世界経典Ⅱ 第4部 家庭と社会 第19章 家庭

第4部 家庭と社会
第19章 家庭
1. 人生の基本形態
家庭は人生の基本形態である。家庭は、家族関係を通して自身の性格と価値とアイデンティティーを形成し、育てる環境を構成する。人間は時折、伝統的な家庭の代わりを立てようと努力したが、この代案は、およそ1、2世代を越えて持続することはできなかった。家庭には一つの「形態」がある。それは一連の精密な役割を意味するというよりは、片親家庭や子供のいない家庭、義理の父母など、異なった関係が混ざり合う家庭が、最善を追求する一般的な意味である。家庭の「形態」とは何か。外見上では父母と子供、夫と妻、兄弟姉妹を連帯する関係をいう。内面的には、このような関連性を支配する真実で敬虔な愛をいう。
家庭が人生の基本形態だということには、またほかの意味がある。それは、社会関係に対する「教材」である。立派な家族関係は、立派な市民を育成する。彼らは、家庭で父母、兄弟、そして子供と関係を結んで体得した教訓を、社会において目上の人、同僚、目下の人との関係に、そのまま適用するようになる。
文鮮明先生は、家族形態の両側面に関して広範囲に教えている。家庭の構造的形態は「四位基台」で表現され、これは神様を真の家庭の構成員、すなわち真の家族として連帯する特別な意味をもった教えである。先生はまた、家族関係を空間的に6方向に拡張して説明する。どんな場合でも、その形態は球形であり、すべての位置が同等な価値として現れる。これは、真の愛がすべての家族関係の求心力になる時に可能だ。家族構成員の各々は、互いに「ために生きる」美徳の生活回路を創出する。そのような家庭は、理想社会建設の基本的土台となるのである。
①家庭理想
― 宗教経典 ―
妻を私のように愛せ。妻を私よりも尊重せよ。子供を正しい道に養育せよ。結婚適齢期には子供を結婚させてあげよ。このすべてのことを実践する人は、「その家庭に平和があるだろう」。
タルムード、イェヴァモート62(ユダヤ教)1
父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、―これがこよなき幸せである。
スッタニパータ262(仏教)2
天下の達道は五つ。それは君臣の義であり、父子の親であり、夫婦の別であり、兄弟の序であり、朋友の交わりの信である。(注1)
中庸 20.8(儒教)3
人の道義とは何であろうか? それは、父の慈、子の孝、兄の良、弟の弟、夫の義、妻の聴、長の恵、幼の順、君の仁、臣の忠である。これら十の道義というのである。
礼記 7.2.19(儒教)4
この家庭では、規律が動揺に勝ち、平和が不和に、慈悲が貪欲に、献身が驕慢に、真実な言葉が聖なる秩序を壊す偽りの言葉に勝つようにしてください。
アヴェスター・ヤスナ 60.5(ゾロアスター教)5
家庭には自然な温和がなければならない。誓願を固く守ることは温和に帰結する。家族の間には正しい信仰がなければならない。不正直と欺瞞は家庭に不幸をもたらす。行動と言葉と考えにおいて、正直と
率直さは家庭を幸運の道に導く。
清浄、恭敬、絶えず知恵を追求すること、他の人たちに対する奉仕、これらは家庭を幸福にする。
タットヴァールタ・スートラ6.18 ~ 24
(ジャイナ教)6
父は父らしく、子は子らしく、兄は兄らしく、弟は弟らしく、夫は夫らしく、婦は婦らしくあってこそ、家道は正しいと言えるのであり、家を正しくしてこそ、天下もきちんと治まるのである。
易経 37、周易下経、家人(儒教)7
心の一致、意の一致、無敵意を、われ汝らのために致す。汝ら互いに他に愛情を示せ、牝牛がその生まれたる仔牛に〔愛情を示す〕ごとく。
息子は父に従順なれ。母と意を同じくせよ。妻は夫に蜜を含む優しき言葉を語れ。
兄弟互いに、姉妹互いに憎み合うことなかれ。和合し、同じ掟(規律)に服し、言葉優しく語り合え。
それにより神々が離反せず、互いに憎むことなきこの呪文(brahman)を、われら汝らの家に施す、家人のために和合を〔もたらすところの〕。
年長者に従い、思慮深く、離散することなかれ。同じ軛のもとに一致協力し、互いに言葉優しく語りつつ来たれ。われ汝らを、結束固く意を同じくする者となす。
汝らの飲水は共通なれ。汝らの食物の配分は等しかれ。共通の馬具にわれ汝らを共に繋ぐ。一致してアグニを崇拝せよ、車の輻の 轂の回りに〔集まる〕ごとく。
われ汝らを、結束固く意を同じくする者となす。和解によりて群を同じくする者となす。不死の飲料(amrta)を守る神々のごとく、夕に朝に、好意をして汝らの有たらしめよ。(注 2)
アタルヴァ・ヴェーダ 3.30
(ヒンドゥー教)8
― み言選集 ―
私たちの因縁と言ったので、私たち同士では、特別に感じたり、目を合わせたりしなければなりません。そこには、妻も必要で、夫も必要なのです。また、若い人も必要で、年を取った人も必要です。このために、私たちは、万民の世論がどうであれ、共通の姿を備えてきたのです。
(21-120、1968.11.17)
家庭には必ず、父母がいなければならず、妻子がいなければなりません。そうであってこそ、その家庭が幸福の基台となるのです。神様が人類を探し求めてきた目的も、神様御自身の幸福を模索するためであったに違いありません。ですから、神様御自身が幸福の基台を求めようとしても、人間を離れたところには、そのような理想はあり得ないのです。人間と関係を結んでこそ、一致点をもたらせるのです。私たちが家庭において、情緒的な内容をすべて備えた立場で幸福を感じるのと同じように、神様もやはり、そのような立場で幸福を感じようとなさるのです。
(32-198、1970.7.15)
男性が男性として生まれたのは、男性自身のために生まれたのではありません。女性がいくら美人で、男性を嫌う女性だとしても、その生まれた姿を見てください。自分のためにそのように生まれたのではありません。私たちは、自分のために生まれたのではなく、相対のために生まれたのです。そのために生まれたというのです。
父母は子女のために生き、子女は父母のために生きるようになるとき、互いにために生きるときに回っていくのです。ために生きればために生きるほど、早く回っていけます。それが理想形です。四角形ではなく、立体的に丸いのです。互いにために生きることは互いに押してあげることなので、互いにた
めに生きれば早く回っていき、回っていけば球形を成し、永遠になるのです。
(69-83 ~ 84、1973.10.20)
父母の真の愛、兄弟の真の愛、夫婦の真の愛、子女の真の愛、このように四大愛を完成し、四大心情を体恤できる最小単位が真の家庭です。したがって、真の家庭は、人間の真の愛と真の幸福の土台であり、真の生命と真の血統が芽生える所になります。ですから、真の家庭は、人間が創造本然の真の
愛と真の人格を育て上げる修練所であり、真の愛の学校です。
(294-65 ~ 66、1998.6.11)
理想的夫婦を中心とする家庭が学校です。これは教材だというのです。夫婦が一つの単位になって家庭という教材をつくり、この教材に合格したすべての存在は、世界のどこでも共通して通過できるのです。それが公式です。
(131-112、1984.4.22)
理想的家庭とは何ですか。「互いによく信じるのが理想的家庭だ。互いによく理解するのが理想的家庭だ」と言うかもしれませんが、それは違います。互いに心情的に一つになり、離そうにも離すことができず、家族の痛みを自分の痛み以上に感じられる心情圏があれば、理想的家庭ができるのです。自分が犠牲になっても、すべての家族の苦痛を代わりに背負っていこうという情が宿った所には、理想的家庭という言葉をつけられます。
(228-46、1992.3.3)
人間は愛で生まれ、愛の道を行かなければなりません。そして、死ぬときも愛のために死ななければなりません。したがって私たちの人生を見るとき、生命より愛がもっと貴いのです。そして、それだけでなく、愛が生命よりも先なのです。したがって、愛のためには生命まで喜んで捧げるのです。
愛は永遠です。小説や詩のような文学作品を見ても、すべて「不変の愛」 「永遠なる私のあなた」という表現が多く見られます。これは、私たちが瞬間的な愛、限られた時間内の愛を願うのではなく、永遠な愛を願うということなのです。
赤ん坊が生まれると、お母さんの愛の電波に沿って自動的に乳首を探しにいきます。醜女でも美女でも関係なく、お母さんであればいいのです。これこそ創造の妙味であり、神聖で偉大な姿なのです。人は愛で生まれ、愛を受けながら成長します。このような立場で見るとき、「私」というものは、父母の
愛の実なのです。お父さん、お母さんの愛がどういうものだと、実際の実として見せたのが自分なのです。愛の実なので、父母は「私」を愛さなければなりません。その実を通して、無限な愛がまた実を結ぶのです。個人的愛、家庭的愛、氏族的愛、民族的愛、世界的愛、宇宙的愛、そして本質的な神様の愛まで連結できる道が、ここにあるというのです。
出生したのち、肉身時代には、自分を生んでくれた父母が子育てを受け持って正しい人に育てるのです。世界と国と家庭を代表し、父母がすべてを教えて供給してくれます。私たちが父母から物質を供給され、教育され、個体として完成すれば、愛を中心とした横的な基盤に連結させなければなりません。それが結婚というものです。父母は結婚するまで責任をもつのです。結婚してお父さん、お母さんが愛し合ったものを引き継ぐのです。父母が自分を生んでどれほど愛したかを、自分が結婚して子供を生んで育ててみて知るようになり、その愛を引き継ぎます。そうすることによって自分は、愛を完全に受け、与え得る人になるのです。そのようにして、完全な一人の男性、女性として成熟するというのです。
父母の縦的な愛で生まれて成熟し、横的に愛するようになって初めて、総合的な愛の圏を見いだせるのです。天地は球形世界なので、縦横と上下、左右、前後の愛が連結されてこそ、それが授受して回り、すべてが総合されて一つの調和のセンターとして現れるのです。したがって、天地の縦的愛が内外に軸としてしっかりと立てば、その次に横的な愛が必要になるので、思春期というものがあるのです。
(298-298 ~ 308、1999.1.17)
夫婦が愛するということは、神様を植えることです。本来父母は、本然の神様の立場を代表し、ここで夫と妻は、互いに他の一方の神様になります。そして息子、娘は、また一つの小さな神様です。神様は真の愛の本体であられるので、真の愛と連結されれば、みな同じ体になります。父母は神様の身代わりをする、生きている神様であり、夫婦も神様を身代わりし、子女も神様を身代わりするのです。このように三代が真の愛を中心として、神様の立場を身代わりします。
ですから、父母も、夫婦も、そして子女も真の愛を必要とするのです。このように真の愛を中心に成された家庭組織が天国の基盤です。そのような基盤を成さずには、天国が実現しません。これが公式です。家庭とは、すべての宇宙の現実世界の中心です。今日、人々は、自分の家庭が国と世界と宇宙を代表した家庭であることを知らずにいます。中心としての家庭であることを知らずにいるのです。ですから、家庭を破綻させることは、国と世界と宇宙に対する反抗になります。
家庭完成は、宇宙完成の基礎になるので、家庭で愛するように宇宙を愛すれば、どこでも無事通過です。この場合、神様は、宇宙全体の父母として、愛の複合的な中心の立場にいらっしゃいます。
(298-307、1999.1.17)
②家庭は愛と美徳の修練場
― 宗教経典 ―
主よ、目を喜ばせる妻と子孫を、わたしたちに賜い、主を畏れる者の模範にして下さい。
クルアーン 25.74(イスラーム)9
君子の道は、例えて言えば、遠くに行くには、必ず近くからし、高く上るには、必ず低い所からするようなものである。
中庸15.2(儒教)10
自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。
テモテへの手紙一 3.5(キリスト教)11
「天下を平らかにするのは、その国を治めるにある」とは、上が、 (その家の)老人を尊べば、民は感動して起こって孝となり、上がその長者を敬えば、民は感動して起こって弟となり、幼くして父を失った者を哀れめば民は背かない。
大学 9.1(儒教)12
一族の滅亡において、永遠なる一族の美徳(義務)は滅びる。美徳が滅びる時、不徳が一族を支配する。不徳の支配により、一族の婦女たちが堕落する。婦女たちが堕落すれば、種姓の混乱が生ずる。
このような混乱は、一族の破壊者と一族とを地獄に導く。
バガヴァッド・ギーター1.40~42
(ヒンドゥー教)13
― み言選集 ―
家庭とは何でしょうか。心情的な訓練場です。愛を中心として心情的に……。ですから、学校において、情をもって兄弟のように生活しなければならず、国においても、情をもって兄弟のように生活しなければなりません。そのような父母の教育は、学校のための教育になり、社会のための教育になり、国のための教育になります。父母は、情緒的なものをすべて、後継者である子供たちに伝授してあげなければなりません。父母が生きたのと同じように、家庭ではこのように生きなければならず、社会ではこのように生きなければならず、国のためにはこのように生きなければならないということを中心として、情緒的土台を築いてあげなければなりません。
(180-131、1988.8.22)
家庭は、人生において最も重要な愛の学校です。
(271-80、1995.8.22)
神様の愛がどこに現れるのかというと、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、この三つの愛が一つになった所です。これが絶対的に一つになる所は、神様が絶対的に永遠に共にいるのです。ここに神様がいらっしゃいます。変わらない父母の愛、変わらない夫婦の愛、変わらない子女の愛、この三つの愛が存在する所には、いつでも神様がいらっしゃるのです。
(131-112、1984.4.22)
家庭は、天国を成すことができる教材です。天がつくっておいた教材です。家庭は、天国と因縁を結ぶようにするための教材なのです。ですから、軸を中心としてそれを国に適用すれば愛国者になるのであり、世界に適用すれば聖人になるのであり、天地を中心として適用すれば神様の息子、娘、聖子になるのです。聖者ではなく、聖子です。聖子になるのです。
(137-78、1985.12.18)
道徳というものは何でしょうか。家庭で訓練された平等の価値が道徳です。「徳(德)」の十の字は、宇宙を象徴しますが、「統一原理」から見れば、天上と地上のことをいうのです。そこに四位基台(四)で、天と地(十)が願う四つの群れ(四)が一つの心(心)になっているのが「徳(德)」という字です。二人(彳)が天地の環境の中で「十」の字、天と地に四位基台を完成した一つの心であり、おじいさんの心も、父母の心も、妻の心も、子女の心も― 先祖を中心として、息子、娘を中心として六つですが、二つに分ければ 12 の群れです。心と体を中心として 12 の群れです―このすべてのものが一つになれる、そのような存在を徳というのです。
(375-59、2002.4.13)
今日、全世界にわたって家庭が変わっており、伝統的な家庭は様々な面から挑戦を受けています。産業化、現代化が加速するとともに、人類は価値観が崩壊し、倫理、道徳の基準が揺さぶられています。さらには、個人主義、快楽主義、拝金主義などによって人間性が抹殺されていき、フリーセックスと不倫がより一層助長され、家庭が破綻しています。
これは、どれほど不幸な風潮ですか。このまま放置すれば、人類は未来に希望をもつことができなくなります。いくら社会的条件が変わっても、父母と子女の関係の重要性は揺るがすことはできず、家庭の貴重性もやはり変わりません。愛は人の幸福と喜びの源泉であり、家庭はその幸福と平和の基台になります。
(271-81、1995.8.22)
今日、家庭が崩れ、青少年たちが堕落するのを防ぐことが、エデンの園で干渉できなかった神様の悲惨な思いを解放し、喜びをお返しすることになるのです。
(305-272、1998.8.21)
③完成した家庭は球形を成す
― 宗教経典 ―
このように私は聞いた。ある時、仏は羅閲祇の耆闍崛山の中に、千二百五十人の比丘たちの大集団と一緒におられた。その時、世尊は時間になると袈裟をまとい鉢を手に持って、城内に托鉢に出かけた。ちょうどその時、羅閲祇城内には長者の子、名は善生という者がいた。朝早く城外へ出て、園林に行っ
てゆったりと歩きまわり、沐浴しおわると、体じゅう濡らしたままで、諸々の方角に向かって礼拝し、東西南北上下のそれぞれの方角に対して、すべてぐるりとひととおり礼拝していた。
その時、世尊は長者の子、善生が園林に行ってゆったりと歩きまわり、沐浴しおわると、体じゅう濡らしたままで、諸々の方角に向かって礼拝しているのを見た。世尊はそれを見ると、ただちにその場所に行って、善生に言った。
「お前はどういうわけで朝早く城外に出て、園林の中で体じゅう濡らしたままで諸々の方角に向かって礼拝しているのか」
その時、善生は仏に申し上げた。
「私の父は亡くなる時に、遺言として私にこのように命じました。『お前は礼拝する時には必ず東方・南方・西方・北方・上方・下方を礼拝するように』と。
私は父の教えを守り、……礼拝しているのです」
その時、世尊は善生に言った。
「しかし、私の賢者・聖人の教えにおいては、この六つの方角を礼拝することがつつしみ敬うことであるとは考えない」
善生は仏に申し上げた。
「どうかお願いです。世尊よ、私のために賢者・聖人の教えにおける六つの方角を礼拝する方法をよく説明して下さい」
「よく聞け、よく聞け。そしてよく心にとどめておくのだ。お前のために説明してあげよう」
仏は善生に言った。
「六つの方角のことを知るべきである。六つの方角とは何か。父母は東方であり、師は南方であり、妻は西方であり、親族は北方であり、召使は下方であり、沙門・婆羅門など高潔な行いを実践する者は上方である。
善生よ、そもそも人の子たる者は、五つのことによって父母を敬い父母に従わなければならない。……父母に物をささげて生活の不自由をさせない。何か事を行おうとする時はいつもまず父母に申し上げる。父母の行いに対してうやうやしく従って逆らわない。父母の命令に逆らわない。父母の行った正しい事業を断絶しない。……
父母はまた、五つのことによって自分の子を敬い愛する。子をおしとどめて悪いことをするのを許さない。子を教えて善を指し示す。父母の慈愛が子の骨髄にしみとおる。子のためによい結婚相手をさがす。必要なものを時に応じて与える。善生よ、子が父母に対して敬い従ってうやうやしく仕えたならば、かの方角(東方)は安らかで憂いはない。
善生よ、弟子が師に敬い仕えるのも、やはり五つのことがある。……そばに仕えて必要な物の世話をする。礼を尽くして師に物をささげる。師を尊んでいただき仰ぐ。師が何かを教えれば、それを敬いそれに従ってそむかない。師に従って教えを聞き、どれもしっかりと保って忘れない。
師はまた五つのことによって弟子を敬い見る。しかるべき方法に従って弟子の行動を制御する。弟子がまだ聞いたことのないことを教えてやる。弟子の質問に応じて十分に意味をわからせる。善き友を示す。知っていることをすべて惜しまず弟子に教え授ける。善生よ、弟子が師に対して敬い従ってうやうやしく仕えたならば、かの方角(南方)は安らかで憂いはない。
善生よ、夫が妻を敬うのにも、やはり五つのことがある。敬って丁寧に待遇する、威厳をもって妻にのぞみ、なれなれしくない、必要な時に応じて衣食を与える、しかるべき時には身を飾ってやる、家の中のことをまかせきる。……
妻もまた五つのことによって夫を敬う。夫より先に起きる。夫より後に坐る。おだやかにものを言う。夫を敬って夫に従う。夫の気持ちをあらかじめ知りそれにさからわない。……このようであれば、かの方角(西方)は安らかで憂いはない。
善生よ、そもそも人たる者は、五つのことによって親族を親しみ敬わなければならない。施し与える。じょうずにものを言う。利益を与える。利益をともにする。欺かない。親族もまた五つのことによって人を親しみ敬う。勝って気ままな行いをしている時に譲る。勝ってきままな行いをして財産を失った時に護る。恐怖におちいったときに護る。かばって教えさとす。いつもほめたたえる。善生よ、このように親族を敬い見るならば、かの方角(北方)は安らかで憂いはない。
善生よ、主人は召使に対して五つのことによって教え導く。能力に応じて働かせる。必要な時はいつでも飲食を与える。功労に対してほうびを与える。病気になれば薬を与える。自由に休暇を与える。召使は五つのことによって主人に仕える。朝早く起きる。仕事のしかたが細かくゆきとどいている。与えられないものを取らない。順序よく仕事をする。主人の名前をほめたたえる。これが主人が召使を待遇するということである。かの方角(下方)は安らかで憂いはない。
善生よ、施しを行う者は五つのことによって沙門・婆羅門に物をささげなければならない。身体によって慈しみを行う。言葉によって慈しみを行う。心によって慈しみを行う。しかるべき時に施しを行う。門でおしとどめない。善生よ、もし施しを行う者がこの五つのことによって沙門・婆羅門に物をささげたならば、沙門・婆羅門はまた六つのことによって彼を教え導かなければならない。彼を護って悪いことをさせない。善を指し示す。善い心を抱かせる。まだ聞いたことのない教えを聞かせる。すでに聞いた教えを十分に理解させる。天に至る道をよくわかるように説き示す。善生よ、このように施しを行う沙門・婆羅門にうやうやしく仕えたならば、かの方角(上方)は、安らかで憂いはない。
阿含経長部 iii.185 ~ 191、善生経
(仏教)14
― み言選集 ―
宇宙で、その核のようなものが家庭の概念です。天を父母と見れば、地は子女です。東西を見れば、東側は男性を象徴し、西側は女性を象徴するので、女性は結婚することによって、どこであっても夫の位置についていくのです。西側が太陽の光を受けて輝くとき、東側と同じ価値をもつのと同じです。兄
