世界経典Ⅱ 第3部 人生の旅程 第18章 謙遜と自己否定

第18章 謙遜と自己否定
1. 謙遜
謙遜な姿勢は、天と親しく交わるための必須要件である。どんな理由でも、卓越した知性、富、高い地位、そして称賛などによる慢心は、求道者の道を遮る障害物になるだけである。真の謙遜は、絶えず自身を否定することだ。これは自分を批判して、不平なく苦難を勝ち抜き、自身の立場と違っても天の導きに従う姿勢である。
謙遜は、真実と正直を要求する。それで謙遜な人を子供に比喩したりもする。子供の純粋な反応と人生の受容態度は、しばしば仮面をかぶり、怨恨と偏見で生きていく複雑な大人たちの性質とは、反対である。ある経典には、一つの息遣い、ひとつかみの土、虫の餌にすぎない人間がどれほど脆弱で無常な存在かを深く瞑想し、特に謙遜、美徳を養え、と教えている。
ここにまた、異なる逆説がある。謙遜で低くなろうとする者が驕慢で高くあろうとする者より、さらに尊敬を受けて繁栄するということだ。サタンのあらゆる攻撃を受けたが、結局、謙遜で低い場で勝利したイエス様の事例がそれである。善と悪の関係は、謙遜と驕慢の関係と同じだ。文鮮明先生は、謙遜はエデンの園の生活の原則であり、神様と一致する徳性であり、反面、驕慢はサタンの陣営に定着させるものだと言われる。文先生はまた、他の引用章句―上りと下りの自然循環過程―を例示して、驕慢で頂上に上れば下り坂しかないが、謙遜で下に下りていけば登り坂の道しかないと言われる。
①温柔な者は福がある
― 宗教経典 ―
信者たちは、確かに勝利をかちとる。かれらは、礼拝に敬謙なものであり、むなしいあらゆることを避る者、慈善「ザカート」のために励む者、恥ずかしいところを守る者、
クルアーン 23.1~ 5(イスラーム)1
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
マタイによる福音書 5.5(キリスト教)2
もしあなたが助けを得ようと思えば自尊心を捨てよ。髪の毛一本ほどの自尊心でもあなたを遮る、ちょうど大きな雨雲に覆われるように。
春日神社の神託(神道)3
「人に対して高慢におまえの頬をそむけてはならない、また横柄に地上を歩いてはならぬ。まことに神は、うぬぼれの強い威張る者をめでたまわぬ」。「歩きぶりを穏やかにし、おまえの声を低うせよ。まことに声の最もいとわしいのは、ロバの声である」。
クルアーン 31.18 ~19
(イスラーム)4
これらはすべて、わたしの手が造り /これらはすべて、それゆえに存在すると/主は言われる。わたしが顧みるのは / 苦しむ人、霊の砕かれた人 /わたしの言葉におののく人。
イザヤ書 66.2(キリスト教)5
今のこの流浪の時には、聖殿崩壊前よりも聖霊が私たちをよく訪ねてこられる。ある一人の王がいた。彼は権力の座から追われ放浪者として追い出された。流浪してさまよい、彼はある貧しい者の家に行った。そこで王は平民たちの食べ物と居所を提供された。しかし、その接待は依然として王の立場で受けたものだった。徐々に彼は心が軽くなり、朝廷で家臣たちと談笑するように、家の主人と親しく対話をするようになった。今私たちのように流浪される神も、私たちに彼と同じようにしていらっしゃる。(注1)
メジリッチのドーヴ・ベーア(ユダヤ教)6
慢心や偽善のないこと。不殺生、忍耐、廉直。師匠に対する奉仕、清浄、堅い決意、自己抑制。感官の対象に対する離欲。我執のないこと。生老病死の害悪を考察すること。
バガヴァッド・ギーター 13.7 ~ 8
(ヒンドゥー教)7
すべての人類はアダムの子孫であり、アダムは土から創造された。
ティルミズィー・ハディース(イスラーム)8
この上なく哀れな霊魂をもつ者の最後は、虫けらと同じような境遇になる。
ミシュナ、アヴォート4.4(ユダヤ教)9
主よ、人間とは何ものなのでしょう /あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう / あなたが思いやってくださるとは。人間は息にも似たもの / 彼の日々は消え去る影。
詩編144.3 ~ 4(キリスト教)10
次の三つを振り返ってみよ、そうすれば罪を犯すことはないだろう。あなたがどこから来て、どこに向かっているのか、未来において誰の前で審判を受けるのか、このことである。お前は過去に悪臭の漂う雨水から来たのであり、今は虫けらやうじが蠢く所に向かっていて、未来には王の王、聖なる方の前で審判を受けるのである。
ミシュナ、アヴォート3.1(ユダヤ教)11
預言者が言った。「天国の居住者たちがどれほど謙遜で柔和かを、私はあなたたちに教えなかったか。彼らが信仰を誓うとき、神が彼らの誓いを受け入れる。地獄の居住者たちがどれほど残忍で力が強く、傲慢な者かということを、私はあなたたちに教えなかったか」。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)12
神は謙虚な人たちを保護され、解放してくださる。神が愛し慰労してくださる人たちも彼らである。彼らに神は御自身の栄光を与えてくださる。困窮があったあとには栄光の上に引き上げてくださるだろう。また彼らに御自身の秘密を表され、親切に彼らを御自身のところに導かれる。謙虚な人たちは、多くの苦難の中でも平和を享受する人たちだ。この人たちには、世の中ではなく、神に対する信仰があるからである。したがって、自分が不足な存在であることを悟るまでは、何の発展も成し遂げたと言うことはできない。
トマス・ア・ケンピス キリストにならいて1.2
(キリスト教)13
― み言選集 ―
神様の愛は、このような温柔、謙遜、断食、犠牲、殉教の土台の上に臨むのです。
(282-228、1997.3.26)
高次的な宗教であるほど、自らを強調しません。高次的な宗教であるほど、温柔、謙遜を強調するのです。さらには、犠牲、奉仕を強調するのです。それは、なぜそのようにしなければならないのですか。本郷の地の法則がそうだからです。人間は本郷の地を求めていく旅人のような立場なので、本郷に行って暮らすその法度に適合するように訓練させるため、高次的な宗教であるほど、犠牲になりなさいと、このような教訓を教えるのです。
(77-190、1975.4.6)
サタンの本質は、驕慢と血気です。このような性質で世の中の人々に対するサタンでしたが、イエス様は温柔と謙遜で、世の中の人々の前に現れたのです。また、厳然と天理法度があることを知っているサタンなので、最後にはイエス・キリストを認めるようになりました。いわば、温柔と謙遜を掲げていけば、サタン世界も自然に屈服するというのです。このような原則を御存じのイエス様は、サタンができない温柔、謙遜の立場を取ったのです。このように、温柔と謙遜の立場に立ってこそ、中心を通して役事される神様のもとに行ける新しい道を開拓できることを、皆さんは知らなければなりません。
皆さんは、自らをイエス様が教えてくださった温柔と謙遜、従順と服従、犠牲と奉仕に照らしてみて、その教えを自分の生活圏内で実践できていないと思えば、いまだにサタンの一族であることを悟らなければなりません。
(3-187、1957.10.27)
天の国の生命録を 1 度点検してみると、どのような人が記録されているのかというと、愚かな人たちが記録されていたというのです。
(107-21、1980.2.21)
本来、エデンの園は、争いのある世界ではありません。争って自分を高める世界ではなく、謙遜と愛の宿る世界でした。
(98-31、1978.4.8)
個人主義がどこにありますか。自分の中で、自分だけを主張する部分は一つもありません。子女が父母様の愛によって、お母さんのおなかの中、卵子から育って生まれる時、99.999 パーセントはお母さんの骨と血、肉なのです。そして、0.001 パーセントお父さんの精子一つが合わさって生まれるのです。
そこには、自分という概念はあり得ないのです。生まれる時は誰でも、自分だけという概念はなかったのです。
(299-119、1999.2.7)
堕落は、悪が先に出発して上がっていったことなので、悪を引き下ろして善を引き上げる作戦をしなければなりません。この作戦をするときは、どのようにしなければならないでしょうか。それを知らなければなりません。まず、驕慢を取り除かなければなりません。堕落は、神様を押しのけて、自分が高
いところに行こうとしたことからなされました。サタンの本性が、そこから出発したのです。自分だけが高いところに行こうとすること、環境がどうであれ、秩序がどうであれ、法度を無視してしまい、自分ばかりを主張するのが驕慢です。そこには義理もなく、法度もありません。
法度に従って法のとおりに生きる人を、何と言いますか。驕慢だと言いますか。そのように生きる人を、正直な人だと言います。正直とは、正しいの「正」とまっすぐの「直」です。正しくてまっすぐだ、ということです。法というのは何ですか。まっすぐなものを立てることです。それでは、善と悪は
何によって分けるのですか。法で分けるのです。驕慢は、法度を無視します。法度を無視し、位置と環境を無視して行動することをくじいておかなければなりません。驕慢を除去して、謙遜をもたなければならないのです。
(37-129、1970.12.23)
高いところに上がっていっては、心と体が一つになれる道はありません。踏まれなければなりません。先生も高くならないように、神様が今まで 40 年間足で踏み続けてきたのです。踏み続けるので、高まろうとするものが打ちのめされて、一つになるのです。三千里半島を歩き回ったあの昔のキム・サッ
カのように、非難され、踏まれ、冷遇されながら歩まなければならないのです。そうしながらも、それをすべて喜んで消化できる自分自身を発見しなければなりません。
(144-255、1986.4.25)
私は、一度も福を下さいと祈祷したことがありません。「神様、私にお金を下さい」、そのように祈りませんでした。苦労が足りないと、もっと苦労しなければならないと考えたのです。ですから、神様がそれを喜ぶのです。
(102-314、1979.1.21)
②幼子のように純真で謙遜な心
― 宗教経典 ―
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(注 2)
マタイによる福音書18.1~ 3(キリスト教)14
生まれながらの人は神の敵であり、アダムの堕落以来そうであって、今後もそうである。また人は、聖なる御霊の勧めに従い、主なるキリストの贖罪により、生まれながらの人を捨てて聖徒となり、子供のように従順で、柔和で、謙遜で、忍耐強く、愛にあふれた者となり、子供が父に従うように、主がその人に負わせるのがふさわしいとされるすべてのことに喜んで従わないかぎり、とこしえにいつまでも神の敵となるであろう。
モルモン経、モーサヤ書 3.19
(末日聖徒イエス・キリスト教会)15
孟子がいわれた。「大徳の人といわれるほどの人物は、いつでも赤子のような純真な心を失わずに持っているものだ。」
孟子 IV.B.12(儒教)16
世の中に 太かるべきは 宮はしら細かるべきは 心なりけり
荒木田守武 世中百首(神道)17
― み言選集 ―
この世界で神様が役事するとき、どのような人を選ぶでしょうか。優秀な人たちは世界を動かそうという欲心をもち、世界を中心としてひっきりなしに飛び回っているにもかかわらず、彼らを選びませんでした。愚かな人、一番の落伍者を選ぶのです。上ではなく、下だというのです。下も一番下です。それしか道がないのです。
(102-300 ~ 301、1979.1.21)
イエスが「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました」 (マタイ11・25)と言われたのは、当時のユダヤ教界の指導者層の霊的な無知を嘆かれたと同時に、無知ではありながらも、幼な子のごとく純真な信徒たちに天のことを教示してくださった恩恵に対する感謝のみ言であった。そのときと同時性の時代に当たる今日の韓国教界においても、それと同じ事実が、より高次的なものとして反復されているのである。神は、幼な子のような平信徒たちを通じて、終末に関する天の摂理の新しい事実を、多く啓示によって知らせておられるのである。しかし、彼らがその内容を発表すれば、教職者たちによって異端と見なされ追放されるのでそのことに関しては、一切発表をせずに秘密にしているのが、今日の韓国キリスト教界の実情である。
あたかもかつての祭司長や律法学者たちがそうであったように、今日の多くのキリスト教指導者たちは、聖書の文字を解く知識のみを誇り、多くの信者たちから仰がれることを好み、その職権の行使に満足するだけで、終末に対する神の摂理に関しては、全く知らないままでいるのである。このような痛ましい事実がまたとあろうか。
原理講論、再臨論 3.3.4
この世に染まった
一切の意識や主義や観念を
お父様のみ前に差し出し、
幼子のような心、
温柔で謙遜なる心を
もつようにしてください。
お父様がお造りになったとおりに、
再び造られ得る謙遜なる心を備え、
お父様のみ前に捧げようと思いますので、
お受け取りください。
三位神が運行してください。
(7-12、1959.7.5)
お父様!
ここに集まったあなたの子女たちを
重ねて記憶してください。
千態万象の事情を抱いてきた
この者たちが、
その事情を全部打ち明ければ、
お父様が動じずにいられないことを
知っていますので、
すべてを打ち明け、
飢えた幼子が
お母さんの乳を欽慕するように、
恋しがるように、
お父様を慕う心を
もつようにしてください。
(20-11、1968.3.31)
③自分は低い位置に、人は高い位置に
― 宗教経典 ―
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
フィリピの信徒への手紙 2.3 ~ 4(キリスト教)18
自ら善だと言う者は誰もが知るべし、善があなたを避けていくことを。自らすべての人の足の指のあかにも劣ると考える人は、ナナークが言うには、実に清浄なるものを得るだろう。
アーディ・グラント、ガウリー・スクマニー
M.5、p.278(シク教)19
先生がいわれた、「人が自分を知ってくれないことを気にかけないで、自分に才能のないことを気にかけることだ。」
論語 14.32(儒教)20
二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
ルカによる福音書18.10 ~14(キリスト教)21
自分を見せびらかさないから、おのずからはっきりと見られ、
自分を主張しないから、きわだって見える。
信用を求めないから、信用をうけ、
うぬぼれないから、最高のものとなる。
争うことをしないから、天下の人で争えるものはない。
「曲がっているものは完全に残る」という昔のことばは真実で、
実際、人は完全でいることができるのである。
道徳経 22(道教)22
積極的なことを知りつつ、消極的なところにとどまるのは、天下の深い谷間のようなものである。天下の深い谷間であれば、本当の「徳」は離れることがなく、赤子のままおかれる。白を知りつつ、黒にとどまるのは、天下の模範となる。天下の模範であれば、十分に変わることのない「徳」は原初の非区別の状態にとどまる。原初の非区別が区別されるとき、ものごとが生み出される。賢人が原初の区別を使えば、人々の指導者となる。だから、偉大な統治をするものは非区別である。(注 3)
道徳経 28(道教)23
北のはての暗い海にすんでいる魚がいる。その名を鯤という。鯤の大きさは、幾千里ともはかり知ることはできない。やがて化身して鳥となり、その名を鵬という。鵬の背のひろさは、幾千里あるのかはかり知られぬほどである。ひとたび、ふるいたって羽ばたけば、その翼は天空にたれこめる雲と区別がつかないほどである。この鳥は、やがて大海が嵐にわきかえるとみるや、南のはての暗い海をさして移ろうとする。……
蜩と小鳩とは、この大鵬のありさまを見て、あざわらっていう。「われわれは勢いよく飛びたち、楡や枋の木をめがけて突進しても、ときにはとどかず、地面にたたきつけられることがある。それなのに、九万里の空にのぼり、南をさしてゆくとは、とほうもないことではないか」……
ここにこそ、小さいものと、大きいものとの分かれめがある。だから、せいぜい一官職を修める知能しかもちあわせず、たかだか一地方の人びとに親しまれる程度の行ないしかなく、わずかひとりの君主に認められる程度の徳をそなえて、一国の臣下として召されるようなものが、得得としてうぬぼれているのは、この斥にも似たものであろう。
荘子1(道教)24
― み言選集 ―
善が、悪の発動するときに静かにしているのは、善が悪と共に行動することができないためである。悪が過ぎたあとに現れるのである。
御旨の道、善と悪
自分が低いところにいて、すべてを高いところに置こうとすれば、引っ掛かるところがありません。
(230-35、1992.4.15)
人間が傲慢になって自分自身を高い位置に置いたとき、悪が出発しました。傲慢の反対は謙遜です。謙遜になることが最初の問題です。私たちは、サタンが喜ぶ立場と反対の立場に立たなければなりません。そうでなければ、私たちは何の成功もできません。傲慢になる代わりに、私たちは私たち自身を
犠牲の位置に立て、私たちの生命までも犠牲にしながら活動しなければなりません。
(52-302、1972.1.9)
自分を弁明しようとする者は、天国に入れません。絶対的な信仰というものは、自分を弁明する立場ではないのです。弁明される立場になるべきです。そこには一言半句、何かを提示する内容もありません。弁明される立場です。うまくやっても、「うまくやった」と言える立場ではありません。自分が 100パーセント認め得るものだとしても、神様が見るときは1です。自分が 100と認めるものが、神様には 1 なのです。ですから、天国は自分を中心として提示する立場では、訪ねていくことはできないのです。
天国は、どこから始まるでしょうか。絶対的な信仰を起点として出発するのです。絶対的な信仰というものは、自分を主張できるものではありません。その立場は、自分を絶対否定する立場です。自分を絶対的に否定する立場に立たずには、絶対的な信仰が出てくることはできません。皆さんが、世の中の万事を肯定しながら信仰の道を行くときには、絶対的な信仰が出てきません。
このような根本問題について、今日大部分の人を見てみれば、一日の生活圏内で、朝に起きて御飯を食べてする習慣的な生活をしながらも、「私は神様に対して堂々としている」と言います。そのように信じる人がたくさんいます。そのような人たちは、天国を所有することはできません。堂々とすることが
できないのです。自分を公認する相対的な要因がなくては、絶対的信仰基準ももてないのです。絶対的な信仰基準ももてなかったのに、絶対的な信仰基準を克服したのちにこそ成される天国が成就され得ますか。とんでもないことです。なぜそうなのでしょうか。その立場には、サタンがとどまっているためです。
(46-79 ~ 80、1971.7.25)
神様をしっかりつかみ、神様の協助を受けて誇ろうというのならよいのです。それは、神様を前に立てることです。そのようにせず、「私が誇ろう」というのは、神様の前にすべて壊れていくのです。
(341-11、2000.12.29)
神様は、どのような方ですか。「あなたたちは私を愛しなさい! 私のために犠牲になりなさい!」という神様ならば、どうなりますか。それは神様ではありません。神様が皆さんを通して伝統を立てるためには、御自身がまず赤ん坊のおしめを取り替え、父母の下の世話をして、先に犠牲と奉仕をしながら温柔、謙遜の教育教材になり、センターにならなければなりません。
(116-68、1981.12.20)
すべての生涯を犠牲にしたとしても、そこで不足なことを悟り、もっとやらなければならないと自ら自分を責め立てながら「行こう」という人たちが、結局、最後まで残るというのです。み旨に背いて離れていった人と、その次には中間的な立場、今も世の中と隔離されず、そのまま世の中の人と同じように中間の立場でふらふらする人と、その次には、み旨のために生きるという立場で、自分を中心として少しでもやれば、それを誇ろうとする人と、その次には、あらゆることをみ旨の立場で行い、自分自身を顧みず、自分を犠牲にしながらも不足なことを感じる人、このような 4 種類の人を見るとき、残る人は最後の人です。
(89-232、1976.12.1)
アメリカがどうなのか分かりますか。そのようなアメリカ国民の前に、皆さんが西側にいれば東側が必要であり、南側にいれば北側が必要だということをどのように教えてあげるのですか。それは、統一教会のレバレンド・ムーンが教えなければなりません。それで、レバレンド・ムーンが何をしようというのですか。アメリカという国は、歴史的結果として出てきたものなので、歴史的原因に接触できる道を求めるために戻らなければなりません。ここまで行かなければならないのです。神様を再発見しなければならないということです。
