世界経典Ⅱ 第3部 人生の旅程 第16章 祈祷と崇拝

第16章 祈祷と崇拝

1. 祈祷

大部分の経典で祈祷は、宗教生活の必需的要素とみなされている。この節に抜粋した章句は、祈祷の効能に関する論議と祈祷のやり方に関する指針である。祈祷を通して私たちは、内面を神様に明らかにし、神様の栄光の中で神様との関係を発展させていく。自分の罪を悔いる悔い改めの祈祷を通して、私たちは神様に助けを切に求め、神様の導きを受ける。私たちは、祈祷の内容を実践して信仰生活を発展させ、神様の教えと一つになるとき、神様に絶対的に従順になれると言うことができる。逆に、神様も私たちが祈祷の中で善良に生き、最善を尽くそうという決意を示すとき、私たちを絶対的に信頼できる。したがって、友人や父母との実体的関係のように、私たちは祈祷生活を通して神様と実体的関係を形成して生活することができる。
祈祷は、堕落性を刺激する悪行と誘惑に対抗する、本性の防御壁を積み上げてくれる。そうして、私たちの心情を神様に向かわせれば、私たちの内外的生活が一様に浄化される。祈祷の味を知れば知るほど、霊魂が育ち、全体の人生まで清くなる。祈祷は愛を追求するため、正しいことをしようとする良心が神聖な力を得て、苦難を克服することができる。これによって私たちは、人格の成熟と精神の安定を享受するようになる。
この節のいくつかの章句は、祈祷のやり方を助言してくれている。徹夜祈祷をする場合もあるだろう。祈祷生活は、途絶えることなく持続されなければならない。そして、何よりも祈祷は正直に臨まなければならない。心中から流れ出てくる、静かで真実な対話が祈祷である。祈祷のあとには、必ず行動が伴わなければならない。偽善者の祈祷は、どのような結果も伴わない。最高の祈祷は、自身よりも人の福祉のための祈祷である。文鮮明先生のみ言ことばによれば、神様の心情を慰労してさしあげる祈祷が最高の祈祷である。本書の巻頭を開くと、いくつかの代表的な祈祷文を目にするだろう。

 

①祈祷にお答えになる神様

― 宗教経典 ―

 

なんじらの主は、仰せられる「わしに祈れ、わしはなんじらに答えるであろう」。
クルアーン 40.60(イスラーム)1

 

主を呼ぶ人すべてに近くいまし / まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし
詩編145.18(キリスト教)2

 

わしのしもべたちが、わしについてなんじに問うとき言え、わしはほんとうにしもべたちの近くにいる。かれがわしに祈るときわしはその嘆願の祈りに答える、(注1)
クルアーン 2.186(イスラーム)3

 

あなたの重荷を主にゆだねよ / 主はあなたを支えてくださる。
詩編 55.23(キリスト教)4

 

プラジャー・パティ(「造物主」)よ、汝をおきて、この一切万物を抱持する者は他に存在せず。いかなる願望をもちてわれらが汝に供物を捧ぐとも、そはわれらに叶えられてあれ。われら願わくは、富の主たらんことを。
リグ・ヴェーダ 10.121.10(ヒンドゥー教)5

 

だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
マルコによる福音書11.24(キリスト教)6

 

あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯し
たのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。
ヤコブの手紙 5.13 ~18(キリスト教)7

 

だからあなたがたは、わたしの名によって常に父に祈らなければならない。与えられると信じて、わたしの名によって父に求めるものは、正当であれば、見よ、何でもあなたがたに与えられる。あなたがたの妻子が祝福を受けるように、あなたがたの家族の中で、わたしの名によって常に父に祈りなさい。
モルモン経、第三ニーファイ18.19 ~ 21
(末日聖徒イエス・キリスト教会)8

 

― み言選集 ―

 

祈祷とは何かというと、神様を招いて神様と語ろうとすることです。
(270-17、1995.5.3)

 

祈祷だけをしていてはいけません。祈祷すれば実践しなければなりません。祈祷は神様との公約です。祈祷は神様と人間との公約なので、これは誓いです。ですから、祈祷すれば必ず実践しなさいというのです。そして、一つの問題をもって毎日のように祈祷する必要はありません。心からの祈祷は一度するのです。そして、10 年でも 20年でも、祈祷する姿勢で、祈祷した内容に出会えることを慕い求める心をもたなければなりません。
(40-299、1971.2.7)

 

祈祷とは何でしょうか。祈祷は願うことですが、何を願うのかというと、主体・対象関係を成すことです。それは何の主体・対象関係でしょうか。愛の主体・対象関係です。そのような関係を成すことを標準として、私たちは願っていかなければなりません。自分がする自信がなければ、祈祷するのです。そのような刺激がなければ、祈祷するのです。
(112-54、1981.3.29)

 

祈祷は、必ず成し遂げられます。祈祷することによって力を受け、祈祷することによって、今後この問題がどのように展開していくのかという展望が、すべて教えられるというのです。「このことはこのようにして、このことはこのようにする」と教えてくれます。それを知ってこそ、皆さんが大きなこと
ができるのです。祈祷してこそ、その道を開拓できるのです。
(104-111~112、1979.4.15)

 

祈祷するときは、それこそ断食をして、ひざまずき、苦しくても忍耐しなければなりません。苦しくても忍耐しなければならないのです。犠牲になっても忍耐していかなければなりません。犠牲の道を歓迎していかなければならないのです。「このことのために死ぬとしても私は行かなければなりません。
私が空腹で死ぬとしても、空腹で死ぬ境地に行っても、私は神様をつかんで死にます」と言わなければなりません。ですから、祈祷は誓いであり、宣言です。「私はこのようにします」と自ら判断し、自ら決定し、自ら宣布したのなら、愛を行わなければなりません。そのようにすれば、神様が「おお、そうか。そのようにしてみなさい!」と言うのです。皆さんが祈祷し、祈祷したとおりに実践し、一つの峠を越え、二つの峠を越え、三つの峠を越えれば、神様も御覧になりながら、「こいつは成功した」と認定されるというのです。
(112-54 ~ 55、1981.3.29)

 

ある人を定めておいて精誠を尽くして祈祷すれば、その人が訪ねてきます。涙を流して精誠を尽くせば、そこで見えない磁石が働いて引っ張ってくるのです。その人は、自分で分からずに引っ張られてきます。祈祷して、「きょうは私が誰々とあのアパートで出会う」と精誠を尽くせば、そこから出てくるのです。そのような力があります。(104-113、1979.4.15)

 

私がここで神様のために祈祷するのは、このような世界のためです。このようなときは、段階が多いのです。段階がたくさんあります。祈祷をすれば、ここから成してこのように行くのではなく、このように入ってくることを知らなければなりません。ある人は福がこのくらい来たのに、これを切ってしまうのです。そのような役事です。世界的な問題を祈祷すれば祈祷するほど……。今日、統一教会が世界のために祈祷すれば、……。皆さんが一生懸命に精誠を尽くして伝道するとき、伝道ができなくても、伝道ができないと心配する必要はありません。そのようにすれば、すべて共産世界から崩れていくのです。
ここでこれがアベル圏だとすれば、これはカイン圏であり、カイン圏がアベルに向かって入ってくるようになっているのです。しかし、時間がかかります。ですから、皆さんが祈祷をするときは、一生ではなく、数千年後に成し遂げられることを今から祈祷しなさいというのです。先生は、そのような祈祷をしています。先生の生涯にこのような祈祷を成し遂げてくれるのではなく、数千年まで引っ張って
いって成し遂げられるとき、統一教会はその祈祷が成し遂げられるまで滅びません。
(104-110 ~111、1979.4.15)

 

②悪から保護してくれる祈祷

― 宗教経典 ―

 

まことに礼拝は、人を醜行と悪事から遠ざける。なお最も大事なことは、神を唱念(ズィクル)すことである。
クルアーン 29.45(イスラーム)9

 

婬欲の盛んな者があって、常に念じて観世音菩薩を敬い尊んだならば、婬欲を離れることができるであろう。もし怒りや憎しみの念が多い者があって、常に念じて観世音菩薩を敬い尊んだならば、怒りや憎しみを離れることができるであろう。(注 2)
法華経 25(仏教)10

 

人と非信仰者の間に存在するものは、祈りに対する放棄である。
ムスリム・ハディース(イスラーム)11

 

昼間の両端において、また夜の初めの時に、礼拝の務めを守れ。まことに善い行いは、悪い行いを消滅させる。これは主を念ずる者に対する訓戒である。(注 3)
クルアーン 11.114(イスラーム)12

 

言え、守護を祈り奉る、人間の主、人間の王者、人間のおお神。こっそりと忍び込み、ささやくものの害悪から、それは人間の胸にささやくもの、霊精(ジン)からであろうと、また人間からであろうと。(注 4)
クルアーン114(イスラーム)13

 

― み言選集 ―

 

祈祷とは何かというと、浄化、自分の精神を浄化させるのに必要なのです。精神を浄化させるために、鍛錬する方法として、精神統一するために必要です。
(181-325、1988.10.3)

 

祈祷は、私が行く方向が間違ったとき、正しい方向に行くように導いてくれるのです。
(45-247、1971.7.4)

 

祈祷する人たちは失敗しません。自分がすべて知っています。祈祷の味を知れば、御飯よりもおいしく、いかなる趣味よりも楽しいのです。そのようになれば、良いこと悪いことがすぐに分かります。
(128-172、1983.6.12)

 

皆さんの一日の生活において、最も重要で必要なものとは何でしょうか。祈祷生活です。祈祷を通して見えない敵を知り、見える敵を明らかにしていかなければなりません。(注 5)
(19-146、1968.1.1)

 

そのようにして、心の世界が体を完全に屈服させなければならないからです。そのようにして、良心が力を得て縦的に神様と連結すれば、サタンは逃げていかざるを得ません。その道を築くのが祈祷生活だというのです。心と体が一つになって神様と連結されることによって神様が臨在するので、サタンは体を捨てて完全に逃げていかざるを得ないというのです。
(229-7、1992.4.9)

 

③心情からわき出る祈祷

― 宗教経典 ―

 

錆びつくすべてのもののための光沢剤があるが、心の光沢剤は神に念願することである。
ティルミズィー・ハディース(イスラーム)14

 

「あなたたちの神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば」(申命記11章13 節)。心を尽くし、魂を尽くして仕えるとは何を意味するのか。それは祈りである。
申命記スィフレイ(ユダヤ教)15

 

私を自由にしてください。
私は心からあなたに求めます。
私が心からあなたに祈らなければ、
あなたは聞かないでしょう。
私が心からあなたに祈れば、
あなたはそれを知り、
私に寛大にされるでしょう。
ポラン族の祈り(アフリカ伝統宗教)16

 

どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない / 心の思いが御前に置かれますように。
主よ、わたしの岩、わたしの贖あがない主よ。
詩編19.15(キリスト教)17

 

常に自らを試みよ。心を治めることのできる者には祈るようにせよ。そのようにできない者には祈らせないようにせよ。
タルムード、ブラホート30b(ユダヤ教)18

 

至誠で捧げるすべての祈りの中で、主を適切に賛美する恩寵が与えられた師が捧げる祈りがその最上である。
アーディ・グラント、マールー・アシュタパディー
M.5、p.1018(シク教)19

 

あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し / 御目に悪事と見られることをしました。
あなたの言われることは正しく / あなたの裁きに誤りはありません。
わたしは咎とがのうちに産み落とされ /母がわたしを身ごもったときも / わたしは罪のうちにあったのです。あなたは秘儀ではなくまことを望み / 秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。
ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください / わたしが清くなるように。
わたしを洗ってください / 雪よりも白くなるように。
喜び祝う声を聞かせてください / あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。
わたしの罪に御顔を向けず / 咎をことごとくぬぐってください。
神よ、わたしの内に清い心を創造し /新しく確かな霊を授けてください。
御前からわたしを退けず / あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
御救いの喜びを再びわたしに味わわせ / 自由の霊によって支えてください。
わたしはあなたの道を教えます / あなたに背いている者に / 罪人が御もとに立ち帰るように。
神よ、わたしの救いの神よ / 流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。
主よ、わたしの唇を開いてください /この口はあなたの賛美を歌います。
詩編 51.6 ~17(キリスト教)20

 

人々は神によってこの地に生まれるように許された。したがって、一個人の心とは、神の意志と交感するのである。そして、その心を平安にさせないものは、そのいかなるものも避けなければならない。神の祝福が臨在するために、人々はまず心を尽くして祈らなければならない。神の御加護を受けようとすれば、正直の土台を築かなければならない。このようにするとき、各自の本来の純粋な心が、根源的で深奥な道へ覚醒されていくだろう。
伊勢神宮の二柱に関する記録(神道)21

 

祈りは勇気ある行動だ。勇気がなければどうして卑賤な人間が王の王に祈りを捧げることができるのか。
ナフマン・ブラツラフ(ユダヤ教)22

 

― み言選集 ―

 

祈祷するとき、ほかのところにするのではなく、本心に尋ねてみなさいというのです。空中を見てするのではなく、心を見てするのです。心の門を開きなさいということです。
(308-16 ~17、1998.11.21)

 

祈祷するときは、おなかのすいた赤ん坊がお乳を慕うのと同じような懇切な心でしなければなりません。
(18-185、1967.6.6)

 

祈祷生活というものは、自分の気が散るような所でするのではありません。奥深い所、天を代表する所、境界線から遠い中央の地に行って祈祷しなければならないという話は、至極妥当な話です。ですから、どのように祈祷しなければならないかというと、生涯の切実で重要な問題を祈祷するときには、自分自身を清め、この境界線と関係のない、永遠にサタンと関係のない所で祈祷しなければなりません。
(123-80、1982.12.12)

 

精誠を尽くさなければなりません。行ったり来たりしてはいけないのです。「私がお父様にどのように侍りましたか。私が父母に侍るにおいて、家庭的代表ですか、社会的代表ですか、氏族的代表ですか、民族的代表ですか、国家的代表ですか」というのです。それはすぐに分かります。私の涙がどこまで流れて広がるのかという問題です。これが公式です。堕落した人間が天の父母に侍るにおいて、涙がなければ、悔い改めがなければなりません。清算しなければ、その環境が再創造されません。失ってしまったために……。
国を思うときに涙があふれ、世界を思うときに痛哭がおきますか。問題はそこにあります。天がそのようにしていて、主体がそのようにしているのですから、横的基準がその同位圏に立たなければなりません。同参圏に立たなければなりません。相続圏に立たなければなりません。一体にならなければ不可能なのです。
(171-19、1987.12.5)

 

祈祷とは何かというと、東にいる人が中央線を通って球形に沿って回ることができ、円形に沿って回ることができることです。それでは、私はどのようになるのでしょうか。私は生命圏に、神様がいる位置に同参できます。なぜ祈祷するのでしょうか。この中央点に合わせようというのです。中央点を中心として円形を描くために祈祷をしなければならず、精誠を尽くさなければなりません。
(171-14、1987.1.5)

 

本当の祈祷は、真の祈祷は何でしょうか。忍耐と犠牲で愛することができる心をもち、すべてのことを克服していく人は、祈祷を完成した人です。このような人は祈祷が必要ないのです。祈祷を成し遂げた位置に行くのです。
(112-53、1981.3.29)

 

④祈祷の方法

― 宗教経典 ―

 

あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
マタイによる福音書 6.7 ~ 8(キリスト教)23

 

謙虚にまたひそやかに、なんじらの主に祈れ。
クルアーン 7.55(イスラーム)24

 

信仰する者よ、なんじらが礼拝に立つときは、なんじらの顔と、うでをひじまで洗い、頭を撫
なで、足をくるぶしまで洗え。なんじらがもし大汚のときは、全身の沐浴をせよ。またなんじらが病気にかかり、またはたび路にあり、またなんじらのうち、かわやから来た者、または女とまじわった者で、水を見つけ得ない場合は、清浄な土に触れ、なんじらの顔と手を撫でよ。神は困難を、なんじらに課することを望みたまわぬ、ただし、なんじらを清めることを望みたまい、なんじらへの恩恵を全うしたもう、おそらくなんじらは感謝するであろう。
クルアーン 5.6(イスラーム)25

 

祈りは歴史的文書を読むように再度暗唱されてはいけない。
エルサレム・タルムード、ブラホート4.3
(ユダヤ教)26

 

偉大な霊はどこにもいる。彼は私たちの心と心情の中にあるすべてのものを聞く。ゆえに、彼に大声で語ることは不必要である。
ブラックエルク族(アメリカ先住民の宗教)27

 

祈りで、心のない言葉よりは言葉のない心をもつのがより良いのです。
モハンダス・カラムチャンド・ガンディー(注 6)
(ヒンドゥー教)28

 

― み言選集 ―

 

祈祷するときには、涙を流しながら祈祷し、汗を流しながら祈祷しなければなりません。
(112-55、1981.3.29)

 

祈祷するとき、どのように祈祷するのが良いですか。どのような姿勢でするのが良いのかというのです。できるだけひざまずいて祈祷するのが一番良いのです。この体は拘束しなければなりません。体の苦痛と不便さを克服する以上の深刻なことがなければならないというのです。それ以上に深刻でなければなりません。そうであってこそ、天の人になるのです。そうであってこそ、神様の前に行くというのです。
(104-111、1979.4.15)

 

祈祷というものは恐ろしいのです。祈祷は、天に対する誓いであり、宣誓であり、宣言です。
(240-35、1992.12.11)

 

精誠が途切れることを願う個人もなく、家庭もなく、民族もなく、世界もなく、宇宙もありません。精誠を尽くす道に従っていくのです。愛するものは、誰であってもその道についていきます。それが正道です。ですから、自分の生き様を報告し、自分の生き方を宣言しなければなりません。「お父様、きょうこのようにします」と言えば、「きょうこれを成しました」と報告しなければならないのです。
(308-211、1999.1.5)

 

神様に祈祷することは、自分の事情を報告することです。それで近くなるのです。そして、言葉だけでするのではなく、実践して報告するので、報告することが実績として残ります。残される報告なので、天が干渉して祝福をするのです。どこでも、すべてそのようになります。それで、祈祷する人は恐ろしいのです。語らずに祈祷する人が恐ろしいのです。彼は後代の主人になります。
(233-105、1992.7.30)

 

道の出発は、どこからでしょうか。祈祷から出発するのです。祈祷する場所は、大概どこかというと山です。山の中でも孤独な山、とてもひっそりとした山、このような所で修めていくのです。
(157-13、1967.2.1)

 

⑤祈祷は休まず昼夜に

― 宗教経典 ―

 

なんじの主の栄光をたたえよ。なお夜のひとときも、また昼の両端にもたたえよ。おそらくなんじらは満たされるであろう。
クルアーン 20.130(イスラーム)29

 

絶えず祈りなさい。
テサロニケの信徒への手紙一 5.17(キリスト教)30

 

主はわたしの思いを励まし / わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
詩編16.7(キリスト教)31

 

最も真実な光景は夜明けの直前に見える。
ティルミズィーおよびダーリミー・ハディース
(イスラーム)32

 

ラビ・ヨハナンが言った。「一日中祈る者がいれば、そのような祈祷者は決して祈りの価値を失わないだろう」。
エルサレム・タルムード、ブラホート1.1
(ユダヤ教)33

 

大衣をまとう者よ、
夜間は、暫時を除き礼拝に立て、夜間の半分、またそれよりも少しく縮めて、
また、それよりも少し多く立て、そしてクラーンを読め。
やがてわれは、荘重な宣託をなんじに下すであろう。
まことに夜間に起きることは、実践に最も力強く、またおことばを一層純正にする。
まことになんじは、要務で昼間は長く追われる。
それでなんじの主のみ名を唱念し、精魂を傾けてかれに仕えまつれ。
クルアーン 73.1~ 8(イスラーム)34

 

― み言選集 ―

 

「絶えず祈りなさい」という聖書のみ言があります。これもまた、とても重要なみ言です。なぜならば、サタンは堕落した世界を支配しているからです。サタンは、一日 24 時間、あらゆる方向から堕落した人間を誘惑し、苦しめています。反面、神様はただ一つの方向から、すなわち精神の垂直的方向からのみ、力を及ぼせます。
(201-208、1990.4.9)

 

誰が見ていようと見ていまいと、私がすべきことは私がやらなければなりません。私たちが神様との約束をきちんと守らなければならないというのです。夜も昼も全体のために祈祷してこそ、それが生きた祈祷になります。そうしてこそ、何年かごとに、自分が祈祷を通して願う内容が変わり、題目が変わりながら発展するのです。したがって、時が今、どのような時なのか知らなければなりません。そのような裏面の生活を皆さんは、祈祷生活を通して備えなければならないことを知らなければなりません。
(104-112、1979.4.15)

 

祈祷生活をすれば、言い表し得ない喜びが訪れます。その境地が、創世前の神様の心の境地です。
(29-321、1970.3.13)

 

