世界経典Ⅱ 第3部 人生の旅程 第13章 愛

第13章 愛

1. 真の愛

真の愛は、最高の愛である。最高に崇められるが、現実で体験するのはとてもまれな愛である。この節では、理想的愛とは何かに対してのみ扱う。次の節で、理想的愛の多様な属性に関して扱うことにする。
真の愛の源泉は、神様である。究極的実在の核心である愛と哀れみは、自己中心的執着と欲望を越えた聖人から具現され得る。神様が被造物のために創造を始められたように、真の愛もやはり、相対の幸福のための献身的愛である。神様が絶対、不変、永遠であられるように、真の愛もやはり変わらず、運命のいたずらに屈しない。神様が人類の父母であり、万物の創造主であられるように、真の愛を実践する人間もやはり公明正大であり、全体を包容できる。したがって、真の愛は神様と真実に一つになり、一生を天のみ旨を成就するために生きていく個人から具現され得るのである。
自己中心的欲望を追求する利己主義者は、真の愛を決して実現できない。しかし、人間は真の愛の潜在力を生来的にもって生まれるので、真の愛の実現は不可能ではない。子女のためにすべてのことを犠牲にする父母であれば、これを体験したであろう。そのような人も、子女が生まれる前には、自身の快楽ばかりを追い求めて生きてきたかもしれない。しかし、子女の誕生は、父母の人生に新しい方向を提示する。自分から人に、受けることから与えることへの転換が起きるのである。父母の愛は、神様の真の愛と近い。したがって、私たちは神様を父と呼ぶ。
人間が先天的に愛をもって生まれたという事実は、中国の漢字「仁」にも表現されている。「仁」の字を見れば、「天」の字のように「二人」が含まれているのを知ることができる。ゆえに愛は私たちに内在されており、神様はその愛を通して私たちに臨在され、私たちはまた神様に似ることができる。

 

①真の愛の本質

― 宗教経典 ―

 

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
コリントの信徒への手紙一13(キリスト教)1

 

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。
ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。……
愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。
ヨハネの手紙一 4.7 ~12、18 ~ 20(キリスト教)2

 

このように常に専心し、罪障を離れたヨーギンは、容易に、ブラフマンとの結合という窮極の幸福を得る。
ヨーガに専心し、一切を平等に見る人は、自己を万物に存すると認め、また万物を自己のうちに見る。
私を一切のうちに認め、一切を私のうちに見る人にとって、私は失われることなく、また、私にとって、彼は失われることがない。
一体観に立って、万物に存する私を信愛する者、そのヨーギンは、いかなる状態にあろうとも、私のうちにある。
自己との類比により、幸福にせよ不幸にせよ、それを一切〔の生類〕において等しいものと見る人、彼は最高のヨーギンであると考えられる。
バガヴァッド・ギーター6.28~32(ヒンドゥー教)3

 

― み言選集 ―

 

真の愛の人生とは、どのような人生でしょうか。真の愛は、公益性をもつ無形の秩序であり、平和であり、幸福の根源です。真の愛の本質は、受けようという愛ではなく、人のために、全体のために先に与え、ために生きようという愛です。与えても、与えたということすら記憶せず、絶えず与える愛です。喜んで与える愛です。母親が赤ちゃんを胸に抱いてお乳を飲ませる、喜びと愛の心情です。子供が父母に孝行して喜びを感じる、そのような犠牲的愛です。神様の人類創造がそうであったように、何ら見返りを期待せず、条件も付けずに与える、絶対、唯一、不変、永遠なる愛の創造です。
真の愛は、宇宙の源泉であり、宇宙の中心、宇宙の主人を生み出してくれる愛です。真の愛は、神様の根であり、意志と力の象徴でもあります。したがって、真の愛で結ばれると、永遠に一緒にいても、ただうれしく、宇宙はもちろん、神様までも引っ張れば付いてくる愛です。
堕落の末裔である人間がつくった国境の壁、人種の壁、さらには宗教の壁までも、永遠に終わらせる力が、真の愛の価値です。
神様の真の愛の主流属性は、絶対、唯一、不変、永遠なものなので、誰でもこの真の愛を率先して実践すれば、神様と同居して共に楽しむことができ、同参権までも享受できるようになるのです。このように、天国に入るのに絶対に必要な条件が、正に「ために生きる人生」、すなわち真の愛の人生なのです。
平和神経、平和メッセージ 1.25 ~ 26、2005.9.12

 

コリント人への第一の手紙第 13 章、愛の章に、「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」とあります。それを知らなかったというのです。
あなたの心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くすというのは何ですか。生命を投げ出して愛しなさいということです。命を投げ出して愛しなさいという話です。全体を投入して愛するのです。隅から隅まで愛しなさいということではないですか。皆さん、誰かをそのように隅から隅まで愛してみましたか。妻となった人が夫を隅から隅まで愛してみて、父母となった人が子女を隅から隅まで愛してみて、子女となった人が父母を隅から隅まで愛してみて、師となった人が弟子を隅から隅まで愛してみて、弟子となった人が師を隅から隅まで愛してみて、民となった人が国を隅から隅まで愛してみたのかというのです。できませんでした。ですから、そのようにできなかった人間に対して、一つのタイプ、金型を造ったのです。工場で大量生産するためには、金型からガチャッ、ガチャッと造るのですが、タイプ、モデルを造らなければなりません。人間のモデルを造らなければなりません。神様が願う愛を中心とする人です。そして、私が愛することのできるモデル、それ以上ないというのです。
(143-274、1986.3.20)

 

真の愛とは、何ですか。真の愛は神様の愛です。それでは、真の愛が行く道はどのようなものですか。神様を永遠に愛そうというのなら、私は真の愛の所有者になるのです。簡単なことです。なぜそうなのでしょうか。愛の特徴は永遠です。ですから、その愛の条件は永遠でなければならないということです。永遠にその愛に向かい合おうと思ってこそ、その真の愛が私と相関関係を結ぶので、それが不可避だというのです。
愛は永遠です。愛は永遠不変で唯一なのです。ですから、そのような内容に 100 パーセントすべてなっているので、私たち自体が真の愛に対して、永遠に天に心を整えるにおいて、愛の道が連結されるのです。
(123-329、1983.1.9)

 

愛の主人は、神様です。真の愛の「真」というものは、二つを許諾しません。「真」は絶対的にただ一つです。真の愛は、誰が最初に愛することのできる愛ですか。神様しかいません。それが真の愛の根本であり、本質です。神様だけが真の愛をなさることができることを知らなければなりません。神様の真の愛も真の愛が必要であり、神様の真の生命も真の愛が必要であり、神様の真の血統も真の愛が必要であり、神様の真の良心も真の愛が必要です。神様を抜かせば真の愛はありません。神様が介在しない愛は、真の愛ではないのです。
(300-200、1999.3.14)

 

神様が創造主の能力を行使するとき、愛を中心としてつくったというのです。真の愛と関係を結んだのちにです。霊的世界では真の愛が連結されれば、すべてのものをコントロールすることができ、すべてのものを創造できます。それが私たちの理想郷です。真の愛と関係を結ばなければ、すべて徒労だというのです。
(147-116、1986.8.31)

 

愛は究極的に私たち人間から始まったものではなく、絶対不変の原因的主体から始まったものなので、それを中心とした愛の家庭が人間社会の理想具現の基本単位になります。絶対価値の理想実現のための愛の家庭から、国家、世界へ拡大し、愛を完成した統一圏の世界、それこそ絶対価値の永遠の幸福が約束される理想世界が必ず訪れるのです。
(89-227、1976.11.27)

 

もし、ある夫婦の間に体の不自由な子供が生まれたとすれば、その父母が、「ああ! 足の不自由な子供は蹴飛ばしてしまおう」と言いますか。それが真の愛ですか。違います。同じことです。夫が妻を考えることも同じだということです。最後まで蹴飛ばしてしまうようにはなっていません。もっとかわいそうに見えるのです。そうすれば、間違いなくその人は、霊界の法度にそのまま通過していきます。それを知らなければなりません。ですから、それが貴いのです。そのような人を真の夫というのです。うれしいときに喜ぶのが真の愛ではなく、良くないときにもっと喜ぶのが真の愛です。師弟関係もそのような関係です。そして、国の大統領や民もそのような愛の観念をもたなければなりません。
(117-292、1982.4.11)

 

神様が一番愛して、貴く考える物があるなら、それを一日、あるいは 10 年や 100 年ぐらい共に過ごしたのちに、ほうり投げるように造りましたか、永遠に共にいるように造りましたか。永遠に共にいるように造りました。永遠に共にいるように造られたのです。人も同じです。人は永生すべきです。なぜでしょうか。絶対者の神様が、絶対的な愛を中心として、喜ぶことができる対象だからです。一日や二日、あるいは 10 年、100 年喜んで、投げてしまうなら、それは愛ではありません。愛すれば愛するほど、共にいたいと思うのです。愛する妻が死ねば、その妻のハンカチをもって独身で生きた人もいます。インドのネルーのような人は、自分の妻が若くして死にましたが、その妻がバラを好んだといって、一生の間バラの花を身に着けて歩きながら暮らしたといいます。
(39-342 ~ 343、1971.1.16)

 

真の愛というのは何をするのですか。永遠に継続する愛です。春にもその愛、夏にもその愛、秋にもその愛、冬にもその愛、少年時代にもその愛、老年時代にもその愛、壮年時代にもその愛、その次に永遠の霊界に行ってもその愛……。変わらない愛です。
(194-303、1989.10.30)

 

②哀れみと慈悲

― 宗教経典 ―

 

孟子がいわれた。 「仁ということばは人という意味であり、人間らしくあれということである。〔義ということばは宜という意味であり、是非のけじめをつけるということである〕。この仁〔と義との二つ〕を合せて、これを人の道という。」
孟子 VII.B.16(儒教)4

 

慈悲とは、すべて生きとし生けるものに対して憐れみが一味平等である心であります。
龍樹 宝行王正論 437(仏教)5

 

アナスとアブドーラが神の使徒の言葉を伝え、「すべての被造物は神の子女だが、神が最も愛する者はその方の子女たちを親切に世話する者である」と言った。
バイハキ・ハディース(イスラーム)6

 

神の愛にはまった者は万有を愛する。(注1)
アーディ・グラント、ヴァダハンス
M.1、p.557(シク教)7

 

究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上ることのない者であらねばならぬ。足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。他の識者の非難を受けるような下劣な行いを決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ。安穏であれ、安楽であれ。いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも悉く、長いものでも、大なるものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生れたものでも、これから生れようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。何ぴとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうと怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の( 慈しみの)意を起すべし。また全世界に対して無量の慈しみの意を起すべし。上に、下に、また横に、障害なく怨恨なく敵意なき(悲しみを行うべし)。立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。(注 2)
スッタニパータ143 ~151(仏教)8

 

今、ねたむ心がつき、私は聖者たちの世界に入った。誰とも疎遠ではなく、誰とも他人ではなく、真実にすべての人が私の友である。神が行われるすべてのこと、これと共に私が喜ぶが、これが私が聖者たちから受けた知恵である。おお、万有に満ちておられる神よ! あなたを見つめることで私が大きく咲きます。
アーディ・グラント、カーナラーM.5、p.129(シク教)9

 

もし見知らぬ人の足を踏むと、粗忽をしましたとわびるのに、もし兄弟の足だと、おおと言うだけである。親の足を踏めば、初めからゆるされていると思う。親しいからである。ゆえに至礼は他人としないところがあり(人と己の別をみない)、至義は物とせず(物と自己の別をみない)、至知は謀ろうとせず、至仁には親がなく、至信には金(石の堅さ)をしりぞける。(注 3)
荘子 23(道教)10

 

仁は単純に画一的な寛大さではない。そのエネルギーは宇宙において春の季節であり、その道理は宇宙の中に生きているものの心である。
朱熹(儒教)11

 

― み言選集 ―

 

神様は数多くの宗教を通して、「愛さなければならない」と教えます。釈迦が語る慈悲も、愛を中心とする言葉です。愛を抜かせば成立できません。儒教で語る「仁義礼智」の「仁義」というのも、愛を抜かせば何にもなりません。「仁」という言葉も「二人」ではないですか。人偏に「二」の字です。「天」という言葉も「二人」という言葉です。
(256-205、1994.3.13)

 

真の愛は「ために生きる」ところから、真の理想は「ために生きる」ところから、真の平和も、真の幸福も、「ために生きる」という立場を離れては見いだすことはできません。
(75-318、1975.1.16)

 

堕落した人間でも、父母が子女を愛する心に違いはありません。父母の愛は絶対の中の絶対です。それは存在意識を越えて存在することができ、動くことができるのです。これは、万宇宙のいかなる原動力や、いかなる存在物の主管圏内にもとどまることなく超越します。愛は理念を超越します。人格的な価値を超越します。この基準は、神様の価値までも超越することができます。
(8-273、1960.2.7)

 

いったい、真の愛とは、何でしょうか。愛は愛なのですが、どのような愛を真の愛といいますか。神様の愛です。それでは、神様の愛とは、どのようなものですか。イエス様のみ言によれば、それは怨讐を愛する愛です。そのような愛が真の愛だという話です。白人同士が愛するのは何でもないのです。白人が黒人を愛するのが真の愛に近いのです。怨讐を愛するということ、それは真の愛に間違いありません。
それでは、怨讐を愛することが、どうして真の愛なのですか。それは誰も批判できず、不平を言うことができないからです。それはいつでも丸く、いつでも回っていけます。ぶつかることなく運動できるということです。その愛は私の目に入ってきてもよく、鼻に入ってきてもよく、口に入ってきてもよいのです。……引っ掛かるものがないということです。それがなぜ便利なのですか。どこに行っても、ふさがる所がないからです。
(115-315 ~ 316、1981.11.29)

 

何をもって、この悪の世界を消化するのですか。軍事力で、経済力で、知識の力で、黄金の力で、この悪の世界をどのように消化しなければならないのですか。愛の力で消化しなければなりません。能力が多く、権能が多く、全知全能であられる神様を屈服させ得る一つの秘法は、力では駄目です。知識でも駄目です。お金でも駄目です。しかし、私たち人間の欲心を見るとき、神様までも争って勝ちたいと思うのです。
「なぜ、このような愛が億千万年引っ掛かったのか! 神様までも私が屈服させることができ、神様のすべてのものまでも私がすべて奪い、神様より高い、神様以上になりたい」ということが、力でできますか。知識でできますか。お金でできますか。できません。ただ、真の愛一つだけをもてばよいのです。神様も、その愛の前には、神様がいくら大きくても、真の愛に引っ掛かれば、「神様も私のかめに入っていてください」と言えば、「おお、そうしよう、そうしよう!」と言うのです。
祖父や曾祖父、もう老いて死ぬ日が近いおじいさんの頭の上に曾孫が上がっていき、すべり降りてきながら大小便をしたとしましょう。それを赦す法がどこにありますか。顔から何から、すべてひどいことになっているので、おじいさんとおばあさんも、お父さんとお母さんも、兄弟たちも、大変なことになったと思いますが、「こいつ、あだ討ちせよ!」、そのように言うことができますか。おじいさんが、「ああ、恨めしい。歴史始まって以来……。曾祖父の看板をもったまま死ぬことはできない!」という宣布式が通じますか。
このような権限をもった偉大な力、偉大な能力、偉大な造化のるつぼは、どれほどよいですか。造化がごろごろ転がり、いくらでも入っていく造化のるつぼです。どれほどよいですか。
(139-209 ~ 210、1986.1.31)

 

③愛の円形運動

― 宗教経典 ―

 

わたしを愛する人をわたしも愛し /わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。
箴言 8.17(キリスト教)12

 

この世において善い行いをなす者に
は、善い報酬がある。
クルアーン 39.10(イスラーム)13

 

憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
マタイによる福音書 5.7(キリスト教)14

 

愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。……
わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。……
わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
ヨハネの手紙一 4.11~12、16、19(キリスト教)15

 

かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。
ヨハネによる福音書14.20 ~ 21(キリスト教)16

 

男の信者も女の信者も、互いに他の保護者である。
クルアーン 9.71(イスラーム)17

 

キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。
エフェソの信徒への手紙 5.21~ 22(キリスト教)18

 

愛は丸く回っていく。愛される者は愛する者に似ることによって、愛する者を感動させる。すると愛する者はその愛される者を迎えるために進んでいく。最初に始めた者がすなわち最後になる。
トマス・アクィナス 神学大全(注 4)
(キリスト教)19

 

正しい恋とは、端正で美しいものを対象としつつ、節制を保ち、音楽・文芸の教養に適ったあり方でそれを恋するのが本来なのだね?
プラトン 国家 3(ヘレニズム)20

 

― み言選集 ―

 

絶対的愛は強制ではありません。自然に循環するのです。
(196-134、1989.12.31)

 

愛は私から来るのではありません。相対から来るのです。それを知っているので、男性を造るとき、「ために生きなさい」として造りました。それで、男性は女性のために生まれたのであり、女性は男性のために生まれたのです。ですから、その愛を求め、その愛を迎えるのは、「ために生きる」道においてのみ可能なのであって、ために生きずに「ために生きろ」という道には、真の愛はありません。
(143-54、1986.3.15)

 

男性として生まれた人が行かなければならない道は、自分のために生きることで終局するのではなく、相対のために生きることで終局するように生まれています。男性は何のために生まれたのでしょうか。男性自身のために生まれたのではありません。女性のためです。
また、いくら美人で、いくら男性が嫌いでも、女性はなぜそのように生まれたのでしょうか。自分のためにそのように生まれたのではありません。相対のために生まれたのです。存在の起源は、私のために生きるところにあるのではなく、相対のために生きるところにあります。そのようになる世の中になれば、天国に違いありません。
父母は子女のために生き、子女は父母のために生きるようになるとき、互いにために生きるので回っていくのです。ために生きればために生きるほど、早く回っていけます。これが理想的です。四角形ではなく、立体的にぐるぐる回るのです。「ために生きる」ことは、押してあげることです。あちらから私のために生きて押し、私もそちらのために生きて押してあげるので、早く回っていきます。永遠だということです。
ですから、世の中は円形に似ています。顔も丸いのです。ここに二つがありますが、この二つが合わさっています。目も丸いのです。上部と下部があります。それがすべて完全に授け受けしなければなりません。静脈と動脈も授け受けします。与える道はあるのに、受ける道がなければ、病気になります。傷つくということです。存在物は運動をするのですが、その存在の根源において、「ために生きる」作用の原則を立てなければ、永遠に存在することはできません。
(69-83 ~ 84、1973.10.20)

 

ですから、運動をすれば、必ず徐々に真ん中が膨れ上がっていきます。円形になるのです。渦巻いているところは、入り込むこともあり、掘る作用もしますが、上がってくる作用もします。砂のようなものを見れば、そのような作用をするというのです。周囲にあるものを集めるのです。ここで授け受ける力の作用によって、このような円形運動が起きます。ですから、神様も私の中にいて、イエス様も私の中にいて、私もイエス様の中にいるという概念があり得るのです。その三つが合わさって一つの円形を成すというのです。
(124-51、1983.1.23)

 

垂直と水平がどこで一つになるのでしょうか。これは、球形に運動するので、一番の中央線において一つにならなければならないという論理が出てきます。これを中心として線を引くようになるとき、その線に入っていけば全宇宙が共鳴します。霊界も明確に分かります。愛を中心として関係を結ぶ世界は、教育が必要ありません。教育が必要ないのです。誰かが支配する必要がありません。それ自体が私を支配します。真の愛には、神様までも絶対服従すると言ったでしょう? 方向性を間違えれば、それ自体が私を正してくれるのです。どこに行かなければならないのかを知っているというのです。
(214-233、1991.2.2)

 

④信仰と品性に由来する真の愛

― 宗教経典 ―

 

(先に)言った「その家をきちんとするのは、その身を修めることにある」とは、多くの人はその親愛する人においては(親愛の)一方に偏るものである。その卑しみ憎む人においては(卑しみ憎むことの)一方に偏るものである。その畏敬する人においては(畏敬の)一方に偏るものである。哀れんでやる人においては(哀れみの)一方に偏るものである。軽く扱う人においては、 (軽んじ侮る)一方に偏るものである。人を好みながら、その悪いところを知り、憎みながら、その美点を知るような者は、天下にごく少ないのである。だから、ことわざにもある「人はその子の悪を知らないし、その笛の大きくなっているのが分からない」これを身が修まらなければ、その家をきちんとすることはできないというのである。(注 5)
大学 8(儒教)21

