統一原理セミナー報告書 仏教代表12人

 

霊界五大教団代表の統一原理セミナー報告書

二、仏教代表十二人

①目犍連(十大弟子の一人、神通第一)

 神様と人類が父子の関係にありながらも、なぜ今まで仏者たちは神様を知ることができなかったのでしょうか

 私、目犍連は、率直に言うと、釈迦の弟子として威信と体面を保ちたいと思いました。しかし、本当に息の詰まるような事情を、どうすればよいのでしょうか。今、私たちは、お釈迦様に侍って「統一原理」を聴講しています。地上人や天上人にとって、これは大変驚くべき事実でしょう。「統一原理」が新しい真理なので、関心と興味をもち、一度聴講してみるということではありません。
 この道は、お釈迦様が長期間にわたって悩まれた道であり、私たちにお話しになることもできず、悩みに悩まれたのちに、私たちをこの場に導かれたのです。お釈迦様は、「統一原理」をあらかじめ検討し、御自身が行かなければならない道だということを確定され、私たちを導かれたので、私たちが行くべき道も既に定まったのです。お釈迦様の十大弟子として、お釈迦様から離れることができない立場だからです。
 しかし、目犍連は、はっきりと覚悟したものがありました。今まで、お釈迦様の行かれた道を信じて侍ってきたように、今後もずっとそのようにしていくでしょう。「統一原理」に接した目犍連は、行くべき方向性に対して意見をもちません。しかし、過ぎし日、私たち仏者が修行した道が、このように一瞬のうちに崩れるものでしょか。それに対して、とても虚脱感を感じています。
 天地万物を創造された造物主の願いが、はっきりとありました。そして、人間をはじめとする全被造物の主人は、正に神様であられ、そのお方は、人類の父母であられました。そうだとすれば、私たち人間は、神様の前に子女となります。ところが、神様と人間とが父子の関係なのに、どうしてこうであり得るのかというのです。父母がすることを子女が知り、子女がすることを父母が知らなければならないのではありませんか。いつ、どこにいようと、父母と子女は、その事情をお互いに知っていなければならないのです。その時に初めて、血筋を分け合った父子の関係が成立するのではないでしょうか。ところが、目犍連には理解できないことがあります。それは、父母は、高い山で子女が帰ってくるのを首を長くして待っていらっしゃるのに、子女は、それを知らずに海辺で魚釣りをしている、そのような場合に比喩することができると思います。海でしか暮らしたことがないのに、どうして山のことを知り得るでしょうか。子女は、山鳥と山の風の勣きも知らず、登山と下山の方法もよく知らないのです。このように、これまで私、目犍連がお釈迦様に侍って生きてきた方法と、神様に侍る基準と方法では、相当な差があるのです。私は、非常に混乱し、当惑しています。
 神様と人類が父子の間係にありながらも、なぜ今まで、お釈迦様をはじめとする私たち弟子は、神様を知ることができず、神様は、私たち仏者に顔を背けてこられたのでしょうか。事実、私たち仏者は、捨てられた気分を振り払うことができません。私たちが歩んできた険しい苦行は、本当に真実であり、純粋な生活でした。それにもかかわらず、私たち仏者は、人類の父母がいたということ、また、いたならば、どうしてその父母の事情を知ることができなかったのでしょうか。私たち仏者は、神様の前に意味のない子女なのでしょうか。
 しかし、この道は、お釈迦様が覚悟して出発された道なので、私たち仏者も共に行かなければならない道です。しかし、私の心はとてもゆううつです。表現し得ない心の苦痛が伴います。過ぎし目、私たち仏者において、肉体の苦行は平静な心が守ってくれましたが、今は、その心の苦痛を克服するすべがありません。仏者たちの難しい苦行は、神様の前に何の意昧もないものなのでしょうか。それで、お釈迦様が「統一原理」を知り、そのように悩まれたのでしょうか。今、私も、お釈迦様の心を、ある程度理解できるような気がします。
 文鮮明先生、私、目犍連は、とても苦しんでいます。私がお釈迦様の十大弟子の一人として永遠に残るために、「統一原理」の道に従わなければならないという当為性は認めますが、「統一原理」は私たちに、あまりにも過酷な刑罰を下したようです。これは、私の率直な表現です。時がたてば、この上うな心は整理されるでしょう。そして、「統一原理」が永遠の真理ならば、過ぎし目の苦行の道よりもっと大きな苦痛が伴ったとしても、どうしてこの道に顔を背けることができるでしょうか。文鮮明先生は、人類の真の父母様の位置に就かれたので、私たち十大弟子と、これまで剣山峻嶺を越えてきた仏者たちの道に、新しい栄光の光を与えてください。