祈祷をたくさんするのです。たくさん祈祷すれば、一人で生活していても絶対に寂しくありません。祈祷は、呼吸するのと同じです。祈祷をたくさんすれば、霊的に相当明るくなります。また、相当に鋭敏になり、善悪に対する分別力がつくというのです。祈祷には犠牲が介在し、精誠が介在するのです。
(30-283、1970.4.4)

 

祈祷してください。祈祷は心情の補給倉庫です。時間がなければ、仕事をしながらでも祈祷できます。
(27-89、1969.11.26)

 

完全なる人格者になれば、生活自体が祈りである。多く祈って、無限な霊力に接しなさい。これが原動力となって、生活する者とならねばならない。
御旨の道、人格

 

⑥利他的祈祷

― 宗教経典 ―

 

自分が同じ状況にいても、同僚のために祈る者がまず先に報いを受けるだろう。
タルムード、バヴァ・カンマ 92a(ユダヤ教)35

 

では、人々にして、正信のゆえに正しいものと御身がみとめ給い、また善思のゆえにふさわしいものと、マズダー・アフラよ、御身がみとめ給うなら、そのものどもの所願を、果させて充たしてやってください。そうすれば、御身たちへの聖歌―御身たちにとって得るところ多く、ふさわしい、称賛の聖歌を、わたくしは知っているのです。
アヴェスター・ヤスナ 28.10(ゾロアスター教)36

 

菩薩が家にをる場合には、衆生とともに家宅の苦難をすてて、空法のうちに入りたいと願ふがよい。父母に仕ふる場合には、衆生とともに一切を護養して、とこしなへに大いなる平安を得たいと願ふがよい。妻子と集まる場合には、衆生とともに愛欲の獄をいでて、恋慕のこころを無からしめたいと願ふ
がよい。もし五欲を得たならば、衆生とともに貪欲のまよひを棄てて、功徳を具足したいと願ふがよい。
華厳経 11(仏教)37

 

― み言選集 ―

 

祈祷をたくさんするのです。たくさん祈祷すれば、一人で生活していても絶対に寂しくありません。祈祷は、呼吸するのと同じです。祈祷をたくさんすれば、霊的に相当明るくなります。また、相当に鋭敏になり、善悪に対する分別力がつくというのです。祈祷には犠牲が介在し、精誠が介在するのです。
(30-283、1970.4.4)

 

祈祷は必ず成し遂げられます。私個人のためのものではなく、神様の義とみ旨に従う祈祷は、必ず成し遂げられなければなりません。
(104-109、1979.4.15)

 

神様に祈祷して福を受けようとするより、神様に私が「ために生きる」ことのできる条件を提示しなければなりません。その福を受けることを願うのならば、それは自分のために生きることです。 「国と世界のために福を下さい」と祈祷してください。そのような祈祷は、いくらしてもよいのです。
(126-339、1983.5.1)

 

「自分自身のために祈祷してはいけない」、これが先生の教えです。自らの使命のために、そしてほかの人のために、また自分の祈祷が慰労のみ言として神様に上達されるようにしなさいと教えています。
(91-117、1977.2.3)

 

霊的体験をした人たちは、祈祷するときに、自分のための祈祷は最後にします。神霊的な世界に入っていって祈祷すれば、誰のために祈祷しなければなりませんか。まず神様のために祈祷しなければなりません。主人に会う時間なので、主人の福をまず祈らなければならないのです。その後、イエス様のために祈祷することができなければなりません。神様のために祈祷してこそ、歴史的な神様の心情が分かります。イエス様のために祈祷してこそ、歴史的なイエス様の心情が分かります。その次には、今までキリスト教界でみ旨のために闘ってきた大勢の人たちのために祈祷しなければなりません。堕落以降、アダムから今まで大勢の預言者たちが歩んだ歩みをたどりながら、「私が彼らを解怨する祭物となるようにしてください」と神様に祈祷を捧げたのち、預言者に「私は、あなたたちの恨が地上に残っていることを知り、その恨を解こうと思いますので、協助してください」と言いながら、涙を流すことができなければなりません。そのようにしたあとに、愛する息子、娘のために祈祷し、その次に自分のために祈祷するのです。天法がそのようになっています。
(7-328 ~ 329、1959.10.18)

 

私の体を捧げてでも、神様の前に勝利の一点を加えようという立場で祈祷を捧げるときには、神様がそれに責任をおもちになり、成し遂げてくださるのです。それを成し遂げてくださるために、神様がたやすい道を歩んでこられるのではありません。神様が、皆さんが祈祷しているその場所まで来ようとすれば、たくさんの段階を経なければなりません。皆さんが神様と同じ悲惨な立場に立てば、神様が直接活動できるのですが、それ以外には神様が直接活動することはできません。すなわち、私自身が悔い改める立場や、傷心した立場にいるとしても、自分の真の心が神様の願われる立場に立つようになれば、神様が私を認められるようになり、また同情されるようになるのです。このような心情でいらっしゃる方
が神様です。
(18-269、1967.6.12)

 

2. 瞑想

瞑想は、障害物で覆われている心を浄化させ、内面の究極的実在に開門するものである。瞑想には多様な方法があるが、あらゆる瞑想法の共通点は、彷徨する感情と雑念を純化させ、真の本性が現れるようにすることである。つまり瞑想とは、静粛と純粋状態に至るようにするものである。このために、身体的感覚の刺激をある程度制限しなければならない。
大部分の経典で、瞑想とは東洋宗教の修行・修錬を意味する。しかし、実際にキリスト教、イスラーム、ユダヤ教でも、瞑想は広く行われている。神秘主
義者、修道者、スーフィー、カバリストなどすべては、修行者たちを神的霊性との一致に向かう高次元の状態を維持するために瞑想の技術を発展させた。瞑想時間は、心を安定・浄化させると同時に、霊的感覚を高く高揚させる。文鮮明先生の祈祷時間とは、沈黙の祈祷であり、効果的な霊的祈祷技術であり、瞑想時間を意味する。
瞑想に関する主題は、あまりにも膨大であり、生涯修行してもその終わりを見ることは難しい。この節で扱う内容には、事由の浄化法、呼吸集中法、高次的集中力養成法、自身の体と思い、考えの境界を崩す訓練、聖なる形状の視覚化、そして超自然的光景に対するシャーマニズム的要請などが含まれている。

 

①主一的集中

― 宗教経典 ―

 

禅定とは、心を集中して脳乱のないことであり、知恵とは、真実の意味を明確にすることです。
龍樹 宝行王正論 437(仏教)38

 

輻の轂におけるが如く脈管の湊まる処(心臓)、その裏において彼(自我)は種々に生まれかわりつつ活躍す。「唵なり」とかく自我を汝等は観想せよ。かくて、汝等が黒闇の輪廻界を渡りて、彼岸の世界に至るに幸あらんことを。
ムンダカ・ウパニシャッド 2.2.6(ヒンドゥー教)39

 

魂と魄を一つに統一し、離れないようにできるか。
呼吸を調和集中させ、嬰児のようにすることはできるか。
自分の中の曇った鏡をきれいにし、何もないようにすることはできるか。
道徳経 10(道教)40

 

世尊はある時、舎衛城の祇陀林なる給弧獨{長者の遊}園に住まいたまへり。その時、一比丘、世尊の近くにありて、趺坐を組み、身を直く保ち、前世の業果より生じたる苦しく鋭く荒く烈しき痛みを耐へ忍びつつ、正念、正智にして悩まさるることなく坐したりき。世尊はその比丘の近くにありて、趺坐を
組み、……乃至……痛みを耐へ忍びつつ、正念正智にして悩まさるることなく坐せるを見たまへり。世尊はこの事由を知りて、その時、このウダーナを唱へたまへり、
「諸業を捨て、前世になせる塵労を振ひ落し、且つ我所見なく心豎立したる〔かかる〕比丘は人と共に語るの要もなし」と。
感興偈 20、難陀品(仏教)41

 

無門は評して言う……「三百六十の骨節と八万四千の毛穴でもって、全身で一箇の疑団(疑いのカタマリ)になって、この一箇の「無」の字に参じ、昼も夜も一日中これを問題として引撕げよ。この「無」を“虚無の無” (断見―ニヒリズム)だと理解するな、“有無の無” (偏見―二元論)だと理解するな。一箇の灼熱した鉄の玉を呑んでしまったようで、吐こうとしても吐き出せず、 [呑もうにも呑みこめず]、これまでの悪い知識や悪い悟りを払い尽くして、長いあいだ、 [練り上げて]純熟して、自然に内(主観)と外(客観)とが一つになる。そこは唖子が夢を見たようで、自分だけが分かっていて、他人には語れないようなものだ。いきなりその「無」が爆発すると、天を驚かし地を動かして[驚天動
地の事態が起こる]。(注 7)
無門関 1(仏教)42

 

私が瞑想の中に入っている限り、動物や人間、あるいは神によって起きる一切の災難を、私自ら耐え忍ぶだろう。私が瞑想に入っている間、私は私の体とすべての食物とすべての欲望を捨てる。執着、嫌悪、恐怖、悲しみ、喜び、心配、自己憐憫……。体、口、意の三業でこのすべてのものを放り出してし
まう。また一切の性的遊戯を慎む。
生と死、得と失、勝利と敗北、出会いと離別、友と敵、楽と苦、このすべてのものに対し、私は一つの心で平等に対する。
知識や洞察力を得ることにおいてや正しい行為を修めることにおいても、その主人は私自身の霊魂であり、業の流入を呼ぶのも、これを止めるのもまた、私の霊魂である。
唯一で永遠のものは私の霊魂なので、これは正しい知恵と直観で満ちている。私が経験するそれ以外のすべての状態は、私には外的な事情によるものだ。このようなものによって私の霊魂は苦痛を経るため、私は体、口、意の三業からこのすべての事情を絶つ。
これによって私が平静心と私の真の姿を得るがゆえに、願わくはこの状態が私から離れることなく、私がまっすぐに救いに至るように。(注 8)
サマイカ・パッタ(ジャイナ教)43

 

― み言選集 ―

 

修養の道を求めるために、山中で修行するのも一理があります。ですから、私たちは、内的覚悟のもとに、そこに対比する外的な覚悟、清算条件を具備しておき、いかなるものにぶつかっても進んでいくという自信、一番のどん底に落ちても心身を支えられるという自信をもたなければなりません。そうでなければ、走ることもできず、競争の場に出ていくこともできません。私たちは、このような競争の場で、一つの種目を選んで走らなければならない競争者なので、目標を成し遂げるために、変わらない信念をもって鍛錬しなければなりません。ですから、皆さんは、信仰者の態度、走る人の態度、修養の道を行く人の態度をもたなければなりません。寝ても覚めても、その目標を征服するための決意に燃える心がなければならないのです。
(7-135、1959.8.9)

 

②宇宙的リズムに合わせて呼吸する

― 宗教経典 ―

 

精神のはたらきは四方のはてにまで達し、いっせいに流れ出して、どのようなところでも及ばないというところはない。上は天までとどき、下は地にひろがり、万物を変化生育させ、その霊妙なはたらきは形容する言葉もないほどである。しいて名づけるならば、天帝にひとしいともいえよう。純素―純粋素朴の境地を得るための道は、自分の精神のはたらきを失わないように守ることである。もし精神を守って失うことがなければ、自分の身も精神と完全に一つになることができる。その一つとなったところに生まれる霊妙なはたらきは、さらに天に通じ、天地自然の道に合一するのである。(注 9)
荘子15(道教)44

 

私は分けられず、
私の魂は分けられず、
私の視覚は分けられず、
私の聴覚は分けられず、
私の吸気は分けられず、
私の呼気は分けられず、
私の散布される息は分けられず、
私の全体は分けられない。
アタルヴァ・ヴェーダ(ヒンドゥー教)45

 

三所(胸・頸・頭)を高く挙げて、身を平正に持し、意を用いて諸根(感官)を心臓におさめ、梵を舟として、智者は怖畏の流れ来る激流(輪廻の川)のすべてを渡るべし。
行者はこの身において気息を抑制し、散動を検束し、気息のほとんど絶ゆるに及んで、鼻孔より気を吐くべし。駻馬を繋げる車を御するが如く、智者は意を摂持して怠ることなかれ。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド 2.8 ~ 9
(ヒンドゥー教)46

 

― み言選集 ―

 

早朝に起きて祈祷するのです。祈祷するときには、心臓の鼓動の音を聞くことができなければなりません。動脈と静脈、ここから天地の調和が生じると想像しながら、心臓の根源を考えるのです。そのようにすれば、健康も良くなるのです。
(27-87、1969.11.26)

 

神様が万物をつくられるときに喜ばれた、その心情をどのように感じなければなりませんか。皆さんがこのようなことを体恤しようとすれば、丘に座って朝から夜まで、日が沈むまで思索をしなければなりません。時間がたつことも忘れる圏内に浸らなければなりません。そこで息を長く吸い込めば、この
宇宙の空気が生命力をもってすうっと押し寄せてくるのです。このように、宇宙の生命力とともに生きなければなりません。そのように生きる私自身が息を吐けば、すべての存在が新たに覚醒し、深い眠りにつけば万物が相対的に和動するようになります。このような境地が、万有を統治できる絶対者の境地です。
そのような境地に立てば、万物と相対的な関係を備え、皆さんが息を吐けば万物が受け入れ、吸い込めば万物は吐き出してくれるのです。このように、愛を中心として万物と授け受ける関係を結べば、この宇宙が互いに授け受けするようになります。皆さんは、そのような関係にとどまることなく、和動の中心体にならなければなりません。そうして、美しい自然の形態のようでもあり、宇宙自体のようでもある姿にならなければなりません。そのような境地に入っていくようになるとき、そこで初めて宇宙の和動の中心になるのです。
(29-133、1970.2.26)

 

鼻は、アダムとエバを象徴します。人の中で一番先に行くのが鼻です。鼻はいつも先頭に立っています。目は天を象徴するのですが、鼻は上と連結しています。また、口までも含みます。鼻はそうです。鼻自体を見れば、ここから宇宙です。これが天に通じるのです。すべて鼻で連結されています。ですから、これがセンターです。すべてのもののセンターになったということです。そうして、鼻からこのように線があります。ですから、万物までも主管するのです。
口は何かというと万物です。歯が 32本です。これは、4掛ける8で 32 です。4は四位基台を意味し、8は世の中を意味し、新しい出発を意味します。それで 32 本あるのです。口は万物を象徴するというのです。
また、鼻の穴が二つあります。二つあるのですが、中に入っていくと一つになります。そして、この鼻は通じないところがありません。目にも通じ、耳にも通じ、すべて通じます。ですから、鼻をぎゅっと握り、ぷうっと吹けば、空気がすべて……。右側の鼻の穴が男性であり、左側の鼻の穴は女性です。それが何かというと、神様が呼吸をする穴だというのです。何をですか。愛の空気を吸うのです。霊界に行けば、そのようになっています。空気とは何かというと、愛です。ここでこの愛を感じ、愛を呼吸できる訓練をさせるために、男性と女性の相対を置いたことを知らなければなりません。
皆さん、風邪をひくと鼻の穴が片方詰まるでしょう? 二つとも詰まるときは死ぬのです。このときは、口で呼吸しなければなりません。万物を通して、世の中を通して呼吸する方法があり、鼻を通して呼吸する方法があります。ですから、神様は万物が必要であり、人が必要なのです。
(118-112、1982.5.9)

 

③心を落ち着かせ、静かな状態に入って自らを空にする

― 宗教経典 ―

 

心と共に五知根制せられ、而してその覚(理性)動ぜざる時、これを最上の解脱道と名く。この諸根の堅き執持を瑜伽(yoga、相應、禅定)といふ。
カータカ・ウパニシャッド 2.6.10 ~11
(ヒンドゥー教)47

 

動揺し不安定な意がいかなる原因でさまよい出ても、各々の原因からそれを制御して、自己の支配下に導くべきである。
実に、意が静まり、激質が静まり、ブラフマンと一体化した罪障のないヨーギンに、最高の幸福が訪れる。
バガヴァッド・ギーター 6.26 ~ 27
(ヒンドゥー教)48

 

理智ある人は語と意志とを制御せよ。それを智識として自我の中に保て。智識を偉大なる自我の中において制御せよ。それを平静なる心情として自我の中に保持せよ。(注10)
カータカ・ウパニシャッド 3.13(ヒンドゥー教)49

 

地の果てまで、戦いを断ち / 弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
詩編 46.10(キリスト教)50

 

知っているものは、しゃべらない。
しゃべるものは、知ってはいない。
言葉による表現をやめ、
感覚の門を閉ざし、
すべての鋭さをにぶらせ、
そのもつれを解きほぐし、
その明るさを和らげ、
そして、大地と一つになる。
これは「道」と同一になるといわれる。
道徳経 56(道教)51

 

空虚を熟視して、
真に静寂を守る。
万物はどれも盛んであるが、
私はそれらの無為をみつめる。
ものは絶え間なく動き、休まない。
しかし、それぞれのものは根源にもどってしまう。
根源にもどっていくと静寂になる。
静寂になるということは存在の運命にもどることである。
存在の運命とは実在である。
実在を知ることを開明と呼ぶ。
道徳経16(道教)52

 

創造者は孔を外側にあけた。従って、人は外を見るが、内部にあるアートマンに眼を向けることはない。ある賢者は、不死をもとめて、反対側を向いた眼で、アートマンを振り返って観察する。(注11)
カータカ・ウパニシャッド 4.1
(ヒンドゥー教)53

 

かの十八の祭資は祭祀の形なせる不安定なる小舟に過ぎず。これらに基づく祭儀は低劣なるものといわれる。かくの如きものを勝道と思い喜ぶ痴愚の輩は再び老死の世界に堕つ。愚昧の輩は無知なるままにあれやこれやと行事をなしつつ「我こそ道を得たり」と驕る。彼等祭祀主義者は慾念に迷わされて真理を悟らざるが故に、果報尽きたる天界よりみじめな姿もて退堕す。迷乱せる輩は祭祀と善行を最勝事
と想い、これに勝れるものあるを知らず。彼等は殊妙なる天界の背(頂)にて福祉を享受したる後、この世界あるいはさらに劣れる世界に入る。およそ森林において苦行と信仰とを修め、心を寂静にして、乞食行を行ずる賢者は罪垢を去り、太陽の門を過ぎて、かの自性不滅なる不死の神人の在ます処にゆく。
ムンダカ・ウパニシャッド 1.2.7 ~11
(ヒンドゥー教)54

 

大学の道は、明徳を明らかにすることにあり、民を革新することにあり、至善に到達して移らないことにある。とどまるべき地(至善のあるところ)を知れば、そこで(志が)定まった方向を持つ。定まれば、そこで(心が)静かで妄動しない。静かであれば、そこで、安らかである。安らかであれば、(物事を処理するとき)精密であることができる。精密であれば、そこで留まるところ(至善)を得るのである。物には本と末とがあり(明徳が本で、新民が末である)、事には終りと始めがある。(留まるを知るのが始めで、よく得るのが終りである)。先にすること(本や始)と後にすること(末や終)を知るならば、道に近いのである。(注12)
大学(儒教)55

 

横たわるときも自らの心と語り / そして沈黙に入れ。
詩編 4.5(キリスト教)56

 

― み言選集 ―

 

私たちが心で考えることも同じです。すべて訓練過程を経なければなりません。瞑想や祈祷をするのも、そのための一つの修養方法です。心の修養方法を意味するのです。
(67-178、1973.6.10)

 

皆さんの心の世界が水平線になったことがありますか。ですから、座禅や祈祷というものは水平線の位置です。自分の意識をなくしてしまうのです。意識というのは共鳴圏です。そのようになれば、必ず縦的な世界の波長が来て影響を及ぼすようになります。
(296-203 ~ 204、1998.11.09)

 

私たちが祈祷する目的、あるいは仏教徒が座禅を通して無我の境地を求めていく目的とは何ですか。それは、心の核心になり得る要素を目覚めさせようというのです。皆さんがそのような基準で、見て、聞いて、感じる心の中心を天倫の前に立てれば、皆さんは神様の前に敬拝し、「ハレルヤ」と言って栄光をお返しできるようになるのです。
(2-193 ~194、1957.5.19)

 

今日、道の世界、宗教の世界では心の世界をもっています。深い心の谷間を求めています。仏教で座禅をする人たちも、いったい心とは何かと、心の深い谷間を求めていきます。心の谷間、その深い谷間を求めて入っていき、人間始祖が堕落する前の段階の心、その心の裏側の深い所まで入り込むように
なれば、天と因縁を結ぶようになるのです。ですから、そのような世界を求めて入っていかなければ、天と因縁を結べません。世の中をそのまま抱えては、天を迎えられず、天と接することができません。
今日、霊肉でできている私たちの心と体を中心として見てみるとき、心と体が一つになったところで、その世界を追求することができなくなっています。心の世界を求めていくためには、体の世界を否定しなければなりません。100パーセント否定しなければなりません。世の中と隔離し、世の中と離別し、世の中をあとにし、体が要求するすべてのものを除去させなければならないのです。そのような反対の道を求めていくのが宗教の道です。本来の拠点に戻ろうとすれば、失ってしまった本来の拠点を求めなければなりません。そうでなければ、本来の拠点に戻ることはできないのです。ですから、今日の宗
教は、その世界を探求しているのです。
(21-37 ~ 38、1968.9.1)

