世界経典Ⅱ 第3部 人生の旅程 第14章 知恵

第14章 知恵

1. 教育の根本目的

教育の目的とは何か。世界的に文化の伝統教育では、徳目を育てることを基本的に強調した。すなわち、霊魂を太らせ、文明人として人格を形成し、善の市民を養成するところに焦点をおいた。今日の学校教育は、複雑な現代の職業社会で必要な技術と技術的知識を教えるところに重点をおいている。人性教育と価値観教育は冷遇されている。セオドア・ルーズベルトは、次のように警告した。「人間の心を育てる規範を教えないことは、社会の危険人物を育てあげることである」(注 1)。世界の諸経典を研究することによって、私たちは教育の根本目的を再び考える機会をもつようになる。
文鮮明先生は、教育を3段階に区分される。第1に、心情教育は利他的愛のための情緒的土台を形成する教育である。第2に、倫理教育は望ましい関係形成に必要な倫理性を育てる。第3に、学問技術教育はこの二つの基礎教育の上に確立される教育である。前の2段階の教育は、かなりの部分が家庭において父母の責任のもとになされる。もちろん、学校も部分的に、特に人性教育と結婚教育に関しては一定の部分に責任をもつことができる。個人の性格と結婚生活の問題が職場の業務遂行にも密接に関連している点を考慮するとき、このような教育目標は、現代の学校教育の職業志向的教育方式と必ずしも矛盾するとは言えない。

 

①教育の根本目的:徳性教育

― 宗教経典 ―

 

ある子供の両親は、その子を少年期に正しく教育することが出来なければ、ただの敵である。無学な子供は白鳥の中のサギと同じで、学識ある者の群れの中で輝くことは出来ない。学識はありふれた顔に高められた魅力を与える。知識は人が生涯の内にひそかに蓄える事の出来る最高の宝である。学識こそは最もあがめられるべきものである。知識は人を正直にし、高潔にし、その人の社会に対する愛を育む。人は知識によってのみ、友人や親戚の状況を良くする事が出来る。知識こそは聖の中の聖であり、神々の中の神であり、国王と王女の尊敬を集める。それなくして人は動物に過ぎない。人の家の設備や家具は盗賊によって盗まれるかも知れない。しかし最高の宝である知識は、すべての盗難を越えている。
ガルダ・プラーナ 115(ヒンドゥー教)1

 

真の学びは心に人類に対する奉仕を刻む。
アーディ・グラント、アーサー、M.1、p.356(シク教)2

 

知恵をもつ目的は、懺悔し善行を行うためである。
タルムード、ブラホート17(ユダヤ教)3

 

先生がいわれた、「ひろく書物を読んで、それを礼〔の実践〕でひきしめていくなら、道にそむかないでおれるだろうね。」
論語 12.15(儒教)4

 

物(の理の極点)に到達すれば、 (我が心の)知るところは全てを尽くす。知が尽くされれば意は誠実となることができる。意が誠実であれば心は正しくなることができる。心が正しければ身が修まる。身が修まれば家がきちんとする。家がきちんとすれば国が治まる。国が治まれば、天下は平らかになる。
大学(儒教)5

 

その理由は何であるかと言えば、般若はらみつが彼を帰服せしめているからである。それ故、彼には怒りが増長することはない。彼は憎悪を把持することはない。煩悩を維持することはない。このように実践しつつある善男子・善女人に、正しい注意力(正念)といつくしみの心とが生ずる。……「尊き師よ、実にこの般若はらみつが、菩薩大士の調禦のために、また訓練のために、私共に与えられたことは、まことに得がたいことであります。」
八千頌よりなる般若波羅蜜経 3.51~ 54(仏教)6

 

あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ、
申命記11.18 ~19(キリスト教)7

 

知恵が呼びかけ / 英知が声をあげているではないか。
高い所に登り、道のほとり、四つ角に立ち /
城門の傍ら、町の入り口 / 城門の通路で呼ばわっている。
「人よ / あなたたちに向かってわたしは呼びかける。
人の子らに向かってわたしは声をあげる。
浅はかな者は熟慮することを覚え /愚か者は反省することを覚えよ。
聞け、わたしは指導者として語る。わたしは唇を開き、公平について述べ /
わたしの口はまことを唱える。わたしの唇は背信を忌むべきこととし /
わたしの口の言葉はすべて正しく /よこしまなことも曲がったことも含んでいない。
理解力のある人には / それがすべて正しいと分かる。知識に到達した人には /
それがすべてまっすぐであると分かる。
銀よりもむしろ、わたしの諭しを受け入れ / 精選された金よりも、知識を受け入れよ。
知恵は真珠にまさり / どのような財宝も比べることはできない。
箴言 8.1~11(キリスト教)8

 

ひとの言うことがわかるようになるとすぐ、乳母も、母親も、お守り役も、それに父親自身も、なんとかして子供ができるだけすぐれた者になるようにとつとめ、行ないについても言葉についても、そのひとつひとつに際して、これは正しくこれは正しくないとか、これは立派なことでこれはみっともないことだとか、これは敬虔なことでこれは不敬虔なことだとか、こういうことをしなさい、こういうことはしてはいけないとかいったようなことを、教えたり示したりしてやる。そして、すすんで言うことをきけばよし、そうでない場合には、ちょうどひねくれ曲がっている木をまっすぐに直すように、おどかしたり叩いたりして矯正するのである。
つぎに彼らは、子供たちを先生のところにやるのであるが、その場合、読み書きが音楽よりは、むしろずっと子供たちの品行方正のほうをよく気をつけてみてくれるように、先生にたのむのである。先生たちのほうでも、よくこのことに気をつける。そして、ちょうど先にひとの言うことがわかるようになったと同じように、子供たちが今度はさらに読み書きができるようになり、書かれたものを理解しようとするころになると、彼らにすぐれた詩人たちの作品を教室であてがって読ませ、それらを暗記するようにいいつける。その中には数多くの訓戒がふくまれているし、むかしのすぐれた人物たちを描写し称揚し讃美した言葉が数多くある。こうして、子供たちがそれに讃嘆しながら見ならい、そのような人物になろうとあこがれるようにしむけるのである。
プラトン プロタゴラス 325c-e(ヘレニズム)9

 

知識は霊魂の糧である。
プラトン プロタゴラス(ヘレニズム)10

 

真実な教養教育は、性格を人らしくし、残酷にならないようにする。
オヴィディウス(ヘレニズム)11

 

― み言選集 ―

 

私たちが生活するにおいて、自分個体の目的を中心として、それを成すために生きるよりも、全体の目的のために生きなさいというのが、今までの教育や道徳が指向してきた標準です。
(24-212、1969.8.17)

 

「万民は、善なるものを願っていくので、神様のために生きる前に、人のために生きなさい。人類全体のために生きなさい。人を愛しなさい。人のために生きなさい。人のために生まれたのだ」という教育を受けなければなりません。
(64-20、1972.10.22)

 

良い心をもって犠牲になる人を好むようになる、ということの具体的な内容は分からなくても、漠然と今日の人倫道徳を中心として、一律的に教育の目標になっており、教養の目標になっていることを知っています。それはなぜでしょうか。落ちた立場でより高い一点を望んでいるので、天は、そのような立場にいる者に一対一の立場で詳しく教えてあげることはできないのです。ですから仕方なく、ひそかに、象徴的に、あるいは比喩的に教えてあげるのです。そのように教えてあげたのが、今日の「善を行いなさい」、「積善しなさい」という言葉だ、という事実を知らなければなりません。
(65-118 ~119、1972.11.5)

 

悪の人になるには、教育は必要ありません。教育だけでなく、何も必要ありません。悪の人になろうとすれば、何も教えなくても、すぐに悪くなることができるのです。ここには、教育が必要ありません。悪の人になりなさいと教育しなくても、自動的になれるというのです。しかし、善の人になろうとすれば、自動的になるのはそれほど簡単ではありません。したがって、善の人にするためには教育が必要なのです。すなわち、善に従って行動するためには教育が必要だというのです。善と悪が行く道は、お互いに相反する道なので、善を行うために行く道は、決して簡単な道ではありません。
(39-23、1971.1.9)

 

教育は、あらゆる文明の利器を活用して受けるのですが、知識教育、体育、技術教育はもちろんであり、祝福家庭を土台とした心情教育と規範教育を優先することによって、天道に従う選民を育てる教育となります。
(269-156、1995.4.17)

 

アダムとエバを中心として、子女教育の材料が出てこなければなりません。また、兄弟教育の材料、それから夫婦教育の材料、父母教育の材料、そして家庭がどのように育つという材料、氏族がどのように育っていくという氏族的材料が出てこなければなりません。
(233-336、1992.8.2)

 

家庭は、人生において最も重要な愛の学校です。子女たちは、家庭圏において父母だけが行うことのできる愛の教育、情緒教育を通して、心情(注 2)の深さと幅を育てます。これが子女の人格をつくる礎石となります。また、家庭は、子女に美徳と規範を教育する学校です。人は、このような情緒教育と規範教育を受けた土台の上で、知識教育、体育、技術教育を受けなければならないというのが天道です。
(271-80、1995.8.22)

 

私たちが生まれるとき、どのように生まれますか。父母を中心として生まれるとき、新郎と新婦として生まれるのではありません。息子、娘として生まれ、愛の教育を受けるのです。そうではないですか。愛の教育を受けなければなりません。その父母は、息子、娘にどのような教育をしなければなりませんか。知識教育をするのではありません。愛の教育をしなければならないのです。互いに一つになる教育をしなければなりません。天が喜ぶ父母であり、また母が喜ぶ父であり、父が喜ぶ母であり、二人とも喜ぶと同時に私が喜ぶ父母であり、父母が私を喜び……。
そのようになれば、神様を中心として見ても、アダムとエバを中心として見ても、四位基台です。すべて四位基台だということです。このように見ても、あのように見ても、すべて四位基台だというのです。ですから、神様の愛を中心として、神様に愛の教育を受けなければなりません。それでは、その起源はどこでしょうか。人間から始まるのではありません。神様が父母なので、神様からアダムとエバは愛の教育を受けなければならないのです。そのアダムとエバの価値基準の設定は、どこからなされるのですか。神様の愛の教育からです。それでは、愛の教育を受けるとき、いつまで受けるのですか。父が知るすべての価値の基準を推し量ることができる時まで、言い換えれば、成熟する時までは父母の愛を受けて育たなければなりません。ところが、アダムとエバが神様の愛を受けて育ったという記録が聖書にありますか。愛を受けたという話はなく、気分の悪い堕落したという話から始まっています。
(51-172 ~173、1971.11.21)

 

韓国の人たちは、死ぬ教育を受けてきたので、死ぬことには精通した人たちです。死ぬ教育、正しく死ぬことを教えてあげる教育は、道の精髄教育です。
(25-158、1969.10.3)

 

②教育は心を拡張し、新しい発達の可能性を開いていく

― 宗教経典 ―

 

深い学識があり、技術を身につけ、訓練をよく学び、ことばがみごとであること―これがこよなき幸せである。
スッタニパータ 261(仏教)12

 

知識より大きな財産はなく、無知より大きな貧困はなく、文化より大きな遺産はない。
ナフジュ・アル・バラーガ 語録 52
(シーア派イスラーム)13

 

先生がいわれた、「生まれつきは似かよっているが、しつけ(習慣や教養)でへだたる。」
論語17.2(儒教)14

 

あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。
ヨハネによる福音書 8.32
(キリスト教)15

 

トーラーを研究することに努力する者、自由を得るだろう。
ミシュナ、アヴォート6.2(ユダヤ教)16

 

― み言選集 ―

 

勉強すること自体を好きな人は一人もいません。眠るのが好きな人はいても、最初から勉強するのが好きな人はいないのです。勉強することによって自分が活動できる範囲が広がるので、喜んでやるのです。
(36-120、1970.11.22)

 

人は、誰もが素晴らしい息子をもちたいと思います。それでは、素晴らしい人に育てるためには、どのように教育しなければならないのでしょうか。ある人は、幼稚園から大学まで学校がたくさんあるので、「そこで教育すればよい」と言うかもしれません。しかし、教育は一生の間、しなければなりません。精誠を尽くさなければなりません。父母が精誠を尽くして育てた子供に家門を任せる時、すなわちその代身者として立てる時は、父母の心と一致させ、その父母の因縁に従わせながら代身者として立てるのが常例です。
(24-257、1969.8.24)

 

「あ! 息子、娘に勉強させなければならない。勉強してこそ出世する」と言います。しかし、先生はそのように考えません。「知ってこそ出世する」と言いますが、そうではないのです。国をどれほど愛するか、神様をどれほど愛するかということが貴いのであって、神様をどれほど知っているかということが貴いのではありません。
(144-130、1986.4.12)

 

世界のすべての国の教育制度は、競争で勝利した者だけが獲得することができるという競争の長所と、それに最も適合する生活を、あまりにも強調しすぎてきました。これは、人類を一つの人間家族の構成員として導くことによって、平和な共存の世界に導くための健全な人間の努力を食い荒らす伝染病のようなものでした。いずれにしても、現在の人類は、知性人の間でそのような競争を強調することが変遷されつつあり、生存のための協同が不可欠な要素であることを悟り始めました。このような見解に照らし合わせてみるとき、教育の目的と教育哲学は、深層から変革を経なければなりません。
(74-109、1974.11.22)

 

2. 知識探求

知識探求は、すべての人に与えられる義務である。教育とたゆまない学習は、その人をより優れた高貴な存在として高揚させてくれる。この節では、知識探求の様々な側面に対して扱った章句を載せた。第1に、真理探究は宗教的義務である。そのような探求が私たちを真理が始まった宇宙の根源に連れていってくれるだろう。第2に、学習の重要な効果は自分を正しく知ることである。私たちがどれほど知らないかを含め、無知の範囲を悟ることまでここに含まれる。第3に、知識は自然に与えられるものではない。理解したのちに消化してこそ、自分のものになる。したがって、学生たちは、あらゆる視角で知識を理解するためにこつこつと努力する。第4に、探求は広範囲になされなければならず、科学を含むすべての宗教と文化までも包容しなければならない。この節に載せた文鮮明先生のみ言の一部は、教授、科学者の集いで語られたみ言である。それ以外に、個人的真理探究過程を説明していらっしゃる。

 

①神様と神的原理は理解の出発点

― 宗教経典 ―

 

信仰がなければ知識はあり得ず、知識がなければ徳行はあり得ない。徳がなければ救済はあり得ず、救済がなければ完成(涅槃)もまたあり得ない。
ウッタラッジャーヤー・スートラ28.30(ジャイナ教)17

 

主を畏れることは知恵の初め。
箴言 9.10(キリスト教)18

 

あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。
ヤコブの手紙1.5(キリスト教)19

 

わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。
コリントの信徒への手紙一 2.4 ~ 7(キリスト教)20

 

真実のみ勝つ。虚妄はしからず。真実によりて天神の路も作られたり。この路を辿りて、聖者達はその願望を成就して、真実在なる至上の宝蔵のある処(至上界)へと登りゆくなり。
ムンダカ・ウパニシャッド 3.1.6(ヒンドゥー教)21

 

学びにつとめる人こそ、この大地を征服し、閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろう。わざに巧みな人が花を摘むように、学びにつとめる人々こそ善く説かれた真理のことばを摘み集めるであろう。
法句経 45(仏教)22

 