                                目犍連(2002年2月10目)

 

②迦葉(十人弟子の一人、教団の上首弟子)

 私たちはみな、互いに協力し、積極的に布教活動に出ていくことを決断しました

 人間の出生以前に、既に人生の根本真理が存在していたのですが、私、迦葉は、時代的恩恵を受けずに生まれたがゆえに、その真理に接することができなかったようです。それが本当に侮しくて仕方がありません。お釈迦様も私たち十大弟子も、本当に哀れです。しかし、これまでの仏者たちの修道生活が、神様の前にいかなる功績にもならなかったとしても、仏者たちの生活自体は、真理に向かった、とても崇高なものだったと思います。ひたすら真の人生のために、あらゆる苦痛も受け入れ、克服してきたのです。
 人生自体に関する限り、人間は、人間の先祖の時から、神様と反対の立場に立っていたのではありませんか。しかし、誰がその事実を知っていたでしょうか。たとえ仏者たちの修行が、神様の前にいかなる業績にも功績にもならなかったとしても、人間の人生自体に対する真実を様し出すための修行だったので、私たちは十大弟子として残されたのであり、それによって、今日、「統一原理」に接する機会をもつことができたのではないでしょうか。このような対面から見るとき、私たち仏者の修行は、決してむなしいだけのものではなかったと、言えるのではないでしょうか。
 この場には、誰でも来ることができるのではなく、誰もが「統一原理」の講義を聴講することができるわけでもありません。特別に招待を受けた人物だけが、この場に参加したのです。このような時間のために、数多くの人々が祈祷し、精読を尽くしていることでしょう。このように高貴な場に、私たち仏者が招待を受けたので、感謝しながら「統一原理」を受け入れなければなりません。
 私たち十大弟子はみな、憔悴した姿をしたまま、とても緊張した状態で「統一原理」の教育を受けました。しかし、お釈迦様が、丁重な姿勢で私たち弟子を慰撫してくださいました。行こう! これがお釈迦様の行かれる道であり、人類が行くべき宿命の道であるならば、感謝しながら従っていかなければなりません。「統一原理」 の「統一」という文字が、本当に過酷な恐ろしいものとして感じられました。統一には、「主管される」ではなく、「従える」という意味があるからです。過ぎし日の骨を削る私たちの修行は、ここでの生活の土台として、私たちは、多くの仏者を新しい道に導かなければなりません。
 農作物に肥料を与えればよく育つように、迦葉の人生に有益な滋養分が与えられたので、今、私、迦葉は、神様を父母として侍り、文鮮明先生が明らかにされた真理の道へ力強く進んでいこうと思います。お釈迦様の生涯が無駄ではなかったということを確信しながら、私たち十大弟子はみな、お互いに協力して、今後、布教活動に積極的に出ていくことを決断しました。私たちには、嘆いたり、放心したりする時間的余裕がありません。迦葉は、再び立ち上がりました。
神様、文鮮明先生、私たちの痛みを収拾してくださり、受け入れてください。

                                 迦葉(2002年2月10日)

 

③須菩提(十大弟子の一人、あらゆる法がむなしい道理だということを最初に悟る)