それでは、この西側でアメリカが一番大きいのですが、この大きなアメリ
カがもっと大きくなりながら戻りますか、小さくなりながら戻りますか。これが問題です。小さくなりながら戻らなければなりません。驕慢な人は、なぜ謙遜を学ばなければならないのですか。原因に戻るためです。あまりに謙遜すぎてもいけません。自身を主張しなければなりません。謙遜ばかりしていても駄目なのです。強く前進しなさい! それが何ですか。結果に向かっていきなさいということです。これが上がっていけば下りていかなければならず、下りていけば上がっていかなければなりません。これを上がっていこうとすれば、高くならなければならないのです。高くなってこそ、上がっていくというのです。
(117-93、1982.2.14)
2. ほかの頬まで差し出しなさい
イエス様は、片方の頬を打たれたら、もう片方も向けてあげなさいとおっしゃる。これは、侮辱と非難を何の不平もなく耐え抜いて、復讐心までぬぐい去りなさいという教えだ。死までも甘受しなさいという無抵抗の教えは、自己主管において途方もない意味を帯びている。悪党に同じ方法で応じるとき、悪党は、また私たちを攻撃して支配することもできる。攻撃者に対する憎悪心は、ただ被害者の復讐心ばかりを増幅させるだけだ。そのようにすれば、霊的エネルギーと自分の均衡を喪失してしまう。しかし、反対者の侮辱と非難に対して自身の好意をひたすら返して精神を集中すれば、怨讐の憎悪心も消化して、霊的独立心と主体性を固守することができる。侮辱を受けても、自身の霊的主体性を固守する時、初めて怨讐まで愛せる霊的エネルギーが噴出するのだ。
ある人たちは、どのように非抵抗の倫理が正義と和解できるのかに対して、疑問を提起する。世界経典では、神様は、もう片方の頬まで向ける群れのほうに立てと明示する。文鮮明先生は、イエス様の十字架の代償を例に挙げ、最も残忍な苦難と死に処した一人の人の屈服が、どうして歴史上、途方もない勝利をもたらすことができたのかについて語られる。それとともに神様は、やはり数多くの侮辱に遭う時、もう片方の頬までお向けになる方だといわれる。人間の場合と少しも違わない。神様は、いかなる屈辱に直面しても自身の絶対性を堅持して、自身を裏切った天使長まで愛する方だ。神様も普遍的正義を追求される。しかし、その方法は、ひたすら真の愛の原則を通してサタンを自然屈服させるのだ。
― 宗教経典 ―
あなたがたも聞いているとおり、「目には目を、歯には歯を」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行く
ように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。(注 4)
マタイによる福音書 5.38 ~ 41(キリスト教)25
たとえあなたを殴る者でも、仕返ししようとしてはならない。ただ彼の足に接吻せよ。
アーディ・グラント、スローク、ファリード、p.1378
(シク教)26
復讐する心で人を侮辱するよりは、侮辱される人、何の口答えもせず非難を聞く人、主の愛の力で善のことを行い、苦難の中でも喜びをもつ人は……「自らの力で世を照らす太陽」のようである。
タルムード、ヨーマ 23a(ユダヤ教)27
比丘たちよ、他の人たちがわたしを誹謗し、あるいは法を誹謗し、あるいは僧団を誹謗して、あなたたちがそれに対して怒り、あるいは快く思わないなら、それはあなたたちの障害となるであろう。
阿含経長部 i.3、梵網経(仏教)28
傷つけることも、仕返しすることも、あってはならない。
ナワウィー 40 のハディース 32(イスラーム)29
勝利者からは怨みが起る。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。
法句経 201(仏教)30
罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、―かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
法句経 399(仏教)31
神より自分が聞いた侮辱によく耐える者はいない。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース
(イスラーム)32
ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
ペトロの手紙二 3.9(キリスト教)33
比丘たちよ、もしも卑しい盗賊たちが両側に柄のある鋸で手足を切断しようとするとき、それについて心を怒らすならば、かれはそのことにより、わが教えの実践者になりません。比丘たちよ、それについてまた、次のように学ぶべきです。〈われわれはけっして心が変わらないようにしよう。また、悪しき言葉を発しないようにしよう。また、怒りをもたず、憐れみをもって、慈心をそなえて住むことにしよう。その人を、慈しみとともなる心で満たして住むことにしよう。また。一切の世界をその対象として、慈しみとともなる、広大な、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心で満たして住むことにしよう〉と。比丘たちよ、そなたたちはこの〈鋸の譬〉の教誡をつねに心に置くべきです。比丘たちよ、そなたたちは、そなたたちが耐えることのできない、微細な、あるいは粗大な言葉の道を見ていますか。
阿含経中部 i.129(仏教)34
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 (注5)
ローマの信徒への手紙12.19 ~ 20
(キリスト教)35
釈尊は説いていわれる。悪人があり、他の者がなしたその善を聞いて嫉妬し、わざとその者の所にやって来て、罵り謗ったりすることがあっても、汝は自分の心の腹立ち動くことを抑え、相手を怒り責めたりすることがあってはならない。この方から相手を懲らさなくても、相手の方からやって来て、自分のなした行為に対して気付き、自からに、自からの行為を悪むに至るからである、と。
四十二章経 6(仏教)36
私たちを最も苦しめる彼らに、このように言いたいと思います。「あなたに苦痛を加える能力があるなら、私たちは彼と対等な忍耐の能力で立ち向かいます。肉的な力で追い込んでくれば、霊的な力で立ち向かいます。願うとおりにしてください。しかし、私たちはいつでもあなたを愛するでしょう。……監獄に送っても、変わることなく愛します。真夜中に、村に覆面を被った強盗を送り、私たちを半死状態にしていったとしても、変わらずにあなたを愛します。……あなたの心と良心に訴え、結局は私たちが勝利するでしょう。そうすれば、その勝利は2倍の価値をもつ勝利になることでしょう」。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
愛の力(キリスト教)37
― み言選集 ―
幼い二人の少年がけんかするのを見ると、怒りを抑え、一発で片付けてしまいたいと思っても、そのような気分をすべて包容する心で思いとどまる側がいます。きょうで終わるのではなく、あすは友人になり得ることを知っているので、譲歩してあげます。そのようにしたとき、神様やあるいは横にいる人が、誰がより善かを判断するとき、寛容で赦し、包容した人が善の人だと言うのです。
(100-84、1978.10.8)
過去の歴史的な偉人たち、聖人たちの中に、その時代に迫害を受けなかった人がいますか。そのように、歴史過程で反対を受けるようになるとき、私が正しいと弁明した人たちは、聖人の部類に入れません。
イエス様は、歴史とともにそのような非難を受けて恨を抱きましたが、口を閉じたまま黙って逝きました。しかし、歴史時代の勝利者として再び登場したのは、なぜでしょうか。悪と戦わなかったからです。
(80-34、1975.10.4)
イエス様が、「あなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」と言ったのは、完全に与えるためには右の頬を打たれながら左の頬まで向けなさいということです。そのようにするときに戻ってくるのです。完全に与えれば、戻ってきます。天理の原則がそうです。イエス様が十字架上でまでも福を祈って死んでいくことができたのも、完全に投入し、完全に与えていこうという思いがあったからです。怨讐の国までも振り返らせることができると知っていたからです。その結果、あとでローマ帝国までキリスト教の王国になりました。方向を歴史的にひっくり返しておくことができなければ、神様のみ旨は成し遂げられません。
(69-88、1973.10.20)
打って3回勝利した人でも、10 回譲歩する人には屈服してしまいます。イエス様もそのような道理を守ってきたのです。今日の世の中でもそうではないですか。善の人は自分を犠牲にしようとします。拳をよく使う人が善の人ではありません。たたかれても愛で受け入れようとし、そのまま通り過ぎて、その家庭までも犠牲にする人が善の人です。
それはなぜでしょうか。神様がそうだからです。宇宙の中心となるその方がそのようにしていくことによって、善の標準がそのようになったのです。そのような道を通して善の世界に行くので、その道に従っていく宗教者たちは、宗教自体、信じる人自体を犠牲にしなければならず、宗教団体を犠牲にしなければなりません。
(101-69、1978.10.28)
皆さんは、このような祈祷をしてはいけません。「ああ、神様よ、先祖よ、私に反対する人の首をひねって、反対できないようにしてください」、このような祈祷はするなというのです。それよりは、かわいそうな人を救ってあげますと祈祷しなければなりません。皆さんは、福を祈ってあげなければなりません。なぜそのようにしなければならないのですか。常にカインとアベルが一つになる立場を取るた
めに、そのようにしなければならないのです。そこで常に一つになる立場を取れば、私が滅びることはないので……。(注 6)
この世的に見れば、ニューヨーク・タイムズが私の怨讐であり、ワシントン・ポストが私の怨讐ですが、新聞に出すものがあれば、ニューヨーク・タイムズに出してあげ、ワシントン・ポストに出してあげなさいと言います。それは不思議でしょう? 私は常に完成したアベルの位置に立とうというのです。勝利したアベルの位置に立とうというのです。私たちには怨讐がいません。ですから、批判されながらも、ぐっとこらえていこうというのです。神様がすべて解決してくださいます。
(89-114、1976.10.4)
サタンが神様に「神様! 最初に私を天使長として立てられたときには一時的な愛で立てられましたか、あるいは永遠の愛のために立てられましたか」と質問したとすれば、神様はどのように答えられるでしょうか。考えてみてください。
神様は、永遠に愛するために立てたと答えられるでしょう。一時的な愛で立てたと言えば、一時的な神様になります。永遠に愛するという基準をもたなければ、いつかはサタンの前に神様の権限を行使できなくなるのです。したがって神様は、サタンがいくら反対しても、彼を愛したという条件を立てざるを得ません。
それで神様は、悪に対して「無抵抗主義者」です。それは何のためですか。神様はこの地球上に天国理想の世界を成就するときまで、どのような環境の中でも、堕落してサタンとなった天使長を愛さなければならないのです。
(316-79、2000.2.10)
神様は、すぐにでも、サタンや人間をすべて掃き捨てられます。そのようにすれば、神様はどのようになりますか。神様の全能性が崩れていくのです。そのようになれば、サタンが神様に対して、「あなたは全能の方ではないですか。このような罪のために崩れていく神様ですか」と嘲弄します。
ですから、神様は侵犯を受けないために、サタンが矢を放つようになれば、神様はいつも退いていくのです。全能であられる神様は、そのようにせざるを得ないのです。あなたが力を尽くし、あなたがあらゆることをしたとしても、結局は、私がつくった版図圏内を抜け出すことはできないという立場に立て
なければなりません。呆然とする場面であり、赦し難く、耐え難い場面ですが、耐えなければなりません。耐えられなくても、耐えなければならないのです。
したがって、そこに神様の権威が生じ、神様らしい立場、神様の全能性が生じるのです。神様が関知しないといって、1度ひっくり返したならどうなるでしょうか。そうすれば、宇宙はすべてなくなります。また、神様の創造の遺業もすべて……。神は、二度と考え直してはいけない、そのような悲惨な
神様になってしまうのです。そのようなことを私たちは考えられなければなりません。
ですから、皆さんは忍耐がどれほど貴いか分かったでしょう。忍耐がどれほど貴いですか。このように考えてみれば、忍耐は再出発の動機であり、再創造の動機になり得ることを発見するでしょう。耐えることによって、それを赦してあげられるのです。そのようになれば、私はいつでもそれを占領できます。
(76-219 ~ 220、1975.3.2)
3. 懺悔
懺悔は、神様との関係を回復し、本来の自身を求めていく最初の段階である。罪と執着、誤った見解などを、一様に認定して克服しなければならない。その時初めて、過去の習慣を捨てて新しい信仰の道を出発することができる。私たちに蓄積された罪と欺瞞は、神様の実存の認識・感知を歪曲させる障害物だ。したがって、神様の罪の赦しと人間のむなしい妄想を除去する前提条件は、何より懺悔だ。天は悔いる者の人生に、いま一度恩赦を施されるのだ。懺悔の内容を、祈祷を通して一つ一つ数え上げなければならない。胸から張り裂けんばかりのうめき声と、痛恨の涙の祈祷、過去の過ちを総蕩減する強烈な意志の祈祷、それが懺悔である。その後、許しと解放、新しい洞察が人生の方向性を設定してくれることを悟ることが、真の懺悔である。
文鮮明先生は、懺悔とは個人的罪状を後悔する程度にとどまってはいけないと言われる。人間は誰でも、個人理想の意味をもっている。個人は歴史的な実として生まれた存在であり、さらには社会と国家と世界を代表した存在だ。したがって、個人を越えて先祖たちの誤り、国家の誤り、世界の誤りまで、すべて懺悔できなければならない。私たちが懺悔を通してさらに奥深い境地に入れば、私たち自身が神様の理想とどれくらい掛け離れているかを悟るようになる。そして、私たちを無限に抱きたいと思っても、私たちの心に安着できなかった神様の曲折と苦痛が、どれほど大きかったのかも悟るようになる。このような内容をすべて改心できなければならない。したがって、私たちは懺悔を通して、霊魂の深いところに入り込んだ内的自我を発見する旅程に出ていかなければならない。
①罪の認定、告白、そして懺悔
― 宗教経典 ―
まことに神は、改悟して不断にかれに返る者をめでたまい、また清める者を愛したもう。
クルアーン 2.222(イスラーム)38
悔い改めよ。天の国は近づいた。 (注7)
マタイによる福音書 3.2
(キリスト教)39
神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を / 神よ、あなたは侮られません。
詩編 51.19(キリスト教)40
罪を隠すと罪は増長しますが、もし懺悔し慙愧すれば罪は消滅します。だから智者は罪を隠さないとブッダは言われました。
大般涅槃経(仏教)41
悔吝を憂うるのは、善悪の微妙な介(目に見えぬほどの小さいきざし)を重んずるからであり、行動を起しても咎なきを得るのは、よく過ちを悔い改める努力にかかっている。(注 8)
易経、周易繋辞上伝1.3.4(儒教)42
あなたの御名を呼ぶ者はなくなり /奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。(注 9)
イザヤ書 64.6(キリスト教)43
神の御意志どおりに考えていなければならず、神の御意志どおりに語っていなければならず、神の御意志どおりに行動していなければならない。もし私がそのように考え、そのように語り、そのように行動していなかったなら、私はその罪を悔い改める。私の考えと言葉と行動で悔い改め、すべての心を尽くして悔い改める。
パテット6(ゾロアスター教)44
私たちの罪悪は、はかり知れないほど多く、私たちの悪行は限りがないので、おお、主よ! 慈悲を施してくださり、私たちを罪悪から抜け出すようにしてください。私たちは、極悪無道な罪人なので、抜け出す道が分かりません。おお、主よ! 敬愛する主よ! あなたが秤にかける私たちの行為は、あなたの宮殿のどこにも置き場のないものですが、グルの恩寵により私たちを赦され、あなたと一つになるようにしてください。
アーディ・グラント、スローク・ヴァーク
M.3、p.1416(シク教)45
しかしてわれはわが身にかくぞ問う、いつの時にかわれヴアルナに親しむを得ん、怒りを解きて彼わが供物を嘉することやある、いつかまた心安けく神の憐れみを仰ぎ得んと。その罪をヴァルナよ、探り求めんとして、われはわが身に問い、問いたださんがために賢者たちに近づく。詩人たちは等しくわれにいう、かのヴァルナ汝に怒ると。ヴァルナよ、わが最大の罪は何なりし、友なる讃美者を、なれが殺さんと欲するにいたりしは。そをわれに明らかに告げよ、冒しがたき自律の神よ。われ切になが赦しを乞う、罪なからんと額ずきて。父祖の犯せし罪よりわれを解き放せ。われらみずから犯せし〔罪〕より解き放せ。
リグ・ヴェーダ 7.86.2 ~ 5(ヒンドゥー教)46
たとえ私が浄土に対する真の信仰に帰依しているとしても、それにもかかわらず私の胸にはすべての心を尽くす誠実さがなかった。
術策と偽りが私の体の中にあり、私の霊魂には清浄な光がない。
見た目にはすべての人々が勤勉で真実を語っているように見えるが、彼らの霊魂には貪欲と憤怒、そして不義な欺瞞が満ち、彼らの体の中には、偽りで狡猾な優越感が満ちている。
私の胸の中の悪があまりに強く、私はそれを克服できない。
ゆえに私の霊魂は蛇の毒のようで、この毒が混ざった私の義なる行為さえも偽りの行為と呼ばなければならないだろう。
そのように私の霊魂には何の真実もないが、それにもかかわらず、聖なる名の功徳、悟ったその贈り物は、たとえ私はただの私だとしても、私の言葉を通して全世界にあまねく広がっていく。
私の霊魂には何の慈悲心もない。
私の友の善行は私の両目には満足できない。
もし慈悲の船、無限の知恵の聖なる約束がなかったなら、私がどうして苦痛の海を渡っていくことができるだろうか。その心が蛇の毒のような狡猾さと欺瞞で満ち、私は義の行為を行うことができない。
もし私たちの父の贈り物に帰依所を見いださなければ、私は恥知らずな者の死を迎えるようになるだろう。(注10)
親鸞(仏教)47
― み言選集 ―
「悔い改めなさい」という言葉があります。イエス様はこの地上で、「悔い改めよ、天国は近づいた」と言いました。何を悔い改めなさいというのですか。簡単です。その結論は何かというと、犠牲になり、奉仕しなければならない道理に背いたすべてを悔い改めなさいというのです。
(105-92、1979.9.30)
今から 2000 年前にイエス様がこの地上に来て、最初にイスラエル民族に警告したことは、「悔い改めよ、天国は近づいた」だったことを私たちは知っています。
(99-75、1978.9.1)
皆さんもよく知っていますが、父母に過ちを犯した子女が、その過ちを赦してもらうためには、必ず涙というものを流さなければなりません。涙というものを必ず経るようになっています。罪を犯した子女がいれば、どの国でも罰を与えます。棍棒でたたきます。必ずそこにはそのような罰が……。罰というものは何かというと、打つことです。苦痛を与えるのです。そのようにして何をするのですか。苦痛を受けるようにするというのです。あらゆる分野で制裁を受けます。
ですから、悔い改めようとする人がいれば、涙を流さなければなりません。涙を流すときは、たくさんの痛みを感じなければなりません。自分が誤ったことに対して、罪を犯したことに対して、たたかれる以上、受ける苦痛以上に痛みを感じなければ悔い改めの道があり得ないことを知らなければなりま
せん。
(99-77、1978.9.1)
皆さんは、悔い改めましたか。悔い改めもできない人が誰を助けてあげられるのですか。悔い改めたという公認を受けることができずに誰を救ってあげるのですか。どうやって救うことができますか。犯した罪の赦しを受けずに、罪を判決する判事になれますか。皆さんは、自らが罪人だと感じてみましたか。歴史的な罪を背負っていることを知らなければなりません。その次には、世界的な現在の罪を背負っていることを知らなければなりません。その次に、未来の罪まで私が責任をもたなければならないことを知らなければなりません。三つの大きな罪を背負っていることを知らなければならないのです。
