世界経典Ⅱ 第3部 人生の旅程 第12章 道徳性

第12章 道徳性
1. 姿勢
自制力はすべての徳目の基本要素である。精神訓練をおろそかにする人の心の中には、散漫な思い、感覚の誘惑、欲情、憤怒、物質と金銭的貪欲のような感情が絶えず生じる。そして、この感情が、私たちが悪の行動をするように引っ張っていこうともする。自分の考えや欲望、行動も制御できない人が、どうして他人との関係を円満にできるだろうか。どうやって真理の道に従って人生を生きていくことができるだろうか。哲学者ジョン・ロックは次のように言った。「欲望を治めることができるか否かが人の性格を左右する」。
下記の章句は二つの共通した比喩で自制力に関して説明している。それは正に征服戦争と馬と騎手の例えだ。最も困難でありながら、最も重要な闘いが自分を征服する闘いだ。文鮮明先生は、ある人が世界の変革にいくら高貴な志を抱いたとしても、その根本に自己の主管性を完成できなければ、彼のすべての努力は無駄にならざるを得ないと言われる。自制力を育てるのは、野生馬に乗る騎手に例えることができる。熟練した騎手が馬を制御するように、高貴な志と良心で自分の内面の魁首を制圧しなければならない。馬にくつわをはめるように、自分を否定し、禁欲の束縛に自らを制御しなければならない時もある。しかし、私たちは、あらゆる手段と方法を動員し、欲望によって頭をもたげる気まぐれで低俗な敵を屈服させ、手なづけなければならない。
①自分に勝て
ー宗教経典ー
戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。
法句経103(仏教)1
忍耐は力の強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる。
箴言16.32(キリスト教)2
強い者とは誰か。彼は自らの情熱を制御できる者である。
ミシュナ、アヴォート4.18(ユダヤ教)3
他人を知るものが智のある人であり、自己を知るものが目覚めた人である。
道徳経 33(道教)4
使徒が宣言した。「私たちは小さな聖戦から大きな聖戦に戻ってきた」。彼らが、「おお、神の使徒よ! 何が大きな聖戦ですか」と尋ねると、彼が答えた。「弱い自らに対抗して戦うことである」。 (注2)
ハディース(イスラーム)5
数千数万の勇猛な敵を征服することも、自分を征服することには及ばない。あなた自身と戦え。どうしてあなたの外の敵たちを心配するのか。自らと戦い、これを征服する者は至福を得る……。実に征服し難いものは自分である。しかし、自分を征服すればすべてのものが征服されるだろう。
ウッタラッジャーヤー 9.34 ~ 36(ジャイナ教)6
自ら自己を高めるべきである。自己を沈めてはならぬ。実に自己こそ自己の友である。自己こそ自己の敵である。自ら自己を克服した人にとって、自己は自己の友である。しかし自己を制していない人にとって、自己はまさに敵のように敵対する。
バガヴァッド・ギーター 6.5 ~ 6(ヒンドゥー教)7
私は彼を、彼の敵を征服した人より、自らの欲望を克服した勇気ある人と考える。なぜなら、最も難しい勝利は自分自身を克服する勝利だからだ。
アリストテレス(注1)(ヘレニズム)8
上品の性は教えることができ、下品の性は規制することができる。
韓愈(儒教)9
その人の内なる魂には、すぐれた部分と劣った部分とがあって、すぐれた本性をもつものが劣ったものを制御している場合には、そのことを「おのれに克つ」と言っているのである。いずれにしてもこれは、ほめた言い方だ。そして他方、悪い養育や何かの交わりのために、少数者としてのすぐれた部分が大ぜいの劣ったものによって支配されるにいたった場合は、これに恥ずべき状態として非難して、そのような状態にある人のことを「おのれに負ける」とか「放縦である」とか呼ぶわけなのだ。
プラトン 国家 4(ヘレニズム)10
― み言選集 ―
「天宙主管を願う前に、自己主管を完成せよ」。これが私のスローガンである。神様の愛と生命と真理も、自己主管の上で広げられていくようになる。
御旨の道、人格
怨讐は誰でしょうか。サタンではありません。私が怨讐です。皆さんの心と体が一つになりましたか。それがどれほど大変ですか。世界統一と天地統一、そして私一人の統一の中で、どれがより簡単ですか。どれがより難しいですか。私一人が統一されれば、それを世界化すれば世界統一が可能だということを知らなければなりません。誰が怨讐なのですか。この目が怨讐です。この耳が怨讐です。この鼻が怨讐です。この口が怨讐です。考えが怨讐です。
(91-285 ~ 286、1977.2.27)
堕落したために、私たちにはこれを克服しなければならない要素があります。それで先生は、「宇宙主管、天宙主管を願う前に自己主管を完成しなさい」という標語を立てたのです。これが私の一大標語でした。世界を支配し、世界を主管することが問題ではありません。自己主管をどのようにするのか、これが修練の絶対的な目標であり、歴史を代表する諸宗教が志向すべき責任です。これが今日、私たちに任された重要な責任であるにもかかわらず、その責任課題を忘却しています。
(82-281、1976.2.1)
世界戦争が休戦することよりも、私を中心として心と体が争うこの怨讐関係を解消させることが、もっと難しいことを知らなければなりません。
(320-249、2000.4.16)
②自己修練:内部の野獣性の平定
― 宗教経典 ―
分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。
詩編 32.9(キリスト教)11
人は自分の動物のような性質にくつわをはめなければならない。さらに、悪魔的要望にもくつわをはめなければならない。
エルサレムタルムード、サンヘドリン10.1(ユダヤ教)12
馴らされた騾馬は良い。インダス河のほとりの血統よき馬も良い。クンジャラという名の大きな象も良い。しかし自己をととのえた人はそれらよりもすぐれている。……この心は、以前には、望むがままに、欲するがままに、快きがままに、さすらっていた。今やわたくしはその心をすっかり抑制しよう、―象使いが鉤をもって、発情期に狂う象を全くおさえつけるように。
法句経 322、326(仏教)13
賢者は諸根(感官)を馬とよび、対境を馬にとっての道路、身と諸根と意とを具したるものをば享受者とよべり。
人もし常にその意を検束せざるによりて明識あるものとならずんば、その感官の柔順ならざること、あたかも駻馬の御者に対するが如し。
されど、常にその意を検束するによりて明識あるものとなれる人にありては、その諸根の柔順なること、あたかも良馬の御者に対するが如し。
カタ・ウパニシャッド1.3.3 ~ 6(ヒンドゥー教)14
水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、賢者は自己をととのえる。(注 3)
法句経 80(仏教)15
勇士よ、確かに意は動揺し、抑制され難い。しかし、それは常修と離欲とによって把促される。自己を制御しない者はヨーガに達し難いと、私は確信する。しかし、制御して自己を支配した人は、適切な方法によってそれに達することができる。
バガヴァッド・ギーター6.35~36(ヒンドゥー教)16
自分自身を善良に修める本は、(これに先だって)自分の心を正しくすることにあったといったのは、自分がもし何か怒ることがあると、(その怒りを他事にも及ぼして粗暴になって、心の)正しさを保てず、もし何か恐れることがあると、(ひっこみ思案になって、心の)正しさを保てず、もし何か嬉しいことがあると、(馴れてものごとになおざりになって、心の)正しさを保てず、もし何か心配することがあると、 (沈んで悲観的になって、心の)正しさを保てないものであるから、いかなるものごとにも最もよく対応し得るように、心を平静に、しかも一定に保たねばならぬことをいう(のである)。 (というのは、その正しい)心がはりつめていないと、 (目では)視ていても(それが何であるか)見分けられず、 (耳では)聴いていても(それが何をいうか)聞き分けられず、 (口に)食べていてもその味がわからない(ように、自分が善い行ないをしようとしても、そのものごとに対する正しい判断が得られないからである)。この(ように正しい心を保ってこそ善い行ないができる)ことを自分自身を善良に修める(方法は、それに先だって)自分の心を正しくするに在るというのである。
大学 7(儒教)17
まさにこの世で、身体から解放される前に、欲望と怒りから生ずる激情に耐え得る者は、専心した幸福な人である。
バガヴァッド・ギーター 5.23(ヒンドゥー教)18
思慮ある知者は……身体の状態や養育を獣的で非合理的な快楽に委ねて、そこにのみ関心を向けて生きる、というようなことをしないのはもちろん、健康を目標とすることさえなく、どうすれば強壮になり健康になり美しくなるかということにしても、そのことから思慮の健全さが得られると期待できるのでないかぎりは、これを重要視することもないだろう。彼はつねに、魂の内なる協和音をもたらすためにこそ、身体の内なる調和をはかるのが見られるだろう。
プラトン 国家 9(ヘレニズム)19
― み言選集 ―
人間の良心は神様を代表する心です。良心は私のために存在しません。天の義のために存在します。良心は常に善に向かって走ろうとします。これに体は反抗します。体は自分だけ安らかであろうとし、利己的で、本能的欲求に従って肉欲を行おうとします。良心はこの体を叱責し、心に順応するようにします。ここに常に血の出るような葛藤と闘争が、一つの体の中で起こるようになるのです。ですから昔から歴史を通して、すべての宗教は、自分の体を打つ道を教えてきました。宗教は、肉欲を制御し、体を心に屈服させる道場なのです。宗教は、人間を創造本然の人間へ引っ張っていく道場です。
(219-118、1991.8.28)
先生にとって最も重要なことは、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」ということです。そこに3大要件が入ります。食べることが問題です。そして寝ることが問題であり、愛が問題です。この三つが3大怨讐です。
(366-287、2002.1.17)
いくら修養したとしても、愛のために引っ掛かるのです。美男や美女が誘惑すれば、みな引っ掛かってしまうのです。人間は愛の自立圏を立てられません。神様と一つになる場合にはコントロールできますが、自分自身を中心としていれば性欲を克服し得ません。映画のようなものを見てもそうです。強姦されるとき、「いけない、いけない、いけない!」と思いながらも、そのような感情が生じれば、抱きかかえてしまうのです。そのような映画をたくさん見るでしょう。怨讐までも抱きかかえることのできる力が愛の力だというのです。
(306-196、1998.9.22)
人間の堕落によって、今日、愛は根本的に自己中心的になってしまいました。このような自己中心的な愛は、精神から来るものではなく、肉体を中心にしています。肉体はサタンが活動する所です。肉体はサタンの舞踏場であり、停泊地です。精神は神様が住まわれる所、すなわち主体の位置になります。しかし、精神の対象の位置にあるべき肉体がもう一つの主体になろうと努力しながら継続して精神を誘惑し、だましています。人間の生活で、このような関係を修正することはとても重要です。
ですから神様は、堕落した人間を蕩減復帰しようと、宗教を立てられました。神様は宗教を通して、神様中心の精神を強化する方法、生活と人格に対する肉体の支配を逆転させる方法を人々に教えていらっしゃいます。宗教がしばしば断食、犠牲的奉仕、従順で謙遜な態度等を要求する理由は、正にこのようなところに由来しています。これは、肉体の勢力を減少させ、肉体をして精神に服従するようにさせる方法です。信仰生活を通して肉体中心の生活習慣から抜け出し、新たに精神中心の生活様式をつくり出すまでには、普通3年ないし5年がかかります。
(201-209、1990.4.9)
私たちはまず、個人として完全な私の位置を取り戻さなければなりません。ところが、その道は自分を零点におき、自分を完全否定する道しかないのです。その位置こそ、心と体が完全統一を成し遂げることができるからです。
(356-299、2001.10.21)
各自が指向する量を 100 とするとき、ここで心と体が 50 対 50 ではいけません。そのような人は、中間霊界にとどまるようになります。緩衝地帯にとどまるのです。もし体が 60 であれば、間違いなく地獄に行きます。ですから、皆さんは常に、 「私」という存在が善悪の母体だということを考えなければなりません。
(37-122、1970.12.23)
神様御自身も、霊的に見れば心と体がなければならないのですが、神様も心と体が闘いますか。 (注4)闘いません。皆さんはどうですか。これが一つにならなければ、絶対に天国に行くことはできません。
(305111、1999.4.19)
2. 抑制
自制の道は抑制から始まる。抑制するということは、様々な面を含んでいる。第1に、罪を犯すように誘惑する環境を避けなければならない。このためには、自己自覚が必要である。自身の弱点をきちんと知るとき、妥協する状況を避けられるからである。第2に、突発的性格、驕慢、瞬間的衝動から起きる行動を抑制しなければならない。文鮮明先生も、自身の本来の性格が火のようなものであることを知っているため、絶えず怒りを抑えようとしていると言われる。それが他人にもたらす害を御存じだからである。第3に、非暴力的で温和であること、人を傷つけるよりかえって打たれるほうを選びなさいという宗教的教えも、やはり抑制力を鍛錬するのに役立つ。第4に、文鮮明先生は、数千年間、侮蔑と憤怒を耐えてこられた神様の忍苦と自制力に関して語られる。神様の忍耐に関する教えは、自制力を養おうと努力する私たちに一つの鼓舞の事例となっている。
― 宗教経典 ―
怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。(注 5)
エフェソの信徒への手紙 4.26 ~ 27(キリスト教)20
実に神は私の民の心の中から起きる悪の衝動を赦してくださる。彼らがそれを口の外に出さず、行動に移さなければ。
ムスリム・ハディース(イスラーム)21
釈尊は説いていわれる。悪人があり、他の者がなしたその善を聞いて嫉妬し、わざとその者の所にやって来て、罵り謗ったりすることがあっても、汝は自分の心の腹立ち動くことを抑え、相手を怒り責めたりすることがあってはならない。この方から相手を懲らさなくても、相手の方からやって来て、自分のなした行為に対して気付き、自からに、自からの行為を悪にくむに至るからである、と。
四十二章経 6(仏教)22
一つの腕輪は音を出すことができない。 (注6)
イガラ族の格言(アフリカ伝統宗教)23
人の怒りは神の義を実現しないからです。
ヤコブの手紙1.20(キリスト教)24
アブ・フライラが神の使徒の言葉を伝えた。「強い者は力のある壮士ではなく、怒りがわいたとき、自らを統制する者である」。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース
(イスラーム)25
あなたがたも聞いているとおり、昔の人は「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に「ばか」と言う者は、最高法院に引き渡され、「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
マタイによる福音書 5.21~ 22(キリスト教)26
アヒムサ、すなわち不殺生は、主マハビラが立てた五つの戒律の中で最も重要なものであり、厳守し少しも背いてはならない。一切衆生に対し、常に慎み、慈悲の心を表し、生きたものを殺してはならない。
ダサヴェーヤーリヤ 6.9(ジャイナ教)27
「 屏風の向こうに見えるあなたの両頬は、割いたザクロのかけらのようだ」(歌)。あなた自身を空にするのは、種をいっぱいに抱えたザクロのように、宗教的規律であなたの心を満たすことである。罪を犯す機会に、その罪から逃げてくることができ、犯罪行為を抑制できる心をもった人は、より高貴な宗教的行動を遂行するようになる。だとすれば、謙遜と自制のベールで自らを覆う者はどれほどよいことか!
