世界経典Ⅱ 第4部 家庭と社会 第21章 指導力とガバナンス
第21章 指導力とガバナンス
1.神様を畏敬する指導力
神様は、すべての人間の制度を主管される。したがって、指導の第一原理は、天法によって政府が運用されなければならないということである。指導者は、神様を畏れ、神様が受け入れられるやり方で国民を統治しなければならない。指導力は公的信頼である、すなわち神様の代理人として発揮する力量だ。したがって、一つの国の指導者は、神様の霊的価値を中心として国家を運用しなければならない。国王や大統領は、神様の前に責任があることを認識しなければならない。神様は、自身の信頼を破った指導者には断固として罰を下される。また指導者は、神様が人間社会の出来事に同参できる高次の法を設定し、それにより運用する責任がある。
一宗教経典一
イスラエルの神は語り/イスラエルの岩はわたしに告げられる。(注1)神に従って人を治める者/神を畏れて治める者は/太陽の輝き出る朝の光/雲もない朝の光/雨の後、地から若草を萌 え出させる陽の光。
サムエル記下23.3〜4 (キリスト教)1
ダビデよ、われはなんじを地上における代理者にした、それゆえ人びとの間を、真理によってさばき、私情に従って、神の道からなんじを誤らせてはならぬ。神の道から迷う者は、清算の日を忘れた者で、必ずきびしい刑にあうのである。
クルアーン38.26 (イスラーム)2
天の聡明は、わが人民の聡明による のでございます。天の明威は、わが人民の明威によるのでございます。上(天) 下(民)に相通じております。敬わねばなりませんぞ、有土者よ。
書経2.3.3,皐陶謨(儒教)3
統治者が至高至純であられる神を畏敬し、善政を施せば、彼に大きな報いが与えられるだろう。そうしなければ、応報が彼に戻ってくるだろう。
ムスリム・ハディース(イスラーム)4
天の怒りを敬み
戯れはしゃぐことなかれ
天意の変ることを畏れ
気ままに振舞ふことなかれ
天つ神 明らかにして
汝とともに出でまさむ
天つ神 明らかにして
汝とともにゆきまさむ(注2)
詩経,254板(儒教)5
人間に属することがらを離れて超えて、神々のことばを選んで、〔あなたの〕すべての朋友とともに〔師の〕指導にしたがえ。
アタルヴァ・ヴェーダ7.105 (ヒンドウ一教)6
もしあなたの王権が、名声のためでなく、また欲望のためでなく、法のためにあるならば、きわめて実り豊かであり、もしそうでなければ、値打ちのないものとなるでしょう。
龍樹 宝行王正論327 (仏教)7
あなたが、あなたの神、主の与えら れる土地に入って、それを得て、そこに住むようになり、「周囲のすべての国々と同様、わたしを治める王を立てよう」と言うならば、必ず、あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい。同胞の中からあなたを治める王を立て、同胞でない外国人をあなたの上に立て ることはできない。王は馬を増やしてはならない。馬を増やすために、民をエジプトへ送り返すことがあってはならない。「あなたたちは二度とこの道を戻ってはならない」と主は言われた。王は大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない。銀や金を大量に蓄えてはならない。彼が王位についたならば、 レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの捉を忠実に守らねばならない。そうすれば王は同胞を見下して高ぶることなく、この戒めから右にも左にもそれることなく、王もその子らもイスラエルの中で王位を長く保つことができる。
申命記17.14 ~20 (キリスト教)8
この金輪宝はおまえの父の財産ではない。おまえが聖王として正しい法をひたすら懸命に行い、正しい法をなして、……法に依拠して、法をしっかり立て、法に欠けることなくそなえ、恭しく法を尊重し、考察し、法を第一とし、正しい法を守るべきである。さらに、法にもとづいて、王子や大臣、す ベての官僚たちや国民、沙門、婆羅門、さらに鳥やけものに至るまでみまもり、いましめるべきである。みなをまもる べきである。
阿含経長部iii.60〜61.転輪聖王修行経(仏教)9
少数で、今日の無用な人々と呼ばれてはいますが、決して邪悪ではない哲学者たちによって、偶然にある必然性が、彼らが願おうと願うまいと、国を管理するようになリます。国は国でこれに従うようにするまでは、または、現在の権力を掌握していたリ、君主として統治をしている当事者たちや彼らの子孫たちに、何かの神的な感化によって本当の哲学に対する本当の愛の感情が不意に襲ってくるまでは、国も政体も、また個人さえも同じように、決して完全になることはできません。
プラトン 国家6 (ヘレニズム)10
ーみ言選集ー
皆さんは、自分のどこが不足なのかを知っています。自分がよく知っているのです。自分の神様は、自分です。自分の神様を知らない人は、神様を知ることができません。神様の代身の立場で影のようにいる私が、その神様を中心として相対的な対象体として完全に一つになってこそ、どこでもリードできるのです。そうであってこそ、顔を上げて堂々と語れます。
(237-144.1992.11.13)
指導者は、神様を身代わりし、天倫を身代わりし、そのみ旨を地上に成し遂げようとする人です。(11-172,1961.7.9)
世界の秩序は、政治主権が道徳的、霊的、思想的価値と別個に作用しては、公益と平和が保障されるのは難しいのです。神様の理想に基礎をおく、宇宙の公法と通じる霊的、道徳的高次元の指導刀が要請されます。政治力やそのいかなるカも、神様と天理の上に立つことはできません。
(359-321.2001.11.8)
本来は、政府の大統領から上下議員まで、すべてキリスト教の正常な合格者たちでなければなりません。神様がそれを願われるのです。議会や大統領までも神様がコントロールしなければならないということです。神様に尋ねれば、神様が「私は政教を分立する神だ。宗教だけのために生きる神だ」、そのようにおっしゃいますか。 違います。
キリスト教がすべて政教分離をしていけば、これから完全に滅びます。今からでも遅くないので、キリスト教全体が宗派主義を打破して完全に一つになり、UNから統一運動、一つになる運動をすれば、世界が生き得る道があることを、ここから見いだせます。宗派主義を打破し、キリスト教が一つになって運動をしなければなりません。UNも、キリスト教が押し進める中で、アメリカも、キリスト教が押し進める中で、全世界が一つになる運動も、キリスト教が推し進める中で展開しなければなりません。(93-81-82.1977.5.15)
今、宗教が世の中でその指導力を発揮する時になりました。指導力とは、盲信的であったり、偏狭から来る傲慢と独善的な態度からは出てきません。真の指導力は、天のみ旨に私を従属させ、利他的であるときに生じるのです。宗教者たちは、この時代の状況と様々な非理に対して責任を感じたいと思う 自己省察がなければならない時だと思います。
今まで宗教者たちは、愛の実践において手本になることができず、自分個人の救援や宗派利益にきゅうきゅうとするあまり、全世界の救援のために尽カできなかったことを悔い改めなければなりません。今こそ、信仰だけでなく愛の実践が要求されている時です。
(234-273.1992.8.26)
良し悪しを何で決めますか。何を標準とするのかというのです。それはアメリカの大統領でもなく、民主世界の責任者でもなく、共産党の責任者でもありません。歴史を支配し、この天地を動かしているある主人がいるとすれば、その主人だというのです。その主人に仮名をつけて、神様としてもよいのです。その名前は、何でもよいというのです。
(104-206.1979.5.6)
2.義なる指導力
指導者の必須的な資質の一つは、義であることだ。義は、自身の利益に関係 なく、ただ公共福祉に献身することである。義なる指導者は、難しい問題に直面しても委縮しない。彼は、公的正義を立ててそれに責任をもち、自身のすべてのものを投与しながら、それを具現させるにおいて、どんな障害物も克服する者である。彼は、公的な業務の成就において、自身はもちろん、自身の同僚にも犠牲が要求されることを知っている。彼は、決して同僚たちの苦痛を当然だと考えず、彼らが克服しなければならない逆境に対して格別に心配する。そして、自分自身も、その逆境に喜んで同参する。彼は、未来の世界のビジョンを提示し、現実的課題を果敢に遂行する。
個人的水準で義なる指導者は、正直性を担保としている。彼は、自身の職務から利益を追求せず、自身の利益のためにどんな形の公金も誤用しない。不正腐敗には何らかの毒性が含有されているため、彼は、どんな犠牲を払ったとしてもそれを回避する。
①正義に対する情熱と人間に対する熱烈な愛
—宗教経典一
神が人間を、互いに抑制し合うようし向けられなかったならば、大地はきっと腐敗したことであろう。クルアーン2.251(イスラーム)11
主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行って彼に告げなさい。ヘブライ人の神、主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ』と。
出エジブト記9.1(キリスト教)12
ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれ た。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
ヨハネによる福音書2.13-16 (キリスト教)13
お前たちの誰でも、悪行を見かけたら自分の手でそれを変えるようにするがよい。それができなければ自分の舌で。それもできなければ心で。だがそれしかできない者は、もっとも信仰の弱い者。
ナワウィー 40のハディース34 (イスラーム)14
そういえば、人々にして、天則とともなる行動をもって、マズダーよ、御身の宣告を充ち足らわせることに、善思でもってこれ従うなら、彼らは諸邦のサオシュヤントらとなるでしょう。彼らはアエーシュマの打倒者として使命づけられているからです。
アヴェスター・ヤスナ48.12 (ソロアスター教)15
私の任務は、使徒時代の任務と同じだ。私は不敬と不浄をなくし、正義で真実な統治と人道的で天国と同じ政権を樹立するときまで奮闘するだろう。 必ずや! クライシュ族よ、私が誰なのか忘れたのか。私は彼らに信仰がなかったとき、彼らと闘い、彼らを敗北させた。そして今、彼らの暴悪で、不浄で、信仰がない統治を除去するために、彼らと闘うだろう。現在の私は、聖なる使徒として生存していたときの私自身より、もっと彼らがよくなることを願う。私の勇気と決意は減ってはいない。(注4)
ナフジュ・アル・パラーガ 説教38 (イスラーム)16
先生がいわれた、「(人を)愛するからにははげまさないでおれようか。(人に)誠実であるからには教えないでおれようか。」
論語14.8 (儒教)17
私たちは、当然、共同体が経験する困難を分かち合わなければならない。私たちの師であられるモーセが共同体の困難を共に分かち合ったことを私たちは知っているからである。
タルムード・タアニート11a (ユダヤ教)18
わたしが見たのは、あなたたちがあなたたちの神、主に罪を犯し、子牛の鋳像を造って、早くも主の命じられた道からそれている姿であった。わたしは両手に持っていた二枚の板を投げつけ、あなたたちの目の前で砕いた。主の目に悪と見なされることを行って罪を犯し、主を憤らせた、あなたたちのすべての罪のゆえに、わたしは前と同じように、四十日四十夜、パンも食べず水も飲まず主の前にひれ伏した。わたしは、主が激しく怒りに燃え、あなたたちを滅ぼされるのではないかと恐れたが、主はこのときも、わたしに耳を傾けてくださった。
申命記9.16-19 (キリスト教)19
私は人間の心を抑圧するいかなる形の暴政に対しても、最後まで抵抗することを神の祭壇に誓った。
トマス・ジェファーソン(注3) 20
私は血、苦労、涙、そして汗しか捧げるものがありません。
ウィンストン・チャーチル21
—み言選集—
本当の大将になれる人は、どのような人ですか。死が立ちふさがっても、困難があっても、それを消化しようとする人だけが大将になれるのです。涙を流し、食べることができなくても、行かなければなりません。涙を流すことができるその場面を見ても、行かなければならないのです。死ぬことがあっても、行かなければなりません。現在の私と関係のある利益はなかったとしても、未来の世界と神様と関係のある利益があるので行くのです。
(118-41 ~42、1982.52)
環境に引っ張られていくのではなく、私が環境を引っ張っていかなければならない。
(御旨の道・指導者)
善をつかんでいく人の道は、平坦な道になり得ないという事実を知らなければなりません。人知れず善の人格を追求する人がいるとき、その彼を歓迎する人は、この地に多くないという事実を私たちは知るようになります。善の個人が善の家庭を慕い求めていくにおいても、環境が歓迎してくれないことが分かるとき、善の家庭が善の氏族を慕い求めていく道には、より難しい悪条件がその環境を取り巻いていることを感じるようになるでしょう。
さらには、善の氏族が善の国家を慕い求めていくとすれば、より途方もない悪の勢力が反旗を掲げ、その氏族の行く道を妨げようとすることは間違いありません。また、善の国があり、善の世界を追求していくとすれば、この世界が善の世界になれないので、悪の国々がその善の国が行く道を協助するのではなく、四方から反対してくることは間違いありません。
(36-52.1970.11.15)
責任者になろうとすれば、
①立つべき立場を整えて、環境を主管しなければならない。
②み旨の目的に向かっていく立場において、先頭に立たねばならない。
③数においては負けても、全体を思うことにおいては勝たねばならない。
④食べる前にも眠る前にも、彼らを思い、祈ってあげなければならない。
⑤彼らが私のためにいるのではなく、私が彼らのためにいると思わなければならない。
⑥神が与えてくださったものの上に、私がプラスさせようという心がなければならない。
(御旨の道・指導者)
イエス様が復活なさったのちに弟子たちを訪ねられたのは、彼らと立てた誓いを彼らは裏切っても、天は裏切ることができなかったので訪ねていったのである。誓いが果たされるまで、責任者は責任を放棄することができない。