弟関係も同じです。長子の兄を中心として仕事をするとき、弟が協助するようになるのです。
ですから、人間は父子関係をもたなければならず、夫婦関係、そして兄弟関係をもたなければなりません。すなわち、この三つの関係が一点になければならないのです。その中心点は一つです。上下、左右、前後の中心が変わってはいけません。この中心点がずれれば、上下、左右、前後の関係の均衡が
すべて崩れるのです。それで、結局、上下、左右、前後、そして一つの中心点まで、すべて7数を成すようになります。このように7数を成すというのは、すなわち神様を中心として完全な真の愛で一つになり、このすべてが完全に球形を成し、調和と統一を成す家庭になるのです。私たちがよくラッキー
セブンと言うのも、このような観点から一理があるというのです。
(287-20 ~ 21、1997.8.10)
父母を中心として子女が一つにならなければなりません。また、そこには、神様を必ずお迎えしなければなりません。必ず神様をお迎えしなければならないのです。それが理想的です。
男性と女性で成す夫婦は、相対的なので、プラス・マイナスは必ず神様を中心としていなければなりません。神様には父母の愛があり、子女の愛があり、夫の愛があり、妻の愛があります。これが理想的です。この愛を中心とする神様が主体なので、その主体的な立場の神様と一つになれば、この愛と一つになるので、永遠に壊れない理想的家庭が成立するのです。理論的に、そのように成立します。
父母の愛は子女のために集中し、子女の愛は父母に連結されます。夫の愛は妻に連結され、妻の愛は夫に連結されます。しかし、その人たちがどのように一つになるのかというのです。自分たちでは一つになれません。ところが、それを一つになるようにできる主体的な力が神様の愛です。ここに主体が臨むので、このすべての存在は自動的に一つになります。それで、神様を抜かしては、愛もすべて自分中心の愛になるのであって、一つに結ぶことはできません。
一つになったとき、この愛の道も、この愛の道も、この愛の道も同じです。平均になるのです。これが円形を描く一つの物体になったからです。原因と結果が一つになり、縦横が一つになり、神様と一つになり、この二つが愛の力で動かすこの世界は、愛でないものがありません。どこに行っても、愛でな
いものがないのです。理想の、愛の所なので、そのような世界が理想世界であり、このような世界が地上に展開し、家庭に展開するとき、地上天国という言葉が出てくるのです。そのようなものが神様の理想です。
それで、父母を神様のように思いなさいというのです。その論理は、ここから出てくる論理です。妻を神様のように思い、父母のように思い、夫を神様のように思い、父母のように思い、子女を神様のように思い、夫のように思い、妻のように思いなさいという結論がここから出てくるのです。また、神様を思うときは、妻のように、夫のように、自分の父母のように、息子、娘のように思えば、すべて天国に行きます。
(89-154 ~155、1976.11.7)
夫が死ぬと、妻がなぜ泣くのですか。息子、娘がいなければ、なぜ泣くのでしょうか。宇宙の根本原則は、東西、四方をすべて備えなければなりません。したがって、宇宙の存在の力は、相対理想を擁護する力になっているのです。ですから、すべて与え合うのです。南北が与え合います。北極と南極が与え
合うのと同じように、星と星が与え合うのです。相対がいなければ存在できません。完全に一つになった理想的な存在は、完全に与え合う存在は、この宇宙が擁護します。永遠に維持できるように、それを擁護する天運が流れるのが原則です。すべて、それを協助するのです。
したがって、息子、娘がいなければなりません。今日、西欧では息子、娘は必要ないという主義が出てきていますが、必要ないか見ていなさいというのです。霊界に行ってみなさいというのです。私が立っている所には、必ず上があり、下があります。3数を通らなければなりません。3段階を経なければならないのです。
(70-76 ~ 77、1974.2.8)
過去、現在、未来が連結され得る最小限の基準とは何でしょうか。それは家庭です。家庭は、世界の縮小体と同じです。そこでは、過去と現在と未来が連結されるのです。それはどういうことかというと、家庭にはおじいさんとお父さんと息子が共存するということです。お父さんがおじいさんの位置に上がっていけば、自分がお父さんの位置に上がっていって息子、娘をもつようになります。おじいさんからお父さん、自分の3代が一つにならなければなりません。すなわち、過去、現在、未来、この三つの因縁が一つにならなければなりません。そのような家庭は、世の中がいくら揺れ動いても、揺れ動く社会の侵犯を受けずに、幸福な基台をもてます。
(28-162、1970.1.11)
2. 孝
孝は、子女が父母に尊敬と栄誉を見せてさしあげる伝統的道徳原理である。それは、父母に対する義務である。なぜなら、父母が子女を生んでくれ、食べさせてあげ、子女に人生の良い出発を提供しながら、子女のために犠牲になり、奉仕するからだ。それで親孝行な子女は、彼らの父母が老いたとき、彼らを世話するのを負担とは感じない。これは、義務という問題ではなく、感謝する心的姿勢を誘発する、自発的で自然な理想的姿勢とみなされるのである。文鮮明先生の孝に関する広範囲な教えには、次のようなものがある。孝は、絶えることのない血統的な連帯関係において、世代を連結する永続的な伝統として鼓舞されなければならない。孝は、自分の父母の困難と苦難に同情し、これを自身の問題よりもさらに重要なこととして痛感し、円熟した利他的な聖子、聖女の心的姿勢において完成される。ここで何より重大なのは、孝は、神様、すなわち真の父母との関係を構築する礎石であるという点である。
①孝は徳の根源
― 宗教経典 ―
あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
出エジプト記 20.12(キリスト教)15
人間には主なる神、父、そして母、この三人の同伴者がいらっしゃる。父と母を恭敬すれば、神はこのように語られた。 「あなたが父母を恭敬するとき、私は、私がそこにおり、彼らが私を恭敬しているのだと考える」。タルムード、キッドゥシーン 30b(ユダヤ教)16
神々および父祖に対してなすべきつとめを怠ることなかれ。母を神として敬え。父を神として敬え。師を神として敬え。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド1.11.2
(ヒンドゥー教)17
なんじの主は命じたもう、……両親に孝行であれと。もし両親かまたそのいずれかが、なんじと一緒にいて老齢に達しても、かれらに軽侮の語や、荒い言葉を使わず、かれらにねんごろな言葉で話せよ。
クルアーン17.23 ~ 24(イスラーム)18
君子は根本のことに努力する、根本が定まってはじめて〔進むべき〕道もはっきりする。孝と悌ということこそ、仁徳の根本であろう。
論語1.2(儒教)19
かの仏国土に生れたいと思う者は、……一つには、父母に孝養をつくし、師につかえ、慈しみの心を持って生けるものを殺さず、十種の善行を行なうこと、……。
観無量寿経 27(仏教)20
このことを御身にわたくしはお尋ねします。正しくわたくしに語してください、アフラよ。だれが吉祥なるアールマティを王国といっしょに創造したのですか。だれが子を、その心情において父に敬意を抱くようにしたのですか。
アヴェスター・ヤスナ 44.7(ゾロアスター教)21
さて、忠孝はすべての徳の根であり、そこからすべての道徳的教えが派生する茎である。どの髪の毛も皮膚の一かけらも、我々の体は両親からいただいたものだから、それを敢えて痛めたり、傷つけたりしてはならない。これが忠孝のはじめである。我々は、将来に自分の名前を有名にするために、子どもとしての道を踏み行うことによって、自分自身の人格を確立するとき、それによって我々の両親を賞賛することになる。これが忠孝の終わりである。これは両親の奉仕で始まる。それは、為政者の奉仕へと発展する。そして、良い性格の確立によって完了する。
孝経(儒教)22
父母はあなたの歯が生えるまであなたの面倒を見たのだから、父母の歯が抜けるとき、あなたは彼らの面倒を見なければならない。
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)23
― み言選集 ―
孝子には、自分を考える心をもっていてはなれません。
(62-37、1972.9.10)
孝子とは何ですか。父母が最も喜ぶことを中心として常に考え、そのことを行動でなして相対役をしようと考える人、そのような立場に立った人が孝子です。
五官があれば、目で見て何かを感じるとき、父母がより喜ばれるものを見て感じ、話を聞くときも、「ああ、このような話は喜ぶだろうか、どうだろうか」ということを中心として聞くようになります。感じるときもそうであり、あらゆる五官の感情が父母を中心として愛と化す、そのような人が孝子です。悪いものがあってはならず、良いものだけがあることを願い、より良いものに発展し、より立派になることを願うのです。
(161-132 ~133、1987.1.18)
ですから、父母が悲しむ内容を深く知っている子女であるほど、その父母の悲しみが解消されることをひたすら願い、自分が働いている環境を越えて、その心配している事実が解消されることを望むのが、その子女の願いではないでしょうか。自分に悲しみがあるとしても、自分の悲しみよりも父母の悲
しみがより早く解消されることを願う心をもった人がいれば、彼は孝子だと言えます。しかし、父母にも心配事があり、自分にも心配事があるのですが、「父母が私の心配事を考えてくれなければならない」と、父母の心配事よりも自分の心配事をより考える人であれば、その人は、父母と一つになってい
ない人です。
孝の原則を中心として見るとき、父母の立場を忘却した人は、父母と大切なところで一つの因縁を結べません。自分を主張し、自分の悲しみを理解してくれと要求したり、父母の悲しみは後回しにしておいて、自分の悲しみばかりに責任をもってくれと言う息子がいれば、彼は孝子にはなれず、不孝者になるのです。これは、私たちが日常生活の周辺で、あるいは家庭生活でいつも体験することです。
孝子としての価値とは何でしょうか。自分の困難もありますが、父母の困難をより心配しながら自分の困難を問題視せず、自分の困難の上に父母の心配を加えて心配する立場に立ったとしても、これを当然のこととして消化して受け入れ得る立場から、孝の道は始まります。子女が父母の困難をないがしろにし、遠ざけるとき、ここで決裂が起きるのです。孝の道ではない、不孝の道が生じます。
(62-187、1972.9.25)
孝子とは何でしょうか。孝子は、父母の悲しみに代わって責任をもつために、困難な場を探していき、責任を果たすことにより、父母に喜びを捧げる人です。父母が 10 の仕事をするのに子供は 15 ほど努力をしたならば、父母は5に対する喜びを感じるようになります。そのような分野をどのように補充して、父母のために捧げられるかを考えながら努力する人が孝子なのです。
(24-261、1969.8.24)
孝子は、いつでも父母の心の方向と常に一致していなければなりません。孝子の道を行く人は、父母と掛け離れた行動をする人ではありません。父母が東に行けば東に行かなければならず、父母が西に行けば西に行かなければなりません。行く目的を提示したのちに、行く途中で回れ右をすれば、一緒に回れ右しなければなりません。そこに異議があってはなりません。10 度行き、10 度回れ右をしたとしても、また回れ右して従っていかなければなりません。
「ああ、どうしてそのようにするのですか。10 度行って、10 度回れ右し、10度も行ったり来たりする。ああ! お父さん、お母さん、これは私の心に合いません」と反抗すれば、孝子の道理を最後まで守ることはできません。父母が狂ったことをすれば、子供も狂ったことをしなければなりません。父母の命令ならば、狂ったことでもしなければなりません。狂ったことをすること自体はいけないことであり、父母が分からずにしているのならば知りませんが、分かってしているというのです。
それでは、なぜ父母は狂ったことをするのでしょうか。孝子の中から最高の孝子を選び出すためには、その道しかないからです。100 人の孝子がいるとすれば、その 100 人の中から 1 番になれる孝子をつくるために、その父母は狂ったことをするのです。しかし、その気まぐれを真実だと思い、生命を捧げてその父母の命令の前に絶対従順をすれば、その人は、孝子の王にもなれるのです。
そのようになるとき、そのような狂ったことを天職と思って行えなければなりません。「ああ! これは自分の常識に合わないので私は知らない」と言えば、ここで孝子の道理はふさがってしまいます。孝子の道は、断ち切れてしまうというのです。ですから、最高の一つの峠を貫いて越えていける世界的
な孝の道があるのです。
(62-32 ~ 33、1972.9.10)
自分の息子、娘を教育する時に、父と母だけを愛する息子、娘になりなさいと教えてはいけません。「私は、この国を愛する忠臣だ。愛国者だ。母としての愛国者ではなく、愛国者としての母、忠臣としての父だ」と教育しなければなりません。孝の道を教えるときも、父母が孝の道を行く姿を見せてあ
げなければなりません。 (注 3)そのようにできない人は、秋風に散る木の葉のように落ちるのです。
(26-296、1969.11.10)
今まで人間たちは、自分の息子、娘を生み育てる目的を自分の家庭が良くなるところにおいてきました。逆さまになりました。今日では逆さま時代です。天が喜び、世界が喜び、国が喜び、社会が喜んだあとに私が喜べるのです。これが本来の原則ですが、堕落して逆さまになりました。 「私から喜び、
次に私たちの家が喜び、その次に私たちの社会が喜ぶようにしよう」という主張です。逆さまにしているのです。
(8-106、1959.11.22)
②父母と子女の不可分の絆
― 宗教経典 ―
われは、両親に対して孝行であるよう人間に命じた。母は懐胎に苦しみ、その分娩に苦しむ。懐胎してから離乳させるまで三十個月である。それから、かれらが十分の力を備える年配に達し、それから四十才になると「わたしの主よ、わたしと両親に対して、あなたがお恵み下された恩恵に感謝することを、お許し下さい、またあなたのおよろこびを賜わるよう、わたしが善い行ないをなし、また子孫についても、わたしを多幸にして下さい。わたしは悔悟してあなたに帰依いたします、まことにわたしは、ムスリムであります。
これらの者は、われがその最も善い行ないを受け入れた者たちで、その誤った種々の行ないは見のがした、楽園のともがらのうちにいる者であろう。これはかれらに結ばれた、真実の約束である。
クルアーン 46.15 ~16(イスラーム)24
比丘衆よ、我は二人には報い尽すこと能はずと説く。誰をか二人とす。母と父なり。百歳の寿あるて、百歳の間活きて一肩にて母を荷ふべし、一肩にて父を荷ふべし、彼は父母を塗身、揉和、沐浴、按摩に由って看護すべし、父母は肩上にて放尿遺棄するも、比丘衆よ、されど尚ほ父母に事へ、恩に報ひしに非ず、比丘衆よ、父母をして、この多の七寶に富める大地の支配者たる王位に就かしむるも比丘衆よ、
尚ほ、父母に事へ恩に報ひしに非ず、其は何故か、比丘衆よ、父母は多の方法にて子を扶養し保育し、この世を見せしむ。
比丘衆よ、而して不信の父母に勧めて信を発せしめ、〔信に〕入らしめ、佳せしめ、破戒〔の父母〕に勧めて戒を持たしめ、 〔戒に〕入らしめ、佳せしめ、慳悋〔の父母〕に勧めて捨施を行わしめ、〔捨施に〕入らしめ、佳せしめ、悪慧〔の父母〕に勧めて正慧を発さしめ、〔正慧に〕入らしめ、佳せしむ、比丘衆よ、此を斉つて父母に事へ恩に報ひたるものなり。
阿含経増支部 i.61(仏教)25
教友の一人が、「神の使徒よ! 私にとって最も高貴な人は誰ですか」と尋ねると、彼は、 「お前の父だ」と答えた。「二番目に高貴な人は誰ですか」と尋ねると、使徒は「お前の母だ」と答えた。
「私の母の次は誰ですか」という問いに、神の使徒が答えた。「お前の父だ」。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)26
息子よ、お前はなぜお前の父と争っているのか。彼がこれまでお前を育てたのだから、彼と言い争うのは罪悪だ。
アーディ・グラント、サーラング、M.4、p.1200
(シク教)27
父に聞き従え、生みの親である父に。/ 母が年老いても侮ってはならない。/ 真理を得よ、知恵も諭しも分別も手放すな。/ 神に従う人の父は大いに喜び躍り / 知恵ある人の親は、その子によって楽しみを得る。/ 父が楽しみを得 / あなたを生んだ母が喜び躍るようにせよ。
箴言 23.22 ~ 25(キリスト教)28
父よ、私を寵愛なさることに感謝します。母よ、私を平安にしてくださることに感謝します。
衣服よりもっと大切な知恵で私を包んでくださり、
父母よ! 感謝します。
奴隷たちはあなたに奉仕するでしょう。
下人たちはあなたを助けるでしょう。
私が生んだ子供たちはあなたのお世話をしてさしあげるでしょう。
ヨルバ族の結婚式の祝歌(アフリカ伝統宗教)29
― み言選集 ―
皆さん、父母と子女の関係を誰も改めることはできません。説明で否定することはできません。それは力でも否定できず、いかなる知識、いかなる権力、いかなる金力でも否定できません。何をもってしても、この父子の関係を否定できないのです。これは宿命的です。いくら分かれても、永遠に分かれることはありません。ですから、これは、愛と生命と血筋によって、神様を中心に永遠に一体になれるのです。
(206-235、1990.10.14)
父母の関係は、どのようなものですか。父と息子、娘として、永遠に切り離すことのできない愛の関係です。それを否定できますか。堕落した世の中であっても、父母が子女を愛するのは変更させられません。動物世界で母親が子供を愛するのは、教育や革命を通しては変更させられないのです。億千万世継続するのです。永遠なものです。不変です。ですから、母性愛は不変の真理です。宇宙全体が母性愛を
中心として回っていくのです。
(143-52、1986.3.15)
皆さん自身は、誰のものですか。父母のものであり、息子のものです。そうなると、父母は誰のものですか。父母は、子女のものであると同時に神様のものです。ですから、皆さんはまず神様のものになって、子女のものになったのちに、自分のものになるのです。そのようになる時に、初めて完成されます。ですから、父母を敬うその法度が地上に残り、人間の生活に残っているのです。ここから、父母を敬い、子供を愛しなさいという言葉が出てきます。
父母がいなければ孤児です。父母の愛を受けてみて、子女を愛してみてください。そうしてこそ、「私」という人が四方を区別でき、上も下も区別でき
るのです。
(18-209 ~ 210、1967.6.8)
父母は子女のために、子女に命まであげたので、子女は父母のために……。生命は愛から生まれたので、本質的な愛の前には、生命を犠牲にしていくのが論理的な結論です。矛盾した結論ではありません。
(137-76 ~ 77、1985.12.18)
父母の愛に報いなければなりません。父母が子女を育てるとき、父母が食べることができなくても、食べる物があれば、自分の減ったおなかを押さえ、歯を食いしばって空腹を克服しながらそれを子女に与えます。その愛は、父母のためにそのようにできる子女として育てるためです。
父母が先に苦労の路程を行ってこそ、父母のその苦労が土台となり、子女が父母を慰労できる苦労の路程を行くのです。皆さんがまず父母を慰労できる心情をもってこそ、皆さんの息子、娘もそのようにできる息子、娘になるのであり、そのようにできる息子、娘をもってこそ、善の血族として残れるのです。自分自身ばかりを中心として父母は知らないとすれば、その人は絶対に孝子にはなれません。
それでは、どのような人を孝子と言うのでしょうか。父母が子女のためにしていたのと同じように、子女が父母にすることができれば、その子女は孝子だと言えます。それは天とも通じます。父母は中間で精誠を尽くしていきながら育てたにもかかわらず、その子女が自分にはかかわりのないことだと思っていれば、その家は滅びるようになるのです。
与え合う道理において相対的基準が造成されてこそ回っていくのであり、またそのようになって、初めて神様がその場に臨在され、天国を成していくことができるのです。
それでは、天国に残れる子供とは、どのような子供でしょうか。父母の愛によってつくった借りを、自分自身が返さなければなりません。父母が年を取ってぼけた時には、自分が幼い時に大便をし、小便をしたものをぬぐってくれた父母の心で困難に耐えて、父母に仕えてこそ孝子になれます。
(35-241~ 242、1970.10.19)
家庭で「孝行しなさい」と言いますが、なぜ孝行と言うのですか。それは父母を中心として、父母が行くべき愛の道に、同参者になりなさいということです。その父母の真の愛の道には、天倫がついていくのです。父母だけが行くのではなく、見えませんが縦的な天倫がここに因縁を結んでいくので、父母
と一つになりなさいというのは、天倫の役事、見えない縦的な役事と横的な役事の両面の心情圏を受け継いでいきなさいということです。これが、「父母に孝行しなさい」と言う理由です。これを知らなかったのです。最近は、「父母に何を孝行するのか」と言います。アメリカでは、そのような考えをもっ
ています。「父母が私たちを生むとき、私たちのことを考えて生んだのか。自分たちがよくて生んだのだろう」という考え方です。それは、この原則を知らない考えです。
