世界経典Ⅱ 第3部 人生の旅程 第15章 信仰

第15章 信仰

1. 信仰

罪悪に満ちたこの世の中で、大部分の人々は真の自分の姿を見つめられずにいる。神様は、簡単に感じたり、体験できる方ではない。真理もやはり簡単に理解され、実践されるものではない。私たちは、自分だけを信じ、目的なく、荒唐無稽な欲望と、誤った概念の海でさまよっている。人間は、暗闇の中で導いてくれる星が必要である。その星は、地図にも表示されない所を教えてくれる星であり、これがすなわち信仰である。信仰は、宗教的信念と天の戒めに従って生きようとする努力から始まる。宗教で教える信条は、いくつかの単語で表現されるが、それらは、私たちが神様と関係を結べるよう正しい道に導いてくれる。
信仰は、深まれば深まるほど、それ自体が神様の下さった贈り物であることを悟るようになる。信仰を通して神様は、自分自身も救援できない堕落人間と再び関係を結ぼうとする御自身の愛を見せてくださる。信仰と仕事を比較した使徒パウロの話のように、日本の仏教聖者・親鸞も似た教理を教えている。彼は自分の信仰を、「またもう一つの力」に依託したという。これは、純粋で、自分本位の利己心に染まっていない信仰である。信仰者の自信や信仰する能力自体には、何かの根拠があるわけではない。文鮮明先生は、人間は誰もが罪で汚れており、罪悪の血統を受けて生まれたために、自分だけの努力で罪を蕩減できる人は誰もいないと語られる。したがって、天との関係において、唯一で最もふさわしい原則は、神様の愛、すなわち子女に対する神様の愛を中心とするものである。
信仰は、天との相互関係の中で成熟し、信心と真実さで特徴づけられる。神様が願われるとおりに生きようと努力するとき、私たちは常に私たちを育ててくださった神様の実存を悟りながら、困難な逆境までも克服していくことができる。しかし、神様を信仰の主体として侍るとき、果たして私が神様に頼るように、神様も同じように私を信じて頼れるのか、自問してみる必要がある。人間は、二つの心をもっている。そして、その間で絶えず彷徨し、ある日は信仰を守り、別の日はその信仰を捨てたりもする。いかなる逆境の中でも、信仰を守って残ることができ、神様が信じることのできる自分になるためには、絶対的完結性と克己の姿勢が必要である(第 12 章参考)。神様も、大きな使命を受けて完遂できる人を求めていらっしゃる。
文鮮明先生は、「絶対信仰」を強調される。苦難の中でも堅固に生き残り、揺るがない信仰が絶対信仰である。それはまた、私的な欲求に妥協しない信仰である。迫害と悲劇、喪失を経験すれば、信仰が弱い者は揺さぶられることがある。家族と愛する人たちの懇請によっても放棄させられないのが絶対信仰である。自分の主人を否定したペテロのように信仰が弱い者は、危険な状況から逃げたり、さらには信仰をすべて失ってしまう。しかし、絶対信仰をもった者は、山を越え、いかなる逆境にも打ち勝ち、死までも克服して、勝利できる人である。

 

①信仰:信仰の出発点

― 宗教経典 ―

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書 3.16(キリスト教)1

 

信仰とは……神と天使たち、諸経典と使徒たち、そして最後の日を信じることであり、善であれ悪であれ、神の摂理を信じることである。
ナワウィー 40のハディース2
(イスラーム)2

 

看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
使徒言行録16.29 ~ 31(キリスト教)3

 

言え「人びとよ、わたしは神のみ使いとして、あなたがた全体につかわされた者である、天と地の大権は、かれのものである。かれのほかに神はなく、かれは生を授け死を賜う方であられる。それゆえ、神と文盲のみ使いに信頼せよ、かれは、神とそのおことばを信奉する、かれに従え、おそらくなんじらは導かれるであろう」。
クルアーン 7.158(イスラーム)4

 

孔子がいわれた、「天命が分からないようでは君子とはいえない。」
論語 20.5(儒教)5

 

アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
創世記15.6(キリスト教)6

 

自らの魂をそこなわぬかぎり、たれがアブラハムの教えにそむこう。まさにわれは、この世においてかれを選んだ。来世においても、かれは必ず正義者のひとりである。主がかれに向かって「服従帰依せよ」と仰せられたときを思え。かれは「わたしは、よろず世の主に服従帰依し奉る」と、申し上げた。
アブラハムは、このことばをその子らに伝え、ヤコブもまたそれにならった。「わたしの子らよ、神はおまえたちのために、この教えを選びたもうた、それでムスリムとならずに、死んではならぬぞ」。ヤコブが臨終のとき、なんじらは立ち会ったか、かれがその子らに向かって「わたしがなき後、おまえたちは何に仕えるか」と、言ったとき。かれらは「わたしたちはあなたの神、アブラハム・イスマイル・イサクの神、唯一の神に仕えます。
かれに、わたしたちは服従帰依し奉る」と言った。これは過ぎ去った衆のことである、かれらにはそのかせいだことに対し、またなんじらにもそのかせいだことに対し応報があろう。かれらの行なったことについて、なんじらが問われることはないのである。
かれらは言う「おまえたちは導かれようとするならば、ユダヤ教徒かキリスト教徒になれ」と。言え「いや、わたしたちはアブラハムの純正の教えを信奉する。かれは、多神教徒のたぐいではなかった」。祈って言えムスリムよ「わたしたちは、神とわたしたちに啓示されたものを信じます。またアブラハム・イスマイル・イサク・ヤコブと諸支部族に啓示されたもの、ならびにモーゼとイエスに賜わったもの、および主から諸予言に下されたものを信じます。それらの間のいずれにも、差別をつけません。かれにわたしたちは服従帰依し奉る」。(注1)
クルアーン 2.130 ~ 36(イスラーム)7

 

汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸に至るであろう。
スッタニパータ1146(仏教)8

 

祭祀を行ないヴァーユ(風神)を守護者となす神々は、シュラッダーに奉仕す、心からなる意図をもちてシュラッダーに〔奉仕す〕。人はシュラッダーによりて財物を見いだす。
シュラッダーをわれらは呼ぶ、早朝に、シュラッダーを正午に、シュラッダーを日没に。シュラッダーよ、ここに〔人々をして〕われらを信頼せしめよ。
リグ・ヴェーダ 10.151.4 ~ 5
(ヒンドゥー教)9

 

信仰に四種類がある。第一は、究極の根源に対する信仰だ。この信仰により信仰者は歓喜によって真如を念じるようになる。第二は、仏陀の数多くの卓越した徳性に対する信仰だ。
この信仰によって信仰者は、常にその徳性を念じ、それらを近くに抱いて過ごし、それらに敬意を表し、それらを恭敬し、これによって自己の善の品性を増長させ、一切を抱擁する明るい知恵を具備するようになる。第三は、法の気高い有益に対する信仰だ。この信仰によって信仰者は、悟りに至らせるあらゆる教えを絶えず心の大切に保ち、実践するようになる。第四は、僧に対する信仰であり、自分自身と他の人たちにすべて益をもたらす実践遂行に専念できる修行僧たちに対する信仰だ。この信仰によって信仰者は、徳のある菩薩と近くでお目にかかることができ、正しい修行を修める人たちの教えをよく聞くことができるようになる。(注 2)
大乗起信論(仏教)10

 

はかり知れない私の信仰、これを言葉と文字で明らかにしようとすれば、誰も最後まで果たすことはできないだろう。
筆と紙でも描ききることはできず、直観でもその秘密を見通すことはできない。
崇厳で清浄な神の名はただ信仰の固い者が成す。
信仰によって意識と知性が全一となり、悟りの真価が一つ残らず表れ見える。
信仰によってこの世で犯した罪を洗い、また死の恐怖から抜けだすがゆえに、崇厳で清浄な神の名はただ信仰の固い者が成す。
信仰によってあらゆる障害が消え、神と共にその国に高く引き上げられるだろう。
信仰の固い者は邪悪な群れに陥って彷徨することがなく、ただ真の信仰によってひるまずに立つがゆえに、崇厳で清浄な主の名はただ信仰の固い者が成す。
アーディ・グラント、ジャプジー12 ~ 15
M.1、p.3(シク教)11

 

― み言選集 ―

 

元来、信仰は、各自が神を探し求めていく道であるので、それは個人と神との間に直接に結ばれる縦的な関係によってなされるのである。
原理講論、メシヤ再降臨準備時代1

 

宗教生活をなぜするのでしょうか。私より次元の高い力の投入があるためです。では、その方向はどこへ向かうのでしょうか。今日の堕落した世界ではなく、次元の高い理想的目的に向かうのです。そうではないですか。ですから、神様がいないというのは理論的根拠が成り立たないのです。
(89-76、1976.7.11)

 

信仰の基準はお金でもなく、知識でもなく、この地の何かの栄光でもありません。無限の価値の中心は神様です。ですから、その中心となる標準を神様においていくのが信仰の道です。神様以外には一切を認めないのです。
(68-131、1973.7.29)

 

最も重要な問題は、中心に対する確固たる信頼をもつことです。そのような信念をもつまでは、いくら覚悟をしても仕方がありません。この道を歩んでいてあることにぶつかれば、私の信念はどのようになるでしょうか。自問自答してみてください。
(27-114、1969.11.30)

 

アダムの堕落は、どのようにして起きたのでしょうか。不信して堕落したというのです。不信が第一の原因です。人類の始祖が不信で堕落したので、これを踏み越えて上がっていかなければなりません。先祖が堕落したその線以上に上がっていかなければならないのです。絶対信仰をしなければなりません。
(126-35、1983.4.10)

 

復帰の道を行こうとすればメシヤが必要であり、病気が治るためには条件物が必要なのです。復帰するには医者が必要であり、次には条件物が必要であり、期間が必要です。医者が「薬を三日は飲まなければなりません、治療を1週間しなければなりません」と言います。そして、病気が治った人は、メシヤの代身、救世主の代身としての信念をもたなければなりません。救世主が語る言葉、医者が語る言葉を自分の言葉以上に信じなければなりません。
(63-183 ~184、1972.10.14)

 

信仰生活において最も問題になることは、信仰の対象、神様です。その次には何でしょうか。信仰の主体である神様は、人を対象としているのです。私たち人間は神様を信仰の対象としていますが、神様は人を信仰の対象にしているというのです。これが行き違いです。ですから、私たちはこの門前に立っているので、私たちは、神様に対して私自身が残すべき一つの骨髄的な思想をもって、生死を共にしなければなりません。それと同時に、人に対しても同じです。
(59-237 ~ 238、1972.7.23)

 

ある病弊があります。それは「無条件に信じればすべての福を私のものにできる」、このような思想をもったからです。このような思想が打ち込まれています。何でもすべてもつことができるというのです。神様が祝福するというのです。それは、どういうことですか。功なくしてすべて自分のものにしようという人ばかりです。それは、どろぼうです。どろぼう根性です。どろぼう信仰だということです。
イエス様は、どうしてそのように逝ったのでしょうか。世の中を救うためです。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」と言いました。神様がこの世を愛し得る国と環境になっていないがゆえに、神様がこの世を愛し得る環境にするために、そのように逝ったのです。
(124-296、1983.3.1)

 

天は、何を待ち焦がれているのでしょうか。信仰者を待ち焦がれているのではなく、生活の中で実践する者を待ち焦がれているのです。
(6-84、1959.3.29)

 

私は、果たして信仰者の態度を備えていますか。希望の心を立ててくるための信仰でしたか。それを願っていた私でしたか。古い信仰をもってすべてができると思い、あらゆることを解決しようとすれば、その道を行けません。正しい信仰の態度をもっていかなければならない私たちであるがゆえに、これから私たちに死亡の力がぶつかってきたとしても、その死亡の力を清算して余りあるようでなければなりません。痕跡が残されなければなりません。私の情熱もそうであり、私の忠誠もそうであり、私の努力もそうであり、私の忍耐もそうであり、私に属したすべてのものが残される分野がなければなりません。これが天の相続の第一基準になることを知らなければなりません。
(6-92、1959.3.29)

 

②信仰は人間の行為ではなく神様の恩寵

― 宗教経典 ―

 

事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
エフェソの信徒への手紙 2.8 ~10
(キリスト教)12

 

神は、なんじらに信仰が好ましく、またなんじらの心の中を、それにふさわしくたまい、なんじらに不信心と邪悪と反逆を、嫌わせたもう。これは正しく導かれた者であり、神からの恵みであり、恩典である。
クルアーン 49.7 ~ 8(イスラーム)13

 

父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない。
ヨハネによる福音書 6.65(キリスト教)14

 

かれこそは、信者たちの心に安らぎを賜い、かれらの信心の上に、信心を加えたもう方であられる。
クルアーン 48.4(イスラーム)15

 

一切の義務を放棄して、ただ私のみに庇護を求めよ。私はあなたを、すべての罪悪から解放するであろう。嘆くことはない。
バガヴァッド・ギーター18.66(ヒンドゥー教)16

 

あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。
律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。
ガラテヤの信徒への手紙 3.2 ~ 7,11(キリスト教)17

 

善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。この条、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても、生死をはなるることあるべからず。あはれみたまひて、願ををこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて、善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらひき。(注 3)
親鸞 歎異抄 3(仏教)18

 

群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。……おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
マルコによる福音書 9.17 ~ 24(キリスト教)19

 

― み言選集 ―

 

歴史的な曲折をもう一度考えながら、私たち自体の恨の立場を解明し、探し立てなければならない父子の因縁を解明しない限り、私たちには希望というものも、天国というものも、何の理想世界というものもあり得ないのです。
罪悪の血統を受けた私たち、罪悪歴史の束縛を抜け出せずにいる私たち、罪悪圏内に属して生活しながら、その環境を越えられずにいる私たち、このような私たちなのに、父と私たちの関係をどのように解明するのですか。これは、私たちが努力したとしても仕方がないので、心情を掲げて信じなさいと言ったのです。これがキリストの伝えた福音です。何かの条件をかけて信じなさいと言ったのではなく、心情を通して信じなさいと言われました。
(7-52 ~ 53、1959.7.12)

 

天上の審判は、どこで決定されるのですか。皆さんが天のために生きた功労と苦労が多いからといって、誇れるものはありません。それによって決定するのではないのです。ただ神様の心情とイエス様の心情が皆さん自身の体で体恤され、結実され、それが神様やイエス様と切っても切れない因縁となったものこそが、永生不死の条件になるのです。
(4-107、1958.3.16)

 

信仰生活をする上で皆さんの心の中に、爆発的で刺激的な力をもってみ旨の世界に向かって行こうという余力がありますか。そのような心があれば、神様が皆さんと共にいらっしゃるという証拠です。反面、そのような力がないならば、神様が皆さんと分離している証拠です。
人類を愛する心がわき上がり、人類と共に自分の生命を分かちたい心が絶えないということは天に属していることを証すものですが、自体を中心とした愛と自体の価値を誇る生命力で終わるならば、自分から既に神様は離別しているという事実を証すものであることを知らなければなりません。
(32-22、1970.6.14)

 

神様の愛、神様のみ言、神様の人を失ってしまったので、私たちはこれを求めてさまよわなければなりません。そして、今日まで救援摂理をしてこられた神様も、これを取り戻そうとされたというのです。愛を失ってしまった人間、み言を失ってしまった人間、実体を失ってしまった人間、人間はなぜ、何をできなかったために愛とみ言と実体を失ってしまったのかというと、 (神様のみ言を)信じられなかったために、これらを失ってしまったのです。ですから、神様が人間を取り戻してこようとすれば、人間たちが(み言に対する)信仰の条件を立てなければなりません。すなわち、神様は、信仰を条件として人間たちに対してくださったのです。信仰を前提条件として人間たちに救援摂理をされるというのです。
(5-37、1958.12.14)

 

神様は、どのような心情でこの世界を創造されたのでしょうか。神様が無限に信じてあげられる万物になることを願う心情、無限に信じてあげられる人になることを願う心情でつくられたのです。したがって皆さんは、強いて信仰という名詞が必要ない一体的な理念圏内で、神様と私たちが心と体の関係のような不可分の一体性を備え、長い歳月を過ぎても、天に対して弁明があってはなりません。神様は人間と一体的な立場に立ち、信仰という名詞までも感じないほど人間を信じてあげようとされたのです。このように永遠に信じてあげようとされていた神様のその心が、人間の堕落によって人間から離れるようになりました。
(4-71、1958.3.9)

 

取るに足らない姿であり、自分自身を批判し、分析して見るとき、お父様に何かをお返ししてさしあげられる存在になれなかったことを、私たちはよく知っております。しかし、お父様とは切っても切れない子女の因縁を結んでいることによって、お父様は私たちを御覧になり、悲しみと喜びの分岐点で私たちに対していらっしゃるという事実を、私たちは忘れてはなりません。
(24-245、1969.8.24)

 

③神様を信じて生活すること

― 宗教経典 ―

 

偉力者・慈悲者に信頼しまつれ、なんじが礼拝に立ち上がるのをみそなわす方、また叩頭する者たちの間での、なんじの動作をみそなわす方であられる。まことにかれは、全聴者・全知者であられる。
クルアーン 26.217 ~ 20(イスラーム)20

 

心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
箴言 3.5 ~ 6(キリスト教)21

 

神に従う人は信仰によって生きる。
ハバクク書 2.4(キリスト教)22

 

ラビ・シムライが言った。「613 項の言葉がモーセに与えられた。その中で365 項はしてはならないという命令として1年 362 日に該当する言葉だ。そして、248 項はやりなさいという命令なのだが、これは人の数字に対抗する言葉だ。ダビデ王がこれを減らして 11の言葉にした。(詩編 15)イザヤは6の言葉に(イザヤ 63.15)、ミカは3の言葉に(ミカ 6.8)、再びイザヤは2の言葉に減らし、「正しい判断をして、善行をせよ」と言った。アモスは一つの言葉に減らした。「私(主)を信じよ、そうすれば生きる」。ハバククも一つの言葉に減らした。「神に従う人は信仰によって生きる」。(注 4)
タルムード、マッコート23b~24a
(ユダヤ教)23

 

わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
マタイによる福音書 7.21(キリスト教)24

 

わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
ヤコブの手紙 2.14 ~17(キリスト教)25

 

私は語ったとおりに行い、言行に恥ずかしくない生活をする。あなたの両手に天秤と 秤をおもちになり、おお、私の主よ! もし私の言葉と行動がたとえ麦一粒ほどの重さでも違えば、私を打ってください。おお、クダラ・サンガマ!
バサヴァンナ ヴァチャナ 440(ヒンドゥー教)26

 

― み言選集 ―

 

天は、どのような信仰を願うのでしょうか。イエス様が私を信じなさいと言われたのは、自分が神様を信じるようにイエス様を信じなさいということです。また、イエス様が、「私は神様の息子だ。私は神様を信じる」と語ることができたのは、自分が神様を父として信じているように、神様も自分を息子と思っているということを確信したからです。
(5-180、1959.1.18)

 

皆さんが今、信仰の主体であられる主を信じていますが、イエス様を信じることだけで終わってはいけません。皆さんは、イエス様を信じることによって、その信仰の条件を通し、永遠の生命を懸けてイエス様との関係と因縁を結ばなければなりません。そして、皆さんはイエス様と信仰の関係を結んだその基盤の上で、神様の実存まで感じなければなりません。皆さんが本当にイエス様を信じれば、このようなことを成せるでしょう。
(3-19、1957.9.8)

 

イエス様を信じるというとき、イエス様が喜ぶものだけを信じなければなりませんか、イエス様が嫌うものも信じなければなりませんか。イエス様が嫌うものは防御して、喜ぶものを信じなければならないという結論です。それでは、イエス様が嫌うものは何でしょうか。サタンと罪悪です。
(124-294、1983.3.1)

 

神様から愛を受ける人が、この偉大な神様のみ言を誇り、それを天宙に叫ぶことができる心情になっていなければ、その人は神様の息子として、神様の娘として立てません。神様の権威を中心としてその基盤が立ったものを、自分が自然に感じられる自らをもたなければなりません。
(22-205、1969.2.4)

 

今、天があるとすれば、私たちは主体であられる天が、対象である私という個体を 100 パーセント信任してくれる、その一日を求めなければなりません。その目的に対して 100 パーセント信念をもち、その一箇所を求めなければならないというのです。また、100パーセントの信念をもって突進できる方向性を備えなければなりません。これが、この時代に生きている人類が解決すべき最後の重大な問題です。
このような悲しみの環境を越えていかなければならない人間なので、神様はこれを解決するある条件を立ててきたことは間違いないでしょう。そうだとすれば、神様は歴史路程においてどのように摂理してこられたのでしょうか。人間始祖が堕落したのは、神様を信じることができなかったからだという事実を、皆さんはよく知っています。信じることができなかったために堕落したのです。
(6-209 ~ 210、1959.5.17)

