統一思想(要綱) 第六章 倫理論

第六章 倫理論

 今日の世界を見るとき、最も慨嘆すべきことは道徳観念、倫理観念が急速に消え失せつつあるという事実である。それと同時に反道徳的な考え方が急速に増大し、人間が考えることは、いかなることを行っても構わないというような考え方が蔓延している。その結果、各種の社会犯罪が続出し、秩序は乱れ、社会は大混乱の渦の中に陥っているのである。このような社会混乱の原因の一つは、人間の思考方式が物質主義に流れたことであり、もう一つは従来の価値観と倫理観の崩壊にある。そこで今日の社会の大混乱を収拾して社会秩序を正しく立てるためには、新しい倫理観が樹立され、提示されなければならないのである。
 また未来社会に対備するために新しい倫理観が要請される。未来社会は神の愛を中心として真善美の価値が実現される社会であり、真実と芸術と倫理が渾然一体となった、永遠なる愛の世界である。したがって未来社会は真実社会であると同時に、芸術社会であり、倫理社会である。
 倫理社会は善を実践する善なる人たちが住む社会である。善を実践する社会を実現するためには、新しい倫理観が樹立されなければならない。すなわち既存の価値観の欠点を補いながら新しい倫理観を代案として提示し、混乱した倫理観を正すと同時に、新しい倫理生活を示すことのできる理論体系が求められる。
 未来の倫理社会とは、全人類が神を父母として侍る中で互いに兄弟姉妹の関係を結んで生きる社会であり、神の愛を中心として人間が互いに愛し合う社会である。そのような社会において、愛の実践方案となるのが倫理論である。一方、人間は地上世界と霊界の和堂の中心となるために、倫理社会は地上世界だけでなく霊界まで含んだ倫理社会である。したがって新しい倫理論の提示する規範は、地上世界の混乱を解決するだけでなく、霊界の混乱までも解決しうるようになるのである。こうした役割を果たすために立てられたのが本統一倫理論である。

一、統一倫理論の原理的根拠

 統一原理の中に、本倫理論が成立する三つの根拠がある。第一は、神の真の愛であり、第二は、家庭的四位基台の理論であり、第三は、三対象目的の概念である。これらに関してさらに具体的に説明することにする。
 第一の原理的根拠は神様の愛である。愛の主体である神は、その愛の実体対象として人間を創造し、人間が完成したあと、神様の心情と愛を相続し、日常生活を通じて愛を実践するようにされたのである。
 神の愛は真美善の価値の基盤となる。真美善にそれぞれ対応する学問である教育論、倫理論、芸術論の成立の根拠も神の愛である。特に倫理論においてはそうである。それゆえ神の真の愛は倫理論の成立において究極的な根拠となるのである。
 原理的根拠の第二は家庭的四位基台である。神様の愛が完全に実現するためには家庭的四位基台が必要となる。ゆえに神の愛は、現実的には家庭的四位基台(神、父、母、子女の四位置)を通じて分性的愛(分性愛)として、すなわち父母の愛、夫婦の愛、子女の愛として現れる。ところで神を中心として見るとき、父母や夫婦や子女はみな神様の対象となる。父母は神の第一の対象となり、夫婦は神の第二の対象となり、子女は神の第三の対象となる。それゆえ神を中心とした、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を合わせて三対象の愛というのである。それゆえ本倫理論は、家庭内の四つの位置を中心とした愛の関係を全面的に扱うことになる。
 原理的根拠の第三は、三対象目的である。完成した男性と女性が神様を中心として夫婦となり、互いに愛し合うとき、神に似た子女が生まれる。そのとき、神を中心として父(夫)と母(妻)と子女の四つの位置において家庭的四位基台が形成される。そして祖父母がいれば、祖父母は家庭において神を代身する立場に立つのであり、祖父母を中心とした父と母と子女によって家庭的四位基台が形成されるのである。
 祖父母を中心とした家庭的四位基台において、各々の位置は三つの対象に対するようになる。すなわち祖父母は父、母、子女を、父は祖父母、母(妻)、子女を、母は祖父母、父(夫)、子女を、子女は祖父母、父、母を対象として対するのである。そのように家庭的四位基台の四つの位置はそれぞれ三対象に対するようになるのであるが、家庭における人間の被造目的は、この三対象に対することによって(愛することによって)実現されるのである。そのときの創造目的(被造目的)を三対象目的という。したがって、四位基台の各位置において三対象を愛するとき、三対象目的が達成されるようになる。
 三対象目的の実現は、三つの対象に向かって神の愛を実現するということである。神様の愛は絶対的愛であるが、家庭的四位基台における位置と方向性に応じて、分性化(分離)されて分性的愛(分離愛ともいう)として現れる。分性的愛は、基本的には父母の愛、夫婦の愛、子女の愛の三種類の愛、すなわち三対象の愛である。(すでに述べたように、三対象とは、神の第一対象である父母、第二対象である夫婦、第三対象である子女を意味する)。
 父母の愛は、父母から子女に向かう下向性の愛(下向愛)であり、夫婦の愛は、夫婦間の横的な愛(横的愛)であり、子女の愛は、子女から父母に向かう上向性の愛(上向愛)である。ところでこのような分性的な愛を同時に、家庭的四位基台の四つの位置においてそれぞれ三対象に相対する愛があるために、正確にいえば、愛には十二の方向性がある。その結果、家庭愛には、ニュアンスの異なるいろいろな愛が現れるのです。そして、それぞれの愛の実現に際して、それぞれにふさわしい徳目が必要になるのである。
 以上のことを要約すれば、次のようになる。神の創造理想とは、人間が家庭を通じて神の愛を実現することであり、家庭的四位基台を完成することである。したがって統一倫理論の目的は、家庭的四位基台を基礎とする愛の徳目を扱うことにある。