(御旨の道・指導者)
現在だけを考え、未来を考えるのを嫌う人を好む人がいますか。そのような国はなく、そのような指導者はいないと思います。「国の未来のためには、皆さん国民が耐えて苦労しなさい。苦労しなさい」、このように指導するのが国の偉大な指導者であることを知らなければなりません。皆さん、アメリ力の青年たち! 先生の話が理解できますか。
(97-88. 1978.3.1)
指導者は、涙がなければ指導することができない。押し迫ってくる民族の苦難と試練を知って、ここに備えることのできる苦痛を与え、試練を与えて鍛錬させる者が、真なる指導者である。
(御旨の道・指導者)
②指導者の原理的生活と自己犠牲
一宗教経典一
先生がいわれた、「利益ばかりにもたれて行動していると、怨まれることが多い。」
論語4.12 (儒教)22
斉の景公が孔子に政治のことをおたずねになった。孔子がお答えしていわれた、「君は君として、臣は臣として、父は父として、子は子として〔それぞれ本分をつくすように〕あることです。」公はいわれた、「善いことだね。本当にもし君が君でなく、父が父でなく、子が子でないようなら、穀物があったところで、わたしはどうしてそれを食べることができょうか。」(注5)
論語12.11(儒教)23
以後、神に最も近く、最も愛される者は、公正な統治者であり、神が最も遠く、最も憎まれる者は、好戦的で不浄な統治者である。
トウハピット・アル・アファジ1327 (イスラーム)24
孟子はお答していわれた。「王様は、どうしてそう利益、利益とばかり、ロになさるのです。〔国を治めるのに〕大事なのは、ただ仁義だけです。もしも、王様はどうしたら自分の国の利益になるのか、大夫は大夫でどうしたら自分の家に利益になるのか、役人や庶民もまたどうしたら自分の身に利益になるのかとばかりいって、上のものも下のものも、だれもが利益を貪りとることだけしか考えなければ、国家は必ず滅亡してしまいましょう。
いったい、万乗の大国でその君を弑めるものがあれば、それは必ず千乗の領地をもらっている大夫であり、千乗の国でその君を弑めるものがあれば、それは必ず百乗の領地をもらっている大夫であります。万乗の国で千乗の領地をもらい、千乗の国で百乗の領地をもらうのは、決してすくなくはない厚禄です。 それなのに(彼らが)十分の一ぐらいでは満足せず、その君を弑めてまでも(全部を)奪いとろうとするのは、仁義を無視して利益を第一に考えているからなのです。昔から仁に志すもので親をす てさったものは一人もいないし、義をわきまえたもので主君をないがしろにしたものは一人もございません。だから王様、どうかこれからは、ただ仁義だけをおっしゃってください。どうして 利益、利益とばかり口になさるのです。
孟子l.A.1(儒教)25
そなたは予に教えて予の志を導いてくれよ。もしも予が醴酒を作るとすれば、そなたはそれを発酵させる麹である。もしも味こまやかな羹を作るとすれば、そなたは味つけの塩梅である。(注06)
書経4.8.1〜3 (儒教)26
領議政になろうとする人は、必ずその心と目を準備しなければならない。目が清いとき、人は正直さと不浄さを知ることができる。心が公明正大であれば、そのとき人は正直さに向かい、不浄さを退けることができる。
朱熹(儒教)27
君子は官職に就く前に、周辺の他のものではなく、その能力を深思熟考する。
朱熹(儒教)28
ーみ言選集ー
どのような人を人格者だと言うのですか。ある社会制度の中で中心的な位置に立つことができる人を人格者と言います。例えば、ある村に尊敬される人格者がいるとすれば、彼はその村の内外に暮らしている人たちに、生活的にも、精神的にも、中心的な作用をすることができる人です。そうであってこそ、彼が尊敬の対象になることができるのです。
それは、国家においても同じです。 国家もやはり国家の代表者、すなわち一人の人格者を中心に国家が形成されるのです。その人格者を中心に国民が相対的関係を結ぶことによって、実体的な組織が形成されます。このように考えてみるとき、範囲が広い世界にもやはり一人の中心的な人格者がいなければなりません。
(29-125.1970.226.)
木が大きくなればなるほど、根は地下に深く人っていく。根の浅い木は枯れるか、あるいは風が強いとき、引き抜かれてしまうだろう。指導者とは、根のような者である。
(御旨の道・指導者)
「国で最も困難なことを私がやった」と言えなければなりません。さらには、「世界で最も困難なことを私がやった」と言えなければなりません。
(113-111, 1981.5.1)
犠牲になる人は、必ず中心者になります。家庭において孝子は、より犠牲になる人です。ですから、家庭の中心になるのです。国の愛国者は、より犠牲になる人なので、国の中心者になるのです。聖人の中でも、より犠牲になる聖人が聖人の中の聖人になります。これが天理だからです。
(113-326.1981.5.10)
指導者の不足を補いはぐくんであげなさい。指導者を批評する者は、カインの王である。指導者の欠点を包み、責任をもとうとする者は、いつの日かアベルの立場に立つようになる。(注7)
(御旨の道・指導者)
1番の問題が政治問題です。政治家たちが詐欺を働いてはいけません。管理体制に移っていくのです。法によって保障された道を行かなければなりません。問題は何かというと、お金の管理です。食べて生きていくにおいて、誰が良いものを食べ、誰が良いものをもつのかということです。これが問題です。良いものをお互いがもとうとしてはいけません。良いものは全体のために与え、中以下のものを自分が願う、このようにしていけば自動的に標準化になるのです。
それで、これから1番の問題とは何かというと、公金活用です。これが1番の問題です。その次には、人事措置です。この二つです。人事措償を自分の系列を中心として行い、民主主義や何々主義として野党と与党に分かれたのです。ですから、国家の傷がどれほど大きいですか。今までしていたこと に熟達していた人たちが、敗れて、流れていってしまうのです。そうでなければ、中間でへし折られ、そこからそれ以上は上がっていけません。その場で回りながら下がっていくのであって、上がってはいけないのです。政治がなくなって管理体制になるのです。すべて管理するのです。お金を分配して良 くできるのかできないのか、ということを管理する体制になります。
(324-253 〜254 2000.6.24)
③正義の指導者は腐敗を遠ざける
一宗教経典一
個人的利益を取ろうと高い位置に座る者は、自分の快楽ばかりのために女性の体を貪る者と同じだ。主なる神は言われる。「私が聖なる者と呼ばれるように、あなたたちもまた聖なる者となれ。私がもつ性稟に似ることができなければ、指導者の位置にいることはできない」。
ブスィクタ・ラッパティ111a (ユダヤ教)29
権力の地位を要求するな。もしあなたの要求によってその地位に上がれば、あなたは自らその職から退くようになるだろう。しかし、あなたの要求なくその職が与えられたのなら、あなたは(神の)助けを受けるだろう。
ムスリム・ハディース(イスラーム)30
必ず、正当な事由なく公金を詐取する官僚は、誰でも最後の審判の日にそれに対して尋ねるその主に出会うようになるだろう。
ムスリム・ハディース(イスラーム)31
賄賂はあらゆる種類の罪悪が訪れる門である。賄賂で買う人たちは、自分の母の乳房を切り取る。
ソーマデーヴァ ニーティヴァーキャームリタ17.184(ジャイナ教)32
大きな道はまったく平坦であるのに、人々は小さな近道を行きたがるものだ。
宮廷はきれいになっていても、人々の畑はひどく荒れはて、
倉庫には穀物の貯えはなにもない。
支配者は高価な衣服を着て、立派な剣をつけ、
腹いっぱい飲み食いし、法外な財宝と高価なものを持っている。
これこそ最大の盗人であり、大きな道からはずれたことである。
道徳経53 (道教)33
貪欲より嫌悪すべき悪徳はない、地位の高い人から特にそうだ。そして、国家の統治で偏向されたものより嫌悪すべき悪徳は ない。
マルクス・キケロ(ヘレニズム)34
ーみ言選集ー
宗教指導者であれ、政治指導者であれ、最も大きな欠格事由は利己主義です。
(299-106-107.19992.6)
二人の中で、自分がいる位置以上の者を中心として、上のために、よりために生きようとする人は善側の位置に立つのであり、自分のために、より低いものについていこうとする人は悪側の位置に立つのです。官職にいる人が、国のために生きなければならない立場であるにもかかわらず、自分の家庭だけのために生きれば、悪になるのです。
(170-176.1987.11.15)
公金を略取してはいけません! 公的な環境を破壊させることは、国家財産の略取と同じで恐ろしいのです。そのように生きる人は、いくらうまくやろうとしてもできません。
(347-85. 2001.7.3)
自分の私的なものを公的なものよりもっと重要視する人は、天道に背く人です。私的な自分の人格を公的人格よりもっと重要視する立場は、み旨に背く立場です。公的な席で私が批判するのは、そのような観点で批判するのです。私的な人格は私が激しく非難します。恥ずかしければしないのです。しかし、公的な人格は異なる対応をします。
(51-291-292,1971.11.28)
霊界に行けば、最も恐ろしい罪は何でしょうか。公金を誤って使うことが第1です。2番目は、公的な立場で公的任務を果たさなければならないのですが、任務を無視することです。3番目は、原理原則に違反することです。これが三大罪です。(注8)
(97-155 ~156.1978.3.12)
自分を中心として全体を利用するの は、神様を利用するのと同じです。皆さんは、これをいつも考えて、絶対的に注意しなければなりません。ですから、人が教会に訪ねてくる時や、あるいは皆さんが伝道する時、「この人は献金をたくさんするだろうか」という考えは、絶対にしてはいけないというのです。
(33-164.1970.8.11)
3.典型的指導力
最高の指導者は、徳性と義の模範である。ある社会の精鋭構成員である政治家、教授、著名人、そしてスポーツの英雄たちが、正直、誠実と道徳性の手本になることを自身の義務として認識するとき、その社会は祝福を受けるだろう。彼らの役割がモデルになるとき、普通の人々は自然に彼らの模範的な姿に従うだろう。私たちは、模範的な指導力を三つの側面から識別できる。
一つ目は、指導力は家庭で始まる。指導者が自身の配偶者と子女に配慮して家庭を治める方法は、より広い領域の統治と社会的責任分野を担当する自分自身への出発点となる。
二つ目は、胸と心を刺激して統治することが指導力である。中国では、孔子と彼の追従者たちが法治主義者などの観点に反対しながら、模範的な指導力の理想を表明した。法治主義者たちは、法と法の強力な施行、すなわち毛沢東がのちに語ったように「銃弾による力(権力)」から指導力が流れ出ると教えた。孔子は、もし指導者たちが腐敗したならすべての国家権力は、不満をぬぐい去ることはできず、これとは反対に、国民は、ただ暴力と抑圧を学ぶようになると対抗した。
三つ目は、私たちは、神様がこの地上に送った聖賢と宗教的な師たちから、模範的な指導力の手本を見ることができる。ナザレのイエスは、単に彼の説教、み言だけではなく、犠牲的愛を実践することによって教えた。イエスの足跡に従っていくキリスト教徒たちは、「イエスが何をしようとしたのか!」を尋ね求めながら、そのようにするという。イエスは、十字架で自身の怨讐を愛した。これは、私たちが従うことが困難な手本である。それゆえ、怨讐を愛して迫害者のために祈ることが、それ以後、キリスト教徒の信仰の土台となった。政治指導者たちがこの聖賢の模範に従うとき、彼らは確実に世界平和を成し遂げるはずだ。
模範的な指導力の資質は、文鮮明先生の教えにおいて「三大主体思想」として要約される。指導力の標準は、「真の父母、真の師、そして真の主人」となることである。そのような指導者は、主人としてこの世界を監督し、深い父母の愛をもってすべての被造物を世話し、私たちを真の生命の道に継続して教導していく私たちの天のお父様、すなわち神様の本性に参与する。しかし、いまだにこの教えを知らない指導者たちが、あまりにも多い。彼らが正に私自身ではないか、と省察してみなければならない。
①模範的で徳望のある個人生活
—宗教経典一
先生がいわれた、「わが身が正しければ、命令しなくとも行なわれるが、わが身が正しくなければ、命令したところで従われない。」
論語13.6 (儒教)35
国王が正直になれないのに、どこの民が正直にできるだろうか。国王が律義にできないのに、どこの民が律義にできるだろうか。
ソーマデーヴァ ニーティヴァーキャームリタ17.183(ジャイナ教)36
単に世界の維持のみを考慮しても、 あなたは行為をなすべきである。
最上の者が何かを行えば、他の人々も同様にする。彼が手本を示せば、人々はそれに従う。
バガヴァッド・ギーター3.20 ~21(ヒンドウー教)37
河水を渡る牛群の首が曲り行くならば、 すべての牛群曲り行く導首が曲り行くゆゑに、
かく人間の中にても第一恭敬せられたる人が非法を行はば餘の人々尚更ぞ、王若し非法なるならば、一切国上苦に沈む。
河水を渡る牛群の首が直に行くならばすべての牛群直に行く導首が直に行くゆゑに、
かく人間の中にても第一恭敬せられたる人が正しく行はば餘の人々尚更ぞ、王若し正しくあるならば一切国土を受く、と。
阿含経増支部ii.75 (仏教)38
律義なものが心にあれば、それは心の光であり、威厳であり、栄光である。しかし、それが心を離れれば、それらも離れてしまう。
創世記ラッパー 68.6 (ユダヤ教)39
先生がいわれた、「〔法制禁令などの小手先きの〕政治で導びき、刑罰で統制していくなら、人民は法網をすりぬけて恥ずかしいとも思わないが、道徳で導びき、礼で統制していくなら、道徳的な差恥心を持ってそのうえに正しくな る。」(注9)
論語2.3 (儒教)40
季康子が政治のことを孔子にたずねていった、「もし道にはずれた者を殺して道を守る者をつくり上げるようにしたら、どうでしょうか。」孔子は答えていわれた、「あなた、政治をなさるのに、どうして殺す必要があるのです。あなたが善くなろうとされるなら、人民も善くなります。君子の徳は風ですし、小人の徳は草です。草は風にあたれば必ずなびきます。」
論語12.19 (儒教)41
