世界経典Ⅱ 第4部 家庭と社会 第20章 社会

 

第20章 社会

1.社会の土台としての家庭

社会は、各家庭が細胞の役割をする一つの有機体である。各細胞である家庭が健康であってこそ、その細胞が集まった社会も健康になる。反対に家族が破壊されれば、社会も同じように混乱してしまわざるを得ない。最近、家族解体の拡張は、国家の未来を憂慮する心配事である。
しかし、「家庭の価値」を家庭中心に解釈することは誤りである。「私の家庭は私の聖体である」という態度は、また一つの利己主義にならざるを得ない。「愛の修練所」 (第 19 章 1. 「人生の基本形態」 参照)である家庭で学ぶ教訓は、すべての水準の社会組織に適用されなければならない。それゆえ、儒教の倫理は、孝行の規範を社会奉仕のための基礎倫理であると見る。すなわち、家庭で父母に侍って生きることが、国に奉仕する訓練になるのである。同じように、兄弟、父母、そして子女に対する愛が、私たちと同年配、私たちの父母のような世代、私たちの子女と同じ世代の隣人たちを思う愛に拡張されなければならない。これによって、各家庭での愛の関係が、人類大家族を包括するように拡張されるのである。

①健康な家庭が堅固な国家を形成する

― 宗教経典 ―

 

人の道はいたって手近かなところにあるのに、人はこれを高遠なところにさがし求めている。また、人のなすべき事はきわめて容易いことなのに、人はこれをわざわざ難しいものとして考えている。実は各人がみな自分の親を親として尊び、長者を長者として敬いさえすれば、天下はおのずから泰平に治まるのだ。
孟子Ⅳ .A.11(儒教)1

 

一族の滅亡において、永遠なる一族の美徳(義務)は滅びる。美徳が滅びる時、不徳が一族を支配する。不徳の支配により、一族の婦女たちが堕落する。婦女たちが堕落すれば、種姓の混乱が生ずる。このような混乱は、一族の破壊者と一族とを地獄に導く。
バガヴァッド・ギーター1.40 ~ 42(ヒンドゥー教)2

 

本然の家庭の姿が社会の基礎である。その家庭は、堅固であり、一夫一婦制の家庭である。一夫一婦制は神が設定されたのであり、キリスト教で神聖視される法である。この家庭の中では、いくつかの世代が共に暮らし、知恵が成長するように互いに助け、他の社会的欲求を個人の権利と一致させるように協力してくれる。
教皇パウロ6 世 諸民族の進歩推進について(キリスト教)3

 

歴史が証明するように、国の根幹である道徳秩序が弱化し、国の生命の源泉である結婚と家庭構造が悪習に侵害されるとき、その国の反映と国民の幸福は、これ以上保障され得ない。
教皇ピオ11世 カスティ・コンヌビイ
-結婚の尊厳-(キリスト教)4

 

― み言選集 ―

 

人類が一つになるための最も堅固な基礎は、正に真の家庭理想から始まる普遍的で核心的な真の愛であることが明確になりました。
(330-252、2000.8.18)

 

家庭教育は、今後その国が福を受けられるかどうか、という運命を左右するものです。国のための公的な法理に基づいて暮らしている家庭が多ければ多いほど、その国は繁栄するのであり、私的な基準で暮らす家庭が多ければ多いほど、その国は滅びていくのです。
(31-243、1970.6.4)

 

現代社会において、青少年問題が大韓民国だけでなく、世界的に物議を醸しています。 (注 1)それは、父母をきちんともつことができず、兄弟をきちんともつことができないところから、男女関係において欠如した諸事情が原因となり、そのような結果をもたらしたのです。このような事実を見てみると
き、このあらゆる病弊を是正できる基準となるものとは何かというと、これはやはり家庭なのです。(23-13、1969.5.11)

 

今日の青少年問題やあらゆる社会の問題の内容を掘り下げて調べてみると、その由来がすべてそこから始まっているのです。だからといって彼らに父母がいないわけではありません。父母がいることはいるのですが、父母の心が息子、娘の心の深い所にないというのす。言い換えれば、父母の情が子女たちの骨髄に深く固められていないのです。ですから、そこから父母と子女の間に隙間が生じるのです。(25-60、1969.9.28)

 

世界で人類を苦しめる最も大きな問題は、私が洞察したところでは、正に家庭の価値を破壊する不倫と退廃の問題です。道徳的退廃こそ人類を苦痛と絶望のどん底に追い込む原罪なのです。未来の世界は、家庭の純潔を保全し、家庭の価値を守護するという道徳律が定着するかしないかによって、天国と地獄の分かれ目に置かれるようになるはずです。
(288-140、1997.11.26)

 

アメリカは滅びるようになっています。愛の問題が混沌としたローマは、戦うことなく、それ自体の腐敗によって滅びました。同じことです。アメリカも滅んでいます。長続きしません。今最も混乱しています。文明国であるアメリカが性に対してめちゃくちゃであり、発展途上国でもめちゃくちゃです。その秩序を立てることができない日には、人類の希望の世界、幸福の世界、理想の世界はありません。(118-296、1982.6.20)

 

②家庭の徳目は社会の徳目の土台

― 宗教経典 ―

 

自分の父母を尊敬するのと同じ心で他人の父母も尊敬し、自分の子弟を可愛がるのと同じ心で他人の子弟も可愛がる。さすれば、広い天下もちょうど手のひらに物でものせてころがすように、思うがままに治めていけるものです。詩経に〔文王の徳をほめたたえて〕 「まず夫人をみちびき正しくし、ひいては兄弟を、〔さらには民草を〕、そして国家をば安らかに」とありますが、つまり、これは身近なものに対するその心を、そのまま他人にも移せよといったまでのことです。だから、このなさけ心をおし広めてさえゆけば、広い天下でも治めてゆけますが、もしも〔反対に〕この心をおし広めなければ、身近な自分の妻子でさえも治めてゆけません。むかしの聖人が今の人に優れて偉大だったのは、外でもありません。ただ、よくこの心をおし広めたからなのです。
孟子 I.A.7(儒教)5

 

若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。
テモテの手紙一 5.1~ 2(キリスト教)6

 

老女を見ては母の如く、長じたるを見ては姉の如く、年少のものを見ては妹の如く、幼いものを見ては子の如く思い、女に愛着して心を動かすことなく、悟りの心を起して、悪念の生ずることのないようにしなくてはならない、と。
四十二章経 29(仏教)7

 

親縁の発生する源泉として祖先を尊び、従って祖先の直系たる宗子を敬い、従ってわが親族を好く収め和合させて宗子に仕えるのであり、宗子が敬われるからこそ、宗子の祭る宗廟で尊厳なのであり、従って、宗廟の安泰を欲するが故に、社稷を尊重して国家の平安を祈り、それ故に人民を愛して、人民が忠良であることを求め、それ故に刑罰が公正であることに努め、それ故に人民みな安心して産業にいそしみ、それ故に国の財物が殖え、政治の費用も充分であり、それ故に万人の願うところを多く実現することができ、それ故に万人みな礼に従い、風俗が乱れず、かくてこそ万人みな心安らかに身は楽しい。
礼記、大伝(儒教)8

 

孝は天地の不変の法則、秩序の常道として、聖人によって明示したことから、民人はこの天地不変の常道に則り、孝道を以て行為の準則として、人間の本務を全うしなければならない。だから、聖人が人々を教える方法は、天に輝く日月が万物を明らかに照らすという、不変の法則にならい、地の高下や土地の肥瘠の宜しきに従って、万物を培ひ育てる。この故に聖人は広く天下の人々に対してねんごろに教えを垂れるのである。恒久の秩序や法則に従って、広く天下の人々を教え導いてきた。それ故に、聖人の教えは、ことさら厳粛にしなくても自然に成り、聖人によって示された政治は、ことさら厳粛にしなくても自然に治まる。
孝経 7(儒教)9

 

― み言選集 ―

 

人間は、自分の父母を愛するように隣人の父母を愛し、自分のおじいさんを愛するように隣人のおじいさんを愛さなければならず、自分の息子、娘を愛するように隣人の息子、娘を愛さなければなりません! それで、上下関係が展開し、左右関係が展開し、前後関係がそこで展開するのです。それが展開してこそ、この縦的な心情の基準が定着し、天道が生じるのです。
(70-152、1974.2.9)

 

出ていって闘うときは、父母の資格で闘わなければなりません。すなわち、闘う相手が怨讐だとしても、究極的な意味においては自分の息子と同じです。ですから、私たちの標語は、「父母の心情、僕
の体。汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流そう」というのです。そうしてこそ、完全復帰が成されます。
(17-338 ~ 339、1967.4.30)

 

私の父母は先生の代身であり、友人の代身であり、あらゆる愛を下さる主体の代身です。それで人類を身代わりすることができるのです。それはなぜでしょうか。人類の愛を受けるためです。ですから、父母に孝行しなければならない、ということは歴史的な結論をもった理論です。
(105-108、1979.9.30)

 

真の父母は、孝子になってから忠臣になってはいけないと言いません。真の父母は、その孝子に家庭を犠牲にして忠臣の道を求めて国に仕えなければならず、国を犠牲にして聖人の道理を果たして世界のために生きなければならず、世界を犠牲にしてでも天地が願う道を行かなければならず、天地を犠牲にして神様を求めていかなければならないと、教えてあげなければならないのです。
そのようになろうとすれば、個人は家庭のために犠牲にならなければなりません。家庭のために犠牲になってこそ孝子になるのです。また、国の愛国者になろうとすれば、その家庭全体を犠牲にしてでも、国を救って愛国者になるのです。聖人というのは、自分の国を犠牲にして世界を救わなければなりません。聖子は、世界を犠牲にして天の国と地、地上天国と天上天国を成し遂げなければならないのです。
(287-25、1997.8.10)

 

2. 社会の道徳的基盤

良い社会は、霊的道徳的基盤の上に建設される。今日、科学的で物質的な時代に文鮮明先生は、現代の多くの霊的指導者らと共に、道徳性と霊的価値がますます墜落しているのは、社会的平和が不安に近づく脅威だと警告される。
今、私たちの社会で軽視されている基本的なことは、以下の内容である。第1に、正しい市民を形成する道徳と徳行である。第2に、教育、特に若者たちに目的意識と方向意識を提示して、セックスと麻薬による快楽的な生活様式を遠ざけようとする人格教育である。第3に、宗教である。宗教は和解と平和のメッセージを通して、戦争や派閥政治人の自己利益の極大化の態度を鎮静させることができる。そして宗教は、神様に祈祷をすることによって、国家のために神様の祝福を取りもつことができる。
特に、アメリカで建国の先駆者たちは、アメリカの自由を確保し、繁栄を維持するために道徳と宗教の役割を明確にした。アメリカでの長い牧会活動の過程で、文鮮明先生はしばしばアメリカが神様に帰ること、神様のみ旨を尊重することを勧告した。

 

①道徳の基盤

― 宗教経典 ―

 

地上は激情を抑制し、正義の実践に従い、欲望と貪欲と怒りに汚される事のない者達の誠実さによって支えられている。
ヴィシュヌ・プラーナ 3.12
(ヒンドゥー教)10

 

彼らの考えと行動の根本が敬虔さと信仰心、真理と正義に根ざしていれば、どの個人も損害を受けることはなく、どの国家も繁栄と成功が拒否されないだろう。
ナフジュ・アル・バラーガ 説教 21
(シーア派イスラーム)11

 

世界は三つの上に立っている。法、天に対する敬拝、人に対する好意。
ミシュナ、アヴォート1.2(ユダヤ教)12

 

武力で人民を服従させるのは表面だけで、心からの服従ではない。ただ力が足りないのでやむなく服従したまでだ。徳によって人民を服従させるのは、心の底から悦んでほんとうに服従する。
孟子Ⅱ.A.3(儒教)13

 

身が修まれば家がきちんとする。家がきちんとすれば国が治まる。国が治まれば、天下は平らかになる。天子から庶民に至るまで、一切みな身を修めることを本とする。その本(である身)が乱れて、末が治まるなどということはない。その厚くすべきもの(家)を薄くして、薄くすべきもの(国や天下)を厚くすることはあり得ないのである。
大学(儒教)14

 

またなんじらのうち一団の者は、人びとを善いことに招かせ、正しいことを命じ、邪悪なことを禁ずる。これらは成功する者たちである。
クルアーン 3.104(イスラーム)15

 

『詩経』にいう、「汝が室に(独居して)いるのを見るに、願わくば、屋漏で恥ずかしくなくあるべきだ」だから君子は、まだ動かない前にも、慎んでおり、まだ言わない前にも誠実である。
中庸 33(儒教)16

 

私たちには、道徳と宗教に制御されていない熱情と闘うことのできる力で武装した政府がない。私たちの憲法は、ただ道徳的で宗教的な国民のためにつくられた。それは、異なる国民の政府にはとても不適切なものである。
ジョン・アダムス17

 

政治的繁栄に導くあらゆる資質と慣習の中で、宗教と道徳はなくてはならない支柱となる。人間の幸福のためのこの巨大な柱、人間と市民の義務を最も確固として支えるこの支柱を崩そうとする人は、いくら愛国の功徳を叫んでも、無駄に終わるだろう。
ジョージ・ワシントン
大統領離任辞18

 

結局、普遍的な諸権利はどこから始まるのか。小さな所から、最も近い所から、あまりに近く、あまりに小さいため、それらは地球のどの地図にも見ることはできない。しかし、それらは個々人の世界、すなわち隣人、学校や大学、工場、農場、または事務室にある。そのような所は、すべての男性と女性、子供たちが、差別がない平等な正義、平等な社会、平等な尊厳を追求する場所である。それらの諸権利がそこで意味をもたなければ、それらは、どこであっても全く意味がないだろう。最も近くでその諸権利を支えようとする市民の行動に関心をもたずに、私たちがより大きな世界で進歩を求めることは無駄なことだろう。
エレノア・ルーズベルト(注 2)19

 

― み言選集 ―

 

聖書には聖霊の九つの実に関する記録があります。愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制(ガラテヤ 5・22)とあります。この聖霊の九つの性稟、これは神様が主張し、神様が建設し、神様が立てようとされるその国の標準であり、その社会の制度であり、生活の理念ですが、これを皆さんは心と体にしみるように感じてみたことがありますか。
(4-112、1958.3.16)

 

国に忠誠を尽くす忠臣は、すぐに出てくるのではありません。それは、家庭から、個人の心情から出てくるのです。言い換えれば、私自体の人格、天性と、家庭の教育を中心とした家庭生活から出てくるのです。そして、社会活動を経て、その国家の国威に影響を及ぼし得る立場に立つようになるのです。そのような基盤を土台として、国家で必要とされる立場に立たなければならないのであって、そのような基盤がなければ、奸臣や不当な利益をむさぼる輩になるしかありません。
(34-19 ~ 20、1970.8.29)

 

平和と人間の幸福は、人々の道徳性と霊性の開発にかかっています。世界平和や和平した国も、その構成員個々人と家庭によって成されるからです。科学と技術も善の人々によって応用されるとき、これが人類の生活向上のために価値あるものとして使われるのです。歴史を通しても聖賢たちや偉大な師たちが、平和で幸福な世界のために家庭、社会、国家を指導することに彼ら自身を捧げてきました。私たちは 21世紀に挑戦するため、道徳的に霊的に完璧な指導者をはぐくめる人類の真の父母、真の師、真の主人を必要とします。
(271-74、1995.8.22)

 

共義主義は、真の愛を中心とした普遍的な倫理道徳を守り、構成員すべてが善と義の生活を追求する主義のことをいいます。これは、神様の真の愛による絶対価値のもとで、万民が倫理道徳を普遍的に実践する道義社会を指向する理想となるのです。理想世界は、理想家庭と完成した人間を前提にしています。真の愛による理想的な父母、理想的な夫婦、理想的な子女の統一的な調和が理想家庭の要件になります。また、完成した人間は、真の愛によって心身の調和、統一を成した人になります。このように完成した人々が、真の愛の基地である家庭生活、またその拡大である社会生活において、自律的に善と義を行う最高の愛の世界、道義世界がまさしく理想世界です。
(271-78、1995.8.22)

 

②教育の基盤

― 宗教経典 ―

 

教育の視察中だったラビ・アシとアミは一つの村に入り、その村の守護者に会おうと要請した。村の議員たちが、自分たちが守護者だと言って現れると、ラビが言った。「この人たちは、守護者どころか、かえって村を破壊する者たちではないですか! 村の守護者とは、青年たちの師であり、老人たちの指導者です。詩編にもあります。『主御自身が守ってくださるのでなければ / 町を守る人が目覚めているのもむなしい。』(詩編127.1)」。
哀歌ラッバー(ユダヤ教)20

 

先生が衛の国に行かれたとき、冉有が御者であった。先生が「〔衛の人口は〕多いね。」といわれたので、冉有は「多くなったら、さらに何をしたものでしょう。」というと、「富ませよう。」といわれた。「富ませたら、さらに何をしたものでしょう。」というと、 「教育しよう。」といわれた。
論語13.9(儒教)21

 

まるで毒のように個人と国民と国家を壊し、多くの人たちの心を混乱させる悪の根源と根は、正に真理に対する無知、さらには、真理に対して軽蔑し、徐々にこれから遠くなることである。ゆえに、正しさと健全さにより、悪で誤った媒体に立ち向かう必要がある。悪習を広げ、誤った考えを誘発する放送、映画、テレビプログラムに立ち向かい、真理を死守し、健全な道徳性を守るためのプログラムがつくられなければならない。
教皇ヨハネ 23 世 アド・ペトリ・カテドラム
(キリスト教)22

 

― み言選集 ―

 

民主主義は、世俗的人本主義をつくり、神様を追放しました。人間の正義の道理、聖人、聖子たちが教えてくれた道理を追放してしまいました。フリーセックスとは何ですか。この亡国のサタンの血、地獄の沼に丸ごと落ちていくことを知らずにいるのです。これを防御しなければならない使命が統一教会にあるのです。
(193-306、1989.10.8)

 

未来の世界は、家庭の純潔を保全し、家庭の価値を守護するという道徳律が定着するかしないかによって、天国と地獄の分かれ目に置かれるようになるはずです。世界各国が一様に悩んでいる青少年の退廃と絶え間ない麻薬による犯罪、増加する家庭破壊と離婚、エイズの蔓延、性犯罪などを、政治権力によって解決することができますか。現在の学校教育や宗教的教えでも解決できずにいます。
すべての家庭の悩みが解決されない社会が、経済的に豊かになって何をし、政治的に自由になって何をするのです
か。人類は今、家庭の価値を守護し、高揚させることができる教えとその方法を探し出さなければならない時点に来たのです。冷戦以降の時代は、正にこの家庭の価値を守護し、高揚させなければならない時代です。
(288-140、1997.11.26)

 

③神様と宗教の基盤

― 宗教経典 ―

 

結局は、天のための集会が開かれる。そして、これ以上天の意志に反する集会は開くことができないだろう。
ミシュナ、アヴォート4.14(ユダヤ教)23

 

主御自身が建ててくださるのでなければ / 家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ / 町を守る人が目覚めているのもむなしい。
詩編127.1(キリスト教)24

 

私たちに命を下さった神が自由を下さった。それでは、私たちがその唯一で堅固な基礎、つまりこの自由が神の贈り物だと考える国民の確信を除去するとき、一つの国の自由が保障されると見ることができるだろうか。自由は、神の怒りなく侵され得るものではない。実に神が正義だということ、そしてその方の正義は、永遠に眠りにつかないことを考えるとき、祖国を憂慮し私は戦々恐々とする。
トーマス・ジェファーソン 25

 

アダムの子孫は、二つの部類に分類されなければならない。第一は、神の王国に属する者たちであり、第二は、世の中の王国に属する者たちだ。……前者は敬虔さを重視し、後者は外的な平和を成し、悪の行為を防止しようとする。世の中は、このうちのどちらか一つでもなければ完全ではない。
マルチン・ルター 世俗の権力
(キリスト教)26

 

この誤った人間の氏族は、政府と社会の政治機構を通して、その環境を完全にしようと夢見る。しかし、外的な環境が完全になり得るのは、ただ内的霊魂の完全によってである。「あなたは中にいるものであり、あなたの外にあるものを享受しなければならない」、そのいかなる政治機構も、あなたの存在の法則からあなたを救うことはできない。
シュリ・オーロビンド(ヒンドゥー教)27

 

この国の法律の根本的な基礎は、シナイ山にいるモーセに与えられた。私たちの権利規制の根本的な基礎は、私たちが出エジプトと使徒マタイ、イザヤと使徒パウロから得たその教えから来た。私は今日、私たちがそれを十分に強調していないと考える。もし私たちが正当で、根本的な道徳的背景を確保しなければ、私たちは結局、国家以外には誰のための権利も信じない全体主義的な国として終わってしまうだろう。
ハリー・S・トルーマン 28

 

主なる神が自ら立てられたこの教会を、人間の生と法、青年教育、国内政治から排除させることは、重大で致命的な過誤である。宗教が追放された国は、きちんと規制されないのである。
教皇レオ13 世 イムモルターレ・デイ
(キリスト教)29

 

― み言選集 ―

 

私たちは、失われた本然の園、
失われたお父様の理念を探し出して、
万物を主管し、守るべき者であり、
万物と共に愛の因縁を結び、
それを束ねてお父様のみ前に
帰し奉るべき者であり、
お父様が天地を創造された
御心情を通して、
お父様の愛の花を咲かせ、
結んでさしあげるべき全体的な責任を
負っているということを知っています。

そうですので、
一歩も踏み出せないまま、
深い眠りの中に入っている
すべての世界人類を
目覚めさせてくださって、
新しい光明の朝を迎え、天を見つめ、
再び目覚めることのできる
群れとなるよう
許諾してくださいますことを、
愛するお父様、
切にお願いいたします。(注 3)
(5-277、1959.2.15)

 

今後の世界秩序は、政治主権が道徳的、霊的価値と別個に作用しては、公益と平和が保障されるのは難しいのです。
(359-143、2001.11.6)

 

神様は、心と体、そして宗教と政治が一つになり、「ために生きなさい!」という原理を実践する国だけを祝福されます。しかし、天の権能に対して考えない盲目の政治家たちは、いまだに地上ばかりを見ています。共産主義の指導者たちは、70 年以上の間、神様なしで富を実現しようと努力してきましたが、彼らの国は既に破産してしまっています。同じように、西欧の国家も、景気後退、犯罪、社会的腐敗などで恐ろしい熱病にかかっています。しかし、このような問題は宗教指導者たちが、目を見開いてそれらの真の原因を発見する時までは解けないのです。
(234-225、1992.8.20)

 

国家の指導者の中には、独裁者が多かったのです。自分個人を中心として家庭を収拾するだけでなく、自分の一族と一国を越えて世界を自分の思いどおりにすべて収拾し、自分の欲望を充当しようとした政治家がたくさんいたのです。ですから、歴史の背後を見れば、今日この世界のあらゆる国家は、力の政治によって自分の民族を導いてきました。民族を中心とする善とは何だったのかというと力でした。力をもって弱い人たちを占領し、自分の版図圏、所有圏を拡張してきた歴史的事実を私たちはよく知っています。
それに反して、今日の私たちが見る宗教の歴史は、博愛主義が中心思潮です。宗教は、広い意味で神側を中心とした主流なので、愛を語り、慈悲を語り、公義を語る立場に立っています。ですからそれは、自己の野望を拡張しようとするのではなく、公的な利益に符合することができる自分のすべての素性を悪の世界の霊に投入して、悪の世界を天側に移そうというのです。それは、悪を中心として争う世の中ではなく、善を中心として和平を企図し、平和を企図し、最近多く使われる言葉である「和解のムード」を造成するためにするのです。
(213-7 ~ 8、1991.1.13)

 

私たちは、このような危機が神様を否定したところに由来していることを悟らなければなりません。共産主義は神様の存在を否定したので、滅亡したのです。アメリカもアメリカの精神的遺産を回復しなければ、大きな困難にぶつかるようになるでしょう。また、キリスト教も神様を無視する場合、世界の没落を防ぐ力を失ってしまうのです。哲学と経済、政治と芸術なども、神様の意味を悟ってこそ、その本然の役割を果せるのです。したがって、今日の世界的問題の解決は、「神様」に帰結します。神様の摂理を理解することこそが、私たちが直面した問題の解決策を提示してくれるというのです。
(262-234 ~ 235、1994.7.26)

 

今、時が来ました! アメリカが再び目覚めるべき時が来ました。第二の建国運動を挙国的に展開し、神様を中心とした真の父母、真の家庭、真の国家、真の世界を取り戻すべき時です。そうして離れようとされる神様(注 4)を再びお迎えしなければなりません。6000 年間も準備して訪ねてこられた神様が、アメリカを離れられたら、どこに行きますか。神様さえ正しくお迎えすれば、家庭問題、倫理問題、青少年問題、人種問題は自動的に解決されます。五色人種が一つに相まみえて生きていくアメリカは、地上天国のモデルなのです。
真の家庭と世界平和p.544 2000.1.22

 