人生の生老病死の問題は、人間の力で解決されるものではありませんでした

 天地万物の調利加人間の力で成されるものではない、ということを悟ってから既にかなりたちましたが、「統一原理」にこのように途方もない真理が内在しているとは、本当に想像することができませんでした。どうして歴史の出発が、このように誤ったのでしょうか。お釈迦様も十大弟子も、みな無念で悔しく、その惨めな心情は到底表現することができません。しかし、神様の事情のほうが、もっと無念で惨めであり、怒りで張り裂けるようなものだったのです。もちろん、そのような摂理的過程は過去のことだとしても、数千年の間、人類歴史の主人が反対になっていたとは、あたかもそれは、ある作家が作り上げた歴史的物語のようでした。しかし、これは、 歴史的現実でした。
 ある日、お釈迦様は私たちに、静かに次のように語られました。「人生の生老病死の問題は、人間の力で解決されるものでありませんでした。生まれて、老いて、病んで、死に至るまで、私たちを常に見守り、保護してくださる一人のお方がいらっしゃいました。私たち仏者は、そのお方に出会わなければなりません。そのお方は、釈迦が解決し得ないすべての問題を解決してくださいました。多くの仏者が、謙遜な心で受け入れてくれることを望みます」。
 その後、何日過ぎても、お釈迦様は特別な指示を下さいませんでしたが、今、その日が近づいてきました。そのお方とは、どなたなのでしょうか。どこにいらっしゃるのでしょうか。いくら調べてみても、見ることも、出会うこともできないお方であられました。「統一原理」は私たちに、あまりにも多くの内容を悟らせてくれました。文鮮明先生は、お釈迦様よりもっと多くの修行をされたのでしょうか。どれほど、途方もないことを経綸されたのでしょうか。お釈迦様も、人間の根本的苦悩を解決なさるために、死の峠道を数えきれないほど越えられましたが、それは、神様と文鮮明先生の経綸とは比較することができません。
 お釈迦様、心を痛めないでください。須菩提は、すべてのものを整理して、新しい出発をします。私は心に決めました。どうして人が、数限りない福をすべて享受することができるでしょうか。私がその時代に生まれたことが私の意志でない以上は、水に従い、風に従って生きてきた人生の道なので、今、この場で、すべてのものを謙遜に受け入れます。
神様が、私たち仏者を愛されて呼んでくださったので、感謝いたします。文鮮明先生、真の父母様! お釈迦様! 弟子の威信を立てながら従っていきます。過ぎし歳月のすべてのことを、寛大に配慮してくださり、私たち仏者の未来の道を導いてください。

 須菩提(2002年2月11日)

 

 

④羅睺羅(釈迦の息子であり、十大弟子の一人、密行第一)

