世界経典Ⅱ 第3部 人生の旅程 第17章 服従と犠牲

第17章 服従と犠牲

1. 召命と使命

ダマスコに向かう道で突然、天から光を受けるという経験をした使徒パウロは、その当時、霊的に神様が自分に何かを切に要求されていることを体験する。それは、単純にキリスト教信仰への改宗を意味するものではなかった。パウロは、それ以上の使命、異邦人たちにキリストを知らせよという使命を受けたのである。この使命意識が彼の心に燃え上がり、これが正に、残りの生涯でギリシャ全域にキリストの教会を立てるという動機を呼び起こしたのである。そこから彼は、自分を生きた祭物として天の前に捧げ、神様の召命に服従する人生をスタートした。
神様は、歴史を通して聖人たちと使徒パウロのような義人たちを呼ばれ、御自身の道具として用いられた。神様は多様な使命を負い、天の名によってその任務を遂行する信仰者たちを必要とされる。イスラエルの預言者たち、イエス様の弟子たち、ムハンマドの教徒仲間、そして天の召命に応じたのち、これに従っていった大勢の信徒たちまで、すべて神様が必要とする人たちである。召命を受ける者は、挑戦と逆境にぶつかることが多かった。しかし、その神聖な目的を胸に抱き、み旨を成し遂げようとする強い責任感があったために、彼らは耐え抜くことができたのである。

 

①神様の召命と私たちの使命意識

― 宗教経典 ―

 

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 / 父の家を離れて / わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし / あなたを祝福し、あなたの名を高める / 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し / あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて / あなたによって祝福に入る。」
創世記12.1~ 3(キリスト教)1

 

信仰する者よ、なんじらは神を助ける者になれ、マリヤの子イエスが、その弟子たちに言ったように、「神の道のために、たれがわたしの助力者であるか」と。弟子たちは答えて「わたしたちが、神を助ける者であります」と言った。
クルアーン 61.14(イスラーム)2

 

主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び / あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として / あなたを形づくり、あなたを立てた。見ることのできない目を開き / 捕らわれ人をその枷から / 闇に住む人をその牢獄から救い出すために。
イザヤ書 42.6 ~ 7(キリスト教)3

 

サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、 「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。
すると、主は言われた。「立って、 『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。
使徒言行録 9.3 ~18(キリスト教)4

 

放浪の詩人、私があなたの召命を受けた。昼夜、あなたを賛美せよとの命を受けた。詩人は聖なる師の召命により
永遠の彼の家に召喚され、聖なる賛美の服をもらい、
神聖な名の聖なる食べ物を接待された。師の導きによりこれらを受けたがゆえに、詩人の心は至福で満ち、
聖なる言葉に従い、気高い賛美をすべての世に
大きく広げた。
アーディ・グラント、ヴァール・マージュ、M.1、p.150
(シク教)5

 

― み言選集 ―

 

将来、神がこの罪悪世界から善なる個体を呼び給い、彼らを中心として善なる氏族社会を立て、更に、善なる封建社会をつくったのち、善なる王国を建設することによって、メシヤを迎えるための善なる版図と主権を樹立しようとされたので、サタンがこれを先に知ってそのような型の路程を歩んできたのである。
事実上、神はこのような罪悪世界から、善を中心とするアブラハムを呼びだされて、彼を通じて、神のみ旨を信奉し得る子女を繁殖することによって、イスラエルの氏族社会を立てられたのであった。
原理講論、摂理的同時性から見た復帰摂理時代と復帰摂理延長時代 7.1

 

神の創造がそうであるように、神の再創造摂理である救いの摂理も、一時に成し遂げるわけにはいかない。一つから始まって、次第に、全体的に広められていくのである。神の摂理が、すべてこのようになっているので、救いの摂理のための予定においても、まず、その中心人物を予定して召命されるのである。
神は全知であられるから、いかなる人間が復帰摂理の中心人物になり得る条件(本章第三節)を備えているかを御存じである。そこで神は復帰摂理の目的を成し遂げるために、このように、あらかじめ知っておられる人物を予定して、召命なさるのである。しかし、召命なさる神の責任分担だけでは、彼が義とされて、栄光に浴するところにまで至ることはできない。彼は召命された立場で自分の責任を完遂するとき、初めて義とされることができる。義とされたのちに、初めて神が下さる栄華に浴することができる。
原理講論、予定論 3.4

 

堕落した人間は神霊に対する感性が非常に鈍いために、大抵は真理面に重きをおいて復帰摂理路程を歩んでいくようになる。したがって、このような人間たちは、古い時代の真理観に執着しているがゆえに、復帰摂理が新しい摂理の時代へと転換していても、彼らはこの新しい時代の摂理にたやすく感応してついてくることが難しいのである。旧約聖書に執着していたユダヤ人たちが、イエスに従って新約時代の摂理に応じることができなかったという史実は、これを立証してくれる良い例だといわなければならない。
しかし、祈りをもって神霊的なものを感得し得る信徒たちは、新しい時代の摂理を、心霊的に知ることができるので、古い時代の真理面においては、相克的な立場に立ちながらも、神霊によって新しい時代の摂理に応じることができるのである。
原理講論、人類歴史の終末論 5.2

 

神様がいるとすれば、アメリカに、自由世界にレバレンド・ムーンを、その境界線、その刹那に送ったのが、今から 10 年前のことだと私は考えます。アメリカはレバレンド・ムーンの話を聞きなさいということです。それでは、レバレンド・ムーンに責任を果たしたのかと尋ねるとき、レバレンド・ムー
ンの話が「アメリカの人たちは病気になったので、医者は外部から連れてこなければならない。アメリカが病気になり外部から連れてこなければならないので、東洋からレバレンド・ムーンが来た」と言うのです。それはどれほど実感がわきますか。火事が起きれば消防隊員も同じです。そのようなことをすべてしたのです。果たしたというのです。
(123-320、1983.1.9)

 

天は私に対して要求していらっしゃいます。「新しい世界を建設せよ」と言われるのです。既にほつれて乱れてしまった事件を、解決せよという責任を与えてくださったのです。それでは、私はどんな立場にいるのでしょうか。私の一つの個体は、なくてはならない存在です。人類のものであり、世界のもの
であり、お父様のものであるからです。
不足な民族であり、不足な私たちですが、召命を受けた私たちは、おそれ多い心情をもたなければなりません。国家、民族のために全力を尽くしていった人々も許されなかったのに、私たちを呼び出して息子としてくださったという事実を考える時、感謝する心と、
おそれ多い心情をもたなければなりません。
(9-344、1960.1.30)

 

途方もない歴史的終末時代に、誰も信任できない孤独な所にいらっしゃる神様の前に、私たちが信任の対象になれるならば、それ以上願うことがありますか。死んでもいいというのです。私の肉身が水となって流れていったとしても、何の恨があるでしょうか。粉となり飛んでいったとしても、何の恨があるかというのです。この世には、犬や豚のように死んでいく無価値な人生がいくらでもあるのです。
(62-140、1972.9.17)

 

②使命成就の努力と苦難

― 宗教経典 ―

 

ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。
「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」
この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。わたしは言った。
「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は / 王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。
彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので / あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」主は言われた。 「行け、この民に言うがよい / よく聞け、しかし理解するな / よく見よ、しかし悟るな、と。
この民の心をかたくなにし / 耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく / その心で理解することなく / 悔い改めていやされることのないために。」
イザヤ書 6.1~10(キリスト教)6

 

あなたはご存じのはずです。主よ、わたしを思い起こし、わたしを顧み /わたしを迫害する者に復讐してください。いつまでも怒りを抑えて / わたしが取り去られるようなことが / ないようにしてください。わたしがあなたのゆえに / 辱めに耐えているのを知ってください。あなたの御言葉が見いだされたとき / わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり / わたしの心はび躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって / 呼ばれている者です。わたしは笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく / 御手に捕らえられ、独りで座っていました。あなたはわたしを憤りで満たされました。なぜ、わたしの痛みはやむことなく / わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り / 当てにならない流れのようになられました。
エレミヤ書15.15 ~18(キリスト教)7

 

タカープが……浮浪者の群れと奴隷たちを扇動してムハンマドを侮辱し、非難したのだが、そのとき、ある群れの群衆が近づき、彼を果樹園に避難させた。……預言者が安全な所に着いたとき、彼が言った。「おお、神よ。あなたに私の弱さと資源がないことと人々の前で取るに足らない者であることを訴えます。最も慈悲深い方よ、あなたは弱者の主であり、したがって私の主です。あなたは私を誰に任せようとされるのですか。私を悪用する者ですか。そうでなければ、私を抑える力のある敵たちですか。もしあなたが私にお怒りになられたのでなければ、私は心配しません。あなたの好意は私にとってより広大なものです。あなたの怒りと憤怒が私に下されないのなら、暗闇が輝く、現世と来世のすべてのことが正しい秩序をつかむあなたの助けによる保護を求めます。あなたの喜びが正に満足です。あなた以外にはいかなる権能もありません」。
イブン・イスハーク 預言者伝(イスラーム)8

 

とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしに
とって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっ
ているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。
フィリピの信徒への手紙 3.4 ~15(キリスト教)9

 

― み言選集 ―

 

信仰生活をするにおいては、難しい問題が多いことを皆さんは知らなければなりません。したがって、召命を受けることが問題ではなく、召命に従っていくことが問題だというのです。召命に従っていくのも難しいのですが、神様のために忠孝の道理を果たすということはもっと難しいのです。
(40-86、1971.1.24)

 

召命の道に従っていくときは、いつも内的な闘争があります。内的な闘争をかき分けていくことは、責任者がきちんとできなければなりません。責任者が間違えば、滅びるようになるのです。責任者が間違えば、大きな問題が起きるというのです。ですから、軽挙妄動してはいけません。良いことがあっても喜びすぎてはならず、悪いことがあっても悲しみすぎてはいけないのです。いつでも自分の心の姿勢を正し、正否を見極めながら、注意深くいかなければなりません。
(40-98 ~ 99、1971.1.24)

 

今、私たちに残された
宇宙的な願いがあるとするなら、
その願いは、私たちが
宇宙万象の全体的な責任を
負うことのできる精兵となって、
全被造万物を解放し、
万人を喜ばせてあげることであると
知るようにしてくださり、
天の命令を奉じて
責任を果たすことができ、
使命感に酔うことができるよう
許諾してくださいますことを、
お父様、
懇切にお願い申し上げます。

天のみ旨を
この地上に探し立てるために、
天の法度を知り、
宇宙の闘いの法度を知って、
不変の中心を身代わりして、
永遠であられる
神様の理想と復帰の栄光が
全被造万物に現れる時まで、
私たちは変わろうとせず、
休もうとせず、
ただ闘おうとだけする
息子、娘となるよう
許諾してくださいますことを、
お父様、
懇切にお願い申し上げます。
(2-181、1957.4.14)

 