(99-90、1978.9.1)
人々は教会に行って、「私は何々の罪を犯しましたが、悔い改めますので、お赦しください」と祈祷します。しかし、それよりは、 「天倫の原則を破壊し、天と人間の因縁を蹂躙し、人間と万物の因縁を破壊した罪、心情問題において犯した罪をお赦しください」と言わなければなりません。そのように悔い改めることによって、赦され、勝利し、お父様の認定を受けるなら、万事がすべて解決するのです。天は、そのように悔い改める者に訪ねてこられます。
心情を通じた人には、世の中のあらゆるものが自分のものにもなるのです。それで、お父様の心情に通じた人は、世の中のどのようなものをもってきて
も、もっていっても、お父様には罪になりません。今後、天国世界では、隣の家に行って黙って食べたいものを食べたからといって、それが罪にはなりません。なぜかというと、心情的に連結されているからです。
心情を蹂躙した罪以上の大きな罪はないことを知らなければなりません。今日の私たちは、神様の愛の心情を察していきながら、私たちは神様の心情を蹂躙した罪人であり、万物の心情を拒否した罪人であり、心情の世界を成し遂げられないようにした妨害者だったことを知らなければなりません。このようなことを皆さんは理解して、心情をかけて悔い改める人になることを願います。
(9-185、1960.5.8)
最近のアメリカで言えば、民主主義式で、人はすべて平等で自由なのに、恥がどこにあり、良心の呵責
を受けることがどこにあるのかという思想が強いでしょう? 皆さんは、恥ずかしいと思ったことはありますか。皆さんが罪の意識を一度もってみたことがありますか。
もし皆さんが逆賊の息子であれば、どうしますか。逆賊の息子であれば堂々としていられますか。また、強盗の息子であればどうしますか。堂々としていますか。その次には、言葉にもできない、獣のような恥辱を感じる不倫の愛の関係をもっていれば、堂々としていられるかというのです。もし自分がそのような罪を犯したなら、そのような罪を犯した人の息子、娘であれば、その子孫だと考えれば、顔を上げて、 「ああ、私には自由が必要だ」と言うことができるのかというのです。また、「私は、この場でそのまま定着しなければならない」と言うことができますか。皆さん、誰彼を問わず「それはできない」と当然のように答えるのです。
すべての人たちは、堂々として自由にする前に、まず何をしなければならないのかというと、死んで生き返らなければならないのです。赦しを受けるか、逆さまにひっくり返るか、清算する問題がなければなりません。
(66-14、1973.3.11)
足らない私たち、
どうしてお父様のみ前に出られる
姿だと言えるでしょうか。
どうして天に対して、
顔を上げることができるでしょうか。
私たち自身は、
千万回死んでも当然な存在であり、
罪悪の刑具に捕らわれ、
審判の苦難を受けて当然な
人間たちでございます。
それゆえに私たちは、
お父様の慈悲深いみ愛を願い、
お父様の恩賜を願い、
自らをありのままに告げる心で
ひれ伏しましたので、
私たちがもっているすべてのものを
お父様の前に差し出し、
正しくないことがあるならば、
すべて清算できるよう
お許しくださることを、
愛するお父様、
切にお願い申し上げます。
(2-168、1957.4.14)
②国家的罪の悔い改め
― 宗教経典 ―
もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。
歴代誌下 7.14(キリスト教)48
ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。
「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」神は彼
らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。(注11)
ヨナ書 3.3 ~10(キリスト教)49
― み言選集 ―
今まで宗教が扱い、さらにキリスト教が扱ってきたのは個人的な悔い改めです。個人的な悔い改めに重点を置いてきましたが、社会や国家、それ以上の次元に対する悔い改めには重点を置かなかったことを私たちは知っています。しかし、私たちがイエス様や預言者たちを見るとき、彼らが主導的な役割をしたこととは何かと見れば、彼らは自分の悔い改めよりも、国と社会のために悔い改めるところに注力したことが分かります。
(99-75、1978.9.1)
皆さん、悔い改めましたか。皆さん自身の罪を悔い改めるために、先祖たちの罪を悔い改めるために涙を流していますか。その次に国を救うために、世界を救うために涙を流していますか。涙は2種類です。救ってあげるために、悔い改めさせるために涙を流さなければなりません。2種類の涙を流さなけ
ればならないのです。そうしてこそ、悔い改めが起きます。
(99-90、1978.9.1)
神様が今まで復帰摂理をしてこられながら、まず人間に何を信じるようにされたのでしょうか。すなわち、再創造の役事を出発される前に、まず何を私たちに体恤させられたのでしょうか。それは喜びではありません。先に、私たちの一身に対して悲しむ心がわき上がるようにされました。次に自分の家庭、社会、氏族、国家、世界、さらには天倫のために悲しむ心がわき上がるようにされたのです。そうしてこそ、私たち人間が神様の前に立ち得る道が開かれるようになるのです。
(4-51、1958.3.2)
③本当の悔い改めは行動の変化を伴う
― 宗教経典 ―
悔悟して善い行いにいそしむ者は、心を入換えて神に改悟帰依し奉る者である。
クルアーン 25.71(イスラーム)50
君子は……あやまちがあれば、ぐずぐずせずに改めよ。
論語 1.8(儒教)51
罪を罪として認め、法に従って懺悔し、将来において自己抑制をするということ、それこそが、聖者の戒律の繁栄というものであるからです。
阿含経長部1.85、沙門果経(仏教)52
ある人が罪を悔い改めることは、どのように証明され得るのか。ラビ・ユダがこれについて言った。「二度も原罪を犯させる対象が自分に近づいた場合、その対象を遠ざける」。
ラビ・ヨセ・ベン・ユダが言った。「もし犯罪を犯させる場合、一度、二度、三度までは赦されるが、四度目は赦されない」。
タルムード、ヨーマ 86b(ユダヤ教)53
罪を犯したとき、苦しみ悔悟することによってその罪から解放される。彼は「二度と同じことをするまい」と〔決意して〕止めることによって清められる。……無意識であれ、意識的であれ、非難される行為をして、それから解放されることを望むならば、二度としてはならない。行為がなされたときに自分
の心が重くなるようならば、満足をもたらすまでその行為に対しての苦行を行うべし。
マヌ法典 11.231~ 34(ヒンドゥー教)54
害であることを知りながらも繰り返し罪ある行動をする人には、贖罪と懺悔は何の役にもたたない。
シュリーマッド・バーガヴァタム6.1(ヒンドゥー教)55
言え「己れの魂にそむいて、あやまちを犯したわしのしもべたちよ、神の慈悲に絶望してはならぬ。神は、まことにあらゆる罪を許したもう。かれは、寛容者・慈悲者であられる」。「なんじらは懲罰がくる前に、主に改悟して返り、かれに服従帰依せよ、その後では、なんじらは助けられないであろう」。「なんじらが気づかぬうちに、懲罰が突然来る前に、主からなんじらに下された最も善い道に従え」。「魂がこう言わぬよう、『ああ情けない、わしは神への己れの義務を怠っていた、そしてちょう笑者のひとりであった』と」。「または、『神がわしを、お導き下されたならば、わしはきっと主を畏れまつったものを』と、言わぬよう、または、刑罰を見たとき、『わしが1度現世に返れるならば、わしは必ず善い行ないをなす者のひとりであろう』と」。
クルアーン 39.53 ~ 58(イスラーム)56
永遠に備えるためにわたしたちに与えられている現世の生涯を終えると、見よ、もしわたしたちが現世にいる間に時間を有益に用いなければ、後から暗闇の夜がやって来る。そして、そこでは何の働きもできない。
あなたがたはその恐ろしい危機に陥るときに、「わたしは悔い改めて神に立ち返ろう」と言うことはできない。あなたがたはこのように言うことはできない。なぜならば、現世を去るときにあなたがたの肉体を所有しているその同じ霊が、あの永遠の世で、あなたがたの肉体を所有する力を持つからである。
見よ、もし死ぬときまで悔い改めの日を引き延ばしたならば、見よ、あなたがたはすでに悪魔の霊の支配を受けるようになっているので、悪魔はあなたがたに自分のものであるという印を押す。したがって、主の御霊はもはや退き去って、あなたがたの内に決して宿ることはなく、悪魔があなたがたを支配するすべての力を得る。これが悪人の最後の状態である。
モルモン経、アルマ書 34.33 ~ 35
(末日聖徒イエス・キリスト教会)57
― み言選集 ―
今日、人々は、自分の生活を中心として、善悪の分岐点と公私の分岐点で、内外で行ったり来たりして、結局は、私的におぼれる場合がたくさんあります。しかし、そのようになれば、滅びるのです。ですから、過去は私的な生活であったと悔い改め、再び歯を食いしばって公的な生活に戻ります。そう
して再び耐えられずに行ったり来たりして、再び私的な側に入り込むときが多くなり、そうしてみると、公的な善とは遠ざかる生活をします。これが今までの信仰生活です。ですから、私的な生活をするすべての人たちは、悔い改めなければならないということを、皆さんははっきりと知らなければなり
ません。
(31-242、1970.6.4)
喜びの日を迎えられた神様の前に、痛悔し、痛哭する心をもたなければなりません。「私はどうしてお父様を知ることができず、どうしてお父様が心配されるその立場が分からなかったのか!」と悔い改め、激憤しなければなりません。このように過去の自分の生活を反省する心をもてば、神様が同情できる余地があるのです。そのようにできない立場で、そのまま同参しようとしてもできないというのです。 「『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」 (マタイ7・21)というみ言が聖書にあるのは、このような理由のためです。
(13-330、1964.4.14)
皆さんに最後まで残るのは悔い改めです。これができずに逝ってはいけません。
(99-110、1978.9.1)
4. 人を裁いてはならない
世界経典は、私たちの中に、誰も失敗から解放されていたり、完璧な者がいないため、たとえ他人の失敗が明白であっても、その人の誤りをむやみに審判するなと警告する。すべての経典の教えは、「自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。」というイエス様の教えと同じである。文鮮明先生は3度の法則をおっしゃられる。人を審判する前に、自身をまず3度振り返ってみなさいという意味だ。さらには、人を正そうとする前に、自身がまず愛して助けてあげなければならないのである。
― 宗教経典 ―
人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、「あなたの目からおが屑を取らせてください」と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
マタイによる福音書 7.1~ 5(キリスト教)58
他人の過失は見やすいけれども、自己の過失は見がたい。人は他人の過失を籾殻のように吹き散らす。しかし自分の過失は、隠してしまいます。―狡猾な賭博師が不利な骰の目をかくしてしまうように。他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。かれは煩悩の汚れの消滅から遠く隔たっている。
法句経 252 ~ 253(仏教)59
卑劣な者は常に、他人の失敗はたとえからし種ほどに小さいものであってもみつける傾向があり、自分の失敗はたとえヴィルヴァの実ほどに大きいものであってもそれに対して目を閉ざし続ける。
ガルダ・プラーナ 112(ヒンドゥー教)60
あなたの同僚の立場に立ってみるまでは、決して同僚を裁いてはならない。 (注12)
ミシュナ、アヴォート2.5(ユダヤ教)61
卵のかごをもっている人は、石の上で踊りを踊らない。
プジ族の格言(アフリカ伝統宗教)62
先生がいわれた、「君子は他人の美点を〔あらわしすすめて〕成しとげさせ、他人の悪い点は成り立たぬようにするが、小人はその反対だ。」
論語 12.16(儒教)63
それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」それで、わたしたち
は一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。
ローマの信徒への手紙14.10 ~12(キリスト教)64
朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るためにこう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、 「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(注13)
ヨハネによる福音書 8.2 ~11(キリスト教)65
まことの修行者というものは、世の人の過ちには目を向けぬ。
もし人の咎に目を向けるなら、そのおのが咎にこそ道にもとるもの。
人の咎ある心は私は謗らぬ。おのれの咎がもともと悪い。
その咎ある心を自ら払い去り、煩悩をば打ちくだくだけのこと。
憎しみも愛も心にかかわることなく、長々と両足を延ばして寝る。
六祖壇経 2(仏教)66
人を誹謗して自分をたたえ、人の美徳をあえて知らないふりをしながら自分はもってもいない長所を誇る、これによって自ら卑賤になるだろう。自分には厳格だが人には寛大に赦し、人の長所を喜ぶが自らはもっていないことを恥ずかしく思う、これによって自ら尊貴な者となるだろう。
タットヴァルタ・スートラ6.25 ~ 27
(ジャイナ教)67
― み言選集 ―
人を批判してはいけません。問題は自分にあるからです。若い人たちの短所とは何かというと、木の枝のようにあちこちに伸びていることです。何の話か分かりますか。最初は素早く、よく見ます。何かをさっと見れば、何がどうでこうでとよく評価するのです。しかし、自分を忘れているのです。人を評価するなら、まず自分を3倍以上評価してから、その3分の1だけ評価しなさいというのです。
(25-93 ~ 94、1969.9.30)
人を判断するには、3年以上研究しなさい。
御旨の道、人格
自分が心で、誰はどうだと評価することはできません。自分自身が罪人だからです。祭司長の自分が責任を果たせなかったのに、どうして人に対する評価をするのですか。
(89-268、1976.12.4)
天から何かの恩賜を受けたならば、皆さんは公憤の心情をもち、天を身代わりしてサタンと闘うことができなければなりません。自分を中心として裁く行動をしてはいけません。このように、許諾された恩賜を受けた人が、自分を中心として楽しもうとしたり、自分を中心として人を裁こうとすれば、それは正しい信仰ではないので、許諾されたみ旨の道を歩むことはできないのです。
(2-201、1957.5.19)
自分の性格の足りないところを埋めるためには、証を聞けというのです。これを聞いて、自分のものとして吸収するのです。補強しなければなりません。ですから、多くの人の体験談を聞かなければなりません。人が言ったことを批判してはいけないというのです。批判するのは、サタン側になるか、天
の側になるか、二つのうちの一つを決定することを意味するのです。批判した時は、サタン側になるか、天の側になるか、二つのうちに一つに分かれてしまうのです。ですから、批判することは、自分が発展するにおいてのがんなのです。サタン側になった者が、神側に行くことはできず、神側になった
者が、サタン側に行くことはできないのです。私たち人間生活において歩んでいくときには、直行は絶対にできません。ジグザグに行くのです。
(76-141、1975.2.2)
私自身を見るのです。相手に対して話をする前に、自分自身を見なさいということです。相手を批判する前に自分自身を批判するのです。そして、皆さんが、一つ満点、二つ満点、三つ満点があれば、次には皆さんの好きなようにしなさいというのです。イエス様は当時、このように言いました。姦淫を犯した女性を石で打ち殺そうとするとき、 「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言ったのです。すると、みな逃げていきました。
(118-245.246、1982.6.6)
5. 自己否定
人々は、自身の利己心はよく見ることができない。利己的であり、貪欲な人々は、善行とはほど遠い。誰でもある程度は、利己心で汚れている。このような自己中心性は、外に露出して、無慈悲に攻撃を受けなければならない。そうでなければ、私たちが言う善は、虚飾的であり、むなしいだけである。したがって、私たちは、自身を否定しなければならない。
自分の肯定と快楽を追求する人生は、結局、空虚感と喪失で終わる。自己否定は、死と喪失に私たちを導くように見えるが、事実は、神様と共にする豊かな人生へと私たちを導いてくれる。
ここで私たちは、また一つの逆説にぶつかる。イエス様は「誰でも自分の命を救おうとする者はそれを失うのであり、私と福音のために自分の命を失った者は救われるだろう」と語られた。この教えは、すべての世界的水準の宗教に共通に入っている内容だ。
文鮮明先生も、自己否定の価値に対して強調される。先生は、人間の堕落に対する自身の洞察力を基盤にして、人生の目的地に到達するのに、人間がこのように逆説的で不自然な道を歩まなければならない理由に対して説明される。本来、神様が人間を愛と利他主義的性格を具現するように造られたが、堕落によって私たちは、サタンの影響を受けた。サタンの本性は、完全な自己中心だ。したがって、私たちの本性を回復するためには、まず誤った要素で汚染された自身を否定する、難しい過程が待っている。
― 宗教経典 ―
わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
マルコによる福音書 8.34 ~ 35
(キリスト教)68
名称とかたちについて、「わがもの」という思いが全く存在しないで、何ものも無いからとて憂えることの無い人、―かれこそ〈修行僧〉とよばれる。
法句経 367(仏教)69
すべての欲望を捨て、願望なく、「私のもの」という思いなく、我執なく行動すれば、その人は寂静に達する。
バガヴァッド・ギーター 2.71(ヒンドゥー教)70
道を体得した人間は、その名が世間に聞こえず、最高の徳をそなえた人間は、自分の徳を意識することがなく、無差別の境地に達した大人は、自己にとらわれることがない。
荘子17(道教)71
利己心のある所にあなたがいることはできず、あなたのいる所に利己心はない。教えを聞いた者よ、熟考せよ、この説明できない命題を。
アーディ・グラント、マールー・キ・ヴァール
M.1、p.1092(シク教)72
律法は自分自身を全的に否定する者と共にある。
タルムード、ソーター 21b(ユダヤ教)73
「スブーティよ、どう思うか。《尊敬さるべき人》が、〈わたしは、尊敬さるべき人になった〉というような考えをおこすだろうか。」スブーティは答えた。―「師よ、そういうことはありません。……もしも、尊敬さるべき人が、〈わたしは尊敬さるべき人になった〉というような考えをおこしたとすると、かれには、かの自我に対する執着があることになるし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるということになりましょう。」
金剛般若経 9(仏教)74
はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
ヨハネによる福音書 12.24 ~ 25(キリスト教)75
記憶すべきことは、死を恐れる人はこれを避けることができず、不死を熱望する者も決してこれを成し遂げることはできない。
ナフジュ・アル・バラーガ 説教 43
(イスラーム)76
おお人の子よ! もし汝われを愛せば、汝の自我に背を向けよ。またもし汝わが喜びを求むるならば、汝自身の喜びを重んずるな。さらば汝、わがうちに死に、われ汝のうちに永遠に生きるを得ん。