 

愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
ヨハネの手紙一 4.8(キリスト教)22

 

ああ、実に夫を愛するから夫が愛しいのではなく、
自己(アートマン)を愛するから夫が愛しい。(注 6)
ああ、実に妻を愛するから妻が愛しいのではなく、
自己(アートマン)を愛するから妻が愛しい。
ああ、実に子を愛するから子が愛しいのではなく、
自己(アートマン)を愛するから子が愛しい。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド2.4.4 ~ 5
(ヒンドゥー教)23

 

柔和、節制です。これらを禁じる掟おきてはありません。
ガラテヤの信徒への手紙 5.23
(キリスト教)24

 

他の人に伝わる愛とはどのようなものか。ナナークが言うには、常に愛の主に没頭する人が真に愛する人だ。好意と悪意を区別する人は真に愛する人ではなく、彼はかえって事情に捕らわれたかわいそうな人である。
アーディ・グラント、アーサー・ディー・ヴァール
M.2、p.474(シク教)25

 

悪にはまらず、善に帰るために神を畏敬するよう勧告しましょう。愛(の神)こそ私たちの指導者であり統率者ではないですか。したがって、誰もその御意志に背かないようにしましょう。彼に反対する人は、神々に敵対する人です。この神と友になり、親しく付き合えば、私たちは私たち自身の真の愛を発見できるでしょう。これは、今日何人にもならない人たちだけが享受できます……。私の言葉は……すべての所の男性と女性を含みます。私たちの愛が完全に実現され、すべてが本来の姿に帰り、本然の真の愛をもつようになれば、全人類が幸福を享受するようになるでしょう。
プラトン 饗宴(ヘレニズム)26

 

どうでしょうか、うかがいますが、いったい、自分を憎んでいる人間は他人を愛せるものでしょうかしら? 自分といがみ合っている人間がだれかほかの人と折り合えるものでしょうか? 自分の荷厄介になっている人間がだれかほかの人を喜ばせられるものでしょうか?……他人の喝采を博したいなら、めいめいがいい気になって自惚れ、自分がまっ先になって自分に喝采を送ることが肝心要、どうしても必要なことなのですよ。
エラスムス 痴愚神礼讃 22
(ヒューマニズム)27

 

― み言選集 ―

 

私たち人間が求める愛は、横的な愛、横的な基盤であり、神様の愛は、縦的な愛なので、縦横が連結されなければならないのです。
(238-140、1992.11.22)

 

皆さんの体と心の中には誰が入っているかというならば、神様が入っているのです。皆さんの体と心が一つになれば、神様が臨在されるというのが原理の教えです。それでは、神様がなぜそこに臨在されるかというのです。人の体と心が一つになれば、必ずそこには愛があります。一つになる原則は愛から始まるからです。したがって、相対的愛があるために神様が臨むという論理が成立するのです。「人の体は神様の聖殿である」とこのように言います。聖殿は、どのような所ですか。仕事をする所ですか。どのような所ですか。聖殿というならば安息所という言葉と通じます。それでは、休むには何の中で休みますか。愛の中で安息するのです。聖殿とは何でしょうか。神様の愛の中で休むことができる所です。私たち人間が願う理想があるならば、そのような内心的基準が最高の理想の基準ではないですか。これを知っているのです。そうした心の愛をもった所を、心情の世界というのです。それはわき出る泉の水と同じであって、くみ出しても、くみ出しても終わりがありません、終わりが。なぜでしょうか。神様がそこにいらっしゃるから終わりがないというのです。
(91-77 ~ 78、1977.1.30)

 

この境界線、零点を往来できるのは真の愛しかありません。心と体がこの点から一つになります。空いた所ができれば補っているのです。心と体が完全にそこでストップするのです。零点を通過するのは真の愛しかありません。その道しかありません。零点です。女性の心も零、男性の心も零、そこで一つになるのです。零点で完全に一つになるというのです。自分の概念があってはいけません。夫と妻という、二つという概念があってはいけません。ぴたっと一つです。それは何かというと、私はあなたのために生きるというのです。零点です。どこに行っても自由です。振り返っても、ひっくり返っても自由です。それが零点です。すべての球形の中心が零点です。両側をすべて所有したものが零点だということです。真の愛が、そのようにして零点に来るのです。
(230-103、1992.4.26)

 

自分を愛さない人は、神様を愛せません。父母を愛さない人は、国を愛せません。また、自分自身を愛せない人は、父母を愛せません。自分自身を愛してこそ、父母を愛せるのであり、国を愛せるのであり、世界を愛せるのであり、神様を愛せるのです。
(22-97、1969.1.26)

 

愛の理想を中心として見るとき、動植物の世界では、その愛の関係がすべて繁殖を前提にして初めて成されます。しかし、人間だけはその例外です。人間は夫婦の愛の関係を自由に享受します。これが万物の霊長たる特権です。神様は、息子、娘である人間が無限の愛の喜びをもつように祝福しました。
神様が許諾した真の自由は、責任性を前提とします。もし、責任性なしに個々人が愛の自由だけを主張し、実践するなら、どれほど大きな混乱と破局が来るでしょうか。至高なる愛の理想を求める人間は、愛に対する責任性をもつときに完成が可能なのです。
その責任性は、次の三つとして考えることができます。第1に、人間は愛の自由を下さった神様に感謝しながら、自己修錬、自己管理で自由な真の愛の主体者になる責任です。人において愛の責任性は、法や世間体ゆえに守られるものではなく、神様との生命的縦的関係の中で自己主管、自己決断で守られるのです。
第2に、相対に対する責任性です。人間は本性的に自らの相対の、自分に対する愛が分けられることを願いません。夫婦間の横的な愛の関係は、父母と子供の間の縦的な愛の関係と異なり、分けられれば、もはやその完全性が破壊されます。これは、夫婦間で絶対的な愛の一体を成すようになっている創造原理ゆえです。人は、絶対に自分の相対のために生きるべき愛の責任性があります。
第3に、子女に対する愛の責任性です。子女たちの誇りと幸福の基地は父母の愛です。子女たちは真の愛で和合一体化した父母を通して生命が生まれ、そのような愛の中で養育されることを願います。父母の子女に対する最も貴い責任は、外的な養育だけではなく、彼らの霊性を完全にしてあげる真の愛の生命的な要素を提供することです。家庭が貴い理由はこのためです。生活的な経験を通して体得する真の子女の心情、兄弟の心情、夫婦の心情、父母の心情は、真の家庭以外、そのどこからも得ることはできません。
(277-201~ 202、1996.4.16)

 

2. ために生きる人生

神様に対する献身と信仰によって始まる霊的な求道の人生は、慈悲と人に対する奉仕を通して完成される。 「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである」 (ヨハネⅠ 4.19)。ために生きる人生が愛の核心である。人のために生きるのは、人間の内面に自発的に流れる、愛する心の自然な表現である。人間が神様に似たからである。創造の始めから絶えず被造物のために生きてこられた方が神様でいらっしゃる。しかし、堕落によって人間はだんだんと腐敗していき、愛を聖なる根源と分離し、自分の快楽的側面に利用することによって、私たちの心と態度、習慣は、すべて自己中心的に変わった。したがって、条件なく先に与えるのは、相当な努力を必要とするようになった。私たちは、先に与える社会ではなく、受けてばかりいる社会をつくってきた。このような社会は、自然に不平等と怨恨、犯罪へと連結されざるを得ない。世界の諸宗教は、奉仕し、人のために生きる人生が世の中で最も価値があると教える。イエスも真のリーダーシップは奉仕する姿勢だとし、自らも、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」と語られた。有名な宗教書籍である『バガヴァッド・ギーター』と『道徳経』でも、人のために生きる人生こそ、神様がこの世の中を創造し、経綸していく根本原理だと説明している。人のために奉仕する利他的な行為は、神様から出てくる行為である。文鮮明先生も、「ために生きる」人生がすなわち天国生活だとされ、この主題に関する多くのみ言を伝えてくださっていらっしゃる。

 

①人のために生きるのが人生の根本道理

― 宗教経典 ―

 

互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
ガラテヤの信徒への手紙 6.2(キリスト教)28

 

人を助けることはすべての人の当然の職分である。
タットヴァルタ・スートラ5.21(ジャイナ教)29

 

何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。
ペトロの手紙 4.8 ~10(キリスト教)30

 

すべての人は隣人に対して責任をもつ存在である。
タルムード、サンヘドリン 27b(ユダヤ教)31

 

最上の人間とは他の人に有用な人である。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)32

 

だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。
コリントの信徒への手紙一10.24(キリスト教)33

 

父母に懇切に尽くし、また近親や孤児・貧者や近隣や遠い縁者・道づれの仲間やたび人、ならびになんじらの右手が所有する者に親切を尽くせ。神は高慢な者、うぬぼれる者をめでたまわぬ。かれらはりんしょくな者たちで、人びとにもりんしょくを勧め、神がかれらに賜わった恵みを隠すものである。
クルアーン 4.36 ~ 37(イスラーム)34

 

いまゝでハせかいぢううハ一れつにめゑ/\しやんをしてわいれども
なさけないとのよにしやんしたとても
人をたすける心ないので
これからハ月日たのみや一れつわ
心しいかりいれかゑてくれ
この心どふゆう事であるならば
せかいたすける一ちよばかりを
このさきハせかいぢううハ一れつに
よろづたがいにたすけするなら
月日にもその心をばうけとりて
どんなたすけもするとをもゑよ
おふでさき12.89 ~ 94(天理教)35

 

あなた自身だけの利益を追求せず、人も考えよ。あなたが豊かだとして、 「人が私に関心をもたないのだから、私も彼らに気を使う必要はない!」と言うな。あなたが運良く狩りをしたら、人にも分けてあげなさい。また、たくさんのアシカを簡単に捕まえることができる良い場所を人に教えてあげなさい。
時々は人もそれらの分け前をもてるようにしてあげなさい。もしあなたがすべてのものをあなたのために積んでおけば、他の人たちがあなたを離れ、誰もあなたと一緒にいようとしないだろう。もしあなたがある日、病にかかれば、あなたが以前、人に関心をもたなかったために、誰もあなたを見舞わないだろう。
また他の人にも何かを与えなさい。ヤマナは利己的に行動する人を好まない。
ヤマナ・エスキモー族の入会式
(アメリカ先住民の宗教)36

 

― み言選集 ―

 

愛の本質は、ために生きてもらおうとするものではなく、全体のために生きようとするものなので、世の中とは違うのです。ですから、宗教の教えを見れば、人のために生き、絶対服従し、犠牲、奉仕をしなさいというのですが、世の中にはこのようなことがありません。
(46-42、1971.7.18)

 

利他主義、人のために、国家のために、世界のために、あらゆるものを投入し、犠牲、奉仕する人生が、この世の中では最も間抜けな愚か者の人生哲学のように見えるかもしれませんが、本当に深奥な真理を悟ってみれば、ただこの道こそが人間世界に最も有益な道であり、永遠に人間が幸福になれる秘訣であることを分かるようになります。
(198-163、1990.2.1)

 

原理原則に立脚して、人のために、相対のために投入する人は天国に行くのです。教育など、あらゆる指導理念において、漠然とではありますが、このような観点で善を立ててきたので、今日この地球が残っているのです。
(69-86、1973.10.20)

 

相対がなければ、ために生き得る相対がいなければ、真の愛の道は、永遠に探し出せません。
(398-284、2002.12.15)

 

広く、大きく天の国のレールに合うように地上でために生きなさいというのです。生まれたのはために生きるためなので、ために生き、また投入して忘れてしまい、愛して忘れてしまい、無限に愛さなければなりません。
(306-215、1998.9.23)

 

真の人は、どのような人ですか。真はすなわち善のものですが、善の人はどのような人ですか。自分を中心として全体が自分に屈服することを願う立場に立った人は、善の人だと言うことはできません。それでは、善の人はどのような人ですか。善の人は全体のために生きる人です。家でも一番善良で、かわいらしく、希望のある子供だというとき、……未来に善を所有できる希望のある子供だというときは、おじいさんも「そうだ」、おばあさんも「そうだ」、父母、兄弟、家族、一家親戚までも「そうだ」と言うことができる子供だというときは、その子供は間違いなくおじいさんを喜ばせる子供でしょう。おじいさんに毎日のように「私を喜ばせてくれ! 私を喜ばせてくれ!」、そのように言う子供ではないというのです。小さな子供ですが、年を取ったおじいさんに対して、昼も夜もおじいさんが喜ぶ道をいつも考え、そのためにいつでも行動し、いつでも侍ってさしあげようとする子供であることは間違いないという結論が出てきます。
おじいさんにだけでなく、おばあさん、お父さん、お母さん、兄、姉を問わず一家親戚全体のために生きようとする生活様式と、あるいは礼儀作法に従っていくその子供が真の希望の子供であることは間違いなく、孫であることは間違いないというのです。全体のために喜ぶことができる環境の与件をつくり、そのような内容を提示しようとする人が歴史時代を経てきて善を受け継げる真の位置に立っているということです。
(174-11~12、1988.2.23)

 

ために生きる愛を中心として投入して宇宙が創造されたので、宇宙が生じたのです。私がために生きれば、宇宙の存続起源と一致するので、神様と一つになるのです。そのことによって、神様が滅びなければ私も滅びず、神様が宇宙の主人になるのならば私も宇宙の主人にならざるを得ないという事実を知らなければなりません。ために生きる人は、中心者になるのです。
(270-166、1995.5.29)

 

アメリカの国民たちは、個人主義の思想を尊重することを知っています。主体と対象の関係を忘却した個人主義は、あり得ません。ですから、アメリカは袋小路に来たのです。このようなアメリカを救えるただ一つの道は、どこから出てくるのですか。今こそキリスト教の精髄の路程を掘り返し、神様の本然の生命の道を尋ね求めていかなければなりません。この道以外にはありません。そのような意味で、この時代において、ミスター・ムーンが、皆さんが歓迎せずにこのようにしたとしても、必要な人ではないかというのです。
神様は、天理原則を通してこのように主張されます。「あなた個人は家庭のために存在し、あなたの家庭は民族のために存在し、あなたの民族は国のために存在し、あなたの国は世界のために存在し、世界は神様のために存在しなければなりません」。神様に従えば、神様のものであると同時に、私のものになるのです。
(69-88 ~ 89、1973.10.20)

 

②何かの見返りを願わずに人に仕えよ

― 宗教経典 ―

 

イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
マタイによる福音書 20.25 ~ 28
(キリスト教)37

 

私心のない奉仕なくしては何事も成されない。最上の清浄行は私心のない奉仕にある。
アーディ・グラント、マールーM.1、p.992(シク教)38

 

人のためにしても代価を願わない者は主と一つになることを得る。ナナークが言うには、そのような僕だけが聖なる主の導きを受け、聖なる恩寵が彼に下る。
アーディ・グラント、ガウリー・スクマニー18
M5.p286(シク教)39

 

あなたがたが同胞のために務めるのは、とりもなおさず、あなたがたの神のために務めるのであるということを悟らせるためである。
モルモン経、モーサヤ書 2.17
(末日聖徒イエス・キリスト教会)40

 

賢者は蓄めこむことをしない。
他人のために出し尽くすと、得るものは多くなり、
他人のために分けてやると、得るものはさらに多くなる。
天の「道」は善いことをなすが害を加えない。
賢者の「道」は行いをするが名声を求めない。
道徳経 81(道教)41

 

何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
フィリピの信徒への手紙 2.3 ~ 4(キリスト教)42

 

善の所有は、仲間が現れたりいつまでも留まることによって減少することはない。むしろその所有は一つの善であり、それは仲間同士の分かち難い愛が心を一つにすればするほど、豊かに所有することになるのである。つまり、この善の所有は、共有を望まない者には無理であろう。そして仲間をより豊かに愛する人は、より豊かな善の所有を手に入れるであろう。
アウグスティヌス 神の国15.5(キリスト教)43

 

― み言選集 ―

 

福の中の最高の福は何かというと、犠牲的な愛、奉仕的な愛、人の「ために生きる」愛を施すことです。
(43-309、1971.5.2)

 

誰もが、老若男女を問わず、愛をみな望むでしょう? 何の愛ですか。ために生きる愛です!「ために生きなさい」と言う愛ではありません。「ために生きる」愛を望むのです。
(211-207、1990.12.30)

 

自分を中心として愛されようと考えるなというのです。愛そうという立場に立っているのが神様の心です。愛する心は、いつも犠牲になろうとするのです。譲歩しようとするのです。与えても、また与えようとするのです。例えば、私にお金が 100 億あって、道端に出ていってすべて分けてあげたとします。それでも心が安らかでないというのです。世界の人類をみな助けてあげられなかったので、お金がもっとあれば、もっと分けてあげたいのです。
(133-180、1984.7.10)

 

神様の愛は、どのような愛ですか。与えて満足するものではなく、与えてももっと与えたいと思って恥ずかしさを感じる心をもつ愛です。与えてから恥ずかしい心を感じる人ほど、本当の愛の主人です。父母は子女に服を着せても、もっと良い服を着せることができずに済まないと思うのです。与えながらも、満足を感じるのではなく不足さを感じるので、愛を通してそれを補充してあげるのです。したがって、与えても満足しないのですが、完全なものとして報いてくるのが愛です。愛すれば愛するほど、もっと大きなもので補われるので、滅びるのではなく、栄えるのです。ですから、愛なくしては栄える道理がありません。愛なくしては、永生はないというのです。
(38-327 ~ 328、1971.1.8)

 

愛の本質は何ですか。人のために生きようとすることです。自分の自主的な本質を中心として、人に与えようとすることが愛の本質です。その愛はどこから来たのですか。天から来たのです。神様は絶対的愛の主体なので、与えようとするのが愛の本質です。父母が涙を流し、「私の愛が不足だからだ。すべてのことは私がお前をもっと愛することができなかったせいだ」と思いながら、その子女の骨髄が溶け出るほど涙を流し、より大きな愛をもって子女の前に出ていくときに、その子女はどのようになりますか。振り返るのです。もっと大きな愛は弱い愛をすべて消化、統合させ得る力をもつのです。
(48-182 ~183、1971.9.12)

 

神様は、なぜために存在する原則を立てざるを得なかったのでしょうか。まず皆さんに尋ねますが、もし皆さんのために誰かが心から生命を尽くし犠牲になりながら 100 パーセント恩賜を施した人がいるとすれば、皆さんの本心がその恩に報いるのに 50 パーセントはポケットに入れて、50 パーセントだけ報いたいですか。それとも、ありったけの恩返しをしたいですか。私たちの本心がどのように作用しますか。誰でも、より多く報いたいのが本心です。
ここで通訳しているミスター朴に対して、私がもし 100 パーセントそのようなものを与えたら、与えるにおいても、心から愛する中でくれたことを知れば、100 パーセント以上を返そうとするのです。100 パーセントが 110 パーセントになって返ってくるし、その100 パーセントが返ってきたのは、また向こうが心からくれたので 120 パーセントを返すようになり……。このようにすることによって、ここで永遠という概念が設定されるというのです。永遠が始まるのです。ですから、このような原則を立てざるを得ないし、それだけでなく、ここから発展と繁栄が生じるのです。
2番目は何ですか。皆さんの家庭においても、5人の家族がいて、誰かがその5人の家族のために生きれば、あとでそのために生きていた人がその家庭の中心になるのです。ちょうど神様のように……。そのような中心が決定されると同時に、主体と対象、中心と相対関係において自ら志願する主管圏が生じるようになるのです。絶対的に「ために生きる」その主体に主管されるのがどれほど幸福かということを、今日の人間たちは知らずに生きています。霊界に行けば、神様の直接主管を受けることがどれほど大きな栄光か分かりません。このように、ここで初めて主従関係が成立するのです。
3番目は何ですか。理想と愛は人間において生命よりもっと貴いものであるにもかかわらず、今日の人間たちは、このようなものが自分のものとして、自分に現れると思っていること、これが大きな誤解だというのです。愛と理想はどこから来るのですか。対象から来るのです。対象から来るので、「ために生きる」法度を立てざるを得ません。知恵の王であられる神様は、このようなすべての結果を御存じなので、そのような法度を立てざるを得ないことを、今、皆さんは分かっただろうと信じます。
(73-326 ~ 327、1974.10.8)