3. 愛国心と社会奉仕

市民精神、愛国心、社会奉仕などの用語は、家族と友人の水準を越える倫理的行動範囲を規定する。市民が公共の利益のために自発的に奉仕し、近所と地域社会問題の解決のために積極的に参加して責任を負う姿勢をもてば、その社会は各機能がきちんと発揮される。特に「国民の、国民による」政府である民主主義社会において、社会奉仕に対する態度が立派な市民の特性を決定するのである。
国家が危険に直面する時、愛国心は犠牲を発散する。愛国者たちは、必要ならば自分自身を、自分の生命まで国に奉仕し、犠牲にするのを誇らしく思う。聖書の人物エステルは、自分の命を懸けて人々を滅亡から救ってくれと嘆願する。詩篇の詩人はバビロンの川のほとりで嘆き、祖国に対する愛を表現する。王朝に絶対的忠誠を誓った中世の韓国人の詩一編をここに紹介する。その詩は、神様のみ旨に対する献身の歌として善用してきた統一主義者には、非常になじみのあるものだ。私たちは、国家の福祉のために犠牲と献身の模範となり、暴政に対抗して国民を勝利に導いた、現代の愛国者たちが残した記念碑的な語録をここに補充する。そのような神前の英雄の中で、文鮮明先生は、幼い少女として韓国独立運動の火をつけ、日本警察に処刑された柳寛順を特別にたたえる。
文鮮明先生は、国家は国民、国土、そして主権の3局面をもつと言及する。多くの経典の章句で、統治権力への服従強要は、政権維持のための秩序と共同体安全のために、独裁者にも忍耐するよう根気よく勧告していることを記述している。しかし、文鮮明先生は、統治者に対する忠誠と尊敬を、神様のみ旨に従って統治するよう統治者に訓戒して案内する預言者の義務に連結させる。先生は、愛国は家族に対する愛で始まり、人類と宇宙と神様に対する愛で連帯される宇宙的愛のはしごまでが一つの段階と教える(第 20 章11.「世界市民」参照)。先生は、このような愛を葛藤、反目ではなく、連帯、提携の中で探すことを強調し、特に父母は、若者たちに愛国心を鼓吹させなければならないと強調する。

 

 

①国家に奉仕する市民の任務

― 宗教経典 ―

 

(整列している者たちは言う) 「わたしたちのうちひとりも、定められた所を持たぬ者はない」、「わたしたちは(奉仕のため)、整列して……」。
クルアーン 37.164~5(イスラーム)30

 

人々はあなたの古い廃虚を築き直し /あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び/「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。
イザヤ書 58.12(キリスト教)31

 

信仰をもった者が死後にも報償を受けるようになることと善行は、彼が教え広めた知識であり、彼が残しておいた優れた知識であり、彼が遺産として残した一冊のクルアーンであり、彼が建てたモスクであり、彼が旅行者のために建てた一軒の家であり、彼が流れるようにした川の水であり、彼が生前に裕福だったときの財産で施した寄付である。これにより彼は、死後にも続けて報償を受けるようになるだろう。
イブン・マージャ・ハディース(イスラーム)32

 

アルジュナよ、私にとって、三界においてなすべきことは何もない。得るべきもので未だ得ていないものも何もない。しかも私は行為に従事しているのだ。
何故なら、もし私が孜々として行為に従事しなければ、人々はすべて私の道に従うから。
もし私が行為をしなければ、全世界は滅亡するであろう。私は混乱を引き起こし、これらの生類を滅ぼすであろう。
愚者が行為に執着して行為するように、賢者は執着することなく、世界の維持のみを求めて行為すべきである。
バガヴァッド・ギーター 3.23 ~ 25(ヒンドゥー教)33

 

もし私たちがある思想家たちのように、自由と平等が民主政治において主に発見され得るものだと考えるなら、それらは、すべての人たちが最大限度に同じ政治的権利に参与するとき、最もよく達成されるだろう。
アリストテレス 政治学 4.4(ヘレニズム)34

 

国民の皆さん! それゆえに、国が皆さんに何をしてくれるのかを問うのではなく、皆さんが国のために何ができるかを問うてください。全世界の人類の皆さん! アメリカが皆さんに何をしてくれるかを問うのではなく、私たちが心を合わせ、人類の自由のために何ができるかを問うてください。
ジョン・F・ケネディ(注 5)35

 

あなたが寄付することをやめたとき、あなたは死ぬようになる。
エレノア・ルーズベルト36

 

― み言選集 ―

 

一つの国家に属して暮らせば、その国の国民を愛することができなければなりません。
(1-336、1956.12.30)

 

愛国者とは何ですか。国を中心として、自分の五官で見るときに、心配の対象にならずに、より良くなることを願う人です。悪いことがあれば、自分が責任をもち、それをすべて解決してあげようと思える愛の心をもった人です。
(161-133、1987.1.18)

 

黙って忠誠を尽くし、黙って奉仕する群れは、どのような国家、どのような社会、どのような所に行っても主人になります。
(5-16、1958.11.9)

 

先生は、いつでも最前線で生きようとします。苦労し、困難な道を行こうとします。皆さんが暮らす村で最も悪い所を見れば、「あれは私が掃除しなければならない」と考えなさいというのです。
(248-154、1993.8.1)

 

さらには、「世界で最も困難なことを私がやった」と言えなければなりません。これを気分悪く思いながら行い、嫌々やれば、僕として終わるのであって、養子の橋を架けて上がってくることはできません。今日の世界のあらゆる困難を、僕たちがするあらゆる困難を、私が喜びで消化しなければなりま
せん。そうすれば、僕の位置から養子の位置に上がっていくのです。
(113-111、1981.5.1)

 

自分を中心とした主義や思想をもった者は滅びます。自分の欲望のために人命を傷つけ、自分の欲望のために国に被害を与えたというときは滅びるのです。国は、個人に利用されるものではありません。かえって国に利用されなければならないのが国家圏内にいる国民の道理です。また、それが国民の行くべき方向です。人間は本来、自分個人だけのために生きるようになっていません。ところが、今日のこの地上には、自分個人だけのために生きる人が多いのです。「私のために働く」と言います。つまり自
分自身のために生きるというのです。どれほどかわいそうな人ですか。父母も兄弟もいない孤児と同じです。「私は世界の人類のために生きる」と言うことができなければなりません。
(24-20、1969.6.22)

 

人間は、社会的次元で、家庭的、民族的、国家的、世界的、宇宙的次元で、神様を中心とする犠牲、奉仕、真実と真の愛の実践を通して、貪欲、放縦、不信と偽りの愛など、悪の根拠を除去しなければなりません。
(167-100、1987.6.30)

 

②王、国民、そして国家のための愛国者の犠牲

― 宗教経典 ―

 

バビロンの流れのほとりに座り / シオンを思って、わたしたちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。わたしたちを捕囚にした民が / 歌をうたえと言うから / わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして /「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。どうして歌うことができようか / 主のための歌を、異教の地で。エルサレムよ / もしも、わたしがあなたを忘れるなら / わたしの右手はなえるがよい。わたしの舌は上顎にはり付くがよい / もしも、あなたを思わぬときがあるなら / もしも、エルサレムを / わたしの最大の喜びとしないなら。
詩編137.1~ 6(キリスト教)37

 

モルデカイは事の一部始終、すなわちユダヤ人を絶滅して銀貨を国庫に払い込む、とハマンが言ったことについて詳しく語った。彼はスサで公示されたユダヤ人絶滅の触れ書きの写しを託し、これをエステルに見せて説明するように頼んだ。同時に、彼女自身が王のもとに行って、自分の民族のために寛大な処置を求め、嘆願するように伝言させた。ハタクは戻ってモルデカイの言葉をエステルに伝えた。エス
テルはまたモルデカイへの返事をハタクにゆだねた。「この国の役人と国民のだれもがよく知っているとおり、王宮の内庭におられる王に、召し出されずに近づく者は、男であれ女であれ死刑に処せられる、と法律の一条に定められております。ただ、王が金の笏を差し伸べられる場合にのみ、その者
は死を免れます。三十日このかた私にはお召しがなく、王のもとには参っておりません。」エステルの返事がモルデカイに伝えられると、モルデカイは再びエステルに言い送った。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」エステルはモルデカイに返事を送った。「早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」
エステル記 4.7 ~16(キリスト教)38

 

平和の名は甘美で、それ自体は有益だ。しかし、平和の奴隷状態は大きな違いがある。平和は、平穏な中での自由である。奴隷状態は、戦争だけでなく死にすら抵抗しなければならない、あらゆる邪悪なものの中の最悪である。
マルクス・キケロ(注 6)(ヘレニズム)39

 

鎖や奴隷制度をもって手に入れなければならないほど、命がそれほど大切で、平和がそれほど甘美なものなのか。これを禁じてください、全能の神よ! 私は人々がどの方向に行くのか分からない。しかし、私には自由でなければ死を与えよ!
パトリック・ヘンリー(注 7)40

 

私は祖国に捧げる命が一つしかないことが残念でならない。
ネイサン・ヘイル(注 8)41

 

幾度死すとも 砕け散るとも
たとえ身も魂も朽ち果つとも
慕わしきわが主に捧げまつる
熱きこの胸の忠誠消えず(注 9)
鄭夢周 丹心歌(儒教)42

 

私たちの義務を引き受けよう。そして、耐え忍びましょう。大英帝国と英国連邦が千年続けば、そのときにも人々は、「この時期が最上の時だった」と語るでしょう。
ウィンストン・チャーチル(注10)43

 

― み言選集 ―

 

国には愛国心が必要です。国が動いていくためには、愛という錨綱が必要ですが、これをいわゆる愛国心と言います。愛国心のある人は、国を捨てられません。出ていっても、また訪ねてくるものです。 (注11)その愛国心という綱がどれほど強いか、かわいそうな民族のためには大きな成功も否定し、自由が不幸になることを意に介さず、その道を選んでいくこともできます。愛の力がなければ、それは不可能です。
(175-204、1988.4.17)

 

愛国者たちが圧政下で、あらゆる条件に対抗して闘ってきたのは、もちろん民族を愛し、国土を愛する心があったからです。また、彼らには勝利の一日を願い、希望する心とその勝利の一日が必ず来ることを信じる強い心があったがゆえに、そのような圧政下でも屈することなく闘うことができたのです。これを私たちは知らなければなりません。
(5-321、1959.3.1)

 

きのうは三・一節でしたが、柳寛順は、当時 16 歳だったので少女ではなかったですか。倭警(日本統治時代の日本警察のこと)によって無惨に殺された少女ですが、なぜ民族を挙げて彼女を愛国者としてあがめるのですか。国のために自分の命までちりあくたのように捨て、もっと国を愛そうとしたのであ
り、民族を愛そうとしたからです。幼いときから死ぬまで、誰よりも国を愛したのであり、自分の命を投入して国を愛した、それが貴いのです。
(141-293、1986.3.2)

 

一つの国において、どのような人が愛国者ですか。裕福に暮らして号令する立場にいる人ではありません。末端の立場でぼろを着て、塩汁に麦飯を食べて貧しく暮らしながらも、麦飯のお膳を通り過ぎる外国の人たちが見るのではないかと心配し、国の威信を考え、自分の姿が目につかないように隠れようとする心をもった人が愛国者です。自分の国の体面と威信は考えず、ねたみ、嫉妬し、面子もなく行動してはいけません。自分の国を少しでも美しく、価値あるものとして現そうと努力する人が愛国者です。
(26-136、1969.10.19)

 

愛国者は、愛を中心として主権を愛さなければならず、国土を愛さなければならず、国民を愛さなければなりません。「国家」といえば、主権、国土、国民がいなければなりません。この三大要素をすべて愛さなければならないのです。そのためには、自分の家庭を、一家自体を投入しなければなりません。
一家自体を引き入れなければなりません。すべての家庭的要素が結合して国家の形成が展開するようになります。家庭を前に立てる人が国を愛するという論理は、この宇宙に公認されません。愛は、より大きなものを連結しようとするのです。
(207-251、1990.11.11)

 

あらゆる理想の原点であり、未来に向かい、永遠に作動する真の愛は、青年たちに生命以上の力になります。青年たちが真の愛を中心とする新しい国家観をもつとき、国家は新しい発展の可能性を見いだすのです。真の愛の姿勢をもつことによって、あらゆる集団は、衝突する利害関係の枠を飛び越えて協
力と調和と発展の社会を築くのです。
国を動かし、導く原動力は、犠牲的な愛国衷情の真の愛から出てきます。私たちが尊敬する大勢の愛国的英雄烈士たちは、真の愛を中心として犠牲の生涯を経ていない人がいないのです。
(288-201、1997.11.28)

 

③支配権威の尊重

― 宗教経典 ―

 

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。
マルコによる福音書12.17(キリスト教)44

 

帝国の繁栄のために祈れ。帝国が鼓吹する恐怖がなければ、人間たちは互いを生きたままのみ込もうとするからである。(注12)
ミシュナ、アヴォート3.2(ユダヤ教)45

 

サルタンは地上にいる神の影なので、過ちを犯した彼の僕たちは、それぞれ彼に従って過ちを直さなければならない。彼が公正であれば報いを受けるのだから、彼に感謝しなければならないのは、一般の民の義務だ。しかし、彼が暴政に従事すれば、その荷が彼にあるがゆえに、一般の民たちは忍耐心を見せなければならない。
バイハキ・ハディース(イスラーム)46

 

人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい
存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神
に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。
貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。
ローマの信徒への手紙13.1~ 7(キリスト教)47

 

神の意志に逆らう行為をするよう命じない限り、好きでも嫌いでも、政府の施策を聞いて従うことはムスリムの義務である。もちろん、反対の場合、ムスリムは聞くことも、見ることもしてはならない。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)48

 

― み言選集 ―

 

私たち個人は、尊重され、高く評価されなければならず、宇宙を身代わりできる価値をもっている存在ですが、横的な関係を結んで家庭に入っていけば、家庭の祭物にならなければなりません。天理原則がそうです。ですから、自分個人を天地に匹敵する価値として評価するほど貴いと思っても、家庭があれば、家庭のために奉仕しなければなりません。個人よりは家庭を中心としなければならず、家庭よりは社会を中心としなければならず、社会よりは国家を中心としなければなりません。さらには、国家よりも世界、世界よりも天、天よりは神様を中心としなければなりません。
(10-329、1960.11.27)

 

国王に侍るにおいては、父母のように、師のように侍らなければなりません。また、父母に侍るにおいては、師のように侍り、国王のように侍らなければなりません。また、師に侍るにおいては、父母のように侍り、国王のように侍らなければなりません。これを統一教会では、三大主体愛の思想(注13)、真の愛を中心とした三大主体思想というのです。
(212-28 ~ 29、1991.1.1)

 

今日のアメリカの青年たちに、「国を愛しなさい」と言ったとき、「その国に対する愛はどのようにするのか」と言いながら目をぱちくりさせ、「それはしなければならないが、どのようにすることが国を愛することなのか」と言います。そこに対する教育をする人がいません。家の父母もすべて、動物的な
因縁しかありません。兄弟も、動物的因縁しかありません。すべて動物のような愛、さらには動物にも劣る愛、そのような段階に落ちたのです。ですから、「国を愛するとはどういうことか。私が税金を払うことが国を愛することだ」、これしか知りません。観念がそれしかないのです。
愛をどこで学ぶのですか。それを家庭で教えなければなりません。それでは、父母はどのようにしなければなりませんか。兄弟同士で愛することを教えてあげ、父母を愛することを教えてあげると同時に、「私がお前を愛するのと同じように、私が国をこのように愛するから、お前は国をこのように愛さなければならない」と教育しなければなりません。そのように教えてあげさえすれば、すぐに「ああ!」と言って分かります。ほかの教育は必要ありません。すぐにうなずきます。「アメリカに対する愛国心とは何か」と目を見開いて尋ねる人たちにそのように話をすれば、頭にさっと入っていきます。ほかのことは必要ありません。そのような伝統をつくっておかなければなりません。これをつくっておけば、すべてがない所でも、いくらでも再びつくりあげることができるのです。
そして、大統領の言葉を父親の命令よりもっと高い命令だと考えるのです。自分の父母のために生きるよりもっと偉大だと教えてあげなければなりません。ですから、「あなたと私は、国に困難なことがあれば、国に忠誠を尽くし、国を愛するために死の道を一緒に行かなければならない」という教育をしなければなりません。ですから、考える人はそのような伝統を中心として考え、国家的歴史を立て直し、国家的伝統を残そうとするのです。
(95-51~ 52、1977.10.23)

 

4. 労働

大部分の人々は、基本的に労働を通して社会に奉仕する。人間は大人になり、自分と家族のために仕事をしながら人生を営む。しかし、私たちの労働は、個別的利益を得る前に国家全体の豊かさと繁栄に連結される。一歩進んで労働は、天地を創造した神様に私たちが似ていく一つのやり方である。神様は、労働する人間に満足し、労働の結果を見て喜ばれる。それが神様の人間創造の目的と言える。結局人間は、労働することで神様と共に共同創造者になるのだ。
社会の構成員は、労働倫理に関する教育を受けて、自己啓発ができる社会的機会を得る。そのようにしなければ、どんな社会も発展し得ない。宗教の実体的な機能は、政治的、経済的成功のために、社会構成員を激励し、鼓舞させることである。それは、仕事場で勤勉、節約、信頼、責任感と誠実さ、そして自分の職業に対する愛着だ。
ある伝統宗教は、生産的なことを奨励することよりも、貧困と清貧生活を強調するが、大部分の伝統宗教は、聖職者にまで誠実に労働することと、自給自足を奨励する。大部分の宗教が世俗的な利益ばかりを追求する生活を拒否するにもかかわらず、その利益は、社会奉仕、慈善行為、正しい礼拝などに適切に使われれば、そのような人生は、神様が認定してくださったと高く評価する。

 

①あらゆる仕事は神聖であり、天に奉仕すること

― 宗教経典 ―

 

アブ・フライヤが言った。「私たちが使徒と共にいるとき、ある若者が現れた。私たちが言った。『この若者は、彼の若さ、エネルギー、力を祭物として捧げ、神に礼拝を捧げなければならない』。使徒が私たちの言うことを聞いて答えた。『ある人が神のやり方どおりに殺害されたり、彼の父母を扶養したり、彼の家族を食べさせたり、自分が生きるために努力したこと以外に神のやり方は何もなかった。これらが神のやり方だ』」と。
スユーティ(注14)、ハディース(イスラーム)49

 

精いっぱい働くこと、それがすなわち祭祀である。
パラシャイバの金言(ヒンドゥー教)50

 

労働は偉大だ。労働者に栄光が授与される。
タルムード・ネダリーム 49b(ユダヤ教)51

 

鋤を握り、突き棒の扱いを自慢する者が。また、牛を追い立て、仕事に忙しく、/ 話題は子牛のことばかりという者が。彼は畝作りに没頭し、/ 夜も寝ないで若い雌牛にえさを与えている。職人や職人頭も同じだ。彼らは昼夜を分かたず仕事に励む。印章を彫り込む人々、/ さまざまな下絵書きに没頭する者も同じだ。彼は本物そっくりに表現しようと精魂を傾け、/ 夜も寝ないで仕事を仕上げる。
鉄床のそばに座るかじ屋も同じだ。彼は鉄の細工物を一心に見つめる。熱風で体はやけどを負うが、/ 炉の熱にあてられながら、懸命に仕事をする。彼の耳には、金づちのやかましい音が鳴り響き、/ 目は器の形に注がれる。彼は仕事を完成させようと精魂を込め、/ 夜も寝ないで見事に仕上げる。仕事場に腰を据える陶器職人も同じだ。彼は足でろくろを回す。常に仕事に熱中し、/ その作品を数える。彼は足で粘土をこねて、固さを除き、/手でそれを形づくる。上塗りをかけて仕上げるのに精魂を込め、/ 夜も寝ないで、窯を掃除する。これらの人々は皆自分の腕に頼り、/ それぞれ、自分の仕事には熟練している。彼らなしに、町は成り立たず、/ 住み着く人も、行き来する人もいない。
しかし、彼らは民の会議では意見を求められず、集会においても責任ある地位には昇れない。裁判官の座にもつけず、/ 法律にかかわる決まりも理解していない。教訓や法律を説き明かすこともできず、/ 格言にも精通していない。彼らは造られたこの世界の調和を固く保つ。彼らの願いは、仕事を全うすることにある。
シラ書〔集会の書〕38.25 ~ 34(キリスト教)52

 

ヤブネのラビが語った有名な言葉がある。:私は主なる神の被造物であり、あの隣人の小作農も神の被造物だ。私は村で働き、彼は田舎で働く。私は私の仕事のために早く起き、彼も彼の仕事のために早く起きる。彼が私の仕事を無視しないように、私もまた彼の仕事を無視しない。果たして、私がより多く働き、彼は少なく働いていると言えるだろうか。私たちは学んできた。 「その人が、人より仕事を多くすることも、少なくすることもできる。しかし、その心がいつも天に向かっていれば、結局は同じことである」。
タルムード、ブラホート17a(ユダヤ教)53

 

すべての位置は天が任命される。清掃人の仕事までも、天が決められたのである。
タルムード、バヴァ・バトラ91b(ユダヤ教)54

 

仕事を愛し、権力を憎悪せよ。
ミシュナ、アヴォート1.10(ユダヤ教)55

 

主はモーセにこう仰せになった。見よ、わたしはユダ族のフルの孫、ウリの子ベツァルエルを名指しで呼び、彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識をもたせ、金、銀、青銅による細工に意匠をこらし、宝石をはめ込み、木に彫刻するなど、すべての工芸をさせる。わたしはダン族の
アヒサマクの子オホリアブを、彼の助手にする。わたしは、心に知恵あるすべての者の心に知恵を授け、わたしがあなたに命じたものをすべて作らせる。
すなわち、臨在の幕屋、掟の箱、その箱の上の贖
あがないの座、幕屋のすべての祭具、机とその祭具、純金の燭台とそのすべての祭具、香をたく祭壇、焼き尽くす献げ物の祭壇とそのすべての祭具、洗盤とその台、祭司アロンのために織った衣服と祭服、アロンの子らが祭司として仕えるときの衣服、聖別の油、聖所でたく香ばしい香である。彼らはわたしが命じたとおりに作らねばならない。
出エジプト記 31.1~11(キリスト教)56

 

― み言選集 ―

 

私はここで、永生と真の愛を実践する人です。永生と真の愛を私は、ここで実践する人だというのです。ですから、私がここでしているすべての仕事、工場で仕事をして何かをするということが、永生を延長させ得る材料だというのです。
(216-127 ~128、1991.3.9)

 

仕事をするとき、なぜあらゆる精誠を尽くしなさいと言うのですか。仕事をするとしても、うわの空で仕事をするなというのです。それは、使いをする人がすることです。使いをする人は、定着できません。仕事をするときは、本心からこれが私の絶対的相対だと考えなければなりません。 (注15)絶対的相対を創造するところには、投入して忘れなければなりません。忘れてこそ私と関係を結ぶのです。
(330-117 ~118、2000.8.14)

 

経済問題はいつでも、私と物質の関係です。商売をするとしても、その事業を愛さなければなりません。ですから、私に 100 という価値があるとき、この物は 100 に対する対象の価値が生じるのです。私に 1000 という価値があれば、いくら小さな物、小さな手帳一つでも、これはいくらにもならない物
ですが、1000 に対する相対的価値をもつようになるのです。世の中で立派な人がもっていた万年筆や、どこかで使っていた物がなぜ価値があるのですか。その人の愛が宿り、相対的価値をもったために貴いのです。
(102-126、1978.11.27)

 

経済を重要視するよりも、経済を重要視する人を重要視しなければならず、もちろん科学も重要視しなければなりませんが、科学を重要視する人を重要視しなければならず、芸術を重要視するよりも、芸術を重要視する人を重要視できなければならないという結論が出てきます。そのように結論を下さなければなりません。
ところが、現在はどのようになったかというと、経済を中心として見てみるとき、経済圏内の人を重要視しているのではないというのです。科学なら科学の圏内にいる人が重要視されるのではなく、科学が中心になったのであり、経済が中心になったのであり、外交が中心になったのであり、芸術が中心になったのです。人は、どのようになったのかというと、無価値になってしまいました。人を通して技術を見て、人を通して経済を見て、人を通して芸術を見なければならないのですが、今は逆さまになっているのです。
(99-116、1978.9.10)

 

先生は、建築現場に行けば労働者になり、農村に行けば農夫になります。先生は、できないことがありません。何でもできます。大衆を指導するためには、そのような経験をしなければなりません。山に行って、炭を焼くことも知っています。鉱山に行って穴を掘ることも知っています。もし迫害を受けてどうすることもできなければ、鉱山に行き、石炭を掘る穴の中で運動すると考えたのです。そのような訓練もできています。
(256-100、1994.3.12)

 

皆さんは、ほかの人たちのために涙を流してみたことがありますか。この地上で汗を流してみたことがありますか。労働もしなければなりません。公的に汗を流すこともしなければならないのです。10 里、20 里の道でも、人を救うために一日行ったり来たりすることができなければなりません。そのよ
うな鉄則を立てておいて、そこに一致する生活をしなければならないのです。言葉だけではいけません。真理は実体と一体にならなければなりません。日本全国のために、どれほど汗を流したかというのです。父母の心情をもって人類のために涙を流すのです。神様がそうです。それで、1960 年代まで、先生が説教をするときに、涙と汗を流さないときがありませんでした。汗の滴をぽろぽろ流しながら痛
つうこく哭する、胸が張り裂けるような説教をしました。
(256-146、1994.3.12)