バハオラ 隠されたる言葉 7(バハイ教)77
石霜和尚が言った、「百尺の竿の頭で、どう一歩を進めるか」またある古徳が言った、「百尺の頭に座っている人は、[道に]入ることができたといってもまだホンモノではない。百尺の竿の頭で一歩を進めて、十方世界に[自己の]全身を実現せねばならない」
無門は評して言う―[百尺竿頭に]一歩を進めることができ、 [十方世界に]自己を生まれ変わらすことができるなら、そのうえどこを嫌って[世]尊といえない所があろう。それはそうだが、まあ言うてみよ、百尺の竿の頭で、どう一歩進めるか。ああ!(注14)
無門関 46(仏教)78
こわれた鐘のように、声をあららげないならば、汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵ることがないからである。
法句経 134(仏教)79
顔淵が仁のことをおたずねした。先生はいわれた、「〔内に〕わが身をつつしんで〔外は〕礼〔の規範〕にたちもどるのが仁ということだ。一日でも身をつつしんで礼にたちもどれば、世界じゅうが仁になつくようになる……。」
論語12.1(儒教)80
この身は泡うたかた沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。
法句経 46(仏教)81
― み言選集 ―
絶対的な信仰は、自分を肯定する立場ではなく、自分を主張することのできない否定の立場である。
御旨の道、信仰生活
天の国に入っていくにおいて、一番の問題は何でしょうか。「私」という怨讐が潜んでいるというのです。「私」が怨讐だということです。今まで皆さんが信仰生活をするにおいて、祈祷し、一生懸命に努力してきたすべてのことは、「私」に勝利するためのものです。
そうしてこそ、サタンがついてくるひもがあれば、そのすべてのひもを完全に切っておかなければなりません。皆さん、絹糸のようなものが世界にぶら下がっています。それをかみそりのようなもので切ってしまわなければなりません。
(122-13、1982.10.31)
イエス様のような方は、何をするためにこの地に来たのですか。イエス様は、生きることを願い、中心存在になることを願い、うれしいことを願う前に、まず死ななければならないことを見せてくださいました。個人を中心とした思想によって歴史を滅ぼしたのなら、その反対の道でなければ、生かせる道がありません。イエス様が「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」と語られたのも、そのような意味です。逆説的な言葉です。自分を中心として個人を尊重し、個人をより中心の価値的存在として認めるこの世の中を、打破しようというのです。「私一人のために生きなさい」と言うとき、みな散らばっていきます。 驕慢な人はみな嫌うのです。しかし、「私はあなたを高めてあげよう」と言うときは、みな喜ぶのです。
(67-182、1973.6.10)
自分を意識し始めたのが堕落です。この体を否定しなければなりません。自己否定をすることによって、自らを意識した悪魔サタンを除去し、「ために生きる」ことができる立場に立つことによって神様に帰依するのが宗教を通じた救いの道であり、愛の理念を通して統一していく方法であることを、はっ
きりと知らなければなりません。
(214-65、1991.2.1)
サタンは、ほかの所にいるのではなく、まさしく私自身の中にいるのである。自分というものがあるために、猜疑と、しっとと、過分な欲望と、血気が出てくるのである。自分を殺しなさい。「私」という字がついたものは全部サタンである。自分自身を嘲笑し、審判しなさい。サタンはいつも、私から一番近い者、一番好むことを通じて侵入してくる。
御旨の道、試験・試練
自分のために生きることは、自分で終わるのであり、人のために生きることは、永遠に継続します。ですから、善が存続する方法は、私が主体の位置に立っても、全体の対象のためにいなければなりません。ですから、世界的人物になろうという欲望をもった人であれば、世界のために生きなければなりません。それで、世界的人物になれば、彼は世界的主体になるのです。ところが、対象圏を踏みにじる世界的主体は存在できません。世界的主体は、世界を輝かせるための主体にならなければなりません。
公的な道は、自分を否定するところから始まります。自分を否定するからといって、自分がなくなるのではありません。また、ほかの相対価値で自分を見いだそうとするところから、善は始まるのです。これは、善が発展する原則的な法度であり道です。これを皆さんは知らなければなりません。
(57-63、1972.5.28)
アジアは今まで蕩減ばかりをしてきたのであり、皆さんは豊かに暮らしてきました。昔の宗教は、蕩減をしなければならないので、もっているものをすべて捨てました。それをすべて西欧の人たちがもっていったのです。自分を立てて物質をもつので、アジアとちょうど反対です。そのような立場で自分を中心として物質をもってみると、精神的に完全に欠如したというのです。
(97-67 ~ 68、1978.2.26)
自分が生まれて今まで成長してきた、その基準を認める以上、永遠に一つになれません。ほかの国、ほかの民族、ほかの民族と一つになれないだけでなく、自分の専門分野以外の人とも一つになれないのです。すべてが一つになれる簡単な方法は何かというと、絶対無視することです。完全に否定することによって、どこでも連結されるのです。
(360-192、2001.11.16)
6. 肉的欲望の統制
すべての宗教で究極的実在を渇望する求道者は、欲望を統制して肉身の欲求を抑制しなければならないことに同意している。過酷な自己統制、断食、何時間かの参禅修行などを通し、体を打って体の力を弱くすることは、すべて肉的欲望に対抗して究極的にこれを制圧する良い方法である。
人にとって最も大きな挑戦は、性欲主管である。イエス様は、誘惑に対して容赦のない教えを下さった。「もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい」。実際に仏教のある尼僧は、自身の罪ではないが、相手方の罪を抜き取るためにこのようにしたと伝えられている。仏教では、肉身を一つの液体と水液、胆汁、糞尿などで形成された塊と見ることで、「肉身の不快感」に対して瞑想する修行を奨励する。これは、異性を見つめるときに生じる性的欲求を弱くするためである。文鮮明先生は、やはり体を「サタンの舞踏会場」とみなし、体に対する不快な感情を通して性欲を自制するように忠告される。
自己主管と関連したみ言は、第 12 章の「道徳性」に記述されている。しかし、私たちにとって完璧な自己主管というのは、ほぼ不可能である。文鮮明先生は、これが人間堕落により引き起こされた結果だと説明される。自然に形成されないものなどに対しては、強力で極端な修行が必要である。したがって、宗教は、体を打って欲望を抑制するために、程度の高い無慈悲な方法を開発してきた。いくつかの宗教では、このような修行が修道院の制度として体系化されたこともある。皆がこの道を実践できなくても、この地に生きていく人であれば、誰でもこの目的に向かって努力する姿勢が必要である。
①肉的欲望の制御
― 宗教経典 ―
愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
ペトロの手紙一 2.11(キリスト教)82
欲望を捨てよ、不死を成すだろう。
阿含経相応部 47.37(仏教)83
だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、
そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。
コロサイの信徒への手紙 3.5 ~ 8(キリスト教)84
それで、主からの明証の上にある者と、己れの悪い行いをりっぱだと考え、その私欲に従う者と、同じであろうか。
クルアーン 47.14(イスラーム)85
ただ肉欲を完全に根絶するとき、私たちは暴力を捨てることができる。
アーヤーランガ・スッタ4.45(ジャイナ教)86
純真さをあらわし、生まれつきの本性に固執せよ、自己本位の自己を取りのぞき、強欲を捨て
道徳経 19(道教)87
かれの心臓に依存している欲望がすべて離脱すると、死すべきもの(人間)は不死となり、〔かれは〕この世でブラフマンに達する。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド 4.4.7
(ヒンドゥー教)88
光と影のように、楽と苦は日常のことであるのを知り、ただ自らの心の欲望を治めよ。
アーヤーランガ・スッタ2.78(ジャイナ教)89
孔子がいわれた、「君子には三つの戒めがある。若いときは血気がまだ落ちつかないから、戒めは女色にある。壮年になると血気が今や盛んだから、戒めは争いにある。老年になると血気はもう衰えるから、戒めは欲にある。」
論語 16.7(儒教)90
比丘たち、これら三つの感受がある。三つとは何か。楽しみの感受、苦しみの感受、楽しみでも苦しみでもない感受である。比丘たち、楽しみの感受は苦しみとして見られるべきである。苦しみの感受は毒矢として見られるべきである。苦しみでも楽しみでもない感受は無常として見られるべきである。
まことに、比丘たち、比丘にとって楽しみの感受が苦しみとして見られ、苦しみの感受が毒矢として見られ、苦しみでも楽しみでもない感受が無常として見られる時、比丘たち、その比丘は聖者、正しく見る者と言われる。
如是語経 53(仏教)91
― み言選集 ―
心と体が対等であるために闘うのです。ですから、体を弱くすることにより心が勢力を得て、弱くなった体を数カ月間引っ張って越えていくようになれば、体を再び上げておいても上がってくることができないように習慣化され、その次からは心がしようというとおりにせざるを得なくなるのです。このようにしておけば、自分が計画するすべてのことが天の助けによって、うまくいくことを体験するようになります。このようになれば、そのままにしておいて、元に戻れと言っても戻ることができないために、良心を主として一つの絶対的な立場で生涯を結んでいくようになるのです。これが宗教生活の目的です。
(38-272、1971.1.8)
宗教は、どのようにすれば体を取り押さえることができるか、という代案を提示しなければなりません。強制で拘束しなければなりません。体がしようとすることはすべて許してはいけないというのです。これが宗教で教える教理です。それで、「劇場街には行ってはいけない、ソウルに行くなら鍾三
通り(鍾路三街通り)は歩いてもいけない」と言って、すべて止めるのです。「男性たちは若い女性のおしりについて回るな。若い女性は男性をすべてどろぼうだと思ってよそ見をするな」と言います。
統一教会の若い女性たちは、恋愛できますか。できません。また統一教会の若い男性たちは、恋愛できますか。できません。それでは、先生が強制で「恋愛するな」と言うのですか。違います。したければしてみなさいというのです。しかし、できないようになっています。そのようなことを強制的にやらせないようにすれば、もっとやります。自分たちがやってみて、自分で悟らなければなりません。
体をどのようにしなければなりませんか。克服しなさいというのです。善に向かっていく道は克服を要します。体の欲望をつかんで首の根っこをひねるのです。体は驕慢を好みます。すべて、自分のために生きようとするのです。「私のものは私のものであり、あなたのものも私のもの」という考え方です。体はそのようなことを願います。
(39-193、1971.1.10)
若い人たちは、女性を見て誘惑したいという思いを断ち切ってしまいなさいということです。聞いていたことを断ち切り、世の中で良いというもの、これをすべて一時に……。ですから、宗教は体を打ちなさいと命令をしています。真の宗教であるほど、体を犠牲にしなさいと命令するのです。宗教の歴史を見てみましょう。苦行をさせ、 「犠牲、奉仕しなさい」と言います。なぜそのように言うのでしょうか。理由があるのです。天国に行きたければ、人間の地獄世界に行って天国をつくりなさいということです。
この世の中は、悲惨な世の中ですか、幸福な世の中ですか。悲惨な世の中です。このような悲惨で混乱し、混沌となった世界が幸福な世界になろうとすれば、御飯を食べ、ひたすら遊び、酒を飲み、踊りを踊り、そのようにしていつ幸福な世界ができますか。もっと悲惨になりますか、悲惨でなくなりますか。もっと悲惨になるのです。ですから、結論を下さなければなりません。このような悲惨な世界を幸福な世界にしようとする人は、もっと悲惨な道を貫いて越えていかなければなりません。もっと悲惨なところから取り戻さなければ、取り戻せません。その道しかないのです。それでもなければ、神様もいないのであり、すべていないというのです。
(91-286 ~ 287、1977.2.27)
体を打つのは、サタンをなくそうということです。さらには、この体を打つことによって、その体を誰が占領できるのかというと、聖霊が占領できるのです。それで、私たちが体を打つのは、聖霊が体を占領するための条件でもあるのです。私の体を打つのは、結果的にサタンを打つことになるので、私の体を打つことによってサタンを打ち、サタンを打つことによってサタンが占領していたものを、代わりに聖霊が占領するようにしようというのです。
(1-126、1956.6.27)
②体に対する嫌悪感と腐敗した感覚
― 宗教経典 ―
もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
マルコによる福音書 9.43 ~ 48(キリスト教)92
ジーヴァカの楽しいマンゴー林に行こうとしていた尼僧スバーを、一人の好色漢が道をさえぎった。スバー尼は、かれに告げて言った。
「あなたは、わたし(の行く手)をさえぎって立っていますが、わたしは、なにか過ちをしたのでしょうか? 友よ、男子が尼僧に触れるのは、よろしくありません。わたしの師の尊い教えには、幸福な人(ブッダ)が説き示した学ぶべきことがらがあります。行ないが清らかで、けがれのないわたしを、あなたは、なぜさえぎって立っているのですか? 濁らず、けがれなく、清潔で、完全に心が解脱したわたしを、心濁りけがれたあなたは、なぜさえぎって立っているのですか?」
「あなたは、若くて美しい。出家してもつまらないではありませんか? いらっしゃい、黄衣をすてて、花咲く林のなかで、一緒に遊びましょう。落花粉々たる木々は、四方に甘い香りを放っています。初春は、楽しい時季です。いらっしゃい、花咲く林のなかで、一緒に遊びましょう。」
「妖精キンナリーのごとき柔和な眼をした婦人よ、あなた以上に愛すべき人は、このわたしにはないからです。もしも、あなたがわたしのことばを聞いてくださるならば、あなたは幸せとなりましょう。いらっしゃい、在家の生活を営んでください。静かな高殿に住む者として、あなたは、侍女たちにかしずかれるでしょう。カーシ産の贅美な(衣服)をつけて、 (身を)飾って下さい。花飾りや顔料、黄金・摩尼珠・真珠といった多くのさまざまな装飾品を、あなたに与えましょう。よくよごれを洗い去った美しい天蓋があり、新しい掛け布と敷物をしき、栴壇の香木で美しく作られ、その木の香りがする高価な臥床に上って(寝て)ください。……」「死骸に満ち、墓田を増大し、破壊される性質のあるこの身体を、あなたは、誤った思いで見ています。納得できるどのような本質も、このあなたの考えにはありません。」
「あなたの眼は、山のなかの牡鹿や妖精キンナリーのそれのようです。あなたの眼を見てから、わたしの愛欲の念いは、いよいよつのりました。あなたの蓮の花に似た顔、けがれのない黄金に似た顔、そして眼を見てから、わたしの愛欲の念いは、いよいよつのりました。たとい、あなたが遠くへ去っても、
わたしは、長い睫毛と、清く澄んだ眼を思い出すでしょう。……」
「暗愚な人よ。目の前に現れた幻影のごとく、夢のなかの黄金の樹のごとく、人々のなかで(見世物のために)作られた像のごとく、うつろなものを(追い求めて)、 あなたは走っている。あたかも、(眼は)樹洞のなかに付着した樹脂の塊りのようであり、(眼の)中央に泡状のものがあり、涙を出し、目やにもそこに生じます。(形の上では)多種多様の眼球があります。」
眉目うるわしく、こころに執着のない(スバー尼)は、 (眼を)えぐりとって、 (それに愛着を)起さず、“さあ、眼をあなたのものとして、おもちください” (と言って)、即座に、これをかの男に与えた。かれの愛欲の念も、即座に消えうせ、彼女に許しを乞うて言った。“清らかな行ないをなす人よ、幸いあれ。このようなことは、二度としますまい”と。
(また、) “あたかも、燃えた火を抱くように、また、毒蛇をつかむように、わたしは、このような人を害った。 (そうしたわたしに)、幸運がくるであろうか? わたしをお許しください”と。かの尼僧は、その男から脱れて、すぐれたブッダの御許に来た。 (ブッダの)偉徳あるすがたを見て、(彼女の)眼は、元どおりとなった。
長老尼の詩 366 ~ 399(仏教)93
諸比丘よ、色は無我なり。若し此色、我なりせば、此の色は病を致すこと無けん、色に於て「我は此色を用いん、彼色を用ふまじ」といふことを得ん。然るに、色は無我なるが故に、色は病を致し、色に於て「我は此色を用ひん、彼色を用ふまじ」といふことを得ず。受は無我なり。若し此受、我なりせば、
此受は病を致すこと無けん、受に於て「我は此受を用ひん、彼受を用ふまじ」といふことを得ん……想は無我なり……行は無我なり……識は無我なり。若し此識、我なりせば此識は病を致すこと無けん、識に於て「我は此識を用ひん、彼識を用ふまじ」といふことを得ん。然るに識は無我なるが故に識は病を致し、識に於て「我は此識を用ひん、彼識を用ふまじ」といふことを得ず。諸比丘よ、汝等の意に於て如何、色は常住なりや無常なりや。大徳よ、無常なり。無常なるものは苦なりや楽なりや。苦なり。苦にして変易の法あるものを観見して「此、我所なり、此我体なり」と為すことを得るや。不なり。受……想……行……是故に所有る色の過去・未来・現在、鹿・細、劣・勝、遠・近なるは此、我所に非ず、此、我に非ず、此我体に非ずと、是の如く正慧を以て如実に観ずべし。
所有る受……想……行……識の、過去・未来・現在、内外、鹿・細、劣・勝、遠近なるは此、我所に非ず、……諸比丘よ、多聞の聖弟子、是の如く観ぜば即ち色を厭患し受……想……行……識を厭患す、厭患せば即ち離貪す、離貪せば即ち解脱す、解脱せば即ち已に解脱すといふ智生じ、生已に尽き梵行已に立し所作已に弁じ更に後有を受けずと知る。
阿含経相応部 iii.66 ~ 68(仏教)94
あれこれの考えをしずめるのを楽しみ、つねに心にかけて、 (身体などを)不浄 であると観じて修する人は、実に悪魔の束縛の絆をとりのぞき、断ち切るであろう。
法句経 350(仏教)95
口は、汚れた唾液や歯垢など不浄物の容器であり、鼻は膿汁・粘液・鼻水の容器であり、眼は眼脂や涙の容器であります。腹部は糞や尿、肺や肝臓などの容器であります。愚か者は女性をこのように見ず、女性の身体に愛着しています。たとえば、無知の人が不浄物を満たした瓶の飾りに愛着するように、この世において無知の人は、迷妄のために女性に愛着します。身体という対象は、きわめて悪臭に満ち、愛着を離れる因でありますが、世の人びとはそれさえも強く愛着しているとすると、いかなるものに対して愛着を離れることがありましょうか。たとえば、豚は糞や尿に満ちた場所や汚物に貪着していますが、それと同じように、人びとは糞や尿に満ちたところに欲望を起こし、汚物に貪着する豚のように、
それに愛着しています。身体は(うじ虫の)城であり、不浄物が生じる門のようなものでありますが、それを愚か者は快楽の対象として追い求めています。あなたが自ら糞や尿などをそれぞれ不浄である、とみなすならば、それらの不浄物が集まっている身体が、どうして願わしいものとなりましょう。
血液と精液とに混じり合った不浄物の精子は、胎に宿って生長します。不浄物の本性を知りながら、いったいだれがこれ(胎)に欲望を起こして愛着するでありましょうか。湿りに濡れた覆いでつつまれ眠っている不浄物の塊りであるもの、それが女性の下腹部で眠りこけているのです。(注15)
龍樹 宝行王正論149 ~157(仏教)96
引き下がりなさい、私はあなたが嫌いです!
愚か者、私のサリー(衣)をつかんではなりません!
牝牛は生命の事を煩い、畜殺者は殺す事を煩うのです!
敬虔な者は高潔な事を思い、卑劣な者は邪悪な事を思うのです!
私は自分の魂を思い、あなたは欲情に駆られる。……
なんとみっともないこの身体!