肉身の父母のための子女の道とは何なのでしょうか

 世の中に生まれてみると、釈迦の息子でした。それは羅睺羅個人の意思ではなく、私には選択の余地がないことでした。私の家庭は、幸福ではありませんでした。父親の顔は見ることさえ難しく、母親の顔は常に涙にぬれ、試練の中に沈んだ姿をしていらっしゃいました。これが、私の家庭の雰囲気でした。私は、分別がつくと同時に、世の中を見る視角が変わりました。父親の立場と母親の立場を理解できるようになりました。
 そして、家庭から解放されてみたいと思いました。どの家庭を調べてみても、夫婦間や父子間や兄弟間の幸福は、見つけられませんでした。なぜ家庭の姿がそうなのか、そしてその問題をどのようにして解決しなければならないのか、私には知るすべが全くありませんでした。私の家庭も、ほかの家庭のように、家庭の平和が壊れてこなごなになってしまいました。華やかな衣装はもちろん、華やかな食卓や宮廷も、私には何の関係もありませ んでした。人生というものが何なのか、悩み、深い苦悩に陥り始めました。
 これが、私か父親に従うようになった動機でした。「統一原理」を聴講したのち、私は、胸の張り裂けるような痛みに、耐えることができませんでした。第一に、私の父親の苦労と、母親の哀れさを克服するのは、難しいことでした。このような惨めな姿が、私を非常に困らせていました。私の父親は、あらゆる苦行を、すべて経験されたお方です。生涯、過酷な肉体的拷問を自らに課して生活されました。それを通して、無我の境地に至ったのです。それが容易なことだったでしょうか! 人間の生老病死を解決するために、私の父親がこのような生涯を生きたのだとすれば、今はどうなのでしょうか。当時の時代的な状況に伴う問いが、私の家庭をばらばらにし て投げ捨ててしまいました。当時のその痛みは、文字をもってしては少しも表現することができません。いかなる表現も、その状況を比喩することができません。
 今、「統一原理」を知ってみると、神様は、私の家庭の和睦を願われたことでしょう。文鮮明先生が明らかにされた「統一原理」によれば、人間は、誰もが家庭的四位基台をつくって天国理想を成し、神様と永遠に暮らすということです。これが、神様の願いであり、人間の祝福の前提です。今、私は、どの位置に立たなければならないのでしょうか。「統一原理」の偉大性を、私は認めます。ですから、私は、様々な側面において、複雑で苦しいのです。私の父親は、既に随分前に「統一原理」を悟り、人生の方向を転換されました。しかし、私はどこに立たなければならず、私の母親はどこに立たなければならないのでしょうか。このように不思議な悲喜劇が、私の家庭を固く締めつけています。
 神様、文鮮明先生、人類の縦的父母様、横的父母様、私の家庭の問題をどのように解決してくださるのですか。私、羅睺羅は、「統一原理」のすべてのものを信じます。たとえこの道を行かなければならないと、はっきりと悟ったとしても、肉身の父母のための子女の道とは何なのでしょうか。このような立場から、天国理想を成し得る道はないのでしょうか。
 神様、文鮮明先生、私、羅睺羅の人生も収拾してくださり、新しい道に導いてください。懇切にお願い申し上げます。

                              羅睺羅(2002年2月12日)

 

⑤馬鳴(大乗仏教の始祖)

今や「統一原理」が出現しました。悪魔の舞踏会は終わるでしょう

 仏教の経典は、人生の全般問題を大変幅広く扱っていると思い、それを中心として一生を送ったことに、常に感謝して生きてきました。しかし、「統一原理」に接し、私、馬鳴は、あまりにも無念な思いになりました。自らの生涯に対して、このように後悔を感じたことはありませんでした。数多くの仏者の一人として、自分なりに自尊心を感じながら生きてきました。そして、常に感謝して暮らしました。  しかし、このように途方もない真理があったという事実に、心の葛藤を抑えることができません。天の秘密を明らかにする時が、この時代なのでしょうか。以前に生まれた数多くの人間は、いかなる教えを中心として生きることを神様は願われたのでしょうか。悠久の人類歴史が流れてきたのですが、なぜこれまで神様は、それを明らかにできなかったのでしょうか。「統一原理」の復帰摂理において、同時性時代を明らかにしていますが、それは、神様の数多くの恨がしみ込んだ歴史です。このような神様の前に、人類は、何の対策もなく悠久の歳月を送ってきたのであり、人類歴史を通して、人類は、悪魔の舞踏場でその引き立て役となってきたのです。人類歴史のストーリーが、このように悲惨だったということを初めて悟りました。
 ここは、様々な教団の代表者が集まった所です。キリスト教徒、儒教徒たちは、既に所感の発表が終わり、今回は仏数徒たちの順番のようです。多くの宗教の代表者が「統一原理」を中心として一つになるならば、人類は、一つにまとまることができるのでしょうか。そのようになれば、悪魔の世の中は終わるのでしょうか。そうだとしても、多くの時間が必要でしょう。
 文鮮明先生は、人類の真の父母様として顕現され、「統一原理」を人類に宣布されたので、全人類は、今や一つの新しい真理に従って生きていかなければならないと思います。しかし、それぞれの信者が今までもっていた教えを捨てるのに、多くの時間が費やされるでしょう。私、馬鳴も、過ぎし日の仏教を中心とした生涯は非常に無念ですが、今は、新しく従っていかなければならない方向をつかみました。
 神様、一日も早く、過ぎし歳月を整理することができるように肋けてください。真の父母様の用語自体が、非常になじみの薄いものであり、不慣れですが、真の父母様に侍って従っていきます。協肋してください。