すべての役事は、縦的な基準が立ってこそ、横的な基準が立つようになります。ビルを建てるときも、まず垂直線を合わせてこそ建つのです。そして、水平線を合わせなければ、いくら高い建物でも倒れます。同じように、私たち人間が世の中に立っていること自体が、既に縦的基準に合わせているのです。
(136-203、1985.12.9)
最近は、子女が父母を否定します。人倫道徳まで否定しています。人倫を否定するときは、終わりの日です。私たち統一教会は、このようにしてはいけません。このような現在の思潮に調子を合わせてはいけないのです。統一教会は、真実で永遠に肯定できる因縁をもたなければなりません。父母は父母で、子女は子女で、師は師で関係を結ばなければなりません。したがって、若い人だけではいけないのです。み旨には、年を取った人も必要です。
(21-121、1968.11.17)
3. 兄弟愛
兄弟間の愛と調和は、家庭平和具現の本質的要素である。父母にとって、兄弟の対立闘争より大きな心配事はない。しかし、一般的な傾向から見るとき、兄弟間の競争により、調和が簡単には維持されていないのである。
兄弟関係は、父母の愛に基づく。兄弟は、自分の父母の生活様相を反映する。そのため、父母が子女を世話して模範を見せれば、子女たちはお互いに世話をしながら、簡単に調和を成せる。さらに兄弟愛は、社会における友人と同僚の間の円満なつながりを形成するための第一歩である。神様を家庭の父母として侍るとき、全人類は兄弟姉妹の関係が造成される。ここで兄弟愛は、人類愛として拡大されるのである。そのため、自分の「兄弟」間の赦しと和解に関する経典の教えは、家庭における兄弟だけでなく、信仰共同体における兄弟姉妹に、そして究極的に世界の全人類に適用されることを教示する。
― 宗教経典 ―
見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。
かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り / 衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り /
ヘルモンにおく露のように / シオンの山々に滴り落ちる。
シオンで、主は布告された / 祝福と、とこしえの命を。
詩編133(キリスト教)30
信者たちは兄弟である、それでなんじらは、ふたりの兄弟の間を融和せよ、そして神を畏れまつれ、おそらくなんじらは慈悲にあずかるであろう。
クルアーン 49.10(イスラーム)31
孝と悌ということこそ、仁徳の根本であろう。
論語1.2(儒教)32
『詩経』に言う、「妻子はよく和合し、瑟とことを弾いて相和するようである。兄弟は和合していて、和楽してまた深く楽しむ。汝の家がよく和して、汝の妻子は楽しむ」と。孔子が(上の詩を賛嘆して)言われた、「(妻子と和し兄弟とよければ)父母は安楽であるよ」
中庸15.3(儒教)33
あなたがたも聞いているとおり、昔の人は「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に「ばか」と言う者は、最高法院に引き渡され、「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
マタイによる福音書 5.21~ 24(キリスト教)34
― み言選集 ―
子女間の愛は、どのようなものでなければなりませんか。何を基準として愛さなければならないのでしょうか。父と母が愛するように、兄弟も愛さなければなりません。愛は誰から学ぶのかというと、父母から学ばなければならないのです。愛を受け継ぐための準備は、兄弟を通してしなければなりません。もし妹がいれば、その妹を愛するとき、自分の母親を愛するようにしなければなりません。妹が兄を愛するときは、父親を愛するようにしなければなりません。男性の兄弟と女性の兄弟は、互いに父母と子女の間の愛を感じなければならないのです。すなわち、父が息子を愛するように兄は弟を愛し、母が娘を愛するように姉は妹を愛さなければなりません。
(66-121、1973.4.18)
いったい、どのような人が孝子ですか。「お父さん、お母さん、愛しています。ああ、愛しています。愛しています。すべて愛しています。しかし、弟とはけんかします」と言えば、その人は孝子ではありません。その母親は、「あなたが私を愛するように、いや私を愛するよりも兄弟をもっと愛するのが孝子だ」と言うでしょう。この原則は、簡単です。この原則さえ人類が信じ、命を懸けて愛すれば、地上に天国は成し遂げられざるを得ません。
(95-189、1977.11.13)
ある家庭に兄がいて弟がいるのですが、その兄は大統領であり、弟は労働者だとすれば、兄が弟に、「おい、お前は労働者だから、家に入ってきて労働でもしろ」と言うことはできません。真の兄だとすれば、弟が自分のようにできないことを恨に思いながら、立派にしてあげたいと思う心情が動くのが
真の兄の心です。
(7-38、1959.7.5)
兄弟の困難を、自分の困難よりも重要視しなくなるとき、兄弟間の関係は疎遠になります。このように見るのです。
(62-188、1972.9.25)
一つの家庭で、兄弟がお互いに意見が異なって争っているとき、父母はどちらの側につくでしょうか。先に手を出し、自分の欲心のために争う子女の側につく父母は、いません。ですから、今日まで歴史過程において教育と人倫道徳の標準は、「善でありなさい」ということだったのです。
(31-235 ~ 236、1970.6.4)
理想は、どこにあったのでしょうか。男性と女性には、息子、娘が理想です。男性もいて、女性もいるのが理想的な兄弟姉妹でしょう? 男性ばかりだと、けんかしかしません。兄が妹をたたき、一度えんえん泣いても、翌朝になれば、また来るでしょう? 男性同士では、一度ぶつかると1週間はかかりますが、女性は頼りたい心をもっているので、一晩寝れば忘れてしまい、 「お兄さん!」と言ってやって来るのです。兄弟姉妹が、そのように一緒に和合しながら幸福な家庭を築く中で成長する人は、天
宙の展示会をするのと同じです。
(205-81、1990.7.7)
今まで皆さんは、兄や姉とけんかし、兄弟同士でけんかして、くるっと背を向けて出てきたことがあるなら、宴を開いて満足させてあげ、「私を許してほしい。これからは、私たちの父と母が愛するように愛し合おう」と言わなければなりません。それは、どれほど美しいことですか。父母が二人とも霊界に行ったあと、兄弟たちに、残った父母として私が侍ろうと考える人は、どれほど幸福かというのです。兄弟は父母の身代わりなので、残った父母に侍ろうということです。兄弟が苦しんでいれば私が助けてあげ、母親にしてあげたのと同じようにしてあげれば、それはどれほど美しいですか。そこから天国が始まるのです。
祖父がいるでしょう? 父母がいるでしょう? おじさんがいるでしょう? おばさん、お姉さん、すべているでしょう。この3代圏を中心とする、そのすべての親戚を中心として生まれたすべてのものは、私たちの父母を見せてあげるためであり、私たちの祖父母を見せてあげるためです。さらには、神様を見
せてあげるために私にくれた贈り物だと考えてください。
このようなことを一つの家庭を中心として考えるとき、これを拡大したのが世界なので、社会を見れば、祖父母の年齢、叔母の年齢、叔父の年齢、父母の年齢、兄の年齢、姉の年齢、弟の年齢、すべてがそうです。年を取った人たちには祖父母として、侍ってために生き、そのように愛するのです。その次には、父母のように、兄と弟のようにために生きようとしなければなりません。
神様も同じです。神様は、私たちの父ではないですか。世界の人を見せてあげ、兄弟として愛しなさいと言うのです。かわいそうな乞食がいれば、その乞食が父親の年齢なら、父親のようにために生きていける心、それはどれほど美しいですか。神様から見るとき、すべてが自分の息子、娘なのに、けんかしていていいでしょうか。同じ道理です。全人類が神様の息子です。同じ概念です。
(184-65 ~ 66、1988.11.13)
カインとアベルが一つになれず、分かれてはいけません。一方は正しいほうであり、一方は悪いほうです。ですから誰でも、私の神様であると同時に、あなたの神様であり、私を愛するだけでなく、あなたを愛する神様であるという信仰の立場で、お互いにアベル的な存在を求めて侍り、カイン的な立場を避けて、最大の努力をしなければいけません。
(3-207 ~ 208、1957.11.1)
4. 友情
兄弟関係で学んだ教訓は、友人関係の維持に直接適用される。友情は、兄弟愛の社会的な拡大形態である。堅い友情は、情緒的つながりを造成し、社会倫理を定着させる。良き友人は、正直で信実で真実である。そしてそれは、友人、すなわち他人の利益を追求する原動力になる。反面、悪しき友人は、自身の利益のために友人を利用する。経典は、何よりも友人選択に慎重であることを勧告する。
①真実な友人と偽りの友人
― 宗教経典 ―
男の信者も女の信者も、互いに他の保護者である。かれらは正しいことを命じ、邪悪を禁ずる、また礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなし、神とそのみ使いに従う。
クルアーン 9.71(イスラーム)35
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
ヨハネによる福音書15.13
(キリスト教)36
曾子がいった、「君子は文事(詩書礼楽)によって友だちを集め、友だちによって仁の徳〔の成長〕を助ける。」
論語12.24(儒教)37
あなたを思ってわたしは悲しむ / 兄弟ヨナタンよ、まことの喜び / 女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を。(注 4)
サムエル記下1.26(キリスト教)38
犬が言った。「お前が転び、私が転べば、その遊びは楽しいだろう」。(注 5)
ヌペ族の格言(アフリカ伝統宗教)39
羊が二匹一緒に歩くのは、一匹の羊が他の羊の目にある埃を吹いてあげなければならないからだ。(注 6)
アカン族の格言
(アフリカ伝統宗教)40
同人九五の交辞には「人に同じうするに先には号き叫び後には笑う」とある。これについて孔子は次のように言う。君子の道は、時には出でて朝廷に仕え、時には退いて野に処り、時には黙して語らず、時には大いに語り論ずるなど、時に応じて様々であるが、その心情の正しさを重んずる点においては変わりがない。正しい心情の持主が二人して心を合わせればその鋭さは金鉄をも断ち得るほどであり、心を同じくする者のことばは、蘭の香りのごとくにかぐわしいものである。
易経、周易繋辞上伝1.8.6(儒教)41
孔子がいわれた、「有益な友だちが三種、有害な友だちが三種。正直な人を友だちにし、誠心の人を友だちにし、もの知りを友だちにするのは、有益だ。体裁ぶったのを友だちにし、うわべだけのへつらいものを友だちにし、口だけたっしゃなのを友だちにするのは、害だ。」(注 7)
論語16.4(儒教)42
威に服して心にもなく親しくなる者 /口先うまい仲間もまた同じこと
うわべは従順で人をたぶらかす仲間 / 悪事の友 悪いことをする仲間
これらの仲間はあてにならない / 知恵ある者は心して / すみやかに彼らを遠ざけよ
ちょうど険しい道を避けるように /悪を防ぎとどめる友 / 人を慈しみ大事にする友
人に利益を与える友 / 一緒に事を行ってわが身のごとくみなす友
こうした友にこそ親しめよ / 智者が近づくのはこうした人
友の中でもたぐいなき友 / 慈母がわが子を慈しむように
阿含経長部 iii.187、善生経(仏教)43
私たちが周りにいないとき、私たちが不在のとき、私たちのために行う者はごくまれだ。しかし、私たちがいるときはすべての人たち、奴隷であれ自由人であれ、私たちに愛を表す。
ヨルバ族の詩(アフリカ伝統宗教)44
― み言選集 ―
この世の中で最も良い友人がいるとすれば、その良いという友人は、億千万世までもお前と私の間を断ち切ることはできないという、そのような良い立場の友人かというのです。いかなる高価なものよりも、自分の妻よりも良いと言える友人が良い友人です。一日の生活感情の一言で捨ててしまえる、そのような因縁の立場ではありません。命自体を刈り取られていっても断ち切れない立場が、このような友人の立場なのです。そのような、同情の立場ではないと言える立場が善の母体なので、今日、私の本心に共にあった善と関係を結んだすべての因縁は、永遠に断ち切ろうとしても断ち切れません。分けようとしても分けられないのです。
(42-218、1971.3.14)
真の友人とは、どのような人ですか。「私のためにいなさい」と言うところには、真の友人はいません。真の友人は、友人のためにいようというところにいます。10 人の友人がいれば、その 10人の友人のために一生の間奉仕したというとき、その 10 人の友人に「今までであなたにとって1番の友人を選びなさい」と言えば、彼らはみな、その 10人の友人のために一生の間奉仕し、犠牲になった人を選ぶでしょう。
(70-72、1974.2.8)
人間はつき合うにおいて、互いに知る時から、その時間が長くなれば長くなるほど、そこには生活的な面でも通じ合えるようになります。それだけでなく、情緒的な問題までも連結されるのです。私が生きている立場、全幅的な分野が関係している相手と共に立体的な立場を備えることを願うようになります。それが大きく、広く、高いほど、彼は私の前からいなくなってはいけない、友人なら友人なのであり、あるいは家庭なら家庭になるのです。
(59-296、1972.7.30)
幸福な人とは、どのような人ですか。悲しいとき、自分の心を分かってくれる友人をもった人です。幸福な人とは、どのような人ですか。苦痛を受けるとき、「その苦痛は私が代わりに受ける。あなたはその苦痛の場に行くな。私が代わりに行く」と命を覚悟して立ち上がれる友人や愛する息子や娘をもった
人です。その人は、幸福な人です。
(150-196、1961.2.15)
友人との間でもそうです。ただ顔だけを知っていて、互いにあいさつだけをして過ごす友人の家に行けば、自由ですか。自由ではないのです。友人との間でも、必ず互いの心情的紐帯があり、私が友人の生活に思いどおりに入り込むことができてこそ、自由なのです。このような因縁を結ぶためには、必ず情的に近くなければなりません。そのようになれば、外的な問題は、すべて解決されます。したがって、最も問題になるのが心情的な問題です。
(33-133、1970.8.11)
友人になり、誰よりも親しく愛される人になろうとすれば、その人の悲しみと苦痛を理解して、それを慰労してあげなければなりません。心情を通して愛で因縁を結べば、その人が私の思いどおりに動き、私もその人の思いどおりに動けるのです。
(7-306、1959.10.11)
②友人選択の知恵
― 宗教経典 ―
悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。
法句経 78(仏教)45
悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする。
コリントの信徒への手紙一15.33(キリスト教)46
汚れたものを近くにすると、一緒に汚れるだろう。純潔なものを近くにすれば、純潔になるだろう。
ミシュナ、ケリーム12.2(ユダヤ教)47
立派なものは友とすること、それはあなたが体と霊魂で徳を実践するのを助けるだろう。邪悪なものとは距離を置いて離れること、それは悪があなたに接近するのを防いでくれるだろう。
陰隲文(道教)48
正直者の群れの中に座せ。善良で高潔な者と交われ。いや、敵意が和らげられない所において高貴な敵を探し、邪悪で不義なる者と関わりを持つな。たとえ捕らわれの身にあったとしても徳のある者、学識のある者、真実なる者と共に生きるべきである。しかし王国のために、汝は邪悪で敵意のある者と共に留まってはならない。
ガルダ・プラーナ112(ヒンドゥー教)49
誰かを友とし、誰かと交われば、彼はその人と似た者となる。なぜならば、交際とはそのようなものである。交わる者はおのれと交わる他者を、接触する者はおのれと接触する他者をけがす。きたない箭がけがれていない箭束をけがすごとくである。けがされることをおそれて、賢者は、けっして悪人の友となるべきではない。
如是語経 76(仏教)50
共に住むことによりて〔初めて〕、戒は知らるべきことなり。それも長き間〔共に住むことによる〕。又少しく思惟することによるにあらず。如何に況わんや思惟せざることにおいてをや。それは又智慧ある者によりて〔知らるべく〕智慧なき者によりてにあらず。大王よ、共に交ることによりて〔初めて〕清浄なることは知らるべきなり。会話によりて〔初めて〕、智慧は知らるべきなり。それも長き間……乃至……智慧なき者によりてにあらず」と。
感興偈 65 ~ 66(仏教)51
友をつくるときは、試してからにせよ。すぐに彼を信頼してはいけない。都合のよいときだけ友となり、/ 苦難のときには、離れてしまう者がいる。また、心変わりして敵となる友もいて、/争いでお前が吐いた悪口を暴露する。食事のときだけ友であり、/ 苦難のときには、離れてしまう者がいる。お前
のはぶりがよいと、お前のようにふるまい、/ お前の召し使いたちになれなれしくする。しかし、お前が落ちぶれると、背を向け、/ お前の目から身を隠す。敵からは遠ざかれ。友達には気をつけよ。誠実な友は、堅固な避難所。その友を見いだせば、宝を見つけたも同然だ。誠実な友は、何ものにも代え難く、/ そのすばらしい値打ちは計り難い。誠実な友は、生命を保つ妙薬。主を畏れる者は、そのような友を見いだす。主を畏れる者は、真の友情を保つ。友もまた、彼と同じようにふるまうから。
シラ書〔集会の書〕6.7 ~ 17(キリスト教)52
― み言選集 ―
私たちの人生の問題を考えてみるとき、皆さんが今まで生きてきたのもそうですが、これから生きていくにおいてもそうです。一言の言葉が人生を左右することがいくらでもあります。言葉を一言話すことによって、人生を台無しにすることがいくらでもあるのです。それと同じように、聞くこともそうです。一言、一度間違って聞くことによって一生を台無しにするのです。また、行動においてもそうです。一度間違って行けば、やはり人生を台無しにするのです。また、皆さんが友人とつき合うにおいても、一人の友人と間違ってつき合うことによって一生を台無しにすることもあります。
そのようなことが人生に1度や2度ではないので、昔から、考える人たちは、言葉に気をつけ、聞くことに気をつけ、行動に気をつけ、友人に気をつけなさいと教えてきました。これは古今東西を問わず、あるいは洋の東西を問わず、同じ公式として通じるのです。
人を見ると、自分が不利で、自分が困難なときには、人のことを考えるのが難しいのです。これは公式的であり、共通です。そのとき、自分の困難を免れるためには友人も利用でき、環境も利用でき、話も変えられ、行動も変えられます。そのような環境が待っていることは事実です。
このように見るとき、人間の世の中で誰を信じるのでしょうか。私が誰かを頼って、あらゆる正しい道を行くことが難しい立場はいくらでもあります。良い友人だと私が信じていたにもかかわらず、あとでその人が私を踏んで利用する境遇が多いのです。そのようにできるようになっています。ですから、そのような観点から見るときに、誰を友人とするのか、誰と一緒に良いきっかけをもつのか、このような問題が世の中の大きな問題です。
(91-29 ~ 30、1977.1.2)
皆さんが友人とつき合おうとするときは、発展できる友人か、そうでなければ希望がない友人かということが問題になります。希望がない友人と関係を結べば結ぶほど、自分にだんだんと無価値な結果が現れざるを得ません。ですから、より良い友人と関係を結び、より良いあすのために準備して、努力しなければなりません。
(32-14、1970.6.14)
皆さんの中に、個人主義の思想が濃厚な人を友人にしようという人がいますか。自分だけのために生きようとする人は、良い友人ですか、悪い友人ですか。悪い友人です。なぜ悪いのですか。分けてしまうからです。個人と家庭と氏族から、すべて分けてしまいます。ついたてで仕切るようにふさいでおくのです。なぜ悪いのか、はっきりと知らなければなりません。
悪とは何ですか。悪は私的なものと通じます。もとから悪を好む人がいますか。種粒ほどもいません。皆さんも良い友人を願うでしょう? 悪い友人は嫌うでしょう? それでは、良い友人とは、どのような友人ですか。「御飯も食べず、学校にも行かずに出てこい!」、そのような友人が良い友人ですか。友
人が、御飯を食べる時間に御飯を食べていなければ御飯を食べさせ、学校に行かないと言えば、学校に行くようにする、このような友人が良い友人です。悪い友人は、これと反対だというのです。ここから善悪が分かれます。
(36-69、1970.11.15)
「ああ、あの人は、私の友人の中でこの類型の人のようだ。あの人は、私が知っている 100 人の中でこの類型の人だ」ということを比較、研究しなければなりません。それで、3、4の類型の人を選んで確認してみるのです。温柔な人なのか、驕慢な人なのか、強烈な人なのか、その次には、もたもたする人なのかを確認するのです。
(54-177、1972.3.24)
5. 夫婦愛
百年佳約(夫婦の一生の契り)は、神聖なものとして許される。それは、神様の祝福と約束を伴っている。夫婦愛の喜びは、神様の贈り物である。夫婦愛を通し子女を養育することによって、私たちは神様と共同創造者として、宇宙秩序に参与する。ここにはまた、一つの重要な意味が内在している。私たちは、夫婦愛を通して神様に出会ったのち、最も親密で現実的な方式で、神様の愛を直接体恤する一定の位置を確保することができる。