 

いくら自信があっても、じっとしていてはいけません。そのような人は必要ないのです。既成教会でいくら神様のみ旨がどうで、地上の天国がどうでと言っても、じっとしていれば、何の意味もない言葉です。自信をもっていますが、信じてじっと座っている人、自信をもっていますが、少し適当に行動する人、自信をもって命懸けで勇猛果敢に行動する人の中で、神様は誰を好みますか。考えてみてください。皆さんは、どのような人を願いますか。
(92-312 ~ 313、1977.4.24)

 

体恤信仰において最も重要な要件は何でしょうか。主体と対象の関係です。“神様は常に主体だ”と思いながら、私を愛される神様なので、私が深刻であれば深刻であるほど、神様は私のことを忘却できない、傍観できない、ここに一緒にいらっしゃるということを感じなければなりません。ですから、祈祷に先立ち、感謝できる生活が成されるとき、そこには天が共にいらっしゃるのです。それが最初は感じられませんが、ある段階に入っていけば、はっきりと感じるようになります。
(58-312、1972.6.25)

 

たとえサタン世界に生きているとしても、天に対する貞節と志操は守らなければなりません。私が育てている息子、娘をお父様の子女だと思ってきましたか。さらには、私と私の相対がお父様のものであると考えてみましたか。私の父母、私の先祖、私の民族、私の国をそのように考えてみましたか。無知なこの地上の人間たちは、天がこのような標準に向かって動いている事実を知らずにいます。
(8-85、1959.11.8)

 

きょう、ここに集まった子女たち、どうぞお父様が「お前は私の希望の存在であり、私が信じることのできる者であり、私が愛することのできる者だ」と言い得る姿となるよう許諾してください。
(1-101、1956.6.6)

 

④個人的欲望と環境に影響されない絶対信仰

― 宗教経典 ―

 

イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、 『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
マタイによる福音書17.20(キリスト教)27

 

一粒のからし菜の種ほどの信仰を心に抱いた者は地獄に入らないが、一粒のからし菜の種ほどの 驕慢さを心にもった者は天国に入れない。
ムスリム・ハディース(イスラーム)28

 

そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。
ルカによる福音書 9.59 ~ 62(キリスト教)29

 

天に向かって旅する者達は、後ろを振り返らない。彼らは天、二つの世界へと上っていく。
シャタパタ・ブラーフマナ 9.2.3.27
(ヒンドゥー教)30

 

ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。
創世記19.26(キリスト教)31

 

「私の服は古く、すり減った。私は遠からず裸になるだろう」。または「私は新しい袈裟を得るだろう」。出家修行者は、このような考えを抱いてはいけない。あるときは服が一着もないこともあり、またあるときは何着もあることもある。このように考えるのが健全な規律であることを知っているのだから、賢明な出家修行者はそれに対して不平を言ってはならない。
ウッタラッジャーヤー・スートラ2.12 ~13
(ジャイナ教)32

 

わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
ローマの信徒への手紙 8.38 ~ 39(キリスト教)33

 

言え「わたしの礼拝と奉仕、わたしの生と死は、よろず世の養育の主、神のためである。
クルアーン 6.162(イスラーム)34

 

いちじくの木に花は咲かず / ぶどうの枝は実をつけず / オリーブは収穫の期待を裏切り / 田畑は食物を生ぜず /羊はおりから断たれ / 牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって喜び / わが救いの神のゆえに踊る。
ハバクク書 3.17 ~18(キリスト教)35

 

― み言選集 ―

 

私たちがこの地上でこのような使命を果たせば、神様も私たちの報告と私たちの要求を待たれるようになるのです。ですから、私が密使の立場で早急に願うものを送るようにと言えば、百方に冒険をし、克服しながらでも送るようにするのではないでしょうか。これと同じように、皆さんがそのような信念をもって神様の特権的な栄光の息子、娘であることを認識しながら「私はこれを願いますから、どうぞかなえてください」と言えば、成就してくれるのです。そうすれば、生きていらっしゃる神様を発見することができ、生きて神様が働かれるのを見ることができるのです。
(65-287、1973.1.1)

 

信仰の道では、自己主張、自我観念はあり得ません。絶対的信仰というものは、自我観念が一つも残っていない信仰をいうのです。そうではないですか。絶対的に信じるというときは、私自体に絶対的に反対する要因が一つもあってはなりません。神様を中心として一つになろうというところには、自己主張するものがありません。主体が要求するとおりに完全に一致しなければなりません。完全に一致するというのは、自分自らを主張する一片の心もないのです。
(46-82、1971.7.25)

 

ノアおじいさんのような人は、神様が呼ばれるとき、常識的な立場で呼びませんでした。「お前は 120 年間、山に箱舟を造りなさい!」とおっしゃいました。神様が箱舟を造りなさいといわれるのであれば、海辺に造るようにされるか、川辺に造るようにされなければならないのに、その正反対です。神様は、すべてそのように摂理されます。アブラハムに対しても、偶像の売買をする一番の頭の息子を引っ張ってきたのです。
(70-64、1974.2.8)

 

自分を弁明しようとする者は、天国に入れません。絶対的な信仰というものは、自分を弁明する立場ではないのです。弁明される立場になるべきです。うまくやっても、「うまくやった」と言える立場ではありません。自分が 100パーセント認めることのできるものだとしても、神様が見るときは一つです。自分が 100 と認めるものが、神様には一つなのです。ですから、天国は自分を中心として提示する立場では、訪ねていくことはできません。
天国は、どこから始まるのでしょうか。絶対的な信仰を起点として出発するのです。絶対的な信仰というものは、自分を主張できるものではありません。その立場は、自分を絶対否定する立場です。自分を絶対的に否定する立場に立たずには、絶対的な信仰が出てくることはできません。皆さんが、世の中の万事を肯定しながら信仰の道を行くときには、絶対的な信仰が出てきません。
このような根本問題について、今日大部分の人を見てみれば、一日の生活圏内で、朝に起きて御飯を食べて習慣的な生活をしながらも、「私は神様に対して堂々としている」と言います。そのように信じる人がたくさんいます。そのような人たちは、天国を所有することはできません。堂々とすることができないのです。自分を公認する相対的な要因がなくては、絶対的な信仰基準ももてないのです。絶対的な信仰基準ももてなかったのに、絶対的な信仰基準を克服してしまったのちにこそ成される天国が、成就され得ますか。とんでもないことです。なぜそうなのでしょうか。その立場には、サタンがとどまっているためです。
(46-79 ~ 80、1971.7.25)

 

絶対的な信仰を中心として歩んでいくにおいて、その国家が絶対的に反対したとしても、譲歩してはいけません。家庭なら、家庭で誰がいくら反対したとしても、その反対に対して絶対的な信仰をもって屈してはいけません。また、夫婦の間においても、相対が反対する立場に立ったとしても、絶対的な信仰態度をもたなければなりません。このような態度をもち、信仰生活をしようとする目的は何かというと、たった一つ、悪の環境を脱皮して善に帰ることです。
(29-206、1970.2)

 

絶対信仰というものは何でしょうか。自分が信じているある宗教の指導者がいるとすれば、その指導者と私は歴史的に数千年という遠い距離を置いていますが、信じる心を中心としては、彼と平面的に対等な時代圏内に立てることを意味します。ですから、絶対的に信じなさいというのです。絶対的に信じるとき、その人と一緒にいるということが分かるようになるのです。また、その人と一緒に生きていることが分かるようになります。このようなことを新たに認識させ、刺激させるためのものが信仰だということを知らなければなりません。
(32-162、1970.7.12)

 

皆さんは、膨大なみ旨を前にして、あるいは神様が歴史を通して願われるそのみ旨を前にして、どれほど深刻な立場で、そのみ旨と共に一つになっていますか。そのみ旨を中心として絶対的な信仰をしているのですか。風が吹き、暴風雨が吹きつけることがあっても、私が死んで滅びても、「この信念だけは間違いない。間違っていれば私が間違ったのであって、み旨は間違っていない」という確固不動の信念をもたなければなりません。朝の信仰と夕方の信仰が異なる、そのような信仰姿勢をもっていながら天国を願うというのは、あまりに愚かなことです。
(46-74、1971.7.25)

 

愛がどこで連結され始めるのですか。絶対的なゼロになる点から始まるのです。ですから自分がありません。完全な愛を求めるためには“私”という個性があってはいけません。信じるのも、絶対的な主体と対象が互いに信じなければなりません。ここに自分はありません。絶対的な信仰というものは自分がないというのです。ゼロです。絶対的な愛で一つになるところには自分がなく、絶対的な信仰で一つになるところにも自分がありません。この二つが一つになるのです。そうであってこそ完全に一つになります。
(279-146、1996.8.4)

 

神様が創造するとき、絶対的な信仰の上で創造しました。神様が語れば、語ったとおりに対象が現れなければなりません。絶対的な信仰の上で発言したのです。その絶対的な信仰の上でつくるその対象は、絶対的な愛のためです。私の愛する実体が私の体の何千万倍貴いものになることを願うので、私の愛をすべて投入したのです。絶対に一つになったところで投入したというのです。
(273-298、1995.10.29)

 

⑤逆境と信仰

― 宗教経典 ―

 

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
マタイによる福音書 26.39(キリスト教)36

 

ヨブの息子、娘が、長兄の家で宴会を開いていた日のことである。ヨブのもとに、一人の召使いが報告に来た。「御報告いたします。わたしどもが、牛に畑を耕させ、その傍らでろばに草を食べさせておりますと、シェバ人が襲いかかり、略奪していきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」彼が話し終らないうちに、また一人が来て言った。「御報告いたします。天から神の火が降って、羊も羊飼いも焼け死んでしまいました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」彼が話し終らないうちに、また一人来て言った。「御報告いたします。カルデア人が三部隊に分かれてらくだの群れを襲い、奪っていきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」彼が話し終らないうちに、更にもう一人来て言った。「御報告いたします。御長男のお宅で、御子息、御息女の皆様が宴会を開いておられました。すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」
ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。
ヨブ記1.13 ~ 22(キリスト教)37

 

サウルはダビデに答えた。「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ。」しかし、ダビデは言った。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」
サムエル記上17.33 ~ 36(キリスト教)38

 

「神を信ぜよ、かれのみ使いと共に奮闘せよ」と(命ぜられたとき)、かれらのうち能力ある者が、なんじに免除を求めて、 「わしらを家にとどまる者と共に、そこにおらせて下さい」と言う。
かれらは背後で家にとどまる者と一緒にいることを好む、かれらの心は封じられ、それでかれらはさとらぬ。
しかし、み使いならびにかれと共に信仰する者たちは、財産と生命とをささげて奮闘努力する。かれらにはあらゆる幸福があり、またかれらは成功する者たちである。
クルアーン 9.86 ~ 88(イスラーム)39

 

ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。
マルコによる福音書14.66 ~ 72
(キリスト教)40

 

― み言選集 ―

 

自分の理想的な相対を得て結婚し、楽しく暮らし、夫が死んだ、妻が死んだというとき、「ああ! 私は知らない」、これではいけません。「ああ! 神様が私を愛しているのなら、なぜ妻を連れていき、なぜ夫を連れていったのですか」、そのように考えずに「これは、何が起きようとしてこのようなことが起きたのか」、このように考えなさいというのです。神様が私から大切なものを奪っていくのなら、奪っていった神様は、もっと貴いものを与えるためにそのようにされることを知らなければなりません。それが父母です。蕩減復帰の原則を考えれば、蕩減というものは本当に有り難い言葉です。「このような峠道を蕩減する者は私しかいないので、私を選んだのだなあ!」と有り難く考え、神様の前に「その次は何ですか」と祈ることができる余裕をもてば、驚かれるのです。100 年、1000 年をおいて見てみると、子孫が福を受けるのです。
(104-106、1979.4.15)

 

絶対信仰! 最近の先生の祈祷がこれです。ペテロの信仰が問題ではありません。絶対信仰です。死んでも行かなければなりません。監獄は日常のことです。イエス様が「もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈られたその父のみこころのために……。客死した死体になって倒れたとしても、自分のために死なずに、父のために死んだというのです。栄光の死体になったのです。その限界点が分かりますか。
死の場でも堂々としていなければなりません。死ぬと思って目を閉じ、「私は死んだ」と思っていれば、すぐにほかの世界に移されているというのです。飛躍が起きるのです。統一教会は、そのように発展してきました。そのように発展したのです。唖然とし、呆然として、四方がぎゅっと締めつけられ、地に入っていくことも天に上がっていくこともできないその場まで、死を覚悟して踏み越えていけば、さっと飛躍するのです。
生きていらっしゃる神様は、間違いなく顕現する方です。ですから、私には神様がいる、いないということは問題にもなりません。そのような夢のごとき役事が、本当にたくさんあるのです。神様は、公約どおりにされる方です。
(126-38 ~ 39、1983.4.10)

 

人類の始祖が不信で堕落したので、これを踏み越えて上がっていかなければなりません。先祖が堕落した、その線以上に上がっていかなければならないのです。では、絶対信仰とはどういうことでしょうか。死ぬまで、死んでも行こうとすることです。
(126-35、1983.4.10)

 

世の中では、今キリスト教がすべて崩れ落ち、アメリカも、その大国が揺れ動く、そのような局面が展開しています。それでは、変わらない神様、全体の主体であられる神様が、どのような対象を探し出さなければならないのでしょうか。支流と一緒に歩調を合わせて踊りを踊る人は駄目です。
変わる人であり、変わる世の中です。そのような人と世の中ですが、私は変わらないという人、次には世の中がすべて滅びてなくなるとしても、私は滅びないという人にならなければなりません。ただ信仰だけそうなのではなく、実際的にそうだという確定した立場に立たなければなりません。
(66-47、1973.3.18)

 

皆さんが信仰生活をしながら、神様を呼び、神様のみ旨を叫び、神様の理念を求め、神様の栄光のために闘う目的がどこにあるのですか。まずは、自分が確固不動になるところにあります。「歴史的な悲しみが私を占領することはできず、時代的な逆境が私の心と体にしっかりと立っている基盤を占領することはできない」と言える信念がない限り、そのような位置を備えておかない限り、いくら歴史的に忠誠を尽くし、時代的に自らをもったと自負する人がいたとしても、天は彼を信じて摂理することはできず、彼を立てて時代を収拾することはできません。
(12-304、1963.8.11)

 

2. 伝道

大部分の宗教は、福音伝道、すなわち人を救援に導こうと、真理を伝播する伝道を奨励している。真理の証という宗教的戒めは、愛から出てくるものである。愛は、真理が人を解放してくれ、より次元の高い可能性を開いてくれるものだという確信を土台とし、人の永生を憂慮する心である。伝道は、「あなたがたの光を人々の前に輝かし」のような聖句から始まる。信仰者は、善行と利他心を通して生きている信仰を実践し、人を感動させ、説教と教理的教えによって人生を先導しなければならない。福音伝道は、時として反対にぶつかることもある。伝道は、常に神様の導きを信じ、純粋な心と高潔な行為を通して成し遂げられなければならない。

 

― 宗教経典 ―

 

イエスは、近寄って来て言われた。 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
マタイによる福音書 28.18 ~ 20
(キリスト教)41

 

英知とよい話し方で、すべての者をなんじの主の道に招け。最善の態度で、かれらと議論せよ、なんじの主は、かれの道から迷う者と導かれる者を、最もよく知りたもう。
クルアーン16.125(イスラーム)42

 

時に世尊諸比丘に告げたまへり。「比丘等よ、我は天・人の一切の羂索より脱したり。比丘等よ、 汝等も亦天・人の一切の羂索より脱したり。比丘等よ、遊行せよ、此、衆生の利益、衆生の安楽、世間の哀愍、人天の義利・利益・安楽の為なり。二人してともに行くなかれ。比丘等よ、初善・中善・後善にして義理・文句を具足せる法を説け、悉皆円満にして悉浄なる梵行を顕示せよ。有情にして塵埃少き者あり、若し法を聞かずば退堕するも、 {聞かば}法を悟り得べけん。比丘等よ、我はまた優樓頻螺のセーナーニガマに至りて法を説かん」。
律蔵 i.21(仏教)43

 

アスヴィンス、主の光よ、蜂蜜のごとき甘美さでわたしを満たしたまえ。されば、人々にメッセージを伝えんがため、栄光の言葉を語るであろう。
アタルヴァ・ヴェーダ 6.69.2(ヒンドゥー教)44

 

ヒレルが言った。「アロンの弟子となれ。彼は平和を愛し、人類を愛し、彼らを法の近くに導いてくれる人である」。
ミシュナ、アヴォート1.12(ユダヤ教)45

 

私に最高の信愛を捧げ、私の信者たちの間にこの最高の秘密を説く人は、疑いなくまさに私に至るであろう。
人のうちで、彼ほど私に好ましいことをする者はいない。またこの地上に、私にとって彼ほど愛しい者はいないであろう。
バガヴァッド・ギーター18.68 ~ 69
(ヒンドゥー教)46

 

人たすけたらわがみたすかる
おふでさき 3.47(天理教)47

 

あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
マタイによる福音書 5.14 ~16(キリスト教)48

 

自分は世のともし火となり、功徳をもって身を荘厳し、十力の智慧を具足すべく、一切もろもろの群生は貪欲・瞋恚・愚痴に焼かれている、自分は彼等のために無量の悪道の苦を除いてやろう。
華厳経 30(仏教)49

 

ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。
コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。
コリントの信徒への手紙二 5.20 ~ 6.13
(キリスト教)50

 

もしあなたが他人に欠乏したある真理を知っていたり、宝物をもっていれば、最も親切な善意の言葉で、彼らにあなたの所有を分けてあげなさい。もし彼らがそれを受け入れ、もしその目的が達成されれば、あなたの目標も成就する。もしある人がそれを拒絶すれば、そのままにしておき、神が彼を導かれるように切に求めよ。あなたが彼に不親切に接することがないよう注意せよ。
狼の息子の書簡15(バハイ教)51

 

イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」
「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩はとのように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。
弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。
マタイによる福音書10.5 ~ 27(キリスト教)52

 

比丘たち、これら二つの施しがある。物質的な財の施しと精神的な真理の施しとである。比丘たち、これら二つの施しのうち、真理の施しが最も優れている。比丘たち、これら二つの分配がある。財の分配と真理の分配とである。比丘たち、これらの二つの分配のうち、真理の分配が最もすぐれている。
如是語経 98(仏教)53

 

良きことばは名誉として報酬を得、
良き仕事は人々を印象づける。
たとえ価値なき人であっても、
「道」は決して見捨てることはない。
大きな国に皇帝が立てられ、
大臣が任命され、
玉や馬が授けられても、
「道」以上に善い提供物はない。
「道」は遠い昔から非常に尊ばれてきた。
どうしてかというと、それを求めないから、人はそれを得るのだ。
たとえ過ちがあったとしても、人はその報いから免かれる。
こうして、「道」は天下で最も尊いものとされるのである。
道徳経 62(道教)54

 

― み言選集 ―

 

私たちが原理で伝道するのは、“愛の復帰運動”をしているのです。心情の世界は時空を超越します。み言も祈祷も、究極には愛のためです。完成は愛の理想を成すことです。
(33-69、1970.8.8)

 

天が喜ぶことのできる一時があるというとき、果たしてその時は、どのような時でしょうか。懇切な心情で天を証できる時です。善の人を通して死亡世界の人間を生かしてあげようとされる神様の心情を知り、その心情を解怨するために、神様の代わりに生かしてあげる責任を担って闘い、神様の心情を宣布する人がいるとき、天は、すべてのものを惜しまずにその人に渡してくださるのです。惜しまれないというのです。
(8-259、1960.1.17)

 

伝道とは、サタン世界を捨てて、笑いながら天の道についていくようにすることです。天の国に導くことです。これを知らなければなりません。皆さんを見ると、伝道しようとして、その人が喜んでいようといまいと、ひたすら強制的に「来なさい、来なさい」と言うのですが、それではいけません。人は霊物なので、皆さんが一人の人を祈祷してみて一度実験してみなさいというのです。ある一人の人をこの上なく愛し、その人をみ旨の前に立てるために、心痛む心情をもって涙を流してみるのです。
(50-279、1971.11.8)

 

伝道は、父の代わりに失ってしまった子女を取り戻す心情でしなければなりません。
(10-219、1960.10.14)

 

伝道は、人の子女を自分の息子、娘以上、自分の民以上に愛するのです。自分の兄弟の代身、自分の子女の代身として、サタン世界の誰よりも、もっと愛さなければなりません。ですから、カイン・アベルの基準を中心として、アベルが勝利すると同時に、カインも天の国に連れて入っていくことができるのです。そのようにしたのちにこそ、祝福を受けるのです。
(93-281、1994.6.11)

 