 

③宇宙創造ですべてのものを投入された神様

― 宗教経典 ―

 

わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
ヨハネの手紙一 4.19(キリスト教)44

 

天と地はいつまでも存在している。
それらは存在を存在として考えないからいつまでも続いている。
賢者は背後に身をおきながら、前へすすむ。
彼は自己を忘れて、自分自身を発見する。
人が自己の状態に達するのは無自己によってではないか
道徳経 7(道教)45

 

造物主はかつて祭祀とともに生類を創造して告げた。―
これ(祭祀)によって繁殖せよ。これが汝らの願望をかなえんことを。……
行為はブラフマンから生ずると知れ。ブラフマンは不滅の存在から生ずる。それ故、遍在するブラフマンは、常に祭祀において確立する。
このように回転する〔祭祀の〕車輪を、この世で回転させ続けぬ人、感官に楽しむ罪ある人は、アルジュナよ、空しく生きる人だ。
他方、自己において喜び、自己において充足し、自己において満ち足りた人、彼にはもはやなすべきことがない。
彼にとって、この世における成功と不成功は何の関係もない。また、万物に対し、彼が何らかの期待を抱くこともない。
それ故、執着することなく、常に、なすべき行為を遂行せよ。実に、執着なしに行為を行えば、人は最高の存在に達する。
実際、ジャナカ(聖王の名)などは、行為のみによって成就に達した。また、単に世界の維持のみを考慮しても、あなたは行為をなすべきである。
最上の者が何かを行えば、他の人々も同様にする。彼が手本を示せば、人々はそれに従う。
アルジュナよ、私にとって、三界においてなすべきことは何もない。得るべきもので未だ得ていないものも何もない。しかも私は行為に従事しているのだ。
何故なら、もし私が孜々として行為に従事しなければ、人々はすべて私の道に従うから。
もし私が行為をしなければ、全世界は滅亡するであろう。私は混乱を引き起こし、これらの生類を滅ぼすであろう。
愚者が行為に執着して行為するように、賢者は執着することなく、世界の維持のみを求めて行為すべきである。
賢者は行為に執着する愚者たちに、知性の混乱を生じさせてはならぬ。賢者は専心して行為しつつ、愚者たちをして一切の行為にいそしませるべきである。
バガヴァッド・ギーター 3.10 ~ 26
(ヒンドゥー教)46

 

生主の三裔― 神族・人族・魔族―は父・生主の所に於て梵行に住せり、(注7)神族は梵行生活に住して言へり、「主よ、我々に教へよ。」ここに於て主は彼等に「ダ」の一字を教へ、而して「汝等はこれを解せりや。」と問へり、彼等は「我々はこれを解せり、主は我々にダームヤタ〔制御せよ〕と教へたり。」と言へり、主曰「然り、汝等はこれを解し得たり。」
次にまた人族は彼に言へり、「主よ、我々に教へよ。」ここに於て主は彼等に「ダ」の一字を教へ、而して「汝等はこれを解せりや。」と問へり、彼等は「我々はこれを解せり、主は我々にダッタ〔施捨せよ〕と教へたり。」と言へり、主曰「然り、汝等はこれを解し得たり。」
次にまた魔族は彼に言へり、 「主よ、我々に教へよ。」ここに於て主は彼等に「ダ」の一字を教へ、而して「汝等はこれを解せりや。」と問へり、彼等は「我々はこれを解せり、主は我々にダヤドワム〔愛愍せよ〕と教へたり。」と言へり。主曰「然り、汝等はこれを解し得たり。」
故にこの同一の音をかの天の聲―雷―は續發して恒に「ダ・ダ・ダ」と響けり、即、 「制せよ」 「與へよ」 「愛せよ」となり、故に制御と、施捨と、愛愍と、この三徳を恒に学習すべし。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド 5.2.2
(ヒンドゥー教)47

 

― み言選集 ―

 

神様はいったいどのような方でしょうか。宇宙の公法を備えた存在です。宇宙の公法とはいったい何ですか。自分のために生きるのではなく、全体のために生きるのです。その属性は何ですか。犠牲と奉仕の精神を備えているのです。
(105-99、1979.9.30)

 

愛は自分を 100 パーセント投入するのです。神様が天地を創造するとき、愛のゆえにすべて、100 パーセント投入されました。ですから、愛はために生きるところ、真の愛はために生きるところから始まるのです。
(189-203、1989.4.6)

 

神様が愛の相対として人間を造られたのは、御自身が人間のために生きる立場で創造されたのです。ですから、人間も神様を手本としてために生きるように存在していたのですが、堕落によって自分のために生きる人になったのです。愛は相対から来るので、「ために生きなさい」という哲理が生まれました。
(149-273、1986.11.27)

 

神様が 100 パーセントだけ愛すれば、相対は 100 パーセントしか出てきません。一対一です。これが無限倍数になるので、100 パーセント投入して忘れてしまい、投入して忘れてしまい、忘れてしまい、忘れてこそ、これがどんどん高まります。投資しなければならないのです。ですから、愛をもって投入して忘れてしまうことが宇宙創造の原則、存在する世界の根源です。それで、自分の生命までも投入して忘れてしまい、また投入しようとするところで真の愛が始まります。真の愛のためには、自分の生命を投入し、また投入し、また投入しようとするのですが、このような愛の心が結束した世界が真の愛の世界です。
(253-66、1994.1.7)

 

神様の創造の原則とは何でしょうか。創造は何かというならば、神様自体を投入したのです。神様のすべてのものを投入するところでのみ、完全投入するところでのみ完全結果が保障されるのです。これが創造の原則であることを私たちは知らなければなりません。ですから、私自身を真に投入しなければなりません。真で与えなければならないというのです。真で与える所でのみ未来の自分の相手が起こるのであり、自分の踏み台が形成されるのであり、私を立証できる環境的与件が成立されるのです。受けるところでは不可能なのです。それは創造原則にありません。
(82-323、1976.2.1)

 

創造の役事をするということは、力の投入を意味します。創造という力を消耗させるのです。神様は、そのように投入されたのですが、どれほど投入されたのでしょうか。人々は、聖書を見て、神様がみ言で「こうなれ!」と言われて簡単に創造したと思っていますが、そうではありません。ここには、真の生命を完全に投入し、真の愛を完全に投入し、真の理想を完全に投入されたというのです。
創造する前と創造したあとが違います。創造する前には自分のことを考えましたが、創造を始めてからは対象のために生きました。私がいるのは自分のためではなく、相対のためだ、息子、娘のためだ、このようになっています。
ですから、真の神様は相対をつくるにおいて、完全投入することによって、より価値のある理想的な完全形を展開したのです。神様もアダムとエバを造れば、アダムとエバのために生きようというのです。神様のためではありません。自分のために生きていたときから相対のために生きるときに展開するのです。理想的存在というものは、自分を中心としません。理想的存在は、人のために生きるところに、対象のために生きるところにいるのです。この原則が宇宙の根本だということを、はっきりと知らなければなりません。
(69-82 ~ 83、1973.10.20)

 

3. 犠牲的愛

真の愛は、犠牲の愛である。人のために生きようとすれば、自らの犠牲が必要である。世界の難問題の解決に同参するよう刺激することも愛である。人の弱点や失敗に寛容を施すことができる力を与えるのも、いかなる費用を支払っても人を助けようと導くのも愛である。イエスは、罪を犯した人類を救援するために、自分の命まで捨てた愛の実践者だった。モーセとムハンマド、すべて当代の迫害を受けて逃亡者の立場になったが、民族を解放し、啓蒙するために命を捧げて働いた。このすべてが神様と人類のための愛ゆえである。
仏教に菩薩という存在が出てくる。菩薩は、万有の存在を救援するために自分を犠牲にすることを誓った。彼は、自分の幸福を人の幸福と関連したものと見たのであり、人を先に解放する前には自分の幸福を享受しないと誓った。
文鮮明先生は、犠牲的愛の根源を神様から見いだしている。神様は、子女に与える美しい家を建てるために創造を始めて以来、休まずに投入してこられた方でいらっしゃるからである。愛する父母が放蕩息子を悲しみと罪悪の窮地から救援するように、神様は人間の堕落以降、休まずに悲しみの中で投入してこられた。聖なる愛は、私たちの人生の中で毎日毎日、父母を通して具現されている。父母は、子女の未来のために喜んで犠牲を甘受する存在だからである。

 

①愛する人のために命さえも捧げる

― 宗教経典 ―

 

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
ヨハネによる福音書15.13(キリスト教)48

 

人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
マタイによる福音書 20.28(キリスト教)49

 

あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。
エフェソの信徒への手紙 5.1~ 2(キリスト教)50

 

イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
ヨハネの手紙一 3.16 ~18(キリスト教)51

 

真実に私たちは、あなたたちのために生き、あなたたちの救いのために世の不幸に耐えてきた。あなたたちは、あなたたちを蘇生させるために自らの人生を犠牲にされた方を避けたのか。……あなたたちは、その方が敵の刃で危険にさらされるときは、いつもその方自身の利益を追求すると考えるのか。またはその方が最も荒涼とした都市に監禁されたのち、世のむなしいものを追求すると考えるのか。……
真にその方は、あなたたちが栄光を得るよう、自ら屈辱を受けようとされた。しかし、あなたたちは無関心の谷間で楽しみ、戯れている。事実上、その方は、あなたたちがあなたたちの宮殿で暮らす間、あなたたちのために最も荒涼とした所で過ごされた。
バハーウッラー 聖なる書物(バハイ教)52

 

ひとえに愛が人々をして、彼らの愛する人のために死をも敢行させます。男性だけでなく、女性もそうです。ペリアスの娘、アルケスティスも、すべてのギリシャ人たちにその証拠になります。彼女は、彼女の夫のために死のうと決心しました。彼女以外には誰もそのようにしようとしませんでした。(注 8)
プラトン 饗宴(ヘレニズム)53

 

― み言選集 ―

 

私が命を捧げて悪を屈服させれば、命を取り戻せる神様の愛が私に訪れてきます。
(40-243、1971.2.6)

 

隣人のために自分の命をちりのように捨てることのできる犠牲精神がすなわち、真の愛です。
(224-254、1991.12.7)

 

愛というものは、犠牲の本質を離れては存在し得ません。愛する人のために犠牲になったからといって、その犠牲を犠牲とは思わないのです。犠牲になれば犠牲になるほど生き甲斐を感じるのです。
(63-25、1972.10.1)

 

真の父母の愛はどうですか。子女を愛するとき、「ああ、これは利子をつけてこれをすべて返してもらおう」という心をもつ父母は真の父母ではありません。昼夜犠牲になりながらも、ために生きて愛し、また愛し、また愛そうとし、市場に出掛けたとき、そこでも忘れずにもっと与えようとし、24 時間、距離を超越してその子女のために生きる愛こそ、本質的な愛と近い位置にあるのです。このような愛の起源があるので、人間を救援できる基礎を見いだせるのです。
(142-35、1986.3.3)

 

愛する境地では、すべてのものが通じるのです。法を越えていけます。法を越えていくことができるというのは、死亡線を自由に出入りできるということです。愛する心をもって進み出るときは、ここで愛する心は自分を愛するのではありません。相手を愛するのです。愛する立場では、女性が男性の胸深く入り込んだとしても、男性は反対しないのです。反対しますか。歓迎するのです。男性も同じです。千万世の壁がふさがっていても、誰も侵犯できない壁があっても、その壁を無難に越えていけるのは愛です。愛するためにすべてのものを犠牲にして、全体を投入して駆け込んでくるところには、いかなる力もすべて崩れていくのです。
(49-52、1971.10.3)

 

自己に一番近い人を犠牲にしなければなりません。今まで、この世を復帰するために苦労してこられた神様の主義はどのような主義でしたか。悪の世界を救い、かわいそうな人を救い、貧しい人類を救うために、神様に一番近い人を犠牲にさせて救援してこられました。
僕の僕から息子まで祭物にしました。怨讐の一族のために、愛する息子、娘まで犠牲にしてこられた方が神様です。今までこの世界のために、一番の怨讐の種を解放させるために、最も愛する御自身の側を犠牲にさせて摂理してこられた神様でいらっしゃり、自分の側のためではなく、この世界と怨讐の側のために摂理してこられた神様でいらっしゃるので、全人類は、神様を冷遇することはできないのです。今まで冷遇する現象が起きていましたが、これは過ぎていきます。
(33-298、1970.8.21)

 

個人が全体のために犠牲になれば、彼は全体の前に善の人です。ある家庭が全体の家庭のために犠牲の生活をすれば、全体の家庭の前に善の家庭として登場するのです。ある民族が自分の民族より全体の民族のために犠牲になり、その民族のために総力を傾ければ、その民族は善の民族として登場するようになります。また、ある国が全世界の国家のために犠牲になっていけば、その国家は善の国家として登場するようになります。
これが神様のみ旨であれば、イエス様を送ったのは、そのようなみ旨を成し遂げるために送ったのです。全世界に広がっているキリスト教徒たちが、人類と国家を救うために自分の国家を犠牲にさせ、自分がもっているすべてのものを犠牲にしてきたのならば、キリスト教は善の神様のみ旨を成就させ得る教会になっていたでしょう。
(69-86 ~ 87、1973.10.20)

 

真の愛は誰もが願うのですが、誰もが私のために生きなさいという感情があれば、みな逃げていくのです。全体のために生きなければなりません。個人主義はサタンの戦略であり、サタンの目的です。世俗的な世界ではそれを知りませんでした。それはサタンがつけた実であり、地獄に行くのです。愛することは、ために生きてあげることです。奉仕して犠牲にならなければなりません。そのように奉仕すれば、このすべてがやって来て私を愛してくれるのです。
「私のために生きよ」という人は、天国に行けません。神様が傑作品を抱いて愛したように、ために生きる愛を求めていく人だけが天国に行くのです。3度以上命を捧げても、ため生きようとしなければなりません。神様に出会おうとすれば、そのように3度死んでも復活し、神様に「私を認めてください」ではありません。「神様のために生きます」と言わなければなりません。「私を認めてください」と言ってはいけないのです。そのような人たちが暮らすこの世の中になれば、地上が天国です。天国は、そのような人が暮らす所です。
(300-223、1999.3.14)

 

②窮乏した人を助けるために苦難と悲しみを求める

― 宗教経典 ―

 

信じる者たちであれば、生きていく間、苦痛と苦難に自ら直面することが、それを避けていくことより、はるかに価値あることである。
イブン・マージャ・ハディース(イスラーム)54

 

陰に留まっている人は、太陽の暖かさを知らない。(注 9)
イガラ族の格言(アフリカ伝統宗教)55

 

私たちは、当然、共同体が経験する困難を分かち合わなければならない。私たちの師であられるモーセが、共同体の困難を共に分かち合ったことを私たちは知っているからである。
タルムード、タアニート11a(ユダヤ教)56

 

イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」
マタイによる福音書 9.10 ~12(キリスト教)57

 

肉体的に勇敢なことばかりが重要なことではない。人は現在の人生に直面し、悲しみを乗り越えていき、いつも人のために自らを犠牲にする勇気をもたなければならない。
キプシカ族の諺(アフリカ伝統宗教)58

 

わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。
ローマの信徒への手紙15.1~ 3(キリスト教)59

 

孟子がいわれた。「中庸の徳のある者が徳のない人を教え導き、才能のある者が才能のない人を教え導くのが、道である。それ故、人は自分に才徳のすぐれた賢父兄があることをこい願うのである。もしかりに、徳のある者が徳のない人を見捨て、才能のある者が才能のない人を見捨てて教え導かなければ、いわゆる 賢者と不肖者との隔たりはごくわずかで、ものの一寸ともないであろう。」
孟子 IV.B.7(儒教)60

 

菩薩は彼の衆生の是の業を造るを見已つて、心動乱せず亦揀擇せず驚畏有ること無く、堅勇心を発して退転を生ぜず、決定して彼に代りて諸の苦悩を受く。所以何とならば、我當に彼の諸の衆生を荷負すべし。乃至、世間の生老病死苦悩の難・八無暇の難・諸輪廻の難・諸悪見の難・善法を壊するの難・無智を生ずるの難、我當に畢竟じて是の難を脱せしめん。是の諸の衆生は無明に蔽われ、愛網に惹かれ有給に縛せられ諸苦にろうちゅうせられて覚了を生ぜず出離を求むること無く、常に疑惑を懐きて願と相違し、輪廻の海に於て一向に漂没す、我當に一切智王に安住して諸の衆生をして義利を成就し皆解脱することを得せしむべし。唯我のみ一人能く為に救護す。仮使一切の世界悉く悪趣と為り、受苦の衆生其の中に充満せんに、我が集むる所の一切の善根を以て平等に回向して与へざる無からん。乃至、最後の辺際を経る所の時分に、十一の悪趣消滅をして余無く、十一の衆生皆解脱を得ん。若し一人の未だ苦を離れざる者あらしめんか、我當に身を以て質とし而も之を出さん。……我當に一切智心を発せしめ五欲の境を離れ菩薩の行を行じ畢竟無上正等菩提に安住せしめん。
何とならば、是の諸の衆生は欲に著するに由るが故に魔境に接属す、諸仏世尊の訶毀する所なり。當に知るべし、貪欲は衆苦の本なり、是の縁を以ての故に、……諸の煩悩を起し、後に地獄餓鬼畜生に堕つ、乃至生天の業を断じ、諸仏を遠離す、何に由りてか能く無上智王を発さん。是の諸の衆生欲の為に没せられ、熾然として焼煮せられ無量の過患あり、我善根を以て平等に回向し、諸の衆生をして皆悉ことごとく捨離し、楽うて仏智を求め涅槃の楽を得せしめん。我當に彼の為に大導師と作り方便智を以て彼岸に達せしむべし。(注10)
金剛幢経 280 ~ 281、大乗集菩薩学論(仏教)61

 

「自分はこの善根をもって回向して一切衆生のための舎となろう、諸苦を免かれしめんがために。
一切衆生のために護りとなろう、煩悩を解放せしめんがために。一切衆生のために帰する所となろう、恐怖を離れしめんがために。」……
「自分はまさに一切衆生のために無量の苦を受け、もろもろの衆生をして悉く生死の苦熱を免れ出づることを得しめよう。自分はまさに一切衆生のために一切の国土、一切の地獄の中において、あらゆる苦を受けて終に捨離しないであろう。自分はまさに一切の悪世界において未来の限りもろもろの衆生に代って苦を受けるであろう。なぜなら、たとひ自分一人がもろもろの苦を受けるとしても、衆生をして諸苦を受けしめたくはないから。自分はあらゆる悪世界に衆生の身代はりとなって、彼等を解脱せしめたいから」(注11)
「自分はまさに一切衆生のために誠実を語る者となり、悩害の心を離れて彼等を捨てないであろう。なぜなら、自分は衆生に因って、菩提心をおこし、一切を済度せんとし、尊貴を求めず、五欲を求めず、世のくさぐさの楽を求めず、ひとえに菩薩の道を行ぜんとする者だから。何故に五欲を求めないかと云ふに、五欲は世間の法であり、諸魔の境界であって、愚人の行ずるところ、諸仏の苛責したまふ所だからである。」
大方広仏華厳経 23(仏教)62

 

苦痛の状況から私自身と彼らを抜け出させるために、彼らの悲しみと彼らに負わされた苦痛と侮辱を共に分かち合います。
モハンダス・カラムチャンド・ガンディー
(ヒンドゥー教)63

 

― み言選集 ―

 

愛は必ず犠牲を要求します。また、愛は克服を必要とするのです。
(46-35、1971.7.18)

 

天国は地獄を通過していく道。
御旨の道、天国

 

学生時代には、学校から帰ってくると、学生服を脱ぎ捨て、工事現場に行って働きました。私は、お金がなくてそのようにしたのではありません。やってみなかったことがありません。石炭を運ぶ仕事もやってみて、船にも乗ってみて、作男暮らしもしてみました。あらゆる仕事をやってみたのです。結局、人間の苦楽がどのようなものなのかをすべて調べてみたということです。それで、私がしなければならないことは、その苦楽を経て生きている人間たちを解放させる責任者になり、彼らを完全に解放させてあげることだと考えたのです。
(37-35 ~ 36、1970.12.22)

