとしても、真の父母と横的な因縁をもたなければ何の意味もありません。真の父母を中心として、横的な父が水平になる時、縦的な父が現れるのです。完全なマイナスが生じるようになれば、完全なプラスが訪ねてくるのです。(177-347,1988.5.22)

 

真の父母とは何かというと、家庭では孝子、国家では忠臣、世界では聖人、天地では聖子の伝統的道理をすべて果たした人です。
そのようなコンセプトをもたなければ、神様を中心とした家庭において、神様の願われる孝子として立つことができず、そのような中心を中心として築かれた国において、神様の国を中心とした忠臣として立つことができず、そのような世界において神様が願われる聖人として立つことができず、そのような天地において孝子となり得る聖子として侍ることはできません。
それゆえに、私たち自身が、このようなサタン世界の蕩減復帰のために、このような四大条件を完成し、天の前に奉献しなければなりません。聖子とは何かというと、天国の宮殿法と天国の法と、地上の宮殿法と地上の国の法を守らなければなりません。天国にも王宮があり、国があるのです。
地上のすべての宮殿法と国の法と、天上世界の宮殿法と国の法を完成し、それをすべて守ることができなければなりません。それを守ることができてこそ、聖子の道理と言えるのです。その故郷の地を訪ねていって何をするかというと、「家庭盟誓」の第2番の孝子、忠臣、烈女にならなければなりません。2番を成すのです。今まで神様は、そのようなものをもつことができなかったので、サタンのものだったというのです。(266-145,1994.12.22)

 

三千里半島の至る所で、三千万民族の代わりとなり、父のために忠孝を果たそうと誓う群れが現れることを先生は待ち望んでいます。
皆さんが胎中にもいない時に、先生はこのような誓いをなしたのであり、皆さんがこのような道を行くことを夢にも思わなかった時に、既に先生はこのような道を歩んでいたのです。涙が多いとすれば、三千万民族の誰にも劣らないほど多くの涙を流すのです。誰かが現れて私に一言でも言えば、抑えることができずに痛哭してしまうでしょう。
この世から見れば、先生は本当にかわいそうな人です。どれほどかわいそうでしょうか。心の安らぐ場所がありません。天地がどれほど広くても、心の安らぐ場所がないというのです。イエス様が、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(マタイ8:20)とおっしゃいましたが、その心が理解できます。(13-35,1963.10.16)

 

皆さんは、先生に対して、天の父母のように孝行したことがありますか。サタン世界に生まれて死んでいった数多くの孝子たちも、その国が追慕し得る孝子の碑を残したのではありませんか。
また、いつ忠臣の道理を果たしたのかというのです。死ぬ最後の時まで、生命を捧げるまでは、孝子になることはできないのであり、忠臣になることはできないのではないですか。私は、そのような人を願いました。私が教育をしたのは、そのような人を願って教育したのです。それにもかかわらず、標準がすべてずれてしまいました。
いつ皆さんが、本当の意味で国を愛し、本当の意味で兄弟を愛し、本当の意味で先生を愛し、本当の意味で先生の家庭を愛したことがありますか。蕩減復帰の原則において、いかなる孝子よりも、いかなる忠臣よりも勝っていなければならないのではありませんか。それが、「原理」が教えてくれている教示ではありませんか。そのような基準に立ったことがありますか。このようなことを皆さんは知らなければなりません。(68-268,1973.8.5)

 

先生が命令する事のために、なぜ手が曲がるほどに忠誠を尽くすことができないのかというのです。それを見る時、その話を聞く時、なぜ胸がふさがって痛哭するほどの歴史の条件を残すことができないのかというのです。簡単で易しい方法だというのにです。
家庭を代表して父母の前に孝行し、国に対して忠誠を尽くし、天に対してすべてのことをなし、歴史的な勝勢の権限をもっていくことができるチャンス、天のすべての偉業を無条件に相続し得る絶対的なチャンスを得たにもかかわらず、なぜそれをすることができないのかというのです。そのようにしてこそ、地から国を経て天国に入っていく時に、遮る者がいないというのです。
サタンはどのようにするのかというと、家庭の前に立ちはだかったのです。私個人がいくら完成したとしても、父母の前に孝行しなければなりません。そのようになっています。また、いくら父母の前に孝行したとしても、国の前に忠誠を尽くすことができなければなりません。いくら国の前に忠誠を尽くしたとしても、人類の前に忠誠を尽くさなければ、天国に行くことはできません。(158-143,1967.12.26)

 

私が愛さなければならない万物という父母の前に孝子となれなかったのであり、私を生んでくれた父母の前に孝子となれなかったのであり、この霊界と神様の前に孝子となれなかったのですが、先生を中心として真の父母に侍ることによって、代わりに孝子の資格を与えてもらうことができるのです。それゆえに皆さんは、粘り強く従っていかなければなりません。(105-112,1979.9.30)

 

世の中の若い男性や女性たちも、「初愛は忘れることができない」と言うでしょう? 皆さんは、みな結婚したことがなくて分からないかもしれませんが、初愛は忘れることができないものです。
神様と私たち人間との間で父と息子の因縁をもち、父の前に孝行した孝子として記憶された息子、娘は、神様の心の中から取り除いてしまおうとしても、絶対に取り除くことができません。それは、アダムとエバよりも勝っている立場に立っているからです。アダムとエバは孝子になったでしょうか。孝子になることができませんでした。孝子になる道とは、どのような道でしょうか。孝子の道を行こうとすれば、父のみ旨のとおりに生きなければなりません。父のみ旨のとおりに生きた人でなければ、孝子になることはできません。(57-153,1972.5.31)