『詩経』にいう「深遠なる文王、ああやむことなく光り輝き、慎んでとどまる (所に安んずる)」と。人の君となっては仁にとどまり、人の臣となっては敬にとどまり、人の子となっては孝にとどまり、 人の父となっては慈にとどまり、国の民と交わっては、信にとどまる。
『詩経』にいわれている、「あの淇水のくまを見ると、緑色の竹が美しく茂っ ている。りっぱな君子がおられる。切り出して、みがきあげるように、割り、 みがきあげるようにである。細かなことまで厳正で猛く雄々しく、明らかで盛んである。りっぱな君子がおられる。ついに忘れることができない」と。切するがごとく磋するがごとしとは、講習討論のことをいうのである。琢するがごとく磨するがごとしとは、よく反省して自分を鍛えることである。瑟たり僩たりとは、恐れおののくことであ る。赫たり喧たりとは、威厳と態度である。斐たる君子あり、ついに誼るベからずとは、明徳を明らかにし至善にとどまった君子を、民が忘れることのできないのをいうのである。
大学3.3〜4 (儒教)42
まことに神のみ使いには、神と終末の日を切望し、神を多く唱念する者にとり、立派な模範がある。
クルアーン33.21(イスラーム)43
イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主」とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだ から、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
ヨハネによる福音書13.12〜15 (キリスト教)44
あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたが たのために苦しみを受け、その足跡に 続くようにと、模範を残されたからです。
ペ卜ロの手紙ー2.21(キリスト教)45
もしあなたがりっぱな性根をもっていれ ば、あなたは自然に他の人たちの尊敬の対 象になるでしょう。しかしもし、あなたが 利己的な動機をもっていれば、たとえ面前 では尊敬されるとしても、背後で彼らが言 うだろう。「自分がラマ、グルだからといつ て、何の役に立つのか」。彼らは自由に語 ることができるので、そのように言い、そ れは責められることではありません。同じ ように、ある指導者が利己的な動機を強く もてば、たとえ人々が彼の面前で彼を尊敬 し,賛辞を浴びせたとしても、あとでもし 彼が難関に逢着すれば、彼らは喜ぶのであ り、それは当然のことです。
テンジン・ギャツォ、第14代ダライ・ラマ46
ーみ言選集一
全体のために生きる人は、全体の運行に合わせ、生活や仕事や言行心事のあらゆる面で模範となるので、自動的に上の人として尊敬されるのです。
(318-147. 2000.3.5)
何が善なのかというのです。悪いものはなくし、善いものは求めると言いました。それは善いものをもって中心者になるということです。中心者とは何ですか。あらゆる人たちの一つの標準となり、彼らがついていこうとする人です。中心者は、それと関係したあらゆるものと隔離されるのではありません。いつでもそれを管理し、保護できる存在です。保護してあげる責任があるのです。それで中心者が必要だということです。ですから、彼に従っていこうとし、彼を標準にしようとする のです。
(118-38.1982.5.2)
自ら、自分の人格を崇拝できる人となりなさい。万物に対しても、恥ずかしくなく、崇拝を受ける感じがなければならない。その次に「私を見習いなさい」と言って、そののちに相対的な世界を見つめなさい。
(御旨の道・人格)
指導者になろうとすれば、経済問題を扱うことができなければならず、外交ができなければならず、大衆を説得できるよう雄弁でなければなりません。
(85-263.1976.3.3)
神様が聖子や預言者たちを地上に送られた目的とは何でしょうか。神様が願われる人格と生活の手本を見せながら、神様の真の愛のみ旨を万民に教育するのです。特に、為政者や指導者たちに天道を教育し、実践させることによって、心の世界と体の此界が、神様の真の愛のみ旨を中心として和合を成すためです。
(219-110.1991.8.27)
②真の父母、真の師、真の主人になるための指導者の努力
ー宗教経典—
だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。
テモテへの手紙ー 3.2 ~5 (キリスト教)47
天地は万物を創造する父母、人間はその万物の霊長である。その人間のうちで真に聡明なものが元首となり、元首は人民を養う父母となるのである。
書経5.1.1.周書(儒教)48
いわゆる、「国を治めるには、必ずまずその家をきちんとする」とは、その家を教えることができないで、人を教えることのできる者はいない。だから、 君子は家から出なくても、国じゅうの人を教化できる。孝は君に仕える道である。弟は上長に仕える道である。慈は民衆を使う道である。(注10)
大学9.1(儒教)49
天、地、人間は、万物の根本である。天は万物を生み、地は育て、人は完成してあげる。賢明な君主は、必ずこのような道理を信じるがゆえに、この三つの根本を丁重で厳粛に受ける。
天の祭祀に恭敬を尽くして執り行い、先祖のやしろの祭祀に丁重に仕え、孝道と丁重を好んで表し、孝行をたたえることによって天の根本に仕える。自ら農器具を手にして直接田畑を耕し、桑の葉を取って直接蚕を育て、草を切って種を南き、荒れ地を開墾して衣食を豊かにすることによって地の根本につかえる。学校を建て、孝道、丁重、恭敬、譲歩などと徳目を習わせ、教化によって賢くし、礼楽によって感化させることによって人間の根本に仕える。
(董仲舒 春秋繁露50)
昔、文字をつくった人物は、まず「三」 を書いたのち、その中を連結して「王」の 字とした。「三」はそれぞれ天、地、人を 意味する。その中を連結した「王」は、「三」 の道理にすべて貫通することを象徴する。 天、地、人の中を貫通させて連結したため、 もし王でなければ、誰がこれを担うことができるだろうか。ゆえに王だけが天の作用を代行する。
天の命令に基づき、他の人たちをそれに従うようにする。最も美しい愛は天にあり、天は愛そのものである。天は万物を覆ってあげ、育ててあげ、変化させ、命を与えて生きていくようにし、また育ててあげて閑静させてくれる。
人は天から命令を受け、天から愛をとって愛を表現する。ゆえに人は天の命を受け、天の尊貴さを備え、父、兄、子、弟の親しさをもち、忠実と信仰、慈悲と恩恵の心をもち、礼儀と謙譲の品行を備え、正と否、順応と逆行の治める道理を備えており、筋道が明瞭で豊富であり、知識が幅広く、ひとえに 人の道だけが天に参与できるのである。
天は常に(万物を)愛し、利益をもたらすことに志をおき、育て成長させることを自らのなすこととしているが、春、夏、秋、冬、四つの季節はすべてそのようにするための手段である。王もまた常に天下を愛し、利益をもたらすことに志をおき、一つの時代を平安で安楽な世にすることを自らのなすこととしているが、楽しみ、憎み、喜び、怒りがすべてそのようにするための手段である。ゆえに君主の楽しみ、憎み、喜び、 怒りが(正しく表現されることは)正に天の温かさ、すずしさ、寒さ、暑さ(が適切な季節に表現されること)であるがゆえに、その道理を慎重に見きわめて表出しなければならない。
(董仲舒 春秋繁露51)
一み言選集ー
私たちの三大念願は、一つは真の父母、その次には真の師、真の主人です。 皆さんも出世してアメリカの州知事になりたいし、大統領になりたいでしょう? そうですか、違いますか。しかし、その前に、家の主人にならなければなりません。家庭の伝統を相続して、先祖に代わり得る、神様に代わり得る主人の立場に立たなければならないのです。そうすることによって、すべての家庭と国が尊敬するのです。
(205-20,1990.7.15)
よりために生きるそのような父母が、あらゆる父母の中で子女のために生きる父母が、真の父母であり、いかなる師よりもよりために生きようとする師が、真の師であり、いかなる大統領よりも、よりために生きて犠牲になろうとする大統領が、真の大統領です。
(285-226.1997.3.19)
中心存在は、責任をもたなければなりません。責任をもつだけでなく、保護してあげなければならないのです。 保護だけでなく、育成してあげなければなりません。
(210-98. 1990.12.1)
皆さんにはすべて、父母がいます。そして、師、先生がいて、大統領という国の主人がいます。それは誰にとっても必要なのです。父母がいなければならず、先生がいなければならず、その国の主人がいなければなりません。
それでは、父母はどのような父母であり、師はどのような師であり、国の主人はどのような国の主人ですか。様々な形態があります。皆さんは、どのような父母になりたいですか。どのような学校、どのようなレベルでの師になりたいですか。エール、ハーバー ド、プリンストンのようなアイビーリー グに属した大学や、イギリスのオクスフォードやケンブリッジ大学には立派な先生がたくさんいますが、彼らを本当に真の師だと言うことができますか。
最近では、家庭で父母を信じられません。学校で先生を信じられません。息子が父母に対して信じられないので、その父母を中心として見れば、それは誰の責任ですか。夫婦が一つになれないので、息子が父母を信じられなくなり、夫婦同士も互いに信じられず、兄弟同士も壊されているのです。ですから、皆さんが願い、誇りたいと思い、もちたいと思っていたこの主要な三大主体が、真だという基準を中心として合格できるものが、どれか一つでもあるかというのです。
(285-214 - 215.1997.5.19)
皆さんが本当に父母と子女の関係の事情を知れば、すべてのことができます。経営哲学で見れば、雇用主と非雇用主の関係です。共産主義が上部構造と下部構造の間の闘争を原則としているのですが、これを解決できるのは、ただ父子関係の心情的因縁なのです。父子関係の愛だけが解決できます。企業の所有者になれる立場は、父母の立場であり、非雇用主の立場は、子女です。父母が子女に対して関与するようにしなければなりません。父母がお金を節約して包んでおくのは、子女に与えるためです。のちに子女に相続してあげるために、そのようなことをするのだと考えなければなりません。
(116-121.1981.12.27)
神様は、皆さんが真の父母になり、真の師になり、真の主人になることができると言うのですが、そのような世界最高のタイプ、そのあらゆるモデルの中心とは誰なのか、それを知らなければなりません。誰が真の父母と真の師、真の主人の最高の絶対的モデルですか。レバレンド・ムーンですか。神様はどうですか。神様は、父母の中の父母であり、師の中の師であり、王の中の王です。永遠の父母であり、永遠の師であり、永遠の主人です。では、神様の息子になればどうですか。神様のような父母にならなければならないでしょう? 神様のような師の道を行かなければならないでしょう? 神様のような主人になれる道を行かなければならないでしょう? 問題は神様です。
(285-224.1997.5.19)
4.国民のための政府
政治の主な関心事は、市民福祉である。世界の経典では、統治者は自分自身の必要に先立ち、国民の要求を優先視しなければならないと確言する。これは、統治者の名称によく現れている。イスラエルの預言者たちは、彼らの統治者を「牧者」と呼び、イエスは王国の統治者を「僕」と呼び、中国の伝統では皇帝を「民の父母」とみなした。
指導者は、自身の追従者たちに個人的親切、彼らの失敗に対する寛容、事態に対する認識不足、無知、背信なども、しっかりとした信頼性で配慮しなければならない。指導者は、高位職の虚礼と誇示を排除することによって、そして国民の一人として素朴に生きていくことによって、追従者たちの困難を共有していることを見せてあげることができる。経典は、景気低迷期の税金減免、雇用創出のための投資、国民への主人意識涵養のための権限付与、貧民福祉のための準備などをはじめとした、慈愛深い統治政策を激励する(第20章 9.「経済的正義」参照)。
慈愛深い規則を追求して作られた政府の教令は、ほぼ普遍化されている。それゆえ、古代君主制時代に記録された教令が伝承され、現在でもそれが有効なのである。しかし、ここでは現代民主主義に関するいくつかの文献が紹介されている。現代に「国民の国民による」政府が、「国民のための」政府をつくり出す最も確実な方法であることが立証された。しかし、民主主義は少なからず極悪非道さを招いた。フランス革命がその事例である。民主主義の背後の自由選挙と代議政治の活気に満ちた精神は、自由の祝福と全体主義的暴力の間の、すべての差別をつくり出し得るものである。西洋の経験論的キリスト教の価値に立てられた民主主義は、物質主義に基づいた民主主義よりも良いと見ることができる。文鮮明先生によれば、個人の自由を強調するアメリカの民主主義においても、様々な次元で欠点があることを看破できる。先生は、民主主義の土台は真の愛の精神であることを明らかにしている。(注11)
①奉仕する指導力
一宗教経典一
君王の幸福は民の幸福にある。彼の福地は彼らの福地にある。自分自身を楽しませることは、何であっても善とみなしてはならず、民を楽しませることであれば、何であっても善と考えな ければならない。
カウティリヤ カウティリヤ実利論1.19 (ヒンドゥ一教)52
益は上を損して下を益すことであり、このようにすれば民のよろこびもかぎりがない。上より下に下るのであるから、その道は大いに光明である。
易経42.周易下経、益(儒教)53
統治者が人々の指導者になろうと望むならば、
まず、人々の前でつつましくしなければならない。
人々の先頭に立とうと望むならば、
まず、彼らのあとに身をおかねばならない。
彼が高い地位にいても、人々は何ら障害も感じることがない。
だから、すべての人々は彼を支持し、いやがらない。
道徳経66 (道教)54
大きな国を治めることは料理を準備するように簡単である。
道徳経60 (道教)55
大多数が担うことのできない重荷を民に背負わせてはならない。
タルムード、バヴァ・パトラ60b (ユダヤ教)56
先生がいわれた、「われとわが身に深く責めて、人を責めるのをゆるくしていけば、怨みごと(怨んだり怨まれたり) から離れるものだ。」
論語15.15 (儒教)57