召命を受けてみ旨の道を行く人が考えなければならないことは、いつでも精誠を尽くしながらみ旨の目的を求めていかなければならないということです。いつでもそれを求めるために努力しなければならないのです。先生自身も、復帰摂理の全体的な問題を中心として行く道は、平坦ではありませんでした。ここには、私自身も思いもよらない、焦りいらだつ場が多いというのです。
それでは、どのようにしてこの道を行かなければなりませんか。自分の心や心情に欲心をもっては、絶対に駄目です。「私がこのようなことをしてみよう。私は何々をしよう」と考えながら、ある計画を立て、3年なら3年の計画
を立ててこのようにしようと考えたとき、それは不可能なときが多いのです。計画どおりにできたとしても、これは、人間的な観点から立てられた計画なので、摂理と相入れないときが多いというのです。
(40-77、1971.1.24)

 

お父様!
私たちが行くべき方向を
あなたは知っていらっしゃり、
私たちが取って進むべき道も
あなたは知っていらっしゃいます。

私たちの心の始まりも
自分から始まったのではなく、
私たちが勧告の立場に立つことも
自分のためではなく、
人のためであり、
お父様のためですので、
最後まで
その心情が変わらないよう
主管してくださいますことを、
お父様、
切にお願い申し上げます。
(6-62、1959.3.29)

 

2. 従順と服従

世俗的目的と生活様式が、神様の意思と行為の基準から隔たれば隔たるほど、従順な姿勢がより切実になる。アダムにエデンの園の果実を取って食べるなという戒めを下さって以降、神様は自己中心的、人間中心的な欲望とは反する戒めを堅持した。したがって、人間が神様との関係を正常化するためには、神様のみ旨に服従し、自分を否定する姿勢が切実に要求される。これはイスラームで特に強調される徳目である。「イスラーム」の意味は、正に「神への服従」を意味する。
服従は犠牲を要求する。イエス様が「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈られたように、イエス様は生命を超越する状況でも服従を履行した。服従することは、人間が喜び、便利な思考によって神様の摂理に加担することでは決してない。自分の息子を祭物として献祭せよという神様の命令を受けたときのアブラハムの経験のように、服従は想像もできない内容を遂行することを要求する。
このように、従順と服従自体は、いかなる状況でも人間と神様の究極的目的の具現である。神様は人間を完成の道に善導するために特別な戒めを下さる。父母は子女が社会で成長し、聖賢になることを念願し、子女に規範を遵守しなさいと教える。神様がアダムとエバに戒めを下さったのは、彼らの究極的目的、すなわち愛の実現にある。今日の私たちの戒めも、やはり神様と人間の愛の実現にある。

 

①神様のみ旨と戒めへの従順

― 宗教経典 ―

 

神に己れの真心を尽くして服従帰依し、善い行いにいそしむ者は、主のみもとから報奨を賜わる。かれらには恐れもなく憂いもないであろう。
クルアーン 2.112(イスラーム)10

 

イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。
申命記10.12 ~13(キリスト教)11

 

主が喜ばれるのは / 焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり /耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。
サムエル記上15.22(キリスト教)12

 

数千、数万と捧げる諸儀式も、心を清めることはできず、いくら長く続く無我の恍惚境もまたそうである。全世界をすべてもったとしても、燃え上がる欲望と貪欲を消すことはできず、尽きることのない知識も解脱をもたらすことはない。だとすれば創造者にどのように真実でいることができるだろうか。どのように迷いの壁を崩すのか。ただ彼の命令と御意志に従うだけである。
アーディ・グラント、ジャプジー1.M.1、p.1(シク教)13

 

あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、
あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
ローマの信徒への手紙 6.16 ~ 23(キリスト教)14

 

― み言選集 ―

 

働くにおいて絶対服従し、生活するにおいて絶対服従し、心情問題に入っても絶対服従し、天の法度を立てていかなければなりません。
(45-88、1971.6.13)

 

自分が起源ではありません。先生の起源も自分を超越したものでなければならず、目的も自分を超越したものでなければなりません。自分の生命は、父母や社会や民族、国家を通じて生まれたのではなく、それを超越した絶対者である神様から始まったと言うべきです。動機を、絶対的な立場にある超越的な動機と結びつけなければなりません。時代的な因縁とか、環境的な因縁、あるいは社会的な与件に結びつけてはいけません。超越的な原因に結びつけ、超越的な目的に結びつけてこそ、飛躍して、超越して、脱出することができるのです。
(36-64、1970.11.15)

 

社会生活で、会社に行っても、「会社はなぜこうなのか。私の好きなようにしよう」。アメリカ自体もそうです。「たくさんの法律があって、このようにもできず、あのようにもできない。これはどういうことだ!」とすべて否定します。大統領が何だ、知事が何だ……。そのように考えれば、宗教も、どの社会もすべて同じです。そのような道は、誰もが行くのです。人であれば、誰もが行っています。
宗教の道は違います。宗教の道は、特別な道です。宗教生活は、この世界で二つの世界の生活をしていることを私たちは知らなければなりません。二つの世界の生活をしています。それをはっきりと知らなければならないのです。はっきり知らなければなりません。言い換えれば、二つの世界を生きている人です。社会の人として、ほかの人たちと同じ生活をしている人であり、もう一つは、ほかの分野の一つの世界に向かっていっているのです。
(92-298、1977.4.24)

 

お父様!
私たちが置かれている立場は、
宇宙の中心にいらっしゃり、
高く自存される立場で、
愛を中心とする理想の主であられる
お父様とは、
あまりにも掛け離れていることを
自ら悟っていますので、
この遠い距離を埋めるためには
順理的路程の恨めしい復帰の道が
横たわっていることを知っています。
(110-65 ~ 66、1980.11.9)

 

②絶対従順の追求:私の志と神様のみ旨の一致

― 宗教経典 ―

 

なんじら信仰する者よ、神に己れの義務を果たして、かれに近づくよう念願し、かれの道のために奮闘努力せよ、なんじらはおそらく成功するであろう。
クルアーン 5.35(イスラーム)15

 

君子はみずからも端正にその地位を保ち天命を成就することにつとめる。
易経 50、周易下経、鼎(儒教)16

 

神の御意志をあなたの意志とせよ。
神があなたの意志を御自身の意思として受け入れてくださる。
神の御意志の前であなたの意志をすべて捨てよ。
神が他の人々の意志をあなたの意志の前ですべて空にしてくださる。
ミシュナ、アヴォート2.4(ユダヤ教)17

 

報いを願って仕える僕になるな。何の期待もなく仕える僕になれ。そして、天への畏敬が常にあなたと共にあるようにせよ。
ミシュナ、アヴォート1.3(ユダヤ教)18

 

われがみ使いをつかわしたのは、ただ神の許しのもとに、すなおに帰依させるためである。もしかれらが間違ったときなんじに来て、神の寛容を願い、み使いが、かれらのためにお許しを祈るならば、かれらは神が、たびたび許したもう方・慈悲深い方であられることをさとるであろう。
だがそうではないのだ、主によっていう、かれらの間の紛争についてなんじの裁判を仰ぎ、なんじの判決したことに、かれら自身不満を感ぜず、心から納得して信服するまでは、けっして信じないであろう。
たとえわれがかれらに「身命をささげよ」、または「家から出て行け」と命じても、かれらのうち少数の者のほかは、そうしなかったであろう。もしかれが勧められるように行なったならば、きっとかれらに最もためになり、ずっと信仰を強めたであろうに、そのときは、わがもとから必ず偉大な報奨を授け、われは置き道に、かれらを必ず導くのである。(注1)
神とみ使いに従う者は、神が恩恵を施したもう者と一緒にいる者たち、予言者たち・誠実者たち・殉教者たち、ならびに正義者たちである。これらはなんとりっぱな仲間であることよ。
クルアーン 4.64 ~ 69(イスラーム)19

 

わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。
ヨハネによる福音書 6.38(キリスト教)20

 

父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。
ルカによる福音書 22.42(キリスト教)21

 

一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
ローマの信徒への手紙 5.19(キリスト教)22

 

キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。
ヘブライ人への手紙 5.7 ~ 8(キリスト教)23

 

― み言選集 ―

 

服従には、主体の前に対象が自分だという概念がありません。従順と違います。従順にする立場には自分という概念があります。従順にする立場には自分という概念がありますが、服従するところには自分という概念がありません。
(271-118、1995.8.23)

 

従順は誰でもすることができ、しなければならないことですが、服従は誰でもできるものではありません。しかし、ただ服従を通して蕩減が成し遂げられるのです。
(18-188、1967.6.7)

 

完全な主体は、完全な対象をつくることができます。これは原理が教えることです。神様と同じ主体の立場で世界を再創造しなければなりません。これが私たちの使命です。私たちが堕落した世の中を越えていかなければ、神様に連結されないのです。これからは、優れた人であれ劣った人であれ、絶対信仰、絶対愛、絶対服従しなければなりません。一方通行です。戻っていく必要がありません。神様のものとして、私たちのものとして、天の国のものとして勝利するのです。今まで苦労して価値的基準を備えても、すべて蕩減の涙で洗い流してしまいましたが、これからは皆さんがこの立場で成したすべてのことは、蕩減ではありません。祝福の基台として、皆さんの子孫の前に連結されることを知らなければなりません。
(268-302、1995.4.3)

 

皆さんは、自分のすべてのものを捨てることができる人にならなければなりません。皆さん一人を天に屈服させ、服従させ、誰よりも先に天を身代わりしてサタンの矢を受けることができる人にならなければなりません。サタンとの闘いに誰よりも先に立ち上がる人にならなければならないのです。また、人間に対してもそうでなければならず、神様のみ旨に対してもそうでなければならず、物質に対しても同じように、先に自分を犠牲にしようと立ち上がる人にならなければなりません。
(3-204、1957.11.1)

 

イエス様は何を見せてくださったのかというと、従順と服従です。従順は、応じることのできる環境で命令に従うことであり、服従は、応じられない環境で従うことです。イエス様は不信する人間たちに、このような従順と服従の道理を教えてくださいました。これもやはりサタンの本質、サタンのあらゆる生活的な要素を防ぐためのものです。
サタン世界は、人に対しても、あるいは被造物に対しても、無限に利用し搾取しようとするのですが、イエス様は、その反対の立場を取りました。このように、イエス様が代表してサタンのできない生活をされたのです。すなわち温柔謙遜で、従順に服従し、犠牲と奉仕の生活をされたので、サタンもそのような面では屈服しなければなりませんでした。
皆さんは、自らをイエス様が教えてくださった温柔と謙遜、従順と服従、犠牲と奉仕に照らしてみて、その教えを自分の生活圏内で実践できていないと思えば、いまだにサタンの一族だということを悟らなければなりません。
(3-188 ~189、1957.10.27)

 