信じれば理解できる。ゆえにあなたが信じていることを理解しようとせず、あなたが理解していることを信じよ。イザヤ書の教えのように。「信じなければ、あなたがたは確かにされない」(イザヤ書7章9節)。
アウグスティヌス ヨハネ福音書注解 29.6
(キリスト教)23

 

道徳的道理を注意深く熟考し、その源泉を養成せよ。
朱熹(儒教)24

 

― み言選集 ―

 

哲学が追求する目標、すなわち、真理を通じて最後の目標について追求していったり、あるいは、存在の起源を掘り下げていっても、必ずここには神様という問題が介在し、超越者、絶対者という名詞が介在するのです。それはなぜそうなのでしょうか。絶対者と関係を結ばなくては、どんな学問や、存在価値も、その起源が解決できないからです。それで人間は、深刻な場では必ず、真を通じて解決しようとしたのです。
(24-318、1969.9.14)

 

真理は一つだというだけでなく、それは自然と人間世界を支配する一つの原理でもあります。この原理は、宇宙万象の根源です。人間にとっても、この原理は、霊性と肉性の調和を通した人格を完成し、真、善、美を実現するように導く真の愛の絶対価値なのです。
私は、これまでの神本主義や人本主義、そして物本主義の主張が相互和解できない価値の衝突ばかりだとは見ていません。かえって一つの原理、絶対価値の未完成的で一面的な表現であり、不完全な主張だったと見ています。人間と現実世界の様々な問題を根本的に解決するためには、既存の主義や主張を飛び越え、全体を収拾できる絶対価値、一つの原理を探し出さなければなりません。
絶対価値は、究極的に神様に対する根本的な質問にまで至ります。神様が存在されると肯定することは、自然界および人間界に恒久的に作用する、一つの普遍的原理の存在を認めることです。この土台の上で、相対的なものとして現れる価値は、絶対的価値の土台の上に相互に密接な関係があるものと理解できるのです。
(170-268、1987.11.27)

 

②あなた自身を知れ

― 宗教経典 ―

 

かれはみ心にかなう者に、英知を授けたもう。英知を賜わった者は、まことに、有り余るほどの恩典を賜った者である。だが思慮ある者のほかは、何人も訓戒に留意せぬ。
クルアーン 2.269(イスラーム)25

 

他人を知るものが智のある人であり、自己を知るものが目覚めた人である。
道徳経 33(道教)26

 

孟子がいわれた。「君子たるものが道に深く到達するために、いろいろ工夫をこらすことが必要なのは、道を十分に会得して自分のものにしようと思えばこそである。……。」
孟子 IV.B.14(儒教)27

 

われは自分が何をなしているかを知らず。われは締め出されて彷徨し、自らの意に苦しめられる。原初の真理がわがもとに来たるとき、われはその同一の言葉の分け前にあずかる。
リグ・ヴェーダ 1.164.37(ヒンドゥー教)28

 

知ることのできないものを知るのが最上である。そして、これを知らないのが欠点である。
道徳経 71(道教)29

 

もしも愚者がみずから愚かであると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。
法句経 63(仏教)30

 

古くしかも新しい美よ、わたしがあなたを愛したのはあまりにおそかった。わたしがあなたを愛したのはあまりにおそかった。あなたはわたしのうちにおられたのに、わたしは外にあってむなしくあなたを外に求めた。そしてわたしは醜い姿をして、あなたの創造された美しいものの中に突進した。あなたはわたしとともにおられたのに、わたしはあなたとともにいなかった。あなたのうちに存在しなければ、まったく存在しないものが、わたしをあなたから遠ざけていたのである。
アウグスティヌス 告白10.27
(キリスト教)31

 

吟味のない生活は、人間の生きる生活ではない。
プラトン ソクラテスの弁明 38(ヘレニズム)32

 

私は私が無知だという事実以外には何も知らない。
ソクラテス(ヘレニズム)33

 

― み言選集 ―

 

今、皆さんの位置を知らなければ、航海するときに緯度や経度が何度なのか分からずに行くのと同じです。自分がどの位置にいるのかを知って、自分が方向を定めなければなりません。自分が行く道を定めなければならないのです。
(120-303、1982.10.20)

 

睡眠薬のようなものを飲んで自殺する人が多いでしょう? それでは、なぜ死ぬのですか。自分がなぜ生まれたのか、目的を知らないからです。なぜ死ぬのか、なぜ生まれたのかということを知らずにいます。哲学の入門で、最初に問うことが人生とは何か、その次に、人間はなぜ生まれたのかということです。
(222-70、1991.10.28)

 

人間は、善の欲望を生ぜしめる本心というものがそもそもいかなるものなのか、また、この本心に反して悪の欲望を起こさしめる邪心というものがいったいどこから生じてくるものなのか、さらにまた、人間にこのような矛盾性をもたしめ、破滅を招来せしめるその根本原因はいったい何なのかなどという問題に対しては、全く無知なのである。それゆえ、我々が悪の欲望を抑え、善の欲望に従い、本心が指向する善の生活をなすためには、この無知を完全に克服して、善悪を判別できるようにならなければならないのである。
原理講論、総序

 

真理は、永遠不変の中心を備えています。それでは、私たちは、この悪の世の中でどのように善悪を分別しながら真理を求めていかなければならないのでしょうか。自分を中心とする心を捨て、常に低い位置に下りていかなければなりません。聖書にも、「自分を低くする者は高くされるであろう」とあります。(注 3)
(2-138、1957.3.17)

 

知ってみると多くの面において「あ! 足りないな」と言う、これが良い賜である。
御旨の道、指導者

 

③教師の権威ではなく、自らの包括的な研究によって理解せよ

― 宗教経典 ―

 

伽藍衆よ、汝等は風説を信ずる勿れ、伝説を信ずる勿れ、億説を信ずる勿れ、蔵〔経〕の教〔と合する〕とて信ずる勿れ、尋思に基きて信ずる勿れ、理趣に基きて信ずる勿れ、因相を熟慮して信ずる勿れ、審慮し認許せる見〔と合する〕とて信ずる勿れ、〔説者が〕堪能なりとて信ずる勿れ、沙門は我等の師とて信ずる勿れ、伽藍衆よ、もし汝等がただ自ら─この法は不善なり、……有罪なり─と覚るならば、汝等はその時は〔彼を〕断つべし、……もし汝等がただ自ら─この法は善なり、無罪なり─と覚るならば、その時は具足して住せよ。
阿含経増支部 i.190 ~ 91(仏教)34

 

知識の探求はすべてのムスリムに付加された義務である。
イブン・マージャおよびバイハキ・ハディース
(イスラーム)35

 

彼はいにしえのすべての人の知恵を詳しく調べ、/預言の書の研究にいそしみ、/
高名な人々の話を心に留め、/ たとえ話の複雑な道へと分け入り、/
格言の隠れた意味を詳しく調べ、/たとえ話のなぞをじっくり考える。
彼は身分の高い人々に仕え、/ 為政者たちの前にも出入りする。見知らぬ人々の国を旅し、/ 人間の持つ、善い面、悪い面を体験する。
シラ書〔集会の書〕39.1~ 4(キリスト教)36

 

究理は井戸を掘るのと同じだ。もし私たちが持続的に掘れば、私たちは澄んだ水に到達するだろう。最初それはぬかるみだが、だんだんと掘り出していけば、自然に澄んでくるだろう。
朱熹(儒教)37

 

私は多様な相反する意見を収拾し、真理探究の限界点まで自分たちをむち打ってみなさいと、若い読者たちに語りたいと思います。そうすれば、彼らの知恵が探求と共に精巧化されます。疑心を通して探求が始まり、探求を通して真理を知っていくことができます。
ピエール・アベラール カソリック神父たちの
多様な観点に対する探求(キリスト教)38

 

人生に有益な学びにおいて、最も有用な部分は、事実でないことを学ばないことである。
アンティステネス(注 4)(ヘレニズム)39

 

自由に思考する者たちは、自分たちの慣習、特権、信念と衝突することを理解するにおいて、偏見と恐れなく、喜んで彼らの心を用いる人々である。このような心の状態はよくあることではないが、正しい思考のためには必須的である。それがなければ討論は無益なものよりもっと悪いものになる。
レフ・トルストイ(ヘレニズム)40

 

― み言選集 ―

 

宗教の究極的な目的は、まず心をもって信じ、それを実践することによって初めて達成されるのである。ところで、信ずるということは、知ることなしにはあり得ないことである。
原理講論、総序

 

皆さんは、自分にぼんやりと教えてくれるものがあったとしても、むやみに動いてはいけません。はっきりとした真理による方向がなければ、絶対に動いてはいけないのです。たとえ誰かが皆さんにある新しい事実をはっきりと教えてくれたとしても、それをそのまま信じずに、必ず皆さんよりアベル的な人と(注 5)相談しなければなりません。
(3-212、1957.11.1)

 

これまでの哲学や宗教が多大の貢献をなしたことは事実である。しかしながらその反面、それらが我々にあまりにも多くの精神的な重荷を負わせてきたということも、また否定し得ない事実であろう。歴史上に現れたすべての哲人、聖賢たちは、人生の行くべき道を見いだすべく、それぞれその時代において、先駆的な開拓の道に立たされたのであるが、彼らが成し遂げた業績はすべて、今日の我々にとってはかえって重荷となってしまっているのである。このことについて我々はもう一度冷静になって考えてみる必要があるのではなかろうか。哲人の中の誰が我々の苦悶を最終的に解決してくれたであろうか。聖賢の中の誰が人生と宇宙の根本問題を解決し、我々の歩むべき道を明確に示してくれたであろうか。彼らが提示した主義や思想は、むしろ我々が解決して歩まなければならない種々様々の懐疑と、数多くの課題とを提起したにすぎなかったのである。そうして、あらゆる宗教は、暗中模索していたそれぞれの時代の数多くの心霊の行く手を照らしだしていた蘇生の光を、時の流れとともにいつしか失ってしまい、今やそのかすかな残光のみが、彼らの残骸を見苦しく照らしているにすぎないのである。……。
人間が、根本的に、神を離れては生きられないようにつくられているとすれば、神に対する無知は、人生をどれだけ悲惨な道に追いやることになるであろうか。しかし、神の実在性に対しては、聖書をいかに詳しく読んでみても、明確に知る由がない。ましてや神の心情についてはなおさらである。
原理講論、総序

 

私がこの道を出発するときにも、「神様、いますか」と最後まで調べて、神様がいらっしゃることをはっきりと知って出発しました。
(13-201、1964.3.15)

 

真理を探究するにおいて、既成教会のように聖書だけを見るのではありません。どれほど膨大な測りではかり、どれほど掘り下げたか考えてみてください。実験する人は、もしかするとこれが合っているのではないかと、どれほど実験して合わせていきますか。同じことです。真理、原理を探し出した道も同じです。そのようなことを見れば、先生がたくさん発見したというのです。
(93-69、1977.5.1)

 

分別のない先生を天が教えてくれたでしょうか。天がどれほど大騒ぎして苦しめたかというのです。愛は直短距離を通るということと宇宙の根本は父子の関係だということ、その二つしか教えてくれませんでした。それをもって、すべて解かなければなりません。それで、原理の世界、父子の関係、父子は世の中の血筋をもったその父子ではありません。新しい根源から解いていかなければならないのです。
それで堕落の原理を知らなければなりません。私が根本をすべて明らかにしました。それがすべて宇宙の法です。天法です。
(376-315、2002.4.29)

 

私は聖書を見るとき、「これは何か」と深刻に考えれば、その問題を解決するために1年、2年、3年でも精誠を尽くします。「ああ、これはこういうことなのだなあ」と思うところまで根を抜いてしまうのです。
(35-38 ~ 39、1970.9.27)

 

④主題に対するあらゆる側面の探求

― 宗教経典 ―

 

先生がいわれた、「君子はひろく親しんで一部の人におもねることはないが、小人は一部におもねりあってひろく親しまない。」
論語 2.14(儒教)41

 

私はマハビラに対する良い偏見に捕らわれておらず、またカピラや他の師に対する反感をもってもいない。私はただ真の道理に達する説法を受け入れるだけである。
ハリバドラ ロックタットパーナルナヤ 38
(ジャイナ教)42

 

君子に三つの憂いがある。まだ(道を)聞かぬうちは、聞くことのできないのを憂える。既に聞いてからは、それを習って覚えこむことのできないのを憂える。既に覚えこんでからは、それを実行することのできないのを憂える。
礼記 18.2.2.20(儒教)43

 

ベン・チョマは言った、誰が賢明な人か。それはすべての人から学ぶ人だ。これは詩編の教えと同じだ。「わたしはあらゆる師にまさって目覚めた者です」 (詩編119 章 99 節)。
ミシュナ、アヴォート4.1(ユダヤ教)(注 6)44

 

ひとが何か或るものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と「真理に達した人々」は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。
スッタニパータ798(仏教)45

 

一つの哲学的な意見を理解しようとすれば、他の所見の包括的学習を通してせよ。
アーヤーランガ・スッタ5.113(ジャイナ教)46

 

私は私ができる限り、私自身の宗教だけでなく、他の宗教に対しても注意深く学ぼうと思う。
モハンダス・カラムチャンド・ガンディー(ヒンドゥー教)47

 

宗教のない科学はあしなえであり、科学のない宗教は盲人である。
アルベルト・アインシュタイン 私が見る世界 48

 

― み言選集 ―

 

立派な人になろうとすれば、師の立派な教訓をすべて自分のものにしなければなりません。そうでなければ、立派な人になることはできません。幼稚園から小学校、中高等学校、大学、大学院を出て博士になったとしても、世界的に権威のある学者たちのあらゆる知識をすべて自分のものとして吸収し、その総合的な価値を自らの生命要素とし、ここに趣の違う一つの新しい善の実体として登場する立場に立たなければなりません。そうしてこそ、世界的な学者になることができ、世界的な思想家になることができるのです。これは善の志を成していく道においても同じです。
(35-327 ~ 328、1970.11.1)

 

様々な研究分野においての知識というものは、互いが関連性をもっているのですが、ともすると学者たちは自分自身の研究分野にばかり固着する傾向をもちやすいのです。極端な専門化は、それを追求する個人以外のほかの人には、ごくわずかな意味だけを与える知識をもたせるようになります。発見の喜びというものは、学者をしてほかの分野の人たちも理解できるように伝えたいと思わせるものです。
私たちの知識が皮相的で不確実なものにならないようにするために、ほかの人たちの意見を聞くことを喜ぶことができなければなりません。宗教者たちは、特にルネサンス以降、科学の発展によって脅威を受けてきました。しかし、いわゆる宗教者という人たちが、発見する知識と科学技術に対する理解がなければ、果たして飢餓や疾病、老衰と不十分な衣食住問題をどのように解決することができるでしょうか。科学はこのような目的のために大きく貢献してきたことは明白です。
一方、人間と宇宙の神秘を考察するにおいて、宗教と科学は、二つともすべて霊感と論理と観察を通して宇宙と人類を存在するようにしたその原因を説明しようとしたのです。人間の起源と目的に関するそのような考察は、私たち人間がどこまでも人間であるがゆえに、そのように継続されてきたのですが、それはまた、私たちの消えることのないエネルギー源も形成させてきたのです。このような意味で 20 世紀の宇宙学者と生物学者たちは、神学者たちと哲学家たちの関心事に関係をもっているのです。
(95-202 ~ 203、1977.11.25)

 