 

信仰者として、最も注意しなければならないこととは何でしょうか。あることに対するとき、ささいなことであろうと、大きなことであろうと、事のいかんにかかわらず、個人的に対してはならないということです。言い換えれば、皆さんの心がぱんと張っていなければならないのです。空気をぱんぱんに入れて、完全に丸くなったボールのような心の姿勢をもつのです。ぺちゃんこではなく、完全にぱんと張ったボールのような心の状態にならなければならないというのです。そうではなく、不安な心や、あるいは個人の欲望を中心とした邪悪な心をもてば、丸いボールのような心に角が生じます。
この心が回るときには、平面的に接触しなければならないのですが、角ができると、とがった先の部分から接触します。そうすると、全体を円滑に刺激させるのではなく、全体に反発的な作用をするようになります。そのような立場に身を置けば置くほど、私たちの良心は呵責を受け、良心の基準がだんだんと削減されていくことを考えなければなりません。
ですから、常に円満なボールのような心の状態が必要です。そして、その心に何かの刺激が入ってくれば、心自体が共鳴できなければなりません。固有の振動数が互いに同じ音叉、すなわち二つを置いて、一つを鳴らせば、もう一つはたたかなくてもその音波に刺激され、同じ振動数で鳴るのと同じように、私たちの心も、共鳴体となり得る円満な心をもたなければなりません。そして、常に、一つの主体から伝達されてくる霊的な波動を感知しようと努力しなければなりません。
そのため、信仰生活をする人には、瞑想の時間が必要なのです。良いことを思い描きつつ瞑想をしなさいというのです。瞑想をするときは、心の門を開け放ち、心を丸くして、神様ならば神様を中心として、神様の本性と私の本性が完全に授受できるように、春の季節に該当する人であれば、春の季節の主体であられる神様と共に、その性稟が完全に共鳴できる心の姿勢をもたなければなりません。このように共鳴した内容を中心として、自分が要求する目的に接するようになれば、必ず神様が共にいてくださるのです。
(40-278 ~ 279、1971.2.7)

 

④注意集中:すべての思考と感情の自覚

― 宗教経典 ―

 

比丘たちよ、この道は、もろもろの生けるものが清まり、愁いと悲しみを乗り越え、苦しみと憂いが消え、正理を得、涅槃を目のあたりに見るための一道です。すなわち、それは四念処です。四とは何か。比丘たちよ、ここに比丘は身において身を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。もろもろの受において受を観つづけ、熱心に正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。心において心を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。もろもろの法において法を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。……
では、比丘たちよ、どのようにして、比丘は、身において身を観つづけて住むのか。比丘たちよ、ここに比丘は、森に行くか、樹下に行くか、空屋に行って、結跏し、身を真直ぐに保ち、全面に念を凝らして坐ります。かれは、念をそなえて出息し、念をそなえて入息します。長く出息するときは、 〈私は長出息する〉と知り、あるいは、長く入息するときは〈私は長く入息する〉と知ります。あるいは、短く出息するときは〈私は短く出息する〉と知り、短く入息するときは〈短く入息する〉と知ります。 〈私は全身を感知して出息しよう〉と学び、〈私は全身を感知して入息しよう〉と学びます。……
つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、行っているときは〈私は行っている〉と知り、あるいは、立っているときは〈私は立っている〉と知り、あるいは、坐っているときは〈坐っている〉と知り、あるいは臥
しているときは〈私は臥している〉と知ります。かれは、その身が存するとおりに、それを知ります。……
つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、足の裏より上、頭髪より下の、皮膚を周辺とする、種々の不浄に満ちた、この身を観察します。すなわち、 〈この身には、髪・毛・爪・歯・皮、肉・筋・骨・骨髄・腎臓、心臓・肝臓・肋膜・脾臓・肺臓、腸・腸間膜・胃物・大便、胆汁・痰・膿・血・汗・脂肪、涙・膏・唾・鼻液・関節液・小便がある〉と。……
つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、たとえば墓地に捨てられた、死後一日、あるいは死後二日、あるいは死後三日経ち、膨張し、青黒くなり、膿ただれた死体を見るようにこの身のみに集中します。 〈この身も、このような性質のもの、このようになるもの、このような状態を超えないものである〉と。……
ではまた、比丘たちよ、どのようにして比丘は、もろもろの受において受を観つづけて住むのか。比丘たちよ、ここに比丘は、楽を感受すれば〈私は楽を感受する〉と知ります。苦を感受すれば〈私は苦を感受する〉と知ります。非苦非楽を感受すれば〈私は非苦非楽を感受する〉と知ります。……
ではまた、比丘たちよ、どのようにして比丘は心において心を観つづけて住むのか。比丘たちよ、ここに比丘は、貪りのある心を、貪りのある心であると知ります。……怒りのある心を、怒りのある心であると知ります。あるいは、怒りのない心を、怒りのない心であると知ります。愚痴のある心を、愚痴のある心であると知ります。……解脱した心を、解脱した心であると知ります。
比丘たちよ、ここに比丘は、五蘊の法において法を観つづけて住みます。誰であれ、これら四の念処を、このようにして七年間修習するならば、この果報のうちいずれかの果報が期待されます。すなわち、現世における完全智、あるいは、執着の残りがあれば不還果です。(注13)
阿含経中部 i.55 ~ 63, 念処経(仏教)57

 

求道者・すぐれた人々は、一切の思いをすてて、この上なく正しい目ざめに心をおこさなければならない。かたちにとらわれた心をおこしてはならない。声や、香りや、触れられるものや、心の対象にとらわれた心をおこしてはならない。
金剛般若経 14(仏教)58

 

情とは性の悪の側面である。情が悪の側面であることを知れば、悪は本来存在しないものになり、心は静かに動かなくなり、悪の考えが自然になくなる。
李翺(儒教)59

 

― み言選集 ―

 

心にも門があります。心門と言います。そうでありながら、その門がいつも一面にだけ開かれているのではなく、心自体が回っているために、その門も移動するのです。ですから、この門を通らずには、プラスならプラスを中心として、マイナスの立場で関係を結ぶことができないのです。人には、このような心門があるのです。
皆さんが祈祷をしてみれば、時間によって感じが違います。午前1時に祈祷するのと、3時に祈祷するのとは違います。それは、皆さんが体験してみれば分かります。神秘的な深い境地に入って祈祷してみれば、祈祷する時間によって違うのです。感じが違うのです。朝に感じるのと、真昼に感じるのと、夕方に感じるのと、夜に感じるのと、すべて違います。
そのように、私たちの心の状態からも、感じるその基準が違うのです。私たちの肉体的な感情が、四季の季節の変化によってその感じる感度が変わるのと同様に、心の世界もそうなのです。ですから、祈祷をするにも、どのような時間によくできるかを知るべきです。それはどういうことかというと、神様との感応の度が近いのです。よくできるというそこに、だんだん入るようになれば、門に出会うようになるのです。神様の心の門と、人間の心の門がぴったりと合って、ある基準まで合わせて入るようになる場合には、神様が感じることを体恤する道が生じるのです。
皆さんがこのような境地に入っていくためには、どのようにしなければなりませんか。心を中心として、心を磨かなければなりません。心の状態を私たちが求めてみなければなりません。本来は、この基準が零点になければならないのですが、堕落したために、これが 180 度に来ているのです。この度数が零度になければならないのですが、自分勝手なところになっています。ですから、これを回して正常に戻さなければなりません。ところが、ある人は、零点がここにあるにもかかわらず、ここに来ているのでこのように時計の針が進む方向に回っていかなければならないのですが、この距離が近いために、この零点を中心としてこのように動けば、マイナス的感度を感じるのです。そうするとどのように思うかというと、このように(時計の針が進む方向に)行こうと考えます。そのように行けば、1000 年たっても駄目です。これは戻らなければなりません。
今日の宗教も同じです。宗教も目的の時に対しては、終末だ、末世だということをすべて区別しなければなりません。ところが、このように発展してきた宗教は、このように行けばよいのですが、この位置に来てとどまっていればこのように行けばよく、もし反対にここにいれば、この宗教は終末にな
ると滅亡します。ある人は、角度と方向が違うので、その位置に行こうとすると、反対の道に行くようになる現象も起きるのです。神様のみ旨を中心として起きた宗教もありますが、サタンの意志を中心として出てきた宗教もあるというのです。これがすべてこのように混ざっているので、それを区別していくことはとても難しいのです。
私たちの心の世界も同じです。心も、善の心があるのと同時に、悪の心もあります。では、皆さん自身の心が「ああ、私は善だ」と、このように考えていますが、そのような心自体も善ではありません。堕落の結果によって成されたために、悪の心の圏、悪のサタン圏に感染した心をもった人もいて、善の圏内の心をもった人もいます。千態万状の差で広がるのです。ですから、最も重要なこととは何かというと、この零度をどのように求めるかということです。心の門をどのように合わせるかという問題が、信仰生活において最も重要な問題なのです。
ですから、皆さんが信仰の過程においていつも注意しなければならないことは、心の門が開く時を知り、天の心の門とどのように合わせるかということです。それは、皆さんがいつも準備しなければならないことです。もしやこの時間が心の門に合う時間ではないか、あるいは、学生なら、勉強するこの時間がそのような時なのではないか、あるいは私が世の中を忘れて楽しく遊ぶその時間がそのような時間になるのではないか、いつでも随時求めて合わせる生活態度が必要なのです。
ですから、いつもその深度をわきまえていきながら、心の門を開くようにして、そうしながら天が向かう門とどのように一致化させるかという問題が、信仰生活で最も貴いと思います。
(76-127 ~129、1975.2.2)

 

⑤視覚化と幻想

― 宗教経典 ―

 

瑜伽行中において見らるる霧、煙、日、火、風、螢、電光、玻璃、月等の相は梵を顕わす先駆的兆標なり。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド 2.11
(ヒンドゥー教)60

 

世尊はヴァイデーヒーに告げられた―「あなたと、そして、生ける者どもは、心を一筋にし、思念を一処に集中して西方を観想するのだ。さて、どのように観想するのかというと、一切の生ける者どもは、生まれながらの盲目でないかぎり見ることはできるのであるから、目明きであればみな、太陽の沈むのを見ることができよう。正坐して西に向かい、はっきりと太陽を観るのだ。心をしっかりと据え、観想を集中して動揺しないようにし、まさに沈もうとする太陽の形が天空にかかった太鼓のようであるのを観るのだ。すでに太陽を観終ったならば、その映像が眼を閉じているときも、眼を開いているときにもはっきりと残っているようにするのだ。これが〈太陽の観想〉であり、 〈最初の冥想〉と名ずけるのだ。
次には〈水の観想〉を行なう。清らかな水を観たならば、その映像がはっきりと残っているようにし、想念がかき乱されないようにするのだ。水を観終ったならば、 〈氷の観想〉をおこさなければならない。氷の透き通ったさまを観終ったならば、 〈青玉の観想〉を行なう。この観想をなし終えたならば、青玉の大地の内も外も透き通っているさまを観るのだ。下にダイヤモンドなど七種の宝石に飾られた黄金の幢幡があって青玉の大地を支えている。その幢幡は八面あって八角形を形作っている。一々の面が百の宝石でできている。一々の宝珠に千の光明があり、一々の光明に八万四千の色があって青玉の大地に照り映えているさまは、億千の太陽のようであって、つぶさには見ることができない。青玉の大地の上には黄金の縄がびっしりと張りめぐらされ、七種の宝石で境界がはっきりと区切られる。一々の宝石の中に五百色の光があり、その光は花のようでもあり、また星や月のようでもある。その光は虚
空にかかって光明台となり、そこには百の宝石から成る千万の楼閣があり、台の両側にはそれぞれ、百億の花の幢幡と無数の楽器が飾られている。八種の清風が光明から吹きおこり、この楽器を鳴らして、苦・空・無常・無我についての教えを聞かせる。これが〈水の観想〉であり、〈第二の冥想〉と名づ
けるのだ。
この観想ができるようになったら、その一々をきわめてはっきりと観られるようにするのだ。眼を閉じているときにも、眼を開いているときにも、その映像が散ってなくなったりしないようにする。ただ眠っているときだけを除いて、常にこのことに心をとめるのだ。このような観想に到達したら、ほぼ、〈幸あるところ〉という世界を観たと言えるであろう。さらに進んで精神集中ができるようになったら、かの仏国土をはっきりと観ることになる。しかし、(これは略説であって)詳しく説いたわけではない。これが〈大地の観想〉であり、〈第三の冥想〉と名づけるのだ。」と。(注 14)
観無量寿経 9 ~11(仏教)61

 

私が私の幻想追求を行う前に、オイニカガマクサ、イニピ、浄化の家で私自身を浄化しなければならなかった。……グッド・ランスは、真っ赤に焼けた石に野牛の角のしゃくしで氷のように冷たい水をかけた。とても大きな「シュー」という音とともに、私たちは一瞬でもやもやした白い乾いた蒸気に包まれた。……グッド・ランスが祈った。彼は昔の言葉を使った。「この蒸気は宇宙の聖なる息遣いだ。子よ、ホクシラよ、お前は再びお前の母の子宮にいる。お前は再び生まれている」。彼らはみな、私たちスウ族が大草原を放浪していたその時代に戻り、とても古い歌を2曲歌った。突然私は、代々に伝えられてきた知恵によって賢くなったように思った。私の親族であるこの人たちが大声で力強く歌を歌った。……小さく粗末な家が巨大な手につかまれているかのように揺れた。それは木の葉が風で揺れているかのように揺れていた。私たちの下にある大地が動いているかのようだった。「先祖がここにいらっしゃる」とグッド・ランスは言った。「霊魂がここにいる。黒はげわしの知恵がここにある」。私たちはそれを信じた。私たちはそれを知った。きせるが渡された。……私たちは4度たばこを吸った。最後のきせるが回ったあと、グッド・ランスが私に言った。「ホクシラよ、お前は浄化された。お前はこれ以上子供ではない。お前は今、準備ができ、そこに上がっていって夢を叫び、歌えるほど強い」。……
私たちの幻想の穴は、地に掘られたL字の形の穴だ。それはまずまっすぐに下っていき、木の根の下に奥深く短い水平の通路に続いていた。お前はその通路の果てに座って断食をする。成人はどこでも1日から4日まで断食をする。……私の場合には、私が2日間、食べ物や飲み物を口にせず、独りでそこに留まるように決められた。……
最初の数時間がとてもつらかった。漆黒のような暗闇としんと静まり返った静寂の中で、私は動かずにそこに座っていた。手足が麻痺した。私は聞くことも見ることも感じることができなかった。私の霊魂は肉体からすっかり離脱し、記憶と散漫な思いをもったが、肉も骨もない存在になった。私は再び見聞きできるだろうか。……どのくらいそこに座っていたのか分からない。時間感覚はずいぶん前に消えた。昼なのか夜なのか分からず、それを知る道さえなかった。私は祈り、また祈った。涙が両頬を伝わって流れ落ちた。水を飲みたかったが、続けて祈った。おおよそ2日目の晩頃、私は、私の目の前にある車輪を見た。一つの燃えているような丸い輪になり、再び燦爛たる多くの色の円形に分かれ、私の目の前で踊るようにゆらゆらと動き、再び一つの口と二つの目をもつ円形、一つの大きな円形に集まった。
突然、何かの声が聞こえてきた。暗闇の中からの声、それは結ばれている私の中から出てきているようだった。それがどこから来るのかを正確に言うのは難しかった。それは人間の声ではなかった。それは人のように語る鳥の声のようだった。私は勇気を出した。……「その丸い輪を記憶せよ。今晩、私たちがお前に教える」とその声が言った。そして、私はその小さな幻想の穴を歩き回る足音を聞いた。突然、私は穴を出て他の世界、鹿と野牛の群れがぶらぶらと歩き回る、野生の草花で覆われた大草原の浄化の家の前に立っていた。
ある男が私に近づいてきているのを見た。彼は足がないように思えた。彼は手にちりんちりんと音がなる二つの鈴を持ち、私に向かって霧の中を浮かんで飛んできた。「子よ、お前の部族に何を言おうと、誇張するな。常にお前の幻想がお前に言ったことを語れ。決してだますな」と彼は言った。その人は、鳥の羽で装飾された球形の雄鹿の皮の服を着ていた。突然、私が私の星模様の刺し縫いの布団の中に戻ったとき、石とたばこのひもでできた薬品の包みをしっかり握り、その人に触れようと手を伸ばした。依然として私はその声を聞いた。「その丸い輪を記憶せよ。きせるを記憶せよ。その代弁人になれ」。私はそれ以上恐れなかった。誰が私に話していようと意に介さなかった。
突然、雷を伴う墨のように真っ黒な雲が私の前に伸びてきた。その雲はより広く拡散した。そこから翼が出てくると、それは黒はげわしになった。その黒はげわしは私に言った。「私はあなたに力を与える。あなたのためではなく、あなたの部族のために用いよ。これはあなたのものではなく、部族共通のものだ」。私は白馬に乗って私に向かってくる人を見た。彼はサルビアでつくられた丸い輪を片手にもっていた。彼はそれを高く掲げた。……そして、再びすべてのものが暗闇の中に消えた。再び霧の中で、髪の毛と杭で覆われているが、形がはっきりしない不思議な生物が浮遊してきた。それは私から薬品を奪おうとしたが、私はそれと闘い守った。それは私の薬品を奪うことができなかった。それもまた消えた。
突然、誰かが私の肩をつかんで揺さぶった。「子よ、起きなさい」。私の父とおじが私のところに来ていた。2日間の昼夜が過ぎたのだ。
レオナード・クロウドッグ スス族の幻想追求
(アメリカ先住民の宗教)62

 

― み言選集 ―

 