 

②勤勉、誠意、そして自助の徳目

― 宗教経典 ―

 

ここで人々が勤勉を実践するようにしよう。人々が窮乏した者たちを助け、繁栄を享受するようにしよう。
アヴェスター、ウィスプ・ラト(ゾロアスター教)57

 

礼拝が終わったならば、なんじらは大地に広がり、神の恩典を求めて、神をたたえ多く唱念しまつれ、おそらくなんじらは栄えるであろう。
クルアーン 62.10(イスラーム)58

 

怠け者よ、蟻のところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ。
蟻には首領もなく、指揮官も支配者もないが /
夏の間にパンを備え、刈り入れ時に食糧を集める。
怠け者よ、いつまで横になっているのか。いつ、眠りから起き上がるのか。
しばらく眠り、しばらくまどろみ / しばらく手をこまぬいて、また横になる。
貧乏は盗賊のように / 欠乏は盾を持つ者のように襲う。
箴言 6.6 ~11(キリスト教)59

 

涙は貧しさに対する答えではない。おなかを空かせた怠け者は、自分以外には誰も非難することができない。怠け者にだけ成功する土台がない。おお、神よ! どこにも私に適合しない所がありません。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)60

 

朝と晩には仕事をせず 寒さ暑さにまた怠けてしまう
している仕事は最後までやりおおせずやり遂げた仕事もだめにしてしまう
もし寒さ暑さをものともせずに 朝晩まじめに務めるならば
仕事は必ず完成し 最後まで憂い苦しみはないだろ
阿含経長部 iii.185、善生経(仏教)61

 

雇われの生活も楽しい。
シラ書〔集会の書〕40.18(キリスト教)62

 

あなたの手が労して得たものはすべて / あなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか / いかに恵まれていることか。
詩編128.2(キリスト教)63

 

また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。ところが、聞
くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。
テサロニケの信徒への手紙二 3.8 ~12
(キリスト教)64

 

折れたつるはしで自ら生産した少ないものが、他の人から得た多くのものよりもよい。
プジ族の格言(アフリカ伝統宗教)65

 

放浪し乞食をして自ら聖なる者だと叫ぶ人、彼の足元に敬拝してはならない。熱心に働いて生計を維持し、へりくだって乞食として一部を求める人、ナナーク、そのような人が真に神の道を知る人である。
アーディ・グラント、ヴァール・サーラング
M.1、p.1245(シク教)66

 

窮乏した人にお金を貸してあげる人が、慈善を施す人よりも偉大だ。貧しい者を助けて事業を行い、自らお金を稼ぐことができるように助けてあげる人が、誰よりも偉大な人である。
タルムード、シャッバト63a(ユダヤ教)67

 

世に善男子の如法の財あり、起策し、精励し、汗を流し、腕の力にて集め、徳に由りて得たり。彼は、我に如法の財あり……と思惟して楽を味ひ、喜を味ふ、此を所有の楽と名く。長者よ、又云何なるが受用の楽なるか。……起策し精励し、汗を流し、腕の力にて集め、徳に由りて得たる如法の財を受用
し、又財に由りて福を作る、彼は、我は起策し、精励し……如法の財を受用し、又財に由りて福を作る、と思惟して楽を味ひ、喜を味ふ、長者よ、此を受用の楽と名く。
阿含経増支部 ii.68(仏教)68

 

怠惰は霊魂の敵である。
ベネディクト 規律(キリスト教)69

 

― み言選集 ―

 

「お金持ちの家は、きりぎりすのように食べ、酒を飲み、遊んで踊れ。私は蟻のように腰が細くなるほど働く。歌うことを好み、踊ることを好み、冗談を言ってふざけるのを好む、そのような行動を続けなさい。私は地を掘って入り込み、あなたたちを葬る穴をつくっておいても、私が暮らせるところまでつ
くっておこう」と考えれば、地獄まで占領して天国の王になるというのです。
(339-146、2000.12.10)

 

事務室にいた人たちは、現場に行って一日だけ仕事をすれば、ストレスがすべてなくなります。ストレスは考えることもできず、眠れなかったのも解決されます。ストレスのために眠れないそのような人たちがいるときは、捕まえて穴掘りに連れていき、何日か働かせればぐっすり眠るようになります。
(230-168、1992.5.1)

 

おもしろさを感じなければなりません。農作業するのも楽しいことです。土地を掘るのも楽しいことです。一生汗を流していけます。家を建てるのも楽しいことです。私がしてみなかった労働はありません。自然と和合して、環境条件において自分と関係を結び、そのようにして事に着手すれば、成功
しないことがありません。
(355-96、2001.10.3)

 

皆さんが仕事をしようとすればお金が必要です。誰もお金をもってきてくれません。私の手でつくらなければならないのです。今日の世界的な基盤をすべて私の手で築きました。誰かがしてくれたのではありません。先生は、追い出されても、島国であれどこであれ、生きていけます。皆さんがすべて死んでも、私は生きます。どのきのこが食べられるものであり、薬草がどれで、毒草がどれか、すべて知っています。そして、糸と針金 1 本あれば、釣りざおを作って、いくらでも釣れます。どこでも生き残れます。いつでも自立できる知恵があります。統一教会では、33 歳前にこれを公式的に訓練しなけれ
ばならないというのが先生の哲学です。
(117-24 ~ 25、1982.1.30)

 

私には、できないことがありません。鉱山に行けば鉱夫になり、坑木まで支えることができる人です。反対を受ければ、み旨を鉱山に行ってでも成し遂げなければならないと考えました。山中の山賊のような生活をしながらでも、どろぼうせずに山中であらゆるものを食べて生きていける訓練をしたのです。
食べる物は、いくらでもあります。海に行けば、漁夫の中の漁夫です。農村に行けば農夫の中の農夫です。農作業をすべてよく知っています。この地球星のどこに行っても3周だけすれば、手ぶらで基盤を築くことができる能力のある人です。
(273-305、1995.10.29)

 

福祉の恵沢を受けてうまくやろうという人は、永遠に駄目です。世話になれば、僕にしかなりません。地上で人を助けてあげなければなりません。助けてあげてから逝かなければならないのです。そうしてこそ、あの国に行って高い所に行くのです。いくら優れていると思っても、霊界に行ってみてください。自分だけのために生きる立場で世話になり、受けることを好み、与えることを嫌う人は、すべて真っ暗な地獄に行くのです。
(248-98、1993.8.1)

 

5. 自由

自由に対する渇望は、人類歴史で最も強力なエネルギーとして噴出した。神様は、エジプトにいるイスラエル人の奴隷たちに、神様の自由に対する愛を見せてくださり、彼らを解放することによって、あらゆる所にいる自由を愛する人の手本とした。神様が私たちを自由ある存在として創造されたために、人間は、どこに行っても自由を渇望する。神様は人間の自由を尊重する。神様は、人間が誤った選択をしても、そして罪を犯して悲惨になっても干渉しない。
それでも、神様は人間の存在をして、神様の理想的な対象として完成しなければならない目標を指向するように自由を賦与した。そのため、自由はそれ自体に目的があるのではなく、真の愛、真の共同体、神様の国など、より大きな目的に向かう一つの手段である。さらに、自由は、人間の生に対する神様の計画の助けとなる時にだけ意味があり、有効なものである。罪を犯す場合のように、誤って使われた自由は奴隷状態に導くのである。それで神様は、人間を創造しながら、人間の自由意志を善良な方向に案内する内的羅針盤として良心を与えた。そして、すべての子女に、自由を適切に使用するよう教育して、愛することができる父母を送ってくれた。自由をめぐる論争は、主に民主主義に基づいている。そのため、私たちは、世俗的民主主義の自由に対する観念の批判、特にカトリック教会の批判は、自由に対する過度な価値付与と西洋民主社会で大きく広まった乱用に対する文鮮明先生の一部の否定的な判断と共鳴する。
最後に、経典は、神様は自由ではなく、どこの誰よりも多くの解放が必要な方だという文鮮明先生の独特な教えを描写しているいくつかの章句を含めている。

 

①神様とその創造から具現した自由の礎石

― 宗教経典 ―

 

ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。
コリントの信徒への手紙二 3.17(キリスト教)70

 

主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。」
出エジプト記 3.7 ~ 8(キリスト教)71

 

この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。(注16)
レビ記 25.10(キリスト教)72

 

主はわたしに油を注ぎ / 主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして / 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み /捕らわれ人には自由を / つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年 / わたしたちの神が報復される日を告知して / 嘆い
ている人々を慰め……。(注17)
イザヤ書 61.1~ 2(キリスト教)73

 

信仰する者よ、なんじら自身を守る責任は、なんじらにあるのだ。
クルアーン 5.105(イスラーム)74

 

あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。
ヨハネによる福音書 8.32(キリスト教)75

 

私たちの故郷と私たちの領土で、自己決断、正義、自由、そして平和に対する私たちの要求は……白人の兄弟たちが海を渡って入ってくるまでに、私たちが楽しんでいたことの更新だ。私たちは偉大な平和の法、すなわち“ガイ・エネシャ・ゴ・ナ”のもと、満足して生きていた。私たちは、平和、平等、正義、善心の力の原理に基づく社会をつくるように教育された。
私たちの社会は、人々の権威に対する偉大な民主的原理と男女に対する同等な責任に基礎をおいている。これがこの巨大な亀島に横たわる生活の大道だった。尊重を伴う自由はあらゆる所にある。私たちの指導者は、ビジョンをもった人であるほど、そしてすべての決定では、未来の7世代に代わって判断するように学んだ。まだ生まれていないあの世代に対する哀れみと愛をもてということである。
私たちは、私たちを生存させるすべてのものに感謝するよう学んだ。それで私たちは、自然界の生命を与える力に対する大きな感謝祭をつくった。私たちがこの儀式を行う限り、命は継続するだろう。私たちは、“種が法”と聞いた。実にそれは命の法だ。それは“再生の法”だ。種の中に命と創造の神秘な力が入っている。私たちの母は、あの種を養育し保護する。ゆえに私たちは私たちの母を尊重し愛する。私たちが私たちの母なる大地を愛するのと同じ霊的な努力と神秘によって。
オーレン・ラオンス酋長(注18)
(アメリカ先住民の宗教)76

 

私たちは、次の事実を自明な真理と確信する。すなわちすべての人は平等に創造されたのであり、彼らは創造主によって一定の譲渡できない権利を賦与されたのであり、その中には、生命、自由および幸福を追求する権利が含まれている。
アメリカ独立宣言書 77

 

人権、例えば宗教の自由、社会建設の共有の自由、組合結成の自由、経済創出の自由を制限し否定すれば、人間から物質を奪う分、人間を疲弊させるのではないか。
教皇ヨハネ・パウロ2 世 社会的関心について
(キリスト教)78

 

― み言選集 ―

 

自由は、実に創造主から受けた最も貴重な贈り物の中の一つです。人間は自由な精神的存在として創造されました。
(133-289、1984.11.19)

 

今、この世界の人類は、自由を享受する個人となり、自由の社会、自由の国、自由の世界で生きることを、誰彼を問わず願っています。私の心に平和がなく、私の心に自由がなければ、真の幸福はあり得ません。今日、自由を叫んでいますが、心情からあふれ出て生きる自由な環境になっていないことを自
認しています。
(7-14 ~15、1959.7.5)

 

人間は、堕落によって自由を失うこととなったのである。しかし、堕落した人間にも、この自由を追求する本性だけは、そのまま残っているので、神はこの自由を復帰する摂理を行うことができるのである。歴史が流れるに従い、人間が己の命を犠牲にしてまでも、自由を求めようとする心情が高まると
いうのは、人間がサタンによって失った、この自由を再び奪い返していく証拠なのである。ゆえに、人間が自由を求める目的は、自由意志による自由行動をもって、原理的な責任と実績をはっきりと立て、創造目的を完成しようとするところにあるのである。
原理講論、堕落論 5.2

 

皆さんは、神様が全知全能であられ、できないことがないと知っています。しかし、いくら能力の多い神様だとしても、神様の心情をかき分けて入っていき、その心が果たして自由な立場にいるのかと尋ねるとき、私は「そうだ」と答えられません。また、神様の本心は、希望に満ちた摂理を前にして解放の喜びの中にいらっしゃるのかと尋ねるとき、これもやはりそうではないというのです。
神様も自由になることを願われるのが本性であり、本然の心情です。そして、神様は解放された立場で万宇宙を主管すべき、お父様であられます。ところが、そのようにできないことが神様の悲しみであり、全被造万象の悲しみであり、歴史上の悲しみの原因となりました。
いまだに神様も自由な立場にいらっしゃることができず、解放の位置にいらっしゃることができず、統一された位置にいらっしゃることができないがゆえに、今日この地上で自由を叫んでいますが、その自由は私たちが享受すべき真の自由にはなれないのです。神様の自由と解放と統一が、正に人間たちが願う自由と解放と統一の基準であることを、私たちは、論理的見地から否定できません。
(4-315 ~ 317、1958.10.12)

 

愛というものを中心として自由の起源を設定しなければ、理想的な起源はないのであり、理想的な起源がなければ理想的な世界の完成はあり得ません。愛する夫には、すべてのことが自由です。また、愛する妻には、夫がどんな行動をしても自由です。たたいてもよく、すべてを触ってもよいのです。どれくらい自由なのでしょうか。胸を出して夫を求めていってもよく、裸になってどんなことをしてもかまい
ません。それ以上の自由がどこにありますか。
女性が裸になるのは、自由のゆえに裸になるのですか、愛のゆえに裸になるのですか。愛のゆえに裸になるのです。自由はどうですか。愛を中心として自由だというのです。
(203-10、1990.6.10)

 

この自然の保護の中で、私自身が豊かに暮らすことができる道を行くのが最高の自由の道だということを知らなければなりません。宇宙の法の中で保護を受け、そこでぶつからないように私自身が矛盾なく行くとき、そこのその場に自由が保障されるのです。これを知らなければなりません。それ以外にはありません。
(117-290 ~ 291、1982.4.11)

 

私たちが自由を求めるために立ち上がった私たちの心中をたどって判断してみるとき、果たして私たちの心に、このすべての万象の前に一つになることができる自由の心情があるのかということが問題なのです。私たちが神様の自由の立場になったなら、私たちのそのような自由の心情は、全天下の万民と共に楽しむことができる、そのような基準になるはずのものだったのです。
(4-318、1958.10.12)

 

今まで民主主義は、「人間の自由」と「人間の解放」を主張してきました。これに対して、私たちは「神様の自由」と「神様の解放」を主張しなければなりません。この問題さえ解決されれば、人間の解放はもちろん、人間の自由の回復はおのずと成し遂げられるのです。
(344-54、2001.3.1)

 

②道徳法によって自我を主管するとき、自由を享有する

― 宗教経典 ―

 

イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。
ヨハネによる福音書 8.34(キリスト教)79

 

キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
ガラテヤの信徒への手紙 5.1
(キリスト教)80

 

兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
ガラテヤの信徒への手紙 5.13(キリスト教)81

 

快楽の追求は苦痛を呼び込むだけであり、
邪悪な欲望は首に鉄鎖をかけるだけである。
過った快楽を追い求めていくあなたよ、
解放はただ神の愛によって成されるのである。
アーディ・グラント、ガウリー・アシュタパディー
M.1、p.222(シク教)82

 

では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神
に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。
ローマの信徒への手紙 6.15 ~18
(キリスト教)83

 

自分自身の主人になれない者は、誰であっても自由人ではない。
エピクテトス 語録 2.10
(ヘレニズム)84

 

― み言選集 ―

 

自由は、実に創造主から受けた最も貴重な贈り物の中の一つです。人間は自由な精神的存在として創造されました。しかし、人間は自由な存在として創造されたと同時に神様から責任も賦与されました。自由は自己規律と自己抑制を必要とするからです。自由は法則を離れて存在することはできません。神様は創造主として自ら創造目的を定め、精神的法則を定められました。私たちは、創造主が定めた人間の根本的な目的を成就するために、この地に存在しています。人間の精神的幸福は、人間が神様の定められた道徳律に従って個人としての責任を果たすことによって、増進するようになっています。人間がこの法則に違反すれば、自然の法則に違反するときと同じように、自分の破滅を招いてしまうのです。
(133-289 ~ 290、1984.11.19)

 

神様が許諾した真の自由は、責任性を前提とします。もし、責任性なしに個々人が愛の自由だけを主張し、実践するなら、どれほど大きな混乱と破局が訪れるでしょうか。至高な愛の理想を求める人間は、愛に対する責任性をもつときに完成が可能なのです。
(277-201、1996.4.16)

 

愛によって完全に占領するところで自由が始まります。皆さんの体が自由に行動しようとすれば、真
まことの愛に属さなければなりません。アメリカの自由に対する観念がどれほどでたらめかを知らなければなりません。歴史以来、最も困難な存在が自分です。したがって、自分自身に無慈悲になりなさいということです。分かりますか。そのような人にならなければ自由がありません。
(203-23 ~ 24、1990.6.10)

 

アメリカの国民が誇れる真の愛がありますか。アメリカ人の愛は、どのようなものですか。それはごみのような愛です。自由世界をすべて滅ぼしたのはアメリカの人です。そうではないですか。アメリカの人から自由という言葉を片付けてしまわなければなりません。自分一人がよいといって、享楽の中の享楽を求めていくのですが、自分の息子、娘が泣き、妻が泣き、自分の一家が泣いているのに、それが幸福の道ですか。自由を求める前に愛を求めなければなりません。自由を求めようとせずに真の愛を求めなければならないのです。真の愛を求めれば、自由はついてくるようになっています。愛が本当の自由
をもたらしてくれるのです。
(203-12 ~13、1990.6.10)

 

真の自由に対して論議してみれば、原則を離れた自由は真の自由ではなく、責任を逃れた自由は真の自由ではなく、実績を残さない自由は、真の自由ではありません。ですから、どのような自由行動であれ、原則を離れてはならず、責任をもたなければならず、その行動の実績がなければなりません。それでも、このような条件を具備できない立場で自由にしようとすれば、自然に天倫とは遠い距離に置かれるようになることを、皆さんは認識しなければなりません。
(4-318 ~ 319、1958.10.12)

 

③個人主義を離れ社会的連帯を要求する自由

― 宗教経典 ―

 

あなたは、この世で他の人の自由を保護することによってのみ、あなたの自由を保護できる。あなたはただ私が自由であるとき、自由でいることができる。
クラレンス・ダロウ(注19)85

 

人間の自然的な自由は、地上のいかなる優れた権力からも束縛されず、そして、人間の意志や法的権威の下にはなく、ただ自然法を自己規則としてもつことを意味する。社会で人間の自由とは、国家内に同意によって確立された法的権威の上に、何かの立法権の下にもないのであり、立法府が自らに付与された信託によって制定するもの以外の、いかなる意志の支配や法の拘束にも従属しないことを意味する。したがって自由というのは……人ごとに自分がしたいと思うことを行い、自分が好むとおりに生活し、
何かの法によって縛られない自由ではない。しかし、政府のもとで人間の自由は、その社会のすべての人に共通的で、その社会で確立された立法権によって制定された一定の規則に従って生きていくのである。
ジョン・ロック 統治二論 2、4.22
(ヒューマニズム)86

 

人が社会契約によって失うものは、自然的自由と、もとうとするすべてのものに対する無制限の権利である。彼が得るものは、市民の自由と所有したすべてのものの所有権である。
ジャン・ジャック・ルソー 社会契約について
(ヒューマニズム)87

 

彼らは人権の重要性をあまりに強調しすぎるように見えるが、実際にはそれを無惨に否定する。このような矛盾の根には、自由という概念がある。このとき「自由」は、絶対的に独立した個人を強調し、社会的結束と寛容、奉仕は念頭に置かない。時折、利他主義と同情心の名で接近することもある。しかし、このような文化は、結局個人の自由概念を完全に否定するものであり、結局は、「弱者に対する強者の自由」の概念に帰結するという事実を否定することはできない。これは、ちょうど主なる神がカインに、「お前の弟アベルは、どこにいるのか」と尋ねられたとき、カインが言った答えと同じだ。カインはこのように答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」(創世記 4.9)。そうだ、すべての人は、自分たちの「兄弟」を守る人である。なぜなら、神が私たちに互いを任せられたからであ
る。つけ加えて、神が私たちに関係性を含む自由を許諾されたという側面からもそうである。人に奉仕するとき、これは創造主が下さった最大の贈り物なのである。……しかし、個人的次元の自由ばかりを絶対視すれば、自由本来の内容は消え去って空になってしまい、その真の意味と権威が否定される。
事実、より深刻な側面がある。これ以上自由と真理の結合を認め尊重しないとき、そのような自由は結局、自分を否定し、破壊してしまい、他人までも破壊に導き得る。伝統と権威から抜け出そうとする欲望に起因する自由は、その上に最も普遍的で客観的で、個人と社会の根幹を成す真理の内容までも否定してしまう。そして結局、その人は善悪に対する真理を自分なりの観点で理解する。しかし、このような観点は、主観的で変わり易く、自己中心的な理解と気まぐれにすぎない。
間違った自由は、社会的関係にも深刻な歪曲をもたらす。絶対的自律という側面から「自分」を強調しすぎれば、結局は互いが互いを拒否するところまで至る。私以外の他の人はすべて敵になり、……社会はただ何の紐帯感もなく共存している個人の集合程度とみなされる。……そして、社会的関係を結ぶことは、完全相対主義の流れる砂の中に身を投じるのと同じことになる。協議できないものがなく、取引できないものもない。はなはだしくは、人間の根本権利の中で最高の生命権までも協議の対象になってしまった。
教皇ヨハネ・パウロ2 世 いのちの福音
(キリスト教)88

 

― み言選集 ―

 

ために生きて従う、そこではすべてのものが解放です。ために生きれば、自分も解放されますが、ために生きること自体が解放になります。相対が解放されるのです。それで、「ために生きなさい」と言うのです。
(323-73、2000.5.31)

 

皆さんが以前に「自由」と言っていましたが、自由とは何ですか。自由は自己主張することです。自己主張するにおいて最大の楯とは、自由です。10 人が自由を主張すれば、それぞれの性格が異なり、趣味が異なるため、10 人の境界線が生じることを知らなければなりません。この西欧社会は、自由のためにすべて滅んでしまっています。今日の自由世界が自由を主張するのですが、皆さん、自由という言葉を本当に恐ろしく思わなければなりません。自由とは何ですか。神様とこの世界の上に上がっていって「自由」と言うならば、それは誰もが願います。ところが、このように下で個人を中心とする自由が、どこにあるのかというのです。
(107-272 ~ 274、1980.6.1)

 

より次元の高い秩序を完全に維持するための主張から自由が出てきたのであって、秩序を破綻させ、体制を破綻させるために出てきたのではありません。今日の若者たちが、「私たちが1番だ! 食べて、踊って、ロックミュージックを楽しんで、ディスコダンスするのが1番だ」、このように言います。社会と国家と制度をすべて破綻させ、無視してしまい、秩序を破綻させるのが自由ですか。それは放縦であり、破壊的な悪魔の操作法であることを知らなければなりません。
(116-102 ~103、1981.12.27)

 

自由であれば自由であるほど、その世界は秩序と規約が守られなければなりません。精密な機械であればあるほど、縦横に原理原則によって秩序どおりに、法則的な起動に従って動くのです。このような法則に従うようになるとき、自由な活動の結果が出てくるようになります。これは、今日の科学文明と社会制度を中心として見るとき、否定できません。この社会の構造も自由な形態を必要としています。人間だけ自由を必要とし、社会制度は自由を必要としないのですか。社会制度も人間と相応するものなの
で、社会制度が組織と体系の既成の規制のもとで形成されていれば、人間はその体系化された制度に応じて、そこに備えられなければならず、それを主体的な立場で、かえって保障させてあげなければなりません。そのようにしなければならない人間だという立場から見れば、放縦な自由はあり得ません。
行くところには必ず道が設定されなければなりません。方向が必要です。今日、自由主義思想は無方向です。自分の好きなようにするのに、方向があるでしょうか。しかし、方向のない心がどこにありますか。そのような思考は、滅亡の思考です。
(49-190 ~193、1971.10.10)

 

彼らに最後に残るものとは何でしょうか。孤独が残るのです。それで、この孤独が極致に達する境地に入っていくようになるときには、あなたも信じられず、私も信じられない、不信の自らになるのです。そして、孤独と不信の自らになるとき、宇宙的な恐怖が支配するのであり、結局は自滅を招いてしまいます。今日の歴史は、このような趨勢で動いているのです。
ですから、私たちが自由を叫ぼうとすれば、過去に叫んでいた自由や、今日叫んでいる無責任な自由ではない、神様の愛の理念が同伴した真の自由を叫ばなければならず、理念的であると同時に、心情に通じ得る自由を叫ばなければなりません。
(4-319 ~ 320、1958.10.12)

 