知恵は、研究と学びによって段階的に得られる知識とは異なり、神様の祝福である霊感によって得られます。人間の邪悪で利己的な心についていっては霊感が開発されません。知恵の中の知恵は神様の心情と理想を知ることです。
(219-105 ~106、1991.8.26)

 

3. 伝統

世代を経て蓄積された知恵が伝統である。伝統は、歴史研究、大衆儀礼と家庭の中で伝えられる警句と民話などを通して伝わっていく。この最高の教育資料の中の一部には、善で自己犠牲的、模範的人生を生きた平民たちと偉人たちの話が含まれている。今日のように、有名人たちの文化と名声がいち早く伝わる時期に伝統を求めるのは簡単ではないが、伝統自体の重要性だけは看過することはできない。
家庭は伝統の中心に立っている。父母は、教えと先例を通して、子女にそれらの価値と規範を伝授する。望ましい父母は、子女が父母の道に従ったり、さらには父母よりも立派な人生を生きるよう指導する。堅固な家庭的基礎を通して、私たちは次の世代に知恵を伝授してあげ、その伝統を維持するよう強化していくのである。

 

― 宗教経典 ―

 

伝統は消えない。
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)49

 

主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ / どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」
エレミヤ書 6.16(キリスト教)50

 

君子は過去の聖賢の言行を多く認識し、その徳を畜養することにつとめる。
易経 26、周易上経、大畜(儒教)51

 

して、それらはみな、御身の御心と正善なるスプンタ・マンユのそれとを通して、人の行為にたいして授けられるのですが、かかる人とは、マズダーよ、礼讃に際し、讃嘆の歌をもって御身たちさまをつつむときに、その人の魂が天則と一致しているもののことです。
アヴェスター・ヤスナ 34.2(ゾロアスター教)52

 

格言(伝承された知恵)がなければ、言語は肉のない骨であり、魂のない体である。
チュルー族の格言(アフリカ伝統宗教)53

 

主はヤコブの中に定めを与え / イスラエルの中に教えを置き /
それを子孫に示すように / わたしたちの先祖に命じられた。
子らが生まれ、後の世代が興るとき /彼らもそれを知り /
その子らに語り継がなければならない。
子らが神に信頼をおき / 神の御業を決して忘れず / その戒めを守るために
詩編 78.5 ~ 7(キリスト教)54

 

子らよ、父の諭しを聞け / 分別をわきまえるために、耳を傾けよ。わたしは幸いを説いているのだ。わたしの教えを捨ててはならない。わたしも父にとっては息子であり / 母のもとでは、いとけない独り子であった。父はわたしに教えて言った。「わたしの言葉をお前の心に保ち / わたしの戒めを守って、命を得よ。わたしの口が言いきかせることを / 忘れるな、離れ去るな。知恵を獲得せよ、分別を獲得せよ。知恵を捨てるな / 彼女はあなたを見守ってくれる。分別を愛せよ / 彼女はあなたを守ってくれる。
箴言 4.1~ 6(キリスト教)55

 

先生は……子供たちが今度はさらに読み書きができるようになり、書かれたものを理解しようとするころになると、彼らにすぐれた詩人たちの作品を教室であてがって読ませ、それを暗記するようにいいつける。その中には数多くの訓戒がふくまれているし、むかしのすぐれた人物たちを描写し称揚し讃美した言葉が数多くある。こうして子供たちがそれに讃嘆しながら見ならい、そのような人物になろうとあこがれるようにしむけるのである。
プラトン プロタゴラス 325e(ヘレニズム)56

 

先祖たちが語っていた徳は、完璧に消化し、徹底して洞察されたとき、初めてすべて自己修養に有用なものとなり、日々行うことができ、徹底した確固たる修行になり得るのである。
朱熹(儒教)57

 

あなたの時間を人々が書いた文を読み、あなた自身を改善することに用いてください。そうすれば、あなたは人々が精いっぱい努力して得たものに簡単に到達するでしょう。
ソクラテス(ヘレニズム)58

 

もし私が人よりも遠くを見据えてきたとすれば、それは偉人の肩に立っているからである。
アイザック・ニュートン 59

 

― み言選集 ―

 

善が一瞬のうちに成されることはありません。善の人になろうとすれば、必ず過去から受け継いでこなければなりません。ですから、教育が必要です。学校に行って学ばなければなりません。何を学ぶのでしょうか。昔から、歴史過程において善の道を築くために犠牲になった人たちは、豊かに暮らした人ではありません。ですから、犠牲になっていった人たちの歴史的思想を受け継がなければなりません。
(50-101、1971.11.6)

 

その国が栄えるためには、どのようにしなければなりませんか。歴史を相続しなければなりません。年を取った人を好む人は、歴史を相続することができるのですが、相続するときは幼いころから相続しなければなりません。ですから、子女たちは昔話を好みます。幼い子女たちは、木で言えば新芽と同じなので、歴史的なエキスをそっくりそのまま受けなければならないからです。昔を好むというのは、そのような意味で通じるのです。
鼻をずるずるさせて泣く子供に、「泣かなければ昔話をしてあげよう」と言えば、すぐに泣きやんで「話して」と言います。本当にそれを喜ぶのです。お乳を飲む時間以外は、それが一番うれしいようです。それはなぜでしょうか。歴史を相続してくるからです。天地の道理がそのようになっているからです。
(28-188、1970.1.11)

 

教育するためには、教材が必要です。国を代表して教えようとすれば、国を代表する教材が必要ですが、その教材の材料をどこからもってくるのですか。その材料は、その国のために、その民のために犠牲になり、誰よりも苦労した善の君主と善の民でなければなりません。民の中でも苦労した民でなければなりません。
(65-216、1972.11.19)

 

東洋思想と西洋思想が連結される可能性があるとすれば、何でしょうか。何かの伝統があるとすれば、何かというのです。お金ですか、知識ですか。それも必要です。しかし、それは外的に必要です。お金では下がっていきます。知識はなくても上がっていくことができるものがあるとすれば、いつでも上がっていくことができるものが一つあるとすれば、そこに何を入れたいと思うのかというのです。それが正に愛です。
このように考えるとき、家庭をこのようにしっかりと永遠に一つにまとめるための伝統がなければならず、国を一つにまとめて永遠に残すことができる伝統が必要であり、世界を一つにまとめて永遠に残すことができる伝統が必要だという結論が出てきます。その内容が愛を中心とする内容でなければなりません。家庭においては父母の愛を中心として完全に永遠を思い描く、そのような愛が必要です。そのような父母の愛があれば、その父母の愛は一時だけあるのではいけません。それを永遠に受け継ごうとすれば、受け継ぐことのできる伝統基盤である子女がいなければなりません。
それでは、それを完全に受け継いで、より大きくしようとすればどのようにしなければなりませんか。昔よりは優れていなければなりません。そのような教育方法が必要です。それで、父母は子女に対して教育するとき、「お前は私より立派でなければならない」と言うのです。何であっても優れていなければなりません。立派な人になりなさい! このように強要することが父子の関係になければならない、という結論が出てくるのです。
そのようになりなさいと言い、原動力を起こすのを誰がしなければなりませんか。父母が子女にしなければなりません。そうでなければならないのです。父母は子女に対してまあまあでいることができないようにして、「お前はこのような人にならなければならない」ときちんと言いきかせ、私よりもっと立派になれと、すべてのものを犠牲にさせながらその道に追いやるのです。
(95-49、1977.10.23)

 

先生は、一生の間、そのような闘いをしてきました。このように闘ってきたすべての基盤を、ただで皆さんが相続するのです。その代わり、伝統を受け継ぐのです。死んでもこのように死に、生きてもこのように生きる伝統を受け継がなければなりません。
皆さんは、伝統を受け継ぐだけでなく、教育をしなければなりません。誰にですか。皆さんの息子、娘と、皆さんの夫、皆さんの妻を教育しなければなりません。「私の夫は素晴らしい方だ」、 「私の妻は素晴らしい方だ」と言って、尊敬しなければなりません。夫婦がそのようになって、息子、娘たちを教育しなければなりません。その次には、正しく教育するだけでなく、正しく実践しなければなりません。これが3大原則です。
(113-303 ~ 304、1981.5.10)

 

4. 経典と解釈

経典は、宗教的知識の基礎である。すべての高等宗教は、創始者が悟った神的真理と霊的教えを基盤として定礎され、それが経典に収録された。したがって経典は、信仰者たちの人生を導いてくれる根幹になる。一方、新しい概念と革新的神学的思想が登場したとき、経典はこれらを評価できる不変の基準でもある。規則的な経典学習は、日常の中で神様の導きを発見し、知恵を得るために奨励されている。
しかし、経典を正確に解釈するのは簡単ではない。経典の章句の意味に対する不一致は、これまで信仰共同体において絶えず紛争と分裂を招来してきた。その一つの原因は、経典が比喩と象徴的言語で表現されたためである。したがって、比喩と象徴を理解するためには、霊的分別力と、時には聖霊の力が必要だ。
また、一つの論争は、経典を文字的にのみ理解するのか、時代的風潮に従って考慮するのかということである。宗教は、常に経典の文字に忠実でありながらも、新しい霊的洞察力にも開放的であり、そのバランスを失ってはならない。仏教用語で「いかだ」があるが、これは私たちがそのいかだに乗って桎梏の海を渡り、祝福されたあの地に向かって自由に進んでいける道具という意味である。しかし、経典に書かれたそのごとくにのみ意味を理解すれば、これからの霊的成長には荷物になることもある。過去の解釈は、新しい解釈に譲歩しなければならない。そうでなければ、ちょうどイエス様のときのように、経典自体がつまずきの石になってしまうこともあり得る。
この節は、神様の無限の真理を有限の言語でしか表現できない経典の限界を指摘して締めくくっている。イエス、仏陀、そしてほかの宗教創始者たちは、天の真理に対して自分たちが知っていた一部だけを教えざるを得なかったのであり、したがって当時の弟子たちは、それを理解できる水準によって伝えざるを得ない環境圏に生きていた。文鮮明先生は、すべての経典は神様の創造目的完成に向かう人類を先導するために、時代的な時と場所によって許諾された神様の真理を収めていると語られる。しかし、今もなお明らかにされていない天の真理が残っているため、世界は科学時代にふさわしく表現された新しい真理を迎えなければならないだろう。

 

①経典の規則的探求を通じた教訓修得

― 宗教経典 ―

 

わたしはあなたの律法を / どれほど愛していることでしょう。わたしは絶え間なくそれに心を砕いています。
詩編119.97(キリスト教)60

 

だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。
テモテへの手紙二 3.14 ~17(キリスト教)61

 

賢者たちが聖なる言葉から見た行為は、セベダ聖殿に明快に言明されており、あなたたち真理を愛する者たちよ、身につけて遵行せよ!これが善行の世界に行くあなたたちの変わらぬ道であることを忘れてはならない。
ムンダカ・ウパニシャッド1.2.1(ヒンドゥー教)62

 

あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。 (注7)
申命記 6.5 ~ 9(キリスト教)63

 

われは真理をもってクラーンを下したので、真理によってそれは下った。そしてわれは、吉報の伝達者または警告者として、なんじをつかわしたのみ。これはわれが明白にしたクラーンで、なんじをしてゆっくりと人びとに、読唱させるためで、少しずつこれを啓示した。言え「おまえたちがクラーンを信じても、また信じなくとも、以前に知識を賜わった者たちは、かれらに対して読唱されるとき、必ずその顔を伏せて叩頭する、そして、祈って言う「わたしたちの主の栄光をたたえまつる、まことに主のお約束は果たされました」。かれらは涙を流して顔を地に伏せ、謙譲のまことをつのらせる。
クルアーン 17.105 ~ 9(イスラーム)64

 

法華経を読誦する者があったら、この人は仏の飾りをもって自分を飾る人であると知れ。それは如来を肩にかついでいることになる。
法華経 10(仏教)65

 

私はあなたに信頼を与える。あなたがそれに執着する限り、誤ることはないだろう。それは神が天から地上に下された綱であり、正にクルアーンである。
ダーリミー・ハディース1(イスラーム)66

 

経典とその趣旨にすべての心を全一させよ。これによって生死の輪廻が止まるだろう。
アーヤーランガ・スッタ5.122(ジャイナ教)67

 

聖なる言葉が師であり、これに対する至極の瞑想により私がその弟子になるがゆえに、不可解なその教えに沈潜することによって私が迷いの鎖から抜け出るだろう。(注 8)
アーディ・グラント、ラームカリー・シッダ・ゴーシュト
M.1、p.943(シク教)68

 

トーラーに努力する者、多くのものを得るだろう。さらに全世界は彼に照らされるだろう。彼は友、愛される者、万民の愛する人、人類の愛する人と呼ばれるだろう。彼は謙遜さと敬虔さの服を着ているからである。トーラーは、彼を正義で、敬虔で、正直で、真実な人に導く。それだけでなく、罪を遠ざけ徳に近づくように導いてくれる。
ミシュナ、アヴォート6.1(ユダヤ教)69

 

神の家の 1 つに集まって神の書を朗読し、互いにそれを学び合う者たちの上には、必ず静けさが訪れ、慈悲が彼らを包み、天使たちにとり囲まれた彼らの名は、神が自らの近みにとどめおく者として読みあげられるであろう。
ナワウィー 40 のハディース 36(イスラーム)70

 

二人が共に座って交わす言葉がトーラーに従うものであれば、シェキーナーが彼らと共にあるだろう。
ミシュナ、アヴォート3.2(ユダヤ教)71

 

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
マタイによる福音書18.20(キリスト教)72

 

― み言選集 ―

 

宗教の究極的な目的は、まず心をもって信じ、それを実践することによって初めて達成されるのである。ところで、信ずるということは、知ることなしにはあり得ないことである。我々が聖書を研究するのも、結局は真理を知ることによって信仰を立てるためである。
原理講論、総序

 

それゆえに、復活摂理をなさるに当たっても、神の責任分担としての摂理のためのみ言がなければならないし、また、堕落人間がそれ自身の責任分担として、み言を信じ、実践して初めてそのみ旨が成し遂げられるようになっている。
原理講論、復活論 2.1

 

ヨハネによる福音書5章 24 節を見ると、「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」とあります。それは、火で燃やしてしまうということではないというみ言です。なぜみ言を信じなければ審判するのでしょうか。エデンでみ言を信じずに不信の先祖になったので、これを除去し、これ以上の信仰でみ言を信じなければならないからです。これを凌駕できる信仰がなければ、戻っていくことができません。旧約聖書を信じていた人たちは、イエス様のみ言に対するとき、メシヤとして立ったイエス様のみ言を絶対的に信じなければなりませんでした。
(69-128、1973.10.23)

 

皆さんが聖書を見るときは、最も悲しいものを見なければなりません。天国に関する内容や黙示録のようなものは外しても、最も悲しいものを見なければなりません。皆さん、ある人の親しい友人になろうとすれば、その人の最も悲しい事情に通じることができ、理解できなければならないではないですか。同じことです。私たちが神様の息子、娘の位置を求めていくにおいても同じです。そのような内容のみ言を皆さんは求めていかなければなりません。そのようなみ言がこの地上に現れ、皆さんがそのみ言を聞くようになるときには、おなかの中から絶えず悲しみがわき上がってくるのです。自分でも分からないうちにおなかの中から痛哭がわき上がってきます。10 日、100 日、1000 日泣いても、絶えず泣きたくなるのです。そのような感じを与えられるみ言がこの地上に出てきてこそ、神様の「複葬(仮葬したのちに一定期間をおいて骨を取り出して行う葬式)」をすることができます。そのようなみ言を探し出さなければなりません。
(10-137、1960.9.18)