そもそも仁の人は、自分が立ちたいと思えば人を立たせてやり、自分が行きつきたいと思えば人を行きつかせてやって、〔他人のことでも自分の〕身近にひきくらべることができる、〔そういうのが〕仁のてだてだといえるだろう。
論語6.30 (儒教)58
人民の守護はクシャトリアにとっての最高の生き方(ダルマ)である。というのも、〔それを遂行するとき〕王は上述の利益を享受し、〔人民が蓄積する〕功徳 (ダルマ)と結ばれるからである。
マヌ法典7.144 (ヒンドウ一教)59
(最高統治者であり神の地上代理人である)カリフとは、民の世話をする牧童と同じであり、彼の民に関して問いかけを受けるだろう。
ブハーリーおよぴムスリム・ハディース(イスラーム)60
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者に存り、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
マタイによる福音書20.25-28 (キリスト教)61
なんじが、かれらを優しくしたのは、神の恵みであった。なんじがもしも厳格で、心が荒々しかったならば、かれらはなんじの周囲から離れ去ったであろう。それゆえかれらの過失を許し、かれらのために神のお許しを請え、そして諸事にわたり、かれらと相談せよ。
クルアーン3.159 (イスラーム)62
イムランのモーセの子孫が言った。「主よ、あなたの考えでは、あなたの僕の中で最も優れた者はだれでございますか」。彼が答えを聞くと、「権力の座にいるとき、赦しを行なう者である」だった。
パイハキ・ハディース(イスラーム)63
保護とは、命令することではなく、自分自身を与えることである。
ナイ力族の格言(アフリカ伝統宗教)64
公人は国家の僕になることを誇りとし、国家の主人になることを恥とする。
ウィンストン・チャーチル(注12) 65
ーみ言選集ー
無限に与えることのできる人が、無限に受けることができる。我々は、千万の人によく用いられる材料となろう。
(御旨の道・人格)
他人を支配しようと思う者は、まず自分自ら支配を受けてごらんなさい。
(御旨の道・指導者)
従っている人たちが願わないところにおいて命令する指導者は、滅びる。
(御旨の道・指導者)
高い位置の人になるためには、低い位置の人をよく収拾しなければなりません。
(34-250.1970.9.13)
主権者は、国民と一つにならなければなりません。国民と一つになり、自分にあるすべてのものは自分のためのものではなく、天のためのものであると考えなければなりません。そのようになれば、その国は繁栄するのです。
(30-88.1970.3.17)
私たちは、人のために生きる生活をしなければなりません。利己的な生活は、人を不快にするのはもちろん、天道に背くことです。人のために生きる人生は、すなわち神様に似るための実践なのです。神様の真の愛を相続し、家庭と社会、国家と世界を愛することは、宇宙の基本秩序に順応することです。真の愛の実践を通してこそ、人格を完成した真の人、真の父母、真の師、真の主人になります。こうしてこそ、平和を成し遂げる主体になるのです。人のために生きる人生は、平和に向かう最初の関門になります。
(356-276. 2001.10.20)
自分を中心とする人は、いくら大学を出て学位をもっていて、教授だとしても、その人は、責任者になれません。中心者になれないのです。しかし、すベてを備えて全体のために生きようとする人は、頂上に上がっていくのです。選挙をするときもそうです。責任者を決めるときは、個人主義者を嫌います。 全体のために生きる人を選択するのです。それがこの社会において、歴史を存続させる一つの方法であり、ーつの公式だというのです。それが真理です。
(102-139-140.1978.12.10)
初めて向き合う人が間違ったときは、私がこの人に何を与え、何を投入したか、考えなければなりません。そうしてこそ、失敗しても赦してあげる天理を、そこから発見できます。私が主体者として歓迎してあげて、喜ぶことを願わなければならないのであって、そのようなこともせずに喜ぶのを願うのは、どろぼうです。
(81-305.1975.12.29)
もし悪いことがあれば、悪いことをすぐに処理してはいけません。悪いことがあっても、その悪いことを中心として喜べる条件を探していきながら、善いことが悪いことより小さくても、小さいものを見て悪いものを保留して処理できる余裕をもたなければなりません。
(72-313.1974.7.14)
責任者は、分かっていてもだまされてあげなければならず、分からなくても模範を見せてあげなければなりません。
(324-202. 2000.6.24)
人は日常生活で、事の道理に明るくなければなりません。愚鈍ではいけないのです。事の道理に明るいということは、道理に合っているということです。前後左右を見渡すことができなければなりません。愚鈍ではいけません。上下、前後、左右を見分けることができなければならないのです。次に、それを包括できるのは情です。情のふろしきはすべて包みます。おじいさん、おばあさんも包み、赤ん坊も包み、すべて包みます。理論のふろしきは一方的ですが、情のふろしきは包括的です。ですから、先生は80歳のおばあさんも喜び、幼い赤ん坊も喜び、愛のふろしきで包めば、すべて喜ぶのです。互いに握り締めて離れず、永遠に休みたいと思い、眠りたいと思う所が愛のふろしきの中です。
(81-328.1975.12.29)
②貧しい者たちへの配慮
一宗教経典一
上の人が豊かな胸をもっていれば、すベての人たちが乳を飲むことができる。
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)66
政府は保護者をもてない国民のための保護者である。
ハディース(イスラーム)67
さて仁徳天皇は高い山に登り、四方の国をごらんになって、「国の中に炊煙が立たない。国の人民はみな貧しいのだ。だから今から三年の問、人民の租税と夫役をすべて免除せよ」と仰せられた。この免税の結果、宮殿は破損し、あちらもこちらも雨漏りがするけれども全く修理をなさらず、器物でその漏 る雨水を受けて、ご自身は雨の漏らない所に移って雨漏りをお避けになった。そうしたのちに国の中をごらんになったところ、国中に炊煙が一面に立った。そこで天皇は人民が豊かになったとお思いになり、今は課税してもよかろうと租税と夫役を課せられた。こうした次第で人民は繁栄して、苦しむことはなかった。それゆえ、その御世をほめたたえて聖帝の御世と申すのである。
古事記110 (神道)68
人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食には させないからだ。
エゼキエル書34.2-10 (キリスト教)69
あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと/呪いの言葉をはくことを/あなたの中から取り去るなら/飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。
イザヤ書58.9〜10 (キリスト教)70
神よ、あなたによる裁きを、王に/ あなたによる恵みの御業を、王の子に/お授けください。王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ/あなたの貧しい人々を裁きますように。山々が民に平和をもたらし/丘が恵みをもたらしますように。王が民を、この貧しい人々を治め/乏しい人の子らを救い/虐げる者を砕 きますように。
詩編72.1~4 (キリスト教)71
疲れている人、障害者、足が不自由な人と病弱な人、孤児、自信のない人、男やもめと寡婦は、みな私の兄弟たちであり、誰にも頼れず、よろけて倒れる人たちだ。君子が政府を治めるとき、このような人たちを扶養しなければならない。
朱熹(儒教)72
貧しく無気力な人たちは、個人の権利を擁護するという側面で特別な待遇を要求する。富裕な階級は、彼らを防御する多くの手段があり、国家からの援助を必要としない。しかし、極貧な人たちは頼る資源が何もなく、大概は国家の援助に頼る。それゆえに、弱く窮乏した群れに属する貨金労働者たちも、やはり政府から特別に保護を受け、管理されなければならない理由が成立する。
教皇レオ13世 レールム・ノヴァールム73
私に与えよ、あなたの困苦の貧しさを、
自由を味わおうと渇望する労働大衆を、
豊かな海辺の哀れな廃物を、これらを私に送れ、
家なく暴風雨にさらされてきたものたちを、
私の明かりとして掲げよう、黄金の門のそばに!
エマ・ラザルス(注13) 74
一み言選集一
道を歩いていてかわいそうな人を見ると、自分の体を抑制できない衝撃を受け、精神を収拾してみると、電信柱にしがみついてむせび泣いている、そのような心情で心を痛める指導者は、「発展するな」と言っても発展するのです。
(160-197.1969.5.12)
大統領が官邸に暮らすよりも、砂場に砂の家を建て、一代、一代、崩して暮らそうというその国は、復興するのです。そして、民のために生きなければなりません。神様は、それ以上にされるのです。(382-149 〜150、2002.621)
自分のために生きるのは自分で終わるのであり、人のために生きるのは永遠に継続します。ですから、善が存続する方法は、私が主体の位置に立っても、全体の対象圏のためにいなければなりません。ですから、世界的人物に なろうという欲望をもった人であれば、世界のために生きなければなりません。 それで、世界的人物になれば、彼は世界的主体になるのです。しかし、相対圏を踏みにじる世界的主体はあり得ません。世界的主体は、世界的相対の形を輝かせるための主体にならなければなりません。(57-63 - 64.1972.5.28)
政治世界は、管理体制であり、政策というものは、計画を立てる必要がありません。原理的観点から、平和のために生きるのです。国家のために生きて全体の前に手本を見せることができる、「ために生きる」管理体制であって、指導体制ではありません。
その管理体制を通して経済的問題、すなわち人が食べて生きていく生活を自動的に解決できるようにしなければなりません。ですから、生活において上、中、下の3階級に分け、上級は生活基準がいくらであり、中級はいくらであり、下級はいくらかを調べてみます。これを中心として平準化するので す。中級を中心として連結させ、平準化をしなければなりません。そのようにしようとすれば、世界は必ず、UNと一つにならなければならないのです。
整備、管理を徹底してやらなければなりません。政策を誤って立てれば、経済管理体制を破綻させてしまうようになります。
ですから、一つの家の生活のような計画を立て、1年にいくら、全世界の予算がどのくらいかかるということ、上はいくらで、中はいくらという正確な統計が出てこなければなりません。そして、上はできるだけ中を中心として下がっていきながら、下を引き上げて平準化させて合わせていかなければなりません。(注14)そのような体制をつくらなければならないのです。
(324-253〜254 2000.6.24)
発展途上国の貧困を解放し、強大国は発展途上にある新しい民主主義国家を犠牲的に助けなければなりません。各国の政策が利己主義を指向するそれ自体が大きな革命です。その方法は、私たち全員が父母の立場に上がっていって見下ろしてみるのです。そうすれば、あらゆる国家が兄弟に見えざるを得ません。一つの父母のもとに、一つの兄弟国家社会を成し遂げられる歴史的機会に直面しているのです。(219-120.1991.8.28)
③民主主義
一宗教経典一
民主主義の理想を標榜する為政者、その統治は永遠である。
アーディ・グラント、マールー、M.1(シク教)75
あなたさまの国土には、盗賊がはび こり、抑圧があります。村では略奪が行われ、町では略奪が行われ、都市でも略奪が行われています。街道では追剥が横行しています。このような盗賊がはびこり、抑圧があるいまの国土で、国王陛下が税を取りたてるとすれば、あなたさまは、してはいけないことを する者となるでしょう。ところで、あなたさまには、この危難を、賊を、死刑や捕縛や財産没収や体罰や追放などによって、取り除くことができるとお考えになるかもしれません。しかし、そうなさっても、この危難は完全に除かれるわけではありません。生き残った者たちが、後日きっと王国を悩ます ことになるでしょう。しかしながら、次のような対策によって、こうした危難は、完全に取り除かれるのです。すなわち、あなたさまの国土にあって、商業に励む者たちには、食料と給料をお与えになることです。そうすれば、これらの者たちは、自分の仕事に専念し、あなたさまの王国を悩ますこともないでしょう。その結果、あなたさまの蓄財も増大し、国土には平和が保たれ、盗賊などの危難もなく、抑圧もなく、国民は満足し、喜び、子供を胸に抱き、家の戸を閉めることなく、安心して暮すようになりましょう。
阿含経長部i.135.究羅檀頭経(仏教)76
私たちは、以下の諸事実を自明なものと見なす。すべての人間は平等につくられている。創造主によって、生存、自由、そして幸福の追求を含む侵されてはならない権利を与えられている。これらの権利を確実なものとするために、人は政府という機関をもつ。その正当な権力は被統治者の同意に基づいている。
アメリカ独立宣言書77
私は、国民自体以外には、究極の社会的力を保管する安全な場所を知らない。もし私たちが、国民の健全な裁量権によって自己調節を発揮するのに十分な開明がなされていなかったと思うのなら、その解決策は、国民から彼らの裁量権を奪うのではなく、教育によってそれを知らせてあげることである。
トーマス・ジェファーソン78
私は、広い港と巨大な川でアメリカの偉大さと特徴を探した。しかし、そこにはなかった。肥沃な野原と道のない森で探した。しかし、そこにはなかった。豊かな鉱山と途方もない世界貿易で探した。しかし、そこにはなかった。民主的議会と無敵の憲法で探した。しかし、そこにもなかった。私がアメリカの教会に行き、燃えるような説教を聞くとき、初めて私はアメリカの特徴と力の秘密を知ることができた。アメリカは善であるがゆえに偉大だ。もしアメリカが善であることをやめれば、偉大であることもなくなるだろう。
アレクシス・ド・トクヴィル アメリカの民主政治79