6. 平等

すべての宗教経典は、貧しくても裕福でも、黒人でも白人でも、男性でも女性でも、東洋人でも西洋人でも関係なく、すべての人が平等だと宣言する。しかし、この高貴な理想は実際とは全く異なる。私たちの制限された文化的見解から、異質民族を差別し、偏見をもって相対する傾向がある。平等原則を宣言する民主社会でも、人種的、文化的差別はいまだに広まっている。
平等の基礎は何か。第1に、平等の基礎はアブラハム系統の宗教の信仰者はみな、創造主、神様から創造されたという点、アダムとエバを父母とみなすということである。第2に、すべての人を平等に扱うべきだという倫理的法的規定である。第3に、人種や階級に関係なく、すべての人は同じく、悟りと自我実現を成就できるということである。しかし、文鮮明先生の観点によれば、これらは真の平等を成すための十分条件ではない。文先生は、真の平等は神様の愛と利他的人生に基づいた実践が基礎にならなければならないとされ、思想、人種、文化を連結する最善の方策は、すべての偏見を愛の炎で燃やせる超人種的、超文化的な祝福結婚だと主張される。

 

①共通父母、共通人類、そして神的可能性による平等の土台

― 宗教経典 ―

 

我々は皆、唯一の父を持っているではないか。我々を創造されたのは唯一の神ではないか。
マラキ書 2.10(キリスト教)89

 

人びとよ、なんじらの主を畏れまつれ、かれはひとりからなんじらをつくり、また同類のその配偶をつくりたまい、かれら両人から、無数の男と女をふやし広めたもう方であられる。
クルアーン 4.1(イスラーム)90

 

人間たちの中にただ一人(アダム)だけが平和のために創造された。したがって、誰も「私たちの父があなたの父より偉大だ」と言うことはできない。
ミシュナ、サンヘドリン 4.5
(ユダヤ教)91

 

そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
ガラテヤの信徒への手紙 3.28(キリスト教)92

 

私は万物に対して平等である。私には憎むものも好きなものもない。
バガヴァッド・ギーター 9.29(ヒンドゥー教)93

 

高山にくらしているもたにそこに
くらしているもをなしたまひい(注 20)
おふでさき13.45(天理教)94

 

先生がいわれた、「教育〔による違い〕はあるが、〔生まれつきの〕類別はない。〔だれでも教育によって立派になる。〕」
論語15.39(儒教)95

 

実に、私に帰依すれば、生まれの悪い者でも、婦人でも、ヴァイシャ(生産業者)でも、シュードラ(従僕)でも、最高の帰趨に達する。
いわんや福徳あるバラモンたちや、王仙である信者たちはなおさらである。この無常で不幸な世に生まれたから、私のみを信愛せよ。
バガヴァッド・ギーター 9.32 ~ 33(ヒンドゥー教)96

 

われは、 (バラモン女の)胎から生れ(バラモンの)母から生れた人をバラモンと呼ぶのではない。かれは「〈きみよ〉といって呼びかける者」といわれる。かれは何か所有物の思いにとらわれている。無一物であって執著のない人、―かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。(注21)
法句経 396(仏教)97

 

五祖は言われた、「お前は嶺南の人間で、そのうえだ。どうして仏になることができようか。」そこで私は申し上げた、「人間には南と北の区別がございますが、仏性にはもともと南北の違いはございません。という身分は和尚と違いますが、仏性にはどんな差別がございましょうか。」
六祖壇経1(仏教)98

 

人間は互いに固有な体型と皮膚の色、歩き方、そして声をもっているが、また、もって生まれた長所と能力が互いに異なるが、結局、すべての人間が最初につくられた先祖から出てきた子孫だという事実には疑う余地がない。
アウグスティヌス 神の国15.8(キリスト教)99

 

― み言選集 ―

 

皆さんは、アメリカ人でも、イギリス人でも、ドイツ人でも、黒人でも、白人でも、黄色人でも、すべて一つです。完全に一つです。
(132-130、1984.5.27)

 

誰もが同等に神様の愛に同参できる、そのような道があることを願うのですが、そのような道とは神様を中心とする家庭を成し遂げることです。
(97-266、1978.3.19)

 

心情的な世界は、平等である。
御旨の道、心情

 

人は、優れていても、劣っていても、その母親が生んで、同じわかめスープと御飯を食べさせ、同じ愛を与えたのです。自分自身の個人の高貴な生命体を、父母の前に任せて育ってきたのは、みな同じなのです。父母の心情には、人を差別することなど、あるはずがありません。
(33-164、1970.8.11)

 

人は平均的なものを願います。同じものを、水平を願うのです。それでは、あらゆる人、あらゆる環境が異なるそのような人たちを同等にできるものとはいったい何でしょうか。愛です。愛らしい赤ん坊には何もありません。言葉も話すことができず、何の価値もないようですが、見ればかわいいのです。見ればキスしたくなり、このように手で触れたくなるのです。赤ん坊も喜びます。そこには高い、低いがありません。どこでも、すべて水平です。どこでも、平均化させ得る能力があるのです。
(254-208、1994.2.13)

 

西洋人が見て泣く場面を、東洋人は見て泣きませんか。西洋人が涙を流す場面は、東洋人が見ても涙を流すのです。韓国人が見て涙を流す場面は、怨讐である日本人が見ても涙を流すのです。情的な世界は統一されています。お母さん、お父さんが子供を愛するにおいて、韓国の父母は愛さないのに、日本の父母は愛しますか。そうではないでしょう? 統一されているというのです。
(41-331、1971.2.18)

 

②人種平等

― 宗教経典 ―

 

なんじらは見ないか、神は天から雨を降らせたもう。それでわれは、色とりどりのくだものを実らせる。また山々には、白や赤の縞があり、その他多くの色合いで、真っ黒いところもある。また人間も鳥獣家畜も、同色異色とりどりである。神のしもべのうち、知識のある者のみ、かれを畏れる。
クルアーン 35.27 ~ 28
(イスラーム)100

 

エジプトから青銅の品々が到来し /クシュは、神に向かって手を伸べる。
詩編 68.32(キリスト教)101

 

イスラエルの民たちよ、あなたたちが私にとって、エチオピアの民と何が違うのか。主の言葉であられる。イスラエルをエジプトから導きだしたのが私なら、パレスチナの民をカフトルから連れ出してきたのも私ではないか。(注22)
ミシュナ、アヴォート9.7(ユダヤ教)102

 

使徒がアブ・トゥルに、「アブ・トゥルよ、お前は彼らより公正な者であるのに、黒人や黄色人か、好感を得ることができていない」と言われた。
アルガマ・アルサガイル 3.2740(イスラーム)103

 

栄光の主であられる神は、アーリヤたちと賤民たち全員に属している。(注23)
リグ・ヴェーダ 8.51.9(ヒンドゥー教)104

 

小さなものでも、大きなものでも、四足獣にも、 (種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいているのである。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。
腹を足としていて背の長い匍うものにも(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。
次に、水の中に生まれ水に棲む魚どもにも、(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。
次に、翼を乗物として虚空を飛ぶ鳥どもにも、 (種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。
これらの生類には生れにもとづく特徴はいろいろと異っているが、人類にはそのように生れにもとづく特徴がいろいろと異っているということはない。
髪についても、頭についても、耳についても、眼についても、口についても、鼻についても、唇についても、眉についても、
首についても、肩についても、腹についても、背についても、臀についても、胸についても、陰所についても、交合についても、
手についても、足についても、指についても、爪についても、脛についても、腿についても、容色についても、音声についても、他の生類の中にあるような、生れにもとづく特徴(の区別)は(人類のうちには)決して存在しない。
身を禀けた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間のあいだではこの区別は存在しない。人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ。
スッタニパータ603 ~ 611(仏教)105

 

彼らは、一方では躊躇し、好奇心で、または同情心で私を見つめ、私に近づいてきた。そしてそのとき、「問題になることがどのように感じられるのですか」と直接的に言う代わりに、「私は、私たちの
村で卓越した有色人を知っています」、または「私はメカニックスヴィルで戦いました」、または「この南部人の無道さがあなたの血を煮えたぎらせるのではないですか」と言った。これに対して私は、さも必要なことのように笑顔をつくったり、関心を見せたり、煮えたぎるものを抑えたりした。本当の質問は「問題になることがどのように感じられるのですか」だ。私は一言も答えなかった。
しかし、特にこのような時期とヨーロッパでのことを除外しては、その他のいかなるものでもなかった人としてさえ、問題になることは異常な経験だ。言わば、啓示がある日突然現れたのは、飛び回っていた少年時代の初期だ。私は、その影が私をなでていったときのことをよく覚えている。……とても小さな木製の学校の建物で、あるものが少年たちと少女たちの頭の中で、一束 10 セントのきれいな訪問カードを買って交換することを提案した。その交換は、新しく来た背の高い少年が私のカードをちらっと見つめては、断固として拒絶するまで楽しんだ。そのとき私は、人とは違うことが突然はっきりとした。また、まるで心の生活で熱望したが、巨大な幕によって彼らの世界から排斥されたような感じだった。
ウィリアム・エドワード・バーグハード・デュボイス
(注 24)106

 

すべてのアメリカ人が、皮膚の色ではなく個人の個性で評価されるその日を夢見ています。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
(キリスト教)107

 

― み言選集 ―

 

真の愛の色は、何ですか。愛には色がありません。色を語る人は、真の愛をもてません。色を目で見る人は、真の愛がない人です。
(161-22、1987.1.1)

 

神様の目には、黒い色、黄色い色、白い色の区別がありません。神様の目は、愛の色盲の目です。外的なカラーを御覧になりません。心情のカラーが、より華々しく強いカラーになるのです。
(258-122、1994.3.17)

 

神様が理想とする芸術作品は何ですか。人を中心として見るとき、黒白が闘って傑作品になれますか。白人たちは、白いペイントだけで絵を描いてみてください。絵ができるか描いてみてください。できません。なぜできないのですか。絵を描くときは、黒い色も必要で、中間の色もすべて必要です。絵を描くときは、背景が必ず必要なのです。ところが、その背景を白くする人の絵を見たことがありますか。では、何がなければならないのですか。いろいろな色がなければなりません。様々な色がなければならないのです。そうしてこそ、それが傑作品です。一体が展開するためには、そのようなものがすべて調和していなければなりません。和合しなければならないのです。
(96-220、1978.1.22)

 

ムーニーは、双子を生むとき、一人は黒人を生み、一人は黄色人を生めばよいと思います。白人の女性がそのようになれば、どれほど素晴らしいですか。三つの人種が一つになり、それがどれほど素晴らしいかというのです。神様が見るとき、「この狂った女性は! そのようにするものではない」、このよ
うに言われますか。白人の女性が黒人と黄色人を生んでお乳を与えるのを見るとき、神様が「あれは滅んでしまえ」と言うでしょうか、「いやあ! 素晴らしい。感謝だ。アーメン!」と言いますか。皆さんは、黄色い花に黄色いちょうばかりが来ればおもしろくないのです。白いちょうも来て、黒いちょうも来て、黄色いちょうも飛んできてこそ、それが素晴らしいのです。
(130-102 ~103、1984.1.1)

 

イエス様が十字架を背負っていくとき、助けてくれた人が黒人です。クレネ人のシモンは黒人です。終末が来れば、黒人が登場するのです。
(91-219、1977.2.20)

 

私たちが黒人の手を握るときには、歴史的に涙が交錯したその手を白人が握ることで、事情を分かち合える高次的な関係が実を結んだことを知らなければなりません。その次には、天と地が分かれて手をつなげなかったものが、再び手をつなぐのです。
白いものが天を象徴するとすれば、黒いものは地を象徴します。黒白が手をつなぐことは、地と天が手をつなぐことだと考えます。雪が積もった高い山が白人であれば、最も下の枯れ葉の積もった谷は黒人です。この二つが手をつなぐことは、その高い名山の価値を表す形を形成していることを知らなければなりません。白人を象徴する山頂が、「私には、あの深い谷は必要ない!」、また谷が「あの山頂は、必要ない!」と言えば、それは名山になれないのです。「私は、白人は必要ない!」、「私は、黒人は必要ない!」、それも同じことです。
(95-140、1977.11.6)

 

皮膚の色が違うのは、住んでいる地域の保護色に合わせるためであり、気候と環境の影響によるものなのです。ですから、雪が多い地域には白人がたくさんいます。反対に太陽の光が強いアフリカのような所には、黒人がたくさんいるのです。しかし、人間は根本的に同じです。例えば、血の色や肉と骨の形はすべて同じです。そして、お互いに愛することも同じです。ですから、人種の差別はあり得ません。
それで、自然の順理と原則を尊重するので、五色人種が結婚するようになったのです。黒人と白人が結婚することは、北極と南極が一つになることと同じです。また黄色人と黒人が結婚すれば、お互いの良い点を伝授してより良い子孫が生まれると思うのです。
愛がある所には葛藤がありません。たとえ皆様の生まれた故郷と祖国が違ったとしても、一つ間違いないことは、信仰の本郷であり、平和と統一の本郷地とは、真の愛を中心とした祖国と故郷だということなのです。
(315-212、2000.2.2)

 

この宇宙は、自然なバランスをとっていくようになっています。見てください。この唇も、神様がどれほど絶妙につくりましたか。皆さん白人は、顔が白いので青い目をしています。真っ黒な目より、青い目がどれほど魅力的ですか。青い目は、横の白目がぼんやりと見えます。瞳ははっきりと真っ青で刺激的なので、白目が刺激的ではいけません。しかし、黒人や黄色人を見ると、何が刺激的かというと白目が刺激的だというのです。黒い瞳だからです。黒人の目は何が魅力的かというと、白目が魅力的です。青い瞳だと白目がぼんやりするのです。そして、笑うとき、この歯がどれほど刺激的かというのです。1度笑ってみてください。黒人の人たち、笑ってみてください。そして、舌が真っ赤でしょう? どれほど刺激的ですか。そして、黒人たちは、いくら歯を出して笑っても、舌を出す資格がありません。見てください。これがどれほど魅力的ですか。ですから、黒人たちはできるだけ歯が見えなければなりません。黒人たちはなぜ唇が厚いのでしょうか。自然に歯が見えるように厚くなければならないのです。それは本当です。すべて魅力があります。そのように見るとき、神様は素晴らしい方です。これからは、白人たちが黒人を好む時が来ると思うのです。なぜそう思うのかというと、白人の女性たちは刺激的なもの、多様な刺激を好むからです。
今まで人間世界では、この本然の状態を破壊し、本然の状態を無視する者たちが多かったのです。黒人たちを見ると汚れているようですが、汚れざるを得ません。この谷間にすべて押し込んで腐るので、においがします。それは悪いことではありません。そうしてこそ肥料になって、生命が繁殖できるのです。人類世界で黒人がすべて血と汗を流し、白人社会の文化を創造するときの肥料になりました。それを知らなければなりません。アメリカの文化を誰がつくったのかというと、黒人たちがつくったことを知らなければなりません。
それで、ここは生命力があり、愛が宿ることができるのです。それで黒人たちは強いのです。また、100 パーセント信じます。誰でもよく信じてくれます。なぜですか。これは谷なので、何でもすべて積み重なるのです。白人は何かというと、高い山頂と同じです。ここは何もつきません。薄情です。ですから、白人は信じられません。冷淡だというのです。白人たちは、馬が脚を折ると銃で殺してしまうのです。それは良くありません。それは自然主義、本然の形態ではないのです。本然の人は、そのようにしません。黒人もそのようにしないというのです。白人は、愛においても、決闘して決めます。命を保護するところに理想的な愛があるのであって、命を懸けて決闘するところに理想的な愛はありません。
このようなあらゆることが分かるとき、ここに文化のあらゆる旗印や現在のあらゆることも、この本然の状態を知ることによって理解し、是正できる原則を見いだせるのです。
(107-308 ~ 309、1980.6.8)

 

③天の国には人種や階級の差別がない

― 宗教経典 ―

 

何事も同じで / 同じひとつのことが善人にも悪人にも良い人にも / 清い人にも不浄な人にも / いけにえをささげる人にもささげない人にも臨む。良い人に起こることが罪を犯す人にも起こり / 誓いを立てる人に起こることが /誓いを恐れる人にも起こる。
太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じひとつのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ。
コヘレトの言葉 9.2 ~ 3(キリスト教)108

 

すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません。
ローマの信徒への手紙 2.9 ~11
(キリスト教)109

 

すべての人類が聖なる光の宝庫であることを知らなければならない。
彼らの階級を問うてはならない。
これ以降、階級は消えていくのである。
アーディ・グラント、アーサー、M.1、p.349
(シク教)110

 

人間として私たちは死の前にすべて平等である。
プブリウス・シルス(注 25)
(ヘレニズム)111

 

― み言選集 ―

 

霊界に行けば色がありません。あまりに明るくて銀色のように見えるのです。銀色に見えても、あまりに燦々と輝いているので、紫色に見えるのです。
(293-224、1998.5.26)

 

もし霊界に白人と黒人が行って、白人が天国に入っていく時、黒人の番人を立て、黒人が天国へ入っていくとき、白人の番人を立てたとすれば、どうするでしょうか。後ろに戻りますか。では、どうしますか。その番人が「行くことはできない」と叱責してたたけば、「私を殺してください。昔は分からなかった」と言いながら、ただ取りすがって「助けてください!」と、このように頼みますか、逃げますか。
(116-110、1981.12.27)

 

④平等基準による人生

― 宗教経典 ―

 

家畜を打ち殺す者は、それを償うことができるが、人を打ち殺す者は死刑に処せられる。
あなたたちに対する刑罰は寄留する者にも土地に生まれた者にも同様に適用される。わたしはあなたたちの神、主である。モーセがイスラエルの人々に告げ終えると、彼らは神を冒瀆した男を宿営の外に連れ出して石で打ち殺した。イスラエルの人々は主がモーセに命じられたとおりに行った。
レビ記 24.21~ 23
(キリスト教)112

 

寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。
レビ記19.33 ~ 34(キリスト教)113

 

ある王子が、牧童が寝ているときに顔を叩いた。牧童がこれに対して、ウマール・ビン・アル・カッティブに訴えると、彼は、同じやり方で王子にやり返さなければならなかったという判決を下してくれた。王子が、「私は王子であり、彼はただの平民なのだから、どうして彼が私をたたくことができよ
うか」と言った。ウマールは、 「イスラームでは、あなたたちは同等な立場にいる」と答えた。
ムハマド・アーマド・アル・マウラ(注 26)
アラブの話126.2(イスラーム)114

 

もし私の聖なる教団で授戒したバラモン、クシャトリアなど、依然としてカースト制度に同意し、そこで意気揚揚としていれば、彼らはまるで生まれ変わることのできなかった存在のように行動するのである。
ストーラクリタンカ1.13.10 ~11
(ジャイナ教)115

 

白人が黒人に、アラブ人が非アラブ人に、富者が貧しい者に、強者が弱者に、男性が女性に優越感をもつのは、不適切で過ったことである。
イブン・マージャ・ハディース
(イスラーム)116

 

奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。
彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。
エフェソの信徒への手紙 6.5 ~ 9
(キリスト教)117

 

慈悲深い人は、僕が主人と平等でなければならないと主張する。あなたは白いパンを食べ、僕に黒いパンを食べさせてはいけない。あなたは古いぶどう酒を飲み、僕には今仕込んだぶどう酒を飲ませてはいけない。あなたは毛皮で覆われた寝台で眠りながら、僕にはくずの寝台で寝かせてはいけない。ゆえに、次のような言葉がある。「ヘブライの僕を得ることは主人を得ることと同じだ」。
タルムード、キッドゥシーン 20a(ユダヤ教)118

 

あなたがあなたの奴隷だと呼ぶその人も、同じ人間として生まれたのであり、同じ良き天のもとにいて、あなたが息をするように息をして、あなたが生きるように生き、あなたが死ぬように死ぬのだ! あなたは彼を自由人と呼ぶかもしれず、彼はあなたを奴隷と呼ぶかもしれない。可能性は同じなのだから。
セネカ 道徳書簡 47(ヘレニズム)119

 

わずか 80 年前に私たちは、「すべての人は平等に創造された」と宣言することによって出発しました。ところが今、その出発点から私たちは、ある人が他の人を奴隷にすることが「自治の神聖な権利」という異なる宣言を下しています。これらの原理は共存することができません。それらは神と、貪欲の神のように相反するものです。どちらか一方を固守する人は、誰でももう一方を嫌悪しなければなりません。
エイブラハム・リンカーン(注 27)120

 

― み言選集 ―

 

人事処置を間違えて、人権を蹂躙するなというのです。男性であれ女性であれ、黒人であれ白人であれ、平等です。人権を差別して、人権を蹂躙してはいけません。
(342-298、2001.1.13)

 

愛の世界は、上下を区別しない。
御旨の道、天国

 

南米に対して先生が関心をもつのは、食糧問題のためです。人類の 1500万人から 2000 万人が1年に死んでいきます。一日に6万人が死んでいくというのです。さらには、5歳以下が35パーセント死んでいきます。誰がこれに責任をもつのですか。先進国が責任をもたないので、真まことの父母だという人がこれを考えなければ、あの国に行って問題になります。
それで先生は、そのためにこれから伝統をつくらなければなりません。先生の日常生活は、その人たちを救うための節約の生活です。数十年前からその準備をしてきました。先生は普通、ネクタイを締めずに歩きます。これからネクタイ返納です。家に帰れば裸足で過ごします。靴下代を受け取らなけ
ればなりません。今からそのようにしなければなりません。
タオルも大きなものは使いません。この四角いもの、あるいは七分ぐらいのものを使います。今まで数十年間そのように使ってきたので、私がワイキキ・ホテルに行くと、色とりどりのタオルが数十枚ありますが、一つも使いません。これが公式になりました。「先生はタオルも使うことを知らない」と思うかもしれませんが、違います。伝統とは一度にはできないのです。
(273-53、1995.10.21)

 

愛を中心として、ために生きてあげるときだけが平等です。
(107-152、1980.4.20)

 

人種差別や宗教的葛藤、そして国粋主義は、人権蹂躙に対する原因を提供するようになります。力で支配する時代は終わりました。そのような時代は、既に過ぎていったのです。21 世紀は、共に生きていく超人種、超国家、超宗教の時代です。真の愛が支配する時代が開かれたということです。
(369-221、2002.2.15)

 

今まで平等圏がなかったので、その平等圏をつくる作戦とは何かというと、他のために犠牲となり、福を祈ってあげ、打たれていきながらその打った者たちを屈服させ、同じ福を与えることによって、ここには完全平等圏の役事が起きるのです。
(56-335、1972.5.18)

 

歴史的上層と下層の人を一体化させるために、上層の人たちは下層に同化させ、下層の人たちは上層に引き上げなければなりません。そのようにしようとすれば、絶対的価値の中心点が必要です。それが神様の愛なのです。
神様の愛とは何でしょうか。それは、最上級の人たちにも同じようにでき、また最下級の人たちにも同じようにできます。神様の愛は、決して一方向的なものではありません。神様の愛は、球形に回転作用をする力です。最上から最下に至るまで、自由に移動できます。それがどこに現れても、すべてのところで全体から歓迎されます。
神様の愛は、いつ、どこででも絶対的な価値をもっています。私たちが神様の愛と共にいれば幸福であり、あらゆるものが満たされ、保障されます。最下のところにいても最上の人を愛することができ、最上の立場にいても、最下の立場にいる人を愛することができるのです。このように、この上なく自由です。このような神様の愛の中にいる人は、世界のどこに行っても大歓迎を受けるでしょう。
(115-172 ~173、1981.11.10)

 

自分が白人だからといって、「ああ、私は、白人だけが好きだ。白人のおじいさん、おばあさんを愛するので、黒人のおじいさん、おばあさん、アジア人のおじいさん、おばあさんは愛せない。身なりの良い立派なおじいさん、おばあさんを愛するのであって、あの未開のおじいさん、おばあさんは愛せない」と考えてはいけません。そのおじいさん、おばあさんを自分のおじいさん、おばあさんのように愛さなければならないのです。自分の家でおじいさん、おばあさんを愛するように愛さなければなりません。それが公式です。
(130-274、1984.2.5)

 

黒人であれ白人であれ、平等です。人権を差別して人権を蹂躙してはいけません。先生は、黒人だ何だと差別したり、大学を出たとか、そのようなことですべてを決めるのではありません。人権を正しく指導する真の愛をもって、「ために生きる」愛をもって暮らす人が主流です。天地創造は、そこから始ま
りました。その主流思想をすべて流してしまうのは許せません。弟の体が不自由だからといって、弟を無視することはできません。親戚を無視することはできません。世の中は、すべて無視するでしょう? 知識があって何々大学を出たという人は、高卒の人でも無視してしまうのです。これは、人権蹂躙になるのです。
(342-298、2001.1.13)

 

先日、ある中国料理店に行ったのですが、ネクタイをしていないから出ていきなさいと言うので、引き返してきました。出てくるときに、後ろ指を指されました。私はアメリカの食口を 20人くらい連れていったのですが、ネクタイを出してつけてくださいと言うのです。それで私は気分が悪くて出てきてしまいました。ネクタイの締め方が分からなくてそのようにしたのではありません。出てくるときにひそひそ話しているのです。20 人くらいを連れ回り、すごい車を乗り回している人が、そのようにネクタイもしないで歩き回るとは夢にも思わなかったのでしょう。その人たちは商売を誤りました。私たちのような人が宣伝すれば、たくさん売ることができていたでしょう。次からはそこに行きません。ネクタイ一つで人をそのように扱ってはいけません。私は二度と行きませんでした。レバレンド・ムーンもそうなので、黒人たちが入っていけば足で蹴飛ばされるのではないか、そのように思ったのです。
(93-67 ~ 68、1977.5.1)

 