頌歌ラッバー 4.4.3(ユダヤ教)28
あるとき、自分の心が執着し怒りを生じるようなときは、 (何も)行為をせず、口を開かず、木のごとくあれ。もし、散乱や嘲笑、あるいは自慢や尊大な気持ちから、あるいは他者の過ちを暴こうという心があったり、もし、悪業によって人をだまそうという心があったり、もし自分を誇り、あるいは、他者を非難したり、とがめ、争う心があるならば、そのとき(何も)行為せず、口を開かず、木のごとくあれ。所得と尊敬、名声を欲し、あるいは召使を求め、あるいは注目されることを望み、私の心が奉仕を欲するならば、そのとき(何も)行為せず、口を開かず、木のごとくあれ。利他を捨て去り、自利を求めたい(と望み、そのために何か)言いたい気持ちがおきたなら、そのとき木のごとくあれ。
菩提行論 5.48 ~ 52(仏教)29
― み言選集 ―
気分の悪いことがあれば、そのまま流してしまわなければなりません。気分が悪い心をもったまま大衆の前に出て、あれこれ言うのは偽者です。
(45-269、1971.7.4)
いくら友人が多くても、皆さんがいつも自己主張ばかりすれば、みな離れていくのです。
(36-181、1977.11.29)
信仰の道に立った人々は、自分を中心として腹を立てることが最も恐ろしいことです。ですから、腹を立てないでください。腹を立てないでください。神様を信じていくにおいて、自分の欲心を中心として腹を立てていけば、そっくりそのまま引っ掛かってしまうのです。
(32-34、1970.6.14)
先生も、もともと善の人なのではありません。元来が良い人なのではなかったというのです。ですから、すべてそのようになるかならないか、舌をかみ、このように抑制し、「このように行かなければならない!」と訓練しなければならないのです。外的な怨讐たちは何でもありません。
(320-250 ~ 251、2000.4.16)
もし私が、 「誰々は死ね」と考えたり、「あいつは」と憤慨したり、忍耐できずに口をつぐんで「ん~」としたり、「何カ月後を見ていろ」と思えば、めちゃくちゃになって引き裂かれていきます。それで、舌をかみながら私は何度も我慢しました。私の口で呪うことはできません。真の父母の名をもつ私が自分の口で呪えずに口をつぐんでいると、その怨恨をすべて天が解いてくれました。それを見ると、神様が愛していると思うのです。
(162206、1987.4.12)
歴史路程を見れば、常に先に打った者が負けます。世界大戦を見てください。第1次世界大戦でも先に打った側が、第2次世界大戦でも先に打った側が負けました。第3次世界大戦でも、先に打った側が負けます。 (注7)それで、個人の生活でも、「忍耐しなさい。忍耐する者に福があるので、打たれて忍耐しなさい」というのです。なぜかというと、忍耐すれば立てられる日があるからです。
(7222、1959.9.13)
千年、恨の中で受難の道を、自分自体を制御しながら口をつぐんで忍耐してこられたその神様を尊敬できなければなりません。「神様は本当に私の父です」と言える心を、皆さんがもたなければなりません。私がそれ以上に忍耐しても、父の伝統を千年、万年の後代にまで残せる中心先祖になろうと決意しなければならないのです。
(363-254、2001.12.25)
今日、私たちが忍耐し、忍耐しなければならない原因がどこにあるのでしょうか。私たちが忍耐できなければ、私たちが背負った負債を返すことができず、天が抱いて忍耐してきた怨恨を解怨できないからです。天地の運勢は、神様の摂理と共に回っているので、皆さんは、神様が憤るとき、一緒に憤ることができ、神様の無念さと神様の鬱憤に対して味方になれば、サタン世界は審判されるというのです。今日、信仰路程を歩んでいる私たちに対して、天が温柔、謙遜で、憤慨することなく忍耐して辛抱しなさいという、このようなすべての教えは、すべてそのような理由のためです。
したがって、私たちがそこに一緒に歩調を合わせることができず、神様の摂理との間に、隙間ができれば、サタンが入ってくるのです。ですから、今日の信じる人たちは、無条件に犠牲になり、無条件に従順になり、愛の内的な部分だけに従っていかなければなりません。
(1-113、1956.6.10)
3. 真実
真実だ、というのは不変の性格を意味する。真実な人は、どのような状況にぶつかっても目標を放棄せず、約束を守り、自身の義務を果たす。何よりも真実な人は、家族と共同体に道徳的、霊的中心存在になる。他の人たちがその人に期待し、信頼し、頼ろうとする。文鮮明先生のみ言ことばのように、ダイヤモンドと金が貴い理由は、その不変の光沢のためであるように、ダイヤモンドのような価値をもつ人は、不変の性格をもった人である。
責任と逆境は、その人の真実さを試練する。安楽よりは原則を重要視する人たちが真実な人たちである。その一例が、父のみ旨を捨てるよりは、むしろ王国を捨てることを選んだヒンドゥー教のラマヤーナの英雄ラマである。時には、自分が担った責任を利用して自分の富と発展の機会にしたいという誘惑が来るときがある。逆境でも、常に肯定的な姿勢を維持するのは、一種の挑戦である。命が危険な状況では、義務を守ることがより困難になる。しかし、真実な人は、状況に揺さぶられることなく自分の責務を果たす。そのような人は、課題が与えられたとき、変わらない姿勢で目標に向かっていく人である。
①原理的生活
― 宗教経典 ―
完全な道を歩む人は安らかに歩む。道を曲げれば知られずには済まない。
箴言10.9(キリスト教)30
およそ君子たるものは、ひたすら正しい理法にかなった行為をして、あとはすべて天命に任せて待つばかりである。
孟子 VII.B.33(儒教)31
徳が(国政の)根本のつとめである。産物・貨物はその末端のことである。(それなのに)その根本のつとめをなおざりにしてその末端のことを大切にすると、人民を互いに争わせて物を奪い合うようにさせることになる。
大学10.7 ~ 8(儒教)32
称賛を聞いたからといって喜ばず、非難を聞いたからといって悲しむな。自らの功徳と力をよく知ること、それは卓越した人の特徴である。
善説宝蔵論 29(仏教)33
世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、―これがこよなき幸せである。
スッタニパータ268(仏教)34
先生がいわれた、 「仁でない人はいつまでも苦しい生活にはおれないし、また長く安楽な生活にもおれない。 〔道をはずれるか、安楽になれてしまう。〕仁の人は仁に落ちついているし、智の人は仁を善いことと認めて活用する。 〔深浅の差はあるが、どちらも守りどころがあって動かない。〕
論語 4.2(儒教)35
あなたの一番目の目標を徳としなさい。不道徳な行為をするよりは、かえってお金を放棄し、名声を放棄し、知識を放棄し、地球自体と地球が包むすべてのものを放棄せよ。そして、いかなる状況でも、またいかなる環境でも、あなたが不名誉なことをするのが最善だと決して考えてはいけない。あなたが何かをするようになったときにはいつも、たとえそれは他人には知られず、あなただけが知っているとしても、全世界があなたを見つめていれば、あなたがどのようにしようとするかをあなた自身に尋ねてみなさい。そしてそれに従って行動しなさい。
トーマス・ジェファーソン 36
よい評判を得ようとすれば、人々が考えてくれることを願う人になりなさい。
ソクラテス(ヘレニズム)37
― み言選集 ―
ある人を人格者と言うとき、それはその人の外貌や学閥(注 8)、経歴、または地位を見て言う言葉ではありません。どのくらい原理的な立場で生きているのかを見るのです。外的に華々しく、多様な何かのものを強調するのではありません。天に仕えるにおいて心が変わらない人、そのような心をもって神様のみ旨に合わせ、生活していける人が人格者なのです。
(19-285、1968.3.10)
人の人格に骨がありますか、ありませんか。人格の骨を見ましたか。、人格といえば、人の形態、人の備えた姿をいうのですが、その中には見える人がいるかと思えば、そのように見えるようにする根本を見ると、見えない中に隠れている骨のような形成体があります。その形成体が、見える形体がこのように存在するようになる原因であることを知らなければなりません。
(177-315、1988.5.22)
神様の正しい系統を受け継いだ者として、まっすぐな道を進んでいかなければなりません。正しくないものは屈服させなければなりません。力に対抗して、力ではない、違うものでそれを屈服させようとすれば、何千倍の苦労をしなければなりません。どのような環境でも、収拾して征服できる忠孝の志操を立てなければならないのです。純粋な心で出発し、確固不動な歩みで目的を達成しなければなりません。
(21-83、1968.10.27)
変わる善を中心としては、一つの世界を成すことができない。中心は揺らがない。深いほど穏やかである。太平洋を見なさい。表面では嵐が起こり、波も立つが、深いところは静かである。それに学びなさい。
御旨の道、人格
どのような愛が貴い宝石のような愛、宝物のような愛ですか。不変の愛です。宝物というものは、それ自体が力と価値をもって相手を動かすようになっているのであって、相手がこの宝物を動かすようにはなっていないことを知らなければなりません。
それでは、皆さんはどのような人ですか。相手に影響を与える人が貴い人です。影響を受ける人が貴い人ですか。影響を与える人の中でも、良い影響を与える人が貴い人です。
(118-95、1982.5.9)
歴史上の聖賢たちは、この地に来ては行ったその誰よりも真の人です。それでは、真はどのように成立するのですか。真というものは、未来にだけ成立するのではなく、現在にだけ成立するものでもありません。真は、過去でも真でなければならず、現在でも真でなければならず、未来でも真になることができなければなりません。真は環境を超越します。真の人は、過去でも中心であり、現在でも中心であり、また未来でも中心です。このようなところで真の人が成立するのです。
それでは、人間の世の中で、真に最も近くなり得るものは何でしょうか。今まで大勢の人たちが行き来しましたが、真に最も近いものは何かと言うとき、相対的に現れた師や父母よりも真の母体を成し得る存在は、正に自分自身です。それでは、自分に最も近くなり得る真の相対とは何でしょうか。それは自分自身の心、すなわち良心です。私たちはよく「その人は良心的だ。その人は心が正直だ」と言います。心が正直だというのはどういうことですか。それは過去も正直で、現在も正直で、未来も正直でなければならないことを意味します。
(28-159、1970.1.11)
歴史上の聖賢たちは、この地に来ては行ったその誰よりも真の人です。それでは、真はどのように成立するのですか。真というものは、未来にだけ成立するものではなく、現在にだけ成立するものでもありません。真は、過去でも真でなければならず、現在でも真でなければならず、未来でも真になることができなければなりません。真は環境を超越します。真の人は、過去でも中心であり、現在でも中心であり、また未来でも中心です。このようなところで真の人が成立するのです。
それでは、人間の世の中で、真に最も近くなり得るものは何でしょうか。今まで大勢の人たちが行き来しましたが、真に最も近いものは何かと言うとき、相対的に現れた師や父母よりも最も母体を成し得る存在は、正に自分自身です。それでは、自分に最も近くなり得る真の相対とは何でしょうか。それは自分自身の心、すなわち良心です。私たちはよく「その人は良心的だ。その人は心が正直だ」と言います。心が正直だというのはどういうことですか。それは過去も正直で、現在も正直で、未来も正直でなければならないことを意味します。
(28-159,1970.1.11)
自分を信じて進め! ひたすら一人で行くという立場で、結晶体とならなければならない。
御旨の道、実践
②自分の義務を遂行する真実な人
― 宗教経典 ―
信仰する者、ならびに悪魔からその身を守る者。かれらに対しては、現世ならびに来世における吉報があるのだ。
クルアーン10.63 ~ 64(イスラーム)38
君子たるものは事業のもといをはじめて、その手がかりをのこして、後世の子孫が承けつがれるようにしてやれば、それで宜しいのです。しかしながら、それが成功するかどうかは天命でありまして、人間の力ではいかんともしがたいものです。
孟子 I.B.14(儒教)39
君子は、おる地位に寄り従って、そのなすべきことを成し、その他を慕う心がない。富貴に在っては、富貴のなすべきことを行い、貧賤に在っては、貧賤のなすべきことを行い、蛮夷に在っては、蛮夷においてなすべきことを行い、艱難に在っては艱難においてなすべきことを行なう。君子はどのような地位に在っても、自ら満ち足りて伸びやかである。
上位にいて下を侮らず、下位にいて上にすがらない。己を正しくして人にもとめなければ、恨むこともない。上は天を恨まず下は人をとがめない。
だから、君子は平地にいて、天命に従い、小人は危険なことを行なって得るべきでないものを求める。
中庸14(儒教)40
自分の義務を果たさない者は、誠実な人から尊敬されない。人はその行いによって高貴であるか下劣であるか明らかになり、誠実な人であるか不誠実な人であるか区別される。さもなくば卑劣な者は高貴な者に似るようになり、節操のない者が高潔な者に似るようになるであろう。価値なき者が価値ある者と思われ、堕落した者が有徳の人と思われるであろう。もし私が義務の口実のもとに、社会の混乱を生み出すために仕組まれたこの不義なる道を採用し、経典によって認められていない行いをしたならば、私は善を捨てて悪のみを得なければならないであろう。 (注9)もし私が堕落した卑劣な振る舞いをしたならば、何が義であり何が不義であるかを見分ける事のできる分別のある者の内、一体誰が私を尊敬すると言うのか?……
義務の本質は真理であり、義務はこの世界の全ての根本であると言われている。義務を支えるのは真理であり、全ては真理に基づいている。真理より偉大なものは無い。供物、犠牲、献酒、苦行、禁欲、そしてヴェーダは、みな真理を基礎としている。したがって真理は全てに先立つものである。それのみが世界を支え、それのみが家庭を支える。それに従わなければ地獄に送られ、それのみが天において讃えられる。真理に献身していた父の命令に、どうして私が従わずにおられようか? 野望も、怠慢も、そして誇りも、私をして道徳の橋を壊させることは出来ないであろう。
ラーマーヤナ、アヨーディアーの巻109
(ヒンドゥー教)41
葉公の子高が、斉の国に使者になって行こうとするとき、孔子に意見を求めていった。「楚王は私に、たいへん重い使命を与えられました。これからまいります斉の国では、使者をひどく丁重に待遇してくれるでしょうが、要求を急に聞いてくれることはないと思います。ただの人間を相手にしても、説きふせることはむずかしいのに、相手が諸侯では、なおさらのことです。それで、私もたいへん心配している次第です。……」。
孔子は答えた。「およそ世のなかには、心に戒めなければならない大事が二つある。その一つは命―天命であり、その一つは義―人間としての義務である。子が親を愛するのは命であり、自然の道によって定められたものであるから、いつも心から離れないものである。臣下が君主に仕えるのは義である。この天地のあいだで、君臣の義からのがれる場所はない。だから、この二つを、心に戒めなければならない大事というのである。
したがって、親に仕える子としては、どこにあっても親を安心させるのが、最上の孝である。君主に仕える臣下としては、どのような仕事であろうとえり好みしないで、これを果たして君主を安心させるのが、最高の忠である。
自分の心を主人のようにたいせつにするものは、哀楽の情がかわるがわる面前に立ち現われても、心の安らかさを乱すことがないようにするものである。したがって、もはや人間の力では、どうすることもできないことだとさとった場合には、運命のままに安んじて従い、哀楽の情に動かされないことこそ、最高の徳である。
人の臣下であるもの、人の子であるものにとっては、どうしても、やむにやまれないことがあるものだ。その場合には、与えられたことのままを行なって、自分自身のことは忘れるがよい。どうして生を喜んだり、死を憎んだりするひまがあろうか。……
すべて、物事のなりゆきのままに身をのせて、心を労することなく自由に遊ばせ、やむにやまれぬ必然の運命のままに身をゆだねて、自然のままの中正の道を養うようにすれば、それが最上の道である。何事かを行なって、よい結果を得ようなどと思ってはならない。ただひたすら、天命のままに従うのが、いちばんよい。これは、たやすいようで、実はむずかしいことなのだ」。
荘子 4(道教)42
― み言選集 ―
忠臣と奸臣は、本来人物としては同級に属する。ただ、忠臣は王様のみ意に従順であるが、奸臣は自分を立てようとする。忠臣は、常に直線上を歩み、する仕事も始めと終わりが同じである。
御旨の道、従順
今日、多くの人々は、絶対的な中心をもっていなので、心が朝夕に変わります。そのような人たちを人格者と言うことはできません。人格者とは、一生を通して約束したことを守ろうとする人であり、義の水準が高い人です。何かが決定したあとは、あれこれと変更があってはいけません。皆さんは、自分が約束したことに対しては、たとえ宇宙の法則が変わったとしても絶対に変わらないという人格者にならなければなりません。
(23-100、1969.5.14)
天倫に対して人間の志操を守り、天上の因縁を身代わりでき、人類の因縁を身代わりでき、宇宙の因縁を身代わりし得る価値を探し立てなければなりません。さらに、神様のみ旨に対して永遠に変わらない皆さんの立場を回復し、永遠に「ために生きられる」その方の価値を謳歌し得る人にならなければなりません。皆さん自身が全体と因縁を結び、その因縁の実践像が、神様の創造の美を完全に現せなければならないのです。このように、人間をして自分自身の生の価値を取り戻していくようにさせるのが、人間に対する神様の摂理の最高目標です。
(2-336 ~ 337、1957.8.4)
統一教会の文先生を、神様はなぜ必要とされるのですか。なぜ必要なのですか。顔が良いからですか。何のためですか。知識が何か世界的なものがありますか。何もありません。権力がありますか。お金がありますか。何もありません。何でもないのです。しかし、神様のみ旨を知り、それをしてさしあげようと、命を尽くして一度それを成し遂げてさしあげようという、そのことのゆえに神様が私をつかんでいらっしゃるのです。それ以外には何もありません。
私が皆さんを必要とするのは、皆さんのお金を取ろうというのですか。私が権力を得ようというのですか。何もありません。神様のみ旨のために生きようという、か細い小さなその心が、アメリカの何かの権力よりも必要であり、どこの誰よりも強いと思うがゆえに、皆さんを私が必要とするのです。
(77-16 ~17、1975.3.23)
③環境によって左右されない真実な人
― 宗教経典 ―
その昔、このサーヴァッティにヴェーデーヒカーという女性資産家がいました。女性資産家には、次のような良い評判が立っていました。「……ヴェーデーヒカーは温和である。……従順である。……冷静である。」と。女性資産家ヴェーデーヒカーには、カーリーという賢明で、働き者で、丁寧に仕事をする女性奴隷がいました。さて、比丘たちよ、女性奴隷カーリーはこう思いました。〈わが尊女にはこのような良い評判が立っている。わが尊女は内心に怒りがあっても顕わさないのか、それとも無いということであろうか。それとも、私がこれらの仕事を丁寧にしているというだけの理由で、わが尊女は内心に怒りがあっても顕わさず、無いのではないということであろうか。私は、尊女を観察してみてはどうであろうか〉と。そこで、……女性奴隷カーリーは日中に起きました。すると、……女性資産家ヴェーデーヒカーは女性奴隷カーリーにこう言いました。
「これ、女性奴隷カーリーよ」「日中に起きるとは何ごとですか」