 

神様が願う教育をしなければなりません。どの世界に行っても訓読会(注 9)をしなければならないのです。村に訪ねていけば、私たちがすべきことは何ですか。あいさつよりもっと重要視しなければならないのが訓読会です。訓読会を好きになれば、天国に行きます。訓読会を一生懸命にやれば、霊界の協助を受けることができるのです。神様のみ言を訓読する所に神様が共にいらっしゃいます。霊界にいる神霊が再臨し、霊人の再臨協助の役事が起きるのです。したがって、訓読は霊界を動員する道になります。聖霊の役事も、家庭を正しく立て、教会を復興させるために訓読会をしなければなりません。訓読会をする目的は、み言の本体であられる神様と真の父母様に似るということです。訓読会を通して真の家庭が一つになるように、私たちも訓読会を通して真の家庭と一つにならなければなりません。
(321-32、2000.2.14)

 

②比喩で教える経典

― 宗教経典 ―

 

またこのクラーンの中で、われは各種の比ゆを人びとのために提示した、おそらくかれらは訓戒を受け入れるであろう。
クルアーン 39.27(イスラーム)73

 

もろもろの生ける者たちに種々の欲望があり、深く心に執着するところがあるのを知って、その本性に随って、種々の因縁と喩えとことばと方便力とによって教えを説くのである。
法華経 2(仏教)74

 

イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」
マルコによる福音書 4.10 ~12(キリスト教)75

 

かの讃歌(rc)の字音(aksara)に於て、最高の天に於るあらゆる神々は坐せり。彼を知らずば讃歌を以て何をか為さん、實に彼を知れるものは悉くこれに集へり。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド 4.8
(ヒンドゥー教)76

 

聖書のもろもろの話は、トーラーに重ねて着せられた服にすぎない。それらをトーラー自体と理解する人たちよ、残念だ!
ゾハール、民数記152a(ユダヤ教)77

 

かれこそは、この経典をなんじに下したまえる方で、その中のある節は決定的で、それらは経典の根幹であり、他の節は比喩的である。そこで心のよこしまな者は、比ゆ的の部分にとらわれ、その隠された意味の一致せぬ点を探し求めて、それに己れの解釈を加えようとする。だが神のほかには、その真の意味を知るものはないのである。それで知識の基礎が堅固な者は「わたしたちはこれを信ずる、すべて主から賜わったものである」と言う。 (注 10)だが理解ある者のほかは、留意しないであろう。
クルアーン 3.7(イスラーム)78

 

何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。
ペトロの手紙二1.20 ~ 21(キリスト教)79

 

もしあなたがあなたの心の鏡で悪の塵を磨けば、あなたはすべての摂理において明白になる、万有を抱擁する神の言葉によって啓示された象徴的言語の意味を理解するようになり、神聖な知識の神秘を悟るようになるだろう。
確信の書 68 ~ 69(バハイ教)80

 

― み言選集 ―

 

神は、時ならぬ時に、時のことを暗示して、いかなる時代のいかなる環境にある人でも、自由にその知能と心霊の程度に応じて、神の摂理に対応する時代的な要求を悟るようにさせるため、すべての天倫に関する重要な問題を、象徴と比喩とをもって教示してこられたのである(ヨハネ16・25)。それゆえ、聖書は、各々その程度の差はあるが、それを解釈する者に、みな相異なる観点を立てさせるような結果をもたらすのである。教派が分裂していくその主要な原因は、実にここにある。ゆえに、聖書を解釈するに当たっては、その観点をどこにおくかということが、最も重要な問題であるといわなければならない。
原理講論、再臨論 2.1

 

今日、新郎が新婦を求めていくための書簡体で書かれた聖書のみ言には暗号が多くあります。なぜ暗号で語られたのでしょうか。心情の神様でいらっしゃるからです。聖書は誰も解けません。解けないのです。新郎と新婦だけが解けます。心情を通して侍る準備をした人だけが解けるのであって、そうでない人は解けないようになっています。ここにある暗号の正体は何でしょうか。新郎が来る門を開く秘訣ですが、その秘訣とは、何でしょうか。心情です。父母の心情は、幼い子供を抱いてお乳を飲ませるときや、その子供の頭が白く白髪になったときも同じです。その心情には差がないというのです。
ですから、私たちは聖書に隠れているすべての心情の根源を開かなければなりません。知らなければならないということです。これを知るには、学士や博士が必要なのではありません。彼らがいくら解釈しても、学説は通り過ぎます。心情は論理によって支配することはできません。理論では体恤できないのです。体系によって方向を定めることはできないのです。なぜですか。心情は天倫と共に、自然と共に流れていくのです。聖書とは、学ばなくても知ることができ、感じることができる心情の流れと感じをもって解釈しなければ分かりません。学士や博士が主張する現代の神学思潮も通り過ぎていきます。しかし、心情の世界は通り過ぎていくことはありません。これをいわゆるアルファとオメガ、つまり最初と最後、始まりと終わりというのです。
(8-305 ~ 306、1960.2.14)

 

祈祷する人は、自然は第 1 の聖書だと言いました。第 2 ではありません。イスラエルの歴史をつづってきた聖書を見ても、内容を確実に知ることはできません。その内容を見て、先生がどれほど頭を振ったことか、分かりますか。それは占い師の占いのように、耳にかければ耳輪、鼻にかければ鼻輪(韓国の 諺:解釈によってどうとでもとれるということ)なのです。現実を逃避するための方便です。ですから、事実の内容を判断して前後の事情を明らかにするのは難しいので、聖書よりも神様の造られた自然の世界が一番だというのです。
(20-271、1968.7.7)

 

旧約聖書のマラキ書は、新約聖書の黙示録に該当します。私たちは、聖書が私たちを天国に導く本なのかということをはっきりと調べてみなければなりません。今私たちが生きている世の中は、天の国ではありません。サタンの国によって包囲されています。それで、サタンは、この世界に神様が情報員を送り、彼を通してみ旨を発展させ、サタン世界を突き、サタンを追放しようとしていることを知っているので、命懸けで反対するのです。歴史時代に神様が預言者たちを送るたびにサタンが捕らえて殺したのは、サタンが主管する国なので、そうならざるを得なかったのです。今日の宗教者、さらにはユダヤ教徒とキリスト教徒は、神様が送ってくれたサタン世界に対する情報員であることを知らなければなりません。
アメリカとソ連が闘うようになるとき、互いが怨讐の国に政府の情報員を送ります。CIAならCIAの局長が自分の要員を送るとき、最初から相手に作戦が分かるようにして送りますか。すべて秘密裏に暗号をもって通告することを私たちは知っています。その暗号は、これを指示したCIAの局長一人しか知らないのです。それと同じように、聖書で最も重要なことは暗号で記録されているので、それは神様しか知りません。
ですから、イエス様も終わりの日に関することは天使も分からず、自分も分からないと言いました。したがって、神様が終わりの日に暗号を解くことができる、またほかの預言者を送ることは間違いない理論的な事実だというのです。アモス書第3章7節を見ると、神様はその隠密なみ旨をその僕、預言者に示さずしては摂理をされないということが指摘されています。ですから、神様と直接通じる一人が出てこなければならないという話になります。ですから、終わりの日には、頭に油を塗って密室に入り、神様に談判祈祷しなさいと教えてくれたことを知らなければなりません。
さあ、聖書は暗号で記録されたことを知りました。聖書をいい加減に解くと、審判を受けることを知らなければなりません。聖書に対してキリスト教は、何を、どのようにしなければならないのでしょうか。主のみ旨に従わなければなりません。同じことです。今までキリスト教の信者たちが、「私は信じて天国に行こう、私一人で救いを受けよう」と考えました。しかし、キリスト教の信者の責任は、自分が救援を受けることももちろん目的になりますが、その救援を受けて世界を救うことでなければなりません。これを知らなければなりません。
(73-207 ~ 208、1974.9.18)

 

③霊魂の通路にすぎない経典の文字に執着してはならない

― 宗教経典 ―

 

主マハビラがカウタマに言った。「ダルマが賢者たちによって直接顕示されないとき、それは言葉という網を通して現れる。推測はその窓を覆う網だ。多様な宗派と学派は、そのような間接的な洞察から出てくる。カウタマよ、あなたに提示された道は、賢者の直接的な道だ。勤勉に精進し、ダルマを見る賢者となれ」。
ウッタラッジャーヤー10.31(ジャイナ教)81

 

文字は殺しますが、霊は生かします。
コリントの信徒への手紙二 3.6(キリスト教)82

 

大慧よ、如来は文字に堕するの法を説き給はず。(そは)文字は有無不可得なるが故なり。唯文字に堕せざるものを除く。大慧よ、若し人あり法を説いて文字に堕するあらば、皆これ狂説なり。何となれば諸法の自性は文字を離るるを以てなり。是の故に大慧よ、我が経中に、我は諸佛及び諸菩薩と興に一字を説かず一字を答へずと説く。何となれば、一切の諸法は文字を離るるが故に、義に随はずして説くに非ざればなり。……
是の故に大慧よ、善男子善女人は応に言の如く義に執著すべからず。何となれば真実の法は文字を離るるを以てなり。大慧よ、譬へば人あり、指を以て物を指さんに、小児は指を観て物を観ざるが如く、愚疑の凡夫も亦復是の如し。言説の指に随って執著を生じ、命尽るに至るまで、文字の指を捨てず、第一義を取ること能はざるなり。
楞伽経 76(仏教)83

 

荃は魚を捕らえるための道具である。魚をとらえてしまえば、荃のことは忘れてしまうものだ。わなは兎をとらえるための道具である。兎をとらえてしまえば、わなのことは忘れてしまうものだ。ことばというものは、意味をとらえるための道具だ。意味をとらえてしまえば、ことばに用はなくなるのだから、忘れてしまえばよい。私は、ことばを忘れることのできる人間を捜し出して、ともに語りたいものである。
荘子 26(道教)84

 

「比丘たちよ、大道を進んでいる人がいるとします。かれは、こちらの岸は危険で恐怖のある、向こう岸は安全で恐怖のない、大きな水の流れを見ます。かれにはこちらから向こうへ行くための、橋も渡し船もありません。そこでかれは、このように考えます。〈これは大きな水の流れだ。……こちらから向こうへ行くための、橋も渡し船もない。私は草・木・枝・葉を集め、筏を結び、その筏により、手足でもって努力し、無事に向こう岸へ渡ってみてはどうであろうか〉と。そこで、比丘たちよ、その人は草・木・枝・葉を集め、筏を結び、その筏により、手足でもって努力し、無事に向こう岸へ渡ります。向こう岸へ渡ったその人は、このように考えます。〈この筏は私に役立った。私はこの筏により、手足でもって努力し、無事に岸を渡った。私は、この筏を頭に乗せるか、肩に担ぐかして、好きなところへ出発してはどうであろうか〉と。比丘たちよ、このことをどう思いますか。はたして、その人はそのように行なって、その筏について行なうべきことを行なう者となるでしょうか」と。
「そのようなことはありません、尊師よ」「では、比丘たちよ、どのようにすれば、その人はその筏について行なうべきことを行なう者となるでしょうか。比丘たちよ、ここで、岸へ渡ったその人がこのように考えたとします。〈この筏は私に役立った。私はこの筏により、手足でもって努力し、無事に岸へ渡った。私は、この筏を陸地に引き上げるか、水に浸けるかして、好きなところへ出発してはどうだろうか〉と。比丘たちよ、このように行なえば、その人はその筏について行なうべきことを行なう者となるはずです。比丘たちよ、このように私は筏に喩えられる法を説きますが、それは渡るためであって、捉えるためではありません。比丘たちよ、そなたたちに説かれた筏に喩えられる法を理解し、そなたたちはもろもろの法をも捨てるべきです。ましてや、悪法についてはなおさらのことです。
阿含経中部 i.134 ~ 35、蛇喩経(仏教)85

 

― み言選集 ―

 

堕落した人間は神霊に対する感性が非常に鈍いために、大抵は真理面に重きをおいて復帰摂理路程を歩んでいくようになる。したがって、このような人間たちは、古い時代の真理観に執着しているがゆえに、復帰摂理が新しい摂理の時代へと転換していても、彼らはこの新しい時代の摂理にたやすく感応してついてくることが難しいのである。旧約聖書に執着していたユダヤ人たちが、イエスに従って新約時代の摂理に応じることができなかったという史実は、これを立証してくれる良い例だといわなければならない。しかし、祈りをもって神霊的なものを感得し得る信徒たちは、新しい時代の摂理を、心霊的に知ることができるので、古い時代の真理面においては、相克的な立場に立ちながらも、神霊によって新しい時代の摂理に応じることができるのである。それゆえに、イエスに従った弟子たちの中には、旧約聖書に執着していた人物は一人もおらず、もっぱら心に感応してくる神霊に従った人々だけであった。祈りを多くささげる人、あるいは良心的な人たちが、終末において甚だしい精神的な焦燥感を免れることができない理由は、彼らが、漠然たるものであるにせよ、神霊を感得して、心では新しい時代の摂理に従おうとしているにもかかわらず、体をこの方面に導いてくれる新しい真理に接することができないからである。それゆえに、神霊的にこのような状態に処している信徒たちが、彼らを新しい時代の摂理へと導くことができる新しい真理を聞くようになれば、神霊と真理が、同時に彼らの心霊と知能を開発させて、新しい時代に対する神の摂理的な要求を完全に認識することができるので、彼らは言葉に尽くせない喜びをもってそれに応じることができるのである。
原理講論、人類歴史の終末論 5.2

 

④経典は天の真理の限定された部分を教示

― 宗教経典 ―

 

たとえ、地上のすべての木がペンであって、また海がインクで、そのほかに七つの海をそれにさし添えても、神のおことばは、書き尽くすことはできぬ。まことに神は、偉力者・英明者であられる。
クルアーン 31.27(イスラーム)86

 

真実を知るバラモンにとって、すべてのヴェーダは無用である。
バガヴァッド・ギーター 2.46
(ヒンドゥー教)87

 

甕にくまれた海水は、海と呼ぶことはできず、海ではないと言うこともできない。それは、ただ海の一部だと言うことができる。同じように、絶対真理から出てきた一つの教義は、真理だと言うこともできず、真理ではないと言うこともできない。
ヴィディヤーナンダ タッタヴァールタシローカヴァルッティカ
116(ジャイナ教)88

 

言語は四個の四分の一〔よりなる〕と測定せられたり。霊感あるバラモンたち(詩人兼祭官)はこれを知る。〔その中〕三個〔の四分の一〕は、秘密に隠されて運動せしめられず。言語の四分の一を人間は語る。
リグ・ヴェーダ 1.164.45
(ヒンドゥー教)89

 

私たちがもったトーラーは、天の知恵の不完全な形態である。
創世記ラッバー17.5(ユダヤ教)90

 

言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。(注11)
ヨハネによる福音書16.12 ~13
(キリスト教)91

 

われはなんじ以前にも諸使者をつかわし、妻と子をかれらに授けた。だが神の許しがないかぎり、どの使者もしるしを現わすことはなかった。各時代に一つの経典が下されるのである。
神は、おぼしめしのものを取消したまい、または制定したもう。経典の母はかれのみもとにある。われがかれらに約束したことの一部を、なんじに示しても、またはその完成前になんじの魂をわれに召しても、なんじの任務は啓示を伝えることであり、清算は、われのことである。(注12)
クルアーン 13.38 ~ 40(イスラーム)92