少しずつこの相対的立場に立てば、どんな現象が起きるでしょうか。今まで感じたことのない、新しい立体的な感じが来るのです。それが、何だか分からずに来るのです。昔には、冬のような気分だけ感じたのに、秋のような気分を感じるようになり、秋のような気分だけではなく、夏のような気分も感じられ、春のような気分が感じられるのです。なぜそうなのでしょうか。この宇宙は回っています。心も回ります。ですから、回りながら春夏秋冬の変化を引き起こすのと同様に、私たちの心の世界も、回りながらそのように変化する感じを感じるようになっています。
それが一年について見れば、春夏秋冬があり、一年を縮小したのが一日ですが、一日にも春夏秋冬があるのです。朝は春に該当し、昼は夏に該当し、夕方は秋に該当し、夜は冬に該当するのです。このように、春夏秋冬の季節的形態が、一日の間に繰り広げられているのです。また、春に該当する朝にも、そうです。そこでも、春のようなものを感じ、夏のようなものを感じ、秋のようなものを感じ、冬のようなものを感じられます。大きなものは大きなものを中心として単位の形態を備えていますが、小さいものも相対的なその単位の形態を備えているのです。
私たちの心もそれと同様です。ですから、心に感じられる感じがいつも同じではないということです。季節によって自分が春だというのを知ればいいのですが、分からないのです。秋だということが分からないのです。これを多くの体験を通じて、多くの祈祷生活を通じて「あ! 今、このような時に処しているな」ということを、わきまえるすべを知らなければなりません。
そのような境地に入るようになれば、どんな現象が起こるのでしょうか。私たちの言葉に暗示という言葉あります。それはどういう言葉でしょうか。自分が道を何気なく行くのに、ある良い家の塀に止まっていた鳥が飛んでいくのを見たとき、鳥は飛んでいってしまうのですが、ばたばたと鳥が飛んでいくそれ自体を通じて、内的に何かを教えてくれることが繰り広げられるようになるのです。実際の生活において、そのような形態が展開され始めるのです。暗示的条件が多くなるのです。ある人が偶然に言ったことに何かを悟らされるようになります。このような事実が、だんだん多くなるのです。
この段階を過ぎれば、どのような形態が起きるのかというと、夢示のようなものを体験するようになります。夢の中で起きることなのですが、夢でも深い眠りの中での夢ではありません。夢うつつの中です。パウロも夢うつつの中で三層天を体験しました。夢のようでもあり、夢ではないようでもあり、夢の中にいるのか、事実の中にいるのか分かりません。そばで誰かが話しているのを聞きながらも、夢うつつの中でそのような現象や、あるいは声をこの五官で感じられる、そのような感覚が来るのを感じるようになるのです。
そのようなことを、何気なしに流して過ごすなというのです。それを総合して、どんな方向の因縁を自分につなぐために現れるのかということを、科学的な面でデータを出しなさいというのです。必ずその結果が現れます。ですから、皆さんが忘れることができない夢のお告げのようなことは、100 パーセント的中するようになります。そのような体験があるでしょう。
夢うつつの間に、ある人なら人、物なら物が因縁づけられたので、それが事実の中で実際につながるのです。誰かが夢の中で誰かと歌っているのに、その歌が夢の中の歌ではなく、そばで誰かが歌う歌が正にその歌だった、このようなことが起こるのです。これはどういうことをいうのかというと、霊的次元において、心の状態が共鳴することができる圏内に入ることをいいます。音叉というものがあります。共鳴することができる圏内に入ることをいいます。このようなことを、限りなく貴く思わなければなりません。
そのようになれば、どうなるでしょうか。神様がいるなら、その神様がどこに現れるのでしょうか。空中に現れるのではなく、心を通じて現れるのです。ですから、私の心と私が二つだということを知っています。(注15)異なる存在だということを知っているということです。皆さんが、そのようなことを感じられないのは、なぜでしょうか。心がまだ存在を確立できなかったためであり、体に引きずり回される人になったからです。その心が存在を確立して、また他の一つの主体だという、そのような人格的な次元の立場が形成されれば、それは必ず違ってきます。
祈祷をして次元が高くなれば、心と話すのです。共鳴する現象が起こるのです。これは次元の高いことですが、そのようになれば、心の中で言うことを自分が聞きます。そのような境地で発展していくのです。最初の段階では、暗示のような事実が皆さんの生活で起こります。
ですから、信仰者はこのような膨大な資料を収集しなければなりません。接する人がいれば、何気なく接するなというのです。彼が自分に何をもたらしてくれるのか、いつもおなかのすいた者の心情になるべきです。彼が自分に何をもたらしてくれるかと、そのように求める心がなければなりません。結局、彼自体は何でしょうか。自分がいつも主体になるとか、対象にならなければなりません。確定的な主体であり、確定的な対象の立場にいるという事実を言うのです。
ですから、主体となり得る存在が現れて、対象的な存在が現れれば、一遍に分かります。自分に誰か伝道する人がいれば、一遍に分かるのです。(注16)むしょうにただ心がうれしくて行くのです。それを「心波」と言います。心の波長があるのです。そんなことがあるのではないですか。皆さんを見れば、肉の商売をする人は、肉屋のにおいがして、布(生地)の商売をする人は、布のにおいがします。皆さんの体からもにおいがするのと同様に、心のにおいがするのです。その心のにおいをかぐのです。そのような形態が繰り広げられます。
ですから、信仰する人の態度は、すべて自分と関係していると考えなければなりません。なぜそうすべきなのでしょうか。堕落によって、すべての関係を失ってしまったのです。自然に対する関係、本然の人間に対する関係、神様に対する関係を、すべて切断してしまったのが堕落です。切断した関係の世界
を、私たちが再び接続させるためには、いつも自分自体が接続させることのできる作用をしなければなりません。そのような作用をしてこそ関係が開拓されるのであって、接続しようとする態度をもたなければ開拓されません。これは、最も理論的だというのです。
皆さん全員が何かを探す心がなければなりません。皆さんが朝に祈祷し終えると、 「あ、きょうは良いことがある」ということが分からなければなりません。「良いことがあるから、ただ良いことが現れるだろう」と、これではいけません。それを探さなければなりません。このような生活態度が、皆さんの信仰生活にならなければならないのです。ですから、体恤と実践ということは、生命の因縁をもたらすというのです。夢うつつの中に、このような事実が繰り広げられます。(注17)
(76-129 ~133、1975.2.2)

 

皆さんは徹夜祈祷などをするでしょう? 精神をすべて天に向け、世情のことをすべて忘れて……。その境地とは何かというと、眠る境地に入っていこうということです。そのような境地以上の場に入っていこうというのです。この肉身の残りかすがすべて沈滞すれば、澄んだ水が上がってくるのと同じように、眠りは、私たちが精神修養して精神を上げ、悪い意識をすべて下ろそうというのです。眠る境地、そのような境地に入っていけば、皆さんの体が眠るか眠らないかという状態になります。そのようなときは、すべて聞くのです。すべて見えます。聞くことは聞きますが、はっきりとは聞かず、見ることは見ますが、はっきりとは見ません。そのようになれば、何が起きるのでしょうか。夢のような現象が起きます。そのとき、何かを教えてくれるのです。
それで、徹夜祈祷をして、あらゆる肉欲を断絶させ、精神を統一してどんどん上げることによって、将来に自分の行く道などが見え、その次にそれが習慣化すれば、全体を調整できる位置に入っていきます。そのようになれば、祈祷さえすれば、目を開けても見ることができ、すべて聞くことができる境地まで入っていきます。二つのものを見て、二つのものを聞くというのです。
(91-275、1977.2.27)

 

その段階が高くなれば、どのようなことが起こるでしょうか。啓示とか指示とか、このようなことが起こります。啓示というものを、私たちは分析しなければなりません。指示というものは、直接教えてくれるものですが、啓示は違います。ですから、問題が起こるのです。これは、必ず解釈をしなければ
なりません。何かを教えてくれるには、声で聞かせてくれたりもしますが、幻想でも見せてくれます。良い春の日を迎えて、鹿が一対、小川のほとりで水を飲みながら、遠い山を眺める、このような幻想は、限りなく幸福な希望を象徴するのです。そのように、いろいろな現象が繰り広げられるのです。
そのようなことは、偶然の事実ではありません。自分の心の畑を啓発するための、天の役事です。なぜそうすべきなのでしょうか。私たちの心の畑というものが、ガラス板のように平らになっていないのです。凸凹しているのです。形は水平のような面をもちましたが、それ自体は凸凹なのです。凸凹したここに、天の感度が反射して来るようになると、光の屈折と同様に、入ってくる方向と反対の方向に反射して出ていきます。それで、すべてが違うのです。部分部分を啓発しようとするので、そのような役事をするのです。
啓示の段階を過ぎるようになれば、次は黙示の段階です。一日中霊界に入って体験をするとか、そういうものです。そのような世界にまでつながるのです。神様に対する、生活的な感情圏まで到達できます。皆さんがこのような体恤的な信仰をしなくては、偉大な天のみ旨の結果世界を、私たちの生活の場、生活舞台に適用させることはできません。ですから、体験をもたない信仰者は、信じることができません。
私たち食口は、祈祷する中で役事をします。役事というものがあります。霊的な力が電気作用と同じように入ってきます。皆さんが体験をしてみれば分かりますが、高圧電気に接したような、私たちの意識より強い力が入ってきます。超自然的な、超人的な感情が訪ねて入るようになれば、私たちの体が、堕落性をもっているために、必ず反発するようになります。神様の神性と反発するようになります。
ですから、堕落した人間の前に、どんな神の性稟が強力に入ってきても、自然的に純化され得る立場になれないのです。これが入ってくるには、プラス・マイナスのように、音波も強弱で伝播されていくのと同様に、必ずその力も一遍にすっと入ってくるのではありません。強く入ってきたり、弱く入ってきたり、こうしながら開拓して入ってくるのです。そこに震動が起こり、自分の意識がなくなり、霊的な力が強く作用する現象が起こるのです。それが役事として現れるのです。
このような役事を絶えずするようになれば、どうなるでしょうか。この体が、肉性というものが、堕落性が純化され、自然に 100 パーセント受け入れることができるようになるのです。そのようになれば、そのような現象がなくても、役事以上の立場に入って、天が教えてくれることをみな受けながら、寸分も違わないのです。
このような現象の過程を経て、純化される立場まで上がらなければなりません。その過程で、啓示とか指示とかいう過程を皆さんは経なければなりません。
皆さんがそのような体恤段階に入れば、皆さんの心が皆さんに命令するのです。誰かにこのように話をしようとするのに、言葉が話せないようにするのです。あるいは、自分が良い言葉でその人のために言わなければならないのに、しかる言葉ばかりが出てくるのです。このような現象が起こるのです。このように理解できない現象が時々起こるために、これを調整するすべを知らなければなりません。誤ったなら、狂人として扱われやすいために、それを調整できなければなりません。
このような体恤的信仰を、必ずもたなければなりません。心で感じたことを、体恤したことをもって、実験を通じた体験の立場に入るようになれば、その人は強くなるのです。誰の言葉も聞かないのです。体恤と実践、これは私たちの信仰生活に最も必要なことです。
(76-133 ~136、1975.2.2)

 

3. 賛美

礼拝は、情熱をもって心から捧げなければならない。最高の方法は、賛美と称賛を通して天を賛美しながら心情的力を発散するのである。賛美は、神様に対する愛の自然な表現である。賛美歌と聖歌は、その歌詞に詩的で心に届く声を入れたために、何かの神学的談論よりも私たちの霊魂を深く泣かせる。賛美するとき、私たちはまるで天の天使たちの合唱の声を聞く神秘な恩恵を体験できるかのように、霊的に高揚する。聖なる音節と主の神聖な名を繰り返す賛美を通して、私たちの心は、究極的実在、神様に合わせて、その神秘的な力を呼び出すことができる。

 

①賛美の価値

― 宗教経典 ―

 

かれは永世者であられ、かれのほかに神はない、それゆえかれに祈りまつり、忠順の誠を尽くしてかれに傾倒せよ。よろず世の養育の主、神をたたえ奉る。
クルアーン 40.65(イスラーム)63

 

かつて世にあったものたちや現に世にあるものたちのうちのだれを崇めれば、そこに、天則によりわたくしにとって最勝のことがあるかを(注 18)、マズダー・アフラが知っておわしますごとき、そのようなものたちを、それぞれの名を呼んでわたくしは崇め、そして讃称をもってわたくしはちりまこう。
アヴェスター・ヤスナ 51.22(ゾロアスター教)64

 

豫:先王もって楽を作り徳を崇び、殷にこれを上帝に薦め、もって祖考を配す。
易経16(儒教)65

 

神が最も喜ぶ四つの言葉は、「神に栄光を、神に賛美を、神以外に神はいない、神は最も偉大であられる」である。(注19)
ムスリム・ハディース(イスラーム)66

 

ここに、一切の聖典の詮表するところ、一切の苦行の語るところ、また梵行を修する徒の目的とするところなることばあり。これを要約して卿に告げん。『唵(オーム)』これなり。この聖音はげに梵なり。この聖音はげに至上なり。まことにその聖音を識りたらば、望むところのもの悉く己が所有となら
ん。(注 20)
カータカ・ウパニシャッド 1.2.15 ~16
(ヒンドゥー教)67

 

「唵」というこの音は万有である。これについて詳説しよう。過去、現在、未来といわれる一切は唵音である。他に三世を超出したものがあるが、これもまた唵音である。
万有は梵である。この自我もまた梵である。この自我に四つの足(部分)がある。覚醒状態にあって、外界知を有し、……夢寐状態にあって、内面知を有し、……熟睡状態において渾然一体となり、純知の一塊となり、……〔そして〕万象を消融し、寂静〔なる状態〕……こそ自我であり、人のまさに証得すべきものである。
この自我は音綴として見れば、聖音「唵」である。母音として見れば、その足(部分)をなすものが音母である。音母としての足はア音とウ音とム音である。
覚醒状態にある一切人的自我は、唵音の最初の音母たるア音である。……夢寐状態にある光明的自我は唵音の第二の字母たるウ音である。……熟睡状態にある叡知的自我は唵音の第三の音母たるム音である。……第四の自我は音母なく、不可侵にして、万象を消融し、
安詳である。かようなわけで、聖音「唵」は自我にほかならない。 (注 21)
マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド
(ヒンドゥー教)68

 

三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給いしなり三世の諸仏の出世の本懐・一切衆生・皆成仏道の妙法と云うは是なり。是等の趣きを能く能く心得て仏になる道には我慢偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱え奉るべき者なり。(注 22)
日蓮(仏教)69

 

偉大なる主の属性に基づき、聖仙達によって歌われた主の千の御名を、わたしは世界の安寧のためにとなえん。
「主は宇宙の形の中にいまし、遍在され、供犠の形を取られ、過去、未来、そして現在の主であられ、生きとし生けるものの創造主であり、それらの維持者であり、その実在そのものであり、それらの中に住まわれ、それらに好意をよせる。主は純粋にして至高の存在であり、解脱者の最高の目標で
あり、肉体の傍観者であり永遠の知覚者なる、不滅の霊であられる。主は道であり、道を知る者達の指導者であり、御自身が物質であり、霊であり、神であり、獅子人の形をとった至高の存在であり(注 23)、その髪は光線であり、運命の女神を所有している。主は全てであり、破壊者であり、慈しみであり、不変であり、存在の根源であり、無尽蔵の宝庫であり、喜ばれるときに御自身を現され、後援者であり、保護者であり、その生まれは特別であり、有能であり、主人であり、自ら生まれ、幸福を与える太陽神であり、蓮華の様な目を持ち、ヴェーダという崇高な声を発する。……王であり、罪の破壊者である。主は法螺貝、剣、円盤、弓、鉾を持ち、円盤で武装し、平静を失わず、が出来る。」
この様に、偉大なるケーサヴァの神聖な御名の中で、歌うにふさわしきこれら千が、全て語られた。日々これを聞き、あるいは暗唱する者はこの世においても、またあの世においても逆境に会うことはないであろう。
マハーバーラタ、アヌササーナ・パルヴァン 254
(ヒンドゥー教)70

 

他のすべての宗教も、人間の心性の不安を除去しようと努力し尽くしている。宗教ごとにそれぞれ提示する「道」があり、それらも生に対する教えと規律、儀礼を紹介している。カトリック教会は、これらの中の神聖さと真なるものをある程度否定しない。それらが教える概念と教え、人生の道と行動規律に心から敬意を表す。たとえ私たちが勧告する道と多くの面で異なるとしても、それらもやはり様々な万民を明るく照らす真理の光を発していることを認める。
第二バチカン公会議、キリスト教以外の諸宗教に対する
教会の態度についての宣言 71

 

― み言選集 ―

 

歌は、神様と和合する根本材料です。ですから、歌うときは陶酔する気分を感じなければなりません。
(16-289、1966.7.31)

 

感動して歌う歌が最高の絶叫であり、心霊が込められた祈祷だということです。そして、「ああ、ここから新しい歴史が始まったのだなあ」ということを感じるのです。
(17-22、1966.11.6)

 

祈祷とは何かというと、神様を招いて神様と語ろうとすることです。特に、座って祈祷するよりも、自分の生活を通して天と共に同化できる時間をもつのです。その時間が祈祷の時間です。このように考えれば、言葉で語る祈祷よりは歌の祈祷が感動的であり、自分自身が早く神秘境に引き上げられることを即刻的に体験します。天のお父様と言うとき、感情を込めて「天のお父様!」と言い、深く通じるときは懇切な心で「天のお父様!」というのが歌なのです。
(270-19、1995.5.3)

 

僧侶たちも木鐸をたたきます。私たちは、み言を聞いて歌も歌います。これらはすべて条件です。
(308-218、1999.1.5)

 

昆虫も神様、創造主を賛美し、鳥も賛美し、魚も賛美し、獣も賛美するのですが、この人間が賛美できないのです。動物たちや万物たちは神様を賛美して暮らしているのに、人間はどろぼうするようにうそをついて暮らしています。これではいけません。反対にならなければなりません。
(269-171、1995.4.17)

 

お父様の前に探し出された息子、娘として、お父様と永遠に同居することができ、お父様の仕事とお父様の思想とお父様の願いを成し遂げた者として、喜びと栄光の歌でお父様を慰労してさしあげることのできる真の子女たちとなるよう許諾してくださることを、愛するお父様、懇切にお願い申し上げます。
(5-280、1959.2.22)

 

②賛美の歌と詩

― 宗教経典 ―

 

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
喜び祝い、主に仕え / 喜び歌って御前に進み出よ。
知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 / 主に養われる羊の群れ。
感謝の歌をうたって主の門に進み /賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。
主は恵み深く、慈しみはとこしえに /主の真実は代々に及ぶ。
詩編100(キリスト教)72

 

歌え、すべての者よ、大声で歌え!敬虔な信者達よ、汝の歌を歌え。 子供達にも歌わせよ。巨大な要塞の如き彼に向かって歌え。 ビオールはその調べを奏で、リュートはその声を辺りに発し、弓弦はその音色を響かせよ。 インドラにわれらの讃歌がとどくように。
リグ・ヴェーダ 8.69.8 ~ 9(ヒンドゥー教)73

 

わたしの王、神よ、あなたをあがめ /世々限りなく御名をたたえます。
絶えることなくあなたをたたえ /世々限りなく御名を賛美します。
大いなる主、限りなく賛美される主 /大きな御業は究めることもできません。
人々が、代々に御業をほめたたえ /力強い御業を告げ知らせますように。
あなたの輝き、栄光と威光 / 驚くべき御業の数々をわたしは歌います。
人々が恐るべき御力について語りますように。大きな御業をわたしは数え上げます。
人々が深い御恵みを語り継いで記念とし / 救いの御業を喜び歌いますように。
詩編145.1~ 7(キリスト教)74

 

かれこそは、神であられる、かれのほかに神はないのである。幽玄界と現象界を知りたもう。かれは、仁慈者・慈悲者であられる。かれこそは、神であられる、かれのほかに神はないのである。至高の王者・神聖者・平安の根源者・信仰の管理者・安全の保護者・偉力者・全能者・尊厳者であられる。神をたたえまつる、かれらが主に配するものの上に高くいましたもう。かれこそは神であられる、造物主・造化の主、形態や色彩を賜う主であられ、最も美しいみ名はかれのものである。天と地のよろずのものは、かれの栄光をたたえまつる。まことにかれは、偉力者・英明者であられる。(注 24)
クルアーン 59.22 ~ 24(イスラーム)75

 

汝ら皆、霊の力により、天の主のもとに来たれ。唯一なる、万人の客なる方のもとへ。古き彼は、新しきところへ来たらんと欲す。すべての道は彼へと向きを変える。実に彼こそは唯一なる者。
ここにいるわれらは汝のもの、インドラよ、多くの者に賛美されるものよ。歩き回るわれらは、富の主である汝に属する。歌を愛する者よ、われらの歌を受ける者は汝をおいて他になし。地がその生き物を愛するように、われらのこの歌を愛し給え。
大きく響く歌は寛大なるインドラに達した。誉められるべき人類の擁護者、多く呼びかけられたる者、愛の讃歌によりしだいに強くなる者、日々歌われる不死なる者に。
インドラに向かい、われらの愛の歌は、天の光と交わり、一つとなって進む。妻がその夫、来るべき新郎を抱くように、その歌も寛大なる者を彼の栄光の故に包む。
サーマ・ヴェーダ 372 ~ 75(ヒンドゥー教)76

 

― み言選集 ―

 

限りなき恵みは我に与わる
永遠の生命 喜びなり
我今、楽しく常に讃えん
栄光を高く捧げまつれ

一つの喜び わが胸に得て
理想を立て 常に歌わん
我今、楽しく常に讃えん
栄光を高く捧げまつれ

永遠の生命 我に溢れて
万の祝 ただ誉め奉れ
我今、楽しく常に讃えん
栄光を高く捧げまつれ

選ばれし恵みに 我感謝して
誠を尽くして 御前にひれ伏さん
我今、楽しく常に讃えん
栄光を高く捧げまつれ
聖歌2 番「聖苑のめぐみ」1953(注25)

 

はるかに輝く栄えの光
強く生きよ自由の生命
この地の果てまで目覚め立て
生命の光 永遠にあり
生命の光 永遠にあれ

呼びて求むる栄えの主よ
大いなる姿は天地を抱き
蘇きた生命はいずこにと
尋ぬる君を如何に迎えん
尋ぬる君を如何に迎えん

死から蘇きたこの我は
蘇かしたお方に抱かれて
永遠の愛と恵みの声
いついつまでも喜びを
いついつまでも讃めまつれ

栄えに入るのも主の恵み
愛に満つるも主の恵み
崇め崇めて奉れども
足らぬこの身を如何にせん
足らぬこの身を如何にせん
聖歌 4 番 「栄光の賜物」 1950

 

4. 献身

献身とは、天に愛で敬拝するという意味である。聖書の「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」という聖句のように、愛は献身と犠牲を通して表現される決断力ある行動である。アブラハムの信仰から見るとき、献身とは基本的に忠実な行動とみ旨に対する犠牲として現れる。
神様に対する愛はまた情緒的体験である。献身的な礼拝は、楽しく高揚した賛美と称賛、そして愛の神様の臨在に対する途切れることのない渇望で満たされる。強力な宗教的自覚形態は、特にヒンドゥー教とシク教のバクティ(博愛)伝統とスーフィー、イスラームの信徒たちとハシッドと呼ばれるユダヤ教徒たちの踊りと賛美で、そしてペンテコステ教会の聖霊の流出などで再現されている。
多くの経典では、この神秘的な感情が新郎に対する新婦の崇高な愛が変形した形態として現れたものと描写している。旧約のソロモンの雅歌とヒンドゥー教の聖典の中のラダとクリシュナ、またはシッタとラマの間の愛で、イエスに対するマグダラのマリヤの信仰にこのような感情が現れている。文鮮明先生は、男女の合徳と天地の合徳の間に根本的な関連性が存在すると語られる。
文鮮明先生は、神様の恨の心情的要素を語られ、神様の愛を体験しようとする熱望に、新しく副次的な解答の鍵を教えてくださる。神様が苦痛と苦難が点在する環境に暮らしていらっしゃるのなら、神様と情緒的交感を願う渇望する心は、結局、天の悲しみを体験する段階まで私たちを導く。文鮮明先生の祈祷は、涙と神様を慰労してさしあげる内容に満ちている。神様の痛みを知れば、私たちは世の中の兄弟姉妹たちを罪悪から救援し、神様の苦痛をなくしてさしあげるために行動するようになる。このような深奥な段階に至るとき、初めて私たちの心情と行動は一つになるのである。