馬鳴(2002年2月13日)

 

⑥竺法護(36ヵ国語に精通、数多くの西域語経典を中国にもっていき、翻訳に従事)

 今はもう、人類は、いかなる伝統的経典も見る必要がありません

 私、竺法護は、「統一原理」を間いて大変驚きました。生涯、様々な経典に関心をおきながら、それを自分なりに研究することに一生を送ったというほど、精誠を傾けました。「統一原理」は、いかかる伝統的経典も比較し得ないくらい偉大です。素晴らしい経典です。「統一原理」以上に偉大な経典は、いくら探してもないでしょう。人間の力では、このように組織的、体系的に明らかにすることはできないと思います。
 「統一原理」が神様の啓示であることは間違いありません。それは、人類歴史の出発から人間の来世に至るまで、あらゆる分野をはっきりと糾明しています。論理展開においても、組織的であり、体系化されているので、信仰者でない一般人が精読しても、その価値を理解することができるでしょう。特に私たち仏者は、その経典を精読し、自らのものとして受け入れなければなりません。
 もちろん、私、竺法護は、「統一原理」のすべての内容に満足しているわけではありません。「統一原理」において、人間よりも邪鬼が先立って人類歴史を支配したということは、非常に奇怪で、想像のつかない話に聞こえ、前後に理論的矛盾があるような気がします。しかし、それは、まだ私が「統一原理」の内容を完全に理解できていないからだと思い、それを認めることにしました。そして、「統一原理」の教育を通してはっきりと悟ったことは、人間の二重構造に対する解明でした。
 人間は、自分かどこに向かっているのかを知らずに生きています。大部分の人間は、自分の方向性と目的地を知らずに生きています。そのまま地上で一生懸命に生きたのちに死んでみると、来世があるということを知るようになります。今まで、このことに理論的根拠をもってはっきりと答え、教えてくれた人はいないでしょう。すべての人が漠然とした推測をもって、その世界が「あるだろう」、そして極楽世界に行けば「良いだろう」と考えて生きているのです。これが、私たち人間の人生でした。しかし、「統一原理」は、来世問題を、人間の二重構造によってはっきりと説明しています。私たち人間の地上での生活は、少しの間かすめていくようなものです。私たちの来世の生活が重要であるがゆえに、地上での生活が重要なのです。
 私がここ、すなわち天上に来てみると、ここでの生活は、地上と似通っているという点にとても驚きました。地上生活よりもっと美しい世界、すなわち極楽世界が私たち仏者の前に、希望の場所として残されています。私は、極楽世界に対して多くのことを考えてきました。人間ならば、誰もが例外なくこの天上に来るようになっています。ここは、全人類の最後の定着地です。全人類は、ここで永遠に生きていきます。しかし、ここでは、地上のように物質をもって暮らすのではなく、あちらこちらに思いのままに引っ越すことができるのでもありません。地上生活の功績によって、ここにおける自らの永遠の居場所が決定するのです。
 私は、「統一原理」のすべての内面的部分に対して、感嘆と驚異を禁じ得ません。この天上でも悟れなかった事実が、あまりにもたくさんありました。「統一原理」を聞いて、初めてそれを悟るようになりました。文鮮明先生は、奇跡的なことを成し遂げられました。人類に真の救援の道を開いてくださいました。そして、神様を父母として侍って生きていく根本も、教えてくださいました。
 多くの仏者よ、すべての天上人はもちろん、すべての地上人は「統一原理」を聞きなさい。「統一原理」は、皆さんの永遠の経典になるでしょう。私は「万歳、万万歳」を叫びたい思いです。今や、私たち人類は、いかなる伝統的経典も見る必要がないでしょう。人生と宇宙の根本道理を悟ったので、その道に従って一生懸命に生きていけばよいのです。数多くの仏者が、私、竺法護を「狂った者だ」と言って後ろ指を指したとしても、私はそれに関与することなく、「統一原理」の教えに従っていくでしょう。