 

このような悲惨な世界で幸福な世界を求めようとする人は、より悲惨な道を貫いて越えていかなければなりません。より悲惨な所で求めなければ、見いだせません。その道しかないのです。もしそれでもなければ、神様も存在せず、すべて存在しないと言わなければなりません。
レバレンド・ムーンも、生涯そのような道を行くことを決めたので、非難され迫害を受ける道を行くのです。そのようなことをするところにいれば、どれほど悲惨でしょうか。それでも、その場に立ち、天を中心として、「私に従いなさい! 私は失望せず、私は幸福だ」と言える人であれば、そこで幸福を見いだし得る私を発見できるのです。あらゆる歴史的英雄、烈士、愛国の忠臣、烈女、聖人たちは、そのような場で歴史的な人物になったということを皆さんは知らなければなりません。アメリカの愛国者は、アメリカのために悲惨にしがみついて闘う人です。命を懸けて悲惨に生きた人です。世界的な聖人も同じです。神様の息子も同じなのです。
(91-287、1977.2.27)

 

宇宙の公法は、どのような人を保護するのでしょうか。全体のために自分とする人は保護します。しかし、自分の利益を追求し、犠牲を嫌う人は、この宇宙の公法が除去するでしょう。
(105-91~ 92、1979.9.30)

 

宗教を信じたとしても、「私一人が天国に行こう」という者たちは、詐欺師たちです。統一教会は、家庭でも妻は、「夫を先に天国に送り、私がついていこう」と思わなければなりません。……まず家庭を天国に送り、それから自分が天国に行こうとするのが統一教会員です。……大韓民国を天国に送り、それから自分が天国に行こうとします。世界の万人を天国に送り、それから天国に行こうとします。神様まで解放させ、それから天国に行こうとすれば、彼はイエス様のような人です。メシヤの責任がそれです。
メシヤが来て、「ああ、私は早く天国に入っていこう」とは思いません。個人を天国に送り、家庭を天国に送り、氏族を天国に送り、民族を天国に送り、大韓民国を天国に送り、この世界を天国に送り、地獄にいるすべての人まで解放させて天国にみな送り、神様のすべての悲しみに私が責任をもつというとき、そのような責任を背負ってこられた方が正にメシヤです。
神様が地獄を見るのは心が安らかではないので、神様が地獄を見ることまで解放させ、天上天国、地上天国をつくっておき、神様が見て救援の道理が必要のない立場に立って終わったとき、初めて天国に入っていくのです。メシヤはそのような人です。それは深刻な話です。深刻な話の中で最も貴い話です。
(188-283 ~ 284、1989.3.1)

 

4. 普遍的愛

真の愛は、普遍的な愛である。終わりがない愛である。神様の愛にはまり込んでみた人は、全員が一つの兄弟姉妹であることを経験できる。絶対的真の愛と堕落した世の中の相対的愛には、大きな違いがある。真の愛は、公明正大な普遍的愛である反面、堕落した世の中の愛は、一家親戚と友人、同僚だけを愛する偏狭な愛である。マーティン・ルーサー・キング牧師はこのように語った。「一人の個人が個人的関心事を越えて人類に向かうより大きな関心をもち始める時こそ、真の人間としての人生が始まる」。(注 12)
人類に対する愛、それで十分だろうか。この愛が苦痛を受ける人たちに対する政治活動、あるいは慈善活動で表現される一般的同情心と同じだろうか。それだけでは十分ではない。愛の本当の段階は実質的な関係の形成である。あの遠い国に暮らす人たちを、どうすれば家族を愛するのと同じ強さで愛することができるだろうか。
ここに集めておいた教えは、見知らぬ人に対するとき、家族を愛するのと同じように対しなさいと教えている。文鮮明先生も、この主題に対してはっきりと語られている。人種を超越した普遍的愛を実践する一つの方法として、文先生は、子女をほかの人種の子女と交差結婚させることを提案される。ほかの文化から来た相手の家族を理解しようとする、決して簡単ではない努力を通して、私たちの愛は、人種的障壁を超える真実な愛によって生まれ変わるだろう。

 

①すべての人を愛する心情

― 宗教経典 ―

 

かれは、第一方位を友愛の心で満たし、第二方位を友愛の心で満たし、第三方位を友愛の心で満たし、第四方位を友愛の心で満たす。このように、上を、下を、横を、全ての方位を、全てのところを、一切の世界を、広大な、大いなる、はかりしれない、怨みもなく、悪意のない友愛の心で満たして生活する。ヴァーセッタよ、あたかも、〔吹く〕力の強い法螺貝吹きが、容易に、〔音を〕四方に知らせることができるように、ヴァーセッタよ、友愛の心を修養すると、心が解脱し、基準となる行為の結果は、そこに残っていない、そこに存在していない。ヴァーセッタよ、これが梵天との共生にいたる道である。
阿含経長部 xiii.76 ~ 77、三明経(仏教)64

 

いつかある人が使徒に、イスラームで最も良い行為は何かと尋ねた。使徒が答えるには、「貧しい者に糧を与え、知っている人であれ知らない人であれ、彼らに平和の挨拶をかけることである」と言った。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)65

 

先生がいわれた、「ただ仁の人だけが、〔私心がないから、本当に〕人を愛することもでき、人を憎むこともできる。
論語 4.3(儒教)66

 

賢人には定まった心はない。だが、人々の心をその心とする。彼は善であるものを善とするが、善でないものも善と考える。このようにして、区別のないものに達する。彼は真なるものを真とするが、真でないものも真と考える。このようにして、区別のないものに達する。
道徳経 49(道教)67

 

― み言選集 ―

 

昔の聖賢たちが教えてくれたことは、心を中心として天を恭敬する敬天思想とともに、万民を愛しなさいというものです。天を愛し、地を愛し、人間を愛しなさいと教えたのです。
(19-285、1968.3.10)

 

宇宙の本源的な神様の愛、世界主義的な愛、神様のそのような愛が、堕落以降今日まで生きてきた人間個々人に入っていって折衷されたならば、永遠の一日を中心として、上がっていっても愛であり、落ちても愛であり、倒れても愛だと言うことのできる境地があるのです。それでは、その境地では人格の貴さがどこにあるのでしょうか。その人は話が上手だからいいとか、その人の目がハトの目のようでいい、というようなことを超越します。どこを見ても間違ったところがないというのです。彼と関係しているすべてのものは、香水の香りがします。神様が創造されたものは、神様の形状から見るとき、すべて神様の分身であり、神様と因縁を結んでいないものがないという心情をもってみれば、すべてが友人です。
(33-89 ~ 90、1970.8.9)

 

敵であろうと、友であろうと、愛する心は同じです。宇宙的です。すべてが一つの細胞と同じです。400 兆に達する細胞が一つになってこそ人になるのと同じです。この全体の細胞と通じ得る愛の化身体になってこそ、神様と一つになることができるのです。
(225-132、1992.1.5)

 

愛は国境を超越します。神様の愛には国境がありません。五色人種を超越するのです。黒人種、黄色人種、何の差別もありません。愛は偉大だというのです。愛の流れにおいて、環境を意に介さずに流れていけば、環境が同化するのであって、環境が反発するのを嫌います。そのようにできる思想的な内容を備えてこそ、神様が喜ばれるのです。そのためには愛の配給しかありません。
(164-93、1987.4.26)

 

神様はどのような方であるかということを見る時に、自己よりも相対をもっと愛する方です。自己よりも相対側をもっと愛し、二人が一つになり、もっと大きい範囲の相対側を愛するための運動が、神様の運動です。神様の思想はこれが本質になっているために、神様は神様の前に一番近い人を悪の世界に送って、世界人類のために犠牲にするのです。これが、神様の思想です。
ですから、歴史的な義人たち、過去に来ては逝った聖人、賢哲たちは、すべてこの世に来て「人類を愛そう」というタイトルを掲げて主張しているのです。そのような人たちは、自分の家庭を中心として愛しませんでした。国家や世界を愛しました。国家を越えて世界を愛したのです。そうしながら歓迎されたのではなく、すべて排斥され犠牲になりました。
(100-81、1978.10.8)

 

②自分の家族を愛する心情で人を愛する

― 宗教経典 ―

 

あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の( 慈しみの)こころを起すべし。
スッタニパータ149(仏教)68

 

一切衆生に対する慈悲心がなければ、父母に対する孝も輪廻を呼ぶ。(注14)
ミラレパ(仏教)69

 

自分の父母を尊敬するのと同じ心で他人の父母も尊敬し、自分の子弟を可愛がるのと同じ心で他人の子弟も可愛がる。
孟子 I.A.7(儒教)70

 

私はちょうど父母に孝を見せるように、一切の存在の便宜をはかり仕える。師と長老たちと阿羅漢たちと如来たちにいたるまで、同様にふさわしく恭敬する。
普賢行願(仏教)71

 

善男子、菩薩摩訶が薩は、慈悲喜を修し已りて、極愛一子の地に住することを得。善男子、云何が是の地を名けて極愛と曰ひ、復一子と名くる。善男子、譬へば父母の、子の安穏を見て、心大いに歓喜するが如く、菩薩摩訶薩の、是の地中に住するも、亦復是の如し。諸の衆生を視ること、一子に同じ。善を修する者を見て、大歓喜を生ず。是の故に、此の地を名けて極愛と曰ふ。
善男子、譬へば父母の、子の 患に遭ふを見て、心に苦悩を生じ、之を愍みて愁毒し、初て捨離すること無きが如し。菩薩摩訶薩の、是の地中に住するも、亦復是の如し。諸の衆生の、煩悩の病に纏切せらるるを見て、心に愁悩を生じ、憂念すること子の如く、身の諸の毛孔より血皆流出す。是の故に、此の地を名けて一子と為す。
善男子、人の小さき時、土塊・糞穢・瓦石・枯骨・木枝を拾ひ取りて、口中に置くに、父母見已りて、其の患を為さんことを恐れて、左手に頭を捉へ、右手に挑り出すが如し。菩薩摩訶薩の、是の地中に住するも、亦復是の如し。諸の衆生の、法身未だ増せず、或は身口意の業の、不善を行ずるを見、菩薩見已りて、即ち智手を以て之を抜きて出でしめ、彼をして生死に流転して諸の苦悩を受けしむることを欲せず。是の故に、此の地を復一子と名く。
善男子、譬へば、父母所愛の子の、捨てて終亡すれば、父母愁悩して、命を興併にせんと願ふが如く、菩薩も亦然なり。一闡提の地獄に堕するを見て、亦興倶に地獄の中に生ぜんと願ふ。何を以ての故に。是の一闡提にして、若し受苦の時、或は一念の改悔の心を生ぜば、我即ち當に為に種々の法を説き、彼をして一念の善根を生ずることを得しむべし。是の故に、此の地を復一子と名く。
善男子、譬へば父母に唯一子有り。其子の睡寤に、行王座臥がに、心に常に之を念じ、若し罪咎有れば、善言誘喩して、共に悪を加へざるが如し。菩薩摩訶薩も、亦復是の如し。諸の衆生の、若し地獄・畜生・餓鬼或は人天中に堕し、善悪を造作するを見て、心に常に之を念じて、初て放捨せず。若し諸悪を行ずるも、終に怒りを生じて、悪を以て之に加へず。是の故に、此の地を復一子と名く。(注 15)
大般涅槃経 470 ~ 471
(仏教)72

 

他人の国を自分の国のように思い、
他人の家族を自分の家族のように思い、
他人の人を自分の人のように思え。
墨子(注13)73

 

― み言選集 ―

 

かわいいといって自分の子女にだけお乳を与えるのではなく、人の子女でも自分の子女と同じ心情で接する母親になってみてください。そのような母親のお乳を飲んで育つ赤ん坊は、必ず偉大な人になるのです。
(31-168、1970.5.24)

 

皆さんが宇宙的な天国の理念を身代わりできる存在となり、神様の愛と生命と真理の運動を展開するならば、平和の世界がこの地に建設されるでしょう。したがって、自分の父母だけが父母ではなく、自分の兄弟だけが兄弟ではなく、自分の息子、娘だけが息子、娘ではないというのです。皆さんが、すべての人を自らの父母、兄弟、子女と思うことができる人格を備えた人になれば、死亡世界で苦しんでいる多くの民を見つめるとき、涙なくしては対することができないはずであり、兄弟や幼い人々を見つめるようになるときにも、「彼らを救おう」という責任感をもって、涙を流しながら努力するようになるはずです。本当にそのような皆さんとなるならば、そのような皆さんを中心として、この地に天国が建設されるはずです。
(2-144、1957.3.17)

 

イエス様は、「あなたの家の家族が怨讐」と言いました。家の家族たちをもっと愛すれば、それが怨讐だというのです。天国に行くことができないということです。
(161-249、1987.2.22)

 

真の孝子を抱え得る父母は、自分に孝行する子女を称賛するよりも、「私に孝行するように、兄弟を私以上に愛し、隣人と国のために、私以上に愛しなさい」と教えてくれる父母です。孝子を抱え得る資格は、そのような人にあると思います。
善君がいるとき、その善君は忠臣に対して、「忠臣よ! あなたが私のために精誠を尽くし、愛するのはよいが、まず民を愛し、神様を愛したあとに私を愛しなさい」と教えてあげなければなりません。そうしてこそ、忠臣を率いる善君の資格があります。
今日、聖人を従えられる神様は、どのような方でしょうか。神様は、「あなたは私に忠誠の道理を果たしなさい」と教えません。「私を捨ててでも万民を愛し、この地球上のすべてのものを解放すると同時に、霊界にいる霊人まで愛してから私を愛してほしい」とおっしゃるのです。神様はそのような方なので、万軍の主という名称を永遠にもてるのです。(注16)
(85-265、1976.3.3)

 

誰が孝子ですか。父母様が最も喜ぶことを中心として常に考えながら、そのことを行動で成し、相対役を果たそうとする人、そのような立場に立った人を孝子と言うのです。……また、目で見て何かを感じるとき、父母様がもっと喜ばれるものを見て感じ、み言を聞くときも、「ああ、父母様はこのような言葉を喜ぶだろうか、どうだろうか」ということを中心として聞くのです。感じるときもそうであり、すべての五官の鑑定が父母様を中心とし、愛で昇華させることのできる人、心情の世界を慕う人が孝子ではないですか。
このように考えるとき、ある孝子がいて、愛国者がいて、聖人がいるとすれば、彼らはみな世界を中心として考える人たちです。この地上を中心とする考えをしたのです。それでは、この宇宙の中心である神様を中心とすればどのようになりますか。そのようになれば、天と地を愛で抱こうとし、このすべての宇宙の存在が神様の愛を受けるのにふさわしい存在になることを願うでしょう。(注17)
(161-132.133、1987.1.18)

 

③特に異邦人、外国人、社会が蔑視する者を愛しなさい

― 宗教経典 ―

 

あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい。
申命記10.17 ~ 20(キリスト教)74

 

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。 「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(注18)
ルカによる福音書10.25 ~ 37(キリスト教)75

 

イスラエルが紅海を渡るとき、天使たちが合唱しようとすると、聖なるその方が彼らを叱責して語られた。「私の子たちが水に溺れているのに、どうして歌を歌うことができるのか」。
タルムード、メッギラー10b(ユダヤ教)76

 

菩薩は、一切の存在に対して同じ姿勢で臨まなければならない。彼の心は、一切の存在に対して平等でなければならず、彼は同じでない心で他の人たちに接してはならず、親しく友好的な心、害を及ぼしたり、憎む心なく接しなければならない。彼は他の人たちにまるで自分の母、父、息子、または娘であるかのように接しなければならない。一切の存在の救済者として、菩薩は一切の存在に接しなければならない。ゆえに、彼は完全な悟りを得ようとすれば、自らの心を修めなければならない。
八千頌般若経 321~ 322(仏教)77

 

― み言選集 ―

 

他人同士が集まっても兄弟以上に愛さずには、天国に入れない。神様を愛するごとく人を愛さねばならない。
御旨の道、天国

 

私たちは、その愛をもって氏族と民族を超越できる愛の化身にならなければなりません。その愛には、個人と氏族、氏族と民族、民族と国家、国家と世界、天宙、あるいは神様まで連結され得る氏族的内容があるのです。すなわち、その愛は、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様まで縦的な因縁を結ぶようにできる絶対的な起源となると同時に、横的に世界にまで広げて、世界人類を兄弟の因縁で結ぶことができ、歴史過程に現れたすべての否定的与件を永遠に否定できる絶対的な愛でなければなりません。
それでは、その愛は何を中心とするものでしょうか。その愛は、個人を中心とするものではありません。その愛は家庭だけを中心とするものではなく、氏族だけを中心とするものではなく、民族だけを中心とするものではありません。または、大韓民国なら大韓民国という国家だけを中心とするものではありません。愛は、そのすべてのものを超越する愛です。世界を超越し、天宙を中心とするものであり、天宙だけでなく、神様を中心とする愛です。また、神様だけを中心とするものではなく、神様の愛を中心として進んでいこうというのが「統一思想」であることを皆さんは知らなければなりません。
(35-271~ 272、1970.10.25)

 

自分が白人だからといって、「ああ、私は白人だけが好きだ。白人のおじいさん、おばあさんを愛するので、黒人のおじいさん、おばあさん、アジア人のおじいさん、おばあさんは愛せない。身なりの立派なおじいさん、おばあさんを愛するのであって、あの未開のおじいさん、おばあさんは愛せない」と考えてはいけません。そのおじいさん、おばあさんを自分のおじいさん、おばあさんのように愛さなければならないのです。自分の家でおじいさん、おばあさんを愛するように愛さなければならないのです。それが公式です。人がこの地上に生きながら訓練を受けるための公式だという話です。
(130-274、1984.2.5)

 

私たち祝福家庭の中で、三人の息子がいるとすれば、一人はドイツ人の嫁をもらい、一人はフランス人の嫁をもらい、一人はイギリス人の嫁をもらうのです。三人の嫁の国が怨讐です。すべて怨讐の国の嫁をもらうのです。それで、互いに競争して争いますか、御飯を食べることまで「分けて食べよう」、このようにしますか。これはドイツの嫁が食べるもの、これはフランスの嫁が食べるもの、これはイギリスの嫁が食べるもの、このようにしますか、混ぜておいて食べますか。どのようにしますか。
混ぜておき、食べようとしてこぼれたらどのようにしますか。こぼれても、そのままかき集めて食べますか、どうしますか。最初は嫌ですが、目をこうしてかき集めて食べるのです。なぜですか。アフリカ人が食べていたものを私が食べなければ愛することにならないので、そのようにするのです。白人同士だけでなく、アフリカ人を愛さなければなりません。その時のために今準備をすべてしなければなりません。それがどれほど驚くべき事実かというのです。落ちた御飯を食べるそこに神様が臨在し、愛が臨在するのです。
(99-134 ~135、1978.9.10)

 

皆さんは、アメリカ人はアメリカ人だけ、東洋人は東洋人だけ、そして自分の氏族的、民族的、国家的基準は越えられないというのです。ですから私たちは、真の愛を中心として人種差別問題を消化させなければなりません。それは何で証明するのですか。国際結婚だということです。何の話か分かりますか。それが概略的な立場の歴史的な真実の観点から見る観です。
(112-86、1981.4.1)

 

5. 怨讐を愛しなさい

怨讐を愛し、悪を善で返しなさいという言葉は、時にはとても非現実的で、完璧主義者、道徳論者の思想だとみなされることもある。これは世界的に多くの宗教で広く教える思想でもある。この精神は、人との平和な関係を持続するための根本原理である。
人々は、過ちを犯した人に「正義」という名で報復を願う。すべてが「目には目」のやり方を主張するなら、この世の中はすべて、理性を失った世の中になるだろう。復讐は悪を増大させるだけである。この方法では、神様と人類に対するサタンの讒訴である悪の根を根絶することはできない。文鮮明先生は、怨讐に対して与える想像を超越した愛は、悪を根絶し、さらには私たちを神様の国にまで導いてくれると語られる。
この節には、十字架にかかられるとき、怨讐を愛されたイエス様の教えが含まれている。一方、現代の有名な道徳的先駆者マハトマ・ガンジーとマーティン・ルーサー・キング牧師の指針も共に載せた。