 

①神様とそのみ旨に献身する行為

― 宗教経典 ―

 

だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
コリントの信徒への手紙一10.31(キリスト教)77

 

あなたのすべての行動が天のためのものとなるようにせよ。
ミシュナ、アヴォート2.17(ユダヤ教)78

 

最も立派な行為は、神のために愛し、神のために憎むことである。
アブー・ダーウード・ハディース(イスラーム)79

 

かれは永世者であられ、かれのほかに神はない、それゆえかれに祈りまつり、忠順の誠を尽くしてかれに傾倒せよ。よろず世の養育の主、神をたたえ奉る。
クルアーン 40.65(イスラーム)80

 

あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
申命記 6.5 ~ 9(キリスト教)81

 

人が信愛をこめて私に葉、花、果実、水を供えるなら、その敬虔な人から、信愛をもって捧げられたものを私は受ける。
あなたが行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それを私への捧げものとせよ。アルジュナ。
かくてあなたは、善悪の果報をもたらす行為(業)の束縛から解放されるであろう。
バガヴァッド・ギーター 9.26~27(ヒンドゥー教)82

 

アールマティに属せば人は聖となり、かかる人は天眼とともにあって、ことばと行為とダエーナーをもって天則を栄えさせ、善思をもって王国を栄えさせる。―マズダー・アフラは授け給わんことを―これへのよき報応を、わたくしは懇願し奉ります。
アヴェスター・ヤスナ 51.21(ゾロアスター教)83

 

― み言選集 ―

 

忠孝精神と松竹のごとき志操は、今後成し遂げられる地上天国の中枢的思想と精神になるのです。天国は神様の国なので、その国のために永遠に忠誠を尽くさなければならず、神様は人類の父であられるので、その父に対して永遠に孝の道を行かなければなりません。
(100-253、1978.10.19)

 

ただ何でも働かなければならないのですか。違います。そこには必ず今がどのような時で、この時に行くべき所とはどのような所だという目的観がはっきりしていなければなりません。神様の立場を身代わりしようとするので……。神様の代身者にならなければならないということです。それが第 1であり、そのような立場を身代わりしたという事実を自分が確信しながら、その次から神様のみ旨の道に従ってどこに行くべきか、ということを皆さんは考えざるを得ないのです。
(70-257 ~ 258、1974.2.13)

 

神様の愛を受けようとすれば、どのようにしなければなりませんか。神様が私たち人間に完全な愛をもってくるので、私たちは完全な何かを投入しなければなりません。「至誠感天」という韓国の格言がありますが、それは、本当に天理に通じる言葉だというのです。「すべての精誠を捧げる」というとき、
それは内外のすべてを捧げるということです。思うこと、話すこと、行うこと、また良心の生活圏までも、すべて合わせて捧げるというのです。それが精誠です。「精誠」の「精」の字は精神を意味します。「誠」は言偏に「成」の字です。ですから、内外のすべてのものを成して捧げるという意味です。 (注26)そのようにしてこそ「感天」になるのです。天が感動するということです。天が感動することによってどのようになるのでしょうか。天がその人を思い、思うだけでなく、天の思いがいつもと
どまるようになれば、そこには天の愛が訪れてきます。すべての天の思いがそこにとどまるようになるとき、天の愛がここに連結されるようになるのです。思うところに人の心が動くのです。
ですから、精誠を尽くす立場に立ってこそ、神様の愛を受けられます。神様が私たち人間を愛するように、皆さんが神様のために精誠をもってものを捧げれば、神様の愛を初めて皆さんが感じることによって、神様を愛することができるのです。本来、堕落したために、皆さん自身が神様を愛することはできません。したがって、神様のために精誠を尽くすことによって、神様の愛が私に訪れてくるのであり、その愛を通して神様を知り、神様を愛することができるようになります。愛の根源は神様です。
(78-31~ 32、1975.5.1)

 

精誠の心、愛の心でなければサタンの血統が絶対に根絶されません。アダムとエバが堕落するとき、神様の心の深い所に悲痛な歴史の苦痛を感じる根が打ち込まれたのです。それを私がどのようにして、すべて抜いてさしあげるのでしょうか。もっと深く入っていって抜こうとするので、もっと感じなければなりません。神様は寝ても、私は真昼のように起きて最も難しいことをする立場に立たなければ、堕落したときの神様の心情よりも何百倍も難しい立場に立たなければ、抜くことができないという心をいつももたなければなりません。
(308-208 ~ 209、1999.1.5)

 

②神様のための愛と憧憬

― 宗教経典 ―

 

それは最高のプルシャである。しかしそれはひたむきな信愛により得られる。万物はその中にあり、この全世界はそれにより遍く満たされている。
バガヴァッド・ギーター 8.22(ヒンドゥー教)84

 

すべての息遣いで、ごく微細なことでも主を覚える者たち、いつでも心の中に主の名が刻まれた者たち、ナナークが言うには、彼らは祝福を受けるため、完全な信仰者だ。
アーディ・グラント、ヴァール・ガウリー
M.5、p.319(シク教)85

 

チャコラの鳥は月の光を恋い慕う。 (注27)蓮の花は日の光を恋い慕う。蜂は花の蜜を吸う事を恋い慕う。まさにその如く、主よ、私の心はきりにあなたを恋い慕う。
バサヴァンナ ヴァチャナ 364
(ヒンドゥー教)86

 

涸れた谷に鹿が水を求めるように /神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て / 神の御顔を仰ぐことができるのか。
昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。
詩編 42.2 ~ 4(キリスト教)87

 

愛するあなたよ、私が何をもっと話さなければなりませんか。生きても死んでも、再び生まれても、あなたは私の生の主人であられます。愛のわなは、私の心をあなたの足に結んでいます。私の心は、ただあなたに魅了され、私はすべてのものをあなたに捧げました。この家庭で、あの家で、誰が私のもの
ですか。私が誰を私自身のものだと言うことができるでしょうか。ひどく寒く、私はあなたの足の下に帰依します。私の二つの目が瞬きする間、私はあなたを見ることができません。私は私の胸が死んだことを知っています。チャンディー・ダースが言うには、「私は糸を通され首にかかった試金石」。(注 28)
チャンディー・ダース(ヒンドゥー教)88

 

あるとき、クリシュナの養母ヤショーダーが幼いクリシュナを抱いていたさい、牛乳が沸き立つかまどを下ろそうと、あわてて彼を下に下ろした。これに怒った赤子は、牛乳が入っていた硬いかまどを壊し、部屋の隅にあったチーズを顔に塗りつけ、焼いておいたパンを猿に食べさせ始めた。
母が戻ってきてこの光景を見ると、彼を激しく叱った。また木の臼に彼を縛りつけて罰を与えようとした。ところが、驚くことに縄が十分に長いにもかかわらず、あまりに短く見えた。それで彼女は、さらに縄をもってきた。しかし、それはまだあまりに短かった。彼女は見つけられるだけの縄をすべて使った。しかし、まだクリシュナを縛りつけることができなかった。
このことは養母ヤショーダーをとても戸惑わせ、クリシュナは内心で笑った。しかし、彼の母がすっかり疲れ、どうすることもできずにいるのを見ると、自分から縛られるようにした。
初めもなく、中間もなく、終わりもなく、万有に遍在し、無限で、全知全能のクリシュナだとしても、彼はまだ母の偉大な愛のゆえに、彼女によって自分が縛られるようにしたのである。彼は全能であられる主であり、万有の主であられ、一切の万物の主宰者であられる。しかし、彼は彼を信愛する人々に束縛されるようにされるのである。 (注 29)
シュリーマッド・バーガヴァタム10.3
(ヒンドゥー教)89

 

― み言選集 ―

 

どれほど神様を欽慕し、思慕しましたか。現在の自分の立場をすべて忘れてしまい、神様にありったけのものを捧げ得る立場に立っているのかという問題、言い換えれば、完全なプラスの前に完全なマイナスになれるかという問題が生じるのです。その完全なマイナスが完全なプラスの前に向き合える境地に入っていけば、完全なプラスは完全なマイナスに対して直行してきます。純粋な直行の行路を通じてその完全なプラスは完全なマイナスに向かって突進してくるというのです。そこでマイナスは新たに後方で押してあげる反対の作用を起こすのです。
(36-100、1970.11.22)

 

理念は万民に通じますが、実体は一つにしか通じません。ですから、理念を信じたという信仰者は多いのですが、実体を信じたという信仰者は多くないでしょう。あなたの心が私の心であり、私の心があなたの心であり、あなたの悲しみが私の悲しみだと言える信仰者がいないというのです。
皆さんは、この日まで結ばれた天の怨恨の心情、骨髄が溶けるような悲しい心情を感じてみましたか。イエス様はどこに行っても天と向き合い、気を失って卒倒するほどの心情をもって、この地上で 30 年以上の歳月を送ったことを皆さんはよく知らなければなりません。
(4-126、1958.3.23)

 

今日の私たちは、信仰という言葉を掲げて待ち焦がれていますが、そのような段階を越えて生活的な信仰をしなければなりません。すなわち、天と共に生活する食口、天と共に生活する民、天と共に生活する教会にならなければなりません。そのように生活しながら楽しむことができ、歌うことができ、栄光をお返しできる信仰生活をしなければならないのです。天はこれを待ち焦がれています。
歴史過程の大勢の私たちの先祖たちの前に信仰という言葉を立てておいて、神様が彼らに対して期待したことは何だったでしょうか。その場で闘っている信仰者としてのそれ自体ではなく、最後まで残って父と共に暮らせる人を期待されたことを皆さんは知らなければなりません。天が私たちを待ち焦がれたということを知らなければなりません。神様が期待されたのは、信仰のために喜んで消えていくことができる私、信仰のために死んで復活できる私、死亡圏を抜け出して生命圏内で復活の価値を謳うことができ、永遠の世界で神様を父と呼んで暮らすことができる、そのような私を期待していらっしゃいます。これを考えるとき、天が期待した私、その私を慕うことができ、その私を取り戻すために、その私と出会うために苦労する皆さんにならなければなりません。
(6-84 ~ 85、1959.3.29)

 

神様をお父様と呼んでつかんだまま、6000 年の歴史的な悲しみで痛めた心情を慰労し、解怨してさしあげるのです。悲しいお父様の胸に抱きついて「お父様」と呼ぶとき、その一言の言葉で分かれていた天地が再び因縁を結ぶのです。このような基準を再び立てることのできる存在にならないというとき、神様の悲しみは皆さんから離れることができず、神様の審判の条件から皆さんは抜け出すことができないでしょう。
(3-58、1957.9.22)

 

おなかがすくことが悲しみではなく、
環境に追われ
憤懣やるかたない立場に立ったことが
悲しみではありませんでした。
愛するお父様を失ってしまうこと、
それ以上の悲しみはないことを、
私たちは全く知りませんでした。
お父様がいらっしゃる位置は、
どんなに何もない位置であっても
無限に存在する位置であり、
お父様がいらっしゃる位置は、
地獄の中心であっても
天国と化すことのできる位置です。
私たちが死んでも生きても、
いるべき所は
お父様がいらっしゃる所しかないことを知るものです。
(43-135、1971.4.25)

 

③新郎のために生きる新婦として神様への献身

― 宗教経典 ―

 

夜ごと、ふしどに恋い慕う人を求めても / 求めても、見つかりません。
起き出して町をめぐり / 通りや広場をめぐって / 恋い慕う人を求めよう。
求めても、あの人は見つかりません。わたしが町をめぐる夜警に見つかりました。「わたしの恋い慕う人を見かけましたか。」
彼らに別れるとすぐに / 恋い慕う人が見つかりました。
つかまえました、もう離しません。母の家に / わたしを産んだ母の部屋にお連れします。
エルサレムのおとめたちよ/ 野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください /愛がそれを望むまでは / 愛を呼びさまさないと。 (注 30)
雅歌 3.1~ 5(キリスト教)90

 

私の手に鏡のように、
私の頭に花のように、
私の目にコールのように、
私の口にタンブルのように、
私の胸に麝香のように、
私の首にネックレスのように、
私の体に恍惚境のように、
私の家庭にアイのように、
鳥に翼のように、
魚に水のように、
生物に命のように、
あなたは正にそれと同じです。
しかし、私に語ってください。
あなたはどなたですか。
実際、あなたはどなたですか。
ヴィディヤーパティが言うには、「彼らはお互いです」。(注 31)
ヴィディヤーパティ(ヒンドゥー教)91

 

聖なる母、主なくしてどうして生きるのですか。
万有の主、あなたに栄光があらんことを!
私があなたを賛美しますので、
あなたなくしては決して生きていくことができません。
新婦は主を気をもみながら渇望し、
夜通し起きて彼を待ちます。
私の心を魅了した主、
彼だけが私の苦悩を知ってくださるので、
主がいなければ私の魂はつらさと苦痛の中にいて、
彼の言葉を求め、彼の足に触れることを願います。
主よ、慈悲を施してください。
私をしてあなたの懐に入るようにしてください。
アーディ・グラント、サーラング
M.1、p.1232(シク教)92

 

恋しい人は言います。
「恋人よ、美しいひとよ / さあ、立って出ておいで。
ごらん、冬は去り、雨の季節は終った。花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。
この里にも山鳩の声が聞こえる。いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。
恋人よ、美しいひとよ / さあ、立って出ておいで。」
雅歌 2.10 ~13(キリスト教)93

 

イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女(注 32)が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄
遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、し
たいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝
えられるだろう。」
マルコによる福音書14.3 ~ 9(キリスト教)94

 

ラーマよ、……妾は蹤したがいて行きたいのです。……妾はあなたの後から歩いて行くのならば、安楽椅子などに腰を下ろしているように、森では道を歩いても疲れることはありません。道を塞ぐ、クシャ草も、萱も、葦も、また棘のある植物も、樹木も、あなたと御一緒ならば、綿か鹿皮と同じ感じです。
大風が埃を吹き上げて、妾を包んだとしても、あなた、妾はそれを最上等の栴壇香だと思います。森の中を歩きまわっても、御一緒に毛布を敷いたように柔らかな草地に寝さえすれば、これに勝る安らかさがありましょうか。木の葉や木の実がたとい少なかろうと、また多かろうと、あなたが集めてきて妾に下さるなら、それは妾にとって甘露の味がしましょう。……あなたと御一緒ならば天国ですし、あなたと離れて暮らすのは地獄です。(注 33)
ラーマーヤナ、アヨーディアーの巻 30
(ヒンドゥー教)95

 

― み言選集 ―

 

神様は、どのような方ですか。私の体の永遠の主人です。私の心情の永遠の主人です。本然の世界は、いくら愛する夫婦だとしても、夫が妻よりも神様をもっと愛するからといって、妻がその夫を恨みません。そのようになっているというのです。また、妻が神様を夫よりもっと愛するからといって、「なぜ神様を私より愛するのか」とは言いません。それを見て喜ぶことができる世界が天国です。世の中のいかなる愛、いかなる内容をも超越した主体的な立場にいらっしゃる神様は、私の体の永遠の主人です。体の永遠の主人であられる神様の懐、その園にいれば死んでもよいのです。私の心の永遠の主人、私の心情の永遠の主人であればそれで十分であって、それ以上何を望むのでしょうか。
(7-255、1959.9.20)

 

女性たちの希望は、そうではないですか。「あの男性なら私は死んでもよい」と思える男性を得れば、天下に何も必要ありません。貧しくてもよく、裕福でもよく、泣いてもよく、死んでもよいのです。それ以上はないというのです。同じように、私たち人間の最高の欲望は神様の愛を占領することですが、この愛を占領することによって、この宇宙の主人になります。王の王権をもつのです。王の王になります。
ですから、優れた人にも愚かな人にも、すべて欲心を付与したのは、その目的を万民共通に付与しなければならないからです。本然的理想がそのようになっているので、そのような作用をするのは、自然の道理です。ですから、それが私たちの自然に到達できる目的地だということです。
神人愛、どのように神様と人間が、縦横が一つになるのですか。神様は垂直的な愛です。垂直の愛なのです。ですから、イエスが昇天したあとに聖霊が来ました。聖霊は母の愛です。キリスト教は新郎を迎えるための宗教です。新郎と新婦が出会うためには、空中権勢をつかんだサタン圏に勝たなければなりません。
ところが、宗教がどれほどたくさん犠牲になったか分かりません。これを平面的に獲得するためのものが地上天国、再臨理想です。神様がこの地に再臨主を送って中心として立て、横的に版図を展開させるのです。二重になるのです。完成した二重的すべての……。心と体が二つではなく一つになります。男性の体と女性の心が相対をなし、天地調和の渦の中心になるのです。それで、中心として上がっていったり下がっていったりします。
(252-120 ~121、1993.11.14)

 

堕落とは何でしょうか。神様の事情を論じられないのではなく、心情を論じられないのが堕落です。堕落した人間を探してこられる神様は、失った息子、娘に対する心情はもっていても、その心情を分かち合うことができる人がいないので、その人たちを探して立てる役事をされます。それが救いの役事であり、その人たちを立てるために送られた者が、救世主です。
私たちは、天国を望む前に、神様の心情を願うべきであり、また神様の心情を願う前に、私自身がどのように生きていくべきかを考えなければなりません。私自身が、まず侍る心情をもたなければなりません。高く貴いものについては、頭を下げて恋しく思うのが、人間の本性です。堕落したとしても、高く貴い天の心情に対して侍りたいと思うのが、私たち造られた人間の本然の心情です。(注 34)心情に通じることができる、侍る生活をしてみることができなかった人は、天国と何の因縁もないということを皆さんははっきりと知らなければなりません。
(8-291、1960.2.14)

 

お父様!
きょう、お父様の御心情の園で
私たちの体が動じ、
心が動じ、
すべての考えが動じるよう
許諾してください。
お父様の御心情は、
無限なる愛の御心情であることを
私たちは知りました。

お父様の御心情は、
限りなく悲しい御心情であり、
限りなく傷を負っている
御心情だということも、
私たちは知りました。

限りなく悲しまれたお父様、
限りなく苦労されたお父様、
今も限りなく気遣われるお父様!
そのお父様が創造主であられ、
そのお父様が
全万象の主人公であられるということを分かるようにしてくださり、
お父様がお受けになる
限りない悲しみが、
私たちの胸に
しみ通るようにしてくださり、
限りない悔しさと無念さが
私たちの心中に
流れ込むようにしてください。

これを体得した者を、
身の置き所を知らないため、
自分の身を支えることのできない
悲しみに浸るようにしてくださり、
その心を収拾することができず、
天地の区別もつかないまま
痛哭する息子、娘たちと
なるようにしてください。

今、精誠を尽くし、
この心と体をすべて捧げ、
その御心情の前に
不足がないということのできる、
認定を受ける息子、娘たちとなるよう許諾してくださいますことを、
お父様、
切にお願い申し上げます。

私たちは、
天がどのような物質を下さることも
願っていませんし、
事情を知ってくださることも
願っていませんし、
恩恵を下さることも願っていません。

それよりは、
恩恵を下さったのちに
悦楽しようとなさる
お父様のその内情を
私たちが知るよう許諾してください。

そうして、
悲しまれたお父様を
「お父様」と呼ぶことができ、
苦痛のお父様を慰労してさしあげる
ことのできる息子となり、
娘となることを願うものです。
(8-262、1960.2.7)

 

5. 純粋な意図

奉公の根は、心情にある。奉公の行為に私たちを導く意図が、正に奉公の価値を決定する。最初は、信仰と服従が外的な形態でのみ表現されるが、結局、本来の内面的意図は外的に現れるようになっている。神様に近づいていく道には、純粋な心情と真実な心が要求される。
俗世での生活も、私たちの意図から始まる。イスラエルの民が神殿に行き、 「だれが主の丘に上がるのか」という聖歌を歌うとき、彼らは言った。日々の生活で彼らは道徳的に、正義感をもって生きなさいという天の戒めを守って生きたと。いつでも純粋な意図から神様の摂理に世俗的な関心より優先的に仕えるとき、心の純潔性が育てられる。心と体を尽くして神様に栄光をお返しし、神様の摂理に貢献しようという純粋な意図をもつとき、私たちは神様と真実な関係を維持し、天門が開門する。純潔な精誠の反対概念の理解のために第 15 章 8.「偽善」を参考とせよ。精誠の役割に対してより深く理解するためには、第12章5.「誠実と確実」を参考とせよ。