 

二、倫理と道徳

倫理と道徳の定義

 家庭における各構成員は、個人すなわち個性真理体として、内部に心と体または生心と肉心の授受作用による四位基台を形成している。それが内的四位基台である。そして家族構成員相互間にも、授受作用によって四位基台が形成されるが、それが外的四位基台である。
 生心と肉心の授受作用によって内的四位基台が形成されるとき、生心が主体、肉心が対象である。しかし人間始祖の堕落以後、生心と肉心の関係が逆転してしまった。すなわち肉心が主体となり、生心を支配するようになった。そして肉心の目指す衣食住と性の生活の営みが先次的になり、生心による価値生活は二次的になってしまった。したがって、生心と肉心の関係を元に戻す努力が今日まで続けられてきたのである。聖賢たちによって強調されてきた修道生活、人格陶冶などがそれである。これは個人の完成のための努力であるが、また一方では、家庭の完成、すなわち家庭的四位基台の完成のための努力も、歴史を通じて、たゆみなく続けられてきたのである。
 ここで、倫理と道徳に関して定義してみよう。倫理とは、家庭において家庭の構成員が守るべき行為の規範である。すなわち家庭を基盤とする人間行為の規範であり、家庭における愛を中心とした授受法に従う人間行為の規範であり、家庭的四位基台を形成するときの規範である。したがって倫理は、連体としての規範であると同時に、第二祝福である家庭完成のための規範でもある。
 それに対して道徳とは、個人が守るべき行為の規範である。すなわち、個人生活における人間行為の規範であり、個人の内的生活における心情を中心とした授受法に従う行為の規範であり、個体的四位基台を形成するときの規範である。したがって道徳は、個性真理体としての規範であると同時に、第一祝福である個性完成のための規範である。したがって、倫理が客観的な規範であるのに対して、道徳は主観的な規範なのである。

 

倫理と秩序

 家庭的四位基台の一定の位置で、一定の目標に向かった行為 - 三方向(三対象)に向かう行為 - の規範が倫理である。そのとき、行為の内容はもちろん愛である。したがって、倫理は愛の位置すなわち秩序において成立する。言い換えれば、倫理は秩序を離れては立てることができない。ところが今日、家庭において、父母と子女間の秩序、夫婦間の秩序、兄弟姉妹間の秩序が軽視ないしは無視され、家庭における秩序が乱れている。そして、それが社会秩序の崩壊の主要な原因となっている。本来、社会の秩序体系の基礎であるはずの家庭が、今日では社会の秩序崩壊の始発点となってしまったのである。
 愛の秩序は、性の秩序と密接な関係にある。したがって倫理は、愛の秩序であると同時に、性の秩序でもある。性の秩序とは、性的結合の秩序、すなわち男女間の秩序をいう。父母と子供夫婦の間に秩序があるのはもちろん、兄夫婦と弟夫婦の間にも秩序がなくてはならない。すなわち、弟は兄嫁を性的に愛してはいけないし、兄は弟の嫁を性的に愛してはならないのである。
 ところが今日に至り、性の秩序が著しく崩壊し、男女の不倫な性関係はますます加速されているのである。このような性の秩序の破壊をもたらした原因の一つは、既存の価値観の崩壊によって形成された動物的人間観のためであり、他の一つは、官能的な性文化を助長する一部のマスコミのためである。そのために性の神聖性は失われ、性の退廃状態は今日、とても目を開けて見ることのできないところにまで至ったのである。
 これはあたかも、エデンの園において、エバが天使長に誘惑されて、天使長と不倫なる関係を結ぶことによって、愛の秩序とともに性の秩序を破壊するようになった状態と、まさに同じである。家庭を本来の姿に戻すためには、新しい価値観が要請される。それは、愛の秩序と性の秩序を確立することのできるものでなくてはならない。統一倫理論が提示される理由がここにある。

 