民主主義の根本的な伝統は自由だとか平等だとか言いますが、そのようなものではありません。そのあらゆる伝統には愛がならなければなりません。平等というものを見てみるとき、女性と男性は平等になることができますか。愛する男性と女性がいるのですが、その男性と女性が平等ではないそのような素性をもった男性と女性なので、願う平等の世界、自由の世界、あらゆる民主主義の世界というものは平等になり得ないのです。それでは、何をもって平等になりますか。愛を抜かしてはなれません。アメリカというこの民主主義の世界の中に愛の概念がありますか。自由という概念の中に愛の概念がありますか。平等という概念の中に愛の概念がありますか。ありません。ここに真の愛をもってくれば、すべてできます。男性と女性も平等になれ、その次に、その愛を中心として自由になれます。その愛を中心として民主主義が形成されるのです。
(230-87 ~ 88、1992.4.26)

 

今後、五色人種が一つになります。愛というものは一つなので、東西南北の方向と階層が違うからといって、その軸が異なるものではありません。同じなので、真心のこもった愛の心に咲く花は、ほかのいかなる種類の花でもなく、神様の愛の種類の花です。したがって、南極に行って咲いても、北極に行って咲いても、東極に行って咲いても、西極に行って咲いても同じだというのです。分かりますか。このような観点から、今日、超民族的な結婚観が可能なのです。
(101-74 ~ 75、1978.10.28)

 

7. 女性の権利

先の世紀に始まった女性の権利と男女平等のための運動は、人間の進歩のための主要なエネルギーである。しかし、豊富な女性主義的思考と傾向の中で経典は、私たちに何が最上で最も持続的なものなのかを区別するように教える。この節は特別に女性の社会的権利を扱う。より根本的な男女関係は結婚である。結婚において性の役割と男女平等の問題が格別な関心の中で扱われる。 (第19 章6.「結婚生活の倫理」参照)
女性への持続的な虐待に対抗し、経典は、神様の前で男女の本質的平等と尊厳性を確認する。経典はまた、教育と最上の信仰目標の追求において女性の権利を明確に語っている。女性は悟りに適していないという悪魔のささやきを克服する女僧の決意を称賛する、仏陀の章句が際立っている。
一方経典は、女性的尊厳性の根拠として、子女を生む伝統的女性の役割を激励する。その上、女性の従属性を、堕落と人類始祖の女性が犯した罪の結果だとして証拠を提示する経典がある。文鮮明先生は、女性の従属性に関して、少なくとも部分的には、男性を堕落させた「天使長」が原因であるとする独特の批判を加えている。
男性と女性が身長と肉体的能力において、明確に異なることは否認できない。仏教の経典は、心が唯一の実在という観点から、そのような外形的な差が何かの意味をもつという考えはこっけいと見る。創造された世界を実在と確信する文鮮明先生にとって、それは無意味なことである。むしろ先生は、愛が男女平等の基礎と教える。先生は、出産を女性に対する神様の特別な贈り物とみなし、その伝統的価値を支持する。しかし、先生は同時に、社会で指導者の位置を熱望する女性を称賛する。そして、女性の追従者たちが伝統的な男性の役割を担当するように激励する。このような観点から、先生の考えは、アメリカの先駆的女性主義者としてここに引用されたスーザン・アンソニーの夢と共鳴する。

 

①男女平等の土台

― 宗教経典 ―

 

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
創世記1.27(キリスト教)121

 

主はかれらの祈りを聞き入れたまい、仰せられた、まことにわしは、男でも女でも、なんじらのたれの働いた働きもむなしゅうしないであろう。なんじらは互いに同士である。
クルアーン 3.195(イスラーム)122

 

女たちが敬われるときは神々は満足する。しかし敬われないときはいっさいの祭儀は果報をもたらさない。女の親族が悲しむときはその家はたちまちに滅ぶ。しかし彼女たちが悲しまないときはその家は常に栄える。
マヌ法典 3.56~57(ヒンドゥー教)123

 

私の愛する姉妹、女性たちよ! あなたたちはこの世で苦難の人生を生きてきた。しかし、あなたたちがいなければ、この世は現在のようにはなっていなかっただろう。ワカン・タンカは、あなたたちが多くの悲しみを耐え忍び、悲嘆の中にいる人たちを慰労することを願う。 (注 28)あなたたちの手によって家庭は維持される。
神聖なパイプに関するスー族の伝承
(アメリカ先住民の宗教)124

 

ソーマー尼は、……托鉢したのち、食後に、食事から還ってきて、昼間の休息のために、うす暗い密林に入った。うす暗い密林をかきわけて入って、昼間の休息のために、ある樹木の根もとに坐した。そのとき悪魔・悪しき者は、ソーマー尼に、身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、瞑想から離れ去らせようとして、ソーマー尼に近づいた。近づいてから、ソーマー尼に向かって、詩を以て語りかけた。―「達成しがたくて、仙人たちのみが体得し得る境地は、二本の指ほどの〔僅かな〕智慧しかない女人がそれを体得することはできない」と。そこでソーマー尼はこのように考えた。―「詩をとなえ
ているこの者は、誰なのだろう? 人間なのであろうか? あるいは人間ならざる者なのであろうか?」と。つづいてソーマー尼は、このように思った。―「これは、悪魔・悪しき者が、わたしに、身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、瞑想をやめさせようとして、詩をとなえているのだ」と。そこで、ソーマー尼は、「これは悪魔・悪しき者である」と知って、悪魔・悪しき者に詩を以て語りかけた。―「心がよく安定し、智慧が現に生じているとき、正しく真理を観察する者にとって、女人であることが、どうして妨げとなるでしょうか。『われは女であろうか?』 『われは男であろうか?』また『われは何ものなのだろうか?』と、このように迷っている人こそ、悪魔が呼びかけるのにふさわしいのです。」そこで悪魔・悪しき者は、「ソーマー尼はわたしのことを知っているのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。
阿含経相応部 i.128、尼僧に関する集成(仏教)125

 

汝は女子なり。汝は男子なり。汝は童子なり。はたまた童女なり。汝は老人にして、杖に仗よってよろめき歩む。汝は生まるるや一切処に現わる。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド 4.3
(ヒンドゥー教)126

 

シャーリプトラが言った。「あなたはどうして女身を転じて男の身とならないのですか?」
天女は言った、「わたくしは十二年このかた、女人の性を求めて来ましたが、ついに不可得でありました。いったいどうして女身を転ずる要がありましょうか? 譬えば幻術師が幻の女をつくり出したようなものです。もしもひとが幻の女に『あなたはどうして女身を転じて男の身とならないのですか?』と問うたならば、この人は正しい問を発したと言えるでしょうか?」
シャーリプトラは答えた、「それは正しい問ではありません。幻には一定の特性はありません。どうしてそれを転ずる要がありましょうか?」
天女は言った、「一切のことがらもまたそのとおりです。一定の特性はありません。〈女身を転じて男の身とならないのはなぜか?〉とどうして理由を問う要がありましょうか?」と。
天女は即時に神通力をもってシャーリプトラを変じて天女の如くならしめた。また天女は自ら身をかえてシャーリプトラの如くならしめた。そうしてシャーリプトラに問うて言った、「どうして女身を転じて男の身とならないのですか?」
シャーリプトラは天女のすがたをしながら答えて言った、「わたくしは女人の身となってしまいましたが、どうしてこのようなことになったのか解らないのです。」
天女が言った、 「シャーリプトラさま。もしもあなたが御自分の〈女人の身〉を転ずることができるなら、一切の女人もまた女身を転ずることができるでしょう。あなたが実は女ではないのに女人を現わされたように、一切の女人もまたそれと同じです。かれらは女身を現わしているけれども、実は女ではないのです。だからこそ、仏は、一切のものは男に非ず、女に非ず、と説きたもうたのです。」(注 29)
維摩経 7(仏教)127

 

― み言選集 ―

 

アメリカでも、いまだに女性の権利よりも男性が優勢で、女性たちが女権復帰運動、女権伸張運動を通して男女平等を主張しています。それで、アメリカの女性たちは少し違いますが、全世界の女性たちが、女性として生まれたことに恨を抱いて生きてきたという事実は歴史的に否定できません。アメリカで女性たちがいくら「社会がきちんと保障してほしい」と言っても、女性二人で男性一人に勝てますか、勝てませんか。このような点から、男性に生まれていれば良かったと思わない女性がいないというのです。
ですから、歴史的に世の中の人の中でかわいそうなのは、男性より女性です。歴史を通して見てみれば、今まで女性が男性を強奪しましたか、男性が女性を強奪しましたか。男性が女性を強奪しました。何パーセントくらいになると思いますか。90 パーセント以上でしょう。そのような意味で女性が、男性に対する敵愾心とともに、いつも女性の権利を心の中から追求してきたことは、否定できない事実です。神様がいるならば、そのようなことを解決してこれをすべて平等にして、これに反対して迫害する男性たちを屈服させることをせずに、なぜ今までそのままほうっておいたのでしょうか。これが
問題です。
(243-268、1993.1.28)

 

平等権をどのようにして主張するのでしょうか。力で、外的に、そうでなければ情的にですか。愛です。愛をもてば、男性と対等になることができ、愛をもてば、いくら息子が大統領だとしても、その息子と母親は対等になれるのです。愛をもったところには、すべてのものが平等になれる内容があるという事実を知らなければなりません。そのような意味で、愛を中心に平和の家庭を願う男性と女性に、平等となる中心の核があるという事実を私たちは知らなければなりません。
夫は、妻の懐に帰ることを願うのであり、妻は、夫が懐に帰ってきて一つになることを願うのです。ここには、低いものもなく、高いものもありません。それこそ、平等を体験するのです。他のところに平等がありますか。どこか他のところに平等があるか調べてみなさいというのです。男女の平等権は、平和な家庭においてのみ形成されるということを知らなければなりません。
(129-51~ 52、1983.10.1)

 

平等というものは、「私たち」がいなければできません。「私」を中心としてはできないのです。「私たち」でなければなりません。それを知らなければなりません。「私たち」を中心とする平等であり、愛を中心とする平等です。それを知らなければなりません。個人を中心とする平等ではありません。女権主義者も間違いであり、男権主義者も間違いだということです。人間主義者、人権主義者が正しいです。これをはっきりと知らなければなりません。「私たち」と、愛を中心とする平等という言葉になるのであって、女性だけでは駄目です。女権運動ではなく、男権運動でもありません。はっきりと知らなければなりません。
それでは、男性は誰のために生きなければなりませんか。女性は誰のために生きなければなりませんか。女性は男性のために生きなければならず、男性は女性のために生きるのです。これが人間はなぜ生きるのか、この地でどのように生きなければならないのかのすべての答えになり、哲学的なあらゆる質問に対する答えになるという結論です。
(131-109、1984.4.22)

 

人間が生きていきながら神様に会うことを願うように、神様も真の人間に会いたいと思われます。ところが、人間の中でも、男性か女性のどちらか一方に先に会いたいと言われれば、恐らく互いに不平を言うでしょう。
したがって、神様は愛を前に立てざるを得なかったのです。愛さえ立てておけば、男性と女性が一緒に会うことができ、一緒に触れることができ、一緒に分かち合うことができるからです。
世の中で最も貴いものがあるとすれば、男性と女性が互いに先にもとうと争うのです。それが愛であることを知れば、二人とも一つになり、互いにために生きて、それをもとうとするのです。
(300-213、1999.3.14)

 

②男性支配の原因としての人間堕落

― 宗教経典 ―

 

アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は / あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で /呪われるものとなった。お前は、生涯這はいまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に / わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き /
お前は彼のかかとを砕く。」神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め / 彼はお前を支配する。」(注 30)
創世記 3.12 ~16(キリスト教)128

 

すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。(注 32)
コリントの信徒への手紙一11.3~11(キリスト教)129

 

私が天国をのぞいてみると、そこの居住者の多くが貧しい者であるのを見た。そして、 (地獄の)火をのぞいてみると、そこの居住者の多くが女性だった。
ブハーリー・ハディース8.76.554(イスラーム)130

 

女性に敬意を示せ、女性は夫の僕ではない。女性は、支配ではなく指導を受けることのできる存在であることを見せてあげよ。女性は、小言を言わなければならない結婚不適格者ではない。夫は、夫人を操
そう舵手のように扱え。人生の伴侶として尊重し、栄光を共に相続した人として接し、共有せよ。……
女性の誘惑が最も深刻な誘惑だ。アダムもエバの誘いに引かれ、聖なる戒めに背いた。彼が過ちを悟り、罪を犯したことを知ったとき、アダムは隠れたいと思ったが、できなかった。そして、神がこのように尋ねられた。「アダムよ、どこにいるのか。……お前は女性一人によって、お前の主なる神を離れようとした。お前はあれほど会いたいと思っていたその方を捨てたのである。女性一人によってお前を隠そうとし、世の鏡と天国の居場所とキリストの栄光を放棄したのだ」(注 31)。ここでイザベルがどれほど残酷にエリヤを迫害し、ヘロデがどのように洗礼ヨハネを死に追いやったのか、付加する説明がこれ以上必要だろうか。
ミラノのアンブロシウス 書信 59.60(キリスト教)131

 

― み言選集 ―

 

今までは女性の貞節を強調しました。エデンの園で誰が貞節を失ってしまったのですか。女性が失ってしまったのですか、男性が失ってしまったのですか。女性です。男性も失ってしまいました。エデンの中心である男性も失ってしまったのです。アダムがエバに誘惑されていき、結局は、本来の根である男性まで切れてしまったのです。女性のエバが男性のアダムを堕落させたのです。それを蕩減するために今まで女性が男性に蹂躙されました。女性たちが男性たちに蹂躙されたのはそのためです。それで先生が女性を解放させるために、男女平等運動と女性解放運動をするのです。それは、世界のどの人よりも、後世の人たちのためにしなければなりません。
(6-334 ~ 335、1969.10.3)

 

女性たちが来たので、一言言わなければなりません。女性というのは、妖しげですか、妖しげではないですか。女性は今まで罰を受けましたか、福を受けましたか。妖しげなので罰を受けたのです。今までなぜ女性が苦労したのかというと、夫が自分の夫ではないので苦労したのです。分かりますか。男性たちは天使長型です。本来男性は、妻を迎えるようにはなっていません。ですから、レベルの高い宗教ほど独身生活を強調するのです。男性は天使長型なのですが、本来の天使長はそのときに相対を許諾されていませんでした。それにもかかわらず、非原理的に愛したのです。ですから、女性にはその人が夫ではありません。
(39-214、1971.1.10)

 

神様の心情にエバが釘を打ち付けたので、男性たちが、天使長がエバの心情に釘をたくさん打ったのです。
(302-232、1999.6.14)

 

エバは、未来の神様の王女です。王女であると同時に将来の神様の相対でした。エバを育てて何をしようとしたのかというと、愛の相対にしようとしたのです。神様の夫人になるというのです。なぜそうなのかというと、愛を分かち合うためには体が必要です。被造世界の相対が必要なのです。体が必要だったのです。あの国に行ってみれば、神様は無形です。空中で太陽のような光が 24 時間いつも浮かんでいます。空中から無形の神様がすべて管理するのです。
その無形の神様が、実体をもった人間の愛の対象ではむなしいのです。ですからアダムとエバは、無形の神様の愛の理想の絶対作品です。パートナー
として体をもったアダムとエバを造ったのです。神様は誰の姿かと言えば、アダムとエバの姿です。一つは内的な父であり、一つは外的な父なのです。一つは内的な父母であり、一つは外的な父母だというのです。
(199-361~ 362、1990.2.21)

 

③男女平等の追求

― 宗教経典 ―

 

学びはすべて、信仰する者、男性と女性に付加された義務である。
イブン・マージャのスナン 224(イスラーム)132

 

いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、 (注 34)また、すべてのものが神から出ているからです。
コリントの信徒への手紙一11.11~12(キリスト教)133

 

女性たちは、同等な労働に対して報酬を受けなければならず、彼女たちは、長官と監督者、教授と大統領の任務において同等の資格があるとみなされなければなりません。ですから、あなたたちは、性ではなく、能力が地位と給料を決定すべきだと主張しなければなりません。
スーザン・アンソニー134

 

夫と妻も平等である。違いは尊重するが、その違いが主導権を握るために利用されてはならない。社会との協力の中で、教会は女性の人権を確認し擁護しなければならない。
教皇ヨハネ・パウロ2 世(注 33)(キリスト教)135

 

平和をつくりあげるにおいて、女性は自然と重要な役割を果たします。ほぼ私たち全員は、平和な生に関する最初の教えを母から受けます。なぜなら、愛に関する、私たちの愛に関する要求は、人間存在の土台そのものだからです。私たちの成長でごく早い時期から、私たちは全的に母の世話に依存し、母が自らの愛を表現することはとても重要です。……もし子供が適切な愛を受けることができなければ、あとで彼らは人を愛することが難しいことを知るようになるでしょう。このように、母の愛は平和をつくることに大きく寄与します。
テンジン・ギャツォ、第14 代ダライ・ラマ(仏教)136

 

男性が女性を暖炉の家だけでなく、国家の議会で彼の同僚として認める日が来るだろう。そうなれば、そのときまでは違うが、人類を最高の進歩へ導く両性間の完璧な同僚関係、すなわち理想的な結合があるでしょう。
スーザン・アンソニー137

 

― み言選集 ―

 

男性は女性の先生であり、女性は男性の先生です。互いに学ぶのです。
(247-174、1993.5.2)

 

女性は、男性がすることをして、男性は、女性がすることをしなさいということです。そうすれば通じます。そのようになれば、すぐに何でもできます。(注 35)
(116-183、1982.1.1)

 

女性の船長たちが多くなれば、そのときに反対していた者たちは、「ああ……」。そのような時が来るでしょう。間違いなく来るというのです。間違いなく女性の船長たちをたくさんつくっておきます。そして、優秀な若者たち、ハーバード大学や何とか大学を出た若者たちを僕としてこき使わなければなりません。それを願いますか、願いませんか。願いますか。どうして女性たちの声が「イエス」なのですか。 (イエス!)。そうです。おお、イエス! 度胸を学ばなければなりません。
最も良い方法は、台風が来ていても、押し進めて船員たちに号令し、拳も使う、そのようにできる訓練をしてこそ、偉大な女船長になるのです。また、船で子供におっぱいをあげながら、 「おい、この男たち! こうしなさい、ああしなさい」と言うとき、「はい、はい」と言えば、どれほど気分が良いか考えてみてください。
(95-97 ~ 98、1977.11.1)

 

何が平等ですか。御飯を食べることが平等ですか。男性は二人分の御飯を食べ、パンを四つ食べるのに、女性は御飯1杯、パンは一つしか食べられません。仕事をするにおいても、女性は「えんえん」言いながらついていきますが、男性は「がんがん」やります。それが平等圏ですか。相撲をしても、レスリングをしても、平等ですか。女性と男性がレスリングをするのを見ましたか。絶対に平等になりません。しかし、愛においては平等です。そういうものです。では、それ以上に願うものがありますか。
神様が女性を愛され、男性は一生の間苦労し、闘い、ありとあらゆることをします。今は御飯を食べたりパンを食べたりしますが、昔は山に行って獣を狩猟してこなければならず、虎と闘い、ライオンと闘いました。それにもかかわらず、女性は今まで同等な立場に一つも立たずに一緒に暮らしているのです。それでも、一つ女性が男性に誇ることができるものは子供を生むことです。地上で歓迎される平等を主張できる一つの条件として、神様が女性に子供を生む権限を与えたと私は考えます。創造主が傾いたものを立て直すために子供を生むようにしたのですが、この女性たちが子供を生もうとしないのです。ですから、これは闘うこともできません。
(103-273、1979.3.11)

 

「女は弱し、されど母は強し」という言葉があります。女性自体はこの上なく弱いものですが、もし女性が母として愛の主体的立場を取り、また妻、娘として愛の中心的役割を成す時、女性はこの上なく強くなるものです。なぜならば、女性が母、妻、娘として愛の主体的立場を取り、100 パーセント相手のために与えようとする時、その空白を神様の愛が埋め尽くしてくださるからなのです。神様の愛の能力が発動し始めるのです。だからこそ女性であったとしても、神様に似て燃えるような愛の主体的立場を取るようになれば、その愛の能力は家庭を生かし、国を生かし、世界を生かす驚くべき力として現れるのです。
真の家庭と世界平和、1992.5.11

 

私たち会員は、到来した女性時代とともに夫を抱き、子女を正しく養育する真の愛の模範的な実践運動を全世界的に展開しなければなりません。そうして、世界平和具現のための政治、経済、文化、そして社会各分野で私たち女性が先頭に立たなければなりません。女性として救援摂理歴史の主役を担当したリベカ、タマル、マリヤのような苦難と迫害の先烈たちを記憶しましょう。彼らが命を懸けた冒険と逆境に打ち勝って天倫の道理を立てたその強靭な意志を伝授され、私たちの家庭を真の父母、真の夫婦、真の子女の家庭として養い育てていくことによって、今日のこの罪悪世界を天国世界に変化させる聖業に私たち全員が決起しましょう。
世界平和女性連合創設大会、韓鶴子総裁基調講演文
1992.4.10

 

8. 正義

不義と圧制は、神様と人類に対する犯罪の原因になる。人々はどこでも、正義のために戦おうとする。しかし、すべてのものを包容する神様の愛を体感する信仰者は、正義を増進させるために彼らの影響力を用いなければならない特別な責任がある。経典は、虐待を受ける者たちが当然の正義を享受できていないのに、信仰者が彼らのそばでのんびりと座り、彼らを救済しないことを警告する。挫折の中で抑圧を受ける者たちが、自分たちを抑圧する環境に対抗して反乱を引き起こして武器をもつ前に、宗教者たちは、長い間不義を受けた者たちが義なる人生を享受できるよう当局に促し、社会的良心によって苦闘しなければならない。
文鮮明先生は、たびたび自身が不義を体験したが、自分を迫害した者たちに決して復讐しなかった。その代わりに先生は、奉仕と犠牲の道がすべての側面の不義を克服する最も確かな道だという確信の中で、常に愛と忍耐、信念の道を選ばれた。

 

― 宗教経典 ―

 

主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。
エレミヤ書 22.3(キリスト教)138

 

なんじら信仰する者よ、証言には、神のため公正を堅持する者であれ、たとえなんじら自身のため、または両親や近親のためでも。かれが富者でも、また貧者であっても公正であれ、神はなんじらよりも双方にもっと近いのだ。それゆえ私欲に従って公正からそれてはならぬ。なんじらがたとえ証言を曲げ、またはそむいても、神は、なんじらの行うことを熟知したもう。(注 36)
クルアーン 4.135(イスラーム)139

 

お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない。正義を洪水のように / 恵みの業を大河のように / 尽きることなく流れさせよ。
アモス書 5.23 ~ 24(キリスト教)140

 

抑圧される者たちの嘆願を注意するのだから、彼はただ彼の当然の権利を最も高貴な神に嘆願する。神は権利をもつ者が正当なものを受けることを妨げられない。
バイハキ・ハディース(イスラーム)141

 

わが下僕らよ、私は不正を私自身に禁じ、お前たちの間でも禁じた。それゆえ互いに不正を働いてはならぬ。
ナワウィー 40 のハディース24(イスラーム)142

 

主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行って彼に告げなさい。ヘブライ人の神、主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ』と。
出エジプト記 9.1(キリスト教)143

 

お前たちの誰でも、悪行を見かけたら自分の手でそれを変えるようにするがよい。それができなければ自分の舌で。それもできなければ心で。だがそれしかできない者は、もっとも信仰の弱い者。
ナワウィー 40 のハディース 34(イスラーム)144

 

悲嘆にくれる者の苦痛を減らしてあげ、抑圧される者を助けてあげることは、多くの罪過に対する報いと贖罪の行為と同じである。
ナフジュ・アル・バラーガ 語録 22
(シーア派イスラーム)145

 

罪を犯したり、過った道に従う人を見れば、それが自分自身に対する罪であることを知らせてあげ、その人が善の立場に戻るようにしなければならない。これは私たちの戒めである。聖書では次のようにある。「同僚を戒めよ」。誰かを叱責するときは、そのことが人の間の問題であれ、神と人間の間の問題であれ、私的に平静心をもち、柔和な声で語らなければならない。そして、その言葉が彼のためになるものであり、彼が今後訪れる世の中で新たに生まれるのを助けるためだということを理解させなければならない。
マイモニデス ミシュナ・トーラー
(ユダヤ教)146

 

ある人が「恩徳で怨みのしかえしをするのは、いかがでしょう。」といった。先生はいわれた、「では恩徳のおかえしには何でするのですか。まっ直ぐな正しさで怨みにむくい、恩徳によって恩徳におかえしすることです。」(注 39)
論語14.36(儒教)147

 

アニス・イブン・マラクが伝えた。使徒が「抑圧したり、抑圧されるあなたの兄弟を助けよ」と言われると、アニスが彼に尋ねた。「神の使徒よ! 抑圧される者を私は喜んで助けましょう。しかし、抑圧する者をどのようにして助けるのですか」。すると使徒が、「彼が過った行為をすることができないよ
うに制裁することによってである」と答えられた。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)148

 

不正を目撃しても中立をとる人は、結局迫害者の側を擁護したのと違いはない。象のしっぽがネズミの口にぶらさがっているのに、その状況で私が中立を願ったとしよう。ネズミはあなたに感謝しないだろう。
デズモンド・ムピロ・ツツ
(キリスト教)149