 

①心の純粋と誠実

― 宗教経典 ―

 

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
マタイによる福音書 5.8(キリスト教)96

 

眼を以ても、語を以ても、その他の感官を以ても、苦行を以ても、あるいは祭儀を以てするも捉えられず。智の澄浄によって本性の清浄となれる時、瞑想裡にあってこの渾一なるものを照観す。
ムンダカ・ウパニシャッド 3.1.8(ヒンドゥー教)97

 

どのような人が、主の山に上り / 聖所に立つことができるのか。
それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく/欺くものによって誓うことをしない人。主はそのような人を祝福し / 救いの神は恵みをお与えになる。
それは主を求める人 / ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。(注 35)
詩編 24.3 ~ 6(キリスト教)98

 

希望が成されることを願い、私の前に来るあなたたちは、みな偽りなく純粋で、内も外も貞潔で、鏡のように真理を写し出す心で願わなければならない。(注 36)
天満宮神社の神託(神道)99

 

たとえ、鉄の玉を食べようとも、心の穢れた人のものを食べてはいけない。銅を溶かすような焔の上に座っても、心の汚れた人のところへいってはいけない。清浄を大事にするためである。(注 37)
八幡大菩薩、三社託宣(神道)100

 

おおわが兄弟よ。純粋な心は鏡のようなものである。愛と神以外のものへの愛着を断つためのみがきで、心の鏡をみがきあげよ。そうすれば、あなたの心は真実の太陽で照らされ、永遠につづく夜明けの光でかがやくであろう。
七つの谷、四つ目の谷 21(バハイ教)101

 

それは、あなたがまじまじと神を見るように、彼を敬い崇めることです。あなたが眼にしていなくとも、神は貴方を見ておられるのですから。
ナワウィー 40 のハディース2(イスラーム)102

 

まことは、神の心である。したがって、神につかえおまつりするのに、まことの心をもってあたると、神は必ずそれをうけてくださる。
貝原益軒 神祇訓(神道)103

 

主なる神に従おうとする者は、些細な問題を心配する時間がない。創造者なる神に常に仕えようとするとき、虚栄は入り込む時間さえない。(注 38)
イスラエル・バアル・シェム・トーヴ(ユダヤ教)104

 

わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、
冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。(注 39)
ヨハネの黙示録 3.15 ~16(キリスト教)105

 

― み言選集 ―

 

恵みの永遠なる故郷は、神様の心情であるから、神様の心情の安息所を備える者となってこそ、そこに神様の恵みが運行する。
御旨の道、心情

 

神様は、精誠を尽くさないところにおいては働かれない。
御旨の道、み旨

 

キリストを遠ざけ、自分のために生きる息子、娘にならないよう導いてください。
(2-300、1957.6.30)

 

克服は、何をもってするのでしょうか。それは、手段では駄目です。何かの才能でも駄目です。ただ精誠によってのみ克服できるのです。ですから、神様をどのくらい精誠を尽くして侍ってみたのか、どのくらい精誠を尽くす心で慕ってみたのか、どのくらい精誠を尽くした感動を通して感じようとしたのか、またそのような父と息子の因縁の体恤をどのように見いだすのか、ということが問題になるのです。
(42-228、1971.3.14)

 

誰が見ていようと見ていまいと、私がすべきことは私がやらなければなりません。私たちが神様との約束をきちんと守らなければならないというのです。夜も昼も全体のために祈祷してこそ、それが生きた祈祷になります。
(104-112、1979.4.15)

 

今後、真の息子、娘が尽くすべき精誠とは何でしょうか。現実的な生活舞台における精誠ではなく、希望の精誠、栄光の精誠、忠誠の精誠、侍る精誠を尽くさなければなりません。そのような精誠を残していってこそ、天国が私の天国になり、その父が私の父になるのです。
(17-245、1967.1.29)

 

ある主義のために自分のすべてのものを放棄し、あるいはある思想のために自分の主張を放棄する人がいるとしても、自分の心を起こす真理を探すためにそのようにするのでなければ、それは天倫と何の価値的な関係も結べません。
このような心の核心を求めていき、6000 年間、先祖から罪悪の血統を通して受け継いだ汚れた心を再び洗い清めるためには、皆さんがどのようにしなければなりませんか。イエス様が、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な、第一のいましめである」と語られたように、皆さんは心を尽くすことのできる立場に立たなければなりません。 (2194、1957.5.19)

 

②礼拝の基準としての誠実

― 宗教経典 ―

 

それはあだかも澄みきった鏡が、その対するものにしたがって、種々さまざまな像を現ずるやうなもので、業性もまたそれと等しい。
華厳経 10(仏教)106

 

清涼の大法眼は、僧がお斎の前に参じたので、手で簾を指した。そのとき二人の僧がともにそこへ行って、簾を巻き上げた。法眼は言った、「一人はよいが、一人はだめだ」。無門は評して言う―まあ言ってみよ、誰がよくて誰がダメなのか。もしここに一つの心眼をつけることができたら、すぐに清涼国師の失敗の処が分かるだろう。それはそうだが、けっしてヨイとかダメだとかというところに向って究明しようとしてはならないぞ。
無門関 26(仏教)107

 

行為とは意志に基づくものであり、人はみな自らの意志した事柄の所有者である。したがって神とその御使いのために聖遷に参加した者は、神とその御使いのために聖遷を行ったのであり、現世の利益、結婚相手の女のために聖遷に加わった者は、それらのために聖遷を行ったにすぎない。(注 40)
ナワウィー 40 のハディース1(イスラーム)108

 

法を〈汚れのないもの〉と名づける。もしも法ないしねはんに染るならば、それはすなわち汚れに染ることであって、法を求めることではない。法はそれを行ずる場所が存在しない。もしも法を行ずるならば、もはやすでに行ずる特定の場所が存在することになり、法を求めることにはならないのである。法には取捨がない。もしも法を取捨するならば、それは取捨にほかならぬのであって、法を求めることにはならないのである。法には場所が存在しない。もしも場所に執著するならば、それは特定のよりどころに執著することになり、法を求めることにはならないのである。
維摩経 6(仏教)109

 

神がダビデにこれを啓示された。「私の僕の中で、天国に行くことや地獄に対する恐怖で私に仕える者より正しくない者はいない。私が天国と地獄を創造していなければ私に仕えることができなかったというのか」。
シャアラーニー(注 41)(イスラーム)110

 

おお、神よ、
私がもし地獄に対する恐れであなたを賛美するなら私を地獄で燃やし、
私がもし天国に対する希望であなたを賛美するなら私を天国から追い出してください。
しかし、もし私がただあなただけのためにあなたに敬拝するなら、私にあなたの不滅の美を惜しまないでください。
ラービア(注 42)(イスラーム)111

 

― み言選集 ―

 

皆さんは、なぜここに座っているのですか。良いみ言を聞いて立派な人になるために座っているのですか、アメリカを立派にし、教会を立派にするために座っているのですか。皆さんは、2番目ではなく1番目だと言えば正解でしょう? 先生の話を聞いたから2番目と言うのではないですか。笑うのを見るとそれが事実のようです。
(118-46、1982.5.2)

 

今日、自分の利益のために宗教を信じるすべての人たちは、福を受けようと信じている人たちは、福を受ければ神様を信じるのをやめるのです。福を受けることが目的ではないですか。少し裕福に暮らして、その次には落ちていきます。世界に福を与えようと思いながら信じなければなりません。それが神様の願うことです。
(127-27、1983.5.1)

 

霊界に行ってみれば、昔に殉教した信徒たちの中で「私がこのように殉教すれば、天国に行けるだろう」と言った人たちは、天国に行けないというのです。反面、「天の父が私を訪ねてくるために受難の道を歩まれ、血を流されたのだ。主に恩返しをするためには、どんな道でも行く」と言いながら、「そ
の恩返しできる立場で、私が同参できる栄光の一時を迎えたことは、どれほど有り難いか」と言いながら死んだ人は、間違いなく天国に行ったというのです。そのような人は自分のために死んだのではなく、天地のために死んだのです。 「私がこのように信じて死ねば、天国に行くだろう」と言って死んだのなら、それは自分のために死んだのです。堕落した人間は、自分を主張しては、絶対に天国に行けないのです。
(41-355、1971.2.18)

 

皆さんに、「精誠を尽くしなさい、精誠を尽くしなさい!」(注 43)と言うのですが、なぜそうなのでしょうか。精誠を尽くすときは、自分がすることに精誠を尽くしてはいけません。自分がすることに精誠を尽くせば、神様が世界に光を水平に照らそうとしているのに、水平に照らさずに私のほうにだけ照らしてほしいということになるのです。
ですから、人類を代表して、神様を身代わりして祈祷するという心を常にもって精誠を尽くさなければなりません。神様を身代わりして祈祷し、神様を身代わりして精誠を尽くすのですが、神様御自身が今まで歴史を通してどれほど精誠をたくさん尽くしたかを考えなければなりません。
(308-200 ~ 201、1999.1.5)

 

神様の悲しみは何かというと、神様が苦痛を受けるときに一緒に苦痛を受け、神様が悲しむときに一緒に悲しむ人がいないことです。今まで数千年間、人類を抱いてこられた神様は、独りで苦痛を受けられました。独りで無念な思いになられ、独りで悲しまれたのです。神様が苦痛を受けるとき、その苦痛を
一緒に受けた人がいなかったのであり、神様が悲しむとき、その悲しみを一緒に受けた人がいませんでした。ですから、神様は、今まで苦痛が激しかったのであり、悲しみが激しかったのです。
(11-95 ~ 96、1961.2.12)

 

お父様のお心を私たちの心として、
お父様の御事情を私たちの事情として、
お父様の願いを私たちの願いとして、
お父様の怨讐を私たちの怨讐として、
お父様の闘いを私たちの闘いとして、
お父様の願いを成就してさしあげられる、
勝利の祭物として捧げられ得る
息子、娘たちとなるよう
許諾してください。
(5-213、1959.2.1)

 

6. 献金と十分の一献金

献金とは、信仰と献身の物質的表現である。古代の動物献祭は消えて久しく、今では、それが献金と十分の一献金、または托鉢僧への布施に代わった。類型を問わずあらゆる献金は、信仰的心情の外的表現である。本質的に献金とは、自分自身の代わりに捧げるものである。世界の宗教経典は、祭物を捧げるとき、最高に貴いものを喜んで、未練や執着なく捧げることを教えている。献金の聖書的基準は、個人収入の十分の一を捧げる十分の一献金である。

 

①純粋で献身的な心で捧げる献金

― 宗教経典 ―

 

なんじらは愛するものを喜捨せぬかぎり、正義を全うし得ないであろう。なんじらが喜捨するどんな物でも、神は必ずそれを知りたもう。
クルアーン 3.92(イスラーム)112

 

すべての供物は天に至る舟である。
シャタバタ・ブラーフマナ 4.2.5.10(ヒンドゥー教)113

 

人間の祭物を食べる霊は、彼に命を返してくれる。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)114

 

また犠牲のラクダと牛を、われはなんじらへの神からの顕著なしるしとした、それらにはなんじらへの多くの利益がある。犠牲に供えるに当り並べて、それらの上に神のみ名を唱えよ。そしてそれらが横に倒れたならば、なんじらはそれを食べ、また口に出して請わぬ者、物請いする者たちを養え。このようにそれらを、なんじらの用に服させる。おそらくなんじらは感謝するであろう。(注 44)
それらの肉それから血も、決して神に達するわけではない、だがなんじらの篤信(タクワー)こそ、かれにとどくのである。このように、かれはそれらをなんじらの用に服させたまい、なんじらへのかれの導きに対し、神をたたえさせるためである。
クルアーン 22.26 ~ 37(イスラーム)115

 

田畑は雑草によって害われ、この世の人々は愛欲によって害われる。それ故に愛欲を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
田畑は雑草によって害われ、この世の人々は怒りによって害われる。それ故に怒りを離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
田畑は雑草によって害われ、この世の人々は迷妄によって害われる。それ故に迷妄を離れた人々に供養して与えるならば、大きな果報を受ける。
田畑は雑草によって害われ、この世の人々は欲求によって害われる。それ故に欲求を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
法句経 356 ~ 359(仏教)116

 

ブラフマンは献供である。ブラフマンは供物である。それはブラフマンである火の中に、ブラフマンにより焼べられる。ブラフマンに捧げる行為に専心する者は、まさにブラフマンに達することができる。
あるヨーギン(実践者)たちは、神々への祭祀のみを行う。他の人々は、ブラフマンである火の中に、まさに祭祀によって祭祀を焼べる。他の人々は、耳などの感官を〔自己〕制御という火の中に焼べる。
他の人々は、音声など〔感官の〕対象を感官という火の中に焼べる。他の人々は、すべての感官の働き、気息の働きを、知識により燃え上らされた、自己制御のヨーガ(実践)という火の中に焼べる。
他の修行者たちは、強固な信念をもって、財物を祭祀とし、苦行(タパス)を祭祀とし、〔その他の行為の〕ヨーガを祭祀とし、学習と知識とを祭祀とする。
他の人々は、プラーナ気とアパーナ気の道を抑制し、調息 法に専念して、プラーナをアパーナの中に焼べ、アパーナをプラーナの中に焼べる。
他の人々は、食制限して、気息を気息の中に焼べる。以上すべての人々は祭祀を知り、祭祀により罪障を滅している。
バガヴァッド・ギーター 4.24~30(ヒンドゥー教)117

 

御先祖のお祭りには御先祖がおられるようにし、神々のお祭りには神々がおられるようにする。先生はいわれた、「わたしは〔何かの事故で〕お祭りにたずさわらないと、お祭りがなかったような気がする。」
論語 3.12(儒教)118

 

あるとき、ラビのムイルがこのような質問を受けた。「聖書には祭物を捧げることがエホバを喜ばせてさしあげるという内容もあり、また、神は祭物を捧げるのを喜ばれないという内容がありますが、その理由は何ですか」、ムイルが答えた。「それは祭物を捧げる人の心の状態が奉献にふさわしい場合も
あり、そうでない場合もあるからだ。」
バライタ・カッラー 8(ユダヤ教)119

 

イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、
賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
マルコによる福音書12.41~ 44(キリスト教)120

 

信仰心をもって施与すべきである。不信の心をもって施与してはならない。豊かな心をもって施与すべし。恥ずる心をもって施与すべし。恐れる心をもって施与すべし。同情の心(samvid)をもって施与すべし。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド 1.11.3
(ヒンドゥー教)121

 

尊き師(ブッダ)は答えた、 「マーガよ。祀りを行え。祀り実行者はあらゆる場合に心を清からしめよ。祀り実行者の専心することは祀りである。かれはここに安立して邪悪を捨てる。」
スッタニパータ 506(仏教)122

 

人が犠牲祭を捧げにいくとき、怒りの心ではなく、平穏な心にならなければならない。そのように彼は最小限一日はとどまらなければならない。もしその日、争ったり、その心の中に怒りがあれば、彼は病にかかるようになり、その祭祀とその家門の教えは崩れてしまう。
ルヤ族の格言(アフリカ伝統宗教)123

 

主の言葉が、預言者ハガイを通して臨んだ。「今、お前たちは、この神殿を / 廃虚のままにしておきながら / 自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか。今、万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。種を多く蒔いても、取り入れは少ない。食べても、満足することなく / 飲んで
も、酔うことがない。衣服を重ねても、温まることなく / 金をかせぐ者がかせいでも / 穴のあいた袋に入れるようなものだ。万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ。わたしはそれを喜び、栄光を受けると / 主は言われる。」(注 45)
ハガイ書1.3 ~ 8(キリスト教)124

 

信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ―「慰めの子」という意味―と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金
をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。
どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。
使徒言行録 4.32 ~ 5.5(キリスト教)125

 

― み言選集 ―

 

祭物は誰が捧げるのですか。救いを受けようという人たち、神様に帰ろうという人たちが祭物を捧げるのです。自分の体の代わりに祭物を捧げるのです。そして、神様と祭物と私の三つが一つにならなければなりません。そこには隔たりがあってはいけません。
(274-199 ~ 200、1995.11.3)

 

私たちの信仰路程は、必ず蕩減して復帰するというのが原則です。そして、蕩減するためには、必ず祭物が必要だということを私たちは学びました。その祭物というものはどのようなものですか。私のすべてを身代わりして捧げる条件物なのです。言い換えれば、私が内的ならば、祭物は外的なものとして、その外的なものと内的なものが一つにならなければならないのです。
(67-113、1973.5.27)

 

祭物と、それを捧げる人は、別のものではありません。心情を通しては一つなのです。言い換えれば、祭物は人が愛するものでなければなりません。愛するものでなければならないのです。愛するものであると同時に、その人の血と肉を身代わりした立場を代表するものでなければなりません。そのようなものが祭物です。ですから、祭物はその人にとって最も貴いものです。そのようなものが祭物になれることを皆さんは知らなければなりません。
(47-285、1971.8.30)

 

「羊を屠る私は、羊の代わりに絶対従順者になる。牛を屠る私は、牛の代わりに絶対に従順になる。絶対に神様を愛する」、このような所信をもたなければなりません。人がこのようなことを願うので、「私がこのような動物を、万物を祭物として捧げるのは、神様の前に私がこのような人になるという代わりに血を捧げることなので、これをすべて私の代わりに受けてください」と言うのです。これが祭祀です。それで、このような動物を祭物として捧げるのです。
(97-289、1978.3.26)

 

皆さんに貴いものや財産があれば、「私の財産を世界のために整理しなさいという神様の命令があればどれほどよいだろうか!」とそれを慕ってみましたか。そうすれば神様が福を下さるのです。その時が来る前に福を下さるのです。そのように願えばということです。
(308-206、1999.1.5)

 

本来、すべての万物は真の愛で愛せる主人の所有になるのですが、「お前サタンは真の愛で愛することができなかったが、私は真の愛で愛したので、このすべての万物を私に伝授してくれなければならない」と言うとき、サタンもそれは仕方がないというのです。ですから、愛するときはサタン以上の
心をもって愛さなければなりません。
サタン世界から十分の一献金を取り戻してこなければなりません。ここで十数は天の側に戻っていきます。それで十分の一献金に対するものを取り戻してこなければならないのです。このような意味で、サタン世界に行って取り戻してくるのです。「私は人類を愛し、世界を愛し、神様を愛するにおいて、サタン、お前よりも優っている」という立場に立ってすべてを取り戻してくるのです。
(128-101、1983.6.5)

 

精誠を尽くして集めたお金であれ何であれ、祭壇に置いて祭物として捧げてからは、それを後悔すれば罰を受けます。かえって捧げないほうがよいのです。聖書に出てくるアナニア夫婦の話を知っているでしょう? 自分の財産を売って、自分の思いどおりにできるものだとして、半分は隠し、半分だけもっ
てきて、「それがすべて」と言って罰を受けたのです。「すべて」という言葉は、捧げても捧げていなくても、すべて捧げることになるのです。隠せば、それに対する代価を払わなければならないので、罰を受けるということが起きるのです。祭物になった事実に未練をもち、自分自身の所有的内容をもって考えること自体を許諾しないというのです。そのような事情があれば、時になる前にすべて清算しなければなりません。
(122-22 ~ 23、1982.10.31)

 

皆さんが教会に献金するとき、どこからマッコリ(濁酒)を買って飲み、残ったお金を献金しようとしてはいけません。そのようなお金は汚れたものです。また、市場に行って何かを買って残ったお金で献金をしても、神様はそこに共にいらっしゃいません。
(48-86、1971.9.5)

 

最近、既成教会では、献金をよくするとして長老にしたり、執事にしたりしていますが、私たち統一教会はそのようにしてはいけません。献金は、国を愛し、世界を愛して、国の代わりに、世界の代わりに私の命を交換する立場でしなければなりません。
(166-71、1987.5.28)

 

今日、既成教会で、献金するとき袋を持って回すでしょう。私たちの教会も、献金をそのように受け取りますか。何の献金箱を持って受け取るのですか。出ていく時、みんなあの門前の献金箱に集めておくのです。精誠を尽くし恵みを受けていく代価として感謝献金をするのです。
(166-319、1987.6.14)

 

②十分の一献金

― 宗教経典 ―

 

土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので主に属す。(注 46)
レビ記 27.30(キリスト教)126

 

ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげ
ます。」
創世記 28.20 ~ 22(キリスト教)127

 

牛や羊の群れの十分の一については、牧者の杖の下をくぐる十頭目のものはすべて、聖なるもので主に属する。この十分の一の家畜を見て、その良し悪しを判断したり、それを他のものと取り替えたりしてはならない。もし、他のものと取り替えるならば、それも取り替えたものも聖なるものとなり、買い戻すことはできない。
レビ記 27.32 ~ 33(キリスト教)128

 