文鮮明先生は、この主題に対して広範囲に教える。先生の教えによれば、結婚は、人間完成の必須的な前提条件である。結婚の配偶者が自身の愛を強化して人生を再創造する方法に関し、文先生は様々な次元で実際的な忠告を提供する。夫と妻の双方の愛情は、彼らには半分にすぎないものである。より一層根本的なことは、祝福結婚を通して神様と人間の間に垂直的な愛が具現されるという点である。愛の神様は、自身の愛を反映するために男女の間の人間的愛を創造した。そのため、それは絶対的であり、不変であり、唯一なものである。神様が私たち各自を個別に愛するのと同じように、配偶者たちもそのように互いに誠実に愛さなければならない。今日、多くの人々が結婚の価値に対して尋ねるとき、彼らは自らの人生を神的な設計に立脚し、結婚の位相を格上げするために、宗教の声に深く留意する。
経典の様々な章句は、神様がエデンの園で制定した本然の計画に基づき、結婚に言及する。ここには文先生の独特な寄与がある。先生は、人間堕落の過程を明らかにし、本来の高貴な夫婦愛がどのように転落したのかを具体的に解明する。堕落の結果、やむを得ずに伝統的な人間の愛は神様の愛の秩序から逸脱し、このことにより結婚理想は具現され難い立場に置かれた。文鮮明先生の中心的な使命の一つは、全人類が本然の夫婦愛を回復するようにすることである。それを具現するための一環が、祝福結婚の儀式である。
①夫婦愛と愛情
― 宗教経典 ―
互いに甘い目くばせを交わし、私たちの顔が真の和合を示さんことを。私をあなたの心の中に秘め、同一の霊が私たちの内に住まわれん事を。私はマヌより受け継いだ我が衣をもってあなたを覆う、あなたが完全に私のものとなり、他の者を求めぬように。
アタルヴァ・ヴェーダ 7.36~ 37
(ヒンドゥー教)53
ただ一緒にいるからといって夫婦なのではない。真実に結ばれた二人は、一つの光として生きる。
アーディ・グラント、ヴァール・スーヒー
M.3、p.788(シク教)54
またかれが、なんじら自身の中からなんじらのために配偶をつくりたまえるは、かれのしるしの一つである。なんじらはかれらによって慰安を得、なんじらの間に愛と情けの念をうえつけたもう。
クルアーン 30.21(イスラーム)55
わたしを刻みつけてください / あなたの心に、印章として / あなたの腕に、印章として。
愛は死のように強く / 熱情は陰府のように酷い。火花を散らして燃える炎。
大水も愛を消すことはできない / 洪水もそれを押し流すことはできない。愛を支配しようと / 財宝などを差し出す人があれば / その人は必ずさげすまれる。
雅歌 8.6 ~ 7(キリスト教)56
ぶどう酒にもましてあなたの愛は快く。あなたの香油、流れるその香油のように / あなたの名はかぐわしい。おとめたちはあなたを慕っています。お誘いください、わたしを。急ぎましょう、王様 / わたしをお部屋に伴ってください。(注 8)
雅歌1.2 ~ 4(キリスト教)57
切断、細分、また分割、見よ、スーリアー(新婦)の形態(または色)を。されど祈祷者はそれらを清む。
われ幸運のために汝の手を握る、汝が夫たるわれと共に老寿に達せんがために。バガ・アリアマン・サヴィトリ・プランディ (豊饒の女神)、もろもろの神々は、汝を家政のためわれに与えたり。
プーシャン(道祖神)は、勝れて吉祥なる彼女を送りよこせ、そが中に人間が種子を播くところの。その彼女は慾望に満ちてわれらのために両腿を開かん、われらは慾望に満ちて、その彼女の中に陽を入れんと欲す。……
両人は〔常に〕ここにあれ、離るるなかれ。寿命を完うせよ。子と戯れ、孫と〔戯れ〕、おのが家に楽しみつつ。
プラジャー・パティ (造物主)はわれらに子孫を生ましめよ。アリアマンは〔われらを〕、老ゆることなく合体せしめよ。凶兆なく夫の世界(家)に入れ。われらが二足のもの(家人)に幸福を、四足のもの(家畜)に幸福をもたらせ。
不吉の眼差なく、夫を殺すことなかれ。家畜に親切に、好意に満ち、光彩に富み、男子を生み、神を敬い、心地よく、われらが二足のものに幸福を、四足のものに幸福をもたらせ。
恵み深きインドラよ、汝はこの婦人をしてよき息子をもち、幸運に富む者たらしめよ。彼女に十人の息子を授けよ、夫を第十一番目の者となせ。
舅に対して全権ある者となれ。 姑に対して全権ある者となれ。夫の姉妹に対して全権ある者となれ。夫の兄弟に対して全権ある者となれ。
一切の神々は、また水は、われら両人の心を合体せしめよ。マータリシュヴァンは、ダートリ(創造神)は、またデーシュトリー(「指示者」、女神の名)は、われら両人を一体ならしめよ。 (注9)
リグ・ヴェーダ 10.85.35 ~ 47
(ヒンドゥー教)58
かうかうと みやこどり
かはのなかすに
たをやかの かのひとは
よきひとのつま
おひいづる じゆんさいを
みぎひだり かきてとる
たをやかの かのひとは
よすがらに もとめつつ
もとめつつ あひえねば
よすがらに ものおもふ
おもひつつ わびしくて
いねがてに ふしまろぶ
おひいづる じゆんさいを
みぎひだり つみてとる
たをやかの かのひとは
ことかなでしたしまむ
おひいづる じゆんさいを
みぎひだり えらびとる
たをやかの かのひとは
かねうちて たのしまむ(注10)
詩経、周南、1 關睢(儒教)59
からからと 車の舝が鳴り
美しい末娘が 嫁いでゆく
心飢ゑて求めるのではない
魂あへる人なれば
よき友 ともしとも
うたげして喜ぶべきぞ
生ひ茂る林に
飛ぶは 山鳥
うまし かの人
めでたくぞ います
やすらひ たのしみて
君をいとふこと あるまじ
うま酒 なけれども
いざ 酌みたまへ
よき肴 なけれども
いざ 食したまへ
ふさはしき 徳なけれど
しましくは 歌ひ舞はむ
かの高山に陟り
柞の枝を切る
柞の枝を切れば
その葉 しなやか
めぐし 君を見れば
心 晴るるぞかし
詩経 218車舝(儒教)60
― み言選集 ―
神様の最高の傑作品として造られた美しい男性と女性が、神様を中心として愛することができれば、それは最高の愛であり、超越的な愛であって、世の中的な愛ではありません。その愛は、最高の美しい愛であり、愛の中の代表的な愛であり、永遠に輝くことのできる愛です。そのような愛が成し遂げられる所とはどこかというと、家庭です。
(26-154、1969.10.25)
愛する妻と夫の愛は、何かの条件的な愛ではありません。無条件的な愛です。その愛は、永遠に絶対的な愛です。
(112-294、1981.4.25)
愛する立場では、女性が男性の胸深くに入り込んだとしても、男性は反対しないのです。男性も同じです。千万世の壁がふさがっていても、誰も侵犯できない壁があっても、その壁を無難にかき分けて越えていけるのは、愛です。
(49-52、1971.10.3)
愛するときは、一つの体になって愛さなければなりません。男性と一つの体になった女性が真の愛で一つになり、その夫婦が離れられない関係になったとき、永遠に共存するのです。
(187-47、1989.1.5)
結婚がなぜ重要なのですか。愛を求めるものだからです。愛を知る道だからです。生命を知るものだからです。女性の生命と男性の生命が一体になる道です。次に、男性と女性の血統がここで混合されるのです。これを通して歴史が生じ、国が生じ、世界が生じ、理想世界が生じます。これがなければ、個人もなく、家庭もなく、国もなく、理想世界もありません。これが公式になっているのです。
(279-114 ~115、1996.8.1)
夫婦の天国は、どこからできるのでしょうか。プラスとマイナスが完全に一つになる所です。それは、結婚した日から喜んで暮らしていて、何年もたたずに離婚してグッバイするものではありません。
もう夫婦の天国が、どのような所か分かりますか。誰も夫婦を離すことはできません。ダイナマイトが爆発して足がなくなっても、上のほうでくっついているのです。皆さんは、どのような愛を求めていきますか。真の愛を求めていくのです。皆さんの心と体が完全に一つになってこそ、そのような愛があり得るのです。
(96-29 ~ 30、1978.1.1)
結婚に目的があれば、その目的とは何でしょうか。「男性と女性が出会い、ただそのように暮らすことだ」、それが結婚の目的ですか。違います。「心の世界を、男性と女性の心の完成を成し遂げるためのものであり、男性と女性の愛の完成を成し遂げるため」です。このような観念が全くありません。結婚
したということは、「私はそのような証拠をつくろう」と宣布することです。そして、「結婚生活を通してつくろう。死んでいくとき、私はそれをつくってから逝く」と考えれば、間違いなく天国に行くのです。天国は、ほかのものではありません。
(97-277、1978.3.26)
女性は男性を、父を身代わりし、夫を身代わりし、兄を身代わりし、弟を身代わりした立場の者として愛さなければならず、また男性は女性を、母を身代わりし、妻を身代わりし、姉を身代わりし、妹を身代わりした立場の者として愛さなければなりません。この四つの立場を身代わりし、世界を愛する心で最も近い所で愛し、尊敬しながら、互いにその刺激を感じるように結ばれた因縁が夫婦です。
世界を愛する代わりの立場で、世界的な愛を与え合える最も基本単位的な基盤が夫婦です。その基盤をイエス様が立てられなかったので、それを立てるために世界を代表する人間として愛し得る二人の男女が、新郎新婦の名で出会う場が、小羊の婚宴という場です。
ですから、結婚すれば、妻を母の代身として、姉の代身として、妹の代身として愛さなければなりません。また、夫を父の代身として、兄の代身として、弟の代身として、それ以上に愛する心をもって愛さなければなりません。これが理想相対を中心とする家庭的夫婦の愛です。
(37-109、1970.12.22)
神様は、平安であるよりも、自分を抑えながら昼夜走るのを好まれます。なぜですか。サタンを滅亡させられるからです。結婚も同じです。結婚は、私のためにするものではありません。女性は男性のために結婚するのです。結婚するとき、器量の良い美人が優れた男性をもらおうとすれば、それはすべてサタンだというのです。そのような結論が出てきます。
この原則を知れば、一人の男性として結婚するとき、本当に女性のためにするのであれば、「自分は美男子だが、本当に醜い女性であっても、美人以上に愛そう」という考えをもたなければなりません。これが原則的な考えです。私が一人の女性として生まれ、夫を神様のように愛し、人類のように愛し、この世界の誰よりも愛し得るという観念が立たなければ、天の国には絶対に行けません。また、一人の男性として、一人の女性を愛せない人が、神様を愛し、人類を愛することはできません。
(97-321~ 322、1978.4.1)
それでは、統一できる方法とは何でしょうか。互いに愛することです。相手が哀れに思えて愛することもでき、好きでも愛せます。夫婦同士、初めから好きで愛せる人はいません。 (注11)だんだん愛せるようになるのです。ある夫人が夫を見ると、性格が意地っ張りです。その意地っ張りのおじいさんを
誰が愛するかというのです。けれどもその夫人は、「あの意地っ張りゆえにどんなにぶつかることが多いか」このように考えて、かえってかわいそうに思うというのです。そのようにかわいそうに思って愛してあげれば、そのおじいさんは一番孤独で悲しい時に、夫人の所に行き訴えるようになっています。
そのようになるのです。また、そのおじいさんが頑固なのを見れば、自分は頑固でないので、おじいさんの頑固が使い道のある時もあります。ですから好きでも愛し、かわいそうでも愛せます。そのような心だけもつようになれば統一されるのです。
(41-332 ~ 333、1971.2.18)
私たち統一教会の食口たちは、貧しい暮らしをしています。だからといって、これが不幸なのではありません。一つのパンでも分け合って食べて暮らす生活、それがどれほど良いでしょうか! 互いを大切にし、互いに一食抜き、自分の妻に食べさせようとし、夫に食べさせようとする、その愛の谷間は、どれほど深いでしょうか。
(216-270、1991.4.7)
人には、いつも刺激が必要です。幸福は、刺激なしには成されません。刺激がなければなりません。いつも食べる御飯も、おなかがすいていてこそ食べるたびに新しいように、夫婦間の愛も同じように、いつも新しくなければなりません。妻と夫が、互いに見れば見るほどもっと見たいし、一日中共にいたいと思わなければなりません。そのために、自らに対する研究をしなければならず、神様に対する研究をしなければなりません。
(23-57 ~ 58、1969.5.11)
祝福家庭を天の国で神様が見れば、星のように光り輝いているというのです。神様も喜ぶというのです。最高の太陽のように、月のように光り輝く、愛するカップルになろうと思わなければなりません。そして、掘って、掘って、掘って、掘っても、10 年暮らしても、その愛の谷間を探し出せません。それで一生の間、掘って掘り続けながら死んで、天の永遠な世界に行って、初めてすべて合わせるのです。
ですから、夫に対して研究してください。夫を見れば性格がこうだと思っていたのに、後ろを見ると宇宙全体があるのです。神様よりもっと驚くべきものだと思うというのです。上から下に、東西、四方に違うではないですか。ですから、結婚する時に私の夫はこうだと思っていたことから抜け出せなければ、愛の理想を成就できません。回って上も見て、下も見て、寝ている時も見て、すべて研究しなさいというのです。
あなたたちは、夫に関して、死んでも忘れられない魅力的な部分を記憶していますか。それは何ですか。体全体です。じっと見てみてください。お互いにけんかをする時も、目を見ればパチパチするのが私と似ている、息をするのが私と似ている、聞くことも私と似ている、唇も私と似ている、感じることも私と似ている、そこに私が喜ぶ愛も私と似ているので、それを手放すことはできない、そのようなことを感じてみましたか。
心は年を取らないのです。心が年を取らないならば、愛はどうでしょうか。生命はどうでしょうか。その次に、血統はどうでしょうか。神様の真の愛を中心としては、すべて年を取らないのです。愛が 10 年、20 年と深くなっていけばいくほど、もっと美人になるというのです。世の中で一番の美人にな
り、美男子になるというのです。
地上では醜男醜女でも、黒人でも、愛の中心として見れば、一番の美人になります。愛の光以上に明るいものはないので、あの国では、どんな哀れな姿でも最高の美しい姿へと、どんどん若くなっていくというのです。世の中で考える美人たちは、どんどん老けていきます。世の中の美人は、あの国に行けば醜女になり、この世で美しさを中心として夫婦が愛すれば愛するほど、さらに美男になり、美人になります。
愛の光は最高に高く、最高の光なので、そうならざるを得ないことを知らなければなりません。さあ、ですから愛する妻は、天宙の私の光であり、私の夢であり、私の幸福であり、私の平和はそこにあるのです。天の心以外には、美人にする道はありません。
(297-168 ~170、1998.11.19)
先生が祝福してあげるにおいて、円満な家庭になるようにしようとすれば、極と極が出会うようにしなければなりません。東と東、北と北が出会うようにしてはいけません。北と南、東と西が互いに出会うようにしなければならないのです。背の高い男性に背の高い女性を出会わせてあげなければなりませんか、背の低い女性を出会わせてあげなければなりませんか。太った男性が太った女性を好むことはあり
ません。また太った女性が太った男性を好むことはありません。やせた男性は、太った女性を好むでしょうか、やせた女性を好むでしょうか。太った女性が好まなければ、自分もやせているのに、女性までやせたらどうなるのですか。山に大きな木ばかりあれば、見栄えが良くないのです。小さな木もあれば、見栄えが良くなります。
(26-333 ~ 334、1969.10.3)
天国は、家庭からである。相対から善なるものを見いだせない人は、天国に入れない。
御旨の道、天国
②男性と女性を完全にする結婚
― 宗教経典 ―
主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ / わたしの骨の骨 / わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう / まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。(注12)
創世記 2.18 ~ 24(キリスト教)61
結婚しない者は、喜びも、祝福も、善の行いも享受できない。
タルムード、イェヴァモート62b(ユダヤ教)62
天地の初めには自我がただ独り存在した。彼は願を立てた。「願わくば我に妻ありて、子を生み、財を獲、祭祀を行なわんことを」と。およそ人の願望といえば以上で尽きているのであって、これ以上のことはたとえ願っても得られるものではない。……かれ自我はこれらの願望の中の一つでも達成されぬ限りは満ち足りない思いをする。しかしながら、彼は快々として楽しまなかった。この故に、人は孤独では楽しめないのである。彼は第二者(相手)を求めた。彼はちょうど男女が相擁した程の大きさであった。彼はこの自体を二分した。ここに夫と妻とが成った。それ故に、ヤージナヴァルキァは「我自身は半片にすぎぬようである」といっている。されば、この空虚は婦人によってのみ満たされ得る。彼(自我)はこの婦人を抱いた。そして、人類が発生した。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド1.4.17、1.4.3
(ヒンドゥー教)63
義なる者たちは、アブラハムとサラのように、彼らが男女一緒にいるときに栄えることができる。
ゾハール1.82a(ユダヤ教)64
男は妻と自身と子供があってそれだけのものとなる(完全な男となる)。それゆえブラーフマナは言う。夫であるもの、それは妻である(夫と妻は一体である)と言われている、と。
マヌ法典 9.45(ヒンドゥー教)65
妻がいない人はまだ成人ではない。
ベンジャミン・フランクリン プーア・リチャードの暦66
― み言選集 ―
結婚とは何かというと、半分にしかならない男性と女性が完成するためにするものです。その完成のための愛は、自分が自分のために生まれたというそのような愛ではありません。そのような愛は、流れていく愛であり、偽りの愛です。自分が自分のために生まれたのではなく、相手のために生まれたと考え、その相手のために投入して忘れ、投入して忘れるところから真の愛は始まるのです。
(262-67 ~ 68、1994.7.23)
宇宙の存在秩序は、ために生きることを根本としています。真の理想、真の愛、真の平和の世界は、神様の創造理想であると同時に人間の希望です。ですから、理想の起源、幸福と愛の起源は、相対のために生きるところにあるのです。
宇宙を見れば、そのどの存在物も自分だけのために存在するものは一つもありません。動物界は、植物界のために、鉱物界と植物界は、動物界のために、また、このすべてを合わせた万物は、人間のために存在します。それでは、人間は、誰のために存在するのですか。人間は、神様のために存在するのです。その神様はまた、万物のためにそれらが存在するようにされ、成長、発展するようにされます。
このように「ために生きる」ことが存在世界の基本秩序なので、誰もがために生きる存在として生まれたのであって、自分だけのために生まれたのではありません。男性が生まれたのは、男性のためではなく、女性のために生まれたのです。女性の場合も同じです。いくら美人でも、女性が生まれた本来の意味は、女性のためではなく、男性のために生まれたのです。男女がもつ素性と感情も、すべて相対のためのものであって、自分のためのものではありません。夫婦の場合、結婚しながら、「あ! 私が生まれたのもあなたのためであり、生きるのもあなたのためであり、死ぬのもあなたのため」と思えば、これを理想的夫婦、幸福な夫婦というのですが、存在世界の基本秩序から見て、これはごく当然のことだといえるでしょう。そこから真の愛は始まります。このように、真は「ために生きる」ところから起源を求めなければなりません。
(135-234、1985.12.11)
今日の若い男女は、今後立派な人になれば、良い家庭を築き、その家庭の父母になろうとします。ですから、夫は夫で、妻は妻で、男性は男性で、女性は女性で立派な相手を要求します。それは、なぜですか。自分が不足なことを感じるからです。このようなことを感じる一方、立派な息子、娘を願うのです。相手を通して自分が不足な面を補充し、より良くなれればどれほど良いですか。そのようなことを胸の奥深くに、しっかり抱いて愛したいと思うのです。
(26-147、1969.10.25)
エバは女性の性稟、アダムは男性の性稟を中心として分立して、何でまた一つになるのですか。別れてから合わさることによって、神様御自身が内的に抱いていた愛が、どれほど強いかということが分かるのです。そうでなければ分かりません。自分に愛がありますが、愛が分かりません。相手に会うことで分かるのです。内省的な愛を、人を通じて感じてみるのです。
(185-187、1989.1.8)
夫にとって妻になる人が、妻にとって夫になる人が、世界で最も必要な人です。互いに勧告してあげながら杖になり、同労者にならなければなりません。
(27-87、1969.11.26)
男性たちは、夫人が自分の妻である前に、人類の女性であり、神様の娘であることを知らなければなりません。人類が愛する女性として愛することができ、神様が愛する娘以上に愛することができれば、夫になれるのです。そうでなければなれません。
女性は、その反対です。あの人は私の男性だと考えるのではなく、私の男性である前に神様の息子であり、人類の男性を代表した男性と考え、人類が愛する以上に私が愛し、神様が愛する以上に私が愛し、たくさんために生きてあげなければなりません。夫をそれ以上に愛するので……。