倫理・道徳と天道

 人間は、宇宙を構成する要素を総合した実体相であり、宇宙を縮小した小宇宙であるが、家庭は宇宙の秩序体系を縮小した小宇宙大系である。宇宙を貫いている法則が天道であるが、それを理法ともいう。したがって家庭の規範すなわち倫理は、宇宙の法則(理法)が縮小して現れたものなのである。それゆえ家庭倫理は、まさに天道なのである。
 宇宙には、例えば太陽系の場合、月-地球-太陽-銀河系の中心-宇宙の中心という縦的秩序と、太陽系における太陽を中心とした、水星-金星-地球-火星-木星-土星-天王星-海王星-冥王星という横的秩序があるように、家庭にも、孫-子女-父母-祖父母-曾祖父母と連なる縦的秩序と、兄弟姉妹のような横的秩序がある。そしてそのような秩序に対応するのが、祖父母や父母の子女に対する慈愛、子女の父母や祖父母に対する孝誠・孝行などの縦的な徳目であり、夫婦の和愛、兄弟の友愛、姉妹愛などのような横的な徳目である。
 すでに述べたように、倫理は連体として家庭相互間に守るべき規範であるのに対して、道徳は家庭において個人が個性真理体として守るべき規範であるが、道徳も天道すなわち宇宙の法則に似たものである。宇宙内のすべての天体(個体)は、一定の位置において必ず内的四位基台を形成している。すなわち、その内部の主体と対象の間において、必ず円満な授受作用が行われている。それと同じように、人間も個人として一定の位置において、必ず内的に生心と肉心の間に円満な授受作用が行われ、内的四位基台が形成されなければならないのである。このような内的四位基台を形成する際の行為の規範が道徳である。ゆえに、道徳も天道である。この内的な授受作用は、神の心情または創造目的を中心とした授受作用であるのはもちろんである。道徳上の徳目は、純真、正直、正義、節制、勇気、知恵、克己、忍耐、自立、自助、公正、勤勉、浄潔などである。

 

家庭倫理の拡大適用としての社会倫理

 統一思想から見るとき、社会における人間関係は、家庭における家族関係がそのまま拡大されたものである。例えば年長者と年少者がいて、その年齢の差が三十歳またはそれ以上の場合、年長者は年少者を子女のように愛し、年少者は年長者を父母のように尊敬しなければならない。また年齢の差が三十歳以内の場合、年長者は年少者を弟や妹のように愛し、年少者は年長者を兄や姉のように尊敬しなければならないのである。
 そのように見るとき、家庭倫理はすべての倫理の基礎になるものである。家庭倫理を社会に適用すれば社会倫理になり、企業に適用すれば企業倫理になり、国家に適用すれば国家倫理となるのである。そこで、次のような徳目または価値観が成立する。
 国家において、大統領や政府は父母の立場で国民を愛し、善なる政治を行い、国民は大統領や政府を父母のように尊敬しなければならない。学校において、先生は父母のような立場ですべての真心を注いで学生を教え、学生は先生を父母のように尊敬しなくてはならない。社会において、年長者は年少者を愛護し、年少者は年長者を尊敬しなくてはならない。会社において、上司は部下をよく指導し、部下は上司に従わなければならない。これらは、家庭における縦的な価値観(徳目)が拡大適用されたものである。
 家庭における兄弟姉妹の愛の範囲が、同僚、隣人、社会、国家、世界へと拡大されるとき、その愛は、和解、寛容、義理、信義、礼儀、謙譲、憐憫、協助、奉仕、同情などの横的な価値観(徳目)として現れるのである。
 ところが今日、社会も国家も世界も大混乱状態に陥り、どうにも収拾できないでいる。このように混乱状態が継続する根本原因は、社会倫理、国家倫理の基礎となる家庭倫理がすたれているからである。したがって、混乱状態に陥った今日の社会を救う道は、新しい家庭倫理すなわち新しい倫理観を確立することである。そうすることによってのみ、家庭を破綻から救うと同時に、世界を混乱から救うことができるのである。
 資本主義社会が形成されてから約二百年になるが、その間、常に問題となったのが階級的搾取と抑圧の問題であり、労資間の紛争の問題でした。マルクスやレーニンのような共産主義者たちが現れたのも、この問題を根本的に解決するためであった。彼らは暴力革命によってこの問題を解決しようとしたが、その結果は完全な失敗であった。そればかりでなく、共産主義それ自体が地上から消滅するに至った。搾取や抑圧の問題、労資問題の根本的な解決は、家庭倫理に基づいた企業倫理が確立する時にのみ可能なのである。これが統一倫理論の立場である。