あなたはなぜこの糞便の瓶、尿の壺、骨で出来た枠、膿の悪臭を愛して、
自らを落としめるのですか! 愚か者よ、主シヴァを思いなさい!(注16)
アッカーマハーデーヴィー ヴァチャナ 15、30
(ヒンドゥー教)97
― み言選集 ―
この目と鼻と耳と口と手、すべて二つの道と接触しています。私のために見る目は、悪魔の目になるのであり、私のために嗅ぐ鼻は、悪魔の鼻になるのであり、私のために聞く耳は、悪魔の耳になるのです。国を前におくか、世界を前におくか、天地を前におき、横的には世界を前におき、縦的には神様と天の国を前におき、神様の立場で「ために生きる」目をもって見なければなりません。その目は、自分の将来の出世のためのものではありません。私がこのように勉強するのは、国を生かすためであり、万民の解放のためです。「ために生きる」ことなのです。
(214-66、1991.2.1)
夜、帰ってきて顔を洗うときに鏡を見て、「この目、鼻、耳、手、足、いつも問題だ」と語りながら、「お前はきょう罪になることをしなかったか」と尋ねてみるのです。そのようなことを目で見て、言葉で語り、行動し、権力で行った、そのようなことをすべて払いのけ、勧告して方向を変えられる能力がなければならないということです。
(122-266、1982.11.21)
この目が怨讐です。この耳が怨讐です。この鼻が怨讐です。この口が怨讐です。考えが怨讐です。ですから、神様の目をつくり、神様の耳をつくり、神様の鼻をつくり、神様の口をつくり、神様の手足をつくり、いつでも一つになることができ、世界のために生き得る私を取り戻さなければなりません。皆さんの中に地獄と天国の境界線があります。右側に行けば天国であり、左側に行けば地獄です。左側に行けば地獄を行ったり来たりしますか、しませんか。神様のために死のうが生きようが、み旨を中心とし
て行こう、ということです。しかし、まだここで、一生の間このようにしている人がいます。皆さんは、3種類の中で、どの種類に属していますか。統一教会の教会員の中には、この3種類の人がいます。皆さんはどこに属しているか分かるでしょう。絶対に分からないということはないのです。
ここ(A)にいますか、ここ(B)にいますか、ここ(C)にいますか。みな「Aだ」と言うので、欲が深いです。苦労なことがあるというのです。すべて反対です。今まで見てきたことの 100パーセント反対です。
若い人たちは、女性を見て誘惑したいという思いを断ち切ってしまいなさいということです。聞いていたことを断ち切り、世の中で良いというもの、これをすべて一時に……。ですから、宗教は、体を打ちなさいと命令をしています。真の宗教であるほど、体を犠牲にしなさいと命令するのです。宗教の歴史を見てみましょう。苦行をさせ、「犠牲、奉仕しなさい」と言います。なぜそのように言うのでしょうか。理由があるのです。
(91286、1977.2.27)
女性たちに、どれほど誘惑が多いですか。自分の顔立ちが良ければ、「私はこの顔が嫌いだ!」と反対の態度を取らなければなりません。
(116-19、1981.12.1)
皆さんが、胸が痛むほど悔しく思うべきこととは、正に自分の体が悪魔の舞踏する場になっているという事実です。悪魔たちの愛の場になっています。悪魔の愛を通じて、悪魔の血統を受け継ぎました。その血が今、自分の体から本然的人格を蹂躙するために、その勢力圏で自分を支配しているという、この驚くべき事実を知らなければなりません。これを清算するには、国でも清算する道がありません。自分自身がしなければなりません。
(214-285、1991.2.3)
私自体にはサタンの血が入っています。その次には、サタンの所有欲が入ってきています。その次には、自分を中心とするサタンが入ってきているのです。このようなことを見るとき、「私」という存在の中で、サタンの愛と、サタンの欲心と、サタン自体が私をまとっていると考えればよいのです。ここにいる、このサタンを抜き出さなければなりません。サタンの血筋を抜き出し、サタンの欲望を抜き出し、自分中心的なサタンの要素を抜いてしまわなければなりません。何をもって抜き出せるのでしょうか。神様が宗教を立て、復帰摂理、救援摂理をする目的とは何かというと、これを断ち切ることなのです。
(115-42、1981.10.28)
宗教は、体が好むものを否定するのです。ですから、すべて捨てなければなりません。食べることも捨て、寝ることも捨て、好きなことをみな捨てなさい。情欲、食欲、睡眠欲を捨てなさいというのです。食べて寝て、好きなことをみな捨てなさいというのです。人は本来食べて寝なければなりません。そして好きなことをしなければなりません。ところが、そのすべてのものが肉身を通して死亡の行路になっ
たので、これを追放しなさいというのです。体に爆弾を爆発させなさいというのです。粉々にしてすべて占領しなさいというのです。体は高められることを好み、楽な位置を好みます。また、ごつごつしたものは嫌い、ぽちゃぽちゃし、すべすべし、ふかふかしたものを好みます。私たちは、この体が好むこ
とを好んではなりません。ですから私たちは、まるまるとしたものではなく、ごつごつしたもの、固いものなど、体が好むものと反対のものを好まなければなりません。体は高まることを好み、他人のお金を奪ってでもよく食べることを好みます。他人はどうなろうと、自分が豊かに暮らせれば喜びます。で
すから、そのような根性をすべてたたき壊さなければなりません。
(18-66、1967.5.21)
アダムはエデンの園を歩き回り、エバは木の下で泣いているとき、天使長が見てあげながら、おんぶして歩いたり、座ってひざの上に座らせたりもするのです。そのようなときに生殖器が触れるのですが、周りで動物たちが子を産むのを見ると「あのようにして子を産むのだなあ」と思うのです。それで、一度「えい」と力を入れればすべて終わります。男性と女性の生殖器が触れ合えば、人はみな喜ぶというのです。そのようなことが起きます。堕落したときに、そのようになっていったのです。
皆さん、男性たちに女性がそのようにしていけば、じっとしていますか、「えい」としますか。最高の美しい女性が近づいてきて生殖器を触るとき、それが起きますか、起きませんか。男性たち? それが起きてはいけません。ですから、皆さんは、いくら美人を座らせても、その生殖器が起きてはいけな
いのです。死ななければなりません。蕩減復帰です。それが蕩減です。もし美人が座ってそれを強制的に入れようとすれば、蹴飛ばして見えない所に飛ばしてしまわなければならないのです。
(285-201~ 202、1997.5.4)
7. 富と財物に超然とした人生
富と所有物は、堕落した世の中で人間を縛りつける鎖と同じである。貪欲と物欲、増加する自分中心な欲望などが私たちを引っ張っていくものである。富の執着は「すべての悪の根源」と教示されてきた。そして、物質主義は、人間の霊性啓発に途方もない障害物になってきた。
伝統的に天に向かう道では、富と物質に対する執着を捨てることを要求した。僧侶と修道女らは、典型的な清貧の人生を営むことを誓った。一般人もやはり、より大きな善のために自らの富を犠牲にすることによって、執着から自由な人生を営むことができる。ある人たちは、慈善活動に積極的に参加し、他の人々は、病気にかかった家族を看護するために良い職場もあきらめ、助けを必要とする人のために身を投じる。彼らは、既存のものを守ろうとする苛立ちを捨て、奉仕と施しのために物を集めることで心の平和と新しい満足感を感じている。
文鮮明先生は、無所有の教えを真の愛の哲学と関連させて話される。神様の愛は、独占を排除する心的態度から始まると言われる。反面、所有に執着する人々は、所有物が愛の実践の妨げになっているという。この原理は、日常生活で神様と人間の関係、人間と人間の関係に適用されるだけでなく、国家福祉と地球星全体にも適用される。
①没落の原因であるお金
― 宗教経典 ―
災いなるかな、……富を積んで計算するのに余念のない者、まことに富は、かれを永久に生かすと考えている。
クルアーン 104.1~ 3(イスラーム)98
金銭の欲は、すべての悪の根です。
テモテの手紙一 6.10
(キリスト教)99
人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。
申命記 8.3、マタイによる福音書 4.4
(キリスト教)100
小人となって財貨を追い求めるな。お前の本来の天性にたちかえってこれに従え。
荘子 29(道教)101
だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
マタイによる福音書 6.24(キリスト教)102
彼岸にわたることを求める人々は享楽に害われることがない。愚人は享楽のために害われるが、享楽を妄執するがゆえに、愚者は他人を害うように自分をも害う。
法句経 355(仏教)103
「私は今日これを得た。私はこの願望を達成するであろう。この財産は私のものだ。この財産もまた私のものとなろう。私はあの敵を倒した。他の敵も倒してやろう。私は支配者である。享受者である。私は成功し、有力者で、幸福である。私は富み、高貴な生れである。他の誰が私に匹敵するか。私は祭祀を行おう。布施をしよう。大いに楽しもう。」彼らは無知に迷わされてこのように言う。彼らは様々に心迷い、迷妄の網に覆われ、欲望の享受に執着して、不浄の地獄に堕ちる。
バガヴァッド・ギーター 16.13 ~16
(ヒンドゥー教)104
しかしかれらは、売買のことや遊戯を見るとき、なんじの礼拝に立っているのをなおざりにして、それに向かって、無考えに散らばる。言え「神のみもとの恩恵は、遊戯よりも取引よりもまさる。神は、最善の給与者であられる」。
クルアーン 62.11(イスラーム)105
財産が増せば、それを食らう者も増す。持ち主は眺めているばかりで、何の得もない。
働く者の眠りは快い / 満腹していても、飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない。太陽の下に、大きな不幸があるのを見た。富の管理が悪くて持ち主が損をしている。下手に使ってその富を失い / 息子が生まれても、彼の手には何もない。人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ持って行くわけではない。これまた、大いに不幸なことだ。来た時と同じように、行かざるをえない。風を追って労苦して、何になろうか。
コヘレトの言葉 5.10 ~15(キリスト教)106
あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは平等の境地であると言われる。実に、 〔一般の〕行為は、知性のヨーガよりも遥かに劣る。知性に拠り所を求めよ。結果を動機とする者は哀れである。知性をそなえた人は、この世で、善業と悪行をともに捨てる。それ故、ヨーガを修めよ。ヨーガは諸
行為における巧妙さである。知性をそなえた賢者らは、行為から生ずる結果を捨て、生の束縛から解脱し、患いのない境地に達する。
バガヴァッド・ギーター 2.47 ~ 51
(ヒンドゥー教)107
凡夫は欲望と貪りとを執著しているが、眼ある人はそれを捨てて道を歩め。この(世の)地獄を超えよ。
スッタニパータ 706(仏教)108
われ火もて黄金を試し、また黄金もてわが僕らを試さんに。
バハオラ 隠されたる言葉 54(バハイ教)109
お金を稼ぐ生活はやむなくする生活であり、富は明らかに私たちが求めている善ではない。それはただ他の何かのもののために有用なものだからである。
アリストテレス ニコマコス倫理学1.5
(ヘレニズム)110
― み言選集 ―
お金というものは汚れたものです。糞よりもっと汚いものです。糞がついたからといって、人が倒れたりしませんが、お金を間違って使えば、糞よりもっと恐ろしいのです。先生はお金を使いません。できる限り使わないのです。使えるお金があれば、すべてあげてしまいます。
(381-304、2002.6.17)
お金があれば、食べること、着ること、住むこと、すべて解決できるのでお金が大切ではないかというのです。お金が問題です。皆さんはお金をもつとき、お金の愛の主人になりたいと思いますか、お金の権力の主人になりたいと思いますか。お金は必要ですが、全体のために、愛を実現するために必要なの
です。
(116-18、1981.12.1)
世界平和は、平和な国家がまずなければなりません。国家の平和は、家庭の平安が前提でなければなりません。世俗の人々が一般的に願ってきた権力や富貴や知識が、平和と幸福の必要十分条件になることはできません。真の幸福は、愛の所有に比例するのでもなく、外的な生活の便利さによって左右されるのでもありません。このようなものが真の愛と共にあるとき、真の平和と真の幸福を得るようになるのです。真の平和も無限な幸福も、真の愛で他のために施すとき、そして、その施したものが全体を回って再びやって来るときにこそ、確実に得られるようになるのです。
(294-69、1998.6.11)
神様が相対世界を創造するためには、所有観念がないのです。自分の所有観念があれば、100 を所有しても、100 以上価値のあるものを与えられません。投入して忘れてしまい、投入して忘れてしまうのです。無限に投入するのは、無限に自分の概念がない時にのみ可能です。相対に対する投入においては自分の意識をもてません。何のことか分かりますか。「これは私が使うお金だ。これは私の取り分だ」というのはサタン側の考え方です。
(287-265、1997.10.5)
人類は、戦争と苦痛がない平和の世界を渇望しています。しかし、希望よりも、逆に次第にひどくなっていく物質万能主義の傾向とともに、国家権力と宗教が正しい影響を及ぼすことができない中で、青少年たちの退廃、家庭破綻、麻薬とエイズ等は人類の将来をより一層暗くしています。
(294-61、1998.6.11)
暮れていく 20 世紀のあらゆる先進諸国は、今一様に悩みの中で苦しんでいます。その原因はどこにあるのでしょうか。その原因は、先進諸国がすべて物質文明の極致を謳歌し、今ではその物質文明の罠にはまったのです。物質が精神を支配し、心を支配していくと、人間の霊魂が物質の奴隷になったので
す。そして、その結果は真の愛の没落です。物質的に豊かで都市には高層の楼閣が立ち並んでいますが、人間の心は砂漠のように荒れ果て、そこで真の愛のオアシスは見いだすことはできないので、人間の生活は殺伐この上ないものになったのです。そこには真の愛がないので、人間の利己主義ばかりが
生い茂るようになったのですが、この利己主義の最大の被害者は美しい大自然です。
私はこの平和会議の一つの主題として、人間を取り巻く地球環境の回復に関する討議を含ませましたが、私たちの自然環境は、今ではもう破壊されるだけ破壊され、水と空気は汚染されたのであり、人類を保護してくれていたオゾン層まで破損されているので、このままいけば人類は、自ら構築した物質文明のために自滅を避けることができない境地にまで至るでしょう。
物質文明の極度の被害は、あらゆる国家社会の基礎となる家庭の破壊にあります。家庭は社会の細胞です。私たちの体の中にある数十兆の細胞一つ一つが健全であれば、その体は健全な体ですが、その細胞が破壊されれば、その体全体が弱くなり、結局はその体も破壊されるのです。ですから、この地球上で真の家庭制度が破壊されていくということは、すなわち世界人類全体の破滅が遠くないことを意味します。今、私たちの社会は本来、神様が設計され創造されたものとは正反対のところに位置しているのです。
21 世紀は、神様が志される本然の世界に戻っていく世紀です。物質文明の時代は行き、精神と心が主人となる精神文明のときが訪れるのです。その 21世紀がこれから5年後に迫ってきています。このとき、開発途上にある国々は、開発国の前轍を踏まずに、先進国を教訓として物質文明の罠の中にはまることなく、心と精神が主人となる世界に直接突入してくれることを熱望しながら、叫びたかった忠告の内容をお話ししました。
(271-95 ~ 96、1995.8.23)
②喜捨と知足安分
― 宗教経典 ―
イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
マタイによる福音書19.21~ 24(キリスト教)111
比丘たち、もし生あるものたちが、私の知るように、施し分け与えることの果報を知っていたならば、他に食を施しもせず、自分だけで食べることはしないだろう。また物惜しみの煩悩の垢が、彼らの心をとらえて離さぬようなことはないであろう。彼らに食物の最後の一口でも最後のひとかけらでも残っていて、もし彼らのために施しを受ける人々がいれば、彼らはその人々に分け与えずに自分だけで食べることはしないであろう。
如是語経 26(仏教)112
誰が富者か。自らの取り分の中で喜びを享受する者である。(注17)
ミシュナ、アヴォート4.1(ユダヤ教)113
偉大な人物の教えは……そこでは、身も心も、いっさいの差別がない大同の境地に没入してしまう。大同の境地に没入してしまえば、もはや自己は存在しない。自己がなければ、いかなる有に執着することがあろうか。
荘子11(道教)114
物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
フィリピの信徒への手紙 4.11~13(キリスト教)115
そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
マルコによる福音書 6.7 ~ 9(キリスト教)116
これがトーラーの道だ。ごく少量の塩と水に頼って生きなければならず、地に伏して苦難を経験し、同時にトーラーを守って生きるのである。このようにするあなたは幸福な者であり、トーラーがあなたと共にあるだろう。
ミシュナ、アヴォート6.4(ユダヤ教)117
先生がいわれた、「えらいものだね、回は。竹のわりご一杯のめしとひさごのお椀一杯の飲みもので、せまい路地のくらしだ。他人ならそのつらさにたえられないだろうが、回は〔そうした貧窮の中でも〕自分の楽しみを改めようとはしない。えらいものだね、回は。」
論語 6.11(儒教)118
私たちがモスクで神の使徒と共に座っていたとき、ムサブ・イブン・ウマイルがぼろぼろの毛皮の外套だけを引っかけたまま私たちのところに来た。神の使徒が彼を見ると、彼は過去の豊かさを回想してほほえんだ。そして彼が言った。 「あなたたちのうちで一人が、朝に外出するときに着る外套と夜に外
出するときに着る外套が違い、皿がすべて一杯になる前にほかの皿をむだに使い、あなたの家をカーバ(神殿)を飾るように飾っているのに、どうしてあなたたちと一緒にいられようか」。これに対する答えを聞いてから彼は再び、「神の使徒よ! それならば、これからは礼拝を捧げる余裕と必要なすべてのものを得るようになり、今よりよい生活をするようになるのですね」と言った。すると使徒が答えた。「いいや、あなたにはそのときより、きょうがはるかによいだろう」。
ティルミズィー・ハディース(イスラーム)119
兄弟たちは、家も、場所も、そのいかなるものにも執着してはならない。この世の異邦人と巡礼者たちのように、堂々と清貧の中で天に仕えて生きなければならない。これを恥ずかしく思ってはならない。主なる神は私たちのために、この世にご自身を困窮な位置に置かれたからである。
私の親愛する兄弟たち、最高の清貧の場に行くのが天国の王であり、相続者であられる皆さんを、物質的には貧しいが誰よりも徳のある人にすることができます。これが生きている者たちの地に私たちを導くのであり、そこに忠実にしてくれるのです。愛する兄弟たちよ、私たちの主イエス・キリストは、この世で何も願われませんでした。
フランチェスコ 規律(キリスト教)120
他の人たちは食べるために生きるが、私は生きるために食べる。
ソクラテス(注18)(ヘレニズム)121
最小限に願うため、私は神に最も近い。
ソクラテス(ヘレニズム)122
― み言選集 ―
自分の財産はあり得ません。財産は天の財産です。神様のものであり、ために生きる人たちのものであり、自分のための財産はあり得ないのです。それは滅びます。
(399-18、2002.12.18)
皆さんは、ハンカチをもっているでしょう? そのハンカチは自分のものですか。違います。今まで自分のものだと考えてきました。これが違うというのです。私に属するあらゆる土地、家を自分のものだと考えたのです。夫、妻、息子、娘を、私の息子、娘、私の妻、私の夫と考えて思いどおりにしました。それが堕落後に継承された病弊だということをはっきりと知らなければなりません。これを立て直すための神様の歴史が数千年間、私たちの知らない中で続いてきたことを知らなければなりません。それで、所有権を否定しなければならないというのです。万物に対する所有権をすべて否定しなければな
りません。
(293-172、1998.5.26)
天宙主義者は、世界まで祭物にしなければなりません。自分の所有でも、それを未練なくきれいにすべて捧げ、その次には祭壇まで必要です。祭壇まで一緒に燔祭、燃やしてしまわなければなりません。自分の所有はないのです。祭司長の役割をきちんとしてこそ、振り返るとき、今まで祭祀を捧げた勝利の実績が振り返るその後ろにぶら下がるのです。天が準備するというのです。(注 19)
(342-227、2001.1.12)