                              竺法護(2002年2月13日)

 

⑦菩提達磨(中国禅宗の始祖)

私は神様と文鮮明先生が誰なのかとうことを知りました

 地上で生きる時、仏教の経典を通して人生の価値生活を発見し、他の様々な経典を通して人生の意味を見つけることにも深い関心をもちました。しかし、「統一原理」で明らかにした人間の根本道理は、伝統的経典のものとは、あまりにも大きな違いがあるということを発見しました。「統一原理」は、人間の頭脳によっては到底明らかにし得ない、途方もない内容が含まれています。「統一原理」は、人間の根本道理をとても具体的、かつ詳細に明らかにしています。どこからどこまでが仏者たちの該当事項でしょうか。いくら考えてみても、「統一原理」は、ある一部の教団の教えではありません。全人類が当然知らなけれぱならない、とても偉大な真理だと思います。
 もう少し早く「統一原理」に接することができていればという寂しさを、誰もがもっているでしょう。しかし、後悔や未練はもちません。これ以上、欲を出さないように決意しました。今の現実を、十分に受け入れよう。私、達磨は、今のところ、いかなる対策ももっていません。何の予告もなく新しい真理に出会ったので、心を整理して、新しい真理の方向に従って生きていきます。はっきりしていることは、神様と文鮮明先生が誰なのかを知ったということです。来世問題も、はっきりと記憶しています。今後、私、達磨がどのようにすべきかという結論は、既に下されたのです。

                            菩提達磨(2002年2月13日)

 

⑧康僧会(中国の呉の国に渡っていき、仏教を隆盛させる)

「統一原理」に改宗します

 仏教の経典にも、正しい人生のための様々な次元の教えがあります。私、康憎会は、その経典からとても多くのことを得たのであり、生涯、それに満足して生きました。しかし、今「統一原理」を聞いてみると、払にはどうすることもできない限界があったという事実を発見しました。神様の啓示によって明らかにされた「統一原理」は、あまりにも偉大であり、膨大です。仏教の経典は、限りなく部分的なことだけを扱っていました。それは、「統一原理」を聞いてみたことがない仏者たちにとっては、非常に自尊心の傷つくことですが、真理性から見たとき、どうすることもできません。「統一原理」は、人生の出発と終着地、来世観、造物主の創造目的等、すべてのことをことごとく明らかにしています。それは、あまりにも偉大であり、膨大です。
 私、康僧会は、仏者に懇切に伝えたいと思います。大部分の仏者は、難しい苦行を克服しながら真の真理に至っています。しかし、今や、難しい苦行より、もっと早い道があります。それを私たち仏者は、全く知らずにいます。一日も早く、真の父母様に侍って生きてください。それが孝子の道であり、忠臣、聖人、聖子の道に至る、最も早い道だと思います。私はもちろん、数多くの仏者も、自尊心があり、我執があるでしょう。しかし、それらは「統一原理」において、全く意味がありません。
 私、康僧会は、「すべての仏者は苦労の道から解放されましょう」と懇切に叫びたいと思います。私たち仏者が、ひざがすり減るほどに千拝、万拝敬拝したとしても、皆さんの真の父母様に顔を背ければ、不孝者となります。私たちがみな、この点を深く肝に銘じることを、懇切に希望します。
 神様! 真の父母様! 文鮮明先生! 私は、深いみ旨を知りました。すべてのことを一日も早く整理し、新しく出発しようと思いますので、私の「統一原理」への改宗を深く推し量ってください。そして、数多くの仏者の道を開いてください。