三、秩序と平等

今日までの秩序と平等

 近代以後、民主主義は中世以来の身分制度とその身分制度に伴った特権を廃止し、法の前での平等と政治参加における平等、すなわち普通選挙制度を実現したのであった。しかし、法の前での平等が実現されても経済的な平等は実現されず、階級間の貧富の差はさらに開いていった。この貧富の差が解消されない限り、法の前での平等は名目上の平等であるだけで、実質的な平等にはなれないのである。そこでマルクスは、経済的な平等を実現しようとして、私有財産の廃止による無階級社会の共産主義を唱えたのである。しかしロシア革命後、七十余年間、共産主義を実践してみた結果、新たな特権階級の出現によって、新たな形態の貧富の格差が生まれたのであった。そのように人間は、歴史が始まってから今日まで平等を求めてきたのであるが、いまだに真の平等は実現されていないのである。
 民主主義世界において、平等といえば権利の平等を意味するのであり、権利の平等が民主主義の基本原理の一つになっているのは周知の事実である。ところで、このような意味の平等の概念は、一般的に秩序の概念と相反する関係にあるように思われている。すなわち、平等を強調すれば秩序が無視されがちであり、秩序の確立を強調すれば平等が無視されやすいのである。これが、今日までの秩序と平等に関する一般的な見解であった。
 ここに、秩序と平等という問題が提起される。すべての人間が権利において完全に平等であるとするならば、治める者と治められる者という差を認めないということになり、社会は無政府の無秩序状態となってしまう。また一方で、秩序を重んじれば平等がそこなわれることになる。そこで人間が本心から求めている真の平等は何かということ、そして秩序と平等の問題をいかに解決すべきかということを考えてみなければならない。

 

原理的な秩序と平等

 統一思想から見るとき、原理的な平等は愛の平等であり、人格の平等である。なぜならば人間が真に求める平等とは、父なる神の愛のもとでの子女の平等であるからである。それは太陽の光が万物を等しく照らすように、神の愛が万民に等しく与えられる平等である。したがって原理的な平等とは、主体である神様によって与えられる平等であって、対象である人間が気ままに得ようとする平等ではない。
 神様の愛は、家庭において秩序を通じて分性的に現れる。したがって愛の平等は、秩序を通じた平等である。秩序を通じた愛の平等とは、愛の充満度の平等である。すなわち、すべての個人の位置と個性に合うように、愛が充満するときに与えられる平等が愛の平等である。愛の充満とは、満足であり、喜びであり、感謝である。したがって原理的な平等は、、満足の平等であり、喜びの平等であり、感謝の平等である。
 このような神様の愛の充満は、人間の完全な対象意識 -神様に侍る心、神様に感謝する心- をもつとき、初めて感じるようになる。対象意識をもたない限り、いかに神の愛が大きくても充足感を感じることはできず、不満を持つようになるのである。
 ところで、先に述べられた「権利の平等」における権利とは、ロックの自然権(生命、自由、財産を守るための権利)をはじめとして、フランス革命の時の「人権宣言」(1789年)、米国の「独立宣言」(1776年)、国連総会において採択された「世界人権宣言」(1948年)などに見られるように、自然権をいうのであるが、ここでは職位上の権利と平等の問題を考えてみることにする。職位には必ず職責と義務が与えられると同時に、それぞれの職位にふさわしい権利が与えられるために、当然のことながら職位上の権利は平等ではありえない。しかし本然の世界においては、このような職位上の権利の差異にもかかわらず、そこに差異を超越した平等の側面があるなずである。それがまさに愛の平等、人格の平等、満足の平等なのである。
 ここで、男女の平等に関して考えてみよう。有史以来、女性は男性に比べて、地位、権利、機会などの面において、常に劣っていたばかりでなく、男性の支配を受けてきたのである。今日、女性たちがそのことを意識的に自覚し、男性と同等の権利を要求し始めたのであるが、女性解放運動という名のもとで、この運動が始まったのはフランス革命の時からである。民主主義の基本理念は自然権(生命、自由、財産に対する権利)の平等であるために、民主主義の革命とともに、女性の自然権の平等に対する主張は、極めて合理的なもののように思われたのである。
 この運動はその後、様々な社会運動と表裏一体となって、うまずたゆまず展開されてきたのであるが、第二次世界大戦後からは、女性解放運動の要求が、全面的に自由国家の法律に反映されるようになった。その主なものは地位の平等、権利の平等、機会の平等であった。このような女性の平等への要求を法律によって保障したのは、共産主義国家においても同じであった。
 そして1960年後半から女性解放問題が新たな高まりを見せた。男女の平等は法律上において保障されただけで、実際には部分的に実施されただけであり、多くの領域においては、依然として男女の不平等関係が続けられていたからである。
 ところが法律的に男女の平等が保障された結果、男女が権利において同等であるという考え方が広がり、夫婦間の不和が日常茶飯事になった。その結果、様々な悲劇と家庭の破綻が頻繁に起こるようになった。その理由は何であろうか。
 それは権利に関する限り、基本的に完全な男女平等はありえないからである。そして権利とは、使命を遂行するための要件であるからである。生理的に男女は使命が異なっている。男性における筋肉の発達、臀部が締まっていること、広がった肩などは、男性の使命が対外的で力強い活動にあることを示しているのであり、女性における、か弱い筋肉、臀部や乳房の発達、狭い肩などは、女性の使命が家庭における出産と養育にあることを示している。このような生理的条件を無視し、権利の平等を主張することは、男女の使命の同一性を主張することと同じになるので、ありえないことである。男性が女性の出産と授乳の役割をすることができないように、女性も男性の役割である力のいる仕事をすることはできないのである。それはあたかも、「鵜のまねをする鳥は水におぼれる」という、例えと同じである。
 それでは、男女間(夫婦)に平等は成立しえないのであろうか。そうではない。男女(夫婦)の間にも平等は必要ではあるが、それは権利の平等ではなく、愛の平等であり、人格の平等であり、喜びの平等である。夫婦が神の愛を授け受けるとき、差別感や不平等感は消えて、同位圏に立っていることを自覚すると同時に、十分なる喜びを感じるようになるのである。
 ここで、地位の平等について述べる。女性は、男性と同様に社会的地位を享受できるということである。女性として学校の校長にもなれるし、会社の社長にもなることができる。しかし、これは男女の同等権のためではない。学校や会社は家庭の拡大型であるために、家庭において、母が父を代身して家長の仕事をすることができるのと同様に、会社においても、女性が会社の母として社長にもなれるし、学校においても、女性が学校の母として校長となることができるのである。
 特に世界平和の実現のためには、むしろ女性が先頭に立つことが望ましいのである。なぜならば、家庭における平和の主役は母であるからである。言い換えれば、真の世界平和を実現するためには、強く攻撃的なことに適した男性よりも、体質的に平和なことに適した女性たちが先頭に立つことが必要ですらあるのである。以上、男女平等について、原理的な見解を明らかにした。