神様は、長い歴史時代を通して、責任分担を知らない人間たちが「責任分担を果たした」と言えるようにするための政策を繰り広げてこられたのです。ですから、絶対服従しなければなりません。責任分担を完成することができなかったのは、神様のみ言に絶対服従できなかったからです。したがって、第1の条件とは何でしょうか。責任分担を完成しようとすれば、神様のみ言に絶対服従しなければならないのです。神様が「取って食べるな」とおっしゃったみ言に絶対服従していれば、責任分担を完成していたのです。
したがって、復帰の道を求めていく人たちは、神様のみ言に絶対服従しなければなりません。適当に服従するのではありません。自分の生命を否定してでも私は行けると言わなければなりません。サタン世界の頂上を走って越えていかなければならないのです。それで、イエス様は、「だれよりも私を愛さなければならない」と言いました。娘や息子、妻、その誰よりも私を愛さなければ私にふさわしくないと言ったのです。
(139-255 ~ 256、1986.1.31)

 

3. 自己犠牲

自己犠牲とは、神様に仕え、神様のみ旨を具現するにおいて自分のすべてのもの― 体、心、霊魂―を献身することである。迫害時期の自己犠牲は、文字どおり殉教者として自分の一生を放棄することである。比較的安定時期の自己犠牲は、「生きた祭物」として自分のあらゆる行動を神様の創造目的の具現
に捧げることである。
イエス様は、自分の生命を十字架に献祭する自己犠牲の典型的モデルだったのであり、弟子たちに「自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい」という同一の戒めを遵守することを教示した。個人単位で私たち各自は、自分の十字架ー場合によって様々な十字架ーを背負っている。宗教は、私たちに犠牲と服従の姿勢で自分の責任を遂行することを要求する。文鮮明先生は、歴史上のあらゆる聖人たちがそうしたように、公的な十字架を背負って全生涯を投与しながら、人類救援のために世の中の悪と対峙していらっしゃる。これが正に高貴な人生、すなわち絶対自己犠牲の人生であろう。

 

①自分の生きた祭物として献げる

ー宗教経典ー

 

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
ローマの信徒への手紙12.1(キリスト教)24

 

ゼラスシュトラなるわたくしめは、供物として。自分の寿命さえも、マズダーにささげます。また善思の精華と善行のそれと、善語のそれのみか、懾服と権勢をも、天則に則ってささげます。
アヴェスター・ヤスナ33.14(ゾロアスター教)25

 

わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
ガラテヤの信徒への手紙2.19~20(キリスト教)26

 

おお人の子よ!もし汝われを愛せば、汝の自我に背を向けよ。またもし汝わが喜びを求むるならば、汝自身の喜びを重んじるな。さらば汝、わがうちに死に、われ汝のうちに永遠に生きるを得ん。
バハオラ 隠されたる言葉7(バハイ教)27

 

祭祀はまさに人間である。
チャーンドーギヤ・ウパニシャド3.16.1
(ヒンドゥー教)28

 

幣に ならましものを すべ神の 御手に取られて なづさはましを なづさはましを
(幣になれたらよいのになあ。尊い神の御手に取り持たれて、できたら馴れまつわりつきたいものだ、馴れまつわりつきたいものだ)
神楽歌、幣(神道)29

 

ーみ言選集ー

 

人間は、神様の前に生きた祭物の立場になり、天のお父様の内的心情を表すことのできる善の結実体にならなければなりません。
(2-78,1957.3.3)

 

祭物とは、所有観念があってはいけません。自分の目的ばかりを見つめて動いていくのではなく、全体的な使命のために、民族なら民族を身代わりして犠牲の立場に出ていくことが祭物なのです。ですから、祭物は、自分の史的な目的を立てていくのではなく、公的な目的を立てて行かなければなりません。そして、悪を退治し、善の理念を立てるにおいて一つの足場となり、土台にならなければなりません。
(14-10、1964.4.19)

 

善の人は、神様を絶対視し、神様と一つになる位置に立たなければなりません。神様のみ旨の前に、自分を絶対犠牲にしなければならないのです。善が行く段階を見れば、個人は家庭のために絶対服従しなければならず、家庭は神様のための氏族のために絶対服従しなければならず、氏族は神様を中心とする民族のために絶対服従しなければなりません。また、その民族は神様を中心とする国、その国は神様を中心とする世界のために絶対服従しなければなりません。結局、神様を絶対中心としてサタンに勝たなければならないのです。個人的に勝たなければならず、氏族、民族、国家、世界的にまで勝っていかなければなりません。
(53-241、1972.2.29)

 

生きることを願い、中心存在になることを願い、良いことを願う前に、まず死になさい、こういうことです。個人を中心とした思想によって歴史を滅ぼしたのなら、その反対の道でなければ生かせる道がありません。イエス様が語られた、「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」という言葉もこのような意味です。
(67-183、1973.6.10)

 

善の神様は、どのような神様ですか。犠牲と愛の神様でいらっしゃいます。愛というのは、犠牲の本質を離れてはあり得ません。愛する人のために犠牲になったというとき、その犠牲は、犠牲とは考えません。犠牲になれば犠牲になるほど恵みを感じるのです。愛とは、そのような特別な素性をもっています。愛がどれほど大きいかということは、犠牲になる量がどれほど大きいかというところにかかっています。これによって高低の愛が決定します。犠牲が大きければ大きいほど大きな愛を表すのであり、犠牲が小さければ小さいほど気高さのない愛を表すのです。
(63-25 ~ 26、1972.10.1)

 

愛の心で見るときは、自分を考えるのではなく、自分を否定して自分を犠牲にする道を行くのです。完全なプラスの前に完全なマイナスはありません。プラスに付いていきますが、この端にはプラスが付いてくるのです。完全なプラスの前に完全なマイナスが生じるときには、相対のプラスが来てくっつくというのです。国家なら国家の前に完全なマイナスになるとき、ここに何が来てくっつくのかというと、プラスが来てくっつきます。神様が来てくっつくというのです。一周回ってくっつきます。これがそのまま来てくっつくのではなく、一周回ってきてくっつくのです。天地の道理がそうなのです。
ですから、この国の愛国者の歴史の伝統は、涙と血と汗の歴史を残してくるという事実を知らなければなりません。孝子の伝統も、涙と血と汗を通して続いていきます。烈女もそうであり、烈男もそうであり、忠臣ももちろんそうであり、聖人の道理もそうです。血と涙と汗をつづった所においてのみ、主流の伝統の歴史が続いていき、一つの世界と一つの天国に連結されるという事実は、間違いない真理です。
(113-118 ~119、1981.5.1)

 

天の福を願う人はたくさんいますし、
お父様の子女になるために
精誠を尽くす人はたくさんいますが、
6000 年歴史が経過した今日は、
お父様の真なる息子、娘、
お父様の前に祭物になろうという
忠実な人を捜し出すことが
難しい時であると思います。
(5-8、1958.11.9)

 

②十字架を負う:犠牲の死

― 宗教経典 ―

 

それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(注 2)
マタイによる福音書16.24 ~ 25(キリスト教)30

 

真実の教えを身につけようとする者は、男であれ女であれ、そのために、身体・生命・財産という三つをなげ出すでしょう。勝鬘経3(仏教)31

 

神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。
ペトロの手紙一 3.17(キリスト教)32

 

先生がいわれた、「志しのある人や仁の人は、命惜しさに仁徳を害するようなことはしない。時には命をすてても仁徳を為しとげる。」
論語 15.9(儒教)33

 

孟子がいわれた。「魚も旨いから、ぜひ食べたい。熊の 掌もまた旨いから、ぜひ食べたい。だがもし、二つの中どちらか一つを選ばねばならぬ場合には、自分は魚を捨てても、熊の掌を取りたい。これと同じことで、生命もぜひ守りたいし、義もまた守りたい。だがもし、どちらか一方を選ばねばならぬ場合には、自分は生命を捨てても、義の方を守りたい。もちろん、生命は自分の望むところだが、それよりも以上に望むところのものがあるから、それを捨ててまでも、生命を守ろうとはしないまでだ。また、死はもちろん自分のもっとも憎みきらうところだが、それ以上に憎みきらうものがあるから、死
ぬという危険があっても、これを避けようとしない場合がある。もし人間の望みの中で生命よりも大切なものがないとしたなら、およそ生きるためにはどんなことでもやってのけるであろう。もし人間の憎みきらうもので死よりも以上のものがないとしたなら、死の危険から逃れるためには、どんなことでもやってのけるであろう。ところが実際は、こうすれば生命が助かると分っていても、そうしない場合があるし、こうすれば死の危険から逃げられると分っていても、そうしない場合があるのだ。これこそ、人間には生命以上に望むもの(義)があり、死以上に憎みきらうもの(不義)があるという証拠なの
だ。そしてこの心はひとり賢者だけが持っているのではなく、人間なら誰でも持っているものなのだ。ただ賢者はいつもこの心を失わずに持っているというまでのことだ。
孟子 VI.A.10(儒教)34

 

イエス様の天国を愛する者は大勢いるが、彼の十字架を一緒に背負う人はいない。偉人を求める者は大勢いるが、試練を歓迎する者はいない。共に飲み食いする友は探しやすいが、禁欲と断食を一緒にする者を探すのは難しい。万民がキリストと共に喜ぼうとするが、彼のために苦難を受けようとする者はいない。キリストが分けてくれるパンを求めて彼に従う者は大勢いるが、彼の苦難の杯を一緒に飲もうとして従う者はいない。彼の奇跡を仰ぎ見る者は大勢いるが、彼の十字架と恥辱に従おうとする者はいない。
トマス・ア・ケンピス キリストにならいて 2.11
(キリスト教)35

 

― み言選集 ―

 

神様がそれを願ったので、イエス様がその愛を成し遂げるために自分を犠牲にしたのです。世界を愛するために自分を犠牲にしながら、死の道を自ら行く道に、このすべての信徒たちを追い立てる一つの宗教が出てくれば、その宗教は、サタン世界を防御し、世の中を救う最後の基盤になるでしょう。イエス様が世の中を愛するために、死の道を自ら行って十字架を背負ったように、自分を犠牲にして行く道を自ら行く世界的な一つの教団が出てくれば、その教団を通して神様とイエスが最も希望をもって見つめるでしょう。
(124-299 ~ 300、1983.3.1)

 

この道は
不平を言う者は行けない道であり、
自ら弁明する者は行けない道であり、
自らを立てる者は後退する道であることを知りました。

この道は
イエス様が血を流して行かれた
十字架の道、
延長されたゴルゴタの道であることを知りましたので、
弁明すべき立場でも弁明しようとせず、
自分自身を立てて誇りたくても
誇ろうとせず、
悔しさを知りながらも、
踏まれながら行くべき道であることを知りました。
(6-125、1959.4.12)

 

宗教生活は何ですか。どのような困難があっても、私的な基盤の悪魔サタンと共に地獄に通じる道を行くのではなく、犠牲を払ってでも、このような公的な道で天国に通じる道を行こうというのです。この世の中の人とは異なる生活理念をもっていくのが、宗教者たちの生活であることを知らなければなりません。
それで、統一教会では、公的なことのために神様がされるのと同じようにしようというのです。神様は、公的なことのためには、自分の国を犠牲にできます。自分の愛する家庭も犠牲にすることができるのであり、自分の世界まで犠牲にすることができるのです。神様は、すべての権限をもつ方ですが、公的な人間のために歴史を何度も越えながら、歴史時代の数多くの悲しみと苦痛を独りで経てきながらも、誰のせいにもすることなく、弁明せず、それを甘受してくるのです。公的な神様なので、神様はそのような立場に立っているという事実を、私たちは知らなければなりません。良くやったと自分を誇るのではありません。自分が公的な何かをしたと誇る方ではありません。黙々と最後まで、公的な世界が完成されるまで、神様は公的なことに専心する方です。
(101-146 ~147、1978.10.29)