 

― 宗教経典 ―

 

あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
マタイによる福音書 5.43 ~ 48(キリスト教)78

 

主なる神は言われた。 「私に似なさい。私が悪に対して善で返すように、あなたも私に似なさい」。
出エジプト記ラッバー 26.2(ユダヤ教)79

 

神はなんじらとなんじらがいま敵意をもつ者たちとの間に、あるいは友情をおこさせたもうこともあろう。まことに神は全能者である。また神は、寛容者・慈悲者であられる。
クルアーン 60.7(イスラーム)80

 

神の使徒が言った。「現在と未来に最も優れた教訓を教えてあげよう。あなたたちを抑圧する者を赦し、あなたたちから背を向ける者と 紐帯を結び、あなたたちを侮辱した者に親切にし、あなたたちから奪った者に与えることである」。
ハディース(イスラーム)81

 

「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに息むことがない。「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息む。実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。
法句経 3 ~ 5(仏教)82

 

憎しみを愛でもって報いる。
道徳経 63(道教)83

 

善と悪とは同じではない。 (人が悪をしかけても)いっそう善いことで悪を追い払え、そうすれば、互いの間に敵意ある者でも、親しい友のようになるであろう。だが堅忍の者たちのほか、それはなしとげられまい。また格別に幸運の者たちのほかは、それをなしとげ得ないであろう。
クルアーン 41.34 ~ 35(イスラーム)84

 

あなたの敵の牛あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない。
出エジプト記 23.4 ~ 5(キリスト教)85

 

憎悪心を静めるためには、あなたの友を助ける前にまず怨讐を助けてあげなさい。
バセフタ、バヴァ・メツィア 2.26(ユダヤ教)86

 

「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
ルカによる福音書 23.33 ~ 34
(キリスト教)87

 

現れた外の姿を超えて軽率な悪行の裏面を見つめれば、その怨讐のような隣人の内面にも、ある程度の善があることを見ることができます。そして、その悪行がその人のすべての性稟を見せてくれているのではないことを知るようになります。そうすれば、その人を新しく見つめることができます。そして、私の憎悪が恐怖と慢心、無知、偏見、誤解から始まったことを悟るようになります。そして、誰にも神の形が存在の中に刻まれていることが分かります。そうすると結局、彼のすべてが悪なるものなのではなく、彼もやはり神の拘束から外れた存在ではないことを知るようになり、そのようになれば、私たちは怨讐までも愛することができるでしょう。
マルティン・ルーサー・キング・ジュニア 愛の力
(キリスト教)88

 

私たちが、ただ私たちを愛する者を愛するのであれば、それは非暴力ではありません。ひとえに私たちを憎む者たちを愛するとき、それこそが非暴力です。この驚くべき愛の法則に従うことがどれほど難しいかを私は知っています。しかし、偉大で善なるものはすべて行うのが難しいではないですか。憎む者に対する愛は、あらゆるものの中で最も難しいです。しかし、私たちが喜んでしようとすれば、最も難しいこのことさえも、神の恩寵によってやさしくなるのです。
モハンダス・カラムチャンド・ガンディー
すべての人は兄弟(ヒンドゥー教)89

 

自らの友に友好的なのはとても簡単です。しかし、自らを自分の敵と考える人に友好的になることこそ、真の宗教の核心です。それ以外のことはただビジネスにすぎません。
モハンダス・カラムチャンド・ガンディー
すべての人は兄弟(ヒンドゥー教)90

 

― み言選集 ―

 

天国で、神様の近くで侍って暮らすことのできる人は、どのような人ですか。神様のような人です。神様が怨讐を愛する神様であれば、怨讐を愛するために努力し、そのためにすべてを投入する人が、神様がいらっしゃる高い玉座の近い所に行って暮らすのです。……このように考えるとき、教育の中で最も貴い教育とは何でしょうか。修養の中で最も貴い修養とは何でしょうか。どのような教育や修養でも、怨讐を愛そうと努力するために学び、そのように努力するために修養するのが最も良いことです。
(124-155、1983.2.6)

 

サタン世界の愛と天の世界の愛は、どのように違うのですか。サタン世界は怨讐に怨讐で返すのであり、天の世界の愛は怨讐に愛で返すのです。怨讐を愛そうとすれば、怨讐は、サタンは逃げていくのです。
それで、イエス様は逆説的な道を行きました。宗教人たちが逆説的な道を行ったのは、すべてこのような理由からです。すべて逆さまになったので、仕方がないということです。西側が東側になり、東側が西側になって逆さまになったのです。南北も、南側が北側になり、北側が南側になりました。逆さまになりました。したがって、皆さんが個人の怨讐を愛し、家庭の怨讐、民族の怨讐、国家の怨讐、世界の怨讐、宇宙の怨讐まで愛することができなければ、天国に行くことができないのです。神様はそのような立場にいます。
(130-161、1984.1.8)

 

私を憎む人をも好きになろうというのです。私を憎む人を私が好きになれば、その人は嫌がりますか。喜ぶのです。私を憎む人に私が 3 回以上良く接してあげれば、彼は頭を下げるようになるのです。3 回だけ良くしてあげれば、頭を下げます。そうか、そうでないか、1 度やってみなさい。人には良心があって、自分が誤ったのか良くやったのか、分かるのです。
(39-303 ~ 304、1971.1.16)

 

聖書には「怨讐を愛せよ」とあります。本当の愛は、怨讐にその愛を及ぼして、1次、2次、3次、4次さえ過ぎるようになれば、怨讐は必ずなくなります。このような偉大な力をもったために、イエス様も怨讐を愛したのです。
(121-173、1982.10.24)

 

皆さん、誰か反対する人を見るとき、「ああ、かわいそうだ」と思ってみましたか。 「私がそのような立場に行くので、ねたましく思ってそのようにするのだなあ!」と考えてみましたか。
(105-31、1979.7.8)

 

葬ってしまいたい怨讐がいても、神様はなぜ罰を下すことができないのかというと、その怨讐を愛するその父母と妻と息子、娘がいることを知っているからです。神様も涙の谷間を越え、その怨讐を誰よりも愛するその父母と妻と子女たちの心情を体恤するとき、むち打つことができないのです。神様の愛は、そのようなものです。
そのような神様の心情を本当に感じるようになれば、怨讐に復讐することができますか。それを知れば、かえって人を送って怨讐を助けてあげなければなりません。そうしてこそ、天地の大道、愛を中心として一つに抱こうとするその大道の前に私が近くに立つようになり、そこに天地が震動し、神様も涙を流すようになるのです。「お前は私に似たなあ。ああ、うれしい!」、このように言われるのです。
そのような立場から見れば、怨讐を愛しなさいという言葉が理解できます。そのような力が出てくるのは、知識でもなく、お金でもなく、権力でもありません。真の愛にのみあるのです。
(201-150、1990.3.30)

 

自分の家より自分の一族をもっと愛さなければなりません。神様が自分の息子、イエスよりも怨讐であるイスラエル、ユダヤの国のために生きる立場にいたので、息子を死の場に立てたのです。イスラエル、ユダヤの国をもっと愛しました。そして、イエスは十字架でも怨讐を愛しました。槍で刺すローマ兵に対して、「彼らの罪をお赦しください」と言いました。ローマ兵の罪を赦してほしいと懇請したのです。そのようにしたのは、ローマの平和ではなく天の家庭の平和の基準を求めるためにしたのです。
(235-224、1992.9.20)

 

怨讐の息子、娘のために神側の人を犠牲にし、祭物としてくるのが神様の道です。アベルは神側の人なので、自分の息子、娘よりもっと愛し、自分よりもっと愛する立場に立とうというのがアベルの道だ、という事実を知らなければなりません。そのようにする人がいれば、サタンも、「ああ、私は神様のような愛を受けることはできないようになっている」と言うのが原則です。そこからサタンが退いていくのです。
イエス様が十字架で亡くなるときにも、彼らに福を祈ってあげました。自分が死んで福を受けることよりも、自分が犠牲になっていなくなるとしても、彼らの福を祈ってあげるのです。良心がある人で、そのような立場で頭を下げず、心が覆らない存在がいると思いますか。そのようにして永遠に怨讐と離別してこそ、理想時代に入っていくのです。
サタンがこのような原則によって、「神様が息子、娘として怨讐である私を愛した」というサイン、証明書を発給してくれなければなりません。サタンが、「この人は神様が愛さなければなりません」、このように言わなければなりません。そのときに、抱いて愛するその人を見て、サタンが「ええい、こいつ!」と言ってはいけないのです。 「アーメン!」と言わなければなりません。そのようにして、サタンとの関係を清算しなければならないのです。
(118-172、1982.5.30)

 

反対すればするほど、世界と向き合っていた神様はレバレンド・ムーンの側に行きますか、反対する側に行きますか。 (先生の側です)。なぜ先生の側に来るのですか。反対する人までも愛そうとしたからです。反対する怨讐に復讐しようとしないのです。血には血、歯には歯、目には目でするのではありません。愛で消化しようとするのです。
(168-204、1987.9.20)

 

神様が願われることは統一の世界です。すなわち一つの世界なのです。その世界は、国境のない世界です。神様には国境がないので、「恨みを晴らしなさい」という言葉は言えません。なぜならば、その言葉の中には国境が内在しているからです。しかし、怨讐を愛して一つになれば国境が崩れていくのです。ですから、神様の戦略戦術は「怨讐を愛しなさい」という言葉になるのです。「怨讐を愛しなさい」という言葉は、偉大な戦略であり、偉大な戦術的な内容だったということを、今日までの人類歴史は分からず、今現在生きている人間たちも分からずにいます。
怨讐の国民同士で結婚して息子、嫁と思うことができなければ生きていけないという人にさえなれば、統一天下は自動的に形成されるのです。これが、私が今晩皆さんに差し上げる贈り物です。国境がある所には、必ず悪魔の身内が暮らしているのであり、38 度線がなくお互いに愛して和睦する所には、間違いなく神様の血統をもって生まれた身内が暮らしているのです。
(330-255、2000.8.18)

 

私が人を疑う時、
私は苦痛を感じる。
私が人を審判する時、
私は耐えることができない。
私が人を憎悪する時、
私は存在の価値を失う。
しかし、もし私が信じれば、
私は間違いなくだまされる。
私がもし愛すれば、
私は反逆に遭う。
今宵、私の頭と身は、
苦痛と悲しみに震えている。
私が間違っているのか。
そうだ、私が間違っているのだ。
しかし私がだまされても、
私はまた信じる。
私が反逆に遭っても、
私はまた許す。
私は私を憎悪する者を、
ことごとく愛します。
おお、主よ! 愛するという痛みよ
私の手を見てください。
この私の胸に、
主のみ手を当ててみてください。
私の胸は言うに言えない、
苦悩の中で破裂しそうだ。
しかし反逆した者を、
私が愛する時
私は勝利を成就するだろう。
もしあなたも私のように愛するなら
私はあなたに、栄光の王冠を捧げよう。
(518-221~ 222、栄光の王冠、1935 年)

 

6. 赦し

自分に過ちを犯した人に赦しを施す寛容の態度は、あらゆる経典で強調する内容である。赦しは、イエス様の教えの核心である。キリスト教徒の義務は赦すことであると祈祷にもある。神様こそ、常に赦してくださる方である。クルアーン(コーラン)にもあるように、神様の最も近くに行こうと熱望する者は赦しの心が満ちあふれていなければならない。
父母には赦しが自然である。私たちが人に父母の心情で近づいていくとき、私たちの父であられる神様と同じ心情で彼らと向き合うとき、私たちは赦すことができる。私に途方もない不義と害をもたらした人を赦すのは難しいことだが、そのような怨恨を抱くことによって自分の霊魂に再び傷を負わせるよりは、はるかに望ましいことである。
それでは、どのように赦すことができるだろうか。赦しは自然な過程ではない。軽く忘れてしまい、足で踏み潰せる問題ではない。簡単に形式的に赦すのは偽善であり、継続する怨恨の深い感情を仮面で隠しておくことにすぎない。神学者ポール・ティリッヒは、このように言った。「赦すということは記憶が前提となっています。ちょうどきのうの天気を忘れてしまうように自然に忘れるのではなく、記憶しているが、それでも忘れるということです」。(注19)
文鮮明先生は、人を赦したければ、赦しが必要な肯定的理由を探しなさいと言われる。過去の過ちに対する痛みの記憶を代替し、新しく関係を始められるだけの理由を見つけなさいというのである。先生も、神様が人間を赦された理由を探求されたのであり、過ちを犯した人がいれば、その人を理解し同情するために、その短所と苦悩とは何だったかを探し出そうと努力されたのである。

 

― 宗教経典 ―

 

わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、/ わたしたちも自分に負い目のある人を / 赦しましたように。
マタイによる福音書 6.11~12
(キリスト教)91

 

もしなんじらが、かれらを許し、寛容し、かばうならば、まことに神は、たびたび許したもう方・慈悲深い方であられる。
クルアーン 64.14(イスラーム)92

 

神は最も寛大であられ、他の人を赦す者を愛される。
アルガマ・アルサガイル 2.1749
(イスラーム)93

 

もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
マタイによる福音書 6.14 ~15
(キリスト教)94

 

信仰して、主に信頼しまつる者にとっては、神のみもとにあるものこそ、もっと善美でずっと長持ちする。また、大罪や破廉恥の行為を避ける者、及び怒ったときでも寛容する者。……悪に対する報いは、それと同様の悪である。だが寛容して和解する者に対しては、報酬は神の務めである。まことにかれは、悪い行いの者をめでたまわぬ。……だが耐え忍んで寛容する者、まことにそれらは、あらゆる事に果断でそれを成就する。
クルアーン 42.36 ~ 43
(イスラーム)95

 

あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
ルカによる福音書17.3 ~ 4(キリスト教)96

 

優れた人の最上の行為は赦しと不問である。
ナフジュ・アル・バラーガ 語録 201
(イスラーム)97

 

君子は罪過あるものを赦し宥めて、万民の患難を解くことにつとめる。
易経、周易下経、解 40(儒教)98

 

イムランの息子モーセが、「主よ、あなたの目に最も優れたあなたの従僕は誰ですか」と尋ねると、その答えは、「権力のある地位にいるとき、赦してあげる者である」だった。(注 20)
バイハキ・ハディース(イスラーム)99

 

律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、 「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
ヨハネによる福音書 8.3 ~11
(キリスト教)100

 

寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。
申命記 24.17 ~18(キリスト教)101

 

復讐をしたり、敵意をもって行う者は、剣を使って自分の手を切ることのように、他の手に傷をつけることによって、自分自身に報復するのと同じである。
エルサレム・タルムード、ネダリーム 9.4
(ユダヤ教)102

 

寛容で憤怒を散らしてしまえ。
サマナスッタム136(ジャイナ教)103

 

ある人が〔鄭の〕子産のことをたずねると、先生は「恵み深い人です。」といわれた。 〔楚の〕子西のことをたずねると、 「あの人か、あの人か。 (語るまでもない。)」といわれた。 〔斉の〕管仲のことをたずねると、 「この人は、伯氏から三百戸の駢の村を取りあげたのだが、伯氏は粗末な飯をたべながら、生涯うらみごとをいわなかった。 〔心服させたのですよ。〕」といわれた。
論語14.10(儒教)104

 

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
マタイによる福音書18.21~ 22
(キリスト教)105

 

赦しがある所に神がいる。
アーディ・グラント、スローク、カビール、p.1372
(シク教)106

 

真実に偉大な者は、人々に赦しを受けず、人々を赦さなければならない。
朱熹(儒教)107

 

傷害はあなたを相手の下に入らせ、
復讐はあなたを彼と同じ人にし、
赦しはあなたを彼の上に立てる。
ベンジャミン・フランクリン
プーア・リチャードの暦108

 

― み言選集 ―

 

大きく赦してくださるのも、その人の事情を 100 パーセント分かるときに可能です。神様は、人間の事情を御存じなので、人間を赦してくださるのです。
(2-220、1957.5.26)

 

ヨセフが自分の兄弟たちを赦したのは、父母を赦したのと同じです。すべて怨讐です。私がヨセフの立場で見るとき、すべて怨讐だというのです。統一教会がヨセフの立場で見るときすべて怨讐ですが、神様を信じているので、神様を見てでも赦さざるを得ないのです。
(146-125、1986.6.8)

 

私は、今まで大勢の人々を従えてきながら、過ちを犯した人がたくさんいましたが、過ちを犯したとき、さっと見て「100 回赦してあげよう」という心で向き合います。先生は、向き合う人たちを 100 回赦してあげるというのです。それが父の心です。
例を挙げれば、今自分の息子が強盗殺人をして死刑囚になったとしましょう。それで、息子が刑場に引かれていくのですが、自分の息子を見つめる父母の心が、「おお、お前はよくぞ死ぬことになったな。さあ、早く死になさい、こいつ」と思いますか。結果は死刑だとしても、その心情は 1000 回、1 万回赦すことができる道があれば、赦してあげたいと思うのが父母の心です。
(157-259 ~ 260、1967.4.10)

 

責任者の中で食口を率いる人は、食口が過ちを犯したら、間違っていると正面から言うよりも、過ちを犯した人をどのように赦すのか、その夫人がどのように暮らしているのかを見なさいというのです。夫人を見るのです。夫人がその夫よりも悪いのかどうか、ということです。次は、子女を見てください。子女を見るとき、その父親よりも悪いのかというのです。次に、父母を見て、父母が子女よりも悪いのかというのです。父母は悪くないのです。
すべて悪くても、父母は悪くないので、私が父母の愛の心をもって向き合えば、その家庭に今まで積まれてきた福が私と関係を結ぶのです。福を接ぎ木する方法はそうです。そのように生きる人は、絶対に滅びません。滅びそうになっても天が保護するのです。
(308-208、1999.1.5)

 

天は、滅んだ者を再び打つことはありません。滅んだ者の中で、自分の罪を自白し謝罪する者に対しては、哀れみで接するのです。そのような天がいるので、敗者に再び刃を向けて切りつければ、切りつけた者の子孫が滅びます。ですから、そのような人たちのために、友人以上に近い立場で精誠を尽くし、導いてあげるのです。
(25-333、1969.10.12)

 

キリスト教の歴史を見てみるとき、ローマの 400 年の迫害時代において、ライオンの餌になったり、犠牲になる殉教者が大勢いました。彼らの中には、不義のシーザー王に抵抗するために、「神よ、罰を下してください! すべて滅びるようにしてください」と言いながら死んでいった殉教者たちがいるかと思えば、 「彼らの罪を赦してくださり、神の国をこの地上に成し遂げてください!」と言って死んでいった殉教者がいるでしょう。
ローマ皇帝であるシーザーのために祈り、怨讐であってもローマのために祈った人は、怨讐のサタン世界に勝った位置に上がっていくのです。しかし、ローマに反対し、私一人が救いを受けるために死んでいった人は、ローマ以下の位置にとどまっていることを知らなければなりません。
(130-233、1984.1.29)

 

イエス様が怨讐まで愛しなさいと言ったのなら、サタンを愛しなさいということですか。神様がイエス様を送って愛しなさいと言いましたが、サタンを愛しなさいということなのかというのです。はっきりと知らなければなりません。「兄弟が罪を犯せば、7度まで赦しますか」と言ったとき、イエス様は、「7度だけでなく、7度を 70 倍するまで赦しなさい」と言いました。それでは、そのような人であれば、神様の息子であるイエス様であれば、サタンも愛さなければならないのですが、なぜサタンを愛することができないのですか。サタンも愛さなければなりません。そうすれば簡単です。そうすればそのサタンと神様と一緒に暮らせます。しかし、そのようにすることはできないのです。あり得ません。
イエス様が怨讐のために祈祷したのは、その人、サタンがついたその人を怨讐視したのではありません。怨讐はサタンなのですが、サタン側にいる人を愛したというのです。サタン側にいる人を取り戻すための立場にいて、神様が取り戻そうとされているがゆえに愛したのであって、サタンそれ自体を愛したのではないことを知らなければなりません。人を愛したことを知らなければなりません。
なぜそうしたのでしょうか。人は本来、神様の体でした。それを取り戻さなければ神様が完成されないからです。愛を完成するにおいては、人がいなければならないということです。神様が愛を中心として完成できるこのような立場に立っていたにもかかわらず、これを破綻させたので怨讐です。もしこれを赦したのなら、神様の愛を破綻させたサタンなのに、これを赦せば、この宇宙の理想というものは完全に崩れてしまうのです。
(92-187、1977.4.10)