天国に行く道は、兄弟を神様のように愛することによって開かれます。皆さんは、先生についていこうとするのですが、その心で兄弟と共に行こうと努力してみてください。このように見る時、天国に最も高く、早く、よく導いてくれるのは神様でもなく、先生でもなく、兄弟だという結論を下せます。
(66-125、1973.4.18)

 

神様の愛を受ける人が、その偉大な神様のみ言を誇りに、それを天宙に叫ぶことができる心情になっていなければ、その人は神様の息子として、神様の娘として立てません。
(22-205、1969.2.4)

 

私たちは、神様を知らなければならず、永生を知らなければならず、真の愛を知らなければなりません。そして、私たちがすべきことは、この三つを教育することです。これは誰が何と言っても、体験をして、話をしなければなりません。事実をもって話をしなければなりません。聞いただけではいけません。そのようにすることによって、天の側の高い所に上がっていくのであり、中心存在になるのです。結局は、人をどのくらいこのような世界に加担させたのか、サタン世界を消化させたのか、という問題が残っているのです。お金ではありません。知識ではありません。
(205-130 ~131、1990.7.29)

 

お父様! どうか西欧に広がっているすべての統一教会の群れ、アジア、あるいは五大州に広がっているすべての群れが、あなたの心情に従ってろうそくの火の役割をすると同時に、大海に向かって立っている灯台の使命を果たさなければなりません。そのような使命が彼らに背負わされていることを知り、きょう、あす、未来に向かってひたすら愛の化身体として、あなたの深い心情を証できる証し人となるようにしてくださることを懇切にお願い申し上げます。
(86-91、1976.3.7)

 

イエス・キリストがこの地上の人間たちによって濡れ衣を着せられたのですが、かえって彼らを心配し、涙を流されたのと同様に、終末にそのようにできる聖徒が、信じる聖徒の中からたくさん出てこなければなりません。善の人がいれば、彼によく侍らなければなりません。悪の人がいても、その人以上にもっと心配し、残念に思うことができなければなりません。そのような個人になり、そのような家庭と社会と世界をつくるために、十字架の苦難まで背負っていかなければなりません。イエス・キリストの心情を身代わりして神様のみ旨を成し遂げるために忍耐し、勝利する人にならなければなりません。
(1-254 ~ 255、1956.11.25)

 

自分は語ることなく後ろに行かなければなりません。しかし、見れば神様の心情が前にあるのを感じるのです。それは何ですか。自分を絶えず引いていくのです。そのような場に行けば、多くの群衆が集まっても、みな教育できるのです。そこでは何だか分からずに、すべて教えてくれます。それでも自分が言う声なので、自分の耳にも聞こえます。自分が話す声を聞けば、不思議なのです。その境地に至れば、語りながらジェスチャーをしても、実に自然です。どんな表情をしても、それがみな自然なのです。ぎこちなくないのです。そのようなことを感じながら働いてこそ、生命の運動が繰り広げられることを皆さんは知らなければなりません。
(96-168、1978.1.3)

 

自分でも知らないうちに、周りに通り過ぎる人がいれば分かるのです。人は霊物なので分かります。通り過ぎていくその人についていくのです。さっと見れば、初めて見たのに、いつだったか見たように思うのです。「あの人とどこかで会ったようだが?」、このような人は絶対に逃すなというのです。そのような人がいるでしょう? さっと見たとき、「どこかで会ったようだが?」と思うようになります。会ったことがないのに、そのように思うのです。その人を逃してはいけません。絶対に皆さんに必要な人です。そのような時は、自分の精誠を尽くし、神様に対していたそれ以上の心で、すぐに捕まえなければなりません。そうすれば離れられません。それが自分の同士たちを結んでいき、心情の基盤を広げていく方法です。そのような内容がたくさんある人は、天の国に近い祝福の場に立てるのです。
(308-213、1999.1.5)

 

神様が生きていらっしゃることを体験すれば、「伝道するな」と言っても伝道したくなります。伝道すると、新しいことをつくってくれるからです。10人がいるとして、彼らと真摯に対話すれば 10 人が新しい人になります。そうしてから、教会に来て祈ってみなさいというのです。そのようになれば、彼らが発展する時、必ず自分自身も発展するようになっているのです。私自身が高まるのです。
(30-154、1970.3.21)

 

早朝起きてその町内のために、自分が引き受けた責任地域のために、祈祷しながら涙を流さなければなりません。その道は心情的でありながらも、また霊界と霊的な因縁を結ぶ道です。神様が町内を見下ろせば、みな地獄に行くしかない人間なので、涙を流さざるを得ないのではないかと思って、神様の代わりに自分が涙を流すということを、自ら感じるというのです。神様の心情で涙を流せる共鳴力が生じれば、霊界が総動員するのです。
(96-282、1978.2.13)

 

お父様! 眠っているこの民族が目覚めるよう許諾してくださり、暗闇にのみ込まれていく全世界人類を救うために、お父様に訴えることのできる息子、娘となるよう導いてください。
(2-335、1957.8.4)

 

3. 希望

信仰生活で希望は、必需的前提要素である。未来を肯定的に展望する視角は、神様が自身の約束を具現するために歴史を運行される、という信仰から始まる。この世界の暴力と抑圧、貧困と悲しみを終結するという神様の啓示が、人類歴史に力強く伝承される。人間は一生の間に自分の希望が成し遂げられるのを見ることができない場合もあるが、依然として死後の人生、すなわち永遠の世界で新しい人生を享受する、という希望を常に抱いている。神様は、人間にこのような希望をもつように創造されたのであり、その希望は私たちの人生を、神様のより近くに導いてくれる。
文鮮明先生は、肯定的で希望に満ちた態度で、宗教的人生を営為しなければならないと教えられる。いくら難しい状況にぶつかっても、確固たる希望と目標を堅持しながら、死までも超越する希望を抱き、永遠の価値に心を固定させなければならない。希望のかがり火をもち、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、そしてそれ以外にヘブル人への手紙で言及された「見えない信仰と希望の確信」を天から受けた人間の足跡を追求しなければならない。私たちは、神様の王国を実現するという希望に満ちあふれていなければならない。特に、メシヤの再臨時代に、文鮮明先生の人生は、その典型となるだろう。

 

ー宗教経典ー

 

若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが/
主に望みをおく人は新たな力を得/
鷲のように翼を張って上る。
イザヤ書40.30~31(キリスト教)55

 

幻がなければ民は堕落する。
箴言29.18(キリスト教)56

 

身よ、主は御目を注がれる/主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。
彼らの魂を死から救い/飢えから救い、命を得させてくださる。
我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。
我らの心は喜び/聖なる御名に依り頼む。
主よ、あなたの慈しみが/我らの上にあるように/主を待ち望む我らの上に。
詩編33.18~22(キリスト教)57

 

言え「わたしはあなたがたと同じ、ただの人間である、あなたがたの神は唯一の神であることが、わたしに啓示されたのだ。およそ何人でも、主との会見をこいねがう者には、正しい行いをなさしめよ、かれの主をあがめまつるにあたり、何一つならべ拝ませてはならぬ。」
クルアーン18.110(イスラーム)58

 

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。
信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。
この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。
信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。……
信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。
これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。
ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。
ヘブライ人への手紙11.1~12.2(キリスト教)59

 

そして、あなたに希望します。おお、主よ、すぐにあなたの権能の勝利を見ることを希望します。偶像崇拝はこの地から消え、偽りのものは完全に滅するでしょう。
世の中があなたの権能のもとに完成し、人類があなたの名を畏敬する法を学ぶ日を期待します。地上の邪悪な群れがあなたの前に悔い改めるその日を期待します。
万民があなたの前にひざまずき、彼らの舌で忠誠を誓うことを悟るようにしてください。おお、主よ、あなたの前に彼らが敬拝し、あなたの名に栄光をお返しするようにしてください。万民があなたの王国を悟り、あなたの主権が彼らの上に早く、永遠に立てられることを願います。あなたの主権によって永遠の栄光の中にいらっしゃることを願います。
毎日の祈り、アレーヌ(ユダヤ教)60

 

今の私以上、どのような人にならなければならないか。福音の著者ヨハネの言葉を見てみよう。「私たちがどのようになるかはまだ分からないが、キリストがお生まれになれば、私たちもその方と同じになることを私たちは知っています」。どのようにしてそれが可能なのか。「私たちがその方のありのままの姿を見るからです」。これは途方もない約束だ。しかし、信仰の報いでもある。……あなたが信じる者ならば、信仰の報いを求めよ。しかし、信じてもいないのなら何の代価で信仰の代価を願うのか。
アウグスティヌス ヨハネ福音書注解 40.9
(キリスト教)61

 

この道が苦労で苦痛だとしても、私たちは雄々しい信仰で未来に向かって歩んでいかなければなりません。低く漂う絶望の雲で疲れていくとき、夜がいつのときよりも暗いとき、これを思い出しましょう。宇宙には巨大な悪の勢力を打ち砕くことのできる創造的力があることをです。この力は、道が見えない所でも道をつくり、暗かったきのうを明るいあすに変えることができる力をもっています。この道徳的宇宙が及ぶ所が小さいことはなく、宇宙はいつでも正義に向かって傾いていることを思い出しましょう。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(注 5)
(キリスト教)62

 

― み言選集 ―

 

希望は蘇生と通じるのであり、あらゆる発展と通じるのであり、勝利と通じるのであり、繁栄と通じるのです。
(64-311、1972.11.12)

 

人間が願う最高の希望は、神様のもとに帰ることです。(注 6)
(68-131、1973.7.29)

 

神様の永遠の希望が残っている限り、今日の私たちにも永遠の希望が残っています。
(1-99、1956.6.6)

 

未来のために生き、勉強も未来のために行い、未来のために闘争し、未来のために見つめていく人は、常に神様が役事するのです。
(97-242、1978.3.19)

 

人間は、一生の間、すべての希望を抱いて生きますが、のちには死にぶつかり、自分が抱いていた希望をみな捨てたまま行ってしまうのです。きょうも生きるのを願い、あすも生きるのを願い、新しい希望を探してさまよっていますが、死にぶつかるようになるときには、希望をもてなかったまま、絶望しながら最後の道を行くのです。人間は、自分を中心として見る時は希望をもっているようですが、死の峠を越えることができる希望をもつことができずにいます。そのような希望をもてないまま消えています。これを人生のパターンだと思って死んでいくべきか、そうでなければ、死を嘲笑して越えていける一つの希望を求めて、その希望を楽しみながら逝くのか。これが、今日、地上で生きている人間たちが考えなければならない重要な問題だと思います。
今日、世の中の万事は、みな過ぎ去ってしまいます。家庭も過ぎ去り、国家も過ぎ去り、世界、あるいはある主義も、みな過ぎ去ってしまいますが、最後に残されるものとは何でしょうか。死と戦って勝利できる一つの希望です。私たちにそのような希望がなければ、人生の敗北者です。
反面、生まれながら世の中の人たちが願う一切の希望を拒否し、人間的なものを一切拒否し、天の希望、永遠の希望を抱いて生きる群れがあります。
天は、人間的な希望を中心として生きている地上の人間に、新しい希望をもって死の峠を越えることができ、永遠の世界を欽慕しながら生きることができるようにするために、無限に苦労されました。ですから、信仰生活をする人たちは、地上のある希望を抱いて生きるのではなく、死までも越えて立てる永遠の希望の世界を夢見て生活しなければなりません。
(6-45 ~ 46、1959.3.22)

 

苦労の中で耐えながら、受難の中で耐えていきながら神様に対して、「私たちの願いをかなえてください」という祈祷の心を、民族が一つとなって歴史を通して継承してきたという事実です。これはいかなる民族にもないものです。普通の民族ならば「神様がいるならなぜこのように苦労をさせるのか」と言って、自分たちを呪う神様と見るはずです。
(168-52、1987.9.1)

 

平和の国に向かって、
平和の天国に向かっていくべき希望の息子、娘が
凜々しく活気に満ちた姿勢を備えて
進むようにしてくださり、
天の勇士たちとなり、
天の精兵たちとなるよう
許諾してくださいますことを、
懇切にお願い申し上げます。
(33-273、1970.8.16)

 

きょうは真の父母様の宣布の日です。
誰も信じることができない世の中であり、誰も望みをもてない絶望的な世の中ですが、一つの希望が芽生えています。
それが正に真の父母だというのです。
(202-341、1990.5.27)

 

冷たい冬の木枯らしよ
残忍なその手を清めよ
春風吹きて香り満ちる
とだえたこの地を呼び起こせ

いかに残忍な雪風も
消えゆく運命のひととき
春風吹きて香り満ちる
とだえたこの地を呼び起こせ

起きよ春の蝶、ひばりよ
荒漠な山河につらい夢
春風吹きて香り満ちる
とだえたこの地を呼び起こせ(注 7)
聖歌 第2部2番

 

4. 確信

神様の摂理を確信する人は、世俗的な問題に執着してはならない。神様は、世俗的な人たちが行うことと関係なく、神様の創造目的を主管し、経綸される。神様は、私たちに必要なものはいつでも与えることができる。ところが、なぜ私たちは生活必需品、お金などを心配するのか。神様は、人間の運命の設計者である。ところが、なぜ私たちは、私たちの努力の結果を思い煩い、心配するのか。永生の次元から見るとき、私たちの死さえも重要ではない。イエス様は次のように語られた。神様は、空には鳥、地には百合を創造してくださったように、私たちが「神の国と神の義」を求め、実現する限り、私たちにもそのようにされるだろう。言い換えれば、私たちが利他心のみをもち、神様の創造目的の具現を熱望するとき、天国の平和の鍵をもつことができる。神様の摂理に対して文鮮明先生は、神様と人間の授受作用という独特な概念をもって説明される。神様が人間に必要なものを下さるように、神様も自身の要求と状況を心配してくれ、天の悲しみを慰労してくれる人を必要とされる。文鮮明先生は、天の苦痛を分かち合おうとされる神様の叫びを体験した。これを体験した人―神様の悲惨な心情を体恤した人―は、人間の悲しみと悩みを神様の悲しみと苦痛と比較するとき、人間の悲しみは何でもないことを自覚するようになる。私たちがある深刻な苦痛にぶつかったとしても、天の悲しみを慰労し、天の苦痛を共有すれば、私たちは本当の幸福と平和を享有できるだろう。そのとき初めて私たちは、天の深い心情を体恤しながら、天への確信と天の保護を体感するようになる。

 

― 宗教経典 ―

 

だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、 「何を食べようか」「何を飲もうか」 「何を着ようか」と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
マタイによる福音書 6.25 ~ 33(キリスト教)63

 

いかに多くのいき物が、己れの糧を確保し得ないであろうか。神こそは、それらとなんじらを養いたもう、かれは全聴者・全知者であられる。
クルアーン 29.60(イスラーム)64

 

易には「憧憧として往来すれば、朋、汝の思いに従う」とある。これについて孔子は次のように言う。天下に何の思いわずらうことがあろうか。天下の物事はみな帰するところは同じで、そこに達する道筋が異なるだけであり、結果は一つことなのに、考えめぐらしかたがまちまちだけなのだから、天下に何の思いわずらうことがあろうか。
易経、周易繋辞、下伝 2.5.1(儒教)65

 

天地を 照らす日月の 極みなく あるべきものを 何をか思はむ
万葉集 20(神道)66

 

物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
フィリピの信徒への手紙 4.11~13
(キリスト教)67

 

諸行為をブラフマンに委ね、執着を捨てて行為する人は、罪悪により汚されない。蓮の葉が水に汚されないように。
身体により、意により、知性により、また単に諸感官のみにより、ヨーギンたちは行為をなす。自己を清めるため、執着を捨て。
〔行為のヨーガに〕専心した者は、行為の結果を捨て、窮極の寂静に達する。
バガヴァッド・ギーター 5.10 ~12
(ヒンドゥー教)68

 

世尊宣はく「跋提梨迦(バッデイヤ)よ、汝は如何なる理を見て、森林に入りても……常にウダーナを唱えて次の如くいふや、 『実に楽なる哉、実に楽なる哉』と」。答へて曰く、「大徳よ、我そのかみ俗人として王者の楽を求めたる時、宮殿内の守備よく設けられ、宮殿外の守備またよく設けられたりき。城内の守備よく設けられ、城外の守備またよく設けられたりき。国内の守備よく設けられ、国外の守備またよく設けられたりき。大徳よ、かく守備警護されてありながら、この我は恐れ案じ疑ひ慄へて日を送れり。然るに大徳よ、今我森林に入りても樹下に坐しても、空家に入りても、唯独りありても恐れなく案ぜず疑はず慄へず、楽少なきも従順に活発に鹿の如き心を以て日を送るなり。大徳よ、我はこの理を見て、森林に入りても……常にウダーナを唱へて次の如くいふなり。『実に……乃至……楽なる哉』と」
感興偈19 ~ 20(仏教)69

 

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
ローマの信徒への手紙 8.28
(キリスト教)70

 

主御自身が建ててくださるのでなければ / 家を建てる人の労苦はむなしい。
主御自身が守ってくださるのでなければ / 町を守る人が目覚めているのもむなしい。
朝早く起き、夜おそく休み / 焦慮してパンを食べる人よ /
それは、むなしいことではないか /主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。
詩編127.1~ 2(キリスト教)71

 

自分の生命を守るのにすぐれた者は、虎や犀に出会うことがない。
戦場においても、危険な武器を身につけない。犀も彼を突き刺すことはできないし、虎も爪でひっかくことができない。
武器も彼を傷つけることはできない。
何故かといえば、彼に死という場所がないからである。
道徳経 50(道教)72

 

武力によらず、権力によらず / ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。
ゼカリヤ書 4.6(キリスト教)73

 

もし主がその権能を取るに足らないありに与えたとしても、数百万の力強い略奪者の群れを一瞬で滅ぼしてしまうだろう。彼が自ら、死に追い込まれていないすべての人たちを強い腕で抱きかかえる。あらゆる努力にもかかわらず、人の苦労は無駄になる。彼以外には誰も救援者でも破壊者でもなく、ただ彼だけが万有の守護者である。
おお、人々よ! なぜそれほどつらく苦しんでいるのか。ナナークが言う。あなたの理解を超えた主に念じよ。実に驚くべき主に念じよ。
アーディ・グラント、ガウリー・スクマニー17
M.5、p.285 ~ 286(シク教)74

 

足切りの刑にあって不具になったものが、自分の容貌を飾ろうとしないのは、もはや世間の毀誉の評判を気にする必要がないからである。鎖でつながれた囚人が、高いところへのぼっても恐れることがないのは、もはや生きる望みを失い、生死を忘れる心境になっているからである。このように生死の恐れを感じないものや、外聞を恥じないものであってこそ、人間であることを忘れることができるのである。人間であることを忘れることによって、天人―自然の人となることができるのである。同様に、たとえ他人が尊敬してくれても喜ぶことがなく、他人が侮っても怒らないということは、ただ自然の安らかさに同ずるものだけにできることである。(注 8)
荘子 23(道教)75

 

人が至上のものとする知恵や作為の道を広めることなく、天において至上とされるもの―自然の道を広めなければならない。天の道を広めれば自然の幸福が生まれるが人の道を広めれば、危害が生まれる。(注 9)
荘子19(道教)76

 

― み言選集 ―

 

統一教会の教会員にとっては、労働時間が8時間ですか。24 時間です。24時間働かなければ、良心的に顔をあげられません。ですから、どれほど違うでしょうか。世の中の人たちは、8時間働いても、家も買い、家庭用品も買い、生活も裕福にするのですが、私たちは 24 時間働いても、家もなく、所帯道具も用意できず、ひたすら死ぬほど苦労ばかりします。ですから、どれほど違うでしょうか。皆さん、違うことが分かりますか。どのくらい違いますか。180 度違います。
それで、絶望していますか、希望をもっていますか。問題はそれです。希望をもっています。それが誇りです。レバレンド・ムーンも同じです。皆さんがレバレンド・ムーンを誇るのは何ですか。天下に恐れるものがありません。私が主張するとき、天下に恐れるものがありません。どれほど堂々としているかというのです。それで、堂々と主張できる特権をもっているという事実を知らなければなりません。
(107-83、1980.4.6)

 

神様のために、天地のために消化し、私の国と私の氏族と私の家庭と私の相対のために消化すると考えなければならないのであって、私のためにしてはいけません。ために消化して生きれば、すべてのものが完成した世界に引っ張られていくのも、私のゆえに引っ張られていくので、私が行くまいとして逃げていっても、引っ張られていきます。天国に行こうとして途中で逃げていっても、引っ張られていくのです。それは、どれほど安心で楽ですか!
一生の間自分を中心として生きれば、「ああ、これも駄目だった! あれも駄目だった!」と言いながら、すべてが心配です。しかし、10 年、20 年ために生きれば、すべてのものが私の友人になるのです。休みなくために生きてみれば、自分が真空状態になるので、真が訪ねてきます。「真のところと一つになろうとするので、神様もついてきて、創造主もそれを願うので、私に属するようになる」、これは理論的です。それで、完全消化を願う人は、完全時代を相続できるのです。
(203-102、1990.6.178)