 

今までは「私のもの、私のもの、お金も私のもの」と言いました。しかし、お金を稼いで私が使うのではなく、すべて……。その代わり、神様が愛はどのようなものだということを考えるのです。困難なことであるほど福になることを知りませんでした。先生も、今最も懐かしく思うことが、監獄で拷問を受けて血を吐いていたことです。
この体がサタンの岩にくっついているのです。体が神様と共鳴しなければならないのですが、岩にはりついています。これを一度に切り離すことができる力を統一教会の人たちはもっているのです。それで、宗教は犠牲になりなさいと言うのです。苦行しなさい、苦行! なぜですか。どうしてですか。神様の共鳴体になろうとするからです。
(102-35 ~ 36、1978.11.19)

 

今までの宗教は何かというと、自分を犠牲にして奉仕するものでした。その犠牲の目的とは何かというと、救援を受けるためですが、それが間違ったというのです。私が犠牲になるのは、神様を解放し、人類を解放するためです。それを知らなかったのです。私のためにするのではなく、神様と人類のために働くということです。目的が違います。悪の宗教として帰結するのか、善の宗教として帰結するのかという出発点が、正にこの点にあることを今日の宗教者は、はっきりと知らなければなりません。
(102-234、1979.1.1)

 

「父母の心情、僕の体、涙は人類のために、汗は地のために、血は天のために」と言ったのですが、どうしてこのような標語が必要なのですか。これは、涙を流すとしても父母に代わって流し、汗を流すとしても父母に代わって流し、血を流すとしても父母に代わって流そうというのです。これはどういうことでしょうか。生きていらっしゃる神様の前に行き、死の道をすべて引き受け、天のために、地のために、人類のために、私が先に死の祭壇に上がろうということです。
(14-244、1965.1.1)

 

私は、雨が降り、雪が降ることを知らず、夜を朝のように、早朝のように感じながら、御飯を食べることを忘れてこのことをしてきた人です。気楽に考えることはできませんでした。神様を知ったからです。神様を知った罪、誰よりも悲痛な神様であることを知ったので、私の一身がずたずたに引き裂かれることがあり、粉になって飛んでいくことがあっても、飛んでいくこのすべての細胞は、神様の一点の細胞だと叫ぶことができれば、男として生まれて甲斐のある死だと思いながら、死の道を求めて身もだえしているのです。
(137-179、1986.1.1)

 

4. 悪と戦争

罪悪の闘争において一抹の妥協もない信仰が、生きた躍動的な信仰である。最高善の実現は、神様のやり方を固守することを要求する。これをイスラームで「ジハード(聖戦)」と呼ぶ。その中の一つの次元は、悪霊と利己的欲望を治める内的闘争である。キリスト教ではこれを「霊的闘争」と呼び、イスラームでは「偉大な聖戦」と呼ぶ。しかし、社会が不正、腐敗で覆われていて、平和が攻撃者によって危険にさらされれば、その世界では正義の側に立つ闘士が必要である。実際に多くの宗教では、弱者を保護し、攻撃者たちの悪行を阻止するために闘争することを愛の叫びとする反面、社会的不正に受動的に対処することを罪として扱う。
自己防御や攻撃者から自分を保護するために、特に銃(武器)が必要な場合がある。しかし、最高善を実現するために闘争するとき、武器を使用するよりもっと良い方法がある。霊的な観点から見つめれば、戦士たちの任務は、世界の正義に向かうことであるため、その闘争は、根本的に霊的闘争と言うことができる。地上の敵がもつ敵対感の背後に悪霊の「権力と主権」が作用している。敵陣の肉身を攻撃して勝利することが、必ずしも彼らの内面的怨恨まで消滅させることを意味するわけではない。かえって、それはさらに悪化し得る。特に、勝利者たちが無慈悲に報復心をもって対処したならば、より一層そのようになる。これとは異なり、相手の内面的戦争で勝利する場合、悪霊は自然屈服して退却するだろう。たとえ敵が深い怨恨に満ちていて、必ず武力を通してのみ屈服させるとしても、本当の勝利は、敵が神様のみ旨を悟るように教育する時まで確保できたと言うことはできない。
したがって、霊的戦士たちが行くべき道は、「怨讐を愛しなさい」という教えの実践を極大化することである。これはすなわち、私たち自身を犠牲にし―たとえ彼らが拒否したり、あざ笑ったり、さらには迫害するとしても―怨讐の福利のために遂行しなければならないという意味である。怨讐に向かう愛は、ただ犠牲を通してのみ明白に現れる。ちょうどイエス様がそのようにしたのと同じように、怨讐の心を浄化させることができれば、死も問題にしてはならない(第13 章 5.「怨讐を愛しなさい」参考)。ある面で、霊的戦争は物理的戦争と同じくらい危険なため、霊的闘争を遂行するためには、格別な勇気と、強い意志が要求される。文鮮明先生の戦闘意識とは、大部分霊的戦士としての霊的闘争の道を意味する。

 

①正義の勇士

― 宗教経典 ―

 

彼はよりどころのない人たちを守護し闘う真の英雄である。
アーディ・グラント、スローク、カビール、p.1412
(シク教)36

 

更にまた、あなたは自己の義務を考慮しても、戦慄くべきではない。というのは、クシャトリヤ(王族、士族)にとって、義務に基づく戦いに勝るものは他にないから。
たまたま訪れた、開かれた天界の門である戦い。アルジュナよ、幸福なクシャトリヤのみがそのような戦いを得る。
もしあなたが、この義務に基づく戦いを行わなければ、自己の義務と名誉とを捨て、罪悪を得るであろう。……
あなたは殺されれば天界を得、勝利すれば地上を享受するであろう。それ故、アルジュナよ、立ち上れ。戦う決意をして。
苦楽、得失、勝敗を平等(同一)のものと見て、戦いの準備をせよ。そうすれば罪悪を得ることはない。
バガヴァッド・ギーター 2.31~38
(ヒンドゥー教)37

 

み使いよ、戦いにさいしては信者を激励せよ。なんじらのうち二十の堅忍者がおれば、よく二百を征服するであろう。なんじらのうちもし一百いれば、よく一千の不信者を征服するであろう、これはかれらが、事理を解しないやからであるゆえに。
クルアーン 8.65(イスラーム)38

 

これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。
テモテの手紙一 2.3 ~ 4(キリスト教)39

 

そういえば、人々にして、天則とともなる行動をもって、マズダーよ、御身の宣告を充ち足らわせることに、善思でもってこれ従うなら、彼らは諸邦のサオシュヤントらとなるでしょう。彼らはアエーシュマの打倒者として使命づけられているからです。
アヴェスター・ヤスナ 48.12(ゾロアスター教)40

 

ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。
ヨシュア記1.7 ~ 9(キリスト教)41

 

勝利を望む者は、腕力や能力によって勝つのではなく、むしろ真理、哀れみ、正義、そして霊的修養によって勝つのである。そして義と不義とを識別し、貪欲とは何かを悟り、努力を頼みとするときには、おごることなく戦え、なぜなら正義のあるところに勝利があるからである。これらの条件を知り、ああ王よ、この戦いにおける勝利は我々にあることを知りなさい。実に、クリシュナのあるところに勝利があるのである。
マハーバーラタ、ビーシュマ・パルヴァン 21
(ヒンドゥー教)42

 

おお、私の父、偉大な先祖よ!
私はあなたに感謝する道がありません。
しかし、深い知恵によって
私が栄光のあなたの贈り物を
どれほど尊く思うかを
あなたはお分かりになると確信します。
おお、私の父!
私があなたの偉大さを思うときに、
私は畏敬感で身の置き所が分かりません。
おお、偉大な先祖よ!
地と天、すべてのものの支配者よ!
私はあなたの戦士です。
あなたの御意志どおりに行う準備ができています。
キクユ族の祈り(アフリカ伝統宗教)43

 