裕福に暮らすアメリカを、すべてかき集めてでもアフリカにもっていこうという人がいれば、神様はその人を思われるでしょう。その人を愛するというのです。
(91-24、1977.1.16)
お金を集めるのですが、そのお金で自分の息子、娘に良いものを食べさせようと思ってはいけません。息子、娘に与える前に、世界のために与えたという条件を立てなければなりません。その息子、娘は世界のための息子、娘なので、まず世界に与えてから息子、娘に与えなければなりません。私の家庭よりはまず民族のために与えてから家庭のために与えようとすれば、神様は、私の家庭と私に福を下さるのです。神様が私の息子、娘に食べさせてくださるのです。私が与えようとしてもそのようにする必要がありません。そのように、自分のすべてのものを犠牲にして、自分にある財産すべてを国のために与え、世界のために与え、犠牲にしていく群れがいれば、彼らは自動的に福を受けるようになっています。
(26-52.53、1969.10.18)
経済は結果です。すべて結果が問題になっています。結果を問題として原因を見る人がいないということです。なぜお金が必要なのですか。お金でただ食べて暮らし……。そうではありません。これが原因とこの世界と一つになるために必要だ、そのような観念がありません。私が結果なので原因をよくするために必要だ、このような考えがありません。私が父母を奉養し、私の家族を奉養し、国のために愛国しようとするのでお金が必要だ、これがどれほど宇宙的な観念ですか。ところが、国も、家族も、父母もすべて必要ないというのです。国もそのお金をもっていることを喜び、父母たちも喜び、兄も喜び、全員が喜べば、私も喜ぶことができるのです。みなが嫌うのに、私だけが喜べば、それは滅びるのです。ここにいる人がこのように行くのです。ですから、どこに行っても、みな喜ぶのです。そうして喜んでこそ、それがすべての宇宙が喜ぶものになるのであって、みなが喜ばずに「私だけが、私だけが」と思っていれば滅びるのです。
(117-101~102、1982.2.14)
モーセは豪華なパロ宮中で生活をしたが、「これが何だ!」と言って民族をより思ったがゆえに、民族的な指導者になり得た。
御旨の道、指導者
今まで先生の立場は、世の中から見れば最高の立場に立っていますが、低いところに行ってもそのようなバランスを合わせるのです。赤ん坊であれば赤ん坊の友達になってあげ、学生であれば学生の友達、おばあさん、おじいさんであればおばあさん、おじいさん、宗教者であれば宗教者、学者であれば学者、どこに行ってもバランスを取ってあげます。訓練をして世界的なバランスを取ることができる人は、世界的な中心者になり、世界的な主体者になるのです。
(299-171、1999.2.15)
8. 出家
神様は、愛する家族の中で人間に対する神様のみ旨が成し遂げられることを希望されたが、たびたび霊的求道者は、神様のみ旨に従うために家庭と家族に背を向けて離れる。ある摂理的な人物は、神様の命令によってこのようなこともする。アブラハムが、自分の故郷を離れて未知の土地に行きなさいという神様の命令を受けた立場が、それである。これと似て、修道院生活の初期段階で、愛する家族と胸痛む離別をする場合もある。
ある信仰者の出家は、家族の葛藤問題を引き起こしたりもする。家族たちが彼
の信仰の道を遮る場合がある。このように、イエス様は愛する両親と配偶者から反対を受けることを予想し、弟子たちが自身の弟子になるためには相当な代価が伴うことを知って次のように警告した。「私よりも父または母を愛する者は、私にふさわしくない」。これに対して文鮮明先生は、家族と友人との離別は復帰の道を行くにおいて必要な過程といわれる。それは、堕落した世の中の習慣的な偽りの愛から、神様の高貴な愛によって新しい人生を始めることができる画期的な転機が与えられるからである。
― 宗教経典 ―
わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/ 娘を母に、/ 嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
マタイによる福音書10.34 ~ 37
(キリスト教)123
信仰する者よ、もしなんじらの父または兄弟が、信仰より以上に不信心を好むならば、かれらを親しい友としてはならぬ。もしなんじらのうち、かれらを親しい友とする者あれば、それらは不義者である。
言え「なんじらの父・子・兄弟・なんじらの妻・近親・なんじの手に入れた財産、なんじが不景気になることを恐れる商売、意にかなった住まいがなんじらにとり、神とみ使い、ならびにかれの道のために奮闘努力するよりも好ましいならば、神が命令を下したもうまで待て。神は反逆の民を導きたまわぬ」。
クルアーン 9.23 ~ 24(イスラーム)124
愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。
法句経 210(仏教)125
隣人を信じてはならない。親しい者にも信頼するな。
お前のふところに安らう女にも / お前の口の扉を守れ。
息子は父を侮り / 娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。
人の敵はその家の者だ。しかし、わたしは主を仰ぎ / わが救いの神を待つ。
わが神は、わたしの願いを聞かれる。
ミカ書 7.5 ~ 7(キリスト教)126
神は不信者のために一例を示したもう、ノアの妻、およびロトの妻である。かれら両人は、ふたりの正しいわがしもべのもとにいた、かの女らは、夫に不真実で、神のみもとで何ら得るところはなかった、そして「なんじらふたりは、他のはいる者と一緒に火獄にはいれ」と、言われた。
また神は、信仰する者のために一例を示したもう、ファラオ(注 20)の妻である。かの女が「主よ、楽園の中のあなたのおそばに、わたしのため一邸宅をお建て下さい、そしてファラオとその行いから、わたしを救い、不義を行なう者から、わたしをお救い下さい」と、言ったときを思え。
クルアーン 66.10 ~11(イスラーム)127
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 / 父の家を離れて / わたしが示す地に行きなさい。……」
創世記12.1(キリスト教)128
わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。
マタイによる福音書19.29(キリスト教)129
神の道のために移住する者は、地上に広い避難所と、豊かな生息分野のあることを知るであろう。およそ神とそのみ使いのもとに、家郷から遷移者として出て行き、その後途中で死に遭遇したならば、神において、必ず償ないの責めを負いたもう。神は、寛容者・慈悲者であられる。
クルアーン 4.100(イスラーム)130
もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
ルカによる福音書14.26(キリスト教)131
あなたの兄弟や父の家の人々 / 彼らでさえあなたを欺き / 彼らでさえあなたの背後で徒党を組んでいる。彼らを信じるな / 彼らが好意を示して話しかけても。
エレミヤ書12.6(キリスト教)132
尊者戦勝の舊妻は尊者戦勝に近づき彼に告げていへり。「沙門よ、我が小子を養へ」と。かくいふも、尊者戦勝は黙してありき。尊者戦勝の舊妻は再び彼に告げていへり。「沙門よ、我が小子を養へ」と。尊者戦勝は再び黙してありき。尊者戦勝の舊妻は三たび彼に告げていへり。「沙門よ、我が小子を養
へ」と。尊者戦勝は三たび黙してありき。尊者戦勝の舊妻は「沙門よ、こは汝の子なり。これを養へ」と、かくいひて、その児を尊者戦勝の前に捨てて去れり。尊者戦勝はその児を看ず又呼ばざりき。かの舊妻は 稍々 行きて顧み、尊者戦勝のその児を看ず又呼ばざることを見て、思へらく、「この沙門には子の用なし」と。それより還り来りて児を携へて去れり。
「多くの人々、ここにありて欲すれども水によりては清浄ならず。何人にも真実と法とだにあらば、彼は清浄なり、彼は婆羅門なり」
感興偈 5 ~ 6(仏教)133
あなたの富と妻を放棄せよ。あなたは出家者の人生を始めなければならない。吐き出すように嫌なものに戻るな。ゴータマよ、常に注意せよ!
あなたの友と親戚たちを離れ、あなたが集めた大きな富を捨てよ。二度とそれらに対する欲望を抱くな。ゴータマよ、常に注意せよ!……
今あなたはとげがすっかり取り除かれた道、偉大な道に入った。正しい道を歩んで行け。ゴータマよ、常に注意せよ!
ウッタラッジャーヤー・スートラ10.29 ~ 32
(ジャイナ教)134
サーリプッタ尊者よ、どうしてわれわれに励みがありましょうか。われわれは母父を養わねばなりません。妻子を養わねばなりません。奴隷・雑役夫を養わねばなりません。友人・知己に対して友人・知己の務めを果たさなければなりません。親族・縁者に対して親族・縁者の務めを果たさねばなりません。賓客に対して賓客の務めを果たさねばなりません。先祖に対して先祖の務めを果たさねばなりません。神々に対して神々の務めを果たさねばなりません。王に対して王の務めを果たさねばなりません。この身体も喜び、元気づけられねばなりません」と。
「ダナンジャーニーよ、そのことをどう思いますか。つまり、ここで、ある者が母父のために非法行者・不正行者になるとします。そのかれを、非法行・
不正行のために、獄卒たちが地獄へ引き込む場合、かれはつぎのように言うことができるかどうかです。『私は母父のために非法行者・不正行者になりました。獄卒たちは私を地獄に引き込まぬように』と。あるいはまた、かれのために母父がつぎのように言うことができるかどうかです。『この者は母父のために非法行者・不正行者になりました。獄卒たちはかれを地獄に引き込まぬように』」
阿含経中部 ii.186 ~187(仏教)135
朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。子や妻に対する愛著は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。仲間の中におれば、遊戯と歓楽とがある。また子女に対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。
妻子も父母も、財宝も穀物も、親族やそのほかすべての欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め。「これは 執著 である。ここには楽しみは少なく、快い味わいも少なくて、苦しみが多い。これは魚を釣る釣り針である」と知って、賢者は、犀の角のようにただ独り歩め。水の中の魚が網
を破るように、また火がすでに焼いたところに戻ってこないように、諸々の (煩悩の)結び目を破り去って、犀の角のようにただ独り歩め。
スッタニパータ 37 ~ 62、犀の角(仏教)136
― み言選集 ―
イエス様は、「だれよりも私を愛さなければならない」と言いました。「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」と言ったのですが、この言葉は公式です。それでは、反対する者は誰ですか。自分を最もたくさん
愛した順序どおり、自分をもっと愛した人の順序で反対するようになるものです。それで、「家の者が、その人の敵となるであろう」という言葉が宇宙的な真理だということを知らなければなりません。
(92-207、1977.4.10)
イエス様は、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」 (マタイ10・37)という話をしたために反対を受けました。なぜそのような話をしたのですか。そのような話がどこにありますか。ですから反対を受けたのです。世の中で反対を受けながら、そのような話をしました。
それはなぜでしょうか。原罪を断ち切るためです。サタンの血があるので、それを抜き出さなければならないからです。そして語られる言葉が「家の者が、その人の敵となるであろう」ということです。世の中に、そのような話がどこにありますか。私の母が怨讐で、私の父が怨讐で、私の妻、私の息子、娘が怨讐だという話ではないですか。世の中にそのような話がどこにあるのですか。しかし、原罪があるのでそのように言わざるを得ないのです。原罪を中心とする体が互いに愛する日には、この原罪が断ち切られません。これは否定できないのです。ですから怨讐だというのです。
血筋というものは愛を通して連結されるので、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛がすべて 180 度回れ右しなければなりません。「すべて必要ない。何よりも神様の愛を第1にしなければならない」、こうでなければならないということです。
(79-160、1975.7.20)
夫が第1であり、妻が第1であり、私の息子、娘が第1だと考えるのですが、その第1だという位置がサタンの血筋を受け継いだ位置での第1だというのではいけないのです。これを否定しなければなりません。神様の愛のために夫の愛を否定しなければなりません。これが問題です。妻の愛を否定しなければなりません。子女の愛を否定しなければなりません。絶対的な神様が向き合えるのが本来の人間なのですが、皆さんの体にサタンがいたずらした痕跡がある限り、皆さんは本来の愛の理想を心と体に根づかせることはできないのです。
(140-24、1986.2.1)
天を求めていく道においては、世の中の初恋よりも高い愛を、天を中心として感じる位置を探し出すことができなければ、天に帰る道がないのです。それでは、そのようになるためにはどのようにしなければなりませんか。初恋の自分の相対を中心として生命を捧げるがゆえに生命問題、その次には物質問題、その次には知識問題、その次には権力問題、すべてが問題になります。命懸けで恋愛結婚した人が天のみ旨の前に入っていこうとすれば、1週間以内にこれを捨てることができる愛の圏を求めていかなければなりません。
(102-19 ~ 20、1978.11.19)
この世界をどのように復帰するのでしょうか。個人を中心としてここに植えるのです。反対になって引っ張っていかなければなりません。脱出しなければならないのです。それで、仏教のような高次的な宗教は出家をしなければなりません。父母を愛してはならず、兄や姉を愛してもいけません。「私より
も父または母を愛する者は、私にふさわしくない」という聖書の言葉は逆説的論理ですが、それは天の道を求めていく道理に従った論理として、受け入れなければならないのです。
(181-212 ~ 213、1988.10.3)
お父様!
私がお父様のみ前に
恥ずかしくないのは、
お父様の威信を立てるために
人間の威信を余地なく
放棄してしまったし、
お父様の威信とお父様の権威を立てるために
自分の位置と環境と、立場も
みな放棄してしまったからです。
それをあなたは
よく知っていらっしゃいます。
世界の人間の誰も行けなかった
事情の道を
求めていかなければならないと、
身もだえする歴史過程において、
あなたは一つ一つ慰労なさり、
一つ一つつかみながら、
「この道を行くお前以上に
寂しい者がこの地上にいない。
再び行くべき寂しさが残っている」と
勧告なさった
お父様のその声を忘れられません。
(159-61、1968.1.28)
自分の愛する子女をあとにして、孤独の道に従い、誰も歓迎しない天の道を求めていき、国のない運命の道を求めていくというのは、とても難しいことです。私も赤ん坊を捨て、家庭を捨てて、以北の地に向かった歴史のある人です。行きたくて行ったのではありません。神様が必要とし、天の命令があるがゆえに行ったのです。行くまいと身もだえしながら、1、2 日は深く悩みましたが、その悩みよりもっと大きな神様の事情を知ったので行ったのです。
(64-148、1972.10.29)
皆さんも家庭を抱いてどれほど身もだえしてきましたか。自分の息子、娘を愛することができない人はいません。犬や豚でもそうです。木石のように鈍い人でもそうです。私、レバレンド・ムーンも同じです。息子、娘を愛する心がないのではありません。誰よりも強い人です。鋭敏な人です。一家を愛する
ことができない人ではありません。母が監獄に訪ねてきたとき、私は目を見開いて「母誰々の息子ではない」と怒鳴りつけました。その母は生きていません。亡くなったことを知った今は「不孝をした」と……。しかし、その息子は自分自身のために生き、一家の幸福のために生きるのではなく、国と世界
のために神様のみ旨、天理を身代わりしてそのようにしたのです。
(168-148、1987.9.13)
9. 世俗の分別
世俗の人生は、神様に向かう人生と比べることはできない。快楽と富、名誉、物質的安定の追求は必然的に霊的求道の妨害となる。俗世に向かう情熱と執着は、単純に精神的な散漫さを越えて霊魂を地獄まで引っ張っていく。したがって、経典には世の中と世の中の価値に順応するなという数多くの忠告が含まれている。
賢明な人々は、世俗的成就を一つの妄想とみなす。そして、そのような快楽に喜ばず、神様のみ旨に献身することを誓う。常に世の中の考えから距離を保ち、天が下さる霊的感動をかみ締める。世の中で言う成功よりは、霊的成長をその業績として理解する。
ある宗教では、修道院共同体生活を通して俗世と分別を試みる。しかし、道徳的勧告や教会の教えによって形成される修道生活と世俗的生活の境界線は、それほど明らかではない。俗世に埋もれて生きているが、決して世俗的でない人々もしばしばいる。彼らは、見た目は平凡に見えるが、彼らの内面は世の中の支配的価値に執着せずに、他の価値観をもって生きている。
①世俗のやり方に従わない
― 宗教経典 ―
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
ローマの信徒への手紙12.2(キリスト教)137
大道に棄てられた塵芥の山准の中から 香しく麗しい蓮華が生ずるように。
塵芥にも似た盲た凡夫のあいだにあって、正しくめざめた人(ブッダ)の弟子は知慧もて輝く。
法句経 58 ~ 59(仏教)138
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
マタイによる福音書16.26(キリスト教)139
ある男が預言者のところにやって来て言った。「 神の御使いよ、私がそれをすれば、神も人々も私を愛するような行いについて教えてください。」すると預言者は言われた。「現世から身をひけば、神はお前を愛されるだろう。人々が所有しているものから身をひけば、人々はお前を愛するだろう。」
ナワウィー 40 のハディース 31
(イスラーム)140
下劣なしかたになじむな。怠けてふわふわと暮らすな。邪な見解をいだくな。世俗のわずらいをふやすな。
法句経 167(仏教)141
わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。
ヨハネによる福音書17.14 ~18(キリスト教)142
世の中のことを一切省みることなく、満足しきって、全ての希望を捨て、忍耐する。これらが感覚を統御し、自己に関する知識を獲得した者がもつ最高善の様相である。この世のものに執着する必要はない。この世のものに対する執着は、悪を生み出す。
マハーバーラタ、シャーンティ・パルヴァン 329
(ヒンドゥー教)143
君子はおのれの才徳を秘めて控え目に行動し、外からの禍難を避けることを心がける。そのような君子は禄位などで飾りたてようとしても心を動かされぬものである。
易経 12、周易上経、否(儒教)144
聖人は天道の自然に従い、真をとうとび、世俗の風習に拘束されることがない。ところが愚かものはこれと反対に、自然に従うことができず、人為に心を労し、真をとうとぶということを知らない。ただ、だらしなく世俗の風習に同化されてゆくだけだ。だから、真実の心に欠けるのである。
荘子 31(道教)145
世界には始めがある。それは世界の母と呼ばれる。その源を知ったものは、その表れを知る。
その表れを知り、その源とともにとどまるとき、人生で不足することはない。
言葉による表現をやめ、感覚への道をふさぐならば、一生の終りまでくたびれることはない。
これに対して、言葉が満ちあふれ、わずらわしさが増すならば、
一生の終りまで救われないだろう。 (注21)
道徳経 52(道教)146
かれは白衣をつけた世俗の人であるけれども、修行者の清浄な戒律の行を奉じたもち、在家の人であるけれども、三界に執著していない。妻子あるすがたを示しているけれども、常に清らかな行を修している。眷属のあるすがたを現じているけれども、常に遠ざかり離れることをねがい、宝の飾りをつけているけれども、しかも相好をもって身をかざり、また飲食するけれども、しかも精神統一の悦びを味わっている。もし博奕や遊戯の場所に至っても、そのたびに人をすくい、もろもろの異なった道を修する人々を受け入れても、正しい信仰をやぶらない。世俗の典籍を明かにするけれども、常に仏法をねが
い、一切の人に敬われて、供養される人々のうちで最上のものとなる。……一切の職業活動がうまくなだらかに行なわれ、俗利をうるけれども、それで喜ぶことはない。もろもろの四つ辻に遊んで、衆生のためになることをなし、法律政治のはたらきに入って一切の人々を救い護る。