 

昼のように明るく喜ぶときは、天が教えてくれます。それで、人は明朗でなければなりません。いつも感謝し、気分の悪いことがあれば早く除去し、すぐに忘れてください。それを願うのです。なぜでしょうか。天と向き合える時間的距離を遠くしないためです。
そのような観点から見るとき、自分独りで「ああ」としているよりも、人間には宗教が必要だというのです。「神様! これをすべて受け持ってください。神様! これをすべて処理してください」。すべて天に報告して忘れてしまうのです。それが宗教者の生活です。そうすることによって、天がたくさん接する時間をもとうというのです。このような意味で宗教生活が必要です。そうしながら希望をもつのです。未来の幸福を今から描いていくのです。そうすることによって、天と接近できる環境的与件をたくさんもとうというのです。
(91-272 ~ 273、1977.2.27)

 

人と人同士集まる所は、
解こうとしても、
かえってもつれることが起こりますが、
天を中心として集まる所では、
心にしこりになったことが
解けるという事実を知っています。
(7-13、1959.7.5)

 

皆さんがここで商売をするにしても、伝道をするにしても、何をするにしても、祈祷して精誠を尽くしていけば、すぐに見せてくれます。どのような人に会うかということまで見せてくれます。皆さんが伝道に出ていけば、考えてもいない所にしきりに行きたいという思いがわくのです。そこに行ってみると、神様が愛する人と出会います。そのような体験をするのに、「神様はいない」と言うことができますか。
(69-288、1974.1.1)

 

先生は、血を吐いて死ぬ境地でも、歯を食いしばって闘ってきたことを知らなければなりません。血を吐きながらも、「お父様! 私を助けてください!」とは言いませんでした。「私は、死ぬとしても、愚か者ではありません。世の中の意気地のない者と思わないでください。私は、死ぬとしても、神様のために死ぬので、私のために心配しないでください!」、そのような祈祷をしようとしたのであって、「ああ! 私は死にそうです。私に苦労をさせずに放してください!」とは言いませんでした。私はそのような祈祷を学んだこともなく、したこともありません。私たちの困難を神様は、すべて知っているのです。
(93-321、1977.6.12)

 

5. 感謝と恩恵

感謝する心は、日常的信仰生活の原動力である。真実な信仰の所有者は、いつでも天の栄光と権能が自分を守ってくれていることを心に刻みながら、常に感謝する。家族全員に日常の糧を下さることに感謝し、食卓の上に置かれた食事に感謝を捧げる、ごく単純な家庭生活のこの慣習は、子女たちが感謝することを学ぶ出発点である。私たちの道を導かれ、不足を補完してくださる神様の栄光をいつ、どこででも感じるとき、感謝する内容はより多くなる。困難にぶつかったとき、その状況を成長のための機会として、そしてそれを通して私たちをより高い愛と奉仕の境地に導こうという、天が下さった贈り物として、私たちは受け入れることができる。感謝の生活は、神様のリズムに合わせ、神様と共に生活する唯一の方法である。私たちの生活に、不平を言う余地は全くない。不平は、正に私たちと神様を分離させ、私たちの人性を害する霊魂の毒きのこである。
これまで私を愛してくれ、精誠を尽くしてくれたすべての方たち―父母、先生、兄弟姉妹、配偶者―の恩恵を詳細に考えてみれば、そして私の人生を支え、保護してくれたあらゆるもの、土、水、空気、それらの副産物、太陽、地球、月の公転および自転、食事を用意してくれた調理師、警察官と消防官、病院と医師、家庭の家電製品、自動車などをじっくり考えてみれば、感謝する内容が限りなく増大するのである。どの側面から見ても、私たちは生命の源泉であり、慈悲の主体であられる神様に負債を負った人生を享受している。この恩恵に、果たしてどのように報いることができるだろうか。万事に感謝する姿勢と、人に施す美徳は、私たちが指向すべき究極的目標である。

 

①神様の贈り物に対する感謝

― 宗教経典 ―

 

信仰する者よ、われがなんじらに与えた、よいものを食べよ、もしなんじらがほんとうに、神に仕えるのであるならば、かれに感謝せよ。
クルアーン 2.172(イスラーム)77

 

この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。
テモテへの手紙一 4.3 ~ 5
(キリスト教)78

 

アブラハムにより、彼が接待したすべての旅行者たちに神の名が広く知られるようになった。旅行者たちが食べ物を食べ、飲み物を飲んでからアブラハムに祝福を施すとき、アブラハムは彼らにこのように言った。「あなたたちが食べたものは私のものだと思うのか。あなたたちが食べたものは神に属するものだ。ゆえに、御自身の言葉で世を創造された神を賛美し、祝福せよ」。
タルムード、ソーター10b
(ユダヤ教)79

 

神こそは、なんじらのために夜を設けたまい、それでなんじらは休息する、また見えるように昼を設けたもう方であられる。神は人間に対し、まことに恵み深くあられる、だが人びとの多くは感謝しようとせぬ。神はなんじらのために、大地を休息所とされ、大空を天蓋となされ、また、なんじらに姿を授けて、みごとに形作りたまい、もろもろの良い給与を支給された方であられる。これがなんじらの主神であられる。よろず世の養育の主神を祝福し奉る。
クルアーン 40.61,64(イスラーム)80

 

いざこども さかしらせずて 霊ぢはう 神のみしわざ たすけまつろへ
(さあ、子供たちよ、りこうぶるまいを捨てて、神のみたまが幸福を与えるその神の仕事をお助けしよう。)

たなつ物 ももの 木草も 天照す 日の大神の めぐみえてこそ
(食物もいろいろの草木も、天照大神の恵みがなければ成育せず得られないものである。)

朝よひに 物くふごとに 豊宇気の 神のめぐみを おもへ世の人
(朝に夕に、食事をするたびに、みけつ神である豊受大神の恵みを思い感謝しなさい。世の人よ。)

天地の神のめぐみし 無かりせば 一日一夜も あり得てましや
(天地の神の恵みがなかったならば一日一夜たりといえども過ごすことができようか。)

世々の祖の みかげ忘るな 代々の祖は 己が氏神 己が家の神
(世々の先祖のご恩を忘れるのではない。代々の先祖は自分の氏神であり、自分の家の神である。)(注10)
本居宣長 玉鉾百首(神道)81

 

比丘衆よ、我は二人には報い尽すこと能はずと説く。誰をか二人とす。母と父なり。百歳の寿あるて、百歳の間活きて一肩にて母を荷ふべし、一肩にて父を荷ふべし、彼は父母を塗身、揉和、沐浴、按摩に由って看護すべし、父母は肩上にて放尿遺棄するも、比丘衆よ、されど尚ほ父母に事へ、恩に報ひしに非ず、比丘衆よ、父母をして、この多の七寶に富める大地の支配者たる王位に就かしむるも比丘衆よ、尚ほ、父母に事へ恩に報ひしに非ず、其は何故か、比丘衆よ、父母は多の方法にて子を扶養し保育し、この世を見せしむ。
比丘衆よ、而して不信の父母に勧めて信を発せしめ、 〔信に〕入らしめ、佳せしめ、破戒〔の父母〕に勧めて戒を持たしめ、〔戒に〕入らしめ、佳せしめ、慳悋〔の父母〕に勧めて捨施を行わしめ、 〔捨施に〕入らしめ、佳せしめ、悪慧〔の父母〕に勧めて正慧を発さしめ、 〔正慧に〕入らしめ、佳せしむ、比丘衆よ、此を斉つて父母に事へ恩に報ひたるものなり。
阿含経増支部 i. 61(仏教)82

 

私たちが親切にした人が感謝を表さなければ、私たちの所有物を奪ってしまう強盗よりも悪い。
ヨルバ族の格言
(アフリカ伝統宗教)83

 

栄えるときは自分たちの神に栄光をお返しし、逆境に遭うときは神を恨む者たちのようにあなたはなってはいけない。喜ぶときも苦痛のときも、常に感謝せよ!
出エジプト記メヒルタ20.20
(ユダヤ教)84

 

― み言選集 ―

 

善なる人は、食べ物に対しても、まず天、次に地、その次に人類を考えてから食べる。
御旨の道、善と悪

 

信仰生活の本質とは何でしょうか。神様に感謝する心です。そのような心があるとき、それが、堕落の因縁を越えて神様と私が一つの因縁で結ばれる基になるのです。自分がこの世の中で良い立場に立って、初めて感謝しなければならないのですか。違います。今まで神様は、良いときだけ私たちのために苦労してこられたのではありません。困難なときであるほど、より苦労することを誓われたのです。ですから、今日の私たち自身も、神様を私の父として侍るためには、私の代わりに働かれ闘ってこられた神様に、良い立場で感謝することよりも、困難な立場でより一層感謝しなければなりません。したがって 、 過重な十字架の途上でも神様に感謝できるというのは、このような原則を理解するときに可能なのです。
(29-338、1970.3.14)

 

私たちがお父様の精誠を知る息子なら、
眠りから覚めても
罪人の恥ずかしい姿を
隠すことのできない心苦しい気持ちで、
ひれ伏すまいとしても
ひれ伏さざるを得ないことでしょう。

朝の食膳に向かう場で、
「私」がこの御飯を食べて
何をするのかを自ら尋ねる
自分となるようにしてくださり、
昼の食膳に向かうときには、
今まで「私」が何を残したか
という問いに、
恥ずかしい姿で自責する
自分となるようにしてくださり、
夕べの食膳に向かうときには、
一日を清算するに不足のない
一日を送ったかを、
自問することのできる
自分となるようにしてください。

お父様のものとして一日を始め、
お父様のものとして
この時間まで来たのか、
またお父様は「私」に
どれほど関心をもっていらっしゃるのかを考えるときに、
価値あるように過ごすべき一日を、
何も残せず空の体をもって
この世の心で過ごした一日では
なかったかを考えて、
惜しむ心でお父様のみ前に
涙をもって謝罪し、
床に就ける子女たちとなるよう
お許しください。

私たちは感謝する生活をしなければなりません。

むち打たれるような場でも、
血を吐くような場でも
感謝の生活をしなければなりません。

数多くの先祖たちが
そのような場でお父様を裏切ったので、
そのような歴史的な悲しい恨みの
御心情を抱いてこられたお父様に、
孝の中の孝の道理と、
忠の中の忠の道理を全うすべき
私たちであることを知るものです。

ここで私たちが
恨みと不平をもっては、
その立場に立つことができないということが分かるようにしてくださり、
そのような自分を発見することを
恐れる姿となるようにしてください。

この世では哀れで弱い人であっても、
このような人以上に恐ろしい人は
ないということが
分かるようにしてください。

私たちは感謝して
生活することしかありません。

一人の男性の前に結ばれた妻が
不足だとしても、
生涯を通して奉仕できる
その何かがあるので、
その妻を下さったことに
感謝しなければならず、
あるいは子供が「私」に
十字架の一生をくれても、
そうすることのできる立場を
準備してくださったことに
感謝しなければならず、
環境が「私」に
生涯を支えられない
絶望のどん底に追い込んだとしても、
それをいかなる条件を立ててでも
感謝の因縁として残して倒れよう、
と言える息子となり、
お父様の人となるよう
お許しくださいますことを
切にお願い申し上げます。
(29-348 ~ 349、1970.3.14)

 

私たちと出会うようになった
この因縁は、
私たちの能力で出会ったのではなく、
お父様を中心として
数千万代の先祖が橋を架け、
その土台を広げに広げた
功績によるものです。
きょうこのように出会うひと日を
もてるようにしてくださった
すべての恩賜を、
私たちが有り難く感じられるよう
お許しください。
(39-78、1971.1.9)

 

忍耐して辛抱するだけでは不足です。忍耐と辛抱だけして、「ああ、大変だ」と言ってよいのですか。忍耐して辛抱したとしても、忍耐して辛抱していないかのように感謝する心と賛美する心をもって忍耐し辛抱しなければならないのであって、不平を言いながら忍耐すれば、神様が来る途中で逃げていかれます。忍耐して辛抱するときは感謝する心が必要です。感謝する心がなければ、忍耐できません。感謝する心が支柱になれなければ、忍耐したとしても、そこには神様が一緒にいることができません。(44-28 ~ 29、1971.5.4)

 

神様は、皆さんのお父様です。血、生命、血統が連結され、誰も干渉できない絶対的な因縁の結束体です。ところが、神様を知らないではないですか。神様の愛や、神様の生命や、神様の血統という言葉は聞きましたが、実際に神様の涙ぐましい心情を感じてみたことがありますか。皆さんの骨髄がすすり泣くような痛みを感じてみたことがあるのかということです。山川草木を見つめるとき、自らの行く道を見失ってしまうほど神様に感謝する心を、一日に一度、二度感じてみなければ、本来の心情世界と通じることのできる道がありません。
(371-115、2002.2.24)

 

先生が教えてあげたあとでやらなければ、仕方がありません。神様もどうすることもできません。先生もどうすることもできないのです。ですから、天国へ行くか、地獄へ行くかは自分自身が決定するのです。レバレンド・ムーンが決定するのでなく、神様が決定するのではなく、自分が決定するのです。不平を言えば地獄であり、不平を言いたい時に感謝していけば天国だというのです。
(96-122、1978.1.2)

 

感謝は、どのようなときにしなければなりませんか。楽で良いときにするのではなく、困難でつらいときにしなければならないのです。それを知らなければなりません。感謝の心情を中心として、きょうこの現在を神様が比較、審判しているのです。法廷でもそうではないですか。法廷で判事や検事たちが求刑するとき、それを有り難く思って受けようとする人には刑を減らしてあげようとするのが判事の心情であり、検事の心情だというのです。
(104279、1979.6.1)

 

②「ために生きる」人生で報いる神様と自然と先祖に対する負債

― 宗教経典 ―

 

にんけんハみな/\神のかしものやなんとをもふてつこているやら
おふでさき 3.41(天理教)85

 

あらゆる人は実に生れながらにして、神々に対し、聖仙に対し、祖先に対し、人間に対し、債務〔を負う者〕として生れる。
彼が祭祀せねばならぬという事実から、彼は神々に対し、債務〔を負う者〕として生れる。されば彼が彼ら(神々)に祭祀を行い、彼らに供物を捧げるとき、彼らに対しこれを行うのである。
次に人がヴェーダを学習せねばならぬという事実から、彼は聖仙に対し、債務〔を負う者〕として生れる。されば彼は彼ら(聖仙)に対しこれを行うのである。何となれば、人々はヴェーダの学習者を、聖仙の財宝の守護者と呼ぶから。
次に人が子孫を欲せねばならぬという事実から、彼は祖先に対し、債務〔を負う者〕として生れる。されば彼は彼ら(祖先)の子孫が連綿として絶えないよう、これを行うのである。
次に人が〔客人を〕宿泊させねばならぬという事実から、彼は人間に対し、債務〔を負う者〕として生れる。されば彼は人々を宿泊せしめ、彼らに食物を与えるとき、彼らに対し、これを行うのである。これらすべてを行う人、彼はその義務をなしとげた者である。彼によりすべては到達され、すべては獲得される。
シャタパタ・ブラーフマナ1.7.2.1~ 5
(ヒンドゥー教)86

 

ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
マタイによる福音書18.21~ 35
(キリスト教)87

 

― み言選集 ―

 

生命がどこから来ましたか。元を探せば、何もありません。皆さんの父母が元を探せば、何もないというのです。すべての万物が「私のものをくれ」と言うとき、どうするつもりですか。生命の根本であられる神様も、生命を返してくれと言えば……。何もありません。すべて自分のものではないのです。“私”という存在は、負債の山の上に上がっていることを知らなければなりません。
皆さんは、負債を返しましたか。負債を返そうとしていますか。ですから、負債を負った人は感謝しなければなりません。貸した人が「返してくれ」と言わず、「私のものだ」と言わないことがどれほど感謝なことか、考えてみなさいというのです。負債を負った人が負債を免じられたあと、自分が貸した相手に「私が貸したものを返せ」と言えば、かえって罰を受けるという聖書の逸話と同じ道理です。 (注11)ですから、負債を負った人として負債を返そうとするので、仕方なく私たちは人のために生きざるを得ないのです。「ために生きる」ところにおいてのみ、赦しを受けられると見るのです。無条件に受けたので、人のために無条件に施してあげれば、赦しを受けることができるのです。
(93-193、1977.5.29)

 

信仰者として、最も重要な姿勢は何でしょうか。負債を負った人の姿勢です。皆さん、負債を負ってみましたか。負債を負ったものがなければ、少し負債を負って鍛錬してみてください。負債を負った人の苦労は、このようなものなのだなあということを知ってみてください。負債を返すことができない立場に立ってみなさいというのです。本当に悲惨です。一銭でも負債を負えば、その条件で胸ぐらをつかまれることもあり、根本的に人格を否定されるのです。そうではないですか。そこには人格がありません。
(43-108、1971.4.25)

 

「神様、心配なさらずになしていきましょう」と勧告の祈祷をしなければなりません。堕落した人類がどれほど多いことでしょうか。神様がどれほど疲れたことでしょうか。身もだえしてこられた神様が、どれほど疲れたことかというのです。「心配なさらないでください。私がなしてさしあげます」と言ってこそ、よいのです。すべてをそのように祈ると、神様も「あなたは立派である。将来性がある」と思うのです。同じことです。
「神様、きょうたくさん売れるようにしてください」というような祈祷はしないでください。「神様、私はあなたのために精誠を尽くし、捧げるときも精誠を尽くします。歴史上のいかなる人のものよりも貴くお受けください」と言えば、神様も、「あなたは見込みがある」と言って喜ばれるのです。
(93-22、1977.5.8)

 

神様の恵みを受けるために、皆さんは何でその代価を払うのか。「孝子のわきあふれる愛で払います」と言わねばならない。
御旨の道、祝福

 

どんなにいら立たしく、
どんなに物悲しく、
どんなにかわいそうな立場に
置かれている私たちだとしても、
私たちよりもっとかわいそうな
お父様がいらっしゃることを思うとき、
その前に私たちが祭物となり、
私たちよりもっとかわいそうな
お父様を慰労してさしあげるべきであることを知りました。
(25-41、1969.9.28)

 

6. 神様に対する畏れ

神様への畏れは、肯定的な情緒である。このような情緒が私たちに、悪いことから遠ざけ、正しいことをするように主導するからである。神様を畏れない人は、神様の処罰を恐れないので、簡単に罪を犯す性向をもつようになる。そして、そのような人は、神様の実在を否定し、自分たちの行動を正当化する。時として彼らは、宗教的道徳規範は個人の自由のために除去されなければならない足かせと同じだという現代理論を論じながら、自分たちを合理化する。しかし、文鮮明先生は、堕落によって恐怖自体が否定的な情緒として定着したのであり、恐怖が人間の考えを支配し始めるとき、人間はあらゆる種類の自己中心的行動を表すようになると語られる。
神様に対する高度な畏敬の念、崇拝と畏れ、神様への奉公心は人間の本質的要素である。このような畏敬の念が、私たちの人生の段階と段階を導いてくれるのである。この心はまた、自分の人生と存在目的が自分のものではなく、神様に由来しているという事実を常に想起させてくれる。そしてこれが、私たちは神様の子女であり、神様の栄光に同参した同労者だ、という意味と価値観を形成する主動力になる。

 

①道徳的行為を刺激する神様に対する畏れ

― 宗教経典 ―

 

なんじら信仰する者よ、十分な畏敬の念で神を畏れ奉れ。ムスリムによらず、死んではならぬ。(注12)
クルアーン 3.102(イスラーム)88

 

主を畏れることは知恵の初め。
箴言 9.10(キリスト教)89

 

人に対して恐れをもつほど、天に対する恐れをもて!
タルムード、ブラホート28b(ユダヤ教)90

 

あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを / 何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。
イザヤ書 8.12 ~13(注13)(キリスト教)91

 

神はこよなき美しい教示を、互いに似ている、種々の立場で繰り返し経典として啓示したもうた。主を恐れる者は、それによって膚はおののき震える。そのとき神をたたえ唱念すれば、膚も心もやわらぐ、これが神の導きである、かれは、み心にかなう者を導きたもう。だが神が迷うに任せたもう者には、それを導く者はない。
クルアーン 39.23(イスラーム)92

 

比丘たち、これらの二つの善いものが世間を護るのである。二つのものとは何か。慚と、愧とである。比丘たち、もしも、この二つの善いものが世間を護らなければ、母親と母の姉妹や母の兄弟の妻と諸師の妻たちとの区別とが認識されないであろう。あたかも山羊と羊と、雄鶏と雄豚と、犬とジャッカルとの場合のように、世間は混乱してしまうであろう。しかし、比丘たち、この二つの善いものが世間を護っているから、そのために母親と母の姉妹や母の兄弟の妻の区別とか、先生の妻たちとの区別とが識別されている。
如是語経 42(仏教)93