一個人に責任を任せること、そして人々が彼を信頼していることを知らせること、それより彼をたくさん助けることはあまりない。
ブッカー・T・ワシントン80
ーみ言選集ー
人類歴史の終末を告げるこの最後の段階において、天倫はついに、財物や土地、あるいは人間を奪いとれば幸福を増進させることができるだろうと考えてきた歴史的な段階を越えて、民主主義という名を掲げて、この世に到来してきたのである。
原理講論、人類歴史の終末論23
イエスの時代でも、人の命は権力者の前にハエの命と同じでした。イエス様は、為政者や権力者たちが願えば、いつでもハエが捕まるように捕らえられて葬り去られる、無法天地の制度下で生まれました。根本的な人間革命を叫ばれた革新的なイエスのみ言が、その社会制度のもとで容認されるはず がありませんでした。イエス様が十字架にはりつけにされたのは、当時の制 度のもとでは避けられない事情だったと言えます。これをよく御存じの神様は、メシャが再び来られる再臨の時に何よりも必要なのは、人をむやみに捕らえて命を奪う、そのようにできない 政治制度であることを御存じです。
このために、2000年間汗を流して準備された制度が、正に今日の民主主義です。民主主義は、人権を尊重する制度です。民主主義は、少数派も多数派の中に入り込んで生き残れる制度です。民主主義は、すなわち自由を保障する制度です。その自由は、正に言論の自由であり、宗教の自由であり、結社の 自由であり、出版の自由であり、集会の自由です。その民主主義の代表と見ることができるアメリカの憲法を見れば、自由の中で最も絶対的な自由が宗教の自由であり、アメリカ議会と政府は、宗教を規制できるいかなる法も作れないようになっています。
(100-245 〜246.1978.10.19)
革命により、「人権宣言」が公表されることによって、フランスの民主主義は樹立されたのである。しかし、フランス革命による民主主義は、あくまでもカイン型の人生観を立てるために、唯物思想に流れこんだ啓蒙思想が、絶対主義社会を打破しながら出現したものであるから、これをカイン型の民主主義というのである。ゆえに、啓蒙思想の主要人物たちもそうであったが、フランス革命の思想家ディド 口(Diderot 1713-1784)や、ダランベー ル(D'Alembert 1717-1783)なども無神論、または唯物論系の学者たちであった。この革命のいきさつを見ても分かるように、フランスの民主主義は、個性の自由と平等よりも、全体主義へと転化 される傾向性を内包していたのである。
イギリスやアメリカで実現された民主主義は、フランス大革命によって実現された民主主義とはその発端から異なっている。後者はカイン型人生観の所産である無神論および唯物論の主唱者たちが、絶対主義社会を打破することによって実現したカイン型の民主主義である。これに対して前者は、アベル型人生観の結実体である熱狂的なキリスト教信徒たちが信教の自由を求めるために絶対主義と戦い、勝利して実現したアベル型の民主主義であったのである。
原理諸論・メシャ再降臨準備時代3.1.1-2
民主主義は、兄弟主義だというのです。すべて平等だと言うでしょう? 世界の人類は、自由を中心として平等だと言いました。自由で幸福を見いだすことができますか。できません。しかし、愛を中心とする自由では、幸福を享受できます。
(201-73. 1990.3.1)
民主主義でも、もし愛を母体とすれば、世界が一つになれます。愛を母体として、世界が愛で一つになることを主張するそのような民主主義であれば、それは世界的な民主主義になるのです。共産主義も同じです。本当に真の愛を中心とした共産主義であれば、それも世界を一つにできるでしょう。愛があれば、粛清という言葉も成立しません。
(90-311-312,1977.1.15)
そのような観点から、アメリカという国をじっと見てみると、ある面ではぱっと見て好ましく思いやすいのですが、根本的に入っていくと好ましく思いにくいのです。そこには必ず民族主義の色あいがあります。すべてのものが、いまだに孤立しています。ーつになることができていません。法と人権が調和しなければならないのです。
(90-304.1977.1.15)
民主主義世界は、どれくらい持続するだろうかというのです。民主主義世界は、個人主義世界です。ここには、夫婦関係や何々関係というものがありません。すべて自分第一になってい ます。
しかし、この世界というものは、関係を離れては存在できません。すべて関係圏になっています。これが成され れば、その次には対応関係を成し、このようにして世界は、一つの核を中心としてお互いが一つになるように回るのです。ですから、皆さんの家庭がーつになっていれば、その次には部落と一つにならなければなりません。家庭が一つになれば、その部落と対応関係を成すのです。これが、この世を構成し、一つの連結的な体制をつくるときの不可避的な原則となります。
(228-8,1992.3.1)
5.法と罰
政府は、市民を保護し、法律違反者を制裁して、公共福祉を増進するために法を制定し、執行する。神様は、法の根源である。その方が科学的法則により機能する宇宙を創造し、正しいことと正しくないことを分別する良心を、個別の人間の心に植え付けられた。一つの国の法を構成する憲法と法令は、天法に似ている。これが、私たちが良心の指示に従う理由である。
法は、邪悪を制裁する。正しく行動して不道徳なことを避けるように命令する良心の指示に従わない人々は、正しいことと正しくないこと、すなわち許されたことと禁止されたことの間を鋭く分別する法によって、制裁を受ける。良心的な人になるために自身の人格を修養する人々は、法にほとんど抵触しないで生きていく。
犯罪抑制策として、正義守護のため、法令は、法律違反者を刑罰により処罰する。刑量を決定する政府は、正義の最終分配者である神様の同労者である。地獄とは、霊界の巨大な監獄として、天の領域を蹂躙する法律違反者を制裁するための所だ。罪の代価を払う法律違反者の刑罰は、一つの契機、すなわち「蕩減」により無にさせることができる。
法律違反者を懲罰して正義を守護する体制には、常に慈悲の要素を前提にしなければならない。そして、法律違反者は本当に改心して、生き方を新しく転換しなければならない。文鮮明先生は、監獄の主な目標は、原状回復の教育でなければならないと教える。これは、収監者たちの残酷な監獄を原状回復のための教育の場「教導所」に改造しようとする、21世紀の先進化運動の核心概念である。このように正義と慈悲の両極は、死刑宣告などの倫理的問題を省察する観点を、新たに形成する。
①法の高潔な目的
一宗教経典一
そこで、彼は自己以上に勝れた色(現象)たる法を産み出した。法とは権力の権力である。この故に法より勝れたものはない。法の力を籍れば、たとえ無力な人間でも有力な人間に対抗することができること、あたかも王の力によるが如くである。
プリハッド・アーラ二ヤカ・ウパニシャッド1.4.14 (ヒンドゥー教)81
そなた自身もよく法典に敬い従って 人民を導くようにしなければならぬ。文王でさえも敬い慎んで民を導き、『予といっしょに行う者があるならば、予一人は大いに喜ぶであろう』とおおせられたのであった。
書経5.9.3 8 (儒教)82
真の審判にうなずく者が神の同業者である。
出エジプト記メヒルタ18.13 (ユダヤ教)83
王が正しい裁きによって国を安定させても/貢ぎ物を取り立てる者がこれを滅ぼす。
箴言29.4 (キリスト教)84
〔真実〕を吟味し、〔刑罰が〕正しく保持されるとき、それはすべての人民を幸せにする。しかし吟味せずに用いられたときはすべてを滅亡させる。
王は罰せられるべき人間に対して刑罰を倦まず用いないときは、強者は、弱者を焼き串に刺された魚のように焼くであろう。……刑罰を誤用すれば、すべての身分は堕落し、すべての境(区切り)は破壊され、全世界に怒りが持ち上がるであろう。
黒色、赤目の刑罰が歩き回って罪人を滅ぼすところでは、〔刑罰を〕適用する者がよく監視すれば人民は迷いに陥ることはない。
マヌ法典7.20-25 (ヒンドゥー教)85
善行および悪行の業の成熟と果報を現わし示すために、
種々さまざまの所行をする人、それが王と呼ばれる。
彼は、自身のために、また他人のために、また国土の秩序のために、
神々の群れに加護され、諸々の神より王として承認されている。
王国における凶悪な悪人を取りおさえようとして、
国土の秩序のために、生命や王位を捨てることもあろう。(注16)
金光明経12 (仏教)86
マルドゥクが私に人を正しく案内し、地を監督することを委任したとき、私は国民の福地を増進するために、その地の言語からなる法と正義を制定した。
ハンムラビ法典(注15) 87
法律とは、一方では、ともすれば善人たちが互いに友誼を守りながら生きていけるかを教えようと、彼らのために制定されたものであり、もう一方では、このような教えを拒否し、これに従わず、心が素直になれず罪悪に陥ることを防げない者のために制定されたものです。
プラトン 法律9 (ヘレニズム)88
自分の中にある神的分別力によって支配されるのが、すべてのために良いからです。もしそうできない場合には、外部によってでもそのようにするのがより良いのですが、これは、できる限りすべてが同一のものによって導かれることによって似るようになり、友となるようにするためです。……
そして、国の中にいるすべての協力者である法の趣旨が、そのようなものであることは明らかです。子供たちに対する統率もそうであり、国の場合と同じように、彼らに統治体制が確立されるときまでは、そして、彼らの中にある最善の部分を私たちの最善の部分によって世話したのち、その子供の中に私たちのものに似た守護者と統治者を私たちが代わりに入れ込むまでは、子供たちを自由にすることは許容せず、それができて初めて自由にすることを私たちは許容します。
ところが、知らずに正しくないことをしても差別を受けないことが、どうして利益になりますか。そのようにしても発覚しない者は、一層邪悪になりませんか。反面、発覚して罰を受けた者の野獣的な部分は眠って純化され、その一方で彼の従順な部分は、自由になり、彼の魂全体が最も優れたその本性に戻り、知恵と節制、そして正義を得て、価値のある状態を実現すること……。
プラトン 国家9 (ヘレニズム)89
ーみ言選集ー
法とは何ですか。自体的に保護されたものを、破壊しようとするものを除去するためのものが法です。宇宙の法がそうなので、そのような形態に拍子を合わせ、国家の法もその適応が可能だというのです。これを知ってこそ、遵法精神が必要だということを理解できるのです。
(118-198, 1982.6.1)
一つの国を中心として見るとき、国法というものがありますが、善を支える目的で法を考えます。どの国の憲法を見ても、国家管理体制の法を見ても、すべてが喜べる面を擁護するためにできているのであって、これを破壊するために作られている法はありません。もしこの原則から外れるときは、どのようになりますか。どの国にも監獄というものがあって制裁するのです。ところが、一つの国の主権者によって善の基準が異なることもありました。
良心というものは、教育を受けなくてもあらゆる善のことをすべて知っています。良心は、最も善の側についていこうとします。良心は、何が善なのか悪なのかを判断できる能力をもっており、いつでも自己の主体性をもって自分を管理しています。
(216-306,1991.4.15)
国家の形成や国家の法は、それを支柱とし、それ以外のものを制裁するものとして現れていることを知らなければなりません。ですから、私を中心とし、外的な肉を中心とするあらゆるものはすべて制裁です。行けば行くほど狭くなります。
(105-15-16.1979.7.8)
純粋な良心に一致できる普遍的な社会体制を形成しようとするので、法令も必要なのです。ですから、結局人倫は、どこに根拠を置くのですか。天倫に根拠を置くのです。
(33-44 1970.8.2)
良し悪しには、いつも境界線がなければなりません。アメリカも憲法を中心として良いこと悪いことの基準を立てるのです。そうではないですか。ところが、公的なことを制裁するそのような法はありません。公的なことは、無限定にいくらでもしなさいというのです。それを制裁する法は一つもありません。いくらでも歓迎するということです。しかし、自分を中心とする提案は、「やめなさい、やめなさい」と制裁するのです。自分を中心とするときに、法が問題視します。自分の欲心を中心とすれば、問題視するのです。その次には、破壊することです。破壊することを問題視します。公共の建物を破壊するのは、すべて罪悪だというのです。このように見るとき、私たちが人に悪いことを言って傷つけるのも、法に引っ掛かるのです。
(111-239.1981.222)
法が立てられれば、法のとおりにしなければなりません。天の国の家庭の法がなかったのであり、天の国の氏族の法がなかったのであり、天の国の国家の法、家庭の法、氏族の法、民族の法、国家の法がありません。憲法がないのです。それが、今まで神様が人類をすベてほうっておき、自由奔放にして秩 序を破壊することに手を出すことができなかった理由です。サタンが主人になっているので、神様が取り戻してこようとしても、その秩序の原則がこのようになっていて、これができていないので、これはこちら側に属していると、分け得る法がありません。これからは、そうではありません。統一教会で自分勝手に生きた人たちは、赦しがないというのです。
(356-315. 2001.10.22)
堕落は、悪が先に出発して上がっていったことなので、悪を引き下ろして善を引き上げる作戦をしなければなりません。この作戦をするときは、どのようにしなければならないでしょうか。それを知らなければなりません。まず驕慢を取り除かなければなりません。堕落は、神様を押しのけて、自分が高いところに行こうとしたことからなされました。サタンの本性が、そこから出発したのです。自分だけが高いところに行こうとすること、環境がどうであれ、秩序がどうであれ、法度を無視してしまい、自分ばかりを主張するのが驕慢です。そこには、義理もなく、法度もありません。