 

悪が勝利するのに必要なすべてのことは、善の人としてするべきことではない。
エドマンド・バーク(注 37)150

 

正義は良心である。個人の良心ではなく、全人類の良心である。自分の良心の声をはっきりと認識する人たちは、普通、正義の声も認識する。
アレクサンドル・ソルジェニーツィン
(注 38)151

 

自分自身の首を絞めるもう片方の鎖を発見しなければ、誰も自分の友人の足首に鎖をかけることはできない。
フレデリック・ダグラス(注 40)152

 

今のように、この世に依然として女性たちが泣く日があれば、私は立ち向かうだろう。今のように、男性たちが監獄を頻繁に出入りする現実が続いても、私は立ち向かうだろう。世の中にいまだに大酒飲みが残っていて、道に貧しく行き場を失った少女がいれば、神の光なく暗闇で生きている人が一人でも残っていれば、私は闘うだろう。最後のその瞬間まで立ち向かうだろう。(注 41)
ウィリアム・ブース(キリスト教)153

 

― み言選集 ―

 

神様は私たちを呼んでいらっしゃいます。世の中の不義と罪悪に挑戦し、真の愛を施すことを熱望していらっしゃいます。
(234-273、1992.8.26)

 

宗教者たちが、この時代の状況と様々な非理に対して責任を感じ、深い自己省察が先になければならないと思います。神様は私たち指導者、特に宗教指導者たちを召命していらっしゃいます。世の中の不義と罪悪に挑戦し、真の愛を施すことを熱望していらっしゃるのです。
(330-247、2000.8.18)

 

一日の勝利基準をもてない人がどのようにして天の国に行くことができ、1年の勝利基準をもてない人がどのようにして永遠の世界に入っていくことができるでしょうか。このようなことが問題にならざるを得ません。ですから、信仰者の生活において、永遠を夢見ていくことも重要かもしれませんが、それより重要なことがあるとすれば、それは今日の現実において、どのように悪を清算して善の旗手になるかということです。
(37-219、1970.12.27)

 

不義を見て、そのままにしておく者は、良心家ではない。
御旨の道、人格

 

この宇宙間において、最高の良心的中心が誰かというとき、誰ですか。神様です。しかし、いくら良心的だとしても、不義を見て、「ああ、良い、黙っていなければならない」と言いますか。不義を見れば、怒りが爆発するのです。良心的な神様が不義を見て、6000 年間激憤し、闘いの場を準備してきたのではないですか。皆さんは、それを知らなければなりません。個人を中心として世界を滅ぼすこと、家庭を中心として世界を滅ぼすこと、氏族を中心として世界を滅ぼすことは、神様に親不孝することです。そのような一切を神様は赦すことができずに打ってきました。そのように先頭に立って打たれるキリスト教を迫害したローマ帝国だったので、400 年間世界を席巻し主導的な役割をしてきたローマ帝国も、亡くなったイエス様によって 400 年以内に屈服してしまったのです。
(51-44、1971.11.4)

 

先生は、「正義は闘って勝つのではなく、耐えて勝つのである」として忍耐してきました。今もそうです。あるときは全身が麻痺するほど憤るときがあります。しかし、「神様がそれ以上に憤慨しても耐えてこられたのだから、その息子になった罪で忍耐しなければならない」と思って耐えるのです。争っ
てはいけません。
(74-252、1974.12.31)

 

青年たちが神様の真の愛を中心に犠牲と奉仕の努力を注ぐとき、世界の貧困と飢餓問題、そして、さらには貧富の格差と、歴史上の異質な経験からくる葛藤と憎悪の感情は、初めて治癒の糸口を見いだすことができるのです。
(288-201~ 202、1997.11.28)

 

人間世界で真の愛を完成したならば、政治的に、文化的に、また環境的に何の問題が起こるでしょうか。真の愛の世界では、解決することができない問題はありません。真の愛の世界は、まさしく歓喜と理想が充満した自由と平和と幸福の世界です。真の愛の同位権、同参権、相続権によって、喜びと幸福
が無限に、そして永遠に拡散していく世界になります。
(29465、1998.6.11)

 

9. 経済的正義

どの社会でも実際の次元で貧富の格差が維持される限り、正義の社会として認定されない。そのような格差は、市民の紐帯の結束を弱化させ、階級差別とそれに伴う偏見を引き起こすようになる。しかも、貧者より富者がすべての利点を享受する社会において、機会の均等と法の前の平等は、虚像にすぎない。今日まで人類の知性人たちは、政治的民主主義に伴う経済的民主主義を探求した。多様な類型の社会主義が、人間本心による恒久的欲望に相応して現れた。
経済的正義は、盗むなという戒めから始まる。どろぼうのタイプには他人の所有物を盗む者だけではなく、さらに危険な形態として公共の収入源を奪取する権力者などもいる。このような問題は、何が「公的」なことであり、何が「私的」なことかに対する質問から出発する。聖書によれば、神様は地球、空気と水、そして鉱物資源を創造し、イスラエルのすべての土地は、人間を僕として立てられた神様に帰属した。このような観点は、資本主義の私的所有概念に挑戦し、義なる経済体制は共有の概念を含まなければならないと提案する。
神様の次元で見るとき、全人類は神様の子女として一つの家族の構成員である。ところが、自身の兄弟姉妹がおなかをすかせているとき、富者が良心的にどうして寝ることができるだろうか。初期のキリスト教徒は、すべての所有を共同体に従属させた。これは今日、ユートピアを指向する社会主義者の実験を通しても主張されてきた。文鮮明先生によれば、社会主義の成功の鍵は、慈悲心と兄弟愛の源泉である神様の愛の実践にある。それは、富者が自身の祝福を社会全体と共有するように刺激できる。そのようにすれば、人類社会には分配と共有の美徳のライフサイクルが持続的に公転されるはずだ。 (第13 章10.「慈善」参照)
一方、共産主義は、富者のものを強奪して貧者に分配する社会制度を設定し、共同所有を制度化しようと試みた。共産主義は、これを実現するために暴力を正当化して残酷な蛮行を行いながら、無産階級の怒りを悪用した。文鮮明先生は、共産主義の理論自体が無神論的であり、宗教に敵対的であるために、このように卑劣な戦略を選択せざるを得ないと批判される。
私たちが経済的不均衡を是正するためには、国家の政策に優先して、私たち自身を省察しなければならないだろう。私たちは、個人的利益のための経済行為より、人類全体の福利のための経済行為に主力を注がなければならない。それは、人類が兄弟姉妹、すなわち神様の家庭の一員であるからだ。家族構成員が毎月予算を立てて収入と支出を決定するように、各村や近隣の人々が公正と平等の増進のための均衡的基盤の上で、自発的に収入と支出を分類することもできる。進んで企業次元で雇い主と工場所有者は、労働者の努力を激励し、人間価値を省察する中で、彼らの共同生産物に対する適正な賃金を待遇しなければならない。
国家家族という側面で、先進国家は、地球上の全人類は同等な生活水準を維持すべきだという目標のもと、開発途上国に援助と技術的支援を自発的に提供しなければならない。これを支持しながら、私たちは所有価値より他の人たちに与える慈悲心を土台にした存在価値にさらに比重をおき、人間尊重の文化を育成しなければならない。文鮮明先生は、これが経済正義を実現する実際的な方法だと言われる。

 

①窃盗と公的財産の濫用

― 宗教経典 ―

 

不正に孤児の財産を食い減らす者は、まことに、腹の中に火を食べる者である。かれらはやがて烈火に焼かれるであろう。
クルアーン 4.10(イスラーム)154

 

盗んではならない。
出エジプト記 20.15(キリスト教)155

 

村にあっても、林にあっても、他人の所有物をば、与えられないのに盗み心をもって取る人、―かれを賤しい人であると知れ。
実際には負債があるのに、返済するように督促されると、『あなたからの負債はない』といって言い逃れる人、――かれを賤しい人であると知れ。
実に僅かの物が欲しくて路行く人を殺害して、僅かの物を奪い取る人、―かれを賤しい人であると知れ。
スッタニパータ119 ~121(仏教)156

 

窃盗した男も女も、その手を切断せよ、これはかれらの行いに対する、神の見せしめである。(注 42)
クルアーン 5.38(イスラーム)157

 

災いなるかな、量を減らす者こそは、かれらは人から計って受け取るときは、十分に取り。
人に計るときは、少く計量する者たちである。
クルアーン 83.1~ 3(イスラーム)158

 

次の行為、すなわち他の人がどろぼうするようにあおる行為、贓物をもらう行為、度を超した額の請求や不十分な支給を引き起こす行為は、どろぼうに含まれる。
アカランカ タットヴァールタラージャヴァールッティカ
7.27(ジャイナ教)159

 

あなたのものも真にあなたのものではないのに、あなたのものではないものを、どうしてあなたのものだと考えることができるのか。(注 43)
タルムード、デレフ・エレツ・ズータ2.5(ユダヤ教)160

 

石油、硫黄、鉄のような金属と天然資源は、水、ガラス、塩のような公共財産である。したがって、いかなる統治者も、誰かにそれらに対する独占権を与えることはできず、もしそのようにすれば、それは誤ったことである。
シャーフィイー 346.5(イスラーム)161

 

自然は万民が共に使用できるように万物が注がれている。神も万物が生産され、すべてが同じように食べることができる食べ物があるようにされた。そして、すべてが地を共同で所有するようにされた。自
然は平等な権利を与えたが、略奪者たちがその公的権利を私的なものに変えてしまった。
ミラノのアンブロシウス 聖職者の義務について1.132
(キリスト教)162

 

私的財産でも、それが絶対的で無条件的な権利まで保障してはいない。他の人たちが窮乏するとき、不必要なものを一人で独占することは正当化され得ない。
教皇パウロ6 世 諸民族の進歩推進について
(キリスト教)163

 

― み言選集 ―

 

宗教の教えは、この体が喜ぶことをすべて拒否しなさいというものです。体は、おなかがすけばどろぼうをしてでも食べなければならないと考えます。これに対して天は、「いけない。死んでもどろぼうしてはいけない」と言うのです。
(131-25、1984.3.11)

 

どろぼうがなぜ悪いのですか。私がやりたくて服を盗んだのに、何が悪いのでしょうか。そこには、その一つの服にも犠牲の代価が含まれていて、奉仕の代価が含まれています。公的なものが含まれているのです。それをそのままもってきたので罪なのです。
(105-92 ~ 93、1979.9.30)

 

家庭を中心として「ために生きる」ことができるところでは、ために生き、犠牲になり、愛さなければなりません。これが創造的理想です。これに反対になるものが堕落したことですが、悪の始まりは憎悪だというのです。アダムを尊敬してために生きなければならないのですが、「ために生きる」ことがで
きなかったのです。それが何ですか。欺瞞です。犠牲にならなければならないのに、詐欺を働いたのです。その次に略奪しました。略奪と破壊、詐欺は何ですか。憎悪と詐欺に括弧して欺瞞を入れ、略奪に括弧して破壊とすればよいのです。このようなことをすれば、地獄に行くということです。
(310-199、1999.6.15)

 

公金を使うときは、先生が気をつけながら使っていた、それ以上の心で一銭でも自分の生命以上、手足を切って使うような痛みを感じながら使わなければなりません。そうでなければ発展できません。うまくいくように思いますが、うまくいきません。360 度入っていって最初の姿に合わせなければ、最後になってすべて崩れていくのです。詐欺に遭ったり、どろぼうされたり、自分が死んだりするのです。
(360-321、2001.11.18)

 

歴史的なすべての動きは個人を拡大させたものです。今まで、個人が出世やある目的を達成するために、どのような手段を使ってきましたか。自分の目的を達成するためには、団体を利用したり、個人を利用したりしました。このように第3の舞台を利用することがよくあったのです。それが今までの歴史的伝統でした。
結局は、自分一人が成功するために「第三者を利用しよう」と考え、個人を利用し、団体も利用してきたという話です。そして、今では国まで利用する腐敗像が多くあります。それは滅びる
のです。これが今までの歴史的方向でした。人間が堕落して出発したその日から、サタンの血を受けたその日から、本意ではない驕慢を中心に間接的な舞台を利用し、自分の利益を渇望してきたのがその歴史的方向ではなかったかということです。堕落が蒔いた種が正にそれです。
(46-141~142、1971.8.13)

 

どこかに行って良いものがあれば、ビルから金塊が落ちてきたとしても、それを使えば横領です。自分勝手に使うことはできません。公的な公金です。先生は、皆さんが金品を持ってきても受け取りません。お母様を通して受け取ったとしても、私は使いません。それは毒薬よりもっと恐ろしいのです。
あの国に行って、がちっと引っ掛かってしまうのです。
(342-300、2001.1.13)

 

自分の私的なものを公的なものよりもっと重要視する人は、天道に背く人です。私的な自分の人格を公的人格よりもっと重要視する立場は、み旨に背く立場です。
(51-291、1971.11.28)

 

自分がもっているもの、あるいは自分所有の財産は、自分がしばらくの間管理する過程にあるものです。すなわち、皆さんは管理人だというのです。
(23-334、1969.6.15)

 

私のものはあなたのものであり、あなたのものは国のものであり、国のものは世界のものであり、世界のものは神様のものであり、神様のものは私のものです。これが「統一思想」の正道です。
(57-272、1972.6.4)

 

②共同財産の分配と経済安定

― 宗教経典 ―

 

穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。
レビ記19.9 ~10(キリスト教)164

 

七年目ごとに負債を免除しなさい。負債免除のしかたは次のとおりである。だれでも隣人に貸した者は皆、負債を免除しなければならない。同胞である隣人から取り立ててはならない。主が負債の免除の布告をされたからである。外国人からは取り立ててもよいが、同胞である場合は負債を免除しなければならない。
あなたの神、主は、あなたに嗣業として与える土地において、必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなるが、そのために、あなたはあなたの神、主の御声に必ず聞き従い、今日あなたに命じるこの戒めをすべて忠実に守りなさい。(注 44)
申命記15.1~ 5(キリスト教)165

 

この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。……五十年目はあなたたちのヨベルの年である。種蒔くことも、休閑中の畑に生じた穀物を収穫することも、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めることもしてはならない。この年は聖なるヨベルの年だからである。あなたたちは野に生じたものを食物とする。ヨベルの年には、おのおのその所有地の返却を受ける。(注 45)……
もし同胞の一人が貧しくなったため、自分の所有地の一部を売ったならば、それを買い戻す義務を負う親戚が来て、売った土地を買い戻さねばならない。もしその人のために買い戻す人がいなかった場合、その人自身が後に豊かになって、自分で買い戻すことができるようになったならば、その人は売ってからの年数を数え、次のヨベルの年までに残る年数に従って計算して、買った人に支払えば、自分の所有地の返却を受けることができる。しかし、買い戻す力がないならば、それはヨベルの年まで、買った人の手にあるが、ヨベルの年には手放されるので、その人は自分の所有地の返却を受けることができる。……
もし同胞が貧しく、自分で生計を立てることができないときは、寄留者ないし滞在者を助けるようにその人を助け、共に生活できるようにしなさい。あなたはその人から利子も利息も取ってはならない。あなたの神を畏れ、同胞があなたと共に生きられるようにしなさい。その人に金や食糧を貸す場合、利子や利息を取ってはならない。
わたしはあなたたちの神、主である。わたしはカナンの土地を与えてあなたたちの神となるために、エジプトの国から導き出した者である。もし同胞が貧しく、あなたに身売りしたならば、その人をあなたの奴隷として働かせてはならない。雇い人か滞在者として共に住まわせ、ヨベルの年まであなたのもとで働かせよ。その時が来れば、その人もその子供も、あなたのもとを離れて、家族のもとに帰り、先祖伝来の所有地の返却を受けることができる。エジプトの国からわたしが導き出した者は皆、わたしの奴隷である。
彼らは奴隷として売られてはならない。あなたは彼らを過酷に踏みにじってはならない。あなたの神を畏れなさい。
レビ記 25.10 ~ 43(キリスト教)166

 

文公は孟子のこの言葉をきいて、助法を行なおうと思い、その後、家臣の畢戦を使いとして井田法を詳しく質問させた。孟子はいわれた。「貴方のご主君が今やまさに仁政を行なわれようとして……ところで仁政とは、まず耕地の境界を正しくすることからはじまるものです。境界が正しくないと、井田の土地の分け方が均分にはいかないし、つれて役人の俸禄も公平というわけにはいかなくなります。それで昔から暴虐な君主や貪慾な役人は、みなこの境界をいい加減にし〔て私利私欲をはかっ〕たものです。ところが、ひとたび境界さえ正しくなると、井田を分けることも俸禄を決めることも、いながらにしてたやすくできるのです。……どうか滕の国でも、郊外の遠く広いところでは助法によって九分の一の税を〔役人が〕取り、郊内の近く狭いところでは〔井田を区切りにくいから、助法にはよらないで〕、徹
法によって個人個人がめいめいに十分の一の税を納めさせるようにしたいものです。……一里四方の田地が一井で、その面積は九百畝あります。これを井の字型に分けると、百畝ずつ九つに分けたことになります。その真中の一つすなわち中央の百畝が公田で、周囲の八つを私田とします。八家族でまず共同に公田を耕して、それがすんでからめいめいの私田を耕すのです。(注 46)
孟子Ⅲ.A.3(儒教)167

 

信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。
使徒言行録 4.32 ~ 36(キリスト教)168

 

それで、最善の政治的共同体は、中産層の市民によって構成されることと、中産層が大きく、可能であれば他の二つの階層より強い国家が、よく統治され得ることは明白である。
アリストテレス 政治学 4.11(ヘレニズム)169

 

私有財産が存在し、すべてのひとがなんでもかんでも金銭の尺度ではかるようなところでは、社会が正しく治められたり繁栄したりすることはほとんど不可能だと思えます。もっとも、すべて最善のものが
一つ残らず、極悪の人間の手にはいるところに正義が行なわれているとお考えになったり、ものがごく少数の人々のあいだで分配され、しかもその人々でさえもあらゆる点でぐあいよく暮らしているのではなく、残りの人々たるや、完全な貧困状態にある、というようなところに幸福な暮らしがあるとでもお考えになるなら別ですけれども。そういうわけで私は、ユートピア人たちの賢明しごくで尊崇に値する諸制度のことを繰り返し想いうかべるわけです。彼らはごくわずかの法で社会をかくもよく治め、そのためにあそこでは徳能あるものが酬いられ、しかも物が平等に分配されるので、すべてのひとがなんでも豊富に持っています。……
腰を上げずに、ただ怠けている者がひとりもいないように、皆が自分の職業に勤勉にたずさわるように、しかも荷役の動物のように朝早くから夜おそくまで絶えず働き続けて疲労しきったりすることはないように……ユートピア人たちは夜も含めて1日を 24 時間に等分し、そのうち6時間だけを労働にあてます。そのうち3時間は午前中、引き続いて昼食をとりに出かけ、あとは午後2時間休憩し、そのあと3時間をまた労働にあて、夕食の時間になるところできりあげます。彼らは1日の最初の時間を正午から数えますから、8時ごろに床につくわけです。睡眠は8時間とります。労働、睡眠、食事などのあいだにある時間は各人の自由裁量にまかされていますが、それはこの時間を飽食、無為に過ごすためではなく、労働から解放された時間を自分の好みに従い、なにかの活動でよく生かすためです。……
このように彼らはみな有益な職業にたずさわっており、しかもそのさいに労働はふつうよりわずかで足りるのですから、あらゆる物質が豊富にあるのも、またときには公道修理のために(もし傷んでいるならば)莫大な人手をかり集められるというのもあたりまえのことです。しかしそういう労働の需要がないときには、労働時間の短縮が公示されることもしばしばあります。というのは、役人は市民たちの意志に反して彼らを不要な労働につかわせたりはしないからです。その理由は、あそこの社会制度がなによりもまずつぎのただ一つの目標を追求しているということにあります。すなわち、公共の必要という点から許されるかぎり、すべての市民ができるだけ多くの時間を、肉体労働から解放し、精神の自由と洗練のために確保できるようにすることです。精神の洗練にこそ人生の幸福があると彼らは考えているのです。
トマス・モア ユートピア1.2.4(ヒューマニズム)170

 

― み言選集 ―

 

理想的な社会や国は、すべての人が国境と皮膚の色を超越して相互に協力して調和を成し、幸福に生きていく社会です。この社会は、人々が一つの神様の息子、娘であることを自覚して、真の父母を中心として一つの兄弟となった大家族社会であり、そこは、血統と所有権と心情を復帰した祝福家庭が、真の父母の言語、真の父母の文化のもと、自由と平和と統一の世界を成す所です。人々は、神様の心情文化の中で共生、共栄、共義の生活をするようになるのです。
ですから、この世界は、腐敗や不正、そして戦争や罪悪と無関係であり、人類は、地球環境に対する公害要因を除去し、万物に対して真の主人として愛し、保護しながら生きるようになっています。その世界において生活のための活動と作業は、他のために生きて愛する心情を土台とした喜びの奉仕であり、実践です。したがって、構成員の生活程度は標準化されます。
(269-156 ~157、1995.4.17)

 

自分の家庭を中心として標準にしてはいけません。その村なら村の上、中、下を中心として、そこに合わせて暮らさなければなりません。それでひと月に1度ずつ、私たちの上、中、下の生活基準はいくらだとして、週の生活費はいくらで、経費はいくらで、消耗費はいくらなので、その基準を中心としてどこどこに何をしてどのようにしていくということを、会議して決定するのです。翌月はその会議の結果によってどのようにしていくということを自動的に決めれば、そこに合わせて暮らさなければならないのです。
私たちの生活方法を保障するのは常に法です。今月、月給をいくらもらう人が何パーセントだ、このように上、中、下によって基準が変わるのです。それを鉄則として守ります。それを間違うと、霊界の自分の生活が侵害を受けるのです。霊界はそのようになっています。
資本主義社会のように、お金を積み上げておいて暮らすことはできません。私はお金を積み上げていません。これから息子、娘と一緒に暮らすとしても、息子、娘の村の全体標準基準が3であれば、3を基準として4、5になるとき、自分たちが協力して生活基準を付加しなければなりません。100 軒が暮らしていれば、100 軒が分割して子供の多い家を助けてあげるのです。兄弟なのでおいと同じように考えなさいというのです。それで、今後村で結婚します。助けてあげた家、助けてあげた因縁によって連結されることによって平和の基台がだんだんと拡大していくのです。
(324-254 ~ 256、2000.6.24)

 

政治の方向も、家庭理想を中心として、真の愛に合わせなければなりません。経済やすべての文化もみな、真の愛に合わせなければなりません。これからは、自分の思いどおりに進んでいけば間違いが多くなるのです。ですから、世界が一つにならなければなりません。一つになるとすれば、経済的体制を中心として一つになるのであって、政治体制で一つになってはいけません。政治体制は、支配階級と被支配階級の基盤の上に立っているというのです。ですから、経済体制を中心とする管理体制に転換されてこそ、平和と統一の世界になるというのです。
家庭モデル世界化時代に入ってくるので、その次に何かというと、平準化時代になるのです。生活標準化と平和というのは経済問題です。ですから、国連がこれから経済をきちんと管理しなければ、人類は滅亡するというのです。闘争概念を中心とした、または優劣を中心とした先後関係をもつ、このような指導体制があってはいけないのです。愛を中心として、相対的関係として進んでいかなければなりません。
(303-192 ~193、1999.8.25)

 

神様の愛を完成した人間がつくりあげる理想世界においては、全体目的と個体目的は自然に調和するようになっています。人間には欲望もあり、愛の自律性もあるので、個人所有や個体目的は許されています。だからといって、無制限な個人所有、あるいは全体目的を害する個体目的を追求することはありません。完成した人間は、自らの良心と本性によって、自分の分限に合った所有量を取るようになるのです。
特に、真の愛による万物の真の主人の人格をもった理想的な人間の経済活動は、愛と感謝を底辺とするので、欲張ることや不正はあり得ないのです。同時に全体目的に反して地域や国家利益が強調されることはあり得ず、経済活動の目標は、利潤の追求ではなく、全体の福祉に焦点が絞られるのです。
共栄主義は、神様の真の愛を基盤として共同参加し、自由、平等、幸福の理想が実現される政治を追求する主義です。
(271-77、1995.8.22)

 

霊界の組織とは何かといえば、生活を中心としてすべて系列になっているのであって、政治はないというのです。神様の直属の愛を中心としていて、強力に軍事拡張であるとか政治的目的のために、この世では手段、方法を選ばないのですが、そのようなことがないのです。経済の平準化運動を中心として、どのように豊かな生活をするかということです。地上もそのようにならなければなりません。
真の愛というものは、政治、経済をすべて越えていきます。真の愛は何かというと、力やお金や知識やあらゆるものを越えていきます。真の愛を中心として何をするのでしょうか。生活の平準化です。政治的な手段、方法を拡大させるのではなく、生活拡大のための世界です。それが天上天国、地上天国なのです。
(303-193 ~194、1999.8.25)

 

③富者は自分の財産を国民に分かち合うべき

― 宗教経典 ―

 