 

神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。
ヨハネの黙示録14.7(キリスト教)94

 

主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。
出エジプト記14.30 ~ 31(キリスト教)95

 

口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
ローマの信徒への手紙 3.14 ~19(キリスト教)96

 

― み言選集 ―

 

今まで神を信ずる信徒たちが罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うものではなかったからである。神が存在するということを実感でとらえ、罪を犯せば人間は否応なしに地獄に引かれていかなければならないという天法を十分に知るなら、そういうところで、誰があえて罪を犯すことができようか。
原理講論、総序

 

アダムとエバが完成期に至って神様から祝福を受ける前、すなわち彼らがまだ 10 代の青少年の時、天使長はエバをそそのかして姦淫したのです。それにより、天使長はサタンとなりました。そして、アダムもまた、堕落したエバと関係を結ぶことによって堕落しました。人間の歴史は、まさしくこのように不倫の種を蒔くことによって始まったのです。その結果、今日、不倫の関係が蔓延しています。特に、10 代の青少年たちは、性的堕落の犠牲者となっています。先進国の社会は、聖書の中のソドムとゴモラとほとんど変わりません。神様は、このような不倫の愛を嫌われます。私たちは、神様の怒りを恐れなければなりません。神様の懲罰が切迫しています
(201-206 ~ 207、1990.4.9)

 

エバは、神様の天理法度では本来アダムが夫になることを知りました。それで、今からでもアダムの懐に戻れば神様に対する恐れを避けることができる、と思って戻っていきました。そして、サタンの愛を中心として恐怖と自主性が結託し、結局は、アダムまで愛にひざまずくようになりました。そうすることによって、恐怖と自己主張する血統の歴史が続いていき、終わりの日になると、個人主義世界の版図として亡国の世界になってしまったのです。
(256-230、1994.3.13)

 

エデンの園でアダムとエバが堕落して恥ずかしさを感じ、無花果の葉で腰を隠したのですが、今日のアメリカの若者たちは、公園でありとあらゆることをしながらも、恥ずかしさを感じることができずにいます。復帰できる見込みもないというのです。ですから、戻れません。アダムとエバは、恥ずかしいと思う心をもっていて、悔い改める心がありましたが、彼らには、悔い改める心どころか、恥ずかしく思う心もありません
(95-149、1977.11.11)

 

②尊敬と畏敬

― 宗教経典 ―

 

主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ。
ハバクク書 2.20(キリスト教)97

 

地獄の炎は次の二つの目には入っていかない。神の道において常に目覚めている目と神を畏敬し震える心で濡れている目だ。
ダーリミー・ハディース(イスラーム)98

 

目に見えぬ 神の心の 神ごとは かしこき物ぞ おほにな思ひそ(目に見ることのできない神の心による神事はおそれ多いものである。いい加減に思ってはいけない)
本居宣長 玉鉾百首(神道)99

 

真の信者は、神のことに言及されるとき、その胸が畏敬の念でおののく者たちで、かれらにしるしが読唱されるのを聞いて、信心を深め、主に信頼する者たちである。礼拝の務めを守り、われが授けたものを使う者たちである。これらの者こそ、真の信者である。かれらは主のみもとで高い位階を得、また寛容と栄誉ある給養を賜わる。
クルアーン 8.2 ~ 4(イスラーム)100

 

神を畏敬することはこの上なく重要だ。慢心はむなしく、騒々しいだけであるから
そのように大きな畏敬の威厳のもとにかけよ。
聖なる恩寵により神の知恵を得るだろう。
畏敬をもたない者は、誰も存在の大洋を越えることができない。
神を畏敬することによって、恐怖に踏みつけられていた人生が
聖なる愛で美しくなる。
神を畏敬することによって、恐怖の炎が人の中で光を発する。
神を畏敬することで愛が崇高な美をたずさえるだろう。
神を畏敬しない者の言葉は、ただ過ちであり、むなしいものであり、
その骨と形をつくるための努力はすべて目を遠くし……。
神を畏敬することによってあらゆる恐れが消えるだろう。
他のすべての恐れをなくしてしまう神に対する畏敬、
どうしてこれを恐れと言うことができるだろうか。
あなた以外にはどこにも安息所はなく、
起きるすべてのことがあなたの御意志だ。
もし神ではない他のものを恐れるなら、
それはただ心の不安にすぎないことを知れ。
アーディ・グラント、ガウリー
M.1、p.151(シク教)101

 

― み言選集 ―

 

お父様!
私たちはお父様の悲しい歴史路程を
回想するなら、
おそれ入る心を禁ずることができず、
苦労なさるお父様の
性相に対する時ごとに、
おそれ多い心を
禁ずることができません。
(6-329、1959.6.28)

 

千年、恨の中で受難の道を、自分自体を制御しながら口をつぐんで忍耐してこられたその神様を尊敬できなければなりません。「神様は本当に私の父です」と言える心を、皆さんはもたなければなりません。私がそれ以上に忍耐しても、父の伝統を千年、万年の後代にまで残せる中心先祖になろうと決意をしなければならないのです。
(363-254、2001.12.25)

 

口があっても語らず、言葉を誤って天道に背くかと恐れる心をもっていく道が、この道です。なぜですか。神様のためです。語ることができなくて語らないのではありません。不平を言うことを知らなくて不平を言わないのではありません。神様のためにそうするのです。
(67-316、1973.7.22)

 

普通の人は、恨み、落胆し、天を呪うにもかかわらず、天を畏敬し、天のために再び誓うことができるこのような立場に立つとき、天はより一層大事に思うのです。取るに足らない人たちを連れ、少数の群れをもって世界を復帰するという神様の事情と心情が、どれほど息詰まるものでしょうか。
(93-217、1977.6.1)

 

人間たちは
お父様のみ愛を受けつつも、
今日まであなたに感謝することを知らず、
恩を返すことも知りませんでした。
このような現実でも、
そうであるほど、いつかはみな与えようという決意をもたれ、
強く大胆に悲しい歴史を
引っ張ってこられたお父様の内心を私たちは察する者です。
きょう、お父様の悲しかったお心を打ち明け、
世界を代表して、歴史を代表して、
天宙を代表して与えたかった
御心情を吐露するこの時間、
あなたのみ前に全体を受けて
全体を与えることのできる
息子、娘となれないのではないかと
恐れを感じるあなたの息子、娘が
この場に集まりました。
(35-289、1970.10.25)

 

7. 疑心

見えないものに対する信仰は、不可避的に疑心を呼び起こすこともある。非現実的な信仰的教理、信仰生活においての挑戦、今日、世俗的環境の中にまんえんした懐疑主義によって、人間の疑心はだんだんと膨れ上がっていく。信仰の海を渡る信仰者に、解けない疑問が積み重なると、その重さがだんだんと重くなり、さらには沈没するようになる。ちょうど、ペテロが水の上を歩くことに失敗したという逸話のようにである。
ある疑懼の念を抱いたとき、それを克服する責任は各自にある。もちろん、理性的にも解けない質問に満足する答えを探し出すことはできる。しかし、究極的にはその段階を飛び越え、生きた体験を通して、神様を知る段階まで進んでいかなければならない。

 

― 宗教経典 ―

 

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
ヨハネによる福音書 20.24 ~ 29
(キリスト教)102

 

ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
マタイによる福音書14.24 ~ 31(キリスト教)103

 

比丘が師を疑う、怪しむ、確信しない、信じない場合、その心が熱心に、専心に、堅忍に、努力に向かうことはありません。これが、そのように心が熱心に、専心に、堅忍に、努力に向かわないかれに捨てられていない第一の心の不毛です。……比丘が法を疑う、……比丘が僧を疑う……比丘が学を疑う、怪しむ、確信しない、信じない場合、……その心が熱心に、専心に、堅忍に、努力に向かうことはありません。
阿含経中部 i.101, 心不毛経
(仏教)104

 

あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。
ヤコブの手紙1.5 ~ 7(キリスト教)105

 

なんじがもしわれの下したものについて疑いをもつならば、なんじ以前の経典を、読んでいる者に問え、確かに真理は主からなんじに来たのである。それゆえなんじは懐疑者のたぐいとなってはならぬ、またなんじは、失敗者にならぬよう、神のしるしを、虚偽だとする者のたぐいであってはならぬ。
クルアーン10.94 ~ 95(イスラーム)106

 

同参には信仰的確信が伴う。分裂には信仰の疑心が伴う。二つとも信仰において核心要素である。時には確信によって疑心を克服するが、それがただちに疑心事態を除去することはできない。きょうの敗北者があすの勝者になることもある。時には疑心が信仰心に勝つが、それでも信仰心は依然として残っている。そうでなければ、それは無関心だろう。……
私たちの究極的関心の対象は神であられる。いかなる信仰行為にも常に神が介在されている。さらには、神を否定する行為にまでもである。……無神論も結局はある究極的関心をなくそうとする試みである。つまり、その方の存在意味に対して無関心にさせようということである。究極的質問に対する無関心は、私たちが考え出し得る唯一の無神論の形態だ。疑心は信仰の反対の言葉ではなく、信仰の一要素にすぎない。
ポール・ティリッヒ(キリスト教)107

 

― み言選集 ―

 

神様を信じますか、神様を知っていますか。神様を知っていれば、神様の愛を信じますか、神様の愛を知っていますか。神様の生命があれば、生命を信じますか、知っていますか。神様の血統があれば、神様の血統を信じますか、知っていますか。信仰というものは何ですか。ヘブル人への手紙の第 11章を見れば、「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」とあります。抽象です。実在と関係ありません。それを知らなければなりません。
(359-87、2001.11.6)

 

信仰と現実で、信仰というのは漠然としていますが信じることができるものであり、現実ははっきりしていますが、信じることができないものであることを皆さんは知らなければなりません。神様を中心とする信仰は、変わるもののようですがそうではありません。
(66-49、1973.3.18)

 

常に、信仰が大きいときには現実が小さく見えるし、信仰が小さくなるときには現実が大きく見えるようになる。
御旨の道、試験・試練

 

皆さんがいる周囲の環境からもつようになった疑心を下ろして 、「お父様、私の心と体からこれを除いてください」と言うことができなければなりません。罪悪に捕らわれている自分を、お父様やある信仰の主体者の前にそのまま委ねることができる勇気をもたなければなりません。そうでなければ、そのような心情だけでも心の中心に立てて考えなければなりません。そのようにできなければ、皆さんは信仰の道を歩んでいくことができないのです。
神様が人間を訪ねてこられるとき、どのような条件を提示されるのかというと、信仰を提示されるのです。それで人間は、信仰で自分のすべてのものを忘れ、疑心をもたせる環境を打破して、信じることができる環境を造成しなければならず、罪悪の環境を整理して善の環境をつくらなければならず、死亡の環境を打破して、生命の環境を造成しなければなりません。
したがって、皆さんは、皆さんと関係したこのようなすべての宇宙的な疑心を背負い、「神様、私は今、宇宙に対するあらゆる疑心をもってきましたので、あなたと私の間に天倫的な因縁があるとするならば、私をお捨てにならないあなたであることを知っておりますので、このすべての疑心を受けて解明してください」と言いながら、神様に任せてしまえる度胸もなければならないというのです。
告白するそれ自体も聖なることだと言えるのですが、真実の自分がぶつかった宇宙的な意識の限界に対して挑戦できる誠実性をもち、天の前に「お父様! 神様!」と呼ぶときは、お父様も彼と向き合ってあげなければなりません。神様には、そのような人に向き合ってあげなければならない責任があるのです。
(3-11~13、1957.9.8)

 

神様の存在を信じる私たちは、その神様を私たちの日常生活で実証を通して見ることができなければならず、世界が否定できない神様として浮き上がらせなければなりません。
(120-100、1982.10.5)

 

8. 偽善

ある人が宗教的教理によって卓越した道徳的基準に入門したとしても、そこには常に偽善の危険が潜んでいる。偽善者たちは、内的にそうではなくても、外見で道徳的で宗教的性向を見せれば、同僚たちが自分を認めてくれ、教会から恵沢を受けるために宗教をもつこともある。宗教は信仰者たちに高い道徳性を要求する。怨讐を愛しなさいというイエス様の教え、イスラームの聖典、仏教の厳格な禁欲の教えなど、宗教的人生は相当な霊的訓練を要求する。しかし、偽善者たちは、このような側面は回避しながら、外観上だけで正義を見せようとする。彼らは、戒めに従うにおいて、いかなる苦労の代価も支払わないために霊的結実がなく、低級な霊的状態にとどまるようになる。
さらに、このような偽善が宗教に蔓延すれば、宗教者たちの基準まで崩れ落ちるようになり、宗教が汚名をかぶるようになる。歴史を研究した文鮮明先生は、キリスト教精神が貧困の澎湃と人種差別を認め、これを正当化しようとする富裕層の威信と符合したとき、その根本精神が変質したのであり、これが19、20 世紀に物本主義思想を膨張させた直接的な原因になったとされる(第8章参考)。これに対して先生は、宗教が真の精神を回復するとき、地球上に恒久的平和が定着し、霊的文明を再創造できると教示される。

 

― 宗教経典 ―

 

律 法学 者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。
マタイによる福音書 23.27 ~ 28
(キリスト教)108

 

邪悪な品性をもった者は、たとえ敬虔な人たちの見かけを努めてまねるとしても、もし自らを統御し、偽善の内面をなくすことができなければ、悲しみから抜け出すことはできないだろう。
ウッタラッジャーヤー・スートラ20.43
(ジャイナ教)109

 

律法の言葉から何かの利益を追求しようとする者は、自己破滅に手を貸しているのである。
ミシュナ、アヴォート4.7(ユダヤ教)110

 

袈裟を頭から纏っていても、性質が悪く、つつしみのない者が多い。かれら悪人は、悪いふるまいによって、悪いところ(地獄)に生まれる。戒律をまもらず、みずから慎むことがないのに、国の信徒の施しを受けるよりは、火炎のように熱した鉄丸を食うほうがましだ。
法句経 307(仏教)111

 

弟子たちから財物を奪う師は多いが、彼らの苦悩を減らしてくれる師はまれだ。
クラールナヴァ・タントラ13(ヒンドゥー教)112

 

茅草でも、とらえ方を誤ると、手のひらを切るように、修行者の行も、誤っておこなうと、地獄にひきずりおろす。その行いがだらしがなく、身のいましめが乱れ、清らかな行いなるものも怪しげであるならば、大きな果報はやってこない。
法句経 311~12(仏教)113

 

災いなるかな、礼拝する者でありながら、己れの礼拝をゆるがせにする者、見られるための(礼拝にすぎぬ)者、また(隣人の)必需さえも断わる者は。
クルアーン107.4 ~ 7(イスラーム)114

 

不浄な方法で得たはかない供え物で神に捧げる祈りは受け入れられない。義の心で祈りなさい。そうすれば神はあなたの求めを聞き入れてくださる。間抜けな者は、性急な熱情で、義の道に従うこともしないのに、神の加護を得ようとする者である。
神道烏伝祓除抄(神道)115

 

見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
マタイによる福音書 6.1(キリスト教)116

 

信仰する者よ、なんじらは人びとに見せるため、所有するものを使う者のように、また神も終末の日も信じない者のように、負担や侮辱を感じさせて、己れの施しを無益にしてはならぬ。かれらをたとえてみれば、ちょうど土をかぶったなめらかな岩のようなもので、大雨が降れば裸になってしまう。かれらはそのかせいだことに対し、なんの得るところもないであろう。神は不信心の者を導きたまわぬ。
クルアーン 2.264(イスラーム)117

 

高い道義の人は行動するが、動機をもってするのである。
最も礼儀のある人は行動するが、誰れもそれに従わず、
それで、袖をまくり、相手を引っぱろうとする。
道徳経 38(道教)118

 

医者よ、自分自身を治せ
ルカによる福音書 4.23(キリスト教)119

 

愚者よ。螺髪を結うて何になるのだ。かもしかの皮をまとって何になるのだ。汝は内に密林(=汚れ)を蔵して、外側だけを飾る。
法句経 394(仏教)120

 

また人びとのうちには「わしらは神を信じ、最後の審判の日を信ずる」と、言う者がある。だがかれらは信者ではない。かれらは神と信仰する者たちを、欺こうとしている。だが己れを欺くにすぎぬ、かれらはそれに気づかない。かれらの心には病が宿っている。神はその病を重くしたもう。偽ったために、かれらには手痛い刑があろう。かれらに「おまえたちは、地上を退廃させてはならぬ」と、言われると、かれらは「わしらは、 矯正するだけのものである」と言う。いや、まことにかれらこそ、退廃を引き起こす者である、だがかれらはそれに気づかない。(注14)
クルアーン 2.8 ~12(イスラーム)121

 

― み言選集 ―

 

彼を利用しようとする心をもってみ言を伝えては、絶対に道の基準が立たない。真実をもって与えなさい。
御旨の道、伝道

 

私は、世界と人類の将来に対する長年の省察と祈祷を通して、今の世界を覆っている神様の情熱的な願いと強い聖霊の役事を感じてきています。これは、世界が必ず新しくならなければならず、宗教指導者が汎世界的に団結するだけでなく、懺悔と真の奉献の姿勢を整える汎世界的拡張運動、実践奉仕運動が起こらなければならないと教示しています。世界は変わらなければなりません。新しい宗教改革の情熱の炎を燃やして、至る所で生活信仰、実践信仰の価値を高く高くとどろかせなくてはなりません。そして、無神論者たちの前に生きていらっしゃる神様を証明する生きた信仰の炎がなければなりません。真の平和世界は、宗教を通した精神革命、愛と慈悲による大きな和合によってのみ成就されるのです。
(135-222、1985.11.16)

 

今日、私たちが信仰生活をするにおいていったい宗教とは何でしょうか。私の体で闘争する一つのサタンの根拠地を清算するためのものです。それで、宗教を必要とするのであり、それが宗教の使命であることを知らなければなりません。では、今日の宗教を信じるすべての人たちが、自分のことはすべてカバーしてそのままにしておいて、相対世界の善を求め、ほかの所の悪を分別するというのですが、そのような話は有り得ないというのです。
(131-23、1984.3.11)

 

神様の名前を口実にした真の愛のない信仰生活や、利己心を土台として本然の人権を踏みにじり、不正を働くことも、すべて克服しなければなりません。
(400-95、2002.12.27)

 

すべての人類はみな同じ父母から生まれた子孫であるという教理に従って、それを教え、かつ信じているキリスト教国家の国民たちが、皮膚の色が違うというただそれだけの理由をもって、その兄弟たちと生活を同じくすることができないという現実である。
原理講論、総序

 

すべての宗教者たちは、この世代の霊的基盤の欠乏に対して責任を痛感し、深く悔い改めなければなりません。長い宗教歴史の中で、宗教者たちが生きていらっしゃる神様を正しく証することが不足だったのであり、愛の実践をないがしろにすることによって、無神論が蔓延し、また共産主義が世界に広がっていることに対して、痛切に自責の念をもつ宗教者にならなければなりません。
今日、神様は、私たちを呼んでいらっしゃいます。すべての宗教者は、深い自己省察の内的基台の上でしっかりと立ち、あらゆる非理が乱舞する現実に挑戦し、神様のみ旨の地上実現のために創意的な努力を果たさなければなりません。生きていらっしゃる神様が願われる人間との関係は、経典や礼拝儀式の中だけの関係ではありません。信義を抱いて 24 時間、生活の中でこれを実践する自覚した心の中にいらっしゃりながら、人間と共に生活することを願われるのです。
(135-222、1985.11.16)

 

9. 異端

信仰の道において、離脱する最大の罠は、サタン、すなわち異端の誘惑である。主要な宗教の経典には、この点に関して警告している。「異説」とは異なる意見という意味だが、天が宗教創始者に啓示してくださった本来の知恵は、誰かの意見によって修正されたり、変化したりする対象のものではないという意味である。
本当の宗教が初期には伝統集団から異端として迫害されたのも事実である。創始者の死後に、さらには生きている間にも主流の宗教に宗派的、分派的異端が生じることもある。しかし、神様の摂理的な進展によって主流の宗教を取り巻く異端は、徐々に消えていく反面、本当の宗教は、創造的位相を新たに確保するようになる。どの時代のどこでも、主流の宗教の正統的な流れの中で異端が勝利したという事例は見いだすことができない。たとえ異端の教えに神学的な魅力があるとしても、いつでも異端が異端として規定されるには普遍的理由が存在する。
この節に抜粋した経典の章句では、邪悪な預言者と異端者の低俗な動機を非難する。彼らは、世俗的目的のために宗教を利用した偽善者たちである(もちろん正統教理に従う聖職者たちでも同一の過誤を犯すことがある)。ある人たちは、異端の教えをサタンと悪霊の役事だと非難し、ほかの人たちは異端がもたらす堕落した結果、放蕩な生活、貪欲、そして不和の種などの要素を猛烈に非難する。しかし提婆達多の例のように、ある異端は、正統宗教の道よりさらに強度な禁欲、あるいは極端な信仰の基準を提示し、人間の本質を少なからず欺瞞し、歪曲させる場合があることを指摘する。そして、いくつかの章句では、宗派の分裂と信仰共同体を崩壊させるという点を指摘し、異端的要素を強く非難する。