ペリシテの陣地から一人の戦士が進み出た。その名をゴリアトといい、ガト出身で、背丈は六アンマ半、頭に青銅の兜をかぶり、身には青銅五千シェケルの重さのあるうろことじの 鎧を着、足には青銅のすね当てを着け、肩に青銅の投げ槍を背負っていた。槍の柄は機織りの巻き棒のように太く、穂先は鉄六百シェケルもあり、彼の前には、盾持ちがいた。ゴリアトは立ちはだかり、イスラエルの戦列に向かって呼ばわった。「どうしてお前たちは、戦列を整えて出て来るのか。わたしはペリシテ人、お前たちはサウルの家臣。一人を選んで、わたしの方へ下りて来させよ。その者にわたしと戦う力があって、もしわたしを討ち取るようなことがあれば、我々はお前たちの奴隷となろう。だが、わたしが勝ってその者を討ち取ったら、お前たちが奴隷となって我々に仕えるのだ。」このペリシテ人は続けて言った。「今日、わたしはイスラエルの戦列に挑戦する。相手を一人出せ。一騎打ちだ。」サウルとイスラエ
ルの全軍は、このペリシテ人の言葉を聞いて恐れおののいた。
ダビデは、ユダのベツレヘム出身のエフラタ人で、名をエッサイという人の息子であった。エッサイには八人の息子があった。サウルの治世に、彼は人々の間の長老であった。エッサイの年長の息子三人は、サウルに従って戦いに出ていた。戦いに出た三人の息子の名は、長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャンマであり、ダビデは末の子であった。年長の三人はサウルに従って出ていたが、このダビデは行ったり来たりして、サウルに仕えたり、ベツレヘムの父の羊を世話したりしていた。かのペリシテ人は、四十日の間、朝な夕なやって来て、同じ所に立った。
さて、エッサイは息子ダビデに言った。 「兄さんたちに、この炒り麦一エファと、このパン十個を届けなさい。陣営に急いで行って兄さんたちに渡しなさい。このチーズ十個は千人隊の長に渡しなさい。兄さんたちの安否を確かめ、そのしるしをもらって来なさい。」
サウルも彼らも、イスラエルの兵は皆、ペリシテ軍とエラの谷で戦っていた。ダビデは翌朝早く起き、羊の群れを番人に任せ、エッサイが命じたものを担いで出かけた。彼が幕営に着くと、兵は鬨の声をあげて、戦線に出るところだった。イスラエル軍とペリシテ軍は、向かい合って戦列を敷いていた。ダビデは持参したものを武具の番人に託すと、戦列の方へ走って行き、兄たちの安否を尋ねた。彼が兄たちと話しているとき、ガトのペリシテ人で名をゴリアトという戦士が、ペリシテ軍の戦列から現れて、いつもの言葉を叫んだのでダビデはこれを聞いた。イスラエルの兵は皆、この男を見て後退し、甚だしく恐れた。イスラエル兵は言った。「あの出て来た男を見たか。彼が出て来るのはイスラエルに挑戦するためだ。彼を討ち取る者があれば、王様は大金を賜るそうだ。しかも、王女をくださり、更にその父の家にはイスラエルにおいて特典を与えてくださるということだ。」
ダビデは周りに立っている兵に言った。「あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルからこの屈辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか。」兵士たちはダビデに先の言葉を繰り返し、「あの男を討ち取る者はこのようにしてもらえる」と言った。長兄エリアブは、ダビデが兵と話しているのを聞き、ダビデに腹を立てて言った。「何をしにここへ来たのか。荒れ野にいるあの少しばかりの羊を、誰に任せてきたのか。お前の思い上がりと野心はわたしが知っている。お前がやって来たのは、戦いを見るためだろう 。」ダビデは言った。「わたしが、今、何をしたというのですか。話をしているだけではありませんか。」ダビデは兄から他の人の方に向き直って、前と同じことを聞いた。兵士の答えは、最初と同じであった。
ダビデの言ったことを聞いて、サウルに告げる者があったので、サウルはダビデを召し寄せた。ダビデはサウルに言った。「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」サウルはダビデに答えた。「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ。」しかし、ダビデは言った。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」ダビデは更に言った。「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」サウルはダビデに言った。「行くがよい。主がお前と共におられるように。」サウルは、ダビデに自分の装束を着せた。彼の頭に青銅の兜をのせ、身には鎧を着けさせた。ダビデは、その装束の上にサウルの剣を帯びて歩いてみた。だが、彼はこれらのものに慣れていなかった。ダビデはサウルに言った。「こんなものを着たのでは、歩くこともできません。慣れていませんから。」ダビデはそれらを脱ぎ去り、自分の杖を手に取ると、川岸から滑らかな石を五つ選び、身に着けていた羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手にして、あのペリシテ人に向かって行った。
ペリシテ人は、盾持ちを先に立て、ダビデに近づいて来た。彼は見渡し、ダビデを認め、ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったので、侮った。このペリシテ人はダビデに言った。「わたしは犬か。杖を持って向かって来るのか。」そして、自分の神々によってダビデを呪い、更にダビデにこう言った。「さあ、来い。お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」だが、ダビデもこのペリシテ人に言った。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。わたしは、お前を討ち、お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」
ペリシテ人は身構え、ダビデに近づいて来た。ダビデも急ぎ、ペリシテ人に立ち向かうため戦いの場に走った。ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。ダビデは石投げ紐と石一つでこのペリシテ人に勝ち、彼を撃ち殺した。ダビデの手には剣もなかった。ダビデは走り寄って、そのペリシテ人の上にまたがると、ペリシテ人の剣を取り、さやから引き抜いてとどめを刺し、首を切り落とした。ペリシテ軍は、自分たちの勇士が殺されたのを見て、逃げ出した。
サムエル記上17.4 ~ 51(キリスト教)44

 

― み言選集 ―

 

朝も夜も強くなければなりません。これから近づいてくるどのような障壁も、打てばそれが崩れ、それが崩れなければ拳が裂け、私の体が裂けるという信念をもちなさいというのです。そうして、天が私を通して未来の使命を完結しなければならない私の現在の立場であることを忘却してはいけません。皆さんは、過去を復活させ、現在を復活させ、未来を復活させる、そのような王者であることを知らなければなりません。
(73-106 ~107、1974.8.4)

 

「私は神様の真の勇士になる。その神様のための戦場がどれほど悲惨でも、私はその戦線に参与する」というのが先生の精神です。いくら世界の迫害が押し寄せてきても、孤独単身の迫害の立場です。苦痛の立場です。私は神様に一度も不平を言いませんでした。これがレバレンド・ムーンの誇りです。
(193-74、1989.8.20)

 

拷問で倒れていく場でも、「私を助けてください」と神様に祈祷しませんでした。私は追い回されてきましたが、神様のところに行って、「私の行く道を守ってください、私を助けてください」とは祈祷しない人です。私は男として、自分の余力をもち、自分の気迫をもち、闘うことのできる自力をもっている人です。私の力が不足で意識を失って倒れれば私を助けてくれるかもしれませんが、その前に私の力で……。私が行く前に神様はあらかじめ準備しておいて待っていることを知っているのです。
(138-360、1986.1.24)

 

神様の勝利を私がもたらしてさしあげなければなりません。だとすれば、「戦争で私が先に行こう。私が先に行く、ゴリアテの前のダビデのように」と、そのようにしますか。
(118-129、1982.5.9)

 

12 支派を代表する 12 人を立て、カナンの地を偵察させたとき、彼らは、自分の力ではカナン七族にかなわないと報告しました。しかし、12 人のうち、ヨシュアとカレブは違いました。イスラエル民族が反旗を掲げているとき、堂々と現れ、「私たちを今まで導いてこられた神様は生きていらっしゃいます。イスラエル民族に立ちふさがっていた紅海を分けて平坦な道を造り、渡ることができるようにしてくださった神様は、生きていらっしゃいます。その神様を信じていく道こそが、私たちの行く道です」と叫んだヨシュアとカレブでした。神様は、ヨシュアとカレブを御覧になり、彼らに道を開いてくださったことを知らなければなりません。
(19-240、1968.1.15)

 

これは、ゴリアテとダビデの比喩になります。私たちは武器もなく、訓練もされていません。継ぎはぎの 1 枚の服を着たみすぼらしい牧童ダビデと同じです。しかし、神様の名によって握られた短い棒切れがあるのです。
それがアメリカの地でできなければ、韓国の地でできるのであり、韓国の地でできなければ、中東でできるのであり、そうでなければモスクワ大会のような所でできるのです。いつかそのような対決の一日があるでしょう。その日のために、私たちは団結し、訓練し、集結しなければなりません。私の額が割れても、私の目が飛び出しても、私の命が血を流すことがあっても、このことのために行くのです。16 カ国のUN軍が韓国の至る所で血を流したのですから、私たち統一教会の人たちは、至る所で共産主義と闘いながら、世界と神様のためにそれより多くの血を流すことがあっても、行かなければならないと考える人です。そのようなことを断行する国と国民がいなければ、神様の希望の基準がこの地球上から飛んでいってしまうことを知らなければなりません。そのような天地の共同運命を懸けて前進しなければなりません。
(88-323 ~ 324、1976.10.3)

 

「私の勇猛かつ、力あふれるこの誓いの声とともに、あるいは若い胸に躍る鼓動の音、喚声を上げ敵陣に向かって行軍する隊列と共に、この進軍にかかっているのだ!」と、このようになれば、その光景を見ていた霊界の数千億の霊人たちも拍手をしながら歓迎するのです。地獄に行っている霊人たちまでも、「どうか勝利してください。どうか勝利してください。私は顔を上げて行きますが、たとえはってでもやり抜くでしょう」と、このようなことも起こり得るのです。
このように天地が動員され得る息詰まる瞬間が、この一つの国を中心として何年かのうちに決定されますが、「よし、その決戦場に臨み血を吐いて倒れることがあったとしても男らしく、義をもって戦い、正義に基づく天の功臣として自らの命を捧げよう」とするなら、それですべてのことが解決されるのです。そこから新たな歴史が始まるのです。
私たちは、このような一つの時を標準として歩んできたために、この一つのことを誓うための一つの願いがあるがゆえに、今まで家庭から排斥され、国から排斥され、数多くの教団から排斥されてきたのではないですか。天が望み、歴史が望み、人類が望む最後の決定的なその一日のために、荘厳かつ素晴らしい勝利をせよと、多くの人々を恨み多き運命の道に犠牲を強いながら歩ませたのではなかったでしょうか。それが私たちの振るう一太刀によって、私の流す汗と私の行動によって連結できるとは、これこそ前代未聞のことではないでしょうか。それを自分の目で見ることができ、自分の感触で感じることができ、それを活動の舞台として戦うことができるならば、これ以上生きがいのある人生がどこにあるというのでしょうか。そのことを感じなければなりません。
(57-352 ~ 353、1972.6.5)

 

②霊的闘争

― 宗教経典 ―

 

わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。
コリントの信徒への手紙二10.3 ~ 6
(キリスト教)45

 

謙遜は私の盾である。自らすべての人の足元のほこりになることが私の剣なのだから、あえてどの悪なる者が立ち向かうことができようか。
アーディ・グラント、ソーラト
M.5、p.628(シク教)46

 

最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
エフェソの信徒への手紙 6.10 ~17(キリスト教)47

 

聖者たちの軍隊は無敵である。彼らは偉大な戦士であり、謙遜は彼らの鎧だ。主を賛美することが彼らの剣であり、グルの言葉は彼らの盾だ。彼らが聖なる道をはっきりと知る馬と戦車と象に乗り、恐れることなく敵陣を打ちつけていく。主を賛美し、戦場に突進する。あの五つの頭の盗賊たち、あの邪悪な群れたちを征服するため、すべての世が彼らの足元にひれ伏した。
アーディ・グラント、スローク・サハスクリティー
M.5、p.1356(シク教)48

 

― み言選集 ―

 

私たちが怨讐を愛する心をもてば、神様の側に立てます。
(52-87、1971.12.22)

 

イエス様は、個人的な怨讐がすべてではないということを知ったのです。家庭的な怨讐があり、氏族的な怨讐があり、民族的な怨讐があり、国家的な怨讐があり、世界的な怨讐が四方からがんじがらめにしているということを知りました。この言葉は、私の道に従って行こうとする人には、数多くの怨讐が待っているという意味です。そして、家庭的に行けば家庭的な怨讐が待っていて、氏族的に行けば氏族的な怨讐が待っていて、熾烈な戦いが予想されますが、そのたびに怨讐を愛するというのがみ言です。このような精神をもっていれば、いつかは勝利することができるのです。
(107-19、1980.2.21)

 

私たちが闘うべき怨讐は、
地上のある一人ではなく、
6000 年という
長い長い歴史過程を経ながら
神様に対して反旗を翻し、
神様を讒訴した、
公衆の権勢をつかんだ
サタンだということを
私たちは知っています。
(3-180、1957.10.27)

 

私たちは戦争をしているのです。私たちは愛の弾丸を撃つのですが、あの悪魔の圏内では、愛と反対のねたみと嫉妬の矢を放ちます。私たちは愛の銃弾を撃つのです。愛の銃弾を悪の人が反対した以上に撃たなければなりません。それがレバレンド・ムーンの主張です。彼らのねたみと嫉妬の銃弾、謀略の銃弾は、私たちのところに来ても、貫くことができずに、それていきます。しかし、私たちの銃弾に彼らが撃たれれば、溶けていって、元の人はいなくなり、別の人に生まれ変わるようになります。
レバレンド・ムーンは闘いながら発展し、批判されながら発展し、追われながら発展してきました。今回の法廷闘争も、アメリカ政府対レバレンド・ムーンの闘争です。アメリカ政府は、ねたみと驕慢と謀略を中心としてきましたが、私は愛で応酬するというのです。ダビデとゴリアテのようにです。
(119-111~112、1982.7.4)