飢えた人にあなたのパンを裂き与え /さまよう貧しい人を家に招き入れ / 裸の人に会えば衣を着せかけ / 同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は 曙のように射し出で / あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し / 主の栄光があなたのしんがりを守る。
イザヤ書 58.7 ~ 8(キリスト教)171

 

施こし(サダクァ)は、貧者・困窮者・施こしの事務を管理する者、および心が真理に傾いてきた者のため、また身のしろ金や負債の救済のため、また神の道のために率先して努力する者、ならびにたび人のためのものである。これは神のおきてである。神は、全知者・英明者であられる。(注 48)
クルアーン 9.60(イスラーム)172

 

わたしが貧しい人々を失望させ / やもめが目を泣きつぶしても顧みず / 食べ物を独り占めにし / みなしごを飢えさせたことは、決してない。……着る物もなく弱り果てている人や /からだを覆う物もない貧しい人を / わたしが見過ごしにしたことは、決してない。……
神の下される災いをわたしは恐れる。その怒りには堪えられない。
ヨブ記 31.16 ~ 23(キリスト教)173

 

邪悪な人間が繁栄し、
正義の人たちがそうなることができない
そのような状況が継続するならば、
義人は挫折してしまう。
ごく小さな針のように
偽りの行為の最初はそのように始まる。
それが独楽のように大きくなる日には
人を殺すようになる。
ヨルバ族の歌(アフリカ伝統宗教)174

 

最高の慈悲は、貧しい同僚の仕事の手を助け、贈り物や(利害関係なく)お金を貸してあげられることだ。また、その人の同業者となって働くことだ。そうすれば、その貧しい者は、これ以上公的な補助に頼らず、手助けを通して結局、トーラーで教える独立心のある人に変わることができる。
レビ記 25 章 35 節に次のように記されている。「もし同胞が貧しく、自分で生計を立てることができないときは、寄留者ないし滞在者を助けるようにその人を助け、共に生活できるようにしなさい。」
アイモニデス ミシュナ・トーラー(ユダヤ教)175

 

雇用者と非雇用者は、法則によって自由に互いの同意を導き出さなければならない。特に、賃金においてはそうである。そうでなければ、人間相互間に行われるそのいかなる取引よりも旧時代的で、不平等な関係が成立し得る。言い換えれば、報酬を策定するときは、質素で誠実な賃金労働者の家庭を扶養する分、つまり彼と妻、そして子供たちが安定した生活を維持するように策定してあげなければならない。
教皇レオ13 世 レールム・ノヴァールム
(キリスト教)176

 

富がより平等に分配されたとき、国家が繁栄する。
フランシス・ベーコン(注 47)(ヒューマニズム)177

 

― み言選集 ―

 

問題はお金の管理です。食べて生きていくにおいて、誰が良いものを食べ、誰が良いものをもつのかということです。これが問題です。良いものをお互いがもとうとしてはいけません。良いものは全体のために与え、中以下のものを自分が願う、このようにしていけば自動的に標準化になるのです。
(324-253 ~ 254、2000.6.24)

 

水も回っていかなければなりません。運動しなければならないのです。暑ければ冷たくならなければならず、冷たければ暑くならなければなりません。暑い所が豊かで、冷たい所が貧しければ、暑い所が冷たい所に移動しなければならないのです。それは自動的に移されます。お金のある人は自動的に村の貧しい人たちに責任をもち、すべて一緒に生活できなければなりません。このようなことが伝統になれば、そのような村はお互いに助け合うのです。そうすれば、お互いに世話にならないようにしようとします。お互いに助けようとするので繁栄するのです。
(253-238、1994.1.30)

 

歴史的上層と下層の人を一体化させるために、上層の人たちは下層に同化させ、下層の人たちは上層に引き上げなければなりません。そのようにしようとすれば、絶対的価値の中心点が必要です。それが神様の愛なのです。
神様の愛とは何でしょうか。それは最上級の人たちとも一緒にいられ、また最下級の人たちとも一緒にいられます。神様の愛は、決して一方向的なものではありません。神様の愛は、球形
に回転作用をする力です。最上から最下に至るまで、自由に移動できます。それがどこに現れても、すべてのところで全体から歓迎されます。そして、いつ、どこでも同化します。
また、神様の愛は、いつ、どこででも絶対的な価値をもっています。私たちが神様の愛と共にいれば幸福であり、あらゆるものが満たされ、保障されます。最下のところにいても最上の人を愛することができ、最上の立場にいても、最下の立場にいる人を愛することができるのです。
(115-172 ~173、1981.11.10)

 

皆さんが本当に父母と子女の関係の事情を知れば、すべてのことができます。経営哲学で見れば、雇用主と非雇用主の関係です。共産主義が上部構造と下部構造の間の闘争を原則としているのですが、これを解決できるのは、ただ父子関係の心情的因縁なのです。父子関係の愛だけが解決できます。企業の所有者になることができる立場は父母の立場であり、非雇用主の立場は子女です。父母が子女に対して関与するようにしなければなりません。父母がお金を節約して包んでおくのは、子女に与えるためです。のちに子女に相続してあげるために、そのようなことをするのだと考えなければなりません。
(116-121、1981.12.27)

 

アメリカのような自由世界、民主世界は、労働組合のゆえに滅びるのです。労働組合です。労働組合の解決方法を話してあげます。統一教会の団体で労働組合があるものは、私が捕まえてつぶそうと思います。労働組合は問題ないというのです。労働者と農民に労働組合があるのと同じように、株主の労働組合をつくるのです。(注 49)
二つ(労働組合と株主組合)が一つになり、「自分たちの家庭の妻や子供たちをきちんと食べさせていかなければならないので、去年の生産量よりも今年はもっと増やさなければならない。そのために、私たち株主労働組合とあなたたち労働者労働組合が一緒に競争しよう」というのです。このようにして生み出した利益は、3年間主人に与えずに自分たちで分け、労働者の労働組合が一生懸命にしたら、その分の何パーセントかを多く与え、株主の労働組合が一生懸命にしたら、その分多く与えるのです。このようにすればけんかするでしょうか。西洋社会でこのような考えをする人はいません。
それができないときには、レバレンド ・ ムーンが「宗教連合の世界組織よ、集まれ! 全世界の祝福家庭、集まれ! 今から私たちで宗教ユニオンをつくろう」と言えば、宗教ユニオンをつくれます。そのようにすれば、統一教会の人たちは、一生涯奉仕しようとするので、給料は3分の1も必要ありません。「会社が倒れそうなので、他の所で稼いででもここで働く」、そこまでしなくても、「もらった給料の 30 パーセントを会社に捧げて働く」と言えば、労働組合はどのようになるでしょうか。仕事をしないでもらうものをもらうことができますか。仕事をしないのにもらおうとする人は、どろぼうと同じです。そのような人たちは、先生の前に立てません。
(342-288 ~ 289、2001.1.13)

 

新しい時代、21 世紀は共義の時代です。新しい時代、21 世紀は物質が牛耳らない、精神と霊の時代です。新しい時代、21 世紀は、神人一体になって生きる時代です。新しい時代、21 世紀は、他のために生きることが自分のために生きるより、もっと永遠な価値があることを悟って生きる時代です。利己主
義が色あせ、共生共栄共義の利他主義がついに凱歌をあげる時代、それがまさしく明けてくる 21 世紀なのです。
(219-120 ~122、1991.8.28)

 

④市場資本主義の徳目:正直な労働と「見えざる手」

― 宗教経典 ―

私たちは、夕食を精肉店の主人や、醸造場の主人や、パン製造業者の慈悲に頼らず、彼らの利益に対する関心に期待する。私たちは、人類愛に力点を置いて扱わず、彼らの自己愛に力点を置いて扱い、私たちは私たちの必要性に対してではなく、彼らの利点に対して話をする。
アダム・スミス 国富論178

 

すべての個人は、必然的にその社会の年間収益を自分ができるだけ大きくするために努力する。彼は一般的に、実に決して公益を増進しようともせず、彼がどれだけ多く公益を増進しているのかも知らない。……彼はただ、彼自身の利徳を意図する。そして、彼は多くの異なる場合のように、この場合にも一つの目的を増進するよう、見えない手によって導かれる。
アダム・スミス 国富論179

 

私は、自分ができる限り早く財産を集めるよう、すべての人を自由にしておくのが最善だと主張します。ある人々は裕福になるでしょう。私は、人が裕福になることを妨げる法を信じません。それは、有益であるよりはより害でしょう。……私は、すべての人が自分の与件を改善できる機会を迎えることを願います。そして私は、黒人もその資格があると信じます。彼が前を見つめ、今年と来年に雇用される労働者になることを願うのなら、あとからは自分のために働くことができ、最後には自分のために働く人を雇用するようになるでしょう。
エイブラハム・リンカーン(注 50)180

 

― み言選集 ―

 

私はお金を稼いでも、私のために稼ぎません。自分の父母のために稼ぎません。世界のために稼ぐのです。世界に行こうとするので、教会で必要であれば教会のために使い、国で必要であれば国のために使います。国が生きる道は、世界が生き残ることができる道を行くことなので、世界のために使うのです。そのように行かなければなりません。
(113-52、1981.4.26)

 

お金はどれほど力が強いですか。お金はどれほどよいですか。そこに真の愛さえあれば、その真の愛をもった人がもっているお金は、お金自体も喜びます。真の愛を中心とする人が力をもつのならば、そのような力をもってもよいのです。なぜかというと、その力は世界を保護しようとし、天と地を保護しようとするからです。その知識はこの宇宙を便利にしようとします。私のためにするのではなく、世界のために用いようとするのです。真の愛を中心とすればすべてのことが解決します。
あらゆる力が堕落したこの世界で不平を言います。すべてのお金が、「真の人に出会わなければならないので、出会うようにしてください」と言うのですが、それをすべてあの悪の権勢、世界を支配する人たちが妨げてしまったのです。知識も、力も、それを願っているというのです。
この世の中で最も貴いことは、お金を集めることでもなく、知識をもつことでもなく、力を求めることでもなく、真の愛を求めることです。これが問題ですが、この堕落した世界では真の愛を知らないのです。
(161-300 ~ 301、1987.3.1)

 

問題は何かというと、南北の格差です。白人と黒人の問題も同じです。白人は裕福に暮らし、黒人は貧困なのです。貧富の格差があるというのです。このように問題になっている現実において、白人たちが自分の財産を売り、自分のあらゆるものを売って、黒人たちを助けるために荷物をまとめて黒人世界に訪ねていく運動が起きれば、新しい世の中が訪れるのを知ることができます。また、黒人たちは、「私たちが間違ったために冷遇され、貧しく暮らしたのであって、白人たちが間違ったのではない。私たちが一生懸命に白人たちについていき、白人たちに負けないように働こう」と考える運動が起きなければなりません。
(161-19、1987.1.1)

 

⑤共産主義とその誤り

― 宗教経典 ―

 

今まで存在したすべての社会の歴史は階級闘争の歴史だ。……共産主義者たちの理論は、私的所有の撤廃という一つの文章に要約できる。……支配階級をして共産主義革命の前にぶるぶると震えさせよ。プロレタリアが失うものは鎖だけであり、得るものは世界全体だ。全世界の労働者よ、団結せよ!
カール・マルクス 共産党宣言181

 

共産主義社会のより高い段階で……。そのとき、ただ有産者(ブルジョア)権利の狭い水準が完全に後ろに押されるようになり、社会は次のような表題で説明できるだろう。「各自は能力に応じて、各自は必要に応じて!」。
カール・マルクス ゴータ綱領批判182

 

共産主義は、自然法に反する理論である。共産主義を通して成し遂げようとするものは、すべての私的財産権と、その上に人間社会までも破壊する結果を招くようになるだろう。
教皇ピオ 9 世(注 51)(キリスト教)183

 

プロレタリアの使命は信仰的綱領と同じだ。マルキシズムは、科学と政治学を飛び越え、信仰であり宗教でもある。マルキシズムの力はこの信仰と同じ基盤の上から出てくる。
ニコライ・ベルジャーエフ ロシヤ思想史
(キリスト教)184

 

いかなる矛盾もなく社会奉仕だけの目的で、政治参与を通して信仰を実践しようとする人たちは、注意する点がある。彼らは、人間に関する定義と信仰に反する急進的で物質主義的理念体系を攻守してはならない。マルキシズムが個人と歴史の超越性を解釈する論理と無神論的物質主義、暴力の弁証法を主張する内容から無制限の個人自由を強調する自由主義の思想まで、このようなすべての理念を固守してはならない。
教皇パウロ6 世(キリスト教)185

 

社会主義は……だんだんとキリスト教の伝統で擁護してきた真理と近づいている。真実に社会主義の進歩は、時としてキリスト教改革者たちの要求に相当に近いことを否定できない。(注 52)
教皇ピオ11世
クワドラジェジモ・アンノ(キリスト教)186

 

― み言選集 ―

 

歴史始まって以来、人類は上下間の格差を解消しようとする方向に進んできたことは明確な事実です。このような潮流の中で最も代表的な例が共産主義です。共産主義思想は、人類社会において階級間の搾取をなくし、階級のない社会を建設しようというものです。しかし、共産主義の最大の問題点は無神論であり、神様を否定した土台の上でそのような理想世界を建設しようとするところにあります。また、共産主義は、一部の独裁者の私意によってすべてのことを行おうとするところに問題があるのです。
(115-170、1981.11.10)

 

共産世界では、「労働者、農民が主権者だ」として、悲惨な人たちを英雄視するのですが、このような面を見れば民主世界はかないません。ですから、もし神様がいるとすれば、民主世界を滅ぼしても共産世界を残すでしょう。神様がいるとすればです。共産世界が民主世界より優れているというのです。ところが、 「神様はいない」と言うので、これが問題です。 「神様はいない」と言っているのです。
(130-103、1984.1.1)

 

今日、共産主義者たちからは、 「おお、資本主義世界の農民を解放しなければならない」という声が高らかに聞こえてきます。その解放の声が果たして、神様が人類歴史を通して完全に主体となって善の側で主導するある特定の宗教、その主力となる宗教人たちが願う解放の基準と一致する、そのような喚
声であったのかといえば、違うのです。
この共産主義は、唯物論に立脚した世界の解放を夢見るのです。これは、神様までも否定して、宗教は悪であると烙印を押してこっぱみじんにし、その世界では形態すらもなくしてしまうのです。このような立場から解放を主張するのを見るときに、これは、理論
的な見地から見ても一致できないのです。それはどこまでも神様の前に正反対となる対立的な解放に違いないために、悪なる悪魔の神がいるならばそれが旗手となり、神様が願う宗教的旗手の前に正面から世界的攻勢を加えてくるのです。それが今日の共産党であるという結論を、そのような観点から下せます。
(85-230 ~ 231、1976.3.3)

 

共産党は、「労働者よ、団結せよ!」というモットーをもっています。私たちも一つのモットーをもっています。「すべての良心のある人々よ、一つになって団結しよう!」と言うのです。共産党は中上流階層の人々を否定しますが、私たち良心家は、三つの階層を団結させ得るでしょう。これが私たちの闘いの場です。私たちは、すべての人、すなわち黒人、白人、黄色人をみな抱くでしょう。私たちがそのような人々を動員して共産主義者たちに打ち勝つ時、その時に真の平和の世界が来るのです。
(52-136、1971.12.26)

 

皆さんが楽しむために御飯を食べれば、穀物、あるいは野菜、魚などもすべて楽しく思うと言います。皆さんは楽しいですが、その食べ物たちも楽しく思うのですか。これが問題です。ここで歴史的な問題、上下関係の調和や強者と弱者の調和を求める道がないというのです。
ここにいわゆる弁証法的論拠があると見るのです。歴史的な上下闘争の概念があると見ることができます。ヘーゲルのような人は、そのように見たのです。これを解決できなければ、歴史のあらゆる理想世界や、上下関係の構造的組織をもった何らかの組織体の平和や理想郷というものを見いだす道がないのです。強者は弱者を無視し、奪おうとし、冷遇し、どんな扱いをしても罪ではないと考えています。
(132-142、1984.5.31)

 

共産主義の経済体制は国家のためのものであり、民主主義の経済体制は個人のためのものです。妥協点を探してその隔たりを埋めなければなりません。妥協点を探して発展させていく国家が理想国家になるのであり、その国家が理想的な経済体制をもつようになるのです。
(52-267、1972.1.2)

 

⑥地球化と資本の平準化

― 宗教経典 ―

 

人類は、互いを一家族として結んでくれる結束力がある。それゆえに、富裕な国家は貧しい国の国民が最小限の人権も享受できない、貧困と絶望、空腹の現実に処しているとき、無関心でいることはできない。諸国家は、だんだんとより全世界的に相互依存を図っている。しかし、社会経済的不均衡が依然として存在する限り、永久的平和は維持できない。生産品、特に食糧を必要以上に過剰生産する諸国家は、正義と人類愛の名で、多くの人が飢餓で苦痛を受けている国家に援助を施さなければならない。人の生存のために必要な物を浪費したり、捨てたりすることは、人類愛を蹂躙する仕打ちである。
しかし、飢饉が時として実際にそうであるように、その国の経済の原始的状況に起因しているとすれば、緊急援助自体が究極的解決策になり得ない。永久的な治療法は、すべての方法を動員して、その国の国民たちに、科学、技術、専門的訓練をしてあげることだ。そして、近代化されたやり方で経済発展を加速化するために必要な資本を流通させてあげることである。……
開発途上国は、あきらかに国ごとに独特な特性がある。……。その中の一つが、彼らの由緒ある伝統と慣習だ。したがって、彼らを援助するとき、先進国は彼らの個性を尊重し、理解しなければならない。援助をしてあげるときにも、自分の国家の事例をこの国に適用させることに対して了解を求めなければならない。経済先進国が避けるべき、もう一つの誘惑がある。技術、財政的援助を通して貧しい国に政治的支配権を得ようとする考えが、巧妙に仮装された……このような新しい形態の帝国主義は、世界が最近になって抜け出した旧時代的な帝国主義を再び追い求めるものである。そのような行為は、国際関係に悪影響を及ぼすだけでなく、世界平和も危険にさらすことになる。
技術的、財政的援助をしてあげるときは、その国に対する政治的支配を念頭においてしてはならない。代わりに低開発国が社会的、経済的成長を成し遂げられるよう助けることに目的を置かなければならない。
教皇ヨハネ 23 世 マーテル・エト・マジストラ
(キリスト教)187

 

自由放任の経済原則は、時として独占市場を形成してきたため、貿易関係はこれ以上この原則にばかり依存することはできない。自由貿易は、それがただ社会正義に符合したときにのみ正当化される。経済体制自体を否定するのではない。ただ、競争は一定の限界内で公正で正当になされなければならず、そして真正な人間の努力によって定着しなければならない。
現在は、貿易取引において開発途上国と高度に先進化した国家の間に、全体的に、そして行為の自由において、大きな不平等が横たわっている。国際貿易がより人間的で道徳的であるためには、社会正義の次元で参加国に機会が平等に与えられなければならないだろう。
幅広い次元での国際的協議を通して、価格規制と生産設備の拡充、初期段階の発展産業に対する恵沢などの規範を設定することができる。このようにしたとき、国際貿易においてより大きな正義を構築しようとするこの試みが、開発途上国に大きな恵沢をもたらし、彼らは持続的な結果物を創出できるようになることは明白ではないだろうか。
教皇パウロ6 世 ポプロールム・プログレッシオ
(キリスト教)188

 

― み言選集 ―

 

先進国にはお金がたくさんありますが、そのお金は誰のものですか。神様のものです。権勢は誰のものですか。神様のものです。知識は誰のものですか。神様のものです。それでは、神様は誰のものですか。万民のお父様です。ですから、そのお父様の人格、経済、権勢、真理はすべて万民のものです。それで最近になって民主主義が出現するようになったのです。
民主主義で主権は民のもの、すなわち万民のものです。ですから、民が主権を左右しなければならないといいます。ところが、今日、主権が民にあるといいますが、実際その主権は財閥たちがもっています。今アメリカはおなかをいっぱいにしていますが、一人だけ裕福に暮らすようにはなっていません。すべて分かち合ってあげなければならないのです。天理がそうなので、アメリカは外国に援助してあげなければなりません。そうでなければ生きられません。アメリカがもっているすべてのものは、アメリカだけのものではなく、世界のものです。いかなる学識も先進国だけのものではありません。世界のものです。
(13-27、1963.10.16)

 

今日のアメリカがどのようにして世界的に信望を受ける国になったのかというと、第2次大戦以降に戦争に敗北した国々、すなわち怨讐の国にも援助してあげたからです。つまり、神様を身代わりして与えたので、アメリカの地位が高まったのです。しかし、これがだんだんと減っていくことによって落ちていくのです。
(26-53、1969.10.18)

 

皆さんが食べる食べ物は、皆さんのものですか。それはアメリカのものですか。宇宙のものであり、万民のものです。自分を中心としてこれを互いに自分だけがもとうとしています。すべてのものが均衡を成して統一された環境に存在するのです。空気がこのくらい密集していれば、これがいつも密集していますか。ないところがあれば自然に満たしてあげるようになっています。
アメリカのここが真空状態になったとき、ほかのところから空気が来ます。水もそうです。水も流れていきながら、空いているところをすべて満たしてあげていくのです。食べ物を食べるのも、満たしてあげることです。おなかがすいているので満たしてあげることです。そのようなものを吸収しなければなりません。今 2000 万が飢えて死んでいくのですが、アメリカは消費があまりにも多いのです。これは宇宙の法則に違反します。アメリカがいくらうまくやろうとしても、思いどおりにやってみても、うまくいきません。
(247-94、1993.4.25)

 

自分の国だけのために進んでいけば滅びます。ほかの国を自分の国の経済復興だけのための足場と思って搾取していく国は、滅びるというのです。アメリカがほかの国を経済的に後援してあげ、そこに加えて商売をしようとするので、アメリカが今まで援助をしてあげても非難される国になったのです。
(26-294、1969.11.10)

 

今、アメリカがしなければならないことは何でしょうか。自国の経済力を動員して最も貧しい国を訪ねていき、父母の心情をもって与えなければなりません。そのようにしなければ滅びます。父母の心情をもって僕の立場で心から、涙を流しながら与えなければならないのです。涙を流す人たちに対しては、涙を流す立場に立って与えなければなりません。与えるときにも、今までもっていた権勢の立場で与えてはいけません。それでは反発が起きるのです。誰が先に涙を流さなければなりませんか。受ける人が先に涙を流すのではなく、与える人が先に涙を流さなければならないのです。それが父母の心情です。ですから、与える人が涙を流して与えなければなりません。そのようになっているというのです。
それでは、与えるときは、どのように与えなければなりませんか。涙で与えなければなりません。あざ笑って与えては滅びます。これを知らなければなりません。アメリカが時々援助していますが、権勢をもって与えれば滅びるのです。それが原則です。大韓民国もそうです。アメリカに対して、「あなたたちは援助したといばっているが、いつかあなたたちがもらってみなさい」と言ってはいけません。与えるときは、涙で与えなければなりません。涙で与えることができる人になれなければ、兄弟ではなくお互いに怨讐だというのです。
(13-27 ~ 28、1963.10.16)

 

技術平準化、政治平準化、経済平準化をしないために、先進国が後進国に教えてあげず、かえって今まで搾取してきました。それは世界のものであって、アメリカのものではなく、ドイツのものではないのです。早く早く平準化、平準化、平準化させなければなりません。これから中国に、そのような平準化をさせたとしてみてください。中国の国民たちがどのように思うでしょうか。そうしてこそ、地上天国が早くできるのではないかというのです。
(135-107、1985.9.30)

 

私たちの真実の奉仕の基準である絶対的価値の水平的側面に目を向け、世界の欠点をまた点検してみなければなりません。例えば、物質的技術的な面で祝福を受けてきた国々が、そうではない国に行き、喜んでこれを分かち合おうとするまでは、世界平和というのは決して成し遂げられません。科学と技術の恵沢は、全人類のためのものです。そして、それは分けて共に享受されなければなりません。すべての国家は、国民の福利のために技術を利用する公平な機会をもたなければならないのです。これは、あらゆる国家の選手たちがコーチの指導を受け、一つの運動場で競争する道理と同じです。そのようにしなければ、先進国はそのようにできない国々のねたみと嫉妬の対象になるのです。統一運動は、技術における祝福をすべての国に分けてあげ、開発途上国の経済的独立の必須条件である自らの工業基盤を立てるのを助ける役割を担うようになりました。
第17 次 ICUS 基調演説、1988.11.25

 

いまだにこの世界には、多くの所に貧困があり、飢餓があり、不平等があまりに深化しています。これに対する宗教者の責任は、とても大きいと言えるでしょう。私は過去 20 年間、海洋資源開発のために直接先頭で船に乗り、多くの資源を投入しながら努力しました。高たんぱく質の水産物パウダーを開発することに成功し、人体に大切な製品を継続して研究開発しています。このすべての成果は、アフリカなどの地に効果的に支援されています。
地球上の飢えの惨状をなくそうという私の決意を実践しています。農業開発と海洋企業を通して食糧を生産し、発展途上国を支援することに各宗教が互いに連合、協力することができなければなりません。各宗教が先導するこのような人的、物的投資を通して真の愛が実践されれば、世界に希望を与えると見ています。
(271-71~ 72、1995.8.21)

 