 

― 宗教経典 ―

 

偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
マタイによる福音書 7.15 ~16
(キリスト教)122

 

神の使徒が次のように語ったと伝えられている。「終局には、宗教を世俗的な目的のために欺瞞して利用し、大衆の前に羊の皮をかぶり、従順に見せようとする群れたちが現れるだろう。彼らの言葉は甘いが、彼らの心は狼の心である。神が語られるだろう。「彼らが私を欺瞞しようとするのか。あるいは私に傲慢に行動しようとするのか。私は自ら誓うが、知恵深い者をさまよう者たちの枠に捨てておく者を裁くだろう」。
ティルミズィー・ハディース(イスラーム)123

 

かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを 贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません。
ペトロの手紙二 2.1~ 3(キリスト教)124

 

終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。
テモテ一への手紙 4.1~ 2(キリスト教)125

 

こうしてわれは、どの予言者にも一つの敵をつくった。それは、人間とジンの中の悪魔であって、そのある者が他を感激させ、はなやかな言葉で、そそのかして、だましている。
クルアーン 6.112(イスラーム)126

 

悪魔マラはボーディサットヴァに、正しい道ではない偽りを詳しく説明しようとする。
大般若経 382(仏教)127

 

だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。
コリントの信徒への手紙二11.14(キリスト教)128

 

だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。
テモテへの手紙二 4.3 ~ 4(キリスト教)129

 

もし虚偽が真理と分離され見ることができたなら、真理を求める者は簡単にそれを区別し、虚偽を遠ざけることができただろう。また、真理が虚偽とはっきりと区分されて現れたなら、人々は簡単に宗教を批判したりもしなかっただろう。
しかし、不幸にも人間たちは、真理を虚偽と混同し始め、サタンがこのような状況を利用し、追従者たちの心を完全につかむようになった。ただ、内面的で合理的な瞑想の道を通じた神の助けによって高邁になった人だけが、そのわなから抜け出すことができた。
ナフジュ・アル・バラーガ 説教 55(イスラーム)130

 

邪悪な魔は遊行者のなりをして、不退転の菩薩大士に近づいてこう言うであろう。「お前が以前聞いたそのことを(誤りであったと)告白しなさい。……これまでお前が聞いたこと、それは仏陀のことばではない。それは詩人のつくった詩にすぎない。しかし、私が話すこのことは、仏陀によって話されたことばなのだ」と。これを聞いて、もし菩薩(の心)がゆれ、動くならば、こう知られるのだ。「この人は如来によって予言された菩薩ではない。この菩薩は、無上にして完全なさとりに(いたると)決定していない。この人は不退転の領域に定着していないのだ」と。けれどもスブーテイよ、……煩悩の尽きた、供養されるべき比丘というものは、ものの本性をまのあたりに見ていて、他人を信じていったりはしないものである。
八千頌よりなる般若波羅蜜経17.2(仏教)131

 

そのとき、「見よ、ここにメシアがいる」「いや、ここだ」と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。
マタイによる福音書 24.23 ~ 24(キリスト教)132

 

かれらの教えを分裂させて、分派となった者であってはならぬ。各分派は己の持っている信条に、喜び満足している。(注15)
クルアーン 30.32(イスラーム)133

 

キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。
ガラテヤの信徒への手紙1.6 ~ 9(キリスト教)134

 

天上界と人間界を通じて多くの生けるものの不利得のために、不利益のために、苦悩のために、一つのことが、この世に起こる。一つの僧団の分裂である。すなわち比丘たち、僧団が分裂するときには、互いの争論も生ずる。互いの悪罵も生ずる。互いの排他的にもなる。互いの裏切りも生ずる。そのためには、まだ信仰を得ていない人々は、信仰の喜びを知ることがなく、すでに信仰を得ている人々の中にも心境に変化を生ずる人もいる。
如是語経18(仏教)135

 

時に提婆達多はコーカーリカ、カタモーラカテイッサ、カカンダデーギャープッタ、サムッダダッダの許に到れり、到りて言へり、……「友等よ、我等、沙門ゴータマの許に到りて五事を請ひて言はん、「世尊は無数の方便を以て小欲、知足、漸損、頭陀、信心、損減、発動を称讃して説きたまふ。此処に五事あり、無数の方便を以て、小欲、知足、漸損、頭陀、信心、損減、発動に資す。願はくば、比丘等は盡形寿、林住すべく、村邑に入らば罪とせられん。盡形寿、乞食すべく、請食を受けなば、罪とせられん。盡形寿、糞掃衣を著くべく、居士衣を受けなば罪とせられん。盡形寿、樹下に坐すべく、屋内に到らば、罪とせられん。盡形寿、魚肉を食はざるべく、魚肉を食はば、罪とせられん」。沙門ゴータマは此五事を許さざらん。我等、此五事を以て衆人に告げん。友等よ、此五事を以て沙門ゴータマの僧伽を破し、輪を破するを得ん。友等よ、人々は質素を信楽すればなり」。
時に提婆達多は衆と倶に世尊の在す処に詣れり、世尊に白して言へり、「……」。「止みなん、提婆達多よ、若し欲せば常時林住すべく若し欲せば村邑に住すべし。若し欲せば常時乞食すべく若し欲せば請食を受くべし。若し欲せば常時糞掃衣を著くべく若し欲せば居士衣を受くべし。提婆達多よ、我は八月樹下に坐臥するを許し、不見不聞不疑の三事清浄ならば魚肉を許せり。」時に、提婆達多は、「世尊は此五事を許したまはず」と〔知り〕歓喜踊躍して衆と倶に座より起ち世尊を敬礼し……去れり。
時に、提婆達多は衆と倶に王舎城に入りて五事を以て衆人に告げて言へり、……此処に無信、無浄心、劣覚の人々は言へり、「此沙門釈子等は頭陀を行じ漸損にして住す、沙門ゴータマは奢侈にして奢侈を念とす」。有心、有浄心、賢明、有覚の人々は呟き憤り毀れり、「如何そ、提婆達多は世尊の僧伽を破し輪を破せんと企つるや」。比丘等は彼人々の呟き憤り毀るを聞けり。少欲の比丘等は呟き憤り毀れり、「如何ぞ提婆達たは僧伽を破し輪を破せんと企つるや」。……
「止みなん、提婆達多よ、汝僧伽を喜ぶ勿れ、破僧は重{罪}なり。和合僧を破せば一劫の罪過を積み一劫、地獄に煮られん。提婆達多よ、破せる僧伽を和合せしめば梵福を積み一劫、天上に楽しまん。」
律蔵 ii.192 ~ 98(仏教)136

 

― み言選集 ―

 

皆さんが進んでいく道には、必ず怨讐が現れます。信仰的な怨讐が現れ、経済的な怨讐が現れるのです。さらには、私たち統一教会の食口同士で互いに怨讐として現れることもあるでしょう。そして、サタンは、皆さんがうっかり過ちを犯すその瞬間をねらって、皆さんをカインの道に追い込むのです。
そのような怨讐を退け、カインの立場に立たないために、皆さんはどのように生きなければなりませんか。皆さんは、一身の安逸のために生きるのではなく、全体のために自らを犠牲にして生きなければなりません。
(3-212、1957.11.1)

 

統一教会の原理を知って、自分の利益を得ようとするのは、詐欺師でありどろぼうです。先生が教えてあげたその囲いの中に入っていき、自分の福地をつくろうというのはどろぼうであり詐欺師です。その原理のみ言は、自分のものではなく、天のものです。先生が発表した原理を自分のものとして利用し、個人の利益のために、ありとあらゆる集団をつくって生きる妖しげな群れがたくさん生じました。彼は、詐欺師です。その体は、エゼキエル書の、谷の中の死んだ骨と同じです。生命が死んでいます。
(346-57、2001.6.21)

 

堕落人間は、神もサタンも、共に対応することのできる中間位置にあるので、善神が活動する環境においても、悪神の業を兼ねて行うときがある。また悪神の業も、ある期間を経過すれば、善神の業を兼ねて行うときがときたまあるから、原理を知らない立場においては、これを見分けることは難しい。今日において多くの聖職者たちが、これに対する無知から、善神の働きまでも悪神のそれと見なし、神のみ旨に反する立場に立つようになるということは、実に寒心に堪えないことといわなければならない。霊的な現象が次第に多くなる今日において、善神と悪神との業の違いを十分に理解し、これを分立することができない限り、霊人たちを指導することはできないのである。
原理講論、堕落論 4.4

 

長成期完成級で堕落した人間が、復帰摂理により、蘇生旧約時代を経て、長成新約時代の完成級まで復帰されて、人間始祖が堕落する前の立場に戻る時代を終末という。この時代は、アダムとエバが堕落する直前、神と一問一答したそのときを、世界的に復帰する時代であるので、地上には霊通する人が多く現れるようになる。終末には、神の霊をすべての人に注ぐと約束されたことは(使徒2・17)、正に、このような原理的な根拠によって、初めてその理由が解明できるのである。
終末には、「あなたは主である」という啓示を受ける人たちが多く現れる。しばしば、このような人たちは、自分が再臨主であると考えて、正しい道を探していくことのできない場合が多いが、その理由はどこにあるのだろうか。本来、神は人間を創造されて、彼に被造世界を主管する主になれと祝福された(創1・28)。ところが、人間は堕落によって、このような神の祝福を成し遂げることができなかったのである。しかし、堕落人間が復帰摂理によって、長成期の完成級まで霊的に復帰されて、アダムとエバが堕落する直前の立場と同一の心霊基準に達すれば、神が彼らに被造世界の主になれと祝福なさった、その立場を復帰したという意味から、「あなたは主である」という啓示を下さるのである。
終末に入って、このように、「主」という啓示を受ける程度に、信仰が篤実な聖徒たちは、イエスの当時に、主の道をまっすぐにするための使命をもってきた洗礼ヨハネと、同一の立場に立つようになる(ヨハネ1・23)。したがって、彼らにも各自が受けもった使命分野において、再臨されるイエスの道を直くすべき使命が与えられているのである。このような意味において、彼らは各自の使命分野における再臨主のための時代的代理使命者として選ばれた聖徒たちなので、彼らにも、「主」という啓示を授けてくださるのである。
霊通者が、「あなたは主である」という啓示を受けたとき、このような原理的な事情を知らずに、自分が再臨主だと思って行動すれば、彼は必ず、偽キリストの立場に立つようになる。終末に、偽キリストが多く現れると預言された理由もここにある。霊通者はみな、各自通じている霊界の階位と啓示の内容がお互いに異なるために(コリントⅠ15・41)、相互間の衝突と混乱に陥るのが普通である。霊通者は、事実上、みな同一の霊界を探し求めていくけれども、これに対する各自の環境、位置、特性、知能、心霊程度などが相異なるために各自に現れる霊界も、各々異なる様相のものとして認識されて、相互に衝突を起こすようになるのである。
復帰摂理のみ旨に侍っている人たちは、各々摂理の部分的な使命を担当して、神と縦的な関係だけを結んでいるので、他の霊通者との横的な関係が分からなくなるのである。したがって、各自が侍っている天のみ旨が、各々異なるもののように考えられ、互いに衝突を起こすようになる。なお、神は各自をして復帰摂理の目的を達成させるに当たって、彼らが各自最善を尽くすように激励なさるため、「あなたが一番である」という啓示を下さるので、横的な衝突を免れなくなる。また、彼が担当した部分的な使命分野においては、事実上、彼が一番であるために、このような啓示を下さることもある。
原理講論、復活論 2.2.6

 

皆さんは、天国とは何か分からずにいますが、天国は簡単です。天国は、神様が父であり、すべての万民は息子、娘として大きな家庭を成している所です。そこには、宗派もなく、国もなく、民族もありません。それを知っているので、レバレンド・ムーンは教派打破です。宗派打破です。国家打破です。一つの兄弟にならなければならないというのです。
(344-47、2001.3.1)

 

10. 神様との論争

私たちは神様の子女として、人間を愛し、見守る神様の存在を体験することができる。単純な献身と盲目的信仰だけで神様と向き合うのは十分ではない。困難な問題の解答を要求するとき、自ら挑戦してみたが、何の道も見えないとき、私たちはしばらくとどまり、神様が答えてくださることを切に求める。自分の確固たる立場を放棄しないまま、私たちは神様に事物の存在方式に対して問いを投げ掛け、果たしてより良い方式はないのかに関して論争することもある。私たちは、世界の経典から神様と論争した預言者や聖賢たちを発見するようになる。私たちは、彼らは疑心に満ちた者、無神論者、あるいは信仰のない不平を言う者などとはみなさない。かえって、彼らを真の正義心を発揮し、神様に関することを具体的に論議した方とみなす。彼らは、神様の真理とその現存に対するより深い洞察を渇望する燃える情熱の所有者たちだった。
アブラハムも神様と論議した。彼は、ソドムとゴモラに対して、神様がもう少し慈悲を施さなければならないと主張した。モーセも、イスラエルの民が金の子牛をつくってほかの神を祀ったとき、あらゆる過ちを自分に返し、自分の民族を赦してほしいと神様に懇願した。ムハンマドも、50 の義務祈祷項目を5に減らしてくれるよう懇請するために神様と論争を繰り広げた。苦難は罪に対する代価だと学んできたヨブは、自分は明らかに罪を犯していないのに、自分に苦難を与える神様と論争した。タルムードのある賢人は、神様に人間の自由意志の価値に対して名分を明らかにしてほしいと主張した。このような例から共通して発見される点は、過去の聖賢たちと預言者たちは、自分たちの高潔さを保ちながら、同時に神様と関係を結べたということである。彼らは、確固たる信念と正義感に基づいて天に挑戦した。有限な人間の理解範囲を越えた方が神様であることを知ったために、彼らは高潔な良心を信じて神様の前に堂々と立ち、伝統教理に挑戦しながら命を懸けて論争を繰り広げた。

 

― 宗教経典 ―

 

主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。アブラハムは進み出て言った。 「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
創世記18.20 ~ 25(キリスト教)137

 

四十日四十夜が過ぎて、主はわたしにその二枚の石の板、契約の板を授けられた。
そのとき、主はわたしに言われた。 「すぐに立って、ここから下りなさい。あなたがエジプトから導き出した民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、鋳像を造った。……わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。わたしを引き止めるな。わたしは彼らを滅ぼし、天の下からその名を消し去って、あなたを彼らより強く、数の多い国民とする。」
わたしが身を翻して山を下ると、山は火に包まれて燃えていた。わたしは両手に二枚の契約の板を持っていた。わたしが見たのは、あなたたちがあなたたちの神、主に罪を犯し、子牛の鋳像を造って、早くも主の命じられた道からそれている姿であった。わたしは両手に持っていた二枚の板を投げつけ、あなたたちの目の前で砕いた。主の目に悪と見なされることを行って罪を犯し、主を憤らせた、あなたたちのすべての罪のゆえに、わたしは前と同じように、四十日四十夜、パンも食べず水も飲まず主の前にひれ伏した。
……主があなたたちを滅ぼすと言われたからである。わたしはひれ伏して、主に祈って言った。「主なる神よ。あなたが大いなる御業をもって救い出し、力強い御手をもってエジプトから導き出された、あなたの嗣業の民を滅ぼさないでください。あなたの僕、アブラハム、イサク、ヤコブを思い起こし、この民のかたくなさと逆らいと罪に御顔を向けないでください。我々があなたに導かれて出て来た国の人々に、『主は約束された土地に彼らを入らせることができなかった。主は彼らを憎んで、荒れ野に導き出して殺してしまった』と言われないようにしてください。彼らは、あなたが大いなる力と伸ばされた御腕をもって導き出されたあなたの嗣業の民です。」
申命記 9.11~ 29(キリスト教)138

 

使徒が語った。「天使が私を(天に)引き上げたとき、神は私の民たちのために1日 50 回の礼拝を定められた。この定めをもって帰ったとき、モーセのそばを通るようになり、彼が私に尋ねた。『あなたの民のために神はどのくらい定められましたか』『50 回の礼拝を定められました』と私が答えると、モーセは、『主のところにもう一度戻ってください。あなたの民が果たすにはあまりに大変です』と言った。それで私は、再び神の前に行くと、その方が回数を半分に減らしてくださった。その後、モーセのそばを通ったとき、彼に『回数が半分に減った』と知らせてあげた。すると彼は、『主のところにもう一度戻ってください。あなたの民が果たすにはあまりに大変です』と言った。私が再び神の前に行くと、その方は回数をまた半分に減らしてくださった。モーセのところに戻って新たに減らしてくださった回数を知らせてあげると、『主のところに行ってください。あなたの民が果たすにはあまりに大変です』と繰り返した。私が再び神の面前に現れると、その方が私に言われた。『では5回の礼拝になるようにせよ。しかし、私の目には 50 回の価値があるため、私の前で定められたものが決して変わってはいけない』。私がモーセのところに来たとき、彼はまた主のところに行けと言ったが、『主の前に行くのが、私は恥ずかしい』と答えた。」(注16)
ブハーリー・ハディース(イスラーム)139

 

神が言われた。「私が征服するとき私は失い、私が征服されるとき私は得た。(ノアの時に)洪水でその世代を征服した。しかし、私がつくった世界を滅亡させたのだから、失ったものがないだろうか。それと同じように、バベルの塔の世代に対しても同じだ。ソドムの人たちに対しても同じだ。しかし、金の子牛をつくった罪を犯したとき、私は征服された。イスラエルの罪に対して赦しを願ったモーセが私に勝った。そして私は得たものがあるため、私がイスラエルを滅ぼさなかったのである」。
プスィクタ・ラッバティ32b ~ 33a(ユダヤ教)140

 

たとえこの身を自分の歯にかけ / 魂を自分の手に置くことになってもよい。そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。わたしの道を神の前に申し立てよう。このわたしをこそ / 神は救ってくださるべきではないか。神を無視する者なら / 御前に出るはずはないではないか。よく聞いてくれ、わたしの言葉を。わたしの言い分に耳を傾けてくれ。見よ、わたしは訴えを述べる。わたしは知っている、わたしが正しいのだ。わたしのために争ってくれる者があれば /もはや、わたしは黙って死んでもよい。ただ、やめていただきたいことが二つあります / 御前から逃げ隠れはいたしませんから。わたしの上から御手を遠ざけてください。御腕をもって脅かすのをやめてください。そして、呼んでください、お答えします。わたしに語らせてください、返事をしてください。罪と悪がどれほどわたしにあるのでしょうか。わたしの罪咎を示してください。なぜ、あなたは御顔を隠し / わたしを敵と見なされるのですか。
ヨブ記13.14 ~ 24(キリスト教)141

 

ラビ・エリエゼルが聖潔儀式に関する自分の主張の支持を得るために、世の中にあるすべての主張を提示した。しかし、彼の同僚たちは彼の提案を受け入れなかった。
エリエゼルが同僚たちに言った。「もし私の主張が法にかなっていれば、このイナゴマメの木がそれを証明するだろう」。するとイナゴマメの木が庭で300 キュービットも飛び跳ねた。賢者たちが答えた。「川の水からは何の証拠も得ることができなかった」。エリエゼルが彼らに言った。「もし私の主張が法にかなっていれば、この川の水が証するだろう」。すると川の水が逆さまに流れ始めた。賢者たちが答えた。「学院の壁からは何の証拠も得ることができなかった」。
またエリエゼルが彼らに言った。「もし私の主張が法にかなっていれば、学院の壁が証するだろう」。すると壁が揺れて崩れそうになった。ラビ・ヨシュアが飛び上がって壁を叱った。「賢者の弟子たちが法に関して論争しているのに、それがお前と何の関係があるというのか」。ラビ・ヨシュアに敬意を表し、壁はそれ以上揺れなかった。ラビ・エリエゼルに敬意を表し、賢者たちは、自分たちが正しいと主張することはなく、それで今日まで論争話が伝えられてきた。
再びラビ・エリエゼルが賢者たちに言った。「もし私の主張が法にかなっていれば、天が証明してくれるだろう」。聖なる声が天から聞こえてきた。「なぜあなたたちはラビ・エリエゼルと論争しているのか。エリエゼルが主張するすべての内容は、すべて法にかなっている」。しかし、ラビ・ヨシュアが再び立ち上がり、「この声は天から聞こえてきたものではない」と叫んだ。(申命記 30.12)
いくらかの歳月が過ぎたのちに、ラビ・ナダンがエリヤ預言者に会い、彼に尋ねた。「聖なる方は、その方に祝福があることを。ラビ・ヨシュアの非難を聞いたとき、何と言われましたか」。エリヤが答えた。「その方は笑われながら、『私の分別のない子供たちが私に勝った。私の分別のない子供たちが私に勝った』と語られた」。(注17)
タルムード、バヴァ・メツィア59a~b(ユダヤ教)142