 

このように私は聞いた―あるとき、世尊は、サーヴァッテイに近いジェータ林のアナータピンディカ僧院に住んでおられた。さて、静かに独座していた尊者マールキヤプッタの心に、つぎのような考えが生じた。〈これらの悪しき見解は世尊によって解答されていないし、捨て置かれ、拒絶されている。つまり、「世界は常住である」ということも、「世界は無常である」ということも……「霊魂と肉体は同じである」ということも、「霊魂と肉体は異なる」ということも、「タターガタは死後存在する」ということも「タターガタは死後存在しない」ということも、「タターガタは死後存在し、また存在しない」ということも、「タターガタは死後存在しないし、また存在しないのでもない」ということも、である。世尊はこれらを私に解答しておられない。世尊がこれを私に解答しておられないことは、私に満足できないし、耐えられない。だから、私は世尊のもとへ行き、この意味をお尋ねしよう。もし世尊が私に、「世界は常住である」とか、「世界は無常である」……と解答されるならば、私は世尊のもとで梵行に努めよう。もし世尊が私に、「世界は常住である」とか「世界は無常である」とか……解答されないならば、私は学びを捨て、還俗しよう〉と。さて、尊者マールキヤプッタは、夕方、独坐より立ち上がり、世尊がおられるところへ近づいて行った。行って、世尊を礼拝し、一方に坐った。一方に坐った尊者マールキヤプッタは、世尊につぎのように申しあげた。……「マールキヤプッタよ、私はそなたにこのように言いましたか。『来なさい、マールキヤプッタよ、私のもとで梵行に努めなさい。私はそなたに解答します。「世界は常住である」とか「世界は無常である」とか……』と。」「いいえ、尊者よ」「あるいはまた、そなたは私にこのように言いましたか。『尊師よ、私は世尊のもとで梵行に努めたいと思います。〔世界は常住である〕とか……と解答していただきたいと思います』と」
「いいえ、尊師よ」
「愚人よ、このようであるのに、そなたは何者として何者を拒んでいるのです。マールキヤプッタよ、つぎのように言う者がいるとします。『私は、世尊が私に「世界は常住である」とか「世界は無常である」とか……解答されない限り、世尊のもとで梵行に努めないつもりです』」と。マールキヤプッタよ、如来によってそれが解答されなければ、その人は死ぬことになります。マールキヤプッタよ、たとえば、毒の厚く塗られた矢に射られた人がおり、その友人同僚や親族縁者がかれを外科医師に見せたとします。かれはこのように言います。 『私は、私を射た人について、かれが王族であるのか、バラモンであるのか、庶民であるのか、隷民であるのかが分らないうちは、この矢を抜かない』と。
かれはこのように言います。『私は、私を射た人について、かれがこのような名である、このような姓であるということが分らないうちは、この矢を抜かない』と。かれはこのように言います。『私は、私を射た人について、かれの背が高いのか、低いのか、中位なのかが分らないうちは、この矢を抜かない』と。かれはこのように言います。『私は、私を射た人について、かれの色が黒いのか、褐色であるのか、黄土色であるのかが分らないうちは、この矢を抜かない』と。かれはこのように言います。『私は、私を射た人について、かれがこのような村の者であるとか、このような町の者であるとか、このような都の者であるかが分らないうちは、この矢を抜かないと』と。かれはこのように言います。『私は、私を射た弓について、それが長弓であるのか、石弓であるのかが分らないうちは、この矢を抜かない』と。かれはこのように言います。『私は、私を射た弓の弦について、それがアッカ樹のものか、竹のものか、筋のものか、マルヴァーのものか、キーラパンニーのものかが分らないうちは、この矢を抜かない』と。かれはこのように言います。『私は、私を射た矢の柄について、それが藪のものか、改良葦のものかが分らないうちは、この矢を抜かない』と。かれはこのように言います。『私は、私を射た矢の柄について、そこにつけられている羽が鷲のものか、蒼鷺のものか、孔雀のものか、シテイラハヌ鳥のものかが分らないうちは、この矢を抜かない』と。かれはこのように言います。『私は、私を射た矢の柄について、それを巻いている筋が牛のものか、水牛のものか、ジャッカルのものか、猿のものか分らないうちは、この矢を抜かない』と。かれはこのように言います。『私は、私を射た矢について、それが普通の矢であるのか、尖矢であるのか、鉄矢であるのか、子牛の歯矢であるのか分らないうちは、この矢を抜かない』と。
マールキヤプッタよ、その人によってそれが知られなければ、その人は死ぬことになります。マールキヤプッタよ、ちょうどそのように、つぎのように言う者がいるとします。『私は、世尊が私に、〔世界は常住である〕とか〔世界は無常である〕と……解答されない限り、世尊のもとで梵行に努めないつもりです』と。……如来によってそれが解答されなければ、その人は死ぬことになります。……
マールキヤプッタよ、世界は常住であるとの見解があれば、あるいは世界は無常であるとの見解があれば、生まれがあり、老いがあり、死があり、愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みがあります。私は現世における、それらの破壊を説いているのです。」
阿含経中部 i.426 ~ 31、小マールキヤ経
(仏教)93

 

― み言選集 ―

 

神霊と真理とは唯一であり、また永遠不変のものであるけれども、無知の状態から、次第に復帰されていく人間に、それを教えるための範囲、あるいは、それを表現する程度や方法は、時代に従って異ならざるを得ないのである。
例を挙げれば、人間がいまだ蒙昧にして、真理を直接受け入れることができなかった旧約前の時代においては、真理の代わりに、供え物をささげるように摂理されたのであり、そして人間の心霊と知能の程度が高まるに従って、モーセの時代には律法を、イエスの時代には福音を下さったのである。その際、イエスは、そのみ言を真理と言わないで、彼自身がすなわち、道であり、真理であり、命であると言われたのであった(ヨハネ14・6)。その訳は、イエスのみ言はどこまでも真理それ自身を表現する一つの方法であるにすぎず、そのみ言を受ける対象によって、その範囲と程度と方法とを異にせざるを得なかったからである。
このような意味からして、聖書の文字は真理を表現する一つの方法であって、真理それ自体ではないということを、我々は知っていなければならない。このような見地に立脚して聖書を見るとき、新約聖書は今から 2000年前、心霊と知能の程度が非常に低かった当時の人間たちに真理を教えるために下さった、一つの過渡的な教科書であったということを、我々は知ることができるのである。
それゆえに、その当時の人間たちを開発するためにふさわしい、限定された範囲内においての比喩、または象徴的な表現方法そのままをもって、現代の科学的な文明人たちの真理への欲求を、完全に満足させるということは不可能なことだといわなければならない。したがって、今日の知性人たちに真理を理解させるためには、より高次の内容と、科学的な表現方法によらなければならないのである。
原理講論、人類歴史の終末論 5.1

 

5. 理性的知識と霊的知恵

理性的知識と救援と教化のための霊的真理の間には、大きな隔たりがある。世の中の有用な理性的、概念的知識が霊的求道者たちに、常に利益をもたらすとは限らない。そのような知識がありすぎると、かえって高い境地の悟りを得るのに妨害になることもある。アテネとエルサレムの間に深く掘られた谷があるように、現世の哲学の概念的体系と宗教の霊的真理追究にも、そのような隔たりが存在する。世俗的学習を重視するこの時代に生きる私たちに、世界の諸経典は、どちらのものを優先すべきか点検することを要求する。2番目の主題は、学びの習得方法である。理性的知識を習得する人たちは、感覚資料の認識と理論の合理的体系化を通して知識を学習する反面、霊性に明るい人たちは、見えない内面に対する直観と感受性を通して真理を悟る。理性に依存することは霊的求道の妨げになり得ると見るため、多くの宗教修行、例えば、禅仏教の修行では、理性の遮断を目的としている。禅仏教である修道者が「犬にも仏性があるか」のような質問を投げ掛けたとしよう。この人が質問によって混乱した状態から抜け出るときは、あらゆる解答が概念的理解を越えて存在することを悟る瞬間である。しかし、文鮮明先生は、理性と霊性、二つの道は共に天国に至る道であり、二つの間の均衡の重要性を語られる。
最後の部分では、世俗的知識と宗教的真理の対立に関して再び言及している。特に、霊的知恵を通して方向性が定立されなかったとき、無分別な科学技術が招来する病弊に対して強調している。究極的に科学とすべての俗世の知識は、文鮮明先生のみ言、 「絶対価値」を通して行くべき道に導かれなければならない。絶対価値とは、全人類とあらゆる存在者に利する神様の真の愛である。

 

①救援の助けにならない理性的知識

― 宗教経典 ―

 

ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。
コリントの信徒への手紙一 8.1~3(キリスト教)94

 

たった今亡くなった私たちの母は、本当に私を叱られた。母は語られた。「あなたがやろうとしているように見えるすべてのことは本を見ることなので、荒野のどこかに出ていきなさい。本はあなたが行く道を妨害するので、あなたの未来が痛ましいものだからだ。あなたが白人のように生きるのを見ると、何の幻想もあなたに現れないようだ」。
テラウォイ族の証言
(アメリカ先住民の宗教)95

 

それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。
コヘレトの言葉12.12(キリスト教)96

 

知識で積んだ数千数万の功績も黄泉路を同伴しないだろう。
アーディ・グラント、ジャプジー1、M.1、p.1(シク教)97

 

真知の目的を考察すること。以上が「知識」であると言われる。それと反対のことが無知である。
バガヴァッド・ギーター 13.11(ヒンドゥー教)98

 

言葉が真理をあらわしていると、その言葉は美しくなく、
言葉が美しいと、その言葉は真理をあらわしていない。
本当に立派な人は言葉で議論せず、言葉で議論する人は立派ではない。
本当の知者は博識でなく、博識の人は本当に知っていない。
道徳経 81(道教)99

 

世間の有様はすべて空であって実体がないのに、迷える人は、これを真実であるとおもう。実際には、一切は無自性であり、ことごとく虚空にひとしい。かりに、この有様を説いても、説き尽くすことができない。したがって智者は、これを無尽と説いても、それで説いたことにもならない。諸法に自性が無尽であるから、難思議というほかはない。
華厳経10(仏教)100

 

知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
コリントの信徒への手紙一1.20~25(キリスト教)101

 

ラビ・エリジャル・ヒスマが言った。「鳥を祭物として捧げ、女性を浄化させることが最も重要な教えだ。天文学と幾何学は付加的知識すぎない」。(注13)
ミシュナ、アヴォート3.23(ユダヤ教)102

 

預言者と聖賢たちの教えの核心は、人間の理性には限界があり、そこで止めなければならないということを知らせようとするものだった。(注14)
マイモニデス 迷える者への手引き1.32(ユダヤ教)103

 

人間の哲学は神を人間のようにしてきた。クリスチャンサイエンスは、人間を神のようにする。前者は失敗であり、後者は真理である。形而上学は物理学を超える。そして、物質は形而上学的前提や結論に入ってこない。形而上学の範疇はただ一つの基盤である神聖な精神に置かれている。
科学と健康 269(クリスチャンサイエンス)104

 

人間を救援するためには、理性を超越するある真理が聖なる啓示によって明らかにされなければならない。たとえ人間の理性によって神に関する真理を明らかにしたと言うことができたとしても、人間はその聖なる啓示の教えが必要だった。人間が明らかにした神に関する真理は少数にだけ知らされた。それは長い時間が過ぎたあとには誤ったものと混ざってしまうかもしれないからである。しかし、全人類に対する救援(神の救援)は、ひとえにこの真理を知っているかにかかっている。したがって、より確実にすべての救援が成し遂げられるためには、聖なる啓示を通してこの真理を教えてあげなければならなかったのである。したがって、理性に根拠をおいて設立された思弁的科学以外にも、世の中には常に啓示を通して学ぶことができる神聖な科学が存在しなければならない。
トマス・アクィナス 神学大全1.1.1
(キリスト教)105

 

私がたとえ知識のあの高い境地に到達しても、教えの一つの単語も私の中にないことを私は知っている。また、天に仕えることも、ただの一歩として押し出していないことを知っている。
バアル・シェム・トーヴ(ユダヤ教)106

 

アテネがエルサレムと何の関係があるのか。
テルトゥリアヌス(キリスト教)107

 

― み言選集 ―

 

人間の頭を中心として、理想世界が成されるのではなく、神様の愛を中心として成されるのである。
御旨の道、天国

 

宗教の起源は、哲学の起源と違います。哲学は神様を求めていく道ですが、宗教は神様と出会って生活し始める道です。
(189-70、1989.3.19)

 

どの図書館にもぎっしり並べられている経書や哲学書籍を渉猟したとしても、心と体の統一を成就できるわけではありません。
(447-163、2004.5.1)

 

神様は、知るためにつくったのではありません。創造理想が知識によって成されるのではないのです。それをはっきりと知らなければなりません。創造理想のみ旨、私たちの理想の目的は、知識や権力やお金によって成し遂げられるのではありません。それは愛によって成し遂げられるのです。
(144-130、1986.4.12)

 

学生の皆さん、もう分かったので、これからソウル大学に通っているといって自慢するなというのです。私は立派に見えません。1年間勉強しても何時間くらいになりますか。1日に7時間勉強すると考えても、1週間に5日として 35 時間、100 日で 700 時間です。それでは、300 日ではどのくらいですか。約 2000 時間です。これを 24時間で割るといくらになりますか。何日にもなりません。それをもって自慢し、分をわきまえずにそのようにしてはいけません。
それより良いものが愛です。それよりもっと貴い愛は、一瞬で学ぶことはできません。愛の実践力というものは、永遠を基準として動くのです。長久な歳月を要します。1年、2年でパスできません。10年、20年、30年、40年たっても卒業証書をもらえません。次元がどんどん高くなり、回れ右して届くのです。
何かの学問をすれば博士学位をとれますが、愛の哲学過程というのは無限です。だからといって嫌になったり、疲れさせたりするものではありません。ただ楽しく、世の中の何よりも幸福で、感謝で、雄大なのです。
(113-324 ~ 325、1981.5.10)

 

絶対的価値は、知識ではなく、愛、情緒と結びつけて考えなければなりません。ただ愛だけが、それ自体が目的であり、完成であり、最高の価値なのです。本当の愛は、施す人が喜び、それを受ける人がまた喜ぶのです。本来愛は本性で感じることによって個体の中で芽生え、体恤するものであって、学ぶものではありません。
知識の世界は認識を通して啓発されますが、情の世界は啓発されません。ですから、絶対価値は、知識の次元ではない絶対愛の次元です。このような点から第一原因者は、私たちの認識領域内で見いだせるものではなく、情緒的次元で感応、体恤するものだと言えます。
愛の立体的内容が欠乏した価値は永遠不変であることはできず、いつかは流れていってしまいます。現在までの様々な主義と思想は、一面では人類の役に立ちましたが、かえって人類の思想体系を誤った道に導き、歴史を発展的に導けない面も多かったと思います。そのような意味で、既存の価値体系の再評価が不可避だと思うのです。
(102-59 ~ 60、1978.11.25)

 

②霊的知恵の習得

― 宗教経典 ―

 

神に対する信仰はつかむものであって、教えられるものではない。
格言(神道)108

 