 

神様は、一人の善人を立てて、10 人の悪人を屈服させるということをされる方です。私たちをして、悪までも悲しく思わざるを得ない内容を抱えていくようにすることによって、悪が自ら屈服して絶対服従できるようにし、本当の勝利者にすることが神様のみ旨であることを知らなければなりません。ですから、神様は今も地で勝敗を決定し、悪の国を善の国に屈服させ得る権限をもった、そのような神様の息子、娘を求めていらっしゃるのです。
(41-115、1971.2.14)

 

理想世界を成し遂げるためには、神様の側の人が個人から家庭、氏族、民族、国家、世界より強くなければなりません。神様とサタンは、人を真ん中において奪い合いをするのです。いくら神様の側の人でも、サタン側の人が打ち砕くことのできる人は、神様の側の人になれません。いくら苦しめても、いくら迫害しても、いくら死の道に追い立てても、それを克服して越えていくことのできる人であってこそ、サタンも、「あなたは神様の側の人」と確認することができ、神様も、そうであってこそ認めることができるのです。このように闘って、サタンに勝つだけでなく、天使にまで勝たなければならず、どの人間にも勝つことができる一人の勝利的な息子、娘、男性や女性が出てこなければならないのです。
(54-36 ~ 37、1972.3.10)

 

天が怨讐たちを
そのような立場においておかれるのは、
ひと時に全体を救うため、
摂理の版図を広げるためであり、
清算することのできる
一時代の分別基準を
立てるためであることを思うとき、
私たちは彼らのために、
彼らにまでも生きる道を
開いてあげなければなりません。

イエス様が十字架で亡くなられるとき、
十字架にくぎを打つローマ兵のために
福を祈ってあげたのと同様に、
私たちは、
実体的な現場で
実体的に彼らを救ってあげる
救世主の使命を代役することのできる
私たちとなることを、
新たにお誓い申し上げます。
(75-244、1975.1.5)

 

③戦争が正当化される場合(注3)

― 宗教経典 ―

 

神が人間を、互いに抑制し合うようし向けられなかったならば、大地はきっと腐敗したことであろう。
クルアーン 2.251(イスラーム)49

 

それで来世のために、現世の生活を捨てる者に、神の道のため戦わしめよ。神の道のために戦った者には、殺害された者でもまた勝利を得た者でも、われは必ず偉大な報奨を与えるであろう。
なんじらはどうして、神の道のため、また弱い男や女や子供たちのために戦わないのか。かれらは「主よ、この残酷な住民の町から、わたしたちを救い出してください。そしてわたしたちに、あなたのみもとからひとりの保護者を立ててください。またわたしたちに、あなたのみもとからひとりの援助者を立ててください」と言っている。
信仰する者は神の道のために戦う。信仰せぬ者は、邪神の道のために戦う。それゆえ悪魔の友に対して戦え。まことに悪魔の策謀は弱いのである。
クルアーン 4.74 ~ 76(イスラーム)50

 

聞け、イスラエルよ。あなたは今日、ヨルダン川を渡り、行ってあなたよりも大きく強い国々を追い払おうとしている。町々は大きく、城壁は天に達し、民は、あなたの知っているアナクの子孫で、大きくて背が高い。あなたは、 「誰がアナクの子孫に立ち向かいえようか」というのを聞いたことがあろう。しかし、今日、あなたの神、主は焼き尽くす火となり、あなたに先立って渡り、彼らを滅ぼしてあなたの前に屈服させられることを知り、主が言われたとおり、彼らを追い払い、速やかに滅ぼしなさい。あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、あなたは、「わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった」と思ってはならない。この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである。
申命記 9.1~ 4(キリスト教)51

 

使徒がある指導者を遠征隊の隊長に任命したとき、彼が命じた。「神の名により、神のやり方で闘え。神を信じない者たちと闘え。背反する方法を使わず、略奪したり障害者にしてはならない。子供や隠
遁者を殺害せず、ナツメヤシの木に火をつけたり、それらを水に落としたりしてはならない。実る木
を切らず、穀物を燃やしてはならない。いつそれらを必要とするか分からないのだから、食べなければならない動物を除いて、肉を食用できる動物を殺してはならない。ムスリムの敵に出会ったら、三つのうち一つを求めよ。もし彼らがあなたの要求に従えば彼らを受け入れ、いかなる行動も慎め。彼らを
イスラームと呼べ。……イスラームの地に移住することを求めよ。……あるいは彼らの財産からジズヤ(人頭税)を支払い服従するよう求めよ」。
ハディース(イスラーム)52

 

革とは水と火がたがいに消しあい、二女が同じ家に居ってたがいに気持ちの合わぬ状態、これを革というのである。已に革むべき時に至ってこれを革むれば 孚まこととされるというのは、革めてしかも人々がこれを信ずることである。革める人に文明の徳があり人々がこれを説ぶのであるから、大いに亨
りしかも正しきを得るのであり、革めて道理に当たっていれば、その侮りも消え失せる。およそ天地陰陽の気は相い革まることによって四時を成立させ、殷の湯王・周の武王は革命すなわち天の命を革ためることによって、天道に従い人心に応ずることができたのである。かく考えれば革の時は偉大なことではある。
易経 49、周易下経、革(儒教)53

 

商の湯王が告げた、「さても、汝たちもろ人よ。みなみな予がいうことを聴け。予小子がくわだてて反乱を起そうとしているのではない。夏の国に多くの罪があるので、天は、予に命じてこれを倒させなさるのだ。ところが、汝たちもろもろよ。汝たちは、 『わが君は、われわれの人民のことを考えずに、われわれの農務をさしおかせて、なんだって夏を征伐するのか』といっている。だが、予が汝たちの人民のいっていることを聞けば、夏の君に罪があることは明白だ。予は人民を愛する上帝の意志をうやまえばこそ、征伐せずにはいられないのだ。ところがまた、汝たちは、『夏の罪はいったいどんなふうなのか』といっている。夏の王は、人民の力を疲れはてさせて、夏の国を害ってしまったのだ。だから人民たちは働く気力を失って協同しようとはせず、『この太陽さえも何時か亡びるのであろうか。わしもおまえもみんな亡びてしまうのだ』といってなげいている。夏の悪行はこの通りだ。されば予は必ず往って征伐するのだ。汝たちは、どうか予一人を助けて天の罰を果たさせよ。」
書経 4.1(儒教)54

 

戦争は悪いことである。しかし、異なる国の支配に服従することはもっと悪い。自由、もし私たちが堅固に支え続けることができれば、究極的には私たちが失っていたものを取り戻してくれるだろう。しかし、服従は私たちが大切にしているすべてのものを永遠に失うことを意味するのである。
……自らを平和な人だと呼ぶあなたに私は一言言う。「あなたの側で行動する人がいなければ、あなたは安全ではない」。
トゥキュディデス 戦史(ヘレニズム)55

 

― み言選集 ―

 

並外れた善の人格を追求する個人を歓迎する人は、この地に多くないという事実を、私たちは知るようになります。善の個人が善の家庭を慕っていくにおいても、環境が歓迎してくれないことを私たちが知るようになるとき、善の家庭が善の氏族を慕いながら歩んでいく道の前においては、より一層困難な悪の与件がその環境に取り巻いていることを感じるようになるのです。
さらには、善の氏族が善の国家を成していくときは、より途方もない悪の勢力が反旗を翻し、その氏族が行く道を妨げようとするのは間違いありません。また、善の国があり、善の世界を追求していくときは、この世界が善の世界になることができないので、悪の国々が、その善の国が行く道を協助するのではなく、あらゆる方向から反対してくることは間違いないのです。
ある善の氏族が行こうとする道には、数多くの悪の氏族が反旗を翻して闘ったのであり、必然的に善の国家を要求する人類の前に善の国があるというときは、その国は、すべての国から歓迎されるのではなく、全的に反対を受けたのです。善の国と悪の国が対決し、善が残るのか、悪が残るのかという勝敗を決する戦いを経なければ、善の国として残ることはできないので、このような闘いの歴史過程を経てきたという事実を私たちはよく知っています。
(36-52 ~ 53、1970.11.15)

 

闘争や戦争を、単純にある利害関係や理念の衝突から起こる結果であると見るのは、神の根本摂理を知らないところからくる軽薄な考え方である。人類歴史は人間始祖の堕落により、サタンを中心とする悪主権をもって出発し、罪悪の世界を形成してきたのである。しかし、神の創造目的が残っている限り、その歴史の目的も、あくまでサタンを分立して神の善主権を復帰するところになければならない。もし、悪主権の世界に戦争や分裂がないとすれば、その世界はそのまま永続するはずであり、したがって、善主権は永遠に復帰できないのである。それゆえに、神は堕落人間に聖賢たちを遣わされ、善を立て、宗教を起こすことによって、より善なる主権をして、より悪なる主権を滅ぼさせながら、漸次、天の側の主権を復帰なさる摂理をしてこられたのである。したがって、復帰摂理の目的を成就するためには、闘争と戦争という過程を経なければならない。
この問題に関しては、後編においてより詳しく論ずる予定であるが、人類歴史は蕩減復帰の摂理路程を歩いていくので、ある局限された時間圏内においてだけこれを見れば、悪が勝利を勝ち得たときもないことはなかった。しかしそれは結局、敗北し、より善なる版図内に吸収されていったのである。それゆえに、戦争による国家の興亡盛衰は、善主権を復帰するための摂理路程から起こる、不可避的な結果であったといわなければならない。
ゆえに神は、イスラエル民族を立てカナンの七族を滅ぼされたのであり、また、サウルは神の命令に従わず、アマレク族とそれに属する家畜を全滅させなかったために、厳罰を受けたのである(サムエル上15・18~23)。神はこのように、直接異民族を滅ぼすようイスラエルに命令されたのみならず、その選民であった北朝イスラエルが、悪の方向に傾いてしまったときには、惜しみなく彼らをアッシリヤに手渡し、滅亡させてしまわれたのである(列王下17・23)。神がこのようにされたのは、ひたすら悪主権を滅ぼして、善主権を復帰なさろうとしたからであったということを、我々は知らなければならない。
ゆえに、同じ天の側における個人的な闘争は、善主権自体を破壊する結果となるがゆえに悪となるのであるが、善主権が悪主権を滅ぼすことは、神の復帰歴史の目的を達成するためであるという理由から、これは善となるのである。
原理講論、人類歴史の終末論 4.2

 

皆さん! ダビデ王を尊敬しますか、しませんか。ペリシテびとのゴリアテを葬り去ったことが良いのですか。3000 年の歴史を経たイスラエルの国の基盤がすべて崩れてなくなるところを、このダビデが行って残るようにしたので、神様の側から見るとき、「いやあ、よくやった!」と思うがゆえに良いの
です。
(103-181~182、1979.2.25)

 