「何もございません、尊女さま」……このように怒り、心喜ばず、渋面しました。そのとき、……女性奴隷カーリーはこのように思いました。〈わが尊女は内心に怒りがあっても、顕わさないのであり、無いのではない。私は、尊女をさらに観察してみてはどうであろうか〉と。そこで、……女性奴隷カーリーは、日中さらに遅く起きました。すると、……女性資産家ヴェーデーヒカーは女性奴隷カーリーにこう言いました。
「これ、女性奴隷カーリーよ」「日中遅くに起きるとは何ごとですか」
「何もございません。尊女さま」
「日中遅く起きながら、何もないですって、性悪い奴隷よ」このように怒り、心喜ばず、不快な言葉を発しました。そのとき、……女性奴隷カーリーはこのように思いました。
〈わが尊女は内心怒りがあっても顕わさないのであり、無いのではない。私がこれらの仕事を丁寧にしているというだけの理由で、わが尊女は怒りがあても顕わさないのであり、無いのではない。私は、尊女をさらに観察してみてはどうであろうか〉と。そこで、……女性奴隷カーリーは、日中さらに遅く起きました。
「これ、……カーリー」「日中に起きるとは何ごとですか」このように怒り、心喜ばず、 閂の楔をもち、頭に一撃を加え、頭を割りました。そのとき、……女性奴隷カーリーは、頭が割れ血を流しながら、付近の者たちに不満をもらしました。
「皆さん、温和なお方の行為を見てください。……冷静なお方の行為を見てください。どうして一介の奴隷に対して、 〈日中に起きるとは〉といって怒り、心喜ばず、閂の楔で頭に一撃を加えることがありましょうか」と。
……女性資産家ヴェーデーヒカーには、後日、このような悪い評判が立ちました。……ちょうどそのように、……ここにある比丘は不快な言葉の道が気に触らない限りにおいて、大変に温和であり、……従順な者であり、……冷静な者です。しかし、比丘たちよ、不快な言葉の道が比丘の気に触るときにこそ、比丘は〈温和な者である〉と知られるべきです。 〈従順な者である〉と知られるべきです。 〈冷静な者である〉と知られるべきです。
阿含経中部 i.123 ~124(仏教)43
よく学んだ高潔な弟子は、苦痛を感じたとき、すすり泣かず、泣きわめかず、胸をたたくこともなく、慌てたりもしない。彼は肉体的に感じているが、精神的には何も感じていない。……
さらに、彼は苦痛に対して強い反感も感じない。彼はそれに全く反感を感じないため、苦痛に反発する潜在気質は彼を捕らえて閉じ込めることができない。なぜか。比丘よ、よく学んだ高潔な弟子は、感覚的な平安さの外に苦痛から抜け出す居所を知っているからである。彼は感覚的な平安さを楽しむことがないため、感覚的な平安さに対する潜在気質は彼を捕らえて閉じ込めることがない。……
もし彼が楽しさを感じれば、彼はそれを束縛から自由なものとして感じるだろう。もし彼が苦痛を感じれば、彼はそれを束縛から自由なものとして感じるだろう。もし彼が楽しさでもなく苦痛でもないものを感じれば、彼はそれを束縛から自由なものとして感じるだろう。
阿含経相応部 36.1.1.6(仏教)44
― み言選集 ―
金の価値は、火の中に入れられても、その本質が変わらないところにある。人間の価値も同じである。もし苦労の道にぶつかって、その志が変質するとしたならば、人格者といえないだろう。
御旨の道、人格
心が変わるために行く方向が変わるのであり、行く方向が変わるために目的が変わるというのです。心が変わって一つの目的を達成するということはあり得ないことです。心が一つになっても目的を成し遂げるのが難しいのに、二つの心をもって一つの目的を成就するということは、ますますあり得ないことです。
このようにすべてのことを見る時、一つの心が必要なのです。朝の心と昼の心と夕方の心が一つにならなければならず、初年時代の心と中年時代の心と末年時代の心が一つにならなければなりません。このように誰でも一つの心をもって始めて、一つの心をもってその過程を開拓し、一つの心を中心として結果を追求するならば、その期間が長ければ長いほど、その人の願う目的も大きいでしょう。
私たちは一つの心をもたなければなりません。ある目的を追求するにおいても、一つの心をもたなければなりません。一つの心を離れては、その目的を成し遂げることはできないのです。こういうことを見る時、神様は二つの心をもって天地を創造されなかったことが分かります。一つの心から始まって、一つの目的を達成するためには、一つの方向を備えた過程を経なければならないようになっているにもかかわらず、今日の人間は、一つの心の形態を備えることができずにいます。
(28-155、1970.1.11)
堕落以降の人間を見てみれば、どれほど心の世界が変わるか、千態万状です。心の本性が絶対に変わらず、体が本来の永遠の形態を備えたならば、そのような男性と女性は、貴い男性、貴い女性になるのです。白人カラーは唯一で変わらないので貴いのです。黒人カラーも唯一で変わらないので貴いのです。貴いものとは何か知っていますか。いくら白人でも、心が変わり、行動が変われば、世俗的でサタン側になるのです。
いくら白人が立派な立場で彼らの役割を誇ったとしても、心や行動が変われば、世俗的な人間になります。これを知らなければなりません。変わらないすべてのものは、いつ、どこでも神聖なものなのです。このような人は、たとえ位置が違ったとしても、この歴史において、この世界において貴い人です。
手の形や顔は変わりません。それでは、人において変わるものは何ですか。心が変わるので、正にここが悪魔の舞踏場になり得るのです。心が変わる男性を好む女性がどこにいますか。そのような女性がいれば、その女性自身が完全な女性になり得ますか。皆さんは貴い人になりたいと思いませんか。
それでは、貴いカップルとは、どのようなカップルですか。一度真の愛で一つになれば、永遠に変わらないのです。歳月がそのカップルについていくのであって、そのカップルが歳月についていくのではありません。数千年の歳月が彼らについていきます。そのような人が永遠の生命の中心です。ですから、数千年をコントロールする中心が、正にそのような人だというのです。そのような人が正に神様のような聖人なのです。神様は、数千年の間、宇宙をコントロールしてこられるのです。いくら季節が変わり、地球が変わり、宇宙が変わったとしても、神様はそれについていきません。これはとても明白な結論です。
(217-303 ~ 304、1991.6.12)
4. 正義
正義感あふれる人生とは、高貴な価値を敬い、共同の利益のために献身する人生である。正義感のある人たちは、社会にビジョンを提示し、真の価値を鼓舞する霊的、道徳的な柱のような存在である。彼らの勇気と道徳的清廉さ、社会奉仕は善の市民の手本である。義とは、時により大きな善を地域社会や国家、さらには世界に向ける努力として表出される。文鮮明先生は、このような人を、公的人生を生きていく公人と呼ばれる。そして、利己的で自分の欲求ばかり満たそうとする動機を捨て、私たちがより大きな善のために生きていこうとする心をもたなければならないと教えていらっしゃる。
正義感のある人になるのは簡単ではない。この人たちは、常に個人の利徳の前に公的な義務を優先する。自分が取るすべての行動が適切か、真摯に考える。腐敗し堕落した社会では、正義感のある人たちがいつも歓迎されるとは限らない。甚だしくは迫害されることもある。しかし、旧約のソドムとゴモラの話から 10人の義人のゆえに、神様が罪の多い都市を快く赦してくださると約束されたように、義は高貴な価値をもっている。どの社会であれ、そのような人が要求される。
①自分を犠牲にして悪に対抗する義人
― 宗教経典 ―
先生がいわれた、「君子が天下のことに対するには、さからうこともなければ、愛着することもない。〔主観を去って〕ただ正義に親しんでゆく。」
論語 4.10(儒教)45
神が人間を、互いに抑制し合うようし向けられなかったならば、大地はきっと腐敗したことであろう。
クルアーン 2.251(イスラーム)46
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
マタイによる福音書 5.10(キリスト教)47
ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
ヨハネによる福音書 2.13 ~16(キリスト教)48
勝利を望む者は、腕力や能力によって勝つのではなく、むしろ真理、哀れみ、正義、そして霊的修養によって勝つのである。そして義と不義とを識別し、貪欲とは何かを悟り、努力を頼みとするときには、おごることなく戦え、なぜなら正義のあるところに勝利があるからである。これらの条件を知り、ああ王よ、この戦いにおける勝利は我々にあることを知りなさい。実に、クリシュナのあるところに勝利があるのである。
マハバーラタ ビーシュマ・パルヴァン 21
(ヒンドゥー教)49
歪曲された非難で私たちを悪く言わないようにし、政府を破壊するという脅しに恐れることなく、私たちを監獄に閉じ込めるという脅迫、やはり介意しないでください。正義が力になるという信念をもち、その信念の中で私たちの義務を理解し、それに従って自信をもって行動することを願います。
エイブラハム・リンカーン(注10)50
― み言選集 ―
「義」の字を見ると、不思議なのです。「羊のような我」という意味です。本当に不思議な組み合わせでできています。
(92-309、1977.4.24)
神の国と神の義のために冒険が必要であれば、その冒険を通して前進するようになるとき、神様が、「うむ! やりなさい! やりなさい!」とおっしゃるのです。それで、非難されるところを訪ねていくようにするのです。そこでぶつかれば、神様は「あれに一度ぶつかればどのようになるか」と……。それで、自力で屈服させるようになれば、神様は、「あ~、よいなあ」とお待ちになるのです。人と同じです。さあ、これは闘うこともなく恐れをなしているのですが、神様が彼を助けてくださいますか。「うんうん、やりなさい! やりなさい!」。世の中のどこにそのようなことがありますか。ですから、善意の問題を起こしなさいということです。
(104-108、1979.4.15)
皆さんは、最初に善か悪かを分けなければなりません。善悪がどこにあるのでしょうか。善悪は世界に満ちていますが、善悪を分けるべきその分岐点は皆さん自身です。これを知らなければなりません。世界が悪だと言うとき、その悪の世界と相克なく生きる人は悪の人です。私はこの世界と相克なく生きるという人は、悪の人だというのです。堕落圏内にいながらも、網にかかっている魚と同じように、反旗を翻すことなくそのまま生きている人は、悪の人です。悪の世界と相克を起こさなければならないとき、ただそのまま生きていく人は、悪の人です。今生きている世界が悪の世界だということを知れば、反旗を翻さなければなりません。
それでは、なぜそのようになったのでしょうか。人間が堕落したからです。堕落して落ちたので、解放を迎えるためには、再び上がっていかなければならず、再び上がっていくためには、身もだえしなければならないのです。そのままでは駄目です。そのような人を通しては、人類が追求する新しい世界を迎えることはできず、新しい歴史の発展を期待することはできず、歴史的な善の痕跡を残すことはできません。ですから、善を掲げてきた人たちは、闘争しなければならないのです。
(33-42、1970.8.2)
迫害を受けて困難であるほど、より強くなるのが正義の本質なので、打てば、反対にもっと発展するという原則が成立します。
(93-134、1977.5.21)
善の心は、ある目的を指向しても、その目的とするところをはっきりと知ることができず、その過程においても善の心を刺激させ得る因縁を発見するのが難しい反面、悪のものは、その過程にいっぱいに満ちていて、最初から最後まで連結されています。このような点から見るとき、真を追求する心をもった人は、孤独な生活、悲しい生活をせざるを得ない立場に追い込まれるようになっています。
善をつかんでいく人の道は、平坦な道になり得ないという事実を知らなければなりません。人知れず善の人格を追求する人がいるとき、彼を歓迎する人は、この地に多くはないという事実を私たちは知るようになります。善の個人が善の家庭を慕い求めていくにおいても、環境が歓迎してくれないことが分かるとき、善の家庭が善の氏族を慕い求めていく道には、より難しい悪条件がその環境を取り巻いていることを感じるようになるでしょう。
(36-52、1970.11.15)
今、一つの峠を越えていかなければならないその道を見守られるお父様の前に、恥ずかしさを感じず、堂々と浩蕩な男としてまいりますので、お父様、その道を見守られ、誇りに思ってくださることをお願い申し上げます。
(134-142、1985.2.25)
②義人は公的に生き、自分の福祉と公共の善を同一視する
― 宗教経典 ―
だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
マタイによる福音書 6.31~ 33
(キリスト教)51
正しく仕えるということは、なんじらの顔を、東または西に向けることではない。およそ正しく仕えるとは、神と最後の審判の日、諸天使と諸聖典と予言者たちを信じ、かれを愛するためにその財産を、近親・孤児・貧者・たび路にある者・物請いや奴隷の解放のために費やし。礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなし、約束したときはその約束を果たす。また困苦と逆境と非常時に際しては、よく耐え忍ぶ者。これらこそ真実な者であり、またこれらこそ主を畏れる者である。
クルアーン 2.177(イスラーム)52
わたしが身寄りのない子らを助け /助けを求める貧しい人々を守ったからだ。死にゆく人さえわたしを祝福し /やもめの心をもわたしは生き返らせた。わたしは正義を衣としてまとい / 公平はわたしの上着、また冠となった。わたしは見えない人の目となり / 歩けない人の足となった。貧しい人々の父となり / わたしにかかわりのない訴訟にも尽力した。不正を行う者の牙を砕き /その歯にかかった人々を奪い返した。
ヨブ記 29.12 ~17(キリスト教)53
彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく / 暗くなってゆく灯心を消すことなく /
裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない / この地に裁きを置くときまでは。
島々は彼の教えを待ち望む。
イザヤ書 42.2 ~ 4(キリスト教)54
公孫丑がいった。「では、先生は告子よりも、どこがまさっているのでございましょうか。」孟子はこたえられた。「わたしは他人の言葉をよく判断する。また浩然の気をよく養っておる。公孫丑がまたいった。「……浩然の気とは、いったい、どういうものなのでしょう。」孟子はこたえられた。「言葉ではなかなか説明しにくいが、この上もなく大きく、この上もなくつよく、しかも正しいもの。立派に育てていけば、天地の間に充満するほどにもなる。それが、浩然の気なのだ。しかし、この気はいつも正義と人道とにつれそってこそ存在するものだから、この二つがなければ、この気は飢えてしぼんでしまう。これはたえずこの道義を行なっておるうちに自然と生れてくるもので、下界からむりやりいっぺんに取りいれることができるものではない。自分の心になにか疚しいことがあると、すぐに飢えてしぼんでしまう。……それは、いつもほかのものに伴われているものであるから、決して気だけを目的として養ってはいけない。そうかといって忘れてしまってもいけない。あの宋人のようにあせって助長してもいけない。」
孟子 II.A.2(儒教)55
― み言選集 ―
皆さん、福を受けることを願いますか。永生することを願いますか。そうしようとすれば、公的な人にならなければなりません。
(31-168、1970.5.24)
ほかの人たちを感動させる、「ために生きる」立場に立つようになるとき、個人の峠を越えるのです。
(241-118、1992.12.20)
人間は本来、自分個人だけのために生きるようにはなっていません。ところが、今日のこの地上には、自分個人だけのために生きる人が多いのです。「自分のために仕事をする」と言います。つまり、自分自身のために生きるというのです。どれほどかわいそうな人ですか。父母も、兄弟もいない孤児と同じです。「私は世界の人類のために生きる」と言えなければなりません。
(24-21、1969.6.22)
「本部で最も困難なこと、国で最も困難なことを私がやった」と言わなければなりません。統一教会での困難なことをいうのではありません。さらには「世界で最も困難なことを私がやった」と言えなければなりません。これを気分悪く思いながら行い、嫌々やれば、僕として終わるのであって、養子の橋を架けて上がってくることはできません。 (注11)今日の世界のあらゆる困難を、僕たちがするあらゆる困難を、私が喜びで消化しなければなりません。
(113-111、1981.5.1)
「できる、できない」、心配する必要はありません。そのようにしたのかしなかったのかが問題です。
(308-209、1999.1.5)
公的な人たちは、言葉を話すときも公的な話をしました。行動し、見て、聞いて、感じて、考えて、食べて、寝ること、すべてがそうでした。ですから、公的な心をもっている目はすべて愛するようになるのです。
(111-244、1981.2.22)
信仰者として最も注意しなければならないこととは何でしょうか。あることに対するとき、ささいなことであろうと、大きなことであろうと、事のいかんにかかわらず、個人的に対してはならないということです。言い換えれば、皆さんの心がぱんと張っていなければならないのです。空気をぱんぱんに入れて、完全に丸くなったボールのような心の姿勢をもつのです。ぺちゃんこではなく、完全にぱんと張ったボールのような心の状態にならなければならないというのです。そうではなく、不安な心や、あるいは個人の欲望を中心とした邪悪な心をもてば、丸いボールのような心に角が生じます。
(40-278 ~ 279、1971.2.7)
③義人は民族の守護者
― 宗教経典 ―
アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
創世記18.23 ~ 25(キリスト教)56
しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。(注12)
列王記上19.18(キリスト教)57
エルサレムの通りを巡り / よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか / 正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。「主は生きておられる」と言って誓うからこそ / 彼らの誓いは偽りの誓いとなるのだ。主よ、御目は / 真実を求めておられるではありませんか。
エレミヤ書 5.1~ 3(キリスト教)58
常に国家には 30 人の義人がおり、彼らの恩恵により世の中の国々は存続し続けることができる。(注13)
タルムード、フッリーン 92a(ユダヤ教)59
― み言選集 ―
レバレンド・ムーンがこのようにアメリカに来て、できる限りたくさんの仕事をしながら、大勢のアメリカの人たちを苦労させる理由があります。そのようにして発展すれば、アメリカの福になるのであり、神様が下さった責任をアメリカが果たせなかったことを終息させ得る一つの蕩減条件になるのです。そうすれば、私が、「この人たちを見てお赦しください」と祈祷できます。「神様! アメリカは滅んでも、彼らを見て滅びないように……」、ソドムとゴモラが滅びるとき、義人が 10 人いれば赦すと言われたのと同じように、「このアメリカは滅んで当然ですが、このような彼らを中心としてお赦しください!」と祈祷できるのです。
(103-200、1979.2.25)