維摩経 2(仏教)147
― み言選集 ―
いつまでも、自分自身を中心に堕落した世界の因縁をそのままかぶり、その因縁をそのまま抱えて生きていてよいのでしょうか。そのように生きては、神様が行かれる動機の道、神様が行かれる目的の道を、私たちが行くことはできないというのです。
(21-102、1968.11.17)
世俗的な世界ではお金が必要であり、知識が必要であり、力が必要です。これが最も重要です。しかし、その三つのものをもって神様に連結されるのではありません。それでは何をもって連結されるのですか。真の愛です。
(270-308、1995.7.23)
人々は、どのようなものを最も好みますか。すべて偽物を好みます。ですから、本物はまっすぐに歩いてこないのです。逆さまに来るのです。人が逆さまに来るのを見ると、病人のようです。病人のような人が逆さまに来ます。病人ではないのに、逆さまに訪ねてくるというのです。人が来るとき、まっすぐに歩いてくるのではなく、逆さまに歩いてきます。足の代わりに手をつき、足が天に上がっていくように歩いてくるのです。それを歓迎しますか。その人は病人ではありません。ところが、本当に病人ならば、そのような病人を歓迎するかというのです。
それで聖書のみ言に、「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」とあります。この言葉は何かというと、滅びようとす
る人は成功し、成功しようとする人は滅び、愚かだと考える人は優れているのであり、優れていると考える人は愚かなのであり、貧しく暮らそうとする人は富者になるのであり、富者になろうとする人は貧しく暮らすということです。学校に行って自分がびりだと思えば、一生懸命に勉強するので1番になるというのです。これが真です。
(102-251、1979.1.14)
時間の限界性を超越した無限の世界から来る懇切な心情をもって、地上のいかなる苦労と苦痛と死の恐怖までも制圧して残ることができる人にならなければなりません。皆さんが個人の道で勝利するためには、いかなる苦痛も欲望も、一切を拒否して堂々と行くことができなければなりません。個人の道において勝利した者は、個人的な闘いで勝利したように家庭に対してそのようにし、民族、国家、あるいは世界に対してもそうです。彼は、世界的な問題において勝利した者です。
(7-97、1959.7.19)
私たちは変わることを知らない人たちです。皆さんはそうです。神様は変わりません。私たちもそうです。それが私たちの財産であり、誇りです。これは億千万金でも、世の中のどのような権力でも、何であっても取り替えられません。幾銭かのお金に、権力に、女性に売られていくそのような人たちではないのです。そのような安物ではないということです。私は王座に上がっていって変わる一生を送るよりは、変わらない乞食の生活を選ぶでしょう。
(124-253、1983.2.20)
皆さんは、この道を行きながら自分のものに対する所有欲と子女に対する希望と夫または妻に対する愛と自分に対する愛着心まで奪われていくことがあるでしょう。そのときに皆さんは、そのような愛着心を握ったまま世界を越えていこうとしてはいけません。物質と子女の愛、そして自分を中心とす
る希望などの人情的なあらゆる条件を断ち切ってしまうときにこそ、皆さんは世界的な祭物の峠を越えていけるのです。
(2-118、1957.3.10)
終わりの日には、理想世界が来る前に審判が来なければなりません。この審判を避けることができる人は、歴史的な事情と因縁をそっくりそのまま抱いていく人ではなく、それを捨ててしまう人です。世の中が流れるとおりに従っていくのではなく、そのようなものを蹴飛ばして回れ右して道を避けていく人であってこそ、審判を避けることができるのです。そうでなければ、新しい理想的な出発を見ることはできないので、宗教はこのような内容を中心として「世の中を捨てなさい。世の中とのあらゆる因縁を切りなさい。世の中に近づいてはいけない。世の中と一つになってはいけない。世の中と断絶しなさい。否定的な立場で新しい「覚心(迷いを離れて悟りを得た本来の心)」を育てなさい」と教えてきたのです。現在を押していくことができ、未来を打開し、過去を収拾できるこのような「覚心」が必要なので、宗教は世の中と妥協することを要求しません。
(21-136 ~137、1968.11.17)
サタンの血を受けた人は自分のことばかりを考えるのです。サタンの血を受けた人は、自分を中心とする人です。今日、アメリカを中心とするキリスト教文化圏があのように個人主義国家になり、人本主義、最近では世俗的な人本主義だとして、世界の混乱様相を中心として抹消神経を刺激して幸福を求
めていくというのですが、あとですべて病気になって断崖に落ちるのです。男女が昼夜抱き合って喜び騒いでいますが、エイズにかかり、やせ細って落ちていくようになっています。
(187-241、1989.2.11)
②世俗的安楽の否定
― 宗教経典 ―
さあ、この世の中を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺するが、心ある人はそれに執著しない。
法句経 171(仏教)148
快楽は金と銀に、女性に、そしてあらゆる楽しいものにあり、快楽は安楽な寝台に、豪華な邸宅に、そして甘美な食べ物にある。このすべての快楽を嫌うことなくして、どうして神の聖なる名が胸に宿ることを願うのか。
アーディ・グラント、スリー・ラーグ
M.1、p.25(シク教)149
ヒレルがよく言った。「肉が多いほど虫が多くたかり、富が多いほど心配が多くなり、女性が多いほど誘惑が多くなり、女性の下人が多いほど好色が濃く、男性の下人が多いほど泥棒が横行し、律法が多いほど生命が満ちあふれ、勤勉であるほど知恵が多くなり、議論を多くするほど理解心が多くなり、慈善が多い所ほど大きな平和が訪れてくる」。
ミシュナ、アヴォート2.8(ユダヤ教)150
この世の河川は汚染され、その井戸は混濁している。その見せかけと姿形は華麗だが、すべて有害なものにすぎない。それは、急激に終末に向って駆けあがる欺瞞、急速に消えていく光、暮れていく影、そして微弱でよりどころのない保護膜だ。それはあまりに欺瞞で満ちあふれ、それに関心をもつことを嫌い、その欺瞞の程度を知らない者がそれに眩惑され、それに満足にするまで待っている。そのときそれは、それらに対する関心を全くみせず、彼らをわなにはめようと捕まえ、彼らの首に死の綱を結び、彼らの墓に導いていく。
ナフジュ・アル・バラーガ 説教 86
(イスラーム)151
愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、
愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?
愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。
愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?
快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。
快楽を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?
欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。
欲情を離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか。
妄執から憂いが生じ、妄執から恐れが生じる。
妄執を離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか。
法句経 212 ~ 216(仏教)152
あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、
あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。
エフェソの信徒への手紙 5.3~7(キリスト教)153
「あなたたちはわたしのものとなり、聖なる者となりなさい。主なるわたしは聖なる者だからである」 (レビ記 20.26)。私が聖なる者だから、あなたたちも聖なる者であれ。私が世の中から区別されているのだから、あなたも世の中から区別されよ。「わたしはあなたたちをわたしのものとするため諸国の民から区別したのである」 (レビ記 20.26)。もしあなたが、あなた自身を他の民と区別するなら、あなたは私に属する。しかし、そうでなければ、あなたはネブカドネザルの民になるだろう。ラビ・エ
リエゼルが言った。「ある人が『私は豚肉を食べる考えがなく、結婚を許されていない女性と性関係をもつ考えはもっていません』と言ってはいけないが、彼が『このような行為をしたいですが、天にいらっしゃる父が禁じられたので、どうしてそのような行為をすることができますか』と言うべきであることを、私たちはどうして知ることができようか。これに対する答えとして、聖書には、『わたしはあなたたちをわたしのものとするため諸国の民から区別したのである』という言葉がある。罪悪から自らを区別させる者は、天の国を受けるようになる」。
スィフレイ93d(ユダヤ教)154
― み言選集 ―
邪悪な世の中でなされるすべてのものは、私たちを幸福の門に導くのではなく、死亡の罠と死亡の落とし穴に追い込むのです。
(47-49、1971.8.19)
天情と人情は食い違います。皆さんはそれを知らなければなりません。人が良いというところには天がいないのであり、天が良いというところには人がいないのです。それを知らなければなりません。ですから、世の中が良いというところに色目を送り、拍子を合わせていく宗教は長続きしません。
(51-187、1971.11.21)
対立した善悪の世界という立場から見るとき、体に引っ張られていけば悪の世界になるのであり、心に引っ張られていけば善の世界になるのですが、ここでは心が体を完全に支配できません。いつでもその中間で、行ったり来たりするのです。しかし、宗教を中心として神様のみ旨を絶対視するようになれば、サタン世界と分立された位置に行けます。対立した善悪の世界なので、分別された位置で善を中心として生きなければなりません。そのような個人の生活を経た人は、霊界に行って善主権の世界で、永遠に生きるなといっても、永遠に生きるのです。
(36-82、1970.11.15)
責任分担をもとうとすれば、皆さんはどのようにしなければなりませんか。責任分担と向き合うことができる人になるためには、どのようにしなければならないでしょうか。サタンの情、サタンの人情、サタンの血筋を受け、情の因縁の中で生まれたすべてのこと否定する位置に立たなければなりません。なぜですか。アダムが責任分担路程を行くとき、サタンの情をすべて抱えて行きましたか。答えてみてください。サタンが何かの情をもってきましたか。もってきていません。皆さんは今何ですか。責任分担を求めていくためにサタン世界の情をすべて切りましたか、切っていませんか。切ることができずに責任分担ができますか。ですから、否定しなければなりません。
(139-250、1986.1.31)
歴史的な偉人や先覚者たちは、世の中の楽しみや満足を得ようとしたのではなく、より高い理念に向かって約束された一つの所を目的地とし、あらゆることを克服していく探検家的な気質をもった人たちでした。
(7-87、1959.7.19)
サタン世界とは永遠に違わなければなりません。180 度違わなければなりません。サタン世界でフリーセックスやホモ、レズビアン、麻薬や酒を飲むということとはすべて反対です。サタンがどれほど天を犠牲にさせ、善の人を犠牲にさせたか、愛の道を中心として、歴史にどれほど悲痛な犯罪の事実を残したかを知らなければなりません。
(244-148 ~149、1993.2.1)
皆さんの父母たちは、 「おい、なぜデートしないのか。出ていってデートしなさい!」と言いますが、レバレンド・ムーンは、「デートするな! 女性たちに手を出すな!」と言います。誰がサタン
側で、誰が神側ですか。
(122-263、1982.11.21)
10. 苦行、修道生活、そして禁欲生活
俗世から完全に自身を分離しようとする人は、隠遁を選択したり、修道僧や修道女の人生のように独身生活を主張するだろう。仏教とジャイナ教、ローマ・カトリックと東方正教会では、最高の宗教的聖職を、独身生活をする僧侶、修道女、そして神父とみなしている。禁欲主義はヒンドゥー教でも多く発見することができる。一生の間、禁欲生活をするだけでなく、解脱の境地に達するために人生の晩年を孤独な独身生活で送るバラモンの伝統がある。キリスト教の修道院は、神様に対する愛を女性に対する愛より尊く思い、清貧と純潔の生活を送ると誓った彼らに、環境的条件を支援するために制度的形態として作られたものである。
イスラームには修道院体制がない。しかし、ラマダン期間に1カ月の間続く断食を通し、幅広い禁欲生活を実践する。断食と徹夜祈祷は、食べ物と睡眠に対する肉欲を打つものだ。そして、これらは過去に霊的エリートの少数者だけが享有した伝統的修道院体制とは異なり、一般人も簡単に行える禁欲生活の実践である。タイとスリランカの若い男性仏教徒たちは普通、家庭をもうける前に、6 カ月の間修道院で訓練を受ける。
肉欲を抑制することを強調する文鮮明先生も、心身統一を成すための修道院の修業は高く評価される。独身生活をする神父と人間創造時に家庭理想を夢見られた神様の理想との間には、明らかにある種の緊張感が高まっている。このような脈絡から、この節の最後の部分には、行き過ぎた禁欲的人生に対して批判するいくつかの文章を載せた。このような批判は、禁欲を実践するすべての宗教において同時に提起されている。行き過ぎた禁欲主義は、同情心の欠如した人性に発展することがあり得る。修道院生活は、神様が経綸する裕福で生産性あふれる社会と決して比較できないだろう。文鮮明先生の教えは、人間の堕落によって誤った結婚をしてしまったことで、初めから禁欲と独身生活を強調せざるを得なかった神様の心情にまで言及している。最後には結婚が本来の状態に回復して、これ以上独身訓練が必要ない新しい時代の到来に対しても言及している。過去の独身生活は高貴なこととみなされるほかなかったが、今は宗教が独身生活より結婚の価値をさらに高揚させなければならない時が到来した。この修道院と独身生活の変化の徴候は、すべての宗教世界で感知されている。
①修道者の苦行
― 宗教経典 ―
譬えば空飛ぶ青頸の孔雀が、空を飛ぶときには、どうしても白鳥の速さに及ばないように、在家者は、世に遠ざかって林の中で瞑想する聖者・修行者に及ばない。
スッタニパータ 221(仏教)155
托鉢を続けよ。森にとどまれ。絶食せよ。必要なことのみ語れ。困窮を耐え忍べ。睡眠を克服せよ。殊勝な姿勢で、すべての人を友とせよ。しかし、執着してはならない。
ヴァッタケーラ ムーラーチャーラ981
(ジャイナ教)156
誹ることなく、害ふことなく、波羅提木叉に於て自制あり、食に於て節度を知り、閑処に坐臥し増上心に専念す。是諸仏の教えなり
感興偈 43(仏教)157
家を離れ、十分な清めの道具(パヴィトラ)を所持し、沈黙を守り、迫る快楽に無関心となって遍歴すべし。同伴者を持たず、成就を求めて常に独りで行動すべし。孤独者に成就があることを見る者は〔何ものも〕捨てないし、また〔何ものによっても〕捨てられない。火も、家も持ってはならない。村にすがるのは食べ物のためであるべし。無関心で、動揺せず、沈黙を守り、完全な精神集中をはかるべし。〔施物を受けるための〕壊れた土器、樹下、ぼろ布、同伴者をもたないこと、いっさいに対する平等―
これが解脱者の特相である。
死を喜んではならない。生を喜んではならない。ただ時機を待つべし。召使いが命令を〔待つ〕ように。視線によって清められた足を置くべし(目の前をよく見て生き物がいないことを確かめて足を地面に置く)。布によって清められた(布で漉した)水を飲むべし。真実によって清められた言葉を語るべし。心によって清められた行動をするべし。
罵言に耐え、何ものをも軽蔑してはならない。誰に対してであれ、この身体にすがって敵意を抱くようなことをしてはならない。怒れる者に怒りを返してはならない。罵倒されたときは祝福を告げるべし。七門(肉体)に満ちる虚言を語ってはならない。自己に悦び、 〔瞑想のために〕座り、無関心となり、渇望を断ち、自己のみを同伴者として、幸せを求めてこの世を遍歴すべし。……
〔一日に〕一度乞食に歩くべし。量の多いことに執着してはならない。なぜならば、施物に執着する遍歴者は感官の対象にも執着するからである。遍歴者は、常に、炊煙が絶えたとき、杵の音がしなくなったとき、炭火が消えたとき、人々が食事を終えたとき、容器の片付けが終わったとき、乞食にまわるべし。〔施物〕が得られなくとも気を落としてはならない。また得られても喜んではならない。命を維持するに足るだけの量を受け取るべし。量に対する執着を捨てるべし。敬われて得たものをいっさい軽蔑すべし。遍歴者は、たとえ解脱したとしても、敬われて得たものによって縛られる。
感官がその対象によって奪われたときは、僅かな食べ物を摂取し、密かに〔交互に〕立ち座ることによって〔感官の働き〕を停止させるべし。感官を制御し、愛憎を消滅させ、生き物に危害を加えないことによって不死にふさわしくなる。
マヌ法典 6.41~ 60(ヒンドゥー教)158
謙遜の一番目の段階は、躊躇なく従順にすることである。これは誓った聖なる服従のために、あるいは地獄に対する恐怖や永生の栄光のためにするのである。修道院長の命令が下れば、まるで神が下さった命令のように、あなたたちはいかなる躊躇もあってはならない。……
語る自由はめったに許してはならない。……修道院長に質問することがあれば、低く慎み敬う姿勢で尋ねるようにせよ。しかし、基準の低い笑い話や意味のない言葉、大きな笑いを誘発する言辞は、どこでも禁じられなければならない。口を開いてそのような言葉が出てこないようにしなければならない。……
個人の所有物は、いかなる場合も修道院に入れないように根絶させなければならない。そして、誰も大修道院長の命令なく物を交換することを想像もできないようにしなければならない。そのいかなる物も、許諾なく個人の所有物としてもってはならない。本、黒板、ペン、その他の物も許諾されない。修道僧は「自分」という意思や肉
身も許諾されないからである。しかし、必要なものがあるときには、その寺院に責任をもつ神父に要請しなければならない。しかし、大修道院長が与えたり、所有することを許諾していない物は、いかなる物も与えてはならない。すべての物がすべての人に平等であるようにせよ。
ベネディクトス 規律(キリスト教)159
― み言選集 ―
何を抑えようとするのでしょうか。この体を抑えようというのです。ですから、「断食をしなさい、祈祷をしなさい、眠ってはいけない、結婚せずに一人で生きなさい、犠牲、奉仕しなさい」と言うのです。高次的な宗教、カトリックのようなところでは、神父と修道女たちが独身生活をしていて、仏教も高次的な宗教として独身生活を強調するのです。
ところが、アメリカの若者たちはどうでしょうか。宗教では体を征服するために、このように正反対の生活を強調しているのですが、アメリカの若者たちの生活は、このような生活とは完全に遠い距離にあります。サタン世界に包囲され、また包囲されて、地獄の底に入っていって暮らしている事実を知らなければなりません。神様が願わない地獄の底で生きているという事実を悟らなければなりません。それでは、なぜ体を打たなければならないのですか。これがサタンの舞台になっているからです。
(215-236、1991.2.20)
体が大きければ、その次には良心を踏みにじるのです。力のない私を押しのけます。良心がそれを主管しなければなりません。宗教がそれをするのです。これは自分自ら停止するまでは継続するということを知らなかったので、中世のキリスト教で苦行をしたのであり、大勢の宗教が道を修めるために苦しみました。しかし、中断した理由はこの原則、規範を知らなかったからです。その怨讐がどこにいるか分からなかったのです。今ではもうはっきりと分かりました。その時はそれを知りませんでした。この体がこのような怨讐だということを知らなかったのです。この体が平定されなければ継続しなければなりません。継続しなければならないのです。
(254-222、1994.2.13)
プラスとプラスは相反です。互いに反発し、押し出すのです。サタンとは何かというと、神様がプラスの立場なのに、マイナスの立場に立たずにプラスの立場に立とうというもの、これが正にサタンです。既に話したように、修養の生活では禁欲主義を叫んでいます。それはサタン側、すなわち悪に属するプラス的な面を経てマイナス的な立場に転換させるためなのです。
(4-23、1958.2.16)