 

四、統一倫理論から見た従来の倫理観

 最後に、既存の倫理観の中で、近代を代表するものとしてカントとベンサムの倫理観を、また現代を代表するものとして分析哲学とプラグマティズムの倫理観の要点を紹介し、統一思想の立場からその内容を検討してみることにする。

 

(一)カント

カントの倫理観

 カント(I.Kant,1724-1804)は『実践理性批判』において、真の道徳律は「何かの目的と実現するためには何々すべし」という仮言命法(Hypothetischer Imperativ)であってはならず、無条件に「何々すべし」という定言命法(Kategorisher Imperativ)でなければならないと主張した。例えば「立派な人だと言われるために正直にせよ」というのではなく、「正直であれ」という無条件の命令でなくてはならないという。定言命法は実践理性によって立てられるものであるが、それがわれわれの意志に命令を与えるのである(このような実践理性を「立法者」という)。この実践理性の命令を受けた意志が善意志なのである。そして善意志が行動を促すのである。
 カントは、道徳の根本法則を次のようにいい表した。「汝の意志の格率が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」。ここで格率(Maxime)とは、個々人が主観的に決める実践の原則をいうのであり、そのような主観的な原理(格率)が普遍性を帯びるような立場において行為せよということであった。カントは、あたかも自然法則のように、矛盾なく普遍的に妥当するものを善とし、そうでないものを悪としたのである。
 カントは、人間の内なる道徳律は義務の声として私たちに迫ってくるといった。「義務よ! 君の崇高にして偉大なる名よ。この名を帯びる君は、媚び諂って諸人に好かれるものを何ひとつ持合わせていないのに、ひたすら服従を要求する。……あおのずと人の心に入り来たり、いやでも敬意を獲ち得るような法則を打ち立てるだけである」。カントの主張した道徳は、義務の道徳であった。
 カントはまた、善意志が何ものによっても規定されないためには、自由が要請されなければならず、不完全な人間が完全に善を実現しようとする限り、霊魂の不滅が要請されなければならず、また完全なる善すなわち最高善を追求するとき、それが幸福と一致することが可能になるためには、神の存在が要請されなければならないといった。このようにしてカントは霊魂の存在と神の存在を実践理性の要請(Postulat)として認めたのである。

 