愛国者が大勢いますが、聖人はめったにいません。聖人は、世界のために自分を犠牲にする人です。レバレンド・ムーンが愛する皆さんを聖人にしたいでしょうか、愛国者にしたいでしょうか、あるいは孝子にしたいでしょうか。私は皆さんを聖人にしたいと思うのです。
(111-141~142、1981.2.8)
5. 誠実と確実
人の内的意図は行動の結果に至大な影響を及ぼす。言い換えれば、どのような行動が善なのか悪なのか、効果があるのかないのかは、動機によって決定されるのである。仏陀が「法句経(ダンマパダ)」で強く説教したように、あらゆる行動は心から始まる。心から創出されるのである。内的心の状態に従って行動が出てくるものである。
下記のある経典の章句では、「信実」とは、あらゆる虚飾と利己的欲心が排除された、心の自然的で自発的な流れだと定義する。また、ほかの経典では、真実で信実な心を実践するためには、自己探求と自己涵養が要求されるという。文鮮明先生は、自ら「精誠」と呼ばれる、この信実な心を高揚させることが霊的な人生に必需的だと語られる。この節では、精誠を日常生活に必要な徳目として扱っている。神様に近づく信実さと関連した主題は、第 16 章の「献身」と「純粋な意図」により詳細に紹介されている。
①誠実は心情から自動的にわきでる
― 宗教経典 ―
ある人の心が堅実なら、彼の体も満ち足りており、……ある人の心に悪意があれば、その体も悪意をもつ。
ハディース(イスラーム)60
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。―車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。―影がそのからだから離れないように。
法句経1~ 2(仏教)61
アブ・フライラが神の使徒の言葉を伝えるには、「神はあなたの外貌と所有物を御覧にならない。ただあなたの心と行為をご覧になる」。
ムスリム・ハディース(イスラーム)62
清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。
テトスへの手紙1.15(キリスト教)63
己に対して誠であることを見ないで発すると、発するごとに当たらず、業(世事)が入って(心をかき乱して)も捨てないと、そのたびごとに、 (心の真を)失うようになる。
荘子 23(道教)64
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
ローマの信徒への手紙12.9 ~10(キリスト教)65
誠は、天理本来の姿である。誠であろうとするのは、人の当然の務めである。真実無妄で、思勉するまでもなく、おのずからにして道に当たるのは聖人である。
中庸 20.18(儒教)66
喜怒哀楽(の情)がまだ発動しないのを中といい、発動して皆節度にかなうのを和と言う。中というのは、天下の大本(即ち、天命の性であって、天下の理は皆ここから出て来る、道の本体)である。和というのは天下の達道(即ち、性に従う意であって、天下古今の者が皆それによって行なう、道の働き)である。中和を推し極めれば、天地は、その(あるべき)所に安んじ、万物はその生を遂げる。
中庸1.4~5(儒教)67
真とは、心が純粋で誠実であることの極致をさしていうのだ。心が純粋でなく、誠実でなければ、他人の心を動かすことはできない。だからむりに死者のために泣くものは、どんなに悲しそうにしても、人に悲しさを感じさせない。むりに怒るものは、いかに威厳をつくろっても、人に威圧を感じさせることがない。むりに親しもうとするものは、いかに笑顔を見せても、人になごやかさをおぼえさせることがない。
真の悲しみは、声を出さないで悲しむものであり、真の怒りは、表情に出さなくても威厳をそなえ、真の親しみは、笑顔を見せなくてもなごやかさを覚えさせるものだ。このように、真が心のうちにそなわっているものは、それが心のはたらきとなって、自然に外に現れるものである。これが真をとうとぶ理由にほかならない。
荘子 31(道教)68
― み言選集 ―
私の内なる人である心と話をしなければなりません。人の心が神様と共に共鳴するようになれば、神様と関係を結ぶようになり、宇宙の真理は自動的に分かります。
(102-34、1978.11.19)
善なる人は、自然を見ても、人と会っても、どこへ行っても、いつでも心情でもって包むことのできる者である。
御旨の道、自然
神様の前に至誠を尽くすことは、人から聞いたり、学んだり、導かれたりしてなせることではない。自動的に心情がわき出るからするのである。ゆえに、忠、孝、烈は教えられてできるものではない。
御旨の道、心情
私が精誠を尽くし、愛するものは、私のものだというのです。福は神様がもっています。恨を越えて福を与えたいと思う心が貯蔵されているので、福を受けることができるか考える必要はないのです。福は自動的に来るようになっています。その心をもって生活に適用し、動いてみることを願います。
先生は、あることに着手すれば、「このために生まれた!」と考えます。私はこのために生まれました、生まれたのはこのためです、と考えなければなりません。その次には、喜んでするのです。喜んですることが愛です。喜びの峠を越えていけるものが愛です。自分が嫌いなものには手を出しません。やらないのです。喜んでするところには、神様がその世界に福を祈ってくださるのです。
(308-214、1999.1.5)
敬天、人和、愛地の内的な心情基準を揺り動かされない者が、恵まれた者である。
御旨の道、心情
精誠を尽くしていることが成し遂げられるためには、心が統一されなければなりません。すなわち、一片丹心を備えなければならないということです。二つの心があってはいけないのです。始まりから終わりまで、統一された心で精誠を尽くさなければなりません。精誠は、誰かに貸してあげて、また戻してもらえる物とは違います。ですから、始めも、過程も、終わりも、様々な形態に変化しては、精誠になり得ないというのです。
(17-227 ~ 228、1967.1.29)
克服は、何をもってするのでしょうか。それは、手段では駄目です。何かの才能でも駄目です。ただ精誠によってのみ克服できるのです。
(42-228、1971.3.14)
②行動する以前に精誠を尽くしなさい
― 宗教経典 ―
何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。
箴言 4.23(キリスト教)69
神道というものは、ほんとうに正しく直きものを根本とするものであるから、……そうであるから、神の示されるまことをもって自分のものとするそのほんとうの姿の中より流れ出てくるものであり、事物に接するうえにおいて、ちょっとかりに行うようなことにも、みなまことを尽くすべきである。このまこと、正直のない礼儀、義節などというものは、みなまちがった取るに足りないものである。弓を引くのに、手のうちを固めないで、いたずらに的に当てることを考え、梶もなくて船を進めようとするようなものである。
匹田以正 神風記(神道)70
實にも心は輪廻その者なり。そを努めて清浄にせよ、心の考ふる所に從て人はそれとなる。―これ實に不変の秘義なり。
心の寂静に依て善悪の業を滅す。寂静我に住することに依て不壊の幸安を味ふ。
人の心にして外境に着するが如くに、しかく梵に着せむか。何人は繋縛より脱せざらむ。
先人言へることあり、「心に二種あり浄と不浄となり」と、欲と混するは不浄にして欲と離るるは浄なり。
濕沈(laya)と掉挙(viksepa)とを離れて心不動となり、無心態(amanibhava)となる時、そは實に最高処なり。
マイトリ・ウパニシャッド 6.34.3 ~ 7
(ヒンドゥー教)71
(先に)言った「其の意を誠にする」とは、みずから欺いてはならないということである。 (悪を憎むこと)悪臭を憎むようであり、 (善を好むこと)美しい色を好むごとくである。このことを、自己自身に快しとして満足するというのである。だから、君子はその独りを慎むのである。小人は独りでいると不善を行なって、どんなことでもする。君子に出会うと初めて、隠れるようにして、その不善のことを覆ってしまい、その善を現す。他の人が自分を見るとき、その肺臓肝臓まで(明らかに)見通してしまうようである以上、 (覆い隠したところで)なんの益があろうか。これを「(心の)中に誠があれば、 (必ず)外に現れる」というのである。だから君子は必ず、その独りでいるとき(の行い)を慎むのである。曾子が言われた、「十人の目の見るところ、十手の指すところは極めて恐れなければならない」と。富は住居を潤し、徳は身を潤す。心は広々としており、身体は伸びやかである。だから君子は必ずその意を誠にするのである。(注14)
大学 6.1~ 4(儒教)72
私たちは、私たち自身を検査しなければならず、何が心情の影響であり目的なのか学ばなければならない。このようにしてこそ、私たちは、私たちが誰なのか正直に学ぶことができる。
科学と健康 8
(クリスチャンサイエンス)73
比丘たちよ! もし自ら着飾ることを好む女性や若者、あるいは幼い少年がいて、きれいな鏡や澄んだ水が入った壷に自分の姿を映し、その中に何かのしみやあかがついているのを発見すれば、その人はそのしみやあかを消そうと努め、そのとおりになればその人はとても喜び、このように考える。私がきれいになったことは、私にとって本当によいことだ。これと同じように、比丘の内的省察は、それがよく修められるとき、彼に最も大きな利得になる。ゆえに彼はこのように自らを振り返る。私が平素によく人のものを欲しくはならないか。私が平素に悪意を抱いて語ったり行なったりしたことはないか。
私が平素に修行を修めることを怠ったりしていないか。私は平素に心がそわそわし平静心を失ってはいないか。私が平素に疑心をもって心が動揺し混乱に陥ってはいないか。私が平素に怒りをよく静めることができていないのではないか。私が平素に汚れた想念に捕らわれてはいないか。私が平素に色事をむさぼる心を抱いてはいないか。私が平素に無気力に過ごしたりしていないか。活気にあふれた姿で修行に臨んでいるのか。私が平素に私を統御して生きているのか、あるいはそうできていないのか。
もしこのように自らを振り返り、ある比丘が、「私は平素に人のものを欲しがり、心に悪意を抱き、放逸し、鈍く、心に平静を保てず、疑心に心が動揺し、よく混乱に陥り、よく怒り、色欲にはまった体をもち、のろまで自分を統御できない」と思えば、その比丘は自らを叱責し、より一層修行に専念しなければならないので、よりたくさん努力し、より高い熱望をもち、より多く実践し、心が散漫にならず、邪悪で有益でないものを振り払うことに全力を尽くさなければならない。
阿含経増支部 5.66(仏教)74
― み言選集 ―
「至誠感天」という韓国の格言がありますが、それは、本当に天理に通じる言葉です。「すべての精誠を捧げる」というとき、それは内外のすべてを捧げるということです。思うこと、話すこと、行うこと、また良心の生活圏までも、すべて合わせて捧げるというのです。それが精誠です。「精誠」の「精」の字は精神を意味します。「誠」は言偏に「成」の字です。ですから、内外のすべてのものを成して捧げるという意味です。(注15)そのようにしてこそ「感天」になるのです。天が感動するということです。
(78-31.32、1975.5.1)
普段の感じが何パーセント的中するのか、皆さんの生活過程を分析して、結果を確認しなければなりません。私が感じることは何パーセント合っている、何パーセント間違いないという、このような内的な因縁を、皆さんが環境圏内で結んで確認できるようにならなければなりません。そのような結果を測定できる立場に立たなくては、神様が共にいらっしゃるか悪が共にあるのか、分析できません。したがって、必ずこのような信仰態度が必要です。このような信仰態度を育てていけば、間違いなく体恤されていきます。そのようになれば、道を行くとき、祈祷をしなくても大丈夫です。最初の一歩を踏み出すとき、この道がどんな道か、行けば神様が喜ばれる道か、悲しまれる道かということが分からなければなりません。最初に、 「ああ、これは良い、悪い」と感じられるというのです。悪いと感じるときは行かないのです。これを鑑定できなくてはなりません。ですから、皆さんは、環境の中で体恤信仰を開発するために努力しなければなりません。
(40-288、1971.2.7)
恨んではいけません。 「ああ、大変だ! 先生は分かってくれる、分かってくれない」と言いますが、精誠を尽くしたことが分かれば、どのようになりますか。愛することを分かってくれたら、どのようになりますか。分かってくれたら愛が詰まってしまうのです。分かってくれないことによって、精誠が流れていき、愛が流れていくのです。これがすべて流れていかなければなりません。水も流れていき、空気も流れていき、愛も隙間さえあれば、すべて満たすのです。
(308-205、1999.1.5)
信仰生活をする上で皆さんの心の中に、爆発的で刺激的な力をもってみ旨の世界に向かって行こうという余力がありますか。そのような心があれば、神様が皆さんと共にいらっしゃるという証拠です。反面、そのような力がないならば、神様が皆さんと分離している証拠です。
人類を愛する心がわき上がり、人類と共に自分の生命を分かちたい心が絶えないということは天に属していることを証すものですが、自体を中心とした愛と自体の価値を誇る生命力として終わるならば、自分から既に神様は離別しているという事実を知らなければなりません。そのような人の行く道の先は天ではありません。そのような人は自己を中心とした限界点に到達するでしょう。自分を中心とした限界の世界は、神様のみ旨の世界とは異なるのです。
(32-21~ 22、1970.6.14)
準備できない人は流れていきます。準備できない人は相続者になれません。重要な話です。ですから、何か自分が天に同情し、神様の心に感動を与えることができなければなりません。そのような時間がどのようなところかということを考えるとき、それは精誠を尽くし、また精誠を尽くそうとするときであり、ために生き、またために生きようとするときであり、愛して、また愛そうとするときだというのです。
(308-203、1999.1.5)
いまだに堕落圏に属している人類は、良心革命を完成しなければなりません。すなわち、この世の中のいかなる主権や理念を前にしても、一点、一画も加減することなく、神様が賦与してくださった本心の指向性に従い、真の愛、真の生命、真の血統の伝統を守りなさいという意味です。
天の前でも、万物の前でも、一点の恥ずかしさもない正午定着的な生を生きなければならないということです。私たちの生が、一心、一体、一念、一核の境地に到達し、純潔、純血、純愛性を永遠不変の伝統として安着させて一和統一時代を花咲かせる時、ついに良心革命は完成するのです。
(433202、2004.1.27)
6. 正直
正直は真実を意味し、心と心情に内在したものを事実どおりに語り、約束を守り、言葉と行動が一致するように行動することを含む。神様の前で正直であろうとすれば、自分の罪を告白し、生まれ変わると反省し、誓い、悪を行わせる誘惑と立ち向かって闘おうという姿勢が必要だ。したがって、文鮮明先生は、私たちの考えと言葉と行動に関して、神様に正直に御報告する時間が祈祷の時間だと言われる。祈祷は、また未来の自分がどのように考え、語り、行動するという決意を誓い、目標を立てる時間でもある。
①他人と神様と真実を語る
― 宗教経典 ―
うそをつく唇を主はいとわれる。忠実を尽くす人を主は喜び迎えられる。
箴言12.22(キリスト教)75
だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。
エフェソの信徒への手紙 4.25
(キリスト教)76
〔ヴェーダの〕学習を怠ることなかれ。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド1.11.1
(ヒンドゥー教)77
あなたの心が否定するものを、あなたの口が固執してはならない。
陰隲文、静粛の道(道教)78
口で語る言葉と心に抱いた思いが違ってはいけない。
タルムード、バヴァ・メツィア 49(ユダヤ教)79
体、言葉、思いからする行為において、正直と真実は幸運の道に通じる。
タットヴァールタ・スートラ6.23
(ジャイナ教)80
うそをつくからといって富者になれないのではなく、背信したからといって長生きできないのではない。しかし、死(審判)の日には、それらによって当惑するようになるだろう。
うそが 20 年間走っていっても、真実はそれを 1 日で捕まえる。真実は市場に出ても売れない、うそはとても安く買うことができる。
ヨルバ族の格言
(アフリカ伝統宗教)81
真実を語るべし。好ましいことを語るべし。真実でも好ましくないことを語ってはならない。好ましくとも虚偽を語ってはならない。これは永遠の生き方(ダルマ)である。
マヌ法典 4.138(ヒンドゥー教)82
先生がいわれた、「君子は、自分のことばが実践より以上になることを恥じとする。」
論語14.29(儒教)83
信仰する者よ、なんじらはどうして自ら行わないことを言うのか。
なんじらが行わないことを口にするは、神においては、最も憎みたもうところである。
クルアーン 61.2 ~ 3(イスラーム)84
いつわりを語る人、あるいは自分がしておきながら「わたしはしませんでした」と言う人、―この両者は死後にはひとしくなる、―来世では行ないの下劣な業をもった人々なのであるから。
法句経 306(仏教)85
謀計ハ眼前ノ利潤タリトイヘドモ必ズ神明ノ罰ニ当タル正直ハ一旦ノ依怙ニ非ズトイヘドモ終ニ日月ノ憐ミヲ蒙ル皇大神宮、天照大神の神託
(神道)86
葉公が孔子に話した、「わたしどもの村には正直者の躬という男がいて、自分の父親が羊をごまかしたとき、むすこがそれを知らせました。」孔子はいわれた、「わたしどもの村の正直者はそれとは違います。父は子のために隠し、子は父のために隠します。正直さはそこに自然にそなわるものですよ。」
論語13.18(儒教)87
― み言選集 ―
皆さんが修養の道を行きながら一つ知らなければならないことは、師弟関係において、偽装戦術を使ってはいけないということです。互いに率直でなければなりません。この上ない精誠を尽くして互いに対さなければならないというのです。
(33-125、1970.8.11)
率直なことは正義に通じ、正直でないことは不義と通じます。
(364-226、2002.1.3)
神様がどのようになっているのかというと、一つを中心として心と体が一つになっています。心と体が一つになったところは、考えも一つになっています。皆さんが日常言うことは、「言行心事を正しくしなければならない」。言行心事です。言葉と行動と、心事とは何ですか。心と事が一つにならなければなりません。そうしてこそ、それが公的なものとして保護し、証し、宣伝することができるのであって、そうでなければできません。
(381-65、2002.6.11)
人は率直でなければなりません。率直なことは世の中のどこでも通じます。自分が間違ったら、間違ったと率直に言うときは発展します。善もその過程を経なければ発展することはできません。人がいつもうまくできますか。人は間違うこともあるので、そのようにしてこそ、発展できるのです。私が間違ったとしても、そこで率直に告白し、後悔することによって新しい決心ができます。間違うことが悪いのではありません。間違ったのなら、このことによる新しい刺激を受けて跳躍することができるのです。刺激を受けて目に見えて飛躍できるのなら、間違うこともよいのです。勉強ができなくて落第したとしても、一度落第することによって、それを契機に優等生になることもあります。
ですから、率直でなければなりません。もじもじと隠そうとする人は発展できません。しかし、率直な人は発展します。この宇宙が押してくれるので発展するのです。どこに行っても宇宙が押してくれるということです。東洋も西洋も、過去も現在も未来も、率直な人はすべての人の友人になることができるのです。
(100-87 ~ 88、1978.10.8)