趙州和尚は、僧が「狗子にも仏性がありますか」と問うたので、「無」と答えた。無門は評して言う―「禅に参ずるには祖師の定められた関所を透らなければならぬ。妙悟を得るには心路が絶える(分別心を断ち切る)という経験を窮めねばならぬ。」(注15)
無門関 1(仏教)109

 

神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。
ヨハネによる福音書 4.24(キリスト教)110

 

わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたしません。「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。
コリントの信徒への手紙一 2.12 ~16
(キリスト教)111

 

知識は五つ、すなわち感覚知、経典を通した知識、透視、テレパシー、そして全知である。この五つの知識は、二つの類型に分けられる。前の二つは間接的な知識であり、残りの三つは直接的な知識だ。感覚知では……ただ不明瞭なものに対する把握にすぎない。……しかし、透視、テレパシー、全知は直接的な知識であり、それは感覚や経典という媒介物がなく、生々しい方法で霊魂によって知覚される。
タットヴァールタ・スートラ1.19 ~ 29
(ジャイナ教)112

 

賢明な者の心の中には、霊界の実在に対する開かれた窓があり、そして彼は風聞や伝統的信仰によってではなく、実際の経験によって何が体を痛めるのか、何が健康にするのか知っている医者のように、はっきりと明確に何が霊魂の痛みを生み、幸福を生むのかを知る。彼は、神に対する知識と礼拝が健康によく、無知と罪悪が霊魂に致命的な毒になるという事実を知る。盲目的に他の人々の意見に従う、いわゆる「学識ある」人々も、次の生涯での霊魂の幸福や悲惨なことに対する自らの信仰に、本当の確信をもっていない。しかし、偏見なくその問題に対する者は、これに対してはっきりとした確信に到達するようになるだろう。
ガザーリー 幸福の錬金術(イスラーム)113

 

純粋な知は多くのことを聞くこととは関係がない。
王陽明(儒教)114

 

― み言選集 ―

 

本来、真の愛は、経験を通して得るものであり、体恤を通して知るようになっています。真の愛は、言葉や文字、あるいは一般教育を通して体得するものではありません。赤ん坊として造られたアダムとエバは、成長しながら段階的生活を通して経験することによって真の子女の心情、真の兄弟の心情、真の父母の心情を体恤し、完成するようになっています。神様の真の愛を全体的に体得するとき、初めて創造目的を完成した理想的な人間になるのです。
(282-209、1997.3.13)

 

大概、私たち人間は、二つの種類に分けられます。一つは知性的な人で、真理で何かを探求して、道理に合えば認めて、道理に合わなければ否定するタイプの人です。また他の一つは、そのような道理よりは、思いで把握する人です。それを私たち統一教会の術語で言えば、「知的だ」、「霊的だ」と言うのです。霊的な人は、内的な面から感じて、外的に作用しようとする人であり、知的な人は、外的な面から感じて、内的に適用しようとする人です。一つは出ていき、もう一つは入ってくるのです。この二つの種類があります。
そのような立場にあるために、知性的な人は、大体祈祷を嫌います。それを考えると、迷信のようであり、信ずることができず、自分自体が否定されるような感じがするのです。これは、知性的な人です。理論を明らかにして、何かを探そうとする人、そのような人がいるのと同時に、生まれつき「神様!」という言葉が、とても好きな人がいます。説明する前に無条件に喜ぶのです。「お父様」と言うようになれば、御飯を食べなくてもいいというのです。そのような人がいます。
そのような感度が異なるというのです。大抵霊的な運動において、革命的な運動をすることができるのは、どのような人でしょうか。知性的な人はできません。大抵信仰世界で偉大なことをする人は、知的な人ではなく、無学で愚鈍な人です。そのような人は、霊的な人です。世の中がどうであれ、感じるままにするのです。神様が「せよ」と言ったからするのです。やってみると、それが実践する環境に百中する、そのようなことが起こるのです。これによって、偉大な人物として登場することができるということも起きるのです。パウロのような人も、知性的な人です。しかし、ダマスコで天の霊的な雷に一度打たれてから、気が狂ってしまったのです。ですから、外的に探求することよりも、内的に爆発的な道があるということを感じたために、すべて否定して尊重視したのです。そこから、新しいキリスト教の革命の旗手になりました。
私たち人間には、2種類がありますが、自分はどんなタイプの人かということを知るべきです。大抵霊的に感じる人は、霊的には大きいのですが、真理の面では小さいのです。これが違います。初めは太くても、先細りすれば始終如一(注:始めから終わりまで同じ調子であること)でないために、永遠に行けないのです。ある時には、必ず転がり落ちます。また、真理は大きくても、霊的な面が小さければ、永遠に行けません。それゆえ私たちは、これを調整する生活をしなければなりません。
祈祷と真理、心霊と真理で礼拝せよという言葉があります。それは何かというと、平行をつくって和する場に入れというのです。私たち人間は、霊界と肉界を調整しなければなりません。霊的世界の中央に立つべきです。真理の世界の中央に立って、調整し得る人間にならなければなりません。そのような人間にならなくては、完全な立場に立てないのです。
(76-136 ~137、1975.2.2)

 

堕落人間は宗教により霊と真理をもって(ヨハネ4・23)その心霊と知能とをよみがえらせ、その内的な無知を打開していくのである。神霊は無形世界に関する事実が、霊的五官によって霊人体に霊的に認識されてのち、これが再び肉的五官に共鳴して、生理的に認識されるのであり、一方真理は、有形世界から、直接、人間の生理的な感覚器官を通して認識されるのである。したがって認識も、霊肉両面の過程を経てなされる。人間は霊人体と肉身が一つになって初めて、完全な人間になるように創造されているので、霊的過程による神霊と肉的過程による真理とが完全に調和され、心霊と知能とが共に開発されることによって、この二つの過程を経てきた両面の認識が完全に一致する。またこのとき、初めて人間は、神と全被造世界に関する完全な認識をもつようになるのである。
原理講論、人類歴史の終末論 5.1

 

③霊的知恵の欠乏と高度に発達した知識の危険

― 宗教経典 ―

 

あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。
ヤコブの手紙 3.13 ~18(キリスト教)115

 

知識には、聖なるものと邪悪なもの、二種類があることをはっきりと知りなさい。一つは聖なる霊感の泉から湧き出るものであり、もう一つは空虚で、あいまいな思想の反映にすぎない。聖なる知識の根源は神御自身であり、邪悪な知識の原動力は、利己的な欲心のささやきである。一つは、 「神を畏れよ。神はお前を教え導くであろう」という原理によって導かれる。もう一つは、「知識は人間とその創造主との間の最も悲しむべき幕である」という事実を確認するものにすぎない。聖なる知識は忍耐、熱望、真の理解の結実と愛を生む反面、邪悪な知識は傲慢、虚栄、慢心ばかりを生むだけである。
確信の書 69(バハイ教)116

 

上がもし知を好んで、しかも道がなければ、天下は大いに乱れるのである。どうしてそれが分かるかと言えば、そもそも弓・弩・あみ・戈など、いろいろな道具の知恵が多くなれば、鳥は空で落ちつかず、釣・餌・あみ・よつであみ・やななど、いろいろの知恵が多くなれば、魚は水の中でおちつかず、わなやおりなど、色々な知恵が多くなれば、獣は沢の中で落ちつかず、知恵、詐術が次第に害毒を流し、……色々な議論が多くなれば、世俗は弁舌に惑わされる。だから、天下が乱れて真っ暗闇になるのは、知を好むところにある。
だから、天下の人々は自分の知らないものを追及することを知って、自分が既に知ったものを追及することを知るものがない。皆、よくないと思うものを非難することを知って、自分が既によいとしたものを非難することを知るものがいない。そのために大いに乱れるのである。こうして上は日月の明にもとり、下は山川の精をとかし、中は四季の調和をやぶり、地上をはいまわったり空を飛んだりする虫も、その本性を失わないものはない。知を好むものが天下をこのように乱すとは、ひどい話ではないか! 三代(夏・殷・周の古代)よりこのかたまさにこうである。純朴な人民をすて、こせこせしてない人を喜び、恬淡無為を捨てて、小賢しい知恵を喜ぶ。こうして天下をかき乱してしまったのである。
荘子10(道教)117

 

知恵なく愛すれば、人を愛しても分別がなくなる。知恵があっても愛さなければ、分別力があるのに実行できない。したがって、愛とは人類を愛する類型であり、知恵とは人類の災害を除去する類型である。
董仲舒(儒教)118

 

直観的な心は神聖な贈り物であり、理性的な心は真実な下人である。私たちは下人に名誉をもたらしめ、贈り物は忘れてしまった社会を創造した。
アルベルト・アインシュタイン119

 

科学と知恵は別である。科学は人が幼子のように、それをもって遊ぶとき、彼らの指を怪我する不慣れな道具である。
アーサー・エディントン120

 

原子の爆発力は私たちの思考を除外してすべてのものを変化させる。それで私たちは未曾有の破局に向かって流されている。
アルベルト・アインシュタイン121

 

― み言選集 ―

 

私たちは、今日のもろもろの科学と哲学が世界の問題を解決するにおいて失敗してきたことを認めなければなりません。自然科学がしてきた偉大な約束は、いつも悪の方向に用いられてきたのであり、人類の真の幸福だけのために用いられることはなかったのです。社会科学の分野も、利己的で党派的な政権の影響下であまりにも腐敗し、多くの場合、逆機能を発揮してきました。哲学もやはり善や人間の究極的理想に向かう偉大な追求を放棄してしまった、命を失った学問となっています。このような趨勢は、学者たちの無気力と消極的姿勢によってより一層深刻になっています。
学者たちは、研究の業績だけで満足せずに、積極的な指導を要する世界の要請に応じなければならないと考えます。世界は、正しい価値観によって主体の力量を行使する学者たちの責任性ある実践を求めているのです。
(170-269 ~ 270、1987.11.27)

 

人間は神様の創造物です。そして、人間は創造目的に符合する明確な価値観をもって生きるように創造されました。本来、巨大な価値観を所有してきた創造物であるにもかかわらず、人間はその価値観を無視し、科学の万能性を信じ、それを万病の薬と思っています。その結果、科学技術は、だんだんと公害を増加させる原因になっています。
科学は、人間生活において単純な手段であり、目的にはなり得ません。人生の目的は、神様の創造目的を実現するところにあります。人間は、霊と肉の結合体です。したがって、人間は肉的生命を土台として価値のある人生、すなわち愛と真理と善と美の生活をするようになっています。便宜的に言えば、科学技術は霊的生活に符合し、肉的生活に必要なものです。したがって、価値のある生活を強調しなかったり無視したりする科学は、かえって価値観の破壊をもたらし、今日のような恐怖と不安の現実に導くのです。この不安な現実から人間を救うことは、本当の価値観を追求し、発見することによってのみ、成し遂げられます。ですから、科学は言うまでもなく、絶対価値に起因したこの価値観に一致しなければなりません。
この絶対価値は、どこで発見できるのでしょうか。それは、ただ神様の愛においてのみ見いだすことができるのであり、神様の愛による真理と善と美が、すなわち絶対価値です。結局、科学技術の悪用に伴う被害から人間を解放させるのは、科学自体が神様を認識し、神様の愛と同じ方向にその技術を応用するときに可能なのです。
(106-53、1979.11.23)

 

ケンブリッジに行くと、昔の古典書籍が何万冊もあると誇り、それでそれを学ぶ人がどのくらいいるのかと見てみると、学ぶ人がいなかったのです。管理する人だけしかいませんでした。それは何を意味するのかというと、力の時代が過ぎていったあとには知識が、知識が世界を支配するというのです。知識的な時代に入っていったのです。それで、アメリカでも、勉強ができる人が出世して世界を動かす、そのように考えたでしょう? 勉強、勉強と言ったでしょう? 次には、最近はお金、お金です。知識よりもお金、お金です。学者が一生懸命に髪の毛が抜けるほど勉強しても月給が少ないので、労働者よりも劣るのです。学者になって何になるのか、このようになっていきます。お金が世界を支配する時が来たのです。髪の毛が抜けるほど勉強して、どうするのかというのです。何としてでもお金を稼ぎ、お金をたくさんもらえばよい、このように考えます。その知識の時代が過ぎていき、今はお金が世界を支配しているのです。
それが何ですか。サタンが最も願う世界です。サタンがこの世界を支配する要素なのです。そして知識もそうです。世の中の知識、科学を調べてみると、神様に対してすっかり忘れてしまったというのです。知識の一番の脊髄のようなものが哲学だとすれば、哲学がすべて無神論になり、神学自体も「神様は死んだ」と言っています。
宗教は頭のようなものですが、神様は死んだと考えているのです。「神様は死んだ」とまで言うのです。それで、人の先祖は猿だ、神様が先祖ではなく猿だと言うのです。神様は存在せず、猿が……。神様が先祖なのに、変わってしまって猿が先祖になりました。それはどれほど落ちたかというのです。それを神様が見るとき、「はは、これは良いなあ!」、そのように言ったでしょうか。棍棒を掲げて、「この力め、この知識め、この物質め」と思い切りたたきつぶしたいと思うのです。
(99-103 ~104、1978.9.1)

 

6. 師

師は、自身の教えの中で言行一致の先例を見せる人である。そして、水準の高い行為が裏付けとなった倫理的教えを弟子たちに伝授してあげなければならない。成熟した信仰と豊富な経験、学生個々人の気質と興味に最も適合した方法で指導する分別力まで、師が備えるべき資質である。師は、自身の任務が単純な知識伝授を超え、学生たちが人生に対する目標をもつように奨励し、動機を付与することだということを認識しなければならない。最も偉大な師は、父母の心情をもち、自分の子女に教えるように弟子たちを訓練する人である。教える能力は、神様から受けた贈り物である。ある面から見れば、師は究極的師、すなわち神様の同参者の位置にいるとも見ることができる。したがって、良い師は、もっているものがなくても学ぶことを願う人がいれば、自分まで犠牲にして条件なく愛を施さなければならない。教えるときは、いつも神様が私の口を通して語りたいみ言を代わりに語られるという心をもたなければならない。このような脈絡から、最後の段落で、教えを天が下さった召命として説明している。文鮮明先生が牧会者にしてくださった説教方法に関する助言も含まれている。

 

①立派な師の資質

― 宗教経典 ―

 

師はまた五つのことによって弟子を敬い見る。しかるべき方法に従って弟子の行動を制御する。弟子がまだ聞いたことのないことを教えてやる。弟子の質問に応じて十分に意味をわからせる。善き友を示す。知っていることをすべて惜しまず弟子に教え授ける。善生よ、弟子が師に対して敬い従ってうやうやしく仕えたならば、かの方角(南方)は安らかで憂いはない。
阿含経長部 iii.185 ~ 191、善生経(仏教)122

 

むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。これらのことに努めなさい。そこから離れてはなりません。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。(注16)
テモテへの手紙一 4.12 ~16(キリスト教)123

 

比丘よ、師は弟子をその息子と思い、弟子は師を自らの父と思わなければならない。このように、師と弟子が互いに恭敬し、尊重し、共にいることによって仏法を修め、行うことに大きな進展があるのである。
律蔵、大品 3.1(仏教)124

 

空中を飛び回る白い羽のアオサギが、絶えず巣の中のひなを思ってすべての心をそこに置くように、真の師は心の中に弟子を抱いて忘れることができず、それによって神の愛に没頭するようになる。
アーディ・グラント、ガウリー、M.4(シク教)125