人は神を偽りうるか。あなたたちはわたしを偽っていながら / どのようにあなたを偽っていますか、と言う。それは、十分の一の献げ物と / 献納物においてである。あなたたちは、甚だしく呪われる。あなたたちは民全体で、わたしを偽っている。十分の一の献げ物をすべて倉に運び / わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと / 万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために / 天の窓を開き / 祝福を限りなく注ぐであろう。
マラキ書 3.8 ~10(キリスト教)129

 

子は父を、僕は主人を敬うものだ。しかし、わたしが父であるなら / わたしに対する尊敬はどこにあるのか。わたしが主人であるなら / わたしに対する畏れはどこにあるのかと / 万軍の主はあなたたちに言われる。わたしの名を軽んずる祭司たちよ / あなたたちは言う / 我々はどのようにして御名を軽
んじましたか、と。あなたたちは、わたしの祭壇に / 汚れたパンをささげておきながら / 我々はどのようにして /あなたを汚しましたか、と言う。しかも、あなたたちは / 主の食卓は軽んじられてもよい、と言う。あなたたちが目のつぶれた動物を / いけにえとしてささげても、悪ではないのか。足が傷ついたり、病気である動物をささげても /悪ではないのか。それを総督に献上してみよ。彼はあなたを喜び、受け入れるだろうかと / 万軍の主は言われる。今、神が恵みを与えられるよう / ひたすら神に赦しを願うがよい。これは、あなたたちが自ら行ったことだ。神はあなたたちの誰かを / 受け入れてくださるだろうかと / 万軍の主は言われる。あなたたちのうち誰か、わが祭壇に /いたずらに火が点じられることがないよう / 戸を閉じる者はいないのか。わたしはあなたたちを喜ぶことはできないと / 万軍の主は言われる。わたしは献げ物をあなたたちの手から / 受け入れはしない。日の出る所から日の入る所まで、諸国の間でわが名はあがめられ、至るところでわが名のために香がたかれ、清い献げ物がささげられている。わが名は諸国の間であがめられているからだ、と万軍の主は言われる。
マラキ書1.6 ~11(キリスト教)130

 

― み言選集 ―

 

十分の一献金は、所有している物の十分の一を神様に捧げることによって全体を捧げる、という意味をもっています。父に全体を捧げるのではありませんが、その中の十分の一を、精誠を込めて捧げることにより、残りの十分の九も聖なる物として取り扱い得るようになります。このように十分の一献金を捧げて生活する人は、絶対滅ぶことがありません。日がたてばたつほど、倉庫がいっぱいになっていくのです。
(31-240、1970.6.4)

 

皆さんがもっているすべてのもの、時間までも十分の一を捧げなければなりません。
(150-219、1961.4.15)

 

韓国の民として生まれたならば、この国に税金を捧げなければなりません。この国に税金を捧げ、その次には天に十分の一献金を出さなければなりません。十分の一献金というものは、自分の国のために捧げるものではありません。それは祭司長、レビ族のために、祭司長として立てる人たちのために天の数として捧げるものです。
(150-219 ~ 220、1961.4.15)

 

十一条はすべての面にある。学校も十教室中に一つの教室は、かわいそうな子女たちのために無料奉仕の教室として使わなければならない。
御旨の道、義務守則

 

十分の一献金は、一番精誠を尽くした聖なる物でなければなりません。それが祭物です。祭物を捧げるには、聖なる物を捧げなければなりません。息子を祭物として捧げなければならないとするなら、どんな息子を祭物に捧げなければなりませんか。憎い息子ですか。望みのない息子ですか。そのような息子は祭物にはならないのです。一番良い息子でなければならないのです。なぜですか。祭物は「私」の身代わりだからです。
(48-85、1971.9.5)

 

自分が使うところからいくらか献金して、それで教会を支えるというのは極めて良いことのようですが、それは悪いことだと思うのです。神様の前に捧げることは自分の生活より、自分の何よりも先にしなければなりませんが、それの何パーセント捧げるという観念によって自分の生活が主で、神様が次
の段階に立つのが習慣化されやすいのです。神様が2番目になり最後になってしまうのです。そうだと思いますか。そうではありませんか。
宇宙を創造された絶対全能であられる神様が、乞食に投げ与えるようなそのようなお金をもって喜びながら、「ああ、福を受ける者たちよ! お前たちは愛らしい宗教人だ」と言うことができますか。サタンの前に威信が立つのかというのです。献金箱を回しながらお金を出しなさいというでしょう。それは、看板を付けた乞食です。それは、何ですか。それは、神様は喜ばれないのです。
(96101、1978.1.2)

 

7. 儀式

神様に近づく手段として、あらゆる宗教に儀式を制定するようになったと文鮮明先生は語られる。したがって、あらゆる宗教の儀式は、それ自体に価値があるのである。純粋な心とそれに伴う詳細な指針に従って進行される宗教儀式は、先に神様と信仰的土台を築いていった預言者たちに敬意を表する行為である。
世界各地で天に敬拝し、尊敬心を表現する多様な宗教儀式と儀礼に対して、その価値を評することはできない。ここでは、安息日のように神聖な時間を守る儀式、聖餐または神聖な食事儀式、割礼儀式、洗礼式、聖地参拝、形状と象徴に敬拝する儀式、ユダヤ教の飲食規定など、いつくかの類型の儀式を紹介している。

 

①典礼と崇拝

― 宗教経典 ―

 

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
マタイによる福音書18.20(キリスト教)131

 

諸国の民よ、こぞって主に帰せよ /栄光と力を主に帰せよ。
御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り /
聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。
詩編 96.7 ~ 9(キリスト教)132

 

私の本当の本質を如実に知ることによって、堅実に私に仕える者が本当に私を信愛する者である。あなたに私を教え悟らせてくれる象徴や性相により私を崇拝せよ。また私が最も明白に現れる、私を信愛する者たちの心情で私を崇拝せよ。……諸経典に規定された礼法と儀式を遵行するが、それらの内密な精神を忘却してはならない。
シュリーマッド・バーガヴァタム11.5(ヒンドゥー教)133

 

しかし、主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ。
ハバクク書 2.20(キリスト教)134

 

私たちに祭祀を捧げるようにさせてください。いつもそうしてきたようにすれば、私たちはいつもあった結果を得るようになります。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)135

 

すべてのイスラームの礼拝は道徳を指向する。祈りは恥ずかしく正しくな1138 第3部 人生の旅程
い行為を自制させ、慈善を施すことは富の貪欲から彼らの霊魂を浄化させ、断食は忍耐と決意の中に教訓があり、聖地巡礼は、暗闇と苦難に対する忍耐とあらゆる被造物の同等さと人間の霊魂の中にある平和の根を養成する訓練の過程である。
アル・ガザーリー 宗教諸学の再興130.1
(イスラーム)136

 

王孫賈が「『部屋の神のきげんどりより、かまどの神のきげんをとれ。』と〔いう諺〕は、どういうことです。」とたずねた。〔衛の主君よりも、権臣である自分のきげんをとれ、というなぞである。〕先生はいわれた。「〔その諺は〕まちがっています。 〔かまどの神や部屋の神よりも、最高の〕天に対して罪をおかしたなら、どこにも祈りようはないものです。」(注 47)
論語 3.13(儒教)137

 

― み言選集 ―

 

礼拝を捧げる時間は、祭祀を捧げる時間です。自分の過去を神様に報告して贖罪しなければなりません。ゆえに礼拝時間は、自由がない時間です。
(11-163、1961.6.24)

 

天軍、天使が擁護する中に歓喜の心情で敬拝を捧げるこの場が、全体の生命を勝利に導くことのできる、一つの福の機関的な祭壇になるようにしてくださいますことを切にお願い申し上げます。
(7-12、1959.7.5)

 

この場が
お父様のお心と一つになる至聖所となるようにしてください。
お父様の御心情に接し、
お父様の御事情に涙ぐみ、
お父様の願いと和して、
あなただけが主管なさることのできる聖なる場となるようにしてください。
(21-132、1968.11.17)

 

②安息日

― 宗教経典 ―

 

主はモーセに言われた。「あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。六日の間は仕事をすることができるが、七日目は、主の聖なる、最も厳かな安息日である。だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる。イスラエルの人々は安息日を守り、それを代々にわたって永遠の契約としなさい。これは、永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。主は六日の間に天地を創造し、七日目に御業をやめて憩われたからである。」(注 48)
出エジプト記 31.12 ~17(キリスト教)138

 

安息日にろうそくをともすのは、聖なる選民の女性たちに許された。……この平和の聖所(聖なるシェキナがいる所)は世を守る女性と同じであり、聖なるとも火である霊魂たちは、彼女の中にとどまる。ゆえに、家の中の女性がろうそくをともすのは当然である。そして、女性は自らを正しい所に導き、自分の真なることを完遂するからである。女性はそのことが栄光であることを知り、熱情と喜びで安息日のろうそくをともさなければならない。さらに、学びと敬虔の光を輝かせ、世の中に平和を伝播するために、成長する聖なる子供たちの母になるための資格を自ら備えなければならない。また、全力を尽くして夫の長寿のために努力しなければならない。それゆえ、この儀式を守るにおいて、慎重に慎重を期すべきである。(注 49)
ゾハール1.48b(ユダヤ教)139

 

― み言選集 ―

 

このような聖日礼拝の時間は厳粛で貴いのです。安息日は神様に栄光をお返しする日です。
(21-76、1968.10.20)

 

安息日は気楽に休み、眠る日ではありません。安息日を眠る日だと思っていますが、安息日は神様と一つになり、神様の喜びに同参し、喜びを表現することを意味します。したがって、霊界に行って神様を中心として天国を成し遂げれば、永遠の安息になるのです。神様の愛は永遠から始まったのであり、永遠に存在するので、永遠の安息になります。このような安息を失ってしまった人間なので、人間はもちろん、先生も、神様も、安息を失ってしまいました。
(20-330、1968.7.14)

 

統一教会の祝福家庭は、主日ごとに敬礼式があります。敬礼式をする日は聖日を指すのですが、聖日を中心として、私たちが聖餐という朝食を食べるのです。それは堕落することによって、アダム家庭で神様をお迎えして、そのような神聖な聖餐を分け与えてさしあげられなかった恨みを解いてさしあげるのです。それを解いてさしあげるためにそのような敬礼式とともに、祝賀する心をもって、そのような式をしていることを皆さんが知らなければなりません。
(280-289、1997.2.13)

 

③聖餐式

― 宗教経典 ―

 

すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約で
ある。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
コリントの信徒への手紙一11.23~25
(キリスト教)140

 

従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
コリントの信徒への手紙一11.27~29(キリスト教)141

 

― み言選集 ―

 

キリスト教は、イエス様の血筋です。聖餐式で、葡萄酒はイエス様の血であり、パンはイエス様の体です。血肉を連結することを意味するのです。それはイエス様の血筋を連結させるのです。イエス様の血筋を受け継いだのなら、イエス様と同じ怨讐を愛する血筋を受けたのなら、怨讐を愛さなければならないのですが、キリスト教徒たちが怨讐を愛する面がありますか。それは偽者です。
(322-262、2000.5.21)

 

聖酒式は、イエス様を中心として見れば、聖餐式と同じなのです。聖餐式では肉と血の代わりにパンを食べて、葡萄酒を飲みます。これは、私たち人間が堕落したので、イエス様の実体を中心として、新しい肉体を受肉しなければならないことを意味するのです。それと同じように、この聖酒式は、人間が堕落した経路と反対の方向にしなければならないために行うのです。
(35-210、1970.10.18)

 

④割礼

― 宗教経典 ―

 

あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。
創世記17.10 ~13(キリスト教)142

 

― み言選集 ―

 

アダムの時の血統が問題になりました。それで割礼があったのです。割礼は、男性の生殖器から血を抜くのです。アダムの時に男性の生殖器を通してサタンの血が入ってきました。それを蕩減するために切ってしまうのです。それが割礼です。
(277-264 ~ 265、1996.4.18)

 

イスラエル民族には割礼というならわしがあります。それは陽部を切って血を抜くのです。イスラエルがアブラハムの祝福圏内にいるためには、聖別をしなければなりません。そうでなければ、祝福圏内にはいられません。それによって罪が入ってきたので、その血を抜いてこそ蕩減復帰になるのです。旧約時代には、歯には歯、目には目、血には血、耳には耳という蕩減法なので、その血を抜かなければ、神様の前に帰る条件を立てることができないのです。
(54-144、1972.3.22)

 

⑤洗礼と沐浴儀式による浄化

― 宗教経典 ―

 

アーパスよ、運び去れ、わが身のいかなる過失をも、またはわが犯したる欺瞞をも、あるいはまた偽りの誓いをも。われは今日アーパスを尋ねたり。 〔しかして〕われらは〔その〕液と会合せり。アグニよ、乳を伴いて来たれ。かかるわれに栄光を賦与せよ。(注 50)
リグ・ヴェーダ 10.9.8 ~ 9(ヒンドゥー教)143

 

悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
使徒言行録 2.38(キリスト教)144

 

それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
ローマの信徒への手紙 6.3 ~11(キリスト教)145

 

― み言選集 ―

 

我々は数滴の水を頭の上から注がれ、洗礼を受けたという蕩減条件を立てることにより、イエスと聖霊によって重生したという立場を復帰することができるのである。このほかにも、聖餐式において一切れのパンと、一杯のぶどう酒をとるだけで、我々はイエスの聖体を食べたという、より大きな価値の恩恵を受けるのである。このような例は、みなこれに該当するということができる。
原理講論、後編緒論1.1

 

汚れた体を清めるのが洗礼です。割礼によって生殖器を清めたあとに、体を清めるのです。そして、それをどのように愛の道に連結するかが問題です。
(277-265、1996.4.18)

 

「聖水」は「勝数」と似ています。その「勝数」とは何で勝利したのですか。サタンの血統を水で聖別したという意味です。サタンの血を除去し、天の血統を紹介されたのです。
(215-346、1991.3.1(注 51))

 

⑥巡礼と聖地

― 宗教経典 ―

 

男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。(注 52)ただし、何も持たずに主の御前に出てはならない。あなたの神、主より受けた祝福に応じて、それぞれ、献げ物を携えなさい。
申命記16.16 ~17(キリスト教)146

 

その日、その時には、と主は言われる。イスラエルの人々が来る / ユダの人々も共に。彼らは泣きながら来て / 彼らの神、主を尋ね求める。彼らはシオンへの道を尋ね / 顔をそちらに向けて言う。「さあ、行こう」と。彼らは主に結びつき / 永遠の契約が忘れられることはない。(注 53)
エレミヤ書 50.4 ~ 5(キリスト教)147

 

われがアブラハムのために、聖なる家の位置を定めこう言ったときのことを思え、「何者も、わしと一緒に配してはならぬ、そして巡周(タワーフ)する者のため、また礼拝に立ち(クィヤーム)、立礼(ルクー)し叩頭(サジタ)する者のために、わしの家を清めよ」。
「人びとの間に巡礼(ハッジ)するよう呼びかけよ、かれらは歩いてなんじに来る、あるいは、やせたラクダで、あらゆる遠い道をそれぞれやって来る」。
「かれらにかずかずの功徳を体得させ、また定められた日の間、かれがかれらに賜わった、犠牲の家畜の上に神のみ名を唱えさせる。それからなんじらはそれを食べ、また困窮している者を養う」。
「それから、かれらの必要な儀式を終え、誓いを全うさせ、そしてむかしの聖なる家を、巡周せしめよ」。(注 54)
クルアーン 22.26 ~ 29(イスラーム)148

 

巡礼の時期は周知の数月である。それでその間に、巡礼の務めを果たそうと決心した者は、みだらなことや不道徳の行いをつつしみ、また巡礼中は論争してはならぬ。なんじらの行なう善いことは、神それを知りたもう。たびの準備をせよ。だが最もすぐれた準備は善い行いである。
クルアーン 2.197(イスラーム)149

 

たとえこの世で最もみすぼらしい人たちがここに参拝に来たとしても、私は彼らの心の中にある願いを、しかと聞いてあげるだろう。
厳島神社の神託(神道)150

 

― み言選集 ―

 

アメリカの若い人たちは、アメリカのために悲しいことに耐え、涙を耐えていけば、このアメリカは滅びないでしょう。そのような悲惨な道を行けば、今後、世界の博物館はもちろん、天の国の博物館に行くのです。自分の命が果てるときまで、公的な悲しみと涙を流して死ぬのか、安らかに生きて死ぬのか、これが問題です。いくらあの高いヒマラヤに埋めておいても、世界の人たちが押し寄せてきて泣いていくでしょう。
来るなと言っても来るのです。イエス様がゴルゴタに引かれていって死ぬときに祈祷し、神様の息子だと……。それは恐ろしいことです。それが事実かどうか分かりますか。より天のために生き、地のために生き、人類のために生き、より大きな問題をかけて自分の命を捧げたので、それが可能なのです。
(97-104 ~105、1978.3.1)

 

先生の故郷が北の定州ですから、皆さんも、定州に行ってみたいでしょう?なぜ行きたいのですか。そこに行けば、先生は話したいことがたくさんあります。私の幼かったころの逸話が数多くあります。ですから皆さんも一度行ってみたいと思うでしょう。そこに行ってみなければ、霊界に行って恥ずかしく思うでしょう。これから「統一思想」をもった人々が、イスラームのマッカ(メッカ)のように、キリスト教のエルサレムのように考えるようになるでしょう。
(34-67、1970.8.29)

 

⑦象徴、聖像、そして聖物

― 宗教経典 ―

 

あなたに私を教え悟らせてくれる象徴や性相により私を崇拝せよ。
シュリーマッド・バーガヴァタム11.5(ヒンドゥー教)151

 

このとき天照大御神は天の岩戸の時に作られた八やさかにの尺瓊勾玉と鏡、草薙の剣と……天照大御神は邇邇芸の命に「この鏡は我が御魂として、私に仕えるように仕えなさい。」と言われた。(注 55)
古事記 39.2 ~ 3(神道)152

 

それから、お亡くなりになった偉大なお心のお方(ブッダ)のそれら〔の遺骨〕を最高の水で清めて後、やがて〔次のように〕讃嘆しつつ、マッラ族の者たちは、町へ、もろもろの金の壺に入れてお運びしたのである。これ(金の壺)は大きな山の宝の鉱石のごとく、至福に満ちた偉大な〔遺骨を〕保存している。諸天における最高神(ブラフマン)の領界が劫末の火によって損なわれなかったごとく、遺骨は火によって損なわれなかった。慈愛によって修習されたこれら〔の遺骨〕は、執着の火に焼かれることとは無縁である。彼(ブッダ)に対する尊敬の力によって保持されている遺骨は、冷たいけれどもわれわれの心を焼く。
仏所行讃 27.76 ~ 78, 28.69(仏教)153

 

異なった存在の幸福に対する愛をもって、シヴァ・プジャは行われるべし、と賢者は言った。台座はシヴァの配偶者であるパルヴァティを表し、彼の男根の象徴は意識のある存在を表す。ちょうど主シヴァが常に女神パルヴァティの親密な抱擁の中に留まるように、男根の象徴は永遠に台座にしっかりと着いている。……帰依者は男根の象徴を取り付け、十六の規定された型の表敬と礼拝をもって崇拝しなけれ
ばならない。それらは祈願、座の献上、水の献上、洗足、神秘的な儀式として口を洗う為の水の献上、油槽、衣の献上、香水、水、香気、灯火、食物、光の波、キンマの葉、敬礼、そして神秘的な解放と結びである。……シヴァが恩恵を授ける所は、どこでも努力を注ぐにふさわしい。(注 56)
シヴァ・プラーナ、ヴィディエーシヴァラ・サンヒター
11.22 ~ 35(ヒンドゥー教)154

 

― み言選集 ―

 

この世界人類の中で、罪悪から生まれたすべての人類の中で、父母を愛する本当の孝子がいるなら、その孝子の中に神様を身代わりして真の父母様に孝行できる、歴史の記録を破ろうと立ち上がる、そのような天の息子、娘にならなければなりません。それで、そのような精誠を表示しようとすれば、私たちは相対が必要です。
ですから、祭壇が必要であり、祈祷する場所が必要であり、仏像が必要であり、そのようになります。一人でいれば、精誠を捧げる祭壇が必要であり、祭物が必要だということを知らなければなりません。祭物はいつもそこにあるので、祭物は置いておけば、10 年でも……。ほうっておけばじっとしています。人は逃げていきますが。人は上がったり下がったりしても、祭物はじっとしているというのです。
それで、自分に良いことがあれば、帰ってきて写真を見たり、その祭物に対して「私がこのようにして喜びの日を迎えて感謝なので、その表示として、喜びの象徴として何々を一つお父様の前に捧げます」、このようにして天の前に精誠を尽くした物、祭物の代価を捧げなければなりません。
(123-189、1983.1.1)

 