率直な信仰者にならなければなりません。「私はこうです。心はこうです。お父様、私も率直にしますので、あなたも私に率直に対してください。あなたは正義に立脚した場で、どれほど率直な心をもって私に対してくださいましたか。私が否定の心をもった立場にいるがゆえに、あなたも否定の心をもって私に対されると思いますが、これからは心にあるがままに対そうと思いますので、正義の判断を下して私を分別してください」と言うことができなければなりません。このような心情は、皆さんが信仰生活を多年にわたって経験してきながら、絶対に必要だということを感じたことでしょう。
(45-242 ~ 243、1971.7.4)
私は、原理的立場で正直と純潔と犠牲を教えています。第1に、神様の前で人間は正直でなければなりません。人間の偽りが神様と人間の分離をもたらすと「統一原理」は教えています。信徒たちがさらに激しい迫害を受けるとしても、私は彼らに神様の使節として臨まなければならず、まず自分が統一教徒であることを人々に明らかにすることを強調します。統一教会の信徒たちは、レバレンド・ムーンに従う者たちだと言わなければなりません。もしそのように言う勇気のない人がいれば、彼は私たちには必要のない人です。自分にぶつかってくるより大きな苦難を恐れ、自分の身分を語ることができない人は、迫害によって巡ってくるあらゆる祝福を逃すのです。ある地域の指導者たちは、一時的な手段として隠しているのかもしれませんが、悪い動機からそのようにしているとは見ません。私は、苦難に直面してそのようなことが起こり得るのは理解できますが、そのような行動を称賛はしません。
(91-128、1977.2.3)
②約束履行
― 宗教経典 ―
人が主に誓願を立てるか、物断ちの誓いをするならば、その言葉を破ってはならない。すべて、口にしたとおり、実行しなければならない。
民数記 30.3(キリスト教)88
なんじらは神と約束を結んだならば、それを全うせよ、誓いをおごそかに認めて後、それを破ってはならぬ、なんじらは神を、しかと立証者としたのである。まことに神は、なんじらの行うことを知りたもう。
丈夫に紡いだ後その撚りをもどし、ばらばらにほぐす婦人のようであってはならぬ。一族が他の一族よりも、かず多くなったために、なんじらのあいだで、誓を裏切る道具にしてはならぬ。まことに神は、それでなんじらを試みたもう。
クルアーン16.91-92
(イスラーム)89
人が天の国の審判台に立てば、最初に尋ねられる質問は、「あなたは神を信じたか」、または「あなたは祈りを行い、宗教儀式に参与したか」というものではなく、「あなたはあなたの隣人に衷心を尽くし、信仰的にも名誉あるように接してあげたか」ということである。
タルムード、シャッバト31a
(ユダヤ教)90
子張が〔思いどおり〕行なわれるにはとおたずねした。先生はいわれた、「ことばにまごころがあり、行ないがねんごろであれば、野蛮な外国でさえ行なわれる。ことばにまごころがなく、行ないもねんごろでないなら、 〔国内の〕町や村の中でさえ行なわれまい。立っているときにはそのこと(まごころとねんごろ)が前にやってくるように見え、車に乗っているときにはそのことが車の前の横木によりかかっているように見える、まあそのようになってはじめて行なわれるのだ。」子張はそのことばを〔忘れないように〕広帯のはしに書きつけた。
論語15.6(儒教)91
― み言選集 ―
友人に与えると約束したものは、必ず与えなさい。約束を破ることは、あなたの人格を損なうものである。
御旨の道、人格
徳望の友をたくさんもてる道、あるいは目上の人に認められる道、あるいは年下の人に信頼され得る道は、弁明ではありません。大概、弁明する人たちは損害を被ります。ですから、ある事件が起きたとき、弁明してはいけません。先生は、死んでも弁明はできない人です。率直な人は残るのです。そのような人は、その環境を継承できるのです。このような観点から見るとき、「率直な信仰者」になることが何よりも必要です。
(45-269、1971.7.4)
人格者は、誰かと約束したことがあれば、それを履行して実践します。これはあなたが主張して約束したことなので、「私は従わない」と言う人がいれば、彼は人格者ではありません。法は、公的な基準を中心として約束したものです。ですから、その法の約束圏内にいるすべての人たちは、それを守らなければなりません。約束した人がその法を守ることができないときは、公共規範によって制裁を受けなければならないのです。これは、法を遵守しなければならない人たちの責任です。
(31-13、1970.4.8)
祈祷というものは、歩んでいて力が尽きたときにするのです。約束したのなら行動し、しかし、私が及ばずに倒れるときに祈祷しなければなりません。
(113-60、1981.4.26)
7. 用心と警戒
人生の道を歩んでいく人は、常に油断してはならない。怠慢でのんびりした人生は容認されない。常に私たちは善悪の分かれ道、原則と違法の分かれ道に立つ。その道には、いつも思わぬ落とし穴と誘惑があり、私たちを災難に導くこともできる。したがって、霊的な修養の道を歩んでいくにおいて、私たちは常に用心し、警戒し、注意する人生を生きなければならない。
したがって、世界の諸経典は、神様のみ旨に反する罪を犯したり、堕落した人生を生きたりしないために、私たちが常に油断しないことを教える。聖書の「主の日は盗人が夜くるように来る」という聖句のように、キリスト教では賢者と愚者の例えを挙げ、生きていきながら絶えず警戒をおろそかにしないことを教える。イスラームでは、常に神(ザカラ)を記憶し、その戒めと慈悲を記憶し、毎日の祈祷生活を通してこれを再考するように督励している。ユダヤ教の賢人たちは、いかなる罪の可能性も排除するために、「法の囲いの中で」すべての戒めを解釈することを主張した。東洋の宗教は、修道者たちに常に思いの流れを警戒する瞑想訓練を奨励する。文鮮明先生も、常に慎重な注意が必要であることを強調される。そして、瞬間の不注意で深刻な過誤を犯した聖書の中心人物たちの例を挙げ、この内容を再び想起させてくださる。
― 宗教経典 ―
詩経には「おそれつ戒めつ、深き淵にのぞむごと、薄き氷をふむがごと。」とある。
論語 8.3(儒教)92
恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
フィリピの信徒への手紙 2.12(キリスト教)93
出家修行者は、あたかもすべてのものが自らをわなに陥れる落とし穴であるかのように、注意深く歩まなければならない。
ウッタラッジャーヤー 4.7(ジャイナ教)94
〔教えを〕聴聞し、信仰を持ち、多くの努力をしても、正知を欠くという過失ゆえ、破戒という汚れを持つことになる。正知を欠いた〔煩悩という〕盗賊たちは、憶念の弱まりに従って、 〔働き出す。そのため、〕多くの福徳を積んでも、〔それを〕盗賊に盗まれ、 〔その結果〕悪趣へと赴くことになる。
菩提行論 5.26 ~ 27(仏教)95
孔子のことば。みずから危うしとして反省警戒する者こそ、その地位に安んじ得る者であり、亡びはせぬかと反省警戒する者こそその存立を保ち得る者であり、乱れはせぬかと反省警戒する者こそ、その治平を保ち得るものである。なればこそ、君子は安きに居て危うきを忘れず、存続しつつも亡びることを忘れず、治に居ても乱を忘れない。こうであってこそ、その身は安らかで国家の安泰をも保ち得るのである。易にも「それ亡びなんとて、苞桑に繋る」と言ってある。
易経、周易繋辞、下伝 2.5.9(儒教)96
不運なときに、幸運があらわれ、
幸運なときに、不運がひそんでいる。
誰れが最後の正しさを決定することができるのか。
道徳経 58(道教)97
許されたことは明らかであり、禁じられたこともまた明瞭であるが、その中間には多くの人々が知り得ない様々な疑わしい事柄がある。したがって疑わしい事柄を避ける者は、自分の宗教、名誉に関して〔過ちから〕免れるが、それに足を踏み入れる者は禁じられた行為を犯すことになる。これはちょうど聖域の周りで動物を飼う牧童が、聖域の中で動物に草をはませる危険を冒すようなものである。まことに王者は誰しも聖域をもっているが、神の聖域とはその様々な禁令である。
ナワウィー 40 のハディース 6(イスラーム)98
ラビ・アカバは言った。「無駄な笑いと軽々しさが人間を不徳にする。伝統はトーラーを守る囲い、十分の一献金は富者を、誓いは崇高さを守ってくれる囲いである。そして、知恵を守ってくれる囲いは沈黙である」。
ミシュナ、アヴォート3.17(ユダヤ教)99
同行する仲間が少ないのに多くの財を運ばねばならぬ商人が、危険な道を避けるように、また生きたいとねがう人が毒を避けるように、人はもろもろの悪を避けよ。
法句経123(仏教)100
しかし、われらの信条におかれているものは、マズダーよ「天則は利益するために」であり、教義には「不義は破壊するために」であって、これをもってわたくしはウォフ・マナフとの交わりを求めすべての不義者を教朋から追放するものです。
アヴェスター・ヤシュト49.3(ゾロアスター教)101
孟子がいわれた。「人は不正不義は絶対にしない、という決心があってこそ、はじめて大事業をなしとげることができるのだ。」
孟子 IV.B.8(儒教)102
公然の罪と内密の罪をさけよ。まことに罪を犯した者は、その行なったことに対して報いをうけるであろう。
クルアーン 6.120(イスラーム)103
非難される欠点のない行為のみを実行せよ。……さてもしもそなたに祭事についての疑惑、あるいは行為についての疑惑が起こるならば、そこにもろもろのバラモンがいて、判断力あり、 〔善いことに〕専念して、熱心であり、粗暴ならず、法を愛する者であるならば、かれらの行うがごとくに、そなたもまた行うべきである。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド1.11.2, 4
(ヒンドゥー教)104
思慮ある者へのしるしがある。あるいは立ち、あるいはすわり、あるいは横たわって不断に神を唱念し……
クルアーン 3.190-91(イスラーム)105
あなたの寝台の布団の陰の下に、あなたが一人でいるとき、注意せよ。
陰隲文(道教)106
歩くにせよ、とどまるにせよ、坐るにせよ、あるいはまた臥すにせよ、悪い、家にもとづく、世俗的な思いをいだく者は、邪まな道を歩み、迷わせるものに迷う。このような比丘は、最高のさとりに触れることができない。歩くにせよ、とどまるにせよ、坐るにせよ、あるいはまた臥すにせよ、世俗的な思いをやめ、世俗的な思いの静まりを楽しむ。このような比丘は、最高のさとりに触れることができる。
如是語経110(仏教)107
そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。」賢いおとめたちは答えた。「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。」愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、「御主人様、御主人様、開けてください」と言った。しかし主人は、「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。
マタイによる福音書 25.1~13(キリスト教)108
― み言選集 ―
若い皆さんたちは、善悪の岐路に立っているので、一歩間違えば、それは千尋、万尋の死亡の窮地に引き込まれていき得るのです。大変ですが、一歩踏んで立ち上がっていくようになるときは、輝くあすの希望の山上を越え、希望の広野を見つめられる勝利の王者になれるのです。一歩を注意しなければなりません。
(59-214、1972.7.16)
大きくなればなるほど、自分の足もとを見なければならないし、小さければ小さいほど、神様を見上げなければならない。
御旨の道、み旨
言葉に注意しなければなりません。その次には、目に注意しなければなりません。その次には、耳に注意しなければなりません。何の話か分かりますか。自己中心の言葉は聞かないでください。自分を中心とする行動は見ず、自分のために生きる人とは話もせず、自分のための弁明もしてはいけません。これが一番の防御策だということです。
(93-319、1977.6.12)
公的なものと私的なものの中で、公的なものは全体のためのものであり、私的なものは自分のためのものです。皆さんが自分を静かに反省してみれば、自分が公的なものと私的なものの狭間にいることを悟るようになるでしょう。ですから、宗教は、自分中心に進んでいこうとする体を制止させようと、「断食しなさい。苦行しなさい。温柔、謙遜でありなさい」と教えるのです。
(149-271、1986.11.27)
もう一度考え、もう一度考えて行動してください。
(93-320、1977.6.12)
一言、一度間違って聞くことによって、一生を台無しにするようになるのです。また、行動においてもそうです。一度間違って歩めば、やはり一生を台無しにするということです。また、皆さんが友人と付き合うときにおいても、友人一人と間違って付き合うことによって、一生を台無しにすることもあるのです。そのようなことが一生に1度や2度ではないので、昔から考える人たちは、話すことに注意し、聞くことに注意し、行動に注意し、友人に注意しなさいと教えてきました。これは古今を問わず、あるいは東洋と西洋を問わず、同じく通じる公式だということを皆さんは知らなければなりません。
一言間違うことによってそのようなことが起きる反面、一言うまく言うことによって一生が行ったり来たりするのです。一言で、聞くこともそうであり、歩くこともそうであり、行動することもそうであり、友人と付き合うことも同じです。不意に、通り過ぎる若い人に一言話すことによって因縁を結び、付き合ってみれば夫になることもあるのです。
(91-29 ~ 30、1977.1.2)
不幸な道の出発というものは、大きな事件から始まるのではなく、小さなことから始まるのです。もう一度考えるべきことを、いつも自分を中心として考えていては、その峠を越えることは難しいのです。重大な決定をすればするほど、必ずそのような境遇に立たなければ、一大悲運が訪れてくるということがいつもあるのです。自分を中心として考えることが怨讐であることを知らなければなりません。
(93-298、1977.6.12)
私たちが過ごしている一日の生活の中で、1時間1時間も恐ろしいですが、1時間の中のチクタクという瞬間が、私たちにとってどれほど恐ろしい瞬間であるかを感じて闘っていける人にならなければなりません。ですから、永遠の天国も、一瞬の間を離れてはあり得ないことを皆さんは知らなければなりません。
アダム家庭において、アダム・エバが堕落したのも、1年や 10 年、あるいは何十年を計画して失敗したのではありません。その失敗は、一瞬にもたらされ、一瞬の失敗が、億千万年続いてきたことを考えるときに、その瞬間がどれほど恐ろしく、どれほど怖いものであるかが分かります。
その一瞬の失敗で歴史時代に修行の道を行った数多くの人たちが、受難の応報を受けなければならず、そのみ旨についていかない数多くの民族が、滅亡のどん底に落ちなければなりませんでした。それが、途方もない蕩減の祭物の起源になったというのです。
(37-219、1970.12.27)
ノアが 40 日洪水審判のあとに、もう少し深く考えていれば、裸でそのような行動はしなかったでしょう。少しでも考えていれば、そのようなことをしたでしょうか。少しだけ我慢していれば、お酒を飲んでそのようにしたでしょうか。もう少し我慢し、もう少しだけ考えていれば、絶対にそのようなことはしていなかったでしょう。また、アブラハムが祭物を捧げるとき、三大祭物を前にして、じっと見つめて考えたならば、失敗したでしょうか。三大祭物の中で、二つは裂き、なぜ一つは裂かなかったのかということです。
(99-39、1978.8.27)
天の試練を受ける立場にいたヤコブは、一時も心が休まらなかったことを皆さんは知らなければなりません。彼は、神様の祝福のみ言を固く信じ、闘いが終わるまでは腕が取れても退かないという固い信念をもっていたのです。このように闘って勝利したのちにこそ、イスラエルという祝福が臨んだのです。
(3-337、1958.2.9)
8. 慎重な言葉
不注意や、故意にした攻撃的発言は、他人に途方もない傷を与えることがある。悪の発言は友情を破壊し、名声を落とし、不必要な偏見を引き起こす。多くの 噂とスキャンダルに揺さぶられることがなかったなら、イエスは当代の人たちにより多くの歓迎を受けることもできた。言葉は、自分をはじめ他人にも途方もない傷を残すため、慎重に扱わなければならない。
― 宗教経典 ―
民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。
レビ記19.16(キリスト教)109
もし耳が悪意に満ちた根も葉もないうわさを聞かなければ、心は悲嘆に暮れることはないだろう。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)110
善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。
マタイによる福音書12.35 ~ 37(キリスト教)111
心は軍隊をもった王と同じである。王が優れていればその軍隊も優れており、王が弱ければその軍隊も人がするとおりにする……。
神と最後の〔審判の〕日を信ずる者は、口をひらけば良き言葉を語り、さもなければ口をふさいでいるべきである。
ナワウィー 40 のハディース15
(イスラーム)112
口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する。
箴言10.19(キリスト教)113
すると彼は舌をつまんで言った。「これを慎しむのだ。」私は尋ねた。「アッラーの預言者よ、私たちは口にしたことで評価されるのでしょうか。」すると彼は言った。「ムアーズよ、お前も母親泣かせだ。人々の舌が収穫したもの以外に、いったい彼らを地獄に逆落としにするものがあるだろうか。」
ナワウィー 40 のハディース29
(イスラーム)114
荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。
法句経133(仏教)115
舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。
ヤコブの手紙 3.6~9(キリスト教)116
この世であらゆる難物の源泉は、性急に吐き出す一言の言葉である。
荒木田守武 世中百首(神道)117
騒がしい鳥がろくでもない巣をつくる。
カヌピ族の格言(アフリカ伝統宗教)118
自然はことばで表わさない。
暴風が起きても朝中続くことはなく、
激しい雨が一日中続くことはない。
これらは天と地の活動である。
天と地でさえ、いつまでもその活動
を続けることはできない。
まして人間はできようか。
道徳経 23(道教)119
孔子は次のように言う。禍乱が発生する場合には、かならず言語がその発端となる。君主が言語を慎密にしなければ臣下の信頼を失い、臣下の者が言語を慎密にしなければその身を亡ぼすことになり、機密に属する問題について言語を慎密にしなければ、妨害が成功する。なればこそ君子は言語を慎密にしてかろがろしく口から出さないようにするのである。
易経、周易繋辞上伝1.8.10(儒教)120
人が生れたときには、実に口の中には斧が生じている。愚者は悪口を語って、その斧によって自分を斬り割くのである。毀るべき人を誉め、また誉むべき人を毀る者、―かれは口によって禍をかさね、その禍のゆえに福楽を受けることができない。賭博で財を失う人は、たとい自身を含めて一切を失うとも、その不運はわずかなものである。しかし立派な聖者に対して悪意をいだく人の不運は、まことに重いのである。悪口を言いまた悪意を起して聖者をそしる者は、十万と三十六のニラッブダのまた五つのアップダの地獄に赴く。
スッタニパータ657 ~ 660(仏教)121