 

― み言選集 ―

 

イスラエル民族がモーセを不信することによって、モーセがイスラエル民族をカナンの地に導こうとする神様のみ旨に完全に従うことができなかったのと同じ恐ろしいことが、終わりの日の聖徒たちにも起きるかもしれません。イスラエル民族と自分が一つになれない事実に直面するようになるとき、モーセは不信する民族を叱責する前に自分自身の不足を天に訴えました。すなわち、彼はシナイ山に登っていき、40 日間断食祈祷しながら、「父よ、この民族がどうして許諾された地が目の前に見えるにもかかわらず、入っていくことができずにいるのですか。その責任は誰にあるのですか。その責任は私にあります。私が責任を果たせなかったからです。ですから、私を祭物として民族の滅亡の道をふさいでください!」と訴えたのです。
(1-144、1956.7.1)

 

もしひと月の間、毎日 10 時間一生懸命に活動したのに一人も伝道できなかったときは、15 時間活動するのです。その次には倍化して、倍の時間を投入するのです。それでも駄目なら4時間を加えて 24 時間活動しなければなりません。それでも駄目なら、「神様、助けてくださらなければなりません」と神様とつばぜりあいするのです。「これは私のみ旨であると同時にあなたのみ旨ではないですか。求めよ、そうすれば、与えられる、捜せ、そうすれば、見いだすであろう、門をたたけ、そうすれば、開けてもらえるであろうと約束したではないですか」と言いながら、深刻に神様にしがみつきなさいというのです。皆さんが上がっていけば、神様も上がっていき、皆さんが下がっていけば、神様も下がっていきます。ですから、できないと考えないでください。
(54-325、1972.3.31)

 

アダムとエバが神様を裏切って歩んできたではないですか。ですから、「神様、私を裏切ってください」と言わなければなりません。そうしてこそ、蕩減復帰するのです。「私を知らないとおっしゃってください。最後の受難の時まであなたが私を忘れても、私は孝の道理を果たします。この道は必ず私が行かなければならない道です」という決意で歩まなければなりません。そのような人がいれば、神様が私を助けてくれなくても、彼の子孫は永遠に助けてあげたいと思うのです。心情の世界がそうだというのです。
(31-49、1970.4.12)

 

中世は、封建制度とローマ・カトリックの世俗的な堕落からくる社会環境によって、人間の本性が抑圧され、自由な発展を期待することができない時代であった。元来、信仰は、各自が神を探し求めていく道であるので、それは個人と神との間に直接に結ばれる縦的な関係によってなされるのである。それにもかかわらず、法王と僧侶の干渉と形式的な宗教儀式とその規範は、当時の人間の信仰生活の自由を拘束し、その厳格な封建階級制度は、人間の自由な信仰活動を束縛したのであった。
創造原理によれば、人間は、神も干渉できない人間自身の責任分担を、自由意志によって完遂することにより初めて完成されるように創造されたので、人間は本性的に自由を追求するようになる。また、人間は、自由意志によって自分の責任分担を完遂し、神と一体となって個性を完成することにより、人格の絶対的な自主性をもつように創造された。ゆえに、人間は、本性的にその人格の自主性を追求するようになっている。
中世社会における法王を中心とする復帰摂理は、法王と僧侶の世俗的な堕落によって成就することができなかった。そして上述のように、中世の人々が人本主義を唱えるにつれて、人々は人間の自由を束縛する形式的な宗教儀式と規範とに反抗し、人間の自主性を 蹂躙する封建階級制度と法王権に対抗するようになったのである。さらにまた、彼らは人間の理性と理知を無視して、何事でも法王に隷属させなければ解決できないと考える固陋な信仰生活に反発し、自然と現実と科学を無視する遁世的、他界的、禁欲的な信仰態度を排撃するようになった。こうしてついに、中世のキリスト教信徒は法王政治に反抗するようになったのである。
原理講論、メシヤ再降臨準備時代1.2

 

祈りをもって神霊的なものを感得し得る信徒たちは、新しい時代の摂理を、心霊的に知ることができるので、古い時代の真理面においては、相克的な立場に立ちながらも、神霊によって新しい時代の摂理に応じることができるのである。それゆえに、イエスに従った弟子たちの中には、旧約聖書に執着していた人物は一人もおらず、もっぱら心に感応してくる神霊に従った人々だけであった。祈りを多くささげる人、あるいは良心的な人たちが、終末において甚だしい精神的な焦燥感を免れることができない理由は、彼らが、漠然たるものであるにせよ、神霊を感得して、心では新しい時代の摂理に従おうとしているにもかかわらず、体をこの方面に導いてくれる新しい真理に接することができないからである。
原理講論、人類歴史の終末論 5.2

 

11. 試練

誰でも信仰生活をするとき、試練を受ける。記録にも現れているように、偉大な信仰者たちは、様々な次元の厳しい試練を体験した。アブラハムは 10 回以上の信仰の試練を通過した。サタンは、家族と財産を失うことにかこつけてヨブを試練した。メッカの偶像崇拝者たちにメッセージを伝えようとするとき、ムハンマドもやはり様々な激しい障害を克服しなければならなかった。イエス様も荒野で重大な試練を受けられ、十字架の道を行く途中でも1度大きな試練を受けた。ヒンドゥー教と仏教の有名な聖人たちも、やはり生と死の境を出入りする試練を受けたが、彼らは絶対的信仰でそれを克服した。誰でも試練を克服すればするほど、それだけその人の人格と精神は成熟して堅固になる。そして、試練の前後には常に栄光が伴うものであり、試練を通して栄光を受け、維持するにふさわしい資格が条件づけられる。
文鮮明先生は、神様とサタンのやりとりに関するヨブの聖句をよく引用しながら、信仰者たちが試練を克服する理由について説明される。人間は堕落によって天道から逸脱した。したがって、神様は人間たちが本当に神様の主権を伝授されるにふさわしい資格があるかを確認するために、サタンをして一定の摂理的人物に試練をする機会を許諾せざるを得なかった。サタンは常に人間が自分に属した者であることを表示し、少しでも利己心を発揮する徴候がないかを執拗に探索する。したがって、最も真実で自分を否定する者だけがこの試練を克服できる。時には、超現実的状況に対処しなければならない試練も少なくない。ムーサー(モーセ)とヒドルの有名なクルアーンの経句、「緑衣の男」はそのような試練を代表する。ムーサーは、常識を超越した事件を信じなければならなかったが、結局、その試練を通過することができなかった。そして、ヒンドゥー教のラーマーヤナで、ラーマの夫人、シーターが、彼女の貞節を清めるために燃え上がる火のまきに飛び込む試練も登場し、仏教の経典で、ある求道者が断崖、絶壁に身を投げ出して死を克服する試練も登場する。結局、彼ら二人は、身体的に何の傷もなく、その試練を無難に通過した。そして、息子の祭物献祭を要求する神様の命令にアブラハムの心情はどうだったであろうか。最後に、ここでは文鮮明先生の生涯で現れたいくつかの試練も説明している。

 

①信仰者に対するサタンの試練

― 宗教経典 ―

 

ある日、主の前に神の使いたちが集まり(注18)、サタンも来た。主はサタンに言われた。 「お前はどこから来た。」 「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。
ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。
ヨブの息子、娘が、長兄の家で宴会を開いていた日のことである。ヨブのもとに、一人の召使いが報告に来た。「御報告いたします。わたしどもが、牛に畑を耕させ、その傍らでろばに草を食べさせておりますと、シェバ人が襲いかかり、略奪していきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」彼が話し終らないうちに、また一人が来て言った。「御報告いたします。天から神の火が降って、羊も羊飼いも焼け死んでしまいました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」彼が話し終らないうちに、また一人来て言った。「御報告いたします。カルデア人が三部隊に分かれてらくだの群れを襲い、奪っていきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」彼が話し終らないうちに、更にもう一人来て言った。「御報告いたします。御長男のお宅で、御子息、御息女の皆様が宴会を開いておられました。すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」
ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。
またある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来て、主の前に進み出た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。主はサタンに言われた。「お前はわたしの 僕しもべヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」サタンは答えた。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」
サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。彼の妻は、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」
ヨブ記1.6 ~ 2.10(キリスト教)143

 

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。 「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
マタイによる福音書 4.1~ 4
(キリスト教)144

 

あるとき、ヒマラヤに真理の道を追究する人がいた。彼は、世の中のどんなに価値のある宝にも関心がなく、その上、天界の福楽に対する愛着もなく、彼はただ信仰のあらゆる迷いをなくすことができる教えを求めた。すると天界の神々が彼の熱望と真実さに感動し、彼の心を試みてみることを決めた。それで神々の中の一人が悪魔に身を変え、歌を歌いながらヒマラヤに現れた。すべてのものは無常だ、すべてのものは現れては消えていく。
真理を尋ね求めた彼がこの歌を聞いたが、どれほど喜んだか、まるで飢え渇いた彼が澄んだ泉を発見したかのようで、また奴隷が全く予期せぬときに解かれたような気分だった。彼は思った。「ついに私は長い間探し求めてきた真の教えを得た」。彼はその声についていき、とうとうとても恐ろしい悪魔にたどり着いた。不安な心でその悪魔に近づいて彼は言った。「私が今聞いたその聖なる歌を歌っていたのがあなたですか。もしそれがあなたなのなら、どうか残りの部分をもう少し歌ってください」。悪魔が答えた。「そうだ、その歌は私が歌った。しかし、私は食べる物がなければこれ以上歌うことができない。私はとても空腹だ」。
その人は、悪魔に頼んで言った。「その歌は私にとって聖なる意味をもっています。私は長い間その教えを求めてきました。ところが、私はただその一部だけを聞きました。どうかもっと聞くことができるようにしてください」。悪魔が再び答えた。「私はとても空腹だ。もし人の暖かい血と肉を食べることができれば、その歌を最後まで歌おう」。その教えを聞きたいという懇切な熱望から、その人はその教え聞いたのちに自分の体を差し出すことができると悪魔に約束した。すると悪魔が歌を最初から最後まで歌った。
すべてのものは無常だ、すべてのものは現れては消え、生死を超えるとき完全な憂いがある。
この歌を聞いたのち、彼は周りにある岩と木にその歌詞を刻んだのち、静かに一本の木の上に登り、悪魔に自分の身を投げた。しかし、悪魔は影も形もなく、その代わりに光輝に囲まれた一人の神がその人の身を受け止めた。
大般涅槃経 424 ~ 433(仏教)145

 

王であると同時に聖者でもある家系の、偉大な聖仙は、菩提樹のもとで、堅固な誓いをたて、かならず解脱の道を造成しようと決心した。……みなことごとく大いに喜んだ。法の敵である悪魔の王だけはただひとり憂いを抱いて喜ぼうとはしなかった。五官の欲望を自在にするカーマ神は、あらゆる戦いの技芸をそなえて、解脱を憎みねたんでいたので、波旬(悪しきもの)と呼ばれた。その悪魔の王には三人の娘がいた。……三人の娘は一緒に、父の波旬の前に進み出て語った。「どうして憂いておられるのか……」と。
父はその理由を感情を込めて娘たちに告げた。「この世に大聖者がいる。大きな誓いという鎧を身につけ、偉大なる自在なはたらきを弓とし、智慧という強くて鋭利な矢をもって、人々の迷いを征服して、われわれの国をほろぼそうとしている。わたしは一たび何かあれば、彼にはかなわない。人々は彼を信じ、ことごとく解脱の道に帰依してしまい、わが国土はからっぽになってしまうであろう……しかし、彼がまだ真実の智慧の眼を開かず、わが国がまだしばらくは安穏である、今のうちに、彼の志をくずし、そのかけ橋を絶ってしまわなければならない」と。悪魔の王は弓と五本の矢を持ち、家臣の男女を引き連れて、菩薩がさとりを開こうとしている林に至り、人々が安らかにならないように願って、聖者が静かに瞑想して、迷いを繰り返す三界の海を渡ろうとしているのを見て……菩薩に告げた。
「クシャトリア(武士)の出身であるそなたよ。速やかに立ちあがれ。死は恐ろしいものである。そなたは武士の道を修得し、解脱の道を捨てよ。戦いの方法を学び、祭りを行って施しをし、この世界を征服して、そのうえで死を迎え生天の楽しみを得られるがよい。この道を進む者は名誉なことであり、先徳たちが実践したものである。すぐれた王者たちの末裔には乞食する僧の生活はふさわしくない。
もしも今、起ちあがる気がないのならば、しばらくそのまま、静かにしているがよい。つつしんで誓いを捨てなくてもよい。わたしは一矢を放とう。月の孫アイダも、わたしのこの矢によって、風に吹かれたように、少し触れただけで、その心は狂乱してしまった。どんなに静寂な苦行をしている聖仙でも、わたしの矢の音を聞けば、大いに恐れ乱れて、わけが分からなくなり、本性を失ってしまう。ましてや、そなたは末世の中で、わたしのこの矢をのがれようと望むであろう。そなたは、今すぐ修行をやめて起ちあがれば、幸いにも安全にこの矢から逃れることができる。この矢にぬってある毒はすさまじいもので、おののき震えるほどである。たとい、そなたの力がこの矢に堪えるほどの者であっても、この毒にはとても自身の心を安らかにしていることはむずかしであろう。ましてや、この矢に堪えることはできまい。どうして驚かないでおられようか、いやそれはできないことだ。」
仏所行讃、破魔品13(注19)(仏教)146

 

― み言選集 ―

 

皆さんが歩んでいく路程において、サタンの試練がたくさんあるでしょう。霊界に通じる人は、多くの試練にぶつかるようになります。そうして、サタンは自分の試練に人間が倒れれば、「お前がこのようにしていてよいのか」と讒訴しながら、皆さんの行く道を妨げるのです。
(3-210、1957.11.1)

 

試練は必ずパスしなければなりません。それをなぜパスしなければならないのですか。そうすることによって一段階変わることができるからです。夜と昼が交差するのです。夜の時代から昼の時代に行けます。春から夏に行けるのです。発展できるというのです。
(125-250 ~ 251、1983.3.27)

 

また聖書には、人として祭物の路程を歩んでいったヨブの一生に関する記録が出てきます。ヨブは、神様から福を受けることのできる祝福圏内にいたので、神様から物質の祝福と子女の祝福を受けました。しかし、サタンがどうしてヨブが祝福を受けることができるのかと神様に抗議してきました。それで神様は、サタンにヨブを試練することを許諾してあげました。そうして、物質を打ちました。そして子女たちを打ちました。その次には、ヨブの肉身まで打ちました。すると、ヨブの友人と隣人たちがヨブをあざ笑い、嘲弄し、愛する妻までヨブを非難しました。皆さんは、このように楽しく生きていくことができる物質と愛する子女を失ってしまったヨブの立場、また友人から裏切られ、妻から非難されていたその立場を考えてみなければなりません。自分の体を瓦で引っかかなければ耐えられないほど満身創痍になったヨブでしたが、彼は決して神様を恨むことなく、黙って瞑想することができ、そのつらさを越えて神様の側で病者の心情を体恤することもできました。このようなヨブだったので、彼は失ってしまった万物と子女を再び得ることができたのであり、天からより大きな祝福を受けたのです。
(2-114 ~115、1957.3.10)

 

サタンも、本来は神様に属していました。そうであれば、サタン自身も自分が行くべき本然の道、この宇宙が一つになることができる本然の道がどのようなものかをすべて知っているのです。ところが、なぜサタンになったのですか。神様を中心として、真の愛を中心として、神様のために生きず、真の愛の代わりに自分のために生きる立場にいたからです。真の愛をもった人がいれば、「それは私の人ではなく、あなたのものだ」と神様に返します。そのような人は神様に帰らなければならないことを、サタンも知っているのです。
真の愛というものは、個人と家庭、氏族、民族、国家、世界を越えていきます。宇宙と通じようとすれば、世界を越えていかなければなりません。それが原則です。真の愛をもった真の人というのは、これを越えなければならないのです。ですから、サタンは、「あなたの人をこの地上に送ったとき、サタン世界に送ったとき、あなたの国に属することのできる人になるためには、ここで迫害を受けるあらゆる基準を越え続け、世界の国境まで越えて、天まで通じ得る人でなければならない」と言います。サタンが神様に「そうでなければならないではないですか」と言えば、神様は「そうだ!」と答えます。「ために生きる立場で神様の愛を中心として全体のために行く人はあなたの国に属するが、自分のために生きたり、この圏内の何かを中心としてために生きる人は、私が関係をもつ責任がある」と言うのです。
(124-64 ~ 65、1983.1.23)

 

サタンも原材料をテストする基準として利用していることを知らなければなりません。原材料になったのか、なっていないのかというのです。これに反対すれば、サタンが「神様、これはコンセプトがあるので原材料に入れることはできません。私のところに送って地獄にほうり込んでください」と言うのです。そうして落ちていくのです。
このような公式を知っているので、ヨブのような人は 10 回も試練しても感謝し、「下さったのも神様であり、もっていかれたのも神様なので、私には何もない」と考えたのです。ですから、いつでも零点の立場にいたヨブが、何百倍、何千倍福を受けたのです。これが復帰時代の勝利的な象徴として登場したということを知らなければなりません。ヨブを 10 回激しく打っても、「感謝です」と言って零の立場で神様だけを絶対的に信じたので、サタンが離れていって再復興し、何でも願うとおりになったのです。
(246-20 ~ 21、1993.3.23)

 

イエス様がこの地上に来られて、サタンからいくつかの試練を受けるようになりました。40日断食期間を過ごし、まず食べる物で試練を受けました。サタンがイエス様の前に現れ、「石をパンにかえなさい」と言ったのです。これは、飢えた人間たちには朗報でしょう。しかし、イエス様はこれを否定し、自分が食べる物のために来たのではないことを表明されました。かえって、神様のみ言を主張することによって、人間が生きていく実際の生活圏内においてのすべての条件を、サタンの前で失わなかったという立場を立てたのです。(注 20)
(3-121、1957.10.13)

 

先生は、一生の間迫害を受けていきながら、世界的な蕩減条件をすべて立てました。サタンがすべての総力を注いで反対し、今まで歴史時代に反対したすべての方法を動員してありとあらゆる反対をしました。サタンが「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」と言ったように、先生も、何度もサタンにやられました。どれほど死地に追い込まれたか分かりません。
神様は、絶対に前から訪ねてきません。神様を恨まざるを得ないほど迫害を受ければ、神様が協助しないように思えても、それを克服して越えれば、後ろからすべて協助してくださるのです。すべての準備をしておいてから神様は行かれるのです。その次には、私が先頭に立ち、闘って勝てば、そのまま行かれます。そのような作戦をしてきたのです。すべて準備しておいたので、神様は行かなければなりません。私が出ていって、サタン世界の反対をすべて退けたあとに行くのです。
(117-160 ~161、1982.2.28)

 

レバレンド・ムーンを神様が愛されますが、人間の責任分担を果たす過程で蕩減路程を行くときには、神様が協助できません。私自身がサタンに勝って行かなければならないのです。サタンとサタン世界に勝って行かなければならないのが本来のアダムに許された理想圏でしたが、その理想圏を凌駕しなければならないというのです。
蕩減しようとすれば、送り出さなければなりません。かえって身ぐるみはいで追い出さなければならないのです。食べるものも食べさせずに追い出さなければなりません。そうしておけば、サタンが服をもっていって着せるのです。サタンが着せてくれれば、それは素晴らしいのです。絶対に奪っていけません。サタン側の人が服を着せてくれるのです。サタンとサタン側の人が服を着せておけば、脱がす人がいません。それを着れば、神様も脱がしませんが、サタンも脱がすことができないのです。その闘いです。それで、苦労して迫害を受ければ、サタン世界が私に服を着せてくれます。服を脱いでひたすら打たれると、服を着せてくれるサタン側が生じます。このような闘いをするのです。そうすれば味方ができるようになります。
アメリカでレバレンド・ムーンに反対していると、アメリカの志のある多くの人たちがレバレンド・ムーンの味方になりました。「なぜこのようにレバレンド・ムーンに反対するのか、何の罪もないではないか! アメリカに必要な人ではないか! こいつ、これではいけない!」としきりに言うようになるのです。そのように私の味方になれば、サタンが引っ張っていけません。自動的に天の側に戻ってくるのです。自動的に神様の側に戻ってくる人が出てきます。強制ではありません。それには、サタンが讒訴する道理がありません。
(124-304 ~ 305、1983.3.1)