行政府がウルグアイラウンドを中心として、世界のあらゆる弱小国家に対して余剰農産物をすべて売ろうと固執しています。それで、私が主張することは、「農産物を自由流通するのと同じように、人間の自由流通を許諾せよ」というものです。国境を撤廃しなさいということです。これを強制すれば、アメリカは立つ場がなくなります。
それで、今後、統一教会の教会員たちのもっている所有物と財産をすべて売らせ、アフリカの人のための僕になるよう送り出さなければ、アメリカは滅びると見ているのです。アメリカの人は、そのようなことを嫌います。仕方なく統一教会の教会員にそれをさせようと思います。それで、そのような行動をするようにして、滅びるアメリカに均衡を取らせることによって、継続して存在することが可能であることを知らなければなりません。
(261-309、1994.7.24)

 

 

10. 和合と共同体

すべての宗教は、自らの信仰の和合に対するビジョンをもつ。今日の私たちは、あらゆる人種、宗教、そして国籍を含む人類全体の和合に対する、巨大なビジョンを念願している。しかし、共同体形成のための原則原理だけが残っている。すべての宗教は、普遍的教えを中心として新しい社会を形成するため、分裂した様々な集団を統合する和合運動を始めた。世界経典はそれに対する指針を提示している。
文鮮明先生は、家庭がすべての社会的和合の基礎であるため、この和合は家庭を洞察しなければならないと教える。この節の様々な章句は、人体の多様な器官が協力して自身の機能を遂行するため、これを比喩として用いている。これは、調和がとれた共同体の中で、互いに支持しなければならない多様な社会的役割を表示するためである。人体は、最も低いものから最も高いものまで、すべての部分の適切な機能遂行に依存している。このように真実の共同体において、すべての人は、栄誉ある地位をもっている。(注 53)

 

①神様の民と家庭として和合

― 宗教経典 ―

 

またなんじらのうち一団の者は、人びとを善いことに招かせ、正しいことを命じ、邪悪なことを禁ずる。これらは成功する者たちである。明証がかれらに来た後分裂し、また論争する者のようであってはならぬ。これらの者は、きびしい懲罰を受けるであろう。 (注 54)
クルアーン 3.104~5
(イスラーム)189

 

見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。
詩編133(キリスト教)190

 

信者たちは兄弟である、それでなんじらは、ふたりの兄弟の間を融和せよ、そして神を畏れまつれ、おそらくなんじらは慈悲にあずかるであろう。
クルアーン 49.10(イスラーム)191

 

主はその民をシオンと呼ばれた。彼らが心を一つにし、思いを一つにし、義のうちに住んだからである。そして、彼らの中に貧しい者はいなかった。
高価なる真珠、モーセ書 7.18
(末日聖徒イエス・キリスト教会)192

 

父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。
わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
ヨハネによる福音書17.21~ 22
(キリスト教)193

 

和合して行け、和合して語れ、汝らの意は和合せよ、太古の神々が、和合して〔供物の〕配分に立会いしごとくに。勧告は一致して〔あれ〕、会合は一致して〔あれ〕。
思考は一致して〔あれ〕、彼らの心は一致して〔あれ〕。
共同の聖語をわれ汝らに唱う。共同の供物をわれ汝らに捧ぐ。
汝らの意向は一致して〔あれ〕、汝らの心は一致して〔あれ〕。
汝らの思考は一致してあれ、いみじき和合が汝らにあらんがために。
リグ・ヴェーダ 10.191.2 ~ 4
(ヒンドゥー教)194

 

そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
ガラテヤの信徒への手紙 3.28
(キリスト教)195

 

私たちの本質は、どこでも制限されておらず、私たちのぶどう酒の活力は、いかなる器にも入れられていない。私たちの壺をつくっている陶磁器のような中国人とインド人、私たちの体を形成している土のようなトルコ人とシリア人、私たちの心情はインド、シリア、ルーマニア、どこでもなく、イスラー
ム以外にどの祖国も、私たちは宣言しない。
ムハンマド・イクバール 滅私の秘義
(イスラーム)196

 

人は誰でも人との相互関係の中に置かれています。そして、その関係は運命という服をまとっています。一人に直接的な影響が加えられれば、他のすべてに間接的にその影響が返ってくるようになるものです。他の人たちが自分の位置で本分を果たすとき、私もやはり私の位置を見いだすことができ、私が私の位置で責任を果たすとき、他の人たちも自分の位置を見いだすことができます。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
(キリスト教)197

 

― み言選集 ―

 

歴史上で神様が最も希望することとは何ですか。神様の希望があるとすれば、救援も個人救援が問題ではなく、白人救援が問題ではありません。最も希望することとは何かというと、人類が、五色人種が一つになり、神様と生死を共にしようとすることです。
(93-15 ~16、1977.5.8)

 

外的統一よりも内的心情統一が重要です。
(60-34、1973.8.1)

 

先生は、未来世界の問題点の中の一つである人間と関連した障壁を崩そうとしているのです。いかなる類の有名な指導者も、文化的背景の障壁、習慣などと関連した人間間の障壁を崩すことはできません。誰がそのような障壁を崩せるのかというのです。ただ私だけができます。未来に迫る人種問題、文化と関連した諸問題、国家間の国境問題などを解決するために、アメリカを中心として、文化が異なり、文
明が異なり、宗教が異なる世界の国々を一つに統一する方法を模索しているのです。
(215-203、1991.2.17)

 

皆さんは今後、一つの家で暮らすのです。私がコンドミニアムを造れば、4世帯が暮らせる家を造ります。レセプションの場を一つ造り、食堂も一つ造り、韓国人、日本人、アメリカ人、ドイツ人の4世帯が暮らせるコンドミニアムを造らなければならないと考えています。ですから、一つにならなければなりません。一つにならなければ天国ができません。
(131-244、1984.5.4)

 

最も呪わしく、夢にも見たくない怨讐の家庭と、祝福結婚を通して一つの家族になったと考えてみてください。恨みの思いに凝り固まっていた父母たちの血統は消え去り、新しい強力な真の愛の血統が創造されるのです。両家の子女たちが夫婦となり、互いに愛し合い、幸福な家庭を築いて暮らすことを呪う父母がどこにいるでしょうか。いくら憎い怨讐の娘であったとしても、自分の息子の愛を受ける嫁となり、水晶のように清らかで澄んだ真の天の孫と孫娘を抱かせてくれるとしたら、喜びの笑顔を見せない
おじいさん、おばあさんがどこにいるでしょうか。
白人と黒人が、東洋と西洋が、ユダヤ教とイスラーム(イスラム教)が、さらには五色人種が一つの家族になって暮らせる道は、交叉結婚の道をおいて、ほかに方法があるでしょうか。共に暮らす生活の典型は家庭です。父母と子女は愛と尊敬で、夫婦は相互信頼と愛を基盤として、兄弟姉妹間は互いに信じて助け合い、一つになって暮らす家庭の姿が、正にモデル家庭なのです。私たちが命を懸けてでも、真の父母様から祝福結婚を受け、天の伝統である理想家庭を探し立てなければならない根本理由が、ここにあるのです。
平和神経、平和メッセージ 1.23 ~ 24
2005.9.12

 

②公共の敵に対抗する一致団結

― 宗教経典 ―

 

イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。
マタイによる福音書12.25(キリスト教)198

 

私の子供たちよ。戦争、恐れ、そして不一致があなたたちを、あなたたちの村からこの聖なる集まりの火につれてきた。共通の危険に遭遇し、そしてあなたたち家族の生存を心配しながら、あなたたちはまだ分裂し、漂流している。各部族が自分たちばかりを考え、自分たちばかりのために生きながら。私がどのようにあなたたちを小さな集団から導き出し、大きな部族連盟に育てあげたか考えてみよ。あなたたちは今、再び結合し、一つの体のように行動しなければならない。どの部族も、単独で私たちの野蛮な敵に対抗することはできない。あの者たちは、私たちの永遠の法に対しては何の関心ももたない。あの者たちは、すべての所に死と破壊を広げながら、極寒の暴風のように私たちを一掃してしまう。私の子供たちよ、よく聞きなさい。あなたたちは兄弟であることを覚えておきなさい。あなたたちは必ず一つの火、一つのパイプ、一つの戦闘組織をもたなければならない。(注 58)
デガナウィタ(アメリカ先住民の宗教)199

 

真実に私たちは、みな共に団結しなければならない。そうでなければ、最も確実なことは、私たちは分裂しつるしあげられるだろう。(注 55)
ベンジャミン・フランクリン 200

 

「一つの家庭が分かれて、それぞれ戦えば、その家庭は持ちこたえていくことができない」と言います。私は、この国がいつまでも半分は奴隷で、半分は自由という状態を保てるとは信じていません。私は、連邦が解体されることを願いません。私は、一つの家庭が倒れることを願うのではなく、紛争が終息することを期待します。こちらになるかあちらになるか、きっぱりと決めなければなりません。奴隷制度の反対者が奴隷制度の蔓延を防ぎ、一般の国民によって奴隷制度は究極になって消滅してしまうと信じて安心することができるのか、あるいは奴隷制度の擁護者たちが奴隷制度を押し進めていき、ついには新と旧、南と北を分けることなくすべての州においてこれを合法化させるのか、二つのうち一つになるでしょう。
エイブラハム・リンカーン(注 56)201

 

ナチが共産主義者たちを支持したとき、私は沈黙した。私は共産主義者ではなかったからだ。彼らが社会民主主義者たちを監禁したとき、私は沈黙した。私は社民主主義者ではなかったからだ。彼らが労働組合員たちを支持したとき、私は支持声明を発表しなかった。私は組合員ではなかったからだ。彼らが私を支持したとき、私のために立ち上がってくれる人は誰もいなかった。(注 57)
マルティン・ニーメラー(キリスト教)202

 

― み言選集 ―

 

完全に悪のローマ帝国の属国になったのは、何をしようとそうなったのですか。イスラエル民族は、内的に一つになって独立運動をするのです。ローマに向かって対抗できる、このような基盤をつくるのです。強い怨讐をもたせたのは、内的に一つになった、一つの統一運動をさせるための天の作戦だったことを知らなければなりません。摂理というものを知らなければなりません。ローマ帝国時代のカタコンベのようなところに行ってみれば、キリスト教徒たちが洞窟で暮らしていたのを見ることができます。
それを見れば、ローマから迫害を受けながらも、キリスト教を中心としてどれほど一つになっていたかを知ることができます。神様がそのようにしたのは、キリスト教を一つにさせて強力な統一性を付与するためです。
(105-124 ~125、1979.10.4)

 

今日、皆さんと私は共通の運命の前に一緒に立っています。私は、この悪の世界で正義を擁護する人が、もし何らかの実質的基盤をもつことができなければ、簡単に除去され得ることを骨の髄まで深く悟っています。したがって、学者と学生たちの連合戦線と共に、クリスチャンとすべての宗教の信仰者たちは共に働かなければなりません。
(129-304、1983.11.25)

 

③人間の体をモデルとした相互依存

― 宗教経典 ―

 

体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一
つの霊をのませてもらったのです。
体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
コリントの信徒への手紙一12.12~26(キリスト教)203

 

アブ・ブサが使徒の言葉を伝えた。「信者とは、互いに各部分を支える建物と同じだ」。そして彼は、彼の両手の指を組み合わせて見せた。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース
(イスラーム)204

 

肉体の欲望と、堕落した心の抱く欲望とによって、汝等の間に分裂が生じることのないよう注意せよ。汝等、一つ手の指のごとく、また、一つ身体の器官のごとくあれ。啓示のペンは、かくして汝等に勧告するのである。おお、汝等、信じる者ならば。
バハオラ 落穂集 72(バハイ教)205

 

指一本が痛むからといって、それを切ってしまうことはできない。(注 59)
ウンジャク族の格言(アフリカ伝統宗教)206

 

― み言選集 ―

 

理想世界を創建するために、私たちは全体的なモデル、すなわち青写真をもたなければなりません。統一運動が提示する理想世界像は、心と体が和合して完成した一人の人間に例えられます。神様を中心とする人間の精神的および霊的生活から人生の理想と目的が出てきます。神経組織は、心がしようとすることを各細胞に伝達し、四肢五体から入ってくる情報を頭脳に伝達します。この授受の過程が順調なとき、個人は調和した状態にあると言うのです。人類全体の精神的および霊的生活が、一個人のそれになぞらえることができるとすれば人類社会の経済的および外的な側面は個人の身体に例えることができるでしょう。人類の霊的理想と神様に向けた念願と愛は、宗教を通して社会と文化の中に表現され、それを中心に神学、哲学、芸術およびあらゆる文化が回転するのです。ここで宗教指導者、神学者および哲学者たちは、ちょうど人体の神経組織と同じように、神様から来るメッセージを解読し、全人類に伝達しなければなりません。
(133-272、1984.8.13)

 

ここの細胞を通っていた血が、足の底の細胞を通っていた血に、「ああ、頭のほうに来るな」と言うことができますか。このような境界線がありますか。頭のほうに来るなという境界線があるのですか。ありません。そのような意味で、黒人、白人、黄色人のような区別はありません。皮膚がここは白く、ここは黄色く、色がすべて違います。目の色も違い、髪の毛も違い、すべて違います。だからといって、 「ああ、お前は私と違うから別種だ」、そのように言えますか。
(91-280、1977.2.27)

 

肺臓と心臓と胃腸が、末梢神経を通じて伝達される頭脳の命令に従って、お互いに衝突することなく円満な授受の作用を維持しているように、この三臓器に該当する理想社会の立法、司法、行政の三機関も、政党に該当するキリストを中心とする信徒たちを通じて伝達される神の命令によって、お互いに原理的な授受の関係を結ばなければならない。人間の四肢が頭脳の命令に従い、人間の生活目的のために活動しているように、四肢に該当する経済機構は、神の命令に従い、理想社会の目的を達成するために実践する方向へと動かなければならない。また、人体において、肝臓が全身のために栄養を貯蔵するように、理想社会においても、常に全体的目的達成のために必要な貯蓄をしなければならないのである。
しかしまた、人間の四肢五体が、頭脳と縦的な関係をもち、肢体の間で自動的に横的な関係を結びながら、不可分の有機体をつくっているように、理想社会においても、あらゆる社会の人々が神と縦的な関係を結ぶことによって横的な関係をも結ぶようになるので、喜怒哀楽を共にする一つの有機体をつくるようになるのである。それゆえに、この社会においては、他人を害することが、すなわち自分を害する結果をもたらすことになるので、罪を犯すことができないのである。
原理講論、メシヤ再降臨準備時代 3.2

 

11. 世界市民

世界的潮流は和合に向かって絶えず流れているように見えるが、ある遠心力がその流れを脅かしている。今日、通信、教育、運送と貿易などにおいて、国家と国家の間を互いに有益で依存的なネットワークとして制度化しながら、世界化する傾向が現れている。しかし、世界の和合は、単に貿易の土台ばかりに依存することはできない。世界的懸案が経済的な主導勢力により調整されるなら、開発途上国の国民は世界化の犠牲者として残り、致命的な脅威を感じるであろう。人類歴史上、栄誉ある国民は、自身の慢心を担保とする代案を講じる。イスラム主義の登場がその一つの例である。世界和合の鍵は、経済に譲渡されることはない。その鍵の主人公は、正に宗教である。
各宗教の教えには、不和反目の要素があることは事実だ。しかし、各宗教には世界和合の理想を高める教え―人類の父母である神様に根源をおいた教え―を含有している。つまり、世界和合の主人公は神様である。全人類は神様の子女だ。したがって、世界は神様を中心とした一つの家族共同体である。宗教の教えは、このような和合を現実化する方法を提示する。例を挙げれば、文鮮明先生の超国家、超人種、超宗教的祝福結婚がそれである。

 

― 宗教経典 ―

 

人びとよ、われはひとりの男とひとりの女から、なんじらをつくり、民族にした、これはなんじらを、互いに認識させるためである。神のみもとで最も尊い者は、なんじらのうち最も主を畏れる者である。
クルアーン 49.13(イスラーム)207

 

人類という家族を一つと思わなければならない。
ジナセーナ アーディプラーナ(ジャイナ教)208

 

せかいぢういちれつわみなきよたいやたにんとゆうわさらにないぞやこのもとをしりたるものハないのでなそれが月日のざねんばかりや
おふでさき13.43 ~ 44(天理教)209

 

全人類があなたの側になるようにせよ。
アーディ・グラント、ジャプジー 28、M.1、p.6
(シク教)210

 

おお、地上で争っている民族や種族の人々よ。汝等の敵を和合の方に向け、その光の輝きを、自分達の上に照りはえさせよ。ともに集い、たとえ自分達の間の論争の源は何であろうと、神のためにそれを根絶するよう決心せよ。さすれば、世界の偉大な輝かしいものの光輝が全地球を包み、そこに住む者は、全て一つの町の住民となり、ただ一つの王座の居住者となるであろう。
バハーウッラー 落穂集111(バハイ教)211

 

あなたは世界の市民であり、世界の一部分である。補助的部分ではなく、重要な部分である。あなたは、神聖な秩序を把握し、事物の連関性を考慮する能力がある。そうだとすれば、市民的特性は何を約定するのか。個人的利益を主張しないこと、ちょうど手と足のように饗応するだけであって、分離した個人としては何に関しても熟考しないことがそれである。手と足に理性があり、自然法を理解するとすれば、それらは決して全体に関連することなく何かを願ったり求めたりすることはないだろう。
エピクテトス 語録 2.10
(ヘレニズム)212

 

私はアテネ人でも、ギリシャ人でもなく、世界の市民である。
ソクラテス(注 60)(ヘレニズム)213

 

あなたが宇宙から地球を見れば、地球でどの民族や国家の境界も見ることはできない。この地球は、近づいてくる新しい神話学の象徴なのかもしれない。地球は私たちが育てるべき国であり、人類は私たちが共に一つである人々である。
ジョーゼフ・キャンベル 神話の力 214

 

絶対真理の観点によれば、私たちが日常生活で感じ、経験することは、すべて幻影である。そのあらゆる多様な幻影の中で、私たち自身と異なる人に対する分別意識は、最悪の形態の幻影だ。なぜなら、それはどちらにも不幸ばかりもたらすからである。もし私たちが究極的真理に対して理解し、瞑想することができれば、それは私たちの心の垢をきれいに洗い、分別意識を除去するだろう。これは互いに対する真の愛をつくりあげることに助けとなるだろう。
テンジン・ギャツォ、第14 代ダライ・ラマ
(仏教)215

 

もし愛の一致が一つの家庭にはっきりと現れていれば、その家庭は発展して光り輝き、神霊に満たされるだろう。しかしもし、その家庭に不和と憎悪が存在すれば、破壊と解体が必然的である。これは一つの都市でも同様である。もしその中に居住する人たちが和合と親睦の精神を現せば、その都市は着実に進歩し、生活の状況は明るくなるだろう。反面、不和と闘争を現す都市は崩れ落ち、その住民はばらばらになるだろう。このように、一つの国の民も、愛と和合を通して発展し、文明と教化で進み、戦争と闘争によって崩壊するのである。結局これは、人類全体でも同様である。愛が実現され、理想的な霊的 紐帯が人々の心を一つにするとき、全人類は高揚し、世界はより崇高で絢爛に成長するだろう。そして、人類の幸福と平穏がはかりしれないほど増大するだろう。戦争と闘争は根絶され、不一致と軋轢も消え去り、宇宙的平和が世界の諸国家と民たちを一つに結ぶだろう。全ての人類は、一つの家族として共に暮らし、一つの海の波として混ざり、一つの蒼空の星々として輝き、同じ木の果実に見るだろう。これが人類の幸福であり慶事である。これが人間の啓蒙であり、永遠の光栄であり、生命である。これが聖なる贈り物なのである。
アブドゥルバハー 万国平和の普及(バハイ教)216

 

― み言選集 ―

 

私たち人間に国籍を超越した一つの統一世界で生きようという強力な欲望が各自の内面世界からほとばしっています。このような内面の叫びは、真の人間の理想であり、心情であり、これはすなわち神様の心情であり、希望でもあります。
(115-177、1981.11.10)

 

超民族的な主義でなければなりません。超民族的な心情を中心として、自分の民族より、その国をもっと愛することができる民族が出てこなければなりません。
(34-337、1970.9.20)

 

これからは「私の国」という定義が発展的でなければなりません。もちろん私が生まれて育った国が、まず「私の国」であることに間違いありませんが、より大きい見地から見たならば、私の父であられる神様がつくられた世界が、すべて「私の国」なのです。
(219-121、1991.8.28)

 

今まで歴史を、国家を、自分の国を中心としてそのようにしてきました。人間たちはそのように考えましたが、神様がいるとすれば、神様はどのように考えたでしょうか。神様いわく、「私はアメリカの国だけを愛する!」と言われたのなら、その神様はアメリカの神様にしかなりません。その神様は、アメリカが滅びるときに滅びなければならない神様です。しかし、神様はそのように考えません。人間たちよりも次元の高い考えをするので、家庭のために生き、国のために生きる思想よりもっと徹頭徹尾な世界のために生きる思想を神様は立てようとするのです。
(95-53、1977.10.23)

 

アメリカを立てた目的は、アメリカを中心に世界を救うことです。アメリカ人たちは、アメリカが世界を救わなければならないことを知らずにいます。世界の歴史上において、単一国家が中心となって宗教と文化的に世界全域を統一したことがたった1度だけあったのですが、それが正に第2次世界大戦直後のアメリカが全世界を占領したことではないですか。アメリカとカナダの大統領を中心とするアメリカは、全世界の貧しい国々を助けてあげる立場にいたのです。
(215-200 ~ 201、1991.2.17)

 

天宙主義というものは、世界を一つの家にしようというものです。それでは、この家には父母がいなければならないのですが、ここで天は父であり、地は母です。次に、兄弟がいなければなりません。
(36-296 ~ 297、1970.12.13)

 

「私たちの家庭は真の愛を中心として、神様の創造理想である天宙大家族を形成し」、神様の理想は、世界がすべて一つの家庭になることです。「天宙大家族を形成し、自由と平和と統一と幸福の世界を完成することをお誓いいたします」 (注 61)、自由というものは個人の自由ではなく、全世界の大家庭にいる人たちの自由であり、大家庭の平和であり、大家庭の幸福です。全人類がすべて幸福だということです。霊界に行ってみれば、全世界の人たちが1度に集まるのですが、国境がありません。五色人種が集まっています。誰が過去、現在、未来まで、すべて一つになることができる家庭的理念をもって
準備しているかが問題です。
(260-191~193、1994.5.8)

 

7か国の人と因縁を結んだ生活をしてこそ、天国に入れる。
御旨の道、天国人

 

人は、空間の世界に立てば必ず上下が必要であり、左右が必要であり、前後が必要です。そうしてこそ、自分の存在位置が確定するのです。皆さんが上下に正しく合わせているか、左右、前後を正しく合わせているかによって、様々な姿になるのです。
皆さんの上下、左右、前後関係、そして家庭の問題や国の問題、世界の問題を扱うとき、公式は一つです。個人を中心として上下、左右、前後があるように、家庭でも父母と子女がいなければならず、夫と妻がいなければならず、兄弟姉妹がいなければなりません。
これと同じように、国にも国の主人を中心として、あらゆる家庭が東西の文明、南北の文明をすべて抱き、その次に世界の万民を兄弟姉妹のように抱き、結局、一つの家庭モデルを成すのです。モデルは同じです。そして、私自身がそのモデルの中心です。自分がいる次には自分の家庭がなければならず、国と世界と天地、そして神様まで進んでいかなければならないのと同じ道理です。
(287-19 ~ 20、1997.8.10)

 

このようにすることによって、神様が願われていた摂理の家ができるのです。その家が私たちの国になり、私たちの世界になり、私たちの天地にもなります。私たちの家に行けば、五色人種がすべています。アメリカ人、ドイツ人、フランス人、イタリア人、その次にイギリス人、日本人、怨讐同士がいるのです。昔の怨讐の感情を感じようとしても感じられません。昔のドイツ人、アメリカ人、イギリス人、日本人という、このような感情を感じようとしても感じられないのです。いくら怨讐だとしても、「ために生きる」愛をもてばすべて一つになります。
(106-83、1979.12.9)

 

自分の一つの民族を中心とする宗教をもって、世界的なみ旨を成就しようとするのはとても不可能なことです。自分の民族や国家を越えなければならず、自分の民族の伝統的な社会制度や文化、その他のあらゆる慣習をすべて打破してしまい、世界人を中心とする社会、神様のみ旨と和合できる一つの世界を模索しなければなりません。そこにあらゆる心情を一体化させ、生活全体を一体化させなければなりません。人生観なら人生観を、世界観なら世界観を一体化させることを断行しなければ、宗教として残ることはできないでしょう。
民族を中心とする幸福の理念を求めようとするのではなく、世界を中心とする幸福の理念を求めようとする統一教会にならなければなりません。歴史過程の宗教を中心として見てみるときに、現在がそのような時点だということを私たちは知らなければなりません。自分を中心とする観念、自分の家庭を中心とする観念、自分の国家を中心とする観念では世界化が成されないのです。
(27-179、1969.12.14)

 

歴史は一つの世界を指向してきているので、個人、家庭、民族、国家のためのことはすべて過ぎてしまいます。神様は、皆さんに世界的な標準存在に接ぎ木してくださいます。それは永遠に残ることができる基準を望んで生きる皆さんにするためです。
(12-45、1962.9.10)