統一思想から見たカントの倫理観

 カントは純粋理性(理論理性)と実践理性を区別した。純粋理性とは認識のための理性であり、実践理性とは意志を規定し行為へと導く理性である。ここに純粋理性と実践理性を分離したことによって、定言命法による行為がなぜ善なのかという問題が生じざるをえない。ある行為が善かどうかを決定しなければならない場合、その行為の結果を確認しなければならないからである。ところがカントは、結果がいかなるものにせよ、「何々すべし」という定言命法に従った行為であれば善だというのである。
 Aという人が道で苦しんでいるBという人に出会ったする。そこで「Bを助けよ」という内面からの定言命法に従って、AはBを病院に連れていこうとしたとする。ところがBは人の世話になることを願わない人であるかもしれない。するとBは助けを断って、一人で病院に行こうとするであろう。しかしAは実践理性の下した定言命法に従ったのだから、それによって満足するであろう。そのときAの行為はAには無条件に善になるであろうが、Bには有り難迷惑であって善とは感じられないのである。
 そのように、結果を確認しないで動機だけ良ければそれで足りるとするのがカントの立場であって、それは常識的な善の概念に合わないのである。これはカントが純粋理性と実践理性を、すなわち認識と実践を分離したために生じたアポリア(難点)である。実際は純粋理性と実践理性は二つに分かれたものではない。理性は一つであって、その一つの理性に従って結果を確認しながら行為するのが、実際のあり方なのである。
またカントの道徳律において、主観的な格率を普遍化させる場合、その基準は何か、そしていかにしてそのような普遍化が 可能になるのかということも問題となる。またカントは一方で、すべての人々が完全に道徳的になれば、それによって幸福が実現されるであろうといいながら、他方では、幸福を目的とする行為は仮言的だから善とはいえないという。人間が幸福を求めていることを知りながら、幸福を目的として行動してはならないというのである。そして彼は神を要請して、完全に善を行えばその状態が幸福であろうという。
 このようなカントのいろいろの問題点は、すべてカントが神の創造目的が分からなかったことに起因している。彼は、目的といえば、無条件に自愛的、利己的なものであると考えたのである。統一思想から見れば、創造目的には全体目的と個体目的があるのであって、人間は本来、全体目的を先に立てながら個体目的を追求するようになっている。ところが彼は、目的というとき、もっぱら個体目的だけを考えたのである。その結果、彼はすべての目的を否定してしまい、その道徳律は基準が曖昧なものとなってしまったのである。
 さらにカントは、一方では、道徳律が成立するためには霊魂の不滅と神様の存在が要請されなければならないと主張したが、他方では、『純粋理性批判』において明らかにしているように、神や霊魂には感性的内容がないから、その認識は不可能であるといって、それらを排除したのである。そこにカント哲学のアポリアがあった。カントは神を要請するといったが、それは仮定的な神であって、真の神や実在する神ではないために、決してわれわれが信じ、頼ることのできる神ではなかったのである。
 そしてカントは、実践理性に基づく義務感だけを善の基準と見なした。しかしながら、義務それ自体は冷たいものであるので、カントのいう善の世界は冷たい義務の世界、冷え冷えとした規律だけを守らなくてはならない兵営のような世界であった。統一思想から見れば、義務や規律はそれ自体で目的とはなりえない。目的は真なる愛を実現することになるのであり、義務や規律は真なる愛を実践するための方便にすぎないからである。

 

(二)ベンサム

ベンサムの倫理観

 ベンサム(J.Bentham,1748-1832)の善悪観は次のような前提から出発した。「自然は人類を苦痛と快楽という、二人の主権者の支配のもとにおいてきた。われわれが何をしなければならないかということを指示し、またわれわれが何をするであろうかということを決定するのは、ただ苦痛と快楽だけである」。この前提において、ベンサムは快楽(pleasure)と苦痛(pain)を善悪の基準とする「功利性の原理」(principle of utility)を唱えた。
 ベンサムは快楽と苦痛を量的に計算して、最も多くの快楽をもたらす行為が善であると見て、「最大多数の最大幸福」(the greatest happiness of the greatest number)をその原理とした。彼は人間に快楽と苦痛をもたらすものして、「四つの区別される源泉があり、それらは……物理的、政治的、道徳的および宗教的源泉と名づけられている」という。その中でも、最も根本的なものを物理的な源泉であるとしている。それは、物理的な快楽と苦痛が客観的に計算できるからである。彼は、できるだけ多くの人々が均等に物質的な富を得ることが最も望ましいと考えた。
 カントは、目的とか物質的利益にとらわれない純粋な善を主張しましたが、ベンサムは、善の行いは人間に最大の幸福をもたらすものでなければならないと主張し、特に物質的な幸福を追求することを積極的に肯定する立場を取った。彼の思想は、イギリスの産業革命をその背景とするものであった。
 彼の思想は、社会主義運動家、ロバート・オーエン(R.Owen,1771-1858)らに影響を与えた。オーエンは、ベンサムの説いた「最大多数の最大幸福」を自らの思想の基準とし、またフランスの啓蒙主義思想と唯物論の影響を受けて環境の改善運動を展開した。人間は環境の産物であるから、環境を良くすれば人間の性格は善良になり、幸福な社会が実現すると考えたのである。そしてその理想を実現するために、アメリカのインディアナ州に「ニュー・ハーモニー平等村」を建設したのであるが、彼の努力は仲間同士の内部分裂によって失敗してしまった。
 そのような社会主義運動の影響のもとで、功利主義者たちは社会革命の運動を展開した。すなわち選挙法の改正、貧民法の改正、訴訟手続きの簡素化、穀物条例の廃止、植民地の奴隷解放、参政権の拡大、労働者の生活条件の改善などの運動を推進し、資本主義社会の矛盾の改革に大きく寄与したのである。

 