5. 迫害

迫害の形態として人間の信念を試みるとき、少なからず犠牲が伴う。虐待、誤解、非難、嘲笑、追放、侮辱などを願う人は誰もいない。しかし、迫害は義人に影のようにつきまとう。私たちが迫害によって滅びれば、迫害は何の価値もない。しかし、不平や恨みなく迫害を信念で打ち勝ち、消化した人たちは、天の高い御座に位置することができる。
切迫した迫害は、全的に自己犠牲と自己否定の境地に導くため、かえって祝福となり得る。切迫した状況は、誰も凌駕できない自己否定の境地で、自分の努力で到達できない限界を飛び越えるようになる。犠牲のあとに祝福が訪れてくるという脈絡から見れば、迫害の恵みを受ける人たちが、あとで迫害の加害者たちに対する否定的憎悪心や復讐心を捨て、かえって彼らに同情心を施せるという事実は、それほど驚くことではない。利他心は聖性を宿し、神性へと向かう。それで、迫害の時代に宗教はより一層栄えるという逆説は、歴史的事実として立証される。
文鮮明先生は、神様とサタンの間に一種の契約が存在すると言われる。サタンが無辜の義人を迫害するとき、神様は、その保障を要求する権利を確保するようになる。このような方法によって、歴史の中で善は常に先に打たれたが、結局は取り戻してくるという摂理が経綸されてきたのである。神様はこの原則を、歴史に論理的形式で適用される。神様の創造目的を具現する方法として信仰者は、迫害までも歓迎することができ、時には苦難の道を自ら主導することができなければならない。

 

― 宗教経典 ―

 

わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
マタイによる福音書 5.11~12
(キリスト教)56

 

戦場の象が、射られた矢にあたっても堪え忍ぶように、われはひとのそしりを忍ぼう。多くの人は実に性質が悪いからである。
法句経 320(仏教)57

 

なんじらは、財産や生活について必ず試みにあい、なんじら以前に経典を下された者からも、多神教徒からも、多くの悪口を聞くであろう。だがなんじらが耐え忍んで、主を畏れるならば、まことにそれはよろずの事を決定する要因であろう。
クルアーン 3.186(イスラーム)58

 

陳の国で食糧がなくなり、お供の人々は疲れはてて立ち上がることもできなかった。子路が腹をたててお目みえすると、「〔修養をつんだ〕君子でも困窮することがあるのですか。」といった。先生はいわれた、「君子ももちろん困窮する、だが小人は困窮するとでたらめになるよ。」
論語 15.2(儒教)59

 

そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
ローマの信徒への手紙 5.3 ~ 5(キリスト教)60

 

人びとは、「わたしたちは信仰する」と言えば、試みられることはなく、放っておかれると考えるか。まことにわれは、かれら以前の者も試みたのである、神は、誠実な者を必ず知りたまい、また虚言者をも必ず知りたもう。
クルアーン 29.2 ~ 3
(イスラーム)61

 

「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕
は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。
ヨハネによる福音書15.18 ~ 20
(キリスト教)62

 

イスラエルの民も苦痛を通してこそ、義人の姿に戻っていく。
タルムード、ムナホート53b
(ユダヤ教)63

 

この高貴な道において真理を探求する者の正しい態度とは、次のようなものである。「私の民が疑いの目をもって見んことを。私の妻と子が私を見捨てんことを。人々があざけらんことを。王達が罰を与えんことを。しかし私は堅く立つ。ああ、至高の神よ、私は意と言と身体と行動をもってあなたに仕え、永久に仕えます。私はあなたの法を離れません。」
クラールナヴァ・タントラ 2
(ヒンドゥー教)64

 

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために / 一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたち
は、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
ローマの信徒への手紙 8.35 ~ 37
(キリスト教)65

 

それともなんじらは、先に過ぎ去った者たちが出会ったような、試みがまだなんじらに来ないのに、至上の幸福の園にはいろうと思っているのか。かれらは災難や困窮に見舞われ、不安の中に動揺させられて、使者も、一緒にいた信者たちも「神のお助けはいつ来るだろう」と叫んだほどであった。ああ、まことに神の助けは近づいている。
クルアーン 2.214(イスラーム)66

 

しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。
ルカによる福音書 21.12 ~17
(キリスト教)67

 

比丘たち、これ、すなわち托鉢は、最低の生活である。比丘たち、これは世間では、「お前は乞食で、手に鉢を持って歩きまわっている。しかも、比丘たち、よき家の子たちは、正しい目的をもって、正しい目的によって、あえてそれに行くのである。畏れがあるからではない。
如是語経 91(仏教)68

 

仏がこの世を去られたのちに、恐ろしい悪世のさなかで、われらは広く説くでありましょう。もろもろの無智の人が悪口し、罵り、刀杖を揮ったりすることがあっても、
われらは皆、忍ぶでありましょう。
悪世の中の比丘は、邪智であり、心に諂曲があり、
未だ会得してもいないものを得たと思いこみ、我執の心で充満しているであろう。……
悪鬼にとり憑かれたような人が、われを罵り、そしっても、われらは仏を敬い信じている故に、
忍耐の鎧を身に着けて、この経を説くために、このもろもろの難事を忍ぼう。
われらは身命を愛することなく、ただ無上道のみを惜しむ。(注 4)
法華経 13(仏教)69

 

主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え / 疲れた人を励ますように /言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし / 弟子として聞き従うようにしてくださる。主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ / ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから / わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている / わたしが辱められることはない、と。わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか / われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか / わたしに向かって来るがよい。
見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。見よ、彼らはすべて衣のように朽ち / しみに食い尽くされるであろう。
イザヤ書 50.4 ~ 9(キリスト教)70

 

ネブカドネツァル王は一つの金の像を造った。高さは六十アンマ、幅は六アンマで、これをバビロン州のドラという平野に建てた。ネブカドネツァル王は人を遣わして、総督、執政官、地方長官、参議官、財務官、司法官、保安官、その他諸州の高官たちを集め、自分の建てた像の除幕式に参列させることにした。総督、執政官、地方長官、参議官、財務官、司法官、保安官、その他諸州の高官たちはその王の建てた像の除幕式に集まり、像の前に立ち並んだ。伝令は力を込めて叫んだ。「諸国、諸族、諸言語の人々よ、あなたたちに告げる。角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器による音楽が聞こえたなら、ネブカドネツァル王の建てられた金の像の前にひれ伏して拝め。ひれ伏して拝まない者は、直ちに燃え盛る炉に投げ込まれる。」それで、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴の音楽が聞えてくると、諸国、諸族、諸言語の人々は皆ひれ伏し、ネブカドネツァル王の建てた金の像を拝んだ。
さてこのとき、何人かのカルデア人がユダヤ人を中傷しようと進み出て、ネブカドネツァル王にこう言った。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。御命令によりますと、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえたなら、だれでも金の像にひれ伏して拝め、ということでした。そうしなければ、燃え盛る炉に投げ込まれるはずです。バビロン州には、その行政をお任せになっているユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人がおりますが、この人々は御命令を無視して、王様の神に仕えず、お建てになった金の像を拝もうとしません。」これを聞いたネブカドネツァル王は怒りに燃え、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを連れて来るよう命じ、この三人は王の前に引き出された。王は彼らに言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、お前たちがわたしの神に仕えず、わたしの建てた金の像を拝まないというのは本当か。今、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえると同時にひれ伏し、わたしの建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか。」
シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。 「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。わたし
たちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」ネブカドネツァル王はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴに対して血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じた。そして兵士の中でも特に強い者に命じて、シャドラク、メシャク、アベ
ド・ネゴを縛り上げ、燃え盛る炉に投げ込ませた。彼らは上着、下着、帽子、その他の衣服を着けたまま縛られ、燃え盛る炉に投げ込まれた。王の命令は厳しく、炉は激しく燃え上がっていたので、噴き出る炎はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴを引いて行った男たちをさえ焼き殺した。シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込んで行った。
間もなく王は驚きの色を見せ、急に立ち上がり、側近たちに尋ねた。「あの三人の男は、縛ったまま炉に投げ込んだはずではなかったか 。」 彼らは答えた。「王様、そのとおりでございます。」王は言った。「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」ネブカドネツァル王は燃え盛る炉の口に近づいて呼びかけた。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出て来なさい。」すると、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは炉の中から出て来た。総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火のにおいすらなかった。ネブカドネツァル王は言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。
ダニエル書 3.1~ 28
(キリスト教)71

 

― み言選集 ―

 

天国は、地獄を通過していく道にある。
御旨の道、天国

 

迫害というものは、サタン世界の所有権を譲渡される一つの作戦的な方便です。真の宗教は、迫害を受けるときになぜ発展するのかという原則を歴史時代には分かりませんでしたが、このような原理を通して自明になるのです。
歴史時代の聖人たちの中で、イエスも迫害を受け、孔子も喪家の犬と言われながら迫害され、仏教の釈迦牟尼も迫害され、ムハンマドも迫害を受けたのです。そのような迫害されたすべての人たちが聖人になったのは、この原則において……。歴史が、時間と時が過ぎていくに従って、自然に自分の時として来ることによって勝利するようになるのです。この原則から歴史が動いていくということを知らなければなりません。
それでは、世界的な宗教指導者として全世界がすべて、共産主義、民主主義を問わずすべてが反対したという事実は、全世界のものを神様が相続させるための作戦だという結論も妥当な理論なのです。
(189-205 ~ 206、1989.4.6)

 

人類歴史は、今まで闘争の歴史でしたが、その内容は、神様とサタン、善と悪がその真ん中にいる人を奪う争いでした。堕落によって悪の歴史が先に出発したために、闘いは常に悪の側が先に攻撃して善を打ったのであり、善は打たれながら守勢に追い込まれましたが、神様が善の側でいらっしゃるので、いつも勝利を収めるようになり、結局は打たれて奪ってくるようになるのです。
(88-209、1976.9.18)

 

神様の戦略戦術は、打たれて損害賠償を追加して取り返すことであり、サタンは打って返すのです。したがって、サタンは打って滅び、神様は打たれて繁栄していきます。その方法によって文先生は、打たれながらもサタン世界から利子まで加えて弁償されて勝利の基盤をもつようになったので、自動的に迫害の過程を通過しながら発展してきました。
(249-105、1993.10.8)

 

宗教が殉教の闘争の中で発展してきたごとく、迫害を受けるときは腐敗しない。
御旨の道、試験・試練

 

神様の作戦とサタンの作戦は、反対です。神様は打たれて奪ってくるのであり、サタンは打って奪われるのです。神様は打たれながら繁栄し、サタンは打って滅びるというのです。
(234-69、1992.8.4)

 

統一運動の本当の会員は、迫害と試練を受けるとき、迫害した人たちを恨むよりは、かえって彼らを霊的成長の滋養分として受け入れます。
(129-303、1983.11.25)

 

すべての十字架は私が責任をもち、村で石を投げられても、私が先に打たれようとし、批判されても、私が先に受けようとし、たたかれるのも、私が先にたたかれようとしなければなりません。
(96-123、1978.1.2)

 