 

先生がいわれた、「道徳を修めないこと、学問を習わないこと、正義を聞きながらついてゆけないこと、善くないのに改められないこと、そんなになるのがわたしの心配ごとである。」
論語 7.3(儒教)126

 

修道院長の名を与えられた者は、二重の教えによってその弟子たちを治めなければならない。すなわち、言葉によるよりは行為により、彼らにすべての善で聖なるものを示す。理解力の優れた弟子たちには言葉により主の掟を提示するが、心がかたくなな者、愚鈍な者には、自ら行為によって神の教えを示さなければならない。
ヌルシアのベネディクトゥス 戒律 2(キリスト教)127

 

ハルン・アル・ラシドが彼の息子の家庭教師に言った。「あなたに私の血と私の魂の宝物をあげました。あなたは、私の息子に権威があり、彼はあなたに服従しなければなりません。ですから、すべてのムスリムのカリプがあなたを信任しているという信仰に注目してください。クルアーンを暗唱させ、歴史を教え、詩を詠ませてください。使徒の伝統と言葉に対する丁重さを教え、適切でないときに笑わないようにしてください。彼が怠惰を愛し、それに慣れて彼の考えを抑圧するかもしれないので、彼に有益なことを教えずに時間を無駄にしたり、彼がけがをしないようにしてください。親切と同情で彼を正してください。彼が服従しないときにだけ罰を与え、強制してください」。
イブン・ハルドゥーン(注17)イスラムでの子女養育法
(イスラーム)128

 

― み言選集 ―

 

教授たちの断固とした決心と明確な価値観による後進への教育こそ、この時代の要請であるばかりでなく、教える者の基本姿勢でもあります。この点では、宗教指導者と教授たちに共通点があると思います。それは、私たちが知識を伝達し、また研究結果を教育するだけでなく、人生に責任をもって教えてあげなければならないからです。
(130-16、1983.12.18)

 

私自身を条件なく捧げて頼ることができ、私の心と永遠に離れることなく頼ることができ、自分をすべて任せても安心できる一人の牧者を地上で迎えなければなりません。そのようにできない人は、天上の心情を知る道理がありません。これを人間に直接的な関係として結んでおいたものが父子の関係です。
(4-168、1958.4.6)

 

師は父母の心をもち、主人の心をもち、自分の家を守るように学校を守り、学生たちを自分の息子、娘のように教育しなければなりません。(注18)
(203-308、1990.6.27)

 

師は父母の代わりに、愛でその教え子を教育しなければなりません。永遠の愛をもって教育しなければなりません。その学級で出会った、その時だけの因縁ではないというのです。自分が教えてあげた教え子に対して、一生忘れてはなりません。このような愛の因縁を結ぶことに努力しなければなりません。ですから、自分のすべての知識を愛とともに連結させる師が真の師なのです。何かの生活方便として月給をもらうために教えるのではなく、愛を抑えることができずに教えてあげざるを得ない、自分の生活が困難になっても教えてあげなければならないという、そのような師にならなければなりません。夜でも昼でも訪ねていき、自分がもっている知識を愛で永遠に伝授してあげ、またそれを受けたいと思う師弟間にならなければなりません。それが真の師であり、真の弟子です。
(127-17、1983.5.1)

 

皆さんの学校に、何が何でも自分の弟子たちに正しい思想を伝授しようと努力する師がいれば、彼は国家の運命を心配しながら、皆さんの手を握って涙を流し、このように勧告するでしょう。「私のために順応するのではなく、国に対して順応しなさい。私のためによくするより、国のためによくすることを願う」と言うはずです。このような教えを受けた弟子たちは、その師が成し遂げることのできなかった志を成し遂げるのです。このように、師は自分の生涯を捧げて弟子たちのために精誠を尽くし、父母は自分の価値よりも国家と世界の価値を重要に思いながら子女のために精誠を尽くせば、その師の弟子とその父母の息子、娘たちは「棟梁の材(中心人物になり得る人)」になるでしょう。
(25-98 ~ 99、1969.9.30)

 

教授たちは若者に多くの影響を与えます。しかし、人は父母を通してより大きな影響を受けるのです。個人の性格と人格形成に最も大きな影響を及ぼすのは家庭です。
人生において、家庭は、最も重要な愛の学校です。子女たちは、家庭圏において父母だけが行うことのできる愛の教育、情緒教育を通して、心情の深さと幅を育てます。これが子女の人格をつくる礎石となります。また、家庭は、子女に美徳と規範を教育する学校です。人は、このような情緒教育と規範教育を受けた土台の上で、知識教育、体育、技術教育を受けなければならないというのが天道です。
父母は子女に真の愛を施す真の父母になると同時に、真の師となり、心情教育、規範教育を正しく行うようになっています。たとえ父母が真の師であることを自覚できなくても、子女は父母からあるがままに似て学ぶようになります。父母の役割はこのように重要です。子女は、父母が施す真の愛と父母の愛の生活に似ながら愛の人格が形成され、霊性が開発されるのです。
(271-80 ~ 81、1995.8.22)

 

②学生の価値を引き出す師

― 宗教経典 ―

 

先生がいわれた、「乾肉一束を持ってきたものから上は、〔どんな人でも〕わたしは教えなかったということはない。」
論語 7.7(儒教)129

 

私は青年たちを教える。そして、貧しい家の子供たちと富裕な家の子供たちを同じように接する。お金を出す余裕がない人たちにも、無料で教えてあげる。私はまた漁夫なので、来たがらない人たちを激励するため、彼らが家にもっていく魚を一匹ずつ渡してあげる。
タルムード、タアニート24a(ユダヤ教)130

 

イエスは次のたとえを話された。 「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
ルカによる福音書13.6 ~ 9(キリスト教)131

 

賢人は人を救うのにすぐれており、だからどんな人をも見捨てない。
彼はまた物を救うのにすぐれており、だから何物をも見捨てない。
これは明を洞察すると呼ばれる。
だから、善である者は善でない者の師であり、善でない者は善である者の源である。
善ある者をありがたく思わず、善なき者を大事にしないならば、
どんなに知恵があっても迷いがある。これはたいせつな秘密である。
道徳経 27(道教)132

 

四つの類型の人がいる。知識をもっており、それを悟っている者、これは学者だ─彼に従え。膨大な知識をもっているが、自分がもっているものが眠っていることが分からない者─彼を目覚めさせよ。何も知らないが、自分が何も知らないことを知っている者は無知である。─彼を教えよ。何も知らないが、自分が何も知らないことを知らない者は悪魔だ─彼を避けよ。
アル・ガザーリー 宗教諸学の再興 59.1
(イスラーム)133

 

先生がいわれた、「〔わかりそうでわからず、〕わくわくしているのでなければ、指導しない。〔言えそうで言えず、〕口をもぐもぐさせているのでなければ、はっきり教えない。一つの隅をとりあげて示すとあとの三つの隅で答えるというほどでないと、くりかえすことをしない。」
論語 7.8(儒教)134

 

私は私の師から多くの律法を学び、同僚からより多くの律法を知るようになった。しかし、弟子たちからはすべての律法を学ぶようになった。
タルムード、タアニート7a(ユダヤ教)135

 

わたくしは三人で行動したら、きっとそこに自分の師をみつける。善い人を選んでそれに見ならい、善くない人にはその善くないことを〔わが身について〕直すからだ。
論語 7.21(儒教)136

 

ソクラテスがイスコマコスに尋ねた。「教えは質問を投げかけるところにありますか」。イスコマコスが答えた。「実にあなたのやり方の秘密が、私に今明確になります。私はあなたが質問を投げかけるその原理が分かるようです。あなたは私自身の知識世界を通して、私を導いていきます。そしてそのとき、私が知っていることと類似したことを指摘することによって、今まで私は分からないと信じてきたあることを、私が真実を知っているということを説得しています」。
クセノポン 家政論(ヘレニズム)137

 

賢人に与える賢明さは、学習に優れていたか劣っていたかによる疑問である。覚えておきなさい、彼が掘り起こし、種を蒔き、陶工の作品を練習し、漁夫だったときから皇帝になるときまで、常に他の人からどのように善を行うのかを学んだ。
朱熹(儒教)138

 

― み言選集 ―

 

神様は、「あなたたちは私のためにいなさい」とは言いません。「私はあなたたちのためにいる」、このように言います。父母が子女たちに、「お前たちは、お父さんとお母さんのためにいなさい」と言うのと、「お父さんとお母さんは、お前たちのためにいる」と言うのとでは、どちらが真の父母の立場ですか。教師が学生に、「あなたたちは私の月給袋に補給するための倉庫だ。だからお金をもってこなければ知らない」と大声を出すのと、 「お金をもってこなくてもよく、私が飢えてもよいから、あなたたちのために私は教える」と言うのとでは、どちらが真の先生の立場ですか。
(104-210、1979.5.6)

 

向き合う人がいれば、何気なく向き合うなというのです。彼が自分に何をもたらしてくれるのか、いつもおなかのすいた者の心情になるべきです。彼が自分に何をもたらしてくれるかと、そのように求める心がなければなりません。結局、彼自体は何でしょうか。自分がいつも主体になるとか、対象にならなければなりません。確定的な主体であり、確定的な対象の立場にいるという事実を言うのです。私が常に求めている事実はそれです。
(76-132、1975.2.2)

 

試験というのは、学生たちがすべて知っている問題を出すか、知らない問題を出すか、ということが問題です。本当に1等を出すためには、ここに 50人近くいますが、この 50 人が知らない題目を選ぶのです。それを問題なく片づけるようになれば、その教授と相対になれます。そのあとからは、その人を見るだけで喜ぶのです。一生の間テストしてみても誰も分からなかったのに、その問題を解くある人がいれば、その人は後継者になれるという評価の基準が立つのです。
(66-45、1973.3.18)

 

神様は、先生に対して残忍な神様です。一番下から上がっていき、ここにレバレンド・ムーンがいなければ神様が寂しいので……。何の試験をしてもその試験にパスするから信じるのであって、試験にパスして、また試験することが残っていれば信じますか。同じことです。論文を上手に書けば、博士学位を与える指導教授が「私が先生として侍る」と言うのです。その立場に行ってこそ、博士全体がサインし、歴史に誇るようになるのです。それと同じです。そうしてからその教授も、「私はきちんと指導できた」と考えるというのです。
(320-251、2000.4.16)

 

③神様と共に教える

― 宗教経典 ―

 

わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。
コリントの信徒への手紙一 3.6 ~ 8
(キリスト教)139

 

それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。
ルカによる福音書 21.13 ~15
(キリスト教)140

 

目で見る者が格言を残す。 (注19)
イガラ族の格言
(アフリカ伝統宗教)141

 

多くの者は聞くことすら叶わず、聞くといえども知るなきもの(自我)、そを捉えて克く巧みに説き明かす人は希有なり。しかのみならず、巧みに教えられてもこれを諦むる人すら世に希有なり。所以如何となれば、庸劣なる人物が教えんには、様々に思いをこらすも、終に彼(自我)は正しく認識せらるる能わず。されど、そが他人の教うる所とならずんばそれに格るの道なし。そは極微量よりも微にして、計量すべからざる程のものなり。愛するものよ、この宗旨は考索を以ては達し得べからず。他によりて説かれし時にのみ正しく識得せらるるを得るなり。……この我は言詮に依ても、将、眼に依ても得べからず。唯「彼存す」と云ふ直感を外にしては、如何にしてこれを得べけむや。
カタ・ウパニシャッド 1.2.7 ~ 9 、2.6.12
(ヒンドゥー教)142

 

― み言選集 ―

 

神様は真の愛を中心とする父です。神様は真の愛を中心とする真の師です。
(203-237、1990.6.26)

 

皆さんが壇上に立つとき、「私が壇上に立つとき、神様と一緒に立つ」という生活哲学がなければなりません。神様と共に、神様が一緒に暮らしたいと思う立場で、聖人を代表する、国王を代表する、国民を代表するという立場に立って宣言する教育をしなければなりません。「私を手本としなさい!」。手本とするのは知識ではありません。国と共に、聖人の道理と天理と共に一緒に暮らしたいと思う情緒的基盤の上で……。
(148-277、1986.10.11)

 

祈祷生活をすれば、言い表し得ない喜びが訪れます。その境地が、創世前の神様の心の境地です。皆さんがそのような境地で、「こうだ」という内容をもって説明できる立場に立てば、その立場が正に神様が天地万物を創造された立場なのです。神様がみ言で被造物を創造された立場だというのです。そのような境地でみ言を宣布しなければなりません。そのようにすれば、人々も、必ずそのみ言に触れてみようと思うのです。
(29-321、1970.3.13)

 

この世界は、良い師を、良い先生を願い、良い父母を願います。本来、堕落しなかったなら、最高の父母が誰かというと神様であり、最高の教師が誰かというと神様です。あらゆることにおいてそうです。神様は愛も満ちあふれ、知識も満ちあふれているので、誰が引っ張っていくことができますか。サタンが若い人をすべて奪っていこうとするので、「おい、全員ハーバード大学に行きなさい!」、次にはまた、「愛する人を探そう!」と言います。それしかありません。そのアメリカ式の愛は、どんな愛でしょうか。それは、間違いなくサタンがさせるのです。
それでは、神様が人間に教えてあげたいものは何でしょうか。神様が本当の先生だということを教えたいのであり、神様が本当の父母だということを教えてあげたいのです。それ以上はありません。人間の堕落とは何かというと、無知ゆえに起きたのです。知ることができませんでした。無知ゆえに堕落しました。堕落とは何ですか。自分を愛そうとしたことが堕落です。自分を中心として愛を要求したので堕落したのです。堕落していないところが何ですか。神様を中心として愛そうというところです。それが違うのです。
(102-233、1979.1.1)

 

7. 弟子の道理

学生は、教えを受けようとすれば、立派な師を求めてその方の訓練に従わなければならない。そして、単純な知識を受ける人の段階を超えて、正しい弟子にならなければならない。弟子になるというのは教育の核心的部分である。立派な教育とは、訓練と指導過程を通して学生の全般的存在を構成し、形成するところに関与するという意味である。
東洋の宗教には、師と弟子の関係の典型が成立した。この諸宗教は、言葉より実質的体験を通して真理を理解しようとする。このような内容は、医学とほかの学問のように、長い見習い期間を経て技術を完璧に習得する分野でも見いだすことができる。
この節では、段落が終わるごとに真理を受け入れる学生たちの能力差があるという事実を明らかにしている。重ねて強調したいことは、教育が知能より、心情とより密接に関連しているということである。
神様は、新しいぶどう酒で私たちを満たしてあげたいと思っていらっしゃる。しかし、ぶどう酒を入れた袋が古くなれば、結局、すべて破れてしまうだろう。神様は、私たちの胸に御自身の種を植えたいと思っていらっしゃる。しかし、私たちの心情の畑が石のようであれば、その種が根を下ろすことは困難だろう。したがって、霊的求道を歩む学生たちの最大の課題は、心の破片を除去し、心情の畑が霊的真理をよく受け入れることができるよう準備することである。

 

①立派な師の弟子になること

― 宗教経典 ―

 

さてもしもそなたに祭事についての疑惑、あるいは行為についての疑惑が起こるならば、そこにもろもろのバラモンがいて、判断力あり、〔善いことに〕専念して、熱心であり、粗暴ならず、法を愛する者であるならば、かれらの行うがごとくに、そなたもまた行うべきである。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド 1.11.4
(ヒンドゥー教)143