統一思想から見たベンサムの倫理観

 ベンサムはカントが主張したような義務としての善ではなくて、善の行いそれ自体が人間に幸福を与えるものでなくてはならないと主張したが、その点に関する限り統一思想と一致していると見ることができる。しかし幸福を物質的な快楽にあると見る彼の見解は、統一思想とは異なる。物質的な快楽によっては、人間の真の幸福は実現できないからである。実際、今日、先進国では多くの人々が物質的繁栄を享受するようになったが、自ら幸福であると自認する人はそれほど多くないのである。なぜならば物質的繁栄とともに、社会混乱と各種の犯罪が増大しており、そのために多くの人は苦しみに直面しているからである。これは、功利主義によっては真の幸福は実現できないということを証明する事実である。
 統一思想から見る場合、ベンサムの思想は環境復帰のためのものであったということができる。理想社会の実現のためには、人間復帰とともに、環境復帰がなされなくてはならない。だから摂理的に見るとき、再臨の時が近づくにつれて、このような思想が現れるのは必然的なことである。ベンサムとは対照的に、カントの場合は人間復帰のための思想であったといえよう。
 すでに指摘したように、功利主義思想は不十分なものであり、人間の幸福を実現することはできなかった。その後に現れた共産主義も環境復帰のための思想であった。ところが、共産主義は暴力革命という間違った方向に行ってしまった。その結果、幸福な社会を実現するどころか、かえってより悲惨な社会をつくってしまったのである。人間の真の幸福は、精神的幸福と物質的幸福が統一したものとならなければならない。したがって、人間が抱えている精神的問題と物質的問題を統一的に解決するこのできる善の基準が立てられるとき、初めて真の幸福が実現されるのである。

 

(三)分析哲学の倫理観

分析哲学の倫理観

 哲学の任務は一定の世界観を打ち立てることではないと主張し、言語の論理的分析を通じて、哲学を一種の科学的な学問にしようとしたのが分析哲学である。ムーア(G.E.Moore,1873-1958)、ラッセル(B.Russell,1872-1970)、ヴィトゲンシュタイン(L.Wittgenstein,1889-1951)などのケンブリッジ分析学派、シュリック(M.Schlick,1882-1936)、カルナップ(R.Carnap,1891-1971)、エイヤー(A.J.Ayer,1910-1971)などのウィーン学派または論理実証主義(logical postivism)、そして現代イギリスの日常言語学派などを総称したのが分析哲学である。
 分析哲学の中の倫理学説の代表的なものを挙げれば、ムーアの直覚説(intuitionism)とシュリック、エイヤーの情緒説(emotive theory)などがある。
 ムーアによれば、善とは、定義しえないものである。彼は次のようにいっている。「善とは、黄色が単純な観念であるのと全く同じく、やはり単純な観念であるということ、そして諸君が黄色とは何であるかということを、すでに黄色を知っている人に対してでなければ、いかなる方法によっても説明しえないのと同様に、善とは何であるかということも説明しえないということである」。そして彼は、「善とは何であるかと問われるならば、私の答は善とは善であるということであり、それで終わりである」といって、善とは直覚(ituition)によって把握する以外にないとした。ムーアにおいて、価値判断は事実判断から全く独立したものであった。
 またシュリックやエイヤーによれば、善とは、主観的な情緒を表現している言葉にすぎず、客観的に検証できない擬似概念とされた。したがって「お金を盗むことは悪い」というような倫理的命題は、発言者の道徳的不賛成の感情または気分の表明にすぎず、真でも偽でもないのである。

 

統一思想から見た分析哲学の倫理観

 第一に、分析哲学者の倫理観の特徴は、事実判断と価値判断を分離したことである。しかし統一思想から見れば、事実判断も価値判断も、どちらも客観的なものであり、一体となっている。ただ事実判断は誰でも感覚によって認めることのできる現象に関する判断であるから、容易に客観性が認められるのに対して、価値判断は限られた宗教や哲学者によって説かれたものであり、一般的に誰しもが十分に理解しえるというものではなく、主観的な印象を与えているのである。しかし人間の心霊基準が高まって、宇宙を貫いて作用している価値法則を万人が正確に把握するようになれば、価値判断も普遍妥当性を帯びるようになるのである。
 自然科学は今日まで、事実判断のみを扱いながら事物の因果関係を追究してきた。しかし今日に至り、自然科学者たちは、因果関係の追究だけでは自然現象を根本的には理解できないという時点に到達しており、自然現象の意味や理由を問うようになり、事実判断とともに価値判断を必要とするようになった。事実と価値、すなわち科学と倫理は、統一された課題として解決されなければならないというのが統一思想の見解である。
 第二に、分析哲学者たちの倫理観の特徴は、善とは定義しえないもの、あるいは擬似概念であるとしたことである。しかし統一思想から見れば、善は明確に定義することができる。すなわち、人間は家庭的四位基台を通じて神の愛を実現するという明確な目的をもっているのであり、その目的にかなう愛の行為を心の意的機能で評価したものが善である。そして、そのような善は現実的な事実生活(行為)に対する評価であるので、価値と事実は分離することはできないのである。

 