                           康僧会(2002年2月15日)

 

⑨弥勒(マイトレーヤ)(インド、瑜伽行の始祖)

「統一原理」の来世観に深く感動し、敬服しました

 多くの宗教人が「統一原理」を聞き、人生の正しい道に進むことを決意したようです。「統一原理」は、偉大な経典になると思います。自尊心が深く、自らの主張だけにしがみついている方々は、顔を真っ赤にし、しかめ面をしています。そのような姿をして座っている方々が、あちらこちらに見えます。
 弥勒は、「統一原理」の来世観に、深く感勤し、敬服しました。人間のニ重構造を説明しながら、それを理路整然と解き明かしました。弥勒も共感しましたが、大部分の仏者もそれに共感したと思います。漠然としながらも、極楽世界を期待し、望み、ありとあらゆる苦難の道、剣山峻例嶺を越えに越えて、一筋の道を歩んできた私たち仏者が、なぜ極楽世界に行けなかったのでしょうか。
 仏者だちよ、私、弥勒をののしろうと、石を投げつけようと構いません。「統一原理」を聞いてみると、私たち仏者の歩んできた道には問題があったと思います。それが何なのかを探し求めてください。私、弥勒が、この天上で「統一原理」に夢中になれば、皆さんは私を、どのようにされるでしょうか。正しい道でなければ、行ってはなりません。正しい道ならば、いくら険しい渓谷であろうと、必ず行かなければなりません。神様と文鮮明先生の根本の教えを悟るようになりました。仏者だちよ、最後まで「統一原理」を聞いてください。そして、心を空にしてください。

                           弥勒(2002年2月16日)

 

⑩玄奘(唐の時代の僧侶。『大唐西域記』を著述)

「統一原理」は、新しい歴史観、宇宙観、人生観をはっきりと提示しています

 無知の中でさまよっていた玄奘は、「統一原理」を悟り、新しい力を得るようになりました。長い歳月にわたり、人生の真の意味を探し出すために少なからざる努力を傾けてきましたが、はっきりと探し出すことができませんでした。成約時代に至って、初めて「統一原理」が出現したのです。同時性時代の摂理を見るとき、とても切ないことですが、私たち仏者の時代には、「統一原理」の出現を期待することはできなかったのです。ですから、仏者たちの修行方法が誤るしかなかったのでしょう。
 これまで、仏者が生きてきた修行生活は、その威信と体面を考慮してみるとき、とても恥ずかしいものであることは事実です。私たち仏者は、仏者自身の中に埋もれ、自らの穴蔵を掘って、その中で縮こまって生きていたようです。今、そこから抜け出したいと思います。率直に言って、私たち仏者の姿は、地上でも天上でも、変わったものがほとんどありません。しかし、「統一原理」は、新しい歴史観、宇宙観、人生観をはっきりと提示しています。神様の存在に対することを考えると、本当に憤りで張り裂ける思いです。
 神様は、私たち人類の父母です。私たち仏者は、死を超越する苦行をしても神様に出会うことができませんでした。なぜそうだったのでしょうか。文鮮明先生は、「統一原理」を探し出されるま、数多くの摂理的段階において勝利されました。「統一原理」は天の秘密だ、という表現が最も適しています。「統一原理」は、誰もが歩んでいかなければならない人生の公式です。私、玄奘には、言い表し得ない事情が少なからずあります。しかし、それは大部分の仏者に該当する無念な事情なので、省略します。そして、主催側にお願いしようと思います。私、玄奘が、仏者たちの中で異端者とならないように、道を開いてくださるように懇切にお願いしたいと思います。

                               玄奘(2002年2月25日)

 

⑪智顗(隋の時代の僧侶、天台宗の開祖)