今日の仏教では、仏像に侍って福を祈っていますが、主体と対象の外的な差は本当に天地の差があるとしても、心情の世界においては差がないのです。そこで感じられる感情を通したすべてのことを、天と共に知り、信じ、対すれば、天はその心をお捨てにならずに成し遂げてくださるので、ここから所願成就という言葉が生じます。
(6-342、1959.6.28)

 

十字架をかけて歩けば、キリスト教徒であることを表示するでしょう? 父母様の写真を持っていれば、「真の父母」の息子、娘を象徴します。象徴、形象、実体になるのです。蘇生、長成、完成の蘇生圏内に入るために、保護を受けるのです。そうすれば、写真をすべて氏族的メシヤが作ってあげなけれ
ばなりません。
(212-111、1991.1.2)

 

⑧食事の礼法:食べ物を神聖に思う

― 宗教経典 ―

 

すべていとうべきものは食べてはならない。食べてよい動物は次のとおりである。牛、羊、山羊、雄鹿、かもしか、子鹿、野山羊、羚羊、大かもしか、ガゼル。その他ひづめが分かれ、完全に二つに割れており、しかも反すうする動物は食べることができる。ただし、反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの動物は食べてはならない。らくだ、野の兎、岩狸。これらは反すうするが、ひづめが分かれていないから汚れたものである。いのしし。これはひづめが分かれているが、反すうしないから汚れたものである。これらの動物の肉を食べてはならない。死骸に触れてはならない。
水中の魚類のうち、ひれ、うろこのあるものはすべて食べてよい。しかしひれやうろこのないものは、一切食べてはならない。それは汚れたものである。……
死んだ動物は一切食べてはならない。町の中にいる寄留者に与えて食べさせるか、外国人に売りなさい。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない。(注 57)
申命記14.3 ~ 21(キリスト教)155

 

人がふさわしい方法で動物を殺して肉を食べることと、動物を絞殺してその肉を食べることでは、どちらを神は心配されるだろうか。人が不浄な獣や清い獣を食べることのうち、どちらを神は心配されるだろうか。「あなたに知恵があるなら、それはあなたのもの。不遜であるなら、その咎は独りで負うのだ」(箴言 9.12)。ゆえにあなたたちは、律法の命令が、神がつくられた被造世界をきれいにするために与えられたものであることを悟りなさい。ゆえにこのような言葉がある。「神の道は完全 /主の仰せは火で練り清められている」 (サムエル下記 22.31)。(注 58)
タンフーマ、レビ記、シュミニ15b
(ユダヤ教)156

 

人びとよ、地上にあるもののうちよい合法なものを食べて、悪魔の足跡に従ってはならぬ。……かれがなんじらに禁じたもうものは、死肉・血・豚肉、ならびに神以外の名で供えられたもののみである。だが必要に迫られ、故意に違反せず、また則を越えぬ場合は罪にならぬ。神は、寛容者・慈悲者であられる。(注 59)
クルアーン 2.168、173(イスラーム)157

 

― み言選集 ―

 

私たち統一教会は、世の中のどこに行っても父母様に侍って暮らしているので、食事をするときは、必ず「先に召し上がってください!」と思いながら最初のものを差し出す心で食事をします。先生は今までそのような生活をしてきました。どこかに行って座るときも、聖別して座るのです。そのようなことを考えるとき、先生がいなかったなら、神様はどのようになるところでしたか。
(236-338、1992.11.9)

 

ここに服があれば、自分の服だと考えてはいけません。「これは神様の服であり、父母様の服であり、兄弟の服だが、私が代表して着ている」 と考えるのです。自慢することはできません。食べる物もそうです。私の御飯ではありません。神様が下さった御飯であり、父母様が下さった御飯であり、兄弟た
ちがくれた御飯だというのです。御飯をおいしく食べて、「ああ! 気分が良い」という私ではありません。先生はそのように考えます。おいしく食べたあとは、申し訳なく思い、「世界の統一教会の教会員の中には、この時間におなかをすかせている人もいるはずだ。どれほど苦労が多いだろうか。私が代
表として食べたのだから、代表として働く責任をもっと果たさなければならない」と考えるのです。先生はそのように考えるので、苦労した人が不平を言わずに有り難く思ってついてくるのです。先生に 10 年、20 年、一生ついてきても嫌に思わないのは、先生がそのような生活をしているからです。こ
のような人がすることは、失敗するかのように思いますが、必ず成功するのです。先生はたくさんの迫害を受けながらも、40 年間、歴史にないことをたくさんしてきました。
(161-231、1987.2.15)

 

私たちが食べて、着ることを中心として聖別するために聖塩を使います。神様の国がありません。この地から収穫したものを聖塩で聖別せずに食べることができる神様の息子がどこにいて、自由な版図がどこにあり、この民が互いに走って暮らせる大地を訪ねていくたびに、聖別しなくても暮らせる地がどこにありますか。皆さんが聖別儀式をするとき、聖塩を使うたびに「このサタンめ」と、これを割かなければなりません。
(48-252、1971.9.19)

 

1997 年7月7日7時7分7秒に「天地父母天宙安息圏宣布」をすれば、すべてのものが聖人の位置に入っていくのです。私たちが神様に直接侍って暮らすのです。今までは、私たちが聖日だけ聖餐を食べましたが、その宣布以降には、一日3食、すべて聖餐として食べて暮らすのです。そのような中で、す
べての万物を愛で接しながら、食べて暮らさなければなりません。それでこのような聖餐が始まるのです。毎日聖餐を食べて暮らすことによって、病気にもなりません。神様の愛の中で病気にもならないというのです。
(285-300、1997.6.29)

 

8. 儀礼を超えて

度を過ぎて宗教的儀礼にばかり依存すれば、実際の行動や知識とは掛け離れた厳粛な気運ばかりがわき上がることもある。儀礼は、敬虔な心と隣人に対する愛、神様と一対一で一つになる経験などを決して代替することはできない。ほぼすべての宗教では、宗教の内部から儀式主義に対する批判の声がある。ある宗教の創始者が、外からはほかの宗教の儀式主義を強く批判しているように見えるが、そのみ言は本質的に自分の宗教の信徒たちにそれを他山の石としなさいと警告するものである。
文鮮明先生も、度を過ぎた儀式主義に対して同一の立場を堅持され、二つの内容を付け加えて語られる。第1は、儀式がほかの宗教と信仰の間に壁をつくり出すこともあるということである。これは宗教が一つになることを願われる神様のみ旨に逆行することである。すべてが一つにならなければならないこの時代に、儀礼的障壁は超越しなければならない。第2は、神様とイエス様に対する敬虔な信仰的儀式自体が、常にその方の心情とみ旨を推し量り得る内的知恵につながるものではないということである。例えば、イエス様の死に使用された恨みの杭、この地に地上天国を成し遂げようとしていたみ旨を完成できずに旅立ったイエス様の数千年の悲しみと挫折の根源である十字架に対して、多くのキリスト教徒はそれを救援の象徴として理解し仰いでいる。
古代の宗教的儀式の中心には動物献祭があった。しかし、今日ではいくつかの事例を除外してほぼなくなっている。多くの宗教が依然として献身的信仰活
動を重視して研究し、経典に現れた古代の祭祀儀式の核心を大切にしているが、これ以上同じ形式の祭祀儀式を行うことはない。タルムードでは、隣人に対して慈悲を施すことが、贖罪の羊を通して祭物を捧げることと同じ価値をもつと教えている。釈迦牟尼は、動物献祭が生きている生命を葬ることによって悪の業報をつくり出すものだとして批判する。その代わりに父母を恭敬し、家族をいたわり、托鉢僧に布施を施しながら充足される霊的奉献の意味を教える。

 

①最善の儀礼は愛の心と義の行動

― 宗教経典 ―

 

何をもって、わたしは主の御前に出で / いと高き神にぬかずくべきか。
焼き尽くす献げ物として / 当歳の子牛をもって御前に出るべきか。
主は喜ばれるだろうか / 幾千の雄羊、幾万の油の流れを。
わが咎を償うために長子を / 自分の罪のために胎の実をささげるべきか。
人よ、何が善であり / 主が何をお前に求めておられるかは / お前に告げられている。
正義を行い、慈しみを愛し / へりくだって神と共に歩むこと、これである。
ミカ書 6.6 ~ 8(キリスト教)158

 

ヴァイシュヤの法(つとめ)である三百の器の食物を毎日三度にわたって施すとしても、わずか一刹那の慈しみから生まれる福徳に比べると、一部分にも及びません。
龍樹 宝行王正論 283(仏教)159

 

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」
マルコによる福音書 2.23 ~ 28(キリスト教)160

 

古老のいへらく、昔神祖の尊、諸神たちのみ処に巡り行でまして、駿河の国福慈の岳に到りまし、卒に日暮に遇ひて、お宿を請ひたまひき。此の時、福慈の神答へけらく、「新粟の新嘗して、家内もの忌みせり。今日の間は、願わくは許し堪へじ」とまをしき。是に、神祖の尊、恨み泣きて詈告りたまひけ
らく、「即ち汝が親ぞ。何ぞ宿さまく欲りせぬ。汝が居める山は、生涯の極み、冬も夏も雪ふり霜おきて、寒さしきり、人民登らず、飲食なまつりそ」とのりたまひき。更に、筑波の岳に登りまして、亦客止を請ひたまひき。此の時、筑波の神答へらく、「今夜は新嘗すれども、敢えへて尊旨に 奉らずはあらじ」とまをしき。ここに、飲食を設けて、敬び拝みつつしみ承りき。是に、神祖の尊、よろこびて歌ひたまひしく、

愛はしきかも我が胤たかきかも神宮天地とひとしく 日月と共ともに
人民集ひ賀飲食ゆたけく
代々に絶ゆることなく 日に日にいや栄え千秋萬歳に遊楽窮きじ

とのりたまひき。是をもちて、福慈の岳は、常に雪ふりて登臨ることを得ず。其の筑波の岳は、往集ひて歌ひ舞ひ飲み喫ふこと、今に至るまで絶えざるなり。(注 60)
常陸風土記(神道)161

 

先生がいわれた、「人として仁でなければ、礼があってもどうしようぞ。人として仁でなければ、楽
がくがあってもどうしようぞ。」
論語 3.3(儒教)162

 

多くの人々、ここにありて欲すれども水によりては清浄ならず。何人にも真実と法とだにあらば、彼は清浄なり、彼は婆羅門なり。
感興偈 6(仏教)163

 

マズダーよ、御身の穎悟者にとって吉祥なる聖アールマティを、善思を知らぬために悪行によってすて去るものども―そういうやからからは、それ(アールマティ)は、天則に従って、あたかも兇暴な害獣がわれらから逃げてゆくところまでも、はるかに逃げてゆくのです。
アヴェスター・ヤスナ 34.9(ゾロアスター教)164

 

世の中の人には、自分の心を見失っているがために、自己の本性のうちにあるものに気づかないで、外に向かって三身の仏を探し、自己の中に過去・現在・未来の三世の仏がいることに気がつかないものが多くいる。諸君、私の話をよく聞くがよい。諸君に、自分の中に、自己そのものとしての三世仏があることに気づかせよう。この三身仏は、諸君の本来の真性から出てくるもので、外からは得られないのだ。(注 61)
六祖壇経 6(仏教)165

 

愚者たちはヴェーダ聖典の言葉に喜び、他に何もないと説き、華々しい言葉を語る。
欲望を性とし、生天に専念する彼らは、行為の結果として再生をもたらし、享楽と権力をめざす多種多様な儀式についての、華々しい言葉を語る。
その言葉に心を奪われ、享楽と権力に執着する人々にとって、決定を性とする知性が三昧において形成されることはない。(注 62)
バガヴァッド・ギーター 2.42~44(ヒンドゥー教)166

 

― み言選集 ―

 

すべての宗教者は、深い自己省察の内的基台の上にしっかりと立ち、あらゆる非理が乱舞する現実に挑戦し、神様のみ旨の地上実現のために創意的な努力を果たさなければならない。生きていらっしゃる神様が願われる人間との関係は、経典や礼拝儀式の中だけの関係ではありません。信義を抱いて 24時間、生活の中でこれを実践する、自覚した心の中にいらっしゃりながら、人間と共に生活することを願われるのです。
(135-222、1985.11.16)

 

皆さんがいくらイエスの顔を穴が開くほど見つめ、いくらイエスの顔を触り、いくらイエスと一緒に歩き、いくらイエスと一緒に暮らしたとしても、心情が通じなければすべて意味がありません。心情を通して触れあい、心情を通して一緒に暮らさなければならないのです。
(10-200、1960.10.2)

 

天を仰ぐ人は多いのですが、
天のために責任を負おうという人は
多くはありません。
天の道がよいということは
知っていますが、
その道に横たわっている茨の道を
避けようとする人々が
多いということを知るものです。

お父様!
あなたは私たちのために
億千万代御苦労なさいました。
ところが、今日人間たちは天の道、
真なる道を行くために越えていくべき
苦労の道を避けていこうとし、
人間の悲しみと苦痛も
お父様の前に
任せようとしていますので、
受け入れてくださいますことを
懇切にお願い申し上げます。
(16-15、1965.12.26)

 

②時代の変化によって慣習的礼式は純粋な献身の形態に代替される

― 宗教経典 ―

 

ある日、ラビ・ヨハナン・ベン・ジャカイがエルサレムから来たとき、ラビ・ヨシュアが彼についていき、崩れた聖殿を見た。「悲しいことだ」、ラビ・ヨシュアは泣き叫んだ。「イスラエルが罪を赦された所が、ごみの上に置かれている!」「私の子よ」、ラビ・ヨハナンが言った。「悲しむな。聖殿のように私たちの罪を赦してくれる他のものがある。それは何か。慈愛を施す行為だ。 『わたしが喜ぶのは / 愛であっていけにえではなく / 神を知ることであって / 焼き尽くす献げ物ではない』 (ホセア書 6.6)」。
タルムード、アヴォート・デ・ラビ・ナタン 6
(ユダヤ教)167

 

ある時世尊は舎衛城の祇多林の中の給孤獨の園に住したまひき、その時ウッガタサリーラ婆羅門の大供犠が献ぜられたり、五百の牛、五百の牡犢、羊、山羊が犠牲に供せられたり。その時ウッガタサリーラ婆羅門は世尊の在す処に詣り、詣り終りて世尊と倶に互いに相慶慰し、歓ばしき銘肝すべき談を交し
已りて一辺に坐せり、……世尊に白して言さく、
「尊ゴータマよ、我聞けり、火を点じ、柱を建つることは大なる果を持ち、大いに称賛すべきことなり、大徳世尊よ、我に教示し給へ、教え給へ、即ち長き
間此の我の義利の為、楽の為に、と」
「婆羅門よ、火を点じ、柱を建てしめつつ、供犠の前に不善にして苦を生じ、苦を異熟とする三刀を建てしむ、何をか三となす。
身刀、語刀、意刀なり、婆羅門よ、供犠の前に火を点じ柱を建てしめつつ是の如き心を起す、供犠の為に是程の牡牛、牡子牛、牡羊、牡山羊を殺せ、と彼は我は功徳を作す、とて不功徳を作し、我は善を作す、とて不善を作す、我は善趣の道を求む、とて悪趣の道を求む、此の第一の不善にして苦を生じ、苦を異熟とする意刀を建たしむ。復婆羅門よ、供犠の前に……牡牛、牡子牛、牡羊、牡山羊を殺せ、と彼は我は功徳を作す、とて……不善を作す、此の第二の不善にして苦を生じ、苦を異熟とする語刀を建たしむ。復婆羅門よ、供犠の前に火を点じ柱を建てしめつつ自ら第一に始む、供犠の為に……此の第三の不善にして苦を生じ、苦を異熟とする身刀を立てしむ。
婆羅門よ、是等の三火は尊敬し已り、尊重し已り、恭敬し已り、供養し已りて正しく容易に断たるべし、何をか三となす。
應請火、長者火、應施火なり、婆羅門よ、何をか應請火となす。ここに彼に母たり、或は父たる人あり、是が應請火と云はる、何故なるか。それよりこの請待が生じてあり、その故に此の應請火は、尊敬し已り、尊重し已り、恭敬し已り、供養し已りて正しく容易に断たるべし。
又婆羅門よ、何をか長者火となす。ここに彼に息子たり、或は妻たり、或は奴僕たり、或は遣使たり、或は召使たるものあり、是が長者火と云はる、その故にこの長者火は尊敬し已り……。
又婆羅門よ、何をか應施火となす。ここに凡て沙門婆羅門が憍放逸を離れ忍辱と柔和に於て堅固にして獨り自ら調御し、獨り自ら寂静ならしめ獨り自ら般涅槃せしむ、是が應施火と云はる……婆羅門よ、是等三火は尊敬し已り、尊重し已り、恭敬し已り、供養し已りて正しく容易に断たるべし。(注 63)
阿含経増支部 iv.41~ 45(仏教)168

 

イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの焼き尽くす献げ物の肉を、いけにえの肉に加えて食べるがよい。わたしはお前たちの先祖をエジプトの地から導き出したとき、わたしは焼き尽くす献げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない。むしろ、わたしは次のことを彼らに命じた。「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る。」しかし、彼らは聞き従わず、耳を傾けず、彼らのかたくなで悪い心のたくらみに従って歩み、わたしに背を向け、顔を向けなかった。(注 64)
エレミヤ書 7.21~ 24(キリスト教)169

 

「至るところでわが名のために香がたかれ、清い献げ物がささげられている」(マラキ書 1.11)。「『至るところで』、この言葉は可能なのか」、ラビ・ヨナダンの名でラビ・サムエル・ベン・ナマイが言った。「この言葉はどこにいようと、トーラーの研究に自らを没頭させる学者たちに言及したことである。神は言われる。『私はそれを彼らが私の名で祭物を捧げているものと見なす』……」。
「主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。夜ごと、主の家にとどまる人々よ / 聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ」(詩編 134.1~ 2)。「『夜ごと、主の家にとどまる人々よ』という言葉の意味は何で
すか」、ラビ・ヨハナンが言った。「この言葉は夜通し律法を研究することに自分を捧げる学者たちに言及したものである。聖書はそれを彼らが聖殿の奉献に従事するものと見なす」。(注 65)
タルムード、ムナホート110a
(ユダヤ教)170

 

キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたので
す。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさ
せないでしょうか。
すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。聖霊もまた、わたしたちに次のように証ししておられます。「『それらの日の後、わたしが /彼らと結ぶ契約はこれである』と、/ 主は言われる。『わたしの律法を彼らの心に置き、/ 彼らの思いにそれを書きつけよう。もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。
ヘブライ人への手紙 9.11~14、10.11~18
(キリスト教)171

 

偉大な五つの供物、すなわち偉大な祭祀が存在する。すべての存在に対する供物、人間に対する供物、先祖に対する供物、神々に対する供物、ブラフマンに対する供物である。日々、人は生き物に栄養を与える。それは存在に対する供物である。日々、人は一杯の水を与えるなど、客人をもてなす。それは人間に対する供物である。日々、人は一杯の水を与えるなど、死者を供養する。それは先祖に対する供物である。日々、人は木や火などを神々に捧げる。それは神々に対する供物である。それではブラフマンに対する供物とは? ブラフマンに対する供物とは、聖典の学習である。(注 66)
シャタパタ・ブラーフマナ 11.5.6.1~ 3
(ヒンドゥー教)172

 

― み言選集 ―

 

罪を犯せば、罪を犯した量に該当する分だけ洗わなければなりません。漂白しなければならないというのです。ですから、漂白する苦労、漂白する材料、これは絶対に必要です。蕩減条件物が必要だというのです。今まで救援摂理を知りませんでした。祭物とは何かというと蕩減条件物です。今までそれを知りませんでした。ですから、未開な人たちが人を捕まえて祭物にしたり、動物祭物や、あらゆることをしたのです。堕落以降、神様の愛の中で保護を受けて暮らすことができ、その愛の中で神様と共に同化して暮らすことができるこの世界のすべてのものが血を流さなければなりません。血を流さなければならないというのです。なぜ血なのかというと、偽りの生命、偽りの愛、偽りの血統が生じたということ
です。血が汚されたのですから、血を抜かなければなりません。
(374-21、2002.4.4)

 

人間始祖が堕落して、「信仰基台」を立てるための神のみ言を失ったので、堕落人間は、神のみ言を直接に受けることができなくなった。そのため、み言の代わりの条件として立てられたのが、その供え物なのである。ところがモーセのときに至ると、供え物を条件物として立てて「信仰基台」を復帰した、復帰基台摂理時代は過ぎさり、再び神のみ言に直接に対し得る、復帰摂理時代となったため、 「信仰基台」のための「象徴献祭」は、必要ではなくなるのである。
原理講論、モーセとイエスを中心とする復帰摂理 2.1.1.2(注 67)

 

宗教を統一しなければなりません。キリスト教は、教派が多いことが問題です。教派をすべて燃やしてしまわなければなりません。看板を外してしまい、キリスト教の十字架をすべて外してしまわなければならないのです。その運動が起きなければなりません。
(399-100 ~101、2002.12.21)