法度に従い、法のとおりに生きる人を、何と言いますか。驕慢だと言いますか。そのように生きる人を、正直な人と言います。正直とは、正しいの「正」の字と、まっすぐの「直」です。正しくてまっすぐだということです。法というのは何ですか。まっすぐなものを立てることです。それでは、善と悪は 何によって分けるのですか。法によって分けるのです。驕慢は、法度を無視します。法度を無視し、位置と環境を無視して行動することを止めておかなければなりません。驕慢を制御し、謙遜を備えなければならないのです。
(37-130.1970.12.23)
天の国の憲法とは何でしょうか。それを知らなければなりません。愛のカ、愛の生命力です。天の国の憲法のすべては、これを保護するために活用されざるを得ないというのです。
(111-171. 1981.2.15)
②正義の行政
一宗教経典一
またなんじらが、人の間をさばくときは、公正にさばくことを命じたもう。神がなんじらに訓戒されることは、何と善美なことよ。まことに神は、全聴者・全視者であられる。
クルアーン4.58 (イスラーム)90
わたしはそのとき、あなたたちの裁判人に命じた。「同胞の間に立って言い分をよく聞き、同胞間の問題であれ、寄留者との間の問題であれ、正しく裁きなさい。裁判に当たって、偏り見ることがあってはならない。身分の上下を問わず、等しく事情を聞くべきである。人の顔色をうかがってはならない。裁判は神に属することだからである。事件があなたたちの手に負えない場合は、わたしのところに持って来なさい。わたしが聞くであろう。」
申命記1.16-17 (キリスト教)91
あらあらしく事がらを処理するからとて、公正な人ではない。賢明であって、義と不義との両者を見きわめる人、粗暴になることなく、きまりにしたがって、公正なしかたで他人を導く人は、正義を守る人であり、道を実践する人であり、聡明な人であるといわれる。
法句経256〜257 (仏教)92
泥棒は髪を解き、「私はかくかくの事をした。私を罰せよ」と窃盗の罪を告げながら、走って王のもとに行くべし。
罰せられるなり、放免されるなりいずれによっても泥棒は窃盗の罪から解放される。しかし彼を罰しないときは王が泥棒の罪を得る。
マヌ法典8.314. 316 (ヒンドゥー教)93
あなたの先祖を滅ぼしたのは、彼らの中の高い身分にある者が盗みをしたとき、彼をそのままにしておいたことであり、彼らの中で弱い者が盗みをしたとき、彼に規定された処罰を加えたことである。私は、私の娘ファティマが物を盗んだとしても、誓ってその手首を切ってしまうだろう。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)94
どろぼうが何かの物を盗もうとしたら、彼は自分の運命を決定する誓約を受け入れなければならない。ところが、誓約が何かの物を盗もうとすれば、それは何を受け入れなければならないだろうか。
イガラ族の格言(アフリカ伝統宗教)95
隣人に関して偽証してはならない。
出エジプト記20.16 (キリスト教)96
過失または罪を犯して、これを食味の者のせいにする者は、虚偽と明白な罪を負う者である。
クルアーン4.112 (イスラーム)97
いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立 証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。不法な証人が立って、相手の不正を証言するときは、係争中の両者は主の前に出、そのとき任に就いている祭司と裁判人の前に出ねばならない。裁判人は詳しく調査し、もしその証人が偽証人であり、同胞に対して偽証したということになれば、彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない。ほかの者たちは聞いて恐れを抱き、このような悪事をあなたの中で二度と繰り返すことはないであろう。申命記19.15〜20 (キリスト教)98
—み言選集ー
国家の刑法も、罪を犯した人間たちに罰を与え、その国家の安寧と秩序とを原状どおりに維持するための蕩減条件を立てる、一つの方法であるということができるのである。
原理講論、緒論1.1
原理原則と秩序を離れた自由は、あり得ないのです。法の中で最高の法とは何ですか。愛の法であり、心情の法です。自由とは何かというのです。法もなく、何の秩序もないものは破綻です。滅亡です。国法に背けば刑務所に行かなければなりません。「アメリカは自由の国なのに、なぜ刑務所があるのか、片付けてしまえ」として、そのようになればどれほどよいですか。裸になって走っても、何をしても自由です。ホモセクシャルがあり、ありとあらゆることがあります。女性でも男性でも、好きなように私 娼窟で娼婦行脚をすればどうですか。
それで、天の国の法で見れば、天の国の刑務所がなければならず、弛上の法で見れば、地上の刑務所がなければならず、学校の法で見れば、学校の刑務所がなければなりません。家庭の法で見れば、家庭の刑務所がなければならないというのです。
(112-73 - 76. 1981.4.1)
もし、ある検事が個人的に人を殺すようになれば、天法によってその検事は死刑場に行くのです。死んだ人には賞を与えるのであり、殺した人には罰を与えるのです。
(93-111,1977.5.21)
③正当で慈悲深い処罰
一宗教経典一
人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。ただし、故意にではなく、偶然、彼の手に神が渡された場合は、わたしはあなたのために一つの場所を定める。彼はそこに逃れることができる。しかし、人が故意に隣人を殺そうとして暴力を振るうならば、あなたは彼をわたしの祭壇のもとからでも連れ出して、処刑することができる。
出エジプト記21.12〜14 (キリスト教)99
統治者は過度の罰を与えてはならず、ひどい言葉を使ったり、彼の背後にいるいかなる人の悪口も言ってはならない。
マッヤ・ブラーナ220.10 (ヒンドウ一教)100
君子は学誠によって人を感応させることにつとめ、獄事をとりさばき死刑に対して寛大を心がけるなどしてすべてその孚誠をもってする。
易経61,周易下経.中孚(儒教)101
信仰する者よ、殺害に対する報復が、なんじらに定められた。自由人には自由人、奴隷には奴隷、婦人には婦人と。 (注17)が加害者に、兄弟から軽減された場合は、妥当と認められる額を、丁重に弁償せよ。これはなんじらの主からの緩和であり、慈悲である。
クルアーン2.179 (イスラーム)102
私(イマーム・アリー)が死ななければならないか! 広範囲な報復がないことを見よ。剣を抜いて徘徊せず、私の競争者と敵たちを殺害するな。見よ! ただー人、私の殺害者だけが殺人罪として処刑されるだろう。そして、その誰も苦しめられたり、被害を受けたり、苦しんだりしないだろう。殺人を試みた者の処罰は、彼による傷で私が死ぬようになるときに執行されるのだから、彼に対する処罰も、一刀で彼の命を断ち切るものでなければならない。彼は死ぬ前に拷問を受けてはならず、手足を切られてもいけない。私は次のような聖なる使徒の言葉を聞いたからである。「誰の手足も、さらには噛みつく犬の足でも切ってはならない」。
ナフジュ・アル・バラーガ 手紙47 (シーア派イスラーム)103
王よ、あなたはつねに慈愛によって、すべての人々に対して利益する心を起しなさい。たとえ恐ろしい罪を犯した人々に対してであっても。
慈愛は、ことに恐ろしい罪を犯した悪人たちに向けられねばなりません。このような憐れむべき人びとこそ、心の高潔な人の慈悲にふさわしい対象でありますから。
毎日または五日ごとに、カの弱った囚人を釈放し、また残りの者も適宜釈放してください。決して拘禁しておくことがないように。
もしあなたに、ある人びとを釈放する心が起きないならば、彼らに対しては自制を欠くことになります。このように自制を欠くならば、永久に罪をうけるでありましょう。
また、彼らが拘禁されているあいだは、牢獄を楽しいものとし、理髪師、浴場、飲食物、薬、衣類を備えつけておきなさい。
処罰をなすときは、あたかも値打ちのない息子たちを値打ちある者にしようと願って処罰を加えるように、慈悲をもって行なわねばなりません。けっして憎しみからしてはなりませんし、また財を欲してはなりません。
事情を正しく考慮し判断して、たとえ罪深い殺人を犯した人びとであっても、死刑に処することなく、また責苦を与えることなく、彼らを追放しなさい。
龍樹 宝行王正論331~37 (儒教)104
たとえ正当な理由があっても、人間の処罰は依然として許容されていない。
教皇シクストゥス(キリスト教)105
一み言選集一
罪を犯した死刑囚は、国が葬ります。しかし、国は罪に問われません。なぜかというと、世界のために生きていくという公約のもとでするからです。自分の国のために生き、世界のために生きる公約のもとにあるので、そのような論理が成立することを知らなければなりません。
(88-298.1976.10.3)
聖子は、天国においての国民法と皇族の法となる宮中法を守るのです。日本の一般国民たちは、宮中と関係なく六法全書の中で自分が属する一つの方面だけ守ればよいのですが、王子はそうではありません。王宮の法と六法全書の内容をすべて適用し、一つも背くことなく、尊敬され得るセンターにならなければ、王子になることはできません。それは深刻なことです。
(306-62-63.1998.8.27)
今後、罪を犯せば、死刑宣告があるでしょうか、ないでしょうか。10人を殺し、100人を殺す可能性があるのに、そのような人をそのままほうっておくのですか。そのような人は死ぬ境地に置いておくのです。国境地帯や北極、南極にほうり出すのです。それで、1年、2年、3年、5年くらいして飛行機で見渡してみて、生きていれば、熊の餌になって土に帰らなければならないのですが、それでも精誠を尽くして天が赦せば、生きるのです。生きている人たちは、互いに集まり、無期刑のようになって地上で生きます。
そのようにすれば、世界を巡りながらその人たちを、いくらでもただで呼んで使えます。労働現場や国の公的な建設などをするとき、どこの誰でも呼んで使うことができるのです。その人たちに対する工賃は、70パーセントであれ、30パーセントであれ、すべて国に捧げるのです。それで、すべて「囚人」 という服を着て、何級、何級とこのように書き、そのような仕事をするために村の家々に入っていって、「私がすることはないですか」と尋ねます。絶対従順、絶対服従するために自分の体を投入するというのです。
あの国に行けば、犯罪者たちは、そのまま入っていけません。霊界の蘇生圏、楽園など、すべて霊界の監獄を経て、そこで修錬し、再び分別された心と体を検証するのです。霊界ではすべて、水晶体のように照らして見ることができるので、きれいになったのか、なっていないのかを鑑定し、そのレベルの基準に行くのです。再び上がっていかなければなりません。ですから、監獄が必要ないということです。(298-234 〜236.1999.1.8)
アメリカならアメリカの憲法を中心として、法廷では赦しを受けることもできますが、宇宙的なこの憲法を中心として見れば、赦す法があるでしょうか。しかし、犠牲になり、奉仕すれば赦されます。このようなときは、同情を受けることができ、生きる道があり得るのです。「悔い改めなさい」という言葉があります。イエス様がこの地上で、「悔い改めよ、天国は近づいた」と言いました。何を悔い改めなさいというのですか。簡単です。その結論とは何かというと、犠牲になり、奉仕しなければならない道理に背いたすべてのことを、悔い改めるのです。
(105-92.1979.9.30)
④法の目的
—宗教経典一
互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。
ローマの信徒への手紙13.8〜10 (キリスト教)106
知恵のある者はいつも自由である。彼はいつも栄誉がある。いつも法の主人になる。法は正義ある者たちではなく、不正な者たちのためにつくられた。義なる人たちは、心の中に戒めを刻んだままで主の法に従い、いつも心にその法を抱きながら歩いているので、自分自らが法自体になり、あえて法を必要としない。
知恵のある者は自由である。願うとおりに行なう者は自由だからである。すべての願いが善なることではない。しかし、知恵のある者は、ただ善なることだけを願う。彼は善だけを選び、悪を憎悪する。善なることだけを選ぶため、彼は正に自己選択の主人であり、自ら自分のするべきことを選ぶがゆえに、彼は自由である。
ミラノのアンブロシウス 書信54 (キリスト教)107
ーみ言選集ー
一つの国を中心として見てみると き、国法というものがあるのですが、善を支えるという目的から法を考えるのです。
私たちの良心世界と体を見てみれば、どのようになっているのでしょうか。良心は教育を受けなくても、すべて善のことを知っています。例えば、五つの国があるとして、五つの国の主権者たちがそれぞれ異なる憲法をつくり、それが善のことだと結論づけ、それに従って治めようとしても、良心的な人は、その五つの国の主権者の中で、どの主権者がより善の主権者なのかを判断できる能力があるのです。どの国が一等なのかを測定することができる力をもっています。その五つの国の中で、最も良い国を選び、最も悪い国を選べます。良心は、そのようなことを判断できるので、その五つの国の最も善の側に従っていこうとするのです。
(216-303~307.1991.4.15)
法は、個人を中心として社会的生活をして、国家の仕事をして、世界的な生活をする人たちを規制するための方便です。それでは、法に引っ掛からないようにしようとすれば、どのように生きなければなりませんか。人のために生きようという人は、法に引っ掛かりません。ですから、法から解放されなければなりません。
私たちが世の中の法に引っ掛からない人になろうとすれば、どのようにすれば引っ掛かりませんか。私のために生きるという人は、行くところすべてで引っ掛かります。私はより大きな世界のために生きようとするとき、あらゆる法から解放されるのです。
(93-301.1977.6.12)
もし世界がこのような真の家庭で満ちるならば、そこには弁護士も、検事も、さらには判事も必要がなく、天道と天法が治める世の中になるでしょう。
平和神経、平和メッセージ3.69、2006.4.10
6.預言者とメッセンジャー
この世の王国が神様の王国の基準に至らないため、神様は天の義を代表させ、世俗的指導者たちに責任を問うために、預言者とメッセンジャーを立てられる。