祝福を受けて極楽世界で生きようと思います

 私、智顗は、「統一原理」を悟ってみて、今すぐに祝福を受けたいという衝動を感じています。祝福を受けてこそ、極楽世界に行けるからです。「統一原理」の天国の理想郷は、あまりにも神聖で美しいものでした。私、智顗は、生涯純潔を守って生きてきたので、祝福資格の対象になると思います。これまで、仏教の各種の書籍も読み、難しい苦行の道も教限りなく反復しながら生きてきました。それにもかかわらず、私の修行の結果が残っていません。しかし、どうすることもできません。私は、ためらうことなく、「統一原理」を中心として新しい出発をしていきます。決して苦行から解放されるためではありません。「統一原理」で明らかにされた内容に、 あまりにも妥当性があり、それは私たち人間の行くべき正しい真理だと、固く信じるからです。
 これまで、私は、多くのことを考えながら苦行の道を歩んできましたが、「統一原理」のような教えには接することができませんでした。今までの修行は、肉身を鍛錬する過程であり、私自身の修養でした。その土台の上で新しい真理に接したので、正しく生きなければなりません。とてつもない「銃一原理」に、感謝するばかりです。そして、人類の真の父母として顕現された文鮮明先生の指示に従いながら、神様を父母として侍り、人間の道理を全うしていきます。私、智顗は、神様と真の父母様の教えに絶対従順するでしょう。そして、「統一原理」の教えが私自身のものとなるように全力を尽くしていきます。

                               智顗(2002年3月1日)

 

⑫異次頓僧侶が真の父母様に捧げる文

天上天下の真の父母様に捧げます

 真の父母様、私は異次頓です。真の父母様、真の父母様、真の父母様! ただお名前だけ呼んでも光栄です。「文鮮明先生、私たちの真の父母様、万歳、万万歳!」と叫んで歩き回りたい心境です。ここに、数多くの仏教徒が集まっています。これまで、人知れず様々な苦行の道において勝利し、人々が歩み得なかった道の境地まで体験した方々ですが、自尊心と我執に満ちています。ここで、真の父母様に一つ申し上げたいことがあります。ここにいる多くの高僧をはじめとする仏数徒たちは、修行一筋の道を歩みながら、数多くの死の境地においても、人生の真の意味を探し出すために苦労された方々です。彼らに、真の父母様の寛容と配慮の恩恵を施してくださることはできないでしょうか。
 ある日、釈尊がここに姿を現されました。御白身が釈尊だということを明らかにされないまま、静かに真の父母様の尊影の前に敬拝を捧げ、込み上げてくる涙を抑えながら、「私たち仏者をお許しになってくださり、子女としてお受けください」と祈祷され、再び沈黙されたのち、静かに出ていかれました。しかし、そのお方を知っている者は、極めて少数にすぎませんでした。李相軒先生が、「今、来られたお方がどなたか、皆さんは御存じですか」とおっしゃったのち、「そのお方がまさしく釈尊であられます」と明かされると、あちらこちらで嗚咽し、ざわざわする声が聞こえてきました。
 この時から、高憎たちの態度が変わり始めました。真の父母様、私、異次頓は約束します。私は、地上において国のために生命を捧げましたが、今、神様と真の父母様、そして世界人類の平和のために、私の霊魂をお捧げします。すべての仏教徒の前に先駆者となります。不足ではありますが、小子の懇請を受けてくださり、小子の行く道を祝福してください!
 私たち仏者はみな、「統一原理」の道を知っていながらも、不安な心を共通にもっています。それは、私たち仏者が、神様のみ旨とあまりにも遠い距離のある所で生きてきたからであり、神様がいらっしゃる圈に入っていける何の条件もないからでございます。真の父母様、人類歴史に永遠に輝く世界的経典、「統一原理」を下さったことに心から感謝申し上げます。私、異次頓は、原理講師ではありませんが、「統一原理」を武装して、仏教との救援のために、不死鳥の心情をもって先駆者となりますので、真のお父様、安心して千寿万寿玉体無彊であられますように。小子、異次頓が棒げます。

     異次頓(2002年3月11日)

(2022.3.9:写経奉献)