 

あなたは善の本体でいらっしゃるので、無限の愛と寛容でこの国の数多くの宗教人たちが、統一の子女たちを迫害した過去の出来事を赦してくださることを懇切にお願い申し上げます。
これまで統一の門をたたいても、迫害の道、涙の苦難の道を開拓する途上において、慰労を受けることのできる一人を迎えることができなかったために、孤独に疲れて離れていった人もおります。
また、この道を歩んでいる多くの人たちが疲れていることも知っております。
きょうも町中で、あるいは身を置いている所で、あなたに向かって頭を下げ、赦しを請う、彼らの姿を思うとき、怨恨が結ばれた父の心情を解いてさしあげたいと思う、抑え難い憤りの心情もありますが、怨讐の子女を訪ねてこられた父の哀れみに満ちた復帰の道を思えば、涙を浮かべて彼らを再び祝福せざるを得ないことを知っておりますので、彼らを赦してくださることを懇切にお願い申し上げます。
お父様、背反し、背信したかわいそうな群れを赦してくださり、再び覚えてくださることを懇切にお願い申し上げます。
(27-301~ 302、1969.12.28)

 

7. 正しい心

慈悲と深い哀れみは、正しい心から出てくる自然な徳目である。したがって、正しい心を育てることが人生の最優先課題である。多くの経典では、信仰と知識、真理への献身、それ以外のほかの徳目より優越するものが愛する心だという。愛する心は神様に根をおいている。
神様の心は、文鮮明先生のみ言で表現すれば「心情」である。心情は、愛して喜ぼうとする情的衝動を意味する。この衝動が正に創造の動機である。(第1章 11.「神聖な愛と慈悲」参照)人間の言語で言えば、これは母の愛に近い。母は子女を愛さざるを得ない存在である。正しい心は、公明正大で、すべてのものを包容し、親切で善良な人だけでなく、悪で嫌いな人までも消化できる。したがって、相手と和解し、葛藤を解決するときは、この正しい心の姿勢が必ず必要である。

 

①愛―親切

― 宗教経典 ―

 

互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
エフェソの信徒への手紙 4.32
(キリスト教)109

 

強き者よ、われを強くし給え。すべてのものがわれを友の眼をもって見んことを! われがすべてのものを友の眼をもって見んことを! われらがお互いを友の眼をもって見んことを!
ヤジュル・ヴェーダ 36.18(ヒンドゥー教)110

 

他人を包容することのできない者には親愛の情がなく、親愛の情のない者ではすべてが他人だ。
荘子 23(道教)111

 

あなたが死ねば、彼らがあなたを悲しみ、彼らがあなたを友として慕わしく思って生きるだろう。そのような方法で人に接し、そのような態度で彼らと共に生きていきなさい。
ナフジュ・アル・バラーガ 語録 9
(シーア派イスラーム)112

 

温和な性稟は、生命の綱があなたの中で、途切れないまま長くとどまることができるようにする。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)113

 

比丘たち、およそ来世において天上界に生まれるよりどころとなるいかなる功徳ある行いであっても、それらすべては、とらわれを離れていつくしみに満ちた心の十六分の一にも値しない。このとらわれを離れていつくしみに満ちた心は、それらをしのいで光り、輝き、また照り映えている。
如是語経 27(仏教)114

 

たとえ不幸を避けるために長い間管理してきたどんな人の家庭だとしても、我々神々は、ゆがんだ性根をもつ人の所には入っていかない。たとえどんな人が父と母を恨んだとしても、もし彼が慈悲心のある人であれば、我々神々はそこに入っていく。(注 21)
春日神社の神託(神道)115

 

ラビ・ヨハナン・ベン・ジャカイが言った。「出ていって人間が従うべき善の道とは何か探してみなさい」。ラビ・エリエザが答えた。 「善の目です」。ラビ・ヨシュアが答えた。 「善は友です」。ラビ・ホセが答えた。「善は隣人です」。ラビ・シミオンが答えた。「行動の結果を予測する人です」。ラビ・エラジャルが答えた。「善の心です」。このときヨハナン・ベン・ジャカイが言った。 「他の誰よりもエラジャルの言葉が正しい。彼の答えの中に他の答えまですべて含まれている」。
ミシュナ、アヴォート2.13
(ユダヤ教)116

 

― み言選集 ―

 

ために生きて愛そうとする心は、いくらこっちに行こうとしても、 (コンパスが)南極と北極の方向を向くように、常にために生きる方向に行くというのです。
(138-99、1986.1.19)

 

人を好きになる習慣をつけましょう。ですから、人を好きになる習慣をもたなければなりません。嫌いでも好きにならなければなりません。それが訓練です。
(118-116、1982.5.9)

 

皆さんは誰かのために涙を流してみましたか。自分のためにはよく泣きます。人のためにいつ涙を流してみましたか。涙にも2種類があります。自分のために泣く人は地獄に行くのであり、人のためにたくさん泣く人は天国に行くのです。
(96-172 ~173、1978.1.3)

 

すべてのものを聖なる物として扱いなさいというのです。神聖な物として扱いなさいということです。その次には、神聖な体、人を神聖な人として、神聖な神様の体のように考えなさいというのです。自分の体を神様の体のように考え、自分の心が神様の心だという考えをもつのです。
(102-113、1978.11.27)

 

私たちが「あの人は素晴らしい」と言うとき、知識をもって素晴らしいと言うのですか。性格が素晴らしくなければなりません。本当に素晴らしくて良い人だという評判が立てられるためには、その人の本性と生命の枠が天性的に素晴らしくなければなりません。知識があろうとなかろうと、心が素晴らしくなければなりません。
(39-315、1971.1.16)

 

目は、より慈悲深い目にならなければなりません。良い人を見るときにはもちろんですが、悪人を見るときにも、慈悲深い愛の心をもう一段階加えて見つめることができる私にならなければなりません。真の愛は、悪いものまでも消化することができます。感動させることができるのです。そのような力をもっています。
(123-225、1983.1.2)

 

目が天下一の美人の目だとしても、その目が殺気立ち、自分のために何かを利用しようとし、ねたむ目は嫌うのです。その目を見ればどれほど恐ろしく、どれほど醜いでしょうか。また、最も見栄えの悪い目があるとしましょう。しかし、その目に愛の深みがあり、慈悲があり、平和が宿っているとき、その目は、すべての人を魅了します。そのような魅力的な力をもっています。愛というものが母体となって動作をすれば、仮面をかぶっていっても、それは美しいものになるのです。
(116-53 ~ 54、1981.12.13)

 

②愛する心の根は神様の心情

― 宗教経典 ―

 

信愛により彼は真に私を知る。私がいかに広大であるか、私が何者であるかを。
バガヴァッド・ギーター18.55(ヒンドゥー教)117

 

温良は仁の根本なり
礼記 38.18(儒教)118

 

孟子がいわれた。「人間なら誰でもあわれみの心はあるものだ。……では、誰にでもこの哀れみの心はあるものだとどうして分るのかと言えば、その理由はこうだ。たとえば、ヨチヨチ歩く幼な子が今にも井戸に落ち込みそうなのを見かければ、誰しも思わず知らず、ハッとしてかけつけて助けようとする。これは可愛想だ、助けてやろうととっさにすることで、もちろんこれを縁故にその子の親と近づきになろうとか、村人や友達からほめてもらおうとかのためではなく、また、見殺しにしたら非難されるからと恐れてのためでもない。
孟子 II.A.6(儒教)119

 

如来の室とは、一切の生ける者たちに対する大慈悲がこれである。如来の衣とは、柔和な忍耐の心がこれである。如来の座とは、一切の存在するものが空であるという考えに入ることがこれである。(注 22)
法華経10(仏教)120

 

恰も母が己が子、一子を自らの命を賭して護るが如く、一切有情に対して無辺の〔慈悲〕心を修習せよ。
小誦経、慈悲経(仏教)121

 

神は親切であられ、親切な者を愛され、神は清くあられ、清い者を愛され、神は寛大であられ、寛大なものを愛される。
ムスリム・ハディース 913.2(イスラーム)122

 

愛がなければ、果たしてどんな宗教が可能だろうか。あなたは生きているすべての存在に愛を見せてあげる必要がある。愛はすべての信仰の根である。
バサヴァンナ ヴァチャナ 247
(ヒンドゥー教)123

 

― み言選集 ―

 

神様は愛なので、愛の本質である心情(注 23)を中心として、そこから、わき上がる人格を中心として進んでいかなければなりません。
(84-123、1976.2.22)

 

愛の心は、すべて一つになるのです。分立ではなく包括的です。包括的であると同時に包容的です。包容的と言えば、包括と似ているように思いますが、内外に包容的な関係を結び、循環作用を行うのです。包括、包容的です。その次には相応的です。
相応的とは、いつでもおじいさん絶対主義ではありません。孫絶対主義ではありません。相応作用というのはそのようなものです。それだけが全体分野に適応させ得る一つの主体性として、あるいは環境圏にすることができるときに、その主体性と環境に対して反対せず、そのまま受け入れることができるのです。その環境と主体性は何ですか。知識もなり得ず、権力もなり得ません。包容できるのは愛です。
空腹の時に母親の懐に抱かれると、空腹であることを忘れ、その場で眠ることができるのです。何が貴いのでしょうか。ほかのものが貴いのではなく、愛が貴いのです。いくら黄金の塊が積まれていても……。自分の愛する人や妻が死んでいくのに、宝石箱にあるダイヤモンドを売って治療費にすることはできない、というのは愛ですか。そのような愛が必要ですか。愛は、すべてのものを動かすことができる能力がある、こうでなければなりません。
(139-196 ~197、1986.1.31)

 

堕落によって人間の心情世界には、神様に属することができる何の条件も残っていません。しかし、たった一つ残された不変の基準があるのですが、それはほかでもない、父母が子女のために愛する心です。
子女が父母を愛する心は、そのような基準になり得ません。なぜかというと、子女の立場で神様に背いたことが人類歴史の起源だからです。それで、子女が父母を愛する心というのは、そのような基準になり得ません。ただ一つ、神様がアダムとエバが堕落する瞬間まで愛してきた本性の心情の因縁が、私たちの本心と肉を一つにできる因縁として残されているので、父母が子女を愛するその愛だけが堕落圏にいる私たち個体に連結され、残り得る基準になりました。そして、この基準は、今後永遠の基準として残ることを私たちは知らなければなりません。
(23-206 ~ 207、1969.5.25)

 

皆さんのこの世の父母も、子女が病の身になれば、その病の息子を見てどれほど心を痛め、かわいそうに思いますか。父母の愛は、堕落した世界でもそのような責任の位置に置かれているのです。ですから、父母に孝行すれば天国に行ける道があるというのです。ですから、孝行しなければなりません。それがあるがゆえに、復帰というものがあるのです。皆さんは、父母に孝行しなければなりません。その愛する心をもって国の大統領を愛し、その愛する心で主を愛し、その愛する心で神様を愛するようになれば、天国と通じるのです。
(99-127 ~ 28、1978.9.10)

 

今、私たちに最も必要なものとは何ですか。愛の後光です。網の元綱のようなものが神様の愛です。その愛が私に錨を下ろさなければなりません。人格の中心をどこに置かなければなりませんか。真理に置くのではなく、心情に置かなければなりません。
(33-68 ~ 69、1970.8.8)

 

8. 正しい行動

正しい行動は、健康な霊的生命から具現される。正しい行動は、人との関係において友情と和合をもたらしてくれる。正しい行動は、天に対する功績を積むようになり、天との関係をより高揚させてくれる。宗教が救援の鍵として信仰を強調するが、本当の信仰は外的に展開した行動によって実現されるのである。文鮮明先生は、休まずに正しい行動を実践することを教えられる。人が認めようと認めまいと、正しい行動を通して心から愛を実践し、真心を尽くして愛する霊的訓練の機会としなさいと勧告される。

 

― 宗教経典 ―

 

うず高い花を集めて多くの華鬘をつくるように、人として生れまた死ぬべきであるならば、多くの善いことをなせ。
法句経 53(仏教)124

 

信仰して善い行いにいそしむ者は、かれらが主を畏れ、信仰してよい行いにいそしむかぎり、既往に食べたものについて罪はない。そのうえ、主を畏れ、信仰せよ。そのうえにも、主を畏れ、善い事を行なえ。神は善行者をめえたもう。
クルアーン 5.93(イスラーム)125

 

わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
エフェソの信徒への手紙 2.10
(キリスト教)126

 

このように回転する〔祭司の〕車輪(しゃくら)を、この世で回転させ続けぬ人、感官に楽しむ罪ある人は、アルジュナよ、空しく生きる人だ。
バガヴァッド・ギーター 3.16
(ヒンドゥー教)127

 

あらゆる人間のすべての手足の骨は、陽が昇ったら毎日施しをしなければならない。相手ときちんとつきあうことも施しなら、人が乗り物に乗るのを助けたり、そこに抱きあげてやったり、持ちものを渡してやることも施しである。優しい言葉も施しなら、礼拝に赴く一歩一歩も、道路から危険なものを取り除くことも施しである。
ナワウィー 40 のハディース26
(イスラーム)128

 

昼間の両端において、また夜の初めの時に、礼拝の務めを守れ。まことに善い行いは、悪い行ないを消滅させる。これは主を念ずる者に対する訓戒である。
クルアーン11.114
(イスラーム)129

 

以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。―雲を離れた月のように。
法句経173(仏教)130

 

一つの善行を施す人は、自分を支持してくれる一人の候補者を得るのと同じであり、一つの罪悪を犯す者は、自分に逆らって告発する者を得るのと同じだ。悔い改めと善行は災難を防ぐ盾と同じである。
ミシュナ、アヴォート4.13(ユダヤ教)131

 

天国は善行がなければ成し遂げられない。
アーディ・グラント、ラームカリー・キ・ヴァール
M.1、p.952(シク教)132

 

わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。
ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。(注 24)
ヤコブの手紙 2.14 ~ 26(キリスト教)133

 

善の義人がいて、また善でない義人もいるのか。天と人間、すべてに対して善の人は善の義人である。しかし、天に対しては善であるが、人間に対しては善でない人は悪の義人である。
タルムード、キッドゥシーン 40a(ユダヤ教)134

 

― み言選集 ―

 

誰も動かすことのできない絶対的実績と信念をもったとすれば、彼は絶対的に善の人です。私たちはそのような人を願います。全人類がそうです。
(73-116、1974.8.16)

 

愛の心、真実をもって対さなければなりません。話をするにしても、一日に良い言葉を3回ずつ継続して言ってみてください。良い言葉を言うと同時に、行動も三つの良い行動を、小さなことでもしなさいというのです。あいさつをするにしても、心から有り難く思ってあいさつをしなければなりません。そのような訓練が必要です。
(99-142、1978.9.10)

 

善を行ってそれを忘れれば、その善は、善の主体である神様の記憶に移される。
御旨の道、善と悪

 

人が避けること、困難なことを、すべて耐えなければなりません。そして、うれしいことに対しては、超然とした態度をもてなければなりません。父母の最も困難な問題を代わりに解かなければならず、外の困難なことも受け持たなければなりません。
(17-338、1967.4.30)

 

人の負債を背負ってあげることのできる人は、善の人です。
(41-91、1971.2.13)

 

肉身の善行と悪行に従って、霊人体も善化あるいは悪化する。これは、肉身から霊人体にある要素を与えるからである。このように、肉身から霊人体に与えられる要素を、我々は生力要素という。我々は平素の生活において、肉身が善の行動をしたときには、心がうれしく、悪の行動をしたときには、心が不愉快さを経験するが、これは、その肉身の行動の善悪に従って、それに適応してできる生力要素が、そのまま霊人体へと回っていく証拠である。
原理講論、創造原理 6.3.1

 

9. 与え合うこと

施しの知恵がこの節の主題である。何の代価もなく、条件もなく、互いに与え合うとき、喜びは倍化し、悲しみは半減する。そして、与えたものよりもっと多くのものが戻ってくる。即座の即刻的な報いはなくても、天は御存じであり、結局、より大きな愛と報いで祝福を返してくださる。先に与える人にならなければならない。与えながら見返りを期待するのは、天の法と食い違う。(第2章 6.「二重属性」参照)反対に、何か願う心で頼み事をしたり、名を揚げるために条件的に与えるのも非難されて当然である。
施しに関する文鮮明先生の幅広い教えは、普遍的倫理徳目に対する哲学的基盤を提供してくれている。与えようとする心は、創造主であられる神様の本性に根ざしている。神様は御自分をすべて投入し、地上と天上の万物を創造された。
文鮮明先生は、先に与えればより大きく戻ってくる逆説的力が作用することに対して、三つの理由を挙げて説明される。第1に、与えることによって私たちは創造主・神様に似た人生を生きるようになる。第2に、授受作用の概念は自然世界が循環する原則である。第3に、父母は子女に数年間(子女が成長して結婚し、孫と孫娘を生むときまで)投入するが、喜んで与えるのである。条件なく先に与えることを強調するために、文鮮明先生は、「与えて、また与え、与えたという事実まで忘れてしまいなさい」と教えられる。

 

①施す道とその報い

― 宗教経典 ―

 

なんじらは愛するものを喜捨せぬかぎり、正義を全うし得ないであろう。なんじらが喜捨するどんな物でも、神は必ずそれを知りたもう。
クルアーン 3.92(イスラーム)135

 

受けるよりは与える方が幸いである。
使徒言行録 20.35(キリスト教)136

 

布施する者は実に神々のもとに赴く。彼に〔天上の〕大水・河川はグリタを流す。彼のためにこのダクシナーは常にみなぎる(豊かな返報を与える)。
リグ・ヴェーダ 1.125.5(ヒンドゥー教)137

 

より多く得ようとして、施こしてはならぬ、なんじの主の道のために、堅忍持久せよ。
クルアーン 74.6 ~ 7(イスラーム)138

 

人が柔らかい地を歩いていこうとすれば、まず地の上に冷水をまかなければならない。(注 25)
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)139

 

散らしてなお、加えられる人もあり /締めすぎて欠乏する者もある。気前のよい人は自分も太り / 他を潤す人は自分も潤う。
箴言11.24 ~ 25(キリスト教)140

 

物惜しみする人々は天の神々の世界におもむかない。愚かな人々は分ちあうことをたたえない。しかし心ある人は分ちあうことを喜んで、そのゆえに来世には幸せとなる。
法句経177(仏教)141

 

産物 ・貨物が(君主の)倉庫に集まると、 (かえって)人民は(君主から離れて)ぢりぢりばらばらになってしまい、産物・貨物が(民間に)散在すると、人民は(かえって、その君主の下に)集まってくるのである。
大学10.9(儒教)142

 

惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
コリントの信徒への手紙二 9.6 ~ 8(キリスト教)143

 

釈尊は説いていわれる。人が仏道を他の人のためにつとめてなしているのを見て、それを嫉むのではなくて、それを助けて喜ぶことをなせば、その人にとって福を得ること甚大なものがある。一人の沙門があって自分に問うていうのに、その福は限りあるものであるか、と。そこで自分はこう対えた。ここに譬えば一本の松明の火があり、数千百人がそれぞれ松明をもって来て、その火を分ちとり、その火をもって食物を熟たり、また火をもって分って夜の明りにしたとしても、もとの火は少しも減ったりすることがない如く、福もまたその如きものである、と。
四十二章経10(仏教)144

 

― み言選集 ―

 

神様の愛の本質と私たち人間の愛の本質は、違うでしょうか、同じでしょうか。これが問題です。同じなことは同じですが、一つは与えようとするものであり、もう一つは受けようとするものです。すなわち、一つは主体的愛であり、一つは対象的愛です。
(130-118、1984.1.1)

 

投入して忘れるところから真の愛が始まるのです。
(225-15、1992.1.1)

 