それで、「私が男性として片方の足になり、女性がもう片方の左足になり、人類のために、神様のための愛の足跡をなした家庭をつくって幸福になる」、このような夫婦になることを神様は願われるのです。右足は夫であり、左足は女性です。片足の人になるなというのです。「私は間違いなくきちんと行
きます」と言えなければなりません。また、そうしてまっすぐに行かなければならないのです。このようにすることができてこそ、結婚する資格があります。
(88-318、1976.10.3)
③本当の夫婦の愛によって男性と女性、そして神様が一つになる
― 宗教経典 ―
男性が家にいるときにも、家庭の根幹は妻だ。妻によってシェキナー(聖なる存在)が家から離れないからである。私たちの師は、創世記のこの言葉を理解していたのである。「イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した。彼はリベカを迎えて妻とした。イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た」 (創世記 24.67)。これは、シェキナーがリベカについてイサクの家に入ってきたことを意味する。より具体的に言えば、聖なる母は、家が整頓されており、男女が一緒にいるときにだけ、男性に臨むことができるということである。そのときに聖なる母の祝福が彼らに下されるのである。(注 13)
ゾハール1.50a(ユダヤ教)67
おお、ゴータマよ、女性は祭祀の火であり、彼女の性器は油であり、髪の毛は煙であり、陰部は火花であり、性交は燃え残ったものであり、享楽は閃光です。この火に神々は、神酒によって精液を与えます。この精液から新しい人が生まれます。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド 6.2.13
(ヒンドゥー教)68
天と地の原始の創造者。かれはなんじらのために、なんじら自身の間から、夫婦を、また家畜にも雌雄をつくりたもう。このようにして、なんじらを繁殖させたもう。
クルアーン 42.11(イスラーム)69
欲望が男女を一つにすれば、その結果、彼らに似た息子が出てくる。主なる神も御自身の息子をそのように造られたのである。したがって夫は、そのときに自らを貞潔にし、それに似た形ができるかぎり完璧に生まれることができるようにしなければならない。
ゾハール、創世記 90b(ユダヤ教)70
夫が聖なる目的で寝る前に自らを聖別すれば、男女二つの性によってなされた聖霊がその上に臨む。そして、主なる神は胎児に責任をもつ使者に命令され、この特別な霊魂を任せられ、胎児をどこに置くかを教えてくださる。ヨブ記の「男の子をみごもったことを告げた夜も」 (ヨブ記 3.3)がその意味である。……そして、子供の霊魂は天にいらっしゃるその方に似たかたちをもって下りてくる。 (注14)このかたちに似た子供が育ち、世の中を生きていく。
ゾハール 3.104b(ユダヤ教)71
主は、最初の婚礼巡行として、結婚生活での日常の義務に関する条例を見せてくださる。経典は主の言葉であるから、これを通して正しいことを修得せよ。そうすれば、主があなたを罪悪から自由にするだろう。……
2番目の婚礼巡行として、あなたは主が真のグルに出会わせてくださったことを知るようになるだろう。あなたの心の中の恐れは消えた。あなたの心の中にあった利己心の不潔さは洗われた。……
3番目の婚礼巡行として、主に対する熱望が宿り、世の中に対して無関心になる。……
4番目の婚礼巡行として、心が神の知識にまで達するため、神が心の中で感じられる。グルの栄光により私たちはたやすく神に近づいた。愛の甘さが私たちの体と心に満ちる。敬愛し、楽しいのは、私たちにいる主である。昼夜私たちの心は彼に固定されている。主を賛美することによって、私たちは主に至る。私たちの心の結実が願ったものであるが、彼がこの婚礼を整えるからである。霊魂が、配偶者が愛する名の中で喜ぶだろう。主が彼の花嫁と一つになり、新婦の心が彼の名によって花開く。(注15)
アーディ・グラント、ヴァール・スーヒー
M.4、p.773 ~ 774(シク教)72
― み言選集 ―
女性として生まれたのは、男性を求めていくために生まれたのであり、男性として生まれたのは、女性を求めていくために生まれたのです。女性と男性に生まれたのは、より次元の高い、二人が一つになって神様の愛に接するためです。一人ではその愛に接することができません。一人では、神様の愛に、本当の愛に接することができないのです。接したとしても、これは一方的です。立体的な、球形的なこのような愛には接することができません。
ですから、男性と女性がより次元の高い立体的な愛の圏内にジャンプするために男性と女性が結婚するのです。本来、本然の人は、堕落しなければ、男性と女性が一つになればなるほど、その力が作用すればするほど、ここには偉大な中心が生じて球形になります。横的に連結されればされるほど、ここには縦的な力の愛の母体が連結されて入ってくるようになります。すべての心も、体も完全にそこにぴたっとくっつくのです。一つになるというのです。
(109-275、1980.11.2)
このようなすべてのものが夫婦として成し遂げられれば、夫婦自体が一心になります。夫婦自体が一心なので、一体にならなければならず、その一体となったものが神様と一つになるのです。夫婦が愛の光の中ですべて一つになるのですが、一つになるその夫婦は、神様が覆い、自分でも分からない光の力が私を抱き、同化するようになります。あらゆる神秘的な境地に押し出すのです。
(296-33、1998.10.11)
神様は、御自身の体としてアダムを先に造りました。アダムは、神様の息子であると同時に、体をもった神様御自身でもあります。その次に、アダムの相対者としてエバを造り、横的な真の愛、すなわち夫婦の真の愛の理想を完成しようとしました。エバは、神様の娘であると同時に、神様の横的な真の愛の理想を実体で完成すべき新婦でもあったのです。
アダムとエバが完成して神様の祝福のもとで結婚し、初愛を結ぶその場は、神様が実体の新婦を迎える場です。アダムとエバの夫婦の真の愛の理想が横的に結実するその場に、神様の絶対愛の理想が縦的に臨在、同参なさることによって、神様の真の愛と人間の真の愛が縦横の基点を中心として一点から出発し、一点で結実、完成するようになるのです。
(277-198 ~199、1996.4.16)
誰のために結婚をするのでしょうか。神様のためにするのです。言い換えれば、神様の創造目的というみ旨のためにするのです。み旨は創造理想を完成することです。創造理想は、自分を中心として成し遂げられるのではありません。すべての心情が主体的な神様と一体となり、神様が動じれば私も動じ、神様が静まれば私も静まり、心情的一致点を中心として、内外が一つにならなければなりません。このように、神様と和合できる基準を立てなければ、創造目的を成し遂げることはできません。
(35-231、1970.10.19)
④結婚は二人を神様の姿と一致させる神聖な結合
― 宗教経典 ―
われは彼なり、汝は彼女なり。われは旋律なり、汝は詩節なり。われは天なり、汝は地なり。われら二人はここに共に住み、子供達の親とならん。
アタルヴァ・ヴェーダ 14.2.71(ヒンドゥー教)73
このよのぢいとてんとをかたどりて
ふうふをこしらへきたるでな
これハこのよのはじめだし
みかぐらうた(天理教)74
しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。
マルコによる福音書10.6 ~ 9
(キリスト教)75
祝福を受けてください! 私の主なる神、宇宙の主人であられ、あなたの形どおりに人類を創造され、人間のために永遠の場を用意してくださった方よ、祝福を受けてください! 私の主なる神、人間の創造主であられ……。
エデンの園で太初に、あなたの被造物をご覧になって喜ばれたように、このあなたの愛する人たちを見て喜んでください。祝福を受けてください! 私の主、宇宙の主人であられ、喜びと歓喜、新郎と新婦、楽しみ、歓呼、踊り、愉快、愛、兄弟愛、平和、同僚愛をもたらされた方よ、どうぞ早く、私の主なる神、喜びと歓喜の声がユダヤの地とエルサレムの地に響き渡るようにしてください。
新郎新婦の声、賛美から聞こえてくる歓喜に満ちた新郎の声、歌の宴に集まってきた青年たちの声がすべてこの地に響き渡るようにしてください。祝福を受けてください! おお、主、新郎新婦に喜びを施される方よ。(注16)
タルムード、クトゥッボート8a
(ユダヤ教)76
愛の福音は……。これ以上、結婚した二人の個人としてではなく、一つの存在内にいる二個体的本性として、男性と女性の一致を提供する。そして、このように一つになった霊的個体性は、一つの有形的存在としてではなく、父母としての神を反映する。この神聖な統一された霊的意識から永遠の天国の喜び─神の創造の完全性─へと向かうにおいて、障害物はない。
科学と健康 576(クリスチャンサイエンス)77
権能の主、神の作品であるこの世の霊魂たちは、不思議にもすべて一つである。しかし、それらが世に降りてくるときは、男性と女性に分離される。それでも、依然として互いが一つに結ばれている。最初に姿を現すときは、男性と女性として一緒に現れる。そのあとに世に降りてくるときは分離されるということである。のちに神は、彼らを縁結びしてくださる。神以外に誰も互いに最もよく合う縁を知る人はいない。幸福な者は正当で真理の道を歩む者だ。そのようにして霊魂は本来の相手を求め、真に完璧な人間になるのである。
ゾハール1.85b(ユダヤ教)78
日の栄えの栄光には、三つの天、すなわち三つの階級がある。その最高の階級を得るためには、人はこの神権の位(すなわち、結婚の新しくかつ永遠の聖約)に入らなければならない。そうしなければ、その人はそれを得ることができない。
さらにまた、まことに、わたしはあなたがたに言う。もしある男がわたしの律法であるわたしの言葉によって、また新しくかつ永遠の聖約によって妻をめとり、そしてそれが、わたしからこの力とこの神権の鍵とを与えられた油注がれた者によって、約束の聖なる御霊により彼らに結び固められ、また彼らに、「あなたがたは第一の復活に出て来るであろう。……その栄光とは、とこしえにいつまでも子孫が満ちて続くことである。(注17)
教義と聖約131.1~ 3、132.19
(末日聖徒イエス・キリスト教会)79
真の結婚の神聖な結合は、神と人間、すべての意志により成される。結婚は神から始まり、神で終わる。結婚を支配する法とその中に流れる祝福すべてが主なる神から来たものである。主なる神の御加護により、男性と女性は一生の間、配偶者に対して従順にし、天から来た祝福と義務をもち、その結婚の主人公となる。……
配偶者間の夫婦関係は、眩しく輝く祝福が許諾されたため、禁欲生活とは異なる。
夫婦生活を通して、夫と妻が天と自然の法に従ってふるまい、常に天に向かって畏敬し、神聖で知恵深いその方の御意志に従うよう努力しなければならない。……
私たちが語る愛は、瞬間の情欲で起きる感情ではなく、快楽ばかりを語るものでもない。愛は行動によって 証されるがゆえに、愛とは行動によって表現される深い心情である。家庭で愛を表すことは互いを助けることである。しかし、ここで終わるのではない。内的に自分たちを完成させる過程で、一日一日互いに協力することが、夫婦の最高の目的にならなければならない。そうすれば、夫婦関係を通して互いの徳目を啓発するようになり、結局、神と隣人への真なる愛の中で自らが成長するようになるだろう。
教皇ピオ11世 カスティ・コンヌビイ
-結婚の尊厳-(キリスト教)80
― み言選集 ―
愛を成すことができなければ、どうなるでしょうか。神様が喜ばれないのです。神様に出会うことができません。ここから、今日の家庭倫理の根本問題が解決されます。今まで宗教をもった人たちは、結婚することを悪く考えていました。結婚の最高の神聖さを私たちは謳わなければなりません。男性と女性が愛することができる道は、結婚生活です。男性と女性が一つになることによって、誰に似るのですか。神様に似るのです。男性と女性が一つになってこそ、御自身の形どおりに男性と女性を造られた神様に似るのです。そうしてこそ、神様が臨在されるようになります。
(70-76、1974.2.8)
今、自由世界で最も難しい問題とは何かというと、愛の秩序問題です。愛は愛ですが、どのような愛ですか。単純に男性と女性が楽しむものが愛ですか。そのような愛は、歴史過程もなく、未来観もなく、方向もない愛です。これは、自分勝手なものだというのです。そのような愛では、自由の原則と統一の原則、平和の原則になり得ないのです。
お互いに愛する人が、きょうは好きなのに、あすには別れるのですから、どうして平和があり、どうして統一があり、どうして自由があるのかというのです。そこに自由がありますか。そこに幸福がありますか。そこに平和がありますか。そこに統一がありますか。すべてが反対です。そのような愛は、破壊ばかりを招来するのです。破壊の動機であり、受け入れない内容だというのです。その愛は、反対にサタンが利用してこの人類を破壊させ、人類の理想を破壊させるための一つの戦略的な武器だ、ということを皆さんは知らなければなりません。私たちから真の平和を奪っていき、私たちから真の自由を奪っていき、私たちから真の統一を奪っていく怨讐の戦略的な方法であることを知らなければなりません。
(104-140 ~141、1979.4.29)
結婚は、なぜするのでしょうか。神様の形に似るためです。神様は、二性性相が合体化した一律的な存在であり、その神様の分性自体が男性と女性なので、彼らも合性一体化して種のようになって、神様の本性の位置に帰らなければならないのです。しかし、その種をつなげるためには、愛の道を通じなければならないために、生まれながらも愛され、育ちながらも愛を目標として育ち、暮らしながらも愛を中心として暮らし、行きながらも愛に帰るために行かなければならないのです。
(138-99、1986.1.19)
なぜ結婚しなければならないのですか。神様が二性性相をもたれたので、その二性性相に合うようにしようとするのです。ですから、二つの世界の現象を結ばなければなりません。人間愛の発展過程で必然的要件が結婚だったのです。
神様の形に似て人間が互いに相対をつくるために、愛によってこの地で結
ばれるとき、結婚をします。なぜ人を造ったのですか。神様の愛の相対形として造りました。神様も愛が必要で万物を創造したという結論は、否定する道がありません。神様が愛することができる完全な愛は、どこから出てくるのですか。地上の夫婦から始まります。ですから、結婚する日は喜びの日です。
(123-217 ~ 218、1983.1.2)
私が結婚をするのは、私のためではありません。男女が結婚するのは、男性が右側にいれば女性は左側にいるので、宇宙のためにするのです。天地の道理は、上下の調和です。男性が主体なので、主体である男性が上ならば、女性が下なので、上下を備えるために愛するのです。前後を備えるためにします。男性のためにするのではなく、女性のためにするのではありません。天宙の法度に合わせるためにすることを知らなければなりません。ですから、天理の法度を合わせられるよう、男性はそのような姿をしているのであり、女性もそのような姿をしているのです。
(101-38 ~ 39、1978.10.28)
男性と女性が出会うのは、宇宙の出会いです。これが壊れれば宇宙が壊れ、縦的世界がすべて壊れていくのです。結婚がどれほど重要かを知らなければなりません。結婚は、縦的な地上天国と天上天国の出会いであり、横的な永遠の世界と瞬間的な世界の出会いです。男性と女性が真の愛を行うことによって、永遠の愛が中心地にどんどん接近してくるのです。男性と女性は、神様を中心として中心地で一つに結ばれます。
(118-32、1982.4.26)
世界、宇宙を見てください。鉱物世界もプラスイオンとマイナスイオン、植物世界も雄しべと雌しべ、動物世界も雄と雌になっています。近ごろは細菌まで雄と雌があるといっています。すべてのものは、愛を中心として、自分のレベルを中心として一つになるようになっています。このようなペア・システムの宇宙を見れば、これらは、人間の理想的愛が天地を代表して一つになる時、共に連結されて信奉するために、そのようになっているというのです。
家を建てようとすれば、初めに基礎をつくるのと同じように、人のためにこのようなペア・システムですべてつくったのです。動物も、そうではないですか。雄と雌とが歩いていて、雌が被害を受けるようになれば、雄が命を懸けて守るのを見たでしょう。子を見れば、子のために命を差し出すのです。愛の道理はそうなのです。それは本来、根本がそうだからです。
(222-123、1991.10.28)
結婚は、天地の合徳であり、縦横、左右、前後の全体を完成するのです。結婚は、子女、兄弟、夫婦、父母の理想の完成地です。したがって、アダムとエバの夫婦は、神様が最も愛する父母であり、そうして第二創造主の位置に立ったことによって、神様が第一創造主として感じる全体を相続し、子女、兄弟、夫婦、父母の位置を神様の代わりに体恤するためにあるのが子女の繁殖なのです。
結婚して夫婦が愛し合う場は、神様と人間の愛と生命と血統の根源的王国の場であり、理想のための地上天国と天上天国の出発地です。
神様は、愛の根であり、生命の根であり、血統の根であり、地上天国と天上天国の根です。アダムとエバの結婚の時には、神様がアダムとエバの心に入っていって一体的愛を成されるのです。神様は、縦的な真の父母であり、アダムとエバは、横的な真の父母です。そのような二つの父母の血縁を受けて生まれたので、心は縦的な私であり、体は横的な私になるのです。(注18)
このようにして神人愛一体圏を形成するので、心身一体愛を完成した者は、神様の息子、娘になります。神様の王子、王女になれば、神様と父子の関係となって神様の全体を相続することができるのです。このような子女が、真の愛を中心とした夫婦一体を完成すれば、神様に侍って暮らす家庭になるのであり、その家庭は、平和と理想の基地になるのです。半分である男性と女性が一体となり、神様の相対として理想愛を完成させるようになるというのです。
(254-107、1994.2.1)
人間始祖アダムとエバは、堕落してしまいました。エデンの園から追われるとき、彼らは子女を抱えてはいませんでした。神様は、追い出したアダムとエバをエデンの園の外まで訪ねていき、祝福と結婚式をしてあげるはずは決してありません。全人類は、神様の愛とは関係なく繁殖した、追い出された先祖の子孫です。アダムとエバの堕落は、神様の真の愛の理想に背いた不倫の犯罪です。守るべき戒めが必要だった堕落前のアダムとエバは、未完成段階、すなわち成長期間で堕落しました。
人類始祖の初愛の結合は、神様自身の愛の完成でもあるので、当然、神様もアダムとエバも宇宙万象も、歓喜と祝福の中に酔う幸福な祝宴の連続でなければなりません。
神様の愛と生命と血統が、人間の中で始原を成しながら定着する幸福な儀式でなければなりません。ところが彼らは下部を覆い、木の後ろに隠れて不安に震えました。天道に背く偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統の根源をつくった不倫の関係を結んだからです。
(288-127、1997.11.26)
神様が創造当時の理想として願った真の愛、その偉大な真の愛を中心として、人間との真の愛の関係を結んで一つになり得る、このような神人愛一体の家庭を築いたとすれば、今日私たちは、天国に行くのか地獄に行くのかと心配する必要がなく、そのまま天国にすべて入っていくようになるのです。
ここで問題になることは、神様の真の愛と真の人間の真の愛が、主体的真の愛と相対的真の愛として一つになって一点から出発しなければ、神様の真の愛と人間の真の愛が異なり、二つの愛の出発になるので、二つの愛の方向と目的地になるというのです。このようになる時は、神様と人間が願う絶対的理想世界は見いだせません。
この二つの真の愛が一点から出発できることを願った神様のみ旨は、堕落によって完全に停止されてしまいました。サタンの愛を中心に偽りの父母が生じたのであり、人類は偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を受け継いだこの子孫なので、これはすべて地獄に行くようになります。天国とは関係がないのです。
(275-55、1995.10.31)
堕落によって、偽りの父母から偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を受け、偽りの結婚式をした家庭になりました。今、ここから始まった汚されたものを完全に清算して復帰し、真の神様と真の父母の愛を中心として……。真の愛の種、真の生命の種、真の血統の種を接ぎ木して、偉大な祝福を伝授してあげる復活の礼式が、正に国際合同結婚式なのです。世界の全人類が偉大な祝福を受けて天国家庭に転換し、地上天国に入籍することを願ってやみません。
(275-59、1995.10.31)
6. 結婚生活の倫理
結婚の愛は、感情の節制が要求される。その愛は、結婚生活の鍛錬を通して生存し、繁栄する。結婚生活は、約束を共有する夫婦に特別な挑戦を要求するようになる。そして、その挑戦は、人格精練の道として、愛の完成の学校として奉仕する。