 

私がレバレンド・ムーンの愛の力がどれくらい強いか見てみよう、こうしてテストするのです。それで、今回は興進が逝ったのです。「あなたは神様をより愛するのか、人類をより愛するのか、あなたの息子をより愛するのか」、これをテストするというのです。そのサタンに恨みを晴らそうとしてはいけません。私が率いる国、あるいは反対するアメリカ、反対するソ連までも解放しようと思います。
興進が逝ったとしても、彼を通して霊界を動員して地上を動員できる天的な勝利の基盤が築かれていくのです。ですから、「打ちなさい」と言っても、打たずに後退するときが来ます。
祭物を捧げる祭司長が涙を流してはいけないことを知らなければなりません。この祭物を通して天に栄光を返し、人類に栄光を返し、サタン世界のすべてのものまでも入れ替える条件を探し立てなければならない、と考えなければなりません。そうすれば、新しい転換時代が来るようになります。愛がすべての死亡を支配できる時代に変わっていくのです。このような重要な時です。
サタン自身も、「あなたはやはり天の人です」と言うのです。愛する子女を死の立場に立てても涙を流さず、公義の立場で誇らしくいくのを見るとき、サタンまでも尊敬せざるを得ないと見ます。死亡圏が天の生命を打ちましたが、愛の力ですべてカバーして越えていきます。興進は逝きましたが、父によって愛が残ったのです。愛をもってそのようになりました。
(130-162 ~163、1984.1.8)

 

サタンがいくら試験して寄ってきても、自分を犠牲にさせていけば問題ない。自分を弁明して立つときにはサタンが来る。
御旨の道、試験・試練

 

②試練は神様に属していることを立証するもの

― 宗教経典 ―

 

われはなんじらのうち、努力する堅忍な者を知るまでは、なんじらを試み、またなんじらの行状記をも確かめる。
クルアーン 47.31(イスラーム)147

 

主よ、わたしを調べ、試み / はらわたと心を火をもって試してください。あなたの慈しみはわたしの目の前にあり / あなたのまことに従って歩き続けています。
詩編 26.2 ~ 3(キリスト教)148

 

われは、恐れと飢え、ならびに財産と生命となんじらの労苦による果実の損失とで、必ずなんじらを試みる。だが耐え忍ぶ者には吉報を伝えよ、災難に会ったとき、「まことにわたしたちは神のもの、かれに、わたしたちは帰るのだ」と言う者。このような者の上にこそ、主からの祝福と恵みは下り、またこれらは、導かれる者である。
クルアーン 2.155 ~ 57(イスラーム)149

 

試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。
ヤコブの手紙1.12(キリスト教)150

 

各人は死を味わうのである。われは試練のために、禍福により、なんじらを試みる。そしてわれに帰されるのである。
クルアーン 21.35(イスラーム)151

 

私たちの先祖アブラハムは、十度の試みを経験した。そのすべてを忍耐したということは、彼の愛の深さを見せてくれている。
ミシュナ、アヴォート5.4(ユダヤ教)152

 

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、 「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
創世記 22.1~ 2(キリスト教)153

 

皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿ももの関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。 「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。
創世記 32.24 ~ 30(キリスト教)154

 

ラーヴァナが死んだ後、ラーマはシーターを呼びにやった。……シーターが孤独と苦難の歳月を終えて喜々として到着したとき、多くの群衆が見守る中で、夫に迎えられた。しかし彼女は、なぜ愛する主が何かにとりつかれた様に不機嫌で暗い面もちをしているのか、理解に苦しんだ。ラーマは突然言った。「屈辱に報いるべく余は、勇士としてなすべきことをなし、世界を悪魔ラーヴァナの恐怖より解き放った。ただ、おんみは知っておくべきであるが、余が戦争を完遂したのは、おんみのためではなかったということだ。余の権威、名誉、また一門の光栄のためだったのだ。いま余は、夷狄の家に長く滞留したことについて、おんみの徳性を疑うものである。余の前に立つおんみを、余は見るに耐えないのである。ゆえに、余はおんみとかかずらう心はない。いずこへとも好むところへおもむくがよいであろう。……おんみを救出するという余の目的ははたされたのだ。美しい女性よ、余はおんみに執心をもたぬ。いずこへともおもむくことを所望する。……」
この憤怒の言葉を聞いたシーターは、悲しみに身も砕け散るばかりであった。「なぜにそのようなお言葉でありましょうか。誓って申しますが、私は潔白であります。他の卑しい女らと同様に見られますな。私を知るあなたが、疑いをもたれることがあり得るものでしょうか。……あなたとともに住んだ日々に私がささげた純な愛を忘れ、私を無縁のものと思召されるならば、もはやそれは私の最後であります。」かくいって泣きながら彼女は、思い深くラクシュマナにいった。「葬送の火を私のためにおつくりください。……私は身を炎に投じます」
ラクシュマナは、憤懣をおさえ得なかったが、ラーマの様子を見つめたとき、その心中が鉄のごとく固いのを察した。そして葬送の火を準備した。そのとき、死神のごとく恐ろしいラーマに、何びともあえて話しかける勇気をもたなかった。ラーマは、ただ地を凝視しつつ坐していた。シーターは彼のまわりを一度あるき、火に近付き、ブラフマーその他の神々を拝し、それから火神アグニに呼びかけた。
「もしラーマへの愛がまったく純潔でありますならば、私をこの火炎より守らせたまえ」シーターは火を一巡し、恐れげもなくその火に身を投じた。
炎の中心から、火の神アグニがシーターを膝に置いて現れ、祝福の言葉を語りながら彼女をラーマに差し出した。今やラーマはその妻の潔癖を世界の前に証明した事に満足し、シーターをその腕に迎えた。(注 21)
ラーマーヤナ、戦闘の巻118~20
(ヒンドゥー教)155

 

― み言選集 ―

 

み旨を知って満3年を越えるときには大きな試練が来る。ちょうど、3年間主に従っていたペテロがイエス様を否認した立場を、各自が蕩減復帰していかなければならない瞬間である。
御旨の道、試験・試練

 

一年に四季があるように、春の季節のように恵みを受ける期間があり、夏のように恵みが育つ期間があり、秋のように恵みの実を結ぶ期間を経て、冬のような試練が来るのである。したがって、試練を有り難く思いなさい。試練は、サタンと我々を分離させるための神様の愛である。試練は冬に当たる期間であるから、耐え忍んで乗り越えれば、春のような新しい恵みを受けるようになる。
御旨の道、試験・試練

 

神が人間に恩賜を賜ろうとするときには、その恩賜と前後して、サタンの訴えを防ぐための試練が必ず行われるのである。モーセ路程でその例を挙げてみると、モーセにはパロ宮中 40 年の試練があったのちに、第一次の出エジプトの恩賜が許されたのであり、またミデヤン荒野 40 年の試練を経たのちに、神は第二次の出エジプトの恩賜を賜ったのであった(出エ4・2~9)。また神は、モーセを殺そうとする試練があったのちに(出エ4・24)三大奇跡と十災禍の奇跡を下さったのであり(出エ7・10 ~)、三日路程の試練があったのちに(出エ10・22)雲の柱と火の柱の恩賜を賜ったのである(出エ 13・21)。そしてまた、紅海の試練を経てから(出エ14・21、22)、マナとうずらの恩賜(出エ16・13)があったのであり、アマレクとの戦いによる試練(出エ 17・10)があったのちに、石板と幕屋と契約の箱の恩賜(出エ 31・18)があったのである。
原理講論、モーセとイエスを中心とする復帰摂理 2.3

 

人間は、元来、取って食べてはならないと言われた神のみ言を、命を懸けて守るべきであった。しかし天使長からの試練に勝つことができないで、堕落してしまったのである。それゆえに、ヤコブがハランから妻子と財物を取り、カナンに戻って、「メシヤのための基台」を復帰し、家庭的カナン復帰完成者となるためには、サタンと命を懸けて闘う試練に勝利しなければならなかったのである。ヤコブが、ヤボク河で天使と命を懸けて闘い、勝利することによって、イスラエルという名を受けたのも(創 32・25 ~ 28)、このような試練を越えるためのものであった。神は天使をサタンの立場に立てられ、ヤコブを試練されたのである。しかし、これはあくまでも、ヤコブを不幸に陥れようとしたものではなく、彼が、天使に対する主管性を復帰する試練を越えるようにして、アベルの立場を確立させ、彼を家庭復帰完成者として立てられるためであった。天使がこのような試練の主体的な役割を果たすことによって、天使世界もまた、復帰されていくのである。
原理講論、モーセとイエスを中心とする復帰摂理1.2

 

ヤコブが還故郷するとき、天使をヤコブに送り、最後の決定を下さなければならない、ヤコブをそのような状況に追い込まなければならなかった神様は、どれほど心を痛めたでしょうか。
天使が腰の骨を打ち、足の骨を折ってしまってもヤコブは放しませんでした。お前が死に、私が死に、二人とも死んだとしても、絶対放さないという思いだったのです。そのように何時間闘ったと思いますか。7時間以上闘ったというのです。それでもヤコブは絶対に譲歩できないというのです。そのような中でヤコブを見つめられる神様の心はどれほど息詰まる思いだったでしょうか。神様は、「天使が今サタンを代表して闘っているから屈服してはいけない」と知らせてあげたかったのですが、そのようにできないので、どれほどあせる思いでその時間を過ごしたか考えてみてください。
時間が過ぎて最後の決断を下すようになったときに、天使がいくら振り払おうとしても放さないので、そこで神様も公認し、サタンも公認したのです。ヤコブがそのような立場に立って、初めて天使が公認し、ついにイスラエルという名前をもつようになりました。ヤコブが天使に勝利してイスラエルという名前をもらうようになったとき、天上世界ではどうだったでしょうか。やきもきしていた心が解放されて、歓呼の声をあげました。心の中に積まれた悲しみの深いため息をつき、「お父様!」と叫ぶその声の中には、2000 年間積もり積もった事情が問題ではありませんでした。ヤコブが神様のために20 年間涙を流し、神様の首を抱きかかえる心情の因縁が、アダムとエバが堕落したその因縁を越えることができたので、イスラエルという称号を受けるようになったことを皆さんは知らなければなりません。
(20-229 ~ 230、1968.6.9)

 

神様もレバレンド・ムーンを激しく打ちました。「こいつ! お前は異端者だ! 私はお前を知らない!」と言ったのです。しかし、神様がいくら先生に大変な仕打ちをしても、私は神様のしっぽをつかんでいます。神様のしっぽとは何か分かりますか。いくら神様がそのようにしても、私はくじけません。先生は神様と40日間の闘いをしたのです。
神様が反対されるので、神様を中心としてイエス様が反対し、孔子が反対し、釈迦が反対し、ムハンマドが反対し、全員が一つになり、霊界全体が反対しました。40 日間闘いながら譲歩しなかったのです。実際、400 年たっても譲歩しません。神様がじっと見てみると、事態が変わりました。ですから、決裁せざるを得ないのです。40 日間で決裁しなければならないようになっています。結局、神様が先生についてきました。それで、神様が「レバレンド・ムーンは天と地において最高の勝利者」と宣布しました。
(161-41~ 42、1987.1.1)

 

③試練によって人格を錬磨し、堅固な信仰を立てる

― 宗教経典 ―

 

あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。
申命記 8.2 ~ 5(キリスト教)156

 

孟子がいわれた。「舜は田畑を耕す農夫から身を起して、ついに天子となり、傅説は道路工事の人夫から挙げられて武丁の宰相(そうりだいじん)となり、膠鬲は魚や塩の商人から文王に見出され、管夷吾は獄吏の手に囚われた罪人から救い出されて桓公の宰相となり、孫叔敖は無辺の貧しい生活から楚の荘王に取り立てられて令尹となり、百里爰は賤しい市民から秦の穆公に挙げ用いられて宰相になった。故に、これら古人の実例から見ても分るように、天が重大な任務にある人に与えようとするときには、必ずまずその人に精神を苦しめ、その筋骨を疲れさせ、その肉体を飢え苦しませ、その 行することなすことを失敗させて、そのしようとする意図と食い違うようにさせるものだ。これは天がその人の心を発憤させ、性格を辛抱強くさせ、こうして今までにできなかったこともできるようにするためである。」
孟子 VI.B.15(儒教)157

 

また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
コリントの信徒への手紙二12.7~10(キリスト教)158

 

人生は丘と同じだ。
創造者マウは、それを
険しく滑るようにつくった。
それは左右に深い水があり、
一度登り始めれば、戻ることはできない。
あなたはあなたの頭に荷物を載せて
登らなければならない。
人々は彼を手助けしない。
なぜなら、それは試みだからである。
この世は試みの場である。
プン族の歌(アフリカ伝統宗教)159

 

モーゼは……われのひとりのしもべに会った。かれにわがもとから慈悲を施こし、また、じきじきに知識を授け、かれに教えていた。モーゼはかれに「あなたに師事させて下さい、あなたが授かっておられる正しい知識を、わたしにお教え賜わりたい」と言った。かれは答えて言った「あなたは、わしと一緒には、到底忍耐できないであろう」。「あなたの知識が徹底していないことに関して、どうしてあなたは忍耐できようか」。
モーゼは「もし神のおぼしめしなら、わたしがよく忍び、またどんな事にも、あなたにそむかぬことがわかりましょう」と言った。かれは言った「それで、もしあなたがわしに師事するのなら、わしがそれについてあなたに何かとりたてて言うまでは、何事についても、わしに問うてはならない」。
そこでふたりは出発して、かれらが舟に乗り込んだとき、かれはそれに穴をあけた。そこでモーゼは「あなたがそれに穴をあけるのは、人びとをおぼれさすためか。あなたはほんとうに嘆かわしいことをなされた」と言った。かれは言った「あなたは、わしと一緒には耐え得ないのだと、告げなかったか」。モーゼは「わたしが忘れたことを責めないで下さい、またわたしの事について、むずかしく無理じいしないで下さい」と言った。
それからかれらは出かけて、ひとりの男の子に出会うまで行った、そのとき、かれはこれを殺した、モーゼは言った「あなたは、他人を殺さぬ罪もない人を殺されたのか。まことにあなたは、(かつて聞いたこともない)むごいことをしたものだ」。かれは答えて言った「あなたは、わしと一緒には耐え得ないのだと、告げなかったか」。モーゼは言った「この後わたしが、何事についてもあなたに問うならば、わたしを道づれにしないで下さい。そうすればわたしの方からのお許しの願いをすべてお受入れ下さったことになります」。
それからふたりは旅を続けて、ある町の住民の所まで来た、そこの村人に食物を求めたが、ふたりを歓待することを、かれらは拒んだ、そのときふたりは、まさに倒れようとする壁を見つけて、それを真っすぐにした。モーゼは言った「もしあなたがお望みならば、それに対してきっと報酬がもらえるでしょう」。かれは言った「これが、わしとあなたとのお別れだ。さて、あなたがよく耐え得なかったことの、解釈を話そう」。
「舟については、それは海で働く、ある貧乏な者たちの所有であった。わしがそれを役立たぬように、しようとしたのは、かれらの背後にひとりの王がいて、すべての舟を強引に徴発するためであった」。「男の子については、かれの両親は信者であったが、わしらは、かれの反抗と不信心が、両親に累を及ぼすことを恐れたためであった」。「それでわしらは、主がかれよりもすぐれた性質の純潔でもっと孝行なむすこを、かれら両人のために賜わるよう願ったのだ」。「壁については、それは町のふたりの幼少な孤児の所有で、その下には、かれらに帰属する財宝が埋めてあり、父親は正しい人物であった。
それで主は、かれらが成年に達してから、その財宝をかれら両人のために掘り出すことを望みたもうた。……これが、あなたの忍耐し得なかったことの解釈である」。(注 22)
クルアーン18.65 ~ 82(イスラーム)160

 

聖なるその方は、人を見て喜ばれるとき、彼を苦痛の中に放り込まれた。イザヤ 53 章 10 節では、「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ」とある。あなたは、たとえ彼が喜んで受け入れなくても、天はこれを行われると考えるだろう。ゆえに次のように記されている。「彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは / 彼の手によって成し遂げられる」。不純な祭物も、祭壇に上げようとすれば、同意を得なければならない。苦難を与えようとすれば、それもやはり同意がなければならない。苦難を受け入れた者に何の報いがあるのか。「彼は、子孫が末永く続くのを見る」。何よりも知恵が(トーラーの知恵が)永遠に彼と共にあるだろう。「主の望まれることは / 彼の手によって成し遂げられる」。(注 23)
タルムード、ブラホート5a(ユダヤ教)161

 

― み言選集 ―

 

信仰生活を通して試験をたくさん受けて、そこで勝利の基盤を築き、神様が信じることのできる硬い磐石をつくりなさい。
御旨の道、試験・試練

 

自身の環境に勝つ者となってこそ神が共にいてくださる。
御旨の道、信仰生活

 

神様は希望の中心、生命の中心です。そのような主体者なので、私たちもそのような主体者の前に相対になるためには、主体と同じ立場に立たざるを得ません。私がそのような人になったのか、なっていないのかということを1度テストしてみようという心をもたなければなりません。そのような人になったのか、なっていないのかを知るためには、苦労の場にほうり込み、悲しみの場にほうり込み、苦痛の場にほうり込まなければなりません。テストと試練は私を苦しめることのようですが、それが一つの価値を浮き上がらせてくれる条件的内容になるのです。
(66-45、1973.3.18)

 

行き、また行く道が
険しいと言えるでしょうか。
私たちの心はお父様のその心情の
切なさと比べられませんし、
私たちの悔しさは
幾重にも横たわったサタン圏を
歩まれたお父様のその足跡と
比べられないことが分かるよう
許諾してください。

険しい道を行きながらも
天のみ旨に責任をもつための使命感が
私たちの心にわき上がるよう
許諾してくださり、
悲しみながらも
お父様の悲しい歴史の友となって、
あなたの路程に同伴することのできる
息子、娘となるよう許諾してください。

歴史的な苦痛を共に感じて
苦痛を受ける心情の友となるよう
許諾してくださり、
悔しい心情に同伴して
友となることができ、
お父様の内的悲しみの
友となると同時に、
外的悲しみの友となって
永遠なるお父様の
喜びの対象となることができるよう
許諾してください。
(4-293 ~ 294、1958.9.14)

 

変わらない神様ですが、変わらない人をつくるためには、変わる神様として現れざるを得ないのです。試練をされるときには、神様御自身が変わる神様として現れなければならないというのです。ですから、皆さんの側から見れば、このようにされたり、あのようにされたり、「行きなさい、来なさい」と気分屋の神様として現れます。変わらない人を選ぼうとすれば、最高に変わる神様の立場でテストして、変わらなければ変わらない人として登場できるのです。
(66-46、1973.3.18)

 

昔、6・25 動乱が起きたとき、避難する道で私はこのようなことをたくさん見ました。母親が5歳の子供を背負っているのですが、分別がなく、戦争が起きて避難していることが分からず、どこかに行くというので鼻歌を歌って喜んでいるのです。ところが、背負っていくと母親が疲れて子供を下ろすのです。すると子供は、 「お母さん、嫌だ。おんぶしてくれなければ行かない。おんぶして、おんぶして」と言います。
このようなとき、子女を愛する父母は、どのようにしなければなりませんか。おんぶしてあげなければなりません。それが正義です。しかし、おんぶしてあげれば、二人とも死にます。それではどうしなければなりませんか。歩かせなければなりません。歩かないと言えば、しかり、ほほをたたいてでも行くようにしなければならないのです。そうして避難所まで行かなければなりません。
皆さんがその父母ならどうしますか。捨てていきますか、葬ってしまいますか。あるいは無理やりにでも引っ張っていきますか。どの方法が一番良いでしょうか。捨てますか。葬りますか。それが嫌なら、どうするのですか。何が何でも引っ張っていかなければなりません。耳を引っ張っていくか、鼻の穴に引っ掛けてでも連れていかなければなりません。
(32-256、1970.7.19)

 

私がたとえ年老いたとしても、
若者たちに
未来像の力の源泉として
見せてあげることができるよう、
天の力が共にあることを知り、
前進を誓いましたので、
この者たちを守り、
祝福してくださいますことを
懇切にお願い申し上げます。

願わくは、
激しい風がこの者たちの前に
吹きつけるようにしてください。
暴風と台風の風が
この者たちをかすめていき、
吹き寄せるようにしてください。

その風霜の中で堂々と残り、
勝者の姿を備えた磐石のような
若き青年男女たちとなって、
三千里半島の大学街から
出発し始めるとき、
この大韓民国の未来は絶望ではなく、
希望が近づくのを知っています。
(121-187、1982.10.24)