善なるものとは何ですか。発展させる原動力です。ですから、与えなければなりません。与えるときは、何を与えなければなりませんか。一番悪いものを与えるのではありません。安物の服を与えるのではなく、食べ残したものを与えるのではありません。命を与えなければなりません。命だけでなく、一つしかない愛まで与えなければなりません。これが父母の愛です。ですから、統一教会では、父母の心情、僕の体、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流して愛を与えなさいというのです。そのようにして滅びることはありません。絶対に滅びないのです。
(34-246、1970.9.13)

 

宇宙運動の発生は、与えるところから始まります。統一教会は、すべての理論的な基盤において、この運動を授受作用といいます。「授受作用」という言葉は、受けて与えることですか、与えて受けることですか。与えて受けるときは満たされますが、受けて与えることができなければ恥ずかしいのです。
(239-223、1992.11.25)

 

私自身を中心として見てみるとき、受けたいですか、与えたいですか。深刻な問題です。それで「統一原理」には授受作用という言葉が出てきます。授受作用という言葉は、「授ける」が先ですか、「受ける」が先ですか。授けるのが先です。父母が子女のために与えますか、子女が父母のために与えますか。父母が先に与えるでしょう? これを見るとき、存在の最初の起源となる根本から与えることが始まりとなり、作用が連結されたという論理を認めなければなりません。
(239-59、1992.11.23)

 

統一の原則は、創造力を投入することです。創造力を投入するところから統一は起きるのです。受けようとするところでは統一ができません。受けることはよいのです。受けたのなら、そこに利子を加算してそれ以上に与えられる私自身になればよいのです。しかし、その上でまた受けようとする人は、天も絶対に嫌います。与えてくれません。
(82-326 ~ 327、1976.2.1)

 

善の人と悪の人に対して、一度例を挙げてみましょう。善の人は、10 人の友人がいるとすれば、その 10 人の友人に対して、朝も夜も、今年も来年も、10 年でも、一生の間、面倒を見て、奉仕します。そのような友人は良い友人です。10 人全員が一番良い友人だと言います。自分たちだけが好むのではなく、自分の母親や自分の妹がいれば連れていって紹介しようとします。
しかし、10 人の友人に対して、「おい! こいつ、私のために生きろ」と3度だけ言っても、全員が逃げていきます。彼がついてくるかと心配で逃げていくのです。皆さん、そうではないですか。なぜでしょうか。自分を中心として主張する人は滅びるのです。地獄に行きます。しかし、原理原則に立脚して、人のために、相対のために投入する人は天国に行くのです。
人類の教育やあらゆる指導理念において、漠然とではありますが、このような観点で善を立ててきたので、今日のこの世界が残っているのです。ある個人が全体のために犠牲になれば、彼は全体の前に善の人であり、ある家庭が全体の家庭のために完全に犠牲になれば、全体の家庭の前に善の家庭として登場するのであり、またある民族が全体の民族のために犠牲になれば、その民族は善の民族として登場するのであり、ある国が全世界各国のために犠牲になれば、その国家は善の国家として登場するということを知らなければなりません。
(69-86、1973.10.20)

 

神様が天地万物を創造したというのは、自分のすべての愛の心情を投入したということです。与えたのです。そのような神様であれば、そのような心をもった対象が必ず生じるのです。ですから、神様と人間との関係が形成されるだけでなく、神様の愛が顕現します。そのような人は栄えるようになるのです。ですから、私たちの良心は、このような事実を理論的にはっきりとは知りませんが、互いに愛し合いなさい、互いにために生き合いなさいというのであり、宗教は人のために犠牲になりなさいと教えるのです。その話は私たちの人倫道徳と対立するものではありません。合うのです。人のために生きなさいということです。人のために犠牲になりなさいということです。人を愛しなさいということです。ですから、ために生きなさいという結論が出てきます。
(112-301、1981.4.25)

 

②品格を備えた授受の循環

― 宗教経典 ―

 

与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。
ルカによる福音書 6.38(キリスト教)145

 

憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
マタイによる福音書 5.7(キリスト教)146

 

この世において善い行いをなす者には、善い報酬がある。
クルアーン 39.10(イスラーム)147

 

誰が名誉ある人か。人類に名誉をもたらす人が名誉ある人になる。
ミシュナ、アヴォート4.1(ユダヤ教)148

 

なんじらがあいさつされたときは、さらに丁重なあいさつをするか、または同様のあいさつを返せ。まことに神はよろずのことの清算者であられる。
クルアーン 4.86(イスラーム)149

 

わたしに木瓜を投げてきた それに佩玉を投げかえす
お禮というではありませぬ いつまでも仲好くしたいから
わたしに桃を投げてきた それに佩玉を投げかえす
お禮というではありませぬ いつまでも仲好くしたいから
わたしに木李を投げてきた それに佩玉を投げかえす
お禮というではありませぬ いつまでも仲好くしたいから(注 26)
詩経、衛風、64 柧(儒教)150

 

― み言選集 ―

 

神様をもっと愛しなさいと言うのは、神様を愛するほど神様の愛をたくさん受けるというのです。すなわち、神様を愛したので神様の愛を受けるということなのです。
(40-244、1971.2.6)

 

愛すれば、神様から大きな愛も受けますが、愛する人から大きな愛を受けるのです。ですから、これは何倍残る商いですか。2倍残る商い以上です。数倍残る商いだということです。ですから、愛すれば愛するほど立体的に商いをするのです。
(90-21、1976.12.5)

 

善の人とは、どのような人でしょうか。様々に定義できますが、一つには、受けたものを踏み倒す人は悪の人であり、受けたものに対して、プラスして施す人は善の人であるというのです。ですから、 子女が自分よりも劣ることを願う父母はいません。優れていることを願うのです。また夫は妻を、そして妻は夫が自分よりも立派であることを願うのです。また兄は弟が、弟は兄がもっと立派であることを願うというのです。
(315-210、2000.2.2)

 

自分が一番喜ぶものをもって喜ぶ心と、自分が一番喜ぶものを人に与えて喜ぶ心のうちで、どちらがよりうれしいか比較してみてください。そこで繁殖が始まります。心から与えれば、戻ってくるときは大きくなろうとするのです。そのように戻ってくる道をつくるので、大きなところに点ができ、戻り始めるのです。授け受けすることは、そこから生じます。喜んで与えるときに戻ってくるのです。それで私がまた、与えようとするとき、もっと大きくなります。より発展するのです。
(248-96、1993.8.1)

 

大気が 100 パーセント絶対低気圧圏になれば高気圧圏が生じて、自動的に循環運動が起こるのです。神様は真の知恵の王です。なぜ投入して忘れてしまわなければならないのでしょうか。自動的に循環原理を通じて永遠の回転が始まるために、永生論理が論理的に設定されるというのです。分かりますか。投入して、また投入するところから永生の論理が展開します。「ために生きる」ところは滅びません。
(204-107、1990.7.1)

 

木もそうではないですか。根から栄養素が来れば、葉は光合成作用をして栄養素を根に補給してくれます。授け受けするのです。受けて授けるのではありません。主体の人が先に与えなければなりません。父母は子女に先に与えなければなりません。水が流れるとき、穴があれば埋めていかなければなりません。空気も同じです。すべてのものが流れるのです。愛も流れるのですが、穴があれば、埋めてあげようとします。
(241-306、1993.1.1)

 

真の愛は投入する力です。与える力であって、受けることだけをする力ではありません。すべてを与えてゼロ・ポイントの位置に入っていくのです。完全な空間になるので、ゼロ・ポイントの位置には何が入ってきてもOKです。そして、与える力が永続するので、帰ってくる力が加重して永続することによって、永遠にバランスが保たれるのです。ですから、真の愛を中心としてために生きる世界は、授受作用を通して完成されるのです。
天地のすべてのものが相対的関係によって存在しているということも、このように授受の作用を通して真の愛の世界を成すためなのです。相対関係において、与える力に対して帰ってくる力が運動することによって、その中心点は永遠に定着できるのです。
(315-209、2000.2.2)

 

与えるものがなぜ栄え、与えることによってなぜ大きくなるのかということが問題です。それは、神様が本来、この宇宙を創造された当時の根本と通じるためです。神様が創造しようというのは、引き寄せることですか。与えることです。与えれば、絶えず大きくなるのです。絶えず大きくなるのです。すべてのものが与える概念に変われば、アメリカはますます大きくなります。絶えず受けていれば、すべてのものは小さくなるのです。なぜそうなのかというと、神様の創造原則に同伴できるので、宇宙が私を協助するのです。宇宙が私を協助するからです。ひっきりなしに受け続ければ、すべてのものが小さくなります。
真の愛の根とは何かというと、永遠に与えることです。真の愛は永遠に与えようとするものだということです。真の愛は作用すればするほど小さくなるのではなく、大きくなるのです。これが神秘的なことです。世の中の力は作用すれば小さくなるのですが、これは作用すればするほど大きくなります。ですから、真の愛をもって数千年前に逝ったそのような人も、今の時代に来て千万に増えるのです。
(183-324、1988.11.9)

 

皆さんの相対は、自分の理想的な基盤であり、幸福の基盤であり、あらゆる基盤になります。神様が天地を創造されるときに、万物をつくられ、人を造られたのは、神様の相対として造ったのです。授け受けする授受作用の原則が天地の作用、運動と法則になっているので、完全にすべて与えるまでは戻ってきません。これが原則です。妻が夫を完全に愛そうとすれば、夫から完全に愛されたというその日になってこそ、「夫を本当に愛そう」、このようになるのです。完全に愛されるようになるときに、完全に与え始めるのです。それが天地の原則です。主体から完全に受けたときにこそ、完全に返します。それを受ける前に返し始めれば、完全なものが戻ってきません。
(60-232、1972.8.17)

 

③条件なく過去を記憶せずに与えること

― 宗教経典 ―

 

その富を施こした者は、己れを清める。
またたれからも、報いられるほどの親切な行ないはないとする。
ひたすら至高者、主のお喜びを請いまつるのみ。
やがて、かれは十分に満足を得るであろう。
クルアーン 92.18 ~ 21
(イスラーム)151

 

与えらるべきだと考えて、見返りが期待できぬ相手に、場所と時間と受者が適切な場合に与えられる布施は、純質的な布施と伝えられる。
一方、見返りを望んで、または果報を意図して、渋々与えられる布施は、激質的な布施と伝えられる。
不適切な場所と時間において、不適切な受者に対し、敬意を表さず、軽蔑して与えられる布施は、暗質的な布施と言われる。
バガヴァッド・ギーター17.20 ~ 22
(ヒンドゥー教)152

 

孟子がいわれた。「名誉心の強い人は、場合によっては千乗の大国でも譲って受けないことがある。しかし、それにしても本当にそれだけの人物でなかったならば、一椀の飯や一杯の汁のようなほんの僅かのものでも惜しんだり欲しがったりして、ついにその本心が顔色にあらわれてしまうものだ。」
孟子 VII.B.11(儒教)153

 

もし、「これを与えてしまったら、 {私は} 何を用いよう」と自利を考えるなら、魔の方法。もし、「それを〔私が〕用いてしまったら、〔他者に〕何を与えよう」と他利を考えるなら、天の方法。
菩提行論 8.125(仏教)154

 

― み言選集 ―

 

真の愛は与えて忘れる愛です。与えても忘れてしまい、また与えたいと思う愛です。
(162-239、1987.4.12)

 

投入し、その次には忘れてしまいます。投入して覚えておくのではなく、忘れてしまうのです。どんどん投入すればするほど、自分の愛の相対が自分よりも高まっていく道があるのです。与えて忘れるのです。その概念です。覚えていたらすぐに止まります。そのようにしようとすれば、どこで統一が起きなければならないのでしょうか。男性が男性を主張するところでは起きません。女性が女性を主張するところでは起きません。投入から宇宙の創造が始まったので、男性も女性も、男性は相対に対して無限に投入し、その相対も無限に投入するところから一つになる道が始まるというのは、理論的に否定できません。神様のように投入して忘れてしまうところで統一できるのです。
(267-301~ 302、1995.2.5)

 

神様は、与えることにおいても誰も讒訴することができず、受けることにおいても誰も条件を提示することができない、自由で平和で幸福な場を願われます。そのような場を世界的に広めて、万民がそこで暮らせるようにすることが神様の収めようとする所期の目的です。
(13-249、1964.4.12)

 

10. 慈善

貧しくかわいそうな人たちに対する博愛精神は、あらゆる宗教で強調される徳目である。究極的善と連結された人間であるため、社会のあらゆる人々と私たちは、彼らが裕福であろうと貧しかろうと、一つの家族としての紐帯感をもっている。神様が御自身の子女に対して感じられる愛と慈愛の感情を私たちは感じることができ、特に貧困、疾病、戦争、飢饉と自然災害によって苦痛を受ける人たちに、より大きな同情心を感じる。慰労金と救護物質を送る行動は、このような霊的な愛の紐帯感を具体的に表現するものである。新約聖書の羊と山羊の比喩は、かわいそうな人を助けることは、すなわち神様と偉大な聖人たちに祭物を捧げるのと同じことであると言っている。さらには、与えるときに最もけちな人たちまでも、このような博愛精神の例外ではあり得ない。
慈悲を施すとき、私たちが取るべき姿勢に関していくつかの章句がある。施す行為は、ある場合には、その尊厳性を維持しなければならない。「右手がすることを左手に知らせるな」、この言葉は、恵みを受ける人と寄贈する人との間の匿名性が、どれほど重要かを語っている。寄贈者は自分がしたことに対して自慢することを避けるために、恵みを受ける人は自分の威厳を保存するために匿名性が必要である。マイモニデスによれば、最高の慈悲深い行為は、貧しい人が事業や貿易を始めることができるよう無利子で貸し出し、または経済的援助をしてあげ、自らお金を稼ぐことができるよう助けてあげることだと言った。この現代的バージョンは、恐らく「魚を獲ってあげればその人を一日食べさせることができるが、魚を獲る方法を教えてあげればその人を永遠に食べさせることができる」という格言であろう。文鮮明先生は、アフリカ人たちが食糧の自給自足ができるよう援助するため、多様な海洋事業を展開してきていらっしゃる。

 

①神様に導き、神様の愛を表す慈善

― 宗教経典 ―

 

いかに幸いなことでしょう / 弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき / 主はその人を逃れさせてくださいます。
詩編 41.1(キリスト教)155

 

わたしたちは、神のお喜びを願って、あなたがたを養い、あなたがたに報酬も感謝も求めない。
クルアーン 76.8 ~ 9
(イスラーム)156

 

財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。
使徒言行録 2.45(キリスト教)157

 

喉の渇いた者、空腹の者、苦痛の中にいる者に惻隠の情を施し、彼らの苦痛を分かち合う慈悲の行いは、すべての徳行の根本である。
クンダクンダ パンチャスティッカーヤ137
(ジャイナ教)158

 

あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。「七年目の負債免除の年が近づいた」と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。
申命記15.7 ~11(キリスト教)159

 

人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」すると、正しい人たちが王に答える。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」そこで、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
マタイによる福音書 25.31~ 40(キリスト教)160

 

審判の日、至高であられる神が語られるだろう。「アダムの息子よ、私が病んでいたとき、お前は私を見舞わなかった」。彼が答えた。「主よ、私がどうしてあなたを訪ねることができますか。あなたは宇宙の主であられます」。その方が言った。「私の僕の誰かが病にかかったことを知らなかったのか。お前は私を見舞わなかった。もしお前が彼を訪ねていれば、私が彼と共にいたという事実をお前は知らなかっただろうか」。
ムスリム・ハディース(イスラーム)161

 

「あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを畏れ」(申命記 13 章 5 節)。しかし、「あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神」(申命記 4 章24 節)に人間がどのようにして従うことができるのか。この言葉はつまり、主なる神の属性に似よという意味である。ぼろを着ている者たちに服を着せてあげ、病にかかった者たちを見舞い、葬式に集まった人たちを慰労し、死んだ人たちを弔ってあげよ。
タルムード、ソーター14a(ユダヤ教)162

 

聖なる方が人を愛されるときに、神は貧しい人の姿で近づいて贈り物を下さる。人が貧しい隣人に善行を施すようになり、神はその長所を用いて恩寵を施す条件とされる。
ゾハール、創世記104a(ユダヤ教)163

 

神々は実に飢えをのみ死因として作らざりき。食足りし者にも、もろもろの死は近づく。
また施す者の財産は涸るることなし。しかして施さざる者は憐愍者を見いださず。
[みずから]食物に富みながら、食餌を求欲しつつ・零落して近づき来たる貧困者に、
[しかも]かつて友好を結びし者に心つれなく振舞う人、かかる者もまた憐愍者を見いださず。
食物を求欲し、憔悴して徘徊する哀願者に与うる者こそ、 [真の]款待者なれ。
彼は、行路にありて呼びかけられたるとき、この人(呼び手)に即応す。
かつまた彼は、未来のために一人の友を獲得す。
相たずさえ、相伴う友人に、食餌を分かち与えざる者は、友人にあらず。
人は彼より去り行くべきなり。そは止住すべきところにあらず。 たとい部外者なりとも、他人に施す者を求むべし。
[財力に]勝る者は実に、援助を求むる人に施すべし。[人生の]いとも長き道を見渡すべし。
なんとなれば富は、車の輪のごとく、回転し来たり、この者にまたかの者に近づく。
思慮なき者はいつわりの食物を見いだす。われ真実を述ぶ、そは彼に死をもたらすのみ。
彼は款待者をうる幸運に恵まれず、また友人を[得る幸運にも]。
独りして食する者は、独りして災厄を蒙る。
リグ・ヴェーダ 10.117.1~ 6(ヒンドゥー教)164

 

― み言選集 ―

 

子女たちが苦しむとき、父母が苦しまざるを得ません。兄弟が苦しむとき、その痛みを感じざるを得ません。聖人は、世界万民が暮らす実状を見つめるとき、自分の痛みの代わりに彼らの苦しみを感じるのです。
万民を愛するために自分の境遇を忘れて投入しようとする、このような愛の心をもつこと、これが聖人の道理です。ですから、聖人の道理は歴史を超え、世代を超え、世界を超え、今日、全世界のあらゆる道徳基準として引き継がれてくるのです。それが博愛精神です。
(186-74 ~ 75、1989.1.29)

 

道端で遊んでいる、まともに着ることも食べることもできずに骨ばかりになっている子供たちを見れば、自分の子供のように抱きかかえてあげることができなければなりません。それができなければ恥ずかしさを感じなければなりません。子供を生んでおいて責任を果たせない父母のように、自分の子供をある乳母に渡したり、あるいはある村に捨てた母親が……。通りすがりにその子供を見れば、その子供に対して顔を上げることができない恥ずかしさを感じる、それ以上の恥ずかしさを感じなければならないのです。これが心情の因縁です。もし自分が生んだ息子、娘がそのようにぼろを着ていれば、その子供を抱いて、骨が溶けるほど、肉がゆがむほど涙を流さないでしょうか。
(46-281、1971.8.17)

 

道を歩いていて、腰の曲がったかわいそうな老人を見れば、「私の父もあのような姿で訪ねてこられたのだなあ!」と考えなければなりません。また、はれあがった労働者の手を見るときも、「息子を探そうと私の父はあれ以上の姿になられたのだなあ!」、かわいそうな乞食を見るときも、「この乞食は、乞食ではなく私の父だ」と頭を下げることができなければなりません。取るに足らない哀れな人生でも、そこには神様の心情が宿っていることを知って、彼が私の父だという心で涙を流し、自分の境遇と自分の威信を超越して行動できてこそ、神様を知ることができるのです。
(8-346、1960.2.28)

 

年老いた人を見れば、自分のおじいさん、おばあさんのように考えなさいというのです。昼食の時間になり、みな食堂に入っていくのに、お金がなくて困っているようであれば、一緒に連れて入っていって、自分のおじいさんやおばあさんのようによく接待しなさいというのです。
(215-122、1991.2.6)

 

先生自身も、監獄で孤独だったことがどれほど多かったでしょうか。孤独な立場にいるとき、慰労してくれた事実は、いつまでも忘れられません。親戚や、誰かが来たことは、忘れることができます。しかし、そのような愛の因縁を結んだ人は、忘れられません。
(63-205、1972.10.14)

 