信仰する者よ、もしよこしまな者が、情報をなんじらにもたらしたならば、慎重に検討せよ、これはなんじらが、気づかないうちに人びとに危害を及ぼし、その行なったことを、後悔するはめにならぬためである。……
なんじら信仰する者よ、ある者たちに、他の者たちをちょう笑させてはならない、これらはかれらよりも、すぐれているかも知れぬ。また女たちに他の女たちをちょう笑させてはならない、この女たちはかの女たちよりも、すぐれているかも知れぬ。互いに中傷してはならない、またあだ名で、ののしりあってはならぬ。信仰にはいった後は、悪を暗示する名はよろしくない。これを悔い改めない者、これらは不義者である。
なんじら信仰する者よ、邪推の多くをはらえ。まことに邪推は、ときに罪である。また無用のせんさくはしてはならない、また互いにかげぐちしてはならぬ。死んだ兄弟の肉を食べるのを、たれが好もうか、なんじらはそれを忌み嫌う。神を畏れまつれ。まことに神は、たびたび許したもう方・慈悲深い方であられる。
クルアーン 49.6 ~12(イスラーム)122
うそはそれ自体で邪悪であるだけでなく、霊魂を邪悪に感染させる。
プラトン パイドン(ヘレニズム)123
― み言選集 ―
私たちの同僚関係においても、一言間違って失敗すれば、間違ったその一言によって、関係が壊れることもあります。もし言葉を一言間違えれば、その言葉を言った人も苦痛を受け、その言葉を聞く人も苦痛を受けるのです。例えば、夫婦でもそうです。一言の言葉が動機になって気分が悪くなれば、それによって別れていくのを見ることもあります。
(89-116、1976.11.1)
言葉で全体に支障をきたせば、それは困る。
御旨の道、み言
皆さんが一言間違うことによって、どれほど多くの人を犠牲にし、世界を滅ぼしてしまうか、ということを知らなければなりません。愛を中心として語る言葉は、いくら悪口を言っても、どんなことを言っても、これは栄えるだけであり、発展するだけであり、すべての宇宙が喜ぶだけだというのです。皆さん、言葉は恐ろしいでしょう。先生が一言語れば、皆さんはさっと引っ掛かります。いくら笑っていた人でも深刻になります。先生が皆さんに「すべてのことを忘れ、すべて赦してあげる」と言えば、その一言の言葉は簡単ですが、すべてのものが解放される気分を感じるのです。
(9191、1977.1.30)
一言誤って、3週間祈ったことがある。
御旨の道、人格
人の仲を裂き、ひそひそと「誰々は悪く、誰々はどうでこうで」と言うのはサタンの武器です。分裂させるために、誰はどうでこうでと評価するのはサタンです。聞いても知らないふりをする人と、おしゃべりで騒ぎ立てる人のうち、どちらの側がサタン側ですか。おしゃべりで騒ぎ立てる人がサタン側です。話をしてはいけません。
(215-240、1991.2.20)
投入して忘れなさいというのです。……沈黙が自分を主人になるようにしてくれるのです。暗闇と朝の日の光を迎え入れることのできる標柱になります。「静かな朝」と言うでしょう。(注16) 「夜明け前が一番暗い」と言うではないですか。
(325-117、2000.6.30)
昔、名門の家では、子供を教育する時に、「朝は、できるだけむやみに話さないようにしなさい」と教えました。 「朝は、できるだけ先に話さないで聞きなさい」と教えたのです。このような態度は、信仰生活でも必要です。
(40-73 ~ 74、1971.1.24)
仕事をたくさんやって話が少なければ勝利し、仕事をやらないで話が多い人は失敗する。
御旨の道、人格
9. 中庸
世界で普遍的に考えられている重要な徳目が中庸である。中庸を取るためには、いかなる種類の過度さも―度を超した倹約または無駄遣い、苦行または放蕩、独善または卑屈な服従―慎まなければならない。
しかし、伝統ごとに強調する部分には違いがある。アリストテレスは、中道を求めて守るのに、理性の役割を強調する。キリスト教の有名な祈祷文には、中道を悟るために知恵が重要であることを表記した部分がある。「主よ、変え難きものを受け入れる心と、変え得るものを変える勇気と、変え難きものと変え得るものを見分ける知恵を与えたまえ」。仏教の中道思想では、宗教的人生を存在に対する執着と無への解脱を連結してくれる綱として定義する。仏教の歴史の中で多くの哲学者と修道者たちは、俗世からの孤立と積極的社会参与の間の中道とは何かなど、絶え間ない弁証法に対して定義しようと努力してきた。儒教で中庸は、より個人的な均衡に焦点を合わせている。そして、この中庸の道を知る人は、彼の行動の中で、そして他人との関係の中で、その道が現れる。このような中道に対する伝統的な教えは、個人の行為に焦点を合わせている。文鮮明先生は、より全世界的な展望を提示していらっしゃる。み言によれば、個人が他人と調和する関係の中で均衡を成し、それが社会へ拡大し、社会の上下、貧富、白黒問題を平準化するために努力することまで進んでいくとき、中庸の道が初めて実現されるという。
― 宗教経典 ―
(仁慈者のしもべたちは、)また財貨を使うに当り浪費せぬ者、またりんしょくでもなく、よくその間の中正を保つ者。
クルアーン 25.67(イスラーム)124
善人すぎるな、賢すぎるな / どうして滅びてよかろう。悪事をすごすな、愚かすぎるな / どうして時も来ないのに死んでよかろう。
コヘレトの言葉 7.16 ~17(キリスト教)125
上位にいて下を侮らず、下位にいて上にすがらない。己を正しくして人に求めなければ、恨むこともない。上は天を恨まず、下は人をとがめない。だから、君子は平地にいて(その位に素して行い)、天命に従い(そのほかを願わない)、小人は危険なことを行って得るべきでないものを求める。
中庸13.4(儒教)126
先生がいわれた、「関雎の詩は、楽しげであってもふみはずさず、悲しげであっても〔心身を〕いためることがない。(哀楽ともによく調和を得ている。)」(注17)
論語 3.20(儒教)127
惜しむことがあってはならないが度が過ぎてはならず、謙遜だが貧しくてはならない。
ナフジュ・アル・バラーガ 語録 32(イスラーム)128
世尊はこれを宣へり。「比丘等よ、縁起とは何ぞや。比丘等よ、無明に縁りて行あり、行に縁り識あり、識に縁りて名色あり、名色に縁りて六処あり、六処に縁りて触あり、触に縁りて受あり、受に縁りて愛あり、愛に縁りて取あり、取に縁りて有あり、有に縁りて生あり、生に縁りて老・死・愁・悲・苦・憂・悩・生ず。是の如きが、これ全苦蘊の集なり。比丘等よ、これを生起といふなり。
無明の無餘・離貪・滅によりて、行の滅あり、行の滅によりて識の滅あり、識の滅によりて名色の滅あり、名色の滅によりて六処の滅あり、六処の滅によりて触の滅あり、触の滅によりて受の滅あり、受の滅によりて愛の滅あり、愛の滅によりて取の滅あり、取の滅によりて有の滅あり、有の滅によりて生の滅あり、生の滅によりて老・死・愁・悲・苦・憂・悩滅す。是の如きがこれ、全苦蘊の滅なり」。 (注18)
阿含経相応部 xxii.90(仏教)129
あなたがいくら空腹でも、両手で食べてはいけない。 (注19)
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)130
食べかつ飲め、だが浪費してはならぬ。まことにかれは浪費する者をめでたまわぬ。
クルアーン 7.31(イスラーム)131
むなしいもの、偽りの言葉を / わたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず / わたしのために定められたパンで / わたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り / 主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き / わたしの神の御名を汚しかねません。
箴言 30.8 ~ 9(キリスト教)132
名誉と身体、どちらが切実であるか。
身体と財産、どちらに多くの価値があるか。
成功と失敗、どちらに大きな害悪があるか。
あまりに大事にすると費すものが多く、多く貯めれば貯めるほど失うものは多い。
満足すべきことを知れば恥をかかず、正しい時にとどまることを知れば危険に出会わない。
こうすれば、いつまでも持ちこたえられるのである。
道徳経 44(道教)133
喜怒哀楽(の情)がまだ発動しないのを中といい、発動して皆節度にかなうのを和と言う。中というのは、天下の大本(即ち、天命の性であって、天下の理は皆ここから出て来る、道の本体)である。和というのは天下の達道(即ち、性に従う意であって、天下古今の者が皆それによって行なう、道の働き)である。中和を推し極めれば、天地は、その(あるべき)所に安んじ、万物はその生を遂げる。
中庸1.4~5(儒教)134
人柄としての器官が中間性であること……それが過剰による悪徳と不当による悪徳の二つの悪徳の中間性であり……器量が情と行為における中間を狙い目ざす……。立派なひとであるのが骨の折れることであるのはこの理による。というのは、何であれ中間をうるのは骨の折れることだからである。たとえば、円の中心をうるのは、誰にでもできることではなく、知っているひとにだけできることである。それと同じように、怒るのは誰にでもできる易しいことである。金銭を供与し、支出することについても同じである。しかしながら、これらのことを、なすべきひとに対して、なすべきだけのものを、なすべき時に、なすべき目的のために、なすべき仕方でなすということはもう誰にでもできることではなく、また、易しいことでもない。
アリストテレス ニコマコスの倫理学 2.9
(ヘレニズム)135
名誉と不名誉をめぐる中間性は高邁であり、過剰は一般に一種の虚栄と言われているものであり、不足は卑屈である。
アリストテレス ニコマコスの倫理学 2.7
(ヘレニズム)136
いかなる人間の条件も永遠でないことを記憶せよ。そうすれば、あなたは幸運に喜んで飛び跳ねることがなく、不運であまりに恥ずかしく思うことがない。
ソクラテス(ヘレニズム)137
― み言選集 ―
正常なものとは何でしょうか。すべての面で平均をとり、和合できる「中庸の道」というものを知らなければなりません。中間の立場を行くのが正常なものです。偏ってもいけません。高くもなく、低くもなく、そのように……。調和を成していくところにおいては、それが正常になるのです。正常という言葉は何の言葉かというと「中庸の道」だというのです。
(120-224、1982.10.17)
罪とは何でしょうか。罪は、私的な所で生まれるのです。滅びるのも、私的な基準で繰り広げられるのです。悪も同様です。私的なことが度数を超えるようになれば、悪として現れるのです。私的なことには限界があり、その限界を超えれば、悪くなり、滅びるようになり、罪を犯すようになるのです。
(31-165、1970.5.24)
一人がこの地上で生きるにおいてこのくらい物質を消耗していくだろう、というその量があります。「私はこのくらい、できるだけ量を少なくしよう。このくらいだけ使っていこう」、こうでなければなりません。使って残ったものはどのようになるのですか。その人の子孫に福として行くのです。このような思想をもった国は、発展し、栄えるということを知らなければなりません。
(161-127、1987.1.11)
円満な人とは、四方性が整った人のことである。
御旨の道、人格
バランスがとれていなければなりません。調和が成されなければならないということです。バランスを否定すれば、人間はいなくなるのです。アメリカの青年たち、アメリカの家庭が死につつあります。根本的に個人と家庭でバランスが崩れているためにそのようになるのです。
(339-139 ~140、2000.12.10)
東西が一つに合わさることによって新しい立派なものが出てきます。ですから、国際結婚をした夫婦から天才的な息子、娘が生まれます。
(376-277 ~ 280、2002.4.29)
水平がなければ統一できる安定圏が永遠に存続しません。曲がったり、下がったりしてはいけません。いつでも水平でなければならないのです。この水平を成すためには、主体と対象関係が均衡を成さなければなりません。均衡のために必ず主体と対象が生じるのです。
それでは、均衡を成して何をするのですか。水平をつくらなければなりません。主体と対象は均衡を成さなければならないのです。一度に水平になるのではありません。高いものと低いものの均衡を合わせて調整し、水平を成すのです。水平になれば、そこから安着基準に入っていきます。そこで中心を中心として統一的な概念が生じるという結論が出てきたのです。
ですから、均衡と水平と統一は三位一体だということを知らなければなりません。どこが神様の位置かというと統一です。統一のために水平が必要であり、水平のために均衡が必要なのです。自分の動作において、一つでも不足であれば、統一と水平と均衡の世界は崩れていくことを知らなければなりません。
(298-168 ~169、1999.1.1)
10. 貞淑
経典で貞淑な衣服と最小限の化粧が願わしいと教える理由は、内的に純潔な生活を追求するためである。個人の外形は、その人の内面を反映する。濃く化粧した顔と貞淑でない衣装は、放蕩な心を示す表示である反面、地味な衣装と飾ることのない自然な顔は、温和で純粋な霊魂を表現してくれる。
美しさとは、神聖なものでありながら、誘惑を引き起こす原因でもある。これは個人の動機にかかっている。このような側面から文鮮明先生は、次のような赤裸々な質問を投げ掛けられる。 「誰のために化粧をするのですか。夫のため、でなければほかの男性のためですか」。「ほかの人たちが私を愛してくれることを願って飾るのですか、でなければその人たちに愛を分けてあげるために飾るのですか」。
①貞淑な身なり
― 宗教経典 ―
同じように、婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。
テモテへの手紙一 2.9 ~11
(キリスト教)138
男の信者たちに言え、(己れの係累以外の婦人に対しては)「かれらの視線を低うし、貞淑を守れ」。それはかれらのために一段と清廉である。神はかれらの行うことを熟知したもう。
信者の女たちに言え、かの女らの視線を低うし、貞淑を守れ、外に現れるもののほかは、かの女らの美や飾りを目だたせてはならぬ、それからヴェイルをその胸の上にたれよ。己れの夫または父のほかは、かの女の美や飾りを現わしてはならぬ、……または女のからだに意識をもたぬ幼児のほかは。またかの女らの飾りの隠れたものを知らしめるため、その足で地を打ってはならぬ。なんじら信者よ、こぞって神に悔悟して帰依しまつれ、おそらくなんじらは成功するであろう。(注 20)
クルアーン 24.30 ~ 31(イスラーム)139
あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。
ペトロの手紙一 3.3 ~ 5(キリスト教)140
女性よ、顔を装う前に、自らあなたの主にふさわしくあれ。もし主があなたの寝室に入らなければ、あなたの装いは何の意味があるか。装いの美は主にふさわしい女性のものなので、彼女の装いがふさわしくあれば、彼女は主の愛を得るだろう。主を畏敬して彼女が装うようになり、神と共に彼女の香りを楽しみ、彼女の暮らしを愛せよ。心と体を主に捧げ、まず彼女が主を愛して一つになるようにせよ。
アーディ・グラント、ヴァール・スーヒー
M.3、p.788(シク教)141
『詩経』にいう、 「汝が室に(独居して)いるのを見るに、願わくば、屋漏で恥ずかしくなくあるべきだ」だから君子は、まだ動かない前にも、慎んでおり、まだ言わない前にも誠実である。
中庸 33(儒教)142
人間のこの身体は不浄で、悪臭を放ち、 (花や香を以て)まもられている。種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出ている。このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば、かれは盲者でなくて何だろう。(注 21)
スッタニパータ205 ~ 206(仏教)143
― み言選集 ―
化粧をした美人の顔と化粧をしていない美人の顔が笑うとき、どちらの顔がより調和していると思いますか。皆さん、幼い子供たちを見れば、みなかわいいでしょう? もしその顔に眉毛を描き、唇を描いて化粧をしたとすればどうですか。それがどれほど気分の悪いものか考えてみてください。皆さんもそうなのに、私たちよりもずっと年を取った神様はどうでしょうか。私たち人間が化粧して喜ぶのを神様が見るとき、化粧をした幼い子供を見て私たちが気分を悪くするよりも、はるかにもっと気分を悪くするかもしれないと、私は考えます。
(97-49 ~ 50、1978.2.26)
皆さんは、神様が見ても倒れ、においをかいでも倒れ、ぶつかっても外に倒れる群れです。そのような人間の中で、女性だからといって、「私は化粧をする。ネックレスをする。イヤリングをする。指輪をはめる。神様が喜ぶだろう!」と言います。考えてみてください。それがどれほどこっけいで、どれほど唖然とすることですか。
(94-42、1977.6.26)
女性たちが化粧をするのは、自分の夫のためにするのですか、ほかの人たちによく見せるためにするのですか。夫だけのためですか。夫はそのようなことは喜びません。マニキュアを塗った爪は、きつねの足の爪のようだと思うのです。とても危険です。愛する夫がその足の爪を触りたいと思いますか。それがよいのならば、「毎日塗ってくれ」と言うでしょう。それを塗ってくれる夫がいますか。そのような人が一人でもいますか。私は一人も見ていません。それが正にサタンの電波です。サタンが電波を送れば、女性が化粧をするのです。
(201-104 ~105、1990.3.11)
おしろいをぬって香水をかけてでも、女性はいつも美しくなければなりません。女性は情緒生活において負債を負ってはいけません。また夫の体や衣服などについて、いつも関心をもたなければなりません。夫が家に帰ってきた時、疲れているようだったら洗顔のための水も持ってきてあげて、歯を磨く準備もしてあげて、足も洗ってあげ、髪もとかしてあげなさい。女性の笑いは家の中の花です。円満な家庭を成そうとするなら女性は喜悲劇のトップ女優にならなければなりません。夫が喜んでいるときも完全に溶かし、悲しいときも完全に溶かさなければなりません。
(27-88、1969.11.26)
女性たちが鏡台の前に座って化粧するのは、「ああ、私を愛してください。私を思ってください!」、それでするのですか。人が見て喜ぶためにするのですか。二つのうちでどちらのほうにより心を置いていますか。自分をきれいに見せようとして、そのようにするのです。自分をきれいに見せようとして、そのようにするのではないですか。そのような立場は、サタン側に属するのです。
蝶はまだらで美しいです。花も美しいのです。なぜですか。全体を喜ばせるためのものだからです。「私が化粧をするのは、花のように、蝶のように、全体を喜ばせ、美しくするためだ」と思えば、そのようなときは、いくら化粧をしてもかまわないというのです。そのように違ってくるのです。一つは地獄であり、一つは天国になるということです。
(129-316 ~ 317、1983.12.1)
②貞淑な品行
― 宗教経典 ―
「人に対して高慢におまえの頬をそむけてはならない、また横柄に地上を歩いてはならぬ。まことに神は、うぬぼれの強い威張る者をめでたまわぬ」。 「歩きぶりを穏やかにし、おまえの声を低うせよ。まことに声の最もいとわしいのは、ロバの声である」。
クルアーン 31.18 ~19(イスラーム)144
主は言われる。シオンの娘らは高慢で、首を伸ばして歩く。流し目を使い、気取って小股で歩き / 足首の飾りを鳴らしている。主はシオンの娘らの頭をかさぶたで覆い / 彼女らの額をあらわにされるであろう。
イザヤ書 3.16 ~17(キリスト教)145