宗教は否定するのです。ですから、すべて捨てなければなりません。「食べることも捨て、寝ることも捨て、好きなことをみな捨てなさい、情欲、食欲、睡眠欲を捨てなさい」というのです。食べて寝て、好きなことをみな捨てなさいというのです。人は本来、食べて寝なければなりません。そして好きなことをしなければなりません。ところが、そのすべてのものが肉身を通して死亡の行路になったので、これを追放しなさいというのです。体に爆弾を爆発させなさいというのです。粉々にしてすべて占領しなさいというのです。体は高められることを好み、楽な位置を好みます。またごつごつしたものは嫌い、ぽちゃぽちゃし、すべすべし、ふかふかしたものを好みます。私たちは、この体が好むことを好んではなりません。ですから私たちは、まるまるとしたものではなく、ごつごつしたもの、固いものなど、体が好むものと反対のものを好まなければなりません。体は高まることを好み、他人のお金を奪ってでもよく食べることを好みます。他人はどうなろうと、自分が豊かに暮らせれば喜びます。ですから、そのような根性をすべてたたき壊さなければなりません。高まることを好む体を低くしなさい、温柔謙遜になりなさい、犠牲奉仕しなさいというのです。
(18-67 ~ 68、1967.5.21)
②断食
― 宗教経典 ―
第七の月の十日は贖罪日である。聖なる集会を開きなさい。あなたたちは苦行をし、燃やして主にささげる献げ物を携えなさい。
レビ記 23.27(キリスト教)160
信仰する者よ、なんじら以前の者に定められたように、なんじらに斎戒が定められた。おそらくなんじらは主を畏れるであろう。斎戒は定められた日数である。だがなんじらのうち病人、またはたび路にある者は、後の日に同じ日数を斎戒すればよい。それに耐え難い者の償いは、貧者への給養である。すすんで善い行いをなすのは、己れのために最もよい。もしなんじらがよく、その精神を会得したならば、斎戒はさらになんじらのためによいであろう。
ラマダーンの月こそは、人類の導きとして、また導きの明証正邪の基準ために、クラーンが下された月である。それでなんじらのうち、この月家にいる者は、この月じゅう斎戒しなければならぬ。病気にかかっている者、またはたび路にある者は、後の日に、同じ日数を斎戒する。神はなんじらに易きを求め、難きを求めたまわぬ。これはなんじらが定めた期間を全うして、導きに対し、神をたたえるためである。おそらくなんじらは感謝するであろう。
クルアーン 2.183 ~ 85(イスラーム)161
私の息子よ、お前は同僚の何かの助けにならなければならない。その理由として、私はお前に断食することを勧告する。私たちの中にいる私たちの先祖は、あらゆる種類の祝福を送っている。努力してこの祝福を受けよ。ウォーチーフの中の一人、私たちの先祖の中の一人が、お前を哀れに思うようにせよ。そうすれば、ある日、 (生命の)道に従って旅行するとき、お前は何をしなければならないかが分かり、障害物に出会わないだろう。そうすれば、お前はどんな問題もなくお前が望む褒美を追求することができる。そのとき、栄誉はお前のものである。どんな問題点にも接することなく、お前はそれを獲得できるからである。
存在するすべての戦争の力は、戦争を統制している私たちの先祖に所有されている。そしてもし、敬虔にお前が死ぬことをお前自身に渇望すれば、そのとき彼らはお前に祝福を下すだろう。
今もしお前がお前の足を疲れさせなければ、もしお前がお前の顔を炭で黒く塗らなければ、お前がお前自身に苦痛を与えることは何の意味もないだろう。この祝福は、努力なくして獲得されない。大地の創造者によって創造された霊魂の中の一つがお前を哀れに思うように努力せよ。その霊が語ることは何でもそのとおりになるだろう。もしお前がお前を強くするために一つの霊魂を所有しなければ、お前は全く大したものではなく、人々はお前をそれほど尊敬しないだろう。
ウィネバコ族の父の訓戒(アメリカ先住民の宗教)162
「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれ
ず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
マタイによる福音書 6.16 ~18(キリスト教)163
― み言選集 ―
宗教では、体が願うことを否定します。体が願うこと、体が喜ぶこととは何ですか。平安なところを願います。ですから、その反対に苦痛の道を行きいなさいというのです。その次には何ですか。食べることを好みます。良いものを食べようと考えるのです。ですから、 「断食をしなさい」と言うのです。
(140-25 ~ 26、1986.2.1)
世の中で空腹なことほど痛ましいことはありません。おなかがすいていることを越えて、おなかがすいている以上に神様を慕わなければなりません。統一教会員はみな1週間断食をします。断食しながら 12 時になる 10 分前になれば、「ああ、9分残っている。ああ、8分残っている。ああ、1 分、60 秒残っているなあ。ああ、チクタク、チクタク……。ああ、20 秒残っている。ああ……」と考えて 12 時になれば、「ああ、御飯だ!」と御飯のことを考えましたか、神様を考えましたか。御飯を食べたいと思うよりも神様をもっと慕いましたか。おなかがすいていると思う以上に神様を慕わなければならないのです。
先生は、ですから 30 代までおなかがすかない日はありませんでした。どれほど御飯を食べたいかというと、そばで御飯と言えば、口がこのように広がります。そのたびに、「ごは~ん」と言うよりも「神様~」と言うのです。このおなかがすいたというその力が、神様の愛が入ってくることができないようにすべてふさいでしまいます。
(94-294、1977.10.9)
私たちの生活に神様の愛を接ぎ木するために、最も必要なものは何ですか。先生が恐れるのは体です。体が怨讐だということです。この体を中心として最高の三大真理があります。第一には食べることです。食べることは真です。空腹のときに御飯を食べたいと思うのは真理です。問題は、食べることが私を完全に占領してしまうことです。食べることを克服しなければなりません。食べることよりも神様を、空腹以上に神様を愛することができる基準をもたなければなりません。そうすれば、体を支配できる愛の道が開かれるのです。それで断食するのです。イエス様も 40 日間断食しました。ほかのすべて
の修行者たちも断食をします。
二番目は眠ることです。眠りから解放されなければなりません。眠りを克服しながら、眠りに打ち勝つことのできる位置で神様の愛をどのように発見するのでしょうか。眠りが来るときにも、眠りを越えて眠ること以上に神様の愛を敬い慕わなければなりません。大勢の修行者たちは眠りと闘いながら精誠を尽くしました。眠りが怨讐なのでナイフで足を切ったり、ありとあらゆることをするのです。眠りを凌駕ができる位置で神様の愛を敬い慕わなければなりません。先生は7、8年間、一日平均2時間も眠りませんでした。空腹の境界線を越えてこそ、神様の愛が接近することができ、眠りたいと思う境界線を越えてこそ、神様の愛が接近することができるのです。
(94-293、1977.10.9)
③独身生活
― 宗教経典 ―
イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」
マタイによる福音書19.11~12(キリスト教)164
復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
マタイによる福音書 22.30(キリスト教)165
師(ブッダ)は答えた。「メッテイヤよ。婬欲の交わりに耽る者は教えを失い、邪まな行いをする。これはかれのうちにある卑しいことがらである。」
スッタニパータ815(仏教)166
思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。
コリントの信徒への手紙一 7.32~35(キリスト教)167
妻子や家などに対して執着や愛着のないこと。好ましい、または好ましくない出来事に対し、常に平等な心でいること。ひたむきなヨーガによる、私への揺るぎない信愛。人里離れた場所に住むこと。社交を好まぬこと。常に自己に関する知識に専念すること。
バガヴァッド・ギーター 13.9~10
(ヒンドゥー教)168
私は神々と人々と動物とのあらゆる性的快楽を放棄した。私が生きている限り、私は決して肉体的な欲望に屈服することはなく、他の人たちがそれに屈服するよう原因となるものを提供することもなく、他の人たちがそれに屈服するのを容認することもないだろう。
アーヤーランガ・スッタ24(ジャイナ教)169
妻子も父母も、財宝も穀物も、親族やそのほかすべての欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め。
スッタニパータ60(仏教)170
― み言選集 ―
人類始祖が怨讐の罠にかかり、その圏内から抜け出ることができずにいます。ところが、そのような圏内でつくられた家庭が神様の公認を受けることができますか。それで、宗教では独身生活をしなさいというのです。ここにいる皆さんも、息子、娘をたくさん生みましたが、独身生活をしていなければなりません。
これは、統一教会の文先生の言葉ではありません。宗教がそのように教えているということです。皆さんが知っているように、仏教もそうではないですか。カトリックもそうではないですか。それはなぜそうなのか知っていますか。神様の近くに行くのでそのように教えたのです。人類の真の先祖にならなければならなかった方たちが、まだ結婚式をしてみたことがありません。ところが、生まれてもいないような立場にいる人間たちが結婚式をするのですか。堕落した子孫として生まれた息子、娘たちは、すべて救援のみ手を経て復帰の道を行かなければなりません。本来、私たち人間には、宗教であるとか、復帰であるとか、祈祷であるとか、何の救世主であるとかいうものは必要ないのです。神様の愛の圏内ではそうなのです。
(21-45 ~ 46、1968.9.1)
今の堕落した世の中は、天が求めてくる摂理歴史の背後と根本的に違います。それで、この地上で宗教の道を行くときは、既にあった社会制度を全幅的に支持するところから出発しません。そのような宗教はないのです。否定から出発したというのです。肯定で出発したのではないのです。完全否定で出発しました。仏教は山中修道を行い、キリスト教もやはり社会生活から離脱する、もちろん社会制度の中で生きるのですが、家庭をもてないこのような独身生活をしなければなりません。禁欲生活をすると同時に、その次にはあらゆる血気を抑えなければなりません。人間が喜ぶあらゆる要件を、すべて否定するところから出発しなければならないのです。なぜそのようにしなければならないのですか。根が間違ったからです。
(155-288、1965.11.1)
原理で見るとき、世の中の男性たちは天使長の子孫なので、結婚する資格がありません。 (注 22)ですから、独身生活をしなさいというのです。まだ本然の父母が結婚できていないのに、いい加減になって下水のたまりに入っていった人たちが、自分勝手に愛することができますか。そのような愛は非法です。それで高次的な宗教が独身生活を強調するのです。
(25-203、1969.10.4)
天使に何の相対がいますか。それで、今まで宗教においては独身生活をするのです。本来、比丘が原則です。妻帯僧は不合格者です。本当はキリスト教の牧師たち、すべて不合格者です。
(62-257、19729.25)
天使長とは、どのような存在ですか。天使長には相対の因縁を許諾しませんでした。皆さんが聖書を見れば、「わたしたちのところに7人の兄弟がありました。長男は妻をめとったが死んでしまい、そして子がなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに7人とも同じことになりました。
最後に、その女も死にました。すると復活の時には、この女は、7人のうちだれの妻なのでしょうか」とサドカイ人がイエスに尋ねるとき、イエス様は、「復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない」と答えました。なぜそのような話をしたのかというと、天使長圏の復帰時代なのでその
ような話をせざるを得ないというのです。まだ相対の因縁をもつことができないのが天使長圏です。ですから、今まで宗教が求めてきたものとは何でしょうか。天使長の使命圏内に立っているので、相対の因縁を付与できないのが宗教の歩んできた道でした。 (注 23)ですから、高次的な宗教であるほど、
一人で暮らす独身生活を強調した理由がここにあることを、皆さんは知らなければなりません。
(50-193、1971.11.7)
④禁欲問題:愛の欠乏
― 宗教経典 ―
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
コリントの信徒への手紙一13.2 ~ 3(キリスト教)171
たとえ裸形の修行者であり……たとえ野菜を食い、稗を食い、ニーヴァーラ種子を食い、たとえ麻の衣をまとい、半衣をまとい、……かれに、かの戒めの完成が実修されず、心の完成が実修されず、智慧の完成が実修されずに、体得されることがないならば、かれは、人の道から遠く、バラモンの道からも
遠いだけです。カッサパよ、修行僧として、敵意のない、憎悪のない、慈しみの心を実修し、またもろもろの(煩悩の)汚れを滅ぼし尽し、 (煩悩の)汚れのない心の解脱、 (煩悩の)汚れのない智慧の解脱を、現世において、みずからよく知り、まのあたりに見て、体得し、完成して暮らすならば、カッサパよ、実に、この修行僧は、道の人ともバラモンともいわれるのです。
阿含経長部 i.167(仏教)172
教典に規定されない恐ろしい苦行を行う人々、偽善と我執に満ち、欲望と激情と暴力に満ちた人々、無思慮で、身体に存する元素の群や、身体の内部に宿るこの私を悩ます人々、彼らを阿修羅的な決意を持つ者と知れ。(注 24)
バガヴァッド・ギーター 17.5~6(ヒンドゥー教)173
おお、兄弟よ! 色を貪る心と利己的な我執を当然のように刈り入れよ。禁欲と苦行により、ただこの強い肉身を衰えさせたとして、何の役に立つのか、ただ衰えた肉身をもって、あなたは自ら苦行者であることをたたえられようとするのか。
ニシーハ・バシャー 3758(ジャイナ教)174
あらゆる聖なる諸儀式を捧げても、これを誇る心があれば、それらは自ら苦労するだけで無駄なことである。
あらゆるつらい苦行をしても、これに偉ぶる心があれば、ただ天界と地獄を行き来し、輪廻を抜け出すことができないだろう。
あらゆる努力にもかかわらず、自ら慈悲の心を示すことができないのだから、どうして神の国に入ることができるだろうか。
アーディ・グラント、ガウリー・スクマニー
12、M.5、p.278(シク教)175
昔、厳しい誓いを立てた聖者であり、法において最も賢く、多くの学識を積んだマンダパーラという行者がいた。彼は(純潔を守って)自らの種を断つ聖者の道に従い、欲望と感覚を統御していた。彼は肉体を離れた後に、先祖達の世界に到達した。しかし彼はそこに自分の行いの実を見出すことが出来なかった。彼は苦行によって徳を積んだにも関わらず、自分の世界にその報いが無いのを知って、ヤマに問うた。 「なぜ私が苦行によって勝ち取ったこの世界は閉ざされているのか? これが私に対する報いだというのなら、私はどこで失敗したのか?」ヤマは言った。「人は生来疑いもなく祭儀とヴェーダの学
習と子孫の恩恵を受けている。あなたは苦行をし、犠牲を捧げたが、子孫を持たなかった。この世界は子孫の事のゆえにあなたに対して閉じられているのである。一人の息子が父をプットすなわち隠遁と呼ばれる地獄から救う。しかるに、ああバラモンよ、子孫の継続のために努力せよ。(注 25)
マハーバーラタ、アーディ・パルヴァン
(序章の巻)220(ヒンドゥー教)176
それからわが使者を、かれらの足跡に従わせ、さらにマリヤの子イエスをつかわし、福音を授け、またかれらに従う者の胸に博愛と慈悲の情を持たせた。だが禁欲の修道制は、かれらが自ら作ったもので、われはかれらにそれを指示してはおらぬ、神の喜びを得たいばかりであり、それもかれらは守るべきように工夫していなかった。それでわれは、かれらの中の信仰する者には報奨を与えた。だがかれらの多くは違反者である。(注 26)
クルアーン 57.27(イスラーム)177
そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。
マタイによる福音書 9.14 ~15(キリスト教)178
わたしたちは喜び、大いに喜び、/神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、/ 花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、/ 聖なる者たちの正しい行いである。」
ヨハネの黙示録19.7 ~ 8(キリスト教)179
― み言選集 ―
それでは、どうして仏教とカトリックでは独身を強調するのでしょうか。それが全的に人間の幸福の土台だと言うことができますか。違います。この地上のいかる宗教も幸福の土台は何だと提示してくれなかったのであり、家庭の土台を中心とする計画もなかったのですが、その家庭自体も現れなかったために、いつかはそのような家庭が間違いなく現れるという事実を知ったために、独身を強調してきたのです。そうしてこそ、人間たちが純潔で正しい家庭を建設できるのです。
(23-15、1969.5.11)
神様が永遠であれば、これも永遠であり、この子女の位置も永遠になるのですが、ただこれが壊れていったので、このようなものを合わせたいですか、合わせたくないですか。それを願いますか、願いませんか。願うのです。それでは、その愛するものが聖なるものですか、罪ですか。聖なるものです。今日の堕落した世の中が生じた以降に、このような聖なる愛をしてみた夫婦がいたでしょうか、いなかったでしょうか。これができなかったのです。
ですから、皆さんは今まで宗教の目的を知らなかったというのです。救援とは何ですか。救援とは何かということを知りませんでした。すべて知らなかったのです。ほかの国だと思っていました。天上天国に行くと思っていたのです。天国はすべて準備されている
と、既に準備されていると信じていました。……問題はすべて自分にあるということです。天国に合う愛の男性と女性になれるか、ここにかかっているのです。イエス様にかかっているのではありません。メシヤにかかっているのではないのです。それを今まで知りませんでした。
(92-225 ~ 226、1977.4.17)
天国は、夫婦が行かなければならないのであり、家庭が行かなければならないのであり、家庭だけでなく、家庭の八親等など、一族が行かなければならないのであり、その国家全体が行かなければなりません。全体が行くことができるその世界が天国だというのです。それが統一教会の行く道です。統一教会は個人救援が目標ではありません。ですから、合同結婚式もこの原理原則に一致させるためにしなければなりません。今日、合同結婚式が嘲弄の対象であり、見せ物と思っていますが、内容を知ってみると、唖然とすることが起きているのです。
天使長圏の宗教時代には、結婚しなければなりませんか、してはいけませんか。できません。しかし、これからは天国でも結婚時代に入っていくのです。地上で比丘が勝利するか、妻帯僧が勝利するかというとき、妻帯僧が勝利する時が来たのです。旧教の神父や修道女が残るのではなく、これからはカトリックもそのまま逝けばすべて地獄に行くようになります。今の天地の運勢は新郎新婦の因縁を求めることができるときが来たのです。カトリックも結婚しなければならない時が来たので、結婚することに反対していては、そっくりそのまま滅んでしまいます。
(50-61、1971.10.31)
カトリックの神父や修道女も結婚させてあげなければならず、仏教の僧侶も結婚させてあげなければなりません。そうしなければこれから滅びます。すべて浮気者、フリーセックスの場になってしまうのです。サタンが占領し、男性と女性にすべて浮気心を起こさせて流れていってしまいます。レバレンド・
ムーンの前で神父と修道女が結婚し、仏教の比丘が先生の前で何百万双が一度に祝福を受ければ生き残るのです。そのようにしなければすべて滅びます。そのまま消えてしまうのです。今、一部の神父たちが浮気心を起こして、そのような行動をしています。それはすべて時になったからです。
潮水が入ったとき、その水を飲まないようにしようとすれば、どんどんついていかなければなりません。同じように、溺れて死なないようにしようとすれば、結婚してはいけないということを彼らが破って、回れ右しなければなりません。
(246-24、1993.3.23)
高次的な宗教ほど、独身生活をしなさいと言いました。なぜそのように言ったのでしょうか。人類の父母になる方がまだ結婚式をしていないからです。それで独身を主張したのです。宗教という宗教は、すべて結婚するなと言ったのですが、歴史時代に統一教会という宗教が出てきて、結婚を認め、合同結婚式をするのです。
ですから、仏教もこれからは妻帯僧が増えます。比丘を主張していても、相対を結んで妻帯僧になってしまいます。カトリックも同じです。カトリックも結婚を否定するので、問題が起き
ます。大部分が教会を離れるのです。真の父母が結婚した 1960 年からそのような時代に入っていくので、その時からすべて変わり、サタン世界はフリーセックス時代に入っていくようになります。サタン世界はフリーセックスを通して破壊工作をしていき、宗教圏では結婚時代に入っていきます。このように変わるのです。
(244-148、1993.2.1)