 

自分のために苦労してくださる父母の前に孝の道理を全うするためには、まず涙をもって父母を慰労し、担った十字架を堂々と背負っていかなければなりません。あなたが歩んでこられた十字架の道は、子女を愛するがゆえに悲惨だったという事実を告げる思いで、「父よ! これ以上苦労しないでください。父よ! 私のためにこれ以上心配しないでください!」と言える立場に立たなければなりません。
これが、今まで悲しみを受けながら歩んでこられた父母である神様の前に立ち得る孝子の姿ではないでしょうか。このようなことを思うとき、今日、私たちは神様の前にあまりにも厚かましく、あまりにも傲慢だったという事実を発見するようになります。(31-35,1970.4.12)

 

天地を代表して真の父母に侍るにあたって、歴史上のいかなる先祖よりも、いかなる時代の人よりも忠孝を尽くすという自覚をもって行動しなければなりません。そのように行動すれば、天とその環境において、すべての人が影響を受け、自分を中心として一つになるのです。(275-187,1995.12.8)

 

皆さんは、社会に忠誠を尽くさなければならず、教会に忠誠を尽くさなければならず、家庭に忠誠を尽くさなければなりません。それでは、教会とは何をする所でしょうか。人格を形成し、人格を育てる所です。堕落したので、教会が必要です。家庭と社会で終わるのではありません。
人格を復帰するにおいては、そのままでは復帰できません。大学を卒業して何かの博士の学位を受けたからといって、それで人格が復帰するわけではありません。ですから、教会が必要だというのです。
それでは、どこに忠誠を尽くさなければならないのでしょうか。家庭に忠誠を尽くす前に、教会に忠誠を尽くさなければなりません。社会に忠誠を尽くす前に、教会に忠誠を尽くさなければなりません。教会が主体であり、家庭と社会は対象です。知恵深い人はどこに立つのでしょうか。対象の立場に立つのではなく、主体の立場に立つのです。主体の立場は一つしかありません。
対象は、東西南北の四方において360度回転しなければなりませんが、主体は、中心のただ1箇所しかありません。それは、ある圏内の絶対的な立場です。二つではありません。中心が二つということはあり得ますか。これが行ったり来たりすれば、滅びる可能性が大きいのです。(25-126,1969.9.30)

 

大統領になるには、大統領になり得る基盤を築かなければなりません。いくら皇太子として生まれたとしても、王になるには、王になり得るすべての法度と規則を学ばなければなりません。ですから今や皆さんは、語るだけではなく、人類歴史の最後の路程に同参しなければならないのです。神様が、「あなたは孝子だった」という印を押して、天国の孝子として天国に送ってくださるのです。これは、どれほど驚くべき愛でしょうか。その基盤は何ですか。家庭教会という基盤です。天国は孝子が入っていくのです。
息子は息子でも、ならず者は入っていけません。孝子の名をもっていかなければならないので、「孝子」という名の印を押してもらうためのものが家庭教会です。(122-124,1982.11.1)

 

家庭で安楽に暮らす人々は、愚か者です。家庭天国の垣根の中にとどまるしかありません。ですから、代表的家庭になり、中心的家庭にならなければなりません。それで、孝子、忠臣、聖人、聖子の道理は、私が行く道だというのです。天性的に、私が必然的に行くべき道だというのです。
それゆえに、家庭では孝子にならなければなりません。それから、国では忠臣にならなければなりません。忠臣は、生まれながらその道理を外れることがありません。夜も昼も、焦点を合わせていかなければなりません。先生は、一生の間、寝ても覚めてもみ旨という焦点を忘れたことがありません。床から起き上がれば、それを続けます。千年、万年続けるのです。
先生が勝利した内容があるので、「氏族的メシヤの責任を果たせなかったとしても、国家的メシヤの責任を果たして、自分たちの誤ったことを清算しなさい」と言って前に立てたのです。そこにおいて、孝子にならなければならず、忠臣にならなければなりません。世界と国家を愛する心で、兄弟たちのために祈祷しなければなりません。そのようにしてこそ、真の父母様に従って聖子の地位をもち、神様のみ前に現れることができるのです。(283-77,1997.4.8)

 

先生が国を担っているのです。その道において、皆さんが功臣です。それゆえに、孝子の道、烈女の道、忠臣の道を築くために行く道だということを知らなければなりません。それが氏族的メシヤの使命です。孝子は家庭における息子の立場であり、烈女は夫婦の立場であり、国を代表する父母の立場は忠臣です。忠臣になることによって国と連結され、父母の立場を代表するのです。(220-153,1991.10.16)

 

先生のために、神様は多くの涙を流しています。それを知っていましたか。知らずにいるのではないですか。皆さんの中に、先生の心をたくさん泣かせるほどの孝子、孝女がいますか。それを願っているのです。そのような人を、まだ探し出せずにいます。深刻なことです。(256-26,1994.3.12)

 

(●2022.5.23:写経奉献)