彼らは、社会正義を叫びながら、さらに高い社会ビジョンを宣布するために、いかなる危険もいとわなかった人たちである。彼らは、権力者の良心を刺激し、悪の沼に落ちている統治者に対して果敢に警告し、時に国の惨禍を免れるための天の特別なメッセージを伝達したりもした。
ムハンマドのような一部の預言者たちがそのように召命されたが、預言者の役割は神様の啓示を世の中に伝達するために、特別に選択された宗教創始者などに制限されない。ここでいう預言者は、すべての時代、すべての文化の聖賢と義人たちを含む。彼らは昔、初めて啓示された真理を自分の当代の統治者に想起させようと孤軍奮闘した。彼らはたびたび、天のメッセージを現代的用語に直して話さなければならなかった。私たちは、彼らの名簿にソクラテスと孟子を含めた。私たちはまた、アッシジの聖フランチェスコ、マルティン・ルター、日蓮、マハトマ・ガンジー、マーティン・ルーサー・キングなど、現代人物を追加することはできる。しかし、私たちは、現代人物の中で少数だけに言及する。そのような意味から、文鮮明先生は、既に預言者として召命されていて、したがって、先生の預言の一部がここに含まれざるを得ない。
預言者は、権力者を不安にさせる挑戦的な表現を躊躇しなかった。それゆえ、彼らは迫害に遭って嘲弄を受け、時には処刑された。ナタンと孟子のように、ある義人は、統治者の良心を正しく立て直すための真理を比喩で表現することによって、自身を保護したりもした。しかし、彼らの大部分は、自分の統 治者の好意を受け続けることはできなかった。例を挙げれば、預言者エレミヤは、何回も投獄された。彼は自身が危険な路程を経る時、それを内的闘争によって克服した。
預言の属性は、未来をあらかじめ知らせる能力である。預言者らは、単純な占い師ではない。彼らの才能は、国家的なことに対して権威をもって伝達することにより、彼らに確信を与える。神様と密接な関係を維持している預言者の手には、国家の命運がかかっていることもある。ゆえに、彼らの預言は正確である。
①預言者の使命
一宗教経典一
それぞれの民に対して、ひとりの使者がつかわされるのである。かれらの使者が来るとき、事は、かれらの間で公正に裁決されて、不当に偶せられることはない。かれらは「おまえたちの言が真実なら、この約束が果たされるのはいつか」と言う。言え「わたしは、神のおぼしめしがないかぎり、なんら 自分を害しまたは益する力はないのだ。それぞれの民には定められた期限がある。かれらの期限が到来すれば、一刻も猶予することはできない、またそれに先んずることもできぬ」。
クルアーン10.47〜49 (イスラーム)108
主の言葉がわたしに臨んだ。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。」
わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」
しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」と主は言われた。
主は手を伸ばして、わたしの口に触れ/主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに/諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、 壊し、滅ぼし、破壊し/あるいは建て、植えるために。」
エレミヤ書1.4〜10 (キリスト教)109
七日の後、主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの家の見張りとする。わたしのロから言葉を聞くなら、あなたはわたしに代わって彼らに警告せねばならない。わたしが悪人に向かって、『お前は必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたがその悪人に警告して、悪人が悪の道 から離れて命を得るように諭さないなら、悪人は自分の罪のゆえに死ぬが、彼の死の責任をあなたに問う。しかし、あなたが悪人に警告したのに、悪人が自分の悪と悪の道から立ち帰らなかった場合には、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。また、正しい人が自分の正しい生き方を離れ て不正を行うなら、わたしは彼をつまずかせ、彼は死ぬ。あなたが彼に警告しなかったので、彼は自分の過ちのゆえに死ぬ。彼がなしてきた正しい生き方は覚えられない。また彼の死の責任をわたしはあなたに間う。しかし、あなたが正しい人に過ちを犯さないように警告し、彼が過ちを犯さなければ、彼は警告を受け入れたのだから命を得、あなたも自分の命を救う。」(注18)
エゼキエル書3.16-21(キリスト教)110
私は、終日どこへでも行き、皆さんと向き合って座り、皆さんを目覚めさせ、教え諭し、叱るために、神がこの国につけておいたウシアブのような人です。
プラトンソクラテスの弁用31(ヘレニズム)111
良心に反して生きるのは、正しくも安全でもないために、私は何も否定できず、また否定しません。私はこの位置に立ちました。私がする役割はここまでです。お助けください、私の主なる神。アーメン。マルチン・ルター(キリスト教)(注19)112
一み言選集一
神様が聖子や預言者たちを地上に送られた目的とは、何でしょうか。神様が願われる人格と生活の手本を見せながら、神様の真の愛のみ旨を万民に教育するのです。特に、為政者や指導者たちに天道を教育し、実践させることによって、心の世界と体の世界が、神様の真の愛のみ旨を中心として和合を成すためです。(注20)
しかし、ちょうど良心が願うとおりに体がついていかないように、多くの為政者たちが聖賢を理解できず、その教えを受けずに警告を黙殺してきました。価値観の混乱、道徳的腐敗、麻薬中毒、テロ、人種差別など、現代社会の惨状と病弊に誰が責任をもてますか。政治家が公権力によってこのような諸問題を完全に解決できるでしょうか。特に、いつの時よりも多元化した社会、また国際的に互いにもつれ合っているこの時代に、政治家たちの判断と選択に伴う責任がどれほど重大でしょうか。為政者たちが重要な事案を決定するときは、謙虚に天から来る声に耳を傾け、天道に従って解決の道を探し求めてい かなければならないと思います。
(219-110.1991.8.27)
このように見るとき、この世界には、哲学者が必要なのではなく、預言者が必要です。これは否定できません。それでは、民主主義はどこから出てきましたか。預言者たちが主張して出てきましたか、哲学者たちが主張して出てきましたか。はっきりと答えなければなりません。それを分析しなければならないのです。共産主義が預言者によって提唱されてきましたか、哲学者によって提唱されてきましたか。(哲学者です)。今日の世界人たちは、哲学者が主張する主張に従っていきますが、私たちが彼らの主張を完全に信じ、知ることによって受け入れられるのかという質問に対しては、「できない」という結論が出てきます。このような観点から見るとき、哲学者が主張する世界は飛んでいってしまい、預言者が主張する世界が訪れてくるということです。
それでは、哲学者はどこにいるのですか。大学にいるのです。その次に、預言者はどこにいるのですか。宗教にいます。それでは、預言者はどこにいるというのですか。宗教を信じる人の中にいるのであって、それ以外にはいません。人々は宗教を好みますか、学校を好みますか。(学校です)。この者たち! では、学校に希望がありますか、宗教に希望がありますか。どこに希望があるのですか。(宗教です)。このように見るとき、世界の有名なハーバードやケンブリッジ、オクスフォードという大学よりも、かえって名もない宗教に希望があるのです。
ところで、預言者という人の中には、学士、博士が多いですか。無学な人が多いですか。(無学な人です)。それを見るとき、一般の人が見れば、勉強をたくさんした人を信じますか、勉強もしていない無学な人を信じますか。(勉強した人です)。そのように考えれば、世の中は誤った方向に行くようになるという結論が出てきます。
(79-334.1975.9.28)
教会が、家庭の行くべき道、氏族の行くべき道、国の行くべき道を正しく教育しなければなりません。このようにして、過去のすべての預言者は、その国の責任者である君主が誤れば、その君主を引つ張っていくのです。訴えて引っ張っていくのです。それで神様は、教会という母体を中心として、未来の 家庭と、未来の氏族と、未来の世界の民、市民を育てようとされるのです。
(106-35.1979.11.11)
②権力者に真実を語る
一宗教経典一
最も立派な聖戦は、不正な統治者の前で真実を語ることである。
ティルミズィー・ハディース(イスラーム)113
主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」 ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしであ る。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。」(注21)
サムエル記下12.1~10 (キリスト教)114
孟子が斉の平陸という町へ行かれたとき、そこの大夫(長官)の孔距心に向っていわれた。「あなたの部下の警護の兵上が、一日に三度も列(隊伍)を離れて勝手なことをしたら、あなたは軍法にかけて処分しますか。」孔距心がいった。「いや、三度といわず、一度だってすぐ処分します。」すると孟子はいわれた。「あなただってその兵士と同じこと、職務の怠慢が随分ありますよ。現に悪疫や飢饉の年には、あなたの領内で老人や病人は飢え凍えて溝や谷間に転げ落ちて死に、若者は食を求めて四方に散り散りになって逃げだすものが、何千人あるか分りません。」孔距心がいった。「しかし、先生、それはこの距心(わたし)などの力では、何んともできないことです。」孟子はいわれた。「では今、ここに牛や羊をたのまれて牧う人がいたとします。その人は牛や羊のために必ず牧場と牧草とを探すことでしょう。 もしも牧場や牧草が見つからぬときは、もとの持主にしますか。それともまたぼんやり立って、その死ぬのを見ていますか。」距心は大いに恐縮していった。「いや、よく分りました。これは距心(わたし)の責任であります。」
孟子II.B.4 (儒教)115
ベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わして言った。「イスラエルの家の真ん中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません。
アモスはこう言っています。『ヤロブアムは剣で殺される。イスラエルは、必ず捕らえられて/その土地から連れ去られる。』」
アマツヤはアモスに言った。「先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。
だが、ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから。」
アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。
主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。
今、主の言葉を聞け。(注22)あなたは、『イスラエルに向かって預言するな、イサクの家に向かってたわごとを言うな』と言う。
それゆえ、主はこう言われる。お前の妻は町の中で遊女となり/息子、娘らは剣に倒れ/土地は測り縄で分けられ/お前は汚れた上地で死ぬ。イスラエルは、必ず捕らえられて/その土地から連れ去られる。」
アモス書7.10~17 (キリスト教)116
なんじ以前の、ノアとアードとサムードの民。ならびにかれらの後に来た者たち。また神以外には何人も知らぬ者たちの、消息がなんじらに達しなかったか。諸使者が明証を持ってかれらに来たが、かれらは手で予言者たちのロを押さえて、言った「わしらは、おまえたちがつかわされたことを信じない、 またわしらをまねく教えについても、ほんとうに不安な疑いをいだく」。使者たちは言った「おまえたちは天と地を創造された方、神について疑いがあるのか、かれはおまえたちを招きたもうのは、おまえたちの罪を許したまい、定められた期限まで、おまえたちを猶予なさるためである」。かれらは言った 「おまえたちは、わしらと同じ人間にすぎない。おまえたちは、祖先が仕えてきたものから、わしらをそむかせようと望んでいる、それならわしらに明りょうな権威を現わせ」。使者たちはかれらに言った「もちろんわたしたちは、お まえたちと同じ人間にすぎない、だが神は、そのしもべのうち、み心にかなう者に、恩恵を施こしたもう。神のお許しがない以上、おまえたちに一つの権威をも、もたらさないのだ。それですべての信心ある人びとを神に信頼せしめよ」。「どうしてわたしたちは、神に信頼しないでおられようか、かれはわたしたちの従うべき道に導きたもう。わたしたちは、おまえたちが加える迫害に、どこまでも耐え忍ばねばならない。信頼する者たちは、神に信頼すべきである」。すると、信じない者は使者たちに言った、「わしらは、おまえたちをこの国土から必ず追放するであろう、それともわしらの教えに帰れ」。そこで主は、使者たちに黙示したもう「われは不義者たちを、必ず滅ぼし」、「われはかれらの後、必ずなんじらをこの国に住まわせるであろう。これらはわしの審判に立つのを恐れる者、ならびに処刑の約束を恐れる者である」。かれらは裁断を望んだが、すべてのがんめい な反逆者には失望であった。(注23)
クルアーン14.9-15 (イスラーム)117
王がたとえ真理に背くこと(非法)や非道をなすとも、王に仕える人びとは概して称賛します。それゆえに、王にとっては正当か正当でないかを知ることがむずかしいのです。
たとえほかの人であっても、その人の気に入らないばあい、正当なことを語るのは難しいのに、まして、あなたは大王であり、その王に修行僧である私が語るときはいうまでもありません。
しかし、あなたによって下される慈愛によって、また世の人々への憐れみから、私はひとりあなたに、たとえまったくお気に召さないことであっても、道にかなったことを語るでありましょう。・・・・・・。
教えが説かれるとき、怒りを起さず、また真実の言葉に耳を傾けるならば、その人は囲くべきことをうけいれるでしょう。沐浴をするときに良水をとる ように。