経典は世代を通し、結婚に関する情報を提供する伝統的、倫理的規則の一部を明確に説明する。経典は、夫婦が家ですることは互いに異なるが、補完的な役割を説明する。夫は妻を敬わなければならず、妻は夫に従順でなければならない。二人の配偶者は信実で、すべてのことを共に分かち合い、決して離婚を考慮してはいけない。時折、このような伝統的な役割は、二重的な基準を正当化するために使われてきたが、正しく知れば、その役割は相互互恵的な責任を叙述する(社会的両性平等を議論する、第 20 章 7.「女性の権利」参照)。文鮮明先生は、結婚の理想は夫が妻を神様の娘として尊敬し、妻が夫を神様の息子として尊敬しながら、配偶者が互いにために生きることであり、その時、天国が実現されると教える。
①夫婦愛の核心倫理:夫婦は互いに服従しなければならない
― 宗教経典 ―
キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。
エフェソの信徒への手紙 5.21~ 33(キリスト教)81
同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。……同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。
ペトロの手紙一 3.1~ 2、7(キリスト教)82
夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。
コリントの信徒への手紙一 7.3 ~ 4(キリスト教)83
あなたの妻は、あなたに対する権限がある。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)84
夫は妻に夫婦としての義務を無理に強要してはならない。
タルムード、エルヴィーン100b(ユダヤ教)85
妻はなんじらの耕地である、それゆえ意のままになんじの耕地におもむけ。だが己れの魂のため、あらかじめ何かよいことをせよ。神を畏れよ。
クルアーン 2.223(イスラーム)86
― み言選集 ―
愛の道は、自分の夫と妻を千倍、万倍の絶対的に高い基準に置くことです。神様は、全人類に対してそのような絶対従順の位置を経てその対象圏まで出てこられたのです。それで、そのような愛で結婚した夫婦は、そのような高い水準を期待します。神様もまたこのような高い基準の対象を願われるので
す。すべての存在は、絶対従順の立場で投入して忘れ、投入して忘れます。そこで夫婦間の愛が花咲くのです。
(288-68 ~ 69、1997.10.31)
私が一人の女性として生まれ、夫を神様のように愛し、人類のように愛し、この世界の誰よりも愛せるという観念が立たなければ、天の国には絶対に行けません。
また、一人の男性として、一人の女性を愛せない人が、神様を愛し、人類を愛せますか。人類を愛することも、神様を愛することもできません。
(97-321~ 322、1978.4.1)
男性の前にいるその女性は、神様の娘であり、人類の女性であることを男性たちは知らなければなりません。自分の妻である前に、人類の女性であり、神様の娘であることを知らなければなりません。人類が愛する女性として愛し、神様が愛する娘以上に愛することができれば、夫になれるのです。そうでなければなれません。
女性は、その反対です。あの人は私の男性だと考えるのではなく、私の男性である前に神様の息子であり、人類の男性を代表した男性と考え、人類が愛する以上に私が愛し、神様が愛する以上に私が愛し、たくさんために生きてあげなければなりません。夫をそれ以上に愛するので……。
それで、「私が男性として片方の足になり、女性がもう片方の左足になり、人類のために、神様のための愛の足跡をなした家庭をつくって幸福になる」、このような夫婦になることを神様は願われるのです。右足は夫であり、左足は女性です。片足の人になるなというのです。「私は間違いなく、きちんと
行きます」と言えなければなりません。また、そうしてまっすぐに行かなければならないのです。このようにできてこそ、結婚する資格があります。
(88-318、1976.10.3)
今、皆さんに残ったこととは何でしょうか。愛の十字架を背負って犠牲にならなければならず、絶対服従しなければならず、絶対愛をしなければならない、これだけが皆さんに残ったことです。先生を失ってしまい、すべて失ってしまってもよいのですが、私自体内において天に対して絶対服従であり、絶対犠牲であり、絶対愛をしなければなりません。神様に対してする前に、皆さんの妻に対して行い、夫に対して行いなさいというのです。
(97-312、1978.3.26)
人間で最も貴い所は、愛の器官です。愛の器官とは、生殖器です。生殖器とは、自分のものですか。違います。誰のものですか。妻のものです。それは、誰がそのように言ったのですか。誰がそのように決めたのですか。神様です、神様。天地がすべてそのようになっています。存在するものはすべて、愛の
ために生まれたので、愛のための存在は、自分のためにもつ生殖器はもっていないのです。相対のためにもっているというのです。
相対と連結しなくては、真の愛を完成できません。これが天法です。絶対、唯一、不変、永遠の主人になるのです。男性一人で愛の主人にはなれないのです。生殖器を中心として相対と連結される時に完成が展開するのです。真の愛に連結してこそ女性が完成するのですが、男性の生殖器を完全に占領するその場で、完成が展開するというのです。男性も同じです。
(297-156、1998.11.19)
女性のもの、凹は凸のものですか、凹のものですか、男性のものです。男性のために生じたことを知らなければなりません。ですから、自分勝手にできません。それは男性の思いどおりにするのです。男性のものは女性の思いどおりにするのです。これが天法です。
(130-126、1984.1.1)
男性と女性が、自分の生殖器の主人が自分ではなく相対だと思うとき、愛の相対に対しては、丁重に頭を下げて受けなければなりません。愛は、相対によって得るのです。愛は、相対がいなければ来ないのです。相対によって来ることを知っているので、相対には丁重にしなければなりません。ために生きないところに愛はありえません。絶対的にために生きてこそ、絶対愛を見いだすことができるのです。
(279-123、1996.8.1)
夫婦同士でも、愛するからといって、夫がいる所を裸で勝手に出入りすることはできません。「私はこうですが、かまいませんか」とあいさつして動かなければなりません。妻はぐうぐう寝ているのに、夫が「おい、お前!」と言いますか。寝る時間にも規範があるのです。うるさくすればたたいてもかまいません。また、愛するときも、男性が女性にぶらさがってよいのですか。女性が男性にぶらさがらなければなりません。
(225-161、1992.1.12)
②両性関係:責任は異なるが愛において同等
― 宗教経典 ―
男は女の擁護者(家長)である。それは神が一を他よりも強くなされ、かれらが己れの資財から、費やすゆえである。それで貞節な女は従順で、神の守護の下に、夫の不在中を守る。
クルアーン 4.34(イスラーム)87
家人は女が位を内に正しくし、男が位を外に正しくする象である。男女それぞれ正しい位に在るのじゃ、天地陰陽の大義にのっとるものである。
易経 37、周易下経、家人(儒教)88
あなたたちはすべて保護者であり、あなたたちの非保護者に対する責任を1302 第4部 家庭と社会
もっている。統治者も一人の保護者であり、男性は家族の保護者である。妻もやはり一人の保護者として夫の家と子供たちに対する責任をもっている。したがって、あなたたちはすべて保護者であり、あなたたちの非保護者に対する責任をもっている。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)89
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ / わたしの骨の骨 / わたしの肉の肉。
これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう / まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
創世記 2.21~ 23(キリスト教)90
聖句(マントラ)による清めの儀式(結婚式)を行なった夫は、この世とあの世において、受胎適時(リトゥ)であろうとなかろうと常に妻に〔性の〕喜びを与える者である。夫は、性悪で、勝手気ま
まに振舞い、良い資質に欠けていても、貞節な妻によって常に神のように仕えられるべし。妻に単独の供犠はない。誓戒も断食もない。夫に仕えることによって〔死後〕天界において栄える。貞節な妻は、夫の世界を望むときは、夫が生きている間も死後も、彼にとって好ましくないことをしてはならない。……心と言葉と身体を抑制して夫を裏切らない妻は、夫の世界を獲得し、善き人々によって貞女(サードゥヴィー)と呼ばれる。
マヌ法典 5.153 ~165(ヒンドゥー教)91
あなたの妻を虐待してはならない。女性は神聖である。もしあなたが妻に苦痛を受けさせれば、あなたは遠からず死ぬだろう。私たちの祖母、大地は女性である。あなたがあなたの妻を虐待することは、大地を虐待することである。したがって、私たちを保護する私たちの祖母を虐待するあなたの行為によって、実際にはあなたがあなた自身を殺すだろう。
ウィネバコ族、父の訓戒(アフリカ伝統宗教)92
女性が男性のあばら骨から出てきたのは真に正しかった。第一に、男女間の社会的統一性のために女性が男性の上に君臨してはいけないので、男性の頭から出てくることはできなかった。反対に、女性が男性の僕として蔑視されてもいけないので、女性は男性の足から出てきてもいけなかった。ゆえに、あばら骨から出てきたことは真に正しかったと言えよう。
トマス・アクィナス 神学大全1.1.92.3(キリスト教)93
女性もやはり男性と同じ被造物である。女性が男性から出てきたということは、女性が男性の一つであることを見せてあげるためである。これはまた、キリストと教会が一つであることをあらかじめ形状化させて見せてくださったのである。
アウグスティヌス 神の国 22(キリスト教)94
― み言選集 ―
男女平等という言葉は、愛を中心に言う言葉です。女性が力で男性にかないますか。跳躍競技で男性にかないますか。服を作ることにおいて男性にかないますか。女性が男性に勝てるものが何かありますか。何もありません。ただ、愛を中心として見るときは女性が男性より優れていて、それが平等圏です。それを知らなければなりません。男女が愛を中心として平等圏なのであって、それ以外は平等ではありません。
(209-208、1990.11.29)
女性が幸福な時はいつですか。男性が幸福な時はいつですか。これが問題です。そのように考えてみるとき、二人が互いに喜べる時だというのです。そのような結論しか下せません。何を中心としてですか。拳ですか。それで夫に勝てますか。女性は、1度拳をぎゅっと握れば身動きできません。拳でけんかしては駄目です。力で競えますか。力で競えば、いつでも押し出されるようになっています。しかし、力も愛の支配を受けるので、力のある男性も、互いにぶつかって押したり引いたりしながら愛の懐に抱かれるようになれば、女性を抱えて回っていくのです。そのときは気分が良いでしょう?「ああ、なぜ私を抱えて回るのか」と言いながらも、そのときは自分の足もほうっておき、自分の体全体をほうっておいて、愛の懐に抱かれて回っていく、その時間は幸福だというのです。
(137-217、1986.1.3)
夫と妻に対する公的な愛の道を行かずに、私的な愛の道を行ってすべてが壊れていっています。アメリカの家庭の父母たちが、自分を中心とする愛をすればするほど壊れていくのです。社会を滅ぼし、世界を滅ぼします。
(111-257、1981.2.22)
妻とは、夫に対して順応し、彼のために助けてあげる人にならなければなりません。もちろん、そのようにしようとすれば、夫が責任を果たさなければなりません。
(81-318、1975.12.29)
愛がある所では上がってもよく、下がってもよく、中間にいてもよいという論理が成立します。愛する夫が自分より高いといって嫌い、愛する妻が自分より低いといってそれを憎みますか。一つです、一つ。一つになれば思いどおりに低い所から高い所に上がることもでき、高い所から低い所に下がるこ
ともでき、中間にいることもでき、どこでも行くことができます。ここは制裁がありません。
(91-141、1977.2.6)
家でも、父親は良く、母親はいてもいなくてもいい存在ですか。父親の誕生日は盛大に祝いながら、母親の誕生日は覚えてもいないのですか。父母という因縁は天地調和だということは、今日、信仰をもっていない人たちも知っています。
すべて相対的です。何であっても、合わさってこそ調和がなされるのです。目も、鼻も、耳も、唇も、すべて互いに合わさるところで調和がなされます。そのように、父母の二人が一つになってこそ、世の中のすべてのものを抱くことができるのです。一人で、いくらやっても駄目です。
息を吸うだけでは生きることができません。吸うことも必要ですが、吐くことも必要なのです。皆さん、酸素を吸って生きているので、息を吸うことだけが必要ですか。3回続けて吸ってみてください。そのようになれば、かえって吐くことが必要なのです。息を吐いて炭酸ガスを体の外に送り出してこそ、酸素がたくさん入ってくるようになっています。
男性だけが出てきてはいけません。最近の世の中は、男性に偏った世の中です。ですから、根本的に女性解放運動をしなければなりません。原理的に見るとき、3年以上、男性は女性に従順にしなければならないのです。それで、一つの個体が復帰するには正道どおりに経ていかなければなりません。堕落によって、アダムとエバが二人で落ちたので、上がっていくときも二人で上がっていかなければなりません。上がっていくのは、再創造のようなものです。創造するとき、アダムを先に造り、エバを造りました。したがって、再創造するときも、アダムを造っておいてからエバを造るのです。
(21-194、1968.11.20)
③夫婦の良し悪し
― 宗教経典 ―
有能な妻を見いだすのは誰か。真珠よりはるかに貴い妻を。
夫は心から彼女を信頼している。儲けに不足することはない。
彼女は生涯の日々 / 夫に幸いはもたらすが、災いはもたらさない。
羊毛と亜麻を求め / 手ずから望みどおりのものに仕立てる。
商人の船のように / 遠くからパンを運んで来る。
夜の明ける前に起き出して / 一族には食べ物を供し / 召し使いの女たちには指図を与える。
熟慮して畑を買い / 手ずから実らせた儲けでぶどう畑をひらく。
力強く腰に帯し、腕を強くする。
商売が好調かどうか味わい / 灯は夜も消えることがない。
手を糸車に伸べ、手のひらに錘をあやつる。
貧しい人には手を開き、乏しい人に手を伸べる。
雪が降っても一族に憂いはない。一族は皆、衣を重ねているから。
敷物を自分のために織り、麻と紫の衣を着ている。
夫は名を知られた人で / その地の長老らと城門で座に着いている。
彼女は亜麻布を織って売り、帯を商人に渡す。
力と気品をまとい、未来にほほえみかける。
口を開いて知恵の言葉を語り / 慈しみの教えをその舌にのせる。
一族の様子によく目を配り / 怠惰のパンを食べることはない。
息子らは立って彼女を幸いな人と呼び / 夫は彼女をたたえて言う。
「有能な女は多いが / あなたはなお、そのすべてにまさる」と。
あでやかさは欺き、美しさは空しい。主を畏れる女こそ、たたえられる。
彼女にその手の実りを報いよ。その業を町の城門でたたえよ。
箴言 31.10 ~ 31(キリスト教)95
居士よ、汝の住処の中にて人々が漁師漁労に於けるが如く高声、大声なるは実に何なるや、と、大徳よ、こは嫁善生にして富み、富貴に生れ、彼女は 姑を世話せず、主人を世話せず、世尊を恭慕せず、尊重せず、供養せず、と。
その時世尊は嫁善生に告げたまはく、来れ善生よ、と、然り大徳よ、と嫁善生は世尊に答へ奉り世尊の在す所に詣り已りて世尊を問訊し、已りて一辺に坐せり、一辺に坐せる嫁善生に世尊は告げたまはく、
善生よ、是等が七の男子の妻なり、悪心ありて、〔夫の〕為を念はず、他に著して夫を軽蔑す、
財を以て 購へし〔夫〕を殺さんと望む男子に対する是の如き妻は
「殺人者なる妻」と云はる。
主人が妻の為に、工、芸、商業、農業に努力して得る財をば
僅にても彼より取らんと欲す、男子に対する是の如き妻は
「盗賊なる妻」と云はる、
仕事を好まず懈怠大食し、粗悪暴悪にして、粗悪語を話し、
勤勉なる〔夫〕を壓服して住す、男子に対する是の如き妻は、
「支配者なる妻」と云はる。
常に〔夫の〕為を念ひ母が子になすが如く夫を護り、
それより彼の貯へたる財を護る、男子に対する是の如き妻は、
「母なる妻」と云はる。
譬へば妹が姉を尊敬する如く、自己の主人を尊敬し、
漸心あり、夫に従順なり、男子に対する是の如き妻は、
「姉妹なる妻」と云はる。
又ここに友が、久しくして来れる友人を見て喜ぶが如く、
生れ貴き具戒の妻は、主人を喜ぶ男子に対する是の如き妻は、
「友人なる妻」と云はる。
打杖にて脅かされて怒らず、悪心なくして夫に対して忍び、
怒りなくして夫に従順なり、男子に対する是の如き妻は、
「婢なる妻」と云はる。
而してここに妻が「殺人者」と云はれ、「盗賊、又支配者」と云はれ、
破戒者にして粗悪、不敬なる者は、身壊して地獄に行く、
又ここに「母、姉妹、友」と、又「婢なる妻」と云はれ、
戒に住し、長時自律の者は、身壊して善趣に行くと、
善生よ、是等が七の、男子の妻なり、汝はそれ等の何れなるやと。
今日より以後、大徳よ、世尊は我を婢に等しき、主人の妻と存念し給へ、と。
阿含経増支部 iv.91、無記品(仏教)96
もしあなたが一人の男性と結婚し、彼を手放さずに常にしっかりとつかんでおこうとすれば、彼のために働け。彼のために働くことによって、あなたは常につかんでおくことができるだろう。もしあなたが、あなたの夫が満足するだけのことをすれば、彼は決してあなたから離れないだろう。
あなたの夫に信頼されるようにせよ。あなたが何人かの男性と同時に結婚したかのように行動してはならない。純潔な人生を歩め。私があなたに言うことに耳を傾けず、あなたの夫に信頼されなければ、すべての男性たちがあなたをあざ笑うだろう。彼は気の向くままに語り、誰もこれを止めないだろう。
あなたの夫に横柄にふるまってはならない。彼があなたに言うことは、何でもやりなさい。あなたがあなたの夫に従順にすれば、彼も同じようにあなたに接するがゆえに、親切があなたに戻ってくるだろう。
ウィネバコ族、先祖の教え(アフリカ伝統宗教)97
ソクラテスの妻クサンチッベが、先に彼に悪態をつき、その次には水をかけた。彼は、「クサンチッベが今雷を落としているのだが、すぐに雨が降ると私が言っていたか」と冗談を言った。アルキビアデスが彼に、「クサンチッベが悪態をつく気質は我慢ならない」と言ったとき、彼は「しかし、私がいつも滑車の騒音を聞いていればそれに慣れるように、そしてあなたが、がちょうの鳴き声を我慢して聞いているように、私はそれに慣れてしまった」と答えた。これにアルキビアデスが、「そうだ、しかしがちょうは私に卵とひなをくれる」と答えた。ソクラテスが「そうか、クサンチッベは私に子供たちを生んでくれた」と応酬した。あるときは、彼女が市場で彼を殴り、彼の上着を破り、彼の友人たちが彼に手で防げと忠告した。彼は、「そうか? 私たちがたたき合うと、あなたたちはみな歓迎するだろう?『いいぞ、ソクラテス! いいぞ、クサンチッベ!』」。ソクラテスは次のように言った。「男性は扱いづらい女性と暮らさなければならない。乱暴な気質の馬を扱うことのできる調教師は、他のすべての馬を簡単に扱うことができる。このように、クサンチッベを相手にしたあと、私は誰とでも簡単につきあえる」。
ソクラテス(ヘレニズム)98
― み言選集 ―
アメリカの家庭で問題になることは何ですか。夫と妻が互いに相手に対して、いつも私のために生きてほしい、私だけを愛してほしいということではないですか。そのようなものはサタンの本性なので、そこからは神様が離れていくようになるのです。サタンが入ってきたので、壊れるようになるのです。父母は子女を育てて、「お前は私のために生きなさい」と言い、息子、娘は「親は私のために生きてほしい」と言い、互いに自分のために生きてほしいと言うので壊れていくというのです。
(69-87、1973.10.20)
女性は、夫にいろいろなうそをつき、何でも隠す境界線があります。一日の生活の中で、自分自身が主体性をもちたいと思っているのです。祝福家庭でありながらそのように考える人たちは、依然としてサタン世界に連結していることを知らなければなりません。
(396-257、2002.11.10)
男性と女性の関係で、妻が夫に「こっちに下さい」と言えば「はい」と言い、夫が妻に「こっちに下さい」と言えば「はい」と言い、お互いに「はい」と言えば、一つになりますか、なりませんか。そのようになれば、愛がだんだんと逃げていきますか、愛がもっと大きくなりますか。それで、どのようになるのですか。何が中心になりますか。男性が中心になりますか、女性が中心になりますか、愛が中心になりますか。愛です。愛が中心にならなければなりません。
(91-221、1977.2.20)
夫になるのは簡単ではありません。疲れているからといって、妻に責任がないのではありません。難しいからといって、妻に責任がないのではありません。難しければ難しいほど、妻に責任がもっとあるのです。疲れた立場にいても妻に責任があるのです。夫も同じです。良いからといって、夫に責任がないのではありません。悪いからといって、夫に責任がないのではありません。共同責任が原則です。その夫の前には、その妻の前には、この国の誰より、この世界のどんな人よりも、神様の代わりにこの地上で生きるように配置されているのです。