あなたがりっぱな外貌をもったとして淫蕩を求めてはならない。代わりにあなたにその美を下さった創造主、神に栄光をお返しし、その方を畏敬して賛美せよ。
プスィクタ・ラッバティ127a
(ユダヤ教)146
美しい女性を見る者はこのように言わなければならない。「宇宙にこのような美を創造されたその方を祝福してください」。しかし、美しい女性を少しでも見つめることが容認されるのか。次の聖句を見てみよう。「すべての汚れから身を守らねばならない」(申命記 23章10節)。これは美しい女性をむやみに見つめてはいけないという意味まで含んでいる。さらに、その女性が婚姻していようとしていまいと、顔が良くなかろうと、派手な服を着ていようと、どのような女性もあからさまに見てはいけないということである。さらには、豚やろば、鶏が交尾するのを見てはいけない。
タルムード、アヴォダー・ザラー20ab
(ユダヤ教)147
恥を知らず、烏のように厚かましく、図々しく、ひとを責め、大胆で、心のよごれた者は、生活し易い。恥を知り、常に清きをもとめ、執著をはなれ、つつしみ深く、真理を見て清く暮す者は、生活し難い。
法句経 244 ~ 245(仏教)148
― み言選集 ―
愛にも愛する手順があります。愛の法度があるということです。夫の父母が呼んでいるのに、「ああ、お父さん、お母さん、ちょっと待ってください! 私はキスをするので待ってください!」、そのように言うことができますか。アメリカ式は「イエス」でしょう?秩序と法度がなければなりません。夫なら夫としての礼儀があり、妻なら妻としての礼儀があります。
(112-65、1981.3.29)
皆さんが、「その家は立派な家門だ」と言える基準になっているとしても、その家の子女たちは、何であっても注意しなければなりません。すなわち、立派な家門で育った息子、娘たちは、何であっても注意しなければならないということです。一歩踏み出すのにも注意しなければならず、言葉一言にも注意しなければならず、何かの行動をするときにも注意しなければなりません。礼法が複雑だというのです。このようなことを好む人がいますか。最近は、自由が度を超して放縦的な自由になり、今ではもう飽和状態にまで至り、とても深刻になっています。最近の若い人たちは、そのような礼法を好みますか。ですから、そのままほうっておいてはすべて滅びるのです。行く所がないということです。
威厳のある家では、子女を教育できる材料がたくさんあります。目上の人に接するとき、兄弟に接するとき、父母に接するときどのようにしなさいと、育ち盛りの子供たちを集めて教えるのです。
(42-17 ~18、1971.219)
エルビス・プレスリーが歌を一曲歌えば、飛びついて抱きついてくるのは男性ですか、女性ですか。恐らく、エルビス・プレスリーを好きな人は、エルビス・プレスリーが「今晩、私を好きな女性たちは来なさい」と言えば、ずらっと列をつくるでしょう。アメリカの女性たちは、夫がいても行くでしょう。
そのように見るとき、歌を歌って世界チャンピオンだという人は、善の種類の人ですか、悪の種類の人ですか。サタン側です。世界のスターというその男性や女性は、すべてサタン側です。それでは、このようにオイルを塗り、めかし込んで美人になろうというのは、男性でも女性でも、どちらの側ですか。サタン側です。
(122-263、1982.11.21)
11. 純潔
純潔とは、性的欲望を抑制し、婚前の性関係を結ばずに、結婚後に配偶者とのみ愛することを意味する。純潔な愛の最高の喜びを享受するために結婚制度が必要である。修道僧や修道女たちの禁欲生活は、彼ら少数が選択した人生である。彼らは、天が下さった愛を受け、愛したい欲求まで犠牲にすることを覚悟した人たちである。神様は、人間たちが互いに愛し、家庭を築き、子女を育てて子々孫々繁栄することを願われて人間を創造された。このような面から、結婚生活での夫婦関係は、神様が下さった最高の贈り物であり、祝福であり、限りない喜びの体験である。
しかし、堕落人間たちは、自分の性的欲求が結婚の結合の中にとどまるように訓練できずにいる。これは訓練が必要である。宗教は、伝統的にこの目的のために奉仕してきた。姦通罪が罪の中で最も悪い罪だと多くの宗教で教える。そして、心で肉身の欲望を屈服させ、罪の誘惑を避けるために、行動の変更を制限することを教える。また、結婚を神聖な儀式として見つめる。
しかし、今日の世俗の社会で人々は、欲望を抑制する訓練を忘れて生きている。乱雑な性行為と「フリーセックス」が至る所でなされており、その場限りの幸福ばかりを追求するのであって、それから招来する挫折と傷心、家庭の崩壊は考えることができずにいる。結婚が危機にある。結婚の永遠性を不信する多くの若者たちは、結婚より同居を選んでいる。貞節を守る結婚本来の基準は忘れられ、同性愛が代案の生き方として定着している。
文鮮明先生は、とても直接的に、熱心にこの部分に対して語られる。人間の堕落がすなわち不倫の愛から始まったという原理のみ言に基づき、あらゆる罪と犯罪、不幸と苦痛の根源が、愛を誤って使用したからであると教える(第6章参照)。堕落は、人間をして愛の価値を低下させ、愛を誤って使用するようにした。したがって、このように誤った愛を神様と人間が連結される地点から本来の天の目的まで高揚させることが私たちの使命である。結婚した夫婦の愛は聖なる行為であり、文鮮明先生はこれを「絶対性」と呼ばれる。夫と妻の愛は、人間に対する神様の愛のような絶対性をもっている。それに適合できないものは、天とはだんだんと離れていくだけである。
①最も深刻な罪、姦淫をしてはならない
― 宗教経典 ―
(仁慈者のしもべたちは)姦淫せぬ者、およそこれをなす者は、処刑に会う、復活の日には、懲罰は罪に応じ倍加され、その中で屈辱のうちに住むであろう。
クルアーン 25.68 ~ 69(イスラーム)149
結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。
ヘブライ人への手紙13.4(キリスト教)150
或いは暴力を用い、或いは相愛して、親族または友人の妻と交わる人、―かれを賤しい人であると知れ。
スッタニパータ123(仏教)151
あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談(注 22)もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。
エフェソの信徒への手紙 5.3 ~ 6(キリスト教)152
私通の危険に近づいてはならぬ、それは醜行である。憎むべき道である。
クルアーン17.32(イスラーム)153
人は他人の妻に対し淫乱な思いを抱いてはならない。ましてやそのために彼女に言い寄ってはならない。何故ならそのような男は、将来這い回る虫に生まれ変わるであろう。姦通の罪を犯す者は、現世においても来世においても罰せられる。なぜなら、彼の現世において生きる日々は短縮され、死ねば地獄へ落ちるからである。
ヴィシュヌ・プラーナ 3.11(ヒンドゥー教)154
主人は全財産をヨセフの手にゆだねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった。ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。「わたしの床に入りなさい。」しかし、ヨセフは拒んで、主人の妻に言った。「ご存じのように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」
創世記 39.6 ~ 9(キリスト教)155
放逸で他人の妻になれ近づく者は、四つの事がらに遭遇する。―すなわち、禍をまねき、臥して楽しからず、第三に非難を受け、第四に地獄に堕ちる。禍をまねき、悪しきところ(地獄)に堕ち、相ともにおびえた男女の愉楽はすくなく、王は重罰を課する。それ故にひとは他人の妻になれ近づくな。
法句経 309 ~ 310(仏教)156
あなた自身の井戸から水を汲み / あなた自身の泉から湧く水を飲め。
その源は溢れ出て / 広場に幾筋もの流れができるであろう。
その水をあなただけのものにせよ。あなたのもとにいるよその者に渡すな。
あなたの水の源は祝福されよ。若いときからの妻に喜びを抱け。
彼女は愛情深い雌鹿、優雅なかもしか。いつまでもその乳房によって満ち足り常にその愛に酔うがよい。
わが子よ / どうしてよその女に酔うことがあろう / 異邦の女の胸を抱くことがあろう。
人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる。
主に逆らう者は自分の悪の罠にかかり / 自分の罪の綱が彼を捕える。
諭しを受け入れることもなく / 重なる愚行に狂ったまま、死ぬであろう。
箴言 5.15 ~ 23(キリスト教)157
神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。
テサロニケの信徒への手紙一 4.3~5
(キリスト教)158
体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
コリントの信徒への手紙一 6.13 ~ 20
(キリスト教)159
― み言選集 ―
愛を籠絡し、愛を 蹂躙することは、宇宙の犯罪の中の最高の犯罪です。男性でも女性でも、自分の愛が蹂躙されるようになるときは、首を切ってしまいたいと思うのです。首を切ってしまいたいと思い、命を捨ててしまいたいという思いになるのです。それを知らなければなりません。愛に対して罪を犯すことは、この宇宙のすべての生命の根源より、もっと大きな犯罪を行うことだという事実を私たちは知らなければなりません。
(92-79、1977.3.20)
人間先祖のアダムとエバをはじめ、人類の歴史上たくさんの英雄や道人たちが越えられなかった峠が、正にこの純潔な愛の峠でした。純潔に対しては、家庭はもちろん、学校と教会、そして政府さえも責任をもてないというのが今日の問題点です。
純潔を守る最善の方案として、私が教えてきたことは「絶対性」です。これは、一度結ばれた愛の相対は永遠のものであり、いかなる条件下でも、変わることのできない絶対的愛の関係だという意味です。なぜかというと、二人の配偶者の出会いは永遠であり、絶対的な神様の愛を中心としているものだからです。これは男性にだけ強調されるものではなく、女性にだけ該当するものでもありません。男女すべてが絶対的に守るべき天倫なのです。一方で、フリーセックスこそ、この地球上から完全に根絶させるべき邪悪な風潮です。このフリーセックスと関連した諸要素は、麻薬、暴力、同性愛、エイズなどのように、人類を破滅に追い込む因子なのです。
(288-283 ~ 284、1997.11.30)
フリーセックスはすべてのものを開いてしまう行為です。毒蛇が口を開けているのです。女性の生殖器がそのようなものであり、男性の生殖器が蛇の頭です。これがエイズを広めています。この毒蛇に一度かまれれば、理想世界は終わるのです。アメリカの女性たちの舌は、蛇の舌のように二つになっています。良心を中心として、それをどのように完全に征服するのかということが問題です。それを教える所がいわゆる宗教世界だというのです。ですから、宗教はどのように体を征服するのかを教えます。それで、「酒を飲むな、たばこを吸うな、フリーセックスをするな!」と言うのです。
(279-174、1996.8.4)
どうして一人の男性、一人の女性でなければならないのですか。アメリカ式で言えば、出会って一晩過ごし、グッバイすればそれで終わるのですが、一つの愛がどこにありますか。一人の男性と一人の女性がどこにいますか。一人の男性が何人もの男性になり、一人の女性が何人もの女性になってしまいます。それがなぜ間違ったのですか。それがなぜ間違ったのかというのです。そこには真の愛が欠乏しているからです。
真の愛とは何ですか。男性の真の愛と女性の真の愛は同じです。真の愛はここにありますが、これは男性の愛でもなく、女性の愛でもなく、一つしかないというのです。それで、男性は女性に対して、「私だけを愛しているだろう?」と言い、また女性は男性に対して、「私だけを愛しているでしょう?」と言うのです。 「どのくらい愛しているのか」と尋ねます。みな尋ねるのです。「どのくらい愛しているのか」と尋ねて、「宇宙よりもっと大きく、一番大きく愛している」と言ってこそ「ほほほほ」と笑うのです。
(118-291、1982.6.20)
人間が堕落する時、愛のために堕落したので、この性器が最も怖いのです。宗教では姦淫することを最も恐ろしい罪として取り扱っています。ですから、アメリカのフリーセックスは、悪魔の地獄膨脹主義ですか、天国膨脹主義ですか。地獄です。地上地獄であり、天上地獄です。これはすべて滅亡するのです。
(261-303 ~ 304、1994.7.24)
愛と生命と血統は、男性と女性の生殖器で確定するのです。そこが神様と接する場です。神様と接する場というのは、私たち人類の根本父母が訪ねてくることのできる場なのです。生殖器が愛の王宮であり、生命の王宮であり、血統の王宮、良心の王宮です。出発地です。それがなければ、男性の生命と女性の生命が一つに出会う道がありません。その場で出会うのです。血統がそこで生じます。良心もそこを通さなければ、自分の良心が出てこないのです。
それを知らずにいます。私たち個人にも愛があり、生命があり、血統があり、良心があるのですが、それがどこから出てくるのかというと、父母のそこから出てきます。父母の生殖器に通じた愛と連結しているのです。そのように貴いのです。宇宙のすべての理想的伝統の核がその門を通って流れてきているというのです。永遠の生命の生水が流れてきているということです。永遠の生命の生水になるためには、愛がなければなりません。ですから、それが最も重要なのです。このように貴いものなので、貴いもの、宝物はこの自然の中に現れているのではなく、隠されているのです。金もそうではないですか。長石のような所に入って組み込まれています。隠されているということです。
ところが、堕落することによって、ひっくり返りました。女性がそれを自分のものだと考えたのです。それは自分のものではありません。愛を完成するにおいて、男性の愛を完成させようとすれば、女性のそれでなければ永遠に不可能です。女性の愛をもたらし得るものは、男性のそれでなければ永遠に成し遂げられません。自分のものを中心としては、永遠に成し遂げられないのです。
これが入れ替わらなければなりません。主人が誰かというと、男性のものは女性が主人であり、女性のものは男性が主人です。主人が入れ替わっているのです。
(300-320 ~ 321、1999.4.15)
②青少年の婚前禁欲
― 宗教経典 ―
どのようにして、若者は / 歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。
詩編119.9(キリスト教)160
若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。
テモテへの手紙二 2.22
(キリスト教)161
恥ずかしいところを守る者、ただし配偶者ならびにその右手の所有する者は別である、……しかし則を越えて求める者、かれらは違犯者である。……これらは相続者で、パラダイスを継ぐ者である。
クルアーン 23.5 ~11(イスラーム)162
結婚の手だてが見つからぬ者は、神の恵みにより、富ませたもうまで自制せよ。……奴隷の娘たちが、貞操を守るよう願うならば、現世のはかない利益を求めて醜業を強制してはならぬ。
クルアーン 24.33(イスラーム)163
人が妻をめとり、彼女のところに入った後にこれを嫌い、虚偽の非難をして、彼女の悪口を流し、「わたしはこの女をめとって近づいたが、処女の証拠がなかった」と言うならば、その娘の両親は娘の処女の証拠を携えて、町の門にいる長老たちに差し出し、娘の父は長老たちに、「わたしは娘をこの男と結婚させましたが、彼は娘を嫌い、娘に処女の証拠がなかったと言って、虚偽の非難をしました。しかし、これが娘の処女の証拠です」と証言し、布を町の長老たちの前に広げねばならない。町の長老たちは男を捕まえて鞭むちで打ち、イスラエルのおとめについて悪口を流したのであるから、彼に銀百シェケルの罰金を科し、それを娘の父親に渡さねばならない。彼女は彼の妻としてとどまり、彼は生涯、彼女を離縁することはできない。しかし、もしその娘に処女の証拠がなかったという非難が確かであるならば、娘を父親の家の戸口に引き出し、町の人たちは彼女を石で打ち殺さねばならない。彼女は父の家で姦淫を行って、イスラエルの中で愚かなことをしたからである。あなたはあなたの中から悪を取り除かねばならない。
申命記 22.13 ~ 21
(キリスト教)164
釈尊は説いていわれる。愛欲には種々の欲があるが、男女の間の色欲くらいその欲の甚だしいものはない。またその欲のこれ位に大きいものは外にはない。こうした欲は甚だしく、また大きいといっても、頼いに一つだけであることから、この欲を何とかして制することがなし得るが、若しこれが二つもあったならば、この広い天下にあって能く仏道のためにする者は、誰もいないであろう、と。(注 23)
四十二章経 24(仏教)165
― み言選集 ―
未婚の女性たちは男性に目が行くでしょう? 男性を探そうとしても真の愛がありますか。男性たちは女性に真の愛があると思いますか。男性が信じられますか。女性が信じられますか。女性が生まれたのは男性のために生まれたのであり、男性は女性のために生まれたということを知っている男性、女性はいません。自分のために生まれたと思っているというのです。それでは男性は何をするのですか。女性は何をするのですか。僕だと思っているのです。ために生きようとはしないのです。ために生きなければ愛はあり得ません。初愛は永遠なのです。
(297-145 ~146、1998.11.19)
20 代に近い青少年として、汚されず、染まっていない貴い純情を、大切に固く包んでどこに置くのでしょうか。天が最も喜び得るその祭壇の前に置き、神様が喜び、次には自分と同じ純情をもったそのような男性と女性が出会い、神様が共に結ばれ得る貴い基盤が、新郎新婦が出会う場です。
(64-85、1972.10.24)
青春時代に純情を失ってしまったアダムとエバの恨みを踏み越えて蕩減できる貴い時期である思春期に、純情を汚してはならないのです。その純情をきれいに、貴く保存しなければなりません。「千世、万世一人でいたとしても、愛が 蹂躙されることは絶対にあり得ない」という貞節の決意をもたなければなりません。民族を愛し、国を愛さなければ、私が愛せる人と出会うことができません。世界を愛さなければ、愛せる人をもつことはできず、神様を愛さなければ愛する人をもつことはできないのです。これが統一教会の伝統的な思想です。ですから、神様を愛し、世界を愛し、民族を愛したのちに自分の妻を愛し、夫を愛することができるのです。これが原則です。
(37-108、1970.12.22)
男性も貞節を守らなければならない時が来ています。男性が貞節を守れなければ、その一門がみ旨の前に重罪を犯すようになるのです。たとえ大臣であっても、浮気をしてもよいようにはなっていません。男性が間違えれば、その一門は滅びるのです。そのような時が来るのです。「統一思想」を知れば、そのようにすることはできません。
(38-281、1971.1.8)
それで先生が祝福家庭の子供たちは早く結婚させなければならないと考えているのです。何の話か分かりますか。初愛です! それが何の言葉か理解できますか。皆さんもそのような意味を理解して、初愛を中心として思春期に相対と出会ったならばどれほど幸福ですか。初愛! 初愛! そのような初愛がなぜ必要なのかというと、純粋で何も分からない子供が父母を好むように、十分にそのようにできるからです。そのようにできる理想的な夫婦になり、理想的な息子、娘をもち、理想的な父母に侍ったその人が、どれほど幸福か考えてみてください。
(118-310、1982.6.20)
③触ったり見たりするのも禁止されるのか?