 

あなたの家が知恵ある者たちの出会いの場になるようにして、彼らの足についた埃をあなたにかぶせ、彼らの言葉であなたの渇いた喉を潤せ。
ミシュナ、アヴォート1.4(ユダヤ教)144

 

ある土地を知らぬ者には、それをよく知っている者が必要であり、彼は知っている者に教えられて前に進む。それこそが実に教育の恵みであり、人はまっすぐに前へと進む道を見出す。
リグ・ヴェーダ 10.32.7(ヒンドゥー教)145

 

それを、〔師への〕服従により、質問により、奉仕により知れ。真理を見る知者たちは、あなたに知識を教示するであろう。それを知れば、あなたは再び迷妄に陥ることはなかろう。アルジュナよ。それによりあなたは万物を残らず、自己のうちに、また私のうちに見るであろう。
バガヴァッド・ギーター 4.34 ~ 35
(ヒンドゥー教)146

 

(おのが)罪過を指摘し過ちを告げてくれる聡明な人に会ったならば、その賢い人につき従え。― 隠してある財宝のありかを告げてくれる人につき従うように。そのような人につき従うならば、善いことがあり、悪いことは無い。(他人を)訓戒せよ、教えさとせ。宜しくないことから(他人を)遠ざけよ。そうすれば、その人は善人に愛せられ、悪人からは疎まれる。
法句経 76 ~ 77(仏教)147

 

十方世界において(過去、現在、未来の)三世のすべてに属する、ありとあらゆる人中の獅子(である仏)たち、そのすべてに、身体も言葉も心も清浄な私は、残りなく礼拝します。
入法界品、普賢行願讃(仏教)148

 

汝等立ち上がれ。眼醒めてあれ。今わが種々の施願を得て悟る所あれ。げに、砥ぎすましたる剃刀は渡り難けれど、この道も歩み難しと賢者は教う。
カタ・ウパニシャッド 1.3.14
(ヒンドゥー教)149

 

顔淵がああと感歎していった、「仰げば仰ぐほどいよいよ高く、きりこめばきりこむほどいよいよ堅い。前方に認められたかと思うと、ふいにまたうしろにある。うちの先生は、順序よくたくみに人を導かれ、書物でわたくしを広め、礼でわたくしをひきしめて下さる。やめようと思ってもやめられず、もはやわたしの才能を出しつくしているのだが、まるで足場があって高々と立たれているかのようで、ついてゆきたいと思っても手だてがないのだ。」(注 20)
論語 9.11(儒教)150

 

あなたの見解があなたの師のものと同じとき、あなたはあなたの師の長所を削り取る。あなたの見解があなたの師のものを凌駕がするとき、あなたは彼を継ぐだけの資格がある。(注 21)
無門関17(仏教)151

 

人は全く同じである。ゆえに最も厳しい学校で訓練される人が最高だ。
トゥキュディデス 戦史1.84
(ヘレニズム)152

 

― み言選集 ―

 

この地に神様の性稟をもった人がいますか。この世の中にイエス様の純粋な性稟を所有した人がいますか。その人を探して友人としてください。どこかに高潔な人がいますか。彼に従ってください。どこかの神様の性稟をもって和動させる人がいますか。彼に従って侍ってみてください。そうすれば必ず命の道を見いだすでしょう。また、その方に従って侍ったという条件で審判を免れるでしょう。
(2-318、1957.7.7)

 

心情を離れては生命がありません。心情の谷間の道は苦痛で凄惨な道です。師を求めるときは、知識の師を求めるのではなく、心情の師を求めなければなりません。心情の谷間は、入り込めば入り込むほど涙です。「自分」はなくなります。
(9-81、1960.4.12)

 

先生が皆さんのために、どれほど苦労したか分かりますか。どうやって皆さんが上手に文章を書き、上手に詩を詠み、名筆になったのですか。すべて皆さんが自ら知ったのですか。それが皆さんのものですか。何も分からない白紙に、すべて先生から相続したのです。知識を愛する人たち、学問を愛する人たちは、知識や学問は愛しますが、これを伝授してあげるために無限の功を尽くした先生を愛することを知りません。人は、父母に対して恩徳を受けたことを知らなければなりません。その次には、師に対して感謝しなければなりません。師は第二の父母です。東洋では師を第二の父母といいます。
(104-278 ~ 279、1979.6.1)

 

国のために、世界のために、皆さんにたくさん苦労させ、孝子、忠臣にしてみようというのが先生の考えです。行かないといえば激しくたたかなければなりませんか、どのようにしなければなりませんか。私とあなたの生活において、これを知る人と父子の関係にあれば、兄弟の関係にあれば、師弟の関係にあれば、「父母様、骨を砕いてください」、「お兄さん、骨を砕いてください」、「先生、骨を砕いてください」と言わなければなりません。足で蹴飛ばして現在の悲惨さを、現在の困難を克服させるのが愛です。
(49-304、1971.10.17)

 

「おい、おい、おい、お前はそんなつらいことをしなくてよい。適当にやればよい。つらい勉強をする必要はないから、適当にやりなさい」と言う先生であれば、そのような先生は偽者です。皆さんは、そのような先生が好きですか。それはなぜかを考えてみましょう。今のためですか、未来のためですか。このようにすれば、将来間違いなく発展するのです。
(93-232、1977.6.5)

 

劉孝元協会長は、先生に従ってきながら私のためにたくさん苦労しました。その中でも、先生が監獄にいるとき、先生のことをたくさん考えてくれました。ですから、先生が劉協会長を考えれば、 「彼は、これこれこのような人だ」と思うようになります。監房に横になっていても、早朝になれば会いたいという情に引かれ、もらった紙切れ一枚でも、命に値する価値のものとして受け入れることのできるほどの内縁の支えが彼にありました。そのような協会長だったことが思い出されます。
(33-83、1970.8.9)

 

②自我を適切に啓発しない理解は根源に至ることができない

― 宗教経典 ―

 

だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。「古いものの方がよい」と言うのである。 (注22)
ルカによる福音書 5.37 ~ 39
(キリスト教)153

 

初めその辞に率ってその方を揆れば、既にして典常あり。 苟もその人にあらざれば、道、虚しく行なわれず。
易経、周易繋辞下伝 2.8.4(儒教)154

 

道というものは、たとえ外から与えられたとしても、それを受け取る主体が心の内にできていなければ、……あとに残らないからである。また、たとえ道を得たとしても、道の実現に適合するような外部の条件がそろっていなければ、せっかくの道も実現されないからである。だから、心中から発する道が、外の世間に受け入れられないような場合には、聖人はその道を外に示そうとはしないものである。また、外から道を教示しても、その人間の内にこれを受け取る主体ができていない場合には、聖人はむりにその道を受け入れさせようとはしないものである。
荘子14(道教)155

 

ある者は、見つつありて〔しかも〕言語を見ず。またある者は、聞きつつありて〔しかも〕そ(言語)を聞かず。またある者に、〔言語は〕身を委せたり、あたかも美服をまとい、恋い慕う妻の夫におけるがごとくに。
リグ・ヴェーダ 10.71.4(ヒンドゥー教)156

 

「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」
マタイによる福音書13.18 ~ 23
(キリスト教)157

 

すぐれた才能をもっている人が「道」に耳をかたむけたとき、熱心にそれを行なう。普通の人が「道」に耳をかたむけたとき、それを信じるように見えるが、信じていない。最も劣った人が「道」に耳をかたむけたとき、大声で笑う。笑わなかったら、それは「道」ではないかもしれない。
道徳経 41(道教)158

 

― み言選集 ―

 

先生もじっと考えてみると、苦労をし、監獄に入っていって苦しんだのは何かというと、結局は心一つを大きくするためのものでした。ほかのことはありません。ほかのことはないというのです。心を大きくして何をするのでしょうか。神様が入ってきて暮らそうというのです。神様が私の心に足を踏み入れるのです。足を踏み入れようとするのですが、足が入らないように閉じています。そのようなときは、左足で蹴飛ばします。この足で蹴るのです。しきりに蹴飛ばすと、どんどん伸びていきます。それでしきりに蹴飛ばすのです。そうして片足が入り、両足が入ります。両足が入ると、手が入っていき、頭も入れて……。そうだというのです。これが伸びればとても大きいのです。
先生がお母様を(注 23)見ていると、ほっそりしていたおなかに赤ん坊が宿って 10 カ月たつとどんどん大きくなります。それは何がそのように伸びたり縮んだり……。小さな子宮がです。 「うわあ、10 パウンド近くにもなる赤ん坊が水に包まれて大きくなるのだから、どれほどよく伸びるだろうか。私の心の袋はそれよりもっとよく伸びるだろう」と考えてみました。皆さん、赤ん坊がいる子宮が伸びずに死ぬと考えたことがありますか。そのようなことは思いもしません。
もし神様の生命が、神様のような生命の種が私の心の袋に落ちて育ち始めれば、神様くらいに大きくなるのですが、そのように大きな神様を包括できる私の心の袋にならなければ、神様はどうなりますか。大変なことになります。人も大変なことになるのです。そのように考えられます。さあ、皆さん、心の中で神様が3カ月くらいいて大きくなれずに流産すると考えてみてください。神様が堕胎するかもしれない心の袋に入っていくでしょうか。そこに種を植えるでしょうか。
(110-326、1981.1.4)

 

8. 学びと実践

真理を知ってからは実践が伴わなければならない。実践につながらない知識は、真の知識とは言えない。そのような知識は、蜃気楼のようにすぐに消えてしまうからである。真の知識は、概念的なものが経験的なものに変わって、初めて悟ることができる。この話は、特に難しい修行過程を要求する宗教と道徳の教えに適用される。自身を賢明で信仰深い人だと言いながら、行動が違う人は、正に偽善者である。言行一致こそ、真実な個人の核心資質である。
師は、教える前にまず経験しなければならない。東洋では、自分が知っているが、まだ完全に実践できていない知識を誇らないために、常に寡黙で言葉を慎むことを美徳としている。事業やあらゆる分野でも、指導者に同じ原理が適用される。青年時代、あらゆる大変なことを経験した指導者は、部下たちが願うことを正確に理解するため、彼らの尊敬と忠誠心を簡単に得ることができる。

 

― 宗教経典 ―

 

御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。(注 24)
ヤコブの手紙1.22~24
(キリスト教)159

 

たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。―牛飼いが他人の牛を数えているように。かれは修行者の部類には入らない。たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄とを捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することの無い人は、修行者の部類に入る。
法句経19 ~ 20(仏教)160

 

あなたの口の中に留まっている知識はとても皮相的だ。本当の知識の長所と価値は、あなたが行なうことである。
ナフジュ・アル・バラーガ 語録 90
(シーア派イスラーム)161

 

学ぶことが最高ではなく、行動することが最上である。言葉が多いほど罪が多くなる。
ミシュナ、アヴォート1.17(ユダヤ教)162

 

そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。
マタイによる福音書 7.24 ~ 27
(キリスト教)163

 

復活の日、神の目に最も下位にいる者は、彼の知識から恵沢を得ることができない識者たちである。
ダーリミー・ハディース(イスラーム)164

 

子貢が君子のことをおたずねした。先生はいわれた、「まずその言おうとすることを実行してから、あとでものをいうことだ。」
論語 2.13(儒教)165

 

男子にせよ女子にせよ、真実のことを知るときは、そのとおりに善きことを熱誠をもって実践すべきである。それを自分自身のためにです。そして、それがあるとおりにそれを実践すべき人々に、それを理解させるべきです。
アヴェスター・ヤスナ 35.6
(ゾロアスター教)166

 

先生がいわれた、「自分のことばに恥じを知らないようでは、それを実行するのはむつかしい。 〔ことばは慎んでこそ、それを実行できる。〕」
論語 14.21(儒教)167

 

知って行なわないものは決してなく、もし知って行なわないなら、それはまだよく知らないのである。……ある人が孝行のことを知り、ある人が弟のことを知っているというばあいには、その人が必ずすでに孝を行ない、弟を行なっていてこそ、彼は孝を知り弟を知っているといえるのであって、ただわずかの孝弟の話を知っているだけで、すぐに孝弟を行なっているということはできないのである。同じように、痛いことを知るというのは、必ず自分が痛いことを経験してからのことであり、寒さを知るというのは、凍えた経験をもってからのこと、ひもじさを知るというのは、飢えた経験があってのことである。このように考えると、知と行とはどうして分けることができようか。分けられないのが知行の本来のすがたであり、私意によって少しも隔てられない状態なのである。
王陽明 伝習録(儒教)168

 

実践がないむなしい悟りは役に立たない悟りであり、それはただ空虚な悟りにすぎない。悟りのないむなしい実践は、正しい方向がない実践であり、それはただ間違った実践にすぎない。知(知恵)と行(実践)は、互いが常に必需的であり、ちょうど目は足がなければ歩き回ることができず、足は目がなければ見ることができないのと同じである。先後(順序)を論じれば、知が先であり、軽重(比重)を論じれば実践が重い。今、そのあることを知りながらも、実践がまだ及んでいなければ、知恵が依然として薄いのである。既に自らそれを実践したなら、知恵はより明るくなり、過去の意味とは異なるだろう。
朱熹(儒教)169

 

― み言選集 ―

 

心で考えることを、実践できなければなりません。心で考えてばかりいてはいけません。なぜ行動しなければならないのですか。行動することによって中心が生じるのです。言行一致という言葉は、心を身代わりする言葉と行動が一致しなければならないということです。(注 25)
(248-89、1993.8.1)

 

学んだことは実践しなさいというのです。実践は立体的であり、縦的、横的であり、四方八方に広く、深いのです。(注 26)それは、あの国に行って生活できる材料を活用するための訓練をしているのです。
(248-166、1993.8.1)

 

人間は創造原理において明らかにされたように、自由意志と、それに基づく行動を通じて、神に喜びを返すべき実体対象として創造されたので、人間は神の目的を知って自ら努力し、その意志のとおり生活しなければ、神の喜びの対象となることはできないのである。それゆえに、人間はどこまでも神の心情を体恤してその目的を知り、その意志に従って生活できるように創造されたのであった。
原理講論、人類歴史の終末論1.1

 

先生が実践しなければ、教える資格がないことを知らなければなりません。
(134-203、1985.7.20)

 

これから私たちがすることは何でしょうか。教育です。これは誰が何と言おうと、体験して話をしなければなりません。事実をもって話をしなければなりません。聞いたのではいけません。そのようにすることによって、天の側の高い位置に上がっていくのであり、中心存在になるのです。
(205-130、1990.7.29)

 

ですから、先生が考えるには、自分が世界的な指導者になり、今後大衆を動かすことができる責任者になろうというときは、30 歳までにすべて経験しなければならないと思います。これが、先生が体験してみた結論です。そのようになろうと思えば、一生に忘れることのできないあらゆる材料を、体験を通してたくさん得なければなりません。
仕事場に行って働きなさいという話をするときは、自分が昔、深刻な立場で土を担がなければならず、もっこ運びをしなければならない、そのような所で働いていた心情を感じながらそのような話をすれば、聴衆たちは深刻に聞き入るのです。専門家は、自分が経験した基盤の上ですべてのものを解き、教える人です。
(65-302.303、1973.3.4)

 

先生は多くの苦労を通してあらゆることを体験したのちに、結論を下すようになったのです。言葉だけではありません。実験をしてみました。すべて実験してみたというのです。
(133-83、1984.7.8)