このように考えるとき、父母は、息子、娘の前に、一生の間、「私たちのお父さんとお母さんはけんかした」という声を絶対に聞かないようにしなければなりません。「私たちのお父さんとお母さんはよくけんかした」、このような話を聞けば、いくらうまくやっても地獄に行くのです。その息子、娘が話すとき、「私たちのお父さんは、神様の代身だ。私たちの家の神様だ。私たちの家の大統領だ。私たちの家の聖人だ。私たちのお母さんもそうだ」と言わなければならないというのです。昔、聖人たちが言うには、「家和万事成」と言ったでしょう? 私たち統一教会で主張するのは、 「家和」ではありません。「天和」です。天宙を中心として天と和合しなさいということです。
(101-41~ 42、1978.10.28)
女性がヒステリーを起こすのですが、男性がその女性よりもっとヒステリーを起こせばどうなりますか。女性がヒステリーを起こすのを見ても、「あ! そのようなこともあるのだなあ」と鑑賞できる男性が必要なのです。女性はヒステリーを起こすのですが、男性は「ははは」……。神経質に「ジョン」と言って男性を呼べば、 「オオ、イエース」と言わなければなりません。「ジョン」と言うときにイエス!(早く)」と言わずに、 「ジョン」と言うときに「イエー、イエー、イエース(ゆっくり)」言わなければならないのです。
やまびこは山が険しいほど良いのです。山が険しくて大きいほど素晴らしいのです。「ピー」とすれば「ブーン」と響きます。やまびこは良いものです。それと同じように、男性は、顔が良くなくても響きがなければなりません。女性が「わあ」と言うとき、「うんうんうんうん」とならなければなりません。本物であれば、そのようなものがなければならないのです。そのような神秘的なものがなければなりません。違わなければならず、同じではいけません。
(118-225 ~ 226、1982.6.6)
妻の財布が別にあり、夫の財布が別にあって、「あなたのお金です、私のお金です」と言う、それが完全な愛ですか、そのようなものを超越して「あなたのお金であり私のお金です、私のお金でありあなたのお金です」と言うのが完全な愛ですか。
皆さん自身が結婚すれば、お金の条件、あるいは権利の条件など、自分の条件を立てていきますか、愛の条件一つだけを立てていきますか。このような条件を立てていく人が本当に愛そうとする人ですか、偽って愛そうとする人ですか。愛を利用しようとする人ですか、愛のために生きようとする人ですか。どのようにならなければなりませんか。ために生きなければなりません。私たち統一教会の教会員たちは、結婚するとき、「ああ、私のものだ!」と考えなければなりませんか。自分までプラスし、夫を愛して変えようというのです。
(92-192、1977.4.10)
それでは、真の父はどのような父ですか。真の母はどのような母ですか。創造原則を立てられた神様のように、100 年投入して生きても夫のためにもっと投入したいと思う妻が真の妻です。涙を流し、「ああ、あの人のために私は滅んだ」と思うのではありません。「私が忠誠を果たし尽くせなかったので、夫を幸せにしてあげられなかった」と思いながら涙を流して生活する、それが真の女性像になっていく道です。真の夫も同じです。
(204-41、1990.6.29)
真の夫婦は、真の妻はどのような妻ですか。夫のために生まれた、夫のために生き、夫のために死のうとする人です。その立場においてのみ真の妻が成立するのです。反対に真の夫はどのような立場で成立するのかというと、妻のために生まれ、妻のために生き、妻のために死のうとする人です。神様が天地創造の理想的起源をここに設定したということを私たちははっきりと知りませんでした。
このような観点から見るとき、私たちは一つの公式を知りました。「ために存在する」という公式においてのみ、真の愛を見いだすことができるのです。ために存在するという、そこにおいてのみ真の理想があり得るのです。神様がそのような原則を立てたので、人間の幸福と希望をそこから発見できる可能性があることを、私たちはここから結論を下せます。
(77-293、1975.4.25)
④離婚は神様が呪う:夫婦は死のあとまで信実でなければならない
― 宗教経典 ―
合法的なものの中で神が最も嫌われるものが離婚である。(注19)
アブー・ダーウード・ハディース(イスラーム)99
ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、 「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、
姦通の罪を犯すことになる。」
マタイによる福音書19.3 ~ 9
(キリスト教)100
あなたたちは、なぜかと問うている。それは、主があなたとあなたの若いときの妻との証人となられたのに、あなたが妻を裏切ったからだ。彼女こそ、あなたの伴侶、あなたと契約をした妻である。……わたしは離婚を憎むと /イスラエルの神、主は言われる。
マラキ書 2.14 ~16(キリスト教)101
神は、己れの夫についてなんじに抗弁し、なお神に不平を申し立て祈る、女の言を聞きたまい、また神は、なんじら両人の議論をも聞きたもうた。まことに神は、全聴者・全視者であられる。
なんじらのうちズィハールによって、その妻を遠ざける者があっても、かの女はかれの母ではない。母はかれらの生んだ者以外にはないのである。実にかれらの言うことは不法な、虚偽の言である。まことに神は、赦免者・寛容者であられる。(注 20)
クルアーン 58.1~ 2(イスラーム)102
夫は神より与えられた妻を娶るのであって、自らの意志によって〔娶るの〕ではない。常に、神々にとって好ましい事柄を行ない、貞節な彼女を扶養すべし。 〔夫婦は〕死ぬまでお互いを裏切ってはならない。一言で言えばこれが夫婦にとっての最高の生き方(ダルマ)であると知るべし。(注 21)
マヌ法典 9.95、 101(ヒンドゥー教)103
身は捨小舟 川中にただよふ 前髪の凜々しき人ぞ 我が夫つまと定めたる人 命かけふた心なし わが母は心廣きもわが心うけたまわず
身は捨小舟 岸べにただよふ 前髪の凜々しき人ぞ 我が夫と定めたる人 命かけたがふことなし わが母は心廣きも わが心うけたまはず(注 22)
詩経、鄘風、45 柏舟(儒教)104
そのような純潔を守り通した者たちのように、夫の死後、純潔を決意した貞節な妻は息子がなくても天界に赴く。
マヌ法典 5.160(儒教)105
法によって彼らは婚姻の神聖さを脅かしてきたのであり、離婚の合法性を認めよと言う。また、いわゆる新しくより人間らしい法が旧時代の法に代替されなければならないと主張する。離婚を正当化する理
由は多く多様だ。しかし、その中の一部は関連する人たちが犯した罪と悪行に起因する。……つまり、結婚生活が大変でつらい理由が何であろうと……この永久不変の神の法は離婚に反対する。キリストが再び確認してくださったこの天の法は、人間の行為や考え、あるいはある立法者の意志によっても撤回されない法である。「主なる神がつづっておかれたものを、誰も掘り返してはならない」。
教皇ピオ11世 カスティ・コンヌビイ
-結婚の尊厳-(キリスト教)106
― み言選集 ―
夫婦になれば、あなたと私との相応関係が一時的でなければなりませんか、永遠でなければなりませんか。永遠でなければなりません。最初に喜んでいれば、最後も喜ばなければならないのです。その始終一貫というものは、 「始」で喜んでいれば、「終」でも喜ばなければならないというのです。離婚するのは、良いことですか、悪いことですか。悪いことです。
(86-109 ~110、1976.3.14)
皆さんの父母が離婚しようとするとき、子女が、「親が離婚したならしたで、私たちの家ではそれくらいのことは関係ない」と言ってもよいのですか。どのようにしなければなりませんか。「父も母も、私の言うことを聞かなければならない。離婚してはいけない!」と言うのと、「離婚するならして、しないならするな」と言うのとでは、どちらがよいでしょうか。どちらをとりますか。
今後、このような運動をしなければなりません。若者たちが団結して、父母が不義の離婚をすることは、もう許せないとして、「私は父母を誰よりも愛しています!」、このようにしようというのです。このようにできる子女は、父母が離婚しようとするのを絶対的に防げる孝子です。
(95-50 ~ 51、1977.10.23)
このアメリカの若者たちは、「私が嫌なら好きなように離婚できる」と考えていますが、宇宙はそのようになっていません。自分が貴ければ愛も貴いと考え、1度結べば永遠を標準として、そのように行かなければなりません。それが人間の行くべき道です。人間の価値がそこにあるのです。
(117-292、1982.4.11)
神様は唯一、絶対、無二の方です。ですから、アダムもその属性が顕現したので、絶対的な存在です。アダムは神様の男性的な属性であり、エバは神様の女性的な属性として顕現したのですが、その属性自体が絶対的です。その内的な属性と外的な属性を備えたそれらを一つに結べるものが愛なのですが、その愛は、神様までも絶対服従できる絶対的愛だというのです。
ですから、その絶対的な愛の前に夫婦として来られる方は唯一無二なのです。絶対的であると同時に、永遠不変です。分けられません。このような論理的理論基盤を知らないので、夫婦が好きなように離婚するのです。しかし、このような理論的基盤がある限り、絶対に離婚することはできません。
(226-171、1992.2.4)
夫婦が、なぜ夫婦げんかするのですか。お互いが愛されようとするからです。お互いが愛されようとする群れは、長続きしますか、できませんか。長続きできません。長続きすれば、それは原理ではないのです。お互いが愛されようとする家庭は壊れますか、壊れませんか。壊れます。それでは、お互いが愛そうとする家庭は、どうでしょうか。お互いに相手をもっと愛そうと大騒ぎする家庭は、「壊れよ」と祭事を捧げても壊れません。お互いがために生きてあげようとする愛は、永遠なものです。分かりますか。
(36-76、1970.11.15)
女性として生まれて、自分を誇り、男性を無視すれば、地獄に行きます。「ヘル(地獄)」とは何ですか。「ヘル」とは何かというと、ごみ箱です。女性が地獄に行っても、男性が「ああ、いけない! 行ってはいけない、行ってはいけない!」と言えば、仕方なく……。愛の力が1番なので地獄に行かないというのです。男性も同じです。これが宇宙的最高の福音です。
(161-324 ~ 325、1987.3.8)
夫婦がお互いに愛するにおいて、いつまで愛するのかと尋ねるとき、若い時だけ愛すると言えば気分が良いでしょうか、悪いでしょうか。いつまで愛することを願いますか。「永遠に」ということもありますが、まず死ぬ時まで、その次に永遠に愛することを願うのです。永遠は、未来を中心として全体を身代わりするのです。死ぬ時まで愛そうというのは、自分のすべてのものをありったけ与えて愛そうということです。そうでしょう? 「永遠に」は全体的であり、「死ぬときまで」は根こそぎ愛そうということです。そう言ってこそ喜ぶのです。
(37-24、1970.12.22)
⑤一夫多妻制の問題
― 宗教経典 ―
誰でも妻をたくさん率いる者は、それゆえに悩みに陥るだろう。妻たちと同居するために、その中の何人かを欺瞞し、うそをついて騙すだろう。祈りをよくするからといって、彼が平安を得ることができるか不確実だ。
ヨルバ族の詩(アフリカ伝統宗教)107
大勢の妻に対して全部に公平にしようというのは、いかにそのつもりになったとてできることではない。(注 23)
クルアーン 4.129(イスラーム)108
何人かの妻をもつ者は、男性の道徳的本性を蝕む。
シュリーマッド・バーガヴァタム11.3
(ヒンドゥー教)109
― み言選集 ―
女性が結婚すれば、男性との関係を一人としなければなりませんか、100人、1000 人としなければなりませんか。一人です。なぜ一人ですか、真の愛のためです。絶対的真の愛のために、ただ一人と結婚するのです。
(122-234、1982.11.14)
自分が結婚する人は、宇宙に一人しかいません。男性と女性の二人しかいないのです。初愛というものは、たった一人の男性と一人の女性がするものです。それは、神様と共にするのです。
(265-251、1994.11.23)
7. 父母愛
父母の位相には、最上の高潔性と、極大の利他的情緒が要請される。父母ならば誰でも、子女のために自身の人生自体をすべて犠牲にする。子女の所有の意味は、高揚された人生の経験として道徳的な力を発揮し、無節制な生活様式を清算し、子女のために責任をもつモデルの役割を発揮するということである。そして、子女の養育の必須条件は、犠牲と忍耐と容赦であり、それは、ほぼ神的境地に近い愛を啓発するということである。
父母の愛は、家庭の最上の段階だ。夫婦段階から父母段階に格上げしようと
するならば、夫婦は必ず子女をもたなければならない。それはまた、人間完成のための必須義務である。そして、父母の基本的な課題と責任は、子女の教育である。文鮮明先生はこれを、心情教育と規範教育であると説明される。このような一連の教育には、各段階別に扱われる三つの側面がある。道徳的教育、連帯的訓練、典型的生活設定がそれである。世界経典の「知恵」では、子女の適切な成長のために、愛と配慮の教育を父母の本質的義務とみなす。一方、父母の愛が乱用されれば、子女の教育は失敗する。愛の乱用は、誤った性格を形成するからである。特に父母の手本は、神様に向かう父母自身の特別な信仰と献身の手本とに関連している。それは、子女自身の信仰を発達させられる鍵になるからである。そして、父母は害悪から子女を保護する最大の守護者である。十代の娘をもった父母ならば、どこの誰でも子女の安全保護を心配し、夜も眠れないでいることを私たちは知っている。最後の部分の章句は、子女のための犠牲的な愛、父母の心情に対して記述し、子女が失敗するとき、彼を赦して、彼のための最善とは何かを記述する。
①子女の本質的価値
― 宗教経典 ―
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
創世記1.28(キリスト教)110
出産をわざと抑制する人は、神の神聖な形状に害を及ぼすのと同じである。
創世記ラッバー 34.14(ユダヤ教)111
見よ、子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い。/若くて生んだ子らは、勇士の手の中の矢。/ いかに幸いなことか / 矢筒をこの矢で満たす人は。/ 町の門で敵と論争するときも / 恥をこうむることはない。
詩編127.3 ~ 5(キリスト教)112
子供は男性の服である。(注 24)
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)113
国民の全未来は、その国民の子供たちに対する態度にかかっている。そして、女性を「つまらない用途」と規定したり、経済と政治の分野で性の競争が、未来世代の創造より価値のある努力だと信じる国民は、死んでいく国民だ。
L.ロン・ハバード 生存の科学(サイエントロジー)114
― み言選集 ―
結婚すれば、息子、娘を生まなければなりませんか、生んではいけませんか。生まなくてもよく、生んでもよく、それは好きなようにすればよいと思うかもしれませんが、そのようにはなっていないので、生むことを願うのです。生まなければなりません。なぜ生まなければならないのですか。生まなければ
愛のみ旨を成し遂げられません。愛も東西南北があり、中央の愛があるのですが、ぴたっと中央を中心としてこそ、その根が東西南北の四方に伸びていき、大きな木を支えることができるのです。
(214-12、1991.2.1)
子女がなぜ必要ですか。神様の愛を知り、父母の愛を知って父母に侍ることができ、夫の愛を知って夫に侍ることができ、子女の愛を知って子女に侍ることができなければなりません。子女に命令ばかりするのではなく、侍ることもできなければならず、「ために生きる」ことができなければならないというのです。
そうしてこそ、神様の愛を理解できます。教材として必要なのです。子女がいなければ未完成です。神様の愛を知ることができません。神様が人間を、子女をどれほど愛したか、知らないのです。夫になってみなければ妻の愛が分からず、妻になってみなければ夫の愛が分かりません。自分がまた父母にならなければ、父母の愛がどのようなものか分からないのです。すべてそれを年代ごとに分かるようにするための教材としてつくったので、皆さんに息子、娘がいなければ真の父母になれません。
(133-138 ~139、1984.7.10)
お母さんとお父さんは、愛なしには一つになれないのです。皆さんは、なぜ愛を好みますか。「好まない」と言っても好まざるを得ないようになっているためです。お母さん、お父さんが互いに愛する力が、個体のための力よりも強いほど、より理想的なのです。お母さん、お父さんを完全に一つに縛り
つけるものは愛の綱です。鉄で作った鎖は時間が過ぎれば錆がついて切れますが、愛の綱は永遠なのです。そして父母と子女の関係は御飯でもお金でも縛りつけられません。ただ、父子関係の愛でのみ縛りつけられます。
(18-329、1967.8.13)
それでは、結婚して何をしようというのですか。家庭を築こうというのです。家庭を築いて子女を生もうというのです。息子、娘を生めなければ、その家庭は家庭のグループにも入れません。息子、娘を生むことができなければ、分かれ始めるのです。息子、娘を生んでおいてこそ、家庭がしっかりと築か
れるのです。妻が憎くて、事のついでに離婚したいと思っても、息子さえ生んでおけば、その夫もどうすることもできません。否応なく一緒に暮らさざるを得ないのです。ですから、家庭を築くにおいては子女がいなければなりません。
(23-25、1969.5.11)
自分の息子、娘を自分の夫より、妻よりもっと愛さなければなりません。
(130-165、1984.1.8)
夫が良いか、息子、娘が良いかというとき、夫よりも息子、娘がもっと良いのです。夫婦は別れられますが、息子、娘とは別れられません。族譜から抜いたとしても、血筋を受け継いだので、分けることができないのです。夫と妻は離婚して別れれば忘れることもできますが、息子、娘は、時間が流れれば流れるほど、もっと慕わしく思い、会いたいと思うようになります。このような事実は、子女をもってみた人なら、誰もがよく分かるでしょう。
(18-112、1967.5.28)
父母が子女と向き合うとき、その愛する子女が自分よりも劣っていることを願う父母はいません。ある美男美女が結婚して最初の子供を生んだとき、その赤ん坊の顔が父母の顔と比べて何でもなく、ただそれなりの顔だとしても、その赤ん坊の顔を見て、「あなたの子供は、あなたよりどれほど良いか分からないほど立派に生まれた」と称賛すれば称賛するほど、その父母は、口がにこっとなるのです。それは間違いありません。子供が立派だと称賛するのに、「父親と母親をさておいてそのように言えるのか」と思う父母はいません。
(77-102、1975.4.1)
私が母から聞いた話があります。私の母は(注 25)子供をたくさん生みました。10 の峠を少し越えて三つの峠を越えたので、13 人を生みました。13 人を生んだので、イエスの一派をすべて満たしたことになります。12 弟子とイエスまで合わせれば 13 人になるのです。そのように 13 人生んだのですが、母が言ったことがあります。「世の中に楽しみといってもほかの楽しみはありません。赤ん坊を生んでお乳を飲ませて育てるとき、それ以上の楽しみはありません。老いて子供が生めないので、すべてがおもしろくなくてつまらない」、このように語ったのです。
(44-200、1971.5.7)
霊界では、息子、娘を生むことができません。この地上でしか、息子、娘を生むことはできないのです。そこでは息子、娘を生めません。天国の民を生むことができる所は、この地上しかないのです。ですから、この地上で神様の真の愛を中心として息子、娘をたくさん生まなければなりません。
(218-200、1991.7.28)
②堅実と愛で子女を養育
― 宗教経典 ―
父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。
エフェソの信徒への手紙 6.4(キリスト教)115
若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう。
箴言 22.6(キリスト教)116
鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える。
箴言13.24(キリスト教)117
魚は新鮮なときに巻きつけなければならない。(注 26)
ヌペ族の格言(アフリカ伝統宗教)118
あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには、鍛
えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。
肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
ヘブライ人への手紙12.7 ~11(キリスト教)119
善男子、人の小さき時、土と塊・糞穢・瓦石・枯骨・木枝を拾ひ取りて、口中に置くに、父母見已りて、其の 患を為さんことを恐れて、左手に頭を捉へ、右手に挑とり出すが如し。菩薩摩訶薩の、是の地中に住するも、亦復是の如し。諸の衆生の、法身未だ増せず、或は身口意の業の、不善を行ずるを見、菩薩見已りて、即ち智手を以て之を抜きて出でしめ、彼をして生死に流転して諸の苦悩を受けしむることを欲せず。是の故に、此の地を復一子と名く。……