― 宗教経典 ―
園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。
創世記 3.3(キリスト教)166
身の回りの世話をする、戯れる、装身具や衣服に触れる、寝台に一緒に座る―これらはすべて姦淫であると言われている。
マヌ法典 8.357(ヒンドゥー教)167
あなたがたも聞いているとおり、「姦淫するな」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
マタイによる福音書 5.27 ~ 28(キリスト教)168
淫蕩な目つきは目の姦淫であり、淫乱な言葉は舌の姦淫である。 (身体の)部分が実行に移そうと移すまいと、心は願い渇望する。
ムスリム・ハディース(イスラーム)169
あなたが実際の犯罪をしていないのは真実である。しかし、あなたが他の人の家で美しい女性を見て、彼女をあなたの思いの中から振り払うことができなかったとき、あなたは心の中で彼女と姦通を犯したのである。瞬間を熟考せよ。あなたが聖人ル・ナンジャ(LUNan-tze)と似た位置にいるなら、あなたは聖人(ル・ナンジャ)を手本とし、自らに対する十分な統制をもっていることができるか。彼は、いつか女性が一人で暮らす家で夜を過ごさなければならなかったとき、彼は明かりをつけ、朝まで一人で本を読むことによって、彼女が不公正な嫌疑にさらされるのを避けた。
太上感応篇(道教)170
釈尊は説いていわれる。仏道修行の上にあっては、愛欲に心が動かされる女を、慎んで視ることのないようにしなくてはならない。また共に語り合うことなどしてはならない。若しどうしても共に語り合わなくてはならないとしたら、自らの心を正して思念し、心が動揺しないようにすべきである、そして自分は沙門である(注 24)という自覚と信念とを持つべきである、 濁世にあっても濁されることは、決してないことは、まさに蓮華が泥中に生じながらも、泥に汚されることのないことに思いを至すべきである。どうしても女と出合わなくてはならないとしたら、老女を見ては母の如く、長じたるを見ては姉の如く、年少のものを見ては妹の如く、幼いものを見ては子の如く思い、女に愛着して心を動かすことなく、悟りの心を起して、悪念の生ずることのないようにしなくてはならない、と。
四十二章経 29(仏教)171
― み言選集 ―
西洋式はとてもたくさん握手をするので、タッチの感覚がありません。しかし、東洋式は、少しだけ触れても、 「う~」と言います。どうですか。男性と女性が、頻繁に接触するのがよいですか、すべて完成したときに接触するのがよいですか。電気は、100 ボルトに接触するのがよいですか、50 ボルトに接触するのがよいですか。100 ボルトです。その時まで、ぴたっと……。どうですか。未婚の男女のときは、「会いなさい」ですか、 「会ってはいけない」ですか。 「会ってはいけない」です。これが100ボルト、真っ赤に熟したのちに、手を出しただけでびりびりっと目が覚めるようになるときまで、待ちなさいというのです。
アメリカの女性たちは、初愛がどのようなものか分かりません。50 ボルトと 30 ボルトは明るさが違います。アメリカ式の愛はどうですか。サタンが方便的にすべて高次的な愛の感触世界をひっきりなしに覗き見るのです。思春期の男性にとって神秘の王宮が女性です。女性にとっては神秘の王宮が男性です。今、ミステリーとは何ですか。動物と同じです。猫が愛するのと子犬が愛するのは、縦的な愛がありません。それは動物的な愛であって、縦的な愛ではないというのです。縦的な愛はありません。
(125-103 ~104、1983.3.13)
宗教を信じるにおいて、歴史時代のいかなる宗教が苦行をした以上の苦行をする宗教を訪ねていかなければなりません。この宗教生活とは何かというと、良心が拷問する拷問官になり、「この体よ、この体よ!」と、完全に倒れ込むまで拷問して降伏させ、二度と目を覚まさないように占領してしまうのです。心が拷問してしまわなければならないのです。
それで、正常な目が一度ひっくり返ったので、逆さまにひっくり返して正しくならなければなりません。180 度他の方向からすべて見ようと言うことができる目にならなければならず、これも 180 度転換、すべて 180 度転換しなければなりません。サタン側は左側を通して見ようとするのですが、これがすべてひっくり返って右側を通して見ることができるようになって正しくならなければならないのです。それで、180 度見えない目が良心の目と一つになって見ることができるよう、右側の360 度の本然の位置に戻らなければなりません。その次に、その見る目は心の目となり、100 パーセント見てもよいのです。
(261-303 ~ 304、1994.7.24)
④同性愛:フリーセックスの極致
― 宗教経典 ―
女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである。
レビ記18.22(キリスト教)172
菩薩……は五種の男性の能力のない男子に近づいて、それと親しみ懇ねんごろになることがないように。(注 25)
法華経14(仏教)173
またロトをつかわしかれの人びとに、こう言ったときを思え「おまえたち以前に、どんな世でもしなかった、みだらな行いをしている」。
「まことにおまえたちは、男性に近づき、また大道で強盗をはたらく、……」 (注26)
クルアーン 29.28 ~ 29
(イスラーム)174
それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。
ローマの信徒への手紙1.26 ~ 27(キリスト教)175
― み言選集 ―
フリーセックスやホモセクシュアル、レズビアン運動などのすべてのものは、人間の権利と人間の権威を破綻させる一つの行動でしかないのです。
(128-35、1983.6.1)
サタンが最も好むものはフリーセックスです。神様は反対です。神様は「絶対性」を願います。天使長は相対がいません。それで、ホモ、レズビアンが出てくるのです。しかし、神側では絶対パートナーシップです。完全に反対の現象が終わりの日に起きます。今そのような世界が、アメリカを中心として起きています。エデンの園でフリーセックスを主導したのがアダムとエバです。エデンに植えたものを今、収穫する時になったのです。フリーセックスの種を植えたのですが、それを収穫する終わりの日になりました。それで全世界がフリーセックスの世界になったのです。家庭が壊れました。終わりの日にはサタン的な結果が現れます。それで、フリーセックスが充満した世界になったのです。パートナーシップがないので「男性同士で結婚しよう!」と言うのです。
(282-27、1997.2.16)
天国に入るのに絶対に必要な条件が、正に「ために生きる人生」、すなわち真の愛の人生なのです。ところが今日、私たちが身を置いている現在の世界を見てください。極度の利己主義の罠にかかり、物質万能を叫び、価値観を喪失したまま、享楽と腐敗の沼にはまり込んでいます。アルコール中毒者がはびこり、麻薬やフリーセックスでも足らずに、今では近親相姦という獣にも劣る蛮行を勝手気ままに行っても、堂々と顔を上げて生きています。女王格の女性、祖母格の女性、母格の女性、妻格の女性、娘格の女性、このようにすべての段階の女性たちを蹂躙しても、世の中を闊歩する「人面獣心」の者たちが氾濫する世の中になってしまいました。夫婦同士で、お互いの夫と妻を取り替えて楽しむスワッピングが猛威を振るう世の中になってしまいました。このような振る舞いこそ、人倫道徳破壊の極致であり、堕落行為の断末魔的姿にほかなりません。神様の創造理想世界の完成は、夢にも見ることができない地上地獄になってしまいました。
平和神経、平和メッセージ 3、2006.4.10
ホモセックスが原理にありますか。レズビアン、アルコール中毒、このようなものはすべて情緒的な脱線です。このような世界が地獄です。私たちはこれとは反対、180 度反対です。
(243-192、1993.1.10)
このアメリカで、同性恋愛をしていて統一教会に入ってきて、いまだにそのような因縁がすべて終わっていない人がいれば、それはそのまま地獄に行きます。それを知らなければなりません。そのまま地獄に行きます。統一教会で感銘を受ければ、それがすべて逃げていくのです。重生が起きるというのです。いくら好きだったことでも、心が駄目だと言えば終わりです。すべてそのようにならなければなりません。そのようになっていない立場にいれば、涙を流して痛哭しながらそれを悔い改めて、祈祷しなければなりません。(注27)
(219-233、1991.9.8)
12. 禁酒と節制
酒と麻薬、賭博は、幻覚的娯楽に見えるが、これらは大勢の人々を沼に陥れる。また人間を真理の光に対して見えなくさせ、良心の声を聞こえなくさせる。中毒にまでなれば、体を滅ぼし、家庭を破壊し、職業に影響を与え、さらには犯罪行為につながる反社会的行為を招来する。実際に大勢の人たちが無意味な性関係をもつ前兆として、タブーを崩すための手段として酒と麻薬を利用することが知られている。たばこも同じ効果をもっている。たばこは、若者たちがより強い麻薬に接することに影響を及ぼすこともある。中毒を一種の病と見る現代医学とは異なり、世界の諸宗教は、人間個々人が酒と麻薬、賭博から自らを節制し、遠ざける人生を営為する責任があると教えている。
文鮮明先生は、自分の人生に満足できなかったり、愛が欠乏した者たちが、たばこと麻薬、酒に依存する傾向があると言われる。これらは愛の欠乏に対して良い代案ではない。酒と麻薬に対する解決策は真の愛である。幻覚的、一時的興奮は、真の愛の深い情緒的満足感と比べてみるとき、しがないことこの上ない。
― 宗教経典 ―
なんじら信仰する者よ、まことに酒とかけ事、……は忌み嫌うべき悪魔の業である、これを避けよ。おそらくなんじらは成功するであろう。悪魔の望むところは、酒とかけ事によって、なんじらの間に、敵意と増悪を起こさせ、なんじらが神を念じ、礼拝をささげることを妨げようとする。それでもなんじらは慎まないか。
クルアーン 5.90 ~ 91(イスラーム)176
酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされなさい。
エフェソの信徒への手紙 5.18(キリスト教)177
阿片にはまった人に阿片に値するものはなく、魚は水に値するものはなく、神の愛にはまった者は万有を愛する。
アーディ・グラント、ヴァダハンス
M.1、p.557(シク教)178
かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。
ペトロの手紙一 4.3 ~ 5(キリスト教)179
立派なお人柄の方は / 酒を飲んでもおとなしい / あの愚かしい男はただ日ましに酔いまさる / みんな自分の生きかたを生きよ / 運命とは絶対のものだ
詩経、196 小宛(儒教)180
災いだ、朝早くから濃い酒をあおり /夜更けまで酒に身を焼かれる者は。
酒宴には琴と竪琴、太鼓と笛をそろえている。だが、主の働きに目を留めず /
御手の業を見ようともしない。
イザヤ書 5.11~12(キリスト教)181
財産を損う六つの行いとは、第一に酒に耽溺すること、第二にばくちをすること、第三に勝手気ままにふるまうこと、第四に歌舞に心をまどわすこと、第五に悪友と意気投合すること、第六に怠惰であること、
酒に心まどわす者は / さらに酒飲み仲間がいる
たとえ財産を集めても / 己の気ままに使い果たす
酒を飲んでは節度を知らず / いつも歌舞にうつつを抜かす
昼間はひとの家へぶらぶら出歩き /それがもとでわが身を破滅する
酒に心を狂わされ / 貧しい身のほどをわきまえず
財を軽んじぜいたく三昧 / 家産を破ってわざわい招く
ばくちをしては群れだって酒を飲み /共に他家の淫女をうかがいねらう
卑しい行いに慣れ親しんで / みそかに向かう月のように名をおとす
阿含経長部 iii、182 ~ 185、善生経(仏教)182
不幸な者は誰か、嘆かわしい者は誰か / いさかいの絶えぬ者は誰か、愚痴を言う者は誰か / 理由なく傷だらけになっているのは誰か / 濁った目をしているのは誰か。
それは、酒を飲んで夜更かしする者。混ぜ合わせた酒に深入りする者。
酒を見つめるな。酒は赤く杯の中で輝き、滑らかに喉を下るが /
後になると、それは蛇のようにかみ /蝮の毒のように広がる。
目は異様なものを見 / 心に暴言をはき始める。
海の真ん中に横たわっているかのように / 綱の端にぶら下がっているかのようになる。
「打たれたが痛くもない。たたかれたが感じもしない。酔いが醒めたらまたもっと酒を求めよう。」
箴言 23.29 ~ 35(キリスト教)183
ラビ・イサクが、箴言 23 章 31 節を引用して言った。「ぶどう酒は世の邪悪な赤い顔をもっている。しかし、主が来られるその時には、その色が薄くなるだろう」。ラビ・メイルが言った。「アダムが取って食べた木はぶどうの木だった。そしてぶどう酒は人間に痛嘆をもたらす」。
タルムード、サンヘドリン 70ab(ユダヤ教)184
高き〔木〕の耳飾りはわれを酔わしむ、風吹くところに生まれ、賭場に跳ねまわるとき。ムージャヴァットに産するソーマの宴飲に似て、ヴィビーダカは眠ることなくわれに見えたり。
彼女(賭博者の妻)はわれを咎めざりき、怒りしこともなかりき。彼女は〔わが〕友達に、われにもまた親切なりき。一つ余りの骰子ゆえに、われは貞淑なる妻を離別せり。
姑は〔彼を〕憎み、妻は排斥す。援助を求むるも彼は憐愍者を見いださず。 〔人はいう、〕 「売りにだされし老馬のごとく、われ賭博者に何らの効用を認めず」と。
他の人々は彼の妻に触る。その彼の財産に、賭を勝ちとる骰子は慾望を起せり。父・母・兄弟は彼についていう、「われらは〔彼を〕知らず。縛めて彼を連れ去れ」と。
彼ら(骰子)もて賭博に耽らじと、われ心に思うとき、去り行く友達のあとにわれ〔ひとり〕残さる。また褐色のもの(骰子)が賭場に撒かれて声を挙ぐるや、われは実に彼らとの逢引に急ぐ、恋人をもつ女子のごとく。
賭博者はサバー(賭博場)に行く、われ勝つべしやと自問しつつ、身を震わせて。骰子は彼の願望を齟齬せしめ、敵手にクリタを授く。
骰子は実に、鉤をもち、突き棒をもち、征服し、焼き苦しめ、熱苦をもたらす。
彼らの賜物は男児のそれに等しく、勝利者を再びうち負かす。彼らは、賭博者にとり、蜜もて混ぜられたり(魅力をもつ)、〔しかも〕破滅のために。
百五十よりなる彼らの一団は踊る、神サヴィトリ(激励の神)のごとく、その本性を実現して(刺激と活動)。
強力なる者の怒りにすら叩頭せず、王者すら実に彼らに頂礼す。
下に向かいて転じ、上に向かいて跳ぶ。手なくして手ある者を克服す。この世のものならぬ炭として、賭場に撒まかれたるとき、彼らは冷たくありながら、〔人の〕心を燃やす。
賭博者の妻はうち棄てられて悩む。いずことも知られず放浪する息子の母〔もまた〕。債務を負い、恐怖を抱き、財を求めて、彼は夜他人の家に近づく(盗むため)。
婦女を見たるとき、賭博者に悩みあり、他人の妻といみじく整えられたる住まいとを〔見たるとき〕。何となれば、彼は 朝に褐色の馬を車に繋げり、〔 夕に〕物乞となりて炉火のほとりに身を横たえつ。
汝らの大いなる群の将帥、一団の最高の王者なる彼に、われは十〔指〕をさし伸ぶ。われ財宝を留め残さず。この真実の〔誓い〕を述ぶ。
「骰子をもって賭博をなすなかれ。ただ田畑を耕せ。財産に満足してあれ、〔そを〕重く尊びて。そこに牝牛あり、賭博者よ、 そこに妻あり。」これをサヴィトリはわれに告ぐ、庇護なき者を助くるこの〔神〕は。
乞う、われと和睦を結べ。われらを憐れめ。恐ろしき〔魔力〕もて、われらを酷く呪縛するなかれ。今や汝らの忿怒、敵意の鎮まらんことを。今や他の者をして褐色のものたち(骰子)の罠の中にあらしめよ。
リグ・ヴェーダ 10.34(ヒンドゥー教)185
― み言選集 ―
良心が反対するものは悪いことです。ですから、社会が規制するのです。酒を飲まず、放蕩せず、賭博をするなというのです。これは根本を破綻させる行いです。愛の問題は家庭を破綻させ、賭博は社会を破綻させます。
(320-135、2000.4.1)
サタンは、どのような武器を利用しましたか。空気の武器を利用しました。それがたばこです。次に、液体の武器は酒です。それから、固体の武器は何ですか。麻薬です。このようにして、精神まですべて腐らせるのです。体を腐らせ、精神を腐らせ、鼻の穴から肺をすべて腐らせるのです。ですから、私たちは、酒を飲まず、たばこを吸わないのです。それらは、人類を滅亡させるためのサタンの武器です。神様と通じる精神を妨害する要素となるこの三つのものは、怨讐の最高の武器です。
(126-71、1983.4.10)
サタンは何をもって誘惑しますか。たばこです。女性が男性に「たばこを貸してください」と言い、男性が「いいよ」と言ってフリーセックスが介在します。セックスの概念が介在していることを知らなければなりません。東洋では男性たちがたばこを吸うのであって、女性たちはたばこを吸ってはいけないと言うのです。悪い女性として扱われます。吸うことができません。ところが、女性が男性に「たばこを貸してください」と言うのは、「セックスしよう!」という意味です。そのような条件物です。餌です。それを知らなければなりません。「一緒にお酒を飲もう」と言うのも、「セックスしよう」と言うのと同じです。麻薬も同じものです。酒に酔ったあとは男性が女性を好きなようにするのです。女性が男性を好きなようにすることができ、男性も女性を好きなようにすることができるのです。そのように酔って何をするのですか。フリーセックスをするのです。麻薬もそうです。
(287-118 ~119、1997.9.19)
子女のために生きなければならない父母であるにもかかわらず、その父母の立場を忘却し、酒を飲んで自分を中心として酔うようになれば、それは悪に属します。サタンに属するのです。では、酒を飲む人は、彼自身が幸福ですか、不幸ですか。不幸です。よいですか、悪いですか。悪いです。その飲むこと自体は幸福なのでしょう? 酒を飲みながら踊りを踊って喜ぶではないですか。それは永遠を維持することはできません。何日かすれば終わります。それによって環境的与件に破綻が伴うのです。それによって環境的与件が保護を受けることができず、それが永遠に継続するので、悪に属するという事実を知らなければなりません。
(124-244、1983.2.20)
東洋に「酒色雑技(飲む・打つ・買う)」という言葉があります。これは何かというと、酒と女と賭博です。世界の犯罪事件はすべて、ここに由来しています。その背後に酒が、その次には女性関係が、その次には賭博が関係して起きるのです。大きな事件で女性と酒が排除されたケースがありますか。その次には麻薬です。麻薬は酒よりもっと強いのです。酔うようになります。酔うのです。麻薬をすれば女性関係が生じるものです。酒を飲めば、男女関係がすべて破壊されます。賭博場に行けば、千年の歴史を一度に賭けて打ち込むというのです。
(230-115 ~116、1992.4.26)
中国の人たちは、賭博をしていてお金がなくなれば、自分の財産を差し出し、妻を差し出します。そのようにして負ければ死ぬのです。僕と賭博をしたとしても、その僕と約束した掛け金を払わなければならないので、自分は死にます。死ねば彼の財産も僕がもち、妻もその僕が連れて暮らします。賭博はそのくらい恐ろしいのです。
(124-157 ~158、1983.2.6)
皆さんの家に真の愛がありますか。皆さんの答えに自信を感じません。「はい」と言うその手に、吸っていたたばこの黄色い物がついており、その酒の残りかすのにおいがします。真の愛があれば香りが漂わなければなりません。
(215-244、1991.2.20)
堕落は家庭から始まったので、復帰も家庭からしなければなりません。「歯には歯、目には目」と言うでしょう?蕩減復帰もそのようにするのです。
堕落した世界に生きる家庭は、すべてサタンの家庭です。サタンが神様のみ旨とはすべて反対にしておいたのです。それで今、家庭を見れば、おじいさんとおばあさんも怨讐であり、お父さんとお母さんも怨讐です。すべて怨讐にして、家庭でおじいさんとおばあさん、お父さんとお母さん、夫と妻、息子、娘がすべて否定するのです。そして、フリーセックスが乱舞する世の中になるのです。
情緒的な感覚を訪ねていこうとするので、幻覚剤やアヘンが必要です。そのようなものを飲めば、幻覚世界で刺激が継続するので、自然にアヘンや麻薬に流れていきます。アルコールのようなものを飲むのも、すべてそのような理由のためです。
(243-251、1993.1.17)
男性でも女性でも、愛の力をもてばすべての細胞が集約するようになっています。ですから、その刺激は最高の総合的な刺激です。その時こそ体と心が、対象と主体が完全に授け受けするのです。この作用が普通の時は、ひたすら道理に従う法度どおりに作用しますが、愛すれば違います。普通の時は自然の作用をするのですが、愛の力をもつようになれば、100 パーセント爆発的な作用をするというのです。その衝撃的な刺激に酔ってしまいます。それで愛がよいのです。酒を飲むよりも、アヘンの注射をするよりも、いかなるものよりも刺激的なものなので、愛が一番なのです。
(117-76、1982.2.1)
神様の真の愛が真の父母から始まります。これを完全に取ってしまおうとするので、根がありません。根がなく、枝にくっついておらず、秋に落ちた実のように、すべて転がり回っています。ですから、一度にすべて掃いてしまうのです。行く所がありません。アメリカも行く所がなく、イギリスのような先進国も行く所がありません。日本も行く所がなく、ドイツも行く所がないことは同じです。この世界に行く所がありません。縦的な真の愛を失ってしまい、これを横的に取り戻そうとすべての家庭に手を出し、国に手を出し、ついにはフリーセックスに至るようになったのです。愛には感情があり、高次元的な宇宙と通じ得るアンテナがあるのですが、それがすべてなくなったので、それを補充しようと麻薬を吸い、フリーセックスをするのです。
しかし、これでは補充できません。やればやるほどもっとなくなっていくのです。ですから、フリーセックスをすれば心がうれしくないのです。感情がすべて愛に陶酔していたその境地に入っていきたいと思う心、その瞬間を願うので、すべて幻覚、麻薬の世界と化してしまいます。そのような麻薬の世界では、想像で愛の感情を感じられます。麻薬の力が持続している間は、そのような感情を感じられるのです。しかし、薬効が切れてしまえば、その感情も消えます。
真の愛は麻薬が問題ではありません。麻薬自体も真の愛のためにあります。そのようなことを考えてみてください。どれほど高次元的ですか。天地に「う~あ」と電気が通じれば、大きなラジオのスピーカー装置が「うう」となるように、線さえつなげれば宇宙が響くのです。「わあ」と響きます。真の愛の力がどれほど大きいか、人のようなものは問題ではないということです。すべて虜になります。真の愛を語れば、宇宙が踊るのです。すべてのものが踊ります。最近、流行しているツイストのようなものは比較にもなりません。逆さまに飛び上がったりするのです。
(247-126 ~127、1993.5.1)