私がこの言葉を述べるとき、あなたはそれがこの世にあってもかの世にあってもふさわしいものであると知って、自らを利益するためばかりでなく、世の人びとをも利益するために、それを実行してください。
龍樹 宝行王正論301~6 (仏教)118
一み言選集一
これからは、神様のみ旨を代弁する宗教人たちが勢力を得る時が来ることでしょう。宗教指導者は、神様のみ旨を地上に宣布し、人類に進むべき方向を提示してあげなければならない預言者です。
真の家庭と世界平和、2000.1.22
南北王朝分立時代において、イスラエル民族が、神殿理想に相反する立場に立ったびに、神は、継続して、四大預言者と十二小預言者を遣わされて、彼らを励まし、内的な刷新運動を起こされたのである。しかし、彼らは、預言者たちの勧告に耳を傾けず、悔い改めなかったので、神は、彼らをエジプト、カルデヤ、シリヤ、アッシリヤ、バビロニアなどの異邦人たちに引き渡して、外的粛清の摂理をされたのであった。
この時代を、実体的な同時性をもって蕩減復帰する東西王朝分立時代においても、同じく、法王庁が腐敗して、トマス・アクィナス、聖フランシスなど、修道院の人物たちが彼らに勧告して、内的な刷新運動を起こしたのである。しかし、彼らもまた悔い改めず、堕落と腐敗に陥ったため、神は彼らを異邦人たちに引き渡して、外的な粛清の摂理をなさったのであり、これがすなわち、十字軍戦争であった。
原理講論、摂理的同時性から見た復帰摂理時代と復帰摂理延長時代4
神主義は、過去にも変わらず、現在 にも変わらず、未来にも変わり得ないことを知らなければなりません。神様は、旧約時代に預言者を通して、国の主権者たちが過ちを犯せば攻撃させるようにしました。預言者たちの話を聞き、忠誠を尽くしてその言葉を生命視し、その言葉によって治める主権者が いる国は栄えました。
また、新約時代にも同じです。悪の時代になれば、預言者が出てきて新しい時代を覚醒するよう、天の使者を中心としてその時代の主権者たちに忠告するのです。その忠告を聞いて従っていけば、その時代的国家は栄えます。
新約時代に中世まではそうでしたが、中世以降は政教分離だ、預言者でも何でも政治とは関係ないと言いました。これが滅びる徴候でした。神様と預言者から分かれたのです。この時から、サタンがあいくちを鋭くとがらせ始めたことを知らなければなりません。
今日、レバレンド・ムーンがアメリ力ならアメリカの政治問題、カーター政府ならカーター政府に対して批判をします。「これは間違っている」と言いながら攻撃します。私がアメリカの二クソンと手を握ったのは、ニクソンが私を必要としたからです。神様をアメリカ国民に紹介するためにニクソンと手を組んだのです。ニクソンが私の言うことを聞いていれば、あのようになっていません。アメリカがこのようになっていないのです。
また、ベトナムはあのようになっていなかったでしょう。私はベトナムが 緊急であることが分かったので、チュー大統領に会って話したのです。このようにしていては遠からず滅びると強力に忠告したのです。1974年に会って、今からでも強力な体制をもって、国民全体が憐牲を覚悟して総攻撃をしなけ ればならないと言いました。アメリカを信じるなと言いました。アメリカを信じるなと言ったのです。
神様の作戦、神様の歴史は、過去も現在も未来も変わりません。預言者を通して主権者を教育するのです。これが神様の法度です。今、アメリカで私が政治をしようというのではなく、政治家を正しく指導しなければならないというのです。これがレバレンド・ムー ンの思想です。
私がアメリカに来てこのようなことをするのは、御飯を食べるためですか。非難されたくてこのようにしているのかというのです。レバレンド・ムーンは、そのように愚かな男ではありません。神様の名のゆえに、このようにしていることを知らなければなりません。為政者たちが話を聞かなくても、これか らこの国を継承する若者たちがレバレンド・ムーンの話を聞くでしょう。ですから、皆さんが集まってきたのです。
(93-83~84,1977.5.15)
③預言者は反対と迫害を忍耐しなければ
一宗教経典一
エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
列王記上19.14 (キリスト教)119
「たわごとを言うな」と言いながら/ 彼らは自らたわごとを言い/「こんなことについてたわごとを言うな。そんな非難は当たらない。ヤコブの家は呪われているのか。主は気短な方だろうか。これが主のなされる業だろうか」と言う。わたしの言葉は正しく歩む者に/益とならないだろうか。昨日までわが民であった者が/敵となって立ち上がる。平和な者から彼らは衣服をはぎ取る/戦いを避け、安らかに過ぎ行こうとする者から。彼らはわが民の女たちを楽しい家から追い出し/幼子たちから、わが誉れを永久に奪い去る。立て、出て行くがよい。ここは安住の地ではない。この地は汚れのゆえに滅びる。その滅びは悲惨である。だれかが歩き回って、空しい偽りを語り/「ぶどう酒と濃い酒を飲みながら/お前に とくと預言を聞かせよう」と言えば/その者は、この民にたわごとを言う者とされる。
ミカ書2.6-11(キリスト教)120
エレミヤは、主が預言させるために遣わされたトフェトから帰って来て、主の神殿の庭に立ち、民のすべてに向かって言った。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしはこの都と、それに属するすべての町々に、わたしが告げたすべての災いをもたらす。彼らはうなじを固くし、わたしの言葉に聞き従おうとしなかったからだ。」主の神殿の最高監督者である祭司、イメルの子パシュフルは、エレミヤが預言してこれらの言葉を語るのを聞いた。パシュフルは預言者エレミヤを打たせ、主の家の上のベニヤミン門に拘留した。
主よ、あなたがわたしを惑わし/わたしは惑わされて/あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ/人が皆、わたしを嘲ります。わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり/「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中/ 恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。わたしには聞こえています/多くの人の非難が。「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。「共に彼を弾劾しよう」と。わたしの味方だった者も皆/わたしがつまずくのを待ち構えている。「彼は惑わされて/我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう」と。しかし主は、恐るべき勇士として/わたしと共にいます。それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき/勝つことを得ず、成功することなく /甚だしく辱めを受ける。それは忘れられることのない/とこし えの恥辱である。万軍の主よ/正義をもって人のはらわたと心を究め/見抜かれる方よ。わたしに見させてください/あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明け/お任せします。
エレミヤ書19.14~20.220.7~12 (キリスト教)121
また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。
ヘブライ人への手紙11.36~38 (キリスト教)122
一み言選集一
預言者たちは、すべて非正常的な人たちです。み盲を求めていく、アベルの道を行く人は、非正常的な預言者たちです。非正常的なことをする、そのような預言者たちが現れるのです。旧約聖書を見ても、新約聖書を見ても、預言者はすべて非正常的な人です。ですから、人から指さされ、反対され、迫害を受けるのです。
(89-129. 1976.11.1)
正義の、真理体制に属することができる人になれば、完全に天運が保護します。ですから、ここに反対すれば、天運が打ってしまうのです。いくらア メリカのような国、いくらソ連のような国でも、私が本当に神様を中心として相対し、完全に一体圏内に入っていくときは、ここに反対すればソ連を打 ち、アメリカを打ってしまいます。このような原理を知ったので、文総裁は堂々としているのです。(214-194.1991.2.2)
今まで神様の摂理歴史の中で、預言者が主権の前に僕になりました。生死の境を越えて攻擊され、どれほど犠牲になってきましたか。そのような全体の犠牲の結実として、代表的にアベル的王者の立場に立ったのが再臨主です。真の父母が臆病者になってはいけません。
何千年、何世紀を経てきながら、困難のたびに預言者たちがどれほど命を絶たれ、血を流したか、考えてみることを願います。その結実を刈り取らなければならない先生が、世の中が恐ろしくて言うべきことを言えないでしょうか。監獄に6度も行ってきました。いつでも最前線に立つのです。
(343-263, 2001.2.17)
お父様が
怨讐の世界に対された
御心情を感じながら、
私は悲しみの立場を体験してきました。
日の当たる所で生きてこられなかった
お父様の悲しみを、
日の当たらない所で働かれた
お父様の御事情を、
私は知りました。
今日まで、そのような生活の中で、
ある時はお父様に反論し、
お父様を恨む息子になりはしないかと
焦燥しながらきました。
また、あなたも焦燥なさるお立場で、
そのような私を
探してこられたことを知っています。
お父様は、
私が悲しい以上にもっと悲しく、
私がつらい以上に
もっとつらいお立場で、
御自身の責任を感じながら、
行くべき道を準備していらっしゃる
ということを知りました。
それゆえ、私は追われ、
追い回される立場、
手錠に両手を締められる牢屋暮らし、
奴隷の身の上、
僕の身の上を経たとしても、
絶望したり
お父様に落胆させないと
決意いたしました。
そのように決意したその時から
今日まで、死なずに
お父様のみ前に残るように
してくださった恩賜に
感謝をお捧げいたします。
このような姿を立てられるために、
お父様は、
どれほど御苦労されたでしょうか。
私が行くべき道のために、
どれほど犠牲になられたでしょうか。
お父様はそれ以上のことを
していらっしゃるという事実を
知ったのちには、
寝ても目覚めても、
罪人のように「許してください」と
お父様に請わずには
いられませんでした。
御飯を食べていても、
さじを止め、
涙でお父様に過去の過ちに対して
許しを求めずにおられませんでしたし、
疲れた体を支えることができず、
床に横になる時ごとに、
あなたを心配する心を
もてなかった自らを
しからずにはいられませんでした。
かわいそうな方はお父様です。
いくら統一教会の文なにがしが
かわいそうだといっても、
それは何でもありません。
(30-270,1970.3.29)
④預言者の未来のビジョン提示
一宗教経典一
僕なる預言者に示さずには/何事も なされない。
アモス書3.7 (キリスト教)123
主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように/板の上にはっきりと記せ。定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。
ハバクク書2.2~3 (キリスト教)124
おお、主よ! あなたの権能は
すべての他の力よりも偉大です。
あなたの霊も、下にいる私たちは
いかなる恐れもありません。
私たちに預言者的力を下さり
すべてのものを理解し推し量ることが
できるよう
許諾された方は正にあなたです。
ディンカ族の祈り(アフリカ伝統宗教)125
身に至誠ある者は、あらかじめ知ることができる。国・家が興隆しようとするときには、必ず吉兆がある。国・家が滅亡しようとするときには、必ず凶兆がある。占いの善と亀に現れ、亀の四足に動きがでる。災いや福が起ころうとするときには、よい福も必ずあらかじめ知るし、よくない災いも、必ずあらかじめ知るのである。だから、至誠は鬼神のようである。
中庸24 (儒教)126
死体でいっぱいの都城に座り、ナナークが主をたたえてこのように教えを広げる。一切の万有を生まれさせ、至高の喜びでこれを行った彼が、一人で座りこれをかがんで見ている。
聖なる者が主であり、彼の正義は神聖である。彼が下す判決は真である。衣服がずたずたに裂かれるとき、インドは私の言葉を覚えよ。78年に彼らが来て、97年に彼らが離れていく。
また他の英雄がふと立ち上がる。ナナークが真理の言葉を伝える。彼が真理を説 く。時代が真理を呼ぶのである。(注24)
アーディ・グラント・ティラング.M.1.p722f (シク教)127
一み言選集一
先生が50年前に夢のような話をしましたが、世界が一日生活圏に入っていくという話でした。それを「狂ってい る」と言っていた人たちが、すべて落ちていくようになりました。文総裁は、50年前に世界的なあらゆる興亡盛衰を預言した預言者の代表者、教育者の代表者、愛する父母の代表者、主人の代 表の位置に生涯を通して上がってきています。
(397-154. 2002.11.17)
レバレンド・ムーンも数万、数千の人たちと向き合ってきたので、さっと見れば分かります。人を見ることができるので、アメリカがどうで、アジアがどうで、世界がどうだということを語れるのです。今よりも未来に必要なことをしていくので、皆さんがついてくるのが大変で、信じるのが難しく、行動するのが大変なのです。1年がたち、2年がたち、歳月が過ぎれば過ぎるほど、価値が高まります。それで、レバレンド・ムーンにすべて反対していた韓国が、今になって変わりました。
(103-111.1979.2.11)
1954年に先生は、共産主義は73年以上もたないと教えてきました。それで今、このイスラーム世界に対して……。共産主義が問題ではないというのです。共産主義が終わったあとにムスリムを含む宗教圏が問題になります。ユダヤ教とキリスト教の争いを誰が止めるのかという問題に対して、既に50年前に語りました。
(225-19-20.1992.1.1)