善男子、譬へば父母に唯一子有り。其子の睡寤に、行王座臥に、心に常に之を念じ、若し罪咎有れば、善言誘喩して、共に悪を加へざるが如し。菩薩摩訶薩も、亦復是の如し。諸の衆生の、若し地獄・畜生・餓鬼或は人天中に堕し、善悪を造作するを見て、心に常に之を念じて、初て放捨せず。若し諸悪を行ずるも、終に怒りを生じて、悪を以て之に加へず。是の故に、此の地を復一子と名く。
大般涅槃経 471(仏教)120
子供が天性に従ってあらゆる過ちを犯すとき、父は彼を訓戒し、冷遇するだろう。しかし、彼は再び彼を懐に抱くものである。
アーディ・グラント、ソーラト
M.5(シク教)121
彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません 。』しかし、父親は僕た
ちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ルカによる福音書15.20 ~ 24(キリスト教)122
娘は父親にとって、人知れぬ不眠のもと。娘への心配で彼は夜も眠れない。若いときには、婚期を逃しはしないか、/ 結婚すればしたで、夫に嫌われはしないかと。またおとめのときには、父の家にいるうちに / 辱めを受けて、子供を宿しはしないかと。夫を持てば持ったで、過ちを犯しはしないか、/ 結婚してからは、子ができないのではないかと。
シラ書〔集会の書〕42.9 ~ 10(キリスト教)123
― み言選集 ―
世の中がそうです。うまくやったことも、しつこく「よくやった」と言えば嫌になり、失敗したことを「失敗した」と言えばもっと嫌がります。失敗したことを「よくやった」と言えば喜ぶのです。そうではないですか。収拾方法が違います。失敗したことも「よくやった」と言って、おだてながら機嫌をと
らなければなりません。分別のない子供たちは、おだてれば喜ぶのです。子供たちを見れば、みな自分を中心として考えます。良いものがあれば自分のものにしようとします。ですから、教育が必要なのです。
(36-73、1970.11.15)
父母がむち打って、「こいつ、勉強しなさい! 出ていって僕しもべになるぞ、こいつ」と言いながら叱責するのは、すべて子女のためにそのようにするのです。そして、その父母はその子女のために泣きながら祈祷し、胸が痛んで夜眠れません。これが真です。
(102-253 ~ 254、1979.1.14)
真の父母の愛はどうですか。子女を愛するとき、「ああ、これは利子をつけてすべて返してもらおう」という心をもつ父母は、真の父母ではありません。昼夜犠牲になりながらも、ために生きて愛し、また愛して、また愛そうとし、市場に出掛けたとき、そこでも忘れずにもっと与えてあげようとし、24 時間、距離を超越してその子女のために生きる愛こそ、本質的な愛に近いのです。このような愛の起源があるので、人間を救い、救援できる基礎を見いだせるのです。
(142-35、1986.3.3)
父母は、自分が最も好きなものを先に与えたいと思うのです。最も良いものを与えたいと思うのですが、与えることができないのは、それを管理できないからです。それを与えれば、それをもらった人が被害を受けます。ぎらぎらと鋭く光る研ぎ澄まされた刃を与えたいと思っても、間違って与えれば、
それ自体が滅び、家が滅び 、 全体が滅びます。ですから与えないのです。
(29-108、1970.2.25)
韓国の格言の中に、「愛する人にはむちを与え、憎む人には御飯を与えよ」という言葉があります。一理がある言葉です。なぜかというと、正しい伝統を受け継がせるためです。父母の愛のむちを通して痛みを感じ、その愛に涙を流せる人にならなければなりません。
(95-81、1977.10.23)
父母が子に対して憤って、手でたたけばどうですか。父母がすぐに悔い改めなければならないというのです。そうするのではなく、ただ子供がかわいそうで、お母さんが涙をぽろぽろと流しながら愛すれば、かえって効果があるというのです。皆さん、そうではありませんか。そのようにすれば、お母さんは屈服しないで、いつでも勝利者として、その息子、娘を屈服させることができるのです。むしろ、たたけば効果が少ないというのです。
(41-333、1971.2.18)
皆さんに息子、娘がいれば、その息子、娘に父と母が言い争っている姿を見せてはいけません。絶対にそれを見せてはいけません。約束するのです。先生の家庭、お父様とお母様も同じです。今まで子供たちが成長してきましたが、「私たちのお父さんとお母さんは、絶対にけんかをしない。私たちのお父さんとお母さんは、この世で一番のお父さんとお母さんだ」と言うのです。いかなる国の王よりも、誰よりも希望峰の主人公だと言うことができるように教育しなければなりません。息子がいれば、「私はお父さんのようになる」と言い、娘がいれば、「私はお母さんのようになる。お母さんのような女性になる」と言えるようにならなければなりません。それが教育です。
(90-123 ~124、1976.10.21)
父母として子供を育てる時は、涙が出てつらいときがたくさんあります。しかし、どれほど涙が出てつらかったとしても、子供が父と母に涙を流しながら訴えるときは、洗い流すように、つらいことがなかったことにして、「よし」と言いながら、きのう喜んでいた父と母の姿に戻らなければなりません。
そのようにすることができなければ、子供を教育する資格はありません。
(23-184、1969.5.18)
愛の本質とは何ですか。人のために生きようということです。自分の自主的な本質を中心として人に与えようとするのが愛の本質です。その愛は、どこから来たのですか。天から来たのです。神様は、絶対的愛の主体なので、与えようとすることが愛の本質です。
このように見るとき、父母の愛がその本質に最も近いところにあるので、子女に対して常に与えようとするのです。その子女が受け取らなくても、
いくら強盗の一味だとしても、父母が昔愛したよりもっと大きな愛をもって現れて愛すれば、悔い改めて戻ってくることができます。しかし、 「こいつ、私がお前をこれほど愛したのに、寡婦の身で、老いて腰が曲がっても愛したのに、その愛が分からないのか。こいつ!」と言ってキセルで額をたたいたとすれば、そのように3回しただけでも、その子女は荷物をまとめるでしょう。
父母が涙を流し、「私の愛が足らないからだ。すべてのことは私がお前をもっと愛することができなかったせいだ」と言いながら、その子女の骨髄が溶けるほど涙を流して、より大きな愛をもって子女の前に立つようになるとき、その子女はどうなりますか。戻ってくるのです。より大きな愛には、弱い愛をすべて消化、統合させることができる主管性があるのです。
(48-182 ~183、1971.9.12)
霊界に行けば、法の中で最も恐ろしい法とは何でしょうか。子女を死の場に立てた罪を裁く法以上に恐ろしいものはないことを知らなければなりません。なぜそうなのかというのです。神様もできないことをしたのです。ですから、赦す法がありません。赦すことができないのです。神様もできることであれば、赦すことができるのですが、これは神様もできないことなので、神様御自身も赦すことができないという結論が出てきます。ですから、最も恐ろしい罪です。これは赦されないことを知らなければなりません。その代わりに 、 子女のために死のうという父母は神様が擁護してくれます。「私と同じだ!」と言われます。子女のために死ぬ父母は、天国に行けることを知らなければなりません。
(93-335、1977.6.17)
③先祖の伝統による子女の教育
― 宗教経典 ―
主は言われた。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」
創世記18.17 ~19(キリスト教)124
(ルクマーンは言った) 「むすこよ、礼拝の務めを守り、善いことを命じ、悪いことを禁じ、おまえに降りかかることに耐え忍べ。まことにそれは、ものごとを決定し成し遂げる」。
クルアーン 31.17(イスラーム)125
ある人が子供に遺産として譲り渡すべきものは学びだ。他のものは本当の財物ではない。
ナーラディヤール134(ジャイナ教)126
あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ……。
申命記11.18 ~19(キリスト教)127
わが子よ、父の戒めを守れ。/ 母の教えをおろそかにするな。/ それをいつもあなたの心に結びつけ / 首に巻きつけよ。/ それはあなたの歩みを導き /あなたが横たわるとき見守り / 目覚めればあなたに話しかける。/ 戒めは灯、教えは光。/ 懲らしめや諭しは命の道。
箴言 6.20 ~ 23(キリスト教)128
子供にあげると約束したことを破ってはいけない。それは子供にうそを教えることだからである。
タルムード、スッカー 46b(ユダヤ教)129
あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。
テモテへの手紙二1.5(キリスト教)130
― み言選集 ―
父母が息子、娘を呼んでおいて、「お前はこのような人になり、またこのようなことをしなさい」と教えたとしても、「お前は神様を知っている人になりなさい」と教えることには及びません。
(11-308、1962.3.5)
皆さん、息子、娘にこのように生きなければならないという伝統を残さなければなりません。
(71-19、1974.3.24)
家庭は、人生において最も重要な愛の学校です。子女たちは、家庭圏において父母だけが行うことのできる愛の教育、情緒教育を通して、心情の深さと幅を育てます。これが子女の人格をつくる礎石となります。また、家庭は、子女に美徳と規範を教育する学校です。人は、このような情緒教育と規範教育を受けた土台の上で、知識教育、体育、技術教育を受けなければならないというのが天道です。
父母は、子女に真の愛を施す真の父母になると同時に、真の師になり、心情教育、規範教育を正しくさせるようになっています。たとえ父母が真の師であることを自覚できなくても、子女は、父母からありのままを学んで似るようになります。父母の役割は、このように重要です。子女は、父母が施す真の愛と父母の愛の生活に似ながら、愛の人格が形成され、霊性が開発されるのです。
今日、全世界にわたって家庭が変わっており、伝統的な家庭は様々な面から挑戦を受けています。産業化、現代化が加速するとともに、人類は価値観が崩壊し、倫理、道徳の基準が揺さぶられています。さらには、個人主義、快楽主義、拝金主義などによって人間性が抹殺されていき、フリーセックスと不倫がより一層助長され、家庭が破綻しています。
これは、どれほど不幸な風潮ですか。このまま放置すれば、人類は未来に希望をもてなくなります。いくら社会的条件が変わっても、父母と子女の関係の重要性は揺るがすことはできず、家庭の貴重性もやはり変わり得ません。愛は人の幸福と喜びの源泉であり、家庭はその幸福と平和の基台になります。
(271-81、1995.8.22)
父は子女と、どのように向き合わなければならないのでしょうか。友人の中の友人にならなければなりません。そうなれば、自分の友人と遊んでいても、父が現れると、友人をおいて父のところに駆け寄ってくるのです。そして、師の中の師にならなければなりません。心情においては、いつでも支柱、すな
わち中心にならなければなりません。
(57-282 ~ 283、1972.6.4)
父母たちが、み旨の生活において模範とならなければなりません。家庭における祈祷生活や家庭礼拝など、またいかなる面においても、既成教会に負けない信仰生活を子女たちに見せなければなりません。また、敬拝時間がどれほど重要かということを認識させてあげなければなりません。その時間には、敬礼式だけで終えるのではなく、み旨を中心として、父母として子女たちを教育しなければなりません。
子女を教育するためには、まず父母が実践しなければなりません。父母が模範となって、み旨の前に忠誠を果たさなければなりません。そのようにして、父母がどのようなことを言っても、子女たちが一言半句も口答えせずに、父母を畏敬する立場に立たなければなりません。そのようにしなければ、子女たちが従っていかないというのです。
(31-268、1970.6.4)
いくら悪の父母だとしても、子女に、「私が殺人強盗だったから、お前たちも殺人強盗になりなさい」と言う父母はいません。自分は悪だとしても、子女を教育するときには、「絶対に悪い人間になるな」と言うのです。子女に対して「お前は悪い人間になってはいけない」と言うのは、父母である自分は悪
かったということです。「お前は正しく生きなさい」と言うのは、自分は間違っていたということです。
子女のためには、自分を忘れて完全に投入するのが善であり、そうしてこそ、それが残ることを知っているというのです。それが万古の教育原則です。これを社会化し、世界化すればよいのです。そうではないですか。「父母が悪い」と言う人がどこにいますか。以前に、ある父母が自分の息子を孤児園に送っておいて、世界遊覧に出ていったという報道を見たことがあるのですが、そのようなことをするから、その子女たちが悪くなるのであって、どこへ行くにも父母が子女と一緒に行くのに、子女が悪くなるのを見たことがありますか。
(36-73、1970.11.15)
皆さん、福を受けることを願いますか。永生することを願いますか。そうしようとすれば、公的な人にならなければなりません。子女を教育するにおいて、自分の息子、娘だけを愛してはいけないというのです。世界の人々のために祭物的な息子、娘として愛する父母にならなければなりません。そして、子女を抱いてお乳を飲ませるときには、この地球星の人類を代表した母の立場で、人類を代表した子女にお乳を与えるという心で飲ませなければなりません。そして、かわいいといって自分の子女にだけお乳を与えるのではなく、人の子女でも自分の子女と同じ心情で接する母親になってみてください。そのような母親のお乳を飲んで育つ赤ん坊は、必ず偉大な人になるのです。すぐにならなくても、1代、2代
を経ていく間に、必ずその子孫の中で世界を主管し得る人物が誕生するのです。これは公式です。
(31-168、1970.5.24)
この世で、人間として一生の間生きながら残さなければならないことがあるとすれば、それは三つしかありません。一つは原理の道です。原理の道のとおりに歩んだという事実です。み旨のとおりに生きたという事実です。その次には、良い子孫を残していくことです。その次には、この地上に生きる時に、その子孫たちを世の中の立派な人材として育てること、教育することです。このような三大責任があるということを知らなければなりません。
(101-201~ 202、1978.10.30)
8. 祖父母愛
祖父母は、家族に知恵、経験、孫と孫娘に対する歓喜の愛を施す。3世代が一つ屋根の下で暮らす伝統的な文化では、子女は祖父母を栄誉とし、日常生活の一部分として病弱な状態にある彼らを世話する。子女は、その過程で愛と尊敬に対する教訓を学ぶ。祖父母は、道徳的な碇である。父母が薬物と犯罪で腐敗し、子女を世話するには不適格な相対になる事例があまりにも多い。その時、祖父母が父母の役割を果たすために代役をする。文鮮明先生は、利己心に寄与して道徳を墜落させながら、都市化し、産業化した社会で3世代家族が消滅することを批判している。
多くの伝統において、父母と祖父母に与えられた栄誉は、献身の垂直的連鎖にある先祖と神様に捧げる栄誉と連結されている。このような面で、文鮮明先生は、祖父母を家庭における神様の代身者だと表現する。彼らに栄誉をもたらすことは、すべての人類の最も偉大な祖父母、神様に栄光を捧げる道である。
― 宗教経典 ―
白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。
レビ記19.32(キリスト教)131
孫に対する祖父母の感情は、このように表現され得る。「私たちの子供たちは、私たちにとって愛らしい。しかし、孫たちが生まれたとき、彼らは私たちの子供たちよりもっと愛らしく見える」。あなたは、その祖母が彼女の孫たちに対する有り難さを表現しようと、あまりにおおげさだと言うかもしれな
い。それは、彼女たちが幼い少女だったとき、彼女たちに形成された希望を思い起こさせる。その希望とは、彼女たちが生きていきながら、ある日祖母になるだろうということである。そして、時になって祖母になれば、彼女たちの有り難さを表現しようと、まれな任務を遂行する。
ヘンリー・オールド・コヨーテ
(アメリカ先住民の宗教)132
神々および父祖に対してなすべきつとめを怠ることなかれ。母を神として敬え。父を神として敬え。師を神として敬え。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド1.11.2
(ヒンドゥー教)133
父母は 我が家の神 己が神と 心つくして いつけ人の子(父母は自分の家の神、私の神と心を尽くして敬いつかえよ。人の子たるものよ。)
本居宣長 玉鉾百首(神道)134
子よ、年老いた父親の面倒を見よ。生きている間、彼を悲しませてはならない。たとえ彼の物覚えが鈍くなっても、/ 思いやりの気持を持て。自分が活力にあふれているからといって、/彼を軽蔑してはならない。主は、父親に対するお前の心遣いを忘れず、/ 罪を取り消し、お前を更に高めてくださる。
シラ書〔集会の書〕3.12 ~ 14
(キリスト教)135
父が私を呼ぶために人を送られた。私は彼の臨終を見た。私は彼を湾曲した美しい渓谷に埋めた。私は世の中のどこよりもそこを好む。自分の父の墓を好まない人は獣にも劣る。
ネズポス族の伝承(アメリカ先住民の宗教)136
― み言選集 ―
皆さんは、子女の位置にいるのですが、どのような運勢を受けるのでしょうか。祖父母と父母の運勢、この二つの運勢を受け継がなければなりません。祖父母は、なぜ必要なのですか。過去を代表するからです。祖父母は、過去の生きた歴史を代表します。その次に、父母とは何でしょうか。現在を代表するのです。また、その次に、子女は、未来を象徴します。このようにすべて入っています。そこには東西も入っていて、南北も入っています。すべて入っているのです。全体の中心です。祖父母の中心、父母の中心、子女の中心、神様の中心、すべてがこの真の愛を中心としています。皆さんの家庭を考えるとき、このことを考えなければなりません。
ですから、おじいさんを愛し、おじいさんを尊敬することは、過去をすべて受け継いで過去の世界を学ぶことです。父親からは現在を学ぶのであり、子女を愛すること、子女を大切に思うことは未来を学ぶことです。
家庭の中にこの三者がいれば、それは宇宙があるようなものです。宇宙の愛を学ぶ教科書だからです。おばあさんがいなければ不安定です。おじいさんがいなくても不安定で、誰かほかの人がいなくても同じです。
(162-140 ~141、1987.4.5)
おじいさん、おばあさん、舅、 姑、夫の姉妹、孫まで一緒に暮らそうというのです。蘇生、長成、完成、3代が定着するのです。父母だけを愛するのではなく、おじいさんを愛することができてこそ、神様を愛するのです。父母の上におじいさんをおいて愛することができてこそ、神様を愛するというのです。
(128-18、1983.5.29)
祖父母は、霊界の神様を身代わりしています。祖父母の位置は、天の国です。家庭で最も年を取った人がおじいさんで、天の国の位置です。天の国を開くことができる代表的実体存在です。ですから、神様の代身者として侍らなければなりません。天の国の王を代表しているので、神様の代わりにその位置に迎えなければならないのです。これが家庭の伝統的教訓です。これが創造理想的モデルです。
(251-219、1993.10.17)
夫婦でけんかすれば、おじいさんとおばあさんが愛で、「おいおい、やめなさい」と、また息子、娘がけんか、孫がけんかすれば、「おいおい、やめなさい」、このように愛をもって僕の役割をするのです。すべて「あなたが上だ。あなたが立派だ」と言いながらために生きてあげます。愛の僕の役割を最大にする方がおじいさんだということを知らなければなりません。夫も妻が「ええんええん」と泣けば、「お前、泣くのはやめなさい。私はすべて分かっている。あなたが願うことはすべてしてあげよう」と言うのです。宇宙で最も偉大で、驚くべき1番の権勢をもった人とはどのような人かというと、愛の僕の道を行った人です。
(135-121~122、1985.10.4)
美しい嫁が白髪混じりのおばあさんとおじいさんに、愛の心をもって自分の愛する夫よりもっと良いものを買ってあげようとすれば、どれほど美しく、どれほど愛らしいでしょうか。美しい嫁が、自分の愛する夫に何かを買ってあげる以上の喜びの心で、しわしわのおばあさんとおじいさんに買ってあげるその場面は、どれほど素晴らしいかというのです。そうすれば、おじいさんとおばあさんが隠しておいたすべてのもの、愛に関するすべてのものをくれるというのです。
世の中で最も年を取ったおじいさんとは誰ですか。神様です。ですから、そのおじいさんのために生きる愛を、自分のおじいさんから学ぶのです。この伝統を学べば、神様の秘密倉庫にあるすべての愛の宝を受けられます。どれほど素晴らしいことでしょうか。
(107-329、1980.6.8)
おじいさんの杖やおばあさんの杖を、孫嫁たちはみな見るのを嫌います(注27)。なぜですか。早く死になさいということです。しかし、愛をもった孫嫁は、「ああ、あの杖がなくなる日は、私の目から雨のような涙が流れるなあ。ああ、千年、万年一緒にいればよいのに」と思うのです。
(184-270、1989.1.1)
年を取った人たちは必要ないといっては、将来どのようになりますか。年を取った人をすべて無視する立場に立てば、その国の国民性がなくなるのです。年を取った人を嫌う人になれば、その民族の伝統性を中心として見るとき、民族性を売り払う人になるのです。
(21-120、1968.11.17)