(四)プラグマティズム

プラグマティズムの倫理観

 形而上学を排し経験的、科学的認識を重んずる点では、プラグマティズムも分析哲学と同じ基盤に立っていたといえる。パース(C.S.Peirce,1839-1914)によって提唱されたプラグマティズムはジェームズ(W.James,1842-1910)によって一般化された。
 ジェームズは「有効なもの」(it works)が真理であるといった。例えば、誰かが玄関に来て、「いらっしゃいますか」と尋ねる気配がしたとき、主人は部屋の中で彼に会う前に、その声だけを聞いて、彼がK氏であると考えたとしよう。そして玄関に出て行って見て、実際にK氏にあったということが確認されたとすると、主人は自分が考えたことが真理であると見なすようになる。すなわち、行為を通じて検証された知識が真理なのである。言い換えれば、真理とは作業価値(working value)をもつか否かによって決定されるというのである。彼は次のようにいう。

 ひとつの観念の真理とはその観念に内属する動かぬ性質などではない。……出来事によって真となされるのである。真理の真理性は、事実において、ひとつの出来事、ひとつの過程たるにある。すなわち、真理が自己みずからを真理となして行く過程、真理の真理化の過程たるにある。真理の効力とは真理の効力化の過程なのである。

 このような真理の基準がそのまま価値の基準、善の基準とされる。そして、ある倫理的命題は理論的に検証しうるものではなくて、心の満足や安らぎを与えるという点で真理であり、また善である。したがって善とは、絶対不変のものではなく、人類全体の経験によって日々新たに修正、改善されていくものであるとされた。
 プラグマティズムの完成者はデューイ(J.Dewey,1859-1952)であった。デューイは、知性は未来の経験に対して道具的に働くもの、すなわち知性は諸問題を有効に処理するための手段であるという道具主義(instrumentalism)を唱えた。ジェームズの場合は宗教的な真理も認めていたが、デューイは日常生活の立場に立って、形而上学的な思考を完全に排除した。
 このようなデューイの考え方は、人間を一つの生命体または有機体と見る人間観に由来する。生命体は常に環境との相互作用にあるが、不安定な状態に陥れば、そこから脱して安定な状態に移ろうとする。そのとき、道具として活用されるのが知性であり、このような知性に基づいて豊かな社会、幸福な社会をつくることが善なる行為であるという。
 デューイは、科学的認識と価値認識を同質的なものと見た。知性を用いて合理的に行動しさえすれば、必ず良い状態が到来すると考えられたからである。そこには、事実と価値の分裂はなかった。善とは、欲望を充足するように、生活の要求に応じて一歩一歩、認識を発展させながら実現されるものであって、一挙に認識されるような究極的な善を否定した。善の概念も問題を有効に処理するための道具または手段にすぎなかった。彼は次のようにいっている。

 道徳的原理というものは、一定の仕方で行動をせよとか、行動することをひかえよとかいう命令ではない。原理は、ある特別状況を分析するための道具であり、正邪は、規則そのものによってではなく、全体としての状況によって規定されるのである。

 

統一思想から見たプラグマティズムの倫理観

 ジェームズは有効なもの、役立つものを真理であり価値であると見た。これは、日常の生活に知識や価値を従属させたことを意味する。しかし統一思想から見れば、衣食住の日常生活に知識や価値を従属させることは転倒した考え方である。衣食住の日常生活は真美善の価値を基準とすべきであり、真美善の価値は創造目的を基準とすべきである。創造目的とは、真なる愛(神様の愛)を実現するということである。したがって、創造目的に一致する行為が善となるのであって、生活に役立つ行為が必ずしも善なのではない。もちろん、生活に役立つ行為が神様の創造目的にかなっていれば善となる。ジェームズは生活に役立つということを、真理と善の基準にしたが、生活は何のためになるのか、人間は何のために生きるのか、ということを追究しなければならなかったのである。
 デューイによれば、善の概念も含めて知性は道具である。しかし、知性は道具であるという説は正しいであろうか。統一思想から見れば、心情(愛)あるいは目的を中心として、内的性相と内的形状が授受作用をすることによってロゴス(思想)が形成される。内的性相は知情意の機能であり、内的形状は観念、概念、数理、原則などである。ここで内的性相と内的形状は主体と対象の関係にあるから、内的形状は内的性相の道具であるといえる。また内的性相である知情意の機能も、愛の実現のための道具であるといえる。しかしデューイの場合、知性も善の概念もすべて社会改良のための道具にすぎなかったのである。
 デューイの道具主義が神の創造目的を中心としているものであれば間違いではない。しかし単に日常生活の豊かさを目的とする限り、それは正しくない。概念の中には、生活の目的とはなっても、その手段とはなりえないものもあるからであり、善の概念はまさに生活の手段ではなくて目的となるものである。
 デューイはまた、社会を改善するために科学を発展させれば、それはそのまま価値と一致すると考えた。しかし、科学の発達はそのまま価値と一致するのではない。科学が創造目的の実現 -神様の愛の実現- を目指すようになるとき、初めて事実と価値が統一されるようになるのである。

(2022.3.14:写経奉献)