あるときは、公娼街や娼婦街、そのような所に若い女性が入っていこうとするのを救ってあげるために、妹のように思って助けてあげたこと、その事情を聞いて痛哭したことを今も忘れません。そのように涙を流したことがきのうのことのようです。このような事実が本当にたくさんあります。それが祈祷よりも貴い場なのです。
(93-66、1977.5.1)

 

これから8月1日になれば、水産事業を始めて 20 年になります。1 年に2000 万の飢えて死んでいく人たち、アフリカの奥地や第3世界のかわいそうな人たちを助けてあげるために、先生は今まで 20 年間船に乗りました。網なら網を作る方法、工場を造り、船を造り、すべてのことができる準備をしました。アフリカの母親たちが釣りをすることができれば、どうして飢え死にするでしょうか。水があり、魚がいる川があるのですから、釣りをして捕まえた魚で子供を 5 人、6 人食べさせるのは問題ありません。狩りをしなければなりません。
一日に6万人が死んでいきます。彼らがみな神様の息子、娘として、私たちの兄弟が死んでいくのに、おなかをなでながら熊のように太り、やせるために断食して食べずにいる、このようなアメリカは罰を受けなければなりませんか、受けてはいけませんか。霊界に行って地獄に行かなければなりませんか、天国に行かなければなりませんか。
(261-308 ~ 309、1994.7.24)

 

②慈善の姿勢

― 宗教経典 ―

 

親切な言葉と寛容とは、侮辱を伴う施しものにまさる。神は、富有者・仁慈者であられる。
信仰する者よ、なんじらは人びとに見せるため、所有するものを使う者のように、また神も終末の日も信じない者のように、負担や侮辱を感じさせて、己れの施しを無益にしてはならぬ。
クルアーン 2.263 ~ 264(イスラーム)165

 

真実を語れ……請われたならば、乏しいなかから与えよ。
法句経 224(仏教)166

 

自分が助けてもらって初めて生きていける貧しい人だとしても、やはり慈悲を施さなければならない。
タルムード、ギッティン 7b(ユダヤ教)167

 

「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」。
ルカによる福音書 3.11(キリスト教)168

 

施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
マタイによる福音書 6.3 ~ 4(キリスト教)169

 

わたしの行ずるところの施しは、執著もなく、煩悩もなく、そのこころは、質直で、惜しむところがない。わたしは、このような施しの、功徳の力をもって、すべての衆生をして、大いなる智慧を得しめ、こころにさわりをなからしめよう。
華厳経 21(仏教)170

 

信仰する者よ、なんじらのかせいだよいものと、われが、大地からなんじらのために生産したものを使え。それに目をつむらずには、なんじ自身さえ受け入れぬような悪いものを目あてに使ってはならぬ。神は満ち足りたもう方・賛美されるべき方であられることを知れ。……
なんじらが、施こし物や奉仕に何を使ったか、またどんな誓いを果たすためであったか、神はまことにすべてを知りたもう。およそ不義を行う者には、助ける者はないであろう。なんじらは、施こしをあらわにしても結構だが、ひそかに貧者に与えれば、なんじらのためさらによい。それはなんじらの罪悪のよごれの1部を、払い清めるであろう。神は、なんじらの行うことを熟知したもう。……
なんじらが施こしに使うよいものは、なんじら自身の魂のためであり、またなんじらが使うのは、ただ神のお喜びを願うだけである。使用したよいものは、完全になんじらに返されよう、なんじらは不当に遇せられることはないのである。
なんじらのよい使用は神の道のために、心をいためながらも、国内を歩き回り得ぬ、困窮者のために使うものである。かれらは控え目であるから、知らない者は不足がないものと考える。なんじらはその頼むに足る様子で知らねばならぬ、かれらはしつこく人びとに請わない。なんじらが何でも使う良いものは、神は必ずそれを知りたもう。
クルアーン 2.267 ~ 73(イスラーム)171

 

困窮者の請う者、またあえて請うことをしないようにする者への権利の行使に留意した。
クルアーン 51.19(イスラーム)172

 

最高の慈悲は、貧しい同僚の仕事を助け、贈り物や(利害関係なく)お金を貸してあげられることだ。または、その人の同業者になって働くことだ。そうすれば、その貧しい人はこれ以上公的な補助に頼らず、援助を通して結局、トーラーで教える独立心のある人に変わることができる。レビ記 25 章 35 節に次のように記されている。「もし同胞が貧しく、自分で生計を立てることができないときは、寄留者ないし滞在者を助けるようにその人を助け、共に生活できるようにしなさい」。
これより一段階低い慈悲は、施す者が恵みを受ける人に関して知らず、恵みを受ける人も施す人に関して知らない場合だ。つまり、人に知られないように行うことである。これはミツヴァー(ユダヤ教の戒律)のための慈善ミツヴァー(注 27)を行うことである。このような慈悲は、古代聖殿の庭で、義なる人が、貧しい者たちがもっていくように人知れず寄付金を置いていったのと同じだ。慈善箱にお金を入れてあげる行動が、この聖殿の庭での行動と似ている。
それより低い段階の慈悲は、施す者は恵みを受ける人を知っているが、相手は知らないようにする場合だ。これは聖人たちが貧しい者の家の前に、隠れて贈り物を置いてくるのと同じだ。公共福祉に責任をもつ者が義でないとき、このような行為が必要である。
次に、恵みを受ける者は施す人を知っているが、施す者は誰にお金が渡るのか分からない場合が次の下の段階だ。しかし、この長所は、恵みを受ける人が直接的対面による羞恥心を経験しなくてもよいことだ。
これよりもっと低い場合は、どちらとも互いを知っているが、貧しい者が求める前に先に与えることだ。これより低い段階は、要請を受けてから助けてあげる場合だ。自分が品位を保てる程度にだけ与えながら、実際に必要なものよりも少なく与えるのも望ましくないが、最悪の場合は、無理して施すことである。
マイモニデス ミシュネー・トーラー
慈善の8段階(ユダヤ教)173

 

― み言選集 ―

 

かわいそうな人に出会って同情するときは、銅貨一枚をあげながら、「やい! 若い人がどうしてこうなのか」と、絶対にそのような言葉をかけてはいけません。「少ないお金ですが、千倍、万倍貴く思って、きょうこの時間以降、福を受けてください」(注 28)という、そのような言葉はいくらかけてもかまいません。
(127-89、1983.5.5)

 

天国をつくるためには、私がすべて材料を提供しなければなりません。材料を提供するとき、自分のものをもっていって提供すると考えてはいけません。天のものをもっていって提供すると考えなければならないのです。私が誰かに与えれば、天のものとして与えると考えなければならないのであって、私のものとして与えてはいけないというのです。そのもらう人は私の心が分かるのです。そのようにすれば、損をしないように天が何十倍にして返してくれます。
(102-119 ~120、1978.11.27)

 

ない中においてよく与える人なら、ありさえすればどれほどよく与えるだろうか。
御旨の道、人格

 

心は善を行えと体を促しています。かわいそうな人がいれば助けてあげなさいといい、自分は困難でも多くの人のために犠牲となり、助けてあげなければならないと強調しています。
(41-60、1971.2.13)

 

「右の手のしていることを左の手に知らせるな」(マタイ6・3)と言いました。ある日、「誰かに何千万ウォンをあげたから、それに対する利子をいくらもってこなければならないのに」と言いながら、与えたものを記憶する人は、天国の主人になれません。与えたものを忘れなければなりません。父母が子供を育てるとき、いくらいくらを投資したから、その利子をもらうと言う、そんな父母がいますか。与えても、みな忘れるのが父母の心です。与えたものを忘れるだけでなく、もっと良いものを与えられなくてふびんに思うのが父母の愛です。
(36-85、1970.11.15)

 

11. 善意

通りすがりの客や旅行客に、食事や休憩所を提供することは、古代から続いてきた伝統的徳目である。アブラハムは見知らぬ客たちに、結局、客として現れた三人の天使に善意を施したことで有名である。文鮮明先生は、通りすがりの客に善意を施すことを家訓のように定めていた幼い時代の御両親の話をよくされる。和睦した家庭からそのような環境が造成され、その家庭には、大勢の人々が、さらには数キロ離れた所から動物までが訪ねてくるのである。
豊かでない家でも、慈善を施すことによって家が少し窮乏したとしても、それにかかわりなく客には最高の善意を施さなければならない。極端な状況でもこれを実践する、三つの代表的な逸話がある。第1には、ソドムの住民たちが村を訪ねてきた客に危害を加えようとしたとき、これを保護してあげたロトの話である。そしてムハンマドを訪ねてきた客に、彼の最後に残ったひとかけらの食事を差し出したムハンマドの友人がいる。最後に、のどのかわいた見知らぬ客から飲料水を奪うよりも、かえって自分が渇きで死んでいくことを選択したヒンドゥー教の家長の話がある。

 

― 宗教経典 ―

 

兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。
(注 29)
ヘブライ人への手紙13.1~ 2
(キリスト教)174

 

あなたがいくら少ない食べ物をもっていても、あなたの家に入ってくる人には、誰でも食べることができるように配慮せよ。もしあなたが食べ物をあげずにいれば、それはあなたに死の根源になるだろう。
ウィネバコ族、父の訓戒(アメリカ先住民の宗教)175

 

神と最後の〔審判の〕日を信ずる者は、口をひらけば良き言葉を語り、さもなければ口をふさいでいるべきである。神と最後の日を信ずる者は、隣人に対し寛大であらねばならない。神と最後の日を信ずる者は、客を遇するに寛大でなければならない。
ナワウィー 40 のハディース15
(イスラーム)176

 

一家の夫と妻は、食事時に来て食物を乞う者を、誰であろうと追い返してはならない。もし食物が得られなければ、休む場所、元気を取り戻すための水、体を横たえるための葦のむしろ、客人を楽しませるための愉快な言葉、少なくともこれらは善人の家からなくなることはない。
アーパスタンバ・ダルマ・スートラ8.2
(ヒンドゥー教)177

 

二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき、ロトはソドムの門の所に座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏して、言った。「皆様方、どうぞ 僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください。そして、明日の朝早く起きて出立なさってください。」(注 30)彼らは言った。「いや、結構です。わたしたちはこの広場で夜を過ごします。」しかし、ロトがぜひにと勧めたので、彼らはロトの所に立ち寄ることにし、彼の家を訪ねた。ロトは、酵母を入れないパンを焼いて食事を供し、彼らをもてなした。彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた。「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」ロトは、戸口の前にたむろしている男たちのところへ出て行き、後ろの戸を閉めて、言った。「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」
創世記19.1~ 8(キリスト教)178

 

ある人が使徒に会いに来たとき、使徒が夫人たちに、客に食べる物を用意しなさいと言うと、彼女たちは、「水以外には本当に何も用意するものがありません」と答えた。すると使徒が、「誰かこの人に食べる物を分けてあげることはできないか」と尋ねた。教徒仲間の中の一人が、「私がします」と言い、その人を自分の夫人のところに連れていって言った。「神の使徒の客人をよく接待してください」。夫人が答えた。 「子供たちの夕食以外には何もありません」と言うと、彼が言った。「それでは、食べ物を準備して、ランプを灯し、子供たちが夕食を求めたら寝かせなさい」。それで彼女は食べ物を準備し、ランプを灯し、子供たちを寝かせた。そして起き上がり、ランプを手入れするふりをして火をつけた。そしてその人と妻は食べ物を食べるふりをしたが、実際は夜通し空腹だった。翌日、その教徒が神の使徒のところに来たとき、使徒が言った。「昨晩、神が笑顔でおられた」。そのとき神がこの言葉を啓示された。「たとえ彼らが貧しくても、自分たちより他の人を優先したのだ」。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)179

 

ランティデバの名声は、この世界だけでなく、他の世界でも賛美される。彼は自分がたとえ飢えていても、神が彼の必要なものを満たしてくださるという信仰で、財物が入ってくれば、即座に人に分けてあげていた。世の中に飢饉が起き、彼の家族は皆飢えに苦しんだとしても、彼の寛大さは続いた。
48 日間、彼と家族が飢えに苦しんでいたが、わずか一人が飢えを満たせる飲み物しか残っていなかった。彼がそれを飲もうとしたとき、賤民が食べる物を請うてきた。この光景にランティデバは、胸が張り裂けそうになりながら思った。「私は決して神に権能ある偉大な国土を望んだり、あるいはサムサラでの解放を求めない。私は一切衆生の胸の中にいて、彼らの悲しみをなくすようにしよう」。たとえ渇きで喉が焼けそうになっても、その慈悲深い王は、少ししか残っていない飲み物をその賤民に渡してあげた。
シュリーマッド・バーガヴァタム 9
(ヒンドゥー教)180

 

― み言選集 ―

 

家に貴い客を迎えるために、いつでも準備する家は福を受けます。
(100-259、1978.10.22)

 

訪れる人を王のように迎え、王のように侍り、王のように接待しなさいというのです。
(89-290、1976.12.4)

 

友達が家に来れば「自分の家よりもここのほうがいい。麦飯を食べたとしても、粥を食べたとしても、うちの御飯よりもおいしい。もう一晩だけ泊めてくれないか」と言う、そのような家庭を築きなさいというのです。訪ねてきた人、訪ねてきた友達がみな、自分の家を捨ててその家に来たいと思うような家庭になってこそ、その家庭は天国の家庭となるのです。
(16-328、1966.7.31)

 

遠い所から自分の家を訪ねてきて、軒先、あるいは客間で寝たいと思う客をたくさんもつほど、その家庭は福を受けるのです。それで、その家がうわさになり、郡から押し寄せ、さらには国から押し寄せ、世界から押し寄せてくる家庭になることを、互いに競争する時代だというのです。物が豊かでそのような生活をするのではありません。心が豊かだからそのようになるのです。固いパンを食べても、それが幸福です。
(244-49、1993.1.29)

 

家庭天国を成しなさいというのは神様のみ旨です。それでは、家庭天国とは何ですか。通りすがりの乞食もこの家に入っていきたいと思わなければならず、寒ければこの門前にでも入っていって寄り掛かって眠っていきたいと思わなければなりません。通りすがりの犬も入ってきて「くんくん」し、寒くても門前に来て眠っていかなければならず、飛んでいく鳥たちもそうでなければなりません。鳥が糞をするときも、門前に来て糞をしたいと思い、その門前に来て暮らしたいと思うようにならなければなりません。そのような思いをもつようにしなければならないのです。……そのような家になってこそ栄えるのであり、天が共にいるのです。なぜですか。神様の愛が宿った所だからです。命のあるすべての存在には、神様の愛と平和が宿った所が安息所なのでそのようになるのです。
(100-299、1978.10.22)

 

先生の家門に家訓があるのですが、「全国の山河を歩いていく人に御飯を食べさせてあげなさい」というものでした。それで有名になりました。乞食という乞食は、みな私たちの家に出入りしました。私の母がおじいさんとおばあさんに侍っているとき、家でそのような苦労をしても不平を言わないのを見ながら、有り難く思いました。ですから、私のような人が出てきて世界を食べさせる運動ができる動機ができたのです。
(130-276、1984.2.5)

 

村の数十里内外では、乞食たちが来れば、私の家が乞食たちの集合所になりました。客間では、常に乞食が寝るようになっていて……。私の村に粉屋(こなや。石臼で穀物をひく小屋)がありました。そこには常に乞食たちが集まっていました。私は、その乞食たちとよく友達になりました。家で、餅をつくれば、かわいそうに思って、持っていってあげたのです。 朝、(乞食たちが先生の家を)出ていってどこかに行けば、昼食は誰がくれますか。昼食をくれる人が誰もいないので、私が昼食も持っていってあげたりしたことを思い出します。母親に内緒で、このように……。それはすべて良いことです。母親は、私に食べさせようと思って置いておくのですが、私は、分け合って食べようと、母親が聞く前にもっていって食べさせたのです。
(127-111、1983.5.5)

 

12. 偉大な戒め

愛の法則を扱う最も代表的で含蓄のあるイエス様の戒めは、いかなるものとも比べることができないものである。イエス様が語られた愛は、愛の二つの次元、すなわち天に対する縦的な愛と人類に対する横的な愛にすべて言及している。短いこの節を通して、私たちは、この主題に関する文鮮明先生のいくつかのみ言を見てみることにする。

 

― 宗教経典 ―

 

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし,精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
マタイによる福音書 22.36~40(キリスト教)181

 

ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
ルカによる福音書10.25 ~ 29(キリスト教)182

 

― み言選集 ―

 

神様は私たちに、戒めを許諾してくださいました。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な、第1のいましめである。」(マタイ22・37 ~38)とおっしゃいました。しかし、この戒めを天は人間たちが守る前に先に守られたという事実を、皆さんは覚えておかなければなりません。したがって、このみ言は、今日の堕落した人間が守らなければならない第1の戒めであることをはっきりと知らなければなりません。ところが、皆さんがそのみ言を聞くときに、そのみ言が私から因縁を結んで始まったと思うならば、それは大きな誤解です。このみ言を人間たちの前に示すために、人間の生命の主体であられ、理念の主体であられ、愛の主体であられる天が先に人間のために、心を尽くし、精神を尽くした歴史過程を経てきたことを皆さんは感じなければなりません。言い換えれば、人間がその戒めを守る前に天は私たちに対して精神を尽くし、思いを尽くす立場で人間を抱き、愛してきた事実を、皆さんは覚えておかなければならないのです。また、神様御自身がそれを守られたので、戒めとして立てることができたのです。
(4-305、1958.10.5)

 

天の憲法の中で第1の憲法は何ですか。神様を自分の体以上に愛しなさいということです。次には、神様が愛する兄弟を自分の体以上に愛しなさいということです。その立場に立つ人は、生まれながらにして天上世界のどこに行っても妨げる者がいません。そのような基盤が堕落によって汚されたので、これを清算してきながら、主流となるキリスト教文化圏を中心として世界を統一しようとしたのです。
(195-136、1989.11.7)

 

あなたのすべてのものを犠牲にして愛することが第1の戒めになります。そのような人は、神様と同じ位置に立つことができ、神様の息子になるのです。
神様が喜ばれるように地上にお迎えしなければならないのですが、神様が喜ばれるようにお迎えする基準とは何ですか。神様の心に合う私たちの相対的人格、相対的祭物を備えることです。それで、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な、第一のいましめである」なのです。神様も同じです。「人間に対して、心を尽くし 、 精神を尽くし、思いを尽くして、息子を愛せよ」というのが第1の戒めです。
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛すれば、その次にはどのようになりますか。神様がそのような愛をもってすべての人間に対して横的に現れます。そのようになればすべて成されたというのです。神様の愛と一つになり、その心は横的にその人類を愛することができるので、その家の父母をこの上なく愛し、その次に兄弟をこの上なく愛するので、その家庭は幸福な家庭です。
今日、この世界の人類歴史の中で、神様が居たいと思われる家、その家がどこにあるのかというとき、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛する、そのような心で父母を愛する以上に兄弟を愛することができる家です。そのような家になれば、神様が臨在なさることができるのです。
(101-153 ~154、1978.10.29)

 

第2の戒めは、世界を自分の体のように愛することです。私の命をすべて捧げてでも神様を愛し、私の命を犠牲にしても隣人を愛さなければなりません。自分を保護するためには命を懸けるのと同じように、世界人類を保護するために自分の命を懸けて愛することができる人になる限り、サタンが占領することはできません。サタンを屈服させることができるのです。
(143-137、1986.3.17)

 

イエス様も、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」と言ったのですが、それをどのようにするのですか。それは漠然としているのです。世の中に出ていって、世の中のおじいさんと向き合うとき、皆さんのおじいさんのように向き合いなさいというのです。お母さんのように向き合い、お父さんのように向き合うのです。息子のように向き合うのです。世の中に出ていけば、すべてそのようにしなければなりません。上中下、前後、左右の人が、世界という展示場に展示されています。人の博覧会が世界だということを知らなければなりません。
(128-23、1983.5.29)

 

「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」と言うとき、隣り人とは何ですか。イエスを信じる人が隣り人ですか。違います。その隣り人は世の中の果てにいる人、悪魔サタンの懐にいる人までを意味するのです。イエスが怨讐を愛しなさいと言いましたが、それはローマ兵のことまで意味したのです。隣り人だと考えたのなら、それは隣り人ではありません。それは自分の兄です。統一教会の原理を見れば、カインを復帰しなければなりません。兄を復帰しなければならないのです。
(138-187、1986.1.21)