人の骨でたたくからといって、真の愛が断ち切れますか。それでは、どちらが壊れますか。真の愛が壊れますか、骨が壊れますか。骨が壊れます。どんどん打ちなさい、どんどん打てばお前は消えていくということです。それでも、サタンはしきりに打ちます。真の愛は打てば打つほど、打つほうが消えていくのです。それでは、なぜ神様は迫害するのを処置せずにそのままにしておかれるのですか。打てば打つほど、打つほうが消えていくことを御存じなのでそのままにしておかれるのです。なぜですか。完全に根絶するためです。そして、これが肥料になるのです。腐ってそれがすべて肥料になります。
(230-131、1992.5.1)

 

皆さんは、涙を流さなければなりません。革命の歴史を見れば、その背後に必ず血の涙がこもっています。追われ、迫害され、批判され、たたかれました。ここで話をしている先生も、そのような闘争の道を歩んできました。私の悲しみより、神様の悲しみが数千万倍もっと大きいことを知らなければなりません。人間の平面的な悲しみは、神様の立体的な悲しみと比較することはできません。
(11-227、1961.9.20)

 

天に感謝しながら走ってきてみますと
70 歳近い老身の時代が
私の目前に近づきました。
そのように血気旺盛な青春の時節に、
すべての情熱を燃やし尽くし
天に侍り、
天のみ前に栄光を帰すべき
その時をすべて忘れ、
民族の背信者として、
人類の反逆者として
追われてきたその日から、
統一教会が
言葉なく打たれて奪ってくる
戦法を通して
今まで耐えてくるようにして
くださったことに感謝を申し上げます。
あなたは愛であられました。
あなたが鉄の窓に追い出すのは、
私のために歓喜に満ちた
環境の水準を準備し、
福を与えるための
相続的な場を下さるためである
ことを思うとき
過ぎてみれば
すべてのものが愛であり、
あなたの広い厚徳のみ手でありました。
それを思うとき、感謝申し上げます。
(162-334、1987.4.17)

 

6. 殉教

信仰者が自身の確信と価値に危険を感じた敵対的為政者たちに出会ったとき、彼らの中の何人かは、むごたらしい代価を支払わなければならないかもしれない。文鮮明先生は、霊的な現象から見れば、善が栄えるときには、いつもサタンがその代価を請求すると言われる。それで、多くの場合、最も善の人た
ちが先に犠牲になるのを見ることができる。
「殉教」という単語の意味は「 証」である。殉教者たちは、死に直面しながらも、揺るがない姿で自分の信念を証し、その信念を鼓舞させた神様を証する。自分よりも神様に先に仕える殉教者の人生は、強力で励みになる。したがって、殉教は、信仰共同体を強化させ、その根を強固にし、成長を図る。テルトゥリアヌスの有名な言葉がある。「殉教者の血は教会の種」。
今日、ある人々は、イスラームの自爆テロ犯のように無辜な人の命を無残に奪っていく無法者たちまでも殉教者として扱っている。それが殉教であれば、恐らく最も低級な水準の殉教であろう。最高の殉教とは、イエス様が自らを十字架に打ちつけたローマ兵たちまでも祝福してくださったように、至善と慈悲の基礎の上に顕示されるものである。

 

― 宗教経典 ―

 

そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。
マタイによる福音書 24.9(キリスト教)72

 

主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。
詩編116.15(キリスト教)73

 

実に天国の門は、剣の影の下にある。(注 5)
ムスリム・ハディース(イスラーム)74

 

神の道のために殺害された者を、死んだと考えてはならぬ。いや、かれらは主のみもとで扶養されて、生きている。かれらは神のお恵みにより、賜わったものに満悦し、かれらのあとに残された、一緒でなかった者たちのために、恐れもなく憂いもないと、考えてよろこんでいる。神のお恵みと恩典をよろ
こび、また神が信者への報奨を、決してむなしゅうしたまわぬことをよろこんでいる。
クルアーン 3.169 ~171(イスラーム)75

 

大義名分に身命を捧げる義なる者たちの死は聖なるものである。彼らこそ英雄と呼ぶことができる。神国の正門で真の栄光を得るため、彼らは栄光と共に旅立つ。すべての苦痛から抜け出す。もし彼らがあの唯一者、主に祈れば、このような褒美をもらい、すべての恐れを退ける。
自らの苦痛を叫ぶことなく、ただ心の中で静める彼ら、主は彼らのすべてのことを一つ一つくみ取り、ご存じである。大義名分を求め身命を捧げる義なる者たちの死は、実に聖なるものである。
アーディ・グラント、ヴァダハンス、
アルジャン・ダージ、M.1、p.579(シク教)76

 

ラビ・アキバが処刑され、息をひきとるときはシェマを暗唱する時間だった。人々は鉄のくしでアキバの体にくしを入れてあげ、アキバは(シェマを暗唱することによって)自ら天の国の王権を受け入れていた。弟子たちが彼に尋ねた。「師よ、この瞬間までも唱えなければなりませんか」。アキバが彼らに言った。「一日中私は『あなたは心を尽くし』(申命記 6.5)という言葉をもって苦心した。私はこの言葉を『たとえ神が私の霊を取るとしても』と解釈する。この言葉を私が成就するときはいつか。今この言葉を成就できる機会が私に訪れたのではないか」。アキバは息をひき取るまで(祈りの文の)最後の言葉を長く伸ばして祈った。(注 6)
タルムード、ブラホート61b
(ユダヤ教)77

 

求道者・すぐれた人々は、一切の思いをすてて、この上なく正しい目ざめに心をおこさなければならない。かたちにとらわれた心をおこしてはならない。声や、香りや、触れられるものや、心の対象にとらわれた心をおこしてはならない。
金剛般若経 14(仏教)78

 

ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。そこで、彼らは人々を唆して、 「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒瀆する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。
大祭司が、「訴えのとおりか」と尋ねた。そこで、ステファノは言った。「兄弟であり父である皆さん、聞いてください。……
人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それら、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
使徒言行録 6.8 ~ 7.2、7.54 ~ 60
(キリスト教)79

 

この書と『モルモン書』の証を確実なものとするために、わたしたちは、預言者ジョセフ・スミスと祝福師ハイラム・スミスの殉教を発表する。彼らは、1844年6月27日午後5時ごろ、カーセージの監獄において、150 名から 200 名の、顔を黒く塗り武装した暴徒により銃撃された。ハイラムが最初に撃たれ、「わたしは死ぬ」と叫んで静かに倒れた。ジョセフは窓から飛び降りたが、その途中で撃たれ、 「おお、わたしの神、主よ」と叫んで死んだ。彼ら二人は死んだ後も残酷に銃撃され、両者とも四個の弾丸を受けた。
教義と聖約135.1
(末日聖徒イエス・キリスト教会)80

 

肉身の生命の代価を払ってでも、私たちの白人の兄弟姉妹を永遠の霊の死から解放させることができるのならば、これほどの贖罪はないだろう。(注 7)
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
(キリスト教)81

 

― み言選集 ―

 

偉大な宗教は、迫害と殉教の土壌の上に立てられたのであり、創始者の貴い伝統基盤の上に立っているので、私たちは、みな犠牲を忌避するのではなく、宗教本来の名誉を探し立てなければなりません。
(271-72、1995.8.21)

 

歴史を通して宗教は、犠牲の価値を教訓として教えてきましたが、それは結局、神様の前に行くようにするためのものでした。神様の前に行く道には数千段階があるのですが、各段階で神様は勝利を収め、サタンは敗北するようになります。しかし、サタンは最高の犠牲の代価を要求するのです。サタンは敗北することを好みません。ですから、キリスト教史において、大勢の殉教者が出るようになったのです。
キリスト教がどの宗教より多くの殉教者を輩出したことは、キリスト教が摂理の中心宗教だからです。殉教は人間たちの目に挫折や失敗に見えますが、神様には勝利でした。これが正に、キリスト教が反対と迫害を受けながらも勝利し続けた理由です。サタンは敗北する代価として、常に大きな犠牲を要
求しているのです。
(130-283、1984.2.7)

 

今日のキリスト教では、殉教の歴史を誇っています。いつ、どの地域を問わず、キリスト教が入っていった所では、必ず殉教の血を流したのです。このように血を流し、宣教の基盤を築いてきたことを私たちは知っています。しかし、私たちは、個人、家庭、あるいは団体が無残に犠牲になったということばかり考えてはいけません。彼らの悲惨さよりも、彼らを導いてこられた神様が悲惨な道を歩んでこられた事実を知らなければなりません。
(13-220 ~ 221、1964.3.22)

 

皆さんは、「私はいつ負けるのか。私という人間はいつ敗れていくのか」と考えてみたことがありますか。そこで私の手の節々が切られても、切られて死んでも、銃で撃たれて一度に死んでも、そうすればそれが可能です。私の生涯はそれだった、私のすべてはそれだった、死ぬのもそれによって、生きるのもそれによって……。そのような人は、死と生を超越した人だというのです。死と生を超越した方が神様なので、その人は神様の友人になります。
(66-317、1973.5.17)

 

いかなる苦痛と悲しみ、そしていかなる困難が迫ってきても、大宇宙の理念圏内にいる自分の位置が、その程度の困難に揺さぶられてはいけないことを知っている人は、その苦痛の峠を越えていくでしょう。また、この程度の苦痛に耐えられない自分ではない、この程度の死の峠と取り替えなければならない私の命ではないと感じる人がいれば、彼は、人生行路において成功した人です。「いかなる迫害と死の峠が迫ってきても、私が行く方向を変えることはできない。私の価値は、地上の何物とも取り替えることができない」と考える人は、地上にいても天の人です。地で死んでも、彼は天の人です。
(9-166、1960.5.8)

 

キリスト教を通して数千年の歴史の中で大勢の殉教者が出たように、それを覚悟して死んで生きようという中で、「天のために命を捧げ、万民と共に解放の基台を築いて死にます」という、そこから基盤ができるのです。家庭にとって重要な人、氏族にとって重要な人が、死んだ千万の人より、天が私たちの約束を整えるようになるとき、生きるというのです。それが重要な問題です。そのような基盤が残るようになるとき、その基盤を後代の人が踏んで上がっていくのです。
(218-236、1991.8.19)

 

ですから、イエスのような方は、そのような道で追いに追われ、自分の民族に追われるだけでなく、ローマ帝国に追われて死んでいきながらも、怨讐がイスラエルでありローマであるにもかかわらず、この怨讐を恨むのではなく、愛しなさいと教えたのです。ローマは、きょうの怨讐ですが、あすには自分たちの子孫を通してローマに与えなければならない福があるからです。その福は、ローマを救って余りある愛の福なので、彼らが願うようになるこの福を与えたいと思う心が先立ったイエスの心には、未来のローマを考え、赦し、福を与えざるを得なかったという、驚くべき事実を知らなければなりません。
(101-151、1978.10.29)

 

天国に行こうと殉教する人は、地獄に行くのです。「私がこのようにすれば天国に行く」と考える人は、地獄に行くというのです。しかし、自分は地獄に行っても世界の人を天国に送らなければならないと考える人は、「天国には行かない」と思っても天国に行くようになっています。
(39-197